コメ自由化への試案
日本人が作りだした農産物
品種改良にみる農業先進国型産業論
(2)コシヒカリを超えられるか?
日本人が作りだした農産物
品種改良にみる農業先進国型産業論
コメ自由化への試案 日本人が作りだした農産物 品種改良にみる農業先進国型産業論
アマチュアエコノミスト TANAKA1942b がコメ自由化への試案を提言します
If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain――Winston Churchill
30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない
アマチュアエコノミスト TANAKA1942b がコメ自由化への試案を提言します
アマチュアエコノミスト TANAKA1942b がコメ自由化への試案を提言します
趣味の経済学 コメ自由化への試案
▲ (2) コシヒカリを超えられるか? 競い合う各県の農業試験所 ( 2003年7月7日 )
▲ (3) コシヒカリから生まれた優等生 海外でも人気を博す日本米 ( 2003年7月14日 )
▲ (4) コシヒカリ独壇場の秘密 市場原理と豊かな消費者 ( 2003年7月21日 )
▲ (5) 野菜・果物・花卉の品種改良 「一代雑種」という改良方法 ( 2003年7月28日 )
▲ (6) 諸外国での品種改良 緑の革命とEU農業政策 ( 2003年8月4日 )
▲ (7) 新大陸からの金銀以上の宝物 トマト、ジャガイモの普及と改良 ( 2003年8月11日 )
▲ (8) 美味いものには国籍不用 進歩する品種改良手法 ( 2003年8月18日 )
▲ (9) まだまだあった新大陸の味覚 コロンブス時代からの植物史 ( 2003年8月25日 )
▲ (10)江戸町人の好奇心と遊び心 花卉園芸・元禄グルメ・西鶴 ( 2003年9月1日 )
▲ (11)稲の品種の使い分け 非情報化時代の情報網 ( 2003年9月8日 )
▲ (12)品種改良の方法 メンデル、選抜育種法、交雑育種法 ( 2003年11月10日 )
▲ (13)在来種への思い入れ 消費者に気に入られる野菜とは ( 2003年11月17日 )
▲ (14)外来種が定着し在来種となる 野菜の原産地・導入育種法 ( 2003年11月24日 )
▲ (15)日本人に適した品種改良 好奇心と遊び心 ( 2003年12月1日 )
▲ (16)細胞育種法 ポテトXトマト=ポマト、オレンジXカラタチ=オレタチ ( 2003年12月8日 )
▲ (17)自家不和合性と雑種強勢 農業経営組織・制度の品種改良は可能か? ( 2003年12月15日 )
▲ (18)日本人が切り開いたハイブリッド技術 外山亀太郎の蚕・柿崎洋一のナス ( 2003年12月22日 )
▲ (19)ハイブリッドライスの可能性 先進国型品種改良への転換 ( 2003年12月29日 )
▲ (20)遺伝子組み換え技術の誕生 医薬品からの実用化 ( 2004年1月5日 )
▲ (21)野菜に加えられた良き性質 GMOの広がる可能性 ( 2004年1月12日 )
▲ (22)遺伝子工学の方法 何が進歩して、何が停滞しているのか? ( 2004年1月19日 )
▲ (23)批判派・推進派の主張 世界の食糧危機を救うか? ( 2004年1月26日 )
▲ (24)安全性について考える 利益と不利益とのバランスをはかる社会的な概念 ( 2004年2月2日 )
▲ (25)栽培しないことの利益と不利益 「結論を延ばす」という結論の機会費用 ( 2004年2月9日 )
▲ (26)品種改良で農業の将来はどうなるか? 日本農業は崩壊しない ( 2004年2月16日 )
▲ (27)品種改良を経済学の目で見る 先人たちの助言を聞いてみよう ( 2004年2月23日 )
▲ (28)自給自足こそが貧困への第一歩 いろんな時代のアダム・スミスたち ( 2004年3月1日 )
▲ (29)農作物を世界で分業すると…… 低賃金と劣悪な労働条件の最貧国、しかし…… ( 2004年3月8日 )
▲ (30)有閑階級の恋愛と贅沢と資本主義 正義と嫉妬と不平等の経済学 ( 2004年3月15日 )
▲ (31)タネ作りは種子会社に任せよう 在来種もF1も、その改良品種も ( 2004年3月22日 )
▲ (32)反進化論は品種改良をどう説明する? 「ルーシー」と「ミトコンドリア・イブ」 ( 2004年3月29日 )
▲ (33)市場重視と株式会社参入 さらなる進化のために ( 2004年4月5日 )
▲ (34)やはり農業は先進国型産業であった 参考になった文献集 ( 2004年4月12日 )
コメ自由化への試案 Index
「NIRA報告書」で叶芳和氏等が農業をどのように考えていたか?報告書の初めの部分を引用しよう。
日本農業が直面している高価格、過剰供給(生産調整)、低自給率等の諸困難は、解決可能な課題だと考える。さらに、諸外国の農業者にわが国市場へのフリー・アクセスを与えることも可能だと考える。
農業は先進国で比較優位をもちうる産業である。日本は先進国であり、農産物の輸出国にさえなれる潜在的条件をもっている。この条件をいかに生かすかが重要である。技術革新と規模の利益を実現させるシステムを設計することが肝要である。(中略)
農業をいかなる産業と把握するかで、農業に対する政策体系は異なる。農業を「後進的な産業」ととらえた場合、国内の自給体制の維持をめざす限り、過保護農政に走ることになる。われわれは、農業は研究開発ならびにヒューマン・キャピタル(人的資本)の蓄積が他産業以上に重要であると考える。
それ故、農業は本来なら先進国で比較優位をもちうる産業であり、最も「先進国型」の産業であると考える。輸入制限がなくても、わが国で農業が発達する条件が潜在的にはあると考える。
こうして江戸時代から先進国型産業だった日本の農業、では現代ではどうなのだろうか?そこで「もしも品種改良がなかったら、日本の農産物はどうなっていたろう?」と考えると、日本の農業から品種改良の成果を除いたら、どうなっていたか想像もつかない状況だと考えるようになった。
品種改良にみる農業先進国型産業論、先ずはコメの品種改良=コシヒカリ=から始めよう。
コシヒカリ開発略年表
1944(昭和19)年 7月末、新潟県農事試験所(長岡市長倉町)水稲育種指定試験地主任技師の高橋浩之は人工交配に取り組んだ。それは晩生(おくて)種の「農林22号」を母とし、早稲(わせ)種の「農林1号」を父とする組み合わせだった。今でこそコシヒカリは美味い米、と評価されるが、高橋はイモチ病に強く「質より量」を目指しての育種であった。
