池田紳一の作文

◎バンドが楽しかった高校時代◎

高校生のころ、友人“中秋”が作ったブルースのバンドに誘われて入ってみました。
スタジオに出かけてみると、高下駄を履いて真っ黒に日焼けしたでっかいおっさんが、ものすごい
ダミ声で歌っていて、曲は彼の書いたオリジナル曲でした。
とりあえず大人の真似をして手を差し出し挨拶を。おっさんの手はざらざらしてゴムぞうりの底の
ようでした。
「おめえ、どのくらいピアノが弾けるんだ?」怖いから逆らわずに、でもなめられてはいけない
と思った私は、「ごちゃごちゃ言うよりまずは今の曲を一緒にやってみよう。」。彼は「今の曲?
オリジナルだぜ!いきなり弾けるのかよ?」「たぶんできる」「よし、やってみよう!」彼の合図に
合わせてセッションが始まりました。

セブンスコードをジャカジャカいわせたギターのカッティングとぶつからないように、Aメロは渋く
バッキング。Bメロはギターの中秋と呼吸を合わせて硬めの音色で。
そして、間奏、ギターソロに続いて私のソロ。いつも一人でピアノを弾いていた私は、自分で自分の
アドリブの伴奏をしなくてもギターとベースが支えてくれる「バンド」と言うスタイルが初めての経験で、

「これは便利だ。バンドの人って優しいなあ・・・楽しすぎる!」などと思いつつ、気持ちよくソロを
取らせてもらって、存分に音楽を楽しみました。そして一曲目が終わったとき、おっさんは両手を広げて
抱きついてきたのでした。
その後ダウンタウンブギウギバンドの曲を数曲、オルガンやストリングシンセサイザーも使って
演奏し、楽しい2時間はあっという間に終わりました。

スタジオ代を割り勘して、帰りに松屋で牛飯を一緒に食いながら話をしてみると、無精ひげのざらざら
生えたそのおっさんは、私と同い年の高校生でびっくり!さらに話をしているうちに彼の母親が私の
母の友人「首藤さん」だということが判明。お互いいつかどこかで会うことは予測していたのだが…
その後音大受験に入るまで私の高校生活はバンド一色だったような気がします。

◎オルガンとの出会い◎

3歳のころです、我が家に電気オルガンが現れました。当時若かった両親にとっては大変な
買い物だったと思います。
職場のコーラスサークルで知り合った両親。特に母は楽器を家に置き、娘(私の姉)に弾かせ
たかったそうです。音楽に触れると心が豊かになり、やさしい女性になると信じていたのです。
父は自家用車がほしかったそうですが、運悪く(?)55ccの単車が中古で手に入ってしまい、調子の悪い
単車の修理に夢中になっているすきに、母はまんまとオルガンを買っていました。。
父親譲りの自動車好きであった私にとって、ペダルのついた音の出る機械は「大掛かりな自動車の
おもちゃ」で、毎日コックピットに座ってオルガン号を運転していました。
それから父は、今度こそ自動車を買おうと必死に残業してお金をためました。さてどの車を買おうか?
と考えていた父の影響で、当時4歳のわたしはすべての国産車の名前を覚えていたそうです。

弱虫で泣き虫でのんびり屋の私は、幼稚園では何をやってもびりっけつでした。そんな私が唯一
夢中になっていたのはオルガン号の運転で、母はその姿を見て「息子には音楽しかない!」と
考えたらしく、次のボーナスが出たときには父を説得してついにアップライトピアノを買ってしまい
ました。
私の新しい愛車は3本ペダル、クラッチつきでした。
父の愛車購入計画はまたまた延期になってしまいました。

2度目の思い切った買い物をした母は気合も十分。当時、町一番のピアノの先生「さつきせんせい」を
我が家に呼んで、私と姉にピアノのレッスンを受けさせ、私は大型トラック「ピアノ号」で、音階の坂道を
登ったり降りたり。
母の思いと父の趣味をまぜこぜにした私の人格はこうして形成されたのでした。
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