光園の記憶@
〜「個性」…〜


泉佐野市にある障害者療護施設「光園(ひかりえん)」。
現在八十名近い重度障害者がここで生活している。自宅での生活が極めて困難な人ばかりだ。
入所歴数年以上の人が多く、1979年(昭和54年)の開園以来ずっとここで暮らす人も少なくない。
1987年(昭和62年)からは数名のショートステイ(短期入所)枠も設けられている。

僕が初めてここでショートステイさせてもらったのは2002年の11月。
入院していた田舎の祖父が危篤になり、急遽、親父が帰省することになった時のことだった。
父がいないと僕の世話をする人がいない。世話は付きっきりでなくてもいいが朝晩はどうしても介護が必要になる。母は病弱で無理はさせられない。今からヘルパーを手配する時間も無い…。
考えた末、父が帰るまで僕はショートステイを利用することに決めた。

何もかも初めてのことだったので、かなり慌てた。
「介護保険制度」によるお年寄りたちのショート施設はどこにでもあるものの、僕のような障害者を受け入れてくれる施設は僕の周辺にはまだほとんどない。
とりあえず役所で紹介してもらったこの光園に打診してみることになった。
光園の窓口担当のNさんに電話で事情を説明すると、
「わかりました。そういう事情ならなんとか準備させてもらいます。なんにもないとこですが静かでいいところですよ…。」
急な話にもかかわらずNさんは快く引き受けてくれた。

施設の目途がついたら次は施設までの“足”を確保しなければならない。
幸い、まだ「支援費制度」が始まる前だったので、近くの事業所でリフト車による移送サービスを見つけることができた。(「支援費制度」ではこのサービスは不可になった。)
ついで同じ事業所で施設まで同行してもらうガイドヘルパーもお願いした。
これでなんとか父を田舎に帰せる。

普段は「自宅での生活が極めて困難な人」なんて他人事のような感覚でいるが、突然、家族がいなくなれば間違いなく僕もその立場になる。
ショートステイは生まれて初めてだったが、これから幾度となく必要になるだろうし、経験しておく良い機会だと思った。


…その日の朝、父を田舎に送り出した後、迎えに来たリフト車に呼吸器や吸引器などを積み込んでもらって僕も施設に向け出発した。
家を出てまもなく雨が降り始めた。高速を下りて市街を抜けたリフト車はやがて幹線道路から脇道へ入り、荒涼とした山道へ…。道がだんだん細くなる。
運転していたヘルパーが大まかな地図を見ながら目印を探し続けた。
まばらな人家を抜けて、ひとつ間違えば脱輪して転落しそうな山の崖っ淵をしばらく走った。
“こんな人里離れた山奥に施設なんてあるのか…でもどうして…”
そう思った次の瞬間、嫌な想像が心を覆った。
“施設の建設計画が出た時、きっと何度も地域住民の反対にあったのかもしれない…”
そんなことを考えてるうちに「光園」の立て札と、少し大きめの民宿のような白い建物が目の前に現れた。
家を出て一時間半くらいか。なんとか約束の時間までに施設に入ることができた。

玄関で受付を済ますと施設のスタッフが出てきて、二階の部屋へ案内された。
施設の中は想像してたより殺風景でまるで病院のような感じ。思ってたほど活気もない。
僕の部屋は206号室、合部屋でベッドが五つあった。もちろん一つは僕用。
「皆さん、今日からしばらくショートステイされる高橋さんです…」
スタッフから同じ部屋の人たちに紹介されたが、皆あまり反応がない。寝たままの人、テレビを見てる人、おもむろにこちらを見るだけの人…。若い人はいない。みんな髪を短く切り…というよりスキンヘッド=坊主で、ヘッドギアを付けている人もいた。
思い描いてた状況とは随分違う。皆、一目で会話すら大変だと分かる重度な人たちばかりだった。
「うわ〜、この人たち、話できるんかなぁ…?もしかしたら俺、ここにいる間スタッフ以外は誰とも喋られへんのとちゃうかぁ…」
マジでそう思った。
皆、同じ顔、同じ障害に見えた…。
障害者の知り合いならたくさんいる。でも手足は不自由でも自分の意思をはっきり表現できる人がほとんどで、こんなふうに意思の疎通そのものにハンディのある人たちに囲まれたのは初めての経験だった。
ここでは話し相手なんていないかも知れないと覚悟した。

