コメ自由化への試案
日本人が作りだした農産物
品種改良にみる農業先進国型産業論

  コメ自由化への試案  日本人が作りだした農産物  品種改良にみる農業先進国型産業論    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b がコメ自由化への試案を提言します   If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain――Winston Churchill    30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない      アマチュアエコノミスト TANAKA1942b がコメ自由化への試案を提言します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b がコメ自由化への試案を提言します   趣味の経済学   コメ自由化への試案

日本人が作りだした農産物  品種改良にみる農業先進国型産業論

(1) コシヒカリの誕生 研究者の根気と偶然性 ( 2003年6月30日 )
(2) コシヒカリを超えられるか? 競い合う各県の農業試験所 ( 2003年7月7日 )
(3) コシヒカリから生まれた優等生 海外でも人気を博す日本米 ( 2003年7月14日 )
(4) コシヒカリ独壇場の秘密 市場原理と豊かな消費者 ( 2003年7月21日 )
(5) 野菜・果物・花卉の品種改良 「一代雑種」という改良方法 ( 2003年7月28日 )
(6) 諸外国での品種改良 緑の革命とEU農業政策 ( 2003年8月4日 )
(7) 新大陸からの金銀以上の宝物 トマト、ジャガイモの普及と改良 ( 2003年8月11日 )
(8) 美味いものには国籍不用 進歩する品種改良手法 ( 2003年8月18日 )
(9) まだまだあった新大陸の味覚 コロンブス時代からの植物史 ( 2003年8月25日 )
(10)江戸町人の好奇心と遊び心 花卉園芸・元禄グルメ・西鶴 ( 2003年9月1日 )
(11)稲の品種の使い分け 非情報化時代の情報網 ( 2003年9月8日 )
(12)品種改良の方法 メンデル、選抜育種法、交雑育種法 ( 2003年11月10日 )
(13)在来種への思い入れ 消費者に気に入られる野菜とは ( 2003年11月17日 )
(14)外来種が定着し在来種となる 野菜の原産地・導入育種法 ( 2003年11月24日 )
(15)日本人に適した品種改良 好奇心と遊び心 ( 2003年12月1日 )
(16)細胞育種法 ポテトXトマト=ポマト、オレンジXカラタチ=オレタチ ( 2003年12月8日 )
(17)自家不和合性と雑種強勢 農業経営組織・制度の品種改良は可能か? ( 2003年12月15日 )
(18)日本人が切り開いたハイブリッド技術 外山亀太郎の蚕・柿崎洋一のナス ( 2003年12月22日 )
(19)ハイブリッドライスの可能性 先進国型品種改良への転換 ( 2003年12月29日 )
(20)遺伝子組み換え技術の誕生 医薬品からの実用化 ( 2004年1月5日 )
(21)野菜に加えられた良き性質 GMOの広がる可能性 ( 2004年1月12日 )
(22)遺伝子工学の方法 何が進歩して、何が停滞しているのか? ( 2004年1月19日 )
(23)批判派・推進派の主張 世界の食糧危機を救うか? ( 2004年1月26日 )
(24)安全性について考える 利益と不利益とのバランスをはかる社会的な概念 ( 2004年2月2日 )
(25)栽培しないことの利益と不利益 「結論を延ばす」という結論の機会費用 ( 2004年2月9日 )
(26)品種改良で農業の将来はどうなるか? 日本農業は崩壊しない ( 2004年2月16日 )
(27)品種改良を経済学の目で見る 先人たちの助言を聞いてみよう ( 2004年2月23日 )
(28)自給自足こそが貧困への第一歩 いろんな時代のアダム・スミスたち ( 2004年3月1日 )
(29)農作物を世界で分業すると…… 低賃金と劣悪な労働条件の最貧国、しかし…… ( 2004年3月8日 )
(30)有閑階級の恋愛と贅沢と資本主義 正義と嫉妬と不平等の経済学 ( 2004年3月15日 )
(31)タネ作りは種子会社に任せよう 在来種もF1も、その改良品種も ( 2004年3月22日 )
(32)反進化論は品種改良をどう説明する? 「ルーシー」と「ミトコンドリア・イブ」 ( 2004年3月29日 )
(33)市場重視と株式会社参入 さらなる進化のために ( 2004年4月5日 )
(34)やはり農業は先進国型産業であった 参考になった文献集 ( 2004年4月12日 )

コメ自由化への試案 Index  

(1)コシヒカリの誕生
研究者の根気と偶然性

<NIRA報告書から> TANAKA1942bが「コメは自由化すべし」と主張するのは「農業は先進国型産業である」との考え、すなわち「農業は日本のような先進国に適した産業で、研究開発に熱心な日本人にこそ適した産業だ」と考えるからだ。「農業先進国型産業論」という考え方は「農業自立戦略の研究」(通称「NIRA報告書」)に書かれたのが最初ではないか、と思う。そこで今回のシリーズでは「NIRA報告書」を頭に置きながら、「品種改良」をテーマに「農業先進国型産業論」を展開していくことにした。 「NIRA報告書」をまとめた叶芳和氏が農業問題に発言しなくなってから、「農業先進国型産業論」は聞かれなくなった。「NIRA報告書」の姿勢を引き継ぎながらも、そこでは扱われなかった側面から、日本の農業を考えようと思う。アマチュアがどこまで「農業先進国型産業論」を展開できるか?しばらくこのHPにお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
 「NIRA報告書」で叶芳和氏等が農業をどのように考えていたか?報告書の初めの部分を引用しよう。
 日本農業が直面している高価格、過剰供給(生産調整)、低自給率等の諸困難は、解決可能な課題だと考える。さらに、諸外国の農業者にわが国市場へのフリー・アクセスを与えることも可能だと考える。 農業は先進国で比較優位をもちうる産業である。日本は先進国であり、農産物の輸出国にさえなれる潜在的条件をもっている。この条件をいかに生かすかが重要である。技術革新と規模の利益を実現させるシステムを設計することが肝要である。(中略)
 農業をいかなる産業と把握するかで、農業に対する政策体系は異なる。農業を「後進的な産業」ととらえた場合、国内の自給体制の維持をめざす限り、過保護農政に走ることになる。われわれは、農業は研究開発ならびにヒューマン・キャピタル(人的資本)の蓄積が他産業以上に重要であると考える。 それ故、農業は本来なら先進国で比較優位をもちうる産業であり、最も「先進国型」の産業であると考える。輸入制限がなくても、わが国で農業が発達する条件が潜在的にはあると考える。
<米の品種改良から調べてみよう> 江戸時代のことを調べている内に、江戸時代の植物の品種改良はけっこう進んでいた。メンデルの法則など知らなかったのにそれを応用したかのような品種改良をやっていた。武士や町人が花木や金魚など、でも商売と言うより趣味でやっていた。そのポイントは「好奇心」と「遊び心」。その2つが必要条件となると、これは「アマチュアエコノミスト」の必要条件と同じとなる。 そんなことを考えていたら、江戸時代の農業に関しては「先進国」だったことに気付いた。江戸時代から日本は先進国だったし、農業は先進国型産業だったのだ。
 こうして江戸時代から先進国型産業だった日本の農業、では現代ではどうなのだろうか?そこで「もしも品種改良がなかったら、日本の農産物はどうなっていたろう?」と考えると、日本の農業から品種改良の成果を除いたら、どうなっていたか想像もつかない状況だと考えるようになった。
 品種改良にみる農業先進国型産業論、先ずはコメの品種改良=
コシヒカリ=から始めよう。
※                     ※                     ※
コシヒカリ開発略年表
<新潟県農試 高橋浩之 池隆肆 仮谷桂>
1944(昭和19)年 7月末、新潟県農事試験所(長岡市長倉町)水稲育種指定試験地主任技師の高橋浩之は人工交配に取り組んだ。それは晩生(おくて)種の「農林22号」を母とし、早稲(わせ)種の「農林1号」を父とする組み合わせだった。今でこそコシヒカリは美味い米、と評価されるが、高橋はイモチ病に強く「質より量」を目指しての育種であった。
 田植え作業は県農試付属の農業技術員養成所の生徒の手を借り、除草作業は長岡市内の女学校に手伝ってもらい、やっと交配作業にたどりついた。当時を知る元新潟県農業専門技術員の村山錬太郎は、「高橋さんのような高等官の主任技師で、素足で真っ先に田んぼに入っていく人はおりませんでした。あのころ、夕方遅くなっても、圃場に独特の藁帽子をかぶった高橋さんの姿が見え、今日もまた高橋さんは頑張って働いていると思ったものでした」と当時を振り返る。
 高橋は後年、当時の状況を述べた次のような手紙を、東大教授(育種学)の松尾孝嶺に送っている。「毎日何回となく、水田を自分ではい回りながら、時には、めまいがして畦にしゃがみ込んだりしたこともありましたが、自分のやっている仕事が、人を殺すことにまったく関係がないという信念によって、迷うことなく仕事に専念することができました。今になって思えば、あのころの運営はまことに奇跡の感がします」。松尾は太平洋戦争当時、新潟県農試の雪害試験地主任を務め、高橋とは大いに語り合った仲だった。
1945(昭和20)年 戦争激化のため育種事業は全面中止。8月1日、米軍機の空襲で高橋の家は焼け、育種に関する資料は焼失。
1946(昭和21)年 育種事業再開。F1(雑種第1代)誕生。新潟県農試には、そのころ高橋が主任を務める全額国費事業の水稲育種指定試験地と、県費事業の水稲育種部の2つがあり、同じような水稲育種の仕事をこの2つの試験機関が平行して行なっていた。そして高橋が所属する国の試験地では保存した種モミが順調に発芽したのに、一方の県育種部の種はまったく発芽せず、県の育種は失敗してしまう。それは、高橋は再開したときに種子が順調に発芽するように種モミをガラス瓶に入れ良好な乾燥状態に保つよう努力したからであった。
 高橋はこの雑種第1代の生育を見守り、その刈り取りを済ませた後、人事異動で6年間勤務した新潟を去り、農林省農事試験場鴻巣試験地へ転任。コシヒカリの栄光を知ることなく、1962年、53歳で世を去った。
1947(昭和22)年 高橋の後任は、東京帝大農学部卒の仮谷桂で、機構改革のため47年5月から同試験地は長岡農事改良実験所となり、刈谷は同所長となる。高橋の下で長く助手を務めていた池隆肆は1944年に出征したが、高橋が新潟を去る直前の1946年7月に復員して試験場に戻っており、「農林22号X農林1号」の雑種第2代の選抜には、この両名が取り組む。このように高橋の目指した「農林1号」の耐病性強化という育種目標は、長岡実験所で引き続き選抜作業を進めることになった。 しかし、この「農林22号X農林1号」の雑種第2世代に対する評価は芳しいのもではなく、この品種は福井へ譲渡されることになり、種子の一部は新潟県農試へ譲渡された。当時、農林省稲担当企画官だった松尾孝嶺が育種関係の会議で「新設される福井実験所へ回す育種材料を出してくれ。捨てるものがあったら、福井へ送ってくれ」と冗談まじりに言ったという話が伝わっている。どこの試験機関でも最有望の秘蔵っ子の育成系統を回すはずはなく、「農林22号X農林1号」は「捨てるもの」と判断されたのだった。
<福井県農試 岡田正憲 石墨慶一郎>
1948(昭和23)年 この年の春から新設された福井農事改良実験所は、周辺の試験機関から育種材料の配布を受け、本格的に水稲新品種の育成を始める。所長は宮崎高等農林卒の岡田正憲。その下に宇都宮高等農林化学科卒の石墨慶一郎、など総員たった4人。長岡でF3誕生、一部が福井へ送られ、以後福井で育成される。この年6月28日福井大地震が起き、試験田は水が抜けたり土砂が噴出したり、稲はほとんど壊滅にひんした。 ところが、この系統だけは、たまたま水はけの悪い湿田に、いささか早めに植えられていて、運良く被害を免れた。材料のままで敗戦をやりすごしたときと同様、ここでも未来のコシヒカリは災害をやり過ごしたのだった。 
1950(昭和25)年 福井実験所では雑種5世代の育成試験からこの「農林22号X農林1号」に対する評価が高まり、この年から初めて収量をもチェックする生産能力検定予備試験の対象にされる。翌年の雑種第6代の生産検定試験に残されたのは307番と318番の2系統。前者が後に「ホウセンワセ」に、後者がコシヒカリになる系統であった。
1951(昭和26)年 岡田が九州農試に去った後所長となった石墨はこの系統の307番を「越南14号」と系統名を付け、20府県に種モミを配布し、適応性試験を依頼する。これは1955年、「ホウセンワセ」と正式に命名され、農林番号品種に登録される。この「ホウセンワセ」は評判がよく、1962年から1966年まで5ヵ年連続日本1の栽培面積を誇ったのだった。
1952(昭和27)年 石墨は318番を残すかどうか悩むぬ。この年の調査で稈長はさらに伸びて90.6センチに達し、倒伏しやすい欠点がさらに濃厚になった。出穂期が「ホウセンワセ」より10日近く遅い早生種のため、北陸南部(福井、石川、富山)では適応性の狭い、不向きな系統という問題も抱えていた。にもかかわらず石墨は、思い切ってこの系統に「越南17号」と系統名を付け、翌年には20府県に種モミを配布し、適応試験を依頼することに踏み切った。
 石墨は当時「農林1号の耐病化」に取り組んでいて、良食味を目指したのではなかった。しかしこの「越南17号」は品種改良上、拾ってはならないとされる、耐病性が弱くしかも倒伏しやすい系統だった。 後に石墨は「この「越南17号」が品種にならなくて元々、もしも品種に採用されればもっけの幸い、という気楽な気分だった」と言っている。石黒は、当初育種の基礎理論もわからず、本当はこの欠点に気がついていなかったらしい。それでも石墨が「越南17号」を登録したのは、「ホウセンワセ」が評判よく、ほんの少し前までの自信喪失の状態とは変わって、優秀な育種家と評価され、自信もわき、浮き浮きした気分になっていたからだと考えられる。もし「ホウセンワセ」以前であったら、「越南17号」は登録されず、コシヒカリは生まれなかったであろう。
<新潟県農試 杉谷文之>
1953(昭和28)年 福井試験地の石墨慶一郎がこの年「越南17号」の適応性試験を依頼したのは北は山形、福島から南は大分、熊本までの23府県に及んだ。しかし「越南17号」に対する評価は、どこの試験場でも芳しいものではなかった。そうした中で新潟県農試だけは違っていた。この「越南17号」は試験田でべったり倒れ不評であったにも拘わらず、新潟県農業試験場長の杉谷文之ただ一人が倒れた試験田の稲を前にしながら「新潟県のために、これを奨励品種にしなければならん」と叫んだ、と伝えられる。回りにいた技術者はみな「こんなにべったり倒れる稲を奨励品種にしたら、農家への指導が大変だ」と、内心不満だったという。 しかし、県の奨励品種に採用するかどうかの実質的決定権は農業試験所長が握っていた。場長の杉谷が奨励品種に採用すると腹を決めた以上、試験所職員は全面的にその判断に従わねばならなかった。そして当時新潟県農試はワンマン場長杉谷の意のままであった。
 一方長岡から譲られた種子は、新潟県農試の橋本良材(よしき)の働きにより正式に「越路早生」と命名され、県奨励品種となる。この「越路早生」はコシヒカリより耐病性や耐倒伏性が強く、その後約30年間新潟県の早生種の基幹品種の位置を占めた。
1955(昭和30)年 この年の暮れ、農林番号に登録するための新品種選定会議が北陸農業試験場の主催で開かれる。そこで新潟県農試の国武正彦は「新潟県としては、多収品種である「北陸52号」と「北陸60号」は奨励品種に採用しない。「越南17号」は倒れやすいが、品質がよく、稈質も良いので、これを奨励品種に採用する方針」と発言すると、会議は一瞬気まずい空気に包まれたといわれる。 国の審査会でも不満続出し、「今後、このようなイモチ病に弱い系統は審査しないで不合格にするから、持ち込ませないように」となった。
1956(昭和31)年 石墨慶一郎が福井農試で育種した「越南17号」は農林番号品種に登録された。そこに至るまでいろいろケチが付けられたが、この系統に与えられたのは「水稲農林100号」という縁起の良い番号であり、「越の国に光輝く」という意味の コシヒカリ という素晴らしい名前だった。
1957(昭和32)年 杉谷は新潟県農試が「農林22号」を母に「新4号」を父として1950年に人工交配したものの系統を「越栄(こしさかえ)」と名付け奨励品種に採用する。これは杉谷自身「越南17号」にあまり期待していなくて、とりあえず何か成果を示さなければとの取り繕いだったに違いない。よいと思ったらすぐに実施するという性癖、良く言えば即断実行、悪く言えばワンマン敵な独断的性癖がこのような不可解な行動を取らしたと考えるべきなのだろう。この「越栄」は奨励品種採用の5年後に、作付面積が16,600haに達したが、これをピークに減少、やがて中生種の基幹品種としての座を再びコシヒカリに明渡し、72年奨励品種からも除外される。
1958(昭和33)年 7月下旬に台風来襲。それ以降は収穫期まで低温と長雨の続く凶作年になる。作物係長の国武は「この長雨はコシヒカリにとって明るい兆し」と場長の杉谷に報告している。というのは、長雨続きでどの品種もすべて倒れ、コシヒカリの倒伏しやすい弱点がそれほど暴露されずに済んだと同時に、コシヒカリの長所の1つである穂発芽しにくい性質が確認されたからであった。
1959(昭和34)年 次のような表彰状がある。
 表彰状  高橋浩之殿 池隆肆殿 仮谷桂殿 岡田正憲殿 石墨慶一郎殿
 貴殿がたは水稲農林22号と同農林1号の交配および初期選抜またはその雑種後代よりの有望系統の選抜および固定を行い両親を同じくする優良品種越路早生ハツニシキホウセンワセおよびコシヒカリを育成して稲作の改良発展に多大な貢献をされましたので表彰します
 昭和34年12月7日      農業技術協会長 秋元眞次郎
<コシヒカリの独り立ち>
1961(昭和36)年 新潟県奨励品種になったコシヒカリ、魚沼地方などの山間部には定着したが、新潟県全体の水稲作付け率は、1位「越路早生」20.8%、2位「日本海」14.7%、コシヒカリは3位で9.2%。作付率は県内の1割にも達しなかった。当時米は配給統制時代で、うまい米もまずい米も政府の買い入れ価格は同一で、農家としては品質向上よりも収穫量が問題であった。食味は良くても倒れやすくイモチ病に弱いコシヒカリでは、経済的メリットが少ないと、コシヒカリにそっぽを向いていた。
1962(昭和37)年 新潟県で「日本一うまい米づくり運動」始まる。作付率は「越路早生」30.7%、コシヒカリ13%。4割増えたが「越路早生」に比べればその普及率は低かった。この年の7月、杉谷は農林部参事に左遷され、同年12月には依願免職となり失意のうちに故郷の富山に引きこもった。
1963(昭和38)年 「ササニシキ」登場。これは水稲育種指定試験を担当する宮城県農試古川分場が1953年、コシヒカリの姉妹品種「ハツニシキ」を母に「ササシグレ」を父として交配したものの系統で、1963年、その雑種第10代を「ササニシキ」と命名したもの。宮城、岩手、山形の3県に急速に普及し、1963年には宮城県内の作付率は54.7%に、1973年には82.2%に達していた。
1966(昭和41)年 1961年の農業基本法制定当時、政府は「米はやがて過剰になる」との長期見通しを公表したのに、現実は逆にその後、米不足になり、1965,1966年の両年、180万トンもの米を輸入することになった。このため全国的に米の増産運動が盛り上がる。
1967(昭和42)年 「日本一うまい米づくり運動」を主唱した塚田知事が贈賄事件の責任をとって1966年に辞任し、代わった亘四郎知事は米政策を変更し、質より量を重視する「米100万トン達成運動」を1967年から展開し始める。これにより「越路早生」とコシヒカリの作付け率は落ち込み、多肥多収品種の「フジミノリ」や「レイメイ」が伸びた。コシヒカリにとっての最後で、最大の危機だった。 
<自主流通米の時代>
1969(昭和44)年 この年から自主流通米制度がスタート。史上空前の米過剰になりこの年10月末の食糧庁古米在庫は550万トンになる。
1970(昭和45)年 この年の10月末、政府の古米在庫は実に720万トンに膨れ上がり、全国の農業倉庫は2年前の古々米や3年前の古々々米などで満杯になる。1965,66年の米不足を革新政党や農業経済学者は一時的な状況とは見ずに、今後とも恒常的に続く現象ととらえ「国民所得の向上によって、デンプン質食糧である米の消費が減るというのは、西欧で言えても、日本では通用しない。早急に選択的拡大政策を取りやめ、米の生産増強対策を打ち出せ」と政府を追及、米増産運動を煽ったのだった。しかし米の消費量は1963年をピークに減少する。 もしも米の増産運動を煽らず、冷静かつ客観的な分析を行なっていたら、米増産ブームから一転して米減反政策へ180度転換する事態に直面して、驚きと怒りでいっぱいの稲作農家の苦悩を少しでも和らげることができたに違いない。
1973(昭和48)年 自主流通米制度5年目で流通量は170万トンになった。 
1974(昭和49)年 新潟県の自主流通米ルートへの出荷量(主食用うるち米)は約236,000トン。このうち72%、17万トンが「越路早生」で、コシヒカリは19%の4万4000トンに過ぎなかった。
1978(昭和53)年 自主流通米制度10年目で流通量は200万トンに達した。
1979(昭和54)年 これまで全国の水稲品種中作付率1位だった「日本晴」に代わり、コシヒカリが作付率17.6%でトップになり、以後王座は揺るがない。その理由の第1は、米過剰問題が深刻化したこと。食味のよい米は自主流通米ルートに流れるものの、まずい米は政府向けにしか売れず、政府の倉庫にはまずい米ばかりが累積して大量に古米化する傾向が強まった。政府としては自主流通米ルートに出荷できないような消費者に敬遠される北海道産米などは減らしていこうとの姿勢に変わり、この結果、全国で非良質品種から食味の良い品種への転換が大きく進むことになった。
1986(昭和61)年 国の農政審議会がこの年にまとめた「21世紀へ向けての農政の基本方向」と題する報告の中で、自主流通米制度は次のように評価されている。「自主流通米制度は、(1)消費者にとっては食味のよい米を選択して購入でき、(2)生産者にとっては政府に売るよりも高い手取り価格が実現でき、(3)政府にとっては米の管理制度に民間流通の長所を取り入れるとともに、財政負担も軽減できることから、3者いずれに対してもメリットを発揮してきた。(中略)今後は・・・米流通に市場メカニズムを更に導入し・・・自主流通米に比重を置いた米流通を実現していく必要がある」
1988(昭和63)年 主食用うるち米に占める自主流通米の比率は62%となり、以後、自主流通米が米の流通の主役となる。
1991(平成3)年 自主流通米入札で新潟コシヒカリと宮城ササニシキとの差が大きくなる。新潟コシヒカリと宮城ササニシキとの価格差は1988年までは1000円以内、1989年で1500円程度。1990年産米の入札平均価格で新潟コシヒカリ1俵24,870円、宮城ササニシキ21,989円と2,880円の差。1991産米以降では3,000円の格差になる。
1995(平成7)年 この年の11月、半世紀にわたって米の流通を厳しく管理してきた食糧管理法が廃止され、米取引の規制を緩和した食糧法が施行された。
1996(平成8)年  この年のコシヒカリの作付率は30.6%と空前の普及率になり、北は福島から南は九州までに栽培面積が広まる。価格も魚沼コシヒカリは一般米の約2倍、他銘柄米の50%高にもなった。
2002(平成14)年  2002(平成14)年産水稲の品種別収穫量・作付面積は1位=コシヒカリ 3,187,000トン、606,500ha 2位=ひとめぼれ 851,700トン、157,800ha  3位=ヒノヒカリ 829,500トン、163,700ha(農水省「子ども相談電話」HPから)
※                     ※                      ※
<主な参考文献・引用文献>
「農業自立戦略の研究」(通称「NIRA報告書」)                     総合研究開発機構  1981.8.1
「コシヒカリ物語」日本一うまい米の誕生    酒井義昭著                中公新書      1997.5.15
「日本人が作りだした動植物」品種改良物語   日本人が作りだした動植物企画委員会編   裳華房       1996.4.25
「コシヒカリを創った男」           粉川宏                  新潮社       1990.3.15
「コシヒカリ」                日本作物学会北陸支部北陸育種談話会編   農山漁村文化協会  1995.12.15
( 2003年6月30日 TANAKA1942b )
▲top

(2)コシヒカリを超えられるか?
競い合う各県の農業試験所

<コシヒカリをめぐる7不思議> 2002(平成14)年産水稲の品種別収穫量・作付面積をみると、1位=コシヒカリ3,187,000トン、606,500ha 2位=ひとめぼれ851,700トン、157,800ha 3位=ヒノヒカリ829,500トン、163,700ha(農水省「子ども相談電話」HPから)。 このコシヒカリは全額国庫負担の水稲育種指定試験によって育成された品種で、民間企業の研究開発・新製品発売とは違って、研究開発者には成功報酬としてのボーナスはない。後日発表される資料に育種した農業試験場の名前はあるが、研究者の名前はなかなか見当たらない。このようなとても地味な研究の成果であり、その研究者には職人的な性格さえ感じる。誕生から普及への歩みは平坦ではなく、特にコシヒカリは何度も、あわや廃棄処分という危機に見舞われるなど、波乱に満ちた歩みだった。 育種から普及までの歩みを見ると、いくつもの「不思議」があることに気付く。酒井義昭著「コシヒカリ物語」からその「不思議」を要約すると次のようになる。
(1)戦争末期から敗戦直後の食糧難時代に、なぜ日本一おいしい新品種が育成されたのか?
(2)イモチ病に強い新品種を生み出すのが目的だったのに、コシヒカリはイモチ病に最も弱い品種である。
(3)新潟県農事試験場が人工交配したのに、福井県で水稲育種試験が実施されることになった際、譲り渡された系統から誕生した。
(4)福井県はなぜか、県奨励品種に採用することを拒否し、後に一度諦めた新潟県農試が奨励品種への採用を決断した。
(5)戦前、東日本と西日本では米について好みが違うと言われていたが、コシヒカリは東日本でも、西日本でも好まれている。
(6)草丈が高く倒れやすく、機械化が進めば消え去ると言われていたのに、栽培面積が増加した。機械化適応品種に変身したのか?
(7)稲の品種の寿命は10年ぐらいと言われているのに、誕生以来すでに40年。これを超える新品種を開発できないでいる。
<2002年産水稲の品種別収穫量> コシヒカリの実力はどの程度なのか?消費者はどの位コシヒカリを欲しがっているのか?他の品種との比較をしてみよう。
順位 品 種収穫量(トン) 作付面積(ha)登録年・育成場所 主な生産県コシヒカリ系統
1 コシヒカリ3,187,000606,500  1956 福井農試 新潟、茨城、栃木
2 ひとめぼれ 851,700157,800  1991 宮城県古川農試 宮城、岩手、福島
3 ヒノヒカリ 829,500163,700  1989 宮城県総農試 大分、熊本、福岡
4 あきたこまち721,300131,300  1984 秋田農試 秋田、岩手、山形
5 きらら397362,00071,000  1988 北海道立上川農試 北海道
6 キヌヒカリ315,00062,000  1983 北陸農試 滋賀、兵庫、埼玉
7 はえぬき285,20045,400  1992 山形農試庄内支場 山形、秋田
8 ほしのゆめ137,20027,500  1996 北海道立上川農試 北海道
9 つがるロマン122,82021,400  1997 青森農試 青森
10 ササニシキ104,80018,700  1983 宮城県農試古川分場 宮城、山形、秋田
11 むつほまれ98,60016,400  1986 青森県農試黒石本場 青森
12 日本晴75,30014,100  1963 愛知県農試 滋賀、埼玉、兵庫
13 ハナエチゼン71,80013,300  1991 福井農試 福井、富山、石川
14 ゆめあかり68,50013,000  1999 青森農試 青森
15 夢つくし63,40012,800  1993 福岡農総試 福岡
16 ふさおとめ52,5009,440  1999 千葉県農試 千葉
17 あさひの夢49,8009,900  1998 愛知県農試 愛知、群馬、栃木
18 ハツシモ49,80010,700  1950 安城農業改良実験所 岐阜
19 あいちのかおり48,6009,540  1987 愛知県農総試 愛知、静岡
20 祭り晴47,9009,220  1993 愛知総農試 愛知、京都、大阪
農水省「子ども相談電話」HPからの数字を中心に作成  ○はコシヒカリの子供、孫、ひ孫の品種。つまりコシヒカリを祖先に持つ品種。
<数字を読む> 「2002年産水稲の品種別収穫量」から数字を読んでみよう。
(1)抜群にコシヒカリが強い。コシヒカリの収穫量は2位ひとめぼれ以下、ヒノヒカリ、あきたこまち、きらら397、キヌヒカリの6位までの合計よりも多い。
(2)コシヒカリより後から登録されたのに、コシヒカリを追い越せない。コシヒカリよりも前に登録されたのは18位ハツシモだけ。それ以外はコシヒカリよりも後に登録されている。品種改良によって新しい品種の米が生まれるのに、コシヒカリを超える品種は生まれない。
(3)戦前からの品種はない。一番古いのがハツシモ(1950年)、次がコシヒカリ(1956年)。「米は日本の伝統文化だ」としても、伝統的な品種は影が薄い。赤米や紫黒米などのような古代米の方が残っているくらいだ。「米作りの伝統」とは「品種改良の伝統」「新しいことにチャレンジする伝統」なのだろうと思う。 江戸時代から日本のお百姓さんは「好奇心」と「遊び心」いっぱいの「革新派」だった、というのがTANAKA1942bの考え方。
(4)コシヒカリから生まれた品種が多い。とは予想していたが、調べてみてビックリ。コシヒカリを祖先に持つ品種がこれほど多いとはオドロキ。(2)との関連で考えると、品種改良は進歩がないのではないか?との心配も生まれそうなほどだ。
※                      ※                      ※
<コシヒカリを超えられるか?> 戦後日本の自動車産業が乗用車を作り始めた頃、クラウン、セドリックやコロナ、ブルーバードはスタンダードとデラックス仕様だけだった。生産台数が増え始めてハイデラックス、スーパーデラックスとかGLなどが登場した。トランジスタ・ラジオ、テープレコーダー、ウォークマン等も新製品として市場に登場したときは1種類だった。 商品が市場で成熟する、ということは多くの種類(グレード)が出ること、消費者の多様なニーズに応える品が揃えられる、ということだろう。たくさんのグレードの商品が揃い、その一つのグレード(例えば「スーパールーセント」)がかつての「デラックス」より生産数が少なくても悲観することはない。米の品種のこと、「コシヒカリを超えられない」問題もこのように考えられる。コシヒカリという新商品が登場した。消費者の多様なニーズに応えて、そして生産地の気候・地域性に応じて、コシヒカリから改良された商品(ひとめぼれ、ヒノヒカリ、あきたこまちなど)が登場した。このように考えれば悲観することはない。これからも先進国型産業として期待できる。日本の高度成長を引っ張ってきた自動車産業や家電産業と似たような商品開発が行なわれている、と考えられる。
 米の品種改良という点に注目すると、他の「ものづくり産業」と同じように、市場での消費者ニーズに応えて商品開発を進めてきた、と言える。さらにその商品開発携わった研究者は競争原理に刺激されて成果を上げてきた。 新しくできた農試には捨てるようなものを回したり(1947年)、成果を上げて余裕が出てきたので、あまり期待できない品種も登録したり(1957年)、何でもいいから成果を示すために奨励品種登録してしまったり(1953年)、コシヒカリの誕生にはそれぞれの農試、研究者に資本主義。市場経済の特徴である「競争原理」が働いていた、と考えられる。
 農業をいかなる産業と把握するかで、農業に対する政策体系は異なる。農業を「後進的な産業」ととらえた場合、国内の自給体制の維持をめざす限り、過保護農政に走ることになる。われわれは、農業は研究開発ならびにヒューマン・キャピタル(人的資本)の蓄積が他産業以上に重要であると考える。それ故、農業は本来なら先進国で比較優位をもちうる産業であり、最も「先進国型」の産業であると考える。輸入制限がなくても、わが国で農業が発達する条件が潜在的にはあると考える。
 農業は「ものづくり大国日本」に適した産業なのだと思う。そこでコシヒカリから生まれたいくつかの品種、についてもう少し詳しく調べてみることにしよう。
( 2003年7月7日 TANAKA1942b )
▲top

(3)コシヒカリから生まれた優等生
海外でも人気を博す日本米

<「美味しい米」系が、円熟した商品取り揃えとなる> 自動車産業を振り返ってみると、クラウン、セドリックがタクシー、法人向けジャンルを拓き、コロナ、ブルーバードがファミリーカーを普及させ、カローラ、サニーがさらにファミリーカー需要を開拓した。以後もスバル360やホンダN360が軽自動車を普及させ、フェアレディZやセリカがスポーツカー部門を開拓し、ホンダのシビックが低公害車を引っ張った。 こうした傾向は他の産業でもみられる。例えば、味の素が化学調味料を普及させ、ウォークマンがウォーキングカセットという商品を生み出し、インスタントラーメンやカップヌードルという新しい食品分野を生み出した。 テレビで言えば、薄型テレビや液晶テレビが開発され新しい商品ジャンルが生まれ、乗用車では燃費の良さが評価の基準になった。コメでは美味さが評価の基準の一つになった。このようにコシヒカリは他の工業製品と同じような過程で消費者に気に入られていったのだった。食味の科学的判定が確立しコシヒカリの「美味さ」が評価されるようになり、コシヒカリが評価され話題になったことにより科学的評価も信頼されるようになった。 このように、新しいヒット商品が新しい商品分野を切り開いてきた。それが市場で消費者に気に入られれば、ライバル企業が参入し、充実した商品構成になる。このようにして、市場では企業や商品が消費者に気に入られように、との競争が始まる。
 コシヒカリの誕生については、先週「(2)コシヒカリを超えられるか?」で書いたように多くの不思議がある。それでもハッキリしているのは、「コシヒカリがこれほど普及したのは消費者に気に入られたからだ」ということ。消費者に気に入られたコシヒカリを追ってライバル商品が開発され、コシヒカリ系はコメ市場で一つの新しいジャンルを作った、と考えられる。そしてその背景には「日本が豊かな国」で「豊かな消費者が、いいものには高い対価を払う」という状況があったからだと考えられる。 それではどのような商品がコシヒカリから生まれ、コシヒカリのライバルになろうとし、コシヒカリ系という分野を作っているのか?そのような好奇心に答えるように、いくつかの品種について調べてみることにしよう。
※                      ※                      ※
<ひとめぼれ> (普通栽培・中生の晩)
<来 歴>
育成地  :宮城県古川農業試験場
交配組合せ:母親:「コシヒカリ」×父親:「初星」 (初星の交配組合せ:母親:「コシヒカリ」×父親:40-11喜峰)
交配年次 :1981(昭和56)年   
育成年次 :1991(平成3)年
主な生産県:宮城、岩手、福島
特徴

耐冷性(冷害):「ササニシキ(やや弱)」より強い“極強”。
食 味:「ササニシキ」より粘りが強く、「コシヒカリ」並以上の"極良"。    
玄米品質:「ササニシキ」に優る"極良"。
耐倒伏性:「ササニシキ」より強い。
穂発芽性:「ササニシキ」より発芽しにくい"難"
草 姿:「ササニシキ」より穂数が少ない。丈は同程度。
出穂・成熟期:「ササニシキ」並の“中生の晩”。
耐病性:いもち病抵抗性は「ササニシキ」と同程度。  
特徴
農水省子供相談電話HPでは次のように受け答えしている。
質問=「ひとめぼれ」はどんなお米で、人気はあるのですか。(小学生)
答え=「ひとめぼれ」は、「コシヒカリ」と「初星」を両親として平成3年に宮城県古川農業試験場で誕生しました。味とかおりが良く、ねばりの強いお米です。 名前の由来は、「見て美しさにひとめぼれ、食べておいしさにひとめぼれしていただき、全国のみなさんに愛される米にしていきたい」との願いがこめられています。 「ひとめぼれ」は、東北地方を中心に作付けされており、お米の中で、コシヒカリの次に作付け量及び流通量が多い品種で、市場においても人気があります。
生い立ち

@1980(昭和55)年冷害の実態から、耐冷性の向上が急務となる。翌年古川農試では 新しい耐冷性検定法(恒温深水法)を開発し、既存品種の耐冷性評価の見直しを開始する。
A耐冷性の強い「コシヒカリ」を母本として選定し、耐冷性と食味の両立する栽培し やすい品種の開発を目指し、1981(昭和56)年「コシヒカリ」と「初星」を交配して選抜を開始する。
B1988(昭和63)年「東北143号」を育成し、奨励品種決定調査を開始する。その年の冷害で耐冷性 の強さと食味の良さが実証され、1991(平成3)年「ひとめぼれ」と命名されデビュ−する。
C1993(平成5)年の大冷害で耐冷性の強さを発揮し、「ササニシキ」の壊滅的な被害を軽減する。  この年を契機に「ひとめぼれ」の評価は急速に高まり、1994(平成6)年には「ササニシキ」に 替わり全国作付け二位となる。その後も作付け地域を順調に拡大し、南は沖縄県まで普及 している。現在の奨励品種採用県は21県。
 古川農試では、「ひとめぼれ」の成功をバネに晩生新品種「こいむすび」(母親:「中部 73号」X父親:「ひとめぼれ」)を育成し、宮城県北部平坦地帯及び仙台湾沿岸地域に普及させようとしている。このようにコシヒカリの子孫「美味しい米」系が続々と誕生している。
ベトナムで育つひとめぼれ
ベトナムにアンジメックス・キトクという会社がある。1991年に日本の米問屋「木徳」とベトナム・アンジャン省の輸出入公団がパートナーとなってできた会社。 木徳が67%、公団が33%を出資し、6人の役員のうち、社長を含む4人が木徳、2人が公団の出身。 アンジメックス・キトク社では、ベトナムの地元農家に委託して日本米(「はなの舞」「ひとめぼれ」)を生産を委託し、生産を受託している農家にとっては、日本米をつくるには高い技術と細心の注意が要求されるが、それに見合う高収入が保証されている。 省としても「全面的に協力する」(アンジャン省人民委員会レ・ホイ委員長)という姿勢だ。
 委託生産面積は99年の200ヘクタールから2000年の400ヘクタール、2003年の600ヘクタールと毎年順調に広がってきた。300人にもおよぶ契約農家を3人の出向者と7人の現地技術者で数人ずつチームを組み技術指導のため巡回するシステムを組んでいる。
 主要な売り先は回転寿司=「すし金」」(Sushi King)で、現在マレーシアで21店、タイで1店を展開しているチェーン店。近く30店舗ぐらいまで拡大する予定とのこと。22店舗のコメの使用量は年間200トンだが、予定通り30店展開すると300トン近くになるという。(この項は URL http://www.sigetosi.com/page056.html から引用)
※                      ※                      ※
<ヒノヒカリ> (普通栽培・中生)
<来 歴>
育成地  :宮崎総農試
交配組合せ:母親:愛知40号(黄金晴)×父親:「コシヒカリ」 (「黄金晴」の交配組合せ:母親:「日本晴」×父親:40-11「喜峰」)
育成年次 :1989(平成元)年
主な生産県:宮城、岩手、福島
生い立ち
ヒノヒカリは旧系統名が「南海102号」で、宮城県総合農業試験場水稲指定試験地で育成された中生のうるち種。1989(平成元)年に、福岡、佐賀、熊本、宮崎、鹿児島の各県が奨励品種に採用した良食味品種。西日本、九州の代表的な品種になりつつある。
品種の系譜からみた特性
ヒノヒカリは黄金晴とコシヒカリを親として生まれた品種。この系統からみたヒノヒカリの特性は次の通り。
@炊飯米の光沢が良く、粘りが強いーーコシヒカリの食味。
A耐倒伏性は不十分ーー農林22号、コシヒカリより強いが、黄金晴より明らかに弱く、日本晴並み。
B稈が太く長いーー農林22号ほど長くはない。
C初期の茎数は多くないが、モミ数を取りやすいーー黄金晴。
D外観品質は、やや小粒であるが粒厚は比較的厚く、腹白。心白が出にくいーー黄金晴に似ている。
Eイモチ病抵抗性遺伝子型ーー黄金晴と同じで、抵抗性もやや弱。F脱粒性が難ーーコシヒカリ、黄金晴より難。G穂発芽性が難ーーコシヒカリ。
山口県農業試験所のレポート「水稲品種「ヒノヒカリ」の奨励品種採用 」を引用しよう。
[背景・ねらい] 新食糧法の施行により米の産地間競争が激化し、これまで以上に「売れる米」、「おいしい米」が求められており、不評を来している瀬戸内平坦部の品質、食味の改善は急務となっている。このため、良食味品種の「ヒノヒカリ」を奨励品種に採用し、瀬戸内平坦部産米の良食味品種への転換を図る。
[成果の内容・特徴] 出穂期、成熟期は「せとむすめ」より3〜5日遅く、「中生新千本」並み〜2日遅い中生種である。 稈長は、「せとむすめ」、「中生新千本」より長いが、「せとむすめ」並みに倒伏は 少ない。 穂数が少なく、1穂籾数の多い偏穂重型種で、u当り籾数は確保しやすい。 収量は「中生新千本」よりやや多く、「せとむすめ」並みの多収である。 外観品質は良好であるが、年次によっては乳白米により低下することがある。 食味は極良好である。
[成果の活用面・留意点] 中生種であるので、気象、水利慣行等から主として瀬戸内平坦部の普通期や麦跡栽培に適する。 やや長稈で倒伏の恐れがあるため、極端な多肥栽培は行わない。 品質向上のため、穂肥偏重による籾数過多や、早期落水を避ける。 刈取適期は、刈り遅れによりうす茶米や胴割米が発生しやすいため、比較的籾水分が高い、やや早い時期である。
収量性=日本晴よりやや多 ヒノヒカリは、収量性に関する主な特徴として、
@耐倒伏性が碧風より明らかに劣り、日本晴やコガネマサリ並であり、
A碧風の収量が620キロ以上になる多肥条件では、倒伏のために碧風よりかなり収量が劣り、
B1平方メートル当たり頴花数が3万5000以上になると年により倒伏が発生するほか、未熟粒が多くなって米質が低下する、という3点がある。(「銘柄米をつくりこなす ヒノヒカリ」から)
※                      ※                      ※
<あきたこまち> (普通栽培・早生)
<来 歴>
育成地  :秋田県農試
交配組合せ:母親:「コシヒカリ」×父親:奥羽292号
交配年次 :1977(昭和52)年
育成年次 :1984(昭和59)年
主な生産県:秋田、岩手、山形
品種の系譜
あきたこまちはコシヒカリを母に、奥羽292号を父に交配して生まれた品種で、秋田県農業試験場では1977年から水稲の育種を開始すると同時に育成選抜を行い、1984年にその第1号として誕生した。あきたこまちの系譜を見ると、母方は
名前の由来 農水省子供相談電話HPでは次のように受け答えしている。
質問=あきたこまちの名前の由来をおしえてください。(小5)
答え=秋田県雄勝町小野の里に生まれたと伝わる小野小町にちなみ、おいしい米として名声を得るようにとの願をこめてつけられました。
タイで人気の「あきたこまち」
2003年7月9日、テレビ東京WBSでタイで「あきたこまち」が人気を博している、と報道された。
@山岳民族うつ族の村、サンサリー村では5年前から地元の精米所であきたこまちを買っている。この地方の料理に合う、と評判がいい。
Aチェンライの富士農園社長梶八十二氏「10数年前から地元の農家に委託して作っています。この3年で倍くらいになっています」
Bチェンライのバーヤン村では年2回日本米を収穫する。農民は言う「日本米はタイ米よりずっと高く売れるから」
C日本食ブームで、日本米は高くても売れる。日本産コシヒカリ2Kg=2,300バーツ、タイ産2Kg=818バーツ、タイ米2Kg=400バーツ程度。
D日本米の輸出実績、2001年度=231トン、2002年度=538トン。内74%は台湾への輸出。
 これに対するコメンテーター、フェルドマン氏は次のように言う。
 日本の戦後の政策は水田よりも票田ということが問題だったのですね。票を取るために輸入を制限して、高い補助金を出していた。それによって自民党も他の党も票を取ったのです。けれども90年代の中頃から「ミニマム・アクセス」という貿易の協定ができたのです。ようやく日本も海外からコメを輸入することになったのです。 それまでは「日本が輸入しないなら、輸出してはダメ」という当然のことになっていて、輸出できなかった。今はできるようになった。だからこういう話を聞いてすごくうれしいな、と思います。 今度は補助金を減らしていかなければならない。財政再建ですね。こういう風に、貿易を自由にして、輸入も輸出もできるようになると、財政再建にもつながる。いいな、と思います。
 豊かな日本で「美味しい系」のコメに人気が集まり、タイも豊かになり日本と同じように高くても「美味しい系」のコメが売れるようになってきた。以前ポール・クルグマンは「アジアの経済成長は外部からの投資に支えられているだけなので、いずれ成長は止まる」と言ったのに対し渡辺利夫は「そうではない。アジア経済は確実に成長している」と反論した。 タイで「あきたこまち」のような「美味しい系」のコメが売れ出した、ということはタイも豊かになれる人から豊かになり始めた、と言える。この点から見ると渡辺利夫の主張は正しかった。
タイで日本米を作る人、あきらめる人
HP「オリザの環」タイ「貿易の覇者」(3)に次のような文があった。
 タイでは日本の市場開放の動きをにらんで、高く売れる日本米の研究開発も盛んだ。タイ政府が昨年発表した「農家に栽培を奨励する外国品種」の1号はササニシキ、2号はあきたこまち。どちらも東北の人気銘柄だ。 栽培に適しているのは比較的涼しい気候の地域だという。最北部の都市チェンライに近いサンタンルアン村で生産者に会った。 ブンコーン・チージュムパンさん(52)。タイ企業との契約で、昨年から1.6ヘクタールの水田のうち、約0.6ヘクタールで日本米の栽培を始めた。売り渡し価格が地元のコメより2割高かった。 意欲を持って日本米に取り組んだチージュムパンさんだが、2回収穫した体験から「日本米づくりは難しい」と音を上げていた。 企業からは肥料を入れる時期や種類、毎日の水管理など、栽培方法を厳しく指導される。さらに、苦労して収穫しても品質が十分でなければ、契約通りの価格で買ってもらえない。 「タイ米の何倍も手間が掛かる。品質が不十分でタイ米の値段がいいときは、今までの方がもうかるくらいだ。ねばついて自分で食べる気もしないし」 タイ政府は、今年1月から3月まで国内9カ所で「タイ農民の新しい選択。日本米」と銘打ったフェアまで開いて普及に力を入れている。が、チージュムパンさんは「来年からは日本米づくりをやめ、もとからあるコメをつくろうかと思っている」と漏らした。 「世界に誇るうまいコメをつくる」というタイ農民のプライドが、国際競争の中で揺らいでいる。

 タイでは、肥料を入れる時期や種類、毎日の水管理など、栽培方法を厳しく指導される。日本では農業経営者が当然のこととして自主的に行なう。ヒューマン・キャピタルの違いだ。
※           ※           ※
<主な参考文献・引用文献>
「あきたこまち物語」                        読売新聞秋田支局編 無明舎出版    1989.6.10
銘柄米をつくりこなす「あきたこまち・はなの舞」        農山漁村文化協会編集部編 農山漁村文化協会 1990.3.15
銘柄米をつくりこなす「ヒノヒカリ・ミネアサヒ・早期コシヒカリ」農山漁村文化協会編集部編 農山漁村文化協会 1990.3.30 
( 2003年7月14日 TANAKA1942b )
▲top

(4)コシヒカリ独壇場の秘密
市場原理と豊かな消費者

<きらら397> (普通栽培・早生)
<来 歴>
育成地  :北海道立上川農試
交配組合せ:母親:渡育214号(しまひかり)×父親:道北36号(キタアケ) (「しまひかり」の交配組合せ:母親:北陸77号(コシホマレ)×父親:そらち)(コシホマレの交配組合せ:母親:コシヒカリ×父親:収921)
交配年次 :1980(昭和55)年   
育成年次 :1988(昭和63)年
主な生産県:北海道
北海道から初の全国デビュー
北海道を本格的に開発しよう、と具体的に動き出したのは田沼意次の時代だった。工藤平助(1734-1800)(享保19-寛政12)の「赤蝦夷風説考」に触発され、松本秀持とその協力者たちは田沼意次の意向を受けて蝦夷地調査隊を編成した。そして1785(天明5)年4月29日、東蝦夷地調査隊と西蝦夷地調査隊がおのおの松前を出立した。 しかし、田沼意次を追い落とした松平定信は1986(天明16)年10月28日、蝦夷地調査を中止し、関係者を処分する。以後明治になって屯田兵制度で北海道開発が始まるが、良質のコメはできない。食管法時代は政府が買い上げてくれたが、自主流通米時代になって消費者は美味しい米を求めている。北海道にはそれに応える品種がなかった。そこできらら397が登場した。
北海道での水稲うるち上位作付品種とシェア(2001年産)は次の通り。
作付面積=111,774haの内、 きらら397 (64%)、 ほしのゆめ (28%)、 あきほ (4%)
 きらら397に関しては、品種改良に携わった佐々木喜雄著「きらら397物語」が参考になる。この本の要約ではなく、この本から「きらら397物語」の特徴を読み取ってみよう。
 鳥またぎ猫またぎと揶揄された道産米がかつてのスター、ササニシキを抜いて全国5位の収穫量になった。その始まりは1980(昭和55)年北海道立農業試験場に優良米の早期開発を目標としたプロジェクトチームが組まれた。きらら397の場合は品種改良の過程よりも、その売り込み方に興味を持った。ネーミングそれ自体を販売戦略の一環とするため、北海道では初の一般公募による名称募集を行なった。 当時、「あきたこまち」が今までにないネーミングで注目を浴びていたため、「上育397号」のネーミング選定にあたっては、既存の品種と差別化できるような斬新なネーミングが求められていた。一般公募はわずか12日で2万101通の応募があった。「あきたこまち」「きらら397」「ひとめぼれ」こうした名前は古い感覚の、農業界の大物には容認できない。 そうした大物に逆らっての新しいセンスのネーミングが、「コメ新時代」に消費者のハートにアピールした。さらにネーミングとイラストの発表会が、1989(平成元)年9月26日開かれ、この模様のニュースが各紙によって報道され、「きらら397」に対する関心は高まった。
きらら397に続け
2000(平成12)年にはきらら397を育成した北海道上川農業試験場で「ほしたろう」が誕生し、2001(平成13)年から作付が始まった。きらら397に続くヒットとなることが期待されている。
※                      ※                      ※
<キヌヒカリ> (早植栽培・中生)
<来 歴>
育成地  :北陸農試
交配組合せ:母親:F1×父親:北陸96号「ナゴユタカ」(F1の交配組合せ:母親:収2800×父親:北陸100号(コシヒカリにコバルト60を照射))(収2800の交配組合せ:母親:IRS×父親:コシヒカリ)
交配年次 :1975(昭和50)年   
育成年次 :1983(昭和58)年
主な生産県:滋賀、兵庫、埼玉
生い立ち
キヌヒカリは、強稈・良食味・イモチ病抵抗性の強化を目的として、1975年に収2800(母)X北陸100号(父)の交配を行い、夏にこのF1を母としてナゴユタカ(北陸96号)を父として三系交配を行なって育成された。1978年のF4で個体選抜、1979年F5から系統選抜を繰り返し、1983年F9で北陸122号と命名され、関係府県に配布された。 倒伏に強い中生種で、食味はコシヒカリに匹敵する良食味であるため、茨城県では大空に、福井県ではフクホナミに替わるものとして1988(昭和63)年に奨励品種に採用され、同年5月「キヌヒカリ」として種苗登録された。 キヌヒカリの母方は、短稈・多収の IR-8 というインディカ稲に多収稲のフジミノリを交雑し、そのF1に良食味遺伝子の導入を主目的に、コシヒカリまたはコシヒカリ由来の系統を3回戻し交雑したものを用い、父方はトドロキワセやギンマサリ等の栽培特性の良さを導入したナゴユタカを用いている。 このため短・強稈で、食味良好、穂数はやや少ないが好天籾数を多くつけ、不良天候下でも収量の低下が少なく品質の安定度が高いなど、これまでの品種と異なる特性を持つ。
形態的・生態的特性

短稈・強稈で葉色は濃い=4月上旬に播種した場合、第三葉の葉鞘長はコシヒカリよりやや短く、苗丈もやや短い。葉身の形状は同品種に類似し、葉色はやや濃い。稈長はコシヒカリよりかなり短く、やや剛である。
密に着粒し千粒重く絹の輝き=穂長はコシヒカリより短く、粒着はやや密で穂の下部に多くつく。穂数は同品種より5-10%少なく、草型は中間型。玄米の粒大は中程度で、形状はコシヒカリよりやや丸みを持つ。千粒重は同品種よりやや重い。まれに心白がみられる。光沢に優れ、絹のような輝きを持つ。みかけに品質はコシヒカリより優れる。
耐倒伏性はコシヒカリよりかなり強い=出穂期および成熟期は、コシヒカリより1-2日遅い。中生の早に属する。稈の太さはコシヒカリと同程度の中であるが、稈基部は同品種よりやや太く、稈質はやや剛い。耐倒伏性はコシヒカリよりかなり強い。
※                      ※                      ※
<はえぬき> (普通栽培・中生)
<来 歴>
育成地  :山形農試庄内支場
交配組合せ:母親:庄内29×父親:あきたこまち (あきたこまちの交配組合せ:母親:「コシヒカリ」×父親:奥羽292号)
育成年次 :1992(平成4)年
主な生産県:山形、秋田
大分県農業技術センターのHPに「はえぬき」に関する文があったので要約してみた。
 大分県ではおいしい米の生産を目指して「コシヒカリ」、「ヒノヒカリ」等良食味品種の作付けを推進してきました。その結果、「ヒノヒカリ」がおいしい上に栽培しやすいこともあって作付面積は水稲全体の作付面積の75%以上を占めるまでに増大しました。その結果(1)収穫作業が一定期間に集中し、(2)収穫時期の遅れるものが出てきて、(3)玄米の品質低下、(4)ライスセンター等共同乾燥施設への集中と稼働率の低下、(5)いもち病や倒伏の被害を集中的に受ける恐れ等が懸念される状況になってきました。 平成11年産水稲では出穂後25〜30日頃の、登熟の仕上げの大事な時期に台風18号の強風害を受けて、県下全域の水稲が倒伏する被害を受けました。倒伏は早く起こるほど被害は大きいことから、ヒノヒカリに作付けが集中していることが被害を大きくした可能性が考えられました。 これほど「ヒノヒカリ」に作付けが集中した原因は前述の作り易さもありますが、ヒノヒカリより早生の良食味品種がないことが最大の原因です。当部では早くから、早生の良食味品種の選定に取り組んできましたが、今回やっと極早生の良食味品種「はえぬき」を選定し、奨励品種に採用される運びとなりましたので紹介します。
 この「はえぬき」という品種は「はえぬき」とは言いながら、大分県の生え抜きではありません。東北は山形県の生まれです。山形県立農業試験場庄内支場で、「庄内29号」を母とし、「秋田31号(後の「あきたこまち」)」を父とした組み合わせから育成された県単育成品種で、山形県の主力品種です。山形県では35,000ヘクタール程度栽培され、主として東京方面に出荷されています。さらなるシェアの拡大のために他県での栽培を薦めようとする戦略に乗って大分県でも検討してきた品種です。 大分県では平成8年から奨励品種決定調査に供試してきました。
※                      ※                      ※
<ほしのゆめ> (中生の早)
<来 歴>
育成地  :北海道立上川農業試験場
交配組合せ:母親:F1×父親:きらら397 (F1の交配組合せ:母親:あきたこまち×父親:道北48号)(あきたこまちの交配組合せ:母親:コシヒカリ×父親:奥羽292号)
交配年次 :1988(昭和63)年   
育成年次 :1996(平成8)年
主な生産県:北海道
特徴
「ほしのゆめ」は、1988(昭和63)年、北海道立上川農業試験場において、良食味・耐冷性品種の育成を目標に、極良食味品種「あきたこまち」と早生・耐冷性系統「道北48号」のF1を母とし、中生・良食味品種の「上育397号」を父として、人工交配を行った雑種後代から育成された。 F1は、交配を行った1988(昭和63)年の冬に温室で養成し、平成元年にはF2〜F3は鹿児島県で、さらにF4は冬期沖縄県で1年3作の世代促進栽培を行った。1990(平成2)年にF5の穂別系統栽培を行い、1991年以降は「上系91340」として系統の選抜・固定を図るとともに、生産力検定試験、系統適応性検定試験ならびに特性検定試験を実施してきた。 その結果、中生の良食味・耐冷性系統として有望と認められたので、1993(平成5)年に「上育418号」の地方系統名を付し、関係機関に配布し、さらに、1994年から現地試験に編入して地方適応性を検討してきた。 1996(平成8)年に水稲農林340号として農林登録され、「ほしのゆめ」と命名された。
栽培上の注意

@耐倒伏性が不十分なので、「北海道施肥標準」を守り、多窒素栽培は厳に慎む。
A中生種としては、いもち病抵抗性が不十分なので、発生予察に留意し適正防除を徹底する。
B割籾の発生が多いので、斑点米や紅変米などの被害粒発生による品質低下を招かぬよう病害虫の適正な防除に努めるとともに、綿密な圃場管理や適期の刈取りを励行する。
C種子生産に当たっては、脱ぷ粒が発生しやすいので、種子の取り扱い注意事項に十分留意する。 
※                      ※                      ※
<つがるロマン> (普通栽培・中生)
<来 歴>
育成地  :青森農試
交配組合せ:母親:ふ系141号×父親:あきたこまち (あきたこまちの交配組合せ:母親:「コシヒカリ」×父親:奥羽292号)
交配年次 :1985(昭和60)年   
育成年次 :1997(平成9)年
主な生産県:青森
青森県のHPから「つがるロマン」の宣伝文を引用しよう。
「つがるロマン」の先祖は、コシヒカリ  「つがるロマン」は、血統ではコシヒカリの孫にあたります。「つがるおとめ」に比べて、食味が1ランク、品質で2ランク優れている、大変おいしいお米です。
「つがるロマン」は限定適地に作付け  「つがるロマン」は、優れた食味と品質を守るために青森県内で特に気象条件に恵まれている津軽中央地帯・津軽西北地帯・南部平野内陸地帯の適地に作付けを限定しています。  さらに「つがるロマン」を作付けする生産者は、細やかな土の管理、低農薬、無理のない乾燥、大きな網目で整粒などの栽培協定にのっとって大切に育てています。
「つがるロマン」はヘルシーな低農薬米  「つがるロマン」は、青森の豊かな自然と水、そして空気が農家と一緒に育てています。田畑を潤す水は、白神山地に代表される山々に原生するブナの森に源を発します。ブナの腐葉に保水された雪解け水が伏流となり、渓谷を伝い、そして田畑へと流れ込みます。天然の肥料ともいえる清らかな水と、病害虫の少ないという恵まれた自然条件をいかし、農薬散布が少ない低農薬米をお届けします。
※                      ※                      ※
<品種改良は物づくり産業の商品開発と同じ>
@品種改良研究開発担当者は職人。文献に登場する工業製品の開発に携わった人たちや、テレビで紹介される町工場の金型職人・旋盤職人などと共通の気質を感じさせる。
A各県の農試が新製品開発を競った。品種改良の分野も競争社会だった。
B生産工場ではQC運動など現場の作業員の知恵が生かされた。コメでは実際に栽培する農家の知恵が生かされた。
Cコシヒカリがこれほど普及したのは市場で、消費者=お客様=神様に気に入られたから。
D豊かな消費者が「美味しい系」のコメを育て、コメの評価基準が土地の生産性から付加価値生産性に変わった。
E新製品開発から消費者に支持されるまでの経緯は、物づくり大国日本の製造業のそれと同じ。
F品種改良という新製品開発を担当する研究者、新品種を実際に栽培する農業経営者、美味しければ高価でも購入する消費者。コメ作り産業は日本のような豊かな国に適した「先進国型産業である」と確信します。
※           ※           ※
<主な参考文献・引用文献>
「きらら397誕生物語」            佐々木多喜雄著          北海道出版企画センター 1997.7.9
銘柄米をつくりこなす「キヌヒカリ・初星」    農山漁村文化協会編集部編     農山漁村文化協会    1990.3.30
( 2003年7月21日 TANAKA1942b )
▲top

