趣味の経済学
趣味の経済学
アマチュアエコノミストのすすめ
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▲趣味の経済学 Index
外形標準課税という名の増税には反対です
首都高速道路の料金は2000円に値上げを
タイ米を買うことは タイに迷惑か?
住専処理に税金投入は当然
接待汚職の経済学
田中外相ガンバレ
田中外相ガンバレ
国民はメディアに操作されるか?
日本版財政赤字の政治経済学
小泉人気は異常なのか?
再度、田中外相ガンバレ、応援団もガンバレ
当世雇用問題異説
アマチュアエコノミストのすすめ
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アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します
日曜エコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します
アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の迷信に挑戦します
▲ 首都高速道路の料金は2000円に値上げを 「料金は需要と供給のバランスで決まる」のです (2001年4月16日)
▲ タイ米を買うことは タイに迷惑か? 日本国民が自由化を決断したら、東アジア通貨危機は起きなかった? (2001年4月30日)
▲ 住専処理に税金投入は当然 水俣病もHIV訴訟も国の責任は税金で補償するのです (2001年5月7日)
▲ 接待汚職の経済学 マスコミが非難を集中させる「天下り」が、官僚の不正行為を防ぐ抑止力になっている (2001年5月14日)
▲ 田中外相ガンバレ 田中外相を支持し、信頼し、期待します (2001年5月21日)
▲ 田中外相ガンバレ 応援団もガンバレ コールを精算します (2001年5月28日)
▲ 国民はメディアに操作されるか?< 草野厚教授への異論 (2001年5月28日)
▲ 日本版財政赤字の政治経済学 国債発行時にはその返済・増税計画の発表を画の発表を (2001年6月25日)
▲ 小泉人気は異常なのか? 民主制度と市場経済は期待値で動 (2001年7月16日)
▲ 再度、田中外相ガンバレ、応援団もガンバレ 外務省改革が他省にも波及するか? ( 2001年9月10日)
▲ 当世雇用問題異説 必ず失業率が低下する?政策 ( 2001年10月8日 )
▲ 米国同時多発テロを経済学する テロは割に合わない事業だと悟らせる ( 2001年10月15日)
▲ 縄暖簾の経済学 無責任な社会批判がストレス解消に役立つ ( 2001年10月22日 )
▲ W杯入場券のユニークな販売方法 オークションによる価格決定の妙 ( 2002年1月28日 )
▲ 江戸時代の百姓はけっこう豊かだった 百姓がコメを食べなかったら、誰がコメを食べたのか? ( 2002年3月25日 )
▲ 鳥インフルエンザ・回転ドア・三菱自動車 最近のできごとを考える ( 2004年4月19日 )
▲ 再度、回転ドアなど最近の話題を 企業・市場・安全性そして消費者 ( 2004年4月26日 )
▲FX、お客が損すりゃ業者は儲かる
仕組みの解明と適切な後始末を
残念ながら銀行業界にお灸をすえる効果は期待できない
銀行は納税資金確保のためにどのような経営戦略を採るだろうか?
1)行員・役員のリストラや賃上げストップ、2)株式配当の減配、3)預かり金利の引き下げ、4)貸し出し金利の引き上げ、5)振り込み手数料などの値上げ、6)経費節減のための外注工事などの削減、7)自己資本率確保のための貸し渋り。
「銀行員の給料は高すぎる」との嫉妬心が正義論として通用すると、「うちの会社の給料も銀行並とは言わないまでも、それと大差ない水準に上げてほしい」と要求できなくなる。
「天下の大銀行でさえこうなのだから、うちのような零細企業でボーナスに期待するのは勘弁してほしい」と中小企業の親父さんが言い出すだろう。銀行員の給料が高いことは他産業の賃上げの目標になるので、賃金労働者が嫉妬心を燃やすと結局は自分の首を絞めることになる。先に豊かになれる者から、豊かになるのです。
このようなわけで、行員・役員の負担には期待できない。税負担の多くは利用者へのサービス低下に転嫁されるだろう。銀行は税務署への納税手続きを代行するだけで、実際の税負担者は行員・役員と、それ以上に全国の利用者。これは消費税と同じ。
小売店は納税代行者で本当の負担者は消費者。極論すれば、「法人税など意味がないので廃止して、個人税だけにすべきだ」という主張になるのだが、ここではこれ以上突っ込まないことにする。
外形標準課税とは銀行という法人に課税するのだが、その実質は個人課税であり、全国から集めた税金を東京都が使うことになる。残念ながら法人としての銀行や行員・役員にお灸をすえる効果は期待できない。
財政危機にある東京都がとりやすいところから税金を取る、という安易な政策であり、財政再建の進まない政府も同じ危機にあるので強くは反対しない、と考えるべきであろう。
石原都知事のリーダーシップを高く評価するものの、東京都民でない私は「税金は安ければ安いほどよりよい社会だ」と考えていることもあり、「外形標準課税という名の増税には反対です」と主張します。
料金は「需要と供給の関係」で決まる
そこでヘソまがりの私は反対のことを考えました。それは「首都高速道路の料金は2000円に値上げすべきだ」です。
首都高速道路の料金を今の 700円を2000円にするとどうなるか?そうすると「こんなに渋滞して2000円なんてバカらしくて利用できない」と言って、利用者がグッと減るでしょう。
でも「たとえ2000円出しても、渋滞がなく予定どおり走れるなら、前より便利だ」と言う利用者はいるはずです。半年様子を見て、相変わらず利用者が少なく、渋滞が起きないなら今度は1500円にする。
そしてさらに半年経って相変わらず利用者が少いなら1200円に、もし渋滞が起き始めたら1800円にする。こうして半年ごとに、利用状況に応じて料金を改定するのです。これで渋滞もなくなり、経営も安泰。しかも政府の人気取り政策で料金が上下することもないでしょう。
この考え、利用者の立場を無視していますか?やはり値上げには反対ですか?建設費は償却したので料金はタダにすべきですか?もし首都高速の料金を 500円にしたら、今よりもっと渋滞が激しくなり、一般道路より時間がかかるようになるでしょう。それに、もし、もう一本今の上か下に高速道路を造ったとしましょう。
料金をいくらにするか?2000円ならともかく 400円くらいにしたら、利用者でイッパイ、激しい渋滞で結局低速道路になるでしょう。
東名高速・東北自動車道等では季節によって料金を変えるのです。つまりお盆休み、正月休みには料金を高くするのです。パック旅行の料金だって季節によって変わります。それと同じです。
つまり「料金は需要と供給のバランスで決まる」というのが、市場経済の原則だと思います。公共料金の名の下に政府が管理するのは「官僚支配の統制経済」であり、規制緩和の流れに逆らうものです。ついでに言うと、都営地下鉄の料金は都に任すべきです。それが地方自治のあり方だと考えます。
<「嘘ばっかりの経済常識」岩田規久男著 1996年12月発行 講談社>の中に「第2話 年中渋滞しているクセに、首都高の料金を上げるのはおかしい?」と題して、同じような趣旨の文がありました。
日本国民が自由化を決断したら、東アジア金融危機は起きなかった?