田植え作業は県農試付属の農業技術員養成所の生徒の手を借り、除草作業は長岡市内の女学校に手伝ってもらい、やっと交配作業にたどりついた。当時を知る元新潟県農業専門技術員の村山錬太郎は、「高橋さんのような高等官の主任技師で、素足で真っ先に田んぼに入っていく人はおりませんでした。あのころ、夕方遅くなっても、圃場に独特の藁帽子をかぶった高橋さんの姿が見え、今日もまた高橋さんは頑張って働いていると思ったものでした」と当時を振り返る。
高橋は後年、当時の状況を述べた次のような手紙を、東大教授(育種学)の松尾孝嶺に送っている。「毎日何回となく、水田を自分ではい回りながら、時には、めまいがして畦にしゃがみ込んだりしたこともありましたが、自分のやっている仕事が、人を殺すことにまったく関係がないという信念によって、迷うことなく仕事に専念することができました。今になって思えば、あのころの運営はまことに奇跡の感がします」。松尾は太平洋戦争当時、新潟県農試の雪害試験地主任を務め、高橋とは大いに語り合った仲だった。
1945(昭和20)年 戦争激化のため育種事業は全面中止。8月1日、米軍機の空襲で高橋の家は焼け、育種に関する資料は焼失。
1946(昭和21)年 育種事業再開。F1(雑種第1代)誕生。新潟県農試には、そのころ高橋が主任を務める全額国費事業の水稲育種指定試験地と、県費事業の水稲育種部の2つがあり、同じような水稲育種の仕事をこの2つの試験機関が平行して行なっていた。そして高橋が所属する国の試験地では保存した種モミが順調に発芽したのに、一方の県育種部の種はまったく発芽せず、県の育種は失敗してしまう。それは、高橋は再開したときに種子が順調に発芽するように種モミをガラス瓶に入れ良好な乾燥状態に保つよう努力したからであった。
高橋はこの雑種第1代の生育を見守り、その刈り取りを済ませた後、人事異動で6年間勤務した新潟を去り、農林省農事試験場鴻巣試験地へ転任。コシヒカリの栄光を知ることなく、1962年、53歳で世を去った。
1947(昭和22)年 高橋の後任は、東京帝大農学部卒の仮谷桂で、機構改革のため47年5月から同試験地は長岡農事改良実験所となり、刈谷は同所長となる。高橋の下で長く助手を務めていた池隆肆は1944年に出征したが、高橋が新潟を去る直前の1946年7月に復員して試験場に戻っており、「農林22号X農林1号」の雑種第2代の選抜には、この両名が取り組む。このように高橋の目指した「農林1号」の耐病性強化という育種目標は、長岡実験所で引き続き選抜作業を進めることになった。
しかし、この「農林22号X農林1号」の雑種第2世代に対する評価は芳しいのもではなく、この品種は福井へ譲渡されることになり、種子の一部は新潟県農試へ譲渡された。当時、農林省稲担当企画官だった松尾孝嶺が育種関係の会議で「新設される福井実験所へ回す育種材料を出してくれ。捨てるものがあったら、福井へ送ってくれ」と冗談まじりに言ったという話が伝わっている。どこの試験機関でも最有望の秘蔵っ子の育成系統を回すはずはなく、「農林22号X農林1号」は「捨てるもの」と判断されたのだった。
<福井県農試 岡田正憲 石墨慶一郎>
1948(昭和23)年 この年の春から新設された福井農事改良実験所は、周辺の試験機関から育種材料の配布を受け、本格的に水稲新品種の育成を始める。所長は宮崎高等農林卒の岡田正憲。その下に宇都宮高等農林化学科卒の石墨慶一郎、など総員たった4人。長岡でF3誕生、一部が福井へ送られ、以後福井で育成される。この年6月28日福井大地震が起き、試験田は水が抜けたり土砂が噴出したり、稲はほとんど壊滅にひんした。
ところが、この系統だけは、たまたま水はけの悪い湿田に、いささか早めに植えられていて、運良く被害を免れた。材料のままで敗戦をやりすごしたときと同様、ここでも未来のコシヒカリは災害をやり過ごしたのだった。
1950(昭和25)年 福井実験所では雑種5世代の育成試験からこの「農林22号X農林1号」に対する評価が高まり、この年から初めて収量をもチェックする生産能力検定予備試験の対象にされる。翌年の雑種第6代の生産検定試験に残されたのは307番と318番の2系統。前者が後に「ホウセンワセ」に、後者がコシヒカリになる系統であった。
1951(昭和26)年 岡田が九州農試に去った後所長となった石墨はこの系統の307番を「越南14号」と系統名を付け、20府県に種モミを配布し、適応性試験を依頼する。これは1955年、「ホウセンワセ」と正式に命名され、農林番号品種に登録される。この「ホウセンワセ」は評判がよく、1962年から1966年まで5ヵ年連続日本1の栽培面積を誇ったのだった。
1952(昭和27)年 石墨は318番を残すかどうか悩むぬ。この年の調査で稈長はさらに伸びて90.6センチに達し、倒伏しやすい欠点がさらに濃厚になった。出穂期が「ホウセンワセ」より10日近く遅い早生種のため、北陸南部(福井、石川、富山)では適応性の狭い、不向きな系統という問題も抱えていた。にもかかわらず石墨は、思い切ってこの系統に「越南17号」と系統名を付け、翌年には20府県に種モミを配布し、適応試験を依頼することに踏み切った。
石墨は当時「農林1号の耐病化」に取り組んでいて、良食味を目指したのではなかった。しかしこの「越南17号」は品種改良上、拾ってはならないとされる、耐病性が弱くしかも倒伏しやすい系統だった。
後に石墨は「この「越南17号」が品種にならなくて元々、もしも品種に採用されればもっけの幸い、という気楽な気分だった」と言っている。石黒は、当初育種の基礎理論もわからず、本当はこの欠点に気がついていなかったらしい。それでも石墨が「越南17号」を登録したのは、「ホウセンワセ」が評判よく、ほんの少し前までの自信喪失の状態とは変わって、優秀な育種家と評価され、自信もわき、浮き浮きした気分になっていたからだと考えられる。もし「ホウセンワセ」以前であったら、「越南17号」は登録されず、コシヒカリは生まれなかったであろう。
<新潟県農試 杉谷文之>
1953(昭和28)年 福井試験地の石墨慶一郎がこの年「越南17号」の適応性試験を依頼したのは北は山形、福島から南は大分、熊本までの23府県に及んだ。しかし「越南17号」に対する評価は、どこの試験場でも芳しいものではなかった。そうした中で新潟県農試だけは違っていた。この「越南17号」は試験田でべったり倒れ不評であったにも拘わらず、新潟県農業試験場長の杉谷文之ただ一人が倒れた試験田の稲を前にしながら「新潟県のために、これを奨励品種にしなければならん」と叫んだ、と伝えられる。回りにいた技術者はみな「こんなにべったり倒れる稲を奨励品種にしたら、農家への指導が大変だ」と、内心不満だったという。
しかし、県の奨励品種に採用するかどうかの実質的決定権は農業試験所長が握っていた。場長の杉谷が奨励品種に採用すると腹を決めた以上、試験所職員は全面的にその判断に従わねばならなかった。そして当時新潟県農試はワンマン場長杉谷の意のままであった。
