音楽への想い…@
「エレクトーン」
先天性の四肢障害を持つ僕は、子供の頃、部屋から出ることがほとんどなかった。
ずっと公営団地の二階に住んでいたため、父が休みの日以外は外に出ることもできず友達もいなかった。
もちろん、今のようなゲームもない。
見兼ねた両親は僕におもちゃのピアノを用意してくれた。あの「キンコンカン♪」っていう音の出るやつ。
ウチにはもらい物も含めて3台あったのを覚えてる。
両親は動けない僕を囲むようにおもちゃのピアノを並べてくれた。
白鍵しかなく黒鍵は絵だけ描かれたもの、ひらがなで「ど・れ・み…」と書かれたもの、いくつかのキーで音が出なくなったもの等があったが、まだ2〜3才の頃のことだったのでそれ以外は覚えていない。
両親はよく僕がその頃、誰にも教わらず一人で「♪チューリップ」や「♪ぞうさん」を弾いたと言っては人に自慢していた。かなり親バカも入ってるのだろう。ただ、ピアノが好きだったことは間違いなかった。
僕がおもちゃのピアノに夢中になってる姿を見て、両親は僕の4歳の誕生日にエレクトーンをプレゼントしてくれた。
手のリハビリにもなるという思いも両親にはあったらしい。
当時のエレクトーンは、今なら数千円で買える玩具系キーボード程度の音しか出ないシロモノだったが、それでもウン十万円という高価なものだった。今思うと大変な買い物だったはず。両親に感謝…。
4歳の僕に金額的な値打ちはまだ分からなかったが、いろんな音の出る魔法の箱はその頃の僕にとっていちばんの宝物になった。
ある日、同じ公営団地のある家庭にエレクトーンの先生が教えに来ているという話を聞いた母は、さっそくウチにも来てもらうよう頼んでくれた。
僕は週一回、家でレッスンを受けることになり、その日から取りつかれたようにエレクトーンに夢中になった…。
エレクトーンもピアノやオルガンのように椅子に座って弾かなければならない。
しかし自力で全く立てない僕は、自分で椅子に座ることができない。
これも父が休みの日にだけ座らせてもらう。その日は一日中かじりついていた。
レッスンの日には先生が抱えて座らせてくれる。若い女の先生だったが僕も子供だったので軽々と抱えてくれた。
レッスンが終わったあとも来週までの課題を練習したりして、やっぱりそのままかじりつく…。
やがてレッスンは先生が結婚を理由に退職して中止になった。
どれくらい習っただろう…。自分では結構長かったような気がするのだが、両親に聞くと一年もなかったそうだ。
でもこのわずかな期間がその後の僕の人生にメチャンコ大きな影響を与えた。
エレクトーンは上達してくると「級」の認定制度がある。
僕も先生に「そろそろ初級(最初にもらう級)かな…」と言われた時期があったが、結局もらうことなく終わった。
先生が来なくなっても僕はエレクトーンにかじりつき、テレビで流れるいろんな唄を独りで練習した。
MDのような便利な録音機器などまだ無い時代。好きな唄があっても繰り返し聴く方法がなかったので、耳に残った唄のイメージだけを頼りに練習した。
メロディはある程度分かる。でもコード(=和音。エレクトーンでは左手で押さえる伴奏)が分からない。よく歌の本に「Am」とか「G7」などと書いてあるやつだ。
先生とのレッスンでほんのいくつかの初歩的なコードは学んだが、それ以外は全く分からない。それでも耳に残ったイメージだけを頼りに、来る日も来る日も鍵盤を探し続けた。一つの和音を何週間もかけて探したこともあった。
僕は5年生が終わるまで小学校にはほとんど行ってない(このことについては別の章で詳しく…)ので、
時間はたっぷりあった。
最初の頃は正しい和音を見つけてもそれが本当に合っているのかさえ分からない。週一回テレビで流れる唄のイメージとはなにか違う気もする。耳が慣れていないのだ。
夕食の時間になってもずっと音を探し続けて、よく母に叱られた。
叱られながらも夢中になって続けたこの頃の作業が、聴いただけですぐ和音を聞き取るいわゆる「耳コピ」の感覚を養う訓練になっていた。僕の音楽感覚の基礎はこの頃に出来上がった。
僕は小さい頃から唄の好き嫌いが激しかった。好みがはっきりしていたというか…。