施設では「寮母さん」と呼ばれるヘルパーたちが日常の世話をしてくれる。家から持ってきた物をひとつひとつ整理してもらい、ここでの生活について説明を受けた。「失禁交換(オムツの交換)の時間」が寮母たちのタイムスケジュールの中にあったのに驚いた。僕の日常とは何もかも違う…そう思った。

…と、人工呼吸器の操作など看護師との打ち合わせも終わり、部屋の中をボーっと見渡しながら一息ついていた時、向かいのベッドの眼帯をしたおじさんが車椅子で近づいてきて…。
「た、高橋さん…」
…驚いた。スタッフがたった一度だけ紹介してくれた名前をちゃんと覚えてくれて、自分から声をかけてくれたのだ。
Tさんというそのおじさん、「サシスセソ」の発音が辛そうでゆっくり力を入れてしか喋れないが、ちゃんと聞き取れる言葉だった。脳に障害があって話の内容はボヤけているが、昔、鉄鋼関係の仕事をしてたらしいこと、何年も眼帯をしている目がいつか治ると信じていることを力いっぱい話してくれた。とても素朴な人だった。

隣りのベッドに寝たきりのおじさんがいた。
スタッフが「ヤスオさん」と呼ぶそのおじさん、数時間おきに寮母が寝返りをさせる。自分で動かせるのはかろうじて目と口だけ。言葉も最初のうちは何を言ってるのか聞き取れなかった。
しかしこのヤスオさん、食事の時も寮母に食べさせてもらうのだが、食事中に寮母たちが話しかける言葉の内容からこの部屋で一番しっかり話が理解できる人らしいと感じた。

食事の後しばらくして眼帯のTさんがヤスオさんのベッドの横に来た。そして大きな声で、
「ベッド、上げよかぁ?」
「…あ、あ、」とヤスオさん…。
Tさん自身も自分の身体がままならないのに車椅子から一生懸命立ち上がって、ヤスオさんのベッドのコントローラに手を伸ばした。ヤスオさんの上体が少し上がった。
「こ、これで、エ、エエかぁ?」「…あ、あ、」
そしてTさんは少しズレてたヤスオさんの掛け布団を上まで掛け直した。
その日のうちに何度も同じ光景を見た。ヤスオさんのベッドの調整をしてあげるのがTさんの日課になっているらしい。

夕方になって整理棚の引き出しを整理してると、つい引っ張りすぎて引き出しが抜け落ちてしまった。
「あ、しまった…」
散らばった小物を眺めてると今度は別のおじさんが後ろから車いすですっ飛んできた。そして屈んでひとつひとつ拾おうとし始めた。
「あ、おっちゃん、危ないからいいよ…車いすから落ちるよ…」
Tさんの隣りのYさんだった。
僕がいくら止めてもYさんは最後まで拾ってくれた。そして僕がお礼を言うとニコッとうなづいて、
「アスイ、アスイア…」と言い出した。
「えっ?…暑いんですか?」
11月の山奥、暑いはずはない。それでもYさんは
「アスイアスイ、アスイアスイア…」とゼスチャー交じりで話し出した。
暑いのではなく僕に何かを伝えようとしているこのYさん、微妙に発音は変わるもののしかし何を喋っても「アスイアスイ」としか聞こえない。
きっと自分のイメージではいろんなことを話しているのだろう。でも口から出るのはすべて「アスイアスイ」だけ…。
「アスイアスイ」の中でも何か「カゴシマ」に近い言葉が聞こえたので、
「え?おっちゃん鹿児島から来たの?」と聞くとまた「アスイアスイ」と言って大きくうなづいた。
でもはっきりとは分からない。
Yさんにとってこの「アスイアスイ」はオバケのQ太郎の弟オーちゃん(=O次郎)の『バケラッタ!!』みたいな言葉なのかも知れない。「アスイアスイ」の中にいろんな意味があるようだ。
なんとなくその場の雰囲気でYさんの「アスイアスイ」に相づちを打ったり頷(うなづ)いたりしているうち、Yさんは何か安心したような笑顔になった。そんなやり取りがその日の夜までに二、三回、繰り返された。

