徒然草
文明社会のひずみ

戦争で何もかも失った日本はただひたすら働き続け、豊かな物質文明を築き上げました。おかげで現代の人々は飢えに苦しむというようなことはなく、着る物、食べる物、娯楽に興じる事、全てのものを好きなだけ享受することができるようになりました。
そしてその代償として地球の美しい自然は破壊され、多くの生き物たちが絶滅に追いやられ、今なおそれは進行中です。全ての物欲を手に入れた人間はこれ以上何を望んでいるのでしょうか。何を求めて今もなお走り続けているのでしょうか。
ここらで一度立ち止まって、今の日本の現状を見渡す時に来ているのではないでしょうか。豊かな美しい森は消え、以前は透き通っていた水は今や濁った、臭い泥水と化しています。
それと共に本来の美しい人間性も置き忘れ、殺伐とした、1人よがりの心を持った人間に変わっていったような気がします。ひたすら便利さを追求し続けている科学技術の進歩は歪んだ社会を作り出し、人間同士あるいは命ある物を傷つけているのではないでしょうか。車は動くだけで十分、テレビは映るだけで十分、電話は話ができるだけで十分ではないでしょうか。
企業は金を儲ける為に様々な新製品を開発し、多くの人々は時代に乗り遅れまいと様々な新製品に手を出していきます。現代の機械文明に操られ、そのスピードに人間の精神が追いついていかれない為に、心のバランスが崩れ、他人を思いやる心が退化し、物質文明、機械文明が進めば進むほど、心の豊かさがむしばまれているような気がしてなりません。
物があふれ何でも好きな事が出来る現在、人々にとって本当に必要なもの、大切なものは何なのかをじっくりと考える時期に来ているのではないでしょうか。
世界や国内の情勢に目を向けると、無用な開発により貴重な自然が失われ、人間も含めた生き物たちが様々な原因で毎日たくさん苦しみ、死んでいます。その中には歪んだ現代社会によって生み出されたストレスによって悩み、苦しんでいる人達もたくさんいます。或いは定められたレールの上に乗せられて、人生の矛盾に気づかない人もいれば、無意識に気づかない振りをしている人もいます。そしてそのまま終着点に辿り着く人もたくさんいるでしょう。
しかしどんなに機械技術が進歩しようとも、脳だけは人口頭脳に代わることはできません。それは言うなれば今の人達が置き忘れてしまっている、他の動物達や他人に対する思いやりや美しい自然をいつくしむ心を取り戻せることができるということです。自分さえ幸せなら他の人間や生き物たちなんかどうでもよいという考えも無くなる可能性もあるということです。
人間がどんなに進歩しようとも我々人類の祖先は類人猿であり、我々は地球という自然の一部であるということを忘れてはならないのではないでしょうか。そして今我々現代人に必要なことは、全ての真実を知る勇気を持ち、本当にやるべき事を見つけ出すことではないでしょうか。

