論文2〕

 概 要

 伝統的な日本の民衆の「歩み」と「走り」が、明治期以降、大きく変容していったことを、幕末や明治に来日した欧米人の記録、弘前藩の史料、民間の伝承などのデータ、ムラ歌舞伎、芸者、イタコ、弘前藩の古武術などの身体伝承などを用いて、分析しました。

 なお、本論は、甲野善紀・田中聡共著『身体から革命を起こす』(2005年1月、新潮社)の第四章「日本人はどのように歩いていたのか」に、小山が提供したデータをもとに、再考したものです。

 近年ブームとなった「なんば」「ナンバ歩き」の再検証にも通じる小論です。

 

 

「歩み」と「走り」の身体伝承

小 山 隆 秀

1.はじめに

 石川県奥能登地方の民俗調査で常光徹は、百㎏以上の丸石を持ち上げる方法を聞き取った。

「石にはたかっちょいて(石を跨いで)、糞(ばば)たれ腰になって、じいっと脛まで取って上げる。腿の上で、これはどこへ肩をつけたら痛うないか、担ぎよいかということをまわしてみて、それから、痛うないと思うところがあったら、うつぶいて、じっとこうして抱いたまま糞(ばば)たれ腰を伸ばして仰(あお)のくんよ。じっと抱きついて、石を腰へひっつけたまんま、こう、腰を伸べるのも肩へ上げるのも一緒でなけりゃいかん。ずうーと押し上げていくのと、体が伸びるのと一緒に上へぬけてまわる。石が肩へ上がりきる、我(わ)の腰が伸びる、一緒よ。それでなかったらだめ。なんぼ力があったて、腰が折れたら落ちる。それには、受け腕(石をのせる側の腕)と、張り腕が強うなかったらこたわん。三十五貰でも八貫でも、ここなく(腕)へのっとる(のせる)力がなかったらいけん。堪えるようにして持って、張り腕でじわじわ押し上げてまわしていきよる。だいたいは技じゃなあ。丸い石で、なんちゃつまむ(持つ)ところないんじゃけ」

 常光は、その経験について、「身振り豊かに話してくれた古老の説明に目から鱗が落ちる思いをしたものである。ともすれば見落としがちな、しぐさや行為にまつわる経験や技の伝承を注意深くすくいとっていくまなざしが、これからの調査では必要だと考えている。」と述べている(1)。

 この古老の語りは、他者理解を意識した合理的説明だけでなく、主観的な身体感覚を通じた語りで、文章表現だけでは理解できない、豊かな情報を含んでいたといえないか。

 論者は同様のことを、勤務先の青森県立郷土館による「移動博物館」「出前授業」で体験した(2)。これは、近代の衣食住に関わる民具資料数十点を、各小中学校へ届け、学芸員が解説するとともに、児童生徒たちが、実際に資料に触れて学ぶ体験型授業である。年間約五十校を巡回するうちに、私は、生活体験として全く無かった天秤棒を担ぎ、水桶二つを下げて走ることができるようなった。その行為を生徒たちに解説する際、自らの説明を振り返って驚いた。

つまり、授業として、他者である学齢児童や生徒達が理解しやすい合理的な解説でなくてはならない。しかし、各民具の用途や使用された時代、材質、形態の特徴などについては、合理的解釈をもとに解説しているのに対して、天秤棒の担ぎ方や石臼の廻し方など、諸道具の具体的操作については、常光の話者のように、主観と非合理的な感覚表現ばかりを並べていた自分に気がついた。仮に、これを第三者がノートにメモしても、全く難解な文章となるだろう。それでも、それ以外には表現方法が見つからなかった。

 それとともに、天秤棒や各民具を操作しやすい姿勢が、生徒達が学校体育で指導されている「気をつけ」の直立姿勢からは、かなり異質な存在であろうことが実感されていった。だが、その感覚は、あくまで合理的な説明からは遠いものであり、話者のエミックな視点も重視する民俗研究においても、そのまま提示できる言葉とはならないであろう。

 この体験から、従来の民俗調査において、民具の由来や形態について文字や数量、図像を用いて記録ができても、かつて実際に使用した場で共有されていたであろう、身体を介在したコツや感覚などの情報については、記録してきたのだろうか、という自省の念を抱かざるをえなくなった。

おそらくそれらの情報については、「歌より囃子、搗くより手返し」、「力無しの縄切らし」(3)などという生活のなかのことわざとして言語化されている場合もあるが、多くの場合、無言の情報として聞き取り調査からは、取り漏らしている可能性がないだろうか。

 伝承は、民具、儀礼、習俗、ことば、文字等のみではなく、その中核となる日常のしぐさや所作、振る舞いにも宿っているのではないだろうか。笹本正治は、習慣、習俗などの記憶・固定化の手段としては、文字の他にも、視覚、触覚、皮膚感覚などもあり、口承や書承はその一部にすぎないことを指摘し、民俗学が人間の営みや文化を全体として掌握しようとするならば、こうした伝える手段すべてを研究対象とする必要性を訴えた(4)。

 伝承が身体性に依拠している、と述べるのが、坂本要である。彼は伝承が、音声や身振りをともなうものであるとして、文献史学への批判を行なった柳田國男が、知らず知らずにおこなっている立ち居振る舞いのしぐさのなかに、「無意識の伝承」である民俗を発見したのだと述べ、人間の全体をとらえるには身体表現、身体技法の研究がかかせないとしている(5)。

そのようなデータは、いままで常にフィールドのなかに埋め込まれていた存在であったといえよう。話者から発せられても、それをすくいとるかどうかは、それぞれの調査者の視点にゆだねられてきたのではないだろうか。例えば、論者の拙い調査ならば、力石を用いる行事の名前、由来、期日、参加者、石の形態などについては、メモするものの、常光の採集した、石を持ち上げるためのコツ、話者の感覚等については、ペンを止めていたかもしれない。

 その「無意識の伝承」を民俗調査でどのように採集するのか。例えば、聞き取り調査の現場で、話者が調査者の意図を越えて語る場はよくある。そのなかで語りのなかに編み込まれている、身体を介在した快感、痛み、疲労感、技能のコツを形容する表現など、数量や合理的説明ではとらえきれないデータに注視して聞き書きした報告例は少ないといえよう。

 かつ、今後の採集でそのようなデータを得ようと努めても、現在の話者の語り自体が、変容している状況も推測される。

例えば香月洋一郎は、宮本常一と自らの調査経験を引き、語りの変質を述べている。それによれば、話す側にある意図や方向性があり、その通りに理解してもらうように話すことを「説明」とし、聞き手、受け取る側の理解にまかせる姿勢で話すことを「叙述」とする。すると、近代教育を受けた人間では、事象をありのままではなく、なんらかの位置づけを加えた後の「説明」が多くなり、自らの体験談にまでその姿勢が染み込んでいることが多い。そして明治二十年以降、近代教育の感覚が常民社会へ徹底してしみ込んで醸成され、「叙述」的な発想と語りをする古老が激減し、「説明」的な古老や、「説明」の部分が多い語りになってきた傾向があるのではないかという(6)。

 おそらく、論者が本論で注目したい、身体の所作やしぐさ、感覚などは、人々の「叙述的」な語りに含まれることが多いと予想されよう。すると、今後そのような採集ができる機会は、ますます限られてくるのだろうか。

 

2.研究の歩み

 ここで人々のしぐさや所作、振る舞いなどを含む、身体を対象とした人文諸科学の主な成果を振り返りたい。

 例えば、民俗学では渋沢敬三が、日本人のしぐさに関する視点(7)を提示している。近年では、民俗芸能研究において、舞いや所作の記録法の研究、稽古の場に内在する伝承システムの分析がなされている(8)。そして前述した常光徹が、しぐさや身体にまつわる呪術的な伝承の研究を行っている(9)。

 口承文芸研究では高木史人が、ことばの記録だけが客観の拠り所になっている近代科学的思考では、昔話の伝承の身体や意識について捉えきれないと指摘していた(10)。近年は「ことば」を発する身体や、民具を使う身体へ注目が始まっているという(11)。さらに巫俗の研究が、神仏との交信やトランス、修行法などの身体を、早くから研究対象としてとらえてきたといえよう。

孝寿聡は、職人の伝統技術や民俗芸能、祭礼を映像で記録して、芸能の奥義書や伝書の映像版を作る試みを行なっている(12)。

 そして技術と身体の歴史的変遷については、朝岡康二の研究がある。身体に埋め込まれた文化的伝承の例として、日本の伝統的な職人の「仕事の姿勢」を取り上げ、様々なタイプの座位が、産業革命以降、立位へと変化してきたことについて、絵巻物や古写真等の画像・映像記録を用いて分析したものである(13)。また論者は、弘前藩の武芸が含む、中近世以来の身体伝承が、幕末から近代初頭にかけて、全国組織として画一化された近代的な「武道」技術へと変容していった過程を報告した(14)。