(5)野菜・果物・花卉の品種改良
「一代雑種」という改良方法

<コメ以外の品種改良> コメの品種改良はコシヒカリを基本に、各県の農試が競って新製品開発に力を注いできた。農林1号と農林22号を交配し、雑種何代目かで固定する。登録された品種の内から各県の農試が奨励品種にして、栽培を指導する。これがコメの品種改良のシステムだ。これに対して野菜・果物・花卉は違っている。 それらを全てまとめるには力不足なので、その内から気になった幾つかの例だけを取り上げてみた。
<一代雑種> 稲の品種改良は雑種何代目かを固定させる。ところが「一代雑種」と言われる品種改良は違う。固定する前のF1、つまり1代目の雑種を使う。これはメンデルの法則を知っていると理解できる。
メンデルの法則
「優劣の法則」 第一代目雑種には優性な形質だけが各個体に現れ、劣性な形質は潜在する(現れないが情報として遺伝している)。
「分離の法則」 雑種第二代では、優性形質を現す個体と劣性形質を現す個体に分かれる。両形質が渾然と混ざり合うことはない。
「独立の法則」 遺伝型がそれぞれ独立して子孫に遺伝することを「独立の法則」と言う。
 一代雑種についてもう少し詳しく、文献から引用しよう。
 ある程度性質の違う、縁の遠い品種の間で交雑させると、その間に生まれた雑種は両方の親品種に比べて草勢が強く、生育が旺盛で、不良環境に対する抵抗性が強く、収量も多い場合が多い。このように雑種の草勢が旺盛になる現象を雑種強勢と呼んでいる。植物は大抵の場合、自家(花)受精を続けていわゆる純系に近い状態になると、草勢が弱くなる。このためもあってか、植物は元来自家受精をさけるような特性をもっていることが多い。
 交配して得られた雑種は、遺伝的な特性を両親からうけ継いでいる。そこで両親のすぐれた特性を併せもつような組合せを計画的に行なうと、雑種は作物として優れた性質を表現するはずである。そしてもし交配をする親系統が、それぞれ遺伝的に比較的斉一なものであれば、両品種間の雑種普通の品種以上に特性がよく揃う。但しこの雑種は、形質の違う両親の遺伝質を併せもっているので、この雑種から種子をとると、次の世代ではメンデルの法則に示されているように分離し、雌親に似たもの、花粉親に似たもの、中間的なものなど種々雑多の形質のものが生じ、非常に不揃いになることが多い。 そこで雑種第一世代だけを作物や家畜として栽培。飼育することが考案され、これを一般に「一代雑種」と呼んでいる。一代雑種は現在野菜や花、トウモロコシなど多くの作物や、家畜、家禽、蚕から材木まで、多くの動植物で実用化されている。野菜の場合は1924年に世界に先がけてわが国で初めてナスの一代雑種の利用が実用化された。近年は多くの果菜類やハクサイ、キャベツなどの主要な野菜では、栽培品種の大部分が一代雑種になっている。(中略)
 一代雑種の利用は、一回の交配でたくさんの種子が得られるウリ類、ナス類などの果菜類や、交配の手間の省ける雌雄異株のホウレンソウとか、雌花と雄花が別のトウモロコシなどでまず実用化された。ホウレンソウではタネをとろうとする系統と花粉親にする系統とを並べてまいておき、花茎が伸び出して来て雄株と雌株とが判別できる時期になった頃、採種しようとする系統の雄株を開花する前に全株抜き去る。すると隣に植えてあった雄系統の株の花粉が風の働きで運ばれて授粉が行なわれ、人の手で交配する必要もなく一代雑種のタネが得られる。
(青葉高著「野菜」在来品種の系譜 法政大学出版会 1981から)
※                      ※                      ※
<ホウレンソウ> 漢字では『菠薐草』。西アジア原産。ホウレンソウ「菠薐(ほうれん)」とは中国語でペルシャのこと。 西洋種の導入は明治以降。現在は、西洋種と東洋種を交配した一代雑種が主流。収穫量は千葉、埼玉が全体の2割以上。作付面積は年々増加している。 ホウレンソウは雌雄異株。雄株を除去して一代雑種にする。ホウレンソウは風媒花で、雄株と雌株がある。そこで、一代雑種を採種するには両親の品種を別々のうねにまく。雌親品種に出る雄株を若い段階ですべて抜き取ると、雌株にできる種はすべて一代雑種になる。この抜き取る作業がけっこうたいへん。アメリカでは学生のちょっとしたアルバイトになっているとか。
<メロン>東アフリカ原産。中近東から中央アジアへ、また地中海を渡ってヨーロッパへ広がったとされている。アメリカへは新大陸発見後導入され、アメリカン・カンタローブになった。日本にはアメリカの露地メロンとヨーロッパのカンタロープメロンが明治になって入ってきた。しかし温室メロンは高価で庶民には手が届かなかった。 庶民にも手が届くメロンの品種を改良したのは坂田種苗(現サカタのタネ)社長坂田武雄氏だった。坂田氏は、戦後帰還兵が中国から持ち帰ったマクワウリに、南欧で味が良かった、シャランテ系の路地メロンをかけあわせて次々に新種を作っていき、、試行錯誤の結果たどりついたのがプリンスメロンだった。 発売が1962(昭和37)年だったため、皇太子ご成婚にちなんで、プリンスメロンと命名された。
 その後しばらく高級な温室メロンとプリンスメロンが共存したが、1983年頃から「アムス」「アンデス」といったビニールハウスで栽培される、品質の良いハウスメロンが出回り始めた。肉質や外観も温室メロンに似ていて、価格も手ごろなので急速にハウスメロンの時代に入った。
 メロンは販売・消費の段階では果物として扱われるが、園芸学上は野菜に入る。
※                      ※                      ※
<サクランボ 佐藤錦> 山形の天童市周辺でサクランボ盗難収まらず サクランボの盗難事件が相次ぐ山形県天童市周辺で24日も出荷間近の高級種の「佐藤錦」が摘み取られる事件があり、山形県警が窃盗事件として調べている。 同日午前4時50分ごろ、山形県東根市長瀞の農業小松孝三郎さん(68)のサクランボ畑で、収穫間近の木5本からサクランボ約50キロ(出荷額15万円相当)が盗まれているのが見つかり、村山署に届けた。 また同日午前5時ごろには天童市矢野目で、サクランボ約30キロ(同6万円相当)が畑から盗まれているのを所有者の農業の男性(62)が見つけ、天童署に届けた。盗まれたのはいずれも高級種「佐藤錦」。 天童市周辺でのサクランボ被害はこれで10件目、計1310キロ(同389万円相当)が盗まれている。〔共同 2003/06/24〕
山形のサクランボ 盗難騒ぎで?出荷絶好調 サクランボの高級種「佐藤錦」の盗難が相次いだ山形県で、サクランボの出荷量と出荷額が過去10年間で3番目の好成績になる見通しとなった。全農山形は「盗難は許せないが、騒ぎが話題性を提供した可能性もある」としている。 全農山形によると、農協を通じた今年の出荷量は15日現在で約4750トン。少量の出荷はまだ続くが、3番目に多かった2001年の約4730トンを超えた。出荷額も約81億円で、既に3番目の好成績。 好調の理由を全農山形は雨よけテントなど栽培技術の確立が考えられるとしているが「(6月から相次いだ)盗難の全国ニュースが勢いづけとして影響したのかも」としている。5月時点では平年並みと予想していた。〔産経新聞 2003/07/17〕
佐藤錦誕生秘話 これほど盗難にあう高級サクランボとはどんなものなのだろうか、生産地東根市のHPから佐藤錦誕生の話を引用しよう。
 山形県におけるさくらんぼの栽培面積は、約2,500haである。このうち、品種構成では「佐藤錦」が約8割を占めている。 昭和50年代までは、加工向け生産がほとんどであったため、果肉が固く豊産性のナポレオンを中心に栽培され、佐藤錦は雨による実割れが多いため、一部生食向けに栽培されている状況であった。 山形県は、梅雨時の降雨が全国で最も少ない地域ではあるが、それでも降 雨は避けられないため、赤く熟す前の「黄色いさくらんぼ」を収穫していたのである。 昭和60年代から、パイプハウスの屋根部分にビニールを被覆する「雨除けハウス」が普及すると、完全に熟すまで収穫期が延ばせるため、佐藤錦本来の真っ赤で美味しい食味が出せるようになり、佐藤錦への改植・新植が進み、今日の王座を築いたのである。
 佐藤錦は、大正始めに東根市で生まれたが、その誕生秘話を紹介しよう。
 東根町三日町に生まれた「佐藤栄助」は、明治41年に株投資に失敗して家業(醤油醸造)を廃業し、家屋敷を整理し松林を開いて果樹園経営を始めた。 明治のはじめに、時の政府は欧米から輸入した桜桃(さくらんぼ)を全国20県に配布し、栽培を試みたが、収穫期が日本特有の梅雨の季節と重なるためことごとく失敗し、山形県内で細々と試作されているに過ぎなかった。 栄助は、この苗木数種を買い取り、自分の果樹園に植裁し、当時開通したばかりの鉄道により関東方面に出荷できないかと考え、甘いが果肉が柔らかく保存の利かない「黄玉」と、酸味は多いが果肉が固く日持ちがいい「ナポレオン」を交配し、大正元年ころに質の良さそうな20本を選抜した。 さらに育成試験を繰り返し、大正11年に「食味も日持ちもよくて、育てやすい」新品種の育成に成功し、栄助の友人である苗木商「岡田東作」はこの新品種の将来性を見抜き、昭和3年に佐藤栄助の名を取って「佐藤錦」と命名し、世に送り出したのである。 栄助は、「出羽錦」との案を出したが、東作は「発見者の名前を入れた佐藤錦がいい」と押し通したといわれており、新品種の育成からおよそ80年、今もさくらんぼの王様に君臨する比類なき特性を持つ「佐藤錦」によって、今日の果樹産業の隆盛を築いたといえるのである。
※                      ※                      ※
<デコポン>
<来 歴>
品種名   :不知火
育成地   :長崎県口之津試験場
交配組合せ :母親:清見タンゴール×父親:ポンカン(清見タンゴールの交配組合せ:母親:温州みかん×父親:トロピタオレンジ)
育成年次  :1972(昭和47)年
市場デビュー:1990(平成2)年
主な生産県 :宮崎、愛媛、熊本、広島
 1972(昭和47)年、デコポンは長崎県農水省の口之津試験場で、ポンカンと清見を交配して作られた。デコポンの品種名は不知火で、1997(平成9)年全国統一名称となった。 「大きさはソフトボールくらい。ポンカンのやさしい香りと清見タンゴールの甘酸っぱさが絶妙にブレンド。 甘くてジューシーなのはもちろんのこと、簡単にむけて、ほとんど種がなく、手を汚さず袋ごと食べれるのが人気の秘密です。」これが宣伝文句。 郵便局の「ふるさと小包」にも採用され、人気上昇中。
<20世紀>
1888(明治21)年に千葉県東葛飾郡八柱村大橋の石井佐平宅のごみ捨て場で当時13歳の松戸覚之助少年によって発見された梨の苗木は、10年後の1898(明治31)年に初結実した。その果実は豊円で外見が美しく、美味なことから農学者の渡瀬寅次郎や池田伴親らによって、『20世紀梨』と名づけられた。命名の理由はやがて訪れる20世紀に王座をなす梨になるだろうと意味をこめてということらしい。その予言どおり、20世紀を現役で生きぬき、研究者の情熱と努力で多くの優秀な子孫を残している。鳥取県では明治37年に北脇永治によって気高郡松保村桂見に導入された20世紀梨は、鳥取県の気候と風土によく適応し、県人の粘り強い根気とたゆまない努力によって慈しみ育てられ、地域特産品として成長し今世紀の鳥取県の農家経済を大きく支えてきた。今では海外へ輸出されて世界中の民族に愛されている。
※                      ※                      ※
<花の品種改良> 農業は産業なのか?公共事業なのか?日本の農業を見るとこのような疑問が生まれる。ヨーロッパの農業ほど税金をつぎ込んで保護されているわけではないが、「農業の多面的機能」を理由に、農業が産業として発展するのを邪魔している人がいる。そんな農業環境にあっても、花卉産業は元気だ。これからも品種改良が進み生産者は増えるだろう。 東京では大田市場で花卉取引が1990年9月に開始され、当初150万本/日(切花換算)が1999年には281万本扱うようになった。
 大田市場では、オランダ式の機械ゼリ(ダッチオークション/時計ゼリ)が導入され、その成功によって今では10数社が機械ゼリを導入している。従来のセリは、セリ人が場立ちし、手や声によって値段などのやり取りを行い、競り合いによって価格が徐々に上昇し、最高値を示した買参人が購入する仕組み。それに対して、機械ゼリではスタート価格から徐々に下がる電光表示を見ながら、購入希望になった時点で手元のボタンを押し、一番初めに(高値で)ボタンを押した人が購入できる仕組み。その違いにより、従来のセリを上げゼリ、機械ゼリを下げゼリと呼ぶ。機械ゼリの導入は、セリ人による判断が少なく、高値、安値の判断を電子的に処理することから、公平さや公開性に優れ、またコンピュータによる制御によることから、事務処理の迅速化などに優れている。機械ゼリが多くの人に受け入れられ、普及したのも、この様な優位性が認められたからと言える。 しかし最近では、セリ時間を短くする先取り(時間前取引)や事前のオーダーによる注文取引を志向する傾向があり、 切り花のセリ販売は全体の1/3にまで低下している。このように大きく変化し、発展する花卉市場、民間企業が引っ張るこの市場を見てみよう。
キク 精興園のHPによると、1921(大正10)年から菊の新品種作りに取り組み、5.000種以上の品種を作り出した。全国で栽培されている菊の50%以上が精興園で育成(交配により新しい品種を作り出す)された。精興園で育成された品種は、全国10.000戸の切花栽培家の農場で生産され、市場を通してフラワーショップの店先に並ぶだけではなく、趣味の園芸家の庭で、全国各地で開催される菊花展の会場で、そして職場、学校、公園・・・でと、美しい花を咲かせ続けている。 精興園では国内向けの品種の開発だけでなく、広く世界の市場に向けて品種の育成を行っています。
花菖蒲 こちらは加茂花菖蒲園のHPから引用しよう。 品種改良、育種と言うと、なんだか難しいことのようなイメージをもたれる方も多いと思いますが、その作業手順は至って簡単しかも単純で、交配、播種育苗、選抜の繰り返しにすぎません。  花菖蒲は、交配から開花までの期間が2年と短く、栄養繁殖ができるので、煩雑な固定作業は必要ない。選抜した優良個体がある程度の数に殖えさえすれば、即、品種として確立することが可能。そこで、一般趣味家が改良に取り組むのには適した植物と言える。 品種改良の目的は、今までにない優れた品種を育成することにあるが、要領さえつかめば何も難しいことはなく、根気よく継続すれば、誰にでも成果をあげられる、実に楽しい仕事です。以下に、参考となるように要点をまとめてみましたので、皆さんも花菖蒲の品種改良にチャレンジしてみてください。
バラ ある資料では「19世紀に人為的交雑が始まって今日(1994年)まで、27,000もの園芸品種が記載されている」とある。日本だけを取り上げても「1951年から1980年までの30年間に約4,300品種」が発表されている。オランダを中心としたチューリップの品種改良は有名だが、その数が16世紀から現在までで約8,000種といわれていることと較べても、いかにバラが愛好者をとらえ、多く育種家を奮い立たせ、ついにはアカデミー賞を獲得する以上の喜こびをもって、世界的なバラコンクールで金賞を手中にすることを夢みているかが、容易に想像される。 業界では浜田バラ園がよく知られている。
トルコギキョウ ありえないものの象徴<青いバラ>に全く別のアプローチから迫る、バラのようなトルコギキョウ(Eustoma grandiflorum)をサカタが開発し、販売する。 トルコギキョウは、北アメリカ原産で、原種は、草丈が約90cmで、花は、一重の花で、花色もブルーに限られていた。戦前、おもにヨーロッパで改良され、同時期、日本へも導入され、戦争をはさみ海外では多くの品種が絶え、日本に残った品種から現在までに花色や八重咲きなど花形の充実がなされ、茎を強健にする、あるいは生態型などでの育種が進められてきた。サカタでは1975(昭和50)年には1品種しかなかったものが、現在では145品種を有するまでになっており、パンジー、ペチュニアなどと並ぶサカタの代表品目のひとつとなった。 多くの切り花品目で、作付け面積、出荷量が、減少傾向にあるなかで、トルコギキョウは、前年度比同等の生産状況を示しており、平成13年度切り花類の作付面積調査(農林水産省)によると年間出荷量は、1億2、320万本で、キク、カーネーション、バラ、ガーベラに次ぐ、出荷量第5位の品目となっている。 こうして日本のトルコギキョウ品種が牽引役になり、現在では世界のトルコギキョウ市場の約7割を日本の品種が占めるようになった。
※           ※           ※
<主な参考文献・引用文献>
「ぜひ知っておきたい 昔の野菜今の野菜」    坂本利隆著      幸書房       2001. 6.30
野菜 在来品種の系譜              青葉高        法政大学出版局   1981. 4.10  
日本の野菜 産地から食卓へ           大久保増太郎     中公新書      1995. 8.15  
( 2003年7月28日 TANAKA1942b )
▲top

(6)諸外国での品種改良
緑の革命とEU農業政策

<緑の革命> に関しては執筆者の主観が強く出て事実関係が曖昧な文が多いので、ここでは平凡社大百科事典から要約する。
 「緑の革命」(green revolution)、この言葉は1968年3月、アメリカの国際開発局長であったウィリアム・S・ガウドが、国際開発協会(第二世銀)で行なった講演で初めて使ったといわれる。その後レスター・R・ブラウンがレポートで用いてから、急速に世界中に広まった。しかしこの緑の革命の定義は必ずしも定まったものではない。
 メキシコでの小麦の改良と並んで知られている、アジアでの米の改良は次の通り。
 ロックフェラー、フォード両財団の援助で1962年フィリピンのマニラ近郊ロスバニオスの政府提供の土地に国際稲研究所(International Rice Research Institute)(IRRI)が開設され、世界各地から優秀な科学者たちを集め、1965年に奇跡の米(ミラクル・ライス)と呼ばれた新多収短稈稲品種IR−8、その翌年に同じくIR-5を公表した。これら新品種は、これまでの在来種に対し、きわめて優れた特徴をもっていた。
@在来種の3倍以上という多収であること。
A在来種が180cmに対し100cm内外という短稈になった。もっともこれは深水地帯への導入を阻害する要因になった。
B草型が光合成に都合のよいように葉が直立して短く、下葉まで日光がよく通り、水切りが早いこと。
C生育日数が在来種で180日程度のものが、IR-8では125−135日と短くなり、台風期をたくみに避けることができる性質をもっている。
D季節的な日長の変化に感じない非感光性となり、時期や緯度を選ばず、いつでもどこでも播種できるという性質を持っている。
E多収となるための性質として肥料の吸収利用効果の高い耐肥性という特別の性質をもっている。
F比較的病虫害にも強い性質をもったが、白葉枯病などまだ弱点を完全には取り去っていなかった。
 以上のような性質は、総じて水利調節のよい水田で、しかも肥料、農薬などを多用できる条件が必要で、それらの条件を欠く場合には、本来のこの優れた能力が十分に発揮できず、多収を期待できない性格であった。発展途上国では十分な肥料を確保するのが困難で、地域、環境に適応した各種タイプの品種が要求される。このため国際稲研究所は1973年ころから従来の育種目標であった多収主義を変え、セミ・ドワーフ(短稈性)のみではなく、草型もさまざまで、特定の環境に適応する特別の新品種が1976年から基本方針となった。このころから多収品種を含めた改良品種という言葉が多く用いられ、緑の革命の対象は米麦から雑穀に拡大した。(中略)
 緑の革命に対する理論的評価には厳しいものもあったが、伝統的農法に対する国民的反省と農業開発への刺激を与え、伝統農業への変革への門を開いたことは高く評価できよう。そしてそれは本質的には、1980年代に入ってもまだ進行している。(平凡社大百科事典 から)
<「緑の革命」成否はヒューマン・キャピタルにあり> 1960年代から1980年代にかけて、インドネシアやフィリッピン、パキスタンなどはコメ生産量が倍増している。これほどの成果がありながら、出版物でもWeb上でも緑の革命に批判的な論評が多い。一つは日本の出版界、楽観論より悲観論の方が受けがいい、との見方があるからだろうが、それにしても緑の革命批判論は多い。ポイントは「成功は一時的で、以後伸び悩み、環境破壊などのマイナス面が目立ってきた」だろう。何故このようなマイナス面が目立ってきたのか?次の2点が考えられる。
 @国内需要を満たした後、輸出産業として伸びなかった。その理由は日本など本来輸入国になるはずの国が輸入しなかった。コメを必要とするLDCはアジアから買うだけの財政余裕がなかった。このため生産者の販売価格が上がらず、産業として魅力がなく、アジア諸国は農業国から工業国へと変わろうとした。このことは「タイ米を買うのは、タイに迷惑か?」で書いた。
 A「IR8」は肥料を多く与えることによって多収性が発揮される。ランニング・コストが高いという事は、計画的な農業経営を行なわないと十分な収益をあげられない。多くの肥料を投入することによって土地が疲労するので、それを防ぐための知識(化学肥料・農薬・土壌などの知識)が必要となる。農作業に携わる者にこうした知識が必要になる。ヒューマン・キャピタルが「緑の革命」を生かすか殺すか、のカギになった。それは日本のコシヒカリ誕生から市場制覇への過程を見ればわかる。 いもち病に弱く、倒れやすいコシヒカリ、これを育てたのは農試の技術者だけではなく、実際に栽培した農家の人たちだった。「緑の革命」を成し遂げたアジア、しかしその後を育てるヒューマン・キャピタルは不足していた。
国際イネ研究所(International Rice Research Institute、略称IRRI)
 国際イネ研究所は1960年に設立され、CGIAR(国際農業研究協議グループ)を通してメンバー国、世界銀行、アジア開発銀行などから資金の供与を受けている非営利の国際農業研究センターの一つで、フィリピン・マニラの南60kmに位置している。米の増産技術の開発普及に当たっており、高収量のインディカ米IR8などを開発して、アジアを中心とした貧しい人々の生活を改良したいわゆる「緑の革命」の拠点となった。2002年時点で、職員数は約700人、日本からの拠出額は約360万ドル(4億3千万円)。日本人職員は、本部に理事が2名、ほかに日本からの長期あるいは短期の研究員、大学院生等が数名滞在して研究や情報交換を行っている。IRRIからも日本へ研究者の派遣を行っており、 独立行政法人国際農林水産業研究センター(JIRCAS)が交流の窓口となっている。(http://www.irri.org/
※                      ※                      ※
<ハル豚の復活は品種改良失敗の結果か?>ドイツでは豚の品種改良が進み、在来種であるシュベービッシュハル豚(通称ハル豚)が絶滅に瀕している頃、その味の良さに目を付けて商品として売り出した話。ただし番組の取り上げ方は「何でも新しいのがいい訳ではない」という取り上げ方。ハル豚がなぜ消費者に受け入れられたかと言えば、それは品質がいいからであって、古いからではないはずなのに、番組制作者の捉え方はこの通り。
 2003年2月3日と4日にNHKテレビ「ETV2003」で「EU21世紀の農村再生」という番組があった。この番組に関して 「農業は産業?それとも公共事業?」で上記のように書いた。今回は品種改良という面から再び取り上げる。 番組では「絶滅に瀕していたハル豚が復活し、7万頭までになった」「今までは品種改良された新しい豚ばかりに人気が集まっていた。新しければ何でもいい、という誤った考えがこれで崩された」「これにより地域が活性化され、雇用が確保された」といいことばかりのように報道された。コメンテータのノンフィクション作家島村菜津(なつ)氏はこのように言っている。「能書きだけでなく、美味しいんですよ。噛めば噛むほど深い味がするのです」。 番組制作者もコメンテータもハル豚の復活をいいことだ、ととらえている。本当にいいことなのだろうか? 報道された事実を少し違った立場から見てみよう。
 結論を先に言えば「ハル豚の復活は品種改良失敗の結果か?」となる。 いろいろ豚の品種改良が行なわれた。しかし結局在来種であるシュベービッシュハル豚に人気が集まった、という訳だ。何故品種改良された豚が見捨てられたのか?番組のニュアンスとしては品種改良は1品種ではなさそうだ。何種類かの改良が行なわれた、しかし結局ダメだった、ということになる。商品として市場に出すには、品種改良された新しい豚の2倍の時間がかかる。当然消費者販売価格は高くなる。それにも拘わらず消費者はハル豚を選んだ。新しいものが何でもいい、という事はない。それと同時に、だからと言って、古ければ何でもいい、ということもないはずだ。 コメンテータ島村菜津氏の言葉を受け入れれば「美味しかったので消費者に気に入られた」となる。つまり、品種改良は失敗だったのだ。短期間で市場に出せる、コストのかからない品種改良も結局マズカッタのだろう。安くても美味しくないものを消費者は買わない。美味しければ高くても買う。美味しければ高くてもコシヒカリに人気が集まる。これが「先進国型消費者」なのだ。 日本のコシヒカリは大成功。さらにコシヒカリを基に各種の改良が行なわれ、好評を博している。
 NHKの番組の捉え方は間違っている。先進国型産業と思われたドイツの畜産業、実はそうではなかった。伝統から抜け出せない、乗り越えられない、古典的な産業でしかなかった。消費者が豊かになって美味しければ高くても買う「先進国型消費者」になっていたことに気がつかなかった。しかしコメンテータを含めた番組制作者の考えは、「だから良かった」のだ。畜産業は常に品種改良や飼育方法の革新を通して産業として発展していく、それとは対極にあって、昔からの方法を守り、伝統を重んじ、コストとか生産性を重視しない、産業と言うより文化である、という考え。それはグローバル化という言葉を嫌う人々の反資本主義的感情に訴えるものではある。農業は儲かってはいけない、との考え。 そしてこの番組に登場したヨーロッパの社会主義的農業政策者の考えではあるかも知れない。「畜産業も先進国型産業であるし、そのように育つといい」との立場に立つか?「資本主義はさらに勢いを増し、その勢いはグローバル化している。せめて畜産業などの食糧生産は市場経済の外にあるべきだ」
 農業政策担当者が「農業に生産性向上を求めない」と言うことは「農業は儲からなくてもいい」と言うことであり、「農家は儲からなくてもいいが、破産しては困るから補助金を出そう」は「百姓は生かさず、殺さず」とそっくりではないか?「百姓も先に豊かになれる者から、豊かになる」政策がいい、たとえ将来所得格差が広がりジニ係数が上がったとしてもいいと思う。 
<EU農業は世界に後れる>
ここで叶芳和氏がその著「先進国農業事情」で指摘しているEU農業の問題点を要約しよう。
 第1に、EUは域外に対して徹底した保護政策をとっている。国内の生産者価格が国際価格より高い場合、その価格差の分だけ輸入課徴金をかけて輸入品の進入を防いでいる。そのためどんなコスト水準でも生きないで農業ができる。技術革新が遅れ、国際競争力が低下する。農家はイノベーションの努力をしない。
 第2に、EU諸国はギルド社会である。ライセンスがないと新規参入できない。ハム、ソーセージを作るにはマイスターの免許がないとできない。新たな競争相手が参入するおそれがないから経営革新が遅れる。
 第3に、動物愛護主義者の団体が農業に介入し、産業的発展を抑制している。デンマークでは、鶏を狭い金網の中で工場生産的に買うのは「かわいそうだ」という理由で、採卵鶏のケージ飼いを禁止した。かつては鶏卵の輸出国であったデンマーク、しかし今では鶏卵輸入国になっている。
 第4に、農民のヒューマン・キャピタルが低い。
(叶芳和著「先進国農業事情」 日本経済新聞社 1985.2.25 119P)
 いまEU農業は危機に直面している。国際競争力が低下し、保護コストが膨大になり、財政負担が限界にきている。1983年度以降、価格支持政策も取れなくなり、農業部門は深刻な不況に陥っている。いままで価格支持政策の下、供給過剰になった農産物は輸出補助金付きで輸出してきたが、これもアメリカとの農業戦争がきびしく、困難になっている。EU共通農業政策には伝統的に「生産調整」の考えがないが、もはや生産調整政策も不可避である。こういう状況では、農業の後継者も少なく、農村は衰弱していくことになろう。所詮、価格支持政策で農業と農村の問題を解決するのは無理なのだ。 なお余談になるが工業の発展が農業と農村の安定に寄与していることを理解しておくべきだと思う。他の章で明らかにしたように、EUの農業不況な背景は工業が弱く、マクロ経済がダメになったからである(農業保護のための財政の破綻)。(同書 251P)
 上記とは逆に驚嘆すべき点もあげている。
 ただ、一つ驚嘆すべきことは、農業政策に長期的視野があることである。例えばオランダでは、何十年後に使うかもわからないのに、地平線の彼方までの目の玉が飛び出るほど広大な面積の干拓事業が進められている。まさに100年の計で農業を考えている。完成に長い年月を要する育種技術の高さもその一例かも知れない。世界の歯車が変わるとき、このユックリズムは強さを発揮するかも知れない。そういう底力をもっていることも知っておくべきであろう。 (同書 121P)
※           ※           ※
<主な参考文献・引用文献>
農業の雑学事典            藤岡幹恭・小泉貞彦       日本実業出版社  1995. 9.10
先進国農業事情 農業開眼への旅    叶芳和             日本経済新聞社  1985.2.25
( 2003年8月4日 TANAKA1942b )
▲top

(7)新大陸からの金銀以上の宝物
トマト、ジャガイモの普及と改良

<西洋野菜の履歴> トマトがなかったらイタリア料理はどんなものになるだろう?辛くて刺激的なトウガラシがなかったら、インドカレーはどんな味になるだろう?もしジャガイモがなかったら、ドイツ人やロシア人はどんな料理を作るのだろう?チョコレートがなかったら、フランス人のシェフはどうやってムースやエクレアといった、ほっぺの落ちそうなデザートを作るのだろう?
 現代の西洋料理、その食材にはかつて西洋諸国には存在していなかったものが多くある。
 1492年10月12日、クリストファー・コロンブスと彼の部下たちがインドや東インド諸島への近道を探しているうちに、カリブ諸島に到着した。アジアの一部と思い込んでいたアメリカ大陸を発見してしまったコロンブスの後、多くの冒険家が新大陸を目指し、帰りには金や銀や、そして野菜を持ち帰った。 ヨーロッパ人が知らなかった多くの野菜、それがどのように受け入れられていったのか?「新大陸からの金銀以上の宝物」「ヨーロッパ人が食べ始めた農産物」について調べてみた。
※                      ※                      ※
<トマト> 新大陸からヨーロッパへやってきて、今日ではあたかも古代からヨーロッパにあったかのように思われているトマト。最近では高糖度トマトが話題になり、さらに品種改良が進み、需要層を広げている。 そのようなトマトの履歴を見ると、トマト属に入る野生の植物は、南アメリカの西側、アンデス山脈周辺の多くの地域でみつけることができる。しかし古代の人々は栽培植物として育ててはいなかった。野生の植物を改良してトマトの栽培をはじめたのはメキシコ人だった。1500年代前半にスペインの征服者たちはトマトの種持ち帰ったが、あまり歓迎はされなかった。せいぜい観賞用として育てられていた。イギリスと北ヨーロッパ諸国では、トマトにはジャガイモと同じような催淫効果があると信じられていた。
 アメリカでは植民地時代に入植したスペイン人によって栽培されていた。1800年初頭にトマス・ジェファーソンはヴァージニアの自宅でトマトを栽培した。そのアメリカでトマト普及のきっかけとなった出来事があった。1820年、アメリカ独立戦争の退役軍人ロバート・ギボン・ジョンソン大佐は、トマトが危険な食物ではないことを証明しようと、ニュージャージー州セイレムの裁判所の階段に立って、かごいっぱいのトマトを食べ始めた。しかしすぐに気分が悪くなることも、あとで高血圧や脳炎、あるいは癌になることもなかった(当時、トマトを食べるとこういう病気になると考えられていた)(もっともジョンソン大佐は実在したが、これは俗説だ、との意見もある)。
 1876年、H・J・ハインツが商業生産したトマトケチャップを売り出した。この2つの出来事がトマト普及の大きなきっかけになった。
 ヨーロッパ人が400年以上も前にアステカ帝国の畑で栽培されているのをはじめて目にして以来、トマトは長い旅を続けてきた。そしてトウモロコシやジャガイモのような世界経済に影響を与えるような作物にはならなかったが、人々の料理や食事のあり方にとても大きな、楽しい影響を与えてきたのだった。
トマトの品種改良 アメリカには1860年頃イギリスやフランスから導入された。1910年頃にかけては、偶然変異の選抜や純系選抜法によって、ポンデローザ、アーリアーナ、ボニー・ベストなどの優れた品種が育成された。さらに1911年から1935年頃には、品種間交雑に重点をおいた改良で、地域適応性や輸送加工性に優れた品種が多く育成された。1936年以降は一代雑種の利用が急速に普及するようになった。
 トマトの品種改良、それには他の農産物とは違った目標を持った改良が行なわれた。「世界を変えた作物」から引用しよう。
機械で採るトマト
サンフランシスコから双発のプロペラ機で、サクラメントに飛んだときの話である。海岸山脈を越えてセントラル谷に入ると、色タイルを敷き詰めたような模様が眼下に開けた。西の海岸山脈と東のシェラネバダ山脈にはさまれて広がるセントラル谷は、温暖な気候とサクラメント川の豊かな水に恵まれて、みごとな灌漑農業を発達させていた。色タイルのように見えた模様のなかの赤い部分がとくに目についた。双発機がサクラメントに近づき高度を下げたとき、赤いタイルがなんとトマト畑であることがわかった。トマト畑を大型コンバインが走り、トマトが機械で収穫されていた。これは、著者の一人が、もう10年以上も前にアメリカで見た光景である。 (この本は1985年初版)
機械で収穫できるトマトの改良は、まず草丈の短縮。2メートル以上の草丈になると支柱を立てて茎を固定することになる。しかし支柱があると機械収穫ができない。草丈の低い矮生と呼ばれる突然変異体を利用し、草丈の低い品種を改良した。
機械収穫に必要な第2条件は、均一な成熟だ。機会で一気に収穫するには果実がいっせいに成熟する必要がある。
第3の条件は、果実の離脱性が優れていること。普通の栽培ではあまり取れやすいと、収穫前に落ちてしまうので、逆に離脱しにくい方に改良がされていた。
そして第4の条件は果実の破損耐性。トマトは薄い果皮と多汁質の軟らかい果肉からなっているので、少しの衝撃でも果実が破損しやすい。機会収穫に適したトマト品種育成では、衝撃に強いことが最も大切であった。
 1942年、アメリカのトマト栽培家ジョンゲニールが思いついた、トマトを機械で収穫すること、これは約20年かけて達成された。矮性化で無支柱栽培を可能にし、心止まりで果実の成熟をそろえて一斉収穫を可能にし、果実の小形化、細長化、硬質化によって損傷にたえるようにし、さらに離脱性を適度につけて、機械収穫用トマトの改造は成功した。いかにもアメリカ的な改良。これによって「トマト栽培は先進国型産業である」ことがはっきりした。
※                      ※                      ※
<ジャガイモ> ヨーロッパ人は最初に、カリブ海とメキシコで新世界のほとんどの作物に出会っていた。1492年、クリストファー・コロンブスの一行は上陸してまもなく、エスパニョーラ島でトウモロコシとアヒ(トウガラシ)が栽培されているのを発見し、エルナン・コルテスは1519年、メキシコに到着後、チリ(これもトウガラシ)で味付けされたトウモロコシのトルティーヤを食べ、アステカ族のカカオの飲み物、カカワトルをすすった。侵略者であるスペイン人たちはアステカ帝国の首都テノチティトランの青空市場を訪れたとき、トウモロコシやチリやカカオの実のほか十数種類ものトマトとインゲンマメを目にした。 しかしアステカの大市場では、とても重要なアメリカの作物が売られていなかった。それは北アメリカや熱帯のカリブ諸島の人々はもちろん、アステカ族やマヤ族の人々も知らないものだった。この作物、つまりジャガイモは南アメリカだけで、それもアンデス山脈の麓でのみ栽培されていたのだった。
 高く連なるアンデス山脈とその周辺地域は、数千年にわたってアメリカ先住民の文明の発祥地だった。すでに紀元前1000年には、人々はペルーの開眼周辺と安です山脈の山あいの高原に都市を建設し、作物を栽培していた。それから2000年を経て、アンデス一帯は強大なインカ帝国に支配されるようになる。メキシコのアステカ帝国と同じように新しく台頭してきたインカ族は紀元1400年ごろペルーでインカ帝国を建設したが、アステカ帝国よりもはるかに短命に終わった。1532年、およそ260人の兵士を率いたスペイン人フランシスコ・ピサロが、黄金を求めてペルーを侵略する。ピサロが皇帝アタワルパを拉致し処刑すると、インカ帝国は崩壊した(インカ帝国はメキシコからひろまったヨーロッパの伝染病によってすでに弱体化していた)。
 ジャガイモはインカ帝国が権力をにぎる数百年もまえからその土地で作られていたし、インカ族の暮らしになくてはならない作物だった。しかしヨーロッパ人には目新しい、とても不思議な食物だった。1500年代のヨーロッパ人は、地下茎を作る植物についてあまり知識がなかった。ニンジンやカブのような根菜なら知っていたが、ジャガイモはそれらとあまり共通点がないようにみえた。芽の出方も変だった。ヨーロッパ人が知っていた作物はたいてい土にまいた種子から芽が出てくる。しかしジャガイモは一部をそのまま植えると、やがて新しい芽が顔を出すのだ。
ジャガイモに毒がある? トマトもそうだったように、ジャガイモも初めのうち毒があると信じられていた。迷信は長く信じられたが、次第に実用的な特徴に気がつき始めた。
栽培が簡単である。 北ヨーロッパの寒い地方でもよく育つ。 収穫量が多い。 苗を植えてから3ヶ月もすれば収穫できる。 同じ広さの土地から、コムギはもちろんトウモロコシの5倍の収穫がある。 炭水化物はじめビタミン類など栄養面で優れている。 地下に育つため強風や雹の影響を受けない。
 これほど優れているにもかかわらず、1600年代から1700年代のヨーロッパの農民はすぐにジャガイモを植えようとはしなかった。「デンプン質で風味がなく、命を永らえることだけを考えている人々の食物」と考えられていたのだった。
 プロイセンでは1600年代後半、何度か凶作に見舞われた。このためプロイセン王フリードリッヒ・ヴィルヘルムは、すべての小作人にジャガイモを栽培するよう命令した。プロイセンで広く栽培されるようになった結果、1700年代後半におこった戦争でジャガイモは重要な役割を果たした。17780年プロイセンのフリードリッヒ大王は隣国オーストリアと一戦を交えたが、両軍はたがいに敵国のジャガイモ畑を徹底的に荒らした。この戦略のせいでこの戦いは「カルトフェルクリーク(Kartoffelkrieg) 」、つまり「ジャガイモ戦争」(正式名称は「バイエルン継承戦争)としてひろく知られるようになった。
 もう一つヨーロッパ人がジャガイモを食べるきっかけを作った戦争がある。1756年から1763年まで続いた7年戦争中に、フランス軍に従軍していた薬剤師アントワープ・パルマンティエはプロイセン軍に捕らえられて3年間投獄された。牢獄でジャガイモ料理をあてがわれたパルマンティエはこのアメリカからきた地下茎はフランスの農民にとって理想的な作物になる、と確信した。そして1771年、栄養豊富なジャガイモは「緊急時には普通の食物の代用品になる」と、栽培を推薦する学術論文を書いて賞を受けた。パルマンティエのジャガイモ推進運動は王室の関心も捉える。1785年バスケットいっぱいのジャガイモをルイ16世に、ジャガイモの花で作ったブーケをマリー・アントワネットに贈って好印象を得た。
 1700年代後半になってパルマンティエの努力が実を結ぶ。農民はジャガイモを栽培し始め、多くの料理が工夫され、「フライドポテト」(フレンチフライ)の世に生み出されるようになった。1765年、ロシアではエカテリーナ2世がジャガイモの栽培を国民に奨励する。ポーランド、オランダ、ベルギー、スカンジナヴィア諸国でもジャガイモのお陰で、栄養のある安定した食生活が送れるようになった。
アイルランドのジャガイモ アイルランドでは1754年から1845年までに人口が320万人から820万人に増加した。ジャガイモのおかげで増加した人口、しかし1845年ジャガイモの凶作が訪れた。1848年にもジャガイモ凶作になる。1849年までに150万人が死に(200万人との説もある)、年間20万人、計100万人がわずかなたねイモをもって北アメリカに渡った。アメリカ東北部にアイルランドからの移民が多いのは、このことに関係がある。このジャガイモ凶作からの移民から、後に2人の大統領、ケネディとレーガンが選出された。
 1700年代の末以降、フランスでは薄めに切ったジャガイモを熱い油で「フランス風に揚げて(フレンチフライ)」いた。トマス・ジェファソンは1789年に駐仏対しとしてフランスに赴任したとき、フライドポテトを知り気に入ってしまった。それが高じて、数年後アメリカ大統領になると、晩餐会の客のためにフライドポテトを作るようにホワイトハウスのコックに命じたという。フランス人はフライドポテトが大好きだったので、それを2度揚げする方法を思いつき、きつね色にふっくらと揚げるポテトスフレを生み出した。アメリカではポテトチップスが生まれた。1870年代、ニューヨーク州サラトガスプリングズの避暑地で、レストランの客が「フライドポテトが分厚すぎる」と文句を言ったので、コックはジャガイモを紙のように薄く切って熱い油で揚げて見せた。すると客たちは大満足し、「サラトガチップ」が誕生した。合衆国ではその名前はのちにポテトチップスに変わったが、イギリスではポテトチップスと言うとフライドポテトのことになるので、この新しいチップスは「ポテトクリスプ」と呼ばれている。
ジャガイモの品種改良 ジャガイモが多く栽培されるヨーロッパは、赤道に近い原産地アンデスとは違って、高緯度が多い。このため夏には昼が著しく長くなり、北欧では白夜がみられる。ヨーロッパでは夏がすぎて故郷アンデスとおナ時程度の短い日長になるまで、イモが太らない。このためいちじるしく晩成になるか、まったくイモをつけずに終わることがある。このためヨーロッパの夏の長い日長条件でもイモを太らせ、秋の早霜がくる前に収穫できるタイプが選ばれていった。長日適応性と早熟性をそなえた新しいタイプのジャガイモ、テュベロスム種テュベロスム亜種の原型ができたのは1830年ごろであったが、本格的に栽培されるのは疫病発生以降であった。
アイルランドのジャガイモ疫病から、科学者のジャガイモ研究が始まった。今回の疫病の犯人は、糸状菌の一種で、フィトフトラ・インフェスタンスト名付けられた。フィトフトラとは植物破壊者という意味で、防除にはブドー栽培で発見された農薬ボルドー液がよくきくことがわかった。
イギリスで疫病抵抗性の品種を作ることを目標に、ジャガイモの計画的な品種改良がスタートした。イギリス人、W・パターソンは、スコットランドの在来種の中から優良な個体を選抜し1856年に品種ヴィクトリアを育成した。
アメリカにジャガイモはヨーロッパから逆輸入された。それは1719年、ニューハンプシャーのロンドンデリーに入植したスコットランドとアイルランドの移民がもってきたのが最初であると伝えられる。1845年からのジャガイモ疫病はアメリカにも及んだ。ニューヨークのC・グッドリッチは1851年、原産地チリから数品種のジャガイモを取り寄せた。これを基に1854年から3年間に8700の実生系統を育てた。その中で早生で多収の淡紫色のイモをつける品種、アーリー・ローズは、北アメリカだけでなくヨーロッパへの伝わり、早熟性への改良のための重要な母本として使われた。
1870年にルーサー・バーバンクは、大きな白い丸いイモをつける個体を選び、新しい品種とした。この品種はバーバンクと呼ばれ、彼はこの品種の特許を売った金を元手に800種以上の植物の品種改良を成し遂げた。
1876年、アメリカ在住のアイルランド系靴屋により、白花で淡紫色のイモをつけるアーリー・ローズの畑から、淡紫色の花でイモの黄色な個体が見つけられた。このアイリッシュ・コプラーと呼ばれた品種は、北海道函舘当別の農場主、川田竜吉男爵によって、1907(明治40)年わが国に輸入され、男爵イモの名で、いまも北海道の主要品種として広く栽培されている。
※                    ※                    ※
<主な参考文献・引用文献>
世界を変えた野菜読本    シルヴィア・ジョンソン  金原端人訳    晶文社      1999.10.10  
世界を変えた作物      藤巻宏・鵜飼保雄              培風館      1985. 4.30
じゃがいもの旅の物語    杉田房子                  人間社      1996.11. 7  
( 2003年8月11日 TANAKA1942b )
▲top

(8)美味いものには国籍不用
進歩する品種改良手法

<トウモロコシ> 1492年10月12日、3ヶ月も続いた航海の後クリストファー・コロンブスの一行はようやくカリブ諸島に到着した(アジアの一部と思いこんでいた)。この見知らぬ土地を探検してみると、見たこともない不思議な光景につぎつぎ出くわした。とくに好奇心をそそられたのは、畑に横たわっていたある植物だ。それは人の背よりも高く、人の腕ほどの太さの穂をつけ、その穂は「エンドウマメほどの大きさの粒でおおわれていた」。それはマイスという名の植物で、島に住むアラワック族が作物として育てていた。 4回目のアメリカへの航海に同行し、すなわちトウモロコシ(マイス)を試食してみたら、「茹でてあったり、焼いてあったり、挽いて粉になっていたりしたが、とても美味しかった」と記している。 コロンブスの航海に続いてほかのヨーロッパ人たちも出航し、この不思議な新世界を探検してその富を搾取した。トウモロコシは、彼らが足を踏み入れたアメリカ大陸のほとんどすべての土地で栽培されていた。
 1519年、スペイン人エルナン・コルテスの一行は、メキシコの岩だらけの土地を行軍してアステカ帝国の首都テノチティトランにたどり着いた。大きな都市を囲んでいる浅い湖には、チナンパと呼ばれる人口の浮島を利用した畑がいくつもあり、トウモロコシやインゲンマメなどの作物が栽培されていた。スペイン人は、アステカ族の人々が作るトウモロコシ料理の多様さに驚いた。紙ほどの薄さのパンのようなトルティーヤ、トウモロコシの軟らかいパン生地で具を包んださまざまな種類のタマーレ。タマーレには、「幅広のタマーレ、先の尖がったタマーレ、白いタマーレ……貝殻の形にマメを並べたタマーレ……赤い果物のタマーレ、シチメンチョウの卵のタマーレ」があったという。
 フランシスコ・ピサロ率いるスペインの征服者たちは、ペルーのインカ帝国に「兵士の槍のように背の高い」トウモロコシが栽培されているのを発見した。彼らは1533年、インカ帝国の首都クスコに到着し、聖なる太陽神殿に隣接する庭園で金と銀でできたトウモロコシの茎を見た。インカに市場では、本物のトウモロコシの粒が貨幣として使われていた。スペイン人の記録によれば、食べ物を買いにきた女は、品物のまえの地面にトウモロコシの小山を作り、売り手が納得するまで小山に一粒づつ足していったという。
 1500年代から1600年代にかけてアメリカ大陸にやってきたヨーロッパ人がみんな、コルテスやピサロのような探検家や征服者だったわけではない。新天地を求めて旧世界に別れを告げてきた開拓者たちもいた。彼らにとってトウモロコシはただの珍しい植物ではなかった。このアメリカの穀物は、未知の危険にみちた土地で彼らを飢えから守ってくれる食糧となったのだから。
(世界を変えた野菜読本 シルヴィア・ジョンソン 金原端人訳 晶文社 1999.10.10)
ヨーロッパで普及するまで トマトやジャガイモと同じように、トウモロコシもヨーロッパで普及するには時間がかかった。トウモロコシは次の様に優れた作物であった。
収穫量が多い。同じ面積でコムギのおよそ2倍の収穫量。 収穫までの期間が短く、ほかの穀物に比べて手間も暇もかからない。 様々な気候や異なった条件下で栽培できる。
 こうした利点がありながらヨーロッパではコムギが常食だった。その最大の理由はパンを作ることができないことだった。トウモロコシにはグルテンが含まれていない。グルテンはコムギに含まれているたんぱく質で、イーストと結びついてパンを発酵させふくらませる働きをする。トウモロコシはビスケットのように硬くてパサついていた。パンを常食とするヨーロッパ人にはなかなか受け入れられなかった。ごく一部の地域=ルーマニアやハンガリーなどヨーロッパ南東部の、貧しい人々は安くて収穫量の多い穀物だと気付いていたが、ヨーロッパのほとんどの地域では、トウモロコシは家畜やブタの飼料にふさわしい穀物だと考えられていた。
 1600年前半にスペインやポルトガルの小作農がトウモロコシを栽培し始めていたようだ。1670年代にイギリスの哲学者ジョン・ロックは、南フランスを旅行中にトウモロコシ畑を目にしている。彼は、その穀物がプレ・デスパーニュ(スペインコムギ)と呼ばれ、「貧しい人々の食欲を」満たしていることを知った。
 北イタリアでは、トウモロコシ粥はポレタンと呼ばれた。ポレタンはポリッジにあたる古いラテン語からきている。1780年にこの地方を訪れたドイツの作家ゲーテは、小作農の家族が毎日ポレタンを「そのまま何も加えずに食べたり、たまにすりおろしたチーズを振りかけて食べている姿」を記している。
アフリカで普及するまで ヨーロッパではトウモロコシは限られた地域でしか常食されることはなかったが、アフリカでは何百万人もの人がこのアメリカの穀物に依存するようになった。トウモロコシが初めてアフリカに伝わったのは、国際的に奴隷貿易が行なわれるようになってからだった。それは1400年代に始まり、ポルトガル人がアフリカの西海岸にやってきてアフリカ人を連れていき、ヨーロッパや中近東で奴隷として売った。1600年代にヨーロッパの国々が新世界に植民地を建設するようになると、奴隷の需要は大幅に増え、およそ300年のあいだ奴隷船は大西洋を横断して、多くのアフリカ人をアメリカ大陸のプランテーションへ運んだ。初期の奴隷商人は帰路につく際、新大陸からアフリカへトウモロコシを持ち帰った。トウモロコシは初めアメリカ大陸へ輸送されることになっている奴隷に、安くて手ごろな食べ物を供給するために西アフリカで栽培されていた。しかしそのうちアフリカの多くの地域で栽培されるようになる。それは育てやすく収穫量の多い、アフリカの人たちにとって最適の穀物であった。
世界中に普及する トウモロコシはアメリカ大陸から世界中を旅して、多くの人々の食生活や料理に影響を与えてきた。インド北部では1800年代にトウモロコシが常食されるようになったが、あまりにも広く行き渡ったので、多くのインド人が、トウモロコシは太古からインドの食事に欠かせないものだと思っているらしい。中国でのトウモロコシ栽培は1700年代まで南西部に限られていたが、1800年代になると北部にも広がっていった。現在中国のトウモロコシ年間生産量はアメリカについで世界第2位になっている。
 トウモロコシは現代では昔のアメリカ先住民には想像できないようなかたちで消費されている。一つはコーンオイルで、これは粒のなかの油分豊富な胚芽から作られる。胚芽はやわらかくしたトウモロコシ粒を現代の製粉技術ですりつぶして分離させる。もう一つはコーンスターチやコーンシロップで、残ったものをさらにすりつぶして加工するとできる。これらのトウモロコシ製品は、マーガリンやサラダドレッシングやパン・ケーキ類など沢山の種類の加工食品に使われている。このようにトウモロコシは、昔と同じように今もアメリカ大陸の人々の食卓をほとんど毎食のようにかざっている。
トウモロコシの品種改良 トウモロコシがアメリカ大陸からせ買い各地で栽培されるまで長い時間がかかった、そして品種改良も本格的に行なわれるのは18世紀後半になってからだった。20世紀に入って、雑種強勢(ヘテロシス)を利用する一代雑種(F1ハイブリッド)による改良が始まるまでは、このやっかいな他家受粉植物の改良に、あの手この手の育種法が試みられた。
 第一の方法は品種混植法による改良で、1808年に発刊されたフィラデルフィア農学会誌によると、ニュージャージー州の農業主が、1772年に、ギニアから導入したフリント種と在来の早生種とを混合栽培して、早生で穂の大きい株から種子をとったという記録がある。 インディアンから贈られたトウモロコシに本格的な改良の手が加えられるようになり、品種混植法、集団選抜法、一穂一列法などの育種法が考案され、アメリカのコーンベルトの大穀倉地帯を形成する基本品種が生まれた。しかし、他殖性植物のトウモロコシは自殖性植物と違って、選抜された材料の受粉様式を厳密に制御しないと、選抜の高価があがらない。このため20世紀になって一代雑種を利用する育種がさかんになるまでは、トウモロコシの改良のテンポはゆっくりしたものだった。アメリカのコーンベルト地帯におけるトウモロコシの収量は、一代雑種の利用によってはじめて飛躍的に向上した。
 この新しい一代雑種合成法は、つぎのような手順で進められる。
(1) 自殖によって多数の系統をつくる。
(2) その中から優良な自殖系統を選抜する。
(3) それらを交雑する。
(4) 雑種強勢の顕著にあらわれる組合せを探す。
(5) この組合せの両親系統を自殖で繁殖させる。
(6) 毎年一代雑種を作って利用する。
一代雑種法の進歩 この一代雑種を利用する方法、しばらくは普及しなかった。その理由、自殖系統間の交雑では、母本とする系統の生育が貧弱で、十分な交雑種子を生産できなかったことによる。そこでコネチカット州のジョンズは、自殖系統間交雑で得られる一代雑種どうしを交雑する複交雑法を提案した。雑種強勢のよくあらわれる4種の系統A,B,C,Dを用意する。AとBとの交雑で得られる一代雑種を母本とし、CとDとの交雑で得られる一代雑種を父本として、一代雑種同士を交雑する。交雑によって強勢化した一代雑種どうしの交雑で、農家に配布する種子を生産できるので、採種効果は高まった。この方法は一代雑種を2度行なうので、「二代雑種」とでも言うべき方法だ。 こうして普及した複交雑、しかし現代では生育旺盛な自殖系統が育成できるようになり、単交雑によく一代雑種種子の生産が効率よくできるようになった。このようにトウモロコシはアメリカでの品種改良により生産効率高まり、先進国では家畜の飼料用穀物として重要な農作物になっている。
※                      ※                      ※
<トウガラシ>トマト、ジャガイモ、トウモロコシと続いてその後がトウガラシ。インゲンマメとかピーナツ、カカオ、カボチャ、パイナップル、アボガドなど差し置いて「トウガラシ」。その理由は追々明らかにするとして、ヨーロッパ人とトウガラシの出会いから話しを始めることにしよう。
 クリストファー・コロンブスは1493年1月15日の日誌に、カリブ海のエスパニョーラ島で沢山の「アヒ」を発見したと書いている。彼は、ヨーロッパで珍重されている高価な黒い香辛料のいたとえて、アヒを先住民の「コショウ」と呼び、「とても体に良いので、人々は毎食欠かさず食べている」と記している。 26年後にメキシコを征服したスペイン人は「チリ」と呼ばれる刺激の強い作物がアステカの料理でとても重要な役割を占めていることに気づいた。アステカ族は「辛くないレッドチリ、太いチリ、辛いグリーンチリ、イエローチリ・・ウォーターチリ・・ツリーチリ」などいろいろな種類を栽培していた。
 アヒとチリはそれぞれ別のアメリカ先住民の言葉だが、両方とも一つの重要な植物を指す。この植物とそれから作られる食品は、新世界から旧世界へ輸出されたものの中でもっとも人気のあったものの一つだが、もっともその原産地が忘れられがちなものでもある。現在その植物は世界中で栽培され、いつでも沢山の紛らわしい矛盾した名前で呼ばれている。例えば英語圏の人々のあいだでは、ホットペパー、スウィートペパー、グリーンペパー、チリペパー、チリ、チレ、カプシムカ、カイエン、パプリカなどと呼ばれている。
 これらの聞きなれない名前はどれも紛らわしく謎めいているが、植物学者にとってその植物は謎でもなんでもない。これはナス科の仲間であり、ナス科には他にジャガイモ、トマト、タバコといったよく知られたアメリカ原産の作物がある。この植物はナス科の「トウガラシ」(カプシムカ)属に入っている。カプシムカという言葉は箱という意味のラテン語からきているのだが、この名前の付いたのは種の入っている部分、つまり実がなんとなく箱のかたちに似ているからだろう。トウガラシの実は内側に沢山の種子がついた肉質の壁でできていて、中は空っぽになっている。ほとんどが未熟なときには緑色で、熟すと黄味や赤味がさす。
(「世界を変えた野菜読本」から)
 別の文献には次のように書いてある。
 1492年11月4日、日曜日付けのコロンブス航海誌によれば「キューバ島でインディオたちがクルミのような形をした果実を持っていたという部下の言葉に大変驚き、もしやそれが探し求めているコショウかニッケイではないかと、体が震えるほど興奮した」とあります。当時、ヨーロッパではコショウは肉の防腐や香り付けになくてはならないものとして貴重品扱いされており、大航海時代はこのコショウの資源拡大を求めて始まったともいえるわけです。しかし、キューバ島の赤い果実はコロンブスが求めていたコショウでもニッケイでもなく、現地でアヒーと呼ばれている植物でした。このアヒーは、今日私たちがトウガラシと呼んでいるもので、クルミのようだという記述から、当時すでにトウガラシの栽培品種が存在していたことがうかがえます。これがコロンブスとトウガラシの初めての出会いでした。 (「世界を制覇した植物たち」から)
コショウ、東方貿易、トウガラシ インド、インドネシア、マレーシアで取れるコショウはヨーロッパ人にとって生活必需品だった。肉食を維持するためには、防腐、消臭、調味のためにコショウはなくてはならないものだった。しかしこれはヨーロッパでは栽培できない。アジアから持って来なければならない。そこに東方貿易の目的があった。ジェノバ商人が独占していた東方貿易、しかしオスマントルコがビザンチン帝国を滅ぼし、コンスタンチノーブルをイスタンブールと改名するに及んで、東方貿易は消滅する。ヨーロッパ人はコショウなどの香辛料を何らかの方法で入手しなければならなかった。
 ちょうどこの頃羅針盤が改良され、地球球体説が認められてくる。そこで「コショウ一粒は黄金一粒」とまで言われた香辛料の、新たな輸送ルート開発が待望される。そして多くの冒険家が登場した。ヘンリー航海王子、バーソロミュー=ディアス、バスコ=ダ=ガマ、フェルディナンド=マゼラン、アメリゴ=ベスプッチ。ここでは名前をあげるにとどめて置くが、この時代香辛料は命を賭けて探し求めるほど価値があった。トウガラシの英語はRed pepper、つまり「赤いコショウ」となる。
トウガラシの普及 コショウを求めて新大陸へ向かった冒険者たち、しかしトウガラシは余りも辛すぎて直ぐには普及しなかった。そんなヨーロッパ人とは違った、アフリカ、アジアでは直ぐに普及した。1500年前半にはサハラ砂漠以南のアフリカの多くの地域で栽培され、インド、中国(とくに雲南省と四川省をふくむ南西地方)でも栽培されるようになった。こうしてアジアで栽培されたコショウはオスマン帝国へ普及し、東ヨーロッパを経由し西ヨーロッパへと普及していった。そうしてアメリカ大陸のヨーロッパからの移民には、ヨーロッパを経由して伝えられて行った。
 ビタミンCの発見でノーベル賞を受賞したセント・ジェルジーが1937年にトウガラシの果実に大量のビタミンCが含まれていることを見つけた。このことが契機となってヨーロッパでのパプリカ系の甘味トウガラシの栽培が急増することになった。このようにヨーロッパでは新しい食材に対して保守的であった。 
トウガラシの仲間たち ピーマン、シシトウ、パプリカ(カラーピーマンとも言われた)これらはトウガラシの仲間。トウガラシは戦国時代、日本に入って来て江戸時代にはかなり普及した。ピーマンはアメリカで品種改良された(一代雑種)辛くないトウガラシであり、カリフォルニアワンダーなどが日本で栽培されだしたのは明治に入ってから。 本格的に作られるようになったのは昭和30年以降で、昭和20年代には売上高は第50位くらいであった。 現在はベストテンに顔を出す売れっ子で、昭和30年の売上高は5,700万円、昭和50年の売上高は62億9,000万円だった。生産高トップは宮崎県。
 「ピーマン」をキーワードに検索したら、次の様な文があった。 
 子供の「嫌いな食べ物」の上位にランキングされるピーマン。舌がピリピリして苦くてまずくて…わからないでもない。なぜこんなピーマンが食用として流通しているのか。これには戦後の食品流通が関係している。 敗戦直後、食料品には経済統制の網がかけられ、ほとんどの食品は自由に売買することが出来なかった。この時、ピーマンは対象外。というのも、そもそも日本人の食卓にピーマンが出てくることはほとんどなく、その存在も忘れ去られていたため。 東京近郊の農家は、他の野菜や米は自由に作れないのに対してピーマンなら自由に作って自由に売買できることに目を付けた。食糧難の時代、闇市で飛ぶように売れて日本人の食生活に浸透していったのである。食糧難だからマズくても食べていたが、次第にそうもいかなくなる。だから、最近では品種改良も進みピーマンはおいしくなってきているらしい。
※           ※           ※
<主な参考文献・引用文献>
世界を制覇した植物たち        日本園芸化学会編              学会出版センター    1997. 5.10  
( 2003年8月18日 TANAKA1942b )
▲top

