<注>この文章は某新聞の過去記事を参考にしたものであり、一面からの見解に過ぎません。
この事故に関して詳しく知りたい方は幅広く情報を収集なさるとともに、例えば
判例時報1462号
判例タイムス825号
道路行政セミナー93年8月号
訟務月報40巻6号
などもご覧になって下さい。いずれも東京高等裁判所平成5年6月24日判決の掲載文です。

結局、事故の第一原因となった車はBであり、前方不注意と処理されている。
火が出たのは、目撃者の証言から、乗用車Dであるとわかっている。 このあと、火が次々と後続の車に燃え移り、結局170台もの車が火災に巻き込まれてしまったわけである。
前述の通り、日本坂トンネルは最新の科学消火設備をそなえたものであった。ところが‥‥。 スプリンクラーは初期に作動したのであるが、あまりの猛火のため火は消えず、そのうち水が切れて作動しなくなった。 結局、そのあとポンプ車や付近の川に頼らざるを得ず、消火に難航した。トンネルが長いため、ポンプ車のホースが届かず、 何台かを中継せざるを得ないからである。そうすると、水圧が低くなり、消火が手間取ってしまう。
排煙装置は作動したが、あまりの煙の多さに、ほとんど効果がなかった。これこそ焼け石に水という言葉が当てはまる。
他の消火設備は火災によって電気コードが焼けてしまい、機能しなかった。こうして、 最新であるはずの防災設備は脆くも崩れてしまい、事故に巻き込まれた人々は逃げるしか方法がなかったのである。
トンネル内は一時300度にも達したといわれ、トンネル内部のコンクリートの熱は高熱でぼろぼろに崩れ落ち、 鉄の支柱も折れ曲がり、トンネル入口からは熱風と煙が勢い良く吹きだしていた。 一時は遠目にもトンネル入口が光っていたのがわかり、消火作業もあまりに危険なため途中でストップするなど、 手が付けられない状態であった。結局、火災発生から丸一昼夜たった12日夜、車がすべて燃え尽きるという形でようやく火災が大方おさまった。
下り線で起こったこの火災、実は上り線にも影響が出ており、上り線もしばらく不通となる。
東名高速の1日の交通量は当時、約5万6千台であった。このうち乗用車は4割未満、貨車類が6割以上。 国道1号が乗用車2千9百台、貨車類が3千4百台であることを考えると、東名高速道路がいかに重要であるかがわかる。
迂回する道路は国道1号だけではない。名古屋より西へ向かうのであれば、中央自動車道も使える。
しかし、当時中央自動車道は全通しておらず、未開通区間である塩尻や勝沼付近では、 国道20号(甲州街道)で50キロ以上の大渋滞が起こった。他の場所でものろのろ運転が続き、ガソリンの消費量が鰻のぼりとなり、 省エネルギーが叫ばれていたこの時期、東名高速道路の不通はあまりにもいたかった。
まずは燃え尽きた車両の撤去から始まった。内部の熱気は絶えまない放水によって、「ようやく」冷え始めたものの、 依然60度以上の高温、数千トンに及ぶ瓦礫の山と、酸欠のおそれもあって、なかなかはかどらなかった。 作業員の疲労も重なるばかりであった。
下り線はトンネル内部の損傷が激しく、開通は当分無理と判断し、比較的軽傷であった上り線での対面通行を行なうことになった。 トンネル内を含む対面交通部分は時速40キロに制限することで、事故から一週間後の18日夜に上り線だけが復旧した。 もちろん、今まで2車線だった部分が突然1車線になるわけだから、渋滞が目立ち、制限速度を破りたくても破れない状況であった。
結局、下り線が復旧したのは事故から2カ月もたった9月9日のことであった。
この間、かの有名なプロ野球中止の事件もおきている。この大動脈の不通によりプロ野球のユニフォームが届かなかったため、 後楽園球場の野球が中止になったのである。そのほかに、不通になっている間、国鉄貨物の売上が大幅にアップしたらしい。
ただ、このような事故を起こさないように努力は行なわれているようだ。
現在、日本坂トンネルは下り車線が新トンネルとなっており、3車線で非常に中がクリアーに見える照明を使用している。
そして、以前上下線で使っていた2本のトンネルを両方上り車線に使用して合計4車線となっている。
日本坂トンネルのすぐ側にあった小坂トンネルはリフレッシュ工事の時に日本坂トンネルと一体になったようだ(そのため日本坂トンネルの延長が伸びたようだ)。
トンネルの入口には 2箇所に信号機が取り付けられるなど、相当安全に気を配っていることがわかる。
また、中国道上り線境トンネル付近にオービス(速度取締り機)が設置されているが、 これもトンネル炎上事故を踏まえ、速度抑制のために設置されたのかも知れない。
このように防災の技術は着実に進歩し、努力も積み重ねられております。 くれぐれも大事故を起こさぬよう、安全に運転したいものです。
<参考>境トンネル炎上事故
1988年7月15日午後9時20分頃に起こったもので、広島県佐伯郡吉和村中国自動車道上り車線の境トンネル(459m) で、
11台が炎上、死者5名を出した事故。クレーン車がトンネル内でスリップして車線をふさいだため後続の車が次々と追突した。