仕事を辞める勇気


2002年(平成14年)1月、約13年間勤めた郵便局を退職した。
先天性の病気による身体の障害が徐々に進み、毎日外へ出て働けるだけの常態が保てなくなってしまったためだ。
13年間勤めたと言ってもその中に入院期間が通算で2年半以上あるので、実質、勤めたのは十年ほどか。

就職したての頃は、自分が13年後に退職することになるなんて思いもしていなかった。
もちろん当初、「僕にこの仕事が勤まるだろうか」「ずっと続けていけるだろうか」という思いはあったが、それは一般の新社会人が抱く不安とあまり変わらないレベルの話だ。
やがて職場にも慣れて仕事が面白くなってくると、そんな不安もどこかへ消えた。

学生時代は風邪をひくとすぐに肺炎を起こし、学校を数週間単位で休んだ。
そして就職してからも気管切開(後述)するまでは同じことが度々あった。
仕事は休めば周囲に迷惑をかける。当然、休むということに対する気の使い方は学生時代とは比べ物にならない。
それでも僕が就職した郵便局という職場は、長期にわたって休んでも昇給・昇格にこそ影響はするが、決してクビにはならない世界だった。
休んでいる間は治療に専念し、回復すればまた職場に戻る…というより、戻れる…それが当たり前の世界。
どんなに休んでも「早く元気になってまた職場に戻りたい」…それ以外の選択肢を考える必要がなかった。

僕が初めて、「いつか退職しなければならなくなるかもしれない日」のことを想像したのは入社後六年目のこと…。
ある日、風邪をこじらせてひどい肺炎になり、肺の機能が落ちて頭に酸素が回らなくなった。
チアノーゼが出て爪がドス黒くなり、やがて三日ほど意識を失った。
気が付くと病院のベッドの上。主治医に「このままだと二週間持たない。今後のことも考えて気管切開(喉=気管に穴を開ける手術)をした方が…」と言われた。
手術自体は難しくはないらしく、集中治療室内のベッドの上で行える。
喉に穴を開けても声はちゃんと残るということだったので、手術を受けることにした。

手術はほどなく成功…。
術後の状態が安定して体力が回復するまでに約半年かかったか。
やがて退院の目途もついたある日、今後の生活のことについて主治医と話し合う機会があり、その時、主治医が僕にこう言った。
「退院しても、まだ仕事を続けますか…?」
一瞬、“えっ!?”と思った。
それまで考えたこともなかった“当たり前の話”だ。
退院して職場に戻る以外の予定は僕の頭の中には無かった…。
しかし主治医の言葉を聞いて、自分の病気や障害がすでに「仕事を辞める」という選択肢も十分に考えられるほどの状態であることを思い知らされた。
この時、初めて「いつか退職しなければならなくなるかもしれない日」について思いがよぎった。
僕が「もちろん、まだ働くつもりです」と答えると、主治医も「私も今はまだその方がいいと思う」と応えてくれたが、これ以降、僕の目の前には常に「仕事を辞める」という選択肢も用意されているのだということを意識するようになった。

やがて僕は退院し、再び職場へ戻ることに…。
それ以降、2〜3年おきに大きな入院を繰り返すことになる。

二回目の大きな入院で、在宅でも人工呼吸器が必要になった。
しかしこれは夜間だけの話なので、仕事を含めて日中の活動に影響を及ぼすことはほとんどなかった。
むしろそれまで慢性的に不足していた血中酸素が人工呼吸器によって改善され、集中力の低下やヒドイ頭痛から解放された。

職場では机に向かって文字を書く姿勢が一番辛かった。しかし事務系の労働者が字を書かないわけにはいかない。
上司の配慮で角度のついた木製の書見台を作ってもらった。その台の上に帳簿などを載せると自分の楽な角度で文字が書き込める。多少は楽になった。
しかし物理的な環境をいくら整えても背筋自体の筋力低下はどうしようもなく、やがて10分間ほど字を書いては上を向いて3分休む…みたいな状況になっていく。

「今はまだ働ける。少なくとも今年中はまだ、なんとか…。しかし、例えば今から三年後もこんなふうに、ここにいられるだろうか…。」
そんなことを考える瞬間が、少しずつ増えていった。