ところでタイでのコメの価格変動は困ったことなのか?そんなことはない。価格の変動が需要と供給のバランスをとっている。だからこうなるだろう。
日本がタイからコメを買う。そこで消費者価格と生産者価格が上がる。生産者は生産意欲に燃え、生産量が増える。生産量が増えれば価格が下がりバランスがとれる。これが市場経済の仕組みだ。
社会主義国のような管理経済ではどうなるか?外国へ輸出しても政府が消費者価格と生産者価格を抑えているので生産意欲はわかず、生産量は増えない。
公式の消費者価格は低いが現物はない。だからヤミ市場ができ、実際の価格は非常に高いことになる。旧ソ連がこうだった。
コメの国際価格が上がることは悪いことなのか?消費者価格が上がれば困る人は出る、と同時に生産者にとってはうれしいことだ。
タイやインドネシアのようなコメ輸出国でさえ、「コメの国際価格が低い。産業として魅力がなくなりつつある。コメが産業として伸びないなら、政府はこれから工業に力を入れるべきだ。」と、農業国から工業国に変わろうとしている。
「日本がタイ米を買ったためタイの人に迷惑をかけた」というのは誤りです。そして「コメの国際価格の上昇を、単純に困ったことだとは言い切れない」と考えます。
「タイ米を買うことは、タイに迷惑か?」と「首都高速道路の料金は2000円に値上げを」は、「価格弾力性」という言葉を知って、その応用問題として書いてみました
水俣病もHIV訴訟も国の責任は税金で補償する
政府が「国民」の声に従いこれを凍結すると、金融機関の中で一番弱い農協で取り付け騒ぎが起こる。農協の業務が一時的にでも止まれば、農作物の出荷が止まり、農協から農家への肥料や種や農機具の斡旋が止まり、農作業が止まり、日本の農業は止まる。金融不安より前に農業パニックが起こるのです。
幸い日本の食糧自給率は37%と低いので、消費者への影響は少ないかもしれない。農家が団地などでの産地直売、生協や市民団体の共同購入、大手スーパーの農家からの直接仕入れ等農協を通さないルート、それに輸入品等、産地や流通経路の多さが安定供給を保証する。食糧の安定供給のポイントは、自給率を上げることではなく、産地や流通経路を多くすることなのです。
私企業である住専に税金を使うのに「国民」は反対だと言う。しかし95年9月の補正予算14兆円のうち公共投資が12兆円超。そのほとんどはゼネコンにいったはずだ。しかし「国民」の反対はなかった。さらにその前年2月の補正予算で公共投資は7兆円。ゼネコンにも住専処理にも日本経済安定のために必要なら税金を使うべきです。
この文を発表した当時、日本のテレビ・新聞・雑誌などのマスコミは「住専処理に税金を使うな」との一大キャンペーン中でした。
あのキャンペーンに参加したジャーナリスト・評論家・エコノミストはその後どうしているのでしょう?「農協の一つや二つ破綻してでも裁判で決めるべきだった」、「たとえ株主訴訟を起こされても、母体行が負担すべきだった」、「不良債権は増えるかもしれないが、ことを荒立たせないために問題を先送りすべきだった」と言っているのでしょうか?解説者・評論家・予想屋・占師・傍観者に徹して自分の立場を明確にしなかった人はなんと言っているのでしょうか?どなたかこうした情報をお持ちの方は教えてください。
マスコミが非難を集中させる「天下り」が官僚の、不正行為を防ぐ抑止力になっている
まず、この職員が接待を受けずにこのまま仕事をしていたらどうなるか?大蔵省を退職し、どこか天下り先を渡り歩くだろう。そうすると大蔵省の給料・退職金、天下り先の給料・退職金をもらう。
これらの合計は一億円を軽く超えるだろう。つまり接待汚職が発覚して1億円以上将来の収入を失ったわけだ。汚職の発覚する確率がたったの2割程度と考えても、その機会費用は2000万円。
さらにいつか発覚するのではないかと常に心配し、有罪になった場合の罰金をも考慮すれば損益分岐点はもっと上がるだろう。日本では大蔵官僚にとって接待汚職は割に合わない仕組みになっている。マスコミが非難を集中させる「天下り」が不正行為を防ぐ抑止力になっているのだ。
このように考えると、あの二人は大蔵官僚のなかにあって珍しく計算の不得意な二人だったのだろう。接待を受けるのが得か?受けないのが得か?将来の収入を計算すれば簡単に分かることなのだから。したがってこのような汚職を減らすには、1)検挙率を上げる、2)損得勘定で考えても割に合わないことを周知徹底すればいい。
ところでこれは収賄側からの損益計算書。では贈賄側、企業・MOF担・その上司からの場合はどうか?収賄側よりもローリスク・ハイリターンなのかもしれない。だとすると役人側ではなく贈賄側の対策こそ必要だ、ということになるのだが、どなたか「接待汚職、贈賄側からの損益見積書」を作ってみませんか?
