「6分の1の小学校」(前編)


コラムのタイトルは僕が小学校の卒業文集に載せた作文の題名。今でもはっきりと覚えている。
僕の小学校生活は普通の人の6分の1。楽しかった思い出はほとんどない。

僕は大阪・生野区の産院で産声を上げる。
「ミオパチー??」の項で書いたとおり先天性の障害を持ってこの世に生まれてきた。
3年後には弟が生まれ、その2年後、僕が5歳の時に家族で大阪・平野区にある市営のマンモス団地に引っ越すことになる。
団地は四階建て。僕たちはその中の二階に住むことになった。

歩くことができないまま毎日が過ぎ、やがて僕は就学年齢を迎える。
その頃までまだ僕の病気に対する医師たちの見解はさまざまで、治るという医者もいれば難しいという医者もいた。そして両親は「年齢とともにこの子は歩けるようになりますよ」と告げたある医師の言葉を信じて、僕の小学校就学を一年遅らせた。
「もう少し待てばきっと歩けるようになるはず。勉強より身体の方が大事だ。一年の遅れくらい何でもない。学校なんて歩けるようになってからでも遅くはない…」

しかしそんな両親の思いをよそに、僕の障害は一年たっても一向に良くはならなかった。
しかたなく僕は一年遅れでN小学校に籍を置くことになった。

…さて、他の子供たちより一年遅れで小学一年生になったものの、僕はというとその後も相変らず家の中で毎日を過ごしていた。
小学校は団地群のすぐ裏手にあった。家から歩いて5分かからないほどの距離だ。
毎朝、朝礼の音楽やマイクの声がはっきりと聞こえ、家のベランダからは校門の塀より上の教室の様子がはっきり見えるほど近かった。
なのに僕は日曜日以外の日でも毎日、家でテレビを見たり、折り紙を折ったり、絵を書いたり、本を読んだり、おもちゃのピアノを弾いたり、およそ学校とは無関係な時間を過ごしていた。
さっき書いたように当時の我が家は四階建て住宅の二階。エレベーターなんて無い。
学校へ通うには毎朝誰かが僕を負ぶって階段を下りなければならなかった。
朝早く会社へ出勤する父、そして病弱で僕を背負えない母…。家族の力だけではとても僕の通学を支えることができなかったのだ。

ここで周囲の大人たちは「可哀想に、かっちゃんも学校へ行きたいだろうに…」と思っていたに違いない。少なくとも両親は僕を学校へ連れて行ってやれないことを自分たちの責任だと思い、ずいぶん思い悩んでいたようだ。
…が、当の本人はどうか?
毎朝二階のベランダから学校へ通う同じ年頃の子供たちの列を見て「僕も学校へ行きたい…」と思ったりしていたか?
答えは「No」。
子供なんて「学校へ行く理由」など考えるべくもなく就学年齢になれば「親が連れて行くから」学校へ行く、「皆が行くから」自分も行く…ただそれだけのこと。
自分は学校へ行くのが当たり前”だから行くのだ。
…と同じく、僕は家の中にいても(=学校へ行かなくても)誰に叱られることもなく、毎日好きなことをして過ごせた。
僕にとっては“自分は学校へ行かないのが当たり前”だったのだ。
将来のことなんて何も考えない。ただ自分は他の子と違っていつまでもこうして家で好きなことをして過ごせるのだと…。

学校へ行かないから友達もいない。それでもひとり遊びが上手な子だったので寂しいと思ったことは一度もなかった。
元が内弁慶でもあり甘やかしてくれる近所の大人たちとはよく話をしたが、同じ年頃の子供たちと接するのは逆に煩わしかった。
自分自身が子供でありながら他の子供たちとはどう接したらいいのかわからなかった。

学校での情報も当然入ってこない。
ただ、年度替りの時期に毎年新しい担任の先生がピカピカの教科書を持ってウチに挨拶に来たりしていたのは覚えている。
どの先生も毎回、母がお茶を出して一時間ほど何か話して帰っていったかな。
当時の僕の目には皆「先生」というより「お客さん」って感じ…。
三年生になった時、新しい担任が来て「高橋くん(=僕の名前)、今度は3年3組になったよ」と告げた。
僕は「じゃあ(3×3で)9って覚えとこっと…」と応えた。
「へぇー、九九も知ってるんや…スゴイなぁ」
そんなやり取りが記憶に残っている。それ以外に何を話したかは覚えていない。