確か四度目の大きな入院で、酸素ボンベを担ぐことに…。
いよいよ呼吸筋が弱くなり、血中酸素の値が正常ギリギリのラインすら保てなくなってしまったためだ。
気管切開をした時も、そして人工呼吸器を使い始めたときも精神的にはそれほどヘコまなかったが、イヌの首輪のように鼻からのチューブで酸素ボンベに繋がれたまま退院してきた時は、さすがに自分を納得させるのに時間がかかった。
入院中、何度も酸素ボンベを外して生活できるよう試したが、主治医のお許しは出なかった。

仕事には携帯用の酸素ボンベを車いすに積んで通うことになった。
外見を気にする性格ではないが、牛の鼻輪のように鼻の穴から出ているチューブを見て、周囲に痛々しく思われるのが少し嫌だった。
携帯用ボンベは一本で数時間しか持たない。
だから使うのは外出時だけに限定し、家の中ではドラム缶のような大きなお化けボンベからチューブを延ばして鼻につけた。お化けボンベの重さは数十キロ。持ち運べるものじゃない。
家中どこへ行くにもそのチューブに繋がれたまま。特に車いすだとチューブ自体がバリアーになってジャマで仕方がない。何かに巻きついたり絡んだり引っかかったり…。家族がチューブに足を引っ掛けて転ぶことも…。
この状態が一生続くのかと思うと、ちょっと辛かった。

生物にとって「呼吸」の持つ役割は外からの酸素を体内に取り込むことだけではない。
「呼吸」という字を“呼”と“吸”に分けてみると気づく。吸い込むことと吐き出すこと…。
取り込んだ酸素を体内で燃やすとCO2(=二酸化炭素)ができるが、それを体外に排出するのも呼吸の大切な役割だ。
呼吸する力が弱くなると酸素が足りなくなるだけでなく、体内で作られたCO2が十分に排出できなくなり、どんどん身体の中に溜まっていく。
足りない酸素はボンベで補えても、溜まった二酸化炭素はどうにもできない。
これが脳をはじめ全身に悪影響を及ぼす。

勤続十年目くらいの頃には、体力・筋力の低下と共にこういった呼吸不全の影響も出始めてきた。
朝、身体がだるくて起きられないのだ。座っていても意識が遠のくことがあった。
出勤しても午前中だけで疲れ切ってしまい、昼から仕事にならないこともしばしば…。
そんな時はよく時間休(公務員だけの制度か…)をもらった。
机で字を書く姿勢はただでさえ肺を圧迫して呼吸を小さくする。さらに呼吸筋の筋力低下が酸素不足&CO2過多に拍車を掛けた。
こうなるともう、頭も身体も言うことを聞かない。会議の席で周囲の話す簡単な言葉が理解できなくなって困ったこともあった。
いよいよ「仕事を辞める日」が遠くないことを感じた。

職場では昼飯の時間も苦痛になっていた。
筋肉の病気を持つと食物を噛む力、飲み込む力も弱くなる。
食べるのにめちゃくちゃ時間がかかるようになり、そのために大変な体力を使う。
懸命に口を動かし、内臓も活発に動き始めるのでより多くの酸素が必要になり、結果、体内のCO2もまた増えてしまう。
一時間の昼休憩中、同僚たちは15分くらいで昼食を済まし、後はゆっくり昼寝したり新聞を読んだり雑談したり…。 これが「休憩」というもの。
しかし僕は休憩時間一杯までいつも食べていた。それでも半分くらいは食べ残す。
ホントは食事なんかより横になって身体を休めたい。でも、そんなわけにはいかない。
頑張って食べ終わり疲れ果てたところに休憩時間終了のチャイムでまた仕事…。

家に帰っても、もう疲れ切っていて夕食すらまともに取れない。ますます体力が落ちる。
「こんな生活してちゃいけない…職場にも迷惑をかける。どこかでフンギリをつけないと…」
やがて、朝、職場に入り二時間もすると「今度こそホントに仕事を辞めよう」と思い、夕方、退社時刻になって「いや、もう一日だけ頑張ろう…」と思いなおす、その繰り返しの毎日になっていった。

もう、どう考えても辞めていい状態…。
しかし、この期に及んでまだ僕は辞めるきっかけを探していた。
「どうしてそこまでしてお前は仕事してるんだ?」
自分に問いかけてみる。