一方長岡から譲られた種子は、新潟県農試の橋本良材(よしき)の働きにより正式に「越路早生」と命名され、県奨励品種となる。この「越路早生」はコシヒカリより耐病性や耐倒伏性が強く、その後約30年間新潟県の早生種の基幹品種の位置を占めた。
1955(昭和30)年 この年の暮れ、農林番号に登録するための新品種選定会議が北陸農業試験場の主催で開かれる。そこで新潟県農試の国武正彦は「新潟県としては、多収品種である「北陸52号」と「北陸60号」は奨励品種に採用しない。「越南17号」は倒れやすいが、品質がよく、稈質も良いので、これを奨励品種に採用する方針」と発言すると、会議は一瞬気まずい空気に包まれたといわれる。
国の審査会でも不満続出し、「今後、このようなイモチ病に弱い系統は審査しないで不合格にするから、持ち込ませないように」となった。
1956(昭和31)年 石墨慶一郎が福井農試で育種した「越南17号」は農林番号品種に登録された。そこに至るまでいろいろケチが付けられたが、この系統に与えられたのは「水稲農林100号」という縁起の良い番号であり、「越の国に光輝く」という意味の コシヒカリ という素晴らしい名前だった。
1957(昭和32)年 杉谷は新潟県農試が「農林22号」を母に「新4号」を父として1950年に人工交配したものの系統を「越栄(こしさかえ)」と名付け奨励品種に採用する。これは杉谷自身「越南17号」にあまり期待していなくて、とりあえず何か成果を示さなければとの取り繕いだったに違いない。よいと思ったらすぐに実施するという性癖、良く言えば即断実行、悪く言えばワンマン敵な独断的性癖がこのような不可解な行動を取らしたと考えるべきなのだろう。この「越栄」は奨励品種採用の5年後に、作付面積が16,600haに達したが、これをピークに減少、やがて中生種の基幹品種としての座を再びコシヒカリに明渡し、72年奨励品種からも除外される。
1958(昭和33)年 7月下旬に台風来襲。それ以降は収穫期まで低温と長雨の続く凶作年になる。作物係長の国武は「この長雨はコシヒカリにとって明るい兆し」と場長の杉谷に報告している。というのは、長雨続きでどの品種もすべて倒れ、コシヒカリの倒伏しやすい弱点がそれほど暴露されずに済んだと同時に、コシヒカリの長所の1つである穂発芽しにくい性質が確認されたからであった。
1959(昭和34)年 次のような表彰状がある。
表彰状 高橋浩之殿 池隆肆殿 仮谷桂殿 岡田正憲殿 石墨慶一郎殿
貴殿がたは水稲農林22号と同農林1号の交配および初期選抜またはその雑種後代よりの有望系統の選抜および固定を行い両親を同じくする優良品種越路早生ハツニシキホウセンワセおよびコシヒカリを育成して稲作の改良発展に多大な貢献をされましたので表彰します
昭和34年12月7日 農業技術協会長 秋元眞次郎
<コシヒカリの独り立ち>
1961(昭和36)年 新潟県奨励品種になったコシヒカリ、魚沼地方などの山間部には定着したが、新潟県全体の水稲作付け率は、1位「越路早生」20.8%、2位「日本海」14.7%、コシヒカリは3位で9.2%。作付率は県内の1割にも達しなかった。当時米は配給統制時代で、うまい米もまずい米も政府の買い入れ価格は同一で、農家としては品質向上よりも収穫量が問題であった。食味は良くても倒れやすくイモチ病に弱いコシヒカリでは、経済的メリットが少ないと、コシヒカリにそっぽを向いていた。
1962(昭和37)年 新潟県で「日本一うまい米づくり運動」始まる。作付率は「越路早生」30.7%、コシヒカリ13%。4割増えたが「越路早生」に比べればその普及率は低かった。この年の7月、杉谷は農林部参事に左遷され、同年12月には依願免職となり失意のうちに故郷の富山に引きこもった。
1963(昭和38)年 「ササニシキ」登場。これは水稲育種指定試験を担当する宮城県農試古川分場が1953年、コシヒカリの姉妹品種「ハツニシキ」を母に「ササシグレ」を父として交配したものの系統で、1963年、その雑種第10代を「ササニシキ」と命名したもの。宮城、岩手、山形の3県に急速に普及し、1963年には宮城県内の作付率は54.7%に、1973年には82.2%に達していた。
1966(昭和41)年 1961年の農業基本法制定当時、政府は「米はやがて過剰になる」との長期見通しを公表したのに、現実は逆にその後、米不足になり、1965,1966年の両年、180万トンもの米を輸入することになった。このため全国的に米の増産運動が盛り上がる。
1967(昭和42)年 「日本一うまい米づくり運動」を主唱した塚田知事が贈賄事件の責任をとって1966年に辞任し、代わった亘四郎知事は米政策を変更し、質より量を重視する「米100万トン達成運動」を1967年から展開し始める。これにより「越路早生」とコシヒカリの作付け率は落ち込み、多肥多収品種の「フジミノリ」や「レイメイ」が伸びた。コシヒカリにとっての最後で、最大の危機だった。
<自主流通米の時代>
1969(昭和44)年 この年から自主流通米制度がスタート。史上空前の米過剰になりこの年10月末の食糧庁古米在庫は550万トンになる。
1970(昭和45)年 この年の10月末、政府の古米在庫は実に720万トンに膨れ上がり、全国の農業倉庫は2年前の古々米や3年前の古々々米などで満杯になる。1965,66年の米不足を革新政党や農業経済学者は一時的な状況とは見ずに、今後とも恒常的に続く現象ととらえ「国民所得の向上によって、デンプン質食糧である米の消費が減るというのは、西欧で言えても、日本では通用しない。早急に選択的拡大政策を取りやめ、米の生産増強対策を打ち出せ」と政府を追及、米増産運動を煽ったのだった。しかし米の消費量は1963年をピークに減少する。
もしも米の増産運動を煽らず、冷静かつ客観的な分析を行なっていたら、米増産ブームから一転して米減反政策へ180度転換する事態に直面して、驚きと怒りでいっぱいの稲作農家の苦悩を少しでも和らげることができたに違いない。
1973(昭和48)年 自主流通米制度5年目で流通量は170万トンになった。
1974(昭和49)年 新潟県の自主流通米ルートへの出荷量(主食用うるち米)は約236,000トン。このうち72%、17万トンが「越路早生」で、コシヒカリは19%の4万4000トンに過ぎなかった。
1978(昭和53)年 自主流通米制度10年目で流通量は200万トンに達した。
1979(昭和54)年 これまで全国の水稲品種中作付率1位だった「日本晴」に代わり、コシヒカリが作付率17.6%でトップになり、以後王座は揺るがない。その理由の第1は、米過剰問題が深刻化したこと。食味のよい米は自主流通米ルートに流れるものの、まずい米は政府向けにしか売れず、政府の倉庫にはまずい米ばかりが累積して大量に古米化する傾向が強まった。政府としては自主流通米ルートに出荷できないような消費者に敬遠される北海道産米などは減らしていこうとの姿勢に変わり、この結果、全国で非良質品種から食味の良い品種への転換が大きく進むことになった。