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人を助けるということ

以前私が茅ヶ崎の実家に帰省した時に、駅の構内に1人のホームレスの人が横たわって眠っていました。その人のそばを通った時に、とても心が痛くなったことを今でも思い出します。その人が駅の構内で寝ていたのは少しでも寒さをしのぐ為でもあったのでしょうが、私には人との触れ合いを求めてそこにいたのではないかと思えて仕方がありませんでした。
同じ人間として同じ空間にいたかったのではないでしょうか。その人が本当に眠りたいのなら人目につかない隅の方を選ぶはずなのに、ほとんどの人が目にする階段の所で寝ていたということは、誰かに救いの手を求めていたのではないでしょうか。
その人の傍を通る人は皆そこに何も無いかのような顔をして素通りして行きましたが、私も例外ではありませんでした。その人を見るのは失礼だと思ったからですが、それ以上に私にはその人を助けてあげることができないと思ったからです。
人を助けるということは野良猫を助けることとは訳が違います。野良猫なら拾って育てることができます。でも1人の人間を助けるということは、その人の人生を助けるということです。経済的にも精神的にもその人が自立して、人生を歩いてゆけるようにしてやることだと思っています。
私には野良猫を数十匹、エサをあげたりして援助してやることしかできません。人間を助けるなんてことはできません。少しばかりのお金や食べ物を恵んでやることが助けるということではないからです。
ホームレスになった理由は判りませんが、中には借金や酒やギャンブル等で家を失った人もいると思います。一度転落した人には自己責任として、這い上がるチャンスは与えられないのでしょうか。ホームレスの人たちに対して国や地方自治体は冷たすぎると思います。
人生に失敗はつきものです。好き好んでホームレスになっている人なんていないと思います。働く意欲のある人もいれば、今の境遇に諦めの境地を見出している人もいます。でも最後は畳の上で死にたいと思っているはずです。
人は1人では生きてゆかれません。お互いに支えあい、困っている人がいればその人に救いの手を差し伸べてやるのが人の道ではないでしょうか。ボランティアの人が着る物や食べる物を用意して援助している光景が、時々テレビに映し出されています。冬の寒さで夜眠れない人がほとんどです。中には凍え死にする人もいれば、川に飛び込んで自殺する人、病気で亡くなられた人もたくさんいると聞いています。
市民の力では限界があります。国や地方自治体がやるべきことは景気の回復ではなく、救いを求めている人たちを助けてあげることではないでしょうか。
新聞社による国民のアンケート調査で、政府に期待している事は何ですか、という問いに多くの国民は景気回復をあげています。もし多くの国民が景気回復よりも福祉の向上を望んでいれば、国の政策も変わってくるのではないでしょうか。
私達は働きバチではありません。心を持った人間です。優雅な生活を送りたいという気持ちは解からない訳ではありませんが、人にやさしい社会、自分より立場の弱い人間に目を向けてやる社会こそ、本当に豊かな社会と言えるのではないでしょうか。

僕が野良猫を助ける理由

私は正直ペットショップで犬や猫を購入する人をあまり好きではありません。気を悪くされた方がいらっしゃったら謝りますが、以前新聞のアンケート記事を読んだ時、「飼っている動物の健康に気を使っていますか」という問いに「気を使っている」と答えた人は半数にも満たなかったように記憶しています。(間違っていたらごめんなさい)。
私の両親は犬や猫が好きではないにもかかわらず、私が拾ってきた猫を可愛がり、少しでも食欲がなければすぐ病院に連れてゆく程大切にしています。自分の家族の一員であるペットの健康に気を配るのは当たり前であるにも関わらず、こういうアンケート結果に終わっているということは、いかに日本人が動物達をないがしろにしているかの証だと思います。
結局こういう人達が何らかの理由でペットを捨てるのだと思います。しかしペットを大切に可愛がっている人の中にも動物を人生の伴侶として飼っているのではなく、単に自分の言う事を何でも聞いてくれる、都合のよい生きたおもちゃとして考えている人もいると思います。
城ヶ島にも犬を連れて散歩している人をたくさん見ますが、野良猫には全く無関心です。私が城ヶ島で知り合った動物好きの人に「他の人も少しは野良猫を助けてあげればいいのに」と言ったら「そんな事をしたら村八分にされる」と言っていました。もちろん中には心優しい人がいて、野良猫の面倒をみている人もいますが、ごく少数です。
以前私が野良猫にエサをやっていたら、突然大型の犬をけしかけ猫を追っ払い「野良猫なんかにエサをやるな」と強い口調で言われたことがありました。自分の世話している動物以外の動物は死のうが生きようが知ったことではないと思っているようです。
以前母から聞かされた話ですが、母が散歩をしていたら突然犬の泣き叫ぶ声がしたので行ってみると、犬を連れた老人が思いっきり犬の腹を蹴っていたそうです。犬は身をかがめて「もうやめて!!」と訴えるように泣き叫んでいたのですが、その男は何度も何度も自分の犬を蹴っていたそうです。母も一度は注意しようと思ったそうですが、そんなことをすれば後でまたその犬が逆恨みを受けて腹を蹴られるのではないかと思い躊躇したそうです。
年間50万匹位の犬や猫が捨てられて殺処分されているのもうなづけます。犬や猫を飼っている人がイコール動物好きではないことを私も何度も目撃してきました。本当に動物が好きな人というのはまず第一に動物の幸せを考える人であり、その為には自分がどのような行為をすればよいかを真剣に考える人だと思います。
イギリスでは犬や猫を売るペットショップはありません。犬や猫を飼いたい人は捨てられた犬や猫を収容している施設に行き、そこで譲り受けられるそうです。
私が野良猫の面倒をみているのは猫が可哀相だからという気持ちもありますが、それ以上に捨てられた猫たちの叫びを聞き入れたいという思いがあるからです。猫の体は人間の赤ん坊と同じ位の大きさです。猫を捨てるということは、体も小さく立場も弱い生き物をいじめているのと同じ行為です。
私が野良猫の面倒をみている一番大きな理由は、弱いものいじめをする身勝手な人間に対する反発心がそうさせているのではないかと思うようになってきました。力の弱い猫や犬だからこそ人間が守ってやらねばならないのではないでしょうか。