田中外相を支持し、信頼し、期待します
田中外相を支持し、信頼し、期待します
草野厚教授への異論
(1)初めの部分「即刻、首相は外相を更迭すべきだ。」==田中外相の替わりに誰を推薦しますか?
外相経験者なら今の外務省を作った責任者であり、改革はしないでしょう。改革とはその人がやってきたことの否定になるからです。それとも未経験の新人がいいですか?田中外相より適任だと言えますか?
少なくとも小泉総理は田中外相が適任だと考え、それ以上の人はいない、と判断したはずです。
いずれにしろ田中外相が辞任または解任されれば、それは反改革派の勝利宣言です。以後どのような大物が外相になっても抵抗は大きく、時にはラダイト将軍の亡霊が登場するかもしれない。そして間違いなく改革は挫折する。
評論家の中には「しかし田中外相に過大な期待はしない方がいい」と言う人もいそうですが、私は大きな期待を寄せています。国民が大きな期待を寄せるからこそ、外相も事務方もそれに応えようとするので、あまり期待しなかったり、全く期待しなかったら何も変えることはできません。
大きな期待を寄せるからこそ、小さなことにケチを付けたり、足を引っ張ったりしないのです。「小異を残し、大同につく」です。
(2)「省内改革を断行するには、外相と職員の相互理解と信頼が大前提であろう。」==外務省で公金使い込みが発覚し、これをなるべく表に出さず、内部処理ですまそうとして外相と衝突した、ということでしょう。
こうした内部処理の慣行を変えようとしたら、当然争いは生じます。信頼関係に基づいて改革されるならば、以前にとっくに改革されているはずです。抵抗がある限り挑戦的になるでしょう。
争いごとを嫌う体質と言えば、こうした逸話を思い出します。江戸時代末期、福沢諭吉先生がチェンバレンの経済学の教科書の目次を翻訳して幕府の役人に見せた。その時Competitionという言葉を「競争」と訳した。
役人は「争いという字がある。どうも穏やかでない」と言う。結局「競争」という字を塗りつぶしてエライ人に見せた、というエピソードがあります。この時代から「競争は悪である、コトは穏やかに解決しなければならない。」と言う人はいたのですね。
その考えが今でも生き延びていて、事前の根回しとか、談合となるのでしょう。私は福沢諭吉先生の側に立ちたいと思っています。
今回の外務省の公金使い込み、組織で隠そうとしたかもしれないが、使い込みは個人的なことです。多くの職員は残念がっているでしょう。もうこんなことは起きないように、と願っているはずです。
ですから外相と事務方の軋轢は一時的なもので、まもなく解消するはずです。その時にはこういう言葉がピッタリだと思います。「もうケンカは済みましたか?ケンカをしてこそ仲良くなれるものですよ」
(3)「国民の多くは、メディアによってシンボル化した田中外相のイメージに操作されている自分に、気が付いていないからである。」==そんなことはないでしょう。
新聞・雑誌・TVは情報という商品を流通し、販売するサービス業です。資本主義経済では他の商売と同じように、購読者・視聴者はお客様であり、神様なのです。神様のご機嫌を損ね、そっぽを向かれたら商売上がったりです。
そこで神様のご機嫌をとるために、神様がどんな情報を欲しがっているのか知りたがっています。神様にどの位気に入ってもらったか?のバロメーター、購読者数・出版部数・視聴率を気にするのです。
田中外相ガンバレの情報を多く扱うと気に入ってもらえるのか?その逆なのか?時には迷って新聞のある面では、田中外相ガンバレを取り上げ、他の面ではその逆を、TVも番組ごとに違った神様をターゲットに企画することもある。
こうなると情報販売会社の政治的・経済的主張はどこにあるのか?という質問は無意味になる。
ネットで田中応援団がいくつかできています。この人たちに「目覚めなさい!あなた方はマスコミに操作されている自分に気づくべきです。」と言うのですか?新興宗教のようですね?もちろん応援団は命がけではないでしょう。
財産・地位・仕事・などを賭けている人はいないでしょう。もしかしたら、おもしろそうだから、カッコいいから、と言う人もいるでしょう。「今日は赤いネクタイにしようか?それとも青にしようか?」という感覚で田中派にするか、反田中派にするか決める人もいるかもしれない。
「私は新しいタイプのアマチュア政治評論家なのだ」などと気取るのもいいでしょう。アマチュア政治家・アマチュア評論家・自称アマチュアエコノミスト、こうした人たちとネット上でハンドルネームを使って論争を楽しめたら素敵だと思います。
ちなみに私のHPのタイトルは「趣味の経済学 アマチュアエコノミストのすすめ」です。衣食足りて礼節を知る、私たち日本国民、こうしたことが趣味だなんてなかなかカッコいいと思いますよ。
かつての統制経済時代「贅沢は敵だ」とのスローガンに「贅沢は素敵だ」と切り返した国民、案外、恋愛と贅沢が資本主義を発展させることを知っていたのかもしれませんね。そんな国民を見くびると手痛いしっぺ返しを受けるかもしれません。
民主制度が根付いている国民は、マスコミに操作されるほどヤワではありません。マスコミに向かって、「田中外相ガンバレばかり載せて、国民を操作するな」と言うことは、GAPやUNIQLOのセール期間に「安いものばかりでなく、もっと良質なものも売るべきだ」とか、CHANELやLouisVuittonの特別内見会で、「もっと多くの人に喜ばれる商品も扱うべきだ。」と言うような、ナンセンスなことなのです。
もしも国民はマスコミによって操作されるものだと考えるなら「人民は無知である。党が教育・指導しなればならない。」というテーゼが生まれる。そうしてそれはオセアニア国のBBが1984年に実行しようとしたかもしれない。
「自分は冷静だが、国民はイメージに操作されている」と言う裏には「自分は一般国民より賢くて、善悪・損得の判断ができるが、多くの国民はその能力に欠ける」と考えているのではないか?と勘ぐりたくなります。そしてその考えが、「余計なお節介」になったり、他人の行動に対する「不当な干渉」なったり、「リーガル・パターナリズム」になったりしないよう願っています。
草野先生の本はいくつか読み、私の知識の血となり肉となっています。
ODA一兆二千億円のゆくえ、ODAの正しい見方、国鉄改革、国鉄解体、証券恐慌、大店法経済規制の構造、誰も知らないアメリカ議会、テレビ報道の正しい見方、日米安保とは何か、日本のODAをどうするか、日本の論争既得権益の功罪、山一証券破綻と危機管理。(もっとも買ったものはなく、すべて図書館で借りて読んだのですが)しかし今回の朝日新聞の「私の視点」だけはいただけません。朝日新聞は一つだけ嫌いなところがあります。それはODA=Official Development Assisitance を政府開発援助と言わずに、途上国援助と書いています。Official とDevelopment という言葉が抜けています。この点が嫌いです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。この文は私の方から一方的に送信したものなのでREはいりません。最後まで読んでいただければ、それで十分満足です。これからも先生の活躍には注目していくつもりです。TANAKA1942b URL http://www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/