1986(昭和61)年 国の農政審議会がこの年にまとめた「21世紀へ向けての農政の基本方向」と題する報告の中で、自主流通米制度は次のように評価されている。「自主流通米制度は、(1)消費者にとっては食味のよい米を選択して購入でき、(2)生産者にとっては政府に売るよりも高い手取り価格が実現でき、(3)政府にとっては米の管理制度に民間流通の長所を取り入れるとともに、財政負担も軽減できることから、3者いずれに対してもメリットを発揮してきた。(中略)今後は・・・米流通に市場メカニズムを更に導入し・・・自主流通米に比重を置いた米流通を実現していく必要がある」
1988(昭和63)年 主食用うるち米に占める自主流通米の比率は62%となり、以後、自主流通米が米の流通の主役となる。
1991(平成3)年 自主流通米入札で新潟コシヒカリと宮城ササニシキとの差が大きくなる。新潟コシヒカリと宮城ササニシキとの価格差は1988年までは1000円以内、1989年で1500円程度。1990年産米の入札平均価格で新潟コシヒカリ1俵24,870円、宮城ササニシキ21,989円と2,880円の差。1991産米以降では3,000円の格差になる。
1995(平成7)年 この年の11月、半世紀にわたって米の流通を厳しく管理してきた食糧管理法が廃止され、米取引の規制を緩和した食糧法が施行された。
1996(平成8)年 この年のコシヒカリの作付率は30.6%と空前の普及率になり、北は福島から南は九州までに栽培面積が広まる。価格も魚沼コシヒカリは一般米の約2倍、他銘柄米の50%高にもなった。
2002(平成14)年 2002(平成14)年産水稲の品種別収穫量・作付面積は1位=コシヒカリ 3,187,000トン、606,500ha 2位=ひとめぼれ 851,700トン、157,800ha
3位=ヒノヒカリ 829,500トン、163,700ha(農水省「子ども相談電話」HPから)
「農業自立戦略の研究」(通称「NIRA報告書」) 総合研究開発機構 1981.8.1
「コシヒカリ物語」日本一うまい米の誕生 酒井義昭著 中公新書 1997.5.15
「日本人が作りだした動植物」品種改良物語 日本人が作りだした動植物企画委員会編 裳華房 1996.4.25
「コシヒカリを創った男」 粉川宏 新潮社 1990.3.15
「コシヒカリ」 日本作物学会北陸支部北陸育種談話会編 農山漁村文化協会 1995.12.15
競い合う各県の農業試験所
(1)戦争末期から敗戦直後の食糧難時代に、なぜ日本一おいしい新品種が育成されたのか?
(2)イモチ病に強い新品種を生み出すのが目的だったのに、コシヒカリはイモチ病に最も弱い品種である。
(3)新潟県農事試験場が人工交配したのに、福井県で水稲育種試験が実施されることになった際、譲り渡された系統から誕生した。
(4)福井県はなぜか、県奨励品種に採用することを拒否し、後に一度諦めた新潟県農試が奨励品種への採用を決断した。
(5)戦前、東日本と西日本では米について好みが違うと言われていたが、コシヒカリは東日本でも、西日本でも好まれている。
(6)草丈が高く倒れやすく、機械化が進めば消え去ると言われていたのに、栽培面積が増加した。機械化適応品種に変身したのか?
(7)稲の品種の寿命は10年ぐらいと言われているのに、誕生以来すでに40年。これを超える新品種を開発できないでいる。
<2002年産水稲の品種別収穫量>
コシヒカリの実力はどの程度なのか?消費者はどの位コシヒカリを欲しがっているのか?他の品種との比較をしてみよう。
農水省「子ども相談電話」HPからの数字を中心に作成 ○はコシヒカリの子供、孫、ひ孫の品種。つまりコシヒカリを祖先に持つ品種。
順位 品 種 収穫量(トン)
作付面積(ha) 登録年・育成場所
主な生産県 コシヒカリ系統 1 コシヒカリ 3,187,000 606,500 1956 福井農試 新潟、茨城、栃木 ○ 2 ひとめぼれ 851,700 157,800 1991 宮城県古川農試 宮城、岩手、福島 ○ 3 ヒノヒカリ 829,500 163,700 1989 宮城県総農試 大分、熊本、福岡 ○ 4 あきたこまち 721,300 131,300 1984 秋田農試 秋田、岩手、山形 ○ 5 きらら397 362,000 71,000 1988 北海道立上川農試 北海道 ○ 6 キヌヒカリ 315,000 62,000 1983 北陸農試 滋賀、兵庫、埼玉 ○ 7 はえぬき 285,200 45,400 1992 山形農試庄内支場 山形、秋田 ○ 8 ほしのゆめ 137,200 27,500 1996 北海道立上川農試 北海道 ○ 9 つがるロマン 122,820 21,400 1997 青森農試 青森 ○ 10 ササニシキ 104,800 18,700 1983 宮城県農試古川分場 宮城、山形、秋田 X 11 むつほまれ 98,600 16,400 1986 青森県農試黒石本場 青森 X 12 日本晴 75,300 14,100 1963 愛知県農試 滋賀、埼玉、兵庫 X 13 ハナエチゼン 71,800 13,300 1991 福井農試 福井、富山、石川 ○ 14 ゆめあかり 68,500 13,000 1999 青森農試 青森 ○ 15 夢つくし 63,400 12,800 1993 福岡農総試 福岡 ○ 16 ふさおとめ 52,500 9,440 1999 千葉県農試 千葉 ○ 17 あさひの夢 49,800 9,900 1998 愛知県農試 愛知、群馬、栃木 X 18 ハツシモ 49,800 10,700 1950 安城農業改良実験所 岐阜 ○ 19 あいちのかおり 48,600 9,540 1987 愛知県農総試 愛知、静岡 ○ 20 祭り晴 47,900 9,220 1993 愛知総農試 愛知、京都、大阪 ○
(1)抜群にコシヒカリが強い。コシヒカリの収穫量は2位ひとめぼれ以下、ヒノヒカリ、あきたこまち、きらら397、キヌヒカリの6位までの合計よりも多い。
(2)コシヒカリより後から登録されたのに、コシヒカリを追い越せない。コシヒカリよりも前に登録されたのは18位ハツシモだけ。それ以外はコシヒカリよりも後に登録されている。品種改良によって新しい品種の米が生まれるのに、コシヒカリを超える品種は生まれない。
(3)戦前からの品種はない。一番古いのがハツシモ(1950年)、次がコシヒカリ(1956年)。「米は日本の伝統文化だ」としても、伝統的な品種は影が薄い。赤米や紫黒米などのような古代米の方が残っているくらいだ。「米作りの伝統」とは「品種改良の伝統」「新しいことにチャレンジする伝統」なのだろうと思う。
