趣味の経済学
死刑廃止でどうなる?
刑法を経済学的に考えてみよう
死刑制度とはひどい制度である。しかし、これに代わるより良き制度は考えられない。従って死刑制度は維持すべきである。    デモクラシーとはひどい政治制度である.しかし,今まで存在したいかなる政治制度よりもましな制度である   ウィンストン・チャ−チル     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します     If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.――Winston Churchill  30才前に社会主義者でない者は、ハートがない。30才過ぎても社会主義者である者は、頭がない。――ウィンストン・チャーチル      日曜エコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦するとです    好奇心と遊び心いっぱいの TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    TANAKA1942bです。「王様は裸だ!」と叫んでみたいとです      アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します    アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します

2007年9月10日更新  
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FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を

……… は じ め に ………

 ♣ 刑法は、 だれもがなんとなく分かっているような気になる法律といえる。人の物を盗めば泥棒であり、人を殺せば殺人で、こういうことをすればお巡りさんが来て捕らえられ、刑務所に行かなければならない、と考えるのが率直な常識である。
 その意味では、刑法は、だれでもが常識として悪いことだと思っていることを罰するための法律で、いわば常識のかたまりだとも言われる。 人を殴って怪我をさせたり、人を騙してお金を取ったり、人から預かっているものを勝手に売ってしまったり、人の家に火を付けたりすれば、みんな悪いことで、刑務所に行かされるのは当たり前だということになる。
 けれども、反対に、刑法とは、むずかしい顔をした裁判官や検察官や弁護士が集まって、時には何回も裁判を繰り返して、ああでもない、こうでもないと議論をしなければ結論が出ないらしいし、それに立派な大学教授も、あれこれ首をひねってむずかしい言葉を使い、ぶ厚い本を書かなければならないような、よくわからないが、なにか神秘的にむずかしいものらしいという印象も一方ではある。 それに加えて、世の中の常識ではこんな悪い奴がと思われる人間が起訴されなかったり、裁判で無罪になったり、軽い刑を言い渡されたりして、首をかしげることもある。 そうすると、一方では、刑法は、悪いことは悪いとした、常識のかたまりと言われるなじみやすい法律のようでありながら、他方では、わけのわからない法律のような気がしてきて、結局、頭が混乱してしまう結果となる。
 ♣ これは『刑法という法律』改訂版(古田佑紀著 国立印刷局出版 2005.4.1)の1ページ目の文章だ。 平成17年8月に最高裁判所の判事に就任した古田佑紀が、法務省大臣官房審議官に書いた本で、刑法をこのように表現している。 その「分かったようで」「よく分からない」刑法を経済学の見方で考えてみようと思い立った。と言っても、その内のほんの一部分、「死刑制度」について考えてみることにした。 専門家の中にも「死刑廃止」を主張する人がいる。その根拠は大体同じ様なものだ。ちょっと見方を変えると「死刑を廃止するとおかしなことが起こる。死刑制度は存続さすべきだ」となるのだが、そのような考え方は、専門家の中からは出てこない。 そこで、アマチュアエコノミストが「法曹界の匂いのしない立場」から、死刑制度を話の取っかかりとして、刑法を経済学的に考えてみることにした。 どのように展開して行くのか、多分、いつもと同じように、ダッチロールを繰り返しながらの展開になるでしょうが、最後までのお付き合いの程を、よろしくお願い致します。

目次  死刑廃止でどうなる?  刑法を経済学的に考えてみよう

(1) 人を殺さなくても実質的な死刑  「国家は人を殺さねばならぬ」場合もある ( 2007年3月19日 )
(2) 団藤重光の死刑廃止論を読んでみよう  人格の尊厳を認める法理論とは ( 2007年3月26日 )
(3) 死刑執行停止法の制定という主張  仮釈放なしの終身刑を代替刑にとの案 ( 2007年4月2日 )
(4) 死刑廃止を支持する女性作家の意見  法体系とは無関係の立場からの感想 ( 2007年4月16日 )
(5) 宗教家も死刑廃止を強く主張する  実現不可能な高い理想を求めてこそ宗教 ( 2007年4月23日 )
(6) 人の生命は、全地球よりも重いか  残酷な死刑は廃止したい、という感情論 ( 2007年4月30日 )
(7) 法曹界の死刑廃止論を聞いてみよう  誰も銀行強盗事件は予想もしていない ( 2007年5月7日 )
(8) 殺人犯でなくても、実質的な死刑は必要  銀行強盗以外のケースを想定する ( 2007年5月14日 )
(9) 1人の生命が重いからこそ死刑制度を  軽いのなら関係者同士で仇討ちを ( 2007年5月21日 )
(10)悪いことするとどうして刑罰を受けるの?  目には目を、反省・償い、抑止力 ( 2007年5月28日 )
(11)『刑法という法律』をやさしく解説  古田佑紀、今は最高裁判事の著書から ( 2007年6月4日 )
(12)法律のセンスに馴れておこう  法律解説書から刑法のポイントを説明する ( 2007年6月11日 )
(13)経済学的観点から法曹界をやぶにらみ  「感情」から「勘定」への判断へ ( 2007年6月18日 )
(14)レント・シーキングと規制緩和  法曹界に市場経済の空気を入れてみよう ( 2007年6月25日 )
(15)裁判員は忠臣蔵をどのように裁くのか?  東京裁判・仇討ち・必殺仕事人 ( 2007年7月2日 )
(16)法と正義の経済学の立場から見る  死刑に代わるべき制度が見つからない ( 2007年7月9日 )
(17)死刑制度に劣らず残酷な刑があった  旧ソ連の『収容所群島』という負の遺産 ( 2007年7月16日 )
(18)トマス・モア『ユートピア』と死刑  理想の共和国では銀行強盗は起きない ( 2007年7月23日 )
(19)カント、ベッカリーア、団藤重光  誰も銀行強盗事件@ABは予想していない ( 2007年7月30日 )
(20)ジョン・ロールズの『正義論』と死刑廃止論  原初状態と格差原理と誤判と死刑 ( 2007年8月6日 )
(21)ノージックの最小国家という自由論  自由を保証する国家権力を忘れている ( 2007年8月13日 )
(22)本当に人1人の命は地球より重いのか?  遺伝子は、自身の繁栄を優先する ( 2007年8月20日 )
(23)ハト派社会にタカ派が侵入するゲーム理論  危機管理意識のない死刑廃止論 ( 2007年8月27日 )
(24)他業種からの考え方を移入すると  雑種強勢とかF1ハイブリッドへの期待 ( 2007年9月3日 )
(25)功利主義的な死刑制度  とりあえず、これに代わりうる制度は考えられない ( 2007年9月10日 )

(1)人を殺さなくても実質的な死刑 
「国家は人を殺さねばならぬ」場合もある

 死刑制度廃止を訴え続ける法曹界の人がいる。それに応えるかのように市民運動を繰り広げる人たちがいる。 なぜ死刑制度を廃止すべきか、との理由を幾つか挙げて運動を進めている。その理由は「死刑は残酷、非人道的」というのが主なもののようだ。TANAKAはそうした論争とは違った観点から「死刑制度は存続すべきだ」と主張する。まず次の例を読んで頂きましょう。
<銀行強盗事件@>
 某年某月某日15時00分、窓口業務が終了する直前、M銀行S支店に拳銃を持った強盗が入った。強盗は行員と客を人質に取り、3億円を要求した。 S支店ではなるべく時間稼ぎをしようと、ゆっくり準備する。強盗は苛立ち「グズグズせずに早く出せ!」と怒鳴る。それでもゆっくり準備をしていると「早くしろ、分からないのか!」と怒鳴り、「資金課長、お願いします」と呼ばれた行員に、拳銃を向け引き金を引いた。 行員たちは慌てて準備する。3億円の現金はすべて本物の札束で用意された。かつて、似たような銀行強盗があった時、札束の外側は本物で中身は偽物を用意していた銀行もあったがM銀行ではそのようなことはしない。 犯人が偽物だと知ったとき、凶暴になる怖れがある、金で解決できるなら、3億円は高くない。人1人の命に比べれば3億円は安いと判断する。
 さて、15時なって銀行の窓口営業は終了し、ATMコーナーと窓口との間を仕切るシャッターは下りている。行員が机の下の非常ボタンを押したため、事件は警察に通報され、さらに非常ベルが鳴り、事件を知った群集が支店の回りに群がり、警察官が群集を支店から遠ざけ、犯人の説得にあたる。 犯人は3億円を受け取ると今度は逃亡用のワゴン車を要求した。行員男女1人ずつを人質にワゴン車で逃亡する言う。ワゴン車で移動するとなると、どこへ向かうか分からない。警察としてはこの支店で事件を解決したい。 そのため返事をせずに時間稼ぎをする。犯人はイライラし、拳銃を乱射する。弾は沢山もっているようだ。犯人の拳銃がパトカーに命中した。警察官は冷静さを失った。パトカーを管理する警察官は自分に責任がなくても、パトカーが傷つけられれば、それだけで将来の昇進が絶望的になる。
 支店の周りには狙撃手が到着し機会をうかがうがチャンスがない。支店内では犯人がますます凶暴になり、このままではさらに人質に犠牲者が出ると思われた。特にこの日は「もの日」でもあり、15時過ぎてもロビーには客が溢れていた。「女、子どもは解放して欲しい」行員がこう言うと、「うるさい、黙れ!」と叫んで、 その行員を射殺した。このままでは何人も殺されるかもしれない。スキをみて若い行員が犯人に飛びかかった。他の行員や客も数人が犯人の上に重なり合った。 こうして犯人は銀行員=民間人に逮捕された。しかし、この格闘の間に、初めに飛びかかった若い行員が射殺された。このように行員3名が犠牲になっていた。
 さて、この銀行強盗の犯人は行員3名を射殺したのだが、死刑制度が廃止されたために無期懲役の判決が出た。世間では次のように噂した。「刑務所で15年も過ごせば、仮釈放になり、最後は畳の上での大往生になるだろう」と。
<銀行強盗事件A>  前記銀行強盗事件があってから1年後のこと、同じ様な銀行強盗事件があった。犯人の要求する逃亡用のワゴン車を用意せず、時間稼ぎをしていた警察。 イライラし凶暴になった犯人。「3億円、早く用意しろ!」と天井めがけて威嚇射撃をする。そして支店には狙撃手が到着したが、チャンスがない。犯人はますます凶暴になる。 「女、子どもは解放して欲しい」行員がこう言うと、「うるさい、黙れ!」と叫んで、 天井の蛍光灯を威嚇射撃する。「きゃー!きゃー!」という若い女性の叫び声が支店の外まで聞こえてくる。 警察官の間では1年前の事件のことが頭に浮かぶ。行員が射殺されたのに、死刑制度が廃止されたので、裁判での判決は無期懲役であった。 狙撃手が躊躇せずに撃っていたら犠牲者は出なかったかもしれない、と警察関係者は後悔の念にさいなまれていた。
 「このままでは昨年のように、犠牲者が出る怖れがある。スキをみて犯人を射殺するように」との指令が出た。皆、息を呑んで狙撃手の動きを見守る。凶暴になり、冷静さを失った犯人が窓際に来て外の様子を窺った。その時射撃手が日頃の訓練の成果を披露した。1発で犯人は倒れた。
 人質は無事解放され、犯人は救急車で運ばれた病院で死亡が確認された。犯人は実質的な死刑になった。
<銀行強盗事件B>  銀行強盗事件@が起きてから15年後のこと、同じ様な銀行強盗事件が起きた。今度は犯人が3人であった。主犯格Aが拳銃で脅し、3億円を要求し、「資金課長、お願いします」と呼ばれた行員に、拳銃を向け引き金を引いた。 また、「女、子どもは解放して欲しい」行員がこう言うと、「うるさい、黙れ!」と叫んで、その行員を射殺した。
 共犯者Bは日本刀を振り回し、カウンターの中を歩き回っている。若いテラーたちが「きゃー、きゃー」叫ぶと嬉しそうな顔をする。共犯者Cは拳銃を持ち、天井の蛍光灯を撃ったり、外のパトカーを狙ったりして、西部劇の主人公を気取っているようだ。
 逃走用の車の用意が出来ていないか、主犯Aはさかんに気にしている。「警察はワゴン車を用意していないか?ちょっと外を見てみろ」。そう言われて共犯者Cが窓から外を見た。 その瞬間狙撃手の人差し指が動いた。共犯者Cは一発で倒れた。それを合図のように、行員が犯人AとBに向かっていった。主犯格Aには若い行員をはじめ数人が重なり合った。 主犯格Aはこうして逮捕されたが、その際に若い行員が射殺された。共犯者Bはというと、ベテラン行員がシャッターの後ろに隠してあった木刀を取り出し、共犯者Bに向かっていった。 しばらく日本刀と木刀の試合になったが、別の行員が近くにあった消化器を取って、共犯者Bに投げつけた。消化器は共犯者Bの後頭部に当たり、そこに倒れた。 このようにして犯人ABCは警察に引き渡されることになった。
 拳銃をもてあそんでいた共犯者Cは狙撃手に1発で射殺され、実質的な死刑になった。
 日本刀の共犯者Bは消化器が後頭部に当たり倒れたが、その後、後遺症が残り、半身不随で言葉が正常には話せなくなった。このため公判維持は不可能と認められ、不起訴になったが、結局住み慣れた土地を離れ、近所つき合いもなく、一生半身不随で車椅子の生活をおくることになった、と言われている。
 主犯格Aは行員3人を殺したが死刑にはならず無期懲役になった。この主犯格Aは実は、銀行強盗事件@の犯人であった。あの事件後、15年の刑務所生活をおくり、仮釈放になった。 前回は1人で失敗したので、今回は仲間を募って3人で実行したのだった。結局今回も前回と同じ様に3人を殺したが逮捕され、失敗に終わった。そして裁判では無期懲役となり、前回より長い刑務所生活を送ってから仮釈放になり、最後は畳の上での大往生であったと言われる (この時代では、個人情報保護が徹底され、犯人のその後の生活は取材も報道もされなくなっていた)。
 主犯格Aに関しては別の噂も流れていた。それは、「6人も殺しておいて最後が畳の上で大往生とは許せない」と、刑務所の中で、囚人たちが集団リンチを起こし、亡くなった。囚人たちはたとえ事件が知られても死刑になることはないと安心してリンチに加わり、看守たちはそれを知っていながら、臭い物には蓋と、単なる事故として処理をして外部には漏れていない、とまるで見てきたような噂も流れていた。 法務省は「個人情報に関しては発表しません。問題になるようなことはありません」としか発表しなかった。 死刑制度が廃止されてから、重大な事件でも判決は死刑ではなく、無期懲役に決まっているので、マスコミは大きく報道しなくなった。このため、殺人事件が起きても大きな社会問題にはならなくなっていた。
*                      *                      *
<場合によっては「国家は人を殺さねばならぬ」> 上記<銀行強盗事件@AB>と同じことを少し状況の設定を変えて説明した文章があるのでここで引用することにしよう。
大和 国家成立のための形式的条件は、通常、領土があること・人民がいること・主権があることと言われているが、さらに実質的条件を加えれば、「力の独占」と「領土内人間の保護」の2つが国家の基本としてあげられる。 「力の独占」とは国家権力による力の独占であり、国民当事者同士での「私刑(リンチ)」を許さず、国家がそれに代わるというものだ。早い話が、昔のような仇討ち、すなわち個人的懲罰は許さず、被害者の代わりに国家が公的懲罰を加害者に行うというものだ。また、「領土内人間の保護」とは犯罪等から国民を守ることであり、いわゆる警察機構を考えればよい。 この2つがもし欠けておれば、たとえ領土や国民や主権が存していたとしても、国家とは言い難い。
赤井 うむ、自立した法治国家であるためには、その2点確かに必要だ。
大和 よし、ではこの2点について話をすすめよう。話を分かりやすくするために次のような状況を想定してみよう。2階建てのビルの屋上で1人の男が妊婦を人質にしてたてこもっている。妊婦は椅子に縛られ、隣には日本刀を手にしたその男が立っている。ビルの周りは警官によって取り囲まれているが、屋上であるため強行突入ができない。 と、突然、犯人は持っていた刃で妊婦の足を刺し始めた。血を流し絶叫する妊婦。そして刃が次に妊婦の大きな腹に向かおうとしたその時・・・。この時、国家すなわち警察は何をしなければならないのか?言うまでもない、犯人を狙撃しなければならない。
赤井 ・・・。
大和 反論があれば、言ってもらってもかまわぬぞ。
赤井 いや、残念ながら、それ以外妊婦の助かる道はなさそうだな。
大和 そうだ、このような場合国家は国民を犯罪から守るため、人殺しも敢えてせねばならぬのだ。つまり、「国家は人を殺してもよいのか」ではなく、場合によっては「国家は人を殺さなければならぬ」のであり、これは国家に課せられた義務なのだ。
赤井 なるほど、その点は認めるとしよう。だが、このように妊婦を救うためなら緊急避難という点から仕方がないにしても、死刑は、すでに身柄を拘束され抵抗することのできない者に対する一方的な殺人ではないのか。
大和 うむ。この反論に答えるため、再び同様の例を用いてみよう。
 先の犯人Aが警察によって射殺され、妊婦が無事救出された次の日、また妊婦を人質にするという同様の事件が起きた。ところが、この犯人Bは先日の事件をニュースで知っていたため、狙撃防止用のバリケードを築き、さらに防弾チョッキを身にまとっていた。こうして自分の身の安全をはかった上で、先日同様妊婦の足を刺し始めた。妊婦は血を流しながら絶叫する。 警察は犯人狙撃が不可能なため強硬突入を試みるが、屋上であったためにどうしても時間がかかり、屋上に着いた時には妊婦は腹を断ち割られ胎児とともに刺し殺されていた。犯人Bは下手に抵抗すれば射殺される可能性もあると素早く計算し、刀を捨て素直に逮捕された。そして、裁判にかけられたが「死刑制度が廃止されていたため」死刑にならずにすんだ、と仮定しよう。
 犯人Aの罪状は「殺人未遂」であり、国家が与えた罰は「死」である。妊婦は無事生きている。他方、より狡猾で残忍な犯行を現に行った犯人Bの罪状は、無論「殺人」である。当然、妊婦・胎児ともに死亡した。にもかかわらず、死刑制度が廃止されておれば、犯人Bは国家から「死」を与えられることはない。罪状の重い犯人Bが、犯人Aより軽い罰ですむというこのような不均衡が、法の下で平等を唱える法治国家で許されて良いのか、 と問われれば、廃止論者であるお前は何と答えるつもりだ。
赤井 ・・・。
(『平等主義は正義にあらず』から)
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<人を殺さなくても実質的な死刑⇔人を殺してもシャバの畳の上で大往生> 銀行強盗事件@AB、赤井vs大和の対話、死刑制度が廃止されるとこのようなことが起こり得る。死刑は残酷であるし、非人道的であるとしても、このような不均衡が予測される制度は「欠陥制度」だ。 死刑廃止論者は「気配り半径が狭く」「視野狭窄」であり、あくまで感情的な死刑廃止論にしがみつくのは新興宗教家にも似た態度だと言わざるを得ない。 死刑廃止論者は「人間が裁判を行う以上、誤判は避けられない」と主張するが、「銀行強盗事件@B」では被告が銀行員3人を殺したことに関して誤判はあり得ない。
 死刑廃止論者は死刑の代替として、仮釈放なしの終身刑を主張する。けれどもこれは認められない。刑務所で人を殺しても、真面目に過ごしていても何も変わらない。素直に、真面目に生活していればいずれ仮釈放になる、だから模範囚になろうとする。 真面目に生活するインセンティブが働かない。
 赤井vs大和の対話、のポイントは見出しでも書いた、場合によっては「国家は人を殺さねばならぬ」、ということだ。人を殺すことは残酷だし、非人道的であることは確かだ。しかし、場合によっては「国家がその残酷なことを行わなければならないこともある」ということがポイントになる。
 死刑制度が残酷であるとか、非人道的であるとか、世界の流れであるとか、誤判は避けられないとか、理由はいろいろ付けることができるが、この様な不均衡なことが解決できなければ、死刑制度は維持しなければならない。上記例では、被告が人を殺したことに関して誤判はあり得ない。 しかし、法律書・刑法の解説書ではこのような事例は想定されていない。多分法曹界も「法曹界の匂いのしない者の意見は聞かない」ことになっているのだろう。 農業界での「土の匂いのしない者の意見は聞かない」と同じような態度、経済学教育界での「マルクス経済学者の意見は聞かない」 と同じような態度なのだろう。
 法曹界の動きを見て、ロースクール制度や裁判員制度の導入は、経済学の観点からは「レント・シーキング」 となるのだが、それでも、裁判員制度で法曹界の人が民間人に接して、民間人の感覚に驚くことがあれば、それは良いことかも知れない。かつての226事件、青年将校たちが「政治は腐敗している。国民はそれに気づいていない。われわれが立たなければ日本はダメになる」と思い上がり、ルール違反をして立ち上がった。 それは、「われわれは正しく状況判断できるが、国民はできない」との独断的な思い上がりであのような無謀な行動に出たのだった。青年将校たちが一般民間人とよく話し合っていればこのようなことは起きなかったかも知れない。TANAKAが提唱する、自衛隊への体験入隊制度 はこうした危険性を回避する制度になると思う。 大切なことは、一般人が業界人を知ることではなく、業界人が一般人の感覚を知ることだ。業界人が、好奇心と遊び心を持っていれば、その制度は生きてくる。
 死刑廃止論者は、「生命は尊貴である。1人の生命は、全地球よりも重い」と言う。そして、だから死刑制度は廃止すべきだ、と言う。 その論理は間違っているのであって、「生命は尊貴である。1人の生命は、全地球よりも重い」だからこそ、人の命を奪う犯罪には、死刑制度という厳しい態度をもって、国は対処しなければならない。そうした毅然とした態度がなければ「生命は尊貴である」とは、単なる言葉の遊びでしかなくなる。 もしも、「生命は尊貴である。1人の生命は、全地球よりも重い」と言っていれば人命が尊重されると言うならば、それは「言霊信者」の言うことだ。
 ところで、命がけで、犯人に飛びかかっていった若い行員の行動は何だったんだろう。犯人逮捕に結び付いた。それは確かだ。そして、実は犯人の命を救ったのだった。そう、自分の命を懸けて、犯人が実質的は死刑になるのを救ったのだった……何か割り切れない。行員の遺族の気持ちはどのようなものだろうか?このような法秩序が許されるのだろうか?
 銀行強盗事件で現場に到着した警察はまず何をするだろうか?最初にすることは、犯人への呼びかけだろう。「銀行は警察が包囲した。もう逃げられない。武器を捨てて出てきなさい。今なら死刑になることもない。大人しく出てきなさい」。このように犯人を説得するだろう。 しかし、死刑が廃止されたら、「今なら死刑にはならない。これからも死刑にはならない」では説得にならない。死刑制度が抑止力になっているかどうかは、どちらも証明できないが、警察の説得力が弱まるのは間違いない。 事件が起きたとき、事態がより悪化するのを防ぐために、死刑制度は「抑止力」として有効だ。
最後までのお付き合いのほど、よろしくお願い致します 死刑廃止論者は「人間が裁判を行う以上、誤判は避けられない」 と主張する。死刑存続論者であってもこれを論破することはできない。無理に方法を考えれば、「銀行強盗事件@Bのように、誤判の恐れのない事例以外は死刑を適用しない」という非現実的なことしか考えられない。 では、それでも死刑は存続すべきだ、と主張するのは何故か?それは 「死刑を廃止した場合のメリット(冤罪により命を失う人がいなくなる)、デメリット(現実の社会と法体系に矛盾が生じる)を天秤にかけてみて、デメリットの方が重い」と考えるからだ。
 このHP「死刑廃止でどうなる?」では、そうした死刑廃止論者の主張を一部(誤判は避けられない)認めながらも、それでも「死刑は存続さすべきだ」を主張していくことにする。 いつも通り、毎週、毎週の自転車操業でキーボードを叩き、アップロードしていくので、右へ左へ、前へ後へのダッチロールを繰り返しながらの展開になるでしょうが、最後までのお付き合いの程を、よろしくお願い致します。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『刑法という法律』改訂版    古田佑紀 国立印刷局    2005. 4. 1
『平等主義は正義にあらず』   山口意友 葦書房      1998. 3.10 
( 2007年3月19日 TANAKA1942b )
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(2)団藤重光の死刑廃止論を読んでみよう
人格の尊厳を認める法理論とは