国債発行時にはその返済・増税計画の発表を
もしこの対策がなく、国債の発行もなければどうなるか?その時は国債に予定されていた18兆円の資金が他へまわる。
それは郵貯から財投を経由して中小企業対策に、銀行預金から貸し渋り対策と信用創造の乗数効果に、株式市場から株式や国債の価格上昇により企業の含み資産アップと長期金利の低下に、設備投資や運転資金に、自己資金による新規事業に、住宅購入や一般消費で内需拡大に、それぞれが景気浮揚に役立つ。
対策が行われると民間から資金が吸い上げられ、景気回復への流れが締め出されるわけだ。
このように18兆円の資金は民間市場にあっても景気対策と同じように経済成長に寄与し、この緊急経済対策は実施してもしなくても実体経済は変わらない、ということになる。
違うのは消費と投資先を市場参加者の自由な判断に任せ、見えない手で分配するか?自分たちの権益を守ろうとする業界・権限を拡大しようとする官僚・支持業界の代弁者である族議員のトライアングルの見える手で分配するか?の違いだけになる。
デフレスパイラルから抜け出すには、財源を次のどれかにすることだ。1)海外市場で国債を発行する。2)NTT株やJR株などの政府保有株を海外で売却する
3)国債を市中消化ではなく日銀引受とする。4)IMFや世界銀行から借りる。
誰もが財源を問題にしようとしない。政府とは、他人に金を払わせ、自分だけが得をすると誰もが信じている虚構の制度なのだろうか?
ムダな経済対策と思っても、選挙で選ばれる国会議員はマスコミの報道する国民の声に逆らうことはできない。それが民主制度であり、このムダは民主制度を破産させないためのコストと考えるべきであろう。
そう諦めても、せめて国債の返済・増税計画は議論すべきだと思う。およそ家計でローンを組む場合や企業が設備投資や在庫投資をする場合には、それによっていくら利潤が上がるかを予測し、返済計画を立てるだろう。
「憲法で国債の発行を禁止すべきだ」との過激な主張には賛成できないが,「国債」という名の借金の場合も、予測される効果や返済計画とそれに伴う将来の増税計画があるべきだし、それを国債の債務保証をする国民が納得してから実施すべきだと考えるものである。
1)10兆円の国債が発行日当日に中止になった場合を考えてみよう。国債を買うために払込日には金融機関の口座に10兆円が振り込まれる。
それは預貯金の解約、株や債券の売却代金などから用意されたものだろう。払込日に中止になるとその10兆円はどこへ行くのだろうか?貯金にしても投資にしても消費にしても、民間市場にある10兆円は誰が使おうと、タンス預金にならない限り総需要拡大に役立つはずだ。
国債購入のために用意された10兆円のほとんどが銀行預金になった場合はどうか?この場合、総需要は拡大しないと言われる。本当だろうか?銀行では担当者の尻を叩いてでも融資先をつくり、融資を受けた企業では設備投資や在庫投資などで取引先への支払いに当てる。
支払いを受けた企業では従業員の給料や取引先への支払いのため銀行口座に振り込み、一部を預金にまわすだろう。さらにこの預金を受け入れた銀行の担当者はボーナス査定と将来の昇進を懸けて融資先を作り出し、融資先の企業は取引先の銀行に振り込むことになる。
このように国債購入のために用意された10兆円は、そのほとんどが銀行預金になったとしても信用創造の乗数効果を生む。市場参加者の合理的期待形成に反した経済状況であったとしても、活発に取引が行われ、大量の資金が動けば経済活動を刺激する。
このように資金の需要者と供給者の縁を取り持ち、経済活動を活発にするのが銀行の本来のビジネスだからだ。そして行員の積極的な融資活動が通貨流通速度を速めるかもしれない。
預金者も銀行員も企業経営者も従業員も、誰もが国民経済に貢献しようと思っているわけではないし、自分がどれほど寄与しているのかさえ知らない。ただ自分自身の利益拡大を図っているのであるが、多くの場合と同様に見えざる手に導かれて、今まで考えてもみなかった「経済成長」という大きな目標を促進することになるだろう。
2)国債を市中消化する場合と海外で発行する場合の違いを考えてみよう。市中消化の場合は民間市場の資金を吸い上げる。
しかし海外市場で発行すれば、国内の民間市場の資金を減少させることはない。民間の経済活動に加えて政府の公共投資がGDPにプラスされる。景気刺激の効果は期待していい。もちろん国債償還時には景気を冷やすのではあるが。
では企業が社債を発行する場合、国内より海外で発行した方がいいのだろうか?もしそうならば政府はそのように行政指導すべきなのだろうか?その答はこうなる。「政府は何もする必要はない。
せいぜい自由な企業活動を邪魔しないこと」「企業は自社に有利な方法を選択すればいい」「国民は企業経営者には利益追求のみに期待し、経済成長や雇用促進やメセナやフィランスロピーなどには期待しないこと。
ちょうどわれわれが自分の食事を肉屋や酒屋やパン屋の親切心にではなく、彼ら自身の利益追求心に期待するように」である。
3)国債の市中消化と日銀引受の違いはどうか?日銀引受は信用創造だ。政府の信用に対して日本銀行という金融機関が金を貸すわけで、一般の企業が銀行から借りるのと同じこと。
80年代の好景気は「金余り現象」で、この不景気は「金詰まり状況」だ。国債を海外で発行して海外から資金を導入するのもいい。民間市場で信用収縮が起きているなら、政府部門で信用拡大するのもいい。どちらも通貨流通量は増え、一時的ではあるが景気刺激策になる。
4)日銀がハイパワード・マネーをコントロールするために市中銀行から債権や手形を買い入れる公開市場操作を「買いオペ」と言う。
金融緩和策の一つだ。その逆に債権や手形を売って民間資金を吸い上げるのを「売りオペ」と言う。こちらは金融引締め策。国債発行はこの「売りオペ」と同じように通貨流通量を減らす作用がある。
国債を発行して公共投資をするということは、市場から資金を吸い上げて一時景気を冷やし、その後政府支出で反対に景気を刺激する、という楯と鉾の政策を同時にとるようなものだ。「公共投資がGDPを2.6%押し上げる」と言うなら、「その前に国債発行が民間資金を吸い上げてGDPを2.6%引き下げる」とも言うべきであろう。
5)当初予算で10兆円の戻し減税を予定し、その財源として10兆円の国債を発行するとしよう。
これは景気を刺激するのか?冷やすのか?では10兆円の国債償還のために10兆円の国債発行はどうか?10兆円の国債発行で10兆円の公共投資はどうか?10兆円の増税と10兆円の国債償還はどうか?10兆円の増税で10兆円の公共投資は?
