僕の価値
気分転換を兼ねてよく部屋の片づけをする。片づけと言っても古くなった書類や資料の整理が中心。
ついこの前も市役所から届く福祉関係書類の束を整理した。
書類は種類ごとに、A4サイズの封筒や紙フォルダに挟んで見出しを付けて整理棚に並べてあるが、封筒や紙フォルダがパンパンに膨れ上がっていて前から気になっていた。
既に「支援費制度」から「障害者自立支援法」に移行して一年以上が過ぎていることもあり、ここらで旧支援費関係の資料などを整理しようと思い立ったのだ。
大抵の福祉制度では毎年、認定更新関係の書類が送られてくる。
「平成○年」の欄が違うだけで後は全く同じ内容の書類が何枚も溜まっていた。
中には五年前の「○○決定通知書」などの類もあったり…。
ところで“よく部屋の片づけをする”などと書くと、さも僕の部屋はいつもキレイに片付いているように思われてしまうかもしれないが、そうではない。
僕は子供の頃から物持ちがすごく良かった。
いや、物持ちが良いというより“捨てられないタチ”なのだ。
学校を卒業して20年以上も経つのに未だに持ってる教科書やノート、勤めてた時、職場で見つけた資料や新聞・雑誌のコピー、日頃自分が利用している障害者向け制度の資料、医療・福祉機器のパンフ、親が利用している介護保険関係の資料、役所からの書類、様々な契約書、家電製品の取扱説明書、そしてピザや出前のチラシに至るまで…。
いつ誰に聞かれても、どの書類がどこにあるかすぐに答えられる。
“きっと後で何かの役に立つ”…そう思うと簡単に捨てられない。
現に今まで残しておいた書類や資料が不測の事態に役に立ったことが何度もあった。
しかし我が家は御殿でもなければ図書館でもない。僕の部屋だって普通の広さの洋間。
まして車椅子での生活だと人より多くのスペースが必要になる。
部屋の中にモノが増えれば、じき車椅子の邪魔になって動けなくなってしまう。
だからやむを得ず片付けるのだ。
☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆
ところで、こうやって一度に多くの「不用な紙」の整理をしている時、いつも思うことがある。
「これだけの紙を作るのに、一体どれほどの木が切り倒されたんだろう…」
「僕一人だけでも毎年、役所からこれだけの書類が送られてくる。これがこの街全体、そしてこの国全体となったらどれだけの紙を使うのだろう…」
いつもこんなふうに考えて、何か空恐ろしい気持ちになる。
毎日大量に紙を使い、大量に紙を捨てる人間の社会。。。
「それって、大丈夫なの…?」
僕の懸念をヨソに周囲の人間たちはいつまでも平気な顔をしている。
エラい政治家や賢い大学の先生たちでさえも、ほとんどの人が平気な顔…。
逆に自分の中にあるこうした不安な心理がどこから来るのか突き詰めてみたりもする。
するとその思いはいつも子供の頃にまで遡(さかのぼ)るのだ…。
まだ学生だった頃、机の上にはたくさんの辞書や参考書が並び、引き出しの中には教科書やノートがギッシリ入っていた。
そして学年が変わる度、それに近い量の書籍が増えていった。
毎年、机の前で新しい教科書と古いそれを入れ替え、使わなくなった本を整理棚に移す。
そうして溜まっていく棚の書籍を見ながらよく思った。
「僕みたいなのが一人でこれだけの本を消費していいのかなぁ…」
辞書や参考書は大抵、その10分の1も読まずに終ったかもしれない。
ノートにしてもわずか数ページしか使わずに終ったものが何冊かある。
多くの余白が残っていても教師たちが毎年教科ごとの新しいノートを用意するよう指導していたためだ。
そんなことに思いを巡らしては、子供ながらに思った。
「もったいないなぁ…」
書籍といえば、部屋にある頑丈な本棚には「世界子供○○全集」や「子供△△図鑑」、小説、単行本などがこれまたギッシリ…。
全部合わせればとんでもない重さになるだろう。間違いなくt(トン)単位になるはず。
そこで、また思う。。。
「僕は一体、この中の何冊を読んだのだろう…」
数年前、自宅をバリアフリーに建て替えるため、しばらく近くの住宅に仮住まいしなければならなくなったことがあった。
仮住まいとは言っても引っ越しは引っ越し。やはり大変な準備作業が要る。
当然、僕も毎日ダンボール詰め作業に追われていたが、学生時代の教科書や本棚に並ぶ書籍の箱詰めをしていて、改めてその量の多さに愕然とした。
普段机や本棚を何となく眺めている時とは違って、一冊一冊を手に取って整理しているとイヤでもその量と重みを実感する。
子供の頃から僕のために用意され、僕を取り囲んできたたくさんの本・本・本…。
「果たして僕みたいなのが一人でこれだけの紙を消費していいのだろうか…」
「いくら人間に生まれたからといっても、僕なんかにこれほどの資源を消費する価値があるのだろうか…」
“僕みたいな”とか“僕なんかに”という言葉を使ってはいるが、これは決して自分をどーこー蔑む卑下話ではない。
