ずいき祭・ずいき神輿
ずいきは漢字では芋茎と書きます。でも、ほんとは芋の茎ではなく、サトイモの葉柄(ようへい)のことです。発音が、嬉しいことばの随喜、めでたいことばの瑞気、と同じなので、縁起が良いとされています。また信仰とつながって「瑞饋」の字も当てられます。「饋」とは「食物を神に供える」との意味を持つ字です。
大宰府の道真公
尋常小学国史上巻 昭和13年版
ずいき祭は京都の北野天満宮のお祭りです。本来のお神輿(みこし)のほかに、ずいきやその他の野菜で飾ったお神輿が加わるので有名なお祭りです。北野天満宮は全国に一万社以上あるといわれる天神社の総本社で、ご祭神は菅原道真(すがわらみちざね)公。一般には天神様と呼ばれています。
菅原道真公は平安時代前期の学者・政治家で、宇多天皇にその才能を見出されて右大臣(うだいじん)にまで出世しました。これを妬んだ当時の左大臣(さだいじん)・藤原時平(ふじわらのときひら)たちの讒言(ざんげん)により九州に移され、延喜3年(903年)大宰府(だざいふ)で亡くなりました。
その後、都は雷雲に覆われる日が続き、道真公を貶めた者たちが雷に打たれて次々に死んだので、藤原氏は恐れをなして道真公の官位を戻し、天暦元年(947年)北野の地に神として祭り、天徳3年(959年)藤原師輔(ふじわらのもろすけ・野菜昔ばなし第九話・ことば豆辞典参照)が社殿を大増築しました。それ以後、道真公は天神として現在地(京都市上京区馬喰町)に鎮座されて現代に至っています。
烈しい雷電を怨霊の祟りと恐れ、道真公を天神として祭りましたが、もともと天神信仰は天候に頼る農耕民族にはつきもので、雷は人や家畜を殺す恐ろしい現象である反面、雨を降らし作物を潤す恵みの象徴として崇められてきました。この信仰が結びついて、道真公イコール天神様となったようです。また道真公がすぐれた学者であったことから、学問の神様としても崇敬されるようになりました。
北野天満宮本殿
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現在の社殿は太閤(たいこう)秀吉の遺言により豊臣秀頼(とよとみひでより)が慶長12年(1607年)に造営寄進したもので、八棟(やつむね)造りの本殿は国宝になっています。
ずいき神輿の始まり
北野天満宮のお祭りは村上天皇の時代(946年〜967年)に始まったそうです。このお祭りに天満宮に所属する神人(じんにん・じにん)と呼ばれる人たちが自ら作った野菜や果物・穀物などに草花を挿してお供えして収穫を感謝したことから、このお祭りを瑞饋祭(ずいきまつり)というようになりました。
このお供えの行事は永く続き、応仁の乱でしばらく途絶えた後、大永7年(1527年)からは一つの台に盛り飾り、また野菜などの材料で人物や動物の形を作って、全体に2本の丸太を添えて担うようにしました。これがずいき神輿の原型でしょう。
鳳 輦
江戸時代に入って世の中が落ち着いた慶長12年(1607年)、神人と周辺農家の協力による葱華輦(そうかれん・野菜こぼれ話・第一話 参照)型の本格的なずいき神輿作りが始まります。瑞饋(ずいき)の名に合わせて、サトイモの葉柄・ずいきを並べて屋根を葺き、各種の供え物や作り物で飾った神輿(みこし)を作り上げ、これを担いで西の京各町を巡行しました。
ずいき神輿の形は元禄15年(1702年)に鳳輦(ほうれん)型に変わり、さらに亨和2年(1802年)に千木(ちぎ)型に変わっています。明治に入ってずいき神輿は一時中絶しましたが、明治23年(1890年)に復活、現在まで続いています。
<ことば豆辞典・その一>
【藤原時平】 醍醐天皇在位中の左大臣。39歳で死去。早死は道真公の怨霊の祟りといわれ、子孫も繁栄しなかった。
【讒言】 人を貶めるために、事実を曲げたり、ありもしないことをその人の目上の人に告げること。
【神人】 古代末から中世にかけて、神社に所属して神事や雑務に奉仕した下級の神職や職員。
【鳳輦】 儀式などで行幸される時の天皇の乗り物。八方の上に金銅の鳳凰(ほうおう)を付けた輿(こし)。
【千木】社殿の棟の上に斜めに交差して取り付けた木。
ずいき神輿を造る (この項は、ずいき神輿保存会会長・吉積増太郎氏からお聞きしました)
ずいき神輿の材料