(9)まだまだあった新大陸の味覚
コロンブス時代からの植物史

<インゲンマメ> コロンブスは、アメリカとヨーロッパの「果物」と「草木」には「昼と夜ほどの違いがある」と言ったが、かれの言葉は当たらずといえども遠からずだった。たしかに全体がすっぽりと皮につつまれ、その中に丸々とした粒が並んでいる穂をつけた背の高いトウモロコシ、あるいはアメリカ先住民が作る特別な飲み物の材料、カカオ豆が実るカカオの木のようなものはヨーロッパにはなかった。ヨーロッパ人は、甘くてとげのあるパイナップルのような不思議な果物、あるいはピーナツのように土の中で育つ「木の実」も見たことがなかった。
 しかしアメリカの作物の中にはあまりエキゾチックとは言えないものもある。実際、ヨーロッパで栽培したり食べたりしているものととてもよく似た作物もあったのだ。その良い例が新世界のマメだろう。アメリカ原産のマメはそのうちヨーロッパで広く栽培されるようになるのだが、ヨーロッパ人によって発見された当時はあまり注目を集めなかった。コロンブスをはじめとする探検家たちはヨーロッパのマメをよく知っていたので、アメリカ大陸の新種のマメもまた、何千年ものあいだ人間の食生活に取り入れられてきた作物と同じ科に属しているのだろうと考えていた。
 ヨーロッパでは古くからソラマメを食べていた。古代ギリシャ、ローマ、中世ヨーロッパでも一般庶民はソラマメを常食していた。アメリカ原産のインゲンマメがヨーロッパに伝わったのは、ヨーロッパ人がはじめて新世界に上陸した直後だった。コロンブスが1493年に2回目の航海をした後、スペインにマメの種子を持ち帰った。その新しいマメは1540年大にはヨーロッパで出版された植物誌に載るようになったが、アメリカ原産であることは知られていなかった。初めイギリスで広まったときは、食糧としてではなく、きれいな赤い花を観賞するために育てられた。 しかしヨーロッパ人は、このマメが目を楽しませてくれるだけでなく、お腹も満たしてくれることを発見した。現代、インゲンマメはアジアではそれほどでもないが、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカで広く普及するようになった。
※                      ※                      ※
<ピーナツ> 南アメリカは今から3000年以上も前にピーナツが初めて登場した場所であり、古代のペルー人は野生のピーナツを栽培し、乾燥した海岸地方の砂土で作物として育てていた。ピーナツがこの地域で常食されていたことは、考古学的な発掘から明らかになっている。紀元前500年以前に、ピーナツは原産地の南アメリカからメキシコへ伝わっていた。そこではピーナツを食物というより薬として考えていたようだ。サアグン修道士の本によれば、アステカの市場でピーナツは「ハーブの知識と根菜の知識をもった治療師」である、「薬屋」で売られていたという。粉にして水にとかしたピーナツが解熱剤として使われていたらしい。1500年代に初めてピーナツの存在を知ったヨーロッパ人は、それがなじみのある木の実とは妙にちがっていることに気づいた。おそらくスペイン人とポルトガル人が持ち帰っただろうが、ピーナツは広く栽培されることはなかった(ヨーロッパの大部分の気候はピーナツを栽培できるほど暖かくなかった)。そのかわりトウガラシと同じように、ピーナツはアフリカやアジアに新天地をみつけた。 トウガラシ同様、最初にピーナツをアフリカに持ち込んだのはポルトガルの商人と船乗りだった。1560年代にはアフリカの西海岸で栽培されており、その同じ地域でポルトガルなどのヨーロッパの奴隷商人が奴隷売買をしていたのだった。
 アフリカでピーナツはトウモロコシやキャッサバと同じように、深刻な栄養不足を補ってくれた。アフリカ大陸は広大で気候や地形も変化にとんでいるにもかかわらず、耕作に適した作物がほとんどなかった。そこで育てやすいだけでなく、ひどく不足していた栄養分を補給してくれるピーナツはとりわけ歓迎されたのだった。北アメリカではのちにスナックになったが、西アフリカではたちまち日々の重要な食材になった。
 ピーナツがアジアにたどりつくと、アフリカの場合と同じようにたちまち毎日の食事に欠かせないものになった。東南アジアの人々は、ひき割りピーナツがコメや肉や野菜にかけるソースにぴったりなことに気づいて、ピーナツにトウガラシやココナッツやミルクやライムの果汁などさまざまな種類の材料を混ぜて辛味のあるソースを作った。 ピーナツをつぶすと、料理に使える透明な油が出てくる。これはアフリカやアジアの多くの地域でもっとも重要な料理用油になった。ヨーロッパの人々もピーナツ油の質の高さに驚いた。ヨーロッパでピーナツは食材として人気は出なかったが、ピーナツ油はひろく使われるようになった。
※                      ※                      ※
<カカオ>チョコレートといえばこのHPでは「フェアトレードは最貧国の自立を支援するか?」で取り上げた。 カカオ豆最大の輸出国コートジボアール(象牙海岸共和国)の輸出量は106万トン。ガーナは輸出量29万トン。日本の2001年の輸入量は約5万トン。ガーナからの約3万7千トンがトップ。別の資料による生産量はコートジボアールが120万トン、ガーナが35.5万トン。ヨーロッパの輸入量はドイツ・フランス・イギリス・ベルギー・オランダ・オーストリア・デンマークの7ヶ国で計81万トン。  
 日本ではカカオはアフリカ産と思われている。しかし原産地はアメリカ大陸。1519年、エルナン・コルテスの一行は、メキシコの東海岸に上陸すると皇帝モクテスマの特使たちに歓迎され、友好と平和のしるしに食べ物や飲み物でもてなされる。飲み物はカカワルト(カカオ水)だったが、あまり美味しそうには見えなかった。「スペイン人が飲もうとしないのを見たインディオたちは、すべてのヒョウタンの中身を毒見してみせた。スペイン人はチョコレートでのどの渇きをいやし、それを飲むとどんなに元気になるか、知った」
 ヨーロッパに初めて伝えられたカカオ豆は、1528年にスペインに帰国したコルテスによってスペイン王であり神聖ローマ帝国皇帝でもあるカール五世の宮廷に献上された。1500年代、カカオの木はメキシコのプランテーションだけで栽培されていたので、スペインがココアの原料を統制していた。しかし直にイタリア人やフランス人もその泡だった濃厚な飲み物の存在を知った。カカオ豆はスペインやメキシコからひそかに持ち出され、裕福なヨーロッパ人はすぐにスペイン人がしていたように、カカオ豆を炒ってから挽いて粉にし、できあがったココアを泡だてて飲むようになった。
※                      ※                      ※
<タバコ>「1492年10月15日……丸木舟に1人で乗った男が、サンタ・マリア島からフェルナンディナ島へと向かうのに出会いました。彼は、握りこぶしほどの大きさの彼らのパンを少しと、水を入れた瓜殻(カラバサ)と、赤土を粉にして練ったものと、乾いた葉っぱを2,3枚持ってきました。この葉っぱは、サン・サルバドール島でも贈り物として私に持ってきましたから、彼らが珍重しているものに違いありません」
 これは「コロンブス航海誌」(林屋永吉訳)の1節で、「私」とはコロンブス、「乾いた葉っぱ」とはタバコのことです。コロンブスの新大陸発見は、先住民にとってはその後の悲惨な歴史の始まりだったわけですが、黄金を求めていたコロンブスはタバコには目もくれず、最後までタバコとは縁のない男だったのです。
 当時、南アメリカからカリブ海の周辺にかけては、先住民のインディオによってタバコが栽培されていました。一方、北アメリカ東部では、タバコと比べると香りや味が劣るルスティカタバコが栽培されていました。
 これらのタバコがヨーロッパに伝来したのは16世紀初めごろで、まずスペインに伝わり、その後16世紀のうちに、ポルトガル、フランス、イギリスへとそれぞれ別の経路で伝えられました。しかし、16世紀前半の約50年間はタバコはあまり問題にされず、ごく限られた人たちがたばこを吸っていただけでした。ところが、1543年、スペインのサラマンカ大学の教授が医薬品としてのタバコの効能を発表してから50年間は「万能薬」として盲信されました。たばこ喫煙がヨーロッパ中に広まったのは、17世紀前半の30年戦争がきっかけでした。なお、「シガレット(紙巻たばこ)」の歴史は新しく、18世紀ごろに始まりましたが、19世紀中ごろのクリミア戦争中に、兵士らが大砲の火薬を包む薬包紙で巻いてたばこをすったことをきっかけに、広く普及したといいます。
(「世界を制覇した植物たち」から)
タバコの品種改良 タバコの品種改良はアメリカがリードしている。17世紀初め(1612)にイギリスの開拓者がアメリカのヴァージニアに入植し、ベネゼラのオリノコから伝来したタバコの栽培を始めた。雑種集団の中から個体を選び、その自殖系の分離集団のみを利用したり、突然変異株を利用していた。1859年に黄色種乾燥法の基盤ができ、同じ時期に紙巻たばこが開発され、アメリカのたばこ産業は発展した。 20世紀に入ると、メンデルの法則が一般の育種家たちにも受け入れられ、各地で交雑育種による品種改良が行なわれるようになった。アメリカでは、農務省、州立大学や農業試験場、が一体となって品種改良に取り組んだ。産学協同、官民共同で改良が行なわれた。1930年代には紙巻きたばこの全盛時代になり、改良は各種病害対策が主流になった。この流れは現代にも通じ、抵抗性品種を開発するとそれを侵す新しい菌糸が出現し、常に新しい抵抗品種の開発に力が注がれている。
※                      ※                      ※
<その他の農作物>この他にも多くの農作物がヨーロッパに伝えられた。これまで取り上げた植物に比べたら大きな社会的影響力を発揮したわけではないけれど、かと言って無視することはできない。そのような植物について調べてみた。
パイナップル 1500年代にパイナップルはヨーロッパに船積みされた。すぐに富裕な人々の贅沢品として普及した。それが1800年代にはアメリカ大陸だけでなく、オーストラリア、アジア、アフリカでも栽培されるようになり、富裕な人々の贅沢品ではなくなった。現在ではタイが最大生産国で世界の総生産量のおよそ4分の1を栽培している。
カボチャ 1500年代にインカ族、アステカ族、マヤ族など多くにアメリカ先住民族の畑でカボチャが栽培されていた。これは割合に素直にヨーロッパ人に受け入れられた。ミルクと卵と蜂蜜を加え、ヨーロッパではパイの具にするようになった。このカボチャの仲間でイタリア名で通っているのが、ズッキーニ。この皮のやわらかいカボチャは1600年代にイタリアに伝えられ、イタリア料理に取り入れられた。
キャッサバ 日本人には馴染みのないキャッサバ。北アメリカでもヨーロッパでも知られていない。1500年前半ヨーロッパ人はキャッサバの栽培があまりにも簡単なのに驚いた。茎を切って土中に植えるだけで、1年以内にその根は人間の足ほどの大きさに育つ。またヨーロッパ人は、あらびき粉が腐ることなく数年も保存できることにも強い印象を受けた。しかしその風味の乏しい味を好まず、普及しなかった。しかし、ポルトガル人によってアフリカに伝わると、たちまち広まった。ほかに作物がない熱帯地方で主要な穀物となった。こうして北アメリカやヨーロッパでは知られていないキャッサバ、しかしプディングを固めたり、ソースにとろみをつけるために使われるタピオカは、乾燥したキャッサバから作られたものなのだ。
アボカド アステカ族はアファカ・ムリと呼ばれるアボカドソースを作り、トウモロコシのトルティーヤといっしょに食べていた。ちょうど現代人がトルティーヤチップでグアカモーレをすくって食べるように。アボカドは傷みやすくヨーロッパまでの船旅に耐えられなかったので、1900年代になって船積みと保存の有効な方法が開発されるまで、アメリカの作物にとどまっていた。現在はアメリカとメキシコ、ブラジルが主要生産国。
バニラ アステカ族がカカオの飲み物カカワトルを作るときによく加える香味料のひとつに、ランの莢から作った「トリルショチトル tlilxochitl」があった。これが現在よく使われる香味料バニラのことだった。スペイン人はそれを「小さな莢」という意味で「バニラ」と呼んだ。1800年代にメキシコ以外でもバニラを栽培できるようになった。ベルギーの植物学者が人工的にそのランの花を受粉させる方法を研究したからだ。それまでは他の土地ではうまく栽培できなかったが、それはメキシコで花を受粉させていたミツバチとハチドリがいなかったからで、人工受粉が開発されると、バニラが大好きなフランス人は熱帯地方の植民地にプランテーションを開いた。
サツマイモ サツマイモは1500年代には、ペルーの低地はもちろんのこと、カリブ諸島やアメリカ大陸の暖かい地方で栽培されていた。1500年代後半にはヨーロッパで普及するようになった。ジャガイモ=ポテト(poteto)、に対してサツマイモはスイートポテト(sweet poteto)と呼ばれた。新大陸からヨーロッパへ渡ったスイートポテト、新大陸からの食物としては珍しく、ヨーロッパ人に素直に受け入れられた。 まずコロンブスの船員たちが船上食糧として採用した。この時代の航海で恐ろしいのは壊血病であった。貧血・衰弱・脛骨の疼痛・歯ぐきの炎症・皮膚からの出血などで、治療の方法がなかった。ところがこの新大陸産のイモを食べるとこの病気にはかからないことが分かった。生で食べることもできたし、船の中でも腐らなかった。
※                      ※                      ※
<地産地消という微視的感覚> 新大陸原産の野菜がヨーロッパ、アフリカ、アジアと旅をして、新たな料理法が考えられ、普及していく。その時間は1492年から現代までに亘っている。この広さと時間の長さ、これに頭の働きを合わせていると、あの「地産地消」とか「身土不二」という微視的感覚に対しては、一体なんとコメントしたらいいのだろうか?あまりの感覚の違いに何も言うことが出来なくなってしまう。 これでもシルクロードや東方貿易やその他、ゲルマン民族の大移動、アレキサンダー大王、十字軍などによる食材の遠征なども考えたら、「地産地消」とか「身土不二」は余りにも小さい、狭い感覚でしかないので、やはり問題点にピントを合わすことが出来ない。今は1492年から現代に至り、さらに未来の食糧に思いが走って行く。品種改良の将来、いずれ技術者の夢も扱ってみようと思う。
※                ※                ※
<主な参考文献・引用文献>
さつまいも史話            木村三千人                 創風社出版       1999.11.10
( 2003年8月25日 TANAKA1942b )
▲top

(10)江戸町人の好奇心と遊び心
花卉園芸・元禄グルメ・西鶴

<大江戸品種改良> コシヒカリの品種改良から始まった、「日本人が作りだした農産物 品種改良にみる農業先進国型産業論」はコシヒカリ系=美味しい系の品種改良、野菜・果物の品種改良へ、それから緑の革命、コロンブス以後の新大陸からの宝物=農作物へと話を進めた。TANAKA1942bの話の進め方としてはどうしても江戸時代を無視するわけにはいかない。江戸時代は好奇心と遊び心いっぱいの江戸町人の花卉園芸関係の話、それと現代的な意味では品種改良とは言えないにしろ、品種の特性を充分生かして生産していた稲作、これらについていろんな文献を調べてみた。それらをTANAKA1942bなりの視点からまとめてみた。
<大江戸キク事情> 関が原の合戦(1600[慶長5]年)の勝利のあと、徳川家康は征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開いた(1603[慶長8]年)。ようやく平和な時代を迎えることとなって、園芸復興の時代が訪れる。たとえば後水尾(ごみずのお)天皇(1596-1680)の嗜好に倣って、大御所(二代将軍)徳川秀忠(1579-1632)や貴人たちはツバキの鉢植えに熱中する。時は寛永年間(1624-44)であった。
 この<寛永ツバキ>の流行と同時に、秀忠は諸国から珍しい木や草花を集めることに執心した。これがおそらく江戸時代の庭園造りの始まりでもあったろう。こうした<将軍の道楽>がゆるされたのは、なにより世情の安定がもたらされた故に他ならない。江戸城を中心に周辺の町割り計画による市街化の進行や、利根川・隅田川等の河川の整備が進んで、江戸幕府の財政的基盤の安定と幕藩体制の定着が背景にあった。
 秀忠に続いて三代将軍徳川家光(1604-51)もツバキの愛好者であった。もうこの頃になると、大名や貴人たちの中にあって「お留花」と称して、自慢の品種の花を確保し、門外不出として愛でることも、ままなされていた。この「お留花」は、園芸を自身だけもひそやかな楽しみにするという精神構造から生まれた典型的なものであったともいえよう。
 寛永期には、キクの栽培もいっそう熱心に行われた。江戸時代になると、キク作りも趣味から高価な珍種売買の実利を兼ねた商売まで、平安期の貴族趣味とはまた違った発展があったようだ。そこには「菊合せ」の復活によって再びキク作りが盛んになったという事情があった。京都や大坂の上方では、キクなどの「花合せ」(花の品評会)が頻繁に行なわれていたのである。もっとも、こんどの「菊合せ」のやり方は、左右に分かれて競いはするものの歌は添えない。花だけを並べ、一対ずつ純粋に花の優劣を競ったものであった。いわゆる今日のキクの品評会に近いものであるといえばよかろう。
(棚橋正博「江戸の道楽」)
<江戸名所花暦 雑司ヶ谷の菊> 巣鴨村や染井村と隣接する雑司ヶ谷(豊島区雑司ヶ谷、南池袋)も観菊の季節になると賑わった。岡山鳥の著した「江戸名所花暦」(1827[文政10]年)から現代文にしたものを引用しよう。
 
鬼子母神の境内や、貨食屋(りょうりや)の奥庭や、あるいは茶店、植木やはいうまでもなく、どこでもみな、よく菊を栽培して造り、毎年十月八日より、死者の追善供養をする会式なれば、その参詣の群集を期待しているのである。浄土宗や日蓮宗の寺院にも、おなじ時、境内または庭中へ菊を植え、日光からの日陰をつくる障子をかけ渡して、菊作りの見事さを見せようとしているところもある。また日蓮上人が諸人を救い給うところを、または浄土宗の寺では法然上人御難のところなどを菊の作り物とする。そんなことで参詣する人々は、本堂前に充満して、帰ることを忘れることを忘れるほどなのである。
<江戸の朝顔> 江戸の町では、朝顔は5月のなかばから売り出して、8月前までを限りとした。「アサガオやあ、あさがお」と棒手振りで夜明けから朝顔売りが町々を歩き、正午までに売り切って帰る。素焼きの小鉢作りで、花には紅、白、瑠璃、あさぎ、柿色、ふちとり、しぼりなど多様な色と模様があり、花の大きいものが喜ばれた。裏長屋の門口にも、貧富の差なく咲く朝顔、それが江戸の夏の風景であった。朝に咲き、夕べにしぼむ朝顔は、江戸っ子気質に合ったのだろう。その栽培は」盛んだった。
 朝顔は元来観賞用草花ではなかった。はじめ薬用として栽培されていたものが、しだいに観賞用として人々が愛好するようになったものである。文化のはじめに、下谷御徒町(したやおかちまち)の植木職人が朝顔の栽培を行なっていたのだが、このころから花や葉の改良が始まり、文政期(1818-30)になると、深川や浅草方面に広がっていった。
 そして、この元来は観賞用草花ではなかった朝顔を観賞用として、花を開かせたのは、それは江戸の”先端科学””江戸のバイオ”の成果であった。園芸文化の世界でメンデルよりも前に遺伝の法則を心得た極地の花を創り出したのは、江戸の人々であった。バイオ時代を迎えたいまこそ、もう一度彼らの知恵と経験をたどってもいいのではなかろうか。(中略)
 「変化朝顔」は見かけは普通で奇形とは思えないが、種子のできる兄弟株の朝顔から生まれてくるのだ。その秘密を見抜いたのが江戸の植木職人で、兄弟株の種子を保存しながら系統を残してきた。これはメンデルの遺伝法則では「劣性の形質」にあたるもので、両親からその遺伝子をともに受け継いだ場合に出てくる。また、表面に出なくても、遺伝情報として隠しもっている。出てきた双葉の形を見て、「変化朝顔」になるか否かを判断すればよいのだ。
 文政元年(1818年)の栽培手引書「牽牛花(あさがお)水鏡」には「雑花よりして奇品を変じ出さしむるをもって、この花をもて遊ぶ楽しみとなす」とあり、一大ブームになっていく要因がうかがえる。江戸の人々は経験からメンデルの法則をつかんでいたわけで、その技の巧みさは、現代の遺伝研究者も舌を巻くほどだった。この”先端科学”の技術は「世界に類例のない園芸文化」の達成とまでいわれている。再び遺伝子の研究が盛んになったいま、朝顔にはまだまだ隠された変化の秘密が明らかになったら面白いはずだ。
(中田浩作「江戸は躍る!」)
<ソメイヨシノ>
江戸時代の品種改良といえば、この「ソメイヨシノ」を忘れてはならない。しかしそれでも古い時代のこと、必ずしも学説が統一されているのではないようだ。そこでその中の一つの説を紹介することにしよう。
 1716年ころから8代将軍徳川吉宗が江戸の各地にサクラをうえて一般に開放し、1800年ころから江戸中の人たちがお花見で大騒ぎをする基礎を作った。しかしすでに1720年ころからサクラの品種改良をしようとする動きがでていた。現在、世界中でも、古い品種では「この品種はこの人が作ったのだ」と言える植物はほとんどない。ところが江戸時代に生まれたサクラで、作った人の名前がほぼ確定した品種がある。それが、現在、日本中の人たちが見ている「ソメイヨシノ」なのである。
 「ソメイヨシノ」は1730年ころに、江戸染井村の植木屋、伊藤伊兵衛・政武が人為交雑を行なって作りだした、という説がある。この説に従えば、次のようになる。 「ソメイヨシノ」が作られたと推定される1730年ころは、世界の生物学者の間では、雌しべ、雄しべがどのような役割をもっているかについて、詳しく知らなかった時代なのである。このような時代に「ソメイヨシノ」が作られ、1750年ころには幕府の直轄薬草園(現在の東京大学の小石川植物園)の入口近くに1本植えられた。現在も小石川植物園の入口近くに、その「ソメイヨシノ」がひこぼえ(切った根や株から芽が生え出ること。その芽)によって生きている。これこそは、日本人が作った世界で最初の人為交雑個体である。なお、「ソメイヨシノ」は江戸時代末期(1845年ころ)の「吉野桜」として染井の植木やから売り出され、隅田川堤その他に植えられた。その後、上野公園の「吉野桜」が吉野山の「ヤマザクラ」と違うことから、1900年に藤野寄命によって改めて「染井吉野」と命名された。 (「日本人が作りだした動植物」から) 
※                      ※                      ※
<アヘス→バタタ→Sweet Potato→甘藷→薩摩芋> サツマイモが人類によって野生から栽培されるようになったのは、古く1万年前からとも言われるが、考古学的には紀元前3000年頃には、熱帯アメリカでかなり広く食べられていて、南太平洋の島々には紀元前1000年頃には伝わっていたとされる。しかし一般には1492年コロンブスのアメリカ大陸到着からスペインにもたらされ、15世紀松にヨーロッパに広まり、アフリカやインドを通って東南アジアに達し、中国を経て日本に伝来されたルートがよく知られている。日本に伝わったのは、1597年に宮古島、1605年に沖縄、1705年に鹿児島、そして関東には1734年に徳川吉宗の命で青木昆陽が江戸小松川でサツマイモを試作したのが最初。コメ、ムギなどに比べて日本では比較的新しい作物だ。
 コロンブスが到着した島々で「アヘス」と呼ばれる芋があった。これがスペインに持ち帰られ「バタタ Batata」と呼ばれるようになる。やがてジャガイモが入ってきて、名前を区別するために「スペインいも(Spanish Potato)」あるいは「甘いいも(Sweet Potato)」と呼ばれるようになった。これがポルトガルの人たちによって開かれたアフリカの南端を経由する海の道によってまずベトナムあたりに伝わり、それが中国で「甘藷」と呼ばれるようになった。
 この伝播のルートがわかりやすいのだが、学問的にはサツマイモが世界に伝播したのには3つのルートがあるとされているので、専門家に批判されるのもシャクなので、ここに記すことにする。
@バタタ・ルート 前述ルート。西インド諸島⇒ヨーロッパ⇒アフリカ⇒インド⇒インドネシア⇒ベトナム⇒中国
Aカモテ・ルート 16世紀以降、スペイン人によりメキシコ⇒ハワイ⇒グアム⇒フィリピン
Bクマラ・ルート 有史以前に南米ペルー⇒マルケサス島⇒イースター島⇒ニュージーランド⇒ハワイ⇒ポリネシア⇒メラネシア⇒ニューギニア
 サツマイモの現在の作付面積は55,000ha、生産量は130万t前後。作付面積は減少しているが生産量はあまり変わらない。それは単位面積あたりの収量の向上で、明治11年の10aあたり560kgから大正年代および昭和初期の1300kg前後、戦後の食料増産時代の1500kg前後、イモ作が安定した昭和35年頃の2000kgへと増加し、現在では2300kg前後にまで向上した。この原因は昭和15年以降の在来品種に代わる育成品種、とくに昭和20〜30年の沖縄100号と護国藷、30〜45年の農林1号と農林2号、45〜60年の高系14号とコガネセンガンの新品種の普及と育苗技術の改善による適期挿苗、チッソとカリの合理的施用による施肥改善など、栽培技術の改善によるところが多い。
※                      ※                      ※
<元禄のグルメ、西鶴を現代文で読む> 江戸時代の文化、そのキーワードを「好奇心」と「遊び心」としたならば、江戸時代のグルメにも目を向けてみよう。
 当時最高の高級レストランであった揚屋に出入りしていた西鶴が食通であったのは言わずもがな、その一端を示した書簡体短編小説集「万(よろず)の文反古(ふみほうぐ)巻一の「来る十九日の栄耀(えよう)献立」を現代語訳でお目にかけよう。
 「昨日は御ていねいに二度までもお手紙を頂きましたが、あいにく北野不動へ参詣していましたので、御返事がおそなりました。さて来る十七、八、九日の三日のうちに、川舟で御馳走なさりたいとの事、ついでがありましたので、その事を旦那に申し上げて都合をうかがってみました。
 十七日は堺へ茶の湯の先約があり、十八日は生玉(いくたま)の観音講へ御出(おい)で、十九日も昼までは何かと御用があります。それを片付けてから夕涼みにうかがおうと申されました。十九日が今月中の旦那の暇日(ひまび)でしたのは、あなた様のお仕合せで御座います。こちらから旦那がお連れなさる者は、按摩取りの利庵、鍼医者の自休、笛吹きの勘太夫、もしかすると浪人の左太兵衛も参るかも知れません。そのほか小坊主を二人お連れになるだけで御座います。そちらからは碁打ちの道円をお連れになるとの事ですが、長話をせぬよう耳打ちしておいてください。歌舞伎若衆などは、さい当たってお乗せなさるに及びなせん。旦那の御機嫌を見合わせ、お指図しだいに致しましょう。
 さて格別にお心遣いの献立をお見せくださいましたが、舟遊びの御馳走としては結構すぎるよう存じます。諸道具類も船中では面倒です。旦那も近ごろは病後のことなので、美食はお好みになりません。無用と思われま分を指摘しておきましょう。
 はじめに出る汁に雑魚(ざこ)をごったに入れるのは一段と結構ですが、竹輪や皮鰒はのけていただきたい。しつっこ過ぎます。膳の先に置く鮎(あゆ)の鯰は見合わせてください。川魚が重なります。めいめいに杉焼をそえてお出しなさるがよい。その材料も鯛と青鷺の二色にするようにお申しつけください。冷采(にざまし)は真竹の筍一種のほうが、さっぱりしてよろしいでしょう。割海老(さきえび)と青豆のあえ物、吸物は鱸(すずき)の腸(わた)、お膳に添えて出す肴は小鯵の塩煮とたいらぎ(海産二枚貝)の貝柱の田楽、それから二度目に出す吸物の実は舶来の燕巣(えんす)と金柑麩(きんかんふ)にして、どちらも味噌汁にしないでいただきたい。
 酒は三盃でやめて膳を引いてください。それから後は寒晒粉(かんざらしこ)の冷やし餅と鱚の細(ほそ)作りの吸物で酒を一盃のまれてから、早鮨(はやずし・鮎の一夜鮨)を召し上がりますが、旦那は蓼(たで)をたべられません。山椒か生姜を付け合わせてお出しください。日野真桑瓜(河内日野産)に砂糖をかけてお出しになり、御茶は菓子抜きで一服ずつ立ててお出しになさるがよろしいでしょう。なお御馳走ついでに小さい屋形船に風呂をこしらえ、暮れ方に湯浴みなさるよう御用意しておいていただきたい。これまでで、その後の夜の用意はいっさい御無用に願います。すでに当方も旦那より、太夫元(もと・歌舞伎の興行人)へ十九日の夜は取巻きの役者を用意しておくよう申し込まれました。日暮れに舟を上がって、そちらへお出かけになります。ともかくこの上は天気のよいよう祈っています。いずれ十八日にそちらへうかがい、最後の御相談をいたしましょう。(下略)
 この手紙の差出人は長崎屋という一流の貿易商人の番頭で、宛名の呉服屋次左衛門は日ごろ御出入りの商人。
 成績をあげるために得意先の旦那を招待したわけだが、西鶴の注に曰く、町人の饗応にしてはぜいたくな話で、この費用も内輪に見積もって銀三百四、五十匁(約六十三万円)はかかるだろう、といっている。
 旦那が病後でしかも夏料理という設定なので、いかにも西鶴らしく材料の吟味は行き届いているが、全体に淡白な懐石料理風であるのは、「生類憐れみの令」強行中の元禄の世相の一端であろう。
(暉峻康隆「江戸の素顔」から)
※                ※                ※
<主な参考文献・引用文献>
江戸庶民の四季              西山松之助   岩波書店      1993. 3.24 
江戸は躍る                中田浩作    PHP研究所    2001.11. 7
江戸の道楽                棚橋正博    講談社       1999. 7.10
江戸の素顔                暉峻康隆    小学館       1995. 7. 1
さつまいも ものと人間の文化史90    坂井健吉     法政大学出版局   1999. 2. 1
さつまいも史話 コロンブスから芋地蔵まで 木村三千人   創風社出版     1999.11.10 
( 2003年9月1日 TANAKA1942b )
▲top

(11)稲の品種の使い分け
非情報化時代の情報網

<品種改良は花卉園芸関係だけだった?> 江戸時代はわが国において花卉園芸の分野で著しい進展が見られる時代であるが、何か新品種育成について新しい技術が生まれても、それを主食である稲に技術転換しようといった発想が、ほとんどなかったようである。稲を栽培したのが農民であったため、当時の身分制度のなかで花卉の改良の主役であった武士、町人が生み出した技術が稲に転移されるような機会はなかったのである。それよりも、幕藩体制の中で政治の主体であった藩庁に品種の改良を意識して行い、それを主催するといった意識がほとんど生まれなかったのが原因であったと見られ、当時の科学知識のもとでは、それは止むを得ないことだったのであろうか。
 コシヒカリの育成者のひとりであった池隆肆は、稲品種の来歴の調査にも情熱を傾けたが、同氏の調査によると、年号が明治と改められるまでに成立した品種の中でながりなりにも成立や育成の事情のわかったものは15品種あった。その中で1800年以前のものは3品種にすぎない。
(菅洋「稲」から)こうした見方がある一方、また違った視点もある。
<農民的余剰の成立> 徳川家康が、年貢は「百姓を生かさぬよう殺さぬよう、ぎりぎり一杯まで取り立てるのが理想だ」といったという有名な話が残っている。このように農民の手元に一粒の余剰も残さず収奪する体制を学問的には全余剰労働部分収奪体制といい、江戸時代初頭の年貢は、ほぼそのとおりだったと考えられる。しかし四代将軍家綱のはじめごろになると、このような体制はくずれ、農民の手元にも年貢納入後一定度の剰余が残るようになる。これは全江戸時代をとおしてみても注目すべき重大変化で、その影響はあらゆる方面に及んでいる。(中略)
 農民の手元に剰余労働部分の一部が残るようになると、より多くの品を交換にだそうという意欲を持つ。自給経済時代にもっていた「今日を満たせば足りる」といった自足的意識は農民から脱落していく。少しでも多くのものを生産し、それを交換に出して、より豊かな生活をしようという、飽くことを知らない経済人的労働人間へと農民の体質は変わってゆくのである。
(大石慎三郎「江戸時代」から)
 この本では、農民がコメを商品として意識し始めたと指摘している。江戸時代に農業は公共事業ではなく、産業になったわけだ。
 わが国の気候風土はきわめて多様であり、そのうえにたった適地適産は農業の要諦であるが、米が商品としての意味をもってくると、農民たちはより自分の土地にあった稲をつくりだすことに全力をあげるようになる。
 この文の後、多くの品種のコメが栽培されていた例をあげている。1706(宝永3)年、1734(享保19)年の例をあげ、一つの郡で、早稲27種、中稲36種、晩稲46種、計109種が栽培されていたという。江戸時代中期(元禄ー享保)に適地適産原理にもとづく稲の品種改良熱が農民層を捉えていた。 このように多くの品種を栽培していたということは、リスクを分散していた、と言える。こうしたリスク管理能力、経営感覚は現代のような政府・農協の保護がなかった分「自己責任」に徹底していたのだろう。
※                   ※                   ※
<イネに対する知識> 江戸時代にイネに対する知識が深かった例として、次の文を引用しよう。
 江戸時代中期の寛政年間(1789-1801)に、羽後国平鹿郡浅舞町の玄福寺の住職であった釈浄因が書いた「羽陽秋北水上録」にはイネの品種について貴重な記録があるが、それを詳しく調べた木原らによってその内容を紹介しよう。(中略)
 同書の中には「各地方は、気候、土、水などにおいて異なっており、決して同一ではないので、ある土地の植物をほかの所へ持ってきて植えても、性質が変わって別のものになってしまうものである。とくに稲は変わりやすいもので、無芒のイネは有芒となり赤い種子をつけるものの中から無色のものが生じ、種の色や形や成熟の早晩など千差万別に容易に変化する」と述べている。これらのことは、生物の変異性を認め、これが新しい品種の生まれる原因となることに気がついていたことを示している。
 この本を研究した篠遠・筑波・木原は、明治以前の記録の中で、作物の品種についてこれほど広範な知見は空前絶後だとして、その特徴をつぎの10点に要約している。
単なる品種の羅列ではなくて、品種の由来についても考察している。
当該地方における品種の変遷が、その理由と共に記述されている。
品種選択は機構を考えてなすべきことが指摘されている。
珍奇な品種の無批判な導入に対して反対している。
奨励品種を決めて作付けを奨励すべきことを述べている。
作物に変異する性質があることに気づいている。
環境の変化に応じて、品種は性質を変えると考えている。
突然変異の存在を事実上発見している。
品種の管理の重要性を説いている。
10 純系分離淘汰の有効であることに、事実上気がついている。
 おそらく明治以前には、観察眼の鋭い農民がここに紹介したような経緯で周辺のイネと異なった個体に注目し、それを選抜することにより新しい品種が育成され成立していったものであろう。少ない旅の機会に、他の地方からイネを持ち帰ることもあったと思われる。比較的、旅の機会の多い武士があまり関心を示さなかったことを思えば、このような経緯でイネが持ち帰られたのは、近世以降であろう。(「日本人が作りだした動植物」から)
※                   ※                   ※
<百姓の品種交流の実態> 当時新興商品作物については、例えば初期の甘しょ、イグサ、アイなどは藩のきびしい統制によって国外流出が禁じられたので、従来、稲の優良品種の交流についてもこれと同様で、藩の壁が普及上の大きな障害となっていたのではないか、とする考え方が強かったようだ。実際かかる例がごく一部には見られないわけではなかったが、一般的に見ると、もちろん現在ほどの円滑さはないにしても、品種交流はかなりよくなされていたものと思う。当時精農家といわれた人々の間では、初歩的ながら民間育種がある程度行なわれていたことは、品種名などからも推察され、また既述のように種々の機会に地域間交流のあったことがわかる。当時はすでに進んだ農民の間では品種に対する関心は著しく高かったであろうし、優良品種を求めようとする欲求はきわめて強く、そのためにいろいろの機会が利用されていたものと思われる。18世紀の「雑事紛冗解」に示された細川藩領における栽培品種503種のうちには、国外、国内の地名のついたものが20%、選出種をも含めて人名のついたものが10%も含まれていたことは、上記の考えの一つの根拠になるであろう。(中略)
 江戸時代、九州での早生種はそれに適する早植栽培がかなり広く行なわれていたのに大使、品種名などからみて、おそらくこれと同系または類似系と思われる一部のものが東北地方南部では晩生種として栽培されていた、と思われる。しかしこの型の稲作は東北地方の平坦部では平年でこそ成立をみたが、冷害年ではひどい打撃を受け、そのため年々安定した稲作は比較的近代まで成立をみなかったといっても過言ではなかろう。このようは東北地方における晩稲晩植栽培も、また、九州での早稲早植栽培もともに、まだ充分に進歩をみない以前の時代の稲作法であったといえるのである。
 その後、その大部分が九州では晩稲晩植化の芳香へ、東北では逆に早中稲早植化の方向へと動き、両地域とも品種と作季の両面で大きな地域分化を示し、それぞれ進歩の方向をとったのである。このように、藩政期におけるわが国の稲作は全国的にみて、まだいくつかの共通品種をもち、それに適応した古い形の作季がみられたことは、さらにそれより古い時代のわが国における稲作技術の地域分化の未発達状態の残りともみられるのではなかろうか。
(嵐嘉一「近世稲作技術史」から)
※                   ※                   ※
<伊勢参りは新品種採種の旅>  日本の隅々の人までが何らかの蓄えをして、そして伊勢講をつくったり、あるいは金毘羅講をつくったり、善光寺講をつくったりしまして、順番で参詣に出かけて行くというようなことが全国的に行なわれるようになりました。こういった参詣には字が読めなくても出かけて行くことができましたし、その旅はその人たちにとっては、精神的にはたいへん豊かな文化生活であったと同時に非常に新しい知見を、いたるところで得ることもできたのです。たとえば伊勢参りでは、自分が作った稲の穂をお供えして、人の供えた新しい稲をもらってくる、ということがなされなした。つまり新種を手に入れてくる、といったようなこともいたしましたし、栽培法を新しく勉強してくるとか、いろいろな勉強をしてくることになったのです。 (西山松之助「江戸庶民の四季」から)
旅の土産は新品種
 「山口県農事調査書」(明治24年)によると、山口で多く見られた「都種」は、1832(天保3)年に弘永半助、内海五郎左衛門の2人が、旧藩主と同道して上洛の途中、摂津国西宮付近から持ち帰ったものであるが、その際西宮付近の農民が言うには、この稲はそれより2−3年前、船乗りが筑前から持ち帰ったものだという。
 大坂市場で好評を博した「栄吾種」という品種は、1849(嘉永2)年和気郡堀江町大字大栗の植松栄吾が、四国霊場を巡礼した折に、土佐国幡多郡山谷の小さな溝に生えていた一株を採集してきて、これから育成したものといわれる。また、「相生(中)」は当時備中から伝わった「一本稲」という品種から、伊予郡稲荷村の浅田嘉蔵が明治3年頃選び出したもので、下浮穴郡では作付の面積の6割を占めた。「三宝米」は別名「三盆米」とも称し、越智郡の別宮村南光坊の住僧寛雄が高野山に参詣した折、三宝院から良い籾だとして得てきたものだという。
(菅洋「稲」から)
 このように幕藩体制はそれぞれの藩が国家のようで、日本全体で鎖国していて、各藩も鎖国していた、というイメージとは少し違う。幕府の公式姿勢はともかく、現実には稲の品種が藩の壁を乗り越えて、地方に伝播していたことになる。
関所はどうした?
江戸時代は関所があって、百姓,町人が自由に旅することはできなかった、とのイメージがあるかもしれない。建前はともかくとして現実にはかなり自由に旅していた、という例。
 江戸時代の一揆、そして幕府に直接訴える越訴、こうしたことと道中手形の問題を考えてみましょう。いま仮に「非情な」名主を訴えるために、「耐えかねた貧農」が江戸に向かって越訴を試みたとします。当然名主や代官役所には「無断」のはずで、道中手形の交付も受けられないでしょう。この場合もし途中に関所があればどうなるのか、という問題が起きます。当然間道を抜けたり、その他非合法な手段を講じて通り抜けざるを得ないわけで、関所破りの罪に該当します。これは幕府の規定では死刑に該当する重大犯罪のはずです。ですから訴訟になれば、この違反事態、越訴とは独立に深刻な問題になり得るわけですし、幕府が不埒な越訴を本気で抑圧するつもりなら、この点だけ取り上げて処分してもよかったでしょう。
 では実態はどうだったのでしょう。幕臣実務担当者の回想証言によりますと、このような場合の標準的対応は次のようだったとされます。つまり、関所近くの山中で道に迷っていたところ、たまたま、土地の木こりか猟師に助けられ、教えられた道をたどったところ「図らずも」関所を越えた次の宿場に出てしまった。関所破りをする積りはなく、ともかく「無知蒙昧」はわれら農民にはありがちのことで、お咎めをうけるのもやむを得ないが、追い込まれ、切迫した特殊事情を何とぞ斟酌下されたく、うんぬん。大筋こんな弁明を取り調べ記録(口書)に載せ、「恐れ入ります」の一札で済ませるのが普通だったようです(安藤博「懸冶要略」青蛙房)。
(水谷三公「江戸は夢か」から)
 これは一揆とか越訴など深刻な問題で、お伊勢参りなどとは違うが、これほど深刻な問題でもこの程度、ならば信仰の旅に対する幕府・末端の姿勢もおおよそ推測できる。
往来手形と旅の心得
江戸時代の中ごろから庶民の旅が盛んになった背景に、講の発達があった。講とか頼母子講とか無尽とか言われる。この仕組みは、一定の口数を定め、一定の期間毎に一定の出資(掛け金)をさせ、1口毎に抽選または入札により所定の金額を順次加入者に渡す方式でお金を融資するもの。明治維新後も、新しい銀行制度ができたが庶民の間では、この無尽や質屋が多く利用された。1915年無尽業法が制定され、免許制となった。1940年に221社あったが1942年「金融事業整備令」が出て、1945(昭和20)年には57社になった。その後いくたびかの法改正を経て、1951(昭和26)年には相互銀行となり、1989(平成元)年に第2地方銀となっている。
 江戸で人気が高かったのは、相模の大山詣や下総の成田山新勝寺などで、遠くは出羽三山や越中の立山、加賀の白山などへの宗教登山の講。特に人気のあったのは富士講と伊勢講、富士登山と伊勢神宮参宮の旅のための講。共に100を超える講社があり、富士講などは俗に江戸八百八講と言われたほどであった。
 往来手形の申請も講が事務手続きを代行したし、手形を発行するのが地元の社寺であったので、こうしたことに不慣れな百姓でも心配はなかった。さらに講は現代の旅行代理店でもあり、参詣や登山に必要な衣装や笠、杖など、さらに土産物、宿泊施設の手配など、至りつくせりであった。同じ時代のヨーロッパなど比べ物にならないくらい庶民の旅行は盛んであった。 とくに伊勢神宮(お伊勢さん)には多い時で(1829年=文政12年)500万人の人々が参宮したと言われている。また雇い主、代官所などに無許可で熱狂的に伊勢神宮を目指し歩き出す、「おかげ参り」とか「ぬけ参り」といわれることが50年毎にあった。これに関しても取り上げれば面白いのだが、ここでは突っ込まないことにしよう。
※                   ※                   ※
<旅学者という農業カウンセラー> 稲の品種や農業技術の普及に「旅学者」が活躍した。これについては山本七平の「江戸時代の先覚者たち」から要約しよう。 徳川時代は、考えれば考えるほど面白い時代である。まず1640年から1853年までは定義どおり鎖国であり、、この間はもちろん、その前後も日本はほぼ完全に自給自足の世界であった。韓国・中国・オランダと貿易があったとはいえ、それは国内の需給に基本的な変化を与えるほどのものではない。そして人口は、さまざまな推計があるが、1600年ごろが1千万台、1720年を2千600万台とすると、120年間に2.6培の増加を見せ、これが幕末には約3千万人になっている。そしてこの人口増加は、おそらく家康も予期していなかったであろう。いずれにせよ3千万近い人口がこの4つの島で、自給自足で生きてきたのであり、このことはたとえ生活水準を上げなくとも、生産量を3倍に増加させねばならなかったということである。この鎖国下の人口増に対応するという課題は、ヨーロッパにはなかった。彼らには植民地があった。
 鎖国し自給自足でやってきた江戸時代、すべてを国内で調達し、そのために多くの工夫がなされた。米俵一つでさえ大きな発明だった。しかし江戸時代は情報化社会ではなかったから、どこかの藩のどこかの村で何らかの発明がなされても、すぐこれが全国に普及するわけではない。だがそうなると、旅学者というのが現れてくるから面白い。
 藩の経営がうまくいかないと、武士の給料が半分になったりする。そうなると「わが藩の経営はどうなっているのだ」と言いたくなり、全国を旅行して諸藩のことに詳しい旅学者の抗議を聞いて、藩の財政を立て直そうということになる。そこで海保青陵や本多利明が招かれて、藩の経済建て直しのため講義するようになる、といったことも起こっている。また山片蟠桃は仙台藩の経済再建に独自の方策を生み出している。
(山本七平「江戸時代の先覚者たち」から)
 こうした旅学者は農村では名主に招かれ、農業コンサルタントとして活躍した。このように百姓も情報網をもっていた。それは幕府や藩に頼るのではなく、自分たちで情報源を確保しようとする姿勢に応えるものであった。
※                ※                ※
<主な参考文献・引用文献>
近世稲作技術史               嵐嘉一     農山村分化協会  1975.11.20
江戸時代                  大石慎三郎   中公新書     1977. 8.25
江戸は夢か                 水谷三公    筑摩書房     1992.10.30 
江戸の旅人                 高橋千劔破   時事通信社    2002. 5. 1
村からみた日本史              田中圭一    ちくま新書    2002. 1.20  
江戸の宿                  深井甚三    平凡社      2000. 8.21 
江戸庶民の信仰と行楽            池上真由美   同成社      2002. 4. 1
百万都市 江戸の生活            北原進     角川書店     1991. 6.30
江戸時代の先覚者たち            山本七平    PHP研究所   1990.10.19
近世の村と生活文化             大藤修     吉川弘文館    2001. 2.20
江戸の産業ルネッサンス           小島慶三    中央公論社    1989. 4.25
百姓一揆とその作法             保坂智     吉川弘文館    2002. 3. 1
江戸商人の知恵嚢              中島誠     現代書館     1999. 5.20
稲 品種改良の系譜 ものと人間の文化史86 菅洋      法政大学出版局  1998. 5. 1
( 2003年9月8日 TANAKA1942b )
▲top

(12)品種改良の方法
メンデル、選抜育種法、交雑育種法

<遺伝学の基礎=メンデルの法則>  赤い花と白い花を交配するとその子(F1)は赤い花となり、そのF1の自殖で得た子(F2)を100株育てると、赤い花が全体の3/4、白い花が1/4となる。赤白の違いが1遺伝子によって決まっていて、赤が優性のときに、F1が赤い花となり、F2で赤と白が3:1に分離する。 赤の遺伝子をA、白の遺伝子をaとすると、赤花の親の遺伝子型はAA、白花の親の遺伝子型はaaであり、F1の遺伝子型はAa、F2の遺伝子型はAAが1/4、Aaが2/4、aaが1/4となり、Aがaに対し優性でAaの株は優性の性質である赤花となると考えることにより説明できる。 AAやaaのように同じ遺伝子をペアでもつものをホモ接合体、Aaをヘテロ接合体といい、F1で優性の性質が現れることを「優性の法則」、F2で両親の特性が3:1に分離することを「分離の法則」という。
 遺伝の法則がこれだけでは、違うものを交配しても何も新しい特性のものが生まれてくる訳ではなく、面白くもない。メンデルが明らかにしたもう1つの法則が、品種改良を行う上で重要な法則、2つの独立した遺伝子の関係だ。赤花で正常な形の花を持つホモ接合体の親、白花で切れ弁の花をもつホモ接合体の親があり、赤花が白花に対して優性で、正常花が優性で切れ弁が劣性とする。 F1では全てが赤花で正常花。F2では赤花の正常花が9/16、赤花の切れ弁が3/16、白花の正常花が3/16、白花の切れ弁が1/16に分離するというものだ。ここで重要なことは、「親とは異なる新しいタイプである、赤花の切れ弁や白花の正常花が得られること」なのだ。このように親とは違う特質をもつ種類が得られることになる。これを
「独立の法則」という。
 このメンデルの法則が正しいことは証明されているが、実際はこれほど単純ではない。たとえば、直径10cmの大輪花と直径3cmの小輪花を交配しても、単純にF2で10cmの大輪花と3cmの小輪花が3:1で分離するわけではなく、大輪花から小輪花まで連続して分離する。10cm以上、3cm以下の花が分離することもある。6cmの中輪花のものを選んで自殖し続けると、だんだん花径の変異の幅が狭くなり、数世代続けると花径がほぼ均一となり新しい中輪の系統を得ることになる。これを「品種が固定化された」という。
<選抜育種法>人類が食糧の増産技術を手に入れ、自分が必要とする以上の食糧を生産するようになると、食糧を生産しない人間が現れた。彼らは食糧を生産する代わりに、生活用品、生産道具、美術工芸品、まつりごとに関する物、等を作り、食糧と交換する場所へ持ち寄った。その取引場所が市場となり、都市になり、文明が発祥した。さらにその都市で必要とされる物以上が生産されると、都市同士の取引が行われるようになりそれらのいくつかの都市が結びつき国家が生まれた。 食料を生産する者は、野生の植物を作物として栽培し、その作物の生産性を向上させようと努力した。それは農作物の品種改良となった。原始林の木々を切り倒し、そこを農地とすれば、一種の環境破壊であったが、誰も咎めなかった。ではその当時どのような品種改良が行われていたのだろうか?
 農耕が定着して人々の安住生活が安定してくると、栽培植物の中から、より多くの収穫できるものや、より食べやすいものが経験的に選ばれるようになった。その方法は
「選抜育種法」(分離育種法)と呼ばれ、現代でも十分に利用されている技術の一つだ。植物の品種改良はその植物の持つ性質を鋭く見抜いて「選ぶ」ことが基本になる。その「選ぶ」ということは、いい物を守り、いらないものを捨てることだ。「もったいない」と不要なものを残しておくと生産性が下がる。 日本では明治になるまでこの方法で品種改良を行っていた。江戸町人のアサガオ、アヤメ、ハナショウブ、サクラソウ、フクジュソウなど、の品種改良はこの方法だった。 西洋では20世紀になるまで、メンデルの法則が広く認められるまでこの方法が唯一の品種改良方法であった。
 花ならば種を播き、目標とするものに近いものを選び、その種を播く。こうしたことを繰り返す内に、花にばらつきが少なくなり、品種が固定されてくる。「在来種」とか「固定種」と呼ばれる品種で、「京野菜」は長い間かかって京都の気候・風土と京都の人々の好みに合ったものに改良されてきた。加茂なす、壬生菜、九条ねぎ、練馬だいこん、三浦だいこん、小松菜など全国各地にそこの風土・気候・土地の人の好みに合ったのもが栽培されている。固定種になっても長い時間の間には選抜育種が行われ、必ずしも昔の味ではない。 時代と共に人々の好みが変われば、それに併せて在来種も品種改良されていくので、昔の姿そのものではない。従って「在来種を守ろう」とは「昔の味そのもの、現代人の舌に合わないものを守ろう」なのか「昔からの品種を絶やさないように、現代人の好みに合わせて守っていこう」かで守る姿勢も変わってくる。
<交雑育種法> 1865(安政3)年、チェコの修道院のヨハン・メンデル牧師が43才のとき、7年間にわたって修道院の庭で続けていたエンドウマメの交配実験をまとめて、「植物の遺伝の研究」の論文を発表するまでは、選抜育種法が唯一の品種改良方法であった。 しかしこのメンデルの業績、当時の学者には注目されることもなく、彼は失意のうちに1884年、64才でこの世を去った。没後16年、1900年にフランスのド・フリースら生物の突然変異の研究者たちが、メンデルの研究業績に気づき、高く評価して、人々の知るところとなった。 メンデルの遺伝の法則が知られるようになって、作物に品種改良には遺伝的に優れた因子を持つ植物が重要であるとの認識が広がった。品種改良の成功は、どれだけ変異の幅を広げ、交雑によっていかに多くの因子を取り込めるかにかかっていると研究者は考えた。そのため、国の内外から素材となる野生種などを集め、それらを適宜交配して、その子孫から良い個体を選抜する「交雑育種法」が品種改良の中心になった。そしてこの品種改良方法は現代でも中心になっている。
 日本のコメの品種改良はこの方法によっている。1944(昭和19)年 7月末、新潟県農事試験所(長岡市長倉町)水稲育種指定試験地主任技師の高橋浩之が取り組んだ人工交配、それは晩生(おくて)種の「農林22号」を母とし、早稲(わせ)種の「農林1号」を父とする組み合わせだった。1956(昭和31)年に登録されるまで多くの人の手によって、度重なる幸運な偶然によってコシヒカリは生まれてきた。ひとめぼれ、ヒノヒカリ、あきたこまち、きらら397なども交雑育種法によって育成されてきた。
※                     ※                      ※
<コシヒカリの交配> 選抜育種法では交配すべき品種選びから始まる。コシヒカリでは晩稲(おくて)種の「農林22号」を母とし、早生(わせ)種の「農林1号」を父とする組合せだった。1944(昭和19)年7月末、新潟県農事試験場の水稲育種指定試験地主任技師の高橋浩之が取り組んだ人工交配どのような苦労があったか、「コシヒカリ物語」から引用しよう。
 当時国内の資源はほとんどが戦争のために徴発され、人手も物資も極端な欠乏状態に見舞われていた。新潟県農試でも、働き盛りの青壮年の職員はほとんど戦争に駆り出されてしまっていた。つい4カ月前にも、高橋が片腕と思って頼りにしていた同試験地技手の池隆肆(いけたかし)が出征してしまい、30歳代で残っていたのは、高橋ぐらいまものだった。高橋は1935年九州帝大農学部を卒業、農林省農事試験場鴻巣試験地に入ったが、徴兵検査の3カ月前、同試験地のスポーツ大会で腹部を蹴られて膵臓が破裂する事故に遭い、その手術の経過が思わしくなく、「兵に向かず」として「丁種」になったため兵役を免れ、 戦時下にもかかわらず念願の育種の仕事を続けることがでくたのだった。
 しかし、屈強な青年職員が応召されてしまった後、事実上、高橋独りで水稲新品種育成の仕事を引き受けていくのは、まさに大変なことだった。同試験地の試験田は2ヘクタールと広く、育成中の稲は、栽植本数にして約20万本に達していた。水稲育種の仕事というのは、それを一本一本丁寧に見て回り、草丈や穂数はどのくらいか、茎は丈夫か、病害虫の被害はないか、出穂期はいつかなど、いろいろな形質を調べ、優秀な系統を選抜するという作業である。
 しかも9、当時はトラクターも除草用農薬もない人力中心の米づくり時代。雑草を抜き取る作業一つ取り上げても、田んぼを中腰になってはいずり回るという重労働を強いられた。そして、2ヘクタールの試験田を全部見回ると約10キロも歩く計算になり、一人で管理するのはまさに超人的な努力を要したのであった。
 一応、田植え作業は県農業技術員養成所の生徒の手を借り、除草作業は長岡市内の女学校に勤労奉仕を頼み込み、女学生に作業を手伝ってもらったりして、ようようの思いでこの日の交配作業にたどりついたのであった。当時を知る元新潟県農業専門技術員の村山練太郎は、「高橋さんのような高等官の主任技師で、素足で真っ先に田んぼに入っていく人はおりませんでした。あのころ、夕方遅くなっても、圃場に独特の藁帽子をかぶった高橋さんの姿が見え、きょうもまた高橋さんは頑張って働いていると思ったものでした」と当時を振り返る。
 確かに、無類の頑張り屋の高橋であって初めて戦時下の困苦欠乏期に2ヘクタールの試験田を管理し、新たな人工交配作業に取り組むことができたのであろう。高橋は後年、当時の状況を述べた次のような手紙を、東大教授(育種学)の松尾孝嶺に送っている。「毎日何回となく、水田を自分ではい回りながら、時には、めまいがして畦にしゃがみ込んだりしたこともありましたが、自分のやっている仕事が、人を殺すことにまったく関係がないという信念によって、迷うことなく仕事に専念することができました。 今になって思えば、あのころの運営はまことに奇跡の感がします」。松尾は太平洋戦争当時、新潟県農試の雪害試験地主任を務め、高橋とは大いに語り合った仲だった。
 さて、44年7月末、高橋が取り組んだ人工交配は、晩生種の「農林22号」を母とし、早生種の「農林1号」を父とする組合せだった。高橋にとって手慣れた作業とはいえ、決して簡単な作業ではなかった。
 まず、この晩生種と早生種では開花時期が大きく異なるため、普通に栽培していたのでは交配は不可能。従って晩生種を暗室に入れるなど、人為的に日長時間を調節する「短日処理」を施し、早生種の開花時期とぴったり一致させるよう、準備作業をしておく必要があった。
 さらに、稲の交配作業で厄介なのは、稲は自家受粉植物であるという点である。稲の開花といっても、いわゆるモミ(専門的には頴果(えいか)と呼ぶ)の殻がわずかに開き、6本の雄しべがほんの少し顔をのぞかせる程度。しかも、開花し始めるやいなや、花粉を包んでいた雄しべの袋が破れて中央の雌しべに花粉が降りかかり、簡単に受精を完了してしまう。つまり、稲の雌しべは自分の花粉以外は受け付けない構造になっているわけである。
 このため、別の稲との交配を成功させるためには、受精前の母本となる稲の雄しべをすべて殺し、雌しべだけは生かしておくという芸当が必要になる。この雄しべ除去作業は、昭和初期までは開花前のモミの先端をはさみで切ってモミに穴を開け、中の雄しべを一本一本除去するという、手間のかかる仕事だった。しかし、その後、雌しべと雄しべでは温度に対する抵抗力に差のあることが判明した。穂を43度のお湯に入れると雄しべはすべて死滅するが、雌しべは丈夫で受精能力も健在であることから「温湯除雄法(おんとうじょゆうほう)」が開発され、人工交配作業は非常に容易になる。高橋もこの方式を実施したのだった。
 ただ、この「温湯除雄法」の際、もう一つ重要な作業をこなす必要があった。それは、この日開花するモミだけを残し、その他すべて除去すつという作業である。湯に入れたとき、かすかに殻を開くのがこの日開花するモミで、このような受精可能なモミだけが大切なわけである。その他の固く殻を閉じているようなモミは、この日より前に開花し、すでに自家受粉を済ませてしまった早熟のモミか、あるいはこの日より後に開花する未熟モミで、これらはすべて邪魔ものだった。もしもこのようなモミが残っていたりすると、人工交配によって実った種子に自家受精の種子が混入することになり、交配作業は失敗に終わってしまうからである。
 稲の開花は朝9時ごろから始まり、交配作業は昼ごろまでが勝負である。高橋はこの日、まず父本となる「農林1号」の植わっている試験田から、間もなく開花しそうな健康な穂を抜き取って交配室に持ち帰り、しばらくの間、切り口をぬるま湯につけ、花粉の出が良くなるよう温めた。そして、「温湯除雄法」処理によって雄しべは死に、雌しべだけが健在な「農林22号」が十分に開花するのを待って、「1号」の穂を「22号」の花の上にかざし、何回となく指先で穂を弾いた。すると、「1号」の雄しべから花粉が霧のように「22号」に降りかかり、やがて「22号」は殻を静かに閉じていった。これで交配作業は無事に終了。この稲穂が黄金色に色づき、種モミとして収穫されたのは、9月下旬であった。
※               ※               ※
<主な参考文献・引用文献>
花の品種改良入門             西尾剛・岡崎桂一     誠文堂新光社  2001. 6.15
続 図解・米の品種            日本穀物検定協会             1999. 6.30
図解・米の品種              日本穀物検定協会             1999. 9.20
植物の育種学               日向康吉         朝倉書店    1997. 3. 1
「コシヒカリ物語」日本一うまい米の誕生  酒井義昭著        中公新書    1997. 5.15
( 2003年11月10日 TANAKA1942b )
▲top

