唐人屋敷・・・・長崎市内在住の中国人を、隔離収容するための施設。鎖国時
              代、出島とともに、海外貿易を行う、もう1つの窓口となった。


長崎は、和(日本)、華(中国)、蘭(オランダ)が、競演しながら歴史を作ってきたような街なので、中国のことも書いておこうかな・・・・。
鎖国時代、海外貿易の窓口となったことで、全国にその名を知られる「出島」。小学校の教科書にさえ載っている。
しかし、実は鎖国時代の日本には、もう1つ海外貿易の窓口があったのだ。「出島」と違い、ぜんぜんその名を知られていないが、それは「唐人屋敷」。読んで字のごとく、中国人のお屋敷、だ。ここを窓口とし、鎖国時代の日本は、中国と貿易をした。
長崎には、「出島=オランダ」「唐人屋敷=中国」という、2つの海外貿易の窓口があったのである。

                

中国と長崎

長崎と中国の関係は、とても深ーいのである。鎖国以前からずーっとのお付き合いだ。中国から見ると、貿易のため来日しようと思えば、西の果て「長崎」が、一番近かったのだろう。そのおかげで、長崎は中国貿易の恩恵を一手に受け、発展を遂げた。横浜や神戸に中華街が作られ、中国文化が入ったのは、何百年も後のこと。
オランダ文化と中国文化、そしてもともとの日本文化を合わせながら、長崎は鎖国時代、「日本であって日本でない」ような、独特の文化を作りあげた。今でも、長崎の町には、中国の雰囲気がしっかりと根付いている。


唐人屋敷が作られたワケ

長崎に初めて中国船がやってきたのは、1562年のこと。今から4世紀以上も前だ。中国と長崎は盛んに貿易を行い、長崎の市内中に、中国人が住んでいた。もちろん、その時は長崎以外の他都市も、中国と貿易を行っていたのである。
しかし、鎖国が始まると、日本から外国人を追い出すため、1635年、幕府は、中国貿易を長崎だけに限定した。「外国人は追い出したいが、海外貿易の利益を失うワケにはいかない」と、いうところだろうか。そしたら、当然、今まで他都市とも貿易を行っていた中国船が、長崎のみを目指してやってくる。
「これは困った」と思った幕府は、「1年間で中国船は、70隻まで」と通達を出した。

しかし長崎でも中国でも、商人たちは、貿易によって利益を享受している。制限されたままで終わるワケない。ということで、当然のごとく密貿易が行われるようになった。そこで、幕府は考えた!。
「オランダ人たちは出島に閉じ込めた。中国人も、どこかに閉じ込めて、監視しよう!!」そこで、中国人たちを収容する、大きな団地のようなものが作られた。その団地が「唐人屋敷」である。


唐人屋敷ってどんな所?

これは、当時の唐人屋敷の図、です。
広さは、出島のほぼ2倍。約2000人を収容できる、2階建ての住宅が20棟もあったそうで、年間5000人が利用したという記録もあるそう。

中には、住宅とともに、中国のお堂が立ち並んでいました。(絵の中の赤い建物)





唐人屋敷と出島は、距離的に非常に近いのです。まあ、当時は、出島は長崎港に作られた、埋め立ての「出」っぱった「島」。唐人屋敷は、陸に作られた街、という違いがありますが。どちらも、1種の「収容所」であることには、変わりない。
出島から唐人屋敷のほうに歩いても、10分もかからないでしょう。当時は貿易というと、船を使うしかなかったのだから、長崎港の近くに、どちらの「収容所」も作ったのでしょうね。

絵のとおり、「唐人屋敷」は、1つの街として作られました。街の外側を塀で囲み、その外側に堀をめぐらし、さらに竹垣で囲む。外に広がる日本人の街から、完全に隔離されたつくりだったのです。出島のように、孤島でない分だけ、隔離するのも厳重ですね。