「きっかけ」を探すために自分自身の病気の今後について改めて専門の医師の意見を聞いてみようと思い立った。
普段かかりつけている病院は二次症状としての呼吸器疾患は扱うが、それはあくまで対症療法。
元々の原因となっている筋神経疾患の専門病院ではない。
僕は筋ジス病棟で有名な国立刀根山病院を受診し、数日の休暇をもらって検査入院する手続きを取った。
いろんな検査をした結果、僕の病気は「筋ジス」よりも「ミオパチー」に近いこと、そして今の症状を乗り切るには人工呼吸器を着ける時間をもっと十分確保するしかないことがわかった。
少なくとも今の職場で人工呼吸器を持ち歩いては仕事にならない。
これで仕事を辞める決心がついた。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

「公務員を辞めるなんて勿体ない」…周囲の人は皆、そう言った。でも、自分ではもう全く未練はなかった。 辞めると決めたら後はメッチャ晴ればれした気分だった。
本当に動けなくなるまで身体を潰してからの退職では何にもならない。

本当はもっと早く辞めるべきだったのかも知れない。
辞めるべき時期を少なくとも一年以上は超えていたと思う。
なのに、どうして職場へ通い続けたのか。
確かに重度障害者にとって人並みに安定した収入が得られる公務員は大変な魅力ではある。
郵便局員は永久資格ではないので、辞めたら後戻りはできない。
やれるとこまでは…と考えるのは無理もない話。

しかし今思うと、収入のことよりも辞めた後に社会から孤立してしまうことのほうが不安だったのかもしれない。
病気によるリタイアは、先の予定があって辞めるのとはワケが違う。
仕事が嫌になったのでもなければ転職するためでもなく、“ただ辞める”のだ。
働き盛りの30代、“ただ辞める”など普通は考えられない。

僕は臆病で保守的な人間なんだと思う。
「もうこれで社会との接点がなくなるんじゃないか」
「あとはもう“余生”になってしまうんじゃないか」
もっと突き詰めれば
「ずっと人並みに輝いていたい…」
「このままノーマル(=正常な状態)であり続けたい…」
そんな思いがあった。
働き続けることが自分にとって“ノーマル”…“正常な姿”なのだと。

でも“ノーマル”って何だろう?…仕事を辞めてみて自分がこの言葉をとても狭い意味でしか受け止めていなかったことに気付く。
人は皆、普通にそして人並みに生きているように見えても、本当はそれぞれが自分だけの違う人生を生きている。
普通の人生なんてどこにも無く、僕には僕だけの、誰とも違う生き方があるんだと…。

外に出て働いていた頃は毎日たくさんの人と出会い、つながり、刺激を受けることができた。
そして退職した今、確かに外へ出る機会は減った。
でも、気が付けば家に居てもいろんな人たちとつながり続ける自分がここにいる。
勤めていた頃とはまた違う世界の広がりを感じながら。

仕事を辞めてみて初めて、今までどれだけ自分が無理をしていたのかも分かった。
退職して人工呼吸器を着ける時間がたっぷり取れるようになったことで身体の疲労が大きく改善され、その結果、一生モノだと思ってた酸素ボンベが要らなくなった。
食事が美味しいと感じるようにもなった。
一人で買い物に行ったり、友達と映画に行く気力も戻ってきた。
それまで周囲に勧められながら拒み続けていたホームページもアクティヴな気持ちで立ち上げてみたくなった。
ある時、「俺、今すっごく人間らしい生活してるかも…」と思った。
「仕事を辞めてもホームページや地域の活動を通して社会とつながる方法はいくらでもある」そして「今なら時間がある。今までやりたくてもできなかったこと、今本当にやりたいことをやろう」と…。
僕は今、これまでの人生で一番“自分らしく”生きているかもしれない。

仕事を辞めて三年半が過ぎた('05/10/01現在)。
この国では重度障害者は経済的には恵まれている。働かなくても飢えて死ぬことはまず無い。
しかし、そろそろ何か少しは収入になることも始めたい。
ホームページはなんとか軌道に乗った。只今、次のステップを考え中…。


 
Katchan's Viewへ
 
次の章へ