 死刑廃止論者がどのように主張しているのか?ここでは、廃止論を紹介しよう。 初めに引用するのは、団藤重光著『死刑廃止論』。最高裁判所判事も勤め、1995年には文化勲章を受章している、代表的な死刑廃止論者だ。
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<「目には目を」の由来と批判> 第1部のお話の中で申しましたように、「目には目を、歯には歯を」というのは最初に旧約聖書に出てくることばです。 引用してみますと、『出エジプト記』(21章24節、なお12節以下)には「目には目。歯に歯は。手には手。足には足。」とあり、『レビ記』(24章20節・21節)には「目には目。歯には歯。人に傷を負わせたような人には人は自分もそうされなけらばならない。 動物を打ち殺す者は償いをしなければならず、人を撃ち殺す者は殺されなければならない。」、さらに『申命記』(19章21節)には「いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足」というように記されています。いずれも、主(神)がモーゼに告げて言われた言葉であります。
 このような「目には目を、歯には歯を」という法を「タリオの法」ないしは「同害報復の法」と言いますが、これが果たしてキリスト教の教義だと言ってよいのでしょうか。 新約聖書になると、『マタイの福音書』(5章38節以下)には、イエスの説教の中に次のようなくだりがあるのをご存知でしょう。「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。 悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」また、『ルカの福音書』にも、イエスが言われた中に「あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません」 (6章29節)という言葉を含む一連の有名なくだりがあります。
 同じく新約聖書のパウロの『ローマ人への手紙』(12章19節・21節)の中には、「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。それは、こう書いてあるからです。 『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』……善をもって悪に打ち勝ちなさい」とあります。 これは旧約聖書の『申命記』(32章35節)に主のことばとして、「復讐と報いはわたしのもの」とあるのを受けているのでしょうから、すでに旧約聖書にも、本当はこのような考えがあったものといってよいでしょう。 人間同士の間では復讐的であってはならないものとされているのです。
 このように見てきますと、キリスト教の教義として、「目には目を歯には歯を、生命には生命を」ということが、主の復讐原理としては別論として、少なくとも人間社会の在り方として認められるとは決して言えないように思われます。 キリスト教者の中に多くの強い死刑廃止論者があるのは、もっともなことであります。いな、キリスト教では『ルカの福音書』(6章37節)にも見られますように、死刑どころか、そもそも人を裁くことじたいが問題になる位です。「あなたがたのうちで罪のない者が最初に彼女に石を投げなさい」 (『ヨハネ福音書』8章7節)というのも、ご承知のとおり、この文脈でよく引用されるイエスの言葉です。要するに、「キリスト教によって死刑を基礎付けようとする見解くらい非キリスト教なものはない」 (リープマン)と言ってよいのではないでしょうか。ユダヤ教でも、1950年代以降のアメリカでは──一部の正統派の宗教以外は──死刑を聖書に反するものと見るようになって来ているそうです。
 これまでキリスト教の聖書を中心に見て来ましたが、コーランにも同じく「生命には生命を、目には目を……」という言葉があり、イスラームの教義の重要な部分になっているのです。 イスラームはユダヤ教、キリスト教に続く同じセム人種の宗教で、姉妹宗教といってよい同系の宗教で、コーランは旧約聖書を至るところで意識的に踏まえているのですから、これは当然のことでしょう。 コーランではキリストの福音書さえもが踏まえられているようですが、キリストはイスラームでは預言者の1人にすぎないのですから、ここに述べたような新約聖書はイスラームには入ってきません。 ですから、「生命には生命を、目には目を……」ということも、キリスト教の場合とは教義上かなり違ったニュアンスをもって来てるようです。
 ともあれ、「目には目を、歯には歯を」というのが、社会的事実として、古代の人たちの素朴な正義感情であったこと自体は、疑いないでしょう。 これは、現代人にも言えることで、応報観念は現代の法や裁判の上で軽視することはできません。その現代的な意味の1つは、刑罰が重くなり過ぎないように、その限界を決める点にあります。 刑法の大原則である罪刑法定主義の一要素としての罪刑の均衡ということは、こうした応報観念が基礎になっています。 (『死刑廃止論』第4版 から)
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殺人罪に死刑は相当か 私は以上で、「目には目を、歯には歯を」「生命には生命を」というタリオの考え方が刑法においては適当でないことを論じてみたのですが、同時に被害者感情をも含む応報観念そのものは軽視してならないことを述べてみたいのです。 言い換えれば、応報観念を考えるについて、個人対個人のレベルで形式的に──民事的──考えるべきではなく、全体対個人の問題として犯人に国家的刑罰を科するのにはどうすれば──刑事法的に──実質的に適正を期することができるか、を考えなければならないのです。
 よく、人を殺した者は自分も殺されるのが当たり前で、「自分が殺されないで人を殺す権利」を持つというのはおかしい、という議論がありますが、ここには思考の混線があります。 死刑を廃止すればもちろん「殺されない権利」ができるわけですが、それはどこまでも「殺されない権利」にとどまるのであって、「殺されないで殺す権利」など絶対にありません。
 われわれは、ここで2つの平面を区別して考えなければなりません。それは、犯罪の行われる事実の面と刑罰を科する規範の面との区別です。 理論的に厳密にいうと、非常にむずかしい議論になりますが、ここではごく常識的な意味でいうのです。
 国家ないしは法が殺人犯人を死刑にするというのは、規範面のことです。犯罪の事実面は不合理の世界、不正の世界ですが、刑罰を科するという規範面は合理性の世界、正の世界でなくてはなりません。 不正に対する正をもってするのが刑罰でなければなりません。犯人が被害者を殺すのは不合理の世界であって、これと同じレベルで国が死刑によって犯人を殺すことを考えることは許されません。 もし同じレベルで考えるならば、それは法が個人対個人の間の犯罪のレベルに自己を低める、貶(おとし)めることになります。 犯人が人を殺したのだから法はその犯人を殺す、死刑にするのだ、という議論は、法を堕落させる議論ではないでしょうか。法は一段の高みに立たなければならない。 殺人犯人を死刑にするには、単に人を殺したからという以上の、十分な合理的根拠がなければならないはずであります。はたして、それだけの根拠があると言えるのでしょうか。
「人を殺すなかれ」という規範を法が掲げるのは、世の中に殺人が行われないようにするためです。それなのに法自身が死刑によって人を殺すことを規定したのでは、法がみずから規範を破ることになりはしないか。 むしろ、法が自ら悪い手本を示すことになりはしないか。第T部のお話の中で引用したドストイェフスキーやカミュのことばを、ここでもう一度思い出していただきたいと思います。(以下略) (『死刑廃止論』第4版 から)
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私の人格責任論・動的刑罰論と死刑廃止論 この辺で、とくに私自身の刑法理論と結び付けて、そういう角度から、改めて死刑廃止を論じておきたいと思います。 私の刑法理論は一口で言えば、人間あるいは人間性をもとにした刑法理論です。法は人間の行為を律するものですし、こと刑法は人倫と密接に関係するものなのですから、これはあまりにも当然のことなのですが、世の中では必ずしも、 そのように考えられていないようなので、私はこれを強調しなければならないのです。私のいわゆる主体性の理論、それから派生する人格責任論、さらには動的刑罰理論などが、私の刑法理論の骨格をなすわけですが、ここでは簡単に要点だけを説明しておきましょう。たいへん舌足らずなお話になりますが、お許しを頂きたいと思います。
 主体性の理論は、何よりもまず、個々の人間についての至上性すなわち人格の尊厳を認めることから出発します。一人ひとりの人間がそれぞれに根元的な価値をもつものであって、いわば自己目的的なものであり、ほかのものの単なる手段として扱われてはならないことは、カントの言っている通りだと思うのです。 法哲学者のコーイングが書いていますように、「死刑は犯罪者自体を否定するものである。しかし、国家はそのような権利を持つものではない。なぜならば、それは一人の人間を国家の目的に捧げることになるからである。 だから、死刑は法の理念に反する」ものと言うべきであります。 (『死刑廃止論』第4版 から)
団藤 重光(だんどう しげみつ) (1913年11月8日 - )刑法学者。戦後の日本刑事法学の第一人者。 東京大学名誉教授、元最高裁判所判事(1974〜1983)。1981年日本学士院会員、1987年(昭和62年)11月3日勲一等旭日大綬章受章、1995年文化勲章受章
 立法によって死刑を廃止する以外には道はないとはっきり確信するようになったきっかけを次のように言っている。 死刑廃止info! アムネスティ死刑廃止ネットワークセンター から引用しよう。
最高裁判事としての痛切な経験
裁判官がみんな席に着き、裁判長が「本件上告を棄却する」と言いました。棄却するということは死刑が確定するということです。
そして裁判官専用の出入り口から私たちが退廷し始めたその時です。
「人殺し!」という声が法廷中に響いたのです。罵声です。私たちが罵声を浴びせられたのです。
私はいつもでしたら傍聴席のこんな罵声くらいで驚きはしませんが、正直なところ、「本当にこの人がやったのだろうか」という一抹の不安を持っていましたので、このときの「人殺し!」という声はこたえました。その声は今でも忘れられません。
その事件で私が感じたわずかな不安というものは、多分に主観的なもので、人によって違うと思います。その小法廷の5人の裁判官の中でも、そういう不安を持ったのは、おそらく私だけだったでしょう。残り4人の裁判官は、自信を持って死刑判決を言い渡したと思います。
でも私には、わずかに引っかかるものがありました。
しかし現在の司法制度の下では、このようなケースで判決を覆すことはできません。そして死刑制度がある以上、この事件で死刑が確定したことはやむを得ない結果でした。
私はこの経験を通して、立法によって死刑を廃止する以外には道はないとはっきり確信するようになりました。
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学問の道を究めると宗教家になる? 学問の世界で、ユニークな理論を発表するのは若い世代だ、と言われている。中年以降は後輩を指導する立場になる。 そして、ごく一部の人は、専門分野を基盤とした哲学の分野に足を踏み入れる。そして、それがさらにすすむと、宗教家=新興宗教の教祖になる。
 実現不可能な理想で、しかし誰もそれを否定できないスローガン。過去の専門分野での実績が大きいので、その分野の後輩は批判できない。 経済学の分野でも、理論物理学の分野でも、実業界の分野でも、そして法曹界でも……。
 「世界人類が平和でありますように」と言われて、それを否定することは難しい。「核兵器廃絶」に反対はしにくい。けれども最大の核兵器保有国のアメリカが核兵器を破棄したら、北朝鮮はじめ多くの国が核開発を進めるのは間違いない。 アメリカが核兵器を保有することによって、諸国の核開発が乱開発されずに済んでいる。「死刑が行われることがないような社会になったら良い」に反対する人はいないだろう。 しかし、死刑制度が廃止されると法体系が不自然になり、現実の防犯システムとの整合性が失われる。「死刑廃止」とは、このような種類の問題なのだと思う。
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<主な参考文献・引用文献>
『死刑廃止論』第4版      団藤重光 有斐閣      1995. 1.30 
『死刑廃止論』第5版      団藤重光 有斐閣      1997. 6.30 
( 2007年3月26日 TANAKA1942b )
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(3)死刑執行停止法の制定という主張
仮釈放なしの終身刑を代替刑にとの案

 今週は死刑廃止論者のうち、菊田幸一著『死刑廃止に向けて』から引用する。副題に「代替刑の提唱」とあり、本文中では、仮釈放なしの終身刑を提唱している。
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<死刑廃止に向けて> 私はかねてから死刑廃止への手段の1つとして、@死刑執行停止法の制定、A死刑に代替する終身刑の提唱、をしてきた。死刑廃止を推進する議員連盟および弁護士会が終身刑を具体的に提唱していないのには、それぞれの事情と配慮があるのであろうが、今、死刑に関し意識ある国民の多くが求め、期待しているのは死刑に代替する終身刑の導入にあると、私は確信している。 そのような具体的提言なくして死刑執行停止は実現できない。
 私が微力ながら協力してきた韓国での現在の死刑廃止法案は、当初の仮釈放付終身刑を修正し、仮釈放のない絶対的終身刑を死刑に代替する内容となって、今国会に提出されている。 国連の規約人権委員会での日本の死刑に対する勧告でも死刑のモラトリアム実現の手段としての終身刑について触れている。
 死刑廃止は、根強い存置論者をいかに廃止に向かわせるかにかかっている。その橋渡しの手段として提唱するのが終身刑である。終身刑には「死刑より残虐である」との批判のあることは承知している。 しかし死刑のある今の日本では、その議論は、わが国の死刑制度がなくなってからでも遅くない。
 本書は、死刑廃止への戦略を紹介してきた。これまでの論文に若干の集成を加えて収めたものであるが、重複の部分はそのままにした。日本の死刑廃止への具体的戦略として役立つならば望外の幸せである。
 2005年3月 著者  菊田幸一
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人間尊厳の普遍性 人間の尊厳が実定法として明瞭にされたのは1945年6月25日に調印された国際連合憲章である。 同憲章はその前文において「基本的人権と人間の尊厳および価値」に言及している。そして1948年12月10日に国連で採択された世界人権宣言と称せられる「人権に関する普遍的宣言」(Universal Declaration of Human Rights)は、法的拘束力はないが人権の普遍性を鮮明にした。その前文において「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と、平等で譲ることのできない人権とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎である……」 と述べ、第1条において「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利について平等である」と規定し、人間の尊厳の普遍性を明瞭にしている。 その意味するところは「国際社会が国家のみによって構成されているという立場を意図的に排除して、人類それ自体を含ませるという考えにたっている」ところにある。
死刑に代替する終身刑について 死刑制度を廃止するに際し、その代替刑として終身刑を採用することは、これまでの死刑廃止先進国が、いずれの国においても経験しているところである。 むろん死刑廃止に伴う直接の代替刑として終身刑を採用する国もあれば、死刑廃止後の最高刑として、従来からの終身刑が残されたにすぎない国もある。 わが国においては、死刑に次ぐ最高刑は無期懲役であるから、ここに改めてそれとは異なる終身刑の採用が問題となる。
 アメリカにおいては死刑廃止州と存置州があり、すでに死刑を廃止した州においては終身刑の問題は、その現実を行政問題として議論の対象としており(死刑を廃止したヨーロッパ諸国でも同様の動きがある)、 他方、存置州においては、死刑廃止に向けての代替刑として、終身刑に関する議論が中心となる。その意味では、アメリカにおける終身刑論議を知ることは近い将来での死刑廃止を検討するわが国において格好の素材を提供するものである。 本稿は、主としてアメリカの終身刑論議を素材とし、日本における終身刑採用の具体的方策を探ることを目的とする。
日本における死刑代替刑論議 まず、日本における最近の死刑代替刑論議を簡略に紹介しておきたい。 死刑廃止論者としての私見としては、基本的には死刑廃止論者が代替刑を主張することに論理的に矛盾のあることを承知している。 死刑廃止実現の見通しには、楽観論、悲観論のいずれにもそれなりの客観的状況判断があるにしても、単に成り行きを見守るのではなく早期実現を具体的に手中にしなければならない。 そのためには可能な限りの実現可能な施策を提唱しその段取りをしていかなければならない。それには、もっとも悲観的状況判断から対策をとることが、短距離であるという認識も必要である。 私は、率直にいって現行刑法典から「死刑罪名」を削除するという、いわば正面からの死刑廃止は困難であると考える。事実上の死刑執行停止を実現することに当面の課題がある。 そのためには、こんにちの死刑と無期懲役の格差をなくする、いわゆる終身刑の採用を早急に実現する必要がある。またその採用に賛成する意見は各方面から出ている。(中略)
 現実に死刑制度があり、定期的に処刑がある日本の現状や被害者感情を考えれば「凶悪犯人は死刑にせよ、さもなくば生涯を刑務所で」の声が今日の日本における多数の意見であると思われる。 実は、このような状況は、死刑を廃止したフランスやドイツあるいはアメリカで言えば死刑廃止州において同様な現象がみられる。
終身刑の導入 わが国において、死刑に代替する終身刑を早期に導入すべき時期にあることを冒頭でも述べた。 その終身刑がいかなる種類のものであるかは、前提として、わが国の犯罪者処遇の実態をとらえておかなければならない。たとえば確定死刑囚といえども現実には厳正独房に近い日常生活を強いられており、これは明らかに国際準則に違反している。 かれらは、文字どおり処刑を待つための生のみを強いられている。さらに言えば、厳正独房に収容されている長期受刑者の非人間的扱いが実態としてある。その現実のうえに死刑制度がある。
 その死刑制度を廃止することがいかに厚い壁であるかを改めて認識しなければならない。
 このような現状認識のもとにあっては、死刑の代替刑提示、残念ながら限りなく死刑に近い代替制を提示することで一般多数の賛同を得るものでなければならない。 現に死刑制度があり、定期的に死刑執行がなされている日本の現状からすれば、死刑に次ぐ、もっとも厳しい終身刑を自ら選択せざるを得ない。それは仮釈放のない終身刑である。 仮釈放のない終身刑が死刑より残虐であるとする論理は通用しない。
 確定死刑囚・大道寺将司は次のように述べている(要旨)。「死刑囚は、単に長期間拘禁されたからではなく、死刑囚として、いつ処刑されるかわからないという状況に置かれてが故に、精神的に病んでしまうのです。 ”いつ処刑されるかわからない”という思いを抱かずにすむものであれば、長期間拘禁されても、精神的に病む人は少なくなるはずです。
 たとえ生涯、塀の外に出ることができなくともです。塀の中の生活もまた人生です。シャバとはかけ離れた厳しい生活のなかにも、喜びや生きがいを見出しことは可能です。
 終身刑を死刑の代替刑とすることで、百年先の死刑廃止よりも、近未来の死刑廃止の実現をめざすべきだと思います」
 死刑に値するような凶悪な犯罪を犯した者には、生涯にわたり刑務所から出ることができない刑罰を科せられても現実問題として、これに耐えるしかないとの認識を、あえて持たねばならない。 他人の生命を抹殺した反動として死刑への恐怖を伴わない終身刑は刑罰の1つとしてあり得る。自らの生涯を刑務所内で生きるのも刑罰の1つとしてあってしかるべきである。 終身刑受刑者として刑務所内で被害者への贖罪と労働に服することも行刑の1つである。ただし終身刑そのものがイコール残虐であるとする考えも間違っている。ここで採用する終身刑の処遇が19世紀初頭におけるヨーロッパの監獄のように暗い部屋に生涯閉じ込めるものであるはずがない。 日本における「厳正独居」が想定されてはならない。むろん仮釈放のない終身刑にこだわっているわけではない。前提として事実上の死刑廃止ないしは死刑執行停止を早期に実現することが担保されるならば、もっとも厳しい終身刑が存置論者を説得しやすいと、戦略として考えているにすぎない。
 どのような終身刑を具体的に採用するかは、さらに検討されるべきであるが、段階的に死刑、仮釈放のない終身刑、無期懲役(日本の現行法)の3種の選択から出発し、次の段階において仮釈放のない終身刑と無期懲役の選択、さらにその終身刑も20〜25年後に仮釈放を許す変遷が予定されてよい。 (『死刑廃止に向けて』から)
菊田 幸一(きくた こういち) (1934年12月15日 - )滋賀県長浜市出身の刑事法学者・弁護士(東京第二弁護士会所属)。専攻は犯罪学(刑事政策)。明治大学名誉教授、法学博士(明治大学)。
 著者・菊田幸一に関しては< ウィキペディア>を参照のこと。
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<主な参考文献・引用文献>
『死刑廃止に向けて』代替刑の提唱   菊田幸一 明石書店      2005. 3.30
( 2007年4月2日 TANAKA1942b )
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(4)死刑廃止を支持する女性作家の意見 
法体系とは無関係の立場からの感想