確かに家族の努力だけで車いすの子供を毎日背負って階段から下ろし、学校に連れて行くというのは大変な作業。
もっと学校ぐるみで何とかできなかったのか…と思う方も中にはいるかもしれない。
しかし本当の壁はむしろ学校側の姿勢の中にあった。
当時の学校側の言い分は
「我が校には車いすの生徒を受け入れるための設備が無いので…」
つまり「ウチにはエレベーターや車いす用のトイレがないし、世話をする人員も確保できない。こんな状況ではどんな事故が起こるかもしれないしぃ…だから、ゴメンネ」ってな話。
しかし小学校は義務教育であり憲法で保障された権利。行政は「家族が連れて来れないから…」だけで済ますことはできない。
そこで「訪問指導員制度」の適用を受ける運びとなる。

訪問指導員学校の校長経験者等が退職後に行政の委託を受け、学校へ通えない障害児の家を訪問して勉強を教えるという制度。
いつ頃からかは覚えていないが僕の家にも体格のいい六十歳代の男の先生が来て、毎週一回2時間程度「算数」や「国語」を教えてくれるようになった。
子供は嫌いだが大人は好きだった僕は、毎週この先生が来てくれるのを楽しみに待つようになっていく。

ところで事実上の「僕のせんせー」はこの訪問指導の先生だが、籍を置くN小学校からはその後も毎年新しい担任が挨拶に来ていた。
ある日、四年生になった時のこと…。
若い男の先生がウチに来て、
「高橋くん、一度、学校に来てみないか」と言ってくれた。
今まで我が家の事情を聞いて同情してくれる先生はいたが、“学校に来てみないか”などと言ってくれたのはこの人が初めて。
「月に一度、せめて土曜日の午前中二時間だけでも、お父さん、お休みをとってこの子を学校に連れてきていただけませんか?」
とても熱心な先生だった。
この先生のおかげで“初登校”が実現する。
今までにも父に連れられて運動会を見に行ったり、夏のプール解放日(どちらもたいてい日曜日の行事だったため)に参加したりはしていたが、教室に入って木の椅子に座り、生徒たちに混じって生の授業を受けたのはこの時が初めてだった。
正直「うれしい」とか「楽しい」という感覚はなく、ただ緊張していた。
でもたとえ二時間でも新鮮な経験ではあった。

その後も四年生の間に数回、父に連れられて“登校”し、授業を受けた。
しかし五年生になって担任が変わると、またその機会は無くなってシマッタ…。
当時は今のように、自分の子供を受け入れる機会を継続して作るよう学校側に要望を出したり、裁判を起こしたり…という時代ではなく、またウチの両親にそんな力はなかった。

ただその後も四年の時の先生だけは放課後にクラスメイトを連れて我が家を訪ねてきてくれたりした。
僕はその先生が大好きだった。それから三十年経つ今もその先生や先の訪問指導の先生とは年賀状のやり取りをしている。
小学校の頃の数少ない思い出のひとつだ。

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さて四年生にして“初登校”が実現したとは言え、それは当時の担任の個人的配慮による【一時のイベント】に過ぎず、両親はその後も常に僕の将来を案じていた。
そして階段を下りなくても僕がなんとか外に出られるようにと、思い切って一戸建の家を買うことを決めた。
五年生が終った春休み、僕たち家族は住み慣れたマンモス団地の二階から、郊外・羽曳野市の平屋に移り住むことになった。

以来ずっと住み続けているのが、このHPのサブタイトルにも入っている「伊賀」の街…。
ここへ来て、それまでの穏やかだった(?)僕の人生が一変する。

平屋の家に移ったことで、父が仕事でいなくても母だけでなんとか僕を家の外に出せるようになった。
僕自身は別に外に出たいとは思っていなかったが、母に言われてしぶしぶ庭に出ては日向ぼっこなんぞしていた。
そんなある日…そう、引っ越してまだ数日、春休みが終わらないうちのことだったと思う。
校区にあるH小学校の教師たちが僕の家を訪ねてきたのだ。