長崎市中の中国人たちは、強制的にこの「唐人屋敷」に隔離され、住むことを余儀なくされました。彼らを監視するお役人もいて、一般の日本人は出入り禁止。自由に出入りできるのは、丸山遊女だけだったのです。



唐人屋敷のその後

唐人屋敷はその後、中国との貿易の唯一の窓口として、数百年もの間、重要な役割を果たしました。
「収容所」の存在は、悲しいことではありますが、そのおかげで長崎に、濃密な中国の雰囲気が根付きました。
日本の開国により、鎖国時代は終わりを告げ、中国貿易も他都市に分散。横浜や神戸にも中国文化が入りました。

長崎においては、開国後、中国人たちはこの「収容所」から出て、暮らすようになりました。その後、唐人屋敷は、相次ぐ火災で焼失。中国人たちは、積荷を保存しておく蔵のあった、すぐ隣の町、「新地」に、移り住んだのです。

             

←旧唐人屋敷の入り口に立っている、赤門のポール。赤なのは、中国だから?。現在の名前は、館内町(かんないまち)、です。唐館(つまりは唐人屋敷)の内側に作られた町だから、館内町。旧唐人屋敷の内側に、館内町全域が、すっぽりと入ります。

入り口を通って、中に入ると、「まあ!商店街!」というところ。開けた町ではなく、昔ながらの下町です。
かつての唐人屋敷の建物は失われてしまったので、このように唐人屋敷跡の石碑が建てられています→。


唐人屋敷自体が、グラバー邸のような、いかにもな観光地ではありません。もちろん、あれ(グラバー邸)はあれでいいのでしょうが。
唐人屋敷というのは、長崎と中国の歴史そのものだと思う。観光というのは、建物をただ見て回って「キレイね〜」とかいうこととは違うと、私は思っている。建物を見て、その場所に立つことによって、歴史や文化を、かつてそこに暮らしていた人々の思いや、雰囲気を感じることが大事なのだ。それを感じなければ、いくらキレイな建物があったってイミがない。

唐人屋敷は、建物がない分、ありきたりの観光コースからは、外されてきた。だから、例えばグラバー邸のように、「観光地でございます」と主張する、おみやげものやさんも1軒もないし、観光客用のいかにもな演出がされていない。
昔ながらの下町風情が、色濃く残っているのは、そのためだと思う。長崎もだいぶ開発されてきて、暮らしはどんどん便利になり、観光客用に、キレイで現代的な町並みが作られてきている。
だけど、この館内町だけは、いまだに下町のままだ。運ばれてくる魚介類、店頭で揚げて売られるカマボコ、バケツに挿されて売られる生花、蒸される饅頭、かごに入って1盛いくらで売られる野菜。買い物客でない地元の人も、普段着で市場を通り、坂段を上がり降りする。そして、やたらと多い、野良ねこ!!

下町を知らない私でさえ、とても懐かしく、ここは長崎の原点だという気がする。
だって、感じたのだ。唐人屋敷跡に近づくにつれて、空気が変わるのを。そこは、長崎であって、「現在の長崎」とは、全く違う空間だった。



                
そしてこれが、現在の唐人屋敷。

←唐人屋敷の建物は失われましたが、4つのお堂は残っています。唐人さんたちが、祈りの場としていたところですね。1番上の「唐人屋敷絵図」にも、描かれています。中国のお寺関係の建物だけあって、要所要所は、赤が使われています。祭壇やろうそくなど、みんな赤。

これは、入り口から入ってすぐの「土神堂」。土地の神様である「つちがみさま」を、祀るお堂です。

土神堂の中にある、ほこら→。
入り口に、緑黄赤白などの色をつけられた紙が、ひらひらと下がっていて、その奥に神様が祀ってあります。
長崎には唐寺も多いですが(後から書きます)、必ず入り口のところに、このひらひらがあるんですよね。中国のお堂の特徴でしょうか。

中国文化は、長崎に浸透していきました。長崎では墓地の一角に、墓石以外にも、「土神」と描かれた石碑(なんも書かれてない事もある)を、必ず建てます。
お墓を建てたとき、その土地の神様をお祀りするのです。お墓参りをするときは、土神様にも必ずお線香と花をお供えします。