 『女たちの死刑廃止「論」』と題する本があって、多くの人の意見が掲載されている。 その中からよく知られた女性作家の意見を引用しよう。この人たちは法曹界の人ではない。だから「法体系」がどうのこうの、という点については追求しない。 多くの人の意見を聞いて、法体系として矛盾のないものに仕上げていくのは専門家の仕事であって、作家の仕事ではない。ということで、ここでは銀行強盗事件のことは考えずに、いろんな人の──アマチュアの意見を聞くことにしよう。
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誰の罪か=三浦綾子 島秋人という死刑囚がいた。彼はもう10年も前に死刑になっている。 「遺愛集」という心に沁みる歌集を1冊残して、33才の生涯を閉じた。
 彼はある日、獄窓に於いて、自分の一生を思い出してみた。が、人にほめられた思い出は、何ひとつなかった。もう一度、くり返し思い出してみた。 と、中学時代、図工の教師に、
「お前は絵は下手だが、構図はクラスで1番よい」
 とほめられたことがあるのに気づいた。
 この話をある牧師から聞いて、わたしは涙がこぼれた。今、死を前に、たった1度しかほめられたことがなかった人生を省みるこの青年の淋しさは、一体どんなであろうと思ったからだ。
 父が、母が、近所の人が、受け持ちの教師が、なぜ1度もほめ言葉をかけてやらなかったのかと、わたしはふしぎでならなかった。 それほど、この青年は、ひねくれ者で乱暴者であったのか。
 そう考えているうちに、わたしは、はっと1つのことに気づいた。それは、人間というものは、なかなか、人をほめない存在だということである。
 恐らく、この青年にも、小学校1年から、中学3年まで、何人かの受持教師がいたであろう。しかし、教師は多数の生徒を相手にしている。 非常に朗読の上手な生徒とか、他にすぐれて運動神経の発達している生徒とかを、度々賞賛することはあるかも知れない。
 だが、どのクラスにも、目立たない生徒がいるものだ。すると、教師は、つい今日もその生徒に声をかけない。明日もほめてやらないということになるかも知れない。
 たとえその生徒が、隣の友だちに、ビー玉をやるとか、ちり紙を分けるとか、些細な親切をしていても、教師が気づかない。積極的に教師に話しかけてくる子や、懐(なつ)いてくる子とは話をしても、毎日クラス全体の子と話すとは限らない。
 そんな日が、つみ重なって、教師から特別にほめ言葉をもらえないという生徒がないとは言い切れない。運がわるいと、次の教師も、そして又次の教師もその生徒をほめることなく何年間が過ぎるということも考えられる。
 しかも、教師は、ともすればほめるよりも咎める言葉、叱ることば、注意する言葉を多く口から出すかも知れない。と、いうことで、ついにどの教師からも、1度もほめられることなく中学を卒えるということがないわけではない。
 それは、わたし自身教師の経験があるのでよくわかる。ある時期、わたしは受持生徒一人一人の日記を毎日書いたことがある。 戦時中のことだから、生徒数が多く、60人から80人ぐらいもいた。
 その一人一人の日記を書くということは、つまり生徒一人一人の心の動きを心にとめておかなければならぬということである。これはもう至難なことで、どうしても、今日何をしたか、何を言ったか思い出せない生徒が何人かいた。 わたしは、その思いだせぬ子の名を教卓に貼っておき、翌日は真先にその子たちに声をかけるようにしたが、しかし、それでも毎日何人かの生徒の言動を心にとめることができなかった。
が、今になってつらつら思うに、私はつとめて生徒たちに言葉をかけた。が、それは、
「昨日の日曜日何をしたの?」
「おばあちゃんの病気よくなった?」
 というようなことばかりだったような気がする。言葉をかけること即ち賞めるということではなかったはずだ。と、すれば、私に何年間受け持たれても、一言もほめてもらえなかった生徒がいたかも知れないということだ。 それを考えると、私の心は激しい悔恨に襲われずにいられない。
 二、三年前、ある集会で、
「あなたは妻の料理をほめるか」
 という話題が出たことがあった。
 ところが驚いたことに、かなり仲のいい夫婦であっても、必ずしも妻の料理をほめることはないという夫たちが何人かいた。
 では、その妻たちは料理が下手かというと、決してそうではない。いずれも、玄人はだしの腕前の持ち主ばかりなんじょだ。それなのに、その夫たちは、只黙って食べるというのである。
 仲のいい夫婦の場合でさえ、妻が心をこめて造る毎回の料理をほめないのだ。と、いうことは、人間はなかなか人をほめないものだということだ。 だから自分のした善行なら、いささかでも誇るが、他の人が同じ善行をしても、先ず人はほめない。「金がある」から」「世話好きだから」「ひまがあるから」したのだと、半分くさすような言い方をする。
 島秋人は、たった1度、中学の教師にほめられただけであった。その1度がなければ、彼はこの世に生まれてきれ、ただの1度も人にほめられたことなく一生を終わったことになったであろう。
 考えてみると、くる日もくる日も、ほめてくれる人のいない人生は沙漠のようなのもだ。島秋人を殺人に追いやったのは、その沙漠のような、この社会ではないだろうか。
 しかし、彼は、自分を冷たく扱ったこの世に対して、恨みを抱いて新だのではない。キリストへの信仰と、短歌をつくることに依って、彼は支えられた。
  この手もて人を殺めし死囚われ同じ両手に今は花活く
  主のみ手にすがる外なき囚われに冬のさ庭の陽があたたかし
  世のためになりて死にたし死刑囚の目はもらひ手もなきかも知れぬ
 ほめられたことのなかった彼の罪か、ほめなかったもの立ちの罪かと、私はこの歌を読み返すのである。 (『本』昭和五十四年七月号) (『女たちの死刑廃止「論」』から)
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私の書いた死刑囚たち=瀬戸内寂聴 明治44年(1911)1月24日、午前7時から午後3時半まで8時間かけて、11名の死刑が極秘のうちに決行された。 場所は東京市ヶ谷監獄であった。幸徳秋水以下11面で、翌25日には管野スガ子が同じ絞首台の露と消えた。所謂明治の大逆事件で裁かれた者たちであった。 大逆事件がいかに政府が社会主義者を取締るためのフレームアップのでっちあげ事件であったかは、今では世界中によく知られている。
 管野スガ子自身が獄中で書いているように、この事件は、須賀子をはじめ、2,3人が責任を負う程度の事件で、しかも、実行まではとうてい及び難い幼稚な計画だけの机上の空論にすぎなかったのだ。 主犯とされた幸徳秋水でさえ、このプランからはすでに下りていたのであり、他の人々に至っては、全く関知しない事件であったのだ。 如何に当時の裁判が言語道断のものであったかを歴史に示している。世界中に、日本の裁判の汚点を広告したような事件であった。
 私は小説家として、この事件で只一人の女性死刑囚管野スガ子を『遠い声』という作品に書いたため、この死刑者たちと無縁でなくなった。当時の裁判を調べて知れば知るほど、死刑という制度について考えこまされずにはいられなくなったのだ。 裁判そ恐ろしさの方が、罪人と称せられる人間の犯す罪よりずっと甚大であることも知った。
 大正の大逆事件と呼ばれる朴烈、文子事件も取り上げ、金子文子を『余白の春』で書いた。この二人も死刑の判決を受けたが、それは関東大震災のドサクサまぎれに社会主義者やアナーキストを一掃しようとした政府の謀略による裁判であった。
 文子と朴烈は幸徳秋水たちと同じ刑法73条の「大逆罪」によって裁かれ死刑の宣告を受けたが、翌日天皇の恩赦という形で無期懲役に減刑された。その報せを受けた文子は、
「人間の命を玩具にするな」
と怒り、恩赦の紙を奪ってその場で引き裂いてしまった。後、文子は刑務所の独房で自殺している。文子にとってこの減刑はむしろ屈辱以外の何ものでもなく、自殺によって「死刑」に抗議したものと見なしてよいだろう。
 朴烈、文子の裁判の記録を見ても、二人の幼稚な自己顕示欲をあおり立てて、幻めいた皇太子暗殺計画をそそのかし挑発し自白させたという形が歴然としており、それが如何に意図的に仕組まれた裁判劇であったかは判然している。
 幸徳事件の時も、最初の死刑判決は24名であった。それを宣告の判決言い渡しの翌日に天皇の特赦という形で半数の12名が無期に減刑されている。 その減刑について、獄中の管野スガ子は、手記『死出の道艸』の中で、
 「一旦みどい宣告を下して置いて、特に陛下の恩赦によってというような勿体ぶった減刑をする──国民に対し外国に対し恩威並び見せるという抜目ないやり方は、感心といおうか、狡猾といおうか」
と書き残している。
 私は全く偶然のなりゆきで、管野スガ子や金子文子のことを書いたため、日本の暗黒裁判の歴史を知り、無実のものが死刑にされた恐怖を味った。そのため、裁判といい死刑といい、全く自分と無関係のように思っていたことが決して自分と無関係でないことを思い知らされた。 更に「徳島ラジオ商殺し」と呼ばれている富士茂子さんの裁判で、無実を主張しつづけている茂子さんと関わるようになって、明治以来今につづく日本の裁判並びに権力の暴力を憎むようになった。
 人間が人間を裁く時、絶対まちがいが起こらないとは言い切れないことをこれらの事件は示している。しかし、死刑という処刑は人の命を奪ってそれを生きかえらすことは出来ないのである。 こんな恐しいことを人間は平気で行うのだ。
 現在でもアムネスティの報告によれば、世界中で1日に何百人もの政治犯が死刑になっているし、刑の執行を待っている者もそれに続いているという。 政治犯というのは自分の思想や信念が現在の権力と相反するために捕らえられたのであるから、その立場に同情するむきもあって当然だが、単なる強盗殺人や、けんかの上での殺人や情痴殺人となると、その犯罪者を人は当然のように軽蔑し憎悪する。 そんな奴は死刑にして当たり前だし、極刑がないと、世間はそういう犯罪に対して不安でたまらないという。極悪非道の殺人者は殺せというのが世間の人情であり、その人情は当然正しいものとされている。 見せしめという言葉は、善良そうな人もど軽く口にする。
 しかしそんな次第で人を罰しつづけるなら、戦争に行って生き残った人間の誰が死刑をまぬがれることが出来ようか。戦犯として死刑にあった軍部の指導者だけが人を殺したわけではないし、戦争をしたわけではない。 戦争に反対することも出来なかった国民の無知もまた罰せられるべきであり、国家の元首こそ大殺人を命じた責任者として死刑にあうべきであろう。
 人間の行うことは所詮人間の浅い知恵の枠内であいか行えない。罪を憎んで人を憎まずといった聖哲の言葉など、現在では学校でさえ教えられない。 怨みに報いるに怨みを以てすれば永遠に殺しつづけなけらばならない。
 人を殺した者を必ず殺していけば限りもない殺人がつづいていく。
 人を殺してはいけない。人は人を殺させてもいけないという釈尊の言葉を私は今はよりどころにして、死刑廃止運動に連っている。
 一思いに殺された方が無期より楽だという説もある。けれども無期で罪をつぐなうことが如何に苦しそうに見えても、生きてさえいれば、人は自分を変える無数の機会が恵まれる。 人間はいつ、どう変化するかわからない心を持った動物である。生きている限り、人の心は動きつづけることが出来る。
 人は人の未来を奪う権利はない。
 死刑がどんなに野蛮な刑であるかは、もう世界の文明国が次々この刑を廃していることでも証明されつつある。日本は今や数少なくなった野蛮国の1つとして、まだ死刑を存続させているし、させつづけようとしている。恥ずかしいことである。 (『自由と正義』1982年12月号) (『女たちの死刑廃止「論」』から)
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死刑に反対する=田辺聖子 今東光氏がまだご存命のころ、死刑廃止の議論に対して、
「しかし、無惨に殺された人の遺族の身になってみれば、なあ……」
 といわれていたのを私はおもいだす。
 総論的には死刑反対だが、「しかし……」とつくのも人情であろう。だが、やっぱり私は、極悪人に対しても、死刑に反対せざるを得ない。 殺人を犯した人間に対して、法の名でまた殺人を犯すということに釈然としないのである。
 1975年から1979年にかけてカンボジアではポル・ポト政権の自国民に対する大虐殺がおこなわれた。人口7百万のこの国で実に半数近い3百万人の民衆が ジェノサイドの犠牲になった。やっとポル・ポト政権が倒され、新政府のヘン・サムリン政権が立って荒廃した国土のあと始末にかかったが、以前にポル・ポトの手先になって民衆を殺したり迫害したりした連中はどうなったろうか。 彼らは民衆に摘発され、糾弾されたが、処刑されることはなかった。再教育センターへ送られて、何週間が服役し、洗脳されて釈放された。
 目の前で肉親が殺された人々は、残虐行為を命じたり、直接手を下したりした人間を指さし、
「あいつが私の夫を、子を、(あるいは妻を、兄弟を、両親を)殺した!」と叫んで、どんなにか報復したかったことだろうと思う。 それが人間の情だろう、しかし新政府は、「復讐を生む」として報復処刑を許さなかったと伝えられる。
 カンボジアのジェノサイドは特殊な例であるが、私は「目には目を」という死刑に、どうしても与(くみ)することはできない。 私は反戦に署名し、核兵器に反対し、原発にも反対するものである。原子力の平和利用というけれど、原子力利用には根本的な不信感をもっている。 そういう立場の人間が、死刑制度に賛成、というのは矛盾がある。私は使役廃止を唱(い)わざるを得ない。
 私は何ら特定の宗教を信仰するものではないが、人のいのちの尊さを説きつつ、片方で命を奪う書類にサインすることはできない。 我々が死刑制度存続をきとめていることは、全国民があげて処刑命令書にサインすることだから……。大いなる超越者からごらんになれば、それは人間としてまことに不遜な所業と譴責されるのではあるまいか。
 これは国民一人一人の胸に問われる問題である。
 自由を剥奪され、ひとところに閉じこめられるという」ことは、人間として大きい苦痛だと思う。禁錮される苦痛で、人間はその罪を贖う、と考えてもいいのではなかろうか。 死刑を廃止にしたとき、反戦・非戦思想も現実性を帯びてゆく気がする。 (『女たちの死刑廃止「論」』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『女たちの死刑廃止「論」』            死刑をなくす女の会 三一書房   1984.11.15
( 2007年4月16日 TANAKA1942b )
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(5)宗教家も死刑廃止を強く主張する 
実現不可能な高い理想を求めてこそ宗教