音楽そのものは好きだが、流行ってる唄や世間で皆が騒いでる唄にはあまり興味が持てなかった。
子供の頃、「ベストテンもの」が全盛期だったが、一位になった曲でも好きになれない唄がたくさんあった。
むしろ名もないCMソングや子供番組の主題歌などにすごく惹かれることが多かったかな。
今のように、大物アーチストが唄う“番組の内容とはあまり関係のない”歌をテーマソングとしてタイアップさせ、番組と共にヒットを狙うような、より音楽が営業戦略化された時代と違って、僕が子供の頃に見ていたアニメやヒーロー物の主題歌などはイメージがとても豊かだった。
当時の子供番組で使われていた楽曲の純粋な音楽性の高さには今でも驚かされることがある。
一部を除いて好きになれない流行歌に囲まれていた僕は、やがて他人の歌を聴くことよりも自分で歌を作ることに興味を持ち始めた。
小学校の頃だったかな。「名糖牛乳(?)」かなにかのCMソング?を鼻歌で勝手に作ってヨロコんでた記憶があったりする。5秒ほどの短いフレーズだった。
やがて10才を過ぎた頃、ゴダイゴの『銀河鉄道999』をラジオで聴いて
「ぼくもこんな歌を創りたい!!」と本気で思うようになった。
中学に入って仲の良かった友だちが詩を書いてるのを知り、自分に曲を付けさせてくれと頼んだ。
作詞・作曲ユニット(?)の誕生だ。
いくつか詩をもらって曲を付け始めたものの、まず楽譜の書き方が分からない(これは今も苦手だが)。
最初の頃はオタマジャクシひとつひとつをまるで印刷物のようにきれいに塗りつぶして書いた。
めっちゃ時間がかかった。
ある日、学校で音楽の先生が書いたアレンジ譜を見た時のこと。印刷物のようなきれいなオタマジャクシなどどこにもないのだ。五線譜にチョン(/)を付け、後は羽をつけてあるだけで、決して塗りつぶしたりなんかしていない。それでもちゃんと楽譜になってる。
「なるほど、これだったらもっと早く楽譜が書けるわ」…初めて気が付いた。
また作った曲をエレクトーンで弾いてカセットテープに録音し彼に渡そうとしたが、これも上手に弾けない。
何度やってもどこかで間違う。すべて「一発録音」の時代、無理も無かった。
自分で作った曲を形にし、実際に人に伝えるのがどれほど大変なことか分かった。
ここで僕が影響を受けてきた音楽を少しだけ紹介…。
初めて自分で買ったレコードは甲斐バンドの「♪ビューティフルエネルギー」、でも甲斐バンドはそれだけ。
先の『銀河鉄道…』を含めてゴダイゴにはとても影響をうけた。車いすじゃなかったら「追っかけ」してたかも。
ユーミンもよく聴いた。「♪守ってあげたい」はレコードを買った。
好きだった女の子の影響でオフコースを聴いた。チューリップも聴いた。
岡村孝子に槇原敬之、平成に入ってからはスピッツに注目。F.O.VやDEENもいい。
洋楽ではビリージョエル、シカゴ、サイモン&ガーファンクル、アバ、カーペンターズ…etc。ビートルズはあまり聴かなかったなぁ…。
基本的にジャンルにはこだわらない。環境音楽、民族音楽からクラシック、童謡、民謡、軍歌まで良いものは良い。ただしラップとレゲエ、そして演歌だけはチョット苦手かな。でも吉幾三のアルバムを持ってたりする…p(^^)q。
特定のアーチストのアルバムを集めたりなんてことはあまりなかった。さっき書いたとおり唄の好き嫌いが激しかったし。
今はどんな音楽も毛嫌いせず素直に聴くようにしている。子供の頃は好きになれなかった曲でも今聴くとその良さが見えてきたりする。人生経験を重ねるとそうなるんだろうなぁ。
やがて高校に入り、“あること”がきっかけでシンセサイザーを買うことになる。
このことがそれまでの僕の音楽環境を大きく変える起点となり、ここから音楽への想いが一気に加速していくことになった。
そしてこれ以降、あんなにかじりついてたエレクトーンの前に僕が座ることはほとんどなくなった。
エレクトーンは今、物置き部屋で眠っている。
時々は母親のおもちゃとして時代遅れの懐かしい響きを聴かせてくれたりして…。
シンセサイザーと出逢うきっかけとなった“あること”、そしてシンセサイザーが叶えてくれたいくつかの夢のお話についてはこの章の続編で…。