(13)在来種への思い入れ
消費者に気に入られる野菜とは

<日本における品種改良の伝統> 明治以前には品種改良のための公共の機関はなかった。すべて民間の人たちの手で――文字通り「手」で推進されてきた。その民間の意味だが、植物の栽培も動物の飼育も、2つのまったく別個の流れがあった。1つはいうまでもなく、農村で営まれた農業、もう1つは都会の趣味として発達した。観賞用および愛玩用の生物の栽培と飼育であった。江戸時代にはそれぞれの流れから、多くの研究書が生まれた。農村と都会では扱われる植物と動物の種類がまったく違っていた。しかし品種への関心はどちらも高く、それぞれたくさんの品種が作りだされていた。
 江戸時代都市の近郊で、その土地にあった野菜が栽培された。近郊農村の名前がそのまま品種名になった例が多い。江戸だと、滝野川、三河島、練馬など。京都だと、聖護院や鹿ヶ谷。野菜は新鮮さが必要で、昔は長距離輸送が難しかった。そこで大きな消費地である都会のすぐ近くに、栽培の中心地があったわけで、そういう土地ごとに特色をもった品種が成立した。これに対して工芸作物は、加工によって長期保存がなされ、遠く離れた場所へ運ぶことができた。このためどこか1カ所または数カ所に、全国を対象にした特産地、名産地が成立した。 山形のベニバナ、岡山のイ草、徳島のアイ、国分のタバコなどで、それぞれを代表する有名品種があった。
 これらの品種は、どのようにして作り出されたのか?育種方法についてはほとんど記録がない。しかしイネについて1つ、注目すべき書物がある。江戸時代半ばを過ぎた寛政年間(18世紀末)に、羽後国(秋田県)南部で書かれた「羽陽秋北水土録(うようしゅうほくすいどろく)」で著者は釈浄因(しゃくじょういん)という僧侶だった。 この本は農書ではなく、地元を中心に周辺地域一帯の自然から民間習俗まで、きわめて幅広い内容を扱った本で、その一部として農業を論じて、イネの品種について相当詳しく書き残している。この中で、品種に変異性があること、環境が変わると異変が生じること、突然変異に当たる事態を知っていたこと、管理をしないと品種が劣悪になること、などが実際に指摘されている。
 こういう事実と、のちに明治初めごろの民間育種の記事などから類推して、次のように推定される。まず作物の品種は、ときどきひとりでに変化すると信じられていた。いまからみると、イネなどは突然変異、野菜では自然交配が原因として多かったと考えられる。熱心な農民がこれを見いだし、その子孫を分離して大切にそだてた。こうやって新品種が作りだされた。もちろんそれは非常に根気のいる作業であった。 しかし多くの品種が実際に存在していた史実は、根気づよく忍耐づよい農民が、各地に少なからずいたことを証明していよう。
 農民たちは、伊勢参り、善光寺参り、金比羅参りなどの名目で旅をした。神社仏閣への参詣もさることながら、それはめったにみられない他国の農業の様子を、現地で見聞し勉強するまたとない機会でもあった。その途中で良さそうな品種を見かけると、たねをこっそり手に入れて──多くは密かに盗んで──持ち帰ったという。特定の藩の産物を、無断で他領へ運び出すのは、どんな小さな物であれ、禁止されていた。それをあえて破ったのである。品種の伝播も、極端にいえば生命がけであった。だが実際そうやって、品種が普及していったことが、これも各地の伝承などからわかっている。 (日本人が作りだした動植物」品種改良物語 から)
(=_=)                     (=_=)                      (=_=)
<在来種> もともとその値域に土着していた生物種のことを言う。この定義は必ずしも明確ではなく、一般に歴史時代に入ってから、人類が外地から持ち込んだ生物種を導入種とか帰化生物といい、それ以前に土着した生物種を在来種という。しかし、近年では、たとえば新種の雑草が持ち込まれた場合に、それ以前に土着していた雑草を在来種という。 (平凡社「大百科事典」)
 「在来種」をキーワードに検索すると、馬・ミツバチ・川魚・草花・雑草・昆虫などがヒットする。そして「在来種」の反対語として、「外来種」が対応する。しかしここでは「野菜の在来種」を対象に、「品種改良」と「在来種」とを対峙した言葉として扱う。
京野菜 昔から守られてきた野菜・「在来種」というと、「京野菜」がまず頭に浮かぶ。どのような野菜があるか列挙してみよう。
聖護院ダイコン・辛味ダイコン・青味ダイコン・茎(中堂寺)ダイコン・桃山(大亀谷)ダイコン・時無し(藤七)ダイコン・佐波賀ダイコン・鶯菜・聖護院カブ・スグキ菜・松ヶ崎浮菜(八頭)カブ ・佐波賀(天神)カブ ・大内カブ・舞鶴カブ ・ミズナ・ミブナ・畑菜・もぎナス・賀茂なす・山科なす・鹿ケ谷カボチャ・ 伏見トウガラシ・田中とうがらし・桂ウリ・聖護院キュウリ・柊野(3尺)ささげ・エビイモ・タケノコ・堀川ゴボウ・京うど・九条葱・京セリ・京ミョウガ・クワイ・じゅんさい・花菜(準)・万願寺トウガラシ(準)・鷹峯トウガラシ(準)・・絶滅 ・・郡(コオリ)ダイコン・東寺カブ(カブ)・・ブランド京野菜・・紫ずきん(エダマメ)・金時ニンジン ・ヤマノイモ・
聖護院ダイコン 京野菜の一つ「聖護院ダイコン」がどのようなものか、ネットから引用しよう。
淀ダイコンは、正式には聖護院ダイコンといい、大きさ直径15〜20センチ、重さ1〜2.5キロの丸ダイコンです。 淀ダイコンのルーツは古く、今から170〜180年前の文政年間に尾張の国から黒谷(京都市左京区)の金戒光明寺に奉納された長ダイコンをもらい受け、栽培を続けているうちに形の丸い、味の良い淀ダイコンが生まれたといわれています。 もともと聖護院一帯が主産地でしたが、大正末期頃から久御山町でも栽培されるようになりました。最初は、丸い形ができませんでしたが農家の努力と品種改良などによって現在では、久御山町の東一口一帯が大きくて丸い淀ダイコンの主産地となっています。 淀ダイコンは、早場米を収穫した後の8月末から9月上旬に種が撒かれ、寒さが厳しくなる12月から1月にかけ収穫されます。 淀ダイコンの特徴は、甘くて苦みが少ないため豊潤で、その上きめがこまかく煮くずれがないためおでんや煮物に最適です。
練馬大根 大根の練馬か、練馬の大根かと言われるほどに名をはせた練馬大根は、元禄の江戸時代から栽培されるようになりました。当時すでに人口百万をこえる江戸の需要にこたえる野菜の供給地として、練馬大根の栽培も発展していきました。よい大根を作るための肥料は、江戸の下肥(人糞)が用いられ、野菜を納める代わりに受け取る貴重なものでした。 明治の中頃から東京の市街地が拡大していくのに伴い、練馬大根の生産も一層増大していきました。 その練馬大根は、たくあん漬けとして製品にされ出荷しました。また、干し大根としても販売され、一般家庭ではたくあん漬けが作られました。 その後、昭和の初めのころまで盛んに栽培され続けますが、 昭和8年の大干ばつや、何回かのモザイク病の大発生によって大きな痛手を受けました。その後も、食生活の洋風化・急激な都市化による農地の減少などにより、昭和30年頃から栽培が衰退し、練馬大根が出回ることがほとんどなくなってしまいました。 練馬大根の栽培が激減していくなかで、キャベツ栽培が主になり、現在の主要生産物はキャベツになっています。 (東京豊島区のホームページから)
大根の種類 大根はアブラナ科のキャベツなどと共に遠く地中海沿岸からシルクロード経由で日本に渡来してきた外来植物であった。それはコーカサスからパレスチナにかけての地域が原産とされ、1200年以上も前に、インド、中国、朝鮮を経て日本に入ってきたといわれている。そんな外来種であったが、日本人の嗜好に合わせ、日本の気候に合わせて交配を繰り返しているうちに、世界でも類のない変貌を遂げて、太さ、丸さ、長さ、大きさにびっくりするほどの変化を見せ、色や味、蒔きつけ収穫の時期にもそれぞれの特徴を見せるような豊富な変化をその地方地方に残してきている。いわゆる「地大根」として、各地に特産の味をもたらして来たのであった。 どのような品種があるのか、名前を列挙してみよう。ねずみ大根、戸隠地大根、灰原辛味大根、親田辛味大根、信州地大根、上平大根、小林系地大根、大田原地大根、大門大根、辛丸、練馬大根、聖護院大根、辛味大根、時無大根、三河島大根、宮重大根、守口大根、穎割れ大根、桜島大根、砂糖大根、二十日大根、山葵大根。源助だいこん。
 沢山の品種があるダイコン、現在では青首があまりにも普及してしまっているので、青首以外を地大根と呼ぶようになっている。
奈須比 なすの原産地はインド東部で、有史以前に作物化されたといわれている。中国へは5世紀以前に伝わり、広い範囲で栽培され、品種が分化した。日本へは8世紀頃までに伝わっていたとされている。奈良時代の正倉院の古文書にも記述があり、すでに1000年以上にわたって親しまれてきた。もともと熱帯性の野菜だったにもかかわらず、よほど日本人の嗜好に合ったのか、品種や栽培の改良により、北の地域でも作られるようになった。 ヨーロッパへは13世紀頃に、北アメリカへは16世紀頃に伝わったといわれている。なお、「なす」というよび名は宮中の女房言葉からきたもので、初めは「奈須比」とよばれていた。
 なすは沢山の種類があって、
長卵形なす、卵形なす、丸なす、長なす、大長なす、米なす、小丸なす などに分類できる。品種を列挙してみよう。 青なす(涼風なす)、賀茂なす、民田なす、窪田なす、真黒なす、津田長なす、博多長なす、久留米長なす、仙台長なす、南部長、川辺長なす、ヘタ紫なす、千両なす、白なす、小布施なす、もぎなす、 このように多くの品種が栽培されていたが、最近では栽培が容易で色がよい長卵形の一代雑種が全国的に広く栽培され、地方色豊かないろいろな形のなすはしだいに姿を消している。
(=_=)                     (=_=)                      (=_=)
<在来種への思い入れ> 日本のお百姓さんが大切に育ててきた野菜、選抜育種法で、その地方、その時代、消費者の好みに合わせて品種改良してきた。交雑育種法とか一代雑種法に比べれば短期間で劇的な改良が行われたわけではないが、ゆっくりと変化してきた。 食べる人たちの好みに合わせて変化してきた。その変化に合わない品種は「選抜」されてきた。劣性遺伝子のホモ接合体は子孫を残せず消え去って行くように、時代が変わることによって食べる人の好みが変わる、その変化についていけない品種は消えていった。 遠く、地中海やインドからはるばる日本にやってきた野菜が、日本の気候・風土・日本人の好みに合うように品種改良されて「在来種」として生き延びてきた。 その変化が大きくなってきた。一代雑種の普及がその要因になっている。こうした傾向に対して「在来種を守ろう」の動きも出てきた。その主張にも耳を傾けてみよう。
野菜は近くで獲れたものを食べる 人間が食べてきたものは、長い間、自分が生きているその地域に存在していたものに限られていた。生理機構はその食べものに合わされているから、食の基本は自分の身のまわりで獲れたものを食べるということである。 そこに住んでいる人間はそこにあるものを食べてきて、体質・嗜好もそれに合わされきた。日本人が日本にあるものを、もっと限定すれば、一日歩いて往復できるくらいの範囲の中のものを食べて生きるというのが原則である。 地球の彼方のどこからか食べものをもってくるなど、流通コストがかかるからというものではなく、もともとは考えられもしなかったことだ。よそにあるものを持ってきて食べるというとき、それを珍しがって食べてみる程度であれば問題はないが、もともと自分のまわりで獲れたのでないものを食べつづけるのは非常に危険な場合がある。その人の生理機構に合わない場合が起こりうる。
そんなにいい野菜なのに消えていく 固定種・原種の野菜栽培は手間がかかるのと、出荷が一定しない(旬のみですから)、形が不格好であまり売れない(有名なブランドものは別)、農業人の高齢化問題、など、前途多難なのです。
当然、出荷量はあまり多くないのでスーパーには出ない。あっても高額(笑)
となりの畑でF1品種の作物がどんどん成長して大きな実をつけていて、自分の畑では成長がまばら。で、農協の買い入れでも大きな差が出る。(とにかく見栄えが優先されていますから)
それでも、固定種・原種を作り続けていくことができますか?
さらに「F1品種」の章で、ほんとうの固定種・原種を育てていくには、半径20K圏内に他の同品種が栽培されていないことが条件と書きました。
となりの畑で、同じ品種のF1種を栽培していると、風や虫たちでF1種と固定種が交配してしまうんです・・・。
・・・そうして固定種・原種の種がなくなっていくのだろうか・・・
有機農法にピッタリ合うのは、もともと有機農法で栽培していた、固定種・原種なのです。
・・・次の世代に残す種は、バイオテクノロジーで改良された不自然な種しかなくなってしまうのだろうか・・・
そして農薬漬けの野菜しか残らなくなって、地球の生態系、人の体も崩れていくのでしょうか。
見た目と経済追求の、F1種 「僕は、F1種の問題は、交配の方法、目的にあると思うのです。交配自体はすごく古くから行われいるんですよ。でも、昔は美味しいものがたくさん採れればいいな、ということが目的だったんです。その目的には何も悪いことはないし、「美味しい」ということは栄養があるということでしょう。」 「ミネラルが多ければ多いほど美味しい。自分の体に合っていればあっているほど美味しい。そうであれば、その交配の目的は正しい気がします。それなら良いんだけれどもF1種は味よりも、食べる人の健康よりも、とにかく見た目と経済追求。店頭で萎びないとか、サイズが揃うとか。そして、いかに毎年種をかってもらうかといった売る側のメリットばかりを考えて開発されています。」
会津の伝統野菜を守る会 地産地消のうごき・・・地元の農産物を地元で消費していこうという呼びかけで、食品の安全性が問題化する中で注目を集めています。 地元産品や地域資源を住民が再発見することで、地域産業・観光に結び付け、地域経済の活性化に結び付けようとする取り組みです。
 地産地消を促進し、土産土法へ・・・その地域で採れた農産物をその地域独自の調理方法で食べるもので、地域の先人の知恵が凝縮しています。 会津の気候・風土の中で育まれてきた会津伝統野菜を会津ならではの調理方法・味付けでおふくろの味を守ります。 食文化を継承するとともに、新しい商品開発を試み新しい伝統をつくりあげます。
ふるさと野菜生産振興協議会 このような中で、全国的に日本型食生活見直しムードと併せて、こだわりの食材として地域伝統料理の見直しが行われています。更に、京野菜、加賀野菜をはじめとして、全国的に伝統野菜の振興を地域の活性化に結びつけようとの動きがあります。 また、こうした伝統野菜は、オンリーワン産品であり、本県が進めるオンリーワン・ナンバーワン農林水産物の生産・販売振興施策に合致しています。 このため、県内各地で昔から栽培され物語が存在するものや、法事、祭事地域食文化と関係するもの、全国流通している品種とは異なり在来種である野菜を「ふるさと野菜」と位置づけ、掘り起こしを行うとともに、調理方法の把握等も行い、地域の伝統的な野菜に対する県民の皆様の意識を高めるとともに、食材供給や地域食文化の発展を図ろうとするものです。 本年度は、関係者による「ふるさと野菜生産振興協議会」を設立し、「ふるさと野菜」の選定や調理方法の把握を行うとともに、シンポジウムの開催を予定しています。
F1、私は食べたくない F1種は、子供を作れない種です。そう、果実が沢山採れても、その子供が生まれないように操作をされた種なのです。多くは、ホルモン処理がされています。その果実を食べることによる、人への影響はまだはっきりしていないのが現状ですが、どうも少子化やメス化現象と関係がある様です。 F1種の種は、生産性と見栄えが在来種に比べて飛躍的に良くなっています。沢山とれるし、かたちもきれいだからその種を使うって訳です。そして、子供が出来ないから毎年買う訳です。そうです、大きな種子会社の営業戦略です。その裏には、アメリカの国家戦略も垣間見れる様です。例えば、代表的な京都野菜の種が、アメリカで作られていると言う現実がすでにあります。 できれば、私は食べたくないな。 味も違います。本来持っていた味が無くなってしまっています。普通、有機野菜だから美味しいと言いますが、それよりもこのことのほうが味を左右するのです。 試しに、種の袋を見て下さい。F1、一代交配、(タキイ)交配などの種子会社の名前が書いてあるのは、すべてF1種子です。みなさんもぜひ一度見て下さい。ほとんどがそうだから。できれば、在来種、固定種の野菜を食べてみて下さい。
一律化する味 昔から地方に伝わる伝統的な野菜が各地で見直されるようになってきています。 こうした伝統的な野菜は、栽培に手間がかかるとともに、形がそろわないことなどから減少傾向にあります。 一方、全国流通している野菜では栽培が少数の品種に集中し、味も一律化してしまっています。
(=_=)                     (=_=)                      (=_=)
<野菜作りが産業になる> 一代雑種という消費者の好みに敏感に応えられる品種改良方法が普及して、野菜作りが産業になってきた。今普及している品種と違った味が好まれるなら、種子会社はそうした品種を販売するだろう。「消費者はこのような淡い味ではなく、もっと渋い味を望んでいる」「形や、味はむしろ不揃いの方が消費者に好まれる」と判断したら、種子会社はそのような種子を開発するだろう。 「売れる品種が普及する」ということは「消費者に好まれる物が普及する」ということだ。
 遠く、中南米・地中海・インドで生まれた野菜が日本に入ってきて、品種改良され日本人好みの野菜に変わっていった。お百姓さんは、日本の中でもその地方の気候・風土・消費者の好みに合うように品種改良をかさねてきた。それは食べる人の好みに合わせていくことであった。平和な時代=江戸時代に野菜作りは産業として、その性格を確立していった。現代ではさらに品種改良の技術が進んだので、多様化する消費者の要求に応えられる体制ができている。 そうした現代、「多くの人が好む現代的な味ではなくて、今は消え去ろうとしている野菜を味わいたい」という贅沢が言えるほど日本は豊かになったようだ。
(^o^)               (^o^)               (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
「日本人が作りだした動植物」品種改良物語   日本人が作りだした動植物企画委員会編   裳華房       1996.4.25
( 2003年11月17日 TANAKA1942b )
▲top

(14)外来種が定着し在来種となる
野菜の原産地・導入育種法

<植物を作物と変えた人類> 人類が食糧の増産技術を手に入れ、自分が必要とする以上の食糧を生産するようになると、食糧を生産しない人間が現れた。彼らは食糧を生産する代わりに、生活用品、生産道具、美術工芸品、まつりごとに関する物、等を作り、食糧と交換する場所へ持ち寄った。その取引場所が市場となり、都市になり、文明が発祥した。さらにその都市で必要とされる物以上が生産されると、都市同士の取引が行われるようになりそれらのいくつかの都市が結びつき国家が生まれた。 このように文明が発祥した時代、その食糧増産の技術とは、野生の植物を栽培作物と変えたことだった。自給自足の神話
 農耕が始まったころの祖先たちが利用していた原始の作物は、現在の私たちには想像できない、まったく異なる姿・形をしていたと思われます。たとえば、イネの起源になったインド・ベンガル地方の野生イネは、穂がつくと、すぐに実がぽろぽろと地上に落ちる雑草のようなものでしたし、南米・ペルーが原産地のトマトの野生種は、小指の先ほどの大きさにしかならない、ちょっぴり毒を持った緑の果実でした。
 私たちの主食のイネで少し詳しく述べてみましょう。イネの栽培種と祖先種の比較については、遺伝学研究所の岡彦一博士(1962年)の研究が有名です。博士はインドの山奥に祖先種「オリザ・ペレニス」を見出し、その調査から、野生イネは、(1)休眠が深く、発芽や出穂が不揃いであり、(2)穂は貧弱で、種子は小さく、脱粒しやすい、(3)肥料を与えても葉が繁るだけで子実の収穫は上がらない、と記載しています。この事実から、栽培イネが長年月の改良によって、(1)発芽や出穂が均一になり、 (2)食用になる子実や穂が大きく、たわわに実っても実が落ちず、(3)肥料による増収効果もある作物に変身したことがわかります。
 ここに示したイネの例と同じように、他のすべての作物にも祖先種があって、今の栽培種があるのですから、私たちが日頃なにげなく食べている作物はすでに、「人間に都合の良いように改良された」植物の姿なのであり、「自然のままの」植物なのではありません、山野草を除けば、私たちの日常の食材は1万年にわたる人間の手の加わった「奇形」植物なのです。
<作物になって多様になった>  自然の中で生き抜く逞しさが減少した作物は、しかし、人間との係わりを持つことで、べつの能力が引き出されてきました。それは、作物になって多様になったことです。
「人間の手が加わって、植物本来の多様性が失われた」と主張する人もいますが、実際はどうでしょうか。人間の手が加わらない祖先種には、たしかに特定の条件下で生き抜く逞しさがありましたが、多様性は多くありませんでした。彼らは生き残るために姿・形を作りだし、それ以外の性質はそぎ落として生きてきたからです。例えば、地中海原産のアブラナ科植物ケールは、ブロッコリーやキャベツ、カリフラワー、コールラビ、コモチカンラン、ハボタンなどの祖先種ですが、人間とともに、多様な地域に適応したからこそ、これだけ多様な作物になったと言えそうです。
 バビロフ博士の作物の起源中心地を見るとわかるのですが、どの植物も今では世界各地で、人々の好みや風土に応じた品種が誕生し、それぞれの食卓を飾っています。明治政府が「コメを作るのは無理」と考えた北海道が、今では日本一のコメの生産地です。しかも、「ほしのゆめ」などのおいしいコメの品種が誕生しています。人間の手が加わることで作物の多様性は無限に広がっています。
 このような人間の手による作物の適応能力の拡大や多様性は植物にとっては迷惑なことだったのかもしれませんが、作物は人間とともに生きることで繁栄を確保し、環境適応能力の高い植物を作物にしてきたのではないでしょうか。作物は今後とも、それぞれの地域の人々の手によって、ますます多様性を増すことになるでしょう。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<作物が発祥した8つの地域>  イワン・パビロフ博士は12年にわたって世界中を回り、膨大な数の栽培植物(作物)とその近縁植物を収集し、それを種ごと、属ごとに厳密に分類しました。その結果、それぞれの作物について、性質が異なる多様な栽培種のタイプ(変異)が集中的に発見される特徴的な地域のあることがわかり、彼はその地域をその作物の発祥地だと考えたのです。栽培される過程では、いろいろな性質をもった栽培種が生まれるに違いありませんから、古くから栽培されているところ、つまり、作物の発祥地の近くには、それだけで多くの異変が保存され、蓄積されていると考えたのです。 この作業仮説をもとに、バビロフは、それぞれ独立して発達した8カ所の「作物の起源中心地」を明らかにしました。
 この8地域はちょうど古代文明が栄えた地域とほぼ重なっていました。このことは「農耕」を始めることができた人々が、その後の文明の誕生を可能にしたことを物語っています。それぞれの作物は、この「作物の起源中心地」から世界各地へと伝播し、今では世界の隅々に広がっています。
 このバビロフの「起源中心地」に、わが国は空白のままです。博士は1929年に来日して、温州ミカンと桜島ダイコンに強い印象を持って帰ったと記録されています。ちなみにわが国がルーツの代表的な作物には、クリ、フキ、ワサビなどがあります。
(「食の未来を考える」から)
<バビロフ博士による作物の起源中心地>
中米・メキシコ トウモロコシ、サツマイモ、日本カボチャ、インゲンマメ、トウガラシ
南米 ジャガイモ、ワタ、トマト、西洋カボチャ、ラッカセイ、イチゴ
中国 ダイズ、ソバ、アズキ、ハクサイ、モモ、ネギ
インド・マレー サトウキビ、イネ、キュウリ、サトイモ、バナナ、ココヤシ、ナス
中央アジア ブドウ、タマネギ、ホウレンソウ、リンゴ
中近東 コムギ、オオムギ、エンドウ、ソラマメ、ニンジン
エチオピア高原 モロコシ、オクラ、コーヒー、ゴマ
地中海 オリーブ、レタス、キャベツ、アスパラガス、サトウダイコン、ダイコン
<導入移植法> 海外などからいろいろな変わりものの系統を集め、その中から、これはと思うものを見つけて品種にするのが導入育種法。コロンブスのアメリカ到着から南北アメリカから多くの野菜がヨーロッパに持ち込まれて、ヨーロッパの気候・土壌に適応するように改良された。それには多くの時間がかかった。それらが中国や東南アジアを経由して日本に持ち込まれた。そして素直に日本の気候・土壌に馴染んでいった。 日本国内でも嵐嘉一の「近世稲作技術史」にあるように、九州の早稲種が東北で晩生種として栽培されたのも、導入移植法と言える。またお百姓さんがお伊勢参りで他藩の稲を持ち帰って自分のところで栽培したのも導入移植法と言える。
 地産地消や身土不二に拘っていると導入移植法は利用されない。野菜が地産地消に拘って地元だけで栽培・消費されていたらこれほど豊かな野菜を楽しむことはできなかった。南アメリカ大陸アンデス山脈の麓で小指ほどの青い実を付けたトマトがひっそりと生息していただろう。トマトにとってもさびしい生き方に違いない。 江戸時代のお百姓さんも旅に出て珍しい品種に出会い、育てる楽しさはどうなっていただろう。好奇心が旺盛な人たちが新しい品種を導入改良し、人々の食卓が明るく、楽しく、豊かになる。現代でも韓国・東南アジアの食材・料理が普及されつつあり、南米ペルーの人たちが見向きもしなかった魚、ペルー近海でとれるウミヘビの一種が日本の回転すしで「アナゴ」として食されている。日本産のコシヒカリがタイで好評なことはこのシリーズのトップで書いた。 好奇心と、物事に拘らない遊び心が日本の食卓を豊かにする。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<護るべき自然とは石器時代の自然なのか?>  「農業の多面的機能を重視すべきだ」との主張がある。その主張には「農村にこそ護るべき自然が残っている」との思いがあるようだ。 前回<在来種への思い入れ>で取り上げた意見には、「品種改良により、従来の野菜が変わってしまった」「特に、一代雑種は種子会社の利潤追求の道具になっている」「遺伝子組み換えは自然を征服できるとの思い上がりだ」 こうした思いがあるようだ。そこには「自然を破壊するな」との主張がある。「農村にこそ自然が残っている」「都市化が自然を破壊する」「経済効率だけを追求して、農業が自然と共生する面を無視している」こうした主張が叫ばれる。ではその場合の「自然」とは何なのか?どのような状況なのか? 人類の文明が発祥したときから「自然破壊」は始まったのではないのか?だとすると「自然を護れ」との自然とは「石器時代の自然を護れ」ということになる。
 自然とは「天然のままで人為の加わらないさま」であり、哲学用語として「人工・人為になったものとしての文化に対し、人力によって変更・形成・規整されることなく、おのずからなる生成・展開によって成りいでた状態(広辞苑から)」とされる。だとすると、いわゆる原始自然こそ、本来の自然であって、いまや私たちのまわりには、真の「自然」はみるべくもない、となる。 農業問題を扱っていくと次のような論法に出会うことになる。一代雑種⇒種子会社のタネ支配⇒種子会社による農業支配、農業効率化追求⇒農業の多面的機能無視⇒自然環境破壊。「農業は先進国型産業である」というテーマから、さらにもう少し突っ込んで考えて見よう、と思うようになる。次の文は品種改良の歴史を調べようと「文明が育てた植物たち」を読んでいる内に見つけたもの。 視野狭窄にならないように、たっぷりの遊び心で、好奇心を満足させるよう、こうした方向からも考えてみようと思う。
 文明の恩恵を受けたからだろうか、ヒトは考えることに興味を持ち始め、そのうちに、考えることの迷路に立つことに歓びを見いだすようになってきた。すぐには役に立たないことのうちにも面白くて止められないことがいろいろあることを知るようになったのである。言葉で情報を伝達するようになると、知的な蓄積量が増えてくる。知的好奇心を刺激する機会も増えるのは当然である。 アルタミラの洞窟に絵を描いても腹の足しになると誰も期待していない。それでも、最低限の意志を伝達するという実用だけでなく、絵によって美しいものを創造する歓びを知るようになる。
 知的好奇心は、なぜ、どうして、という問にも促される。地球上になぜこんなにさまざまな生物が住んでいるのだろう。どれくらい多様な生物が地球上のは生きているのだろう。あれもこれも、役に立ったり、害になったりと、実用に関わりもあって生物に名前が付けられ、どれのことを言っているのか容易に情報交流ができるように、たくさんの生物をなんらかの規準によって分類整理する試みも始まってくる。 利害関係のあるものを識別し、伝達するための命名、分類をするという実用に促されて始まった行為かもしれないが、ヒトにとってはなんの役にも立たない生物がこんなにも多様に分化しているとすれば、それが生きているのにはなにかの意味があるに違いないと考える人も出てくるだろう。なぜ、という問いかけには、意味を見いだすための観察や、やがては解析も行われるようになる。 しかし、役にも立たないと言われることに全力を尽くすようになったヒトの生き方に、ほかの生物には見られない特性が創られたのである。それこそ、文化であり、科学や芸術の始まりである。新石器時代に入って、ヒトははじめて文化と呼ばれるだけの知的活動を始め、それが動物とはひと味違った知的存在としてのヒトを創りだしたのである。
(「文明が育てた植物たち」から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<白菜は日本の基本食?>  新米の飯を、一箸つまむ。見たところは、いつもと、そう違いはない。冷夏に見舞われた北の方の産で、出荷はかなり遅れたらしい。その地で、心労と勤労とを一瞬思い浮かべながら、かむ。▼白菜漬けを、少しつまむ。ご飯のほのかな甘みを、ほどよい酸味が引き立てる。飯をもうひとつまみし、みそ汁をすする。栄養のことはともかくとして、晩秋の「日本の基本食」だけで、ほぼ満ち足りた。 (2003年11月24日朝日新聞朝刊「天声人語」から)
 「ハクサイ(結球白菜)が日本に初めて導入されたのは比較的新しく、1875年であった。……明治末期までは、日本では採種が成功せず、毎年種子は輸入されていたので、栽培は広がらなかった」(平凡社「大百科事典」から)
 天声人語にあるように、白菜は日本のご飯食にピッタリの食材と言える。でもその白菜が日本で栽培されるようになったのは、比較的新しい。清国の原種に頼ることなく国内でハクサイのタネをとることができるようになったのは、沼倉吉兵衛が1916(大正5)年に他の十字科植物の花粉がまざらないようにして、タネをとることに成功してからだった。これは宮城県の松島でのこと。一方、そのころ愛知県の野崎徳四郎も1919(大正8)年にハクサイのタネを取ることに成功した。 1922(大正11)年には宮城県農事試験場から、育種業者として独立した渡辺穎二が新しい白菜の品種を育てることに成功した。1922(大正11)年の農商務省の調べによると、そのころまだ、清国から大量のハクサイのタネが輸入されていたとのことだが、この時期以来だんだんと日本で品種改良されたハクサイのタネに取って代えられるようになっていった。
 板倉聖宣著「白菜のなぞ」は中学生でもわかるやさしい文章で、白菜が日本で定着する経緯が詳しく書かれている。品種改良に関するおすすめ本の一冊です。
(^o^)               (^o^)               (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
文明が育てた植物たち           岩槻邦男          東京大学出版会   1997. 5.15  
食の未来を考える             大澤勝次・今井裕      岩波書店      2003. 6.27 
白菜のなぞ                板倉聖宣           仮説社       1994.11. 1 
菜の花からのたより 農業と品種改良と分子生物学 日向康吉       裳華房       1998.11.25  
花の品種改良入門             西尾剛・岡崎桂一      誠文堂新光社    2001. 6.15
植物の育種学               日向康吉          朝倉書店      1997. 3. 1
( 2003年11月24日 TANAKA1942b )
▲top

(15)日本人に適した品種改良
好奇心と遊び心

<芥川龍之介「煙草と惡魔」> 煙草は、本來、日本にはなかった植物である。では、何時頃、舶載されたかと云ふと、記録によって、年代が一致しない。或は、慶長年間と書いてあったり、或は、天文年間と書いてあったりする。 が、慶長十年頃には、既に栽培が、諸方に行はれてゐたらしい。それが文祿年間になると、「きかぬもの たばこの法度錢法度、玉のみこゑに げんたくの医者」と云ふ落首が出來た程、一般に喫煙が流行するようになった。――
 そこで、この煙草は、誰の手で舶載されたかと云ふと、煙草は、惡魔がどこからか持って來たのだそうである。そうして、その惡魔なるものは、天主教の伴天連がはるばる日本へつれて來たのだそうである。
 このように始まる、芥川龍之介の短編「煙草と惡魔」。原文の味を損なうことを承知のうえで、少し引用しよう。
 天文十八年、惡魔は、フランシス・ザヴィエルに伴(つ)いてゐる伊留滿の一人に化けて、長い海路を恙(つつが)なく、日本へやって來た。所が、日本へ來て見ると、西洋にゐた時に、マルコ・ポオロの旅行記で読んだのとは、大分、様子がちがふ。 第一、あの旅行記によると、國中至る處、黄金がみちみちてゐるやうであるが、どこを見廻しても、そんな景色はない。キリシタンの信者も出來てないので、誘惑する相手もいない。さしあたり退屈な時間を、どうして暮らしていいか、わからない。───
 そこで、惡魔は、いろいろ思案した末に、先(まづ)園藝でもやって、暇をつぶさうと考へた。フランシス上人は、それは至極よかろうと、賛成した。惡魔は、早速、鋤鍬(すきくわ)を借りてきて、道ばたの畠を、根気よく、耕しはじめた。
X                   X                    X
 それから、幾月かたつ中に、惡魔の播いた種は、芽を出し、莖をのばして、その年の夏の末には、幅の廣い緑の葉が、もう殘りなく、畑の土を隠してしまった。が、その植物の名を知っているものは、一人もいない。フランシス上人が、尋ねてさへ、惡魔は、にやにや笑ふばかりで、何とも答へずに、黙ってゐる。
 或日の事(それは、フランシス上人が傳道の為に、数日間、旅行をした、その留守中の出來事である)、一人の牛商人(あきんど)が、一頭の黄牛(あめうし)をひいて、その畑の側を通りかゝった。見ると、紫の花のむらがった畑の柵の中で、黒い僧服に、つばの廣い帽子をかぶった、南蛮の伊留滿が、しきりに葉へついた蟲をとってゐる。 牛商人は、その花があまり、珍しいので、思はず足を止めながら、笠をぬいで、丁寧にその伊留滿へ声をかけた。
 ──お上人様、その花は何でございます。一つお教へ下さいませんか、手前も、近ごろはフランシス様の御教化をうけて、この通り御宗旨に、帰依して居りますのですから。
 ──この名だけは、御氣の毒ですが、人には教へられません。これは私の國の掟で、人に話してはならない事になってゐるのですから。それより、あなたが、自分で一つ、あててごらんなさい。日本の人は賢いから、きっとあたります。あたったら、この畑にはえてゐるものを、みんな、あなたにあげませう。 なに今日でなくっても、いゝのです。三日の間に、よく考へてお出でなさい。誰かに聞いて來ても、かまいません。あたったら、これをみんなあげます。この外にも、珍陀(ちんだ)の酒をあげませう。それとも、波羅葦僧垤利阿利(はらいそてれある)の絵をあげますか。
 牛商人は、相手があまり、熱心なのに、驚いたらしい。
 ──では、あたらなかったら、どう致しませう。
 ──あたらなかったら、私があなたに、何かもらひませう。賭です。あたるか、あたらないかの賭です。あたったら、これをみんな、あなたにあげますから。
 ──よろしうございます。では、私も奮発して、何でもあなたの仰有るものを、差上げませう。
 ──よろしい。よろしい。では、確かに約束しましたね。
 ──確に、御約定致しました。御主エス・キリストの御名にお誓い申しまして。
 ──では、あたらなかったら──あなたの體と魂とを、貰いますよ。
 かう云って、紅毛は、大きく右の手をまはしながら、帽子をぬいだ。もぢやもぢやした髪の毛の中には、山羊のやうな角が二本、はえてゐる。牛商人は、思はず顔の色を変へて、持っていた笠を、地に落とした。日のかげったせゐであらう、畑の花や葉が、一時に、あざやかは光を失った。牛さへ、何におびえたのか、角を低くしながら、地鳴りのやうな聲で、唸ってゐる。………
 ──私にした約束でも、約束は、約束ですよ。私が名を云へないものを指して、あなたは、誓ったでせう。忘れてはいけません。期限は、三日ですから。では、さやうなら。
 人を莫迦にしたやうな、慇懃な調子で、かう云ひながら、惡魔は、牛商人に丁寧なおじぎをした。
X                   X                    X
 牛商人は、うっかり、惡魔の手にのったのを、後悔した。このまゝ行けば、結局、あの「ぢゃぼ」につかまって、體も魂も、「亡ぼることなき猛火」に、焼かれなければ、ならない。それでは、今までの宗旨をすてゝ、波宇寸低茂(はうすちも)をうけた甲斐が、なくなっていまふ。
 牛商人は、とうとう、約束の期限の切れる晩に、又あの黄牛をひっぱって、そっと、伊留滿の住んでゐる家の側へ、忍んで行った。 そこで、牛商人は、毘留善麻利耶(びるぜんまりや)の加護を願ひながら、思い切って、豫(あらかじめ)、もくろんで置いた計畫を、実行した。計畫と云ふのは、別でもない。──ひいて來た黄牛の綱を解いて、尻をつよく打ちながら、例の畑へ勢よく追い込んでやったのである。
 牛は、打たれた尻の痛さに、跳ね上がりながら、柵を破って、畑をふみ荒らした。角を家の板目(はめ)につきかけた事も、一度や二度ではない。その上、蹄の音と、鳴く聲とは、うすい夜の霧をうごかして、ものものしく、四方(あたり)に響き渡った。すると、窓の戸をあけて、顔を出したものがある。暗いので、顔はわからないが、伊留満に化けた惡魔には、相違ない。氣のせゐか、頭の角は、夜目ながら、はっきり見えた。
 ──この畜生、何だって、己(おれ)の煙草畑を荒らすのだ。
 惡魔は、手をふりながら、睡むそうな声で、かう怒鳴った。寝入りばなの邪魔をされたのが、よくよく癪にさわったらしい。
 が、畑の後へかくれて、容子を窺ってゐた牛商人の耳へは、悪魔のこの語が、泥烏須(でうす)の聲のやうに、響いた。………
 ──この畜生、何だって、己(おれ)の煙草畑を荒らすのだ。
X                   X                    X
 それから、先の事は、あらゆるこの種類の話のやうに、至極、圓満に完(をは)ってゐる。即(すなわち)、牛商人は、首尾よく、煙草と云ふ名を、云ひあてゝ、惡魔に鼻をあかさせた。そうして、その畑にはえてゐる煙草を、悉く自分のものにした。と云ふやうな次第である。
 が、自分は、昔からこの傳説に、より深い意味がありはしないかと思ってゐる。何故と云へば、惡魔は、牛商人の肉體と霊魂とを、自分のものにする事は出來なかったが、その代わりに、煙草は、洽(あまね)く日本全國に、普及させる事が出來た。して見ると牛商人の救抜が、一面堕落を伴ってゐるやうに、惡魔は、ころんでも、たゞは起きない。誘惑に勝ったと思ふ時にも、人間は存外、負けてゐる事がありはしないだらうか。
 その後の惡魔のなり行きは、豊臣徳川兩氏の外教禁遏(ぐわいけうきんあつ)に會って、始めの中こそ、まだ、姿を現はしてゐたが、とうとう、しまいには、完(まった)く日本にゐなくなった。──記録は、大体こゝまでしか、惡魔の消息を語ってゐない。唯、明治以降、再、渡來した彼の動静を知る事が出來ないのは、返すがえすも、遺憾である。………
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<タバコの伝来と普及> 喫煙の習慣が日本へ紹介されたのは天正末年〜文禄年間(1570-1590)ごろで、タバコ種子が伝来し、栽培が始まったのは慶長年間(1596-1615)の初めごろと言われている。当時、どれだけの品種がどのように伝来したかは明らかでないが、鎖国体制が敷かれた寛永16(1639)までは外国船の来航も多く、それらの船によってタバコの種子が伝来したことは確かである。 そして、たばこの喫煙の習慣やタバコの栽培は、再三出されたたばこ禁煙令(禁制令)にもかかわらず、武士、僧侶、あるいは廻国修験者らによって各地に急速に拡散されて、伝来からわずか70年あまりで全国にある程度まとまった多くのタバコ産地が形成されていたことや、江戸時代の末期にはきわめて多くの品種が栽培されていたことは史実として残されている。(「日本人が作りだした動植物」から)
<好奇心があって、お人好しで、知恵のある日本人>
 「煙草と悪魔」に描かれた日本人、牛商人は好奇心があって、伊留滿が何かしていると興味を持って話しかけてくる。お人好しで、伊留滿が提案した賭にのってしまい、悪魔だと気づいても取り消せない。それでもせっぱ詰まると黄牛を使って「煙草」の畑だ、ということを見破る。この「好奇心」「お人よし」「知恵もの」というキーワード、日本人にピッタリだと思う。導入育種にしてもヨーロッパの人たちは警戒心が強かった。 なかなか在来種にしていない。日本人のように「好奇心」があって、「お人よし」で警戒心のあまりない日本人、「知恵もの」ぶりを発揮して、品種改良に取り組めば、好奇心いっぱいで財布の紐の緩い消費者が多い日本、いいものはすぐに普及する。とにかく古いもの、伝統を守ろうと言う人は一握りだから、品種改良は日本人に、そして日本の社会にピッタリだと思う。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<沙漠緑化に命をかけて=遠山正瑛> このシリーズで取り上げる品種改良は農業関係、コメ、野菜、果物を扱っている。品種改良については、「沙漠緑化に役立つ植物の品種が改良されるといい」と思う。世界各地で日本人が沙漠緑化に取り組んでいる。 遠山正瑛(せいえい)氏の活躍はNHKテレビ「プロジェクトX」(第99回 2002年10月15日放送「運命のゴビ砂漠」〜人生を変えた三百万本のポプラ〜)でも取り上げられた。その遠山正瑛の著書「沙漠緑化に命をかけて」から、「ブドウ近代化モデル園」の計画から一部引用しよう。
 遠山正瑛氏は中国・内モンゴル自治区で砂漠緑化活動を評価され、2003年「アジアのノーベル賞」と呼ばれるマグサイサイ賞(平和・国際理解部門)を受賞されました。喜ばしいことです。
 私は中国科学院蘭州沙漠研究所と覚書を交わし、緑化事業に向けて双方の協力を確認しあった。中国側は、この研究所に私たちの拠点を設置してくれた。 私は最初に事業地として沙波頭(サボトウ)実験站(テン)のある騰格里(トングリ)沙漠を選んだ。沙波頭実験站は、中国の沙漠研究の中核を担う存在である。それだけに、ここでの事業に成功すれば、他の実験站に影響を与えるのは必至だ。私はその波及効果を期待したのだ。 その沙波頭実験站の隣接地域に「ブドウ近代化モデル園」を作るのが私の計画であった。ブドウを選んだのは、いわばブドウが中国の停滞した農業を象徴する存在であったからだ。先にも触れたが、紀元前 300年にブドウ栽培が定着し、中国を代表するブドウ生産地である吐魯番にして、その栽培法は古典的としか言いようのないものであった。他の地域のブドウ栽培も私は視察したが、差はないと言えた。 中国のブドウ栽培は2000年来、ほとんど改良されていなかったのだ。
 私はそのブドウ栽培に日本の技術を導入し、立派なブドウ園を作りたかった。私がいくら「日本の技術をもってすれば緑化は簡単だ」と繰り返しても説得力は弱い。何より、実証しなければならない。ブドウ園を成功させることで、その後に控える沙漠の緑化事業に弾みがつこことを私は期待したのだ。 私のブドウ園計画に同意した中国側は、5ヘクタールの土地ならぬ沙漠を提供してくれた。私はこのブドウ園で、品質の高い、すなわち商品価値の高いブドウ栽培を目指した。私の目標は、経済的に自立した農業を作ることにある。今はともかく、いつかは中国のブドウが世界の市場に進出できるまでに成長して欲しいと考えている。そのためには、高品質で商品価値の高いブドウを作る、つまり栽培の近代化が欠かせないのである。
 3年後、農薬は使わず、肥料には家畜の排泄物を施したブドウは見事に実ってくれた。何より私を驚かせたのは、糖度の高さだった。日本のブドウの糖度は18度が最高だが、ここでは23度から30度にもなるブドウが採れたのだ。沙漠特有の昼と夜の温度差が、功を奏したのである。 このモデルブドウ園には海外から多くの研究者が視察に訪れた(ただし、日本からは一人もこない)。中国国内でも注目の的となった。とりあえず、当初の目的である「近代化モデル園」として位置づけは、間違いないものにできたと思っている。
(「沙漠緑化に命をかけて」から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<好奇心か恐怖心か=未知との遭遇にどう対処するか?> NHKテレビ「プロジェクトX」で遠山正瑛氏は「とにかくやってみること」を繰り返していた。未知との遭遇にどう対処するか?好奇心を持って向かうか?恐怖心のために逃げ出すか?遠山正瑛氏の態度はとにかく前向き。伊留滿に対して牛商人も状況から逃げ出しはしなかった。 文明が発祥し、野生植物を農作物に変え、自然環境を変えた。森林を切り開き農地を開拓した。こうして自然破壊を始めることになった。自分では自分の食糧を生産しない人が出てきて「自給自足」が神話になった。かつて緑一面の森であったヨーロッパは農地になり、レバノン杉は古代王権の権力争いのために今は見る影もない。 自然界では弱いオスは子孫を残すことができない。劣性のホモ結合体は選抜されていく。しかし人類のヒューマニズムは弱者もその遺伝子を子孫に伝えるようになってきた。
 品種改良とは自然界の秩序を変えることになる。人類が生活しやすいように自然破壊を行う。それを嫌って神の定めた秩序を護ろうとすれば中世ヨーロッパのような暗黒の時代にしなければならない。それは誰も望まないし、バチカンも望んではいないはずだ。 人類が自然を改良したために外部不経済=公害というしっぺ返しを受けている。これに対して恐怖心を露わにして現代風ラダイト運動を起こす人もいる。これに対して好奇心いっぱいの人間は外部不経済を内部経済に取り込み、それを消却する方法を試みる。失敗を重ねながらも「とのかくやってもよう」とチャレンジする。 選抜育種法中心のゆっくりした時の流れの時代から、交雑育種法、一代雑種育種法と技術を進歩させてきた。導入育種法という地産地消に反することも積極的にしてきた。細胞育種法は期待したほどの成果をあげていないが、遺伝子組み換え育種法には期待が集まる。インスリンなど医薬分野で結果を出し、農作物に応用されようとしている。 好奇心か恐怖心か=未知との遭遇にどう対処するか?先進国型産業である農業分野でどのように対処するか、決断が迫られている。
(^o^)               (^o^)               (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
芥川龍之介全集 1 <小説1>                            岩波書店      1954.11. 6
日本人が作りだした動植物           日本人が作りだした動植物企画委員会編  裳華房       1996. 4.25
沙漠緑化に命をかけて             遠山正瑛                TBSブリタニカ  1992. 7.17
沙漠緑化への途                村井資長                早稲田大学出版部  1995. 7.25 
沙漠よ緑に甦れ ジュブティ共和国10年の戦い  高橋悟                 東京農業大学出版会 2000. 5.18
砂漠化防止への挑戦              吉川賢                 中公新書      1998. 4.25
砂漠緑化の最前線               真木太一ほか              新日本出版     1993. 7.25
レバノン杉のたどった道            金子史朗                原書房       1990.12.12
古代文明と環境 文明と環境T         梅原猛・伊東俊太郎監修         思文閣出版     1994. 8. 1
古代文明の隠された真実            竹内均                 同文書院      1997. 3. 8
( 2003年12月1日 TANAKA1942b )
▲top

(16)細胞育種法
ポテトXトマト=ポマト、オレンジXカラタチ=オレタチ

<品種改良の方法を分類すると> 植物の品種改良の関連していろいろな言葉が登場する。このHPでは品種改良の方法を分かりやすくするために、次のように分類して話を進めてきた。 実際はさらに詳しく分類した表示、あるいは別の分類の仕方もあるので、それらをまとめてみた。
「選抜育種法」
メンデル以前の品種改良方法。江戸時代には武士、町人が花の品種改良を道楽としていた。ポイントはいいものをさらに育て、いらないものを捨てていく。この捨てることができず、もったいないと思っていると品種は改良されない。 分離育種法、集団選抜法、循環選抜法などの言葉がこれに関係している。
「交雑育種法」
コメの品種改良はこれ。コシヒカリもこの方法によって生まれた。交配すること、その後の選抜育種がカギになる。突然変異利用、純系選抜法、系統育種法、集団育種法、派生系統育種法、合成品種育種法などの言葉がこれに関係している。
「導入育種法」
ただよそから持って来ただけだ、として育種法として取り上げてない文献もある。南北アメリカからヨーロッパに導入され、それが日本にまで伝えられた作物は多い。白菜のようにまるで日本に古くからあるように馴染んでしまった野菜も多い。アブラナ科の野菜には、露地栽培しているとミツバチなどによって他のアブラナ科の植物と自然交配され、代が進むごとに野生種に近くなり、野菜としての商品価値がなくなるものが多い。
「一代雑種育種法」
F1ハイブリッドという言葉によって全く新しい、アメリカから導入されたハイテクのように思う人もいるかも知れない。しかしメンデルの法則の第1実用化者は日本人、外山亀太郎博士が1915(大正4)年に蚕のハイブリッド品種を実用化し、 そのとき育成された「日1号X支4号」は好評で、以後20年間、全国各地で広く市域された。 野菜の一代雑種は埼玉県農試の柿崎洋一が大正13年に、埼交茄と玉交茄の2品種を育成し、その種子を農家に配布した。これが日本で最初で世界で最初の野菜の一代雑種だった。
 私たちが日頃食べている野菜はアブラナ科の野菜――だいこん、ラディッシュ、かぶ、クレソン、はくさい、キャベツ、芽キャベツ、ケール、こまつな、きょうな、カリフラワー、ブロッコリー ――を始め、そのほとんどがハイブリッドになっている。もしも農家が種子会社に頼らず、消費者に喜ばれる野菜の種を取ろうとしたら、とてつもなく大変な作業で、このためには種子会社と生産農家との分業しか方法がない。「種子会社に支配されるのは良くないので、F1をやめて、在来種などの種子を農家が採るべきだ」などと農家にとって無茶な要求をしないこと。
「細胞育種法」
葯を培養する方法と細胞を培養する方法がある。花よりも野菜に多く利用されている。組織培養技術利用、半数体育種法、胚培養、花粉培養、細胞融合、バイオテクノロジーなどの言葉が関係している。
「遺伝子組み換え育種法」
他の品種からとった遺伝子のDNAを染色体に導入し、その遺伝子を働かせ、品種改良を行う方法。@アグロバクテリウム感染法、Aパーティクルガン法(遺伝子銃法)、Bエレクトロボーレーション法(電気穿孔法)、などの手法がある。
<「ポマト」止まりのバイオテクノロジー> 自然界にある品種を組み合わせて新しい品種を生み出そうとしてきた、そうした試みをして行く内に積極的に突然変異を利用しようと、放射線の平和利用の一環として、ガンマー線の照射や突然変異誘起物質による「突然変異育種法」が行われるようになった。 1964年に誕生した放射線育種場(茨城県大宮町)がその中心になった。ここでは20世紀ナシの黒斑病抵抗性の突然変異品種「ゴールド20世紀」、低アミロースイネ「はやぶさ」や「ミルキークィーン」などが生まれた。人為的な変異誘起は不利な方向への発生も多いため、方向性を明確にできる品種改良方法が求められていた。 そこに登場したのが植物の細胞操作を主体としたバイオテクノロジーであった。ここでは細胞育種法をオールドバイオとニューバイオとに分けて考えてみる。
オールドバイオテクノロジー
動物の細胞は細胞壁を持たない。それに比べ植物は細胞壁があるため扱い難いとされていた。しかし、植物の無菌操作が可能になり、作物の改良に用いられるようになった。
 植物のバイオテクノロジーの第1歩は、トマトの野生種の持つ、病気に強い性質を栽培種に導入しようとした胚培養(1944年、アメリカ)だった。その後、ダリアの成長点培養によるウイルス病の除去技術(1952年、フランス)、ラン(シンビジウム)の大量増殖技術(メリクロン)(960年、フランス)が誕生して、植物の細胞培養技術が大いに注目を集めた。
 1940〜50年代に始まった植物培養技術は、今ではオールドバイオテクノロジーと呼ばれ、ニューバイオテクノロジー(細胞融合や遺伝子組み換え)と区別されている。 この技術は1980年代に入ってから実用的な成果をあげた。現在ジャガイモの95%はウイルスフリー苗で、イチゴも75%がそうなっている。サツマイモやニンニク、山芋などにもウイルスフリー苗の利用が広がっている。橙色のかわいいミニカボチャ「プッチーニ」はペポカボチャと日本カボチャの胚培養によって誕生したものだ。
ニューバイオテクノロジー
品種改良は胚培養によっていくつかの成果をあげた技術をさらに発展させていった。細胞壁を除去した裸の細胞(プロトプラスト)を融合処理すると、植物の種類が違っても細胞は融合する。その融合細胞は分裂をし、うまくいけば、融合細胞起源の新しい植物が誕生する。 こうして1978年にドイツの研究者G・F・メルヒャース等によって「ポマト」が生まれた。これはナス科ナス属のジャガイモとナス科トマト属のトマトを細胞融合によって両方の性質を持つ植物で、地上にはトマトが実り、地下にはジャガイモができた。トマトの実にジャガイモの芽の毒素が溜まることがわかり、食用にはできなかった。 また次世代の種子の獲得は困難だった。植物体はジャガイモやトマトに接ぎ木することによってかろうじて維持されている状況だった。、双方の葉肉細胞を酵素処理して裸の細胞(プロトプラスト)化し、細胞融合剤・ポリエチレングリコール(PEG)で融合させるものだった。
 ポマトの誕生によって細胞融合技術は世界中から注目された。このため世界中でこの研究に取り組んだ結果、細胞同士の融合は幅広い植物種間で可能だが、その後の細胞の分裂と、雑種植物の再生は、遠縁植物の間ではなかなかうまくいかないことがわかってきた。さらに、再生植物体を得ても、次世代の種子の獲得は困難であった。 ポマトにしても結局種子は得られず、ジャガイモやトマトに接ぎ木することによってかろうじて維持されている状態だった。20年に及ぶ膨大な実験の結果、細胞融合技術は、縁の遠い組合せの関係を克服する技術には成り得ないことがはっきりした。両者の縁が遠ければ遠いほど、今まで存在しなかった新しい生物が誕生すると期待されたが、そのような「自然の摂理」に反した植物は誕生し得ないことがはっきりした。そしてそのことによって、品種改良の限界もはっきりしてきた。 品種改良で、できること、できないことがはっきりしてきたのだった。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<バイオテクノロジーによる稲品種改良> コシヒカリをはじめ、イネの品種改良は交雑育種法を中心に進められてきた。その交雑育種法にバイオテクノロジーが応用されるようになった。ここではバイオテクノロジーによるイネの品種改良について調べてみた。
葯培養
葯(やく)とは、おしべの先についている花粉の詰まった袋のことで、花粉から直ちに固定した系統を作り出す育種法。「半数体育種法」とも呼ばれている。 日本では道県の農業試験場を中心に葯培養が行われ、1995(平成7)年の資料では6品種が奨励品種として作付けされている。葯培養で普及に移された第1号は上育394号(1988,昭和63年)であった。しかしその後の育成品種も作付け面積は伸びていない。
 葯培養によって育成された水稲の奨励品種
   1995(平成7)現在
品種名育成年育成機関1994(平成6)年作付面積(ha)
上育394号1988(昭和63)北海道上川農試37
吉備の華1989(平成元)岡山県農試2784
ひろひかり1990(平成2)広島県農試536
白雪姫1990(平成2)岐阜県農試185
越の華1991(平成3)富山県農試1660
彩(あや)1992(平成4)北海道上川農試92
  (「続 図説・米の品種」から)
 上にあげた「ひろひかり」、1999年の作付面積は14haまでに減少している。吉備の華は1999年は3,200haで岡山県の稲作面積のわずか7.7%でしかない。品種改良の実績はあがっていない。
組織培養 (1)培養異変
寒天培地上で稲組織を培養するために2,4-D、NAAなどの植物ホルモンを添加する。すると細胞は盛んに分裂してカルスとよばれる白色で不定形の組織をつくる。 これを細かく切って、2,4-D、NAAを添加しない培地に置床し明所で培養すると発芽、発根して植物体が復元する。しかし、復元した個体には原品種とは異なる形質が生じることがある。これを培養異変(ソマクローナルミュテーション)とよぶ。 これを育種に応用するのが組織培養育種法。幾つか種苗登録されているが、普及に移された品種はない。培養異変は交配と採取が容易な稲よりも、栄養繁殖性の強い作物に適した育種法であると言われている。
(2)増殖
栄養繁殖性の作物では増殖にコストがかかる。そのため、組織培養による増殖は定法として実用化されている。成長点を培養し植物に再生させると、ウィルスに汚染した植物からウイルスをもたない(ウイルスフリー)種苗を生産できる。イチゴのウイルスフリー化は1974年に成功し、収穫量の向上に貢献している。
(3)胚培養
遺伝的に遠縁になると交配が困難にばる。種は交雑が可能な個体の集団と捉えることができる。育種を進める上で、種内に目的とする遺伝子がない場合には近縁種源を求めることになる。しかし、あまり遠縁だと種子が結実しない。胚培養はこのような時、交配後の胚珠を培養して雑種植物を直接獲得する方法と言われている。
 胚培養を応用した品種改良としては1957年にハクサイとキャベツとの雑種「ハクラン」(品種名「シャイングリーン」)が生まれている。1967年には試験官内受精により種間、属間雑種が試みられている。種間、属間雑種の多くは不稔を伴うので、穀物での直接利用はできないが、野菜や花など子実を目的とせず、栄養体での増殖が容易な場合には有力な育種法と考えられている。
(4)細胞融合
生殖核は融合して雑種を作る。植物細胞は硬い細胞壁をもつので不可能であったが、1968(昭和43)年にタバコの葉肉細胞の細胞壁を酵素で溶かし、原形質膜で囲まれたプロトプラストを作り、これをポリエチレングリコール、電気刺激などで融合させる方法が開発された。タバコの種間雑種が細胞融合で作られた最初の雑種(1972、昭和47年)であるが、 一般にはポマト(ポテトXトマト、1972年)やオレタチ(オレンジXカラタチ、1978年)の方が知られている。稲ではヒエや近縁属のアシカキ属との細胞雑種が試みられているが、品種改良としての成果は上がっていない。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<バイオテクノロジーを利用した植物の品種改良の例>  農林水産技術会議のホームページから引用しよう。
技 術 作物名 系統名又は品種名 登録年月 育成者(機関)
組織培養 イチゴ
イチゴ
サトイモ
すいか
トマト
ひまつり
スマイルハート
福頭
天鈴
華ロマン
1995. 8
1998. 7
1992. 7
1992. 9
1998. 3
東海大学
(株)四国総合研究所
佐賀県
タキイ種苗(株)
日華化学(株)
胚培養 小麦
カボチャ
かんきつ
なたね
ユリ
トレニア
もち乙女
プッチィーニ
おおいた早生
はなっこりー
アフロ
サンレニディブ
2000.10
1998. 3
1996. 8
1999. 8
2001. 2
2000. 7
東北農業試験場
(株)サカタのタネ
大分県
山口県
岡山県
サントリー(株)
葯培養 イチゴ
イネ
イネ
イネ
ブロッコリー
アンテール
さわかおり
来夢36
まなむすめ
スティックセニョール
1994.12
1999. 9
2000. 2
2000.12
1994. 3
茨城県
高知県
富山県
宮城県
(株)サカタのタネ
プロトプラスト培養 イネ
イネ
ジャガイモ
ジャガイモ
 
はつあかね
夢ごこち
ジャガキッズパープル90
ホワイトバロン
 
1990.12
1995. 9
1994. 8
1997.12
 
三井東圧化学(株)
三菱化学(株)
三菱商事(株)
麒麟麦酒(株)
ホクレン農業協同組合連合会
細胞融合 カンキツ
カンキツ
ナス
ヒラタケ
オレンジカラタチ中間母本農1号
カンキツ中間母本1,2,3,4号
ナクロス
農林総研P01号
1996. 1
1997. 7
1997.12
1993. 3
果樹試験場、キッコーマン(株)
果樹試験場、キッコーマン(株)
奈良県
森林総合研究所
遺伝子組換え カーネーション
カーネーション
(ムーンダスト)ヴィオ11
ヴィオリン
2000. 6
2000. 6
サントリー(株)
サントリー(株)
 農林水産省生産局種苗課調べ
(^o^)               (^o^)               (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
花の品種改良入門 初歩からバイテクまで   西尾剛・岡崎桂一          誠文堂新光社    2001. 6.15
図説・米の品種               大里節・丸山清明          日本穀物検定協会  1995. 6.30
イネの育種学                蓬原雄三              東京大学出版会   1990. 6.20
日本の野菜 青葉高著作選T         青葉高               八坂書房      2000. 6.30
日本の野菜 産地から食卓へ         大久保増太郎            中公新書      1995. 8.25
( 2003年12月8日 TANAKA1942b )
▲top

(17)自家不和合性と雑種強勢
農業経営組織・制度の品種改良は可能か?