江戸時代から日本のお百姓さんは「好奇心」と「遊び心」いっぱいの「革新派」だった、というのがTANAKA1942bの考え方。
(4)コシヒカリから生まれた品種が多い。とは予想していたが、調べてみてビックリ。コシヒカリを祖先に持つ品種がこれほど多いとはオドロキ。(2)との関連で考えると、品種改良は進歩がないのではないか?との心配も生まれそうなほどだ。
米の品種改良という点に注目すると、他の「ものづくり産業」と同じように、市場での消費者ニーズに応えて商品開発を進めてきた、と言える。さらにその商品開発携わった研究者は競争原理に刺激されて成果を上げてきた。
新しくできた農試には捨てるようなものを回したり(1947年)、成果を上げて余裕が出てきたので、あまり期待できない品種も登録したり(1957年)、何でもいいから成果を示すために奨励品種登録してしまったり(1953年)、コシヒカリの誕生にはそれぞれの農試、研究者に資本主義。市場経済の特徴である「競争原理」が働いていた、と考えられる。
農業をいかなる産業と把握するかで、農業に対する政策体系は異なる。農業を「後進的な産業」ととらえた場合、国内の自給体制の維持をめざす限り、過保護農政に走ることになる。われわれは、農業は研究開発ならびにヒューマン・キャピタル(人的資本)の蓄積が他産業以上に重要であると考える。それ故、農業は本来なら先進国で比較優位をもちうる産業であり、最も「先進国型」の産業であると考える。輸入制限がなくても、わが国で農業が発達する条件が潜在的にはあると考える。
農業は「ものづくり大国日本」に適した産業なのだと思う。そこでコシヒカリから生まれたいくつかの品種、についてもう少し詳しく調べてみることにしよう。
コシヒカリの誕生については、先週「(2)コシヒカリを超えられるか?」で書いたように多くの不思議がある。それでもハッキリしているのは、「コシヒカリがこれほど普及したのは消費者に気に入られたからだ」ということ。消費者に気に入られたコシヒカリを追ってライバル商品が開発され、コシヒカリ系はコメ市場で一つの新しいジャンルを作った、と考えられる。そしてその背景には「日本が豊かな国」で「豊かな消費者が、いいものには高い対価を払う」という状況があったからだと考えられる。
それではどのような商品がコシヒカリから生まれ、コシヒカリのライバルになろうとし、コシヒカリ系という分野を作っているのか?そのような好奇心に答えるように、いくつかの品種について調べてみることにしよう。
<来 歴>
育成地 :宮城県古川農業試験場
交配組合せ:母親:「コシヒカリ」×父親:「初星」 (初星の交配組合せ:母親:「コシヒカリ」×父親:40-11喜峰)
交配年次 :1981(昭和56)年
育成年次 :1991(平成3)年
主な生産県:宮城、岩手、福島
特徴
耐冷性(冷害):「ササニシキ(やや弱)」より強い“極強”。
食 味:「ササニシキ」より粘りが強く、「コシヒカリ」並以上の"極良"。
玄米品質:「ササニシキ」に優る"極良"。
耐倒伏性:「ササニシキ」より強い。
穂発芽性:「ササニシキ」より発芽しにくい"難"
草 姿:「ササニシキ」より穂数が少ない。丈は同程度。
出穂・成熟期:「ササニシキ」並の“中生の晩”。
耐病性:いもち病抵抗性は「ササニシキ」と同程度。
特徴 農水省子供相談電話HPでは次のように受け答えしている。
質問=「ひとめぼれ」はどんなお米で、人気はあるのですか。(小学生)
答え=「ひとめぼれ」は、「コシヒカリ」と「初星」を両親として平成3年に宮城県古川農業試験場で誕生しました。味とかおりが良く、ねばりの強いお米です。
名前の由来は、「見て美しさにひとめぼれ、食べておいしさにひとめぼれしていただき、全国のみなさんに愛される米にしていきたい」との願いがこめられています。
「ひとめぼれ」は、東北地方を中心に作付けされており、お米の中で、コシヒカリの次に作付け量及び流通量が多い品種で、市場においても人気があります。
生い立ち
@1980(昭和55)年冷害の実態から、耐冷性の向上が急務となる。翌年古川農試では
新しい耐冷性検定法(恒温深水法)を開発し、既存品種の耐冷性評価の見直しを開始する。
A耐冷性の強い「コシヒカリ」を母本として選定し、耐冷性と食味の両立する栽培し
やすい品種の開発を目指し、1981(昭和56)年「コシヒカリ」と「初星」を交配して選抜を開始する。
B1988(昭和63)年「東北143号」を育成し、奨励品種決定調査を開始する。その年の冷害で耐冷性
の強さと食味の良さが実証され、1991(平成3)年「ひとめぼれ」と命名されデビュ−する。
C1993(平成5)年の大冷害で耐冷性の強さを発揮し、「ササニシキ」の壊滅的な被害を軽減する。
この年を契機に「ひとめぼれ」の評価は急速に高まり、1994(平成6)年には「ササニシキ」に
替わり全国作付け二位となる。その後も作付け地域を順調に拡大し、南は沖縄県まで普及
している。現在の奨励品種採用県は21県。
古川農試では、「ひとめぼれ」の成功をバネに晩生新品種「こいむすび」(母親:「中部 73号」X父親:「ひとめぼれ」)を育成し、宮城県北部平坦地帯及び仙台湾沿岸地域に普及させようとしている。このようにコシヒカリの子孫「美味しい米」系が続々と誕生している。
ベトナムで育つひとめぼれ ベトナムにアンジメックス・キトクという会社がある。1991年に日本の米問屋「木徳」とベトナム・アンジャン省の輸出入公団がパートナーとなってできた会社。
木徳が67%、公団が33%を出資し、6人の役員のうち、社長を含む4人が木徳、2人が公団の出身。
アンジメックス・キトク社では、ベトナムの地元農家に委託して日本米(「はなの舞」「ひとめぼれ」)を生産を委託し、生産を受託している農家にとっては、日本米をつくるには高い技術と細心の注意が要求されるが、それに見合う高収入が保証されている。
省としても「全面的に協力する」(アンジャン省人民委員会レ・ホイ委員長)という姿勢だ。
委託生産面積は99年の200ヘクタールから2000年の400ヘクタール、2003年の600ヘクタールと毎年順調に広がってきた。300人にもおよぶ契約農家を3人の出向者と7人の現地技術者で数人ずつチームを組み技術指導のため巡回するシステムを組んでいる。
主要な売り先は回転寿司=「すし金」」(Sushi King)で、現在マレーシアで21店、タイで1店を展開しているチェーン店。近く30店舗ぐらいまで拡大する予定とのこと。22店舗のコメの使用量は年間200トンだが、予定通り30店展開すると300トン近くになるという。(この項は URL http://www.sigetosi.com/page056.html から引用)
<来 歴>