同じ部屋の最後の人、Kさんは周囲とはほとんど話さないみたいだ。気難しい人なのかな。
ベッドの上で「三角座り」をしていた。
歩く時は歩行器を使うよう言われてるのに何も持たずに歩いて転び、寮母に注意されていた。
いつもイライラしてるのか怒りっぽい人で、寮母やスタッフに大声を出すのを聞いた。

…最初にこの部屋の人たちを見た時の印象が少しずつ変わってきた。

夕食の後、こちらに向いて横になってたヤスオさんに声をかけてみた。
自分にヤスオさんの言葉がちゃんと聞き取れるか不安だったが、その時は確か「もうここの生活は長いんですか?」みたいなことを聞いたと思う。
ヤスオさんは目と顎(あご)だけを動かして一生懸命話してくれた。
最初は言葉が聞き取れず何度も聞き返した。一言喋っては息切れするヤスオさんを見て、話しかけたことがなにか申し訳ないような気になったが、それでもヤスオさんは話し続けてくれた。
「なぁ、た、高橋、さん…、アンタ、や、八尾の、あ、あさきち、って、し、知ってるか…」
僕が羽曳野から来たと知ってヤスオさんがそう尋ねた。
「えっ…?、ああ、あの映画の「八尾の浅吉」ですかぁ?」
ヤスオさんの顔が少し笑顔になったように見えた。任侠モノが好きみたい。
他にもいろんなことを話してくれた…。

“ホントは皆、とても話がしたいんだ…。”
でも互いに相手の話を受け止めることが難しい。だから僕のように自由に話せる人を見つけると皆、いろんな話をしてくれる。堰(せき)を切ったように…。
話といってもヤスオさん以外は冗談なんて言わない。言っても皆、ピンとこない。
もちろんボケもツッコミもない。(その分、スタッフや寮母たちがボケてくれるが…(^^;))
ご飯の話、お風呂の話、天気の話、時間の話、定期的にスタッフが連れ出してくれる買い物の話…。
何の刺激もない話、でもなにか素朴で気持ちが安らぐというか落ち着くというか…。
ここにいると普段、僕たちの会話がいかにスピードや刺激を求め平気で人を笑いものにしているかを意識させられる。

ある日、昼休みに車いすで廊下を歩いてると後ろからTさんに声をかけられた。
「た、たか、はっさん…」
そして車いすで横に並んで…
「きょ、今日のお昼ごはん、お、美味しかったなぁ…」
「うん、美味しかった…」
それだけ言うとTさんは、他にも何か言いたそうな顔をしながら部屋へ戻っていった。
なんでもないやり取りだけど僕の方がうれしかった。この感覚は何なんだろう、上手く表現できないが。

またある日、Tさんはヤスオさんに「寒くないかぁ?」と声をかけた。相変わらず大きな声だ。
側にいた僕は、ヤスオさんの掛け布団をTさんと一緒に両方から肩まで引っぱり上げた。
「み、みんなに、せ、世話になるなぁ…」とヤスオさん。
「そら、ヤスオさんが皆に好かれてるからやで…」
「…そ、かな…ああ…」
どんな障害があっても互いに出来ることをして、支え合いながら生きてる小さな社会がそこにあった。
それもすごくうれしかった。

ところで、ヤスオさんの所にはよく他の部屋からも“友だち”が遊びに来る。
遊びに来ても、ひとりで何か大声で喋って帰る人、ただそばに来るだけの人、いろいろ。
なかでもスタッフが「リョウちゃん」と呼ぶヘッドギアをしたおじさんのキャラがめっちゃいい。
いつ見てもニコニコしている。よく「タチツテト」が「チャチィチュチェチョ」になる。
朝、廊下の手すりを使って歩く練習をしているのを見かける。後ろから「おはよー」と声をかけるとニコ〜ッと笑って「おあよ」と返してくれる。
いつも穏やかでマイペース。もう六十を過ぎているらしいのだがマスコットにしたいくらいカワイイ、“癒し系”のおじさんだ。
「ビールはニガイからきらいやねん。オレンジジューチュのほうがいいねん。」
すぐに友だちになってくれた。