<近親結婚はしないよ> 「直系血族又は親等内の傍系血族の間では、婚姻をすることができない」という定めがある。これは、民法第743条の「近親婚の制限」である。私たちは法律で、近親間の結婚を禁じられているのだ。その理由は、「同じ性質を持つ近縁なもの同士の有性生殖は、性質の組み換えが起こりにくく、生物には利益がない。利益が無いばかりでなく、隠されていた悪い性質が発現する可能性があり、生物種にとっては、むしろ害である場合が多い」からである。
 多くの植物の花の中には、オシベとメシベがある。オシベとメシベはそれぞれ、オスとメスの生殖器官である。だから、自分の花粉を自分のメシベにつけて、一人で生殖することができる。しかし、植物が自分の花粉を自分のメシベにつけ、一人で生殖することは、近親結婚の典型である。 この場合、個体数は増えるが、親のもつ性質の分身が生じるに過ぎない。「暑さに弱い」「寒さに弱い」「病気になりやすい」などの遺伝的な性質がまったく変化することなく、親から子へ伝わるだけである。生物にとって、これは好ましくない。 生物が子孫をつくる意義は、個体数を増やすことだけではない。オスとメスという2つの個体の性質を混ぜ合わせ、多様な性質の子孫をつくり出すことである。同じ性質のものばかりでは、それらに都合の悪い環境変化が起きた場合、その生物種は全滅してしまう。
 いろいろな性質の個体がいれば、いろいろな環境に耐えて、その中のどれかが生き残る可能性がある。つまり、多様な性質の個体が存在すれば、その生物種の環境への適応能力が幅広くなる。その種族が生き残るのに役立ち、地球上に存続していくことができる。 子孫が多様な性質を獲得する方法が、性の分化に基づく生殖(有性生殖)である。有性生殖では、オスの精子とメスの卵が合体する。その結果、オスとメスの遺伝的な性質が混ぜ合わされる。親の性質が混ぜ合わされ、組み合わせが変えられ、生まれる個体は、それぞれの親とは異なった性質を身につける。 植物にもオスとメスに分かれているものがある。メシベのない雄花だけを咲かせる雄株、オシベのない雌花だけを咲かせる雌株が別々の植物がいる。イチョウ、サンショウ、キーウイ、アスパラガスやホウレンソウなどである。これらは、動物と同じように、オスとメスの区別があることになる。この場合、自分の花粉が自分のメシベにつくことはない。 しかし、多くの植物は、一つの花の中にオシベ、メシベをもっている。このような植物たちも、自分の花粉を自分のメシベにつけて、種子を残すことを望んではあない。だから、植物たちは、工夫を凝らし巧妙はしくみを身につけて、自分の花粉が自分のメシベについて子孫(種子)ができることを避けている。
 花を見れば、オシベとメシベは離れている。「もっと仲良く、くっついていればいいのに」と思うが、1つの花の中で、オシベはメシベを避けるように、そっぽを向いている。そっぽを向くだけでなく、高さ、長さを変えているものも多い。オシベがメシベより長かったり、逆に、メシベがオシベより長かったりする。花を1つの家族とすれば、夫婦が接触することを避けあっている「家庭内別居」の状態といえる。 もっと、巧妙なしくみを身につけた植物もいり。1つの花の中にあるオシベとメシベの熟す時期をずらすのだ。たとえば、モクレンやオオバコのメシベは、オシベより先に熟し、オシベが花粉を出すころには萎えてしまう。逆に、キキョウ、ユキノシタやホウセンカのオシベはメシベより先に熟して花粉を放出する。メシベが熟すときには、まわりのオシベに花粉はない。だから、同じ花の中で、種子はできない。その性質は、「雌雄異熟(しゆういじゅく)」というむつかしい語で呼ぶが、私たち人間でいえば、「すれ違い夫婦」の様な状態である。 
(「ふしぎの植物学」から)
 このシリーズのテーマは品種改良。これは日本人が得意とする分野だ。江戸時代には庶民も花の品種改良を楽しんでいた。その方法の1つの「選抜育種法」、このポイントはダメなものは捨てていく、子孫を残さない、自然界の自然淘汰を行うことだ。産業で言えば、「生産性の悪いものは撤退していく」となる。農業が不向きならば他の産業に転職しやすい環境を作ることが必要になる。農業が世襲制である必要はない。転職の資金を農地を売った代金で賄えるならそれもいいのだが、現在は農地の売却はし難い制度になっている。資金の十分ある株式会社は買い手として名乗りをあげられない。
 農業が世襲制であるために、自然界の植物とは違って、自家授粉する傾向にある。交雑育種法は有性生殖を積極的に行うことだ。ここに引用した<近親結婚はしないよ>は、「交配」とか「一代雑種」の基本的な考え方を理解するために引用した。日本の農業が発展して行く過程で品種改良は大きな役割を果たしている。その基本的なことは<近親結婚はしないよ>ということだ。そうでありながら日本の農業経営組織・制度は実質的な近親結婚をしている。外部者の意見に耳を傾けず、外部の資本導入を嫌い、外部の経営組織体の参入を拒む。日本人は農産物の品種改良の多くの分野で立派な貢献をしてきた。 これからはこの経験を生かして、農業経営でも多くのオシベとメシベとの交配で今までの親とは違った性質の後継者を育てて行く必要がある。このシリーズで扱っている「品種改良」は農産物だけではなくて「農業経営組織・制度」にこそ必要なことだと思い、ここに取り上げてみた。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<自家不和合性 self-incompatibility> 雌雄同花で正常な機能をもつ雌雄両配偶子が同時に形成されるにもかかわらず、受粉が行われても花粉の不発芽、花粉管の花柱への進入不能、花粉管の伸長速度低下または停止などにより、自家受粉が妨げられる現象。この現象は高等植物に広く見いだされ、明らかに他殖性 allogamy を維持、促進する繁殖様式の一つと考えられている。(以下略) (平凡社「大百科事典」から)
アブラナ科の植物には、自家不和合性と呼ばれる性質をもつものがあります。これは、受粉したときに雌しべと花粉のあいだで自己と非自己の認識反応がおきて、自分でない(=非自己の)花粉で受精して種子をつくります。いろいろな植物がこの自家不和合性の性質をもっており、アブラナ科植物や野生のタバコ、野生のペチュニアなどを使って最近に研究が展開されています。(「花粉からのたより」から)
他家受粉では種子が出来るが、自家受粉では種子が出来ない特性。自家不和合性を示す植物は多く、近交弱勢による子孫の生存力低下を防いでいる。(「花の品種改良入門」から)
自家不和合性をもつ植物では、それを利用してF1採種ができる。自家不和合性とは自己と非自己の花粉を識別し、非自己の花粉で受精する性質である。自家不和合性といってもその性質が強いものや弱いもの、条件によって変動する系統もあるので、その性質を充分に吟味しながら使わなければならない。アブラナ科の野菜では、自家不和合性を利用したF1採種がわが国で実用化された。 雌雄異株のものではF1採種が簡単なように考えられるが必ずしもそうではない。植物では、両性花が同一個体に混じることがよくあるから、完全な雌系統を育種必要がある。ホウレンソウでは、雌性系統に雄花をつける条件を見出して自家受精させ、完全雌性系統を育成し、それを母胎として用いることによって成功した。(「植物の育種学」から)
19世紀、アメリカで、セイヨウナシのある品種が2万3000本も植えられた大果樹園がつくられた。ところが、花は咲いたが、不思議なことに、ほとんど実がならなかった。調べてみると、果樹園の一部分にだけ、実がなっているところがあった。そこには、別の品種のセイヨウナシが1本だけ誤って植えられていた。そこで、「同じ品種の花粉では実がならず、別の品種の花粉がつくと実がなるのではないか」と考えられた。 さっそく、別の品種の花粉をメシベにつける試みがなされた。すると、果実が実った。
 この現象は、「自分の花粉が自分のメシベについても、受精が成立せず、種子ができない」という性質を示している。この性質を「自家不和合性」と呼ぶ。自分の花粉を自分のメシベにつけて種子をつくることを避ける工夫である。セイヨウナシだけでなく、多くの果樹や、アブラナ科、キク科、ナス科やマメ科などの植物も、この性質を持っている。 この性質を持つ植物では、メシベに自分の花粉が付着しても、受精が成立しない。しかし、同じ仲間の他の植物体の花粉がついた場合には、受精が成立し、種子ができる。植物たちは、自分の花粉と他の花粉を識別する能力があるのだ。
(「ふしぎの植物学」から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<雑種強勢 hybrid vigor> ヘテローシス heterosis ともいう。生物の種間または品種間の交雑を行うと、その一代雑種はしばしば両親のいずれよりも体質が強健で発育がよいという現象がみられる。これを雑種強勢といい、農作物、家畜の品種改良にしばしば利用される。最初トウモロコシで発見され、ついで動物でもモルモットで認められた。
 一方、異なった個体間の受精のよって繁殖することを常態とする他殖性作物(トウモロコシなど)を、強制的に自殖(同一個体内で受精させる)させたり、近親間の交配を繰り返したりすると、子孫(後代)の生育がしだいに劣ってくる例が多い。これを自殖劣勢といい、雑種強勢と逆の関係になる。また、特定の遺伝子的な効果によって雑種第1代の生育がまれに弱勢化することがある。こらは雑種弱勢 hybrid weakness といわれる。
(平凡社「大百科事典」から)
雑種が純系よりも生育が旺盛なこと。両親の組合せによって雑種強勢が強く現れる場合と、そうでない場合があり、種内では一般に、特性が大きく異なる両親間で雑種強勢が顕著である。(「花の品種改良入門」から)
多くの作物の種子は自家受粉によってつくられ、純系と呼ばれる。これに対して父親と母親が別の個体から由来したものは雑種(ハイブリッド)と呼ばれる。かつては農産物を均一にするという観点から純系をつくることが中心に行われてきた。一方、雑種のなかには両親よりはるかに優れた性能を示すものがしばすば見られる。このような現象は昔から雑種強勢と呼ばれている。特にこの現象はトウモロコシで顕著に見られ、純系に比べ背が高く収量がはるかに多くなる。 現在世界で取引されているトウモロコシの種子の大半が雑種である。ダイコン、キャベツ、ブロッコリー、ニンジン、トマトなどその他の多くの作物でも雑種強勢を利用した種子が利用されており、この雑種強勢の性質は両親の関係が遠いほど出やすいという傾向がある。
 イネでは従来この雑種強勢の性質は利用されていなかった。その最も大きな理由は、現在利用されているイネは確実に種をとるために、野生種のもっている他家受粉受粉する性質を捨て自家受粉する性質を強くもっているため、雑種を作りにくいことにある。そして、それゆえ雑種強勢の性質があることは一部で知られていたが、あまり注目されなかった。
(「夢の植物を育てる」から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<カブXハクサイ=???> ポテトXトマト=ポマト、オレンジXカラタチ=オレタチ。では同じアブラナ科のハクサイとカブの雑種をつくったらどうなるだろうか?そんな文章があったので引用しよう。
 「ハクサイとカブは簡単に雑種をつくるのか。そしたら、ハクサイとカブの雑種をつくれば、地上部がハクサイになって、地下部がカブになり、一石二鳥ではないか?」と言われるかもしれません。実際に雑種をつくってみると、残念ながら、地上部はカブで地下部がハクサイになってしまいます。葉を巻く性質も、根が太る性質も、劣性の遺伝子が集積してできたもののようで、雑種にするとその性質はすぐには現れてこないようです。
 雑種をつくった、その後代から上手に選べば、葉が巻いて根が太るものもできるかもしれません。しかし、葉の巻く性質に関係する遺伝子群と根が太る遺伝子群の両者を動じに選び、そして同時に品質がよく、それぞれを堪能できるものに仕上げるには、相当の努力と資金が必要でしょう。しかも、葉も根もそれをつくる物質は太陽エネルギーと土中の無機物質が元ですので、葉の大きさも根の収量も半減することになります。こんなことをするよりは、葉が巻いて美味しいものと、 根が太って美味しいものを別々につくって、口の中や胃袋のなかで混ぜた方が利口だという判断があったのかもしれません。
(「菜の花からのたより」から)
(^o^)               (^o^)               (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
ふしぎの植物学 身近な緑の知恵と仕事      田中修             中公新書      2003. 7.25
大百科事典                                   平凡社       1984.11. 2
菜の花からのたより 農業と品種改良と分子生物学 日向康吉            裳華房       1998.11.25  
花の品種改良入門 初歩からバイテクまで     西尾剛・岡崎桂一        誠文堂新光社    2001. 6.15
植物の育種学                  日向康吉            朝倉書店      1997. 3. 1  
夢の植物を育てる                鎌田博・堀秀隆         日本経済評論社   1995. 7. 1
( 2003年12月15日 TANAKA1942b )
▲top

(18)日本人が切り開いたハイブリッド技術
外山亀太郎の蚕・柿崎洋一のナス

<蚕で世界初のハイブリッド種を育成> 一代雑種はメンデルの法則によっているので、メンデル以前には行われていない。一般的には1940(昭和15)年ころ、アメリカでのトウモロコシのハイブリッド種が文献ではよく登場する。しかしその10年以上前に日本で実用化されていた。 ただし野菜など農作物ではなく、蚕であった。こうしたことを平凡社「大百科事典」から引用しよう。
 農業に一代雑種を利用するときときは大量の交配種子が必要であるが、自殖性作物では大量に他殖させる工夫が難しい。そこで、他殖性でしかも大量の交配種子のとれる動植物について、この方法がよく利用されてきた。 日本ではカイコ(家蚕)について外山亀太郎が1906年に一代雑種の有利性を提唱、31年には実際の飼育の99.9%が一代雑種となった。作物でもトウモロコシの研究がアメリカで発達した。現在は多くの野菜類で一代雑種が用いられている。交配するときにはそれぞれの野菜の植物学的特性をうまく利用している。 たとえばハクサイ、キャベツ、ダイコンは自家不和合性、キュウリ、すいか、カボチャ、メロンは雌雄異花、タマネギ、ニンジンは雄性不稔を利用している。コムギ、オオムギなどの自殖性作物でも雄性不稔をうまく利用して一代雑種の実用化が図られている。 (平凡社「大百科事典」から)
 遺伝子組み換え食品に関係する話題を追っていくと、政府の後押しを受けてアメリカ企業が攻撃側に立って、日本とヨーロッパ諸国は受け身になっているかのように見える。アメリカではベンチャー企業が開発した技術を大手企業が買い取り、その技術特許を武器に攻めてくる。 その攻め手は大手化学品メーカーだったり種子メーカーだったりする。こうした情勢なので、「F1ハイブリッドや遺伝子組み換え植物で、アメリカ企業が種子を独占する」との非難の声があがる。そうしてあたかも品種改良の先端技術はアメリカ企業が世界制覇を目論んで、開発を進めた結果だ」となる。 この考えには、「品種改良の先端技術はアメリカ企業に握られていて、アメリカ政府はそれを守り、企業が独占利益を上げられるように自由貿易を主張する」との自虐的・敗北的技術観がチラチラ見えるようだ。こうした見方にはいくつか反論したい点があるのだが、ここでは「品種改良の技術、日本はその先端を行っている。自虐的になるのは事実を見ない、視野狭窄なためだ」と主張し、その一例としてF1ハイブリッド=一代雑種など品種改良の先駆者を取り上げた。
外山亀太郎 1915(大正4)年の帝国学士院賞はアメリカで活躍中であった野口英世博士と蚕の品種改良に貢献した外山亀太郎博士に贈られた。絹は戦前、日本の主要な輸出産業であった。それには外山博士の蚕の一代雑種による品種改良の貢献を忘れてはならない。
 1902(明治35)年当時、東京帝国大学助教授であった外山はシャム(タイ)国に出張した。ちょうど、その2年前の1900(明治33)年に、メンデル遺伝法則が再発見されて、世界中の関心が寄せられていた時期である。早速、外山はシャムで実験を行い、この法則が蚕でも当てはまることを明らかにした。帰国後の1906(明治39)年に「家蚕の雑種について、特にメンデル遺伝法則を論ず」と題し、東京帝国大学の学術報告に発表する。 メンデル法則が再発見されて6年目、この法則が動物でも適用されることを世界で初めて立証した歴史的な報告である。彼の名前は世界中に知れわたった。
 もっとも彼の最高の業績はメンデルの法則の追認ではない。この時に白まゆ種と黄まゆ種を交配し、一代雑種が両親より多収になることを認め、これを蚕種製造に応用することを提唱したことである。1911(明治44)には原蚕種製造所(現・蚕糸・昆虫農業技術研究所)が新設されるが、外山は招かれて品種改良の指導に当たる。ここからハイブリッド品種の育成が始まった。
 原蚕種製造所は1914(大正3)に蚕業試験所と改称されるが、この年にハイブリッド品種は普及に移された。外山の仕事ぶりをみた、加賀山辰四郎場長の英断によるものである。ハイブリッド品種はその後急速に普及が進み、昭和のはじめには国内の全蚕種がハイブリッド品種に置き換えられていった。とくに1915(大正4)年に育成された「日1号X支4号」は好評で、以後20年間、全国各地で広く飼育された。 
 農業におけるハイブリッド品種の利用は1940(昭和15)年頃、アメリカで飼育されたトウモロコシのハイブリッド品種が世界で最初であるとよく言われる。その10数年前に、日本では外山がハイブリッド品種を実用化していたえわけだ。外山の功績はもっと高く賞賛されてもよいだろう。
 神奈川県厚木市上古沢、小田急線厚着駅から北へバスで30分あまり、そろそろ丹沢の山にかかろうという辺りが、外山の故郷である。外山家はかつては甲斐武田に仕えたという土地の旧家。小高い丘に鎮座する氏神の諏訪神社を背に、後代な門構えの生家があったという。今では杉が植林され、往時を忍ぶ縁もない。「正五位農学博士外山亀太郎」と記した背の高い墓だけが、杉木立に囲まれて立っていた。
(「農業技術を創った人たち」から)
「絹の文化誌」から 1866年に発表されたメンデルの法則は、当時の遺伝学者には受け入れられなかった。ドフリース、コレンス、チェルマックの3人が、メンデルの実験結果の正しかったことを明らかにしたのが、1900年である。これをメンデルの法則の再発見というが、その6年後1906(明治39)年に、蚕の一代雑種(F1ハイブリッド)の利用が提唱された。 国立原蚕種製造所の外山亀太郎が、日本在来の品種(日本種)と中国大陸に在来する品種(中国種)とを掛け合わせて得られた一代雑種の蚕がそれぞれの親よりも常に強健で、しかも絹の生産量も多いことを見いだし、提唱したのである。
 外山は1902(明治35)年2月から約3年間、シャム国(現在のタイ)に政府顧問として滞在して、蚕糸技術の指導にあたった。彼は、帰国してわずか1年後に一代雑種の利用を提唱したことになるが、実は、このシャム国滞在中に、日本種とシャム種の一代雑種を作り、それがシャム種の2倍の絹を生産するという結果を得ていたようである。シャム国滞在中に、既に一代雑種のすばらしさを確認していたに違いないと思われるのである。
 この蚕の一代雑種の提唱は、メンデルの法則を、生産を目的とした動植物に応用した最初の事例である。アメリカで、トウモロコシやブロイラーの一代雑種が利用されるようになったのは、さらに後のことである。稲で一代雑種を利用したハイブリッド米が話題になったのは、ごく最近のことである。
 一代雑種は、蚕の強健性や絹の量(繭層量)などが原種(親)に比べ優れている。両親の平均よりも優れた形質の発現を示すことを雑種強勢というが、この雑種強勢は、それぞれの原種を交配した1代目(1代交雑種)に最も強く現れ、強健性や絹の量をはじめ多くの形質が、両親のいずれよりも優れていることもしばしばある。一代雑種の蚕が優れているのは、このためである。しかし、この雑種強勢は、2代目、3代目と代を重ねていくと次第に弱化を起こす。 つまり雑種強勢の効力は、1代限りで、いつまでも維持することはできない。一代雑種を利用するには、常に両親原種を維持しておき、それらを交配して毎回雑種を作らなければならないのである。蚕種は、この一代雑種法の導入によって着実に改良され続けてきた。主にこの蚕種改良により、生糸の生産効率は大きく向上し、生糸1俵(60Kg)の生産に要する蚕種量は、明治30年代には92.3箱(184万6千粒)であったが、昭和50年代には9.5箱(19万粒)に減少した。つまり、その生産効率は10倍近くに向上したのである。
 しかし、外山が一代雑種を提唱した明治39年ごろは、まだ交配すべき適当な蚕種もなく、一代雑種の実用化がすぐに進んだわけではない。小学校教師の長谷川五作は、大正2年郷里の埴科郡杭瀬下(くいせげ)村(現・更埴市)で蚕種家を集めて、自身のトウモロコシの遺伝実験例を示して、遺伝学が蚕種家にとって有望なことを説いたが、同席の蚕種家は賛成しなかった。それどころか、必ず遺伝学を必要とする時代がくると断言した長谷川に対し、蚕種家の中には、反感をもつ者さえいたという。 一代雑種の実用化を懸念し、ちゅうちょしていた蚕種家が多かった大正3年に、松本商工会議所会頭をしていた片倉の今井五介は、国立原蚕種製造所で一代雑種の普及を望んでいることを知ると、南安曇、東筑摩の有力蚕種製造家たちと共に、直ちに「大日本一代交配蚕種普及団」を結成し、これを普及奨励しようとした。今井の熱心な態度は注目の的となり、まもなく交雑種万能時代を生み出した。大正8年には全国の蚕種製造高の80%が一代雑種となった。
(「絹の文化誌」から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<柿崎洋一のナスが野菜一代雑種の世界初> 近年果実をとる野菜(果菜類)では一代雑種でない、いわゆる固定種はほとんど見られない。一代雑種のさきがけはナスであって、埼玉県農事試験場の柿崎洋一氏が1924(大正13)年に埼交茄(巾着X真黒)と玉交茄(白茄X真黒)の2品種を育成し、その種子を農家に配布した(埼交、玉交茄は最初は試験場のあった地名に因んで浦和交配1号、同2号と呼ばれた)。 これは日本で、というよりは世界で初めての野菜の一代雑種で、この品種は草勢が強くて栽培しやすかった。そして柿崎氏は当時、埼玉県の農家の人たちから「ナス博士」と呼ばれた。
 これが契機となって、その後多くの府県でナスの一代雑種が育成され、またスイカやトマトなど多くの果菜類でも一代雑種時代を迎えた。一代雑種はたいていの場合草勢が強く、品種として優れているばかりでなく、採種業者としては親品種を確保しておけば毎年同様な種子を販売できる利点があり、この点からも一代雑種が多くなったと思われる。
(「日本の野菜」青葉高著作選 T から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<「緑の革命」に貢献した日本の「農林10号」> ムギはイネ、トウモロコシ、ジャガイモとともに4大作物の一つであり、世界の多くの国々で栽培されている。数十年前には、日本でも、多くの人々がムギを食べていた。いや、お金持ちに人は食べなかったかも知れない。「貧乏人は、ムギを食え」という、当時の首相の放言が話題になったこともあるのだから。 現在のわが国では、ムギは穀物として忘れかけられている。「緑の革命」とは、1960年代に、イネ、コムギなどの多収穫品種が開発され、インドやパキスタンなどの発展途上国の飢餓を救ったものである。コムギの生産量の飛躍的な増加をもたらす品種を育成した、アメリカのノーマン・ボーローグは、1970年のノーベル平和賞を受賞した。 その収量の増加を陰で支えたのは、日本生まれのムギ、「農林10号」である。この品種は、穂が多く大きい上に質が良いという性質に加えて、背が低く頑丈であった。「背が低く頑丈である」ということは、作物の収量を伸ばすために大切な性質である。たくさんの実をつけても倒れないために、この性質が役立つと考えればよいだろう。
 戦後、日本にきた種子の専門家、アメリカのサーモンが、「農林10号」に目をつけた。背丈はアメリカ小麦の半分近くしかないのに、頑丈で、穂が大きく、多くの実ができる特性に驚いた。そこで、1945年、この種子をアメリカに持ち帰った。以後、「農林10号」は「ノーリン・テン」と呼ばれる。 ノーリン・テンの特性は、アメリカからメキシコへわたる。メキシコ在来の小麦は、背丈が2メートル近くもある。ノーリン・テンの背丈はその半分以下である。ボーローグは、ノーリン・テンの特性をメキシコ在来の小麦に導入した。その結果、ノーリン・テンと背丈が変わらない頑丈で収量の多いメキシコ小麦が次々と生まれた。 この中に、収量を飛躍的に高めて「奇跡の小麦」と言われた「ソノラ」もあった。「奇跡の小麦」の中に、日本生まれの「ノーリン・テン」の性質が生きているのだ。
 「農林10号」が日本で栽培されていたころ、ムギは、イネの裏作として、秋に種子を蒔き、春に収穫された。そのころ、「ムギ踏み」という言葉があった。私たちの生活の中から、ムギが忘れられ、この言葉は死語になりつつある。
(「ふしぎの植物学」から)
<稲塚権次郎の農林10号>
 それでは、この「緑の革命」のきっかけとなった半矮性の遺伝子はどこからきたのだろう。終戦後日本に進駐した連合国軍の総司令部(GHQ)にはアメリカ合衆国農務省天然資源局の小麦専門家(S・C・サーモン)も加わっており、彼は当時京都大学の木原均の案内で、小麦24種をはじめとする作物遺伝資源をアメリカに持ち帰った。この中に「農林10号」という、草丈が低く、穂が大きい系統が含まれていた。 これは日本の育種家稲塚権次郎が、草丈低くずんぐりした草型の日本在来種「達磨」交雑後代から選抜したものである。この農林10号に注目し、積極的に育種に利用したのがワシントン農業試験所のO・ボーゲルで、彼は多くの育種材料を作り出すとともに、画期的多収性品種「ゲインズ」も育成した。このボーゲルの育種素材がボーログに受け継がれ、さらに亜熱帯品種の多様性を加えてCIMMYTのネットワークで世界各地に提供され、 現地での選抜で各環境に対する適応性を獲得して、それぞれの国の多収性品種となった。日本の小麦は、気候条件や作付け体系、それに価格の点で外国産小麦に太刀打ちできず、農林10号も国の経済に直接貢献することもなかったが、日本の育種家が見つけ出し、育種素材にまで育てた農林10号の半矮性遺伝子が、多くの人の手と国際協力を経て、世界的貢献を果たしたわけである。(「自殺する種子」から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<ブロッコリー種子のシェア80%> 自家不和合性を利用してハイブリッド品種を育成するには、たくさんの技術的な問題を解決しなければなりませんでした。ひとつは、純系に近い両親の系統をどうやってつくるかということです。純系の種子をつくるには自家受粉しなければならず、ここで自家不和合性がかえって邪魔になります。この問題は、蕾の雌しべには自家不和合性がないという性質を使うことによって解決されました。 ただし、この蕾受粉の方法は大変な労力を伴いなす。 また、両親の系統を同時に開花させなければならない、より強い自家不和合性の系統を選ぶ必要がある、さらに雑種強勢を示しながら高品質で耐病性に富むものを探さなければならない、などなまざまな問題があり、戦時中これらの点についてさかんに検討されました。
 そして、自家不和合性を利用したハイブリッド品種は、キャベツでは1949(昭和24)年に、ハクサイでは1950(昭和25)年に、日本で初めて市販されました。
 その後、これらハイブリッド品種の優良性が認められ、現在のわが国のアブラナ科野菜のほとんどは、ハイブリッド品種として育成・市販されるようになりました。日本の種苗会社の育成したハイブリッド品種が、世界にも多量に輸出されるようになったのです。たとえば、ある会社の育成したブロッコリーは、アメリカで80%のシェアをもっていると言われます。
(「菜の花からのたより」から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<甘熟トマト桃太郎> 国内における野菜の品種改良は、世界に先駆けて始められた一代雑種(F1)の開発と普及によって飛躍的な発展を遂げました。トマトにおいても、世界最初のF1品種として福寿が12年に育成され、継いで23年に福寿2号が市販されて以後は、ほとんどF1品種が使われるようになりました。育成された数多くのF1品種も入内の推移に伴って変化してゆくトマトの栽培に大きく寄与しましたが、一方では、それまで作られていた地方品種や固定種が次々と姿を消してしまい、国内での育種素材は、40年代には使いはたしてしまったと思われます。 しかし、このことが積極的に育種素材を野生種や海外から求めるようになり、トマトの耐病性育種や品種育種が進んだ大きな要因として挙げられます。桃太郎の育種素材の一つとして使われた Florida MH-1 も米国で育成され、導入された品種です。 (「歳時記 京の伝統野菜と旬野菜」から「甘熟トマト桃太郎」住田敦・タキイ種苗研究農場長記から引用)
(^o^)                           (^o^)                           (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
大百科事典                                   平凡社       1984.11. 2
農業技術を創った人たち           西尾敏彦              家の光協会     1998. 8. 1  
絹の文化誌                 篠原昭・嶋崎昭典・白倫       信濃毎日新聞社   1991. 8.25 
日本の野菜 青葉高著作選 T        青葉高               八坂書房      2000. 6.30
ふしぎの植物学               田中修               中公新書      2003. 7.25
自殺する種子 遺伝資源は誰のもの?     河野和男              新思索社      2001.12.30
菜の花からのたより 農業と品種改良と分子生物学 日向康吉            裳華房       1998.11.25  
京の伝統野菜と旬野菜            高嶋四郎              トンボ出版     2003. 6.10 
( 2003年12月22日 TANAKA1942b )
▲top

(19)ハイブリッドライスの可能性
先進国型品種改良への転換

<イネは一代雑種に不適な作物なのか?> 一代雑種は雑種強勢を利用する。植物によっては雑種強勢の出やすいものとそうでないのがある。イネは雑種強勢が出にくい作物で、このため日本では本格的にハイブリッドライスの開発が行われなかった、と言われる。 野菜でこれほどまでに一代雑種が普及したのに、イネでは手つかずだった。そのもう一つの理由は、イネの品種改良に民間種子会社が参入しなかったことだ。 民間会社は投資額を回収出来るかどうかを考える。イネの品種改良には多くの時間と経費を必要とする。そして種子を栽培農家に売り込むにはいろいろ面倒なことが多い。「毎年、毎年農家は種子会社から種子を買わなければならないのです」 「こうして米生産の主導権は種子会社に握られてしまうのです」。このような声があると、種子会社は「イネでは儲けられない。投資額を回収できないだろう。米で儲けるな、との批判には当分逆らわない方がいい」となって、イネの品種改良、特にハイブリッドライス開発には参入しなかった。
 また道県の農試はその県の農家のためにイネの品種改良に取り組む。地産地消の精神を生かし、このため日本全国のことを考えたり、新規参入を好まない。こうして各県の農試は従来の品種改良の仕方、交雑育種法に拘っていて、一代雑種には手をつけないでいた。 こうした「米は日本の伝統文化」と言いながら伝統的な品種改良方式に拘っていた日本とは別に、中国では一代雑種での開発が進んでいた。こうした状況を専門家はどのように捉えているのだろうか?ハイブリッドライスに関する記述をいくつか引用してみよう。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
中国におけるハイブリッドライスの事情をみると、1970年に海南島で、野生稲の雄性不稔株が発見され、野敗系又はWA細胞質とよばれた。これを素材として、1973年には雄性不稔系統、維持系統、稔性回復系統を一組とする3系統が育成された。これを中国では三系法と呼んでいる。この方法によって1974年には実用品種が育成され、世界で初めてハイブリッドライスの実用化の途が開かれた。 その後、多数のF1品種が育成され1991年には全国で55%の面積を閉めるに至った。
 中国のハイブリッドライスは大半がインド型の品種で占められているが、北部では日本型の品種が栽培されている。その素材として、1972年に新城氏の育成さたBT細胞質が分譲され利用されている。このように、ハイブリッドライスの実用化は中国の技術開発に負うところが極めて大きい。
(「続 図解・米の品種」から)
 中国では膨大な人口の胃袋を満たすために、革命後イネなどの品種改良に多くの勢力を投入した。花粉を培養して植物を再生させることで育種をスピードアップする技術をいちはやく実用に結びつけ、また多収を容易に現実化する技術として雑種強勢を取り上げ研究を開始した。先ほど述べたように、現代のイネは自家受粉する性質を強くもっているが、インディカのある品種とジャポニカの品種を交配した場合に花粉ができないことを日本の研究者が見いだし、この性質を利用して花粉のできないイネ(雌親)を作りだすことができる。 中国はこのようなイネの種子を日本から導入しハイブリッドライスを作りだすことに成功した。収量は従来のものより格段に増加し、そして現在ではおコメの生産全体の60%をハイブリッドライスに頼っている。
 1984年にNHKテレビで「謎のコメが日本を襲う」と題してアメリカから日本への、このハイブリッドライスの売り込みの状況に関して報道をした。中国で開発されたハイブリッドライスがいったんアメリカ経由で伝えられたわけである。筆者の属する研究所ではアメリカ企業および中国と契約をむすび日本に向く品種の開発を開始した。中国の多くの部分ではインディカがつくられているが、北部ではジャポニカが栽培されている。これらの地域で開発されたものの中から日本人の口に合い、そして収量の多い品種を選出し試験的な栽培が介しされている。 また、中国で作られた優秀な父親と日本のおいしい母親とを掛け合わせることで、さらに優れたものを作りだすことに成功している。 このように、従来不可能もしくはそのような現象はないとされてきたハイブリッドによるイネの増収の研究も着々と稔りつつある。
(「夢の植物を育てる」から)
 以上の問題を克服し、より効率的にハイブリッド・ライスの種子を確保するために、自殖性作物である稲を如何にして他殖性にするかという遺伝育種学的な研究が長い間進めらていく中、最近になって中国で1000万haにも渡ってハイブリッド稲の栽培が成功し、米国企業が市場開拓に乗り出し、日本でも民間参加の道を開くために法制度の見直しが行われるなど、本格的なハイブリッド実用化時代の幕開けを迎えました。
ハイブリッドライスの普及は1976年に始まり、1992年には普及率58%とピークに達しましたが、1993年には収量は高いが食味に劣り市場価格も低いことが農家に嫌われ、減少傾向に転じました。
(「お米データベース」HP URL http://www.gohan.ne.jp/okome-data/01/144.html から)
  イネに、雑種強勢の性質を発現させると、ハイブリッド・ライスができる。ハイブリッド・ライスは、病気に強く、味も良く、収穫量の多いイネになるだろう。しかし、イネの性質を考えると、ハイブリッド・ライス作りは、むつかしい印象を受ける。
 ハイブリッド・ライスを作るには、ある品種の花粉を異なる品種の花のメシベに受粉して、種子を得なければならない。このとき、自家不和合性が役に立つ。ところが、イネの花には、オシベ、メシベがあり、自分の花粉を自分のメシベにつけて、種子をつくる性質を持っている。自家不和合性とは、まったく逆の性質である。
 この性質は、栽培者にとって都合がいい。自分の花粉で自分が受粉、受精してくれるのだから、放っておいても、おコメができる。それゆえ、多くの品種の中から選ばれて現在栽培されているイネの品種は、この性質を強く持っている。そのため、アブラナ科植物のように、簡単には、ハイブリッド・ライスをつくるのは難しい。
 だったら、花粉を出す前に、オシベを引き抜けばどうだろう。たしかに、この方法でハイブリッド品種がつくられる植物はある。ナス、トマトやピーマンなどである。しかし、イネの場合、花は小さく、多くの品種で、花が開く時間は午前10時から12時までの2時間だけである。その短時間に、多くの花のオシベを抜くのはむつかしい。でも無理をすれば、この方法ができないことはない。つぼみのうちに、6本のオシベを、ピンセットで抜き取ればよい。 ところが、こうしたとしても、その花が開けば、ほかの品種の花粉を人為的にメシベにつければ、ハイブリッド・ライスの種子ができる。ところが、こうしたとしても、その花からたったの1粒の種子が得られるに過ぎない。だから、この方法では、実用化はできない。
 ハイブリッド・ライスは、無理をすれば、実験的につくれる。だから、イネにも雑種強勢の性質があることは知られていた。しかし、実用化する方法はなかった。それゆえ、ハイブリッド・ライスつくりは、あまり注目されてなかった。ところが、膨大な人口を抱える中国が、食糧を確保するために、ハイブリッド・ライスの実用化に多くの労力を投入した。その結果、「花粉ができないイネ」を発見した。花粉が出来ないイネは、自分は花粉をつくらないが、ほかのイネの花粉で種子を結実することができる。 だから、ハイブリッド品種がつくれるのだ。
 中国は、このイネを手に入れ、工夫を重ねて、丈夫で、味も良く、収穫量の多い、ハイブリッド・ライスつくりに成功した。収穫量は、従来のものより、約30%増えた。現在、中国では、コメの生産全体の約60%をハイブリッド・ライスに頼っていると言われる。
 1984年に、「アメリカから日本へ、ハイブリッド・ライスの売り込みがあった」と報道された。中国で開発されたハイブリッド・ライスが、アメリカを経由して、日本に持ち込まれようとしたのだ。「謎のコメが日本を狙う」と話題になった。
 この出来事をきっかけとして、日本でもハイブリッド・ライスの研究が本格化した。現在は、日本の風土に合う、収穫量の多い、おいしいハイブリッド・ライスつくりの研究が進められている。
(「ふしぎの植物学」から)
  近年、この雑種強勢を自殖性作物であるイネに応用しようとする育種計画が世界的に進められ中国、米国、韓国ではすでに実用的なハイブリッドライスの育成に成功している。我が国でも最近、他用途米研究の一環として、飼料米育成を目標とする超多収品種の育成が、農水省やその他の研究機関で取り上げられ、育成試験が進行中である。(中略)
 これまで、ハイブリッドライスでは増収効果のみが強調され、品質の面はあまり考慮されてこなかったように思われる。中国のハイブリッドライスでは、せん(インド型品種)より粳(こう・日本型品種)の品質劣化が著しいという。一般にヘテロシス育種では、ヘテロシスの効果を大きくするためできるだけ遠縁のものを両親に選ぶ。イネの場合、同じ日本型品種あるいはインド型品種同士よりも、日本型品種とインド型品種との交配によって、より大きなヘテロシス効果が期待できる。 ところで、F1植物に実る種子はF2にあたる、すなわち、ハイブリッドライスで生産される種子はF2世代となる。したがって、インド型品種と日本型品種の交配によって育成されたハイブリッドライスは、まったく食味を事にするインド型品種の米と日本型品種の米の両方を含むことになり、食用として商品になりにくい。そのため我が国のハイブリッドライスの育成は当分飼料米を指向したものとなろう。
(「イネの育種学」から)
  一代雑種品種も系統育種法も斉一な集団をつくる面では似ている。しかし、原則的な考えをすれば、一代雑種においては1細胞中に最も多くの遺伝子を入れることができる。自殖性植物でもある程度の雑種強勢を示すので、これを利用すればそれに越したことはない。一代雑種では、優性にはたらく遺伝子をどちらかの親系統に導入しておけば、それが発現する。さらにこの育種法では、類似した親系統をいくつか保有しておいて、モデルチェンジがある程度可能である。 親系統を保持することによって、育種家の権利を実質的に維持できる。このような点が一代雑種のメリットである。
 しかし、イネやコムギに一代雑種品種を適応するときには、いろいろな問題がある。その最も大きな問題は、高度な自殖性のために雑種種子の採種量が少なく、種子の値段が高価になることである。種子の値段はその品種を栽培したときのメリットや増収効果とのバランスによって決まる。 ジャポニカ型イネの場合には、その遺伝的変異が狭く、それだけでは雑種強勢が強く現れない。雑種強勢が強く現れるように遺伝子型の違ったイネの雑種を作ると品質が低下しやすい。コムギでは、六倍体のためか、雑種強勢がそれほど強く現れない。雑種強勢の遺伝的解析も課題となっている。さらに、一代雑種品種育成には、組合せ能力の高い両親系統をつくる必要があり、それに多くの労力と日数を要する。 それではイネの他殖率を高めるように育種するのはどうであろうか。他殖性を高めたいときに、雑種において充分な稔性を確保できる必要があるだろう。
 過去の経過をみると、自殖性植物は一般に自殖性の育種法がとられていた。各種の他殖性野菜では一代雑種品種の方にシフトしてきている。また、ナタネなどの育種においても一代雑種品種育種が期待されている。 さらに、見方を変えて一代雑種品種が最も望ましい育種法か否かも検討事項である。もしも、人工種子を得る技術が安定すれば、その方が望ましいかもしれない。他方、イネにアポミクシスの性質を導入して、アポミクシスを使った育種法も展望できる。しかし、一つの圃場が同じ遺伝子型の植物に占められたときにはストレス耐性についての配慮が必要である。将来の育種を考えるときには、各種の育種手法のメリット、デメリットを勘案する必要がある。
(「植物の育種学」から)
  1983年にアメリカの種子会社リングアラウンドから日本に、ハイブリッド米の種子を売り込みたいという打診が、農水省にあった。日本は米に対しては保護政策をとってきていることから、このハイブリッド米の種子は輸入されなかった。ところがよく調べてみると、実はこの米はアメリカで開発されたものではなく、中国で開発されたものであり、さらに元を辿っていくと、琉球大学の新城長有教授が発見した雄性不稔の理論を用いたものだったことが分かった。 この経緯は、NHKテレビによって「謎のコメが日本を襲う」という題で放映され、有名になった。その後、リングアラウンドは三井東圧化学、三井物産と合弁でラム・ハイブリッド・インターナショナル社をつくり、日本における種子の流通に参入することになったのである。さらにその後、同社からリングアラウンド社が抜け、三井東圧化学が中心になってこの雄性不稔を利用したハイブリッド・イネの開発が進められてきた。 その三井東圧化学が開発したハイブリッド米が、羽田空港内のカレーライス屋「ライブカレー」で使われている。 (「増補改訂 遺伝子組み換え食品」から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<日本での品種改良に必要な「好奇心」と「遊び心」>  上に引用した文を読んで思うのは「関係者同士の一代雑種が必要なようだ」ということ。「ハイブリッドライス」とのテーマで皆同じ様なことを言っている。皆が同じ情報を共有している、ということはいいことかもしれないが、もっと楽観論、悲観論、自分の体験による他人の知らない情報、経済面・政治面からみた評価、いろんな見方があってもよさそうだ。むしろ、雑種の入り込まない「自家不和合性」こそ心配になる。 上記引用文は最後の「増補改訂 遺伝子組み換え食品」以外は育種の専門家が書いたもので、最後の「増補改訂 遺伝子組み換え食品」の著者はフリージャーナリストで、遺伝子組み換え食品いらない! キャンペーン代表。この本は他の文献と違って、ハイブリッド米や遺伝子組み換え食品に批判的な本。しっかりしたデータを元に、他とはちょっと違う見方をしている。いろいろな見方を知りたい人にはお勧め本です。
 中国にはハングリー精神がある。日本は豊かになってそれを失った。コシヒカリも美味しい米を目指したのではなかった。戦争末期、食糧増産を目指したのだった。豊かになってコメの品種改良は「美味しい系」へと変わった。しかしかつてのような緊急性はない。「何が何でも」との要請はない。そして野菜と違って儲けられるかどうか分からない。種子会社が新品種を売り出しても、「米は日本人の財産。種子会社1社が独占するのは許せない」と非難されそうだ。 回収できそうもない事業に投資するのは、銀行が回収できない会社に融資するようなもの。不良債権になると分かっていて融資すれば、特別背任で訴えられる。種子会社は回収できそうもない事業に投資するわけにはいかない。
 それでは今後、日本ではコメの品種改良には期待できないのだろうか?そんなことはない。今までの品種改良、そして中国のハイブリッドライスは「発展途上国型品種改良」だった。せっぱ詰まった社会・国家からの要請によって必死になって改良事業に取り組んだ。 農業を「後進的な産業」ととらえ、国内の自給体制の維持をめざし、過保護農政に走ることになる「発展途上国型品種改良事業」では中国は強い。これからの日本では「種子会社が儲かるコメの品種改良」を目指すことになる。品種改良の「民活」だ。そして研究者に大切なのは「好奇心」と「遊び心」。それが先進国型品種改良の基本になる。視野狭窄にならないこと。 親品種を日本以外に求めて一代雑種を試してみる、という遊び心はどうだろう。アフリカでもエジプトでは1995年の生産実績がジャポニカを含め210万トン、マダガスカルで160万トン生産されている。片親をコシヒカリとし、もう一方の親を、エジプト米、マダガスカル米、オーストラリア米、イタリアの苦いコメ、タイで生産されたジャポニカ米、好奇心と遊び心でこうした交配を楽しんだり、あるいは、ブレンドで工夫してみたり。 例えば東京近郊の家庭菜園で栽培された「日本晴」50%とベトナム産の「あきたこまち」45%に高知県産かおり米「十和錦」5%のブレンド米を氷温冷蔵で熟成してみたり。コシヒカリには敵わないとしても、食味は結構いい線いくと思うのですがいかがでしょうか?
 コシヒカリを誕生させた、高橋浩之、仮谷桂、池隆肆、岡田正憲、石墨慶一郎などのような職人とは少し違った、現代的な職人が出てきてもいいはずだ。それには育種の世界でも、自家不和合性に陥らず、雑種強勢を生かした交配=一代雑種が必要なのではないだろうか?今日本の農業界はウルグアイ・ラウンドを始めとする市場開放の圧力をうけて神経質になっている。尊農攘夷論が幅を利かせ、異質な情報、変わった意見を受け付けない体質になっている。 このような時こそ、肩の力を抜いて、気持ちをリラックスさせて、好奇心と遊び心を大切に、品種改良で遊んでみるのもいいだろう。豊かになった日本、かつてのように必死に品種改良に取り組まなくても、日本国民は飢えたり、栄養失調になる恐れはない。中国のハングリー精神とは違ったインセンティブに基づいた研究であっていいはずなのだから。
 そして積み重ねた経験と知恵、生かす場所は狭い日本国内である必要はない。キャッサバの品種改良とその普及で、アジア農民の豊かな農業への道を作った河野和男氏、立派な仕事をしました。日本の科学者・技術者の皆さん、ぐるっと世界を見回して、活躍の場を探して下さい。視野狭窄、地産地消、身土不二、自給自足、そんな言葉を忘れて、農業のグローバリゼーションです。
 タイやラオスでもち米の品種改良、カンボジアでかつてカンプチア王国時代のコメ3期作の再現、タイやベトナムでのあきたこまちの栽培、バングラデシュでシャプラニールと一緒に学校を作ってそこでの給食用のコメ作り、インドでイネの野生原種であるオリザ・ファッツァやオリザ・ペレニスの保存、アンデスの麓に生息するトマトの野生原種の保存とそれから品種改良再試行による現代トマトへの改良実験、 アジア全域でキャッサバより栽培に手の掛かるが収入のいいイネへの転換指導、各地から集めたコメをブレンドして低価格・高品質の販売米開発。 こうした分野へ民間企業が参加することにより、官僚指導・政府指導の農政から民間資本主導の農業産業発展への道筋。豊かな社会日本の品種改良への貢献、沢山あるはずです。 世界各地で活躍して、ついでに世界中から美味しい食べ物を日本に持って来て、私たち消費者に紹介して下さい。 そのグルメを食品産業が日本人の口に合うようにアレンジしてくれるでしょう。こうして「発展途上国型品種改良」から「先進国型品種改良」へと、これから変わっていくことになるはずです。
(^o^)                           (^o^)                           (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
続図解・米の品種                大里節               日本穀物検定協会  1995. 6.30
夢の植物を育てる                鎌田博・堀秀隆           日本経済評論社   1995. 7. 1
ふしぎの植物学 身近な緑の知恵と仕事      田中修               中公新書      2003. 7.25
イネの育種学                  蓬原雄三              東京大学出版会   1990. 6.20
植物の育種学                  日向康吉              朝倉書店      1997. 3. 1
新データブック 世界の米 1960年代から98まで 小田紘一郎             農山村文化協会   1999. 3.10 
自殺する種子 遺伝資源は誰のもの?       河野和男              新思索社      2001.12.30
増補改訂 遺伝子組み換え食品          天笠啓祐              緑風出版      2000. 1.31
( 2003年12月29日 TANAKA1942b )
▲top