「景気刺激策としては減税か公共投資。インフレ対策には増税か政府支出の削減」ということだが、このように公共投資・増税・減税・国債発行・国債償還などを組み合わせて考えると、この常識が揺らいでくる。
このように考えるとしよう。これらの政策はどれも民間から10兆円を集めて、それを民間に分配する、単に所得再分配をしているだけで景気対策ではない。その政策実行の過程で政・官・業のトライアングルが知恵を絞り腕を振るう。一方は国債発行残高を増加させ、一方は減少させる。
増税も国債発行もなく10兆円の戻し減税をしたら景気を刺激するか?減税も国債発行もなく10兆円の国債償還はどうか?減税も国債償還もなく10兆円を公共投資に回した場合は?公共投資に予定していた10兆円を国債償還に回したら?逆に国債償還に予定していた10兆円を公共投資に回したら?
政府が集めた10兆円が民間部門に行くことに関してはどれも違いはない。しいて言えば、10兆円が資金の流れの川上に行くか?川下に行くか?の違い、そしてもしかすると通貨流通速度を早めるかもしれない、だけだ。
6)10兆円の国債償還と 5兆円の海外市場での国債発行の予算はどうだろう。差引 5兆円も国債を償還すればケインジアンは超緊縮財政と非難するだろう。
しかしこの国債償還とは、民間から10兆円を税金として集めこれを国債償還として民間に分配すること、つまり10兆円が民間ー政府ー民間と移動するだけで景気には中立。一方 5兆円の海外での国債発行による政府支出は景気を刺激する。つまりさし引き 5兆円の国債を償還して景気を刺激する予算なのだ。この政策は国債を償還するときに使える。
7)政府保証なしの紙幣発行はどうか?日本経済はそれほど落ち込んではいないので、ここでは検討しないことにする。
ただし日本が管理通貨制度ではなく、金本位制であれば、そして政府の財政政策が信頼されていれば、たとえ制限外保証発行であっても、兌換紙幣の発行は検討してみる価値があるだろう。これに関しては高橋是清の意見を聞くがいい。
もしもハイパー・インフレの恐れが出たら、松方正義に相談を持ちかけてみよう。
2)と3)は通貨流通量を増やし、インフレ懸念はあるが一時的に景気を刺激する。しかし償還時には景気を冷やすので、景気対策の効果が出始めたら徐々に償還の準備をし、景気が上向くのに合わせて経済構造改革を行う。ただし実際は民間部門の改革であり、政府は新陳代謝のショックを和らげたり、改革が進むよう法律を整えればいい。
この場合の構造改革とは生産性の向上を目指すものになる。個々の企業では生産性の低い部門から高い部門への移動やリストラ。そして生産性の低い業界からは廃業・撤退する企業が出てくることになるだろう。雇用保険の充実によって安心して失業できるようになり、自然失業率を大きく越えた数字も出るだろう。
インフレ懸念はどうかと言うと、マネーサプライの増加率以上に産出量が増加すればインフレは心配ない。
一方5)と6)からわかるように、市中消化の国債による公共投資は景気に影響を与えない。景気を刺激することもないし、国債償還が景気を冷やすこともなく、ただ単に所得再分配をしているだけである。
市場経済では常に需給ギャップはあるし、民主制度にムダはつきものだ。これは熱狂的な崇拝の対象になるような完全無欠な主義などではなく、試行錯誤を繰り返しながらよくなっていく、政治的・経済的な個人の自由を保証するための功利的な制度なのだろう。
「誰が経済政策を誤ったか?」「その責任はどうする?」などの過去に対する自虐的な議論はしないことにする。
こんな大きなムダがあってもこの制度に勝るものはない。王様や皇帝や貴族など支配者が世襲制である社会、歯医者が虫歯を治療するように経済の病根を治療できると専門家に期待する社会、プロレタリア独裁という名の官僚政治、
法律ではなく大衆の感情で裁く文革時代の人民裁判、議会の決定よりも市民運動の主張を重視する直接民主主義、管理責任者不在のアナルコサンディカリズム、マネーゲームを極端に規制する国家社会主義、国家が公定価格を定めても実際はヤミ価格が横行する統制経済、
ネズミを捕るのが白い猫か黒い猫かが問題なのであって国家イデオロギーを守るためには国民に餓死者が出てもかまわない社会、先に豊かになれる者から豊かになるのではなく国民すべてが平等に貧乏になる結果平等主義、話せば分かる善意の人たちばかりの社会と思い込んでいる空想平和主義、汗水流して働くよりも社会保障や他人の博愛心に頼った方が楽だと考える人が多くなる福祉国家、、、、、
「自己責任」こそが最も尊重されるという点でどの制度よりも優れている。市場経済と民主制度を育てるために多少のムダは我慢するとしよう。これは「衣食足りて礼節を知る」人々の社会にこそ適した、けっこうコストのかかる贅沢な制度のようだからだ。
日本版財政赤字の政治経済学(Democracy in Deficit)の結論は、「借金をするときは返済計画を立ててからにしましょう」という極めて常識的なものだ。30兆円の国債を発行するなら「国債償還のために、3年後から 7年間にわたって消費税を 3%アップして 8%とする」のような返済・増税計画を発表すべきだ。
「そんなに借金して、消費税アップしてまで景気対策する必要はない」との意見もあるだろうし、「それでも対策が必要だ」と国民が言うなら対策は実行することになる。
それが民主制度であり、その結果の責任は国民が負うことになる。
国債発行時には、その返済・増税計画を発表し、それを国民が判断することが大切だと考えるものである。
補足 この文を書いたのは1998年秋、緊急経済対策が発表されてすぐの時、それから発表する機会もなく今日に至りました。
その後ゼロ金利政策、調整インフレなどが話題になり、財投という言葉も意味がなくなり、これらを含めて新たに書き直さなければならないのですが、エネルギー不足です。いつ書き替えられるか自信がありません。ここらがアマチュアの力の限界のようです。それでも大筋では正しいと判断し掲載しました。
民主制度と市場経済は期待値で動く
ここでは2つの面から検討してみよう。=その1=マスコミは世論を操作しているのだろうか?=その2=国民の支持が高いのは異常なのか?