土神様を祀る中国の風習は、現代の長崎に受け継がれているのです。



これは、土神堂の入り口。古いお店が立ち並ぶ市場が途切れたところに、ふっと、お堂が姿を現します。
「観光地」として、特別扱いされず、地元の人は、そこに歴史を彩った建物があることを、全然気にしません。
何百年も前からあるもの(再建された部分も多いですが)毎日見ているもの、自分が生まれる以前から存在するもの、なので、もはや暮らしの中に、「唐人屋敷」が当たり前に存在しています。

お堂のまん前は、市場のフルーツやさん。地元の人が普段着で買い物に来る市場です。
私が見ている間だけでも、「お散歩がてら、お参りするお年寄り」や「お散歩を兼ねて、お堂まで来る子供連れの若いお母さん」が通っていきました。大仰にお参りするのではなく、通りすがりに手を合わせる、そういう感じ。

お堂には自由に入れるし、小さいころ、お堂の中でよく遊んでいた、という人も多いようです。重要な文化財でしょうが、地元の人にとって決して特別なものではない空間。「かつての中国」そして「かつての日本」が交じり合い、数百年を経て「今の長崎の館内町」として存在する。中国の建物と文化、そして、長崎の町並みがしっくり溶け合った、館内町です。



この辺り一帯が、小さなお店が並ぶ、古い市場です。
←これは、「土神堂」から、次のお堂「天后堂」へと続く道。ここは、坂段市場です。
地元の人が入りに来る古い銭湯に、階段の両端にずーっと上まで立ち並ぶ小さいお店たち。古くて懐かしい、町並みです。この階段と坂。長崎特有でしょう。




これは、かつて唐人屋敷の外側に張り巡らされていた、堀の跡。→
当時のまま残されています。深くて広い・・・・・。この堀の内側、まさに私が今立っていた場所に、唐人さんたちの生活がありました。



かつての唐人屋敷図と、現在の館内町とを比べてみると、道路、石垣、坂段などの位置がほとんど変わっていないのです。
かつて、唐人さんたちが住んでたままの街に、建物だけが姿を変え、今長崎の人々が住んでるんですね。中国と長崎が、しっくりと溶け合っているのも道理です。
道を歩いてたら、古いレンガ塀が突然出てきたりしますよ。


←これは、「天后堂」(てんこうどう)。天后聖母とも呼ばれる「ま祖」さまを、祀ったお堂です。「ま祖」さまの「ま」は、ちゃんと漢字があるのですが、難しくて、このパソコンでは出てこない・・・・。後から、探しておこう・・・。

「ま祖さま」は航海の女神様。船旅が安全なものであるようにと、ご加護をお祈りしたのでしょう。「ま祖さま」については、後から詳しく書きます。(だって、すでにこのページ重いし長いし・・・)当時は、船で貿易をするため、海を越えるのも命がけ。心から航海安全を祈願したのでしょうね。


これは、天后堂の中に、祀られている「ま祖さま」。カラフルで、キレイなお方でした(?)。この「ま祖さま」を祀るのは、全国でも長崎の唐寺だけだそうです。ほとんどの唐寺やお堂では、「ま祖さま」をお祀りしています。

お堂やお寺によって、「ま祖さま」もカラフルだったり地味だったり、やさしげだったり、威風堂々としていたり・・・・。表情も全然違います。
前に設置されている、緑の服の像は、「ま祖さま」をお守りする家来、「千里眼」(せんりがん)と「順風耳」(じゅんぷうじ)ですね。どの場所でも、「ま祖さま」と並んで祀られています。



←これは、3つ目のお堂、「福建会館」。ここも、お祀りしているのは、「ま祖さま」です。
中には、きれいなお顔の、「ま祖様」がいらっしゃいました。

毎年2月になると、長崎では、「ランタンフェスティバル」が行われます。
町中に、中国のランタン(提灯のようなもの)を提げ、中華料理や中華菓子を振る舞い、龍踊りなど、中国文化のイベントをやります。全国から来る観光客の数もかなりなもの。