(20)遺伝子組み換え技術の誕生
医薬品からの実用化

<DNA2重らせんモデル> ジェイムス・ワトソンとフランシス・クリック両博士によって発表された「DNA2重らせんモデル」(1953年)と、それに続く研究によって、かつてメンデルが想定した遺伝因子の実体が、DNA(デオキシリボ核酸)であることが明らかになった。 その後の制限酵素の発見(1970年)を経て、1973年には世界初の遺伝子組み換え大腸菌が誕生し、目的のタンパク質を作らせることに成功した。
 植物に遺伝子を運ぶ、宅配便の役割を持つプラスミドを最初に発見したのは、植物の根にこぶのできる病気(根頭癌腫病)の研究をしていたベルギーの植物学者ヴァン・ラルベック(1974年)であった。 そのきっかけは植物の組織培養で、このこぶのできた組織は、他の植物組織と異なり、植物ホルモンのない培地中で、いつまでも増殖を続けるので、長い間、植物の組織培養の世界では「7不思議」に挙げられていた。その謎解きに答えを出したのが、ラルベックであった。
 彼は感染してこぶを作るアグロバクテリウムと、感染してもこぶをつくらないアグロバクテリウムの存在に目を向け、両者の細胞からDNAを抽出して、その違いを詳しく調べた。そして、こぶを作るバクテリアには核のDNAのほかに、細胞質に独特な環状のDNAがあり、これがこぶ(腫瘍・tumor)を誘導(induce)していることを突き止め、この部分のDNAをその頭文字を取ってTiプラスミドと呼んだ。 この発見が契機となって、Tiプラスミドの研究が進み、このプラスミドの中で、植物に入り込む(transfer)部分がT−DNA領域と呼ばれるようになった。 
 その後、この領域を他の遺伝子に置きかえても、それがそのまま植物細胞に入り込むことがわかり、T−DNA領域に有用遺伝子を組み込むことで画期的な作物改良技術になると期待が膨らんだ。これが1982年のこと。このアグロバクテリウムというバクテリアは、自分の環状プラスミドDNAの一部を勝手に、巧みに植物に潜り込ませて、このバクテリアだけが利用できるオパインと呼ぶ特殊なアミノ酸を植物に作らせていたのだった。 Tiプラスミドの発見(1974年)から8年間の研究によって、アグロバクテリウムによる遺伝子組込みの仕組みがわかると、直ちに実用化への取り組みが始まった。
 1982(平成4)年にはヒトインスリンやヒト成長ホルモンが、組み換え大腸菌から作られるようになり、まず医薬品の分野から実用化が始まった。1983年にはタバコを用いたGMモデル植物の第1号がアメリカで誕生し、 1989年には日持ちを良くしたトマト(フレバーセイバー)が誕生し、1994年から市販された。 
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<ヒトインスリンやヒト成長ホルモン> 遺伝子組み換え技術は、細胞融合技術と同時期の1970年代にスタートした。その中で、大腸菌を用いた遺伝子組み換え微生物の研究は次々と成果を上げ、 1979年にはヒトインスリンやヒト成長ホルモンが、組み換え大腸菌から作られるようになった。この分野は一気に実用化され、医薬品の世界ではすでに1990年代から組み換え医薬品が多数流通している。
ヒトインスリン(human insulin) 私たち日本人の生活スタイルは歴史の節目ごとに大きく変化してきた。明治維新、太平洋戦争後、高度成長期、こうした時期に変化したのが食生活。肉を食べる機会が増え、エネルギー摂取が過剰になり、一方交通機関の発達などにより消費エネルギーは減っている。 こうした摂取エネルギー量と消費エネルギー量 のアンバランスが生活習慣病という形で多くの影響を及ぼしている。糖尿病は、代表的な生活習慣病の1つで、患者数は年々増加している。1995年で約1億3500万人いると考えられており、2000年には1億8000万人、2010年には2億2000万人、になると言われている。 日本では、1997年11月の厚生省の調査により、予備軍を含めて1370万人という結果が公表されている。
 糖尿病は、体内の糖が利用されずに血液中にふえすぎてしまう病気で、その結果として、尿に糖が出てくる。病気が進むと、目、神経、腎臓に合併症が出る、これは適切な治療で予防することができる。しかし、初期には症状が出ないために、ただ尿に糖が出るだけと思って放置すると、失明や昏睡など重大な結果を引き起こすことになる。 糖尿病には2つの型があり、インスリン依存型糖尿病は、おもに15歳以下の子供に多くみられるもので、ウイルス感染や自己免疫作用によって膵臓の機能が低下して発症する。これにはインスリンの不足を補う必要がある。インスリン非依存型糖尿病は、おもに成人以降に発病するもので、ほとんどはこのタイプの糖尿病。インスリンの働きが低下しているため、薬物療法や食事療法で治療を行うことになる。
 糖尿病への治療のためにインスリンが発見されたのは、1921年(大正10年)のこと。欧米では供給のメドがつくとすぐに患者の自己注射が認められた。しかし、日本では60年もの間、自己注射が認められず、また、保険の適用もなかった。
 このインスリン、以前はウシやブタのインスリンが使われていたが、1979年には遺伝子組み換え技術でヒトインスリンが容易に製造されるようになり、かつ安全に製造できるようになり、現在は、このヒトインスリンが主流となっている。ブタやウシのインスリンの場合、アレルギー反応を起こす可能性があるが、ヒトインスリンではアレルギーはほとんど起こらない。作用発現時間によって、超速効型、速効型、混合製剤、中間型、持続型などの種類がある。
 ヒトインスリンを作るには、ヒトインスリンの前駆体(ヒトインスリンができる一歩手前の物質)の遺伝子を酵母や大腸菌に組み込んでヒトインスリンを生産する。このような遺伝子工学の技術によって、現在では大量にヒトインスリンが生産されている。遺伝子組み換え技術によってヒトインスリンが生産開始された当初は、酵母や大腸菌に由来する不純物の混入やそれらに対する抗体産生の可能性があるのではないかと心配さたが、現在ではそのような心配はないとされている。 ヒトインスリン製剤が遺伝子工学を応用した医薬品の第一号として華々しく臨床に登場し、日本でも認可されたのが1985年。現在世界のインスリン供給は専門メーカー2社(ノボ・ノルディスク=Novo Nordisk オランダ。イーライ・リリー=Eli Lilly アメリカ・インディアナポリス州)の寡占状態になっている。
ヒト成長ホルモン(Human Growth Hormone) 思春期から青年期にかけて、私たちの脳の下垂体前葉というところで生産され、分泌される。この時期が生産のピークで、その後は徐々に分泌量が減少していく。
 1963年にスウェーデンの医薬品メーカーが遺伝子工学を応用して、世界で初めてHGH (ヒト成長ホルモン・Human Growth Hormone・hGHと表示する場合もある) の合成に成功した。これ以後、HGHはヒト成長ホルモン剤として医療分野で広く使用されるようになり、とくに成長期になっても身長が伸びない人たちの病気治療に大きな成果を上げてきた。 1990年になると、このHGHが老化を防ぐことに効果があるのではないかと、世界の医療関係者に注目されるようになった。
 成長ホルモン治療の歴史を振り返ってみると、人の下垂体から抽出した成長ホルモン製剤を使用していた頃はなかなか薬が手に入らず、患者は順番待ちをするほどだった。現在は遺伝子工学の技術によって十分な量の成長ホルモンが手に入るようになった。
エリスロポエチン製剤(EPO) これは主に腎臓でつくられ骨髄に作用して赤血球を増やす造血ホルモン。早くから注目されていたが、わずかしか採取できないため、薬としての生産は不可能であった。それが、遺伝子組み換え技術により、1990(平成2)年にヒトエリスロポエチンの量産が可能となり、透析患者の腎性貧血の治療に画期的な成果をもたらした。現在では、手術のための自己血貯血や未熟児貧血などにも利用されている。
ヒト顆粒球コロニー刺激因子(G−CSF) 抗がん薬の副作用の一つに、血液障害がある。とくに白血球の減少にともなう免疫力の低下は、感染症を誘発する重大なものの一つとなっている。ヒト顆粒球コロニー刺激因子は人間の体内にある活性物質で、白血球の増殖作用があるが、微量しか存在しないため利用できなかった。それが遺伝子組み換え技術により量産が可能となり、抗がん薬の連続投与治療を支える重要な薬となっている。
インターフェロン(Interferon・IFN) インターフェロンは、生体内のさまざまな細胞がつくり出す生理活性たんぱくで、抗ウイルス・抗がん作用がある。純粋なものをつくることが難しく、微量物質のため量産もできなかったが、バイオテクノロジーにより開発が可能になった。現在はB型およびC型慢性肝炎、腎臓がんなどの治療薬として広く使われている。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<品種改良技術の進化> 医薬品への実用化から始まった遺伝子組み換え技術、それが栽培植物への実用化となって、これを批判する人たちが出てきた。賛否両論の文献もHPも多くある遺伝子組み換え技術、隙間産業を狙うアマチュア・エコノミストTANAKA1942bとしては、他のHPとはひと味違った切り込み方をしなければ存在意義がない。このシリーズ「米自由化への試案 日本人が作りだした農作物 品種委改良にみる農業先進国型産業」の流れからすると、 「品種改良の進化」となる。そこで品種改良の歴史、「古代から現代へ」といった感覚で農作物品種改良の話を進めていくことにした。
野生品種から栽培品種へ 狩猟生活をしていた人類が野生植物を栽培するようになって、自分が必要とする以上の食糧を生産する人々が出た。これによって自分では、自分の必要とする食糧を生産しない人たちが出て、この時から文明が発祥した。こうして、自給自足が神話になり、野生種を栽培種に変え自然界の品種バランスを変え、森林や雑木林を農地に変え自然環境を変え、市場経済システムを作りだし、貧富の差を生じさせ、 先に豊になれる者から豊になる社会が出来た。自然界では弱いオスは子孫を残せないし、劣性遺伝子を子孫に残さないシステムが出来ている。 しかし人類の「ヒューマニズム」「平等の精神」「正義論」はこの自然の摂理に反する品種委改良を始めた。このようにして文明発祥と伴に、人類の「品種改良の歴史」が始まったのだった。
江戸時代の品種改良 @趣味とA実益の2本立てであった。 江戸の旗本、町人は花の品種改良を楽しんでいた。その成果をキクなどの品評会で競い合い、ときには高額で取引され、幕府が取り締まるほどのバブルが膨らむこともあった。 これが@趣味の分野でA実益の方はと言うと、農村部では百姓がイネなどの品種改良を行っていた。 その方法は「選抜育種法」であり、ときには他藩からの「導入育種法」であった。@趣味もA実益も結構盛んであった。江戸では武士・町人の多くが花の品種改良とその成果を楽しみ、あるいは稼ぎの手段としていた。多くの人がが参加したという点では、現代より活発であったと思われる。 一方農村部での品種改良も活発であった。江戸時代は驚くほどの旅行ブームであった。多分同時代世界で一番旅行が活発であった国と言えるだろう。その旅行が、お伊勢参りのような信仰目的であり、それに託けた「新品種探し」の旅でもあった。
明治以降  こうした品種改良に対する熱意は現代へも受け継がれている。明治時代も民間篤志家によるコメの品種改良が行われ、その品種改良事業は国や自治体の農業試験場に受け継がれた。その大きな成果は「コシヒカリ」誕生となって、私たち国民を豊にしている。 さて、こうした成果を消費者としての私たちはどの程度理解しているのだろうか?「米は日本の文化だ」と言う、そのコメも品種という面からみれば、ほとんどすべて戦後に育種されたものだ。戦前からの品種は市場にはほとんど出ていない。もしかしたら「かおり米」が戦前からの品種があるかも知れない程度。 「赤米」はあちこちの神社が中心になってその保存に努めている。コメという日本の文化を護っている農業、それは進取の精神に満ちた革新の歴史でもあった。しかしそれは「とにかくぶち壊せ」「何でも反対」と言う乱暴なものはなかった。もう現代では商品価値のない赤米も護る、優しい心をもった改革の歴史であった。
コシヒカリの時代 1944(昭和19)年、終戦の前年から始まったコシヒカリの品種改良、登録されたのは1956(昭和31)年、この間12年も掛かっている。しかも実際にその良さが認められて作付率で日本晴を抜いてトップになったのが、1979(昭和54)年。35年もの長い年月がかかっている。コメの品種改良はその後、「きらら397」のような計画的な改良が行われている。交雑育種法も進化した。コメの品種に関して言えば、戦前からの品種は市場から消え去っている。わずかに赤米が篤志家によって護られているだけだ。 現在「日本の文化のコメ」はすべて戦後生まれ、となっている。ここで利用された「交雑育種法」は今でも品種改良の重要な手段として利用されている。
一代雑種  野菜はどうかと言うと、ほとんどが一代雑種=F1ハイブリッドになっている。これは戦前にはなかったものだ。野菜に関しても消費者はあまりこうした品種改良を問題にしない。 そうした無関心を問題にして「消費者教育が必要だ」と主張する人たちがいるようだ。しかし消費者にしてみれば価格があまり高くならず、そこそこの味ならば、あまり神経を使いたくない、と考えているのだろう。別の言い方をすれば、「日本の農業は消費者ニーズに応えてきた」と言えるかもしれない。 コシヒカリとその改良品種がこれほどまでに高い作付面積を誇っているのは、消費者が支持しているからだ。消費者ニーズに応えて農家は作付品種を選んでいる。「消費者は神様」の市場経済のあるべき姿を示している。野菜が一代雑種中心になっていったのも、消費者ニーズに応えたものと考えられる。 一部で「在来種を護ろう」との声があがっているが、もし消費者が異常に出回っている一代雑種よりも在来種を望んでいるならば、「在来種を護ろう」と呼びかけなくても、在来種は売れる。 「一代雑種ばかり売れて、在来種が無くなっていく」との不安は、別の方法で解決すべきだ。種子会社は品種改良のためにはなるべく多くの親品種、純系を必要とする。これは市販するために必要なのではなくて、交配するのに少ししか親品種がなければ、新しい品種の可能性の少ししかない。種子会社は世界中から純系を探してきて、それを保存、育成し、品種改良のために使おうとする。 在来種が少なくなるのは、種子会社にとっても困ることなのだ。一般人が「自然をあまり大きく変化させないために、在来種を護ろう」というよりも切実なことなのだ。かつてはあまりそのようなことに種子会社も気づかなかった。しかし今では、種子会社にとって在来種を保存することは、会社存続のための必要な事業の一つになっている。
細胞培養  こうした品種改良の流れの途中で「細胞培養」が脚光を浴びた事があった。「ポマト」に象徴される細胞育種法が、今までになかった全く新しい作物を作れる、かのように思われたときがあった。しかし、実用的なものは出来なかった。これからも新しい作物への期待はない。ウィルス・フリーなどの利用が中心になるだろう。消費者の関心は呼ばない。
遺伝子組み換え  品種改良の流れは、「司令塔があって、その指令に基づいて行われてきた」のではない。市場のメカニズムが働いて現在の農作物市場がある。その市場のメカニズムの働く場で「遺伝子組み換え植物」が話題になっている。その話題は、「品種改良の流れはこれでいいのか?」との疑問を投げかけている。食品安全性、大企業の種子・農業支配、環境保護、といった面から、品種改良の流れ先を警告を発する。 品種改良を進める技術者はとまどっている。「遺伝子組み換えも今までの延長線でしかない。選抜育種でも交雑育種でも非難はされなかった」 それは遺伝子組み換えに関する書籍沢山を読むと感じる。育種に携わる人の本はだいたい同じ様な、冷静な・やや冷たい、話の進め方をしている。 それに対して、遺伝子組み換え批判派は、熱っぽい・感情的な話の進め方をしている。中には「例えば、トマトの遺伝子にハエの遺伝子を入れ、腐りにくいトマトを作る。こんな、トマトを子供たちに食べさせたいと思いますか?」 のような喩えさえ使っている。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
食の未来を考える              大澤勝次・今井祐          岩波書店      2003. 6.27  
( 2004年1月5日 TANAKA1942b )
▲top

(21)野菜に加えられた良き性質
GMOの広がる可能性

<遺伝子組み換えと他の育種法との違い> 遺伝子組み換え植物(GMO・Genetically Modified Organism)(欧米では一般に GEO ・Genetically Engineered Organism と呼ばれる)を分かりやすく説明するにはどのような表現が良いのだろうか?いろいろ考えて次のように、「従来からの育種法と、どのように違うのか?」という点から比較してみた。
選抜育種法 は気に入らない品種を捨てていく育種法。自然界では強いものだけが子孫を残せる。ダーウィンの仮説によれば「生物は自然選択によって環境に適応するように進化する」との表現になる。育種では自然のままでは生きていけないような弱い品種でも、人間に気に入られれば子孫を残すことになる。コシヒカリは人間が栽培しなければ、自然のままでは、自分だけでは子孫を繁栄させることができず、やがて絶滅する。ただし、この育種法では突然変異でもなければ急激な改良はできない。
交雑育種法 は2つの品種の良いところを生かした子孫を作る。両親の良い点が現れている。何代かに渡って品種を固定するので、固定種又は在来種となっていく。コシヒカリを始め、日本のイネはこの方法に依るものが多い。自家採種ができる。植物の混血児を作るようなこと。
一代雑種育種法 は2つの品種の隠れていた良いところを生かした子孫をつくる。潜在的には持っていたが現実には現れていなかった両親のよい性格が受け継がれている。よい性格は一代目だけ、代が進むと平凡な品種になる。「鳶が鷹を生んだ」とはこのこと。
細胞育種法 はポマト(ポテトXトマト)の誕生で一時大きな期待が持たれたが、全く新しい植物の誕生は期待出来ないとなった。現在ではウィルスフリーなど、性質の一部を変える技術として利用されている。特定の品種にある性質を加えたり、あるいは取り除いたり、その利用方法は遺伝子組み換えに受け継がれていく。
遺伝子組み換え育種法 はある品種に他の品種又は、他の植物の持っている良い性質を加えた子孫を作る。ポマトのような新品種は期待できない。親の欠点をカバーした子、または良い性質が加えられた子が生まれる。
<どんな性質が加えられたか?>遺伝子組み換えでは全く新しい作物を作る技術ではない。農作物に特定の性質を加える技術だ。それではどのような性質が加えられているのだろうか?それをみてみよう。
日持ちの良さ これは熟する時に働く酵素を抑える遺伝子や、果実の成熟や老化を進めるホルモンを抑える遺伝子を取り入れたもので、トマトやカーネーションに応用されている。
除草剤耐性 これは、特定の除草剤に対して抵抗性を持たせた農作物で、その除草剤を撒いて雑草は枯れても農作物は枯れないというもの。農作物を作るとき、雑草や農作物に応じて数種類の除草剤を使用しているが、これにより、使用回数や使用量を減らすことが出来る。大豆やなたねなどに導入されている。
害虫抵抗性 これは特定の害虫だけを殺すタンパク質の遺伝子を組み込んだ農作物で、よく知られているのはBtコーンと呼ばれるトウモロコシ。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<どんな野菜が改良されたか?> 医薬品であるヒトインスリンやヒト成長ホルモンから始まった、遺伝子組み換えの実用化が野菜に応用されるようになった。1989年には日持ちを良くしたトマト(フレバーセイバー)が誕生し、1994年から市販された。 その後、ダイズ、トウモロコシ、ナタネ、ジャガイモ、綿実などの遺伝子組み換えがアメリカで実用化された。ここでは個々の遺伝子組み換え作物について見てみよう。
除草剤耐性の大豆 日本で、大豆は植物油の他、納豆、豆腐、味噌、醤油、油揚げ、家畜用飼料に使われている。国内消費量は約507万トンで、そのうち381万トンがサラダ油など精油用に使われ、残りのうち約100万トンが納豆、豆腐などの食用として使われている。 こうした消費量に対して、2001(平成13)年の生産量は27万1千トン。食品用の自給率は26%、全体としての自給率は5%。輸入金額としては1,229,388円(2000年)。主な輸入国は、アメリカ365万トン、ブラジル71万トン、カナダ25万トン。
 遺伝子組み換え技術で作り出された大豆は、1996年に開発された除草剤耐性の遺伝子を組み込んだものが代表的。除草剤を散布すると、ほかの草は枯れるが、耐性遺伝子を組み込んだ大豆は枯れないため、散布が簡単かつ効果的にできるとして栽培面積が広がり、米国では大豆の総作付面積の6割を占める。 アメリカ、ブラジル、カナダ、中国などでは、遺伝子組み換え作物の作付けが急増し、日本に輸入されるアメリカ大豆の約75%(50%との資料もある)が遺伝子組み換えで、日本では食用油などとなって私たちの食卓に登場している。
害虫抵抗性のトウモロコシ 遺伝子組み換え技術によって「害虫抵抗性」という性質が可能となった。これは特定の害虫に対して被害を受けない性質を言う。 害虫抵抗性農作物は、もともと土壌に生息しているバチルスチューリンゲンシス(Bacillus thuringiensis)という細菌(Bt菌)から、害虫に強い性質をもつ遺伝子であるBt遺伝子が導入されたもので、害虫の被害から農作物を守ることができる。 この遺伝子はδ(デルタ)エンドトキシンという殺虫タンパク質(Btタンパク質)を生み出す。Bt菌は生物農薬としても利用されている歴史もあり、特定の害虫である蛾や甲虫類の幼虫などに対して、殺虫作用がある。この殺虫タンパク質は特異(選択)性が高く、哺乳類や鳥類などの脊椎動物には毒性を発揮しない。 現在、害虫抵抗性農作物として、トウモロコシ、ワタ、ナタネ、ジャガイモなどが実用化されている。
 日本への輸入量は約1600万トン、金額としては1,888,567円(2000年)。用途は約75%が飼料用、25%がコーンスターチ等の食品用などの原料として使われている。
除草剤耐性のナタネ 1995年に商品化されたもので、大豆と同じ「特定の除草剤に強いもの」。植物油として利用される。ナタネの自給率は0%で、90%はカナダから輸入されていて、輸入されたものの内37%が組み換えと言われている。カナダではナタネの栽培面積が120〜160万ヘクタールでそのうち25〜33%が組み換えと見られている。 日本ではキャノーラとの名で知られている。
害虫抵抗性のジャガイモ アメリカで1996年に商品化された。トウモロコシと同じ方法により害虫に強いもの。ジャガイモは、植物検疫上の理由から、生食用の輸入はなく、冷凍、粉状、乾燥、フライドポテト、マッシュポテト等の形で約70万トン(ジャガイモ換算)輸入されている。 ジャガイモの需給関係は、国産 304万トン、加工した輸入もの70万トン(米国)。
害虫抵抗性の綿実 1996年アメリカで商品化された。除草剤耐性の綿実も同じ頃商品化された。輸入されたものの用途は、油糧用または飼料用。
日持ちの良いトマト 1994年アメリカで商品化されたが、日本へは輸入されていない。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<改良された利点は何か?> 改良された性質は、日持ちを良くする、害虫に強くする、除草剤に強くする、などがある。除草剤に強くなった作物は除草剤散布の回数が減り、農家とその家族が農薬中毒になる恐れが少なくなった。 こうした点について、朝日新聞2003年10月11日b3面のVisitors欄から引用しよう。
「遺伝子組み換えの評価は冷静に」 
パメラ・ロナルド氏(米カリフォルニア大デービス校教授) 
米国の遺伝子組み換えイネの研究者。葉枯病に強い改良品種を研究。カギになる遺伝子の特定に取り組む。米のバイオテクノロジー企業、モンサント日本法人に招かれ、都内で講演した。

「遺伝子組み換え作物(GMO)の世界最大の生産国である米国では、02年に全作付面積に占めるGMOの比率が66%に達した。しかし、開発の歴史が浅いこともあり、消費者が正確な情報を得ているとは言い難いのが現状だ」

事実、その安全性に首をかしげる消費者は多く、日本での商業栽培はない。食品メーカーは製品の原料に「使用していないこと」を売り物にしている。

「米国では年間12万5千トンの農薬が使われている。誤使用などによる農家とその家族の中毒被害の報告は11万件あり、がんとの因果関係も指摘されている。中国では、病害虫に強い遺伝子組み換え綿が導入されて以降、殺虫剤散布が導入前の75%に激減した。 リスクと便益の評価は、もっと冷静になされるべきだ。私は、科学者として、母として、有機農業を営む夫を持つ妻として、GMOを食べるのに何の抵抗も感じない」

GMOで開発企業は利益を得、普及が進むほどその支配力が強まる構図もある。

「過酷な気象条件や貧弱な土壌でも収穫が期待できるGMOは、発展途上国の食糧不足を解決する。情報開示を徹底し、問題が起きた場合にだれが責任をとるかを、はっきりさせることが大切だ。途上国にはライセンス料なしで種子を提供することも考えるべきだ」
【鈴木淑子】  (朝日新聞2003年10月11日)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<改良の目標は増えていく> 品種改良も日本では「発展途上国型品種改良」から「先進国型品種改良」に変わっていく。生産量を増やすを最大の目標としていた品種改良から、もうちょっと違った目標に向かって改良が行われるようになる。 イネの場合も、コシヒカリが生まれた頃とは違って、「スギ花粉症の治療に効果のある遺伝子組み換え米」を目標とするようになった。これには全農も積極的に参加している。毎日新聞から引用しよう。
遺伝子組み換え「花粉症緩和米」 07年にも商業生産 全農など共同開発

 農水省は2日、スギ花粉症の治療に効果のある遺伝子組み換え米の商業生産が07年度にも実現する見通しとなったことを明らかにした。実現すれば、食用の遺伝子組み換え作物の商業生産は日本で初めて。遺伝子組み換え米の本格的な商業生産も世界初となるが、遺伝子組み換え作物は、安全性や生態系への影響に懸念を持つ人もおり、議論を呼びそうだ。
 この「花粉症緩和米」は、独立行政法人の農業生物資源研究所、日本製紙、全国農業協同組合連合会(全農)が共同開発。同省は、同米など遺伝子組み換え作物の実用化を支援するため、来年度予算で45億8000万円を概算要求した。来年度に試験栽培を行い、臨床試験で安全性を確認後、商業生産に入る計画だ。
 スギ花粉症は、アレルギーの原因となるたんぱく質を体内で外敵と認識し、鼻水や涙などの過剰反応が起こる。このたんぱく質を長期間、少量注射して耐性を作る治療法が行われているが、この原理を応用した。同たんぱく質を生成する人工遺伝子をイネに組み込むことで、コメのはい乳にこのたんぱく質が蓄積され、食べ続けると、アレルギー反応が起きにくくなる。農業生物資源研究所は、マウス実験で有効性を確認しており、人間にあてはめると、1日当たり1合(180CC)のご飯を数週間食べ続ければ効果が表れるという。
 花粉症緩和米は00年に開発に着手。現在は茨城県つくば市の同研究所の温室で試験栽培中で、来年度は同市内で他の農地と隔離した場所で、試験栽培を計画している。
 農水省は来年度から、安全性や栽培、流通の仕組みを検討する。また、厚生労働省の食品安全性の審査を受け、健康への効果を表示できる「特定保健用食品」として販売する方針だ。【尾村洋介】   
(毎日新聞 2003年09月02日)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<日本での遺伝子組み換え農産物> 遺伝子組み換え農産物の安全性確認にはいくつかの段階がある。それは、閉鎖系、非閉鎖系、隔離ほ場、栽培目的、輸入目的、食品、飼料、となっている。ここでは「栽培目的」として安全性が確認されているのもを拾い出してみた。 これらの中にはすでに「食品」としての安全性が確認されているものもあるし、「カーネーション」や「キク」のように食品としての安全性確認は不要、というものもある。
品目 開発者 特性 導入遺伝子 安全確認
アズキ 農業研究センター 害虫抵抗性 アルファ-アミラーゼ・インヒビター遺伝子 1999
イネ 農業研究センター,農業生物資源研究所 ウイルス抵抗性 イネ縞葉枯ウイルス外被タンパク質遺伝子 1994
イネ 農業環境技術研究所,KK植物工学研究所 ウイルス抵抗性 イネ縞葉枯ウイルス外被タンパク質遺伝子 1994
イネ 三井東圧化学 低アレルゲン イネアレルゲン遺伝子アンチセンス 1995
イネ 農業研究センター,農業生物資源研究所 ウイルス抵抗性 イネ縞葉枯ウイルス外被タンパク質遺伝子 1997
イネ 日本たばこ産業 造酒用低タンパク質 イネグルテリン遺伝子アンチセンス 1998
イネ モンサント 除草剤耐性 グリホサート耐性遺伝子 2000
イネ モンサント、愛知県農業総合試験場 除草剤耐性 グリホサート耐性遺伝子 2001
イネ 農業生物資源研究所 高光合成 トウモロコシ・C4型PEPC遺伝子 2003
カーネーション DNAP、サントリー 日持ち延長 エチレン合成酵素遺伝子(コサプレッション) 1996
カーネーション フロリジーン、サントリー 色変わり アントシアニン合成遺伝子 1997
カーネーション フロリジーン、サントリー 色変わり フラボノイド3',5'-水酸化酵素遺伝子他 1999
カーネーション フロリジーン、サントリー 日持ち延長 1-アミノシクロプロパンカルボン酸合成酵素遺伝子 2000
カーネーション フロリジーン、サントリー 色変わり フラボノイド3',5'-水酸化酵素遺伝子他 2000
カリフラワー タキイ種苗 除草剤耐性,雄性不稔 グルホシネート耐性遺伝子,雄性不稔遺伝子 2001
キク 麒麟麦酒 RNA病原体抵抗性 二重鎖特異的RNA分解酵素遺伝子 2002
キュウリ 農業生物資源研究所 灰色カビ病抵抗性 キチナーゼ遺伝子 1999
ダイズ モンサント 除草剤耐性 グリホサート耐性遺伝子 1996
トウモロコシ モンサント 害虫抵抗性 Btタンパク質産生遺伝子 2003
トウモロコシ ノースラップキング 害虫抵抗性,除草剤耐性 Btタンパク質産生遺伝子,グリホシネート耐性遺伝子 2002
トウモロコシ ノバルティスシード 害虫抵抗性,除草剤耐性 Btタンパク質産生遺伝子,グリホシネート耐性遺伝子 2002
トウモロコシ デカルブ 害虫抵抗性,除草剤耐性 グリホサート耐性遺伝子 1998
トウモロコシ モンサント 除草剤耐性 グリホサート耐性遺伝子 1998
トウモロコシ モンサント 害虫抵抗性,除草剤耐性 Btタンパク質産生遺伝子,グリホサート耐性 2003
トマト 農業環境技術研究所他 ウイルス抵抗性 TMV外被タンパク質遺伝子 1992
トマト 野菜・茶業試験場 ウイルス抵抗性 CMV外被タンパク質遺伝子 1996
農林水産省農林水産技術会議事務局の資料から作成  安全確認 は栽培目的での安全が確認された年。食品として販売するには更に安全性の確認が必要
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
食と農の戦後史               岸康彦               日本経済新聞社   1996.11.18
遺伝子組換え作物 大論争・何が問題なのか  大塚善樹              明石書店      2001.10.31
( 2004年1月12日 TANAKA1942b )
▲top

(22)遺伝子工学の方法
何が進歩して、何が停滞しているのか?

<組み換えの方法> ここでは遺伝子組み換え作物の作り方から話を始めよう。まず、ある生物から目的とする有用な遺伝子を見いだし、その遺伝子だけを取り出す。 このとき、この遺伝子以外の別の遺伝子が混じらないように処理をする。そして、作物の種類に応じて、次に挙げる3つの方法のどれかによって、作物の細胞の中の核にその遺伝子を導入する。 この段階では、目的どおりに有用遺伝子が導入されたかどうかわからない。そこで、多数の細胞を培養し、その中から目的とする遺伝子がちゃんと導入されているものだけを選抜し、増殖させる。 次に、増殖した細胞から芽や根を出させ、植物体を再生する。 こうして育成された多くの植物体の中から、有用遺伝子がきちんと発現しているものを選抜し、遺伝子的に安定なものとするために交配などを行ったものが、遺伝子組み換え作物となる。
アグロバクテリウムを利用する方法 土壌に住む細菌の一種であるアグロバクテリウムを利用する方法。@アグロバクテリウムの環になったプラスミドと呼ばれるDNAを取り出し、酵素を使って一部を切り取る。A導入したい有用遺伝子をアグロバクテリウムのプラスミドにつなぐ。 Bこの組み換えプラスミドをアグロバクテリウムに戻す。Cアグロバクテリウムを目的の農作物の組織に接触させる。Dアグロバクテリウムの働きで有用な遺伝子が目的の農作物のDNAの中に取り込まれ、組み換えがおこる。
パーティカルガン法 パーティカルガン(遺伝子銃とも言う)を使って直接有用遺伝子を細胞に入れる方法。@目的の遺伝子を金などの微粒子にまぶす。A遺伝子をまぶした微粒子をガスなどの圧力で葉などの植物組織・細胞に打ち込む。Bアグロバクテリウム法と同様に培養・選抜を行い組み換え植物を作る。 米国アグラシータス社が開発した。
エレクトロポレーション法 電気窄孔法とも言われるこの方法は、電気パルスの刺激を利用して有用遺伝子を植物細胞に直接入れる方法で、細胞融合にも利用されている。 @有用遺伝子を導入したい植物からプロトプラストを作る。Aプロトプラストと有用遺伝子を溶液に入れて、直流の電気パルス(数1000ボルト/cmの高電圧で数10μ秒のパルス)をかけるとプロトプラストの細胞膜に短時間、小さな穴があき外液といっしょに遺伝子が取り込まれる。 Bアグロバクテリウム法と同様に培養・選抜などを行い組み換え植物を作る。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<1995年当時のTV番組> 遺伝子組み換えに関する資料をいろいろ探している内に、1995年放送NHK・TVのビデオが見つかった。1995年6月12・13日放送のETV特集「コメ自由化元年」@アメリカ遺伝子特許戦略、A生き残れるか日本の稲作。このうちの「A生き残れるか日本の稲作」を基に話を進めよう。
 番組では、アメリカ、アーカンソン州での農家がコシヒカリの直播き栽培をやっていて、農地が760ha、日本の平均の950倍の広さ、直播きによりコストは日本の1/10程度、との話から、アメリカの遺伝子組み換え技術とそれに対する日本のミラクルジャポニカ計画、遺伝子組み換え技術の将来、へと話は進んでいった。 番組登場者はキャスターが中田薫、コメンテータが天笠啓祐(ジャーナリスト)と辻井博(京都大学教授)、それに番組内で意見を言うのが山本隆一博士(農水省農業研究センター)、久保友明(日本たばこ産業遺伝育種研究所所長)、西尾剛(農水省放射線育種場室長)、榎本良夫(キリンビール取締役)。
 アメリカ、カーネル大学のジョン・サンフォード博士は遺伝子銃のアイデアを特許申請し、1990年に発効されるとこの特許権をデュポン社に売った。アメリカのベンチャー企業、アグラシータス社(Agracetus)は遺伝子銃を開発し、デュポン社と提携し遺伝子銃に関する特許を取った(後にモンサント社がこのアグラシータス社を吸収合併する)。 アグラシータス社は遺伝子銃の特許とこの使用に関する特許を1992年に取る。そしてこれを使用してわずか3年で除草剤に強いコメを開発し、特許を申請した。
 これに対して日本ではミラクルジャポニカ計画を進める。ただしこれには遺伝子組み換えは含まれていない。この計画に対して天笠氏は次のように言う。
 放射線による突然変異の利用というのは、遺伝子組み換えがハイテクなら、ローテクに属する技術ですね。現場では朝礼暮改的に変わる方針に対して、白けていますね。
 これが1995年6月当時の状況。現在では農水省も遺伝子組み換え技術を積極的に利用しようとしている。現場では朝令暮改的な変化に白けているのだろうか?しかし技術は進化すれば、それに従って方針も変わるべきで、なかなか方針を変えない、前例に従って開発を進めるべきだ、と考えるのはいかにもお役所感覚だ。 コメの品種改良に企業も参加するようになって、積極的に新しい技術を利用しようとなってきたようだ。
 この番組ではアメリカが農遺産物に関する特許戦争を仕掛けてきた、これに対して日本はどうする?というのがテーマになっている。これにはポール・クルグマンが「そんな概念はないよ」と否定する「国際競争力」という考え方がベースにある。アメリカが仕掛けてきた特許戦争・アメリカ企業の特許戦略が議論の対象となる。 辻井博氏はこうした遺伝子組み換えの特許に関して次のように言う。
 特許は研究を促進するという側面はあるが、しかし、特許には問題点もあって、その特許の幅が広すぎたり、期間が長すぎたりすると、社会的に不公正・不公平な問題が起こってくる。だから、その辺を考えなければならない。もともと特許制度は人類の幸福のためにあるわけですから、特許を取った人だけが儲かっているのでは困ると、私は考える訳です。 特許の権利がカバーする幅、特許の権利が保証する期間、これをやっぱり日本の農業を維持していくにはどうしたらいいか、主体的に考えて国際的にも交渉して新しい枠組みを作っていくべきだと思います。もう一つは、特許料をあんまり高くすると、特許を取った会社やその主体にあまりにも多くの利益を与えてしまいますから、不公平になりますね。 その辺をどう決めるか、やっぱり、学者と、いろんな団体とか政府とかが集まって、徹底的にどうすべきか、決めるべきであろうし、国際的にも交渉して決めていくべきなんじゃないかと思います。出来ると思うんですね。これは比較的やりやすい問題だと思うんですね。
 終わりの方で、コメンテータの中田氏は言う「この遺伝子組み換えの戦略が我々の食卓を変えるかどうか、と言うことは、やっぱり消費者がきちんと考えておかないと道を誤りかねない、という、そういう問題提起でもあると思うんですけれど」。それに対して天笠氏は言う。
 それが大きなポイントになるでしょうね。消費者が一番気にしていることは、組み換え作物が新しい技術であるので、安全性に疑問を持っていることです。開発する側は「画期的だ」と言う。そうして新しい品種が市場に入って来る。これから越えなければならない壁は「安全性」なんですね。消費者の理解を得る、得ないということが最大のポイントになって来ると思いますよ。 消費者がはたしてこの遺伝子組み換え食品を選択するのか、あるいは選択しないのか、そういう問題として提起しているんじゃないかと思います。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<特許制度が企業の技術開発を促進する> 企業は特許を取って独占的な利益を得ようとし、そのために技術開発に投資する。もし独創的な技術を開発しても、その使用料を自社では決められないならば、科学者や関係する団体や政府が決めるとしたら、せっかく開発した特許もその開発費を回収出来ないかも知れない。そのように自社で決められない制度になったら研究投資額は確実に減る。進歩は遅くなる。 未知との遭遇に恐怖心を持つ人は喜ぶ。現代のラダイト運動は活気づく。
 もし現状の制度で、企業が非常に高い特許使用料を要求したらどうなるか?農家はその企業から種子を買わない。組み換え種子を栽培して利益が上がるかどうか計算する。その結果、従来の種子を栽培する。そうなると開発した種子会社は売り上げが伸びないので、種子の販売価格を下げざるを得ない。これは市場経済では自然なこと。ただし、旧ソ連のような社会主義経済ではこうならない。 政府や農協の指示した種子を買うことになる。つまり、特許料を学者や団体、政府で決めるべきだというのは社会主義経済体制での発想、日本やアメリカ、その他の諸国が市場経済である、ということを忘れている発想だ。
 そうしてもう一つ、国際的な交渉を通じてアメリカ企業の自由な活動を制限しよう、との考えは、「発展途上国型発想」だ。「先進国は特許制度を利用して、途上国から特許使用料を取ろうとしている」とは途上国型発想。かつて韓国・台湾・香港・シンガポールなどで先進国のブランド品の偽物が作られて話題になったことがあった。最近では話題にならない。それだけこれらの国が先進国に近づいて来たのだろう。 日本政府の立場は「知的所有権を大切にしよう」だ。辻井氏の発想は発展途上国型の発想。そしてそこには「日本はアメリカに比べて遅れている」との認識がある。そうでなければこのような発言にはならない。そしてそれは「自虐的発想」という点で、歴史を自虐的に見る態度に共通する。もうこのような「敗北主義」は捨てるべきだ。日本で品種改良に多大の貢献をしてきた先人たちの功績を正当に評価し、それに学ぶべきだと思う。 品種改良では、江戸時代から日本は先進国だった。農業経済学者は視野狭窄にならず、時代を超えて、江戸時代にも目を向けて見ましょう。江戸時代の庶民の品種改良に対する好奇心や遊び心が伝わって来て、日本の歴史の勉強が楽しくなるでしょう。もうこのような「尊農攘夷論」はやめにしましょうよ。
<品種改良のなにが進歩し、なにが停滞しているのか?> 日本ではコメの品種改良が、交雑育種法から細胞培養を利用してF1ハイブリッドを開発したり、遺伝子組み換えを利用したりと、多彩な技術を利用しようとの姿勢になってきた。開発に関しては新しい技術を利用しようとしている。それでもまだ、官主導の進め方は改まっていないようだ。 そこには、「日本対アメリカ」とか「国際競争力」とかあるいは「食糧安保」「食糧自給率」という言葉が生きていて、コメの品種改良は「国家事業」であるとの意識が強い。それはマスコミ報道、NHKの番組でも感じられる。 企業間の競争であり、アメリカも日本のオランダもベルギーも、それぞれの国の企業が入り乱れて開発競争をしている、と捉えると全く意識が変わってくるのだが、そうした感覚はマスコミ人にはなさそうだ。あるいは「国際競争力」とか「日本とアメリカの争い」と扱った方が視聴率を取れると考えているのかも知れない。 コメの開発に種子会社が参入して来ると、社会主義的な発想が少なくなり、自由な競争、自由な研究が進むと思うのだが、テレビに登場する識者には隠れコミュニスト的な人が多いようだ。1995年に放送され、取り上げられた問題、その多くはそのまま蓋をされている。いずれコメ市場は開放され、グローバリゼーションは進む。 それまで問題を先送りしていると「グローバリゼーションによって社会は進化する」で扱った様な悲劇が起こるかも知れない。今は開国を迫られた幕末期に似ている。黒船のたった四杯で夜も眠れなかったように、遺伝子組み換えで日本のコメ作りが慌てふたむき、右往左往することになる。 コメ作りをどうするか、意見の一代雑種を作る必要がある。あるいは農業政策に「市場経済」「利潤追求」という遺伝子をアグロバクテリウムを使って組み込むことが必要かもしれない。いずれにしろ、成長痛が起こることは覚悟しなければならない。それを克服してこそ、日本の農業は先進国型産業に進化していくことになる。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
遺伝子組み換え関連略年表
1900 オランダのド・フリース(Hugo De Vries)、ドイツのコレンス(Carl Correns)、オ−ストリアのチェルマク(Erich von Tshermak-Seysenegg)により、それぞれ独立にメンデルの法則が再発見される.
1903 キャノン(Cannon)がエンドウの染色体数を確定 米国のサットン(Sutton)が、メンデルのいう遺伝因子は染色体上にあると指摘.
1930 米国の農家がトウモロコシのハイブリッド種を1922年に購入して使いはじめ、トウモロコシ生産高が1965年までに600%増加する
1933 ローズ(Rhodes)がトウモロコシで細胞質雄性不稔性を発見
1944 エイブリーが遺伝子の本体がDNAであることを確認
1952 ハーシーとチェイスが遺伝情報を伝えるのがDNAであることを証明
1953 
ワトソン(James D.Watson)とクリック(Francis Crick)がNature誌に「DNA2重らせんモデル」を発表。
1959 中国全土で大飢饉発生(1959-1961年)。3年間で2千万人以上が餓死する.
1961 米国ワシントン州立大学のボーローグ(O.Vogel)が、日本の農林10号を親として、コムギの最初の超多収品種Gainsを育成.
1963 スチュワードが植物の組織培養に成功
1970 ボーローグが、“緑の革命”とよばれる小麦品種改良(半矮性小麦品種)により、植物品種改良家として初のノーベル賞受賞者となる
1970 ハミルトンとスミスが制限酵素の作用を解明
1972 米国のCarlsonらは、タバコ属の種間で細胞融合によりはじめて体細胞雑種を作成する
1972 バーグが試験管内で組み換えDNAの作成 。これが初めての遺伝子組換え実験となる。
1973 
米スタンフォード大学のスタンレー・コーエン(S.Cohen)教授と「EcoR T」の発見者ハーバート・ボイヤー(H.Boyer)教授らのグループが、DNAを組み換える方法を発見。大腸菌のDNAを酵素をつかって自在にカットし、そこに黄色ぶどう状球菌の遺伝子を組み入れることに成功した(1973.3)。これによって、人類は初めて遺伝子を操作できるようになった。 この結果は11月に科学雑誌Natureに発表され、バイオテクノロジーのブームのきっかけとなった。
1974 シェル(Jozet S.Schell)博士とモンタギュー(Marc C.E.Van Montagu)博士がアグロバクテリウムのTiプラスミドを発見
1974 中国で最初のイネ実用F1品種が育成される
1975 
2月サンフランシスコ郊外のアシロマで遺伝子操作の安全性に関する会議が開催される(アシロマ会議)
1975 酵素によりDNAを特定箇所で切断する技術が開発される。
1976 米国国立衛生研究所(NIH)が世界で初めて、遺伝子組み換え実験のガイドラインを作成
1976 ボイヤー博士が世界初の遺伝子工学企業のジェネンテック社を創設。ヒトインシュリンやヒト成長ホルモンなどの生産に成功。同社は今日、最も成功したバイオ企業として知られる。
1978 
ドイツのマックスプランク生物学研究所のメルヒャー(Melchers)が、トマトとジャガイモの細胞融合により、交雑不可能な属間における最初の体細胞雑種ポマトを作出
1979 中国でハイブリッド・ライス(F1品種)の作付け面積が500万ha(全水田面積の1/6)に達する
1982 
ヒトインスリン、ヒト成長ホルモンが組み換え大腸菌から作られ市販され、医薬品から組み換え技術が実用化される。
1983 経済協力開発機構(OECD)が、産業利用における遺伝子組み換え体の安全性評価に関する検討を開始する
1985 除草剤耐性植物が開発される
1985 PCR法(パーティカルガン法 )を開発(米アグラシータス社)
1986 米国でタバコモザイクウィルスによる病気への抵抗性をもったタバコが開発される
1986 ベルギーで害虫抵抗性のタバコが開発される
1987 中国でハイブリッド・ライス(F1品種)の作付け面積が1,000万ha(全水田面積の1/3)を超える
1989 米国で日持ちを良くしたトマトが誕生する。市販開始は1994年。
1990 遺伝子組み換え技術でキモシンがつくられる
1992 米国化学品メーカー WR Rgaceのバイオテクノロジー子会社アグラシータス社(Agracetus)によりすべての遺伝子組み換えコットンについての特許が認められる(1994年に無効)
1992 米国カーギル社(Calgene)は、日持ち性を改善した遺伝子組み換えトマト (FlavrSavr Tomato)の特許を取得
1993 OECDが環境安全性の基本概念であるファミリアリティと、食品安全性の基本概念となる実質的同等性を打ち出す
1994 
遺伝子組み換え技術で作られたフレーバーセーバー・トマト(FlavrSavrTomato)(日持ちの良いトマト)が米国ではじめて認可され店頭に並ぶ
1995 米国で遺伝子組み換え技術で作られた除草剤耐性ナタネの安全性が確認される
1996 遺伝子組み換え作物の初の大規模生産が開始される。米国からの欧州向け輸出に対して欧州で反対運動が始まる。96年の遺伝子組み換え作物の栽培面積は2百万ha。
1996 日本の旧厚生省が遺伝子組み換え作物4種7品目の安全性を確認
1997 遺伝子組み換え作物の栽培急拡大。 栽培面積は、11百万ヘクタールに増加。
1997 農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律(JAS法)が1999年7月22日に改正され、遺伝子組み換え食品について表示することが決まりました
1998 欧州で、遺伝子組み換え食品についての表示義務化が開始される。 遺伝子組み換え作物の栽培面積は、さらに急拡大、28百万ヘクタールとなる。
1999 ビタミンA前駆体のベータカロテンを含み、開発途上国の子供たちの失明予防に役立つ可能性を持つイネが開発される
1999 ローマで行われたコーデックス委員会総会で、バイオテクノロジー応用食品部会が設立され、日本が議長国に
2000 3月31日に「遺伝子組み換えに関する表示の基準」が告示され、表示制度がスタートしました
2000 かずさDNA研究所が高等植物(アブラナ科シロイヌナズナ)の全ゲノムを解読
2001 日本で遺伝子組み換え食品の安全性審査が義務化される。JAS法と食品衛生法による、遺伝子組み換え表示制度がスタートする
2001 シンジェンタ社がイネゲノムの解読を終了
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
組換え農作物 早わかりQ&A        農水省農林水産技術会議事務局               2002. 4
くらしのなかのバイオテクノロジー      農水省農林水産技術会議事務局               2001. 4 
( 2004年1月19日 TANAKA1942b )
▲top

(23)批判派・推進派の主張
世界の食糧危機を救うか?

<批判派の主張> 遺伝子組み換え食品を批判する人たちがいる。科学者やジャーナリストや市民運動家や、そうした人たちの主張に共鳴する人たち……。 その主張はいろいろあって、不安感を表明する程度から、積極的に批判する厳しいものまで、それでも「日本人が作りだした農作物 品種改良にみる農業先進国型産業論」の各論としてはある程度要領よくまとめて話を進めなければならない。 たくさんの不安感、反対論を読んでTANAKA1942bなりにまとめてみようと思う。分からない事がいっぱいある。でも、だからといって「分かりません」と言って逃げ出すことはやらない。アマチュアエコノミストの意地が許さない。 批判派の主張、そのポイントを4つにまとめてみた。
食品としての安全性に不安 人間が植物の遺伝子を操作して、今までに無かった遺伝子構造の作物を作り出した。これを人間が食べて何の害もないのか?あるいはアレルギー症状が出る可能性はないのか?ヒトインスリンなどの医薬品は専門の医師が適切に患者に投与する。 しかし組み換え食品に関しては、安全性の素人がいろんな食べ方をする。食べる量も人によって違う。生活環境も違う。それでも安心して食べていいものか、素人にも納得できる説明がない。
 パズタイ事件に関して、「バズタイらのGNA組み換えジャガイモのデータは、不十分なものだ」との意見もあるが、だからと言って「GNAが安全だ」とは言えない。 「実質的同等性」は経済的・政治的に作られた矛盾した規準で、その科学的根拠は曖昧であり、有効ではない。このような安全性を当然視するだけの概念に代えて、毒性を実際に調べる方法を政府は確立すべきである。
環境へ悪影響が心配 遺伝子組み換え作物を露地栽培していれば、いずれ従来からある在来種と交雑する可能性がある。本来組み換えでない在来種が、知らない間に組み換え作物のなるかもしれない。組み換え作物自身が雑草化したり、除草剤が効かない雑草が増えるとか、農薬や抗生物質に耐性な遺伝子が生態系に広がることが懸念される。 さらに、1999年5月20日号の「ネイチャー」に掲載された、米国コーネル大学の昆虫学者、ジョン・ロージーらのグループによる報告のように、害虫を殺すBt毒素の遺伝子を組み込んだ遺伝子組み換え作物が、害虫でない昆虫に害を与える可能性もある。
種子会社が農業を支配するおそれ 1999年2月、アメリカの週刊誌「タイム」に「自殺する種子(Suicide seeds)」という刺激的なタイトルの支持が掲載された。これはモンサント社が開発した作物で、その種子が農家に売られ、その種子を播いて育てた作物から農家が種子をとって自分の畑に播いても、そのときには種子自体に仕掛けられた仕組みが働いて、発芽能力が押さえられて死んでしまう仕組みに、タイム社が「自殺する種子」と名付けて記事を掲載したものだった。 F1ハイブリッドを徹底させたものだった。農民はモンサント社の組み換え種子を使う場合は、種子代金を払うだけではなく、次の年に自分のところでできた種子を使わないよう契約書にサインさせられる。モンサント社が種子の選択権を支配しようとした例は他にもある。カナダのサスカチュウアン州の一農家がキャノーラ(含有化学成分を改変したアブラナ科ナタネ)のモンサント社の除草剤抵抗性品種を契約内容を守らずに栽培したとして、その農家をモンサント社が裁判に訴えた、という例もある。 このように種子会社が農家・農業を支配し始めている。
大企業に対する不信感 組み換え作物ではない、とされていたものの中に組み換え作物が混入していた例は多い。これからも度々起こりそうだ。組み換え作物が人体に害があるとか、環境に悪影響を与えるとか、種子会社に不利なことが分かったとき、種子会社はそれをすぐに公表するだろうか? 人間に対する安全性、環境への影響など、企業と消費者との間には「情報の非対称性」がある。常に情報は企業側からの一方通行。これでは企業と消費者が対等だとは言えない。企業が利潤追求のために安全性を無視した経営戦略とる可能性は否定できない。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<推進派の主張> 推進派の考えは「品種改良とは本質的に遺伝子組み換えであった」ということだろう。今まで進めてきて、大きな成果を上げてきた品種改良、それが突然非難され始めた。そうしたおどろきが感じられる。
品種改良の延長線上にある組み換え技術 品種改良とは本質的に遺伝子組み換えであった。交雑育種法でも一代雑種育種法でも新しく遺伝子が組み換えられている。どのように組み換えられたかは、個々の遺伝子を問題とするのではなく、その結果どのような作物が出来たかを問題とする。このため開発中はどのような作物が出来るかはっきりしない。たくさんトライしていい品種だけを選抜していく。 これに対してGEOは始めからどのような遺伝子を組み込んで、どのような性質を加えるか?を計画して育種する。このため成功率が高く、短い時間で結果が出る。新しい技術であり、いままでの品種改良と違って、経験だけではなく科学の知識が必要になる。このため仕組みが理解出来ないと不気味な技術と感じる。クローン技術とかSFの世界にダブってイメージされる。こうしたことで充分な理解が得られていないのは残念であり、これからさらなる情報公開が必要になろう。 農水省は今まで、問題が大きくなるのを恐れたためか、充分な議論を促進してこなかった。マスコミは視聴率・購読者数を伸ばすためにセンセーショナルに扱って来たし、これからもそうであろう。これは資本主義社会での株式会社組織である以上、当然の経営戦略であろう。
 安全性に対しては、個々の品目を「実質的同等性」という方法で検討していく。いままで日常の食品では行われなかった検査なので、特に不安感を煽る必要はない。
虫を殺す作物を人間が食べても大丈夫か? 「昆虫が食べて死ぬ遺伝子を人間が食べさせられている」「GM食品のタンパク質によるアレルギーが不安だ」と言うのが耐虫性作物に対する不安だろう。1901年、日本の細菌学者の石渡繁胤(いしわた・しげたね)はカイコの病気を研究していて、当時はまだ種類が確認されていなかった胞子形成性細菌(後にバチルス・チューリンゲンシス=Bt=と命名された)が原因だと突き止めた。 その後、1915年にドイツのチューリンゲンシス地方でスジコナマダラメイガに殺虫作用を示すバチルス菌が発見され、現在その地方の名前をつけてバチルス・チューリンゲンシス=Bt=菌と呼ばれている。このバクテリアは人間やほ乳類には何の害を与えないことが分かり、1960年代から天敵微生物農薬として実用化されていて、環境に負荷をかけない生物農薬として高く評価されている。この遺伝子をトウモロコシやジャガイモに組込利用しようというもので、これが批判されている耐虫性作物の実像であり、この点に関してはマスコミも十分な理解が必要と言える。
除草剤耐性作物は農薬の使用量を増やすか? 除草剤耐性のGMダイズには「除草剤の使用量が増え、耐性雑草が増える」「花粉によって除草剤耐性遺伝子が拡散して生態系を壊す」が問題とされている。除草剤の使用量については、「ラウンドアップ」や「バスタ」という除草剤は、特定のアミノ酸の代謝を阻害して植物の生長継続をを不可能にするもので、その仕組みから薬量を増やすことで効果が上がるものではない。 GMダイズを栽培しているアメリカの産地では統計上除草剤の使用は半減している。(「遺伝子組み換えの評価は冷静に」を参照)。
除草剤耐性作物は環境に悪影響を与えるか? 除草剤に耐性の雑草は組み換え作物が誕生する前からたくさんあった。従来の除草剤の使用による耐性雑草の出現がそれで、だからと言って耐性雑草がはびこったとは言わない。効果のない除草剤は使わないし、特定の除草剤を使わない限り、耐性雑草は「ただの草」なのだから。
 生態系に与える花粉の影響は、その原因と結果を評価するのは難しい。しかし。これまでの品種改良で誕生した膨大な新品種による生態系の破壊が問題になったことはない。こうした問題では、「赤米」がその野性的な生命力の強さにより「白米」を野生化する、ということで明治以降栽培禁止になったことが頭に浮かぶ。またアブラナ科のハクサイが自然交配してなかなか種子が取れなくて、明治時代に輸入されながら、日本で種子が取れ本格的な栽培が始まるのが昭和になってからだった、ということが頭に浮かぶ。
 わが国では「組み換えダイズ反対キャンペーン」によって、この除草剤耐性ダイズの利用が締め出され、その代わりに、従来の除草剤がしっかり散布されたダイズが高い価格で輸入されていることは理解しておくべきであろう。 東京穀物商品取引所で扱われるダイズ、取引量では一般ダイズ(GMを含む)1対Non−GMO大豆4の割合、価格ではNon−GMO大豆が一般ダイズの1割高。
種子会社に支配されるか? 「世界の食糧危機を救うかのような装いをして、企業の利益を隠蔽しようとしている」とか「自社の農薬を売りつけるためにGM作物を開発した」との批判がまかり通るのはおかしい。自らの生き残りを図るために、大きな決断をして、将来展望の中から、生命産業、バイオ産業に転換を図ったとしても、その決断を評価することはあっても、文句を言う筋合いではないはずだ。 そして10年以上に及ぶ開発研究の時間と負担に耐えて、その成果が日の目を見たからといって、足を引っ張るのは、単なる嫉妬と言うべきだ。わが国独自にこの分野で技術開発を懸命にやってきた日本のチームは、彼らの企業戦略に負けたのであって、率直に反省すべきこと。そして日本企業がアメリカのブロッコリー種子市場の70%を押さえていたり、遺伝子組み換えで新しいチューリップを開発販売しても文句を言われる筋合いではない。 一企業が特定の市場を支配するのは難しい。1920年代のスタンダード石油でさえ価格支配はしていなかった、という研究もある。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<キーワードの説明> ここではいくつかの言葉について説明しておこう。一つの事実も見方によってその評価は変わってくる。なるでく偏らないように書いてみた。
パズタイ事件 1998年8月10日、イギリスのTV番組「ワールド・イン・アクション」でアルバド・パズタイ博士は「ある遺伝子組み換えジャガイモを長期間与えたラットで、わずかな成長の遅れと免疫作用の低下が起こった」と発言した。この遺伝子組み換えジャガイモは、マツユキソウの球根から得られたGNAというレクチンの遺伝子を組み込んでいた。 GNAは人間には無害だが害虫には毒性があるため、ジャガイモだけでなくイネでも実用化が有望視されているものだった。しかしこの発言の科学的信憑性が問題になり、パズタイはその年末に免職となった。以後こうした実験が数多く行われているが、科学的な結論は出ていない。
同質的同等性 1993年にOECD(経済協力開発機構)のバイオテクノロジー安全性専門委員会で導入され、1996年にFAO(世界食糧機構)とWHO(世界保健機構)で確認されたもの。 同質的同等性は、遺伝子組み換え食品の安全性を評価するときに、その食品自体の毒性を調べるのではなく、従来と同じ様な食品と成分を比較することで評価しようとする考え方。つまり、タンパク質、炭水化物、脂質、繊維質などの大雑把な食品成分の割合や、アミノ酸、脂肪酸、ビタミン、ミネラルの組成が、対応する従来品と同じであれば、そして、組み換えた遺伝子の産物であるタンパク質が安全なものであれば、毒性試験は行わない。 厚生省の指針でも、「遺伝子組み換え体における導入遺伝子の特性が明白であり、食品成分が従来品から変化していなければ、実質的に同等な安全性をもつ」とみなされる。
コーネル大の実験 1999年5月20日号の科学雑誌「ネイチャー」に、米国コーネル大学の昆虫学者ジョン・ロージーらのグループによる報告が掲載された。 実験ではオオカバマダラの幼虫が好むトウワタという草の葉に、遺伝子組み換えと非遺伝子組み換えのトウモロコシをまぶして食べさした。その結果、遺伝子組み換えのトウモロコシの花粉を食べた幼虫は、成長が遅く44%が死亡した。非遺伝子組み換えのトウモロコシの花粉を食べた幼虫では、死亡は見られなかった。 遺伝子組み換えのトウモロコシの花粉には、チョウやガの幼虫を障害するBt毒素が含まれていた。この実験で、その花粉が飛散した場合に、害虫以外の昆虫にも影響が及ぶ可能性が確かめられたことになる。これがロージーらの報告の要旨。
 この報告に対して反論が出た。@トウモロコシの花粉は実験ほど多く飛ばないかもしれない。オオカバマダラの幼虫も、花粉がついた葉は好まないかもしれない。A実験に用いた花粉の量が正確に測定されていなくて、実験は不備である。B95%のオオカバマダラはトウモロコシが花粉をとばす前に成虫になっていた。
 この問題は、Btトウモロコシは、科学殺虫剤使用量を減少させ、オオカバマダラの生育を助けるというメリットがある。この利点とリスクの可能性、どちらが大きいかを見極めるには、さらに研究が必要だ、という点では一致している。
トリプトファン事件 1988年から1989年にかけて、昭和電工が製造した健康食品トリプトファン製品が大規模な食品公害事件を起こした。アメリカを中心に約1,600人の被害者を出し、そのうち38人が死亡した。これは微生物を用いて遺伝子組み換えを行ったもので、製造の過程で不純物が混入したと考えられた。最先端科学は使い方を誤ったり、ちょっとした不注意が大きな惨事を引き起こすことになる。企業内に、そしてそこで働く従業員にそれだけの厳しい安全意識があるかどうかが問題になる事件であった。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<バイテクは世界の食糧危機を救うか?>批判派・推進派、それぞれの主張がある。では公正な第三者はどのように見るか?そこでアマチュアエコノミストが登場する。(本当は、単なる「傍観者・野次馬」でしかないかもしれないが)。
 国連世界食糧機構(FAO)が世界の科学者に呼びかけて「発展途上国の食糧生産や農業にとって現在のバイオテクノロジーは適切か」というテーマで、2000年3月からインターネットで上で異論を行ったが結論は出ていない。 一方「遺伝子組み換え作物が世界の食糧危機を救う」と、推進派は主張すると言われている。遺伝子組み換え技術を使えば、生産性の向上、病虫害への抵抗性、日持ちの良さ、乾燥や高温への抵抗性、栄養価の増進などの特性を付与する事が期待される。「食糧危機を救う切り札」とまで言えるかどうかは分からないが、解決への有力な回答にはなるだろう。このように考えると「先進国の裕福な消費者に見られる、遺伝子組み換え慎重論は、発展途上国の貧しい農民が食糧や輸出農産物の生産性を向上させる可能性を奪っている」との主張が正論のようにも思えてくる。
 しかし、技術的な可能性と、政治的・経済的な面からの検討も必要で、この面から考えると、必ずしも大きな期待はできない。この技術を使いこなすフト・サイエンスが整っていない。農業は先進国型産業であって、開発途上国が農業技術・バイオテクノロジーを使いこなすにはヒューマン・キャピタルが不足している。アジアでの「緑の革命」が期待したほどの成果が上がっていないのを見れば明らかだ。 楽観論・悲観論いろいろ考えられるが、開発途上国での遺伝子組み換え作物のインパクトは、先進国型産業である農業技術を使いこなすソフト・サイエンスの進化いかんにかかっている。そして、途上国での栽培よりも先進国での栽培が進み、ハイテク農業は先進国で、ローテク農業=労働力集約型農業は途上国の比較優位産業として位置づけられていくだろう。
 乾燥に強い植物開発に取り組み、サハラ砂漠やタクマラカン沙漠でポプラ以上に緑化に有効な植物が開発されれば、将来に対する期待は大きく膨らんでくる。なぜなら現在改良されているのは、先進国向けの作物だからだ。「世界の食糧事情」と言っても、先進国向けの開発で、先進国の農家を顧客とした種子会社の開発戦略になっている。 ビル・ゲイツが指摘するように、組み換え遺伝子を使ってイネのベータカロチン含有量を増大させ、熱帯の消費者の体内でビタミンA不足を解消させる可能性の追求や、損害を被っている人の数では目下地球上最大の作物病害ではないかとも言われるアフリカのキャッサバモザイクウィルス病を組み換え遺伝子を使って解決できたら、人類史的貢献になるだろう。 こうした研究開発が具体化すれば、世界の食糧危機を救う可能性が高まったと言える。
 と言うことで、当面は種子会社の利潤追求の一戦略であり、それが世界の食糧事情にプラスにもなるのが、この遺伝子組み換え作物だ、と考えるのがよさそうだ。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
自殺する種子 遺伝資源は誰のもの?       河野和男             新思索社     2001.12.30
遺伝子組換え作物 大論争・何が問題なのか    大塚善樹             明石書店     2001.10.31
食の未来を考える                大澤勝次・今井裕         岩波書店     2003. 6.27 
遺伝子改造社会 あなたはどうする        池田清彦・金森修         洋泉社      2001. 4.21
遺伝子組み換え作物と環境への危機 ジェーン・リスラー、マーガレット・メロン 阿部利得他訳 合同出版 1999.10.25
遺伝子組換え作物の生態系への影響        (独)農業環境技術研究所編     養賢堂      2003. 3.25
食の世界にいま何がおきているか         中村靖彦             岩波新書     2002.12.20
よくわかる遺伝子組み換え食品          渡辺雄二             KKベストセラーズ 2001. 6. 5
不安なバイオ食品                渡辺雄二             技術と人間    1997. 2.10
組換え農作物 早わかりQ&A          農水省農林水産技術会議事務局            2002. 4
くらしのなかのバイオテクノロジー        農水省農林水産技術会議事務局            2001. 4 
遺伝子組み換え作物に未来はあるか        柳下登・塚平広志・杉田史郎    本の泉社     1999.12.10
増補改訂 遺伝子組み換え食品          天笠啓祐             緑風出版     2000. 1.31
古代からのメッセージ 赤米のねがい       安本義正             近代文芸社    1994. 3.10 
( 2004年1月26日 TANAKA1942b )
▲top

