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運転士は死刑か? |
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1. 東武野田線の大事故 私の小学校1年の時、疎開先の野田市駅近辺で電車の衝突事故がありました(日曜の朝4時頃)。 何かの手違いで上りと下りの電車が単線を出発してしまったのです。当時電車の遅延は常態化し、女の運転士は出発を急ぐ必要に迫られたと想像します。 ところが、下りの電車が小さな山陰から同一路線を疾走してくる対向電車を見つけたとき、その女の運転士は咄嗟にドアを開けて外へ飛び出しました。無人の電車は驀進を続け、最後は激しく抱き合いました。その衝突音は7キロ離れた疎開先の家まで聞こえました。月曜の朝、何も知らない私はランドセルを背負って、駅の近くを通ったのですが、その構内には手足がばらばらになった死体がうず高く積まれていました。 それ以来その駅の近くを通るのが怖く、いつも下を向いて通りました。 死者100名(推定)の大惨事です。今となっては殆ど記録も残っていないでしょう。 2. 運転士は死刑か? これは明らかに運転士の人的ミスであり、究極のヒューマンエラーです、業務上過失致死罪に相当します。 当時、男は戦場へ行っており、食料難がその田舎町を支配していました。 遺族の恨みは相当のものであったと想像します。子供の私はこの問題をどう考えるか、その術を知りませんでした。 しかし今となって、私は「生きてて良かったね」と言ってやりたいのです。 彼女は勇気をもって飛び降りたと思います。家には子供がいたかもしれません。 人間の「生と死」を支配するのは決して人間ではありません。戦後60年の教育はここのところを取り違えてきたのです。 どんな状況であれ、その畏るべき絶対存在の方が全てを決めるのです(ヨブ記)。 3. 事故原因の徹底的調査を直ぐ止めよ 事故直後の家族の思いは確かにその通りでしょう。ある程度は必要です。しかし「人間が悪かった」と言えるのは人間を創造した存在のみであり、かれを咎めるしか方策がありません。ロボットが悪さをすれば文句の行き場所はその設計者でしょう。人間が出来ることと言えば、その玉座を畏れ、その近くに立ち寄らないことだけではありませんか? つまり先進諸国で法制化した「リスク解析」が最後に残された哀れな人間の方策なのです。 いま我々が教訓として残させるのは「線路上に痕跡があった」などという事実ではありません。鉄道会社のリスク感覚が実に甘いものであった、という事実を残すべきなのです。 現在の事故調査は正に「何故、死者の中に生者を探すのか」という天使の言葉を想い出さずにはおられません。 そして最後に生き残った方達に心より申し上げます「生きてて本当に良かったね」と。 |