日本坂トンネルの事故


日本にあるトンネルの中で、「日本坂トンネル」ほど有名なトンネルはほかに見当たらない。 何がこのトンネルを有名にしたかと言うと、それは1979年に起こった史上最悪のトンネル火災事故である。 当時、最新の消火設備を備えていた日本坂トンネルで170台の車が火災に巻き込まれ、死者7人を出したこの事故で、 科学設備の脆さを見せ付けられたのである。また、大動脈である東名高速道路の不通による影響の大きさも見せ付けられた。
日本坂トンネルは、東京と名古屋(小牧)を結ぶ東名高速道路の静岡ICと焼津ICの間にある、長さ2045メートルのトンネルで、 東名高速道路の中では最長である。事故は1979年7月11日の夜、このトンネルの下り線(つまり、名古屋方面)で起こった。

<注>この文章は某新聞の過去記事を参考にしたものであり、一面からの見解に過ぎません。 この事故に関して詳しく知りたい方は幅広く情報を収集なさるとともに、例えば
判例時報1462号
判例タイムス825号
道路行政セミナー93年8月号
訟務月報40巻6号
などもご覧になって下さい。いずれも東京高等裁判所平成5年6月24日判決の掲載文です。


事故のあらまし

  1. 事故当時の様子
  2. まず、追い越し車線を走っていた大型トラックAが、トンネル内で前方の渋滞を見つけ、急ブレーキで停車。 追突はしなかった。そこへ鋼材10トンを満載した大型トラックBが追突。 押し出されたAは左へハンドルを切って直前のライトバンの後ろに接触。少し走行車線にはみ出して停車。 そのあと、乗用車CがBに激突して荷台の下へもぐり込んだ。 その後続の乗用車Dが追突を避ける形で左へ急ハンドルを切り、Bに軽く接触した後、並行するようにして停車。 合成樹脂10トンを満載したトラックEが乗用車CをBの下にさらに深く押し込み、Dの後部に乗り上げながら追突。 さらに、マツヤニ200リットル缶50本を満載したトラックFがEに追突した。

    結局、事故の第一原因となった車はBであり、前方不注意と処理されている。

    火が出たのは、目撃者の証言から、乗用車Dであるとわかっている。 このあと、火が次々と後続の車に燃え移り、結局170台もの車が火災に巻き込まれてしまったわけである。

    前述の通り、日本坂トンネルは最新の科学消火設備をそなえたものであった。ところが‥‥。 スプリンクラーは初期に作動したのであるが、あまりの猛火のため火は消えず、そのうち水が切れて作動しなくなった。 結局、そのあとポンプ車や付近の川に頼らざるを得ず、消火に難航した。トンネルが長いため、ポンプ車のホースが届かず、 何台かを中継せざるを得ないからである。そうすると、水圧が低くなり、消火が手間取ってしまう。

    排煙装置は作動したが、あまりの煙の多さに、ほとんど効果がなかった。これこそ焼け石に水という言葉が当てはまる。

    他の消火設備は火災によって電気コードが焼けてしまい、機能しなかった。こうして、 最新であるはずの防災設備は脆くも崩れてしまい、事故に巻き込まれた人々は逃げるしか方法がなかったのである。

    トンネル内は一時300度にも達したといわれ、トンネル内部のコンクリートの熱は高熱でぼろぼろに崩れ落ち、 鉄の支柱も折れ曲がり、トンネル入口からは熱風と煙が勢い良く吹きだしていた。 一時は遠目にもトンネル入口が光っていたのがわかり、消火作業もあまりに危険なため途中でストップするなど、 手が付けられない状態であった。結局、火災発生から丸一昼夜たった12日夜、車がすべて燃え尽きるという形でようやく火災が大方おさまった。

