一、問題設定
「解雇権濫用」については、別稿ですでに論じているところであるが、近年、「再チャレンジ」「働き方」などについて議論されるようになっているので、これらの問題と解雇の関係について示すことが、本稿の目的である。
本稿は、実定法解釈について論じるものではない。
二、就職氷河期と再チャレンジについて
「解雇を制限するというのは、すでに雇用されている労働者を保護するために、まだ雇用されていない新卒者や失業者を犠牲にするということにほかならない」という点はすでに指摘した。解雇が制限されるからこそ、新卒者だけが好不況の波の影響を直接受けることになり、就職氷河期といった問題につながるのである。また、解雇が制限されるということは「めったに解雇されないがいったん失業したらもう希望の職につけないという状況」を生み出すのであり、「解雇されることはあるが再就職のチャンスが与えられるという状況」とは正反対の状況なのである。現実に、終身雇用制は維持され、むしろ、より強固になっている。
再チャレンジできる社会は、解雇される社会である。そして、今は解雇されない社会であるので、再チャレンジの壁は必然的に高く・厚くなる。フリーターが正社員になることも、容易ではない。また、いったん出産や育児のために退職した女性の再就職も困難になるのである。
就職や再就職をめぐる問題の根本は解雇の制限にあるのである。
三、恒常的残業と雇用の非正規化について
少数の正社員が恒常的に残業をし、周辺業務は派遣・契約社員・パート・アルバイトといった非正規雇用が担うという「働き方」について疑問を提示する者があるようである。
この「働き方」も解雇権の制限との関連性がある。どのような企業にも事業を拡大するときと、事業を縮小しなければならないときがある。このような状況の変化によって、労働力を調整しなければならない。労働力を調整しなければ、不要な労働力に対して対価(賃金)を支払い続けることになり、その企業は競争に敗れる。そうなれば、従業員を含むその企業の関係者にとって不幸であるし(企業の倒産によって失業した従業員は、解雇制限の社会では、再就職は非常に困難である)、わが国の企業が国際競争に敗れるとすればわが国全体の経済にとってマイナスといえるであろう。
しかし、解雇が制限される状況では、労働力の調整は、採用と解雇以外の方法で実現しなければならない。そこで、非正規労働者を活用することになり、また、正社員には数時間の残業を前提とした勤務体制をとったうえで繁忙時にはさらなる残業をさせ閑散時には残業を減らすことになる。
したがって、正社員と非正規雇用との決定的な違いは、残業命令ができるかどうか、ということにあるとみることができる。正社員は事実上解雇されず、賃金も高額であるが、それらのメリットは残業を命じられるというデメリットと結びついている。したがって、残業を命じられないパート社員には、正社員の半分働いたからといって正社員の半額の賃金を払えないのは企業にとって当然である。また、仮に正社員とほぼ同じ時間同じ仕事をしていたとしても、正社員と同じ賃金を払えないのも、企業にとって当然であろう。(なお、恒常的残業という「働き方」を否定するのであれば、全労働者が「契約社員」や「パート労働者」になればよいわけであり、近年の「雇用の非正規化」は、望ましい動きのはずである。恒常的残業という「働き方」を否定しながら、「雇用の非正規化」をも否定するのは、一貫性を欠いているといわざるをえない。)
やはり、非正規雇用や正社員の働き方においても、解雇の制限と切り離せない問題がある。正社員の解雇が容易でない社会は、雇用の非正規化が進みやすく、かつ、非正規雇用と正社員との格差が大きくなりやすいのである。
ところで、本来、労働契約は、労働力の提供と、その対価である賃金の支払いが中核的なものである。一方的に、事業主が「労働力の提供」である残業を命じることができるというのは、契約の本来の考え方からいえば、かなり問題がある。単純にいえば、「卵を10個100円で買う」という契約をしながら、一方的に買い主が「225円払うから20個渡せ」と命令するようなものである。このような無理を裁判所が認めたのは、やはり、解雇をできなくするという無理を一方で認めてしまったこととバランスをとったのではないかと思われる。「ある部門を閉鎖せざるを得ないとしても、解雇せずに職種転換をして雇用を維持すべきである」「ある工場を閉鎖せざるを得ないとしても、解雇せずに別の事業所に転勤させて雇用を維持すべきである」という論理からは、事業主の一方的な決定で職種転換や転勤を認めるという結論にならざるをえない。正社員といわれる人々は、解雇されない自由を得た代わりに、そのほかの労働契約上の自由をほとんどすべて失ったのである。他方、残業や転勤を命じられないパート社員については、解雇の制限が及ばないという結論を裁判所は示しているのである。