 死刑廃止を主張するグループがいくつかあり、その中でも宗教家グループの影響力は大きいに違いない。 なにしろ、死刑廃止の主張そのものが宗教的なものだからだ。法律のそれも刑法という硬い分野でありながら、その主張の根拠は極めて宗教的だからだ。 ここでは『死刑廃止とキリスト教』の掲載された意見を引用することにしよう。また、死刑問題の捉え方が「宗教的」なので、宗教家ではない人たちの思いも取り上げてみた。 ここでも、「法体系」などというヤボなことは抜きにして、しばらく宗教的な雰囲気に浸ってみましょう。
*                      *                      *
死刑についての私の一言=荒井献 私が死刑に反対する理由は、極めて単純です。 人間は相対的存在です。このことをお互いに認め合うところに、「愛」の関係が生ずるのです。人間が相対的判断に基づいて、他者を絶対的に抹消し、「愛」の関係を断ち切ることは、いかなる理由があっても、ゆるされるべきではありません。 (荒井献=恵泉女学園大学学長 日本基督教団まぶね教会会員)
死刑についての私の一言=田畑忍 人を殺すことは大罪です。最悪の殺人は、権力が死刑執行の公務員を用意して、殺人犯やその他の事由で人を殺す死刑です。 死刑廃止は当然に必要です。
 歴史を遡って考えてとよく分かります。死刑制度がありましたので、聖人のイエス・キリストが十字架にかけられたり、賢人のソクラテスが毒殺されたりしました。 このような事例は少なからずあります。
もちろん、死刑を廃止しても殺人犯は決して増えません。また、死刑制度があっても殺人等の犯罪はなくなりません。大きく考えれば、他の刑罰も無駄です。 死刑などの代わりに、福祉や教育や医療等々の方法を導入して、犯罪をなくすべきです。アメリカやイギリスでは既にそうした運動が台頭している、と聞いています。
 日本こそ、戦争(憲法9条)の完全実施とともに、思い切って刑罰の廃止に踏み切るべきです。そうして完全なる社会福祉の国になるべきである、と思います。 完全なる社会福祉の国では、殺人もその他の犯罪も激減して、刑罰の必要は完全になくなるでしょう。日本国憲法31条と36条をさらに大改正すべきだと考えています。 (田畑忍=同志社大学名誉教授 滋賀県・草津キリスト教会会員)
死刑についての私の一言=本田哲郎 いったい誰が人の死を要求できるのか。個人であろうと組織や制度の上に立つ権威であろうと、人の命を断つことは許されない。 人と人とが詫び合い許し合ってともに生かされてこそ、明日に期待することができる。個人やグループによる殺人が許しがたい犯罪であるのと同じく、国家権力による殺人も認めてはならない。 命あってこそ罪を悔い、詫びることも償うこともできるのである。死は決して償いにはならない。責任を取って腹を切るというのも、責任を追及して命を奪うというのも、どちらもおかしなはなしである。 結果的には純然たる責任放棄ではないか。犯した罪は死をもって償うことをいさぎよりとえうる日本人の未成熟な発想がわざわいしているのかもしれない。 これも裁判が公正に行われたものと過程しての話である。昨今、次から次に免罪の事実が明るみに出ることを思えば、死刑制度は直ちに廃止すべきである。 (本田哲郎=カトリック司祭)
死刑についての私の一言=免田栄 私は昭和24年1月から昭和58年まで死刑囚として獄中に居り、生か死か、真実か否かの問題で闘い、34年の歳月を経て社会に帰り、自分の生涯の経験から、人間の裁きが神の裁きに等しいか否かを思考した上で、人間の裁きが完全でないことを悟り、死刑廃止運動に投じたいと志している者です。
 私とキリスト教の関係は昭和26,7年頃から開始されています。強盗殺人という罪を一方的に負わされまして、3年ほどの裁判で死刑が確定して死線をさまよい狂苦している時、カナダ人で教誨師として毎週来られていたテロリという神父さんから、死刑確定者に再審という手続きがあることを教わりまして、それから発奮しまして司法を相手に闘い、昭和58年7月15日に無罪を勝ち得ました。
 この間に7回最高裁まで上告して7,80人の裁判官に接し、個人的に言って私の訴えを認めた裁判官は2名です。
 この間に約70名の死刑囚が処刑されていますが、その中に免罪を訴えていた者が5,6名おり、確定判決に不服を訴えていた者が20名ほどいます。 人間の裁判は完全でないし、また完全を怠る裁判官が多くいます。
 多くに方が死刑という問題に感心をもたれ、廃止に努力されていることに心から御礼申し上げます。皆さんのこの姿を無実で処刑された者その他の方々がどんなに喜んでいるか分かりません。
 死刑の問題は被害者問題もかかわって難しくありますが、犯罪も戦争も被造者の弱さから起こる問題です。自分の体験から、死刑は再考される時代が来ていると思います。 (免田栄=元死刑囚)
時代遅れだけでない日本の死刑制度=ホセ・ヨンパルト 後藤田法務大臣は、就任の記者会見で死刑について「法に即して執行する必要がある」と述べたようである。 「殺したのだから、殺されるべきだ」という。死刑存置論者の考え方は非常に古い。人類初の殺人を犯したカインは、「わたしに出合うものはだれであれ、わたしを殺すでしょう」と言った。 しかし、主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ7倍の復讐を受けるであろう」。
 むろん、その後のモーゼの律法などに、死刑制度があったのは事実である。これは神さまが突然考えを変えたのではなく、当時の社会においては、死刑はどうしても必要だっっらからであろう。 カトリック教会では、死刑についての公式な教えはないが、私の近いでは、死刑制度はいかなる社会、いかなる時代でも常にいけないものとは言えないと思う。 ただ。「人を殺すなかれ」という聖書にある神の掟に対して、死刑のような例外を認めるには、それを正当化するだけの明白な理由が必要である。 そのはっきりした理由がない限り、やはり死刑は神の掟に反すると同時に、殺人でもあると言うべきであろう。
 1992年、マス・メディアでも注目された全世界のカトリックのためのカテキスム(公教要理)が発行された。カトリック信者が、当然このカテキスムに書かれたすべてのことを信じなければならないわけではないが、 ここでは一見すると、「非常に重い犯罪」を犯した場合は死刑が認められるような表現がある。だが、この部分の前後関係を見逃してはならない。 なるほど、もし正当防衛という理由から死刑制度がまだ必要だとすれば、この制度は正当化されるであろう。さて、これではこの理由が、現在の日本に該当するかを考えてみよう。 今の日本で、死刑は正当防衛として必要だろうか。問題はこれだ。1993年現在、日本には57名程の死刑囚がいるらしいが、この57名の命を奪うことが正当防衛に当たるのだろうか。
 法務大臣は「法に即して執行する必要がある」と言うが、果たしてそうだろうか。日本の死刑に関する法律が正しいとされても、私は法学者の立場からそれを否定したい。その証明はそれ程難しいことではない。
 先ず第一に、裁判官が被告人を死刑にしない限り、死刑は執行されない。そして日本の実定法では、裁判官が「法に即して」死刑判決を言い渡すよう拘束される場合は、唯一、外患誘致罪(刑法81条)だけなのである。 だが、今までこのような犯罪が行われたことはなく、今後も起こる可能性はなさそうである。つまり、他のすべての場合、裁判官は自らの良心に従って、死刑か無期懲役かを選ぶことができるわけである。 実定法(憲法)は、裁判官は自らの良心に従うべきとは言っているが、必ず死刑にしろとは言っていない。だから、すべての裁判官が「殺したのだから殺されるべき」という考え方を変えるとしたら、実定法を変えなくても、死刑執行はゼロになる可能性がある。
 第二の問題点は、現役の法務大臣が死刑執行命令を下すという点である。3年程前から死刑が全く執行されないという事態が起こってきらが、これに対して、法務大臣(または法務省)が怠慢ではないかという声が時々聞かれる。 しかし、この法務大臣が十代な仕事がけっして「法に即して」行なわれてこなかった事実は、戦後の死刑執行者数の年度統計を見ればすぐ分かる。 執行ゼロの年もあれば(1964,68)、死刑執行大好きの法務大臣が就任すると、絞首台はラッシュ・アワー並みになる。例えば、1957年、60年は何と各39人にも上り、その後は──2回ゼロになり(前述)──1970年、75年は各17人が処刑されている。
 日本国民が国家権力に任せた、この人命を奪うという責任ある仕事に、なぜこのようなアンバランスがあるのか。答えは簡単。 良く言えば、死刑執行は法務大臣(とその顧問たち)の自由裁量に任せられているから、悪く言えば、恣意に任せられているからである。
 このことを考えると、3年前から各法務大臣が執行命令にハンコを押さないようになったことは、賢明なことであり、高く評価しべきであろう。 むろん、今、この瞬間にも法務大臣がハンコを押す可能性はあり、この不安は死刑制度が廃止されない限り、ずっと続くのである……。 (カトリック司祭、上智大学法学部教員)(『死刑廃止とキリスト教』から)
<ストックホルム宣言> アジア、アフリカ、ヨーロッパ、中近東、南北アメリカおよびカリブ地域からの200名以上の代表と参加者からなる死刑廃止のためのストックホルム会議は
 死刑がこの上もなく残酷、非人道的かつ屈辱的な刑であり、生きる権利を侵すものであることを想起し
 死刑が反対派、人権、民族、宗教およびしいたげられた諸集団に対する抑圧の手段としてしばしば行使され
 死刑の執行が暴力行為であり、暴力は暴力を誘発しがちであり、
 死刑を科し、それを執行することは、その過程にかかわるすべての者の人間性を傷つけており、
 死刑が特別な抑止効果をもつことはこれまで証明されたことはなく、
 死刑がますます、説明不能な失踪、超法規的な処刑、および政治的な殺人の形をとりつつあり、
 死刑執行が取り返しがつかず、しかも無実の人に科されることがありうることを考慮し
自国の管轄内にあるすべての人の生命を例外なく保護することが、国家の義務であり、
政治的強制を目的とする死刑執行は、政府機関によるものであれ、他のものによるものであれ、等しく容認されず
死刑の廃止がこれまで宣言された国際基準の達成によって不可欠のものであることを確認し
死刑に対して全面的かつ無条件ぬ反対すること
いかなる形にせよ、政府によりおかされた、あるいは黙認されたすべての死刑執行を非難すること
死刑の世界的規模での廃止のために活動すると誓約することを宣言し
国内的および国際的な非政府系機関に対して、死刑の廃止という目的に資する情報資料を人々に提供するため、集団的および個別的に活動すること
すべての政府に対して、死刑の即時・全面的な廃止を実現すること
国際連合に対して、死刑が国際法宇藩であると明白に宣言することを要求する
    1977年12月11日  アムネスティ・インターナショナル 死刑廃止のためのストックホルム会議 (『死刑廃止とキリスト教』から)
<死刑廃止にむけての市民的および政治的権利に関する国際規約第二選択議定書>(1989年12月15日)
 本議定書の締結国は、
 死刑の廃止が人間の尊厳の高揚と人権の一層の増進に寄与すると堅く信じ、
 1948年12月10日の採択された世界人権宣言第3条および1966年12月16日に採択された市民的および政治的権利に関する国際規約第6条を想い起こし、
 市民的および成自邸権利に関する国債規約第6条が、死刑の廃止が望ましいことを強力に勧めて死刑廃止に言及していることに留意し、
 死刑廃止のためのあらゆる措置は、生命に対する権利の享受の進展であると考えられるべきであると確信し、
 ここに死刑廃止にむけての国際的な誓約を行うことを求め、
 次の通り協定した。
第1条 1 本選択議定書の締結国の締約国の管轄下にある者は、何人も処刑されるっことはない。
2 各締約国は、その管轄下において死刑廃止のためのあらゆる必要な措置を講じなければならない。
第2条 1 批准または加入の際になされた、戦時に犯された軍事的性格を有する極めて重大な犯罪に対する有罪判決に従い、戦時に死刑を適用する規定に関する留保を除き、本選択議定書に対しいかなる留保も付することも許されない。
2 かかる留保を付そうとする締約国は、批准または加入の際に、戦時に適用される国内法の関連する規定を国際連合事務総長に通報するものとする。
3 かかる留保を付そうとする締約国は、その領域における戦争状態の開始、または終了を国際連合事務総長に通告するものとする。
第3条 本選択議定書の締約国は、本議定書の実施のために講じることとした措置に関する情報を、規約第40条の規定に従って人権委員会に提出する報告書に記入しなければならない。
第4条 規約第41条の宣言を行った規約の締約国に関しては、当該締約国が批准または加入の際に自国につき認めない旨の宣言を行わない限り、この規約に基づく義務を他の締約国が履行していない旨を主張するいずれかの締約国からの通報を人権委員会が受理しかつ審議する権限は、本議定書の規定に及ぶものとする。
第5条 1966年12月16日に採択された市民的および政治的権利に関する国際規約についての(第1)選択議定書の締約国に関しては、当該締約国が本議定書の批准または加入の際に自国につき認めない旨の宣言を行わない限り、その管轄下にある個人からの通報を人権委員会が受理しかつ審議する権限は、本議定書の規定に及ぶものとする。
第6条 1 本義低所の規定は、規約の追加条文とみなされ、かつ適用されるものとする。
2 本義低所第2条に定める留保の可能性を辛亥しない限り、本議定書第1条第1項で保証される権利は、規約第4条による例外によって侵されることはないものとする。
第7条 1 本議定書は、規約に署名したすべての国による署名のために開放される。
2 本議定書は、規約を批准しまたは規約に署名したすべての国により批准されなければならない。批准書は、国際連合事務総長に寄託するものとする。
3 本議定書は、規約を批准しまたは規約に加入した国による加入のために開放される。
4 加入は、国際連合事務総長に加入書を寄託することによって効力を生じる。
5 国際連合事務総長は、本議定書に署名しまたは加入したすべての国に対し、批准書または加入書の寄託を通知する。
第8条 1 本議定書は、10番目の批准書または加入書が国際連合事務総長に寄託された日の3ヶ月後に効力を生じる。
2 10番目の批准書または加入書の寄託後に本議定書を批准しまたは加入書が寄託された日の3ヶ月後に効力を生じる。
第9条 本議定書の規定は、いかなる制限または例外もなしに、連邦国家のすべての地域について適用する。
第10条 国際連合事務総長は、規約第48条第1項に掲げるすべての国に次の事項を通報するものとする。
(a) 本議定書第2条による留保、通報および通告
(b) 本議定書第4条または第5条による宣言
(c) 本議定書第7条による署名、批准および加入
(d) 本議定書第8条による本議定書の効力発生の日
第11条 1 本議定書は、アラビア語、中国語、英語、フランス語、ロシア語およびスペイン語による本文をひとしく正文とし、国際連合に寄託される。
2 国際連合事務総長は、本議定書の認証謄本を規約第48条に掲げるすべての国に送付する。
[註]本議定書は通称「死刑廃止条約」と呼ばれている。 (『死刑廃止とキリスト教』から)
*                      *                      *
<アムネスティは、なぜ死刑廃止を求めているのですか?> 世界人権宣言の前文には、「人間社会のすべての構成員が生まれながらもっている尊厳と、平等で譲ことのできない権利を認めることは、世界における自由、正義そして平和の基礎である」と書かれており、 また第3条には「人は皆、生命、自由および身体の安全を守る権利を持つ」、第5条にな「人はだれも、拷問を受けたり、残酷で人道に反する、あるいは品位を傷つける待遇や刑罰を受けたりすることはない」 (訳文はすべて、アムネスティ・インターナショナル日本支部編『はじめてよむ世界人権宣言』<小学館>より)と明記されています。
 ここでいう人権とは、行いの良い人には政府から与えられ、悪い人の場合は取り上げられるようなものではなく、誰でも分けへだてなく生まれながらに所有するものなのです。 この「人権」の前では国家といえども、1人の人間に対して何をしてもよいというものではなく、さまざまな制約を受けます。
たとえば、罪を犯した人に対して国家が一定の処刑を科すこと、その人が罪に応じた処罰を受けることは一般的によしとされています。 罰金を支払って罪を償う(財産刑)、刑務所のなかで自由を制約される(自由刑)など、裁判の結果に不満かどうかはさておき、広く合意されている処罰だと思われます。
 では、みずから命を奪われる死刑(生命刑)はどうでしょうか。人としての権利のうち、財産や自由を刑罰によって制限されることはあったとしても、「基本的人権の原点である生命権」は何人も侵すことのできない権利です。 思想信条の自由や財産所有の権利など、すべての権利はこの生命権の上に築かれています。したがって、その原点である命を奪うことは誰にもできないのです。 そのできないことをしてしまった殺人事件の犯人には厳しい罰が与えられることになりますが、たとえ国家であったとしても犯人の命を奪う権利はありません。それが人権なのです。
 そもそも、「人を殺してはいけない」というルールを守るために、その罪を犯した人間に国家が「死刑」という殺人を行うのは矛盾しています。 たとえ凶悪といわれる罪を犯した人であっても、「人の命は尊く誰も命を奪ってはならない」と国が率先して主張しなければなりません。 「人の命は尊いのだ、どんな罪を犯した人の命も尊いのだ」という意識を拡げることが、今大切なのです。暴力は新たな暴力を呼ぶ、憎しみは憎しみを呼ぶ、というこの悪循環を断ち切る必要があるのです。
 これまで各設問で見てきたようの、「死刑」という刑罰は、一般に考えられている以上に多くの問題点をかかえている制度です。「死刑」は、人の命を国家権力が奪うという重大なことですから、一点のミスも許されません。 しかし、ミスのない「死刑」などというものがあるでしょうか。
 まず、裁判は裁判官・検事・弁護士という人間が行うものです。人間のやることに「絶対」はありません。これまでの記録から見ても、一審で無罪、二審・三審で死刑判決を受けた人がいます。 また、死刑と無期懲役の間で判決が揺れ動いた例もありました。人間の下す判決であるがゆえに「絶対」はないと考えれば、「絶対的な人の命」を誰も奪ってはならないのです。 また、死刑が執行され、その後真犯人が現れたとしたら取り返しがつきません。無実の人が法の名の下に殺されてしまうほどひどい不正義はありません。死刑制度があるかぎり、誤判による処刑の可能性は否定できないのです。
 さらには、人種的・民族的・宗教的な違いや対立などを理由に死刑制度が政治的な弾圧の手段として使われる場合もあります。
 アムネスティは、以上のようなさまざまな理由から、例外なくすべての死刑に反対しており、1977年にアムネスティが採択した「ストックホルム宣言」にもとづいて行動しています。 (『知ってますか?死刑と人権』から)
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<死刑廃止を推進する議員連盟設立趣意書> 今や世界は死刑廃止の流れの中にあります。既に90ヶ国が法律上または事実上死刑を廃止しており、先進民主主義国にあっては、唯一、日本と米国の36州のみが、依然として死刑を存置している状況となっています。 国連では既に2年前に死刑廃止条約が発効しており、日本も国際社会の1員としてこれを批准することが求められており、昨年11月には国連規約人権委員会が日本国に対して死刑廃止に向けて努力するよう勧告しています。
 日本にあっては、昨年、約3年4ヶ月間の死刑執行停止状態を破って、7名という近年まれにみる大量の執行が行われ、これを契機として国民の死刑制度に対する関心はにわかに高まり、いくつかの地方自治体では死刑廃止の決議がなされるに至っています。
 日本は正に死刑を廃止するか否かの重大な転換点にあるます。廃止国の多くでは、死刑の存置を支持する多数の世論に抗して議会が主導すて死刑の廃止を実現してきました。その歴史に鑑みますと、今や私たち議員の1人1人が、死刑制度について考え、決断することを求められています。
 死刑制度を廃止すべきか否か、そのために一定期間執行を停止すべきか否か、そして廃止に伴って新たな刑を導入すべきか否か等々、議員が国民に指針を示して議論をたたかわすべき時期にきています。 そのためには、先ず死刑制度を廃止することに関心のある議員が集まり、互いに意見を交換し、思索をめぐらすことが肝要です。
 そこで、超党派の議員により、死刑阿世度について議論し考察する場として、また国会において死刑制度を推進する母体として死刑廃止を推進する議員連盟の設立を提唱させていただくことになりました。
 私たちは、過去5度にわたって行われた議員の先輩諸氏の背刑廃止への試みを踏まえて、6度目の挑戦にとりかかりたいと考えています。
 右の趣旨を御理解いただき、多数の議員の方々の御参加をお願い申し上げます。
  平成6年4月6日
 死刑廃止を推進する議員連盟 設立発起人
  田村元、栗橋喬、猪熊重二、海江田万里、笹川尭、佐藤恵、志賀節、竹村泰子、田沢智治、高市早苗、田英夫、中野寛成、錦織淳、橋本敦、早川勝、二見伸明、正森成二
(『年報・死刑廃止「オウムに死刑を」にどう応えるか』から)
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<死刑執行停止法の制定を──日本弁護士連合会> 日本弁護士連合会(以下「日弁連」という)は、2002年11月22日、理事会において「死刑制度問題に関する提言」を全会一致で採択した。 その内容は、「死刑制度の存廃につき国民的議論を尽くし、また背刑制度に関する改善を行うまでの一定期間、死刑確定者に対する死刑の執行を停止する旨の時限立法(死刑執行停止法)の制定」を提唱するとともに、 死刑に関する刑事司法制度の改善、犯罪被害者・遺族に対する支援、被害回復、権利の確立などの取り組みを推進していく、というものであった。
 なぜ、日弁連は死刑執行停止法の制定を求めたか。そては何よりもまず、死刑判決にも誤判があることが明らかになったことである。 1983年からわずか6年の間に、4人の死刑確定者が再審で無罪確定によって死刑台から生還したことは、決して忘れてはならない事実である。 そしてわが国の裁判ではその後も冤罪が続いていたが、2005年4月4日には、名古屋高等裁判所が、33年前に死刑が確定した名張事件の奥西勝氏に対して再審を開始するに至った。 また、わが国の死刑制度は、正規に直面する者に対する権利保障が不十分で、誤判防止のための制度も欠如し、死刑の適用基準も不明確であって、さらに死刑確定者の処遇が非人道的であるなど、制度上、運用上に基本的な人権問題をかかえている。 日弁連は、かかる状況下において、死刑の執行はもはや許されないと考えるに至ったのである。
 死刑をめるる国際的潮流はどうなっているか。国連は1989年に死刑廃止条約を採択したが、それにより今日、死刑存置国75か国に対して、法律上ないし事実上の死刑廃止国は121か国・地域となっている(2005年9月現在)。 いわゆる先進国で死刑を存置しているのは、わが国とアメリカだけである。そのアメリカでも、12州とコロンビア特別区が死刑を廃止しているほか、現在、上下院の連邦議会に死刑執行停止法案が上程されて審議中であり、ABA(アメリカ法曹協会)は1997年に死刑執行停止を決議した。 そしてイリノイ州では2003年1月、拷問によって強制された自白が有罪の根拠となっていたとして4人の死刑確定者を特赦し、残りの167人を一括減刑するに至った。 アジアでも、カンボジア、東チモール、ブータンが死刑を廃止しているほか、韓国でも1998年以来、死刑の執行が停止され、国会において死刑廃止法案が審議されている。 今や死刑廃止、執行停止は世界的な流れになっていると言ってよい。これらの背景には、死刑問題というのは国家の刑罰制度の問題である以上に、人権と民主主義社会のあり方に関する基本問題であるという思想が横たわっている。
 わが国における運用はどうなされているか。国連の死刑廃止条約の採択や4大死刑再審無罪事件等の影響で、1989年11月から3年4か月間、事実上死刑の執行が停止された時期があったが、それ以後は、毎年、多い時で7人、少ない時で1人という形で死刑執行が継続されている。
 そうした中で、日弁連は、死刑という最も重いテーマを、日弁連最大の行事の1つである第47回人権擁護大会のシンポジウムで取り上げる決断をした。 私たち実行委員会は、これを受けて精力的な取り組みを展開してきた。本報告書に盛られているようなさまざまな内容の調査研究はもとより、全国9か所(札幌、仙台、埼玉、東京、名古屋、大阪、広島、松山、福岡)のおいてプレシンポジウムを開催し、多くの弁護士、市民とともにさまざまな角度から死刑問題を深めてきた。 その過程で「死刑廃止を推進する議員連盟」との連携も強めてきた。同連盟はは時化制度に関する法律案を国会へ提出すべく準備中である。
 死刑制度の存廃問題をめぐっては、その性質上、日弁連の内外において厳しい対立意見が存在していることは否めないが、最も大切なことは、1人でも多くの人がこの問題に真正面から向き合い、死刑執行停止状態の中で、活発かつ真摯な議論を重ねていくことであると確信してやまない。
 日本弁護士連合会が、死刑執行停止法の制定を提言するに至った経緯を、広く弁護士のみならず、学者・研究者、さらには一般市民に対して紹介しようとの意図のもとに本書の出版の企画が進められた。 本書は、シンポジウムにおける基調報告書をベースとして、死刑制度に関する基本的問題点を読者の方々に提示すること、および専門家や実務家の方々には、研究や刑事弁護実務に役立つ資料を提供することを目的としたものであり、本書が広く活用され、死刑制度問題に関する活発な議論が巻き起こることを切望するものである。
  日本弁護士連合会第47回人権擁護大会 シンポジウム第3分科会実行委員会 委員長 寺井一弘
(『死刑執行停止を求める』はじめに から)
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<主な参考文献・引用文献>
『死刑廃止とキリスト教』               死刑廃止キリスト者連絡会編 新教出版社    1994. 1.25
『知ってますか?死刑と人権』一問一答  アムネスティ・インターナショナル日本支部 解放出版社    1999.12.10
『年報・死刑廃止「オウムに死刑を」にどう応えるか』  年報・死刑廃止編集委員会編 インパクト出版会 1996. 5.10
『死刑執行停止を求める』                   日本弁護士連合会編 日本評論社    2005.12.25
( 2007年4月23日 TANAKA1942b )
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(6)人の生命は、全地球よりも重いか
残酷な死刑は廃止したい、という感情論