ずいき神輿はなまの材料が多いので、毎年新しく造られます。その材料は表のとおり、野菜・果物・稲麦・草花・海藻・乾物類など30種ほどです。材料の野菜や草花は4月ごろタネをまき、8月から9月にかけて収穫します。9月始めに道具調べ、それから神輿製作に入ります。
ずいき神輿の製作材料と用途
材 料 用 途 材 料 用 途 材 料 用 途 赤ずいき 屋根葺き ゴマ(白・黒) 隅瓔珞 松かさ 欄間・桂馬・
腰板などの
人物・動物・
風景作り
白ずいき 松の枝葉 平瓔珞 トウモロコシの毛 稲の穂 神紋の房 竹 干瓢(かんぴょう) 稲穂の軸 縄 栗の果実 勾欄 七味とうがらし 千日紅の赤花 真紅 柿の果実 湯葉 千日紅の白花 真紅の字 茗荷(ミョウガ) 平瓔珞 麩 赤茄子(ヒラナス) 隅瓔珞 金柑(キンカン) 隅瓔珞 海苔(のり) 唐辛子 灯芯(とうしん) 枡型 青海苔(あおのり) 大麦のわら 唐破風・柱・鳥居ほか ずいきの皮 人物の顔・手足 昆布(こんぶ) 柚子(ユズ)の実 神紋 稲わら 松かさなどと同じ 紺紙・色紙
北野天満宮のずいき神輿 前面・後面 北野天満宮のずいき神輿 側面
ずいき神輿の組立て
(1)木枠本体の屋根にずいき(サトイモの葉柄)を2段に並べて葺く。下段は白ずいき(淡緑色)、上段は赤ずいき(赤褐色)。ずいきを竹串でつなぎ、竹ぶちで押さえる。上段の上から鉄板で押さえて固定する。
(2)神輿の棟をがんぼりで押さえる。
北野天満宮の神紋
梅鉢紋
センニチコウ
(3)千木を前後に取り付ける。枡型をはめ込む。
(4)四方に鳥居・勾欄(こうらん)をはめ込む。
(5)前後の唐破風(からはふ)の屋根裏側に蛇腹をはめ込む。
(6)前後に真紅(しんく)を4本取付ける。千日紅(センニチコウ)の赤花12,000個を糸に通して巻きつけ、白花で天満宮と字を入れる。これに鈴を付ける。
ずいき神輿の飾り付け
(1)真紅1本に鈴を3個付け、それぞれに縄で編んだ神紋(しんもん)を付ける。
(2)欄間・桂馬・腰板に人物・動物・風景の細工を施す。
(3)平瓔珞(ひらようらく)は麦わら細工で、隅瓔珞(すみようらく)は赤茄子・唐辛子(とうがらし)を細工して作る。
(4)四本柱の獅子(しし)は根の付いたサトイモの親芋を彫刻して作る。
材料の栽培・収集から組立て・飾り付け・完成に至るまでの手順をご覧になると、ずいき神輿の製作には長年の経験と技術が必要で、大変な手間がかかっているのが分かります。
<ことば豆辞典・その二>
【がんぼり】 ずいきの屋根の棟に、ずいきを押さえて取り付けるもの。
【勾欄】 端のそり曲がった欄干。神社・お寺・御殿・橋などに見られる。
【破風】 日本建築の切妻(きりづま)に付ける合掌形の装飾板。唐破風はそり曲がった曲線状のもの。
【真紅】 濃い紅色。ずいき神輿では、芯棒に12,000個の千日紅の花を糸に通して巻きつけ、鈴を付けたもの。
【千日紅】 ヒユ科の一年草。インド原産の草花。千日草ともいい、夏から秋まで球状の花が咲き続ける。
【神紋】 神社の紋章。北野天満宮の紋章は梅鉢紋。
【桂馬】 人物・動物などの細工を取り付けるハート型の飾り物。
【瓔珞】 珠玉や貴金属を糸に通して作った装身具。また、建築物の破風や壁面に付ける垂れ飾り。
北野天満宮の東側から参道入口鳥居の前を南へ、九条通まで京都市内を貫通する道路を御前通(おんまえどおり)と呼びます。まさしく天神様の御前ということから名づけられたものと思います。チューさんは昭和35年から数年間、この御前通の北野天満宮の南約500メートルの所に住んだことがあります。ここはお祭りの巡行路。10月には家の前を通るずいき神輿を拝みました。
北野天満宮ずいき神輿 御旅所を出発
平安京の昔、この道は大内裏(だいだいり)の西側の大通り・西大宮大路(にしおおみやおおじ)でした。皇居が次第に東へ移るとともに平安京の西半分は寂れて元の田畑に戻り、明治時代には御前通が京都市街地の西端でした。
棚倉孫神社のずいき神輿
そのころ、北野天満宮の周辺には農家も多く、天満宮の氏子(うじこ)としての誇りをもってずいき神輿を受け継いできました。今はすっかり都市化して農家もごくわずかになりましたが、非農家の人にも参加してもらってずいき神輿保存会を結成し、この伝統を守り続けています。
ずいき神輿は北野天満宮のものがもっとも有名ですが、ほかの神社にもあります。京都府京田辺市の棚倉孫神社や滋賀県野洲(やす)市三上(みかみ)の御上(みかみ)神社などでも、ずいき神輿が作られています。やはり土地の農家の人々の神に対する収穫感謝の心が、ずいき神輿製作に込められているようですね。
