阪神大震災
〜1.17に寄せて〜
まえがき
今日、2005年1月17日、阪神大震災からちょうど十年が経過した。
午後になって外出先から帰ると家族が“震災から十年”関連のテレビ番組を見ていて、タレントの佐藤江梨子が震災についての思いを語っていた。彼女も当時、神戸にいた一人らしい。
僕がこれからこの章で書く内容は震災後からずっと感じていた思いで、ホームページの開設を考え始めた時点でもこのタイトルでいつか書きたいと思っていた。しかしあの日、ヒビ一つ入らずに済んだ自宅で他人事のようにテレビを見ていた僕が、そして震災で何一つ失っていない僕が、軽々しくこんなことを書いていいんだろうかという後ろめたさが常にあって書くことを躊躇(ためら)っていた…。
あの朝、うちの家もかなり揺れた。
まだバリアフリーに建替える前の木造の家で、二階で寝ていた僕のすぐ横には大きな本棚があり、その上に何かの重たい箱がいくつか置いてあった。
もう少し揺れてたらその箱が僕の上に落ちてたかもしれない。揺れ始めた瞬間、母が僕の上に覆いかぶさったのを覚えている。
本震の後、最初の余震(揺れ戻し)までにかなりの間があったので震源が近くないこと、そして、だとしたらとんでもない地震であることを直感で想像した。
着替えをして顔を洗い、テレビをつけてみた。やはりとんでもなかった…。街が燃えてるではないか…。
まだ勤めていた頃だったので、僕は朝食を済ませていつもどおり近くの郵便局へ出勤した。
200人もの人間が勤める職場だ。何人かの職員から交通が遮断されて出勤できない、または遅れる旨の連絡が次々と入ってきた。
職員やその家族の無事or被災状況、そして配達を受け持つ地域の被災情報も入ってくる。
幸い、いずれもテレビが倒れて誰かが軽いケガをしたとかいう程度の被害で済んだようだった。
やがて郵便局の窓口では被災地への救援金の振込み受付が始まり、職員の中からも自主的な募金活動が始まった。
日頃から“物を運ぶプロ”である配達員たちを中心に、配達用車両を使った被災地への物資輸送などのボランティアを申し出る者も出てきた。
僕が毎月通う府立病院でも何人かの看護婦たちが職場を離れ、医療ボランティアとして被災地へ向かっていた。
他にもフリーターを辞めて被災地へ向かう人、家族や会社を説得してボランティアに参加する人、そして学生たち…。
いろんな思いを抱いた人々が、神戸に向かって一斉に動き出した。
…そんな中でも僕の生活は普段と何も変わらない。職場でもいつもどおりの仕事をこなすだけ。募金すらしていない…。
同じ部署の同僚たちと「この寒さの中で家を失った神戸の人たちはホンマに大変やなぁ」という話をしたのを覚えているが、その時点で僕たちにとってはすでに他人事だった。
そんな僕にこんなことを書く資格があるのだろうか…ずっとそんな思いがあった。しかし…。
今日、テレビで“サトエリ”が「マスコミがひどく壊れた街並みだけを取り上げて軽々しく騒ぐのが許せなかった。自分でも芸能人の立場だけで震災を語るのがイヤだった。(震災後に神戸を出ていった)自分なんて、ホントは何も語れないのかも知れない…」と涙を浮かべて話していたのを見て、再び「この章を書いてみたい」という気持ちが強く湧いてきた。
そして、この章を書くなら“今日”しかないと思った。
“あの日”から数週間以上に渡って連日テレビは震災関連一色。
毎日、助かった人からの呼びかけと新しく亡くなった人の名前が読み上げられ、犠牲者の数が次々と更新されていった。
そんなある日、テレビの前で母がこう言った。
「大事な放送なのはわかるけど、こうも毎日毎日同じことを聞かされたらもう、ウンザリするねェ…」
被災された方々にはとても申し訳ないが、いつもと変わらない生活をしている者たちにはそれも本音だったろう。
しかし僕は同じテレビを見ながら、家族はおろか、おそらくその時点では周囲のほとんど誰も考えていなかったであろう一つの想いを抱いていた。
被災地の中で、何か大きなチカラに動かされるように人々が互いに情報ネットワークを築き、町の復興のために動き出す様子がテレビに映し出されるようになったのは、震災後どれくらい経ってからだろうか。
それまで名前も知らなかった隣り近所の人たちが互いに助け合い、励ましあい、限られた水や食料を分け合いながらまるでひとつの家族のように生活している様子…。
大人も子供もなく、それぞれが今できる自分の役割を精一杯やって今日を生き延びようとしている様子…。
最初はただ純粋に「何か少しでもお手伝いできれば…」との思いから被災地でのボランティアに参加し毎日活動していく中で、たくさんの被災者の悲しみや生き様そして優しさや温もりに触れ、やがてその中に身を置く自分自身も実はそんな人たちに“支えられてる”ことに気付いていく人々、そしてボランティア活動を通して新しい自分を見つけていく学生たち…。
生きるために次々と知恵を出し合い、新しい活動が生まれていく。機関紙を出したり、ネットを立ち上げて世界に向けて声を発信する人たちも出てきた。