門のところで彼らは母となにやら話をしている。何か僕にとって良からぬ(?)話のようだ…。
「どんな障害があろうと、こんな子が学校へ来ないのはおかしいです…」
そして僕のところに来て、
「高橋くん、新学期になったら一緒に学校へ行こう。毎朝、迎えに来るからね。」
(え?………げげっ!?、ウソでしょぉ、どうして僕が学校行かなきゃならないんだよ〜)
正直、そう思った。
(僕のことはほっといてよ。よけいなお世話だよ…!!)
でも今回ばかりはそんなことが言えそうな雰囲気ではない。
仕方なく周囲に言われるまま新・六年生として学校へ通い始めることに…。

しかしこの期に及んで僕はまだ次のようなことを考えていた。
「数日通ってみてどうしても嫌だったら、そのうちまた家で好きなことして過ごせるようになる…どうせ学校なんてしばらくのガマンだ。」
もちろん、そう考える根拠など何もない。ただ良くも悪くも“自分だけは他の子とは違う特別な存在なんだ”みたいな感覚が染み付いていた。ホント、な〜んにも考えていなかったのだ。
しかしそれ以降“元の穏やかな生活”に戻れなかったのは言うまでもない。

新しい我が家から新しい小学校までは歩いて約20分。
最初の頃は毎朝、春休みの言葉どおり学校の先生が迎えに来て車椅子を押して連れて行ってくれた。
先生とは言っても担任ではなく、養護担当のような位置づけの人だ。
当時ここの小学校は地域の子供たちによる集団登校制を取っていて、僕もやがて慣れてくると弟や近所の小学生と一緒に電動車いすで自力通学するようになっていった。


ところで僕の小学校生活はどんなものだったのか?
事実だけを並べれば、ほとんど「ケンカ」と「イジメ」の毎日だったと言っていいかもしれない。
もちろん「イジメ」は許してはいけない。
しかしそれは昨今話題になるような陰湿なものではなく、友達とのコミュニケーションの取り方を全く知らなかった僕に対する周囲の当然の反応といえるもので、この時の僕にとってはすべて必要な経験であった…。

それまで優しい大人たちに囲まれてぬくぬくと過ごしてきた僕は、他の子供たちが幼稚園や小学校を通じて自然と身に付ける「集団生活のルール」を全く知らずに育った。
結果、自分のことしか考えられない我がままで生意気な「怖いもの知らず」の子供になってしまっていた。
「こんなことを言うと皆に嫌われる」
「こんなことをすると皆に誤解される」
「こんなことをすると皆に喜んでもらえる」
そんなことのひとつひとつを経験則として知らなかったため、新学期早々クラスの番長格の男の子とケンカをしてしまったのだ。

小学生にとって「学校へ行けない」というのはどういうことなのか。
もちろん学力面での心配をされる方も多いと思う。しかし少年期の子供にとっては授業が受けられないことよりも、この時期、集団生活の中で育まれるべき情緒や社会性を知らずに過ごすことでその子の人格形成に与える負の影響の方がずっと大きな問題だと僕は感じている。
小学校レベルの学力は努力次第ですぐに取り戻せる。しかしこの頃「集団」や「友達」を知らずに過ごした僕がいつしか抱え始めた対人コンプレックスは、矯正するのにその後も数年以上の時間を要し、今も完全に拭い去れているとは言えない。
もちろん自分の中にある人格上の弱点をすべて学校へ行けなかったことのせいにするつもりは毛頭ない。 しかし小学校時代の空白の5年間が少年期の僕に及ぼした影響を決して無視してはいけない気がする。
その後の人生の様々な場面で自分自身を見つめる機会に出会うたび、そのことを強く感じるようになった。
小学校と言えども教室の中には権力構造(?)がある。番長を敵に回せばクラス全体を敵に回すのと同じこと。
やがて教室の中の僕は“四面楚歌”状態となり、それはかなりの間続いた。

…ホント、いろんなことがあった。

しかし最後はやはり子供の世界、三学期も終るころにはさっきの番長とも仲良くなり、ある程度クラスにも馴染めるようになっていた。
小学校最後の一年間で今までの数年分以上のことを学んだ気がする。

こうして激動の一年間(?)ではあったが冒頭で触れた作文を残して僕は無事、小学校を卒業。
この頃にはもう毎日学校へ通うことを当たり前のこととして受け止めるようになっていた。
そしてそのまま地元のH中学校へ進学…。

そこには、とてもユニークな世界が待っていた…。(後編に続く)

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