<血塗られた蛮神> 偉大なるオリュンポス十二神の一角に数えられる神でありながら、ギリシア人からひどく忌み嫌われた厄介者――そんな変わり種がこの軍神アレスです。 神々の王ゼウスの息子で、母は女王ヘラという、いわば嫡男ともいうべき生まれであり、しかも美しく逞しい外見をした若神でありながら、その中身は粗暴で残忍、いたずらに争いを好む無思慮な荒くれ者であり、まあ一言で言えば馬鹿息子。賢い子供を好むゼウスからは「わしの子でなければとっくにタルタロス送りにしておるものを」と言われるほどに疎まれ、また母ヘラからも「レトの生んだ双子と比べたら何て不出来な息子」と苦虫を噛み潰されているという哀れな有様です。 彼と同じく戦争を司る神としてアテナ女神がいますが、彼はこの優秀な異母姉に対しても頭が上がらず、口でも腕でも常に負かされっぱなしという体たらく。一般にはアテナが「英雄たちが華々しい武勲を立てる場」という戦争の光の側面を司り、アレスは「血腥い殺し合いの場」という暗黒面を象徴すると言われますが、それを聞くだけでもいかにも彼の方が劣っているという印象を受けます。 これほどにアレスが低い扱いを受けるのは、彼がギリシアから見れば蛮地であるトラキア出身の神だったからでしょう。「腕っぷしは強いが頭はからっきしの血臭漂う暴れ者」という彼のイメージは、ずばりギリシア人が軽蔑した蛮族のイメージそのものです。文化の香気を愛するギリシア人の嗜好に合わなかったために、トラキアの男神は知的で美しいアテナイの女神にこれほどの差を付けられてしまったのです。 しかしギリシア人以外の、戦の業を何よりも愛する民族からは、アレスは大変尊崇されました。勇猛な女戦士の一族アマゾネスは彼を父神として崇めましたし、戦好きなローマ人もまたマルス(アレスのラテン名)を祖神となし、彼を称えて1年の始まりとなる第一月の名をマルティウス(Martius)と呼びました。これが今の3月に当たる March の語源です。 <赤っ恥リスト> 神にも人にも嫌われ者だったアレスには、軍神であるにもかかわらず武勇伝はほとんどなく、代わりにおよそ神とも思えないような失敗談が数多くあります。それらのうちから代表的なものを選んで簡単にご紹介いたしましょう。いずれも個性豊かというか、彼ならではの逸話となっております。■殺人事件の被告として法廷に立たされました事件→アレスの娘であるアテナイ王女アルキッペをポセイドンの息子ハリロティオスが犯したことに激怒し、アクロポリス付近の丘でハリロティオスをブン殴って殺害。被害者の父神ポセイドンに殺人罪で訴えられ、神々の裁判にかけられる羽目になった。これにちなんで犯行現場でもあり裁判の場ともなった丘は「アレイオス・パゴス(アレスの丘)」と呼ばれるようになり、以後多くの重大事件の裁判がここで行われるようになる。ちなみにアレスは何とか無罪を勝ち取った。■兄弟ヘパイストスを迎えに行って撃退されました事件→生まれつきの醜さゆえに母のヘラから捨てられたヘパイストスが、その仕打ちを恨んで母に罠を仕込んだ玉座を贈った。ヘラがまんまと罠にかかり、玉座に縛りつけられて身動きできなくなったのを見たアレスは、「よーし、俺が奴めを引きずってきてこの罠を解かせてやる!」と勢い込んで出かけたが、ヘパイストスに猛烈な火炎で迎撃されて這々の体で逃げ帰る羽目に。それでも軍神か。■不倫現場で恥ずかしいカッコをスッパ抜かれました事件→兄弟ヘパイストスの妻であるアプロディテとこともあろうに不倫。ヘパイストスにバレているとも知らず、彼の留守中に館に上がり込み、白昼堂々素っ裸で臥所に倒れ込んだところを鍛冶神の仕掛けた罠にかかった。