そんな人たちの姿をテレビで見ながら、僕は心の中で力強く確かな“生きようとする力”とか“希望を探そうとする力”といったものを感じずにいられなくなったのだ。
そして、被災地で必死に生きる人たちを「うらやましさ」に似た思いで見るようになった…。
僕の両親は戦争を生きてきた世代。
空襲を受け、田舎へ疎開もした。機銃掃射で友達が撃たれて死ぬ姿も見てきたらしい。
全ての人が戦争という、とてつもなく大きな、しかも皆が「必死に」生きなければ乗り越えられない共通の困難と闘った。そして互いに支えあい、廃墟の中から立ち上がってきた。
そんな、互いに同じ時代を生き抜く中で、人の温もりやつながりを経験し“共に生きてること”を感じることができた世代だ。
しかし、僕たちは戦争を知らない。
必死になって生きなくても生まれた時から衣食住には困ったことがないし、無理して他人とつながったり絆を持ったりする必要がなかった。
もちろん悩みや苦しみ、悲しみは皆それぞれ抱えている。しかしそれはすべて個人レベルの話であって、一つの時代、未曾有の苦しみを乗り越えるために皆で一緒に立ち向かった経験がない。
それどころか他者との距離だけはしっかり保ち、困ったことがあっても最低限の相談しかできず、少々助けが欲しいと思っても他人が自分の私生活に立ち入ることを煩わしいと感じたりさえする。それでも生きていける世代、それぞれが自分だけの孤独な悩みとしか戦えない世代…。
そんな、個人レベルの悩みで一喜一憂している僕たちに比べて、被災地で「力をあわせて皆で必死に生き続けている」彼らの方がはるかに人間らしく輝いているように思えてならないのだ。
もちろん震災の中で人々が見つけた生き方、友情、希望、そして絆、それは取り返しのつかない多くの犠牲や悲しみと引き換えに得たもの。6500人を超す人々が命を落とし、多くの人が肉親を亡くした。
たとえ家族が無事だったとしても、学校で友だちを一人も失わなかった人はおそらく皆無だろう。
あの瞬間、建物に押しつぶされて即死した人もたくさんいたかも知れない。手足をつぶされてそれでも数時間、或いは数日の間生き延び、想像できない痛みや苦しみの果てに絶命した方も少なくなかったはず。
そんな人たちの思い、そして遺族の悲しみを思えば「うらやましい」などと、僕はとんでもない言葉を吐いてるのかも知れない。
しかし僕にはどうやっても彼らの悲しみなんて分かるはずはないし、口先だけの同情なんてすべきではない。
震災で何も失わなかった僕にできるのは、“阪神”の中に芽生えた「希望の灯」を大切に見つめていくことじゃないかと思う。
うまく表現できないが、震災を経た神戸にはこの国が失くしかけた“心臓”が生まれたように感じるのだ。
僕のもとには被災地の障害者の団体などから不定期に機関紙が送られてくる。
震災では障害者もたくさん死んだ。と同時にたくさんの障害者が生まれた。
大きな災害の時、それまでの街作りの欠点や事後対応の遅れによる影響を誰よりも受けるのは彼らだ。
障害者を含め誰もが住みやすい街、安心して暮らせる街作りを訴えて今日も活動している彼らにとって、「1.17」は常に忘れてはいけない原点だと言う。
機関紙には「こんな事業を始めた」「新しい仲間が増えた」という話から、神戸の街や人に対するそれぞれの想い、活動の悩み、障害者を取り巻く制度の問題点、行政への要求、そしてその曖昧な対応に対する怒りや憤りなどさまざまな話が載る。
しかし紙面からは「震災の中で見つけた人のつながり」や「ずっと皆で一緒に生きて行きたい」という思いがいつも溢れている。今を生きる孤独な僕たちが探し続けているものを彼らはきっと見つけたに違いない。
この章で僕は何を伝えたかったのか、今も考えながら書いている。
どう書いたらちゃんとこの想いを表現できるのか、ホントにわからない。
でもきっと、神戸から送られてくるこの確かな“波動”を感じていることを、僕は叫びたかったに違いない。
人は誰かを支え、そして支えられてる時が一番人間らしく幸せなんだ、と伝える波動…。
神戸で生まれた幾つもの力強い“心臓”が送り出すこの波動が、今、この国にとって何よりも大切なものに思えて仕方がないのだ。
被災地では今も光と影が残っている。
仮設住宅で孤独死する人も今だに後を絶たないという。
「1.17」を無駄にしないために“阪神”だけでなく昨年の新潟やスマトラ沖地震への支援復興が一日も早く進むことを願うばかりだ。
(参考)「カオラックのひとたち」…ネットで見つけた一文で、昨年タイに旅行中スマトラ沖地震の津波に遭ったという、ある外国人夫婦の手記です。
生々しい描写もありますが、その時自分たちを支えてくれたたくさんの現地の人たちへの感謝の想いが綴られています。とても感動したので載せました。
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