 今週は、日本評論社から出版された『死刑廃止を求める』からの引用を紹介する。この本には多くの人の主張が掲載されている。 その中から興味を引いたものをここに紹介しよう。
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<死刑はやはり廃止した方がよい=佐伯千仭> 現在わが国において死刑の存続を肯定する側の理論的な代表者としては、まず畏友竹田直平博士の名をあげるべきであろう。 博士によると、苟(いやしく)も一国の立法が、人命の尊厳と平等を保全しようとする以上、それは当然に、「私はあなたを殺さないことを約束する。 若しこの約束に違反してあなたを不法に殺すことがあれば私の生命を提供する」という社会契約を土台とし前提としなければならない。 しかるに、死刑の廃止を主張する人達は、「私はあなたを殺さないことを一応約束する。しかし、この約束に違反して、恣意的にあなたを殺すことがあっても、あなた達は、私を殺さないことを約束せよ」と要求していることになるのであって、全く筋が通らないといわれるのである (『刑法と近代法秩序』289頁以下、とくに319頁)。まことに説得的で、博士と同じ社会契約説の立場に立てば、これを論破することは難しい。
 それでは、死刑という問題は、殺人という犯罪がなくならない限り、なくなる見込みは全然ないのかというと、そうでもないのである。 今日すでに多くの国で刑罰としての死刑が廃止されているし、とくに1988年12月15日に国連総会で採択された第2選択議定書──正確には「市民的および政治的権利に関する国際規約(1966年12月6日、わが国は1979年に批准)の死刑の廃止を目的とする第2選択議定書── は多くの国によって批准されすでに発効しているのであって、現にわが国もその批准を求められているのである。国連までまったく筋の通らぬ矛盾をおかしているといってすますわけにはいくまい。問題は、もう少し別の角度から考えてみる必要があるように思われる。
 まず、前述の竹田説では、現に裁判の結果死刑に処せられる被告人が、そのような死刑にあたる犯罪を犯し有罪であることが間違いなく真実であると証明されていることが前提になっている。 ところで、有罪の証明とは、裁判官が証拠に照らして被告人が被害者を殺したに相違なく、その点について合理的な疑問を入れる余地がないと確信するということである。 しかし、その裁判もしょせん有限な人間による判断であるから、裁判官自身は疑いの余地がなく、有罪と信じて判決を下したとしても、時にはそれが間違っていることもある。 竹田博士もこのことを否定はされないけれども、ただそんなことはきわめて稀は例外中の例外であるから仕方がないとされるようであるが(前掲書325頁)、これはいかがなものであろうか。
 この誤判の問題は、死刑以外の懲役刑や禁固刑等の自由刑や罰金、科料等の財産刑の言渡についても生じ得る。しかし、それらの場合には、誤判とわかったところで、自由刑では前の有罪判決を取り消して受刑者の身柄を釈放して再び自由の身に立ちかえらせ、あるいは納めさせた罰金等を戻してやれば、何とか一応の取り返しがつく。 しかし死刑の場合には、いったん執行されれば、再び生き返らせることは不可能で絶対に取り返しがつかないのである。間違った、すまなかったといくら詫びたところで、処刑された人は生き返ってこない。 そんなことは滅多にない、まったく例外中の例外だし、秩序維持のためにはそれも止むを得ない犠牲として諦めろと突き離せる問題ではない。 竹田博士の死刑肯定論は、理論的にはまことに一貫しているけれども、この誤った裁判による不当な死刑の執行があり得るということに対しては少し冷たすぎるように思われる。(中略)
 天地自然の運行、あるいは神仏、全能者の摂理である因果応報には、このような間違いは有り得ないであろう。しかし、有限な人間の営みである刑事裁判──正確には警察や検察官の犯罪捜査、訴追から裁判官による刑事裁判の全過程を通じて──では、それにあたる人間達が主観的にはどのように誠実かつ勤勉であろうとも、このような誤判の発生する危険が至るところに孕まれている。 誤判など滅多にない例外中の例外だからやむを得ないものだといって黙殺し去るわけにはまいらないのである。むしろ人間は、人間としての有限性を自覚しその営みについて謙虚であるべきである。 絶対者あるいは神仏の摂理に属する「応報」の道理を人間が自らとり行うなどと思い上がるべきではない。誤りを犯しがちなわれわれ人間にはそんな資格はない。 それができると思うのは人間の思い上がりであるというのが、私の考えである。(中略)
 死刑制度の廃止に反対する人達は、自分自身はそんな死刑になるような犯罪など決して犯さないという固い信念の持ち主であろう。しかし、さきに引き合いに出した免田事件その他の再審で無罪になった人達も、事件に巻き込まれ刑事被告人にされるまでは、同じように自分は決して死刑になるような犯罪は犯さないし、そんな嫌疑を受けるようなこともないと信じていた人々である。 この人達は幸い再審で助かったが、そのように助からないで誤って死刑を執行されてしまった人が何人もいることであろう。同じような目に会わないという保障は誰にもないのである。
 このように間違えば取り返しのつかぬことになる死刑だけは、法の定める刑罰のリストから取り外しておくべきではあるまいか。
 [『死刑廃止を求める』・佐伯千仭(さえき・せんじん/立命館大学名誉教授)『死刑はやはり廃止した方がよい』から]
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<生命の尊重と死刑は両立するか=名和鐵郎> 「生命は尊貴である。1人の生命は、全地球よりも重い」。この言葉は、死刑の合憲性に関するリーディング・ケースとされる1948年の最高裁判決(最大判23年3月12日刑集2巻3号191頁)のなかで用いられたものである。 これを文字通りに解釈すれば、生命は無類の絶対的価値を有するから死刑制度も廃止すべきことになるはずであるが、結論的にはこの判決は死刑を合憲として死刑を容認している。 この判決には論理的な矛盾があることは明らかであるが、連続殺人・強盗殺人・強姦殺人・誘拐殺人など悪質な犯罪に直面する場合には、犯人の生命を尊重すべきか、死刑にすべきかという選択はたいへん困難な決断であろう。 それでは、今日における内外の動向に照らして、生命の尊重という理念と死刑制度とは両立し得るのであろうか。
 この点について、死刑を肯定する立場からは、生命の尊重といっても、他人の生命を奪いながら、その本人に生命だけは尊重されるというのでは、生命尊重の趣旨が一貫せず、被害者やその遺族を含め社会の納得が得られないばかりか、人殺しなどの悪質な犯罪を抑止する観点からも不都合であるといったことが強調される。
 [『死刑廃止を求める』・名和鐵郎(なわ・てつお/静岡大学教授)『生命の尊重と死刑制度』から]
<世論の支持を根拠に死刑を存置してよいのか?──変わりやすく、また不完全な世論の数字=園田寿> 89年の総理府世論調査によれば、死刑存置66.5%、廃止は15.7%である。廃止は確かに少数であるが、調査における設問の内容的問題を含めて、国民が犯罪状況についてどの程度の知識をもって回答しているかが問われるべきである。 たとえば、殺罪と強盗によって命を落とす人は年間数百人であるが、実際の死刑判決は年間数件であること、犯罪の総量は史上最高であるが、大半は窃盗と交通関係業過であり、殺人等の凶悪犯は減少傾向にあること、日本は先進国の中でも治安が極めて良好であるにもかかわらず死刑を存置している数少ない国の1つであり、世界から強く死刑の廃止を求められていることなど。 このような情報は国民一般にはほとんど伝わっていないと思われる。与えられる情報量によって、世論の数字は劇的に変化する可能性がある。
 刑罰制度が国民の支持を得ているこのは、刑罰の最も重要な条件の1つである。しかし、国民の多数が支持しているからといって、その刑罰制度が常に正しいとは限らない。かつてフランスが死刑を廃止した時(81年)には、存置62%、廃止33%であった。 変わりやすく、また不完全な世論の数字に、死刑存廃の議論は依拠すべきではないと思う。
 [『死刑廃止を求める』・園田寿(そのだ・ひさし/関西大学)『変わりやすく、また不完全な世論の数字』から]
<世論の支持を根拠に死刑を存置してよいのか?──生命の剥奪を国民の多数意志によって決することは許されない=三島聡> 国民の多数が死刑存置を支持しているからという理由で死刑制度を維持することは、一見民主的なようにみえる。 だが、本当にそうだろうか。国家が一部の国民ではなくすべての国民の利益のために存在すること、そして国民ひとりひとりの持つ利益が国政の上で最大限尊重されなければならないということが民主主義国家の大前提である。 そうだとすれば、生命はその人の生存の基礎であり、すべての生活利益の根源であるから、民主主義国家はこれをすべてに先んじて保護すべき任務を負っているはずである。 したがって、民主主義を標榜する国家が国民の生命を剥奪する権限を持つというのは、この任務に矛盾するといわざるを得ない。そしてこのことは、国民の多数が死刑の存置を望んでいるか否かに左右されるものではない。 なぜなら、世論によって死刑制度の存否を決することは、生命の存続・剥奪を多数決によって決めることを意味し、これは先の前提に真っ向から反するからである。 もちろん、死刑の廃止にあたっては、十分な情報提供を行って、多くの国民の支持が得られるようのするのが望ましい。しかし、その努力が未だ不十分だからといって、死刑を存置すべきだという理屈にはならない。
 [『死刑廃止を求める』・三島聡(みしま・さとし/一橋大学)『生命の剥奪を国民の多数意志によって決することは許されない』から]
<死刑廃止側から代替刑を提案する必要はない=白取裕司> 1981年のフランスの死刑廃止法は、わずか1箇条「死刑を廃止する」と規定するのみで代替刑や刑の均衡を図るための条項はなかった。 私が聞いたポワチェ大学(フランス)の刑法の講義では、死刑廃止法をこのようなシンプルなものにしたのは司法大臣パダンテール(当時)の卓見で、おかげで代替刑などの余計な議論を避けるころができた、と説明されていた。
 しかし、死刑復活論者からの攻撃は予想以上に強かった。1986年9月9日法律は、拷問を伴う殺人、15歳未満の少年や保護を要する者、司法官、陪審員、警官などに対する殺人に最大30年の保安期間(絶対仮釈放されない期間)を付すことを認めた。 さらに昨年12月、日本でも報道されたが、15歳未満の未成年に対し性的暴行などの残虐な行為を伴う殺人を犯した者に「真の終身刑」を創設する刑法一部改正案が成立し、本年3月から施行された。
 ここからが、私の意見である。私は、死刑廃止を主張する側から代替刑を提案する必要はないと考えている。理由は、そもそも一国の政策判断として死刑を存置すべきか否かという問題と、廃止と決定された場合の調整措置の問題とは、議論を混乱させないためにも区別すべきだからである。 日本が仮に死刑を廃止して、その後フランスのようにジリジリ後退を続けることになるか否かは、日本の社会ないし政治の成熟度合い次第といえよう。
 [『死刑廃止を求める』・白取裕司(しらとり・ゆうじ/北海道大学)『死刑廃止側から代替刑を提案する必要はない』から]
<死刑に代わる刑の在り方や制度の模索・検討を=中川裕夫> 死刑の代替刑については、@仮釈放のない完全な終身刑、A安易な仮釈放は運用の問題として解決されるべきで、現行法の無期懲役・禁固(団藤)、 B絶対的無期刑ではなく、再社会化の希望を確保しつつ、人格の破壊に至らないように、判決確定後最低15年または20年間は仮釈放を認めない仮釈放と連動した無期刑(大原)、 C刑の執行後20年を仮釈放起算日として社会感情が仮釈放を承認されうる必要条件とした特別の無期自由刑(加藤)等の見解があげられる。(中略)
 死刑に代わる刑罰として終身自由刑の導入を考える。恩赦により無期の懲役・禁固への減刑を可能とし、人間の尊重、再社会化・社会復帰を目指して処遇する。 また、犯罪被害者補償法を整備・充実して被害者や遺族の応報感情の緩和・解消や物的・経済的援助を行うべきことをも構想するものである。
 [『死刑廃止を求める』・中川裕夫(なかがわ・さちお/龍谷大学)『死刑に代わる刑の在り方や制度の模索・検討を』から]
<刑罰であることを否定する死刑=西嶋勝彦> 刑罰の究極にあるものは、犯罪者の社会復帰である。犯罪者も変わる。そこに犯罪者処遇の原点がある。釈放を予定されない犯罪者は、刑罰においては背理である。
 死刑は、変化とも、社会復帰とも無縁である。そこにあるのは報復思想のみである。
 戦争犯罪=戦争責任者に対して、最高刑の死刑が用意されることとは次元を異にする。人道に対する罪、残虐な他民族支配に対する国際的制裁として何を用意するのか。 被害の甚大さ、正義の貫徹の観点から、戦争責任者に死を求めるのである。それは刑罰ではない。国債法秩序の回復手段とととして責任、ケジメなのである。革命においても、類似の現象がみられる。
 たしかに社会には極悪犯罪もある。変化を期待することに躊躇を覚える殺人犯もいる。社会復帰のない刑罰、つまり仮釈放なき無期懲役刑を対置することによって死刑を回避することはできる。 それは妥協ではあるが、誤判を考えたときは、この刑罰も許容され得るであろう。(誤判の場合に「社会復帰」が可能となる点において刑罰の範疇に止まりうる)。
 [『死刑廃止を求める』・西嶋勝彦(にしじま・かつひこ/弁護士)『刑罰であることを否定する死刑』から]
<合意が得られる代替刑を=林田丞太> 代替刑を導くためには次の2点が重要と考える。第1に、受刑者を社会生活に適応できるよう改善し、彼らに社会復帰を期待する以上、受刑者に希望を失わせる刑罰であってはならない。 代替刑として説かれる終身刑はこの点から認め難い。第2に、凶悪犯罪の累犯者など改善困難な受刑者が存在するという事実である。
 これらの点を考えると不定期刑を導入すべきであろう。現行法の無期刑は運用上、受刑者の改善度合いにより、その多くは比較的短い期間での仮釈放が認められている。 このことは、無期刑が実質的に不定期刑としての内容をもつことを示している。
 そして不定期刑をとり入れた代替刑を簡略に示すと、無期刑の廃止に伴う次の案となる。
 ・死刑→25年以上の不定期刑。
 ・無期刑→15年以上25年未満の不定期刑。
 [『死刑廃止を求める』・林田丞太(はやしだ・じょうた/神奈川歯科大学)『合意が得られる代替刑を』から]
<終身刑も残酷だ=前野育三> (前略)死刑と無期懲役との落差があまりのも大きいので、死刑廃止時に、仮釈放の可能性のない文字どおりの終身刑で代替すべきだという意見もある。 私は、それには反対である。どんなに前非を悔いても、どんなに社会適応への能力をしっかりと示しても、刑務所から出されることがないというのは、やはり耐えられない残酷である。 受刑者が生きていて、日々その苦悩が観察できるだけに、その残酷さは耐えられないものとな、るであろう。観点を変えれば、殺してしまって、この苦悩を表現する機会さえ奪ってしまい死刑が、一層残酷であるのは、言うまでもない。 犯罪事件に関連して最も気の毒なのは被害者であるが、加害者に残虐刑を科したからといって救えるものでもない。
 [『死刑廃止を求める』・前野育三(まえの・いくぞう/関西学院大学)『終身刑も残酷だ』から]
<終身懲役刑の提唱=宮野彬> 死刑に代わる刑罰として「終身懲役刑」を提唱したい。これによれば、生涯、刑務所暮らしということになる。その実態は、(1) 仮釈放はない。(2) 恩赦の適応はない。 (3) 一生、刑務作業に従事する。(4) 刑務所から出られるのは獄死か自殺か再審による無罪のときのみ、ということで、「絶対的無期懲役刑」と呼んでもよい。 これに対して現行の無期刑は、仮釈放や恩赦などが認められるために、「相対的無期刑」と呼べるような内容のものとなっている。 「人を殺したら死刑になる」という意識に代えて、「人を殺したら一生刑務所から出られない」というのも、かなり犯罪の抑止力になるのではなかろうか。(後略)
 [『死刑廃止を求める』・宮野彬(みやの・あきら/明治学院大学)『終身懲役刑の提唱』から]
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<主な参考文献・引用文献>
『死刑廃止を求める』 佐伯千仭+団藤重光+平場安治・編著 日本評論社  1994.12.20
( 2007年4月30日 TANAKA1942b )
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(7)法曹界の死刑廃止論を聞いてみよう
誰も銀行強盗事件は予想もしていない