 このような技術への注目に関して、近年、国の文化財保護法が改正され、保護の対象として、「文化的景観」と共に「民俗技術」が追加された。これは大島暁雄によれば、衣食住などの「日常的消費的生活技術」と、「自己消費型生産技術」、「利潤追求型生産技術」、「専業的職人技術」などを含むものだといい、生活の中の技術や職人技術について記録し、保護する動きが始まっている(15)。

 また、近代日本思想史の河西英通は、近代初頭の西南日本に根強く存在した、青森県に対する未開・異域イメージの例として、1897年に東京在住の人物が描いた、津軽地方の民衆の屎尿のしぐさをスケッチした『青森函館画談』を紹介している。(16)。当時、国内において、衛生観念、振る舞い、所作の地域差があったことを示す貴重な史料といえよう。

 文化人類学が、二十世紀に展開した身体論の研究史は、野村雅一が詳しい(17)。そして、学際的な研究を展開しているのが、神奈川大学の21世紀COEプログラム「人類文化研究のための非文字資料の体系化」である。その中の第2班が、「身体技法及び感性の資料化と体系化」をテーマにしている。これは、東アジア、ヨーロッパ、アフリカをフィールドにして、人間のしぐさやしきたりなどの身体技法や、人間の感性を資料として、映像等で記録し、基層文化の解明を目指した研究プロジェクトだという(18)。

 以上、論者の浅学の範囲での通覧にすぎない。これらは、文字や数量、合理的説明では把握しきれない身体を、研究ベースに載せようとする試みであるといえよう。

 そして本稿も、先学同様、民衆のしぐさや身体の歴史的変遷の分析を目指す。その際の資料として、従来のように写真や映像資料、聞き取り資料の使用だけでなく、偶然、しぐさや所作を目撃した他者が、違和感を記した史料も援用する。ここでは主に、幕末から近代にかけての民衆の「歩む」、「走る」という、最も日常的な動作に注目し、現在の我々の身体に宿る、無意識の伝承を成立させているものについて分析を試みたい。

 

3.所作への違和感

 幕末から近代初頭に来日した欧米人たちの日記類には、当時の日本人のしぐさや所作に違和感を覚え、記録している例が少なくない。それについては渡辺京二の研究が詳しい。彼は当時の欧米人達の記録を分析しながら、従来のオリエンタリズム批判を再検証する必要性を指摘した。そして欧米人の視点について様々に分析するとともに、当時確かに、彼らにとって異質なものが日本に存在した事実に注目し、その実態と解体の実相をつかむことが、我々の近代の再考につながると論じている(19)。

〔事例一〕一八五四年、アメリカ海軍ペリー一行が、神奈川の「條約館」で目撃した、江戸幕府高官達の作法

「上位の者の面前で下級の者が蹲る姿勢は、日本人にとつては大変容易なやうに見えるが、慣れてゐない人が、その姿勢をとることは、非常に困難であり且、苦痛であらう。普通に行はれる方法は、跪いて、足を組み、踵を裏返しにして、趾と足の甲と脚の腓をしつかりとくつける方法である。屢〃足裏を地面にしつかりとくつ付け、膝を曲げ、身体を低くかゞめることもある。(中略)彼等は悉く、長い間の練習によつてのみ獲得することのできる驚くべき程の筋肉の屈伸と関節のしなやかさとを示し、又弾力のある演技を見せて見物人の驚異を買ふ、熟練した曲芸師又は道化師の一人を思ひ出させたのである。(中略)栄之助は眼を俯せたまゝ一寸それを聴いて、それから物慣れた態度で、まだ跪いたまゝで委員達の通訳の方へ進み、その口上を伝へてから、然るべき回答をもつて、もとの位置へ戻つて来た(20)。」

「(横浜で「町長」の歓待で)この妻や妹は、外国人の面前では何時でも膝まづいたまゝであつた。かゝる不体裁な恰好をしてゐても、女達は自分達の働きを妨げられるやうでもなかつた、何故ならば銀の徳利をもつて、非常に敏速に走り廻つてゐたからである(21)。」

〔事例二〕幕末の横浜(現神奈川県)で、ラホールが目撃した日本の踊り

 幕末に来日したアメリカ人フランス=ラホールは、万延元年(一八六〇)七月に、横浜の州干弁天祭で、女性達の「踊り」を目撃している。彼によればそれは、西洋のダンスのような跳躍運動とはかけ離れ、「奇妙」で「あまり意味があると思えない」「優雅さに欠ける」「滑稽な」所作だと記しているという(22)。

〔事例三〕明治20年代、ラフガディオ=ハーンが、伯耆国上市(かみいち)で目撃した盆踊り

「いっせいに右足を一歩前へ踏み出すのだが、足の動きは滑るがごとくで草履が地面から離れることがない。同時に両手が右へのびて、ふわっと浮いたような手振りになり、(中略)またいっせいに左足を前に出し、半ば左に向きを変えながら先の動作を繰り返す。」(23

 〔事例一〕のように、広範な層の日本人が習得していた、正座や立ち膝、そして現在では、神職や茶道、武道の一部でしか用いられなくなった膝行を目撃した欧米人が、その柔軟性に驚き、記録した例は少なくない。また、〔事例2〕、〔事例三〕はともに踊りについてである。

異文化の彼らだからこそ、当時の日本人にとっては意識に上がらないような平凡な日常に、特徴を見取って記録できたといえる。だが、これらの欧米人のコメントに共通することは、異文化の難解な所作を合理的に描写しようと、懸命に言語を操作しているが、第三者が理解できるレベルまで的確に表現しきれないままに、文字記録となっている点であろう。現代の我々がこの文章を読んで、彼等が目撃したであろう所作と、彼等の驚きと戸惑いについてイメージできるのは、我々が、盆踊りなどの伝統的所作とともに、彼等の視点の文化的背景の両方を理解しているからではないだろうか。

 一方、欧米人たちは、作法や踊りだけではなく、日常の歩行にまで違和感を覚えたようだ。

〔事例四〕明治二十年代、ラフガディオ=ハーンが、島根県松江地方で目撃した住民の歩行

「人々は皆が爪先で歩いている。(中略)歩くときにはいつもまず第一に足指に重心が乗る。実際、下駄を用いる場合にはそれより他に方法がない。なぜなら、踵は下駄にも地面にもつかないから。真横から見ると楔形に先細りした下駄に乗って足は前のめりになって前進する。一足の下駄に足を乗せて立つだけでも慣れない者にはむつかしい。でも、日本の子供たちは少なくとも三インチ(七・六センチ)の高さの下駄をはいて、鼻緒を親指と次の指との間に引っかけただけで全速力で走る。彼等はつまづいて倒れることもなければ、下駄が足から抜け落ちることもない。大人がはくのは木で出来た台に五インチもの歯をつけた高下駄で、床几の漆塗りの小型模型と言った具合だが、それを履いて男たちが歩き回る格好はなお一層奇妙である。彼等は足に何もはいていないかのように大股で思うさまに歩く。」(24

 このつま先を使った日本人の歩行であるが、足半、草履、草鞋、下駄など、中世にまでルーツが求められるであろう、鼻緒を持つ伝統的な履き物の形態も、その所作を示す民具資料であると考えられよう。時代を大きく遡れば、つま先歩行の痕跡は、青森県田舎館村垂柳遺跡で出土した、弥生期の水田跡にまで残されているが、その関連性については明らかではない(写真1)。

(写真1 垂柳遺跡「弥生人の足跡」青森県立郷土館蔵)(25

人間の歩行を研究した医学博士平沢弥一郎は、垂柳遺跡の類例が全国的に分布していることを示した。板付遺跡(福岡県福岡市)、瓜生堂遺跡(大阪府東大阪市)、巨摩廃寺遺跡(東大阪市)、熊野堂遺跡(群馬県高崎市)、大森遺跡(福島県相馬市)、長岡京跡(京都府)、栄根遺跡(兵庫県川西市)などで出土した、弥生初期から古墳時代、平安期にかけての人間の足跡を分析した。それによれば、古墳時代までは、五指が扇のように広がり、踵が小さくとがっていて、中足指節関節に力を入れ、上半身がやや前傾姿勢で立っていたのが、平安期以降、指が狭まり、踵が丸く大きく、現代人と共通性の高い足跡へと変化していることを指摘し、立ち構えの変化と生活様式の変化とのつながりを推測させるという(26)。