僕にとって写真とは

私がカメラのレンズを野良猫に向けることは滅多にありません。城ヶ島にいる野良猫たちをただ観察しているだけです。じっと観察しているとそれぞれの猫の性格が微妙に違っていることに気づきます。猫たちの動作や顔の表情、目の動き等でこの猫が今どんな事を考えているかがほんの少し解ってきます。私はそれを目というレンズを通して、脳の中にある記憶というフイルムに焼き付けます。
以前はカメラを持って毎日野良猫の写真を撮っていたのですが、プリントされた猫の写真を見ても何も感じませんでした。そこにはただ猫の写真が記録されていただけでした。
それからはほとんど毎日城ヶ島に行って野良猫にエサをあげるようになったのですが、生活している場所によって猫たちの行動も違い、それによって私の猫に対する思いも微妙に変わっていることに気づかされました。
毎日野良猫たちに接していると、突然私の心が揺さぶられる時があります。そんな時私はいつの間にかカメラを持っていてシャッターを押しています。プリントされた猫の写真はあまり満足のいく写真ではありませんが、それでもシャッターを押さずにはいられない衝動に駆られるので仕方ありません。
彼らの寂しい表情を見ていると私の今までの人生の思い出が蘇ってくるのです。私は今まで、私自身野良猫のような人生を歩んできたので、ファインダー越しに見える野良猫に、猫を通して自分自身の姿が反映しているように感じたのかもしれません。
私が求めている猫の写真は記録写真ではなく、構図やピントや露出も関係の無い、見る人の心を揺さぶる記憶写真なのですが未だに満足のいく写真は撮れません。
私にとって写真とは趣味や自己満足の為の手段ではなく、動物の保護を前提として写真を撮っているので、今の動物達の現状を考えると、自分の非力さにさいなまれる時があります。私は一度でもフイルムに納めた猫は、それでサヨナラという訳にはいかず、最後まで面倒をみなければ気がすまない性分なので、初めは4匹だった猫がいつの間にか48匹になってしまいました。
もちろん割り切って写真を撮らせてもらったお礼に少しばかりのドライフードを置いて、2度とその場所に行かなければ自分の体は楽なのでしょうが、私の記憶の中に納めてしまった以上忘れることのできない存在になってしまい、猫のことが気になって再びその場所に行ってしまうのです。
それと猫は着せ替え人形ではないので、一度や2度その場所に行っただけでは猫の真の姿を捉えることはできないというのが私の考えの中にあることも要因になっているのだと思います。
私は今なお猫の表情を撮ることはできても、彼らの心の中を撮ることはできていません。彼らの思いや心の叫びを撮ることが私にとっては永遠のテーマだと思っています。