(24)安全性について考える
利益と不利益とのバランスをはかる社会的な概念

<武谷三男の「安全性の考え方」> 遺伝子組み換え作物を考える場合、「安全性」がポイントになる。では「安全性」とはどのようなことなのだろうか?GMOは大きな利点がある。生産性の向上、イネのベータカロチン含有量を増大させなどの栄養価の付加、など多くの利点がある。 一方で批判派の主張する危険性も無視できない。ここでは戦後の市民運動に大きな影響を与えた武谷三男の考えを引用してみよう。
まえがき われわれの生活の周辺には危険が一ぱいである。何をするにも、いや、部屋でひそかに暮らしていても、生活がむしばまれ、生命は危険におびやかされる。すべてこれ文明の産物である。あるいは科学の産物である。この矛盾こそ現代の最大の問題の一つであり、いい気になっているうちに、自然のバランスが破壊され、人類の運命にも関することがしのびよってくるといえるかも知れない。 この端的なあらわれが現代の戦争の姿である。
 私は科学者として、文明の発達や、科学技術の進展を否定しようとは思わない。私は科学時代を謳歌するものである。ではこのような安全の侵害は、何によっておこるのだろうか。科学の非科学的利用、科学の不完全な利用、部分的な利用によるという他はない。ではどうしてそのような片輪な利用が行われるのか。これを防止するにはどうしたらよいか。これが本書の問題である。
 この問題の一部がいわゆる公害である。公害については、すでに「恐るべき公害」というよい教科書が岩波新書にある。労災や公害との闘いの歴史は古い。戦前有名なものに足尾鉱害がある。これは今日になってもまだ完全な解決がかちとられていない。科学の悪用に対する戦後最大の闘いは原水爆の「死の灰」に対する日本国民の闘いであり、科学者、市民が手をにぎって模範的な運動を展開した。 この経験が意識的無意識的にその後の運動の模範になったということができよう。その後、1957年頃関西原子炉をめぐっての市民運動、さらに本書に記した数多くの運動がある。
 私は戦後、安全性の問題を扱いつづけてきた。科学者、技術者として、安全性を科学的に正しく扱い、主張することは、決して有利なことではない。たかだかジャーナリズムに多少名が知られる位のもので、必ず悪者にされ、科学者としてのマイナスは大きい。初期の頃はわれわれの仲間は少なかった。しかし最近安全問題に良心的に取り組む科学者が各領域にあらわれ成長してきたことは喜ばしい。 このような各方面の科学者の多年の成果を、昨年「科学」10月号に特集することができた。われわれは、この特集のために、何回も討論を行った。
 「科学」の特集が完成したころ、安全問題のテーマで新書を1冊つくってはどうかということになった。早速本書のあとがきにあげてある方々に集まってもらって、プランをねり、何回か会合をかさね、討論の末でき上がったのが本書である。
 本書には科学者や市民の多くの人々の多年の努力と、犠牲の経験がこめられている。安全性を確保し、正しい科学の利用、健全な文明の建設のために本書が何らかの役に立つことを願う。   1967年4月  編者 武谷三男
許容量に対する疑い 放射線の人体への影響が、青酸カリの毒性のように、一時的に死に至らしめるというばかりでないことは広島・長崎の経験を通じて国民全体が知っている。爆発地点からかなり遠くにいた人たちで、被爆当時は何でもなかった人の中にも数年のちになって、とつぜん発病した原爆病に侵されて死んで行った人が数々いる事実は、よく知られていた。 許容量以下なら安全とといわれ、死の灰の雨をあび、放射能マグロを食べてすぐに眼に見える影響があらわれなくても、とても不安は解消するものではなかった。
 一方放射線の人体に対する影響の研究も、戦後原子力の発達に刺激されて、次々に新しい事実がみつかって来ていた。統計の調査や動物実験によって、白血病の発病率は、あたった放射線の量に比例して増大していることが知られてきた。そればかりではない。放射線による遺伝子障害が、ごく微量の照射の場合にも存在することが確認された。
 こうした事実から考えて、「許容量」というものは、決して”それ以下では障害が起こらない量”ではないということははっきりしてきたのである。
 日本にふってきた死の灰からうける放射線量はもちろん第五福竜丸のときと違ってきわめて微量である。したがって、個々の一人一人についてみると、そのために白血病にかかったり、かたわの児が生まれたりする確率は小さいものであろう。しかし日本全体、世界全体の大きな人口をとってみると、誰かは不運な目にあって、死の灰の影響で生命を失っていると考えられる。 このようなときには、科学者は国民の一人一人に何といって注意したらよいのだろうか。これまでの許容量概念ではおおえぬいろいろな問題が起こってきて、科学者たちは国民からの質問ぜめに混乱した。
利益と有害のバランスが許容量 それでは「許容量」というものは、どういう量として考えたらいいのであろうか。米原子力委員のノーベル賞学者リビー博士は「許容量」をたてにとって、原水爆の降灰放射能の影響は無視できると宣伝につとめた。
 日本の物理学者たちは、討論を重ねた。こうして日本学術会議のシンポジウムの席上で、武谷三男氏は次のような概念を提出した。
 「放射線というものは、どんなに微量であっても、人体に悪い影響をあたえる。しかし一方では、これを使うことによって有利なこともあり、また使わざるを得ないということもある。その例としてレントゲン検査を考えれば、それによって何らかの影響はあるかも知れないが、同時に結核を早く発見することもできるというプラスもある。 そこで、有害さとひきかえに有利さを得るバランスを考えて、”どこまで有害さをがまんするかの量”が、許容量というものである。つまり許容量とは、利益と不利益とのバランスをはかる社会的な概念なのである
 この考え方で、ようやく「許容量」というものが、害か無害か、危険か安全かの境界として科学的に決定される量ではなくて、人間の生活という観点から、危険を「どこまでがまんしてもそのプラスを考えるか」という、社会的な概念であることがはっきりしたのである。
 そして、この考え方がしっかりしたことによって、原水爆実験という原子力の軍事利用が、人間の生活、人類の生存にとって、決してプラスにならず、マイナスの死の灰をまき散らす”百害あって一利なし”のものである以上、決して認められるものではないとう、原水爆反対のための、一つの確乎とした論理が導き出されたのである。 まして、原水爆実験の死の灰に”許容量”などという概念が存在しないということもはっきりしたのである。このことについては、岩波新書「原水爆実験」に詳しい。
(「安全性の考え方」から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<GMOの社会的バランス> 「安全性の考え方」では公害問題をはじめ、多くの実例を取り上げている。その姿勢は、問題を起こした企業や政府の姿勢を批判している。多くに市民運動家にとって必読の書と言えるだろう。「1967年に書かれたものなので、現在とは状況が違う」との意見もあるが、これに代わる安全性の考えは提示されていない。利益と不利益の社会的バランスなのだが、利益ははっきりしているが、不利益は未確定の場合が多い。 遺伝子組み換え作物で考えると、日持ちの良さ、害虫に強い、除草剤を少なくできる、などが利益となる。一方不利益は、食品としての安全性、環境への悪影響、などはどの程度の不利益になるかはっきりしない。ある程度確率が予想されたとしても、その質の問題まで考えるとどのようにバランスを取ればいいのか判断に苦しむ。トマトの日持ちが良くなって生産者や消費者が喜ぶ。その反対にもしかしてそのトマトを食べた人に健康上異常が起きたら、それをどのように評価し、利益とのバランスを考えたらいいのか。 そして一度開発を始めると、それをストップさせるのは難しい。
 科学技術が発達したことにより、こうした問題が多くなっている。新しい技術の社会的費用をどのように計算したらいいのか?社会的費用は経済学の問題であり、さらに政治・社会・哲学の分野にまで広がっていく。武谷三男が提示した「安全性を考える」は遺伝子組み換え作物の安全性・社会的費用にもどのように考えたらいいのか?問題を投げかけている。 ここではその解答は用意できない。組み換え作物の開発はさらに進んでいく。それを容認しながらも答えを出すべき課題を抱えている、ということをここでの姿勢としておこう。 
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<安全性を経済学する> 「経済学とは損得勘定を科学する学問である」がTANAKA1942bの経済学の定義。そこで遺伝子組み換え作物の安全性を経済学=損得勘定という観点からバランスさせてみよう。その手法は何度か試してみている。「接待汚職の経済学」 「米国同時多発テロを経済学する」 「企業・市場・法・そして消費者」 で機会費用という言葉を使って説明した。モンサント社がフレーバーセーバー・トマトを販売するかどうか経営戦略会議を開いて検討したとしよう。出すべき答えは「発売する」か「発売しない」かだ。そしてその基になる数字はモンサント社の利益と不利益、つまりもし人的被害でも起きたらその不利益=(医療費+慰謝料+サンクコスト+その他諸費用)X起こる確率=機会費用、それと利潤とのバランスを検討する。 この場合、利益は予想しやすいが、不利益は予想しにくい。研究開発に投資して発売しなかったらその費用は研究開発費だけ。販売して何も人的被害・環境汚染がなければ利潤はある程度予想できる。もしも健康障害や環境汚染が起きたらその補償費用はとてつもなく大きくなる。ただしその確率は予想しにくい。それでも予想しなければならないとすれば、大企業モンサント社はいくつか出てくる補償費用の内の、多めの数字を採用するだろう。零細企業が一発勝負を挑むときは、ハイリスク・ハイリターンを狙う。 世間でいろいろの数字が出ているとすれば、大企業モンサント社はローリスクの安全策を採るだろう。「情報の非対称性」を考えれば、世間で言われる以上に危険の確率を高く見積もっていると考えられる。 モンサント社がこのような企業戦略を採るだろうと考えるのは、モンサント社は自社の利潤追求を第一に考えているだろう、とTANAKA1942bは考えるからだ。もしも利潤追求よりも違う目標を持っていたとすると、この予想=モンサント社はローリスク作戦を採るだろう=は外れることになる。 つまりTANAKA1942bの考えは、「モンサント社が利潤追求第一にする限り、フレーバーセーバー・トマトは安心だ」となる。
 2002年の食肉偽装事件での雪印食品・日本食品・日本ハムなどは小さな利潤を求めて大きな不正を行って、消費者の反発を買い、多大な損失を出した。企業の利潤追求を第一に考えたらあのようなバカなことはしなかったろう。 ここでもう一度食肉偽装事件損益バランスシートを振り返って見よう。
@雪印食品 (社員950人) 約1億9600万円の不正利益を得ようとして、会社は倒産し、その破綻処理費用240億円は親会社雪印乳業が負担し、乳業は前年比売り上げ3割減 乳業は社員数4500人から1500人に事業縮小。 その後、全国農業協同組合連合会(全農)、全国酪農業協同組合連合会(全酪連)の牛乳事業と統合し、「メグミルク」ブランドを展開したが、売り上げ不振のため4工場の閉鎖や従業員の約14%削減などの再建計画に追い込まれた。
A日本食品 (社員数184人) 1億3660万円を不正受給しようとして、会社は倒産し、その破綻処理費用は約218億円。
B日本ハム  1000万円の不正利益のために損失が200億円 2002年9月20日、日本ハムの大社啓二社長は夜の記者会見で、社内で牛肉偽装を起こした原因として、グループ内に「利益追求と売上重視」の体質があったとの認識を示した。TANAKA1942bの見方は逆で、利潤追求の体質がなかったのが原因。損得勘定に徹すれば、こんな馬鹿馬鹿しい不正行為はやらなかったはずだ。
 資本主義体制とは
「消費者を裏切って、ヤバイことすると、結局は損する社会」になっている。企業が利潤追求を第一目標にすることによって社会がうまく回るような法制度になっている。そしてその法体制に消費者パワーがさらにそれをサポートする。こうした市場経済を「各人が自分の利益を追求することによって社会がうまく回る」と言い始めたのはアダム・スミス。そこで、そのような文章を引用しよう。
 われわれが自分たちの食事をとるのは、肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのではなくて、かれら自身利害にたいするかれらの関心による。われわれが呼びかけるのは、かれらの博愛的な感情にたいしてではなく、かれらの自愛心(セルフラブ)にたいしてであり、われわれがかれらに語るのは、われわれ自身の必要についてではなく、かれらの利益についてである。同胞市民の博愛心に主としてたよろうとするのは、乞食においてほかにはいない。 乞食ですら、それにすっかり頼ることはしない。なるほど、好意ある人たちの慈善によって、この乞食が生きてゆくのに必要なもののすべてが結局ととのえられるとしても、かれの望み通りに必需品がととのえられるわけでもないし、またそうできるものでもない。かれがそのつど必要とするものの大部分は、他の人たちの場合と同じく、合意により、交易により、購買によって、充足されるのである。 かれは、ある人がくれる貨幣で食物を買う。かれは、別の人が恵んでくれる古着を、もっとよく自分にあう古着と交換したり、一夜の宿や食物と交換したり、または必要に応じて衣食住のどれかを買うことのできる貨幣と交換したりするのである。 (「国富論」第1篇 第2章「分業をひきおこす原理について」から)
 かれは、普通、社会公共の利益を増進しようなどと意図しているわけではないし、また、自分が社会の利益をどれだけ増進しているかも知っているわけではない。外国の産業よりも国内の産業を維持するのは、ただ自分自身の安全を思ってのことである。そして、生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは、自分自身の利得のためなのである。だが、こうすることによって、かれは、他の多くの場合と同じく、この場合にも、見えざる手に導かれて、自分では意図してもいなかった一目的を促進することになる。 かれがこの目的をまったく意図していなかったということは、その社会にとって、かれがこれを意図していた場合に比べ、かならずしも悪いことではない。社会の利益を増進しようと思い込んでいる場合よりも、自分自身の利益を追求するほうが、はるかに有効に社会の利益を増進することがしばしばある。社会のためにやるのだと称して商売をしている徒輩が、社会の福祉を真に増進したという話は、いまだかつて聞いたことがない。もっとも、こうしたもったいぶった態度は、商人のあいだでは通例あまり見られないから、かれらを説得して、それをやめさせるのは、べつに骨の折れることではない。 (「国富論」第4編 第2章「国内でも生産できる財貨を外国から輸入することにたいする制限について」から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<アマルティア・センの異説> アダム・スミスの「国富論」で良く知られた一節、市場経済を説明するのに格好の一文、この文章に関して、アマルティア・センは従来のアダム・スミス観とは違った解釈をしている。
 自己利益に基づく行動において2つの異なる問題を区別することが重要である。第1に、人々は実際に自己利益だけに基づいて行動するのか否か、という疑問がある。そして第2に、人々が自己利益だけに基づいて行動するのだとしても、彼らは特定の成功、たとえば何らかの種類の効率を達成するのであろうか、という疑問がある。これらの2つの命題は、共にアダム・スミスによるものとされていた。しかしながら、自己利益に基づく行動の遍在性と効率に対する「スミス流」の見方が常に引き合いに出されてきたこととは裏腹に、実際にはどちらも彼が信じていたという証拠はほとんどないのである。 この点は、スミスが経済学の起源の中心的人物であるということと、彼のこの問題の扱い方が啓発的かつ有効であるという2つの理由から、論じる価値をもつものである。
 自己利益とその達成について、いわゆる「スミス派」の立場をとる多くの経済学者の著作において、スミスが「慎慮」(自制を含む)に加えて「共感」を重視している点がなぜ見落とされる傾向にあるのか、この点に目を向けると見えてくることがある。スミスが――実際には誰もがそうであるように――、私たちの行動の多くは自己利益によって導かれ、それが実際によい結果を招くと見ていたことは確かに事実である。スミス派によって繰り返されてきたのが次の一節だ。
 「われわれが食事を期待するのは、肉屋や酒屋やパン屋の慈悲心からではなく、彼ら自身の利害関心からである。われわれが呼びかけるのは、彼らの人類愛にたいしてではなく、自愛心にたいしてであり、われわれが彼らに語るのは、われわれ自身の必要についてではなく、彼らの利益についてである」
 多くのスミス信奉者は、この肉屋と酒屋のくだりの向こうに踏み込んでいないようだが、この一節を読むだけでも、スミスがここで言わんとしているのは、市場での通常の取引はなぜ、どのように行われるのか(これが引用文のある章のテーマである)を説明することだということがわかる。しかし、双方に有利な取引がきわめて一般的であることを示しているからといって、スミスが「自己愛」(つまり広義に「慎慮」と解釈できる)だけで良き社会ができると考えていたことにはならない。 実際、スミスが言っていることは正反対で、経済的豊かさの実現をただ一つの動機に頼ることはしなかったのである。
 アマルティア・センは「スミス派」の一人としてジョージ・スティグラーをあげて批判する。
 合理性についてはひとまずおくとして、「実際」の行動の決定要因として自己利益最大化を過程することは、どれほど妥当なのだろうか。自分自身の利益を追求するいわゆる「経済人」は、少なくとも経済的な事柄において、人間の行動を最もよく表現しているのだろうか。ところが、これこそが経済学のおけるごく当たり前の仮定であり、多くの人々に支持されている。たとえば、「経済学か倫理学か」と題するタナー講義において、ジョージ・スティグラー(1981)は、「私たちは、妥当な量の知識をもつ人々が自己利益を求めて知的に行動する世界の中に生きている」と明確な擁護論を述べている。 (「経済学の再生 道徳哲学への回帰」から)
 以下、「自己利益」についてジョージ・スティグラーの発言を批判している。アマルティア・センが引用した「国富論」をもう少し長く、 同胞市民の博愛心に主としてたよろうとするのは……… 以下の文も引用すると読者の印象は違ってくるのだが、ここでは長くなるので省略する。批判されたスティグラーの文は「小さな政府の経済学」で読むことができる。
 アマルティア・センの考えは、ジョン・ロールズの「正義論」に共鳴し、アメリカ的自由な市場経済に嫌悪感を持ち、社会主義にかすかな望みをもっている人たちに好まれる考えだろう。その主張は反論するのが難しく、カール・ポパーの表現を借りれば「経験的科学体系にとっては、反駁されうるということが可能でなければならないのである」ということになる。
 今週もまた、TANAKA1942bはアマチュアの特権を生かして、反証不可能な非科学的な物語をつくって遊んでいます。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
安全性の考え方                               武谷三男編 岩波新書     1967. 5.20
安全学                                   村上陽一郎 青土社      1998.12. 4 
国富論                         アダム・スミス 大河内一男監訳 中央公論社    1978. 4.10
経済学の再生 道徳哲学への回帰   アマルティア・セン 徳永澄憲・松本保美・青山治城訳 麗澤大学出版会  2002. 5. 9  
正義論                         ジョン・ロールズ 矢島鈞次監訳 紀伊國屋書店   1979. 8
ロールズ「正義論」とその批判者たち Ch・クカサス Ph・ペティット 山田八千代・嶋津格訳 勁草書房     1996.10.14
小さな政府の経済学           ジョージ・スティグラー 余語将尊・宇佐見泰生訳 東洋経済新報社  1981. 9.24
科学的発見の論理                 カール・R・ポパー 大内義一・森博訳 恒星社厚生閣   1971. 7.25 
( 2004年2月2日 TANAKA1942b )
▲top

(25)栽培しないことの利益と不利益
「結論を延ばす」という結論の機会費用

 遺伝子組み換え作物についてはその安全性が問題になっている。遺伝子組み換え作物を栽培した場合の環境への影響、これを食べることによる健康への影響、こうしたことが問題になっている。 つまり、「安全だと言って、もし被害が出たらどうするのだ?」と非難している。では「本当は安全だった。しかし大騒ぎして販売が中止された。その場合の機会費用はどうなのだ?」ということは問題になっていない。 ここでは許可されなかった、市販されなかった、普及しなかった場合の機会費用について考えてみよう。まずは、先週の「安全性の考え方」で扱われている話から始めることにする。
<小児マヒと母親 一主婦の願い> それは1959(昭和34)年の7月のことであった。青森県八戸市のある主婦が、岩淵謙一といういまでは故人となった開業医を訪れて、「ソ連じゃあ、小児マヒは、ボンボンを飲めばなおるというじゃありませんか。先生、何とかして手に入れてくれませんか」と問いかけた。
 ずい分勉強家の岩淵先生だったが、そんな話は聞いたこともなかった。
 「どこでそんな話を聞いたんだね」
 「ゆうべ、ソ連の日本語放送でそう言ってましたよ。ラジオで言うんだから、まさかウソじゃないでしょう」
 「それじゃあ、私の所属している新日本医師協会(略称・新医協)に聞いてみようか」
 このたった一人の子を思う母親の訴えが、全国の母親の共感を呼び、政府を動かし、ついにはわが国からポリオをほとんど追放するまでの成果をあげた。ポリオ追放大衆運動の発端だったのである。
 1955(昭和30)年から流行の兆しをみせていた小児マヒ(急性灰白髄炎)は、その年、東北の漁村、八戸市で集団的に発生した。世界的な大流行があったのは1952(昭和27)年だった。この年から諸外国では、ポリオ・ワクチンの開発に乗り出していたが、わが国だけは、当時米占領軍の方針もあり、また当時あまりもうかるものではなかったので製薬メーカーも乗り気ではなかったため、ポリオ・ワクチンはすべて、アメリカからの輸入に頼っていた。 ところが、この年はアメリカでも小児マヒが集団発生した。アメリカは自国の分も足りなくなって、輸出を禁止したため、わが国の小児マヒワクチンは極端な品不足になった。 どうしてもほしい母親たちは、ヤミ・ワクチンを捜したが、一人分が千六百円のものが一万円もするほどだった。全国の母親からの要求に応えられなくなった厚生省は、一人分のワクチンを、30人分の皮下注射するよう指示した。 これでは効くはずがない。注射したのに発病する子どもがでたりしたので、この”ごまかし”は母親たちにすぐわかってしまった。母親たちは、ヤミ・ワクチン捜しに狂奔する始末だった。お医者さんたちも「何とかしなければ……」と思いながらも、どうにもならなかった。 ”ボンボン生ワクチン”という耳よりな話は、ちょうどこんなときに岩淵医師にもたらされたのである。
(「安全性を考える」から)
 この本では1960(昭和35)年の母親大会で小児マヒワクチンが話題になり、さらに総評をも巻き込んだ「生ワクチンを使用して、ポリオの流行を阻止せよ」の運動に発展していった経路が書かれている。  生ワクチンは1961年6月22日、ソ連とカナダから輸入され、7月20日から1300万人分が投与され、8月末になって大流行は止まった。生ワクチンは1962年に1700万人、1963年の850万人に接種された。下記数字は、厚生省調べの衛生年報によるポリオ発生届けとその他の資料により作成。
1949年 3127人 死者1074人
1950年 3212人 死者 775人
1951年 4233人 死者 570人 

1955年 1314人
1956年 1497人
1957年 1718人
1958年 2610人
1959年 2917人
1960年 5606人
1961年 2436人 死者 169人
1962年  289人
1963年  131人
1964年   84人
1965年   76人
1966年   33人 
1967年   26人
1968年   20人
1969年   16人
1970年    8人
1971年    6人
 (いろいろ探して、それでも数字が埋められない部分がでました。資料が見つかったら空欄を埋めます。)
 生ワクチンの効果はてきめんだった。もう2,3年前に輸入され接種されていたら多くの患者が救われた。1957年にアメリカのアルバート・セービン(Albert B. Sabin)が作ったもので、すぐに普及していれば多くの患者が救われた。生ワクチンを普及させなかったことによる機会費用。 これは上記の数字を埋めればはっきりする。
「安全性の考え方」では母親の活動を中心に書いてあるが、もう一つテレビの果たした役割も大きかった。1961年4月15日から始まった「ポリオ発生数即日集計」や6月28日から始まった小児マヒ情報」が全国民の関心を集めた。
日本で野生株ポリオウイルスはなくなっている。そして接種されたワクチンでポリオ症状を示す患者が、200万人〜300万人に1人位出る(50万人に一人との記載もある)。生ワクチン接種の利益と不利益の社会的バランスはどうなるのだろうか? しかしここでは市場のメカニズムは働かない。製薬会社・医師・国民の他に行政組織が絡んでくる。
 現時点においてWHO本部の描くポリオ根絶のシナリオは次の通り。 2002年:野生株由来ポリオ患者発生をゼロにする。 2005年:世界レベルの根絶宣言。 2010年:(ポリオワクチン接種の全世界的な中止) つまりWHOの考えでは「日本ではポリオの心配はなくなった、なぜ無駄な、そして可能性は小さいけれど危険なワクチンを接種するのか?」となる。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<ヒトインスリン> 1921(大正10)年にインスリンが発見され、欧米では患者の自己注射が認めらた。しかし日本では1981(昭和56)年まで認められなかった。そのため、糖尿病患者は保険の利かないインスリンを自費で購入し、自ら注射するという違法行為をおこなっていた。 この間の機会費用は大きい。ヒトインスリンは1980年、遺伝子工学で作られた最初の医薬品として華々しく登場し、1982年にジェネンテック社から発売された。現在世界のインスリン及びヒト成長ホルモンの供給は専門メーカー2社(ノボ・ノルディスク=Novo Nordisk オランダ。イーライ・リリー=Eli Lilly アメリカ・インディアナポリス州)の寡占状態になっている。 遺伝子組み換え批判派が心配する、大企業の寡占状態になっているが、これに対する懸念・批判はない。組み換え食品に対する批判派の主張、「種子が、そして農業が種子会社に支配される」はあまりにも「大企業性悪論」的だ。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<丸山ワクチン> 丸山ワクチン(SSM=Specific Substance MARUYAMA )は1944(昭和19)年、丸山千里博士(元日本医科大学教授・1901〜1992)により皮膚結核の治療薬として誕生。1964(昭和39)年、ワクチン療法によるガン治療が始まった。1964〜2002年3月末までに投与を受けた患者は35万6千人。 1976(昭和51)年、丸山ワクチンはゼリア新薬工業によって厚生省に製造承認の申請が出されたが許可されていない。このため有償治験薬として投与されてきた。 有償治験薬とは、開発された新薬を厚生省が認可するのに十分な要件(有効性があるか、副作用はないか)を備えているかどうかを、一定の条件に適合した実際の患者さんに使ってテストすることで、本来無料。 しかし丸山 ワクチンは、限定された人だけではなく、希望したガン患者は誰でも使うことができる。厚生省は特例として1981(昭和56)年、実費を患者に負担して協力してもらう治験薬=有償治験薬ということを認めた。 1991(平成3)年には、抗癌剤としてではなく、放射線治療による白血球の減少を抑制する薬剤として認可された。
 この丸山ワクチンは薬としての効果が認められない、ということで認可されなかった。しかし副作用は認められない。しかも多くの患者がその効果あり、と感じている。抗ガン剤としての効果があったとしたら、認可しなかったことによる機会費用。この評価額はいくらになるのだろうか。損得勘定で判断すれば、患者も医師も、そして社会的費用という面からも抗ガン剤として認可した方が得だった。では誰が、許可しなかったことにより得をしたのだろうか? この先の詮索はその道の専門家に任すことにしよう。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<M・フリードマンに聞く>刑事事件では「疑わしきは罰せず」であり、安全性に関しては、「はっきり安全と認められない限り許可しない」が正論として通りそうだ。はたしてそれでいいのだろうか?許可しなかった事による不利益についても考えて見る必要があるだろう。つまり許可しないことによる機会費用だ。こうした面からの捉え方としてミルトン・フリードマンの考えを聞いてみよう。1906年に設立された食品医薬法に対する1962年修正条項から話は始まる。
 この規制が新薬開発率にもたらした悪影響は劇的だ。毎年導入される「新しい科学薬品」の数は1962年以来、50%以上も減少した。これと同様に重要なことは、これが、新しい薬の許可を得るのに以前よりはるかに長期間を必要とさせるようになり、新薬開発に必要な費用が何倍にも増大させるひとつの要因をなしてきたことだ。1950年代と1960年代の初期について行われた推計によれば、ひとつの新しい薬を開発し、これを販売できるようになるまでは、 50万ドルの費用と25カ月間の期間を必要としていた。その後の発生したインフレを考慮すると、百万ドル余だ。ところが1978年には「新しい薬を市場に導入するには、5,400万ドルの費用と約8年間の努力を必要とするようになった」。すなわち費用の点では百倍も増加し、時間でいえば4倍も増加したわけだ。これと比べて一般の物価は倍増したにすぎなかった。この結果アメリカの製薬会社は、珍しい病気にかかっている患者のために新しい薬品を開発する経済的な余裕をなくしてしまい、大量販売できる薬にますます依存しなければならなくなっている。 アメリカは新薬の開発で長い間世界の指導的地位を占めていたが、いまやその地位は急速に低下している。またアメリカ人は海外で開発された新しい薬の恩恵を十分に得ることができなくなってしまった。なぜかといえば、食品医薬品局は海外で行われたテストの成果を有効性を示す証拠としては受けつけないからだ。製薬業界におけるこのような展開が、最終的には鉄道の旅客輸送に起こったのと同じこと、つまり新しい薬の開発の国有化につながる可能性がきわめて高い。 (中略)
 危険な薬を市場から排除できるとか、あるいは一連のサリドマイド悲劇の発生を防止できるという理由で、難病や奇病の患者がこうむる犠牲を正当かすることはできないのではないだろうか。この問題に対するもっとも注意深い実証的な研究がサム・ペルツマンによって行われた。この研究の結論に従えば、その答えは明白であり、弊害の方がよい影響よりもはるかに大きなものになっているよいう。ペルツマンはこの結論を、部分的には次のように説明している。 「1962年以前の時点では効き目のない薬を売った者に市場が課した罰金額は非常に大きなもので、そのため製薬会社が充分に用心するようになり、規制官庁による改善の必要性はほとんどなくなっているのだ」と。 結局のところサリドマイドの製造業者は、何千万ドルもの賠償をしなくてはならなくなった。これだけでも製薬会社に同様な事件を発生させないようにする十分な誘因だ。もちろん、それでも過ちは今後も発生するだろう。サリドマイド悲劇はそのようなものの一つだった。しかし、そのような過ちは政府の規制のもとでも発生するのだ。
 こうした一般的な議論が暗示する内容は、事実によって確認できる。食品医薬局がどんなによい意図を持っていたとしても、その活動が新しい、そして有効な薬の開発販売を必然的に抑圧ないし妨害することになっているという事実はけっして偶然の結果ではない。
 われわれが新しい薬に認可を与える責任をもった食品医薬局の役人の立場にあると考えてみよう。われわれは次のようなまったく相反する二つのあやまちを犯すはずだ。

 1、死をもたらしたり、数多くの人に深刻な被害を与えてしまう形で、まったく予期しなかった副作用を引き起こすような薬に対して認可を与えること。
 2、多くの人の命を救い、大きな苦しみから人を解放してくれるうえに、異常な副作用をもっていない薬の認可を拒否すること。

 もしわれわれが第一の誤りを犯してしまい、たとえばサリドマイドを認可してしまえば、われわれの名前はたちまちすべての新聞の第一面に大きく出ることになり、その結果、たいへん面目を失うことになる。これに対して第二の誤りを犯したとき、誰がそのことに気がつくだろう。新しい薬の販売を促進しようと努力していた製薬会社が不平を言うかもしれないが、その際にはかえって、石のような心臓しかもたない貧欲な企業の典型として退けられてしまうだろう。そうなれば、あとは新しい薬の開発やテストに参加した数少ない薬剤師や医者が知っているだけだ。 その薬がもし開発されていたなら助かったかもしれない人はもはや死んでしまっていて、抗議をすることもできないのだ。だからといって、それらの患者の家族は、自分たちが愛した人の命が、会ったこともない食品医薬局の役人の「用心」によって失われとことに気づくはずもない。
 サリドマイドを販売した欧州の製薬会社に浴びせられた攻撃と、アメリカでのサリドマイドの使用に認可を与えなかった女性(ジョン・F・ケネディ大統領から公務殊勲賞の金メダルを授与されたフランシス・O・ヘルゼ博士)が受けた名声と喝采との間のはなはだしい相違を考えれば、前記二つのあやまちのうち、われわれがどちらの方を一所懸命避けようとするか明白ではないか。どんなにすばらしい意思をもっていたにしても、われわれがそのような立場にいたら、まかり間違えば新聞ダネなるかもしれない薬に認可を与えるようなことは極力回避し、その結果、非常に多くの良薬の認可を拒否したり、延期したりすることになるだろう。
(「選択の自由」の「食品医薬局」から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<もっと利益・不利益の損得勘定をしよう> ミルトン・フリードマンが上の文章で言っているのは、@新薬認可基準が厳しくなって、製薬会社の開発費用が高くなり、新薬開発率が落ちた。A効き目のない薬を売った場合、市場が課す罰金額は非常に大きなもので、製薬会社充分に用心するようになり、官庁による規制の必要性はほとんどなくなっている。 B認可権を持っている役人は、まかり間違えば新聞ダネなるかもしれない薬に認可を与えるようなことは極力回避し、その結果、非常に多くの良薬の認可を拒否したり、延期したりすることになる。
 この考えを日本のコメ自由化問題、農業問題に置き換えて考えて見よう。@一代雑種や遺伝子組み換え作物の特許を国や有識者がその特許使用料を決めるとしたら、新品種の開発率は低下するだろう。A組み換え作物で被害が出たら市場・消費者が課す罰金は非常に大きく、種子会社は用心するので規制の必要はなくなっている。 B農水省のお役人さんは「コメは自由化すべき」と考えていても、圧力団体・族議員から非難され新聞ダネになるかもしれない自由化政策は採用しない。前例に従い、任期中は波乱無く過ごそうとする。
 このようにアメリカも日本も認可・許可の問題では似たような状況にある。そうした状況で組み換え作物の安全性・認可問題を考えるとすると、許可した場合、しなかった場合、それに依る利益・不利益、そして誰にとっての利益・不利益か?そうした事を社会的にバランスさせてみることが必要だろう。これに対して反対の態度は、「ダメなことはダメ」と言う原理主義だ。 企業や政府の、住民を無視した開発に対しての反対運動を支援する考えだった「安全性の考え方」、企業・政府の一方的な安全宣言を批判するものだった「安全性の考え方」、現在ではむしろ、市民運動派にこそ必要な考えではないだろうか?組み換え作物は100%安全とは言えない。しかし大きな利益が期待できる。ここでの損得勘定を科学する必要があるのだと、TANAKA1942bは考えます。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
安全性の考え方                   武谷三男編        岩波新書     1967. 5.20
選択の自由 自立社会への挑戦 M&R・フリードマン 西山千明訳        日本経済新聞社  1980. 5.26
( 2004年2月9日 TANAKA1942b )
▲top

(26)品種改良で農業の将来はどうなるか?
日本農業は崩壊しない

 品種改良が進化し、今まで以上に「農業が先進国型産業」であることが明確になってきた。こうした流れを的確に捉え、そこでの存在感を示そうとする動きと、「その傾向は良くない」と主張する人がいる。「農業が先進国型産業であることは良くない」と主張するなら、どうあるべきなのか?開発途上国型産業であるべきなのか? 「農業は儲け主義に走ってはいけないのであって、その代わり国が最低保障をする」となると、それは「百姓は生かさず、殺さず」の政策になる。「農業の多面的機能」との表現で、農家の中から「先に豊になれる者から豊になる」ことのないように、足を引っ張る制度を作っていく。 しかしそこまで突っ込んだ議論はしないで、品種改良によって農業が進化するのを批判する。それは現代のラダイト運動になり、「グローバリゼーション反対」「WTO反対」「LLDCの債務放棄を」などの主張と共鳴し「大企業性悪説」を発展させる。そうした立場はしばしば感情的になる。初めからその立場をとっている人には共感を呼ぶが、迷っている人を引きつける魅力には乏しい。 そうした数ある主張に中にあって、比較的冷静に論理を展開している文章があったので、ここで引用することにしよう。
「日本農業崩壊の日」 知的所有権の国際統一化と権利強化が図られ、バイオ作物による利益が、基礎技術の研究・開発者に集中するようになる。したがってバイオテクノロジーでの技術力をもつ多国籍企業や大企業に利益が集中し始める。そのほとんどが、それまで農薬をつくっていた化学企業である。 この企業の権利の範囲は、UPOV(植物の新品種保護に関する国際条約)の改訂にともない、収穫物・販売物にまで及び、しかも自家採種が禁止されたことから、幅広くなる。
 これらの企業は従来通り、実際に農作物をつくるところには手を出さず、新品種開発、種苗販売、流通を支配していくことになる。最もリスクの大きな実際に作るところは、相変わらず農家によって担われていくことになる。しかも知的所有権の強化によって農家の権利は著しく縮小されていくことになる。
 この企業の権利強化、農家の権利縮小は、国際的には分業化の進行となって進むものと思われる。研究・開発の段階は、ゲノム解読などの基礎研究で成果を上げ、主要な知的所有権を押さえていくアメリカが主役となる。それにヨーロッパが続き、日本が遅れてついていく。応用によって新品種を開発していくのは、日米欧の先進国である。
 実際に作物をつくる主体は、第三世界の低賃金国へ移行して行くことになる。またアメリカ、カナダのように大規模化・高効率化を達成できた国との二極分解が起こることになる。このように第三世界を食糧生産の手足として位置づける考え方が進み、かなりの先進国で中小農家は全滅に近い状態になり、企業栄えて、農家滅びるという状況が現出する。
 しかし、このことがやがて第三世界の人たちの生活破壊につながることになる。第三世界の大土地所有制と農作物の換金作物化は改善されるどころか、企業支配の強化にともなって、さらに拍車がかかることになる。しかも利益の大半を多国籍企業がおさえ、慢性的な低賃金状態が固定化するため、農業を離れて都市に出ていく人が後を絶たないことになる。スラムもまた、劇的に拡大していくことになる。
 できた作物は輸出され、自国の人の口には入らず、債務が深刻な国では飢餓がさらに深刻化していくことが予想される。
 日本で最も研究・開発が熱心に取り組まれているのが、イネである。遺伝子組み換えイネの開発が、三井化学、三菱化学、キリンビール、日本たばこ産業などの大企業によって行われ、それを農水省がバックアップしている。また農水省が主導してイネゲノムの解析も進んでいる。
 これと並行して、イネなどの開発・試験販売に民間企業の参入を認める主要農産物種子法も改正された。農業の民間企業主導の体制が整いつつある。これからの農業のあり方は、作物をつくるのではなく、研究・新品種開発がカナメであり、技術立国日本の農業版が目標である。
 イネの企業開発時代が到来することになる。企業には日本の農業を育てるなどという発想はない。作り手も、日本の農家だけを対象に考えているわけでもない。将来的には人件費の安い第三世界に作り手を移行させたいと考えている。ジャポニカ米もインディカ米も関わりなく第三世界で作られ、世界市場に売り込もうというのである。知的所有権で権利を押さえ、種苗販売でイネの世界市場制覇を目指している。
 もし日本でイネを作りたいと思ったら、農家は大企業が開発したバイオイネの苗を買わざるを得なくなってしまう。収穫・販売した際にも、その売り上げの一部は自動的に権利料として取られ、残った収益は微々たるものになり、ただでさえ困難な農業継続が、決定的なダメージを受けることになる。日本から米づくり農家は消え、生産は第三世界に移行する。
 第三世界では日本企業が売り込むバイオイネが作られ、日本などに輸出されることになる。このように国際分業の流れはコメにまで及ぶことになる。
 第二の緑の革命の延長線上にあるのは、日本農業の崩壊に日であった。
(「増補改訂 遺伝子組み換え食品」から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<品種改良によって農業は進化する>  上記の文章、将来に対する見通しはTANAKA1942bもあまり違わない。しかしその評価は全く違う。天笠氏が「そうなっては良くない」と主張する未来、TANAKA1942bは「そうなったらいいのになー」と思う。そこで上記の文脈に沿って、TANAKA1942bの農業の将来像を描いてみようと思う。まず天笠氏の論点をまとめると次の様になる。
@ バイオ技術が先進国の大企業に集中する。
A 研究開発と農地での栽培は分業化され、実際の栽培は第三世界・開発途上国へ移行する。
B 途上国では「企業栄えて、農家滅びる」という状況が現出する。
C 日本でもイネの品種改良に他産業から大企業が参入する。
D 改良された品種のイネは低賃金の途上国で栽培され、日本の農業は崩壊する。
@ アメリカ、カーネル大学のジョン・サンフォード博士は遺伝子銃のアイデアを特許申請し、1990年に発効されるとこの特許権をデュポン社に売った。アメリカのベンチャー企業、アグラシータス社(Agracetus)は遺伝子銃を開発し、デュポン社と提携し遺伝子銃に関する特許を取った(後にモンサント社がこのアグラシータス社を吸収合併する)。アグラシータス社は遺伝子銃の特許とこの使用に関する特許を1992年に取る。そしてこれを使用してわずか3年で除草剤に強いコメを開発し、特許を申請した。
 アメリカでのバイオ技術はこの例のように、個人やベンチャー企業から始まった。道を切り開いたベンチャー企業はその後大企業と合併する。日本の感覚では「大企業に吸収合併された」と感じるが、アメリカの感覚では「大企業に高く売りつけた」となる。企業売買の主導権はむしろ売り手の中小企業にある。新しい技術を商品化し、流通させ、顧客(この場合は栽培農家)のニーズに応えるよう改良していくには、資金力・組織力のある企業の方が適している考える。日本ではこうした場合、銀行や、商社がバックアップする。 バイオ技術も今では大きな市場が見込まれるが、ベンチャー企業が手がけた当時は未知の分野であった。ベンチャー企業はハイリスク・ハイリターンに賭けた。アメリカの特許制度に守られて、開発者・開発企業に成功したところは報われた。もし特許料使用料が政府や、有識者などの第三者によって決められるとしたら、リターンが余り期待できないハイリスクな研究開発に投資はしなかったろう。当然組み換え作物は普及せず、批判派には喜ばしい状況になっていただろう。ただしこれは組み換え作物だけでなく、ヒトインスリンやヒト成長ホルモンの開発も進まなかったに違いない。 バイオ技術が大企業に集中し始めた、ということはこれが商売になり始めた、産業として成長しはじめた、将来が期待出来る、ということだ。ということで何も心配する事ではない。
A 除草剤耐性の大豆を開発し、その除草剤を競争他社が作るとしたら、開発した会社の利益はあまり期待できない。当然自社の除草剤をセットで売ってこそ利益が大きくなる。流通に関しては、自社の除草剤の流通ルートがあればそれを活用するし、なければ流通専門他社に任せるかもしれない。広告・宣伝は広告代理店が受け持つだろうし、市場調査も専門業者が行うかも知れない。自社ですべて賄うか、専門業者に任せるかはケースバイケース。 実際の栽培は農家が行う。自動車産業を見るとGMは部品を自社で調達し、トヨタは関連会社を使う。どちらがいいとも言えない。部品下請けメーカーはトヨタより給料は安いだろうが、技術があればトヨタ以外とも取り引きして高い給料を払うこともできる。大企業の歯車の一つとして安定した生活をおくるか、小さいながらも一国一城の主になるか、人によってどちらが良いとも言えない。 天笠氏は「第三世界の低賃金国の農民」と言うが、当分先進国の農家が対象になる。バイオ技術の農作物は高付加価値を狙う。栽培管理も難しく、高いヒューマンキャピタルが要求される。焼き畑農業をやっていた農家にいきなり工程管理の難しい組み換え作物は適さない。それは緑の革命が期待通りの成果を上げてないことからも予想できる。焼き畑農業からコシヒカリ栽培はムリだ。それでもベトナムやタイでは日本人の指導であきたこまちやコシヒカリを栽培し始めているので将来はこれらの国も、農業先進国になるだろう。将来を予想するとこうなる。天笠氏の予想に対して、TANAKA1942bは「そうなったらいいのになー」と思う。つまりバイオ技術の作物が開発途上国・最貧国で栽培されるようになったらいいな、と思う。
B LDCで組み換え作物を栽培するようになれば、売り先は先進国になる。金のある売り先なので債務不履行などの心配はない。LLDCの外貨獲得に役立ち、ジュビリー2000が主張する「LLDCへの債権放棄」などは問題でなくなる。種子会社も儲かるが、LDCの利益がすべて種子会社に吸い取られるなら、そのような契約をしなければいい。植民地ではないので、無茶な契約を強制されることはない。LDCに利益があると判断したものだけに契約すればいい。 LDCで政府、輸出業者、農家、それぞれどのような利益配分になるかは、その国に政治情勢にかかっている。独裁国では独裁者とそれを支える勢力、軍隊、秘密警察などへ多く配分されるだろう。政治情勢が不安定で反政府勢力が強いところでは、双方の軍事費に多く配分されるかもしれない。しかし、それを先進国政府や市民運動家がとやかく言っていいのか?市民運動の中にはフセイン政権を守ろうとする動きさえあった。内政干渉はどこまで出来るのか?それでも外貨を獲得し、少しでも国が豊かな方向へむかえば、民主化への動きは出てくるだろう。民主的になったからといって経済成長するとは限らないが、経済成長すれば民主化の動きは出てくる。 世界の食糧は全体としては必ずしも不足しているわけではなく、配分が不適切なだけだ。したがって食糧輸出だけで豊かな国になれるのではない。それでもLDCで安定した農業生産に専念できる人が増えてくれば、治安も安定してくるだろう。そうなれば先進国の工業生産の下請け工場として民間の投資も期待できる。低賃金で劣悪な労働条件になるだろうが、それでも職がないよりもいい。バイオ作物栽培の下請けとしてでも産業が興るならば、それをヨシとすべきであろう。
C ビジネスとしての品種改良は、国家公務員である研究者が取り組むのと、競争社会に生きている企業の研究者が取り組むのと、どちらが効率的が?まさか「お役人さんの方が効率的だ」と言う人はいないだろう。それとも「大企業ではなくて、中小企業がいい」とか「実際に栽培する農家が、品種改良に取り組むべきだ」と主張する人もいないだろう。長い時間と、経費が多くかかるので、利益の出ている大企業でなければ取り組めない。日本で品種改良に他産業からの参入があれば、出遅れていたハイブリッド・ライス、先頭へ出る可能性もある。日本の農家が中国で開発されたハイブリッド・ライスを特許料を払って栽培するなんて、どうもいただけない。 逆に日本で開発された品種をアジア諸国で栽培し、農家はその指導のためにアジア諸国で出向く、という図式の方が案配がいいようだ。
D トランジスタはアメリカで発明された。それを実用化したのは日本の企業だった。そしてその最先端技術でアメリカ市場を席巻したので、日本製品バッシングが起きた。これで日本はアメリカを抜き、アメリカの電機・電子産業は崩壊すると考えた人もいただろうに、思い過ごしだった。それが少し前のこと。今は中国脅威説が出回っている。マスコミは株式会社=私企業なので利益をあげなければならない。視聴者・購読者を引きつけるためにセンセーショナルな見出しを付ける。賢い消費者は先刻ご承知で、マスコミ報道を割り引いて読みとっている。日本農業の展望が描けないのなら「日本農業崩壊の日」の見出しも使いたくなるだろう。 自虐的歴史観を持つ人や、政府の無策を非難したい人、大企業性悪説及び嫌米感情を持つ人には受けるメッセージなのだろうが、どっこい日本の農業は崩壊しない。「農業は先進国型産業である」がポイントだ。「農業は労働集約産業で低賃金国とは生産コストで勝負にならず負けてしまう」と考える人には理解し難いかもしれない。一代雑種=F1ハイブリッドや遺伝子組み換えについて十分理解していない人にも「農業は先進国型産業である」は理解し難いかもしれない。そして農業問題を理解したうえで、それでも社会を見る視点が違うと日本農業の将来像も違ってくる。
 遺伝子組み換え作物によって農業は進化します。その進化する環境に適応できないと淘汰されます。日本農業はヒューマンキャピタル十分です。進化する環境に適応し、日本農業も進化していくと考えます。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
増補改訂 遺伝子組み換え食品          天笠啓祐             緑風出版     2000. 1.31
( 2004年2月16日 TANAKA1942b )
▲top