唐人屋敷も会場の1つなので、お堂もきれいに飾り付けられ、幻想的な雰囲気に変わります。


これは、最後のお堂「観音堂」の入り口です。狭い道の両サイドには、普通の民家。突き当たりに、石でできたアーチがあって、その向こうに見えるのが、観音堂です。このアーチも、当時のものらしい。アーチ自体は割りと低くって、背の高い男の人は、くぐるのに苦労するんじゃないかな・・・・。



アーチをくぐって入ってみると、これにはびっくり!!。何とお堂の隣には保育園と園庭!。仕切りもなんもナシです。中国のお堂と保育園が同じ敷地なんて、こんなところは、日本中探しても珍しいだろう・・・・。
(右の赤い建物が観音堂。中央から左に広がるのが、保育園と園庭。)

園庭で遊んでいた子どもらが、元気に走ってきて、観音堂によじ登ってました。

こんなまだなーんもわからない年のころから、中国文化に親しんで育つワケね・・・・。とてもいいです、この地域の雰囲気・・・・。この保育園は確か、龍踊りを子供に教え、イベントで披露しています。

龍踊り(じゃおどり)は、長崎くんちの1番メジャーな奉納舞であり、長崎の伝統芸能。龍が、玉を追いかけて、囃子(はやし)に合わせ、くるくる舞い踊るやつですね。
しかし、龍踊りはもともと中国の舞で、ここ唐人屋敷に住んでいた中国の人たちが、旧正月に踊っていました。それが、日本人に受け継がれ、長崎くんちで、奉納されるようになったもの。
かつて唐人屋敷の隣町が、龍踊りを奉納することになった時、唐人屋敷の人たちは、本国から衣装や楽器を取り寄せて、進んで長崎人に踊りや囃子(はやし)を伝授してくれたそうです。今でも、ここ館内町の龍踊り会は、唐人さんたちから受け継いだ、龍踊りを何百年も守り続けています。その踊りは長崎の龍踊りの中でも、随一といわれる、立派なもの。
中国文化が、しっかり地域に根付いています。


さて、観音堂の外見はこんなです。4つのお堂の中では、一番どっしりして、頑丈そうなつくりに見えました。レンガ造り。
観音様を祀っているから、男性的なんでしょうか。これだけどっしり作ってあれば、子どもらが、遊び場にしたって、壊れることはないでしょう・・・・。


←、これが、観音堂の中の観音様。千手観音ですね。手がほんとに1000本あるのか、数えてみようと思ったけど、やめた・・・・・。

これは、千手観音と並んで祀られているもの、商売の神様、関帝さま→
(見えにくいですが雰囲気だけ・・・)
長崎の唐寺には、関帝さまが祀られているところも多いです。


「収容所」である、唐人屋敷という街。中国人たちは、何百年もこの街に住み、生活し、お堂を作り、祈りをささげた。長崎から中国への船旅の安全、家内安全、子どもの成長祈願、商売繁盛、などなど、きっと私たちが神社やお寺にお参りして祈るようなことを、お祈りしていたのだろう。この街には、長崎で生活していた唐人さんたちの生活の全てがあった。
長崎でもなく、中国でもない異空間、それが唐人屋敷であり、かつての唐人さんたちのように、街を歩きお堂にたつと、異世界に迷い込んだ風に錯覚する。

建物がない分、街の中に残された空気や雰囲気がすごく、濃密なのだ。それこそ、キチンとした建物が残っているグラバー邸よりも、歴史の深みを感じるのである。(もちろん、私はグラバー邸も好きだけど)。ありきたりの観光地化されると、この雰囲気は全て失われるだろう。館内町は、いつまでもこのままで残っていてほしい。


             

  唐人屋敷から新地へ・・・・・次のページに続きます。(あまりにページが重いので・・・)

                                      
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