 一方、十九世紀末に生まれ、明治中期以降から半世紀以上、歌舞伎界と深く関わっていた平山蘆江によれば、伝統芸能が様々な階層や男女を演じるときの歩みには、つま先歩行以外の歩みもあったという。

〔事例五〕歌舞伎の歩み

「総じて女形は足のはこびにつま先を強くつかへば気象の強い女形となり、男役は踵を強く踏みしめればしつかりとした男の性根が見える。(中略)男役のあるき方は、踵のおろし方に目安があるといふ話をしたが、江戸ツ子の足どりはその中でも特別だ。江戸ツ子といふ役柄を、切られ与三郎で代表してそのあるき方を説明しよう。与三郎の足は踵でもなく、爪先でもなく、足の小指のつけ根あたりからまづ下して親指のつけ根の方へ及ぼすといふやり方で、どつちかといへば踵は少しも地につけない。それは江戸ッ子特有のつゝかけ草履の穿きぐせを持ち込んだのである。小指のつけ根から下して踵と地につけないやうにといふ事は、つゝかけ草履を実際に穿いて見ればすぐに判る、踵をかばつてやれねば踵がよごれるからだ。さういふ足の運び方で、而も膝をまげずに前へつき出しながらあるく、(以下略)」(27

 また、柳田國男は、実体験として、近代初頭の日本人の歩みの変化を目の当たりにしていた。

〔事例6〕昭和初期、柳田國男による、当時失われつつある歩み方について

「男女の風貌はこの六十年間に、二度も三度も目に立ってかわった。(中略)肩を一方だけ尖らせて跨いであるくような歩き方もあった。袖を入れちがいに組んで小走りする摺足もあった。気を付けてみると、いずれも履物の影響が大きかったようである。(中略)とにかくわずかな一筋の鼻緒をもって、これを御して行くのは練習を要することで、この足の指の技能にかけては、独歩の誉れは日本人に属している。」(28

 以上、近代まで、様々な歩みがあったことが推測できよう。一方、幕末の日本人側も、当時の欧米人の歩行に違和感を覚えていたことがわかる。

〔資料七〕高取正男が提示した、幕末の流言と失われた歩き方

「西洋の靴と草履や下駄が違うところは、カガトとよぶ部分がないことである。(中略)杉本鉞子『武士の娘』には、子どもの頃、召使いたちから、「赭(あか)ら顔の異人さんは、踵がないから履物に木の踵をつぎ足している」と教えられたとある。幕末攘夷の志士のあいだには、紅毛人は足にカガトがないから、胸を突くとすぐに仰向けにひっくりかえる。戦いになったら、そのつもりで格闘すればよい、という風説もあった。要するに百年前の父祖たちは、西洋式のカガトのある履物ほど不可解なしろものはなかった。(中略)昔の日本人はカガトを使う歩き方をしなかったからで、足半ワラジなどとよび、足の裏の前半分だけではき、カガトのない草履が普通に用いられた。スタスタとかヒタヒタという歩き方は、もともとこうした履物をはき、足腰のバネを十分に使って飛ぶようにゆく歩き方で、考えてみると、下半身の鍛錬がなされてあれば、重い荷を担いで山道を行くにいちばん適した歩き方である。」(29

 タイモン=スクリーチによれば、「西洋人に踵が無い」という風説は、大槻玄沢が寛政十一年(一七九九)に著した「蘭説弁惑」にもあるという。そして日本の人々は、西洋人の外見や道具類だけでなく、大仰なジェスチャー、イスに座る習俗、小便の仕方、凝視する視線等にも違和感を持ち、西洋人の所作の事例を絵画として記録した事例を紹介している(30)。

〔事例八〕幕末の弘前藩士が目撃した欧米人の歩行

 幕末の弘前藩士で、国学にも傾倒した平尾魯仙が、安政二年(一八五五)に、函館で目撃した欧米人の歩行についての印象を記している。

「今年安政二乙卯夏六月下旬、松前函館の海口(ミナト)小休帆する異国船ハ、北アメリカ。イキリス。フランス。トイツ。(中略)歩行の形ち揺々擺々(ノッサノッサ)として大またきに歩々よく揃ひて隊伍(イサヘ)の調練に熟したるものと思ハる又下部の者ハ是と違ひて足並も早く粉乱して(以下略)」(31

 平尾によれば、欧米人の上官らしき者たちは「揺々擺々」という動作で、大股に足並みを揃えて歩き、よく調練されているようだが、下部の者たちは足並みも速く乱れていると記す。「擺」(ハイ)の字義は、「ひらく」「ふるう」「ゆらぐ」であるため、「揺々擺々」は近代以降の軍隊式行進のように、大きく体と手足を振って歩く行進方法を目撃した違和感を、形容したとも考えられよう。

 さらに「歩み」とつながる所作「走り」についての、前近代と考えられる記録を提示したい。

〔事例九〕八戸藩伝承の剣術で、逃走者を斬るコツ

「一 追駈者之事

 此敵は逃候敵故、前掛也、頭ハ先に立候間、目付ハ腰を目當に打へし」(32

 つまり、一般に逃走者は、前掛かりで頭を前に出すため、後ろからその腰部を斬りつけるがコツだという。

〔事例一〇〕ムラ歌舞伎に見る走り方

 明治二十三年(一八九〇)に、上方の役者によって伝えられた、という青森県下北郡佐井村福浦の福浦歌舞伎の演目に、「義経千本桜」がある。その中で、義経に注進する「早見六郎」を演ずる若者は、櫂を肩に担ぎ片手に笠を持って、前のめりになって、まるで宙を泳ぐようにして、片足ずつ後方へと高く蹴り上げながら、舞台袖から中央へと進んでいく(写真2)。

 

(写真2 福浦歌舞伎「義経千本桜」の走り)(33

 この〔事例一〇〕の所作と重なるのが、次に示す口承である。

〔事例一一〕青森県弘前地方の方言による走方

 昭和十年代に弘前市内で生まれ育った話者によると、明治中後期生まれの両親や、地域の人々のなかには、速く駆ける様子を「ボノゴ(盆の窪、後頭部)さ、アグド(かかと)が付くように走る」と形容して言った。例えば「犬にぼられで(追いかけられて)、らあ、ボノゴさアグト付ぐように走ったきゃなあ。」と言う。部活動の先輩には、そのようにすると速く走れるともいわれた(34)。

 いずれの資料も、近世から近代にかけての青森県域におけるものである。これからは、前傾して、足を後ろへ蹴り上げるような走る姿勢が想起されるが、詳細は明らかではない。

ただ、武術や芸能という特定分野の技術や例え話を、近世から近代初頭の民衆の日常の姿へあてはめることには、慎重でありたい。ただ、これらの表現は、当時の人々の歩み、走る身体の内的な認識を表したものと考えられないか。

 

4.近代化する身体

 前掲の〔事例六〕で、昭和初期の柳田は、近代初頭、日本人の所作が大きく変容したと述べている。青森県において、その状況を類推する資料を提示したい。

〔事例一二〕幕末の弘前藩軍制改革における駆け足(馳足)練習

 弘前藩は、明治三年(一八七〇)から軍制を「仏式操練」に転換した。藩立の「修武場」で行われた訓練は、近代西欧式の体操となった。

「授業ノ艱難

一 一途馳足ノコト 是ハ速足ナレハ馳セルコトヲ専ラトスルノミ

一 木馬ヲ踏コト事 是ハ長足乗ニ似テ一途身骨ヲ修熟スル迄ナリ

一 ブランコノコト 是ハ余リ不熟ナレハ目眩スル者ナリ為ニ逆ニ落テ怪我ヲスル

一 高飛ノコト   是ハ至テ大事ナ者ニテ初ハ四尺ノ所ヨリ飛ヒハ子段々熟スルニ及ヒ七尺ノ所ヨリ飛ヒ下リ夫ヨリ熟スレハ其熟スルニ随ヒ二間ヨリ飛下ルナレ共若誤リ飛下ル時ハ是ヲ損ス體屈ミ至リテ難儀ナル業ナリ

一 手摺縄ノコト  是ハ図ノ如キ縄ヘ足ヲ挟メ臑ヲカラミ全身ヲ逆ニ運動スル為誤ル時ハ大ナル怪我スルコトアリ

一 縄ハ子ノコト  細縄ヲ両人シテ持チ左右ニ分レ地上ヨリ高サ初ハ一尺五寸夫ヨリ熟スル度ニ尺寸ヲ増シ高サ四尺ヲ度トス不熟ハ飛上リ兼縄ニチマツキ倒ル依テ手ノ皮ヲ剥キ或ハ鼻ヲ損スルコトモアリ

 以上ノ業事日々功拙アリ修武場稽古中ハ為ニ生徒困却セリ

  高飛所ノ図(中略)