なお、労働力調整の方法については、採用と解雇による調整、残業による調整のほかに、もうひとつ方法がある(非正規雇用による調整は、非正規雇用労働者の労働契約による調整であるので、広い意味で採用と解雇による調整に含めることができる)。それは、賃金による調整であり、その極端な例が、ワークシェアリングである。事業の拡大にあわせて積極的に採用をおこない、事業を縮小するさいには、賃金を減額する。事業を縮小しており、仕事が減っているのであるから、労働時間も減らすことができる。ワークシェアリングによる調整と残業による調整とは表裏一体の関係にあり、採用を少なくして時間外労働の増減で調整するのが残業による調整であり、採用を多くして時間内労働の増減で調整するのがワークシェアリングによる調整である。残業調整の場合は最低8時間労働であるが、ワークシェアリングでは最大8時間労働で仕事が少ないときには労働時間が減り、賃金も下がる。労働力調整の手段であるので、企業が一方的にワークシェアリングを決められるという前提になる。単純にいえば、「卵を10個100円で買う」という契約をしながら、一方的に買い主が「5個でよいから50円しか払わない」と命令するようなものである。見方を変えれば、ワークシェアリングは、正規の労働時間を1日4時間として、4時間まで残業を命じられるという考え方であるということもできる。はじめから「卵を5個50円で買う」という契約をしつつ、一方的に買い主が「100円で10個」までは命令により納入数を増やすことができるということである。したがって、残業調整とワークシェアリング調整は、考え方に大きな違いはない。ただし、現実問題としては、ワークシェアリングでは、1人が生活できるだけの賃金が、確保できない可能性がある。
四、仕事と家庭の両立(ワーク・ライフ・バランス)について
すでに述べたように、解雇が制限される社会は、就職が困難な社会である。家庭の状況に応じて、いったん仕事をやめて再就職したり、転職したり、いったんパートになって後から正社員に戻るといったことは容易ではない。また、正社員は恒常的残業を前提に勤務体制が組まれており、かつ、一方的に残業を命令される。残業してこその正社員であるので、正社員が育児などのために残業できなくなるということには、当然抵抗を感じるであろう。解雇が制限される社会というのは、仕事と家庭の両立が困難な社会になりがちである。
また、出産や育児のために正社員が長期の休業をした場合でも、解雇が制限されている状況では、代替の正社員を雇用することは難しい。正社員を増やせば、休業者が復帰したさいに、余剰人員をかかえることになるが、その時点で一番働いていない、あるいは、能力のない社員を解雇することは、許されないのである。当然、長期休業者に代替として正社員を採用することはできず、長期休業者の業務は、他の社員がさらなる長時間残業で負担せざるをえないことになる。非正規雇用で代替するとすれば、正規雇用と非正規雇用の格差を承認することになる。(業務が拡大基調にある企業では、正社員を増やしていくことができるので、こうした問題に対応しやすいことになる。)
やはり、仕事と家庭の両立についても、解雇の制限と切り離せないのである。
五、結論
以上で述べたように、解雇の制限は、さまざまな労働問題につながってくる。
しかし、裁判官や労働法学者は、法律の専門家であるとしても、政治や社会政策についての専門家ではない。したがって、これらの問題を決定するのは、裁判官や法学者ではなく、政治家の役割である。裁判官や法学者が有識者として自らの政策的判断あるいは価値判断を表明することはもちろん非難されることではないが、それは法律に基礎づけられたものではないし、科学でもない。個人の判断なり意見にすぎないのである。したがって、あたかもそれが法律に基礎づけられているかのように述べたり、科学的に正しいことであるかのように述べたりするのは欺瞞なのである。
六、附論
以下は蛇足であるが、以上では、筆者の判断を示しておらず、そのためにわかりにくくなったり、あるいは、「逃げている」と思われるのも本意ではないので、筆者の考えを少し述べることにする。もちろん、法律に基礎づけられたものでも、科学的根拠があるものでもない。