「僕」という主語はきっと「ただの人間」「たかが人間」という想いの裏返しであり、誰に置き換えられてもいい。
以前、「『少年ジャンプ』を一回発行するのにどれくらいの木を切り倒さなければいけないか…」という話をテレビで見た覚えがある。
少年ジャンプと言えば子供から大人まで幅広く親しまれ、そして読んだ後は簡単にゴミ箱に捨てられる人気雑誌。僕もよく回し読みした。
実際ジャンプ発行の度に使われる紙が木に換算して何本分になったかはもう覚えていないが、想像とはケタ違いの木が必要だったことに驚かされたのはハッキリ記憶に残っている。
その時に見た、大きな木が何本も切り倒されていく参考映像が未だに脳裏に焼きついて離れない。
☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆
子供の頃「資源」とか「不足」というキーワードに触れる度、よくひとりの人間が一生のうちに消費するモノの量について考えた。
教科書、ノート、参考書、辞典、図鑑、小説から新聞、雑誌、マンガ、ティッシュ、広告、チラシ…。
僕は今までにどれほどのちり紙を使い、捨ててきたのだろう、そして捨てていくのだろう…。
僕が生涯に使うティッシュの箱を積み重ねたら、この部屋に収まるのだろうか…。
紙だけではない。
僕が今までに使い捨ててきた割り箸を作るためにどれほどの木が使われてきたのだろう…。
僕が今までに使い捨ててきた色えんぴつ、消しゴム、クレヨンを作るためにどれだけの石油や石炭が使われてきたのだろう…。
そして、これからも僕が使うボールペンやインクのためにどれだけの資源が…。
先人たちは「人間は一生のうちに使えるモノの量が決まっている。何でも贅沢に使っていると後で足りなくなって困ることになるが、節約して使えば最後まで不足せずに済む…」などと言った。
「一生のうちに使えるモノの量」がホントに決まっているかどうかは知らないが、限りある資源を自覚する先人たちのすばらしい智慧が込められた言葉だ。
今はモノが豊富にある時代。
お金さえ出せばなんでも手に入るし、この時代は永遠に続きそうな気がする。
しかし今の時代を支えているのはあと数十年と持たない天然資源とリサイクルの利かない人工資源。
やがて確実に資源が足りなくなることはエラい政治家や大学の先生でなくとも、ホントは皆、知っている。
命を繋ぐためにどうしても必要なものは消費しなければいけない。
しかし、必要以上のものに対してそれをどこまで自覚して使っているか…。
「もったいない」という日本語が世界中で注目されている。
どの国でもなかなかピッタリの訳語が見つからないというこの言葉は、確かに日本人独特の感性を表しているのかもしれない。
しかし同じ日本人でもこの言葉を本当に実感できる世代はもしかしたら僕らあたりが最後かも…。
森林や石油など多くの資源は有限だと言われ、いつかは無くなると言われている。
しかし一人一人がなるべく今ある資源を無駄遣いしないように努力したとして、それでも資源が枯渇した後のことは、それはそれでその時代を生きる者たちが知恵を出しあって乗り越えるべき問題だ。
少なくとも僕自身の役割として出来る限りの節約とほんの少〜しのムダ遣いを許してもらいながら人生を終えられればそれでいいと思っている。
もっとも、せっかく揃えてある本を読まずに本棚で眠らせてること自体がとんでもないムダ遣いかもね。。。反省…。
でも本は余程のことがない限り捨てることはないし、将来、姪っ子たちが読んでくれるかもしれないし。。。
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「片付け上手」と言われる人たちに部屋の片付け方のコツを聞くと、決まって「要らないものは捨てること!!」という答が返ってくる。
“今必要でないものはとりあえず捨てる。必要になった時はまた買えばいい。”
“「いつか役に立つ」などと考えてモノを置いてるといつまで経っても部屋は片付かない…”
ごもっとも…。正におっしゃるとおりなのだ。
人間が生活をしていればモノは増えることはあっても減ることはない。ならば部屋を片付けるには増えた分だけモノを捨てるしかない。それは重々承知。
しかし、分かってはいても簡単に物を捨てられない…。
“それでも僕ごとき人間に、モノを簡単に捨てる資格があるのかどうか…。”
この葛藤を乗り越えない限り、僕の部屋は永遠に片付かない。
誰か、僕の部屋を片付けてくれませんか…!?
僕の机の上にはパソコンとプリンタが並び、その横に印刷用紙を入れた紙フォルダが立て掛けてある。
紙フォルダの中には普通のコピー用紙の他にデザイン入りのものやシールタイプのものなどが種類別に分けてあり、さらに印刷で失敗した用紙が別フォルダで取ってある。
毎回試し刷りの時にこの失敗した用紙の裏を使うようにしている。
反故紙でも結構役に立つものだ。。
こうして用紙の表裏をギリギリまで使い切った時は、何となくちょっとウレシイ。。。