    下り線で起こったこの火災、実は上り線にも影響が出ており、上り線もしばらく不通となる。

  3. 事故の影響
  4. さて、大動脈が上下線とも不通になってしまったおかげでいろいろな影響がでた。 上り線は愛知県豊川IC〜静岡IC、下り線は沼津IC〜焼津ICが閉鎖され、 代替となった国道1号(東海道)は静岡市内を中心に渋滞がひどく、 生鮮食料品などを積んだトラックが8時間おくれで東京に到着したりしたため、朝のせりに間に合わないという事態も発生した。
    このような事態をあらかじめ予測した業者は出荷を控えるなどの処置をとったため、せりでは品薄になるということになり、 最終的には物価が上がるのではないかということも心配された。 実際はそこまで影響することはなかったが、渋滞による経済損失はかなり大きかったといえる。

    東名高速の1日の交通量は当時、約5万6千台であった。このうち乗用車は4割未満、貨車類が6割以上。 国道1号が乗用車2千9百台、貨車類が3千4百台であることを考えると、東名高速道路がいかに重要であるかがわかる。

    迂回する道路は国道1号だけではない。名古屋より西へ向かうのであれば、中央自動車道も使える。

    しかし、当時中央自動車道は全通しておらず、未開通区間である塩尻や勝沼付近では、 国道20号(甲州街道)で50キロ以上の大渋滞が起こった。他の場所でものろのろ運転が続き、ガソリンの消費量が鰻のぼりとなり、 省エネルギーが叫ばれていたこの時期、東名高速道路の不通はあまりにもいたかった。

  5. 復旧作業
  6. トンネルの復旧作業が本格的に行なわれ始めたのは事故から3日めの13日夜からである。

    まずは燃え尽きた車両の撤去から始まった。内部の熱気は絶えまない放水によって、「ようやく」冷え始めたものの、 依然60度以上の高温、数千トンに及ぶ瓦礫の山と、酸欠のおそれもあって、なかなかはかどらなかった。 作業員の疲労も重なるばかりであった。

    下り線はトンネル内部の損傷が激しく、開通は当分無理と判断し、比較的軽傷であった上り線での対面通行を行なうことになった。 トンネル内を含む対面交通部分は時速40キロに制限することで、事故から一週間後の18日夜に上り線だけが復旧した。 もちろん、今まで2車線だった部分が突然1車線になるわけだから、渋滞が目立ち、制限速度を破りたくても破れない状況であった。

    結局、下り線が復旧したのは事故から2カ月もたった9月9日のことであった。

    この間、かの有名なプロ野球中止の事件もおきている。この大動脈の不通によりプロ野球のユニフォームが届かなかったため、 後楽園球場の野球が中止になったのである。そのほかに、不通になっている間、国鉄貨物の売上が大幅にアップしたらしい。


事故の検証

  1. 事故から2日後の見解
  2. その後の議論

補足&現在の日本坂トンネル

今回の事故は今まで経験したことのない大規模の事故であったため、誤算も大きかったといえる。 それだけにこの事故から学んだ教訓も数多くあったかとおもう。
しかし、このような悲惨な事故は今後あってはならないという願いも虚しく、 1988年に中国自動車道吉和IC付近の境トンネルで犠牲者5人を出す火災事故が起こってしまうのである。

ただ、このような事故を起こさないように努力は行なわれているようだ。
現在、日本坂トンネルは下り車線が新トンネルとなっており、3車線で非常に中がクリアーに見える照明を使用している。 そして、以前上下線で使っていた2本のトンネルを両方上り車線に使用して合計4車線となっている。
日本坂トンネルのすぐ側にあった小坂トンネルはリフレッシュ工事の時に日本坂トンネルと一体になったようだ(そのため日本坂トンネルの延長が伸びたようだ)。 トンネルの入口には 2箇所に信号機が取り付けられるなど、相当安全に気を配っていることがわかる。

また、中国道上り線境トンネル付近にオービス(速度取締り機)が設置されているが、 これもトンネル炎上事故を踏まえ、速度抑制のために設置されたのかも知れない。

このように防災の技術は着実に進歩し、努力も積み重ねられております。 くれぐれも大事故を起こさぬよう、安全に運転したいものです。

<参考>境トンネル炎上事故
1988年7月15日午後9時20分頃に起こったもので、広島県佐伯郡吉和村中国自動車道上り車線の境トンネル(459m) で、 11台が炎上、死者5名を出した事故。クレーン車がトンネル内でスリップして車線をふさいだため後続の車が次々と追突した。


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