育成地 :宮崎総農試
交配組合せ:母親:愛知40号(黄金晴)×父親:「コシヒカリ」 (「黄金晴」の交配組合せ:母親:「日本晴」×父親:40-11「喜峰」)
育成年次 :1989(平成元)年
主な生産県:宮城、岩手、福島
生い立ち
ヒノヒカリは旧系統名が「南海102号」で、宮城県総合農業試験場水稲指定試験地で育成された中生のうるち種。1989(平成元)年に、福岡、佐賀、熊本、宮崎、鹿児島の各県が奨励品種に採用した良食味品種。西日本、九州の代表的な品種になりつつある。
品種の系譜からみた特性
ヒノヒカリは黄金晴とコシヒカリを親として生まれた品種。この系統からみたヒノヒカリの特性は次の通り。
@炊飯米の光沢が良く、粘りが強いーーコシヒカリの食味。
A耐倒伏性は不十分ーー農林22号、コシヒカリより強いが、黄金晴より明らかに弱く、日本晴並み。
B稈が太く長いーー農林22号ほど長くはない。
C初期の茎数は多くないが、モミ数を取りやすいーー黄金晴。
D外観品質は、やや小粒であるが粒厚は比較的厚く、腹白。心白が出にくいーー黄金晴に似ている。
Eイモチ病抵抗性遺伝子型ーー黄金晴と同じで、抵抗性もやや弱。F脱粒性が難ーーコシヒカリ、黄金晴より難。G穂発芽性が難ーーコシヒカリ。
山口県農業試験所のレポート「水稲品種「ヒノヒカリ」の奨励品種採用 」を引用しよう。
[背景・ねらい] 新食糧法の施行により米の産地間競争が激化し、これまで以上に「売れる米」、「おいしい米」が求められており、不評を来している瀬戸内平坦部の品質、食味の改善は急務となっている。このため、良食味品種の「ヒノヒカリ」を奨励品種に採用し、瀬戸内平坦部産米の良食味品種への転換を図る。
[成果の内容・特徴] 出穂期、成熟期は「せとむすめ」より3〜5日遅く、「中生新千本」並み〜2日遅い中生種である。
稈長は、「せとむすめ」、「中生新千本」より長いが、「せとむすめ」並みに倒伏は 少ない。
穂数が少なく、1穂籾数の多い偏穂重型種で、u当り籾数は確保しやすい。
収量は「中生新千本」よりやや多く、「せとむすめ」並みの多収である。
外観品質は良好であるが、年次によっては乳白米により低下することがある。
食味は極良好である。
[成果の活用面・留意点] 中生種であるので、気象、水利慣行等から主として瀬戸内平坦部の普通期や麦跡栽培に適する。
やや長稈で倒伏の恐れがあるため、極端な多肥栽培は行わない。
品質向上のため、穂肥偏重による籾数過多や、早期落水を避ける。
刈取適期は、刈り遅れによりうす茶米や胴割米が発生しやすいため、比較的籾水分が高い、やや早い時期である。
収量性=日本晴よりやや多 ヒノヒカリは、収量性に関する主な特徴として、
@耐倒伏性が碧風より明らかに劣り、日本晴やコガネマサリ並であり、
A碧風の収量が620キロ以上になる多肥条件では、倒伏のために碧風よりかなり収量が劣り、
B1平方メートル当たり頴花数が3万5000以上になると年により倒伏が発生するほか、未熟粒が多くなって米質が低下する、という3点がある。(「銘柄米をつくりこなす ヒノヒカリ」から)
<来 歴>
育成地 :秋田県農試
交配組合せ:母親:「コシヒカリ」×父親:奥羽292号
交配年次 :1977(昭和52)年
育成年次 :1984(昭和59)年
主な生産県:秋田、岩手、山形
品種の系譜 あきたこまちはコシヒカリを母に、奥羽292号を父に交配して生まれた品種で、秋田県農業試験場では1977年から水稲の育種を開始すると同時に育成選抜を行い、1984年にその第1号として誕生した。あきたこまちの系譜を見ると、母方は
名前の由来 農水省子供相談電話HPでは次のように受け答えしている。
質問=あきたこまちの名前の由来をおしえてください。(小5)
答え=秋田県雄勝町小野の里に生まれたと伝わる小野小町にちなみ、おいしい米として名声を得るようにとの願をこめてつけられました。
タイで人気の「あきたこまち」 2003年7月9日、テレビ東京WBSでタイで「あきたこまち」が人気を博している、と報道された。
@山岳民族うつ族の村、サンサリー村では5年前から地元の精米所であきたこまちを買っている。この地方の料理に合う、と評判がいい。
Aチェンライの富士農園社長梶八十二氏「10数年前から地元の農家に委託して作っています。この3年で倍くらいになっています」
Bチェンライのバーヤン村では年2回日本米を収穫する。農民は言う「日本米はタイ米よりずっと高く売れるから」
C日本食ブームで、日本米は高くても売れる。日本産コシヒカリ2Kg=2,300バーツ、タイ産2Kg=818バーツ、タイ米2Kg=400バーツ程度。
D日本米の輸出実績、2001年度=231トン、2002年度=538トン。内74%は台湾への輸出。
これに対するコメンテーター、フェルドマン氏は次のように言う。
日本の戦後の政策は水田よりも票田ということが問題だったのですね。票を取るために輸入を制限して、高い補助金を出していた。それによって自民党も他の党も票を取ったのです。けれども90年代の中頃から「ミニマム・アクセス」という貿易の協定ができたのです。ようやく日本も海外からコメを輸入することになったのです。
それまでは「日本が輸入しないなら、輸出してはダメ」という当然のことになっていて、輸出できなかった。今はできるようになった。だからこういう話を聞いてすごくうれしいな、と思います。
今度は補助金を減らしていかなければならない。財政再建ですね。こういう風に、貿易を自由にして、輸入も輸出もできるようになると、財政再建にもつながる。いいな、と思います。
豊かな日本で「美味しい系」のコメに人気が集まり、タイも豊かになり日本と同じように高くても「美味しい系」のコメが売れるようになってきた。以前ポール・クルグマンは「アジアの経済成長は外部からの投資に支えられているだけなので、いずれ成長は止まる」と言ったのに対し渡辺利夫は「そうではない。アジア経済は確実に成長している」と反論した。
タイで「あきたこまち」のような「美味しい系」のコメが売れ出した、ということはタイも豊かになれる人から豊かになり始めた、と言える。この点から見ると渡辺利夫の主張は正しかった。
タイで日本米を作る人、あきらめる人 HP「オリザの環」タイ「貿易の覇者」(3)に次のような文があった。
タイでは日本の市場開放の動きをにらんで、高く売れる日本米の研究開発も盛んだ。タイ政府が昨年発表した「農家に栽培を奨励する外国品種」の1号はササニシキ、2号はあきたこまち。どちらも東北の人気銘柄だ。
栽培に適しているのは比較的涼しい気候の地域だという。最北部の都市チェンライに近いサンタンルアン村で生産者に会った。
ブンコーン・チージュムパンさん(52)。タイ企業との契約で、昨年から1.6ヘクタールの水田のうち、約0.6ヘクタールで日本米の栽培を始めた。売り渡し価格が地元のコメより2割高かった。