 図ノ如ク臺ヲ築造ス授業ノ区別ヲ三等ニ分チ規定ノ所ヨリ地ノ上ヘ飛ヒ下ルナリ

一 是ハ生徒五六間先ヨリ馳セ腕木ヘ手ヲ掛ルト直ニ腕木ニ胸板ヲ掛ケブランコスルコト熟ス

一 都テブランコモ逆ニ下ルモ数回ヲナシ車輪ノ如ク運動スル故不熟生ハ眩瞑スルナリ

一 手摺縄ヘ取付是ヲカラメ體ハ逆ニ成リ運動自由ヲナスコトナリ」(35

 これらの「馳足」などの訓練の内容を見れば、現在では一般的な運動の種目であるが、当時は全く新しいものとして受け止められたのか、かなり詳細に説明されている。また、伝統的な剣槍柔術の稽古に慣れていた藩士たちが、この仏式訓練に「生徒困却セリ」という状況であったのが興味深い。彼らは、今までとは異なる所作、身体を要求されたのだといえよう。

 このような、伝統的な武芸から西欧式軍隊調練への転換は、幕末から明治初頭における全国諸藩の動向と一致するものである(36)。

そのきっかけは、西欧式軍制との出会いにあった。一八五三年七月十四日、神奈川に上陸した、アメリカ海軍ペリー一行を出迎えた多数の幕府および諸藩の軍勢を見た、アメリカ人たちは、「日本軍の秩序はだらしないので、大して立派に訓練されているものとは思われなかった」との印象を残した(37)。一方、交流が始まると、江戸幕府の高官達は、アメリカ式の演習や操練、軍楽隊を見せられ、「この軍事調練に甚だ興味を抱いたらしく、兵士の立派さや、訓練の見事なのに、いたく感服に様子であった」(38)といい、「将来西欧の諸大国と何等か衝突が起つて必要となる際のための攻防の最善手段を習得し、且つそれを採用するの必要なことを感知してゐるかの如くであつた。」という(39

まもなく、安政三年(一八五六)年と翌年に、下曽根金三郎信敦によって行われた、西洋式調練の様子を描い絵画には、密集体形で行軍する各藩の藩士達が描かれている(40)。

体育史の今村嘉雄によれば、慶応元年(一八六五)頃、大阪の玉造講武所で、将軍徳川家茂の閲覧のもとで、行われた訓練にも、剣槍術が洋式の兵法と階調するために集団調練せざるをえなくなり、行軍、走競という、伝統的な武芸修行にはほとんど見られなかった方法が導入された。基礎体力としての歩走能力が軍陣生活にとって共通必須のものとして求められたことは、体操の実施と共に体育史上注目すべきことであるという。それは、明治期の軍隊にも導入され、学徒の行軍、徒競走、体操とも関連を持つようになったという。そして、多くの藩で実施された洋式操練の体操は、従来の対人武芸とは著しく性格を異にし、近代の秩序運動の先駆として、近世体育の近代化に対して重要な役割を果たしたと分析している(41)。

 十九世紀後半に日本に輸入された、この洋式調練は、二十世紀にかけて、より広範な層へと指導が徹底されていった。

事例一三〕昭和初期の青年訓練所による行進練習

「青年訓練に関する青森連隊区司令官の意見」一九二六年十月一日

「青年訓練は一段の工夫を要す

青森連隊区司令官 村岡利二郎

本年七月一日より全国一斉に青年訓練所を開設せられ(中略)一列側面より進歩の行進「股を高く」「モット強く踏め」「マダゞ膝を伸ばせ」の要求も起こらぬこととゝ存じじます。(中略)此の不動の姿勢中往々腹を引けなる語を乱発する人がある之は大なる間違だ(中略)之は「腰ヲヒケ」なる語の誤用である武道の奥義皆伝も臍下丹田、座禅の真諦も又此力、茶の湯にせよ作法にせよ悉く然りである、(以下略)」(42

 昭和元年(一九二六)、全国各地に設けられた青年訓練所で、青年達に近代軍隊式の行進方法が指導された。その行進指導のポイントとして「股を高く」「モット強く踏め」「膝を伸ばせ」があげられている。その矯正項目は、当時の人々の歩みが、訓練の目指す「理想的な姿勢」とは異なっていたことを示す反証ともいえよう。また、この史料では、近代の軍隊式歩行を指導する一方で、「武道」や「座禅」、「茶の湯」による伝統的な姿勢の観念も引用し、個人のなかで両者の観念を融合させようとしている点が見られる。

 そして、このような近代以降の軍隊生活と学校教育が、民衆の振る舞いにまで影響を与えたことを、早くから指摘していたのが、柳田國男であった。

〔事例一四〕昭和初期、柳田國男による行列の発生

「祭礼や市のごとき特に必要のあるもののほかに、何かの折にはほとんと偶然のように、多人数が寄り合って一つの方向に目を集め、いわゆる面白の光景を作ろうとしたのであった。その中のことに乱雑でまた気まぐれなものは野次馬の群であるが、これに近いものはそれ以外にもいろいろあった。西洋の人たちは早くから行列という楽しみがあった。日本にもそれは古くからあることだが、動く者はただ少しで、他の大部分は止まって見物となり、または、後から順序もなく群れて跟(つ)いて行くのであった。これを隊伍に組むようになったのは、軍隊生活の影響かと思われる。学校が夙(はや)くその整理法を採用し、今では大変な人の数が、こうして街上を動くようになった。憲法発布以来のたびたびの国の悦び事には、提灯や旗の行列が普通になり、その美しさは団体行動の愛着をさえ生ぜしめている。」(43

 このように、主に歩行において、整列・行進を中心に、集団秩序訓練が全国各地で一声に行われた。スポーツ史学の稲垣正浩によれば、この方式は、ドイツの近代体育理論から始まり、近代における日本の国民国家形成の一端として機能したという(44

また、教育社会学の柳治男は、十九世紀初頭にイギリスで登場したモニトリアル・システムという、軍隊的規律・訓練を行う組織が、日本では、文部大臣となった森有礼によって、明治十九年(一八八六)、師範学校の兵式体操として導入され、集団行動の訓練を促したことを指摘した。それはやがて、祝祭や運動会などの学校儀式のなかで、隊列を組んで行進するような規律訓練が行われ、学級では「規律」「礼」「着席」という号令で動く訓練の開始へとつながっていった歴史を明らかにしている(45)。

阿南透は、釧路市民運動会を事例に、一世紀を超す歴史を持つ日本の運動会が、民俗学の年中行事の研究対象になりうることを指摘したが、そのなかで、1926年から地域の運動会には、マスゲームや体操、軍事教練など、統一化された動きを観客に示す運動がとりいれられていった状況を提示している(46)。

近代に変化したのは歩みだけではなかった。永嶺重敏は、読書における、日本人の身体の変容を分析している。それによれば、日本の民衆が長く慣習化してきた、素読、音読は、共同体を通じて享受されていた、前近代の読書習慣であり、明治期に来日した欧米人に奇異に受け止められる行為であった。この身体行為が、明治期に登場した「汽車」という、西洋的公共空間の倫理と摩擦を生じ、排除され、やがては、公共図書館の規律的空間で、個人的な黙読の習慣が促されていったという(47)。

また青木隆浩は、明治・大正期の軽犯罪による検挙率の増加の背景には、開国後に、欧米人から「野蛮」であると批判された、民衆の日常における伝統的なふるまいや行為が禁止され、やがては、社会規範として全国へ浸透すると、厳罰化するという過程があり、それらが、国家による社会管理の強化に利用されたことを分析している(48)。

以上から、日本の近代は、歩みだけではなく、様々な分野で伝統的な身体や所作が、欧米にルーツを持つ、一定のスタイルへと、組織的に変化するよう、促された時代であったといえよう。

 

5.個人における身体伝承

 一方で、近代以降においても、近世以来の身体伝承や技法の一部が、近代の軍制や学校という組織的な影響力をすり抜けて、個々人のレベルで、伝承されてきた可能性がある。

〔事例一五〕ライフヒストリー(八戸市小中野の見番)

 小中野の芸者の名前として、「太郎」、「豆三」、「千松」、「蝶子」などがあったという。芸者になるための「お稽古」は、早い人は3歳から始めたが、多くは7歳で尋常小学校へ入学してから始めた。その事情は、事前に親が学校へ相談しておく。昼、学校から帰れば、綿のワタ入れを着てお稽古にいった。稽古で疲れて、授業中に眠くなり、学校の廊下で寝てしまったこともある。

数え年14,5歳で「見番」に上がる。見番の試験として、一曲踊ってみて、認められなくてはなれない。のちに「半玉(舞子)」になるときや、その次の「芸者」になるときにも同じように試験があった。稽古は、長唄、ハチ唄、民謡などで、お客に合わせてなんでも弾けるようにする。これらの唄のうち「八戸小唄」は、現在のものとは異なっていたという。