(A)マスコミはどちらの方向に?(B)何故?国民を導こうとしているのか?
マスコミ==新聞・雑誌・TVは情報という商品を流通し、販売するサービス業だ。NHKを除けばほとんどは株式会社だ。特殊法人、財団法人、社団法人、学校法人、医療法人ではない。
多くの会社は株主から利益を出すよう求められている。(ごく一部の株式を公開してない同族会社・家族経営の商店のような会社もあるが)資本主義経済では他の商売と同じように、購読者・視聴者はお客様であり、神様なのだ。神様のご機嫌を損ね、そっぽを向かれたら商売上がったり。
そこで神様のご機嫌をとるために、神様がどんな情報を欲しがっているのかをりたがる。神様にどの位気に入ってもらったか?のバロメーター、購読者数・出版部数・視聴率を気にする。
「小泉内閣ガンバレ」の情報を多く扱うと気に入ってもらえるのか?その逆なのか?時には迷って新聞のある面では、小泉内閣ガンバレを取り上げ、他の面ではその逆を、TVも番組ごとに違った神様をターゲットに企画することもある。
(マーケット・セグメンテーション)。こうなると情報販売会社の政治的・経済的主張はどこにあるのか?という質問は無意味になる。(もっとも現場の若い人の中には「自分達こそが正義を守る」との自負とも、思い上がりともつかない気負いのあるかもしれないが)
このようなマスコミは国民をどちらの方向に世論操作しようとするのか?「みんなで小泉内閣を支持して、改革を成功させよう」と煽っていると言うのだろうか?
選挙で選ばれた国会議員に選ばれた、日本国憲法のルール通りの内閣だが、マスコミは常に反政府を主張しなければいけないのか?それとも「政治家は悪いことをいっぱいやっているのに、マスコミはそれを報道しない、という方法で国民を操作している。」とでも言うのだろうか?
何故高い支持率になるように、イメージ操作する必要があると言うのだろうか?高い支持率になるとマスコミにどんなメリットがあるのか?あるいは支持率が低いとマスコミが損することでもあるのだろうか?
突っ込んで考えていくと、論理に筋が通らない。単に感覚的な、感情に基づいて言っているようだ。このように批判・主張する人間が小泉首相のライバルになるほどの政治家なら、嫉妬心で言っているのだろうと想像できるが、そうでない人間なら、理由は分からない。
単なるマスコミ嫌いなのだろうか?それとも人と違う違ったことを言うことによって、社会的地位を占めようとしているのだろうか?それともへそ曲がりなのか、ひがみ根性なのか?どうも冷静な論争はできないようだ。これ以上突っ込むのはやめにしておこう。
「異常だ」という理由の一番は、まだ実績を上げてないのに、評価されるものがないのに、支持するのはおかしい、ということだろう。株式市場で言えば、業績が確定してないのに買い注文が入るのはおかしい、と言うのと同じだ。
では、このような株の値動きはおかしいのか?異常なのか?株の値動きは、実績ではなくて、将来に対する期待で動く。従って、たとえ赤字でも株価が上昇することもある。そのいい例がアマゾンドットコムだ。創業以来赤字を続けながら株価は上昇していた。
株をやっている人なら別に不思議でも何でもない。合理的期待形成と言うと経済学の結構ややこしい理論で、「アマチュアが分かった風なことを言うな」と言われそうなので、突っ込んだ話はしないとしても、それでも言わせてもらえれば、要するに「期待」なのだ。
実体だけを問題にするのが現物取引なら、「期待」を取引するのが、フューチャーであり、オプションだ。小泉内閣の実績だけを問題にするのは、「市場経済の初歩的理解者」であり、「期待」を評価の基準にするのは「市場経済の理解者」となる。
マルクス経済学では前者となる。つまり「資本主義経済は良くない、いずれは社会主義経済になるべきだ。たとえソ連で失敗しても、それなりの理由があったはずで、その原因を取り除けば、社会主義経済は理想だ」と考えている人の発想だろう。そして世論調査に答えた一般国民は高い支持率を示した、ということは、一般国民は市場経済を理解している、となる。
「高い支持率は異常だ、と言う人」より、「高い支持をした一般国民」は市場経済に馴染んでいると言える。
「期待」で動くのだから、ちょっとしたことで期待値は変わる。それが理解できない人には、株、商品取引、オプション、デリバティブ、ヘッジファンドこれらはみなバブルということになるのだろう。特にレバレッジ効果などという言葉になると、資本主義嫌いの人にとっては憎むべき効果なのかもしれない。
そして日本経済に傍観者的態度をとっている人には理解できないかもしれない。しかし株をやってる人なら、そして日本経済の動きに直接関係している人ならば、経済学を特別に勉強してなくても、経済学が趣味でなくても、素直にその効果を理解できるはずだ。
そしてこうしたマネーゲームを市場経済では当たり前のものとして受け入れるはずだ。とは言えバブルという言葉は合っているかもしれない。資本主義経済とはバブルの部分はあるし、だから「株価ぷかぷか論」という一見ふざけたような表現が実は資本主義経済を的確に表現している、と言えるのだ。