<死刑廃止論のイロイロ=『死刑廃止を求める』から> 先週、取り上げた『死刑廃止を求める』には、「私の死刑廃止論(意見集)」として多くの死刑廃止の意見が掲載されている。 先週取り上げたのはその一部なので、この他にどのような意見があるか、見出しと著者だけを抜き出して引用しよう。一部先週に引用した文章もあるので、それは先週分を参照のこと。
T 死刑廃止を目指して
「死刑はやはり廃止した方がよい」=佐伯千仭(さえき・せんじん/立命館大学名誉教授)  「死刑廃止論の出発点」=団藤重光(だんどう・しげみつ/東京大学名誉教授) 「死刑廃止を目指して──なぜ、今」=平場安治(ひらば・やすはる/京都大学名誉教授)
U 死刑廃止論の現在
「刑罰制度の本質を考える」=山中敬一(やまなか・けいいち/関西大学教授) 「生命の尊重と死刑は両立するか」=名和鐵郎(なわ・てつお/静岡大学教授) 「被害者(遺族)感情=応報=死刑に疑問がある」=高橋則夫(たかはし・のりお/東洋大学助教授) 「科学的証明がない死刑の犯罪抑止効果」=葛野尋之(くずの・ひろゆき/静岡大学助教授) 「死刑の存続は世論で決まる問題か」=平川宗信(ひらかわ・むねのぶ/名古屋大学教授) 「世界では死刑をどう考えているか」=辻本義男(つじもと・よしお/中央学院大学教授) 「誤判の可能性と死刑制度」=大出良知(おおで・よしもと/九州大学教授) 「「三重の残虐性」をもつ死刑の現実」=村井敏邦(むらい・としくに/一橋大学教授) 「死刑廃止論の現状と課題」=内藤謙(ないとう・けん/創価大学教授)
A−Q1 死刑は正義を守るという観点から必要か?
「近代自由刑の「正義」とギロチンの「正義」」=赤池一将(あかいけ・かずまさ/高岡法科大学)  「正義の意味も考えよう」=荒木伸怡(あらき・のぶよし/立教大学)   「正義を守るための刑罰としては、危険で不完全」=石原明(いしはら・あきら/神戸学院大学)  「正義を守るためにこそ死刑は不要である」=井戸田侃(いどた・あきら/大阪国際大学)   「死刑は廃止すべきである」=井上裕司(いのうえ・ゆうじ/名古屋経済大学)  「アルトゥール・カウフマンの批判」=上田健二(うえだ・けんじ/同志社大学)   「加害者と被害者(遺族)との共生」=岡田久美子(おかだ・くみこ/一橋大学)  「同害報復の理論は破綻している」=笠井治(かさい・おさむ/弁護士)   「応報的正義理念だけでは死刑を正当化できない」=島倉隆(しまくら・たかし/中央学院大学)  「死刑によって守られる正義とは?」=真鍋毅(まなべ・たけし/佐賀大学)   「正義の実現としての死刑は許されるか」=平田元(ひらた・はじめ/三重大学)  「人間の本質から正義と死刑を考える」=船山康範(ふなやま・やすのり/日本大学)  
A−Q2 他人の生命を尊重しない者に対しては、死刑によって生命の尊重を知らしめる必要があるか?
「生命への畏敬を否定しつつ生命の尊貴を知らしめようとは矛盾」=大國仁(おおくに・じん/海上保安大学)  「死刑はヒューマニズムに反する」=大嶋一泰(おおしま・かずよし/岩手大学)   「非難の対象そのものの抹殺より生涯かけての贖罪(悪の善用)を!」=恩田紀治(おんだ・のりじ/大阪府立岬高校)  「生命の尊重と死刑」=甲斐克則(かい・かつのり/広島大学)   「生を否定し死を無価値とする死刑制度」=河田英正(かわだ・ひでまさ/弁護士)  「三つの問題」=楠本孝(くすもと・たかし/中央大学比較法学研究所嘱託研究員)   「殺した者は殺されて当然か」=小西吉呂(こにし・よしろ/沖縄大学)  「死刑廃止を主張するということ」=高内寿夫(たかうち・ひさお/白鴎大学)   「死刑は生体の構造を否定する」=都築廣巳(つづき・ひろみ/東京電気大学)  「生命を尊重しない思想からのみ死刑は正当化される」=中村義孝(なかむら・よしたか/立命館大学)   「人間の尊厳を無視する死刑」=松原昌樹(まつばら・まさき/愛知医科大学)  「生命尊重のこころは、教育活動によって得られる」=山岸秀(やまぎし・しげる/立正大学)  
A−Q3 被害者(遺族)の問題をどのように考えるか?
「殺伐とした社会と死刑制度」愛知正博(あいち・まさひろ/中央大学)  「被害者感情は死刑を正当化するか」=安部哲夫(あべ・てつお/北陸大学)   「被害者(遺族)の救済を考えたい」=稲垣清(いながき・きよし/弁護士)  「死刑と被害者感情」=上田信太郎(うえだ・しんたろう/香川大学)   「死刑は被害者感情を癒していない」=菊田幸一(きくた・こういち/明治大学)  「「被害者感情」が可哀想だ」=酒井安行(さかい・やすゆき/国士舘大学)   「被害者(遺族)との連帯のために」=金澤文雄(かなざわ・ふみお/岡山商科大学)  「「仇討ち」を復活しよう」=佐藤直樹(さとう・なおき/福岡県立大学)   「被害者遺族救済の重要性」=佐藤美樹(さとう・みき/宮崎産業経営大学)  「遺族のためにこそ死刑廃止を」=沢登佳人(さわのぼり・よしと/白鴎大学)   「法制度としての刑罰」=城下祐二(しろした・ゆうじ/札幌学院大学)  「物質的・精神的救済が必要」=竹内正(たけうち・ただし/松山大学)   「二つの疑問」=立石雅彦(たていし・まさひこ/京都学園大学)  「現在の死刑制度は被害者感情を満足させるものではない」=立山龍彦(たてやま・たつひこ/東海大学)   「人の生命は、もっと尊い」=野々村路子(ののむら・みちこ/岐阜女子大学)  「死刑と被害者感情」=三井明(みつい・あきら/弁護士)   「被害者危機援護事業の必要性」=山口幸男(やまぐち・さちお/日本福祉大学)  「法そのものの自己矛盾」=鷲尾祐喜義(わしお・ゆきよし/立正大学)  
A−Q4 死刑は凶悪犯罪の予防に役立つか?
「死刑の威嚇力は迷信」=大野真義(おおの・まさよし/摂南大学)  「死刑を廃止しても凶悪犯罪は増加しない」=佐々木養二(ささき・ようじ/東北工業大学)   「「死刑」が削ぎ取る人権意識」=斎藤義房(さいとう・よしふさ/弁護士)  「死刑を廃止すれば凶悪犯罪は増加するのか」=前田忠弘(まえだ・ただひろ/愛媛大学)   「死刑のパラドックス」=増田豊(ますだ・ゆたか/明治大学)  「死刑の威嚇力は、一つの神話」=横山実(よこやま・みのる/国学院大学)  
A−Q5 世論の支持を根拠に死刑を存置してよいのか?
「死刑存続は「日本の為政者の方針」」=五十嵐二葉(いがらし・ふたば/弁護士)  「世論の中身は何か」=上口祐(かみぐち・ゆたか/南山大学)   「自己の信念に基づいて廃止決議を」=神山敏雄(かみやま・としお/岡山大学)  「変わりやすく、また不完全な世論の数字」=園田寿(そのだ・ひさし/関西大学)   「世論調査の結果は「市民の意見」か」=田村章雄(たむら・あきお/大学院生)  「主権者の良心に訴える」=福田育子(ふくだ・いくこ/甲南大学)   「世論の前提条件」=松原芳博(まつばら・よしひろ/九州国際大学)  「生命の剥奪を国民の多数意志によって決することは許されない」=三島聡(みしま・さとし/一橋大学)  
B−Q1 死刑は残虐な刑罰ではないのか?
「死刑の執行待ちの苦痛」=秋葉悦子(あきば・えつこ/富山大学)  「「人間の尊厳」を否定し、刑罰の目的を超えた残虐な刑罰」=石橋恕篤(いしばし・ただあつ/富山大学)   「残虐な刑罰であることを正しく認識」=石松竹雄(いしまつ・たけお/弁護士)  「今世紀中に終わらせたい」=覚正豊和(かくしょう・とよかず/明治大学)   「実効性のない刑罰法規」=北原康司(きたはら・やすのり/佐賀女子短期大学)  「「積徳」国家に向けて死刑廃止を」=門田成人(かどた・しげと/島根大学)   「死刑ほど血なまぐさい残虐な刑罰はない」=佐藤多美夫(さとう・たみお/駒沢大学)  「時代とともに変遷する残虐性の基準」=平野泰樹(ひらの・やすき/國學院短期大学)   「憐れみの情」=松生建(まついけ・はじむ/海上保安大学校)  「死刑は本当に合憲か」=吉利用宣(よしとし・もちのぶ/九州工業大学)
B−Q2 誤判の危険があっても死刑制度は許されるのか?
「誤判によってとり返しのつかないものは死刑である」=安里全勝(あさと・ぜんしょう/山梨学院大学)  「絶対的刑罰と相対的人間」=安藤博(あんどう・ひろし/茨城キリスト教大学)   「死刑存廃議論を契機に」=飯尾滋明(いいお・しげあき/松山東雲短期大学)  「刑事弁護の「空白」と一人の「いのち」」=石塚伸一(いしづか・しんいち/北九州大学)   「誤りをなさない人間はいないし、誤判のない裁判はありえない」=大久保哲(おおくぼ・さとし/筑紫女子学園短期大学)  「誤判にもとづく死刑は「生命の尊厳」に反する」=大塚祐史(おおつか・ひろし/海上保安大学)   「再審制度があるにしても、それが絶対的なものとはいえない」=大橋昭夫(おおはし・あきお/弁護士)  「死刑は絶対的回復不可能性を特徴とする刑罰」=川崎一夫(かわさき・かずお/創価大学)   「現実を直視して死刑廃止を」=川崎英明(かわさき・ひであき/東北大学)  「救済回復の道はない」=桑原洋子(くわばら・ようこ/龍谷大学)   「誤判の可能性と被害者・国民感情をどう考えるべきか」=繁田實造(しげた・じつぞう/龍谷大学)  「やり直しがきかない」=下村幸雄(しもむら・さちお/弁護士)   「死刑制度自体が、不要な死刑を創出していないか?」=田淵浩二(たぶち・こうじ/静岡大学)  「誤判の危険は死刑廃止の決定的論拠」=中田直人(なかた・なおと/茨城大学)   「人間の限界を超える死刑の廃止を求める」=長田秀樹(ながた・ひでき/創価大学)  「回復可能性がない死刑」=庭山英雄(にわやま・ひでお/専修大学)   「遺族の感情、死刑こそ残虐」=原田香留夫(はらだ・かおる/弁護士)  「誤判救済と死刑執行」=久岡康成(ひさおか・やすなり/立命館大学)   「死刑廃止は不正義か」=福井厚(ふくい・あつし/法政大学)  「生命刑としての死刑の特異性」=丸山雅夫(まるやま・まさお/南山大学)   「誤判の危険性こそが死刑廃止の理由である」=道谷卓(みちたに・たかし/関西大学)  「免罪を生む構造が未解体のままでの死刑制度は許されない」=三原憲三(みはら・けんぞう/朝日大学)   「制度として許容されるのは、「終身刑」とすべきである」=村上健(むらかみ・たけし/福島大学)  「誤判の危険がある裁判では、死刑制度を廃止する方向で考えるべきだ!」=山内義廣(やまうち・よしひろ/敬愛大学)   「裁判所に誤判の危険を回避しようとする真摯な態度が見られない」=山本正樹(やまもと・まさき/近畿大学)  「誤判と死刑は切り離せるか」=吉弘光男(よしひろ・みつお/かごや経済大学)  
B−Q3 死刑制度の実際の運用をめぐる問題は?
「議論を回避する姿勢」=指宿信(いぶすき・まこと/鹿児島大学)  「否定できない運・不運」=岩井宜子=(いわい・よしこ/専修大学)   「法相の義務とは」=新村繁文(にいむら・しげふみ青森大学)  「名古屋アベック殺人事件の傍聴席からみる死刑制度」=服部郎(はっとり・あきら/愛知学院だいがく)   「死刑制度の運用にも問題あり」=ホセ・ヨンパルト(José  Llompart/上智大学)  「偏見・不公平の介在を避けられない死刑制度」=松岡正章(まつおか・まさのり/甲南大学)   「死刑の「執行を待つ間」の非人間性」=水谷則男(みずたに・のりお/三重短期大学)  
B−Q4 死刑に代わる刑罰は?
「死刑廃止運動の一歩前進のために」=浅田和茂(あさだ・かずしげ/大阪市立大学)  「死刑廃止の実現を求めるなかで、これに代わるべき刑罰の探索は必要か」=上野達彦(うえの・たつひこ/三重大学)   「新に特別に重い無期刑を制度化する必要はない」=斉藤豊治(さいとう・とよじ/甲南大学)  「死刑廃止側から代替刑を提案する必要はない」=白取祐司(しらとり・ゆうじ/北海道大学)   「死刑に代わる刑の在り方や制度の検索・検討を」=中川祐夫(なかがわ・さちお/龍谷大学)  「刑罰であることを否定する死刑」=西嶋勝彦(にしじま・かつひこ/弁護士)   「合意が得られる代替刑を」=林田丞太(はやしだ・じょうた/神奈川歯科大学)  「終身懲役刑の提唱」=宮野彬(みやの・あきら/明治学院大学)   「死刑の法的正当性とは何か」=宗岡嗣郎(むねおか・しろう/久留米大学)  「新しい教育系の模索を」=水野益継(みずの・ますつぐ/琉球大学)  
B−Q5 死刑をめぐる国際的動向は?
「死刑廃止への着実な国際的歩み」=非嘉康光(ひが・やすみつ/立正大学)  「司法判断における国際的動向の注視」=山口直也(やまぐち・なおや/一橋大学)  
B−Q6 死刑廃止のとって今後の課題は?
「今や、決断のとき」=足立昌勝(あだち・まさかつ/関東学院大学)  「死刑廃止立法は国民の義務」=生田勝義(いくた・かつよし/立命館大学)   「権利(人権)のための闘争」=大野平吉(おおの・へいきち/専修大学)  「被害者感情をのりこえて死刑廃止を!!」=田中肇(たなか・はじめ/高知短期大学)   「死刑廃止は政治的決断」=寺島健一(てらしま・けんいち/創価大学)  「死刑問題の検討委員会の設置を」=中山研一(なかやま・けんいち/北陸大学)   「刑罰制度の矛盾と死刑廃止」=平澤修(ひらさわ・おさむ/中央学院大学)  「死刑廃止への実現方法」=八木國之(やぎ・くにゆき/中央大学) 「教科書の中の死刑問題」=吉田卓司(よしだ・たかし/西宮市立西宮高等学校)  
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<これだけ多くの人が発言して、銀行強盗事件は思いもつかないらしい> TANAKAの主張は、銀行強盗事件@ABの<人を殺さなくても実質的な死刑⇔人を殺してもシャバの畳の上で大往生>のようなことが起こるとしたら、死刑制度は存続させるべきだ、ということだ。 死刑が残虐だとしても、死刑が殺人事件の抑止力になるかならないか、いろんな意見があるとしても、現実に実質的な死刑が行われる現在、法体系として矛盾があってはいけない、ということだ。
 死刑廃止を主張し、それを正当化しようと、目標に向かってまっしぐらに理論を進めた結果、気配り半径が狭くなり、視野狭窄になっているのだろう。 育種学での用語、「雑種強勢」とか「自家不和合性」という言葉をイメージすると、法曹界の閉鎖性が感覚的に理解できる。
 「B−Q4 死刑に代わる刑罰は?」「死刑廃止側から代替刑を提案する必要はない」ということは、「とにかく今の制度はよくないから壊してしまえ」との主張になる。 「その後どのような制度になるのかは責任を持たない」ということは「暴力を使ってでも現政府を倒してしまえ。その後、誰がリーダーになろうとも──スターリンでも、ヒットラーでも、フセインでも構わない」。日本ではかつて、日本赤軍とか京浜安保共闘とかいうグループがあった。 今でもその考え方は法曹界の中に生きている。
 「A−Q5 世論の支持を根拠に死刑を存置してよいのか?」 ということは、「世論の支持を根拠にしてはいけない」と言いたいのだろう。では何を根拠にするのか? 「われわれ法曹界の専門家は物事を正確に判断できるが、一般人はそうではない。だから多数決原理は採用しない。われわれ専門家が集団を作って、あるいは政党=前衛党を結成して、無知な一般人を指導・教育しなければならない。 そうでなければ<愚衆政治>になってしまう」という主張になってくる。
 TANAKAは、<<デモクラシーとはひどい政治制度である.しかし,今まで存在したいかなる政治制度よりもましな制度である ウィンストン・チャ−チル   デモクラシーとは熱狂的な崇拝の対象になるような完全無欠な主義などではなく,政治的・経済的な個人の自由を保証するための 功利的な制度なのである フリードリッヒ・A・ハイエク>>との考え方を支持し、それが民主制度だと考える。 民主制度では、皆で十分討議し、最終的には多数決で結論を出す、というシステムになっている。その多数決での結論が必ずしも公平でない場合もあるかも知れない。 「六本木あたりのクラブで朝まで踊っていて、社会のことなんかまるで考えていないお姉ちゃんと、日本のこと真剣に考えているオレと同じ一票なのか?」との不満があっても、「稼ぎが悪くて、最低の税金しか払っていない人と、オレのように人の何倍もの税金を払って、日本社会に貢献している人間と同じ一票なのか?」と言っても、選挙では同じ一票。これが民主制度の基本だ。 たとえ「愚衆政治」と非難される可能性があるとしても、隠れコミュニストの描く前衛党が人民を指導する社会 よりも健全だと思う。
 この点に関してもう1つの見方がある。それは「死刑存廃を決めるのは世論ではなく、立法府=国会=国会議員である」ということだ。世論調査で死刑は存続さすべきだとなっても、日本では直接民主主義を採用しているわけではない、国民投票を行うわけではない、国会で刑法を改定すれば死刑廃止はできる。 本当は「国会議員が死刑は存続すべきだ、と考えている」からなのだ。ではなぜ世論調査が問題になるのか?それは、「国会議員は死刑廃止論者と議論をしたくない」からだ。「自分はこのように思う」とは言いたくなく、「世論が死刑廃止を望んでいない」と責任を世論にすり替えていると考えると分かりやすい。 なぜか?答えは「新興宗教の信者と神学論争はしたくない」。
 「死刑執行停止法の制定」という主張がある。これは、「法律を変えずに既成事実を積み重ねて実態を変えよう」ということだ。 日本では、「憲法で軍隊は持てないことになっているので、警察予備隊をつくろう」「反対が余りない。それならこれを保安隊に変えよう」「大丈夫。軍隊ではない、自衛隊をつくろう」 「野党の反対は少ない。自衛隊を海外に派遣しよう」「防衛庁では不満だ。防衛省に昇格しよう」と同じ考え方。
 かつてヒットラーもフランス・イギリス・アメリカの顔色を窺いながら東欧諸国に侵略を始めた。ムッソリーニも関東軍も同じ行動をとった。法曹界の中に同じ行動を取るべきだ、との主張がある。
 「死刑廃止への具体的な道筋」と題された項目はこの本にはない。そこで、TANAKAが廃止論者たちの意見をまとめてみた。
 法務大臣が就任したら「死刑執行命令書にサインしないで欲しい」と訴える。もしサインしそうなら「法務大臣は非人道主義者だ」と非難する。死刑判決が出ても執行されない死刑囚が増える(現在100人を超えた)「実際に死刑は執行されないのだから、死刑判決を出さないように」と世論に訴え、特に民間の裁判員を意識して訴える 裁判で、民間裁判員は死刑判決を出さなくなる「死刑執行停止法」という名の法律を制定し、死刑執行に厳しい条件を付ける「実際に死刑は行われないのだから、法律を現実に近づけて、刑法を改正し、死刑を廃止しよう」と訴える。
 簡単に言えば、「規制事実を積み重ねて、法律を現実に合わせる」こと。 法律というルールよりも既成事実を重視するやり方。これが死刑廃止論者たちの主張を要約した「死刑廃止への具体的な道筋」だ。 こうしたやり方、日本では政治の分野で行われていた。
 憲法9条に次のようにある。
 日本国憲法 第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 (2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
 このように、日本では軍隊を持つことができないことになっている。そこで、「警察予備隊」をつくろう。これなら反対者も少ないだろう。 警察予備隊に対する反対は少なかった。これなら、「保安隊」に名前を替えても野党の反対は国民に支持されないだろう。思った通りだ。これなら一気に、軍隊ではない「自衛隊に変えよう」。 せっかくアジアでも有数な強力な戦力になったのだから、海外へも派兵できるようにしよう。海外でも活動も定着した。これを機会に「防衛庁」から「防衛省」に昇格させよう「国民のみなさん、自衛隊はこのように日本に定着しました。 憲法を現実に合わせて「改正」しましょう」
 日・独・伊の軍指導者たちは先進国の顔色を窺いながら、植民地政策を拡大していった。政府自民党は国民の顔色を窺いながら、憲法9条を既成事実を積み上げて改定しようとする。 死刑廃止論者も、法律を軽視し、既成事実を積み上げて「死刑廃止」を実現しようとする。法曹界の業界人が法律を軽視し、既成事実の積み上げでルールを変えようとしている。
 いたずらっ子が悪さをしている。周りの人たちは「とにかく戦争はいやだ」「争いごとは起こしたくない」と誰も注意しない。いたずらっ子はいい気になって悪さを続ける。その内に取り返しのつかない犯罪を犯してしまう。いたずらっ子を思い上がらせ不良少年にしてしまった、感情に溺れ「宥和策」しか選択しなかった国民・政府にも反省の余地はある。 法曹界はどうなのだろう?誰も、「法律を軽視し、既成事実の積み重ねで、世論とは違う結果をつくろう」との、いたずらっ子に対して「法律は尊重しなければいけませんよ。たとえ、悪法だと思っていても、国民みんながそれに従っているのだから、法律を守る業界の人間ならなおさら、法律を尊重しなさい。既成事実を積み重ねてルールを変えようなんて姑息な手段はやめなさい」と忠告はしないのだろうか?
 法曹界の専門家であっても、銀行強盗事件を想定することはできない。脇目もふらずに「死刑廃止」を唱えていると、視野が狭くなり、法律家から宗教家になる。専門家以外ではユニークな見方をする人たちがいる。 裁判員制度に関して「陪審員は忠臣蔵をどのように裁くか?」とか、「死刑が廃止されると、必殺仕事人稼業が栄える」とか、「仇討ちが合法化されるとどうなるか?」など、法曹界の匂いのしないところからユニークな発想が生まれている。 規制を緩和して、ロースクールなど止めて、新規参入を促した方がよさそうだ。
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<主な参考文献・引用文献>
『死刑廃止を求める』 佐伯千仭+団藤重光+平場安治・編著 日本評論社  1994.12.20
( 2007年5月7日 TANAKA1942b )
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(8)殺人犯でなくても、実質的な死刑は必要 
銀行強盗以外のケースを想定する