 お辞儀の仕方を習うため、みんなで青森市から、小笠原流の先生を呼んだ。作法の稽古は、同じく習いに来ていた一般の「お嬢様方」への指導は優しく、「おみ足が違いますよ」「お手が違いますよ」と教えていたが、芸者の見習いには、プロとして厳しい躾けが行われた。「肩から力を抜いて座れ」といわれ、背を曲げると腹に扇子を入れられた。また、障子の開けたてが悪いと、モノサシや扇子で叩かれ、怒った先輩から扇子が飛んできて、手の甲には、叩かれた跡が残ったものだという。

 小中野の言葉遣いとして「よく、おんできんしゃんした(よく、おいでになりました)」「いつ、お目にかかっても、お変わり無くなさらなくて、何より結構なことです」「ごろうざってくだしゃんせ(ご覧ください)」「もじょってください(席をずらしてください)」などという言い方を使った。見番の上下関係は大変厳しかった。同じ年齢でも、一日早く芸者になると「お姉さん」として先輩格となった。行儀作法などでまずい点があると、よくお姉さん方に呼ばれて叱られたという。

 そのなかでも「太郎」氏は、十代の頃に、もと士族だった家に奉公に行っており、特に厳しい士族の躾けを習い、後の仕事で多いに役立ったという。その家は、床の間に刀が掛けられ、ナゲシに槍が置いてあった。「女は玄関から入るな、お勝手から入れ」といわれた。他にも、他人の話を聞くときは、同じ目線で口元を見て聞くようにすること。背筋を伸ばし、アゴを引いて正座し、両手は、親指を中に入れて軽く握ること。正座では、両つま先の間隔を空けておくと疲れないこと。他人を「見上げるな、見下げるな」ということ。階段は右足から一段ずつ上がることなど、たくさん躾けられたという。

 箸の持ち方も教えられた。食事は自分が食べ終わっても、目上の人が食べ終わるまで、待っていなくてはならない。サムライコトバも躾けられたため、「ただいま持って参じます」「ご無礼しました」が口癖になってしまったという。これらの礼儀作法については、特に会津藩から来た人たちが厳しかった。

 護身の方法も教わった。畳の縁は踏むなという。なぜなら、薄い刃物が隠されているかもしれないから、身を守るためだという。扇子も、自分の身を守るために使うといい、正座して挨拶をするときに、急に戸障子を閉められて、頭が挟まれてしまうのを防ぐため、膝の前に扇子を置くものだという。また、危険なときに、扇子を根元の方から、敵の顔面に投げつけるのだという。

 文字も覚えた。きっかけは、第二次世界大戦中の昭和十九年のことである。当時、花柳界が休業になり、見番も解散となって、挺身隊として彦根へ行った人もあるし、三沢市古間木にあった、障子のサンを掘る工場へ働きに行った人もいた。あるとき、みんなで出征する兵隊の見送りに、小中野見番みんなでいき、カシラが音頭を上げ、みんなで小中野見番の旗を振った。その際に、日の丸の旗にサインできなくて、恥ずかしく思い、後日、八戸市内の木村書店に行って、般若心経を書いた本を入手し、筆写して、独学で字を勉強したという。

 そして見番では、十八歳になった半玉のなかから、約一〇名が試験を受け、独りで長唄を一段、ひけると認められて、芸者として「一本」になった。芸者となった「太郎」氏は、名を「廣香」と改めた。芸者たちは、八戸市内のウメ屋、アケボノさん、小松屋、吉野屋などの料理屋から、見番に電話で依頼が来ると、宴席に呼ばれていった。そのようにして回っていた芸者時代は、三味線引きで着物の袖が擦れて、短くなったものだという。

 また小中野見番は、かつての三社大祭お通りの行列に、団体で二日間参加したという。当時の行列は、八戸市内の小中野、新地、裏町から行列がスタートしていたという。小中野見番の女性達は、魚町か、オガミ神社で待機していて、途中から、「お通り」の行列の真ん中と、最後尾に山車二台で加わった。山車は馬車を組み立てて改造したもので、前部に太鼓二名、そして大太鼓一名、裃をつけ三味線を引く芸者や半玉が五名、ツツミとオオカワが三名、浴衣姿の半玉の「舞い」が五名乗った。三味線は、途中で若手と交替しながら演奏した。オオカワを叩いていると、よく手の指が割れて出血したものだという。お通りの中日には、踊りの上手な人が出場した。三日町や十三日町のお店の主人たちは、芸者が門付けに来るのを待っていて、饅頭などをくれたものだという。かつては見番の人数が多くて、競争率が高く、出たくても出られなかったという(49)。

〔事例一六〕ライフヒストリー(イタコ)

 A氏は、昭和四十年代生まれで、青森県南部地方を拠点にイタコとして活動されている女性である。

学生自体に体調不良で悩んだという。ケガも多く、いつも同じ箇所を何度もケガする。ご飯が食べられない。医者へ相談しても「異常無し」で、自律神経失調症と診断された。そこでいつも相談していた、カミサマたちの家々を訪問したがちょうど二軒とも不在であった。そこで、近くのムラのイタコにいってみた。それが後に「師匠」となるB氏の家だった。B氏は、片方が義眼で、片方も途中で失明したという。

一週間で体調も食欲も回復した。すると、いつも通っていたカミサマが「お前たち、イタコのところへ行ってきたな、なんで黙っていた。お前は能力があるからイタコになってみろ」といわれ、改めてB氏へ紹介してくれたという。

弟子になったら、その人の生活に応じて見習い期間は七、八年となる。最初は慣れるまで「通い」であった。B氏には「中途半端は絶対にいけない。覚悟して最後までやり通しなさい。」と厳しくいわれた。慣れた頃には住み込みの修行に入り、一ヶ月に二、三日しか帰宅できない。月謝はお金で渡したという。

 最初に「イタコの守り神は、千手観音サマだよ」と教えられた。「身上がりの式」では、家族をシャットアウトして食事制限に入り、魚、肉、卵は食べてはいけない。魚肉が混じった調味料も禁止で、野菜のみの食事である。注連縄を張って、師匠と弟子たちだけで水垢離をとる。そのときA氏の意識は朦朧となっていたという。神前で何度もお辞儀して経文を暗唱する。その場でしか教えない「経文」がある。その場で覚えないとクビになり、他言無用で家族にも教えられない経文である。

 終了後、師匠は教えることはすべて教えた。後は恐山でやれ、二年半から三年でモノになれなかったらやめろ」と言われた。

 A氏は、複数の弟子たちとともに、B氏について修行したが、一緒に習っても、そのモンク(文句)を受けた場や、受け取り方が違うため、後からお互いに合わせても少々、異なっている部分があるという。師匠から習った経文(またはモンク)には、「オシラ祭文」、「地獄さがし」、「大祓」、「般若心経」、「ヒャクジョウキ」、「観音経」、「オマジナイ全巻」、「春祈祷」、「山伏」、「恵比寿大黒」などがある。このうち「オシラ祭文」は、「満能長者」のタイプだけ習った。その場に応じて省略して使うこともある。修行ではマジナイについて、仏サマのことを先に覚えてから神サマのことを覚える。難しいものから入るものだといって、「般若心経」と「「大祓」を一番最初に習う。ただし、A氏は既に両方のモンクを知っていたので、「ヒャクジョウキ」から習った。師匠の経文を聞きながら、目の前で弟子達がノートに書き写して覚えた。

 「地獄探し」は、「新しいホトケ」の一周忌、三十五日、四十九日に使う。師匠であるB氏の系譜を継ぐ弟子だけが習ったモンク(文句)で、教えてほしいと来る人もいるという。

 「地獄さがし」は「前(まえ)読み」から入る。「前読み」はお産で亡くなった人、親子で亡くなった人、独身で亡くなった人、生きている人のタマシイを呼ぶこと、などに使うものがあり、用途によって最初の数行で変えるが、必ず守りホトケと守り本尊を呼ぶ。次に「ヒャクジョウキ」、「般若心経」で神と仏を呼び、地獄と極楽の門の「トビラ」を開く。次に「ホトケ降ろし」をやり、「口寄せ」をやって、門のトビラを閉めて、ホトケを送る。すべてやると半日はかかるので、現代では省略するイタコも多いという。しかし最近は、「地獄探し」の依頼よりも、お寺での供養で終わる人が多いという。A氏は、以前、八戸郷土研究会小井川潤次郎氏の著作(50)で「地獄さがし」の一部の記録を読んだことがあるが、記載されていた、イタコ根城すゑ氏のモンクと、自分が習ったものが似ている気がしたという。