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動物実験について

多くの人たちは動物実験は人類の医学の発展の為には仕方がないと思っているようです。人間の命を救う為には他の動物の命を犠牲にしてもやむおえない、というのが暗黙の了解になっているようです。でも多くの人たちは何をもって、何を根拠にして動物実験が医学の役に立っていると思っているのでしょうか。
日本では諸外国と違い何の法規制もないので、どこでどんな実験が行われているのか皆目分かりません。動物の種類や数を公表している研究機関はごく少数で、ほとんどの研究機関はただひたすら隠し続けています。
もし本当に何のやましい所もなく、人間の命を救う仕事をしているという自負があるならば堂々と公表していいはずです。それにもかかわらず、研究者は自分たちの行っている事を世間に公表したくない為に政府に圧力をかけ、動物実験の規制案に反対しているのはやましい事をしている証ではないでしょうか。
推定で毎年1000万匹以上のほ乳類が犠牲になっていますが、人の命を救う為に研究を行っているのなら、他の誰よりも命の価値、命の重さというものを理解しているのが真の研究者ではないでしょうか。実験動物はロボットではありません。人と同じ心を持ち、痛みや苦しみも解る生き物です。無秩序に無制限に実験動物の命を奪う権利は人間にはないはずです。
人間の中には自殺をする人もいれば、自殺を考えた人もいると思います。でも他の動物は絶対にそんな事はしません。生きるということに関しては人間以上にその執着心が強いからです。何故なら動物達は子孫を残す為にのみ生きているからです。そんな尊い命を犠牲にしてまで、研究機関や製薬会社は名誉や金を手に入れ、知的好奇心を満たしたいのでしょうか。
マスコミを利用して、動物実験により新しい治療法が見つかったようなことを発表していますが人間と他の動物とでは体の構造が違う為生理機能や代謝機能も異なり、当然薬の有効性も治療法も異なってくるはす゛です。いくらラットに有効性のあった薬でもそれがそのまま人間にあてはまる訳ではありません。我々は人間でありラットではないからです。
動物実験はラットや猿や犬の治療法を研究しているだけであり、人間の医学には貢献していないということを認めるべきではないでしょうか。我々の税金を何億何兆も使っているのですから、きっちりとした説明責任を果たすべきです。
犬の足を打ち砕いてストレス実験を行ったり、サルに毎日たくさんのタバコを吸わせて苦しませ、それでも猿は肺がんになりませんでした。タバコの吸い過ぎは肺がんをもたらすということは誰でも知っています。大阪の医科大学では研究者が実験施設のサルを踏みつけたりしていじめています。恐怖のあまり発狂したサルや犬もいます。
これが命を救う研究をしている者のやる事でしょうか。ガンの研究と称して動物の体に腫瘍を作り原因や治療法を研究している人がいますが、人間のガンは遺伝や食生活やストレスから起こるものです。アメリカのガン研究所の所長は「何十年もマウスを使ってガンの治療法を研究してきたが、わかったことはそれが人間には役に立たないということだ」と述べています。
毎日苦しみ抜いて死んでいくたくさんの動物達がいることや、動物実験の為に莫大な税金が使われ、果たしてそれが有用なものかどうかということを私達は知る権利があり、知るべきではないでしょうか。日本だけが無法地帯にならない為にしっかりとした法規制を作り、それを監視する義務が国民にはあると思います。 (参考サイト ARC)

温暖化について

ご存知のように気温の上昇は二酸化炭素、メタン、フロンガス等の温室効果ガスが増えることによって起こります。1990年代に入り年間の平均気温は急激に上昇し、100年後には南日本4℃、北日本は5℃上昇すると予想されています。
二酸化炭素は石油や石炭、木や油等を燃やした時に出る気体でメタンは牛や羊、山羊等のゲップや腐った生ごみ、水田等から出る気体です。人間が作ったフロンガスはスプレーや冷蔵庫、エアコン等に使われています。
温暖化で気温が上昇すると南極や北極の氷が解け海面の水位が上昇し、水没する国や地域が出てきます。異常気象になり洪水、干ばつ、台風等が多発し、害虫が大量発生し、人間の健康を害し、食料不足や水不足等に陥ります。当然日本のような食糧輸入国の人たちは飢えに苦しんで、多数の死者が出ることが予想されます。異常気象の影響で米が獲れなくなるからです。
このまま二酸化炭素の削減をしなければ、100年後の日本は間違いなく危機的状況に陥りますが、温暖化が進んでいるという兆候としてサクラの咲く時期が早まったり、カエデの色が変わる時期が遅くなったりします。さらに気温が上昇すればマラリアの病原虫と言われているハマダラカが九州や本州にも上陸して、多数の人が伝染病に罹るといわれています。
二酸化炭素の排出量は1位がアメリカ、2位が中国、3位がロシア、4位が日本となっています。二酸化炭素が増えた原因は人間が森林を切り倒して道路や町を作り、車に乗り、明かりやテレビ、冷蔵庫、エアコン等の電気をたくさん使い、石油や天然ガスを大量に燃やし続けた為に発生したといわれています。
日本は京都議定書で2012年までに二酸化炭素の6%削減を義務付けられています。その為国や企業は二酸化炭素を減らす努力をしていますが、温暖化のような地球規模での危機に対する取り組みに、我々国民も積極的に参加する義務があるのではないでしょうか。
それには国民一人一人が二酸化炭素を減らさなければならないという強い使命感を持ち、自分たちのできる範囲内でできる限りの努力をする必要があると思います。燃費の良い低公害車や省エネタイプの電化製品を選んだり、車やエアコンや電気の使用を最小限に抑えるだけでもずい分違うと思います。
自分1人が実行したってたいして効果はないと思っている人が一億人いれば、二酸化炭素を減らすことはできません。逆に自分ひとりだけでもエネルギー消費を減らす努力をしようと思っている人が一億人集まれば、二酸化炭素を減らすことがで゛きるのです。
大切なことは地球温暖化の原因を作っているのは我々人間であるという責任感や危機的意識を持ち、国や企業まかせにするのではなく、一人一人が毎日の生活の中で、少しでも二酸化炭素を減らす努力をしていくことだと思います。
これから生まれてくる子供たちや多くの生き物たちが住みやすい環境になっているかどうかは、今生きている人たちの手にかかっているということを忘れてはならないのではないでしょうか。