週二回、皆で一緒にお風呂に入った。
利用者のおじさんたちと介護スタッフたちのピントのズレたやり取りがこれまたメッチャ面白い。
ここのスタッフたちはツワモノ揃い(?)だ。放送禁止用語も飛び交う。
帰るまでにお風呂は三回くらい入ったかな。楽しかった。忘れられない。

…こうしてここの人たちに囲まれながらあっと言う間に時間が過ぎ、九日目に僕は家に帰ることになった。
当初、ショートは二週間の予定だったが父の帰宅が予定より早くなったため繰り上げとなった。
帰る二日ほど前に、再び先の事業所に電話をしてリフト車とガイドヘルパーの手配を頼んだ。
もう数日延ばしても問題はなかったが、荷物の片付け等、帰る準備を手伝ってもらうために施設のスタッフにとって一番都合のいい曜日を選んだ。
でも僕は…正直言って、帰りたくなくなっていた。もう少し、この人たちと一緒に居たかった。

ほとんどの利用者が脳障害もあって、気の利いた冗談も言えず、言っても分からず、おべんちゃらも社交辞令も、そして裏も表も嘘もない。
嬉しいときは嬉しい、悲しいときは悲しい、寂しいときは寂しい、そのまんま「素」で生きてる、それだけの人たち…。
でもみんな、驚くほど豊かで素晴らしい個性を持っていた。
人間味あふれる、素朴で、一緒に居ると何かホッとする人たち…。
悩みはあるだろうけど自殺なんて考えない。「生きること」しか考えない人たち…。
毎朝、一所懸命「おはよー」と声をかけあい、歯を磨き、顔を洗い、おやつの時はシアワセそうな顔をする人たち…。

帰る日の前日のこと、皆に明日帰ることを話して回った。
「なに。もう、か、帰るのか。また来るのか?…そうか。ま、また、お、おいでや…」
眼帯のTさんが、そう言ってくれた。
「あ、あ…、そう、か…。げん、げんきで、な。またおいで。」
ヤスオさんもそう言ってくれた。
ヤスオさんには帰ったら年賀状を出すと約束した。
「アスイアスイ」のYさんはもうひとつ僕の話が分かってない。
「また来ますね…」それでも何かキョトンとしている。何となく頷いてくれたが。(^_^;)ゞ
遊びに来たリョウちゃんにも話した。相変わらずニコニコ顔で
「ちゃみちいなぁ…」と言ってくれた。

よく世界各地を訪ねるテレビ番組なんかで、レポーターが滞在先で何日もお世話になった人たちと別れる際、互いに別れを惜しんで涙を流すシーンがある。あれは半分はヤラセだと思っていた。「わずか数日の滞在でそんな大げさな…」みたいに。
でも、たとえ数日でも同じ屋根の下で一緒に飯を食い、風呂に入り、いろんな話をした人たちって、やっぱり家族みたいな感覚になる。

僕はまだこの場所で長居できる人間ではない。家に戻って、やらなければいけないことがまだたくさんある。
でも、ここにはまたいつか来ようと思った。親父をはじめ家族を楽にするためにも、たまにここで息抜きするのもいい。
そしてこの人たちにもまた会いたい。

“同じ人間”ではあっても“同じ障害者”という言葉で僕たちをくくるのは間違っている。
同じ障害者に違いはないが、ここは僕の全く知らない世界だった。
そして僕の中にもまだたくさんある誤解や偏見の一つを、この人たちが解いてくれた。
ここへ来て、また一つ僕の世界が広がったように思う。
この人たちに出会えて、良かった…。


同じ階の奥にある開放的なリハビリ室の窓から、手が届きそうな裏山が見える(…と言うより山しか見えない)。
窓を開けて、ここで生い茂る木々を見ていると“生命(いのち)の不思議”を五感で強く感じる。
そこら辺の話をいつか続編で…。

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