 依頼があれば、頭痛のとき、腹痛のとき、人探しなどのモンク(文句)もやるが、変化の多い現代社会では、人々のニーズに対応するモンクも限られてきた感があるといい、工夫してケースによって組み合わせて使うという。その使い方は、ほかのイタコやカミサマも同様らしい。師匠のB氏自身も、その先代の師匠から習った教えや出雲大社の教義をベースに、自ら様々な分野の手法も研究して、自らのスタイルを確立していったといい、イタコ以外の知識も教えてくれたという。

 これらのモンクの伝承は、もともと口伝であるが、晴眼であるA氏は、今後の伝承を維持するために、師匠B氏の発音の仕方、例えば表記を文字として、ガギグゲゴだけでなく、「があ、ぎい、ぐ、げ、ご」まで区別して記録しておく必要性を感じたこともあった。しかし今は、その場に応じて変化した師匠の経文を文字として固定してしまうと、意味が限定された上にずれてしまう気がし、あいまいな部分にこそ、奥深いものが含まれていることを実感するという。

 現在A氏は、春祈祷で青森県南部地方のムラを回ることがある。家々では、その家の造りと大黒柱の数から、部屋ごとにいる神様が違うもので、どの神様を呼ぶのか判断するという。

 A氏はオシラサマをアソばせて、ウラナイゴトをやる。その後でオシラサマを持って、参加者をお祓いする。オシラサマを両手に持ったときの振り方は特に習わないが、それぞれのオシラサマに導かれるままにリズムが生まれてくる。

津軽地方のイタコの読み方は節回しがあって、隣のテントにいても南部地方のイタコよりうまく聞こえることもあるという。そのため「南部イタコ」でも、毎年旧暦六月に二十三日から二十四日に行われる、北津軽郡の金木川倉地蔵尊のサイノカワラの大祭にいけば、隣りに座った「津軽イタコ」の節のついた謡いに染まってしまうこともあったという。

 イタコの使う数珠や道具は、師匠からもらうか、亡くなった師匠の形見分けとしてもらうことが多い。A氏の数珠は、師匠や、師匠の姉妹弟子たちが使った複数のものの部品を組み合わせて作ったものである。他にも鐘、賽銭箱、ロウソク台も受けついだという。

 最近は、亡くなった人の言葉を聞きたいと依頼してきた人が、二、三年経てば、自分の人生のことを聞きたい、と趣旨が変化する人も多い。またどこからかA氏の自宅を調べてきて、かなり思い悩んで緊迫した精神状態で、直接電話をかけて相談してくる人も多くなった。

 A氏自身、疲れたときは、山形県の出羽三山、つがる市の高山稲荷、四国の八十八ヶ所巡りをして力を癒すことがある。高山稲荷は師匠と行に入ったことがある(51)。

〔事例一七〕ライフヒストリー(武術)

 弘前市で昭和四十年代に生まれたB氏(男性)は、会社を経営している。亡父に幼い頃から、旧弘前藩の古い柔術(または和術)を教えられた。昭和五十年代までの弘前市内には、旧藩時代の武術師範の伝承につながる人々が何名かおり、ひっそりと個人で教えていた。戦前から昭和三十年代には、弘前市、五所川原市、八戸市で、旧藩時代の武術流派を県内外から集めてきて披露する大会が、数回開催されている。

B氏の父は、初めは近代の柔道をやっていたが、あるときに市内に住む、古い柔術の宗家C氏の勧めで師事するようになった。この流派は、近世に、複数の武術を修めた弘前藩士によって創始された武芸十八般を含む武術であるという。流儀の伝承には、「あまりに有効な技術だったので、藩外に教えることを禁じた」「(弘前藩祖)津軽為信が、武芸十八般を完全に習得したものには、高待遇を約束し、藩士の尚武を奨励するなかで編まれた」「幕府は、弘前藩を廃することがあったら、この流儀は接収するようにと狙われていた」などという口承があったという。

武勇伝もある。C氏は、弘前公園で言いがかりを付けてきた数名の博徒と、たった一人で立ち回りをして追い払ってしまったこともある。また、B氏の父親は身長160センチ未満の小柄な方だったが、若い頃、町内でチンピラが町で暴れていると、周囲が「Bの兄弟を呼んでこい」と騒ぎ立てるほど強かったという。五十歳代になっても身が軽く、いたずらをした息子を叱って追いかけるとき、あまり腕を振らないように、どんどん加速しながら追いかけてくるのが、とても怖かった記憶があるという。

 C氏とB氏の父親は、昭和四十五年の大阪万国博覧会にて、全日本武道連絡協議会が主催したアトラクションに招待され、日本文化を紹介するステージ上で演武したことがある。そのとき演武したのは、投げられた相手が、空中で身を入れ替えて、投げた敵を逆に投げ返す技だったという。かなり高度な技とされた。当時、映画会社が撮影した映像資料があったが、行方不明である。その他にも、東京の中野警察大学の逮捕術指導会の講師として招聘されたこともあった。

 しかし門人以外には、絶対に教えないのが流儀の決まりだった。それは現在も変わらない。そのためB氏は、父親から家庭内の生活を通じて習った。教え方は、日常は基本のみ、現在の武道やスポーツのように、順序立てた教え方ではなかった。父親が在宅中の時には、B氏は決して油断できず、常に四方に意識をおく必要があった。例えば朝、学校に行く前の慌ただしいなか、一瞬の油断があると、急に技を仕掛けてきて、「こうされたら、どうする。どう返すか。」というような教え方であったという。

 ほかにも様々な教えがあった。大柄な人を相手にするのは不利となるので、真っ向から組まず、さばいたり、かわしたりすること。正座するときは、両足の親指だけ地面に突き立てておくと、自分だけ足が痺れずに、突然の攻撃に備えることができること。よって豪腕を倒すには、正座させて、足が痺れるのを待ってから、槍でつくこと。突然、手裏剣を打たれたとき、素手一発で畳を起して身を守ることもした。これらの技について、B氏の父親は実演もしていたという。

 現在も、近世から近代にかけて発行された、流儀の免許皆伝書や絵伝書類が、B家、弘前市立図書館、個々人の家にも所蔵されており、東京の神田書店街でも売られたりしている。しかし、B氏によれば、それらを読んでも、カタチだけはまねできても、重要な技術のコツや詳細は、理解することはできず、師匠からの口伝が必要だという。例えば伝書のなかには、動物や人物を描いたものがある。部外者が見ると全く意味不明だが、関係者が見ると、貴重な極意のシンボルとして理解できるものだという。

 B氏の父は、何名もいた同門中の弟子のなかでも上位で、晩年の宗家C氏夫妻から、次期宗家を継いでくれるよう、依頼されていた。宗家の継承には、順番や強さが絶対的な条件ではなく、人間性も重要視されていたという。そしてB氏の父は、予告もなく、稽古中に宗家C氏に「ちょっと来なさい」と呼ばれ、免許皆伝を受けたという。そのためか、B氏が幼少のころには、C氏が自宅へたびたび来ていた。

現在でも、当流派は関係者以外への指導を禁じている。二、三十年前、C氏の家へ、教えを乞いにいった空手の師範によると、そのときC氏は、すぐさま室内の戸障子をすべて閉めて、手裏剣を持ち出してきて「生きて帰さないぞ」と凄まれたという(52)。

このような秘匿性は、同市内に伝承のある他の剣術流派でも同様だといい、昭和初期までは、師匠からの最後の伝授を「印可(いんか)」といい、その技は、家族にも見せてはいけないといわれたという。実際には、師匠と弟子が二人きり、戸障子を閉めた密室で、盃を交わしてから、伝授を行ったものだという(53)。

 いずれもライフヒストリーも青森県内の事例である。近世以来の伝承をもつ、特定の職能技術と、それに含まれる所作が含まれている。なかには、〔事例一六〕や〔事例一七〕のように、個人から個人へと手渡され、身体鍛錬と口伝、伝書の文字や図像などを複合した、秘匿性の高い技術伝承もある。そのためか〔事例一六〕のように、経文を文字化しただけでは、こぼれ落ちる伝承があるとするのは興味深い。

これらの事例は、近代における軍隊や学校などの組織的影響以外にも、個々人レベルでは、伝統的な諸職が、近代の学校教育のカリキュラムとは異なる伝達方法を取りながら、近世以来の身体伝承の記憶装置として機能してきた例であるといえよう。