このことに関しては、「ケインズの美人コンテスト」の話を持ち出すと、話は面白くなるのだが、経済の話を解説することを生業としている人がどこかで発表していると思うので、アマチュアエコノミストとしては、
この人達の営業領域を侵さないことによう。
ところで高い支持率にも拘わらず株価は低迷している。「これはおかしい」との評論家もいそうだが、矛盾しているわけではない。一般国民、マーケット、マネーゲーム・プレーヤーはこのように見ているのだろう。「小泉内閣が構造改革に取りくむ姿勢は本物だ。
今までの内閣と違ってやるだろう。やってもらおう。支持しよう。そしてその構造改革とは、いたみを伴う。経済も高い成長は望めない。企業も高い収益は期待できない。当然株価もあまり右上がりは期待できない。」となると高い支持率の割に株価は低迷することになる。
国民もマーケットも同じ「期待値」だ。そしてTANAKA1942bも同じ見方をしている。ということは、「TANAKA1942bはもう少しユニークな見方をしていると思ったのに、多くの人たちと同じレベルでしかない。残念。」と「他人と違ったおかしな考え方しかできないと思っていたけれど、それほど変な人間ではなかった。安心。」
という複雑な気持ちではあるのだが、このHPでは精一杯ユニークな論法を披露していくつもりですので、これからも変わらぬお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
外務省改革が他省にも波及するか?
田中外相応援団シンパの筆者は次のように考えることにしている。日本の民主制度は国会を国の最高決定機関としている。国民はその構成員である国会議員を選挙で選ぶ。
もし国会の議決に不満があるなら次の選挙でしかるべき候補者に投票すればいい。このように国会議員は国民から信任されている。
ところが官僚は違う。国民から選ばれた国会議員=国務大臣を国民の信任を受けたわけでもない官僚が操る、そのような習慣は良くない。田中外相はそのような悪習慣を断ち切ろうとした、と考えるといいだろう。
そうしてそのようような例は、田中真紀子科学技術庁長官、菅直人厚生大臣がいた。
他にもいたかもしれないがマスコミで話題にはならなかった。
今の時期、国会議員こそが国民の信任を受けて国の歩むべき道を決定する、ということを明確にするのは大切なことだ。小泉内閣が進めようとしている改革、これは国会議員が国会で決議するのであって、官僚が決めるのではない。
もちろん業界、圧力団体、市民運動、NGOでもない。もしも官僚や市民運動が決めるのなら総選挙の意味がなくなる。何党が政権を取っても、誰が首相になっても変わらない、ということになってしまう。
このことを明確にしておかなければ民主制度のルールは守られない。
田中外相が進める外務省改革、これは官僚主導の政治から政治家主導の政策決定へと方向転換することになるだろう。
ところで外務省改革は多くの抵抗に会いながらも進んでいく。その率直な発言を嫌う永田町の旧勢力、常に政治の主力から距離を置き批判しなければ存在理由がないと思い上がった正義感に燃えるジャーナリスト。
それを遠くから見て楽しむ傍観者的国民。しかし今回はネット上で田中外相応援団もいくつかできている。理屈っぽいことを言わなくても直感的にどちらが危うい考えなのか?を判断する国民が多くなった。
日本の国民はけっこういいセンスを持っていて、誰の言うことがまともなのか?誰が怪しげなのか?ちゃんと判断している。
外務省が政治家主導になると、他の省庁はどうなるだろうか?構造改革にそれは表れてくる。首相の進める構造改革を促進するのか?それとも抵抗するのか?抵抗勢力は官僚、業界、その他の圧力団体。
そこで大臣の姿勢が明確になる。官僚の言いなりになり、改革に争論賛成各論反対の姿勢を採るか?官僚との軋轢を恐れず改革を進めようとするか?いくつかの省庁とその国務大臣を注目していこう。
必ず失業率が低下する?政策
「自分から失業を志願した人が120万人もいるんだ!!」
筆者は「日本版財政赤字の政治経済学」で次のように書いた。 この場合の構造改革とは生産性の向上を目指すものになる。
個々の企業では生産性の低い部門から高い部門への移動やリストラ。そして生産性の低い業界からは廃業・撤退する企業が出てくることになるだろう。雇用保険の充実によって安心して失業できるようになり、自然失業率を大きく越えた数字も出るだろう。
予想通りの結果が出てしまった。雇用保険の充実によって自分から失業者の仲間入りした人が120万人にもなってしまった。
さあ、そこでアマチュアエコノミストが登場する。必ず失業率が下がる政策を提案しよう。答えは簡単。実に簡単。雇用保険が充実しているので、失業志願者が増える。それなら雇用保険を少し手直しすればいい。どのように手直しするか?