すでに述べたように、わが国におけるにおける労使関係では、解雇制限に基礎づけられた終身雇用制と残業を前提とする、いわば「正社員システム」が採用されている。これは、解雇制限が基礎にあるので、それぞれの企業が選択したものと捉えるべきではない。法律上は、解雇自由が原則であるが、労働法学者と裁判官が作り上げた解雇制限によって、社会的に「正社員システム」が作られたということである。したがって、恒常的残業の現状、仕事と家庭の両立が進まない現状、雇用の非正規化が進んでいく現状があるとして(筆者は「ある」と認識している)、それを企業の意識の問題としたり、企業を批判したりすべきではない。そうした現状があるとすれば、それをつくりだしたのは、労働法学者と裁判官である。(また、仮に、個別対応の負担を企業に強いれば、企業は、残業を嫌がる者を、仕事と家庭の両立を望む者を、はじめから採用しないという合理的な行動に出る可能性がある。企業に動きを求めるのであれば、その動きにより企業が負担を求められるのではなく、その動きにより企業にメリットが生じるよう、社会的な制度の問題として対処するのが、戦略としても優れているはずである。)
ところで、労働問題を論じるさいに、もうひとつ押さえておくべきキーワードがある。それは、「同一労働同一賃金」あるいは「同一価値労働同一賃金」である。同じ労働について同じ賃金を支払う、あるいは、同じ価値の労働について同じ価値の賃金を払う、ということであり、一見正当なようであるが、違う考え方もありえるというのが筆者の見解である。わかりやすいのが「隠れた能力」の事例である。たとえば、非常に外国語の能力が高い社員Aと、外国語の能力が低い社員Bとがあったとする。その企業では、将来海外に進出したいと考えているが、現在は国内のみの事業展開であり、社員Aと社員Bとは、まったく同じ仕事をしていたとする。この場合、社員Aと社員Bは同一労働であるが、社員Aの「隠れた」外国語能力を考えて、社員Bより高い賃金を支払うことに正当性はある。そうしなければ、社員Aは安い賃金を嫌って転職してしまうかもしれない。そうなれば、将来の予定している海外進出のさいに活躍を期待していた社員Aを失い、企業としては大きな痛手となってしまうのである。同一労働同一賃金、あるいは、同一価値労働同一賃金は、能力に着目する賃金や労働市場の考え方と相反するのである。
同一労働同一賃金あるいは同一価値労働同一賃金は、結果に着目する点では、「成果主義」に近い性格があるが、「成果主義」は、通常、一定以上の裁量を与えられた者がその成果によって報われる考え方である。裁量を与えられない労働者は、その能力を活かす部署や仕事に就けるとは限らない。自分の能力に適しない仕事を割り振られて成果主義といわれても不公正だとの不満が生じることになるであろう。同一労働同一賃金、あるいは、同一価値労働同一賃金にも、同じ問題があるわけである。他方で、技術や能力のいらない反復継続の単純作業であれば、作業量は把握しやすく、「隠れた能力」についても、もともと期待されていないとすれば、同一労働同一賃金あるいは同一価値労働同一賃金の考え方は適合しやすい。
なお、同一労働同一賃金、あるいは、同一価値労働同一賃金の考え方は、年功賃金とは相容れない。年功賃金の考え方は、就労継続年数による能力向上を賃金に反映するものであり、能力主義の考え方が含まれている。同一労働同一賃金あるいは同一価値労働同一賃金は、結果主義であるので、基本的な考え方は相反するものである。(「成果主義」と「能力主義」とは、基本的には、異なる考え方であり、むしろ、相反する考え方である。ただ、能力がある者は、充分な裁量と権限が与えられれば、成果を出せる場合が多いので、「成果主義」においても評価されやすいということはある。)
さて、わが国の「正社員システム」では、正社員は解雇されないが、解雇による雇用調整(労働力調整)ができないため、労働力調整は残業時間で対応することになる。残業命令を拒否することができず、長時間の残業をし、転勤や異動も受け入れざるをえない。いったん採用すると解雇が非常に困難であるため、厳選採用となり、転職も難しいし、なんらかの理由で失業すると非常に厳しい状況にならざるをえない。パートなどの非正規雇用とは、明確な「格差」があらわれる。しかし、「正社員システム」においては、いったん雇用した正社員は、退職まで一つの企業に属することが多いので、企業は人材育成を考えることができる。むしろ、解雇することができないということは、企業にとっては最大限その能力を発揮してもらうことが必要だということになる。その中で意欲を高めるために、昇進や昇給の機会を設ける。「正社員」で長く働けば、多くは、「主任」「係長」「工場長」など、ポストを与えられ、社長や役員になるものもあらわれる。正社員には相当高額の賃金が支払われるし、福利厚生も用意される。管理職の人数は少なくてよい。一般の社員の自主性や提案が尊重され、企画も一般社員に任されるためである。そのために、一般社員も残業をせざるを得ないということもある。この「正社員システム」を「良いもの」として評価する判断も当然ありえると思われる。
