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ロシア語通訳協会に関して、私は初めから傍観者でした。協会が発足したとき、私はアメリカに住んでいましたが、徳永さんとは親しかったので、手紙で様子は聞いていました。帰国したら、「顧問になれ」と言われました。通訳は昔外務省でやっただけで、ベテランとはいえないし、顧問というには若すぎる歳でしたが、会長だって35歳くらいでした。その歳で会長になってしまうのだから元気なものですが、それでも年功序列型日本社会のことは気になるらしく、自分より先輩だと片端から顧問にしてしまうのでした。
傍観者ではありましたが、協会が掲げた精神にはまったく同感できました。知識と経験をできるだけ分け合って、通訳者全体の水準を上げようというのです。ふつうならライバルと考えられる人たちに、手持ちのカードをみんな開けてしまおう、というのです。そして当時ロシア語通訳界の先頭を走っていた人たちが役員となってすべてを率先遂行したので、私は感心しながら傍観しておりました。
その後、ペレストロイカでロシア語通訳者がものすごく忙しくなった時期を経て、ソ連が崩壊し、状況がすっかり変わってしまいました。トップ通訳者たちが協会活動をぐいぐい引っ張った時代が終わり、組織を整えたうえでやらないと続かなくなってきました。そんなときに傍観者だからちょうどよいと、会長に選ばれたのです。
私が会長をしているときは、役員の方々が献身的にがんばったので、組織も活動も安定しました。しかしそれは少数の有志のいわば滅私奉公に支えられていたので、長く続けるには無理がありました。そのあとは、私が会報前号の米原さん追悼文に書いたとおりです。そんな無理をして続けることはできない、ということになったときに米原ジャンヌ・ダルクが登場して、「できることをやればよい」路線が公認されました。
それでも役員とサポーター、そして有能な助っ人の岩谷さんの力がなければ組織は動きません。協会事務局も昔に比べれば、省エネでやりくりすることがじょうずになりました。そこでまた傍観者の出番になったらしいのです。私個人はそうは思いませんが、おおぜいの女性が「そうだ、そうだ」と言う迫力に屈しました。
会長が傍観者だというのは、いささか見識を欠いた発言ですが、そんなことを言っていられるくらいに、協会活動が順調に進むことを願いつつ、おじゃまにならない程度にできることをやらせていただこうと思っております。
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