 TANAKAは「死刑制度は存続させるべきだ」と主張する。その根拠として、銀行強盗の例を挙げた。けれども「このような銀行強盗はめったに起きない。 (このように書いたけれど、2007年5月1日、名古屋で大阪国税局の職員が、とても成功しそうもない銀行強盗を働いた。これを例外として扱う) そうした、めったに起きないことを例に主張するのは説得力がない」と反論するかもしれない。確かに、最近はこうした銀行強盗は起きていない。 金融機関への強盗事件は、@特定郵便局への強盗事件。A現金輸送車への強奪事件。この2つのようだ。そこで、初めに挙げた銀行強盗とは違った例を挙げて、「死刑制度存続論」を主張しようと思う。 ただしこれらはすべてフィクションです。「死刑制度存続」を主張するために考え出した作り話です。
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<小学校乱入殺傷事件@> 2001年6月8日午前10時過ぎ、大阪市の小学校に男(当時37歳)が車で乗り付けて乱入した。 男は包丁を振り回しながら、1・2年生の教室に乱入し、1・2年生の児童8人を包丁で切りつけて死亡させ、児童13人と教員2人に重軽傷を負わせた。
 午前10時半頃、事件を聞いて駆けつけた教諭2人が男を取り押さえ現行犯逮捕し、駆けつけた警察官に男の身柄を引き渡した。
 大阪地検は2001年9月に殺人・殺人未遂・住居侵入・銃刀法違反の容疑で男を起訴。 男は、公判では遺族感情や世論を逆なでするような暴言を繰り返し、反省の弁などを述べることはなかった。 2003年9月、被告人宅間某への死刑判決が確定した。
(T注)これは死刑制度が存続していた時代のできごと。その後、死刑廃止論者の活躍や市民運動の活発化によって死刑が廃止された。
<小学校乱入殺傷事件A> 現在小学校の校門に警備員が立哨しているところが多い。これは小学校に暴漢が乱入して児童・生徒が被害を被った事件が起きたからだ。 小学校が児童・生徒にとって安全な場所ではない、というショッキングな出来事が各地で起きた。ここで取り上げる事件はこうした事件の多発から学校・警察が神経質になっているときに起きた。
 まだ警備員が配置するなどの対策が取られていないときのこと、授業中に男が小学校に入ってきた。先生・生徒があっけにとられて見ているうちに、男は1年生の教室に入ってきた。 先生が「授業中です。出ていって下さい」と言うと、男はいきなり刃物を取り出し、子どもたちに斬りつけてきた。アッという間の出来事で、逃げる間もなく数人が斬りつけられ、血を流し始めていた。 騒ぎを聞きつけて職員室から教師が集まってきた。放っておく訳にはいかない。若い先生が暴漢に飛びかかっていった。倒れながら暴漢は先生を斬りつけた。他の先生も飛びかかって暴漢を取り押さえる。 ここに暴漢は先生たちに逮捕された、しかし、児童3人が死亡し、最初に暴漢に飛びかかって行った若い先生は、暴漢に斬りつけられ救急車で病院に運ばれる途中で息を引き取った。
 死刑制度が廃止されたために、先生たちに逮捕された暴漢に対し、検察は無期懲役を求刑した。世間では、「無期懲役が宣告され、真面目にやっていれば、15年ほどで仮出所になり、最後は畳の上で大往生を遂げるだろう」と噂した。
 教訓 民間人は現行犯逮捕に協力するよりも、兎に角「三十六計逃げるにしかず」をモットーとすべし。こう考えるようになってしまう。
<小学校乱入殺傷事件B> 上記事件があってからしばらく後のこと、別の地方で、同じような事件が起きた。この時は、警察官が小学校を回って、状況調査をしていた。 この学校では、不審な動きは感じられないか?もしもの場合の対策はどうなっているのか?警察への通報体制はできているのか?などを調査に来ていた。 そうした状況の下で事件は起きた。
 今度の暴漢は6年生の教室に入ってきた。刃物を振り回す暴漢に対し先生・生徒は抵抗した。机の上の、文房具、カバン、椅子などを暴漢に向かって投げ始めた。 先生は「危ないから、逃げるように」と指示したが、生徒の抵抗は続いた。騒ぎを聞きつけて、職員室にいた警察官も到着した。そのとき生徒の1人が暴漢に捕まった。警察官が「生徒を放しなさい」と言いながら、空に向かって威嚇射撃をした。 一瞬ひるんだ暴漢だったが、別の生徒を捕まえた。警察官は暴漢の足を狙って拳銃を発射する。足に当たって、暴漢は手を離したが、また別の生徒の腕を掴んだ。 警察官は、これっかぎりと、暴漢を狙って撃つ。ここに日頃の訓練の成果が発揮された。一発で暴漢は倒れた。暴漢は実質的な死刑になった。
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<ストーカー殺人事件@> 1999年10月26日午後12時53分頃、S県O市のJRのO駅前の路上で自宅から乗ってきた自転車に鍵をかけようとしていた女子大生(21才)が、突然男に背中と胸部の2ヵ所を鋭利な刃物で刺された。 通行人らが女子大生を介抱したが即死状態だった。目撃者の証言によると犯人は女子大生を刺した後、ニタっと薄笑いしながら逃走したという。
 この事件は、女子大生とつき合っていた男が、だんだん異常な行動を見せ暴力を振るうなどしたことから、女子大生は別れ話を切り出すが、男は家族に危害を加えるといった脅迫をし交際の続行を強要。 その後も女子大生に対する脅迫・ストーカー行為が続いた。警察署に相談に行ったが、「民事不介入」を理由に、O署は全く取り合わなかった。女子大生とその家族に対する脅迫は続いた。そうした状況での殺人事件であったので、犯人はすぐに特定できて逮捕された。 裁判では犯人が無期懲役になり、見張り役の共犯者は懲役15年の刑が確定した。遺族は警察の怠慢を訴え裁判を起こした。 このS県(S県警)に対する国家賠償請求訴訟の判決で、S地裁は、「捜査怠慢」を認め計550万円の支払いを命じた。
<ストーカー殺人事件A> ストーカー殺人事件後、民間の警備会社にボディーガードを依頼するケースが増えた。このケースでは、ガードマンがほんのちょっと油断した隙に、女子大生がストーカーに刺された。 警備員が大声で「ストーカーだ」と叫び、犯人を追いかける。通行人が気づき犯人に飛びかかった。しかし、犯人は飛びかかった通行人を斬り、さらに逃走する。 しかし、人通りの多い道で、多くの人が犯人を捕まえようと取り囲んだ。犯人はさらに1人を切ったが、多勢に無勢、警備員に逮捕された。
 犯人は女子大生を含め3人を殺害した。この被告人に対する判決は死刑ではなく無期懲役であった。 判決が言い渡されたとき、傍聴席には被告に殺された犠牲者の遺族が涙を流して判決に聞き入っていた。 そして裁判官専用の出入り口から裁判官たちが退廷し始めたその時、 「裁判長!あなたは人殺しの味方なのですか?」という声が法廷中に響いた。罵声だった。裁判官たちが罵声を浴びせられたのであった。
<ストーカー殺人事件B> 上記ストーカー事件と同じような事件が起きた。警備員の「ストーカーだ!」の叫び声に多くの通行人が気づき、犯人を取り囲んだ。 犯人はそれでも通行人の1人を掴んだ。手には刃物を持っている。通報により警察官が到着した。「近寄るな!」犯人の叫びで警察官の動きが取れない。「無駄な抵抗は止めなさい」との警察官の声は無視された。「近寄るな!近寄ると殺すぞ!」。 そのように叫びながら、捕まえた通行人の腹を刃物で刺した。通行人はもがくが逃れられない。警察官は銃を構えているが撃つことはできない。後ろから若い男が犯人に近づいた。「近寄るな!」と叫び、犯人は別の刃物をその若い男に投げた。刃物は足に刺さった。 通行人を捕まえたまま、犯人は車道の方に行く。そこには大型バイクがエンジンかけっぱなしのまま、置かれていた。それで逃げようとするに違いない。 ここで逃したら捕まえられなくなる。その時、通行人は思いきり犯人をけ飛ばし、犯人から逃れた。その時警察官の銃口が火をふいた。 ストーカーは実質的な死刑になった。
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<世田谷一家4人殺人事件@> 警察は事件が起こるまでは、「民事不介入」を理由に、事件を未然に防ぐことはしない、ということがハッキリした。 そこで、ストーカー殺人事件以後に民間の警備会社にガードマンを依頼するケースが増えた。この事件も、民間のガードマンが登場する。
 中堅企業社長宅が正体不明の人間に脅迫され始めた。長女の女子大生がストーカーにつけ回され、嫌がらせ・脅迫電話がかかるようになった。この家では民間の警備会社に夜間、自宅を見張って貰うよう「私邸警備」を依頼した。
 高級住宅街・世田谷区上祖師谷の社長宅の玄関先に警備会社の乗用車を停め、警備員2人が夜間警備に当たることになった。2人の警備員は交代で仮眠し、警戒に当たった。2000年12月30日の夜、警備員Aは社長宅の異変に気づいた。 夜中の11時半頃、あちこちの部屋の電気がついたり、消えたりした。警備員Aは仮眠中の警備員Bを起こして家を調べに行った。正面玄関の鍵は掛かっていたが、裏口・勝手口の鍵は掛かっていない。すぐに車に戻り、警備員Bに「コントロールセンターに連絡するように」と言い、 再び勝手口に向かう。静かに扉を開ける。電気がついている。そっと入ると、居間に人が倒れている。よく見ると血を流して死んでいる。そこに警備員Bも入ってくる。 2人で家の中を調べると、台所に男がいた。見つからないように見ていると、男は冷蔵庫にあったアイスクリーム3個とメロンを手づかみで食べ、ペットボトル2リットルを一気飲みした。
 警備員Bはコントロールセンターに事情を連絡し、110番通報するよう要請した。男が気づいた。警備員Aは大声で「こらー、何者だ!」と怒鳴る。血の付いた出刃包丁を振り回す男に対し、警備員は警戒棒で応戦する。 警備員Bが足を切られた。警備員Aの動きが鈍くなる。そこに連絡を受けた警察官が到着した。「無駄な抵抗はやめろ」との警察官の声に男はひるんだ。そのとき、警備員AとBが飛びかかり男を押さえつけた。しかし、若い警察官が手錠をはめようとした一瞬に、犯人の刃物が若い警察官を刺した。 すぐにもう1人の警察官が手錠をはめ、現行犯逮捕した。刺された警察官は救急車で運ばれた病院で息を引き取った。
 室内を調べると、社長は、首や腕など数個所刺され階段の下で死亡。妻の泰子さんと女子大生は2階の階段近くで、数箇所刺されて死亡。礼ちゃんは3階の屋根裏部屋の寝室のベットで窒息死していた
 4人を殺害した男は、無期懲役の判決を受け、その後仮釈放になり、刑務所を出て、最期は畳の上で大往生を遂げた。
 2人の勇敢な警備員のお陰で、男は実質的な死刑にならずに済んだ。そして、若い警察官は自分の命と引換に犯人が実質的な死刑になるのを助けたのだった。
<世田谷一家4人殺人事件A> 上記、世田谷の1家4人殺害事件、最期の警察官が到着してからが違っていたらどうなるか?
 警備員Bが足を切られた。警備員Aの動きが鈍くなる。そこに連絡を受けた警察官が到着した。「無駄な抵抗はやめろ」との警察官の声に男はひるんだ。 しかし、男は警備員Bの足をさらに刺し、警備員Aの足も狙う。警察官は威嚇射撃をする。男はかまわず警備員Aに向かい、警備員Aの足を刺した。「離れろ!」警察官が叫んだ。 警備員Aは倒れながらも男から離れた。その瞬間、警察官は狙いを定め引き金を引いた。男は実質的な死刑になった。
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<9.11同時多発テロ以後> 2001年9月11日、アメリカで同時多発テロ事件が起きた。これ以後テロ対策が強化された。 もし旅客機がハイジャックされ、テロリストが政府重要施設に向かうことが推定されるようになったら、その旅客機は撃墜されることになる。 国家権力は殺人犯を死刑にするし、殺人未遂犯をも実質的な死刑に処することがあるし、そうして、全く罪のない民間人をも殺さなくてはならない時が来るかも知れない。 こうしたルールから目を逸らして「死刑制度」を論じることはできない。
 日本政府が「1人の生命は、全地球よりも重い」と言って日本赤軍の要求を受け入れたために、以後どのような事件が起きたかについては <人の命は地球より重いのか?>を参照のこと。
<国家権力は犯人を殺さなければならない> 死刑廃止論の主要な論点は「人を殺すのはよくない。国家権力が人を殺すのはよくない」ということだ。 しかし、見てきたように、「国家権力は、その権力故に、人を殺さなければならないときがある」ということに気づかなければならない。 死刑が廃止されると、法体系として大きな矛盾が生じる。ありとあらゆるケースを想定して法体系を整えなければならない。素人がいろんな意見を言うことは大切なのことであるけれど、専門家である法曹界の人は、それらを聞きながらも、法体系として矛盾のないものに整えなければ、専門家とは言えない。 法曹界の業界人が素人のレベルで発言するのを見ると悲しくなる。
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<主な参考文献・引用文献>
( 2007年5月14日 TANAKA1942b )
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(9)1人の生命が重いからこそ死刑制度を
軽いのなら関係者同士で仇討ちを