逆に、この「正社員システム」を批判する考え方によれば、どのような「働き方」が「良いもの」として描かれるのであろうか。残業はなく、仕事と家庭の両立ができ、パートと正社員との格差がなく、同一労働同一賃金が実現される。それは、次のような状況になるのではないかとイメージする。
まず、管理職と、一般職員との間に、明確な違い、いわば「格差」があらわれる。恒常的な残業はないとしても、問題が発生すれば、緊急に対応を考えなければならない。したがって、残業をしない一般職員にプロジェクトを任せることはできない。管理職に権限が集中し、管理職が企画・判断をし、問題が発生すれば管理職が残業をして対応する。一般社員に企画や判断が委ねられないため、管理職は増えることになり、人数としては、現在の倍、およそ3割くらいが管理職になると思われる。この管理職の賃金は年俸で800万円以上となるが、能力の維持向上のために、月10万円程度は自己投資をすることになる。多くの裁量と権限が与えられているので、成果主義で賃金が決まる。成果がでなければ、賃金は下がるし、解雇あるいは転職ということにもなる。逆に、成果を出して、賃金が上がる転職に踏み出すことも容易である。社長や役員は年功による昇進でなるものではなく、成果を出した者に声がかかるものである。働き方も裁量が大きくなる。したがって、部下の管理をしていなくとも、ホワイトカラーエグゼンプションの対象となる。働き方に裁量はあっても、責任者として、仕事優先の働き方にならざるをえないため、この管理職層が結婚して子どもが生まれた場合には、配偶者が家事専業になるか、ベビーシッターが必要になる。
一般社員は、残業もなく、休暇も充分とれる。業種転換も転勤も命令されない。同一労働同一賃金が実現し、年功賃金や昇給は廃止される。判断や企画を任せられることもなく、能力向上は期待されないので、人材育成の対象にもならないし、昇進もない。誰でもできる単純労働に退職まで従事する。賃金は、手取り年収で240万円、月収20万円程度であろう。ボーナスはない。贅沢はできないとしても、1人で生活はできる。この一般社員層同士が結婚して、子どもがうまれた場合、夫婦共働きが前提となり、世帯月収は40万円になる。残業がないので、保育園を活用して、子育てができる。他方、残業がないことを前提としているので、労働力の調整は、採用と解雇によることになる。業績が拡大した企業は積極的に採用をおこない、業績が悪化した企業は解雇をおこなう。解雇されても、再就職はしやすい。ただし、今まで放置された感のある解雇の手続的保護が課題となる(解雇予告期間の延長、解雇予告手当の増額、雇用保険制度の改定など)。転職も容易である。一般職員と、パートや契約社員との格差はなくなる。他方、一般社員層と管理職層との間には、厳然たる格差が生じ、一般社員層から管理職層へステップアップするのは、非常に困難である。いわば「格差システム」になる。
以上で描いたように、「正社員システム」では正社員と非正規雇用(あるいは失業)の間に大きな格差があるが、「格差システム」ではそれが「管理職層」と「一般社員層」との間の格差に変わることになる。もっと端的にいえば、一般社員のパート化・契約社員化である。これが、「働き方の見直し」「残業の抑制」「ホワイトカラーエクゼプション」「同一労働同一賃金」「非正規雇用の改善」「解雇の金銭解決」など、官学労使学すべてが「良いもの」として考えている方向の先にあるかたちに思われる。
ここで、筆者の考え方を示すが、筆者は、「正社員システム」よりも、この「格差システム」を支持する。これは判断の問題であるので、どちらが正しいという問題ではないが、「格差システム」では、「管理職コース」をめざすか否かの選択をしうること、「格差」は下位にあるより上位にあるほうがよいと考えること、とくに「転職」「再就職」がしやすいほうが労働力の流動性があり、個人にとってもチャレンジができ、活力のある社会になると思われるからである。そして、「解雇権濫用法理によって容易に解雇されることはないが、労働条件は使用者により一方的に変更され、解雇されたら再就職には非常に不利であり、転職も容易にできない状況」よりも、「成績や能力によって解雇されることはあるが、労働条件はあくまでも当事者の合意が貫徹され、転職や解雇された場合の再就職は比較的しやすい状況」のほうが望ましいと考えるからである。
ただし、人材育成や昇進・昇給などを評価して「正社員システム」を支持する見解も充分に理解できる。
