徳宿城
所在地、鹿島郡鉾田町徳宿
徳宿氏は常陸大掾氏系の鹿島氏より別れた一族で鹿島郡北部の代表格である。しかし、水戸城主となった江戸氏の攻撃を受け、徳宿城も落城。徳宿氏は滅亡してしまう。徳宿氏を滅ぼしたことで江戸氏は鹿島行方郡方面への進出が可能となり、烟田氏ら鹿島氏一族はその脅威に対する対策を講じなければならなかった。徳宿城は南側に突き出た舌状台地上にあり、かなり大きな城郭となっている。烟田氏、安房氏と支族を配しながら、江戸氏襲来の時三百余名しか軍勢を立てられなかったのは情勢にたいする油断だったのか、一族の団結にゆるみがあったのか。戦国乱世を感じさせる城郭である。

南側から見た徳宿城
| 徳宿城跡(とくしゅく) (所在地)鉾田町大字徳宿字古城跡96外面積2.54ha 徳宿城は平安末期頃、徳宿親幹によって築かれた。親幹の父(鹿島成幹)は桓武天皇の流を汲む平国香から七代目で、常陸大掾氏一族の意向により鹿島郡を治め、その北部に徳宿氏を創立した。徳宿氏二代目の秀幹の長男俊幹は、安房と鉾田を含めた地域を譲渡され安房氏の祖となった。(現在の安房地区高野の三階城跡が拠点)また次男朝秀は、烟田村他三カ村を譲渡され烟田氏の祖となった。(現在の新宮小学校がある烟田城跡が拠点) 文明18年(1486)徳宿氏九代目道幹の時、水戸城を本拠とする江戸氏から攻撃を受けた。江戸氏総勢二千余名に対し徳宿氏は総勢三百余名、鹿行下総の大掾氏一族の援軍千五百人が到着する前に城攻めを受けた道幹は、もはやこれまでと覚悟を決め「今日の合戦は討死と決したり。よって城外へ打って出る。心ある者は我に続け」と馬にまたがり敵陣に踊り込み「名のある勇士や来たれや」と呼びかけ江戸氏の兵と相刺して討死した。両軍多数の死傷者を出す合戦を制したのは江戸氏であった。 現在本丸跡には、南側から稲荷神社、熊野三社権現、白鳥神社、八幡神社、出羽三山権現(塔)、愛宕神社(塔)、湯殿大権現(塔)がある。そのほか南端に「徳宿氏事績考碑」と戦死した勇者の冥福を祈って宝篋印塔(ほうきょういんとう)一基が立っている。 平成八年(1996)三月 鉾田町教育委員会 雅楽頭よりコメント |
徳宿城観察図(一部しかみてないので推測含む)

徳宿城写真集
徳宿城マップ