意欲を持って日本米に取り組んだチージュムパンさんだが、2回収穫した体験から「日本米づくりは難しい」と音を上げていた。
企業からは肥料を入れる時期や種類、毎日の水管理など、栽培方法を厳しく指導される。さらに、苦労して収穫しても品質が十分でなければ、契約通りの価格で買ってもらえない。
「タイ米の何倍も手間が掛かる。品質が不十分でタイ米の値段がいいときは、今までの方がもうかるくらいだ。ねばついて自分で食べる気もしないし」
タイ政府は、今年1月から3月まで国内9カ所で「タイ農民の新しい選択。日本米」と銘打ったフェアまで開いて普及に力を入れている。が、チージュムパンさんは「来年からは日本米づくりをやめ、もとからあるコメをつくろうかと思っている」と漏らした。
「世界に誇るうまいコメをつくる」というタイ農民のプライドが、国際競争の中で揺らいでいる。
タイでは、肥料を入れる時期や種類、毎日の水管理など、栽培方法を厳しく指導される。日本では農業経営者が当然のこととして自主的に行なう。ヒューマン・キャピタルの違いだ。
「あきたこまち物語」 読売新聞秋田支局編 無明舎出版 1989.6.10
銘柄米をつくりこなす「あきたこまち・はなの舞」 農山漁村文化協会編集部編 農山漁村文化協会 1990.3.15
銘柄米をつくりこなす「ヒノヒカリ・ミネアサヒ・早期コシヒカリ」農山漁村文化協会編集部編 農山漁村文化協会 1990.3.30
<来 歴>
育成地 :北海道立上川農試
交配組合せ:母親:渡育214号(しまひかり)×父親:道北36号(キタアケ) (「しまひかり」の交配組合せ:母親:北陸77号(コシホマレ)×父親:そらち)(コシホマレの交配組合せ:母親:コシヒカリ×父親:収921)
交配年次 :1980(昭和55)年
育成年次 :1988(昭和63)年
主な生産県:北海道
北海道から初の全国デビュー
北海道を本格的に開発しよう、と具体的に動き出したのは田沼意次の時代だった。工藤平助(1734-1800)(享保19-寛政12)の「赤蝦夷風説考」に触発され、松本秀持とその協力者たちは田沼意次の意向を受けて蝦夷地調査隊を編成した。そして1785(天明5)年4月29日、東蝦夷地調査隊と西蝦夷地調査隊がおのおの松前を出立した。
しかし、田沼意次を追い落とした松平定信は1986(天明16)年10月28日、蝦夷地調査を中止し、関係者を処分する。以後明治になって屯田兵制度で北海道開発が始まるが、良質のコメはできない。食管法時代は政府が買い上げてくれたが、自主流通米時代になって消費者は美味しい米を求めている。北海道にはそれに応える品種がなかった。そこできらら397が登場した。
北海道での水稲うるち上位作付品種とシェア(2001年産)は次の通り。
作付面積=111,774haの内、 きらら397 (64%)、 ほしのゆめ (28%)、 あきほ (4%)
きらら397に関しては、品種改良に携わった佐々木喜雄著「きらら397物語」が参考になる。この本の要約ではなく、この本から「きらら397物語」の特徴を読み取ってみよう。
鳥またぎ猫またぎと揶揄された道産米がかつてのスター、ササニシキを抜いて全国5位の収穫量になった。その始まりは1980(昭和55)年北海道立農業試験場に優良米の早期開発を目標としたプロジェクトチームが組まれた。きらら397の場合は品種改良の過程よりも、その売り込み方に興味を持った。ネーミングそれ自体を販売戦略の一環とするため、北海道では初の一般公募による名称募集を行なった。
当時、「あきたこまち」が今までにないネーミングで注目を浴びていたため、「上育397号」のネーミング選定にあたっては、既存の品種と差別化できるような斬新なネーミングが求められていた。一般公募はわずか12日で2万101通の応募があった。「あきたこまち」「きらら397」「ひとめぼれ」こうした名前は古い感覚の、農業界の大物には容認できない。
そうした大物に逆らっての新しいセンスのネーミングが、「コメ新時代」に消費者のハートにアピールした。さらにネーミングとイラストの発表会が、1989(平成元)年9月26日開かれ、この模様のニュースが各紙によって報道され、「きらら397」に対する関心は高まった。
きらら397に続け 2000(平成12)年にはきらら397を育成した北海道上川農業試験場で「ほしたろう」が誕生し、2001(平成13)年から作付が始まった。きらら397に続くヒットとなることが期待されている。
<来 歴>
育成地 :北陸農試
交配組合せ:母親:F1×父親:北陸96号「ナゴユタカ」(F1の交配組合せ:母親:収2800×父親:北陸100号(コシヒカリにコバルト60を照射))(収2800の交配組合せ:母親:IRS×父親:コシヒカリ)
交配年次 :1975(昭和50)年
育成年次 :1983(昭和58)年
主な生産県:滋賀、兵庫、埼玉
生い立ち キヌヒカリは、強稈・良食味・イモチ病抵抗性の強化を目的として、1975年に収2800(母)X北陸100号(父)の交配を行い、夏にこのF1を母としてナゴユタカ(北陸96号)を父として三系交配を行なって育成された。1978年のF4で個体選抜、1979年F5から系統選抜を繰り返し、1983年F9で北陸122号と命名され、関係府県に配布された。
倒伏に強い中生種で、食味はコシヒカリに匹敵する良食味であるため、茨城県では大空に、福井県ではフクホナミに替わるものとして1988(昭和63)年に奨励品種に採用され、同年5月「キヌヒカリ」として種苗登録された。
キヌヒカリの母方は、短稈・多収の IR-8 というインディカ稲に多収稲のフジミノリを交雑し、そのF1に良食味遺伝子の導入を主目的に、コシヒカリまたはコシヒカリ由来の系統を3回戻し交雑したものを用い、父方はトドロキワセやギンマサリ等の栽培特性の良さを導入したナゴユタカを用いている。
このため短・強稈で、食味良好、穂数はやや少ないが好天籾数を多くつけ、不良天候下でも収量の低下が少なく品質の安定度が高いなど、これまでの品種と異なる特性を持つ。
形態的・生態的特性
短稈・強稈で葉色は濃い=4月上旬に播種した場合、第三葉の葉鞘長はコシヒカリよりやや短く、苗丈もやや短い。葉身の形状は同品種に類似し、葉色はやや濃い。稈長はコシヒカリよりかなり短く、やや剛である。
密に着粒し千粒重く絹の輝き=穂長はコシヒカリより短く、粒着はやや密で穂の下部に多くつく。穂数は同品種より5-10%少なく、草型は中間型。玄米の粒大は中程度で、形状はコシヒカリよりやや丸みを持つ。千粒重は同品種よりやや重い。まれに心白がみられる。光沢に優れ、絹のような輝きを持つ。みかけに品質はコシヒカリより優れる。
耐倒伏性はコシヒカリよりかなり強い=出穂期および成熟期は、コシヒカリより1-2日遅い。中生の早に属する。稈の太さはコシヒカリと同程度の中であるが、稈基部は同品種よりやや太く、稈質はやや剛い。耐倒伏性はコシヒカリよりかなり強い。