(1)給付期間を短くする。 (2)給付期間中、日が経つにつれ給付率を下げていく。最初の一月は基準通りの給付金。一月後からは基準の90%。その後2週間経つとさらに1割減、つまり基準の81%。さらに2週間経つとさらに1割減。基準の73%。・・・ (3)早期再就職祝い金の増額。
この文を書きながら、こうした政策は間違いなく実行されないな、と思う。政府・自民党の方針はむしろ給付期間の延長のようだ。セイフティー・ネットの充実こそ必要だ、となる。社会主義者でなくても雇用政策で自由放任は採用しない。
これに関しては異論はないようだ。こうした状況を認めたうえで、だからこそこうした政策を考えてみようと思う。それが頭の体操になるから。どうせ採用されない政策だからこそ、自由に考えることができる。
人類がまだ類人猿だった頃、いやそれよりも前のこと、木の上で生活していた頃、どうして木から降りたのだろう?というところから話は始まる。
私たち人類の先祖の猿族にある時悪いウイルスが流行った。ウイルスはある時期、ある地域で流行る。そのウイルスでいつも、必ず発病するとは限らない。「今年は日本でA香港型ウイルスが流行っている」などと言う。去年流行らなかったのに、何故今年なのか?何故日本でタイやフィリピンではないのか?などと言い出すとややこしくなるので、ここでは触れないことにする。
ウイルスに感染し、発病した先祖の猿族は木の上で生活する体力を失っていた。腕の力が弱まり木の上での生活ができなくなったため、地上で生活せざるを得なかった。しかし地上の生活は危険が一杯だった。多くの猿族が病気で死に、食料を集められずに死に、そしてさらに多くが猛獣に襲われた。種族のごく少数だけが生き延びた。何世代にもわたって種族の数が減り続けた。
長い長い猿族の歴史でこのようなことは、あちこちで、幾度もあった。そうした猿族の歴史で、ある時画期的な出来事が起きた。地上で生活し始めた猿の一部が、木の枝や石を投げ猛獣を追い払うことを覚え、さらにこれらを生活の道具として使うようになった。それと同じ頃仲間に危険を知らせたり、食料の情報を伝えたり、と多くの情報を伝えあうために、言葉を使うようになった。猿族の一部が我々の先祖=類人猿になった経緯はこうだった。
この仮説で問題なのは「木から降りた猿が、どうして道具を使うようになったり、言葉を話すようになったのか?」という疑問だろう。動物は体の一部の機能が麻痺すると、代わりの器官が働きを代行する。よく知られている例では、胃潰瘍などで胃を切り取ると腸が胃の働きを代行する。この例から分かるように、腕の力の弱まった猿族の一部で、代わりに脳の働きが活発になった、と説明できる。これを「過剰補償」と言う。
このように人類の先祖は腕の力が弱まって樹上生活をやめたのだが、21世紀の現代になってもその記憶が身体に残っている。生まれて間もない乳児は、手を握る力がとても強く、鉄棒にぶら下がれるほどの握力がある。これは樹上生活時代の記憶が乳児に伝えられているからだ。
大人になると脳の旧皮質に代わり新皮質の働きが多くなる。このためずっと、ずっと遠い過去の記憶は脳内のずっと隅っこに追いやられてしまう。ところが何かのきっかけで記憶が甦ることがある。という仮説は「自給自足の神話」 で書いた。
自然の中では病気の動物が生き残るチャンスはほとんどない。病気の動物が、ただ自分が生きつづけるだけでなくその方法を子孫にも伝えられるような新しい方法を見出すのはごく希な場合に過ぎない。現代人は治療法の進歩のおかげで病人は死ぬことを免れるが、またこれによって不釣り合いに多くの欠陥遺伝子が次世代に伝えられる。こうして、人間は他のいかなる動物よりも急速な進化上の変化を示した。
かつて人類が「自給自足」を神話とした時、つまり自分が必要とする以上の食糧を生産する技術を手に入れ、それらを交換する市場を作り、都市を造り、国家を形成した頃、その頃の国家は交換の場としての「市場」を守るだけのものであった。その国家が経済の成長に伴い、知性の進化に伴い、その機能を拡大させて来た。
軍事力・警察力に加え、貨幣の発行・道路交通網の整備・教育などが加わった。さらに所得格差の縮小・生活保護が加わった。現代では景気の悪いのは国家・政府の責任になる。さらに「銀行などの経済のキーポイントとなる産業や、人間に必要な食料産業・農業は血税を使ってでも、政府が守るべきである」、となる。
博愛主義者や自由主義者は無力な子供に必要なものを用意してやる親の役割を自ら買って出る傾向がある。それによって彼らは面倒を見てもらう側の幼稚化を助長しているのである。もともとハンディキャップを追わされた動物は、補償と過剰補償によって生き残るしかない。動物界には博愛主義的機構など存在しない。
つまり博愛主義的機構やひとつの姿勢としてのリベラリズムは、面倒を見てもらう方の人間から、本来ならばあったはずの補償的能力を発展させる性質を事実上奪ってしまう。
こうして恩恵を施す方は、保護者である親の役割を引き受けることで、施される側に、自分では何も努力しなくても、その気まぐれを何でも叶えてもらえるという子供の態度を助長するだけのことである。 そして社会の仕組みは「汗水流して働くよりも社会保障や他人の博愛心に頼った方が楽だと考える人が多くなる福祉社会」へと向かう。
(「日本版財政赤字の政治経済学」)
かつて知性がこれほど進化する以前の、サバイバル・ストラテジーは現代ではサバイバル・ゲームとして生き返り、消費者運動・住民運動・非政府組織などと一緒に、豊かな社会で「お遊びごっこ」としてストレス解消に役立っている。
(「自給自足の神話」)
国家が「職業選択の自由」を保証し、「職業に就くことを保証する」までになりつつある現代、前述の「必ず失業率が低下する?政策」は採用される見通しはない。子供が要求する以前に母親が手を出し保護するように、個人が要求する以前に国家が保護する制度を求める声が大きくなっている。
こうした社会で要求されるのは、「自己責任に徹し、自立した大人」、ではなく社会を強力に改革しようとするよりも、上手に適応し、利口な子供の要素を残した大人、いわゆる man-childまたはadult-children になることだろう。「21世紀の初頭には、小さい政府・規制緩和・自己責任などを主張したおかしな論者がいたものだ」などと、後世の人々に笑われるのかも知れない。それでも「その中にTANAKA1942bという飛び抜けて頑固な保守主義者がいた」とでも記憶されるなら、せめてもの幸せと思うべきなのかも知れない。