ただしそれは、伝統的な技能が、古来からの形態を定型化し、変化を拒否した記憶装置で有り続けたとはいえないようだ。

〔事例一六〕のように、「祭礼の場で、他地方のイタコの節回しを導入する」といった、同業者内での技術交流だけでなく、〔事例一五〕の見番が、「士族の家の躾けも習得した」という例は、異なる層においても交流が存在していたことを類推させよう。以前、論者は、近世から近代初頭にかけて武術・武道が、武家のみならず、江戸町民や地方の集落、下北地方の「山師」や畑集落のマタギなど、様々な階層にも受容され、護身、防犯、芸能、儀礼、近代の青年教育等として定着していた事例を紹介したことがある(54)。高橋敏も、群馬県北橘村・富士見村の事例を挙げ、近世村落の農民剣術の技術伝承が、幕末の社会変動のなかで、地方統治の円滑化に貢献したことを論じた(55)。これらと併せて、武家の礼法や所作などの身体が、他の職層へも流用されていた状況について、注目する必要性があろう。

そして〔事例一六〕の「依頼者の要求が、死者の意志の確認から、生者の人生相談へ」ということは、社会的要求の変化へ対応するために、新しい情報をも取り込みながら、技術を変化させてきた状況が確認できよう。そのような技術変化は、〔事例一六〕によれば、師匠の代にはあったことだという。

 このような各分野の伝統技術が、特に近代以降、大きく変容してきたことについては、多くの研究者の指摘がある。例えば高取政男は、労働のリズムやその場の雰囲気、歌う人の気持ちのまま、めいめいが自分の好きなように歌っていた「うた」が、近代以降、セミプロが登場して「正調○○節」と銘打った歌い方が登場し、伴奏楽器に引きずられて、野外の「うた」から座敷唄に変質して「民謡」となり、各地の民謡コンクールが拍車をかけて流行したことを、早くから指摘していた。(56

 小島美子によれば、経験的に習得してきた民俗芸能や伝統音楽に、現在、近代学校教育によって、オペラ劇場でオーケストラに対応するためのベルカントの発声法が導入され、民謡や神楽の歌、念仏に、洋楽的な発声が混じり、混乱している状況があるという(57)。このような事例は枚挙に暇がない。

 その一方で、昭和初期の歌舞伎界では、少しでも所作が違えば「南蠻になつて了ふ、南蠻とは西洋風といふことで、日本風ではないといふ意味を含めた藝界通語である」と述べていることに注目したい(58)。この言葉は、当時、一定の所作をめぐって、自らの伝承と、異文化による影響を、明確に区別して意識する眼があったことを類推させよう。

 

6.まとめ

 以上、身体のしぐさや所作に関わる伝承について、主に人々の「歩み」「走り」に関するデータを提示し、考察した。

 各資料を類型化して分析するまでには至らない。しかし、かつての民衆の歩みや走りの中には、現在一般的な歩行であろう「行進式」や、近代の陸上競技とは少々異なる姿勢が存在したことが推測できた。そしてその所作は、近代の軍事訓練や学校教育等の影響で、個別の存在から、集団の存在へと、組織的に変容してきた状況が伺える。

つまり、現在の我々の所作や振る舞いは、地域や諸職での伝承と、近代における制度的影響等によって形成されてきた歴史的存在であり、様々な分野の要素が、モザイク状に織り込まれている、多面的な存在であると考えられよう。そして、多くの現代人にとっては、これらの各要素は、分割して特別に意識される存在ではなく、身体のなかで相互に溶け合い、作用しあいながら機能している状況があるのではなかろうか。

このような複雑な状況は、現代における神事や祭礼、民俗芸能等の、前近代の所作の変化とも関わっていることも予想される。例えば、金子直樹によれば、大正六年(一九一七)の津軽地方の岩木山参詣において、在郷軍人会との連合により、会旗や行進ラッパを使用し、隊列を組んだ軍隊風の徒歩参詣が強制され、後の第二次世界大戦中の参詣スタイルの背景となったという(59)。同様の傾向は、現在の青森県弘前市のねぷたの運行にも伺える。「ねぷたまつりコンテスト審査基準」の「運行」によれば、

〔事例一八〕

運 行   
運行形態(運行責任者・町印(団体印)/前燈籠・前ねぷた・大型ねぷた・太鼓・囃子)が守られていること。囃子に合わせて、かけ声が元気良く大きく揃っていること。引き手、囃子手、その他運行に携わっている者の運行態度がよく、統制のとれた隊列であること。服装や運行形態などに工夫、努力がされてあるものは奨励する
。」(60

 とある。絵画史料などを見れば、ネプタの運行は、18世紀末から明治初期まで、バラバラな集団で練り歩き、ときには、投石や喧嘩にまで発展した祭りであった(61)が、明治以降、喧嘩や交通規制等を理由に、統制が計られ、現代では「統制のとれた隊列」として、集団に一定の規律性が求められる「歩み」となっている。近年、ねぷた組のなかには、審査員の前を運行する際に、整列した体形で進むことを自慢とする、一定の「美意識」が定着しつつあるという(62)。

近代に普及した「隊列を組む」歩みと身体は、伝統的な祭礼の現状スタイルにまで、影響を与えている可能性がある。

以上より、これらの身体に関わる伝承は、社会構成、生業、衣食住、年中行事、信仰、人生儀礼、口承文芸、民俗芸能、民具などの研究分野と共通した性格を持つ資料となりうるのでないか。本論はそれを検証するためのささやかな試論であった。

                                    (了)

〈注〉

(1)常光徹「初めての採訪」(昔話伝説研究会『昔話伝説研究 第20号』1999年)、p9下段L11~p10L10

(2)青森県立郷土館の移動博物館(ホームページhttp://www.pref.aomori.lg.jp/kyodokan/

(3)「歌より囃子。搗くより手返し」とは、青森県五所川原周辺のことわざで、「もちをつくより手返しの方が重要」という意であり、「力無しの縄切らし」も同地方のことわざで、「俵を結っても未熟なうちは縄ばかり切らしている」ことをいう。(佐々木達司『津軽ことわざ辞典』青森県文芸協会出版部 1995年、p40・p128)

(4)笹本正治「民俗と文字-伝承と書承-」(福田アジオ・小松和彦編『講座日本の民俗学1 民俗学の方法』雄山閣、1998年、p72

(5)坂本要「民俗情報における身体表現の映像記録をめぐって」(東京家政学院筑波女子大学『同 大学紀要 第7集』2003年、p130)

(6)香月洋一郎「民俗のとっての近代-ひとつの前提として-」(香月洋一郎・赤田光男編『講座日本の民俗学10 民俗研究の課題』雄山閣、2000年、p21~25、なお、話者の発した擬態語など「叙述的な語り」を豊かに含んだ、技術伝承の語りを採録したものとして、池田哲夫「佐渡のイカ漁-その周辺のことなど-」(神奈川大学日本常民文化研究所編『 同 調査報告 第17集 漁民の活動と習俗Ⅰ』平凡社、1993年)などがあげられよう。

(7)渋沢敬三・神奈川大学日本常民文化研究所編『絵巻物による日本常民生活絵巻』全5巻、平凡社、1988年

(8)中原ゆかり「ラバノーティションによる動作記録」(長崎獅子舞調査会編『豊島区長崎獅子舞調査報告』第1分冊 東京都豊島区教育委員会、1991年)、小野寺節子「民俗芸能のマニュアル作成における成果と課題-青森県の『伝承マニュアル』を例に-」(東京国立文化財研究所芸能部編『芸能の科学 29』2002年)、福島真人編『未発選書第2巻 身体の構築学-社会的学習過程としての身体技法-』ひつじ書房、1995年

(9)常光徹『しぐさの民俗学-呪術的世界と心性-』ミネルバ書房、2006年

10)高木史人「身体に刻みこみ=刻みこまれる昔話・二」(昔話伝説研究会『昔話伝説研究 第14号』、1988年)

11)山田厳子「特集 日本民俗学の研究動向(2000-2002) 口承-〈口承〉研究の展開-」(日本民俗学会『日本民俗学 239号』2004年、p120~122)

12)孝寿聡「動画像による記録方法の研究-伝統技術、民俗芸能、祭礼の記録作業体験から得られた撮影・編集方法-」(朝岡康二編『国立歴史民俗博物館研究報告 第117集』国立歴史民俗博物館、2004年、p90)

13)朝岡康二「デジタル画像の利用の試み-伝承的な仕事と身体活動をめぐって-」(朝岡康二編『国立歴史民俗博物館研究報告 第117集』国立歴史民俗博物館、2004年)

14)拙論「身体技術伝承の近代化-旧弘前藩領における近世流派剣術から近・現代剣道への変容について-」(青森県民俗の会『青森県の民俗 3号』2003年)

15)大島暁雄「『民俗技術』創設の背景と課題」(独立行政法人文化財研究所東京文化財研究所編『同研究所 第一回無形民俗文化財研究協議会報告書 -民俗技術の保護をめぐって-』2007年、p7~8