(27)品種改良を経済学の目で見る
先人たちの助言を聞いてみよう

<アダム・スミス「国富論」―分業について―> 品種改良の進んだ先進国の農業、ここでは「分業」が進んでいる。かつて種子は栽培農家が手当した。今は専門の種子会社が新種を開発し、それを農家が買う。生産された農作物は農協が一手に引き受けていた。そこへ集荷業者・取引市場・大手スーパーなどとの直取引・インターネット取引などが参入する。こうした国内での分業に加えて、国際的にも農産物の分業が進む。初めのうちキャッサバ、タロイモ、サツマイモなどの芋類中心だった途上国の農業が日本など先進国の農業技術指導により、付加価値の高い高級野菜を作るようになる。先進国ではこうした途上国の追い上げに対して、品種改良によるさらに付加価値の高い農作物へ変わっていく。そうした栽培現場とは別に大手企業による品種改良が進む。国内での分業と国際的分業が進む。 こうした傾向に対して「農業が多国籍大企業に支配される」との非難の声もあがるが、流れは変えられない。消費者はこうした非難する声に反論はしない。こうした人たちとの議論は好まないからであって、共鳴しているからではない。従って、農業分野での国内分業・国際分業は確実に進んでいく。こうした分業をどのように評価したらいいのか?経済学で考えると「アダム・スミスに聞いてみよう」となる。国富論に書かれたピンの分業は良く知られている。ここでは「経済の原点に戻って考えてみよう」との趣旨で、国富論から一部ここに引用する。
 労働の生産力における最大の改善と、どの方向にであれ労働にふりむけたり用いたりする場合の熟練、技術、判断力の大部分は、分業の結果であったように思われる。
 社会全般の仕事にたいする分業の効果を比較的容易に理解するには、どれか特定の製造業(マニュファクチャー)をとって、そこで分業がどんなふうに行われているかを考察してみるのがよいだろう。世間では、分業がいちばん進んでいるのは、いくつかの、まったくとるにたりない小さい製造業だということになっている。これはおそらく、こういった製造業のほうが、もっと重要度の高い他の製造業にくらべて、実際に分業の度合いがより進んでいるからではなく、これらのとるにたりない小さい製造業は、 ごく少数の人々のわずかな欲求を満たすためのものであって、従業員の総数も当然少なく、さまざまな部門の仕事に従事している人々を同一の作業場に集めているので、見る者の一望のもとにおくことが可能だからであろう。これに反して、大規模の製造業は、大多数の人々の巨大な欲望を満たすためにある。そこでは、さまざまな部門の仕事にどれも多数の従業員が働いているので、これらの人々を同一の作業場に集めることは不可能である。単一の部門で働いている従業員は見えても、その部門以外の人々をも同時に見ることは滅多にないというわけである。 それゆえ、この種の製造業では、それよりも小規模な製造業にくらべて、たとえ作業は実際上はるかに多数の部分に分割されていても、その分割は、それほど目立つことがないので、したがってまた、観察されることもずっと少なかったのである。
 そこで、ここに一例として、とるにたりない小さい製造業ではあるけれど、その分業がしばしば世人の注目を集めたピン作りの仕事をとってみよう。この仕事(分業によってそれはひとつに独立の職業となった)のための教育を受けておらず、またそこで使用される機械類(その発明を引き起こしたのも、同じくこの分業であろう)の使用法にも通じていない職人は、せいいっぱい働いても、おそらく1日に1本のピンを作ることもできなかろうし、20本を作ることなど、まずあり得ないであろう。ところが、現在、この仕事が行なわれている仕方をみると、作業全体が1つの特殊な職業であるばかりでなく、多くの部門に分割されていて、その大部分も同じように特殊な職業なのである。 ある者は針金を引き延ばし、次の者はそれをまっすぐにし、3人目がこれを切り、4人目がそれをとがらせ、5人目は頭部をつけるためにその先端をみがく。頭部を作るのにも、2つか3つの別々の作業が必要で、それをとりつけるのも特別の仕事であるし、ピンを白く光らせるのも、また別の仕事である。ピンを紙を包むのさえ、それだけで1つの職業なのである。このようにして、ピン作りという重要な仕事は、約18の別々の作業に分割されていて、ある仕事場では、そうした作業では、そうした作業がすべて別々の人手によって行われる。もっとも、他の仕事ではそれらの2つか3つを、同一人が行うこともある。私はこの仕事場を見たことがあるが、そこではわずか10人が仕事に従事しているだけで、そたがって、そのうちの幾人かは、2つか3つの別の作業をかねていた。かれらはたいへん貧しくて、必要な機械類も不十分にしか用意されていなかった。 それでも精出して働けば、1日に約12ポンドのピンを全員で作ることができた。1ポンドのピンといえば、中型のもので約4千本以上になる。してみると、これらの10人は、1日に4万8千本以上のピンを自分たちで製造できたわけである。つまり各人は、4万8千本のピンの10分の1を作るとし、1人あたり1日4800本のピンを作るとみてさしつかえない。だが、もしかれら全員がそれぞれ別々に働き、まただれも、この特別の仕事のための訓練を受けていなかったならば、かれらは1人あたり1日に20本のピンどころか、1本のピンさえも作ることはできなかったであろう。言い替えるとかれらは、様々な作業の適切な分割と結合によって現在達成できる量の240分の1はおろか、その4800分の1さえも、まず作りえなかったであろう。
 そべての工芸や製造業において、分業の効果は、こうした零細な製造業の場合と同様である。もっともそれらの多くは、労働をこれほど多く細分することも、作業をこれほど極端に単純化することもできない。しかしながら分業は、それが採り入れられるだけで、どんな技術の場合でも、労働の生産力をそれに応じて増進させる。この利益の結果として、さまざまな職業や仕事がたがいに分化したように思われる。この分化はまた、最高度の産業と進歩を享受している国々で最も進んでいるのが普通である。すなわち、社会の未開段階で行われる一人の人間の作業は、改善された段階では数人の作業になるのが普通である。すべての文明社会では、農業者は一般に農業以外の何者でもなく、製造業者は製造業者以外の何者でもない。なにか一つの完成品を生産するのに必要な労働もまた、多数の人手に分割されているのが普通である。 亜麻や羊毛の生産者から、亜麻布の漂白工や伸(の)し工、あるいは服地の染色工や仕上げ工にいたるまで、亜麻布と毛織物の製造業の各部門に、なんと多くのさまざまな職業が営まれていることだろう!たしかに農業の場合は、その性質上、製造業ほどに労働をこまかく分割する余地はないし、たがいに仕事を完全に分離してしまう余地もない。大工の仕事は、鍛冶屋の仕事からふつう分離しているが、牧畜に従事する人たちの仕事を、穀物を作る人たちの仕事からそれほど完全に分離するのは不可能なことである。紡績工はたいていの場合、織布工とは別の人であるが、鋤で耕す者、馬鍬で耕す者、種をまく者、刈り入れをする者は同一人である場合が多い。 そうして様々な種類の労働を行う機会は、1年の様々な季節とともにめぐってくるものであるから、一人の人間が、このどれか一つの労働に年中従事するということは不可能である。このように、農業に用いられる労働の様々な部門をすべて完全に分離することは不可能であるが、これは恐らく、農業技術における労働生産力の改善がかならずしも製造業のそれと歩調を合わせられないということの理由を説明するものであろう。なるほど、最も富裕な国民は、一般に製造業はもちろんのこと、農業でも、すべての近隣の国民に勝っているが、しかしかれらは、農業よりも製造業においていっそう抜きんでているのが普通である。かれらの土地は一般によりよく耕作され、またより多くの労働と費用がそれに投じられているから、土地の広さとその自然の豊度のわりには、より多くのものを生産する。だが、こうした生産上の優越が労働と費用の優越にくらべて、ずっと大きいということは滅多にない。 農業においては富んだ国の労働が、貧しい国の労働よりもはるかに生産的であるとはかぎらない。いや、少なくとも、製造業において普通生産的であるほどに、大いに生産的であるということはけっしてない。だから、富んだ国の穀物は、同程度の品質の場合に、貧しい国の穀物よりも安価に市場に出回るとは限らないのである。
(「国富論」第1章 分業について から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<リカード「経済学及び課税の原理」―比較優位説―>  「自由貿易は先進国を利するだけで、途上国にとっては債務を増やすだけだ」との主張がある。こうした考えの人たちがWTOの総会にデモを仕掛けたりする。「サービス業も、工業も、農業もすべての面で進んでいる先進国が市場獲得の標的として途上国を狙う」と自由貿易を非難する。「すべての面で進んでいる先進国が売り手になり、途上国は何も売る物がない」と言う。この考えは経済学を少しカジってみると間違っている事がわかるのだが、経済問題に関しては「学者・専門家より自分の方が正しい」との自信過剰な人たちが多くいる。そして驚いたことに、日本では農業経済学者のなかにもこの比較優位説を認めたがらない人がいるようだ。これはデビッド・リカードが「経済学及び課税の原理」で言い始めたので、ここでは先ずリカードの意見を聞いてみよう。
 イギリスは織物を作るのには1年間100人の労働を要し、もしブドウ酒の自産を企てれば同じく1年間120人の労働を要する、という事情にあるものと考えてみる。そうするとイギリスはブドウ酒を輸入することにして、それを織物の輸出で買う方が得だと見るであろう。
 ポルトガルでブドウ酒を作るのは、所要労働はわずか1年間80人、同国で織物を作るには、所要労働は同じく1年間90人であるかもしれない。従って、ポルトガルにとっては、織物と交換にブドウ酒を輸出する方が有利であろう。この交換は、ポルトガルの輸入する織物が同国でイギリスよりも少ない労働で作りえても、それに拘わらず、ありうるであろう。ポルトガルは90人の労働で織物を作りえても、それを生産するのに100人の労働を要する他国からそれを輸入するであろう。けだしポルトガルにとってはむしろブドウ酒の生産にその資本を使う方が有利で、ブドウ酒を出してそれで、その資本の一部をブドウ作りから織物製造に転用して作りうるよりも、イギリスからもっと多く織物を入手しうるであろう。
(「経済学及び課税の原理」から)
経済学者共通の知見=比較優位説  1817年に出版されたデビッド・リカード(David Ricardo)の経済学及び課税の原理(The Principles of Political Economyand Taxation)から一部引用した、この前後にいっぱい話があるのだが、今ひとつ論旨がすっきりしない。そこで最近の本から引用してみよう。
 比較優位説は比較生産説ともいう。理論経済学の碩学根岸隆氏(日本学士院、東京大学名誉教授)は、経済学者はお互いに異論を唱え合う人種だが、それにもかかわらず経済学者の間で一致する「共通の知見」があり、介在学を理解しているかどうかはこの「共通の知見」をどれだけ踏まえているかによると述べている。その「共通の知見」の筆頭にあげられるのがこの比較優位説である(「経済学の過去・現在・未来」日本経済新聞社編『やさしい経済学』272〜4頁)。
 なぜ国々は貿易を行うのか、たいがいの人の答えは、「自分の国にはない財を他の国がもっているから」とか、「ある財を自分の国で作るよりも安く生産できる国があるから」というものである。最初の返答は、たとえば自動車のように、他の国でも生産しているものがあるから、答えにはならない。2番目の答えは、だとしたら、あらゆる財について安く作れる国があったとしたら、そこから一方的に輸入するしかないことになる。最近の中国脅威論の背景にもあるが、こうした議論は実は正しくない。貿易から利益が生じるのは、比較優位にしたがって貿易が行われるからだ。
 この議論の基礎は、第7章でとりあげる「経済学者のなかの経済学者」デイヴィッド・リカードウが主著『経済学および課税の原理』(1817年)の第7章で述べた議論である。その解釈については緒論あるのだが、次のような表を考えてみよう。
     日 本 中 国
ネ ジ 100 90
ね ぎ 120 80
 この表は次のように読む。日本と中国という2つの国があって、ネジとねぎという2つの財があるとしよう。数字はそれぞれの財を1単位(ネジ1本、ねぎ1本)生産するのにどれだけの労働者の数が必要かを示している。つまり、日本でネジ1本を生産するには100人の労働者が必要であり、ねぎ1本を生産するには120人かかることを意味している。一方の中国では、ネジには90人、ねぎには80人が必要である。(もともとのリカードウの例では、日本と中国ではなくイングランドとポルトガル、ネジとねぎではなく、布地とワインである)。すぐわかるように、ネジでもねぎでも、中国のほうが、日本よりも費用は少なくてすんでいる。このままでは、どちらも日本は中国から輸入したほうがよいことになってしまう。
 けれども、比較優位に基づくとそうはならない。その議論の鍵は、2つの数字ではなくて、4つの数字を使うところにある。普通、費用の比較というと、たとえばネジを作る費用が絶対的な水準で見て、どちらのほうが低いか、という観点から行われる。つまり2つの数字を比較しがちである(絶対優位)。しかし、重要なのは、相対的に見て(つまり、2つの財の生産費用を相対的に比較して)どちらを作るほうが低いかである。すると4つの数字すべて使う必要がある(比較優位)。 表の例では、日本は中国に比べ、ネジを見ても、ねぎを見ても費用が高くかかっている。絶対劣位にある。しかし、ネジについては比較優位があるのである。だから、日本はネジに、中国はねぎにというように、相対的に優位にある財の生産に特化することで、両国にとって利益が生じることになる。たとえば、ネジとねぎの交換比率が1対1だとしよう。すると、日本は100人の労働の生産物(ネジ)と交換に、120人分の労働の生産物(ねぎ)を手に入れることができる。
 この理論が強力なのは、これが国々の間の貿易だけでなく人々の間の交易、取引にもあてはまることである(英語ではどちらも trade である)。よくあげられるのは、アインシュタインとタイピストの例である。アインシュタインはひょっとしたらタイプを打つのも得意かもしれない。場合によっては、タイピストよりも早く打てるかもしれない。けれども、アインシュタインが天才的な物理学者ならば、研究に全力を注ぐべきであって、論文のタイプはタイピストに任せるべきである。なぜならば、そのように分業することで、全体としてはいっそう成果が上がるからである。この意味では、比較優位説こそ、取引の利益がなぜ生じるかを説明するもっとも強力な理論である。
 もちろん、以上の議論が成り立つためには、いくつかの前提と単純化が必要である。たとえば交換比率が、双方にとって利益をもたらすような比率に決まっていなければならない。その条件(交易条件)については、後に19世紀半ばにジョン・スチュウアート・ミルによって明らかにされた。また、労働者の賃金水準がどうなっているかについてはここでは何も語っていない。これについては、後にヘクシャーやオリーン、サミュエルソンといって学者によって拡張が行われた。
 なお、本文で紹介したポール・クルーグマンが最初に学会で名をあげたきっかけは、比較優位説の基本モデルに対して、代替的なモデルを提出したことである。これは「新しい貿易理論」として、現代では「共通の知見」の一部として共有されている。しかし、そうした比較優位説の修正も、出発点は比較優位説である。経済学では、共通の理解があってこそ、異論がある。そうした共通の理解の核として、比較優位説はいまでも輝きを失わない。
(「経済学者たちの闘い」から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<アイオワの自動車栽培は美しい>  品種改良を生物学的な面から見てきたが、実際に研究が進むか?新品種は普及するか?という問題になると経済学的思考は必要になる。そこで経済学の基本的な問題を取り上げたのだが、やや教科書的になってしまった。そこで「趣味の経済学」の趣旨からもう少し「副読本的」な捉え方もしてみようと思う。ということで、同じ比較優位説であっても少し違う、寓話的な捉え方を引用しよう。
 美しいものは常に喜びであり、簡潔で無疵の論理以上に美しいものはない。数行の論理で、世界の見方が一変する。 友人のデヴィッド・フリードマンが書いた教科書のページをめくっていて、私は最も美しい論理の一つを発見した。テーマは独創的でないかもしれないが、フリードマン流の論理は非常に明晰でコンパクトで議論の余地がなく、嬉しいほど意外性があって、私は学生や親戚、カクテル・パーティーで出会った人たちなどについ紹介したくなる誘惑に勝てなかった。 これは国際貿易に関する論理だが、その魅力はテーマよりも抗し難い力強さにある。
 デヴィッドの観察によると、アメリカには二種類の自動車生産方法がある。一つはデトロイトで生産する方法、もう一つはアイオワで栽培する方法である。第一の方法は誰でも知っているのでここでは第二の方法について説明しよう。まず、自動車を作る原材料である種を蒔く。 それから数ヶ月、小麦が出現するのを待つ。それから小麦を収穫して、船に積み込み、太平洋の西に向けて船出させる。数ヶ月後、船はトヨタの自動車を乗せて戻ってくる。
 国際貿易は、技術の一形態にほかならない。人が住み、工場がある日本という名の地域があることは、アメリカ人の福祉とはまったく関係がない。貿易政策を分析するには、日本が小麦を自動車に変える神秘的な能力を持つ巨大な機械だと考えて差し支えない。
 アメリカの第一の生産方法を第二の方法よりも優遇する政策は、デトロイトのアメリカ人自動車生産者をアイオワのアメリカ人自動車生産者よりも優遇することを意図している。税金や自動車「輸入」禁止措置とは、アイオワで生産された自動車に対する課税や禁止措置である。デトロイトの自動車生産者を競争から守ることによって、アイオワの農民に損害を与えることになる。 なぜなら、競争相手はアイオワの農民なのだから。
(「ランチタイムの経済学」から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<作品のリメイク> 上記<アイオワの自動車栽培は美しい>、著者ランズバーグは別の本、「フェアプレイの経済学」でも取り上げている。出だしの文章は次のようになっている。
 エコノミストは貿易が繁栄の原動力であることを知っている。したがって、国が貿易を否定することは国がみずから繁栄を否定することにほかならないという結論を――正しく――導き出す。また、年収5万ドルのアメリカ人自動車工を1人失業から救うために、貿易制限をおこなった場合、車は値上げされ、ユーザーに全体で年間15万ドルの負担増を強いることになることを、データによって――これも正しく――明らかにする。自由貿易は技術の進歩と同じく、一部の労働者の入れ替えにつながるかもしれないが、アメリカ人の生活を全体的により豊かにすることは間違いないと論ずる。これまた正論だ。
 これらはまさに大学の授業でやっている議論である。
ノースカロライナ州立大学のジェームズ・イングラム教授の創作で、農産物を車に変える新しい機械を発明したすごい企業家の話である。この企業家は海辺に工場を建て、内部を一切秘密にして生産を開始する。……
 一つのネタを別の本でも使う、こうしたことは別に珍しいことでもない。ポール・クルグマンも「金融理論とキャピトル・ヒル・ベビーシッター共同組合の危機」を「経済政策を売り歩く人々」と「世界大不況への警告」で取り上げている。ユニークな話題ならば、何度採る上げてもいいし、他の人間が取り上げてもいい、出典を明らかにするならばそれでいい。何度取り上げてもいい話題なのか、それともそれほどでもなく「くどい」と判断するか、それは読者が判断すればいい。これは本などの著作の問題。音楽でも似たような状況だ。ベートーベンの「英雄」交響曲の第4楽章と同じ曲がピアノ曲にある。シューベルトの歌曲「ます」がピアノ5重奏曲に使われている。 モーツァルトの「オーボエ協奏曲イ長調」と「フルート協奏曲ニ長調」は同じ曲(どちらもK314)。他人が手を加えた例としては、ムソルグスキーの「展覧会の絵」をラヴェルが編曲していたり、「禿げ山の一夜」をリムスキー・コルサコフが編曲して有名になった例がある。原典版は素人っぽいオーケストレーション、とてもディズニーの「ファンタジア」で取り上げれられる曲ではない。「展覧会の絵」と言えば、チェリビダッケのあのゆっくりしたテンポが印象に残る。ゆっくりした演奏ではグレングールド、ベートーベンの「熱情」やモーツァルトの「イ長調ソナタ、トルコ行進曲付き」が印象的だ。こうした演奏、一般的な演奏とは違う。作曲者の指示通り、あるいは作曲者がどのように考えたか、を大切にする演奏がある一方、これらは演奏者が新たな曲を作っているようだ。 どちらも聞く人が喜べばそれでいい。本の場合もそうだ。出版されたときから著作物が一人歩きし始める。ある人は、原著者の考え方を解説し、ある人は原作を基に自分の考えを足していく。どちらがいいかは、読者が判断する。
 経済学の分野ではアダム・スミスが話題になる。その「国富論」、多くの人が論じている。「アダム・スミスは生きている」が親アダム・スミス派の感じ方だと思うのだが、親アダム・スミス派的ポーズを取りながら「アダム・スミスは必ずしも自由放任主義ではなかった」と言って、市場のメカニズムに疑問を投じ、制限を加えようとする人もいる。以前にも取り上げたアマルティア・センは次のように言っている。
 自己利益に基づく行動において2つの異なる問題を区別することが重要である。第1に、人々は実際に自己利益だけに基づいて行動するのか否か、という疑問がある。そして第2に、人々が自己利益だけに基づいて行動するのだとしても、彼らは特定の成功、たとえば何らかの種類の効率を達成するのであろうか、という疑問がある。これらの2つの命題は、共にアダム・スミスによるものとされていた。しかしながら、自己利益に基づく行動の遍在性と効率に対する「スミス流」の見方が常に引き合いに出されてきたこととは裏腹に、実際にはどちらも彼が信じていたという証拠はほとんどないのである (「経済学の再生」から)
 日本人の中にも、アダム・スミスを次のように解説する人がいる。
 景気が悪くなると、アダム・スミスにお座敷がかかる。石油ショックの時がそうだったし、バブル崩壊の時もそうである。 スミスが経済学ではなく道徳哲学の教授であったことを、人びとは思い出す。しかも今度は、いわゆる社会主義の崩壊という伴奏がつき、ハイエクという外野席の応援団長がいる。本当のところ、この伴奏も応援もスミスにとっては困りものなのだが、それぞれ反面教師としては利用できる。
 二百年ほど前に死んだスミスの亡霊を呼びだしてどうするのだと、疑問に思われる向きがあるかも知れないが、スミスは手放しの自由放任主義ではなく、自由競争に内在するルールを想定していた。 このルールはハイエクに欠けている観点であるだけでなく、今日崩壊しつつあるいわゆる社会主義が、その前提となった「後進資本主義」の中に持たなかったものである。この点では日本の資本主義も後進資本主義と変わらない。
 確かにスミスは、各個人が自分の生活をよくするために努力すれば、見えない手の導きによって社会全体が豊になるといい、公共の利益を説く者を信用するなと説いた。しかし同時に、彼はそのような私的利益追求のための競争に対するブレーキが、彼のいう商業社会(あるいは文明社会)の中にビルトインされていることを想定していた。
(「アダム・スミス」<おわりに>から)
 「書かれている文字よりも、行間の意を大切しよう」との姿勢と見た。 「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」といっても、その前に「前項の目的を達するために」とあるから「自衛隊は合憲である」と同じ姿勢。「憲法9条を守れ」と言いながら、自衛隊の存在を容認するのも同類と見る。
 ある人たちにとって、アダム・スミスの言うことはあまりにも強烈なのだろう。「マネーゲーム」という言葉でさえ、拝金主義と感じる人もいる。「共生こそこれからの社会のキーワードだ」と思っている人にとって、「アダム・スミスは否定できないが、その自由主義メッセージは色合いを薄めたい」存在なのだろう。 ハイエクはよけいな外野席の応援団で反面教師。ミルトン・フリードマンやジョージ・スティグラーはアダム・スミスの考えを誤って広めている邪悪者となるだろう。 「アダム・スミスの文章はそのまま読めばいい」と考え「アダム・スミスは生きている」と言う人にとって、行間の意を汲む必要はない。 ここで「自己責任をどこまで尊重するか?」の姿勢が違ってくる。このように「自由貿易は大切だ」と言いながら、個々の問題になると「国内産業をつぶして良いのか?」「農業は日本の文化だ」とWTOの方針を批判する。これを一部の業界と市民運動派が支援する。「分業」「比較優位説」はこのような政治力学の中で揺れ動いている。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
国富論                    アダム・スミス 大河内一男監訳 中央公論社    1978. 4.10    
経済学及び課税の原理             デビッド・リカード 竹内謙二訳 千倉書房     1981.11.15
経済学者たちの闘い                        若田部昌澄 東洋経済新報社  2003. 2.13
ランチタイムの経済学        スティーブン・ランズバーグ 佐和隆光監訳 ダイヤモンド社  1995. 4.13
フェアプレイの経済学        スティーブン・ランズバーグ  斎藤秀正訳 ダイヤモンド社  1998. 5.14  
経済政策を売り歩く人々      ポール・クルーグマン 北村行伸・妹尾美紀訳 日本経済新聞社  1995. 9.20
世界大不況への警告             ポール・クルーグマン 三上義一訳 早川書房     1999. 7.31
経済学の再生       アマルティア・セン 徳永澄憲・松本保美・青山治城訳 麗澤大学出版会  2002. 5. 9
アダム・スミス 自由主義とは何か                   水田洋 講談社学術文庫  1997. 5.10 
( 2004年2月23日 TANAKA1942b )
▲top

(28)自給自足こそが貧困への第一歩
いろんな時代のアダム・スミスたち

 「自由貿易こそ国民を豊にする」という「共通の知見」が現実の社会では、「自由貿易は大切だ」と言いながら、個々の問題になると「国内産業をつぶして良いのか?」「農業は日本の文化だ」などの保護貿易主義に結びつき、これを一部の業界・政治団体と文化人・市民運動が支援する。「分業」「比較優位説」はこのような政治力学の中で揺れ動いている。 そうした揺れ動く社会でエコノミストは諦めずに説得し続ける。言いたいことは「自由貿易こそ国民を豊にする」という「共通の知見」なのだが、その表現は各人の工夫がみられる。そのうちのいくつかを取り上げてみよう。先人たちの保護主義に対する杞憂と、「自由貿易を守るべきだ」との確信が感じられる。
<貿易とグローバリゼーション>
中国と東南アジアだけが、ユニークなのではない。コンサルタント会社のATカーニーが、グローバリゼーションが34の先進国と開発途上国にどのような影響を与えたかを調査した。それによると、最も急速にグローバル化した諸国は、世界経済に組み込まれる度合いの少ない国よりも、この20年間で30から50パーセント高い成長率を維持している。 これらの諸国は、政治的自由にも大きく恵まれていて、国連の人材開発指数でも高い点数を貰っている。調査担当者の計算では、グローバリゼーションに関連する経済成長の結果として、約14億人の人々が絶対的貧困を免れた。悪い知らせもある。グローバリゼーションの高率化は、所得不平等、政治腐敗、環境悪化の高率化と結びつくのである。これについては、後で詳しく述べる。 しかし、グローバリゼーションの正しさを主張する、簡単な方法がある。貿易と経済統合が進んでいなかったら、代わりにどのようなことになっていただろうか。世界貿易の拡大に反対する者は、ハーバードの経済学者ジェフェリー・サックスの主張に基づく一つの質問に答えなければならない。貿易もせず世界経済に組み込まれることなしに、単独で発展するのに成功した国が、近代史上一国でもあっただろうか。 もちろん、一国もない。トム・フリードマンが、反グローバリゼーション連合のことを「世界の貧しい人々を貧しいままにする連合」と呼ばねばならない、と示唆する理由はそこにある。 (「裸の経済学」から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<江戸時代の先覚者たち> 江戸時代日本は鎖国をしていた。従って食糧は自給自足していた。このように言っても誰も反論しないだろう。この常識とも思える説に異論を唱えるのが、アマチュア・エコノミストの存在理由だ。理由はこうだ。現在地球全体では自給自足している。しかしそれぞれの国は貿易によって経済を運営している。世界中見回しても、かつて「地上の楽園」と称された国以外は鎖国はしていない。では江戸時代。日本列島全体で見れば自給自足の経済だった。しかしそれぞれの藩をみると結構出津・入津(輸出入)を行っていた。江戸時代の経済単位は藩であり、それは現在の国に相当する。関所という国境があり、特産物の持ち出しには役人の目が光っていた。 特に飢饉にでもなるとコメなど食糧の持ち出しは制限され、そのため多くの餓死者が出る藩の隣の藩では、誰も死ななかったという例もある。 こうした時代各藩同士の貿易考えると、大坂堂島米会所の存在が大きな影響力を持っていたと言える。現代に置き換えると、世界中の穀物を扱うシカゴの先物市場の様な存在だった。 1730年吉宗将軍の時代、大岡越前守が許可を与えた大坂堂島米会所、これは江戸時代における自由貿易の象徴であった。この先物取引市場を高く評価した「世俗の思想家」が江戸時代にいた。実際にこの帳合い取引所を運営した人々や、これを高く評価した江戸時代のアダム・スミスたちは、21世紀日本の農業経済学者よりも市場経済に信頼を置いていた。 自由貿易・市場経済の象徴である米先物取引所をどのように評価していたか、いくつか意見を聞いてみよう。
山片蟠桃「夢の代」 ……天下の智をあつめ、血液を通わし、大成するものは、大坂の米相場である。
 大舜は心を用いて天下の智をあつめた。この相場は自然天然とあつまり、大成して天下の血液はこれから通い、これを通じて智の達しないものはなく、仁の及ばないものはない。
 その理由はなぜかというと、五畿七道の米穀で、大坂へ送らないものはない。そのうち関東・奥州・東海道の米穀は江戸に入るけれども、もともとその不足を大坂から補うことであるから、江戸に米が少なければ大坂から多く送り、江戸に多ければ少なく送ることであるから、血液が江戸・大坂のあいだによく通じあっているようなもので、その間に価格の点でひびき、こたえるようなことはない。
 ところで、大坂の米相場と他の地域との関係についていえば、今、西国に蝗の害があったということで、飛檄をもって米を買うときは価格が急激にあがる。奥州地方が豊作で米を売るときは値がどっと崩れる。四国に風があるというと、船を飛ばして買いにゆけばまた値があがる。北国は順気で米の出来がよいと檄を伝えると、また値がさがる。関東の洪水で値があがり、二百十日の天気にまた値がさがる。御手伝で値がさがり、御買米であがる。 浅間山・島原の雲仙岳の炎上(爆発)、出羽の地震、中国の津波にいたるまで、ことごとく驚いてこたえないものはない。
 あたかも神があって告げるようである。あたかも将軍がいて指揮するかのようである。天から命ずるのではない。人が集まって徒党を組むのでもない。西に買い、東に売り、北に買い、南に売る。米の相場の価格もあるいはあがり、あるいはさがり、あるいは保ち、あるいは飛躍的に変わる。毎朝毎朝、毎夕毎夕、入船入檄のたびごとに値段の高下することは、響きの声に応ずるがごとくである。
 そうではあるけれども、その道は二つ、いわく売、いわく買。その呼応も二つ、いわく貴(高)、いわく賤(低)。ただこれだけであって、天でもない、神でもない。行為と事実とをもって示すものは、すなわち人気のあつまるところ、またこれ天であり、またこれ神である。千人、百人の力の及ぶところではない。
 しかるにまた、一人で米の相場を動かすことがある。ただこれだけであって、天ではない。天ではないのに、天下の変化を知ることは掌をさすようである。天に先だって天に違(たが)わない、天におくれて天の時を奉ずる。人に先だって人におくれ、事に先だって事におくれ、万物にあまねくして通じないことはない。ああ恐るべきかな。ああ今、天下に賢いものは、米相場にまさるものはないのである。
(「日本の名著」山片蟠桃「夢の代」から 現代語訳・源了圓)
海保清陵「稽古談」 もし米で利益を得ようと思うならば、芸州(今の広島)の津開という法よりいいものはない。これは備中、備後のあたりには、小身の大名や小名がごたまぜに領分に入り込んでいることからできあがった法である。津開というのは、米の収穫される秋になったら、芸州候の領内から納める米をば蔵に入れないのである。蔵の前に出しておくことである。さて蔵をばからにしておいて、さて他国の米というのは、かの小身の大名、小名の米である。この小身衆は、自分でけ単独で、船をだして大坂へ積み込んで米を売っても、とんと引き合わないのである。どうしても理屈の悪い荷物である。 だから、近所の芸州港(津)だったら、小舟で小さい輸送品にしてもよいというものである。そうしたわけで、近所の小身衆の米はみな芸州へ売りさばかれるのである。芸州は富国なので、相場を立ててすぐに仕切金(売り主が受け取る代金・諸経費の総額)を出すというものだから、この芸州の津開ははやるのである。
 さて芸州では、近辺の小荷物をずっと買い込んで、その米を蔵へ入れるのである。すさまじく積みこむ、ということである。大坂の米相場を見合わせて、相場が高くなったときに、芸州米を残らず大坂へそろえて回すのである。すべて家中への俸禄の米は、みな小藩からの買い込み米であるということである。また町家、在家でもやすい米を買って食べて、自分の米を高く売ろうと思うものは、みなこの津開米を買って、自分の米をばお上の米と一緒にしてお上へ売るのである。これで、かの小身衆も都合がよい。在町の者も勝手がよい。芸州候も大いに安い米を買って、大いに高く米を売るというものである。
(「日本の名著」 海保清陵「稽古談」から 現代語訳・源了圓)
本多利明「経世秘策」 浅間山の噴火による東北地方の飢饉は天明3(1783)年から7年まで続いた。本多利明は天明7年に奥州旅行をして、飢饉の被害を見ている。「農村の崩壊を食い止めなければ」との思いから、「経世秘策」の中で「四大急務」と題して書いている。その要点を「江戸時代の先覚者たち」から引用してみよう。 
 飢饉による農村の崩壊を食い止めなければ、との問題に対して利明はどのように考えたのであろうか。彼はまず「赤道以北32度より42度の間」にある「大極楽国日本」の形態からはじめ、
 「日本は未申(南西)の隅より丑虎(北東)の隅へ、凡十度余、里程五、六百里に所在して細長き国なれば、水旱損(水害や干魃の被害)とありても、国中残る所なく、不熟することは古今なきことなれば……」と記す。 つまり、日本は細長い国だから、北で穀物の不作があっても、南では豊作の場合もある。日本全体で足りないのではなくて、必要な所に届かないのだ、と主張する。たとえば「アフリカの飢餓を救え」といって穀物を送る。港があれば、港までは着くであろうし、鉄道が動いていれば、その沿線には運べるであろうが、それ以外は届かない。援助物資が埠頭に山積みにされ、錆び果て朽ち果てている、という話は少なくないが、徳川時代にはこれが国内問題であった。
 まず、大船で大量に物資を運ぶ航海術、さらにそれが入港しうる港湾の建設整備、そこから水運で運ぶなら河川の改修、さらに道路の整備、どれ一つ完全ではない。そこでかれは「経世秘話」の中で、四大急務として「第一焔硝、第二諸金、第三船舶、第四属島の開業(わが国の付属の諸島を開発すること)」を挙げる。 第一の「焔硝」は次のような文で始まっている。
 第一 焔硝と云は、土地に焔硝を生ず、海中に潮汐を生ず、天下万国皆然り。太陽の温もり、火の変性也。土地の焔硝を取らずに置かば、或いは天雷堕落して火災となり、或いは乾燥なる時に、天火を招き、火災となり、或いは人の過失出来すれば、忽ち大火となる。……
 鉄砲とともに、火薬が日本にもたらされたとき、日本人は硝石採種の技術も手に入れた。しかし幕府は諸大名の反乱を恐れて火薬の無断製造を禁止し、これを厳重に幕府の統制下においた。また諸大名は幕府ににらまれるのを恐れて、もとより硝石採取などしようとしない。幕末になると、京都御守衛総督徳川慶喜の下で勘定奉行であった渋沢栄一が、その領内に硝石製造工場を設立しようと計画しているが、これは利明のころは徳川一門でもできないことであろう。 いわば火薬は徳川時代のタブーであり、相当に大きな土木工事もみな「人海作戦」であった。
 田沼政権は印旛沼の開発を行おうとして、一部に「印旛沼を農地にしようと計画した」と言われるが、違うのではないかと思う。本多利明の考え「印旛沼に運河を掘って、奥州からの船を導く」との考えだったと思う。本多利明は「その工事に爆薬を使え」と言っている。田沼時代にはこのような大胆な事を考える自由もあったようだ。
(「江戸時代の先覚者たち」・「日本思想大系」本多利明「経世秘策」から)
江戸時代のアダム・スミスたち 山片蟠桃(1748〜1821・寛延元〜文政4)、海保清陵(1755〜1817・宝暦5〜文化14)、本多利明(1743〜1820・寛保3〜文政3) この3人、田沼の時代に活躍していた。この時代平賀源内のような天才(狂人?)も自由に活躍出来た、元禄時代・文化文政時代と並ぶ日本文化が一段と輝いた時代だった。 ちなみにアダム・スミス(1723〜1790)と同じ時代で「国富論」は1976年に出版されている。明治政府が徳川幕府を批判することによって自分たちの正当性を主張し、西洋文化を積極的に取り入れようとしたこともあって、江戸時代のすばらしい文化が消し去られ、あるいは忘れ去られてしまった。さらに戦前の歴史観が、江戸時代を封建制と位置づけ、恥じるべき時代であるかのように主張されたこともあって、江戸時代の文化が低く評価されている。この3人の考えを読むと、経済に対するセンスは世界最先端をいっていたのではないかと思う。 「自給自足ではなく、各藩が自由な貿易をすることによって藩の財政も健全化し、人々も豊になる」このように自由貿易を主張していたことに驚かされる。この3人についてはいずれ、もう少し詳しく取り上げるつもりです。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<「日本は開国せよ」とロシア艦隊> 1852(嘉永5)年10月19日、帆船パルラーダを旗艦とする4隻のロシア艦隊が、世界を半周して日本をめざす大航海のために、サンクト・ペテルスブルグに近いクローンシュタット港を出帆した。この艦隊を率いるのは、極東通の外交家として知られたプチャーチン提督で、日本との北方の領土を確定し、日露間の通商条約を締結する、という困難な使命が与えられていた。艦隊は1853(嘉永6)年8月9日、長崎港の入口にある野母岬の沖合に到着する。 嘉永6年は、わが国にとって大乱の年で、すでに6月にはペリー提督の率いる4隻のアメリカ艦隊が浦賀に来訪して、わが国の幕藩体制は、300年にえあたる鎖国の眠りから呼び醒まされたばかりであった。この遠征に随行していた作家ゴンチャロフは、多くの記録を残しているので、その中から引用しよう。
 かつて私談を交わしていて、提督は、日本人が通商を怖れるのは杞憂にすぎず、通商は人民の福祉を潤しこそすれ、かつて通商によって凋落した国民はなく、かえって富強になったことを説明するのであった。提督は、外国人が日本人と取り引きをする品物の例を挙げて説明した。
 この後に、プチャーチン提督の行き届いた指摘が続く。
 「たとえば、貴国には日常の必需品が不足しているように見受けられます。窓には紙が貼ってあるが」と提督は周囲を見回しながら話しを進めた。「そのために部屋の中が暗くて寒いのです。外国人はガラスを持って来て、その製法を伝授するでしょう。ガラスは紙より良くて安いのです」と提督は続けた。
 「わが国では、カムチャッカや、その近海に魚が豊富ですが、塩がありません。貴国が塩を下されば、わが国は日本の主食たる魚をお運びします。それに、貴国では何ゆえ全人民の人手を米作に用いられているのですか?それを採鉱にお使いになれば、米はスンダ諸島から輸入できますから、貴国はますます富を得るでしょうに……
 「開国」を契機として、わが国の政治と経済のシステムは大きな変革を遂げる。なにしろ、鎖国政策により300年にわたり、「自給自足」を行ってきた国が、いっきに「自由貿易」へと転換したのである。かつて、アダム・スミスやリカードといった大経済学者は、「自由貿易が諸国に利益をもたらす」ことを論証したが、わが国は実験室のような条件で、自由貿易の経済効果を試したわけであるから、経済学にとってはまことに貴重な経験であったといえよう。 そしてわが国は経済学のの予想通りに、また幕臣官僚に対してプチャーチンが語った言葉通りに、自由貿易による大きな恩恵を受けたのである。
 ヒューバー[1971]の研究によれば、開国により、わが国の商品価格の体系に大きな変化が起きた。つまり、日米修好通商条約(1985年)が締結される前におけるわが国の商品価格(1871〜55年の平均値)を、この条約が締結された後における商品価格(1871〜79年の平均値)と比較すると、わが国の主要輸入品(綿花、綿糸、綿織物、金属、砂糖)の平均価格が55%も下落する一方で、主要輸出品(生糸、茶)の平均価格は33%も上昇するという変化が見られる。
 一般に、ある国が貿易を開始すると、国際価格よりも安くその国で生産できる商品は輸出され、反対に国際価格のほうが安い商品が輸入されるのだが、貿易によってその国の国内価格にも変化が起こる。つまり、その国が輸出する商品の国内価格は、輸出による生産需要の増加を受けて上昇し始める一方で、その国が輸入する商品の国内価格のほうは、外国から安価な商品が輸入されるために下落し始めるのである。こうした過程を通じて、その調整が収まったところでは、国内価格は国際価格をほぼ反映したものとなるだろう。
 ヒューバーの研究が推計しているのは、開国直後にわが国が貿易から得た利益であって、より広い視野に立って今日までにわが国が受けた貿易からの恩恵を考えると、それはまさに計り知れないものがる。もし、「開国」の決断がされなかったとしたら、いったい、われわれの今日の生活はどのようなものだっただろうか?
(「世界経済の謎」から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<保護貿易主義を嘲笑ったF・バスティア> 経済学史の本を見ると、そこに登場するエコノミストは顔ぶれが決まっている。そうした正統派からはちょっと外れた、異端の経済学者に面白い人がいる。そうした突然変異のような奇人の一人にフレデリック・バスティア(1801〜1850)がいた。1840年代に、政府がフランスの産業を利するためにすべての外国商品に高関税を課す法律を制定したとき、自由貿易を主張し、保護貿易を批判し続けたバスティアは次のような経済風刺の傑作を作り上げた。
[ローソク、小ローソク、ランプ、燭台、街灯、ローソクの芯切り、消灯器の製造業者ならびにオイル、樹脂、アルコール、その他灯り全般に関連するすべての生産者の請願書]
下院議員各位
拝啓
……われわれは、外国の競争者との耐え難い競争に苦しんでいます。この競争者は灯りの生産においてはわれわれよりもはるかに優れた条件下にあるために、信じられないほどの低価格で、灯りをわが「国内市場」に「氾濫させる」ことは必至であります。……このライバルというのは……ほかでもない、太陽なのです。
 われわれがお願い申し上げたいことは、どうか、すべての窓、天窓、屋根窓、家の内外の鎧戸、カーテン、ブラインド、円窓、一言でいえばすべての開口部、穴、隙間、裂け目を閉ざして塞ぐことを命ずる法律を通過させて下さい、ということであります。
……もし、あらゆる自然光の入り口を可能な限り閉ざし、人工的な灯りにたいする需要を作り出して下さるならば、われわれフランスの製造業でそれによって得をしないものがありましょうか?
……もし、より多くの獣脂が消費されるのであれば、それだけ多くの牛や羊がいなければなりません 
……もし、より多くの油が消費されるのであれば、ケシやオリーブの栽培を増やさなければならないでしょう
……わが荒野は樹脂質の樹木に覆われるでありましょう。
どうかご選択ください。ただし、論理的にお願いします。なぜならば、皆様がなされたように、鉄、穀物、外国の織物の価格がゼロに近くなるのに「比例して」それらを排除するかぎり、太陽の光の価格は日中の間はすでに「ゼロ」でありますから、太陽の光を認めるということはなんと矛盾したことか、と申さねばならないからであります。
 これほど芝居がかった―――風変わりかもしれないが―――自由貿易擁護が書かれたことはかつてなかった。しかしバスティアが抗議したのは保護関税だけではなかった。あらゆる形の経済的二重思考をあざ笑ったのである。1848年に社会主義者たちが、実行可能性よりも情熱を重視して提出し始めたとき、バスティアは「旧制度」に対して使用したのと同じ武器を社会主義者たちに向けたのである。 「あらゆる人が国家を犠牲にして生きていきたいと望んでいる」「彼らは、国家がすべての人を犠牲にして生きるものであることを忘れている」とバスティアは書いた。
 しかし、バスティアが特に批判の矢を向けたのは、すなわち最も嫌悪した「詭弁」は、「国民の善」のために保護関税という偽りの覆いをかぶって私的な貧欲を合理化することだった。自由主義経済学の装いをまとって貿易障壁を議論するもっともらしい考え方を破壊することを、彼は大いに好んだ。フランスの内閣が、フランスの労働者「保護」のために輸入織物の関税引き上げを提案したとき、バスティアは胸のすくようなパラドックスをもって応えた。
 「この趣旨で法律を通過させてください」とバスティアは商務大臣に書き送った。「今後は誰も、なまくらな手斧で作られた形を整えられた垂木だけしか使ってはならないとしましょう……そうすると現在は100回斧を振ればよいものが、300回振ることになるでしょう。現在は1時間ですむ仕事が、3時間必要となるでしょう。これは、きわめて強力な労働奨励になるでしょう。……現在、自らの身にまとう織物が欲しいのは誰もが、あなたがたのきびしい要求に従わねばならないのと同じように、今後は屋根を覆いたいと要求するものは誰もが、われわれのきびしい要求に従わねばならないでしょう」。
 透徹したあざけりであったせいか、バスティアの批判は実際にはほとんど成功を収めなかった。彼は自由貿易運動の指導者たちと会うためにイングランドにわたり、パリに自由貿易協会を組織するために帰国した。この協会はわずか18カ月続いただけだった。バスティアは組織づくりは少しも上手ではなかった。
(「世俗の思想家たち」から)
 現代で言えば、ワーク・シェアリングも不況対策の政策として積極的に採用せよ、と言うかもしれない。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<自給自足こそが貧困への第一歩> ここに一冊の本がある。「自由貿易は正しく、保護貿易は間違っている」というだけの単純な主張のためにこの一冊が書かれた。 香西泰が次のような解説を書いている。
 ラッセル・D・ロバーツの『寓話で学ぶ経済学』(The Choice:Fable of Free Trade and protectionism,Prentice Hall,1994)が翻訳された。
 この本は、自由貿易の利益と保護貿易の害悪を、ごく初歩的な貿易理論を用い、米穀経済の実態にそくして、平易かつ明快に説いている。それも話を面白くするために、比較優位理論を提唱したデビッド・リカードの霊が、1960年に日本からの輸出攻撃に悩んで保護貿易論に傾きつつある米国イリノイ州スター市のテレビ工場経営者エド・ジョンソンを訪れ、当時から見ての現実及び架空の未来(すなわち1995年)の米国を巡回しながら、貿易戦争、輸入による雇用の喪失、関税・輸入割当・輸出自主規制の効果、公正貿易の意味などについて語り合うという筋書きになっている。
 その状況設定がいかにほ巧みで、読者を飽きさせない。舞台は米国が中心だが、日本が相手役として常に登場しているから、日本の読者にとっては特に興味深い内容だ。チャールズ・ディケンズの「クリスマス・キャロル」でおなじみの話術を用いて書かれた経済問題の優れた啓蒙諸であるといってよい。
 この本をてにとってページをぱらぱらめくればすぐ分かるように、経済学の専門書にありがちな数式やグラフは一つも出てこない。一般読者にも安心して読んでいただけよう。著者はセント・ルイスのワシントン大学教授で、学生に長年にわたって国際経済問題を教えるうちに、このような形での整理を思いついたという。それだけに教科書ないし副読本としても最適である。 この本を一読して感銘を受けるのは、まず話が単純なことだ。著者が言っていることは、自由貿易は正しく、保護貿易は間違っている、というだけのことだ。そしてこの単純な主張を著者は強力に展開する。これに賭ける著者の熱意はただごとではない。そこには何がなんでも反対論を説得しようという執念さえ感じられる。
 香西泰がこのように評した「寓話で学ぶ経済学」、著者の熱意はその序文から感じられる。そこで熱い思いが感じられる「日本語版序文」を紹介しよう。
日本語版序文
 今夜、日本のどこかで、米作農家の子供は未来への希望を胸に抱いて眠りに就くでしょう。太平洋の向こう側のアメリカでも鉄工所の少女が同じように夢を抱いて眠りに就くでしょう。2人の子供たちの抱く将来に対する夢は同じで、世代を超えた、様々な形の幸せと成功という普遍的な夢です。未来は私たち一人一人が日々行う選択の積み重ねの中で決まっていきます。 同時に国家としての選択も未来に多大な影響を及ぼします。自由貿易にするか、保護貿易にするか、という選択のように。
 本書では私たちの日々の選択が未来の経済と日常生活に及ぼす影響について探求します。寓話という形をとり、本酒ではアメリカの経済がこの30年間でどう変わってきたかを見ていきます。ある産業は消え、代わりにある産業が誕生し、成長しました。国際貿易と技術の進歩はアメリカ経済の変化に重要な影響を及ぼしました。 日米間の経済関係もアメリカの変革に重大な影響を与えました。私が本書を執筆していた1990年代の初めは日米間の貿易摩擦が毎日のように新聞の1面をにぎわしていました。当時アメリカは経済的に自信を喪失し日本は急成長している時期で、アメリカ人の多くはアメリカがふつうの国に成り下がったと危惧しました。アメリカ人の中には日本との貿易不均衡と日本によるアメリカの資産(土地)購入に着目し、アメリカの経済不振は日本の成功によってもたらされたと非難した者もいました。
 一部のアメリカ人は日本のやり方をまねて企業同士、あるいは企業と政府が強力すべきだと主張しました。また一部のアメリカ人は日本の進出を脅威に感じたり、自分の企業の保身のために日米間の貿易への政府の介入を主張しました。それは自動車の輸入制限であったり、日本企業に対する土地買収の制限であったりと様々でした。
 本書は「これらの対策には必ず代償が伴う」ということをテーマにしています。国がある産業を保護し、その産業にたずさわっている人々を守ると、その国全体は貧しくなります。一方自由貿易は公用として価格の低下と製品の進歩をもたらします。日本の製品はアメリカ政府による制限がsりながらもアメリカ経済の発展に大きく寄与しました。アメリカとの競争も同時に日本の発展に貢献していると信じています。
 自由貿易のもう一つの効用は、従来の経済学の枠から外れたところですが、「生活をより楽しくする」ことにあると私は思います。人々に個人が持つ知識と技能を最大限に有効に八期させることで自由貿易は多くの人々により満足できる生活を提供するからです。 次の世紀を迎えようとしている今日、アメリカの対日貿易赤字が増加していますが、それはニュースの一面をにぎわせてはいません。それは日本の経済が芳しくないという話が伝わっているからでもあり、最近のアメリカではメキシコや中国の脅威を語ることの方が人々を恐れさせるのは用意でもあるからです。しかしながら日本の経済が回復するに従い、自由貿易反対論者の牙は再び日本に向けられるでしょう。日本でも同様にアメリカとの貿易に危機感を持つことでしょう。 国家レベルで見た場合、これらの危機意識は誤った経済成長、競争そして雇用のモデルに基づいています。危機意識は「一国の繁栄は他国の犠牲の上に成り立つ」という錯覚から生じており、それは人々に貿易を恐れさせ、より自給自足的な生活を国に選択させようとします。
 私は
「自給自足こそが貧困への第1歩だ」と主張したいのです。教育と勤勉、それと向上意欲を引き出す正しい動機づけ、ならびに開放された市場こそが国の活力だと私は信じています。貿易によって一部の産業の雇用が減ることはありますが、同時に開放された人材と資金、それに経営資本を使うことで新しい産業を創造する機会を得るのです。「現状を維持することは、眼に見えない、潜在する未来の可能性を犠牲にする」――本書の主張はまさにこの点に集約されます。 世界のすべての国家は、自由貿易と保護貿易の政策およびその影響との選択のはざまで揺れているのです。
 このたび私の本が日本で翻訳されることになったことを光栄に思います。私は本書に記したアメリカの通商政策が日本の皆様にご参考になればと思います。新たな世紀を迎えるにあたり、本書が日米間の有効と、世界の国々と人々が自由に貿易できるようになることに少しでも役立つことを願っています。
 1999年4月 米ミズリー州セント・ルイスにて
         ワシントン大学ジョン・M・オーリン・スクール・オブ・ビジネス・マネジメントセンター所長
                           ラッセル・D・ロバーツ              
(「寓話で学ぶ経済学」――自由貿易はなぜ必要か――から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
裸の経済学               チャールズ・ウェーラン 青木栄一訳 日本経済新聞社  2003. 4.23
江戸時代の先覚者たち―近代への遺産・産業知識人の系譜―       山本七平 PHP研究所   1990.10.19
日本の名著 23 山片蟠桃 海保清陵               源了圓編 中央公論社    1971. 2.10
日本思想大系 44 本多利明 海保清陵         塚谷晃弘・蔵並省自 岩波書店     1970. 6.25
世界経済の謎 経済学のおもしろさを学ぶ              竹森俊平 東洋経済新報社  1999.12.30
世俗の思想家たち―入門経済学思想史― ロバート・ハイルブローナー 八木甫監訳 HBJ出版局   1989.10 
寓話で学ぶ経済学―自由貿易はなぜ必要か― ラッセル・D・ロバーツ 佐々木潤訳 日本経済新聞社  1999. 7.12
( 2004年3月1日 TANAKA1942b )
▲top

(29)農作物を世界で分業すると……
低賃金と劣悪な労働条件の最貧国、しかし……

 世界の食糧は需要量と供給量だけを比べれば、食糧不足はないことになる。問題はその配分、欲しいけどお金が無くて買えない人がいることだ。最貧国の人たちの食糧がその国で生産されるのでも、あるいは他国から輸入されるのでも、国民にそれを買うお金があればいいわけだ。つまり国内総生産が向上して可処分所得が増えればいい。それが食糧生産でも、観光事業でも、輸送業でも、先進国への出稼ぎでもいい。 そしてその経営組織が国内資本によるものでも、外国資本でも、最貧国の人たちに職が確保されるならば、それをヨシとすべきだ。 当初は人件費の安さがその企業体のウリになる。ということは安い給料、劣悪な労働条件ということもあるだろう。先進国の余裕ある市民には許せないかもしれない。「劣悪な労働条件を改善せよ」との運動が起こるかも知れない。市民運動の目標としてはアピールしやすいものだ。そしてなかなか改善されない。だからいつまでも同じスローガンを唱えていられる。市民運動としては誰でも参加しやすい運動になる。
 キャッサバ、タロイモ、サツマイモなどを栽培していた農民や、焼き畑農業をやっていた農民が、先進国向けの付加価値の高い農産物を作り始めたとすると、そしてそれが先進国からの投資によって経営されるとしたら、安い給料・劣悪な労働条件となるだろう。しかしそれは先進国の安定した職場で働く人から見た職場だ。見る立場を変えると、評価も違ってくる。農業を取り巻く環境・その職場環境を普段と見方を変えて考えてみることにしよう。
<ビル・ゲイツのバイテク論>
『タイム』誌2000年6月19日号の21世紀展望特集に、コンピュータ界の巨人ビル・ゲイツ氏がバイオテクノロジーの人類への貢献についてエッセイを寄せている。ここではバイオテクノロジーは万能薬ではないと断ったうえで、今後バイオテクノロジーの恩恵を受けるようになるのは、食材の選択に多くの自由がある温帯国の金持ちではなく、毎日の食糧確保が大きな問題である開発途上国の人々だろうとしている。 組み換え遺伝子を使って米のベータカロチン含有量を増大させ、熱帯の消費者の体内でビタミンA不足を解消させる可能性について早くも言及しているのには印象づけられたが、私にはなにより、損害を被っている人の数では目下地球上最大の作物病害ではないかともいわれるアフリカのキャッサバモザイクウィルス病を組み換え遺伝子を使って解決できたら、人類史的貢献になるだろうと記述しているのには大いに感心させられた。 そして飢餓問題は分配の問題でもあるとしたうえで、じつはバイオテクノロジーも同じ問題を抱えていると喝破している。バイオテクノロジーの先端企業が金になるマーケットばかりに照準を合わせ、技術の恩恵を最も必要としている人々を素通りしてしまうことが目下の問題だとしている。ビル・ゲイツというアメリカ文化の権化のような人物からのメッセージであり、アメリカ文化の底深さを学ぶ感がある。 わが日本からもいつの日か、相撲の大関かJリーグの得点王で、バイオテクノロジーでも環境問題でもよいが、一般市民にも専門家にも感銘を与えるような意見が出てくることを心待ちにしたいものである。 (「自殺する種子」から)
 ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)という言葉がある。高貴な人にはそれなりの品格ある行動が必要だ、といった意味だ。事業を興し成功した人は、その事業に関することだけでなく、自分と取り巻く広く社会問題に対して、責任ある態度が必要だ、ということにもなるのだろうか?品種改良・遺伝子組み換えを扱った書物を読んで、ビル・ゲイツのような大変広い視野からの問題提起をした文章には出会わなかった。 この分野の専門家、視野狭窄が多いのではないか、と心配だ。それにしても、豊になった日本国民、そろそろ「ノブレス・オブリージェ」を意識してもいいと思う。諸外国の農民に対して、日本のコメ市場を開放してもいい頃だと思う。あるいは消費税を10%にして、1%は国連に寄付し、開発途上国のインフラ整備の使って貰う、そのような提案が出てきてもいいと思う。 「何が何でも消費税引き上げ反対」「ダメなことはダメ」そろそろそのような開発途上国型の見方は卒業しましょうよ。日本の周辺国を見回して下さい、日本人が豊になったことに気づくと思いますよ。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<30歳前に社会主義者でない者はハートがない、30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない。> 貧困とは、厄介なものである。私が都市での教育について記事を書いていた時、シカゴのロバート・テイラー住宅団地近くの高校の校長が、そう言ったことがある。校長は、貧困と困窮のうちに育った子供たちを教育することの難しさを話してくれた。彼の話は、世界の現状を語っているのも同然であった。世界の多くの地域、訪ねたことはもちろん、思いもしないような場所は、絶望的なほど貧しい。 われわれは、それらの国や場所を豊にするのが当然である。経済学者によると、そうする一つの重要な道は貿易であるという。ポール・クルーグマンは「30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない」との古いフランスの諺になぞらえて、グローバリゼーションをめぐる不安を次のようにうまく要約している。 (T注・Winston Churchill も同じ事を言っている。"If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.")
 もしあなたが第3世界の国で作られた製品を買うならば、それは、欧米の基準からすると信じられないほど安い賃金で、しかもきっとひどい条件下で働く労働者が作ったものである。そうした事実を気にかけない者は、少なくともある期間、ハートがない。しかし、だからと言って、グローバリゼーション反対のデモ参加者が正しいというわけではない。これに対して、世界の貧困に答えるには、世界貿易に反対して憤慨するだけでよいと考える者は、頭がないか、頭を使おうとしないかである。 反グローバリゼーション運動は、自らが擁護すると称する人々とその主張を傷つける立派な記録をすでにもっている。
 世界貿易拡大の傾向は、しばしば、もはや阻止し得ない力だと言われる。そんなことはない。われわれは以前にもこの道を歩いてきたが、結局は戦争と政治のせいで世界貿易システムはバラバラに解体されてしまった。最も急速にグローバリゼーションの起きた期間は、19世紀末から20世紀初めであった。「A Future Perfect」(未来完了)の著者ジョン・ミクルスウェイトとエイドリアン・ウールドリッジは、次のように述べている。「この100年を振り返ってみると、多くの経済的手段から見て、世界が今日よりもグローバルであったことに気づく。 旅券なしに旅することができたし、金本位制が国際通貨であったし、技術(自動車、鉄道、船舶、電話)が世界をとてつもなく小さいものにしつつあった」。だが、悲しいかな、「そうした壮大な夢は、あの第1次対戦でのソンムの戦いで粉々に砕かれてしまった」と指摘する。
 政治的国境は、まだ重要な意味を持っている。各国の政府は、以前にしたように、グローバリゼーションにぴしゃりとドアを閉ざす恐れがある。そういうことは、豊かな国々にとっても貧しい国々にとっても同様に不名誉なことになるだろう。
(「裸の経済学」から)
 反グローバリゼーション運動の人たち、「先進国は最貧国の債権を放棄せよ」と叫ぶ人たち、社会主義に未練がある人たち、それならとことん社会主義にのめり込んで下さい。筋金入りのコミュニストになりませんか?中途半端でストレスが溜まっているのではありませんか?もう一度声を出して読んでみましょうよ、あの「共産党宣言」を、"The Communist Manifesto"を。"Manifest der Kommunistischen Partei"を。"МАНИФЕСТ КОММУНИСТИЧЕСКОЙ ПАРТИИ"を。  でどうぞ。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<女工はほんとうに悲惨だったのだろうか?> 明治32年(1899)、横山源之助が「日本の下層社会」という本を著した。横山は著書の中で製糸女工について次のように述べている。
 足利・桐生を辞して前橋に至り、製糸職工に接し、更に織物職工より甚だしきに驚ける也。労働時間の如き、忙しきときは、朝床を出でて、直(ただち)に業に服し、夜業12時に及ぶこと稀ならず。食物はワリ麦6分に米4分、寝室は豚小屋に類して醜陋(しゅうろう)見るべからず(中略)しかして、1ヶ年支払う賃銀は20円を出ざるなり。
 こうした記録にもとづいて横山は、
 女子労働者の多くは、苦しい家計をたすけるために出稼ぎにきた小作農などの下層農家の子女であり、欧米とくらべると、はるかに低い賃金で、きびしい労働に従事していた。紡績業では二交代制の昼夜業が行われ、製糸業では労働時間は15時間程度、時には18時間におよぶこともあった。
 と嘆く。それを読んだ学生は、女工たちの悲惨を知り、女工たちへの同情で心をあつくしたのであった。
 昭和27年(1952)、学生であった私は、第2次大戦前の出稼ぎ女性について知るために、新潟県刈羽郡上小国へ聞きとり調査に言ったことがある。刈羽地方は戦前に製糸・紡績女工を多く出した地域であった。信越本線の「塚山」という駅で汽車を降り、そこから乗合自動車で谷間の曲がりくねった道をがたがたと進む。道すがら田畑で働くたくさんの人をみた。人々はみんな裸足で水田に入り鍬をふるっていた。 その風景を眺めながら、小学校を終えたばかりの少女たちが峠を越えて出稼ぎに行く姿と、それを見送って手を振る貧しい身なりの父母の姿を頭にえがいた。そしてわたしは、このむらで意外な「女工哀史」に出会ったのである。
 月給をもらって、自分の欲しかった着物を買ったときのよろこびは格別でした。それから工場は休みがあるでしょ、休みの日にはだれに気兼ねすることもなく友だちと町へ遊びに行きました。紡績へ行っているときが人生で一番自由なときでした。
 年老いたその女性はさらに言葉をついで、「寄宿舎には電気がついていますし、食べ物も家で食べるよりははるかに良かったですもん」と語った。紡績工場ひ出稼ぎに行った女性たちの感想は、わたしがえがいていた「女工哀史」の世界とはまったく別のものであった。 低賃金と長時間労働のもとで働かされているのは客観的な事実であるなずなのに、目の前には、自分の欲しい着物を買ったよろこびにひたっている女性がいたのである。そのときわたしが出した結論は、彼女たちは資本家にだまされているのだ、という単純明快なものであった。調査参加者のだれもがそう思っていた。
 労働者は資本家に搾取されているのだろうか?  大学を出て高等学校の教師になって、昭和56年に佐渡相川町稲鯨を調査に訪れたことがあった。そのとき高野さんと岩崎さんという二人の女性から出稼ぎの話を聞いた。
 稲鯨は背戸時代のはじめ奇襲御坊の岩崎村から佐渡へやって来た人たちがひらいた漁村で、岩崎を姓とする家が多かった。高野さんは明治42年の生まれで、13歳のとき滋賀県の紡績工場に働きに行き、4年間そこで働いた。岩崎さんは明治41年生まれで同じく彦根の紡績工場で2年間働いた。そののち岩崎さんは佐渡に帰り、今度は漁に出かける人たちといっしょに番屋の「飯炊き」として青森県の下北へ行った。函館のあいむかいに「大畑」という村があった。そこに番屋を借りて、親方以下7人の若衆が住み込んでイカ漁をし、 それを干しイカに加工した。干しイカは函館へ運ばれていった。
 下北での飯炊きの仕事はほんとに楽しゅうございました。なにせ、自分がとったお金で、自分のもんが買えましたからのう。稲鯨へ帰えらんで、まだしばらくあそこで働いていたいと思いましたが、親の言いつけで仕方なく村に帰りましたがさ。(昭和56年、著者聞きとり)
 学生のとき「労働者はみんな資本家にだまされていた」というまとめをしたことを思い出して、さて、それで良いのかと考え始めたのは、この漁師の村で二人の話を聞いてからである。
 わたしはこれまで、小学校を出たばかりの少女たちが紡績工場に送りこまれ1日15時間もの労働を強制されたことを、「欧米とくらべるとはるかに低い賃金できびしい労働に従事させられていた」とだけ理解していた。しかし、そう考えただけではその向こうに悪徳資本家の顔しか見えてこない。
 考えてみれば、紡績女工の悲惨は女工たちだけの問題にとどまるものではない。同じとき村には、薄明かりの中で起き出し霜を踏んで野良に出かけ、日が沈んで星をいただいて帰るという農民の生活があった。きびしい労働に従事していたのは女工たちだけでなく、農民も職工も、労働に従事するすべての日本人が長時間労働と低い賃金のもとで苦しい生活にあえいでいたのである。それゆえ、女性たちはみずからの長時間労働や低賃金について特別に思い悩むところがなかったのである。
 わたしたちはそこのところを考えることなしに、当時の先進国との直接比較によって問題を論じたから、女工たちに限りない同情を寄せ、かつ労働者の覚醒を議論することになったのである。しかしこのような論理の組み立て自体が勝者の理屈かもしれない。こんにちでも世界各地には低賃金と長時間の労働に従事している人々が存在する。その人たちに向かって、「だまされている」とか「目覚めよ」と言うことが妥当なのかどうか。わたしにはそれは、いささか非歴史的な行為のように思えてくるのである。
 最も重要なことは、家を出て工場へ出稼ぎに行った女性たちが、みずからの力で「家」(家族制度)からの解放を体験したという事実ではなかったのか。「家」から出てみずからの手で金をにぎりしめ、それで自分の欲しいものを買いに行った女性たちの喜びにこそ目を注ぐべきだはなかったか。そのことを認識することが、歴史を正論という勝者の観念から現実に引き戻す第一歩なのである。
(「村からみた日本史」から)
 最貧国がグローバリゼーションによって開発途上国に進化し始めると、「多国籍大企業が、劣悪な労働条件によって搾取している」との批判が出るかもしれない。アジア諸国での開発が進むとき「日本のODAによって自然破壊と、住民を追い立てる開発が進んだ」との日本人からの批判があった。ODAへの批判がカッコー良く思えた人もいたに違いない。しかし日本の援助によるインフラ整備によりアジアは発展し続けている。 労働条件についても同じ様な批判が出るだろう。アフリカ諸国が少し前のアジアの状況に似てくれば、賃金、労働環境、自然破壊、住民追い立て、等について先進国の生活に余裕ある人々が発言し始める。現地の人たちは社会の変化を黙って受け入れて、徐々にだが豊になっていく。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<単純な話だが、最低賃金を引き上げると、失業者は増加する> 労働コストの上昇は雇用を減少させる。まさにこの論拠に立って、クリントン大統領の連邦最低賃金引き上げ提案を拒否すべきである。最低賃金が引き上げられると、技能の乏しい労働者の雇用機会はなおいっそう減るだろう。ティーンエイジャー、高校中退者、移民、その他の低技能労働者のなかには、いま提案されている新最低賃金、つまり時間あたり5.15ドルさえも稼げない者が多い。彼らは小さな事業所、とくにファーストフードのチェーン店やそのほかの小売り部門に職を見つける。大統領が望むように最低賃金を引き上げれば、そうした者のなかから失業者が出るだろう。なぜなら彼らの生産性は、雇い主にとっての労働コストに見合わないからだ。
 過去数十年のあいだに行われた多くの研究は、最低賃金の引き上げはティーンエイジャーやそのほかの低技能労働者の雇用を減少させることを検証してきた。だが最低賃金法は、労働組合員や多くの政治家のあいだで人気を維持してきている。また最低賃金制の有害性を指摘する支配的な見方に対して、何人かのエコノミストが、時折異議を提起してきた。
 重大な欠陥  こうした挑戦とも言える異議のなかで、多くの人びとに引用されている最近のものは、デビッド・カードとアラン・B・クルーガー(後者は現在労働省のロバート・B・ライシュのチーフ・エコノミストである)の2人のプリンストン大学エコノミストが行ったいくつかの研究に由来する。1つの研究が見出した点は、最低賃金引上げ後の雇用の状況を調べると、低賃金労働者の多い州(もっとも強い影響を受けるはずの州)でより大きな変化があったとは言えないことである。
 もう1つの研究は、ライシュやその他の行政当局の人びとが、高い最低賃金は雇用を減少させない、という議論を強化するためにひんぱんに言及しているものである。それは、ニュージャージー州が1992年に自州の最低賃金を引き上げたあとでの、ニュージャージー州とペンシルバニア州におけるファーストフード・レストランでの雇用の変化を比較した研究である。そのなかでカードとクルーがーは、両州での雇用の減少が双方同程度であったことを論拠として、雇用減少は最低賃金引き上げとは別の要因のせいに違いないと論じている。
 一方、こうした研究には重大な欠陥があると考えるエコノミストがおり、私もその一人である。この欠陥のうちいくつかは、テキサス農工大学のドナルド・R・ディーアとフィアス・R・ウェルチおよびシカゴ大学のケビン・M・マーフィが1995年1月の米国経済学会の年次総会で報告した研究のなかで、明確に説明されている。 たとえば、1990年と91年の連邦最低賃金引き上げで、ニュージャージー州のティーンエイジャーの雇用は、ペンシルバニア州のそれに比べてより大幅に減少した。そしてこの点こそ、ニュージャージー州が1992年に州独自の最低賃金を引き上げた時点で、同州の雇用がペンシルバニア州に比べて大きく減少しなかった理由を説明する。その前に実施された連邦最低賃金の引き上げに反応してニュージャージーの雇い主が雇用を大幅に縮減したとき、多分彼らは自州の最低賃金引き上げが実施されることを予期して行動したのであろう。
 相争う研究  カードとクルーガーの研究には欠陥があり、、彼らによって、最低賃金引き上げがこように相当のマイナスの効果を及ぼすことを検証した長年にわたる多くの研究結果が覆されたとするのは不当である。ディーアとマーフィーとウェルチの研究は、1990年と91年の2段階で実施された3.35ドルから4.25ドルへの連邦最低賃金の引き上げが、ティーンエイジャーや高校中退者やそのほかの低賃金グループの雇用を減少させたことを示している。 雇用減少の規模に関して言えば、彼らは当時のリセッションの影響も十分考慮して推定しており、おおむね正確である。最低賃金が27%引き上げられた後に、男子および女子のティーンエイジャーの雇用はそれぞれ12%および18%減少した。一方、高校中退者の雇用は6%縮小した。この推計が意味するところによれば、もし議会が最低賃金を18%引き上げて時給5.15ドルにすれば、低技能労働者の5%以上減少することになろう。
 クリントン大統領は賃金水準引き上げを正当化するために、最低賃金所得では家族はまともな生活ができないことを強調している。しかしカードやクルーガーでさえ、最低賃金の引き上げが貧困を減らす有効な方策とは見ていない。なぜなら典型的な貧困過程の場合、最低賃金に近い水準の賃金を得ているメンバーには、家族所得のほんの一部を頼っているにすぎないからである。 大統領は、低技能労働者向けに実施される企業内訓練に対する補助金も増額したいとしている。だが、もしクリントン大統領が連邦最低賃金引き上げの提案を撤回するならば、この補助金の増額も不要ということになろう。低技能労働者は生産というよりむしろ学習に時間を費やしているゆえ、労働コストを上昇させる最低賃金に引き上げは、彼らに対する企業内訓練を抑止することになるからだ。
 最低賃金の引き上げが雇用を減