<ことば豆辞典・その三>
【大内裏】 皇居である内裏を中心にして、周囲に儀式・政務を行う建物や諸官庁を配置した広大な一郭。都の北端中央にあった。
赤ずいき
サトイモはサトイモ科の代表植物で、原産地は東南アジアともインドともいわれます。日本へはイネよりも早く縄文時代に渡来して、大昔から穀物に告ぐ重要な食物とされ、栽培は北海道を除く全国に広がりました。
今でも各地にさまざまな土着品種があり、これらは親芋用品種と小芋用品種に大別されます。親芋用品種は葉柄の色が赤褐色のいわゆる赤ずいきが多く、小芋用品種は葉柄の色が淡緑色のいわゆる白ずいきが多いようです。サトイモの葉柄には蓚酸石灰(しゅうさんせっかい)が含まれているのでえぐ味が強く、この成分の少ない一部の品種だけ、ずいきが食べられます。
サトイモに近い別の種類にハスイモがあります。芋は小さく硬いので食べられませんが、ずいきにはえぐ味がなく、食用になるほか他の用途にも使われます。
滝宮天満宮
野菜の種類の少なかった古代、サトイモはウリ・大カブ・自然薯(ジネンジョ)などとともに美味しい高価な野菜として扱われていたようです。兼好(けんこう)法師の著した徒然草(つれづれぐさ)にはやたらにサトイモの親芋を食べて、その代価にお寺の土地を売ってしまう坊さんの話が載っています。でも古典文学では自然薯のかげに隠れて登場することはごく少なく、和歌は萬葉集に1首あるだけです。
ずいきについては、紀貫之(きのつらゆき)の書いた土佐日記にいもし(芋茎)の名で出てきますが、土佐国(とさのくに・今の高知県)にはいもしがないと嘆いています。当時、都では、ずいきを乾燥野菜にして冬にも食べていたのですね。現在チューさんの住んでいる同じ四国の香川県でも、ずいきを食べる習慣はなく、店頭で見かけることはありません。
けれども、天神様は香川県に縁の深いお方です。菅原道真公は41歳から4年間、讃岐国(さぬきのくに・今の香川県)の国守(野菜昔ばなし第十二話・ことば豆辞典参照)として着任され、旱魃に苦しむ農民のために天に祈って雨を降らすなど、国中に善政を布かれました。
現在でも、昔の国府(野菜昔ばなし第十二話・ことば豆辞典参照)跡に近い道真公の邸のあった場所に建つ香川県綾南町(りょうなんちょう)の滝宮(たきのみや)天満宮では、雨乞いの踊りなどの神事が今に伝わっています。
さて、最後に残るあなたの疑問 ? 平安時代に「いもし」と呼ばれていたサトイモの葉柄をなぜ「ずいき」というようになったのか ? それは夢窓疎石(むそうそせき)の詠んだ右の歌に由来するとされています。
サトイモの葉はその表面構造から水が浸み込んだり広がったりせず、上に溜まった雨露は水玉となって葉のふちからはらはらと滴り落ちます。これを神仏の恵みを喜ぶ感激の涙と見ているのです。
日ごろ眼に見、耳に聞く、この世の森羅万象。これらを科学的に解明することはもちろん必要ですが、その奥にある不可思議な存在を感じとって、この世に生かされている有難さに随喜の涙を流す、そんな心を持ちたいものですね。
<ことば豆辞典・その四>
【徒然草】 鎌倉時代末期の隠者・兼好法師・俗名卜部兼好(うらべかねよし)の書いた随筆。
【紀貫之】 平安時代前期の歌人。古今和歌集の編者。晩年土佐国の国守となり、都への帰任の道中記録を日記風に書いた。
【夢窓疎石】 南北朝時代の禅僧。後醍醐(ごだいご)天皇によって都に招かれ国師号を賜った。南北朝に分かれてからは足利尊氏・直義兄弟の崇敬を受け、国政にも関わった。京都嵯峨(さが)の天龍寺・西芳寺(苔寺)を創建。作庭にもすぐれ、各地の禅寺の庭を作った。
このページの作成に当たっては、北野天満宮からご本殿の写真をお贈りいただき、北野天満宮ずいき神輿保存会会長で旧京都市立第一商業学校同級の吉積増太郎君からはずいき神輿の写真や詳しい資料をいただきました。また、京田辺市観光協会から棚倉孫神社のずいき神輿の画像を、香川県綾南町(りょうなんちょう)の中谷周筰氏からは滝宮天満宮の画像を、転載させていただきました。各位のご厚意にあつく御礼申し上げます。
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