動物たちの苦しみ

現在様々な理由で動物たちが苦しみ、殺されています。犬や猫のようなペット、畜産動物、実験動物、野生動物等が毎日たくさん犠牲になっています。原因の一番大きな理由は人間が自分の幸せだけを考えているからです。
ペットは人間の側の勝手な理由で飼われ、捨てられています。人間が自分の心を癒したいが為にペットを飼い、何らかの事情が出来ると捨ててしまいます。飼うのも捨てるのも飼い主中心の幸せからとられる行動です。そこにはペットたちの幸せを考えるという思わくはありません。
畜産動物である牛や豚、鶏は生まれてから死ぬまでずっと苦しみ続けられています。身動き1つできないケージに閉じ込められ、精神的にも肉体的にもボロボロになって屠殺されます。
そこには経営者の経済的理由、つまり効率よく金をかせぐという工場的畜産の考えがあり、畜産動物の福祉を全く考慮しない、自分だけが金をもうければそれでよいという考え方があります。その結果狂牛病や鳥インフルエンザが発生しました。
消費者は肉を食べたいという食欲の為に罪のない動物たちを犠牲にしています。家畜を飼育する為には穀物が必要ですが、先進国の人たちが肉食をすればするほど穀物も必要となり、経済力の乏しいアフリカのような開発途上国の人たちは穀物さえ買えなくなり、毎日24000人もの人が飢えで亡くなっているという事態を引き起こしています。一人一人の消費者が肉を買う回数を控えれば食肉生産量も減り、その分の穀物を飢えで苦しんでいる人たちに回せるわけです。
実験動物は毎年1000万匹以上が犠牲になっています。それも全て人間だけが幸せなら、人間だけが助かれば、他の動物の命は犠牲になっても仕方がないという考えからきている結果です。人間の命を最優先させてしまう為に他の動物の生きる権利、命の尊さを否定せざるをえなくなってしまいました。
しかし過去の実例をみてもわかる通り、動物実験の結果が人間の医学に役立てられることはあまりありませんでした。
野生動物もまた人間の幸せを考えた行為によって犠牲になった被害者です。道路開発や宅地開発、レジャー開発によって住む所を追われ、最後の砦である山までも切り崩され住みかや食べ物を奪われています。このまま進めば100年後に地球上に生き残っているほ乳類動物は人間とネズミだけになっているのは間違いありません。
人間は自分だけ幸せになりたいが為に、それを追求した結果たくさんの生き物たちを犠牲にしてきました。その結果現代人は全ての幸せを手に入れました。でも地球は人間だけの物ではありません。
犠牲になったたくさんの動物たちの為にも、これからは他の動物たちの幸せを考える必要があるのではないでしょうか。
多くの人たちがたとえ今すぐ動物保護を実践しなくても、常に頭の中に動物の幸せを考え意識していれば、それが何らかの形で動物たちの幸せに役立てられ、やがては動物保護の行動に結びつくのではないかと思います。それぞれが自分のできる範囲内で、例えそれが小さなことでも実践してゆけば、いつかはそれが大きな力となり、動物たちを救い出す原動力になると思います。

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