コンピュータグラフィクスがこわしたもの


CG(コンピュータグラフィクス)が映像の世界を次々と変えていく。
確かに技術的には究極のものだろう。
コンピュータ画面の中だけでこの世に有るもの無いものすべてをリアルな仮想映像として作り上げるCG。SF映画の世界でもCGによって表現の幅が格段に増し、今では無くてはならないものになった。
十年以上前まではまだ「いかにもこれはCG…」という感じの使い方も多かったが、最近は本当に実写と見分けがつかないくらいリアルになってきた。映画「ジュラシックパーク」やハリウッド版「ゴジラ」の恐竜たちは素晴らしかったし、「タイタニック」では船そのものだけでなくデッキで手を振る大勢の乗客までがCGだと聞いて驚いた。
ハード面の向上だけでなくそれを使いこなす才能豊かなCGクリエイターたちも育ってきたのだろう。
もう作れない映像は無いのだ。

しかし…、である。
どんな願いも叶う「魔法」を手に入れると人生は面白くなくなる。
CGが映画作りに取り入れられ出して以来、どんな映像を見てもあまり驚かなくなってしまった。
今やウルトラマンやバルタン星人までがCG映像で闘っている。
これは特撮映画ファンのかっちゃんとしては少し寂しい想いもある。
もちろん、よりリアルでスゴイ映像を見たいという欲求は今も変わらない。しかしそれは「何でもあり」の“魔法”によるものではなく、決して手の届かない夢に挑み続ける映画制作スタッフたちの、想像力の限界に挑戦する情熱の結果であってほしいのだ。

初期の「ウルトラマン」などでは、よく見ると空飛ぶ円盤等の上に吊り糸が一瞬光ることがあった。
やがてスタッフのアイデアで円盤を逆さまに吊って撮影し、その部分のフィルムを上下逆にして編集するという手が生まれる。こうすることで円盤は上下正しく映るが、いくら探してもその上に吊り糸は見つからない。
“あれ?、糸が全然見えないぞ。どうやって飛ばしてるんだ…?”
もちろん糸は円盤の下に見えるのだが、観ている者の注意が円盤の上部に集まることを逆手に取った発想だ。素晴らしい…。
やがてフィルム合成という手法が生まれ、もうどこを探しても吊り糸は見えなくなった。しかしそれでも最初の頃は飛んでいる戦闘機とバックの背景に違和感が残った。別々の場所で撮影されたものを無理やりひとつのフィルムにはめ込むのだ、少し目敏い人なら合成映像各部の照明や色彩の微妙な不自然さを見て取ったことだろう。(なんとヒネくれた嫌なヤツだと思われるかも知れないが、かっちゃんもそんな“イヤな人間”のひとりなのです…)
しかしそういった不自然さ等の問題も技術の向上でかなり改善されてきた。そんなひとつひとつの進歩の跡を見ることも特撮の楽しみ方のひとつだった。

そして今、CGの出現である。
CGの戦闘機は吊り糸操作では絶対不可能だったアングルや複雑な動きをいとも簡単にこなす。
アラ探しということではないが、「この映像、どうやって作ったんだろう」と想像する楽しみとかその映像の見事さに対する感動が湧かないのだ。
もうどんなスゴイ映像を見ても「どうせCGに決まってるじゃねぇか!!…」となる。
関西弁なら「ほんなもん、CGに決まっとんがナ!!…」という具合だ。

ごっついワガママな感情なのはわかっている。でも、もっともっとスゴイ夢を見たい気持ちと、それでも魔法を使わずに夢を追いかける感動が欲しいというジレンマに苦しんでるのはかっちゃんだけだろうか。

着ぐるみ怪獣の口元のむこうでタバコの煙を吐いて画面に重ねてた頃がナツカシイ・・・。

 
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