<来 歴>
育成地 :山形農試庄内支場
交配組合せ:母親:庄内29×父親:あきたこまち (あきたこまちの交配組合せ:母親:「コシヒカリ」×父親:奥羽292号)
育成年次 :1992(平成4)年
主な生産県:山形、秋田
大分県農業技術センターのHPに「はえぬき」に関する文があったので要約してみた。
大分県ではおいしい米の生産を目指して「コシヒカリ」、「ヒノヒカリ」等良食味品種の作付けを推進してきました。その結果、「ヒノヒカリ」がおいしい上に栽培しやすいこともあって作付面積は水稲全体の作付面積の75%以上を占めるまでに増大しました。その結果(1)収穫作業が一定期間に集中し、(2)収穫時期の遅れるものが出てきて、(3)玄米の品質低下、(4)ライスセンター等共同乾燥施設への集中と稼働率の低下、(5)いもち病や倒伏の被害を集中的に受ける恐れ等が懸念される状況になってきました。
平成11年産水稲では出穂後25〜30日頃の、登熟の仕上げの大事な時期に台風18号の強風害を受けて、県下全域の水稲が倒伏する被害を受けました。倒伏は早く起こるほど被害は大きいことから、ヒノヒカリに作付けが集中していることが被害を大きくした可能性が考えられました。
これほど「ヒノヒカリ」に作付けが集中した原因は前述の作り易さもありますが、ヒノヒカリより早生の良食味品種がないことが最大の原因です。当部では早くから、早生の良食味品種の選定に取り組んできましたが、今回やっと極早生の良食味品種「はえぬき」を選定し、奨励品種に採用される運びとなりましたので紹介します。
この「はえぬき」という品種は「はえぬき」とは言いながら、大分県の生え抜きではありません。東北は山形県の生まれです。山形県立農業試験場庄内支場で、「庄内29号」を母とし、「秋田31号(後の「あきたこまち」)」を父とした組み合わせから育成された県単育成品種で、山形県の主力品種です。山形県では35,000ヘクタール程度栽培され、主として東京方面に出荷されています。さらなるシェアの拡大のために他県での栽培を薦めようとする戦略に乗って大分県でも検討してきた品種です。
大分県では平成8年から奨励品種決定調査に供試してきました。
<来 歴>
育成地 :北海道立上川農業試験場
交配組合せ:母親:F1×父親:きらら397 (F1の交配組合せ:母親:あきたこまち×父親:道北48号)(あきたこまちの交配組合せ:母親:コシヒカリ×父親:奥羽292号)
交配年次 :1988(昭和63)年
育成年次 :1996(平成8)年
主な生産県:北海道
特徴「ほしのゆめ」は、1988(昭和63)年、北海道立上川農業試験場において、良食味・耐冷性品種の育成を目標に、極良食味品種「あきたこまち」と早生・耐冷性系統「道北48号」のF1を母とし、中生・良食味品種の「上育397号」を父として、人工交配を行った雑種後代から育成された。
F1は、交配を行った1988(昭和63)年の冬に温室で養成し、平成元年にはF2〜F3は鹿児島県で、さらにF4は冬期沖縄県で1年3作の世代促進栽培を行った。1990(平成2)年にF5の穂別系統栽培を行い、1991年以降は「上系91340」として系統の選抜・固定を図るとともに、生産力検定試験、系統適応性検定試験ならびに特性検定試験を実施してきた。
その結果、中生の良食味・耐冷性系統として有望と認められたので、1993(平成5)年に「上育418号」の地方系統名を付し、関係機関に配布し、さらに、1994年から現地試験に編入して地方適応性を検討してきた。
1996(平成8)年に水稲農林340号として農林登録され、「ほしのゆめ」と命名された。
栽培上の注意
@耐倒伏性が不十分なので、「北海道施肥標準」を守り、多窒素栽培は厳に慎む。
A中生種としては、いもち病抵抗性が不十分なので、発生予察に留意し適正防除を徹底する。
B割籾の発生が多いので、斑点米や紅変米などの被害粒発生による品質低下を招かぬよう病害虫の適正な防除に努めるとともに、綿密な圃場管理や適期の刈取りを励行する。
C種子生産に当たっては、脱ぷ粒が発生しやすいので、種子の取り扱い注意事項に十分留意する。
<来 歴>
育成地 :青森農試
交配組合せ:母親:ふ系141号×父親:あきたこまち (あきたこまちの交配組合せ:母親:「コシヒカリ」×父親:奥羽292号)
交配年次 :1985(昭和60)年
育成年次 :1997(平成9)年
主な生産県:青森
青森県のHPから「つがるロマン」の宣伝文を引用しよう。
「つがるロマン」の先祖は、コシヒカリ
「つがるロマン」は、血統ではコシヒカリの孫にあたります。「つがるおとめ」に比べて、食味が1ランク、品質で2ランク優れている、大変おいしいお米です。
「つがるロマン」は限定適地に作付け
「つがるロマン」は、優れた食味と品質を守るために青森県内で特に気象条件に恵まれている津軽中央地帯・津軽西北地帯・南部平野内陸地帯の適地に作付けを限定しています。
さらに「つがるロマン」を作付けする生産者は、細やかな土の管理、低農薬、無理のない乾燥、大きな網目で整粒などの栽培協定にのっとって大切に育てています。
「つがるロマン」はヘルシーな低農薬米
「つがるロマン」は、青森の豊かな自然と水、そして空気が農家と一緒に育てています。田畑を潤す水は、白神山地に代表される山々に原生するブナの森に源を発します。ブナの腐葉に保水された雪解け水が伏流となり、渓谷を伝い、そして田畑へと流れ込みます。天然の肥料ともいえる清らかな水と、病害虫の少ないという恵まれた自然条件をいかし、農薬散布が少ない低農薬米をお届けします。
@品種改良研究開発担当者は職人。文献に登場する工業製品の開発に携わった人たちや、テレビで紹介される町工場の金型職人・旋盤職人などと共通の気質を感じさせる。
A各県の農試が新製品開発を競った。品種改良の分野も競争社会だった。
B生産工場ではQC運動など現場の作業員の知恵が生かされた。コメでは実際に栽培する農家の知恵が生かされた。
Cコシヒカリがこれほど普及したのは市場で、消費者=お客様=神様に気に入られたから。
D豊かな消費者が「美味しい系」のコメを育て、コメの評価基準が土地の生産性から付加価値生産性に変わった。
E新製品開発から消費者に支持されるまでの経緯は、物づくり大国日本の製造業のそれと同じ。
F品種改良という新製品開発を担当する研究者、新品種を実際に栽培する農業経営者、美味しければ高価でも購入する消費者。コメ作り産業は日本のような豊かな国に適した「先進国型産業である」と確信します。
「きらら397誕生物語」 佐々木多喜雄著 北海道出版企画センター 1997.7.9
銘柄米をつくりこなす「キヌヒカリ・初星」 農山漁村文化協会編集部編 農山漁村文化協会 1990.3.30