したがって、少し議論が拡散するが、他の問題と、「働き方」などの労働問題とを、安易に結びつけることには、問題があると考えている。たとえば、「少子化対策」や「男女共同参画」の問題と、ここで述べた「働き方」などの労働問題とを、同時に扱う場合には、細心の注意が必要である。「少子化」は「対策」をとるべきとされた社会問題であり、「男女共同参画社会の形成」は社会的に広く承認された価値観である。「働き方」などの労働問題については、多様な意見がありえるし、さまざまな異論が提出されうる。そのために、「少子化対策」や「男女共同参画」において労働問題に焦点があたると、「少子化対策」や「男女共同参画社会の形成」まで否定されたり、滞るということが懸念される。「少子化対策」としては、(「働き方」には手をつけずに)長時間労働の共働きでも子どもを育てられるようにベビーシッターの活用をはかるという選択がありえる(念のために述べておくが、筆者はそうすべきと考えているわけではない)。男女にかかわらず長時間労働するとすれば、それは職場における男女平等が実現した姿であることは否定できない(念のために述べておくが、筆者はそれが良いと考えているわけではない)。そうした対応や状況を否定するのは、「少子化対策」や「男女共同参画」とは違う価値観によるものと言わざるをえない。それは、問題を複雑にし、広く承認された判断や価値観を否定することにつながりかねないことを指摘しておきたい。逆に、広く承認された判断や価値観のイメージだけで、充分な検討をしないままに「働き方」などの労働問題に手をつけるということも危険であると、指摘しておく。
七、附論その2
上記の附論について、三点さらに補足して説明をする。
第一は、一般社員の共働きでの世帯月収40万円というモデルは、いわゆるボーナスがないことを考えると、子育てをするのに不足するのではないかという疑問に対する説明であり、第二は、格差の固定化・世代間継承についてであるが、両者は密接に関係すると考えている。第三は、少子化対策との関係についてである。
「格差システム」の社会では、一般社員は判断や企画を任せられることもなく、能力向上は期待されないので、人材育成の対象にもならないし、昇進もない。誰でもできる単純労働に退職まで従事する。したがって、高等教育の修習は求められない。他方、「管理職コース」をめざすのであれば、大学院レベルの学習が必要になる。ゆえに、「一般社員層」においては、多額の教育費はもはや必要なく、「一般社員層」の子どもは「一般社員層」として就業し、多額の給与を得る「管理職コース」のみが子どもの教育にお金をかけることができるので、その子どもも「管理職コース」で就労する傾向が強くなる。
すなわち、教育費をかける必要がなくなるため子育てにかかる費用は大きく減り、世帯収入はその分低くてもよいが、他方で、世代間にわたって格差は固定されやすくなると思われる。
現在の「正社員システム」では、一般社員の子どもが管理職になることは充分可能である。それゆえに、一般社員も多額の教育費をかけるし、大学進学率が非常に高くなる。(ただ、一般社員の子どもが弁護士・医師・研究職など、大学教育を超える教育が必要になる職につくのは、容易ではない。)
イメージされる「格差システム」では、一般社員の子どもが管理職になることは、かなり困難になる。教職や公務員が、一般社員層と管理職グループとの中間所得層になるとすれば、一般社員→公務員→管理職と、格差を埋めるためには二世代が必要になる。現在の「正社員システム」における医師・弁護士・研究職に近いレベルに「管理職」が位置づけられるわけである。
そうなると一般社員の子どもは、管理職コースを「めざす」のがせいぜいであり、、「一般社員コース」と「管理職コース」を「選ぶ」とは考えないほうがよい。
最後に少子化対策についてであるが、少子化対策は、社会の少子化を前提として少子化社会でも継続的に発展をするための対策と、少子化をくい止めて多子化をめざすための対策とがある。少子化社会を前提とした対策としては、労働力の確保があげられ、女性の労働力化の拡大がそのひとつである。一般社員の共働きを前提とする「格差システム」は、この意味での少子化対策に合致する。他方、少子化をくい止めて多子化をめざすということは、どう取り繕った言い方をしたとしても、結局は「産めよふやせよ」ということであり、「産む機械の数は決まっている」という発言が正しく指摘しているように、親世代の数が増やせない以上、親1人(1組)あたりの子どもの数を増やすしかない。「格差システム」での一般社員は、短時間共働きであり、長時間労働を前提とする「正社員システム」に比べて子どもをうみ育てやすく、この意味での少子化対策にも合致する。ゆえに、「正社員システム」から「格差システム」への転換が政策的に進められているともいえる。そこで問題になるのは管理職グループへの女性の進出と、管理職グループの多子化の推進であり、そのためには、管理職グループの家庭がハウスキーパーやベビーシッターを雇えるよう、管理職の給与水準を大きくあげることが必要だということになる。格差の拡大は、より顕著になるであろう。