16)河西英通「津軽の地方主義と国民国家日本」(北原かな子・郭南燕編『津軽の歴史と文化を知る-The Formation of Tsugaru Identity-』岩田書院2004年p46。絵では、青森の街頭で、若い男女が並び立って小便をしており、その振る舞いに赤面したという記録(『青森函館画談』)を紹介している

17)野村雅一「技術としての身体-二〇世紀の研究史から-」(野村雅一・市川雅編『叢書 身体と文化 第一巻 技術としての身体』大修館、1999年)

18)神奈川大学の21世紀COEプログラム「人類文化研究のための非文字資料の体系化」(ホームページhttp://www.himoji.jp/

19)渡辺京二『逝きし世の面影 日本近代素描Ⅰ』葦書房、一九九八年、p7~52

20)土屋喬雄・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記(三)』岩波書店、1953年、p182L7~p183L11

21)土屋喬雄・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記(四)』岩波書店、1955年、p14L12~15

22)ジェラルド=グローマー「外国人の見た幕末の芝居-横浜と長崎を中心に-」(日本歴史学会『日本歴史 6月号』吉川弘文館、 1995年、p79~80)

23)小泉八雲「盆踊り」(小泉八雲著・平川祐弘編『神々の国の首都』講談社、1990年、p90L4~L8)

24)前傾(23)p107L3~L13、なお前掲(19)p286~8も日本の女性の歩き方について類例を紹介している。

25)青森県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡で発掘された、弥生時代中・後期の水田跡に残る、弥生人の足跡。これは、20歳戦後の身長155センチ程度と思われる成人男性のものと考えられ、22、3センチのサイズである。特徴としては両足の母指丘部分のみが、異様に土中にめり込んでおり、彼が泥田の中で両足親指部分体重をかけてつま先立つようにしていたことがわかる。(青森県立郷土館蔵 レプリカ)、また同遺跡から出土したほかの足跡も、過半数が五指の痕跡がハッキリと残っているに対し、踵部分の痕跡が薄く、なかにはつま先は固定したが、踵部分のみが滑った足跡も複数確認されている。全体の輪郭が三角形となった足跡が多い。(青森県埋蔵文化財調査センター編『青森県埋蔵文化財調査報告書第88集『垂柳遺跡発掘調査報告書―昭和59年度―』青森県教育委員会、1985年、p445~467、青森県史編さん考古部会編『青森県史 資料編 考古3 弥生~古代』青森県、2005年、p92~93』

26)平沢弥一郎『足の裏は語る』筑摩書房、1991年、p104~118

27平山蘆江『日本の藝談』和敬書店、1949年、p8L2・p13L6~L13

28)柳田國男「明治大正世相史篇」1-8足袋と下駄『柳田國男全集26』筑摩書房1990年 p45L11~p46L1)

29)高取正男「民俗のこころ」(『高取正男著作集Ⅲ 民俗のこころ』法蔵館、1983年)p246~247

30)高山宏訳・タイモン=スクリーチ『丸善ブックス36 大江戸異人往来』丸善株式会社、一九九五年、p61~98

31)青森県立図書館『青森県立図書館郷土双書3 洋夷茗話』1970年p1~2)

32)宝暦7年(1757)飯岡八平より小山田嘉兵衛あて「丸流兵法極意之一巻」八戸市図書館蔵(太田尚充『八戸の歴史双書 八戸藩の武芸』八戸市立図書館市史編纂室、2003年、p154、l9~10)

33)二〇〇二年、下北郡佐井村福浦の福浦歌舞伎上演より、なお、福浦歌舞伎については、青森県環境生活部文化・スポーツ振興課県史編さん室編『青森県史叢書 下北半島北通りの民俗』青森県、2002年、p191~193)を参考のこと

34)昭和九年弘前市春日町生まれの小山秀弘氏(男性)、昭和一六年同市和徳町生まれの久保田はるえ氏(女性)、昭和八編青森市矢田生まれの女性、昭和四十一年黒石市生まれの女性らより、二〇〇四年と二〇〇七年に論者聞き取り。火事で逃げるときもそうだという。

35)内藤官八郎著・青森県立図書館編『青森県立図書館郷土双書18 弘藩明治一統誌第15巻 武備緑 全(内藤官八郎著)』1982年)

36)詳細は拙論(注14

37)土屋喬雄・玉城肇訳『ペルリ提督日本遠征記(二)』岩波書店、1948年、p235L13~14

38)前掲(注20)p231L1~3

39)前掲(注21)p154L11~13

40)「安政三年駒場野調練図」および「安政四年鼠山大隊調練図」(国立歴史民俗博物館編『歴史のなかの鉄炮伝来 種子島から戊辰戦争まで』2006年、p122)

41)今村嘉雄『修訂 十九世紀に於ける日本体育の研究』第一書房、1989年、p599~601・p456~461

42)『帝国在郷軍人会青森支部報 第95号』弘前市立図書館蔵 (青森県史編さん近現代部会編『青森県史 資料編 近現代3 「大国」と「東北」の中の青森県』青森県、2004年、p661~662)

43)前掲(注28)13-5運動と頭数『柳田國男全集26』筑摩書房1990年 p360L1~L10)

44)稲垣正浩『身体論-スポーツ学的アプローチ-』叢文社 2004年、p120~125)

45)柳治男『講談社・選書・メチエ 325 〈学級〉の歴史学 自明化された空間を疑う』講談社、2005年、143~146

46)阿南透「運動会のなかの民俗-釧路市民大運動会の事例から-」(日本民俗学会編『日本民俗学 第249号』2007年、p11~12・p23~25

47)永嶺重敏『〈読書国民〉の誕生 明治30年代の活字メディアと読書文化』日本エディタースクール出版部、2004年、p108~113・p235~240

48)青木隆浩「明治・大正期における軽犯罪の制度的変化と社会管理の強化」(島村恭則・青木隆浩編『国立歴史民俗博物館研究報告 第132集 [協同研究]民俗学における現代文化研究』国立歴史民俗博物館、2006年、p333~345、他にも身体を近代社会に適合するように、国家的な規律訓練が行われたことについて、今村仁司・今村真介『儀礼のオントロギー 人間社会を再生産するもの』講談社、2007年、p249~263、がある。

49)この聞き取りは、八戸市教育委員会『八戸三社大祭文化財調査報告書』(2002年)作成の調査のなかで、2000年に、採集したものである。話者は、主に大正10年代の生まれで、青森県八戸市小中野で活躍された、元「見番」の方々五名である。なお、近世における八戸の鮫や湊の花街で働いた女性達の出自と奉公の実態、祭礼との関係等を明らかにした論考に、相馬英生『八戸湊の飯盛女』(八戸市史編さん室『はちのへ市史研究』第5号、八戸市 2007年)がある。

50)小井川潤次郎氏「いたこの伝承」(八戸郷土研究会『八戸郷土叢書第十七冊』1953年、騰写版)を指すと考えられる。なお同著作は、谷川健一『日本民俗文化資料集成6 巫女の世界』三一書房(1989年)に収められている。

51)2005年、青森県田子町にて、A氏より論者聞き取り。

52)2006年、青森県弘前市駅前にて、B氏(昭和43年生まれ)および昭和三十二年生まれの男性より、論者聞き取り。

53)1990年、青森県弘前市にて、明治37年生まれの男性より、論者聞き取り

54)拙論(注14)p48~49

55)高橋敏「幕藩制下村落における「武」の伝承-農民剣術の虚と実-」(日本思想史懇話会編『季刊 日本思想史 第29号』ぺりかん社、1987年

56)前掲(注29)p244~245

57)小島美子「伝統音楽における声の伝承」(財団法人ポーラ伝統文化振興財団『伝統と文化』№29 2005年8月p6~8)

58)前掲平山 p50L5~

59)金子直樹「近現代における岩木山参詣習俗の変容-徒歩参詣の伝統化-」(日本民俗学会編『日本民俗学 第249号』、2007年、p52~53

60()弘前観光コンベンション協会「弘前ねぷた保存会」発表による「ねぷたまつりコンテスト審査基準」(弘前商工会議所「ねぷたがり屋」ホームページhttp://www.neputagariya.jp/i/syou/16syou/sinsa.htm

61)弘前市商工部観光課編『重要無形民俗文化財 弘前ねぷた-歴史とその制作-』1983年、p35~63

62)2007年、弘前市にて、NPO団体「笑鬼」主宰下田雄二氏(S47年生まれ)らより論者聞き取り。 

(了)

(青森県民俗の会編『青森県の民俗』第七号

(2007年7月31日、青森県民俗の会 発行)所収論文)

 


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