世にも恥ずかしい姿のまま魔法の網でがんじがらめにされている現場に踏み込まれた挙げ句、他の男神たちまで呼ばれて見せ物にされ、皆に大笑いされた。あまりの醜態に哀れを覚えたポセイドンが取りなしてくれたおかげで解放はされたが、ヘパイストスに多額の慰謝料を支払う羽目に。まさに天下の恥さらし。■青銅の壺に閉じ込められて危うく死にかけました事件→ポセイドンの息子でありながらオリュンポスに敵意を抱く2人の巨人オトスとエピアルテスに捕まり、青銅の壺の中に何と13ヶ月間も閉じ込められていた。2人の継母からの密告を受けたヘルメスが慌てて救出したときには、衰弱しきってほとんど死にかけていたという。それにしても巨人とはいえまだ少年だった2人にあっけなく囚われるとは、それでも軍神か。そして13ヶ月間も行方不明だったのに、オリュンポスの面々は彼を捜そうともしなかったのか……?■神なのに人間の槍で刺されて天に逃げ帰りました事件→トロイア戦争にて。トロイア軍の味方をして戦場で暴れ狂っていたところ、アテナの加護を受けたギリシア軍の英雄ディオメデスの槍で下腹を突き刺された。アレスは1万の軍勢が上げる鬨の声にもまさろうかという凄まじい悲鳴を上げ、一目散にオリュンポスに逃げ帰って父神ゼウスに傷を見せ、アテナがこんなひどい真似をしたと半泣きで訴えるという醜態をさらす。しかもゼウスからは泣き言を言うなと叱られるおまけつき。ああもう、それでも軍(以下略)。■アテナにのされて気絶しちゃいました事件→これもトロイア戦争にて。かのディオメデス事件の恨みを晴らそうとアレスはアテナに一騎打ちを挑み、その胸目がけて槍を突き出したが、無敵の胸甲アイギスに阻まれた挙げ句、アテナが投げつけた巨岩を頭に食らって気絶。彼を助けようとした愛人アプロディテがアテナにブン殴られて悲鳴を上げているというのにまだ正気が戻らず、目を回したまま大の字になって地面に伸びていた。もう何と言うか……本当にそれでもぐ(略)。 <アレスの眷属と親しい神々> 一応アレスにも、少ないながらも仲間はいます。戦場に出るときはいつも相棒の戦女神エニュオを伴い、アプロディテに生ませた息子である恐怖の神霊デイモスとポボスの両名を引き連れて、4頭立ての戦車に乗って出かけます。この車を牽く馬たちは北風の神ボレアスが復讐の女神エリニュスの1人に生ませた神馬で、名をアイトン(獰猛)・プロギオス(火炎)・コナボス(轟音)・ポボス(恐怖)と言います。 仕事仲間以外で親しい相手は3人きりです。まず1人目は、言うまでもなく愛人のアプロディテ。アレスの美しく野性的な外見が彼女の好みにかなったようです。夫のヘパイストスに露見した後も2人の関係は切れないどころか、むしろ開き直って公然と付き合うようになりました。彼らの間には先に挙げた男神デイモスとポボスの他にも、美しい調和の女神ハルモニアが生まれています。 2人目は姉妹である争いの女神エリスです。彼女はアレスと同じ性格の持ち主で、よく彼に同行して戦場に赴き、兵士たちの間に激しい敵意をかき立てては殺し合わせて喜んでいます。 そして3人目は伯父に当たる冥王ハデスです。どういう繋がりかといえば、アレスが戦場で奮起して兵士たちを死に追いやるほど、ハデスの国の住民が増えて豊かになっていくという片利共生関係。別に本人同士の交流があるわけではないので、親しいというよりはむしろお世話になっているお得意様という感じかもしれませんね。 Back to Home
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