 死刑廃止論の理由の1つに「生命は尊貴である。1人の生命は、全地球よりも重い」から死刑は廃止すべきだ、というのがある。 「これを文字通りに解釈すれば、生命は無類の絶対的価値を有するから死刑制度も廃止すべきことになるはずである」と死刑廃止論者は主張する。しかしそれは間違っている。 「生命が重いからこそ、その生命を奪う者には毅然とした態度をとるべきだ」という論法が正しい。しかしこれだけの説明ではなかなか納得しないかもしれない。そこで、反対のことを考えてみよう。つまり「人の生命なんて、社会に大きな影響を与えるほどでない人のために国家が多くの費用を払う必要はない」となったらどうなるか、ということだ。 たとえば日本国家に特別必要な人間はともかく、それほどでない人間が殺されたとする。型どおりの捜査はするが、犯人が特定できなければ捜査本部はすぐに解散する。そして警察は声明を発表する。「これで捜査は打ち切る。後は関係者で捜査するように。犯人が特定できたら、国家は、<仇討ち許可証>を発行する」と。
 このシリーズの最初に取り上げた「銀行強盗事件」、射撃手が犯人を射殺する正当性は何か?1人の生命が重いから、「1年前のようなことになってはいけない。何としても犠牲者を出さないようにしなくては、そのためには、惨いようだけれども犯人を射殺すべきだ」となったはずだ。 もし、そうではなく、「銀行員や利用客の1人や、2人の生命は奪われてもしようがない」ならば、時間をかけてでも犯人の説得にあたり、狙撃手の日頃の訓練の成果を見せる必要はなかった。
 もし、1年前の事件があっても、警察がなかなか犯人を撃たなければ、「警察は1年前の事件を忘れたのか!犠牲者が出てもいいのか!人1人の生命はそれほど神経質になるほどは重くないのか!」との批判が出るだろう。
 特に、赤井vs大和の対話の例では、ハッキリするはずだ。それでも、「犯人の生命も尊重すべきだ」との趣旨の発言をするとしたら、それは人権主義ではなくて、単なる臆病、でしかない。優柔不断で事なかれ主義で。厳しい現実から常に目を逸らそうとしているに過ぎない。
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<臆病主義がヒットラーの暴走を許したのだった!>  「とにかく戦争はイヤだ」と臆病主義に徹して歴史に大きな汚点を残したのが、1938年9月29日、30日のミュンヘン会議だった。 これについては<日本の安全保障 軍事介入の政治経済学>で書いた。その一部をここに転載しよう。
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<チェンバレンの誤算> 1938年9月30日の朝、深刻な意見の対立が生じていたイギリスへ帰る直前に、ネヴィル・チェンバレンはヒトラーの説得に成功し、英独不戦条約の調印にこぎつけた。これこそ、ドイツからロンドン郊外クロイドン空港に戻ってきた飛行機のタラップを降りるとき、チェンバレンが高々と振ってみせた有名な1枚の紙切れである。待ちかまえていた記者団のマイクロフォンとニュース映画のカメラの前で、チェンバレンはその文面を読み上げた。彼が下院で再び条文を読み上げたとき、一部の人びとを除く全員がさしあたり戦争の心配はなくなったとして胸をなでおろした。この条約の内容は、次のようなものだった。
「ドイツ国総統兼首相とイギリス首相は、本日新たな会談にのぞみ、英独関係こそ両国およびヨーロッパにとって第一義の重要性をもつという点で見解の一致を見た。
「われわれは、昨夜調印した協定ならびに英独海軍協定を、二度と英独が戦うことがあってはならないという、両国国民の希望を象徴するものと見なす。
「われわれは、両国にかかわる他の問題が生じた場合にも、協議という方法でその解決にあたることを決意し、また将来に禍根を残しかねない要因を除去すべく、両国がひきつずき努力することによって、ヨーロッパの平和の確立に貢献できるものと考える」
 だが、1年とたたないうちに、ドイツとイギリスは交戦していた。
 ミュンヘン協定は、ヒトラーの最大の勝利として世界に宣伝された。イギリス議会ではチャーチルとアンソニー・イーデンとダフ・クーパー(これほど恥ずべき行為には賛同しかねるとして、海軍大臣を辞任した)が、これを痛烈に非難した。中央ヨーロッパにおけるフランスの立場は、あっという間に弱くなってしまった。「ボヘミアを制する者がヨーロッパを制す」という言葉がある。そのボヘミア----チェコスロバキア----は、国境の防御を剥ぎ取られ、同盟国もなく、まさに無防備な状態で、いまやヒトラーの手中にあった。プラハの市街を行き交う人びとは、衝撃と失望の色を隠せなかった。 フランスのM・ダラディエ首相は、ミュンヘン協定の締結をみじめな敗北と思うあまり、ミュンヘンから戻ったとき、ル・ブールジェ飛行場に出迎えた群衆を、抗議に集まった暴徒の群れと勘ちがいしたという。
(「第二次世界大戦はこうして始まった」ドナルド・キャメロン・ワット著 鈴木主税訳 河出書房新社 1995.6.23 から)
 当時、ヒトラー、ムッソリーニに対する当事者=チェンバレン、ダラディエが宥和策をとり、政権から遠い人が強攻策を主張した。フセイン政権に対するブッシュ大統領の強硬策とは逆。こちらはアメリカ、イギリスが強硬派、フランス、ドイツ、ロシアが宥和策派、そうして政策決定とは遠いところにあり、結果の責任を問われない市民、マスコミが宥和政策を強く主張した。
 ところで当時のアメリカはというと、1937年から40年までジョン・F・ケネディの父、ジョセフ・P・ケネディ(Joseph Patric Kennedy 1888-1969)が駐英大使を勤めていた。そしてミュンヘン宥和策を支持したとして批判されている。
<「ぶれてはだめよ、ジョージ」>
毎日新聞のコラムに興味深い文があったので一部引用しよう。
 英国政治史上最悪の失策を犯した指導者は?――と問われたら大半の英政治家は「チェンバレン首相」の名を挙げるらしい。 ナチス・ドイツとの戦争を回避するために、ひたすら譲歩(宥和(ゆうわ)政策)してヒトラーを増長させた。揚げ句の果ては第二次大戦だ。「すべてお前のせいだ」と指弾され、失意のまま政界から消えた。 英政界では「第二のチェンバレン」というレッテルは、死の宣告に等しい。90年湾岸危機の際、サッチャー英首相がブッシュ父米大統領に「ぶれてはだめよ、ジョージ」と強い態度を曲げないように助言したのもそのせいか。 ( 毎日新聞「余禄」2003年3月2日から)
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<臆病主義が日・独・伊の3国同盟を許した>  第1次世界大戦後から第2次世界大戦に至る過程で、象徴的な出来事が<ミュンヘン会議>であった。そして「臆病主義」は徹底していて、 日・独・伊の新興殖民地主義国の台頭を許すことになってしまった。これに関しては<フランス政治の混乱>を参照のこと。
 日・独・伊の新興殖民地主義国の台頭を許すことになってしまったことに関しては、<いたずらっ子が不良になる>と題して次のように書いた。
 いたずらっ子が悪さをしている。周りの人たちは「とにかく戦争はいやだ」「争いごとは起こしたくない」と誰も注意しない。いたずらっ子はいい気になって悪さを続ける。その内に取り返しのつかない犯罪を犯してしまう。いたずらっ子を思い上がらせ不良少年にしてしまった、感情に溺れ「宥和策」しか選択しなかった国民・政府にも反省の余地はある。
 フセイン政権が続いていたらどうなったであろう?国連の査察団に適当に対応しながら、「わが国は十分制裁を受けた。これからは主権国家として自国の平和と安全に責任を負うことを宣言する」と、大量破壊兵器を開発した時点で表明したに違いない。
 拡散した核を元に戻すのは不可能、まるでエントロピーのようだ(熱力学の第2法則)。かつて一部のマスコミが「地上の楽園」と呼んだ彼の国、核保有国となったらアジア軍事情勢はどう変わるだろうか?1962年10月16日からのキューバ危機 (Cuban Missile Crisis)が思い起こされる。「とにかく戦争はいやだ」との市民感情では対応できない危機になることは間違いない。
<第1次世界大戦の人的被害の大きさは……>  第1次世界大戦による人的損失を正確に計算することは困難である。その理由は、この時代のデータにあまり信頼性がないばかりではなく、戦争そのものによる死者は、記録された死者の総数のわずかな部分しか占めていないからである。 戦場よりも、飢餓と疾病あるいは内戦のために死んだ人の方が多かった。しかも、戦争のために出産が低下し、人口が減少したことについて基づいて作成されなければならなかった推計もある。ロシアの統計は、悪名高いまでに解釈が困難である。
 戦争そのものによる死者は、相対的に極めて少なかった。戦争中に、約8,500万人(ロシアの推計も含めて)が従軍中に死んだ。すなわち、徴兵により動員された人々のおよそ15%にあたる。 これは、ヨーロッパの総人口の2%未満であり、男性の総労働力のおよそ8%に相当した。さらに、約700万人の人々が生涯身体障害者になった。それに加えて、1,500万人が相当程度負傷した。
 戦闘員が最大の被害を被ったことは疑えないが、死者の数には相当違いがあった。最も死者が多かったのはドイツとロシアで、それぞれ200万人と170万人であった。 フランスは140万人、オーストリア─ハンガリーが120万人。英国とイタリアは、ほぼ75万人。小国では、ルーマニアは25万人、セルビアとモンテネグロは32万5000人が死亡し、重大な被害を受けた。 しかしながら、大抵の場合、人口の比率に与えた影響は極めて小さかった。大国の中で、フランスが最大の減少を被り、戦闘行為により人口の3.3%を失った。 ドイツはそれとあまり変わらず、3%であった。たの大抵の国は、2%以下であった。実際、相対的には、小国の方が、最悪の事態になるのが一般的であった。たとえばセルビアとモンテネグロは人口の10%を失った。
 もちろん、死者の絶対数そのものよりも、それが与えた衝撃の方が大きかった。なぜなら、死者の大半は人生の盛りに命を奪われたのであり、それゆえ労働力の中で最も生産的な部分を構成していたからである。 ここでドイツを引き合いに出そう。死者の40%が20〜24歳の年齢層であり、20〜30歳の年齢層は63%であった。フランスもドイツも、男性労働力の約10%を失った。イタリアは6%、英国は5%であった。 他方、無情なことのように思われるだろうが、両大戦間期に雇用機会が制限されたことを考えると、このような死者数は、不幸に見えるが、実際にはある種の天恵であったかも知れない。 (『20世紀のヨーロッパ経済』から)
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<東条英機を死刑にしたのは間違っていた?>  『ヒットラーでも死刑にしないの?』と題された本があり、著者は次のように書いている。
 「今まで、そんな場合について考えたことがありませんでした。言われてみると本当に、ヒットラーも死刑にしないのは、なんだか割り切れない気がします。 けれども、さっきお話したとおり、どんな人であれ、任意に殺す権利は誰にもない、と思います。ヒットラーは憎むべき存在ですけれど、それでもやっぱり、死刑にしないほうがいい、と私は思います」
 この考えに従えば、フセインの死刑には反対だし、チャウシェスク元ルーマニア大統領を殺したのも間違っていたし、東京裁判で東条英機以下7名が死刑になったことにも反対という「東京裁判批判派」なのだろう。
 英国政治史上最悪の失策を犯した指導者は?――と問われたら大半の英政治家は「チェンバレン首相」の名を挙げるらしい。しかし、日本では、ひたすら譲歩(宥和(ゆうわ)政策)してヒトラーを増長させたチェンバレン首相と同じ考えが現代でも生きている。 それは「歴史に学ぶ」姿勢がないからだろう。もしかしたら、日独伊3国同盟を支持し、「大東亜戦争」を肯定し、東条英機を擁護する立場なのかも知れない。そうした考えの人は政治家にはならない方がいい。
 けれどもフランスでは2007年2月に、「死刑を永久に廃止する」ということが憲法に書き加えられることが可決された。フランスでは、「とにかく戦争はいやだ」「たとえヒットラーとでも戦争はしない」「ヒットラーでも死刑にしない」という宥和政策が現在でも支持されている。
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<狙撃手が銀行強盗を射殺するのにも反対なのか?> 死刑反対の論理を進めていくと、「銀行強盗の生命も重い。射撃手が撃つのは良くない」となってしまう。その現場にいて、そのように主張できる人間はいない。 けれども一般論としては、「たとえ人を殺した人間でも、その人なりの事情があったり、あるいは十分悔い改めているのなら、殺すのは良くない」と主張するに違いない。
 そのような、臆病主義が日・独・伊の新興殖民地主義国の台頭を許すことになってしまったのだし、最初の銀行強盗事件で行員が殺される事態を招いてしまったのだった。
 「世界が平和であって欲しい」「武力紛争が起きないで欲しい」「そうした庶民の気持ちを打ち砕く事件が起きたらどうするか?」。ここで2つの主張が分かれる。 「人の生命は地球よりも重い。だから反社会的な人間でも、むやみに殺していいわけではない。死刑制度は廃止しべきだ」VS「地球よりも重い人の生命を奪う行為には毅然とした態度で向かうべきだ。 それは平和な社会を維持する基本である」。
 このように2つの考え方を並べて書いてみた。「それでも、人を殺すのは良くない。死刑制度は廃止すべきだ」と主張する人は出てくるだろう。 日本では、そうした考えですら主張する自由がある。デモクラシー=民主制度を採用する限り、国民全員がまったく同じ価値観で結ばれるということはない。多くの異質の意見が混在することが、民主制度がうまく機能していることの証明になる。 それでこそ、雑種強勢とか、一代雑種が期待できる。 そうでないと、自家不和合性に陥る恐れがある。 <民主制度の限界>で書いたように、全会一致は怖ろしい。 よく言われる「国民、みんなが心を一つにして」とか「価値観・歴史観を共有しよう」との主張は、結局のところ異質な考えを排除し、独裁政治への道を開くことになる。
 こうした点を考慮しても、「1人の生命は、全地球よりも重い。だから死刑制度を廃止せよ」は筋の通らない感情論だ思う。
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<仇討ちが合法化されたらどうなるか?> 「1人の生命は、全地球よりも重い」からこそ、その人命を奪う犯罪には厳しい姿勢で臨むシステムになっている。 もし、「1人の命は、それほど重くはない」となったら、国家は殺人犯に対して現在ほど厳しい姿勢で臨まず、「関係者で解決するように」となるだろう。 つまり「敵(かたき)討ち法成立」となる。近未来、「敵(かたき)討ち法成立」となり、仇討ちが合法化されたという設定の映画、「フリージア」がこの「死刑廃止問題」を考える場合に参考になるかどうかはわからないが、いろんな面から考えると今までとは違った面が見えてくる。 「気配り半径」が狭くなったり、「視野狭窄」になったり、法曹界の人たちは「自家不和合性」に陥りやすい。
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<主な参考文献・引用文献>
『第二次世界大戦はこうして始まった』ドナルド・キャメロン・ワット著 鈴木主税訳 河出書房新社 1995. 6.23
『20世紀のヨーロッパ経済』   D・H・オリドクロフト 玉木俊明・塩谷昌史訳 晃洋書房   2002.11.30
『ヒットラーでも死刑にしないの?』                  中山千夏 築地書館   1996.11.27
( 2007年5月21日 TANAKA1942b )
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(10)悪いことするとどうして刑罰を受けるの? 
目には目を、反省・償い、抑止力

 … は じ め に …で取り上げた、古田の文章にはこのように書いてある。
 世の中の常識ではこんな悪い奴がと思われる人間が起訴されなかったり、裁判で無罪になったり、軽い刑を言い渡されたりして、首をかしげることもある。そうすると、一方では、刑法は、悪いことは悪いとした、常識のかたまりと言われるなじみやすい法律のようでありながら、他方では、わけのわからない法律のような気がしてきて、結局、頭が混乱してしまう結果となる。
 そこで、今週は「悪いことするとなぜ刑罰を受けるの?」と題して書くことにした。あまりにも当たり前のように思っているが、この問いに対する答えの違いが「死刑反対」になったり、「死刑は存続すべし」になったりする。
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@<「目には目を」との考え> 江戸時代武士社会では仇討ちが認められていた。やったらやり返す。ごく自然のルールのように思われる。 ただしこれを個人間でやると、やったらやり返す、それに対してさらにやり返す、それに対してやり返す、と際限なく続いていく可能性がある。 仇討ちとか、やったらやり返す、を個人間では禁止し、国家がこれを行う、という考えだ。このように説明すると何となく理解したような気分になってしまう。
 個人が犯罪を犯し、個人が被害を受けた。それなのに、国家が個人に代わって処刑する。なぜ国家がそこまで個人間の争い事に関与するのだろう? それは「殺人は絶対に許されない」という毅然とした態度を国家が示すためだと考えると分かる。もし「殺人は良くないが、かと言って国家が関与するほど重大なことではない」となれば、死刑制度は必要ない。 このように考えていくと、死刑制度があるということは、国家が「人を殺すという殺人事件は絶対に許さない、という硬い決意を示すためだ」ということが分かるはずだ。 従って「人一人の命は地球よりも重い。だから死刑は廃止せよ」は間違っているのであって、「人一人の命は地球よりも重い。だからそれを犯す犯罪には毅然とした決意を示すべきだ」となるはずだ。
 ただし、「目には目を」というのは比喩的な表現であって、他人を傷つけ、「目が見えなくなったので、犯人も目が見えないような刑罰を与えるべきだ」という理論にはならない。 それでも、殺人事件で犯人に死刑ではなく無期懲役の判決が出たときに、被害者の家族が「納得出来ません。犯人には厳しい判決が出ると思っていました」と報道されるということは、 世間一般が「目には目を」ということをある程度容認しているからだ、と考えられる。同じように被害者の遺族が「極刑が出たことに満足しています」というのも、「目には目を」との考えの表れと考えられる。 つまり、「目には目を」との考えが正しいかどうかは人によって考えが違うだろうが、一般的に「目には目を」との考えは否定されていない。あるいは「そう言う考えの人がいても当然だ」と認められていると考えられる。 「人一人が命を失ったことに対し、あまりにも刑が軽すぎる」との感想もこの考えなのだろう。
A<反省し、社会貢献のための懲役> 「悪いことをしたのだから、時間をかけて反省し、社会に復帰したら過去を取り戻すべく真面目に生活して欲しい」そのための懲役だ。 ということを言ってはいないけれど、そうした意味で「懲役刑」を考えることもできる。悪いことをした、その程度によって反省すべき時間が違ってくる。 うんと悪いことならば、反省のために長い時間が必要になり、懲役刑も長くなる。普通の人は刑務所で反省するのだが、普通の人ではない人、つまり未成年者は刑務所ではなくて少年院で反省することになる。 大人は刑務所に入れば自然と反省するようになるが、未成年者は反省のための指導者とか施設が必要になる。
 この考えに従うと、犯罪を犯した人は刑務所で反省し、社会に復帰して過去を償うことになる。だから、死刑になったら、反省する時間もないし、どんなに反省しても社会に復帰して過去を償うことができない。 せっかく反省しても、過去を償う事を拒否する「死刑制度」は良くない、という論理になる。このことだけから考えれば、「死刑制度は良くない」は実に筋の通った主張と言える。 ただし、「死刑制度を廃止して、仮釈放なしの終身刑を」は矛盾した主張になる。死刑になれば過去を償う事はできない、そして、同じように、仮釈放なしの終身刑でも、社会復帰して過去を償う、ということができない。 「反省し、社会貢献のための準備期間としての懲役」との考えに従えば、死刑制度はよくないし、それに代わる「仮釈放なしの終身刑」も良くないことになる。この考えに立つ人は「死刑制度を廃止して、仮釈放なしの終身刑を」と主張する人を批判することになるだろう。
 判決を言い渡したあとで、裁判長が言う「法廷で、大変なことをしてしまった、という反省の気持ちが伝わって来なかったのは事実です。それがいらだちを感じます。姉歯被告はどこまで責任を感じているのでしょうか」。なぜ裁判長はこのような事を言うのだろうか? 反省の気持ちが伝わって来たら、判決内容が違っていたのだろうか?「被告は十分に反省している」として刑が減軽される、ということは「刑罰とは、被告が反省し、社会に復帰したとき社会貢献するであろう事を期待して刑の重さを決める」ということになるのだろう。 しかし「裁判長がそのように言うのは余計なお節介だ」との感想もあるようだ。
 「彼のやったことは、5年ではとても償い切れるもではないと思います」との感想は、反省し、償う期間が量刑の長さと考えていると考えられる。
B<抑止力としての処刑> 「ヤバイことすると結局は損する社会」というのがTANAKAの基本的な捉え方だ。 企業不祥事があったときに「利益追求のあまり法律を犯してしまった」などの言い訳をすることがある。けれどの「利益追求のあまり」ではなくて、利益追求がどのようなことか余り考えずに行動した結果、と言った方が良い。 現代社会は「ヤバイことすると結局は損する社会」になっている。その良い例が、食肉偽装事件の食品会社だ。2002年、日本ハムは食肉偽装で1,000万円程度の不正利益を得ようとして、結局200億円の損失を出した。 <企業・市場・法・そして消費者>を参照のこと。 発覚する確率が20%程度と考えても、「やった方が得か、やらない方が得か?」損得勘定で計算すれば、やらない方が得だと気づくはずだ。 このホームページの初期の頃にも<接待汚職の経済学>と題して同じ様な趣旨で書いた。
 この場合の量刑は、犯罪の重大性ということとは別に、それが発覚する確率も考慮に入れる必要がある。同じ程度の犯罪でも、見つかりやすい犯罪の量刑はあまり重くなく、 見つかりにくい犯罪の量刑は重くする。抑止力としての刑罰という点から考えるとこのような発想になる。
 死刑問題を議論するとき「死刑制度は抑止力として働くか?」と言うことは、「量刑は抑止力を考えて決めるべきだ」ということを前提としている、ということだ。
<量刑を決める3つの要素> 「悪いことするとなぜ刑罰を受けるの?」そして「量刑はどのようにして決まるのか?」について3つの要素を取り上げてみた。 どれも「これ1つで完璧」というものはない。それぞれが絡み合って量刑が決められている。しかも、それぞれがどの程度量刑に影響を与えているかもハッキリしない。 だから、どれか1つの要素を強調して、「量刑はこうあるべきだ」というのは説得力がない。「刑罰を与えてもそれで、元の状態に戻るとは限らない。まして、死刑になったら、社会貢献もできない。だから死刑は廃止すべきだ」は通用しない。
 それでも、この3つを頭に置きながら「悪いことするとなぜ刑罰を受けるの?」とか「量刑はどのようにして決まるのか?」を考えると、おおよそのイメージはつかめてくる。 人々は3つの要因を意識しているわけではない、その時、その時に使い分けている。ということは、結局3つの要因を基に判決を評価している、ということだ。
 ここで大切なことは、「どれも「これ1つで完璧」というものはない」ということだ。死刑は廃止すべきか、存続させるべきか?これを考える場合、「これ1つで完璧」という理由はない、ということだ。 こうしたもの考え方は、「結局曖昧なことばかり言って、ハッキリしない」と原理主義者からは批判されるだろう。バランス感覚ということは、将来ものの価値基準が変わったら、賛否も変わってくるだろう。死刑制度に対する評価も変わってくるかも知れない。
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<「どうして人を殺してはいけないのですか?」> 死刑に関する本を読んでいて、法律書以外にも参考になる本はないかと捜していた。『「おろかもの」の正義』とのタイトルに惹かれて読んでみた。 その中に「なぜ人を殺してはいけないのか」ということがテーマとして書かれていた。そこの文章を少し引用することにしよう。
 20世紀の末に「なぜ人を殺してはいけないのか」ということが話題になったことがある。これは、そういう子どもの問いかけに、その場にいたインテリたちが明確に答えられなかったことがきっかけだった。この問題について、雑誌で特集が組まれ、本も出版された。
 これは、まず驚くべきこと、悲しむべきことだろう。日本には「なぜ人を殺してはいけないのか」という素朴な問いかけに対して、答えをもっていない大人が非常に多いのだ。 宗教の権威が弱体化してから久しく、成長と進歩の前に伝統は輝きを失い、政治家は並以下の人間としか思われず、正義を語る習慣もなく、「無限の正義」が胡散臭さを漂わせる現代。たぶん、わたしたちはもうとっくに気づいてしまっているのだ、人を殺してはいけない絶対的な理由などないことを。
 だが、この事件は希望でもある。それは「絶対的な権威」を信じられなくなっていても、それでもなお「正義・正しさ」への求めがあることを示しているからだ。
「人を殺してはいけない理由はない。人殺しはムカツクから捕まえて殺すか閉じこめる。殺す方にも捕まえる方にも正義はない。力の強いほうが勝だけだ」こう言い切ることには、一種の爽快感があるかもしれない。 しかし、われわれの多くはそう考えはしなかったのだ──はっきりとは言えないけれど、やっぱり人を殺してはいけないんじゃないか。そう思う人が多かったからこそ、答えを求めて雑誌や本を手に取ったのだろう。 人にはなお、正義・正しさへの求めがある。 (『「おろかもの」の正義』から)
 神や天のような、人間より上位の絶対的権威に訴えることなく、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題に答えるにはどうすればいいのだろうか。
 この本で著者は問題提起はしたが自分では答えを出していない。評論家とはそうした態度をとるものなのかも知れない。ハッキリ自分の主張を言えば、それだけ批判されることも多くなる。 それならば、解説・評論・予想・などを書いている方が楽だろうから。そこで、同じ問題を違った本から引用してみることにした。
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<大江健三郎も答えられなかった「人を殺してはいけない理由」>  評論家の筑紫哲也が視界するテレビ番組に「ニュース23」(TBS)というのがある。 報道番組ではあるが、ときどき時事問題について特集を組み、学生、市民らが参加するなか関係者や識者がパネリストとして本音で討論するというので、評判を呼んでいる。 それで1997年の夏に、その年の冬から春にかけて神戸で起こった14歳の少年による小学生連続札沼事件がテーマとなった。「人の命はそんなに大事ですか。アリやゴキブリと一緒やないですか」、 「猫を殺すのと人を殺すのとどう違うんですか」などという、漏れ伝わる少年の言動をめぐって、活発に議論が展開されていた。その最中に、ふと一人の男子高校生が「どうして人を殺してはいけないのですか」と訊ねた。 その瞬間、並み居る論客たちがぎょっとして押し黙ってしまった。言葉を探しあぐねている雄弁家たちの不安げな死線を、テレビカメラが一つ一つ映しだした。視聴していた私には、学生の問いかけよりも、その沈黙が実に重苦しく異様に感じられた。
 しばくしてそのことを作家の大江健三郎が新聞のコラムで取り上げ、次のように述べた。「私はむしろ、この質問に問題があると思う。 まともな子供なら、そういう問いかけを口にすることを恥じるものだ」「人を殺さないということ自体に意味がある。どうしてと問うのは、その直観に逆らう無意味な行為で、誇りある人間のすることじゃないと子供は思っているだろう」。
 大江の見解は列席していたパネリストたちが見せた反応に呼応するもので、当時で恐らく50歳以上の世代が共有する素朴な感想を、飾らず正直に語ったものと言えよう。 ところが、それが直接、間接に驚くばかり大きな反響を巻き起こした。「どうして人を殺してはいけないのか」が論断の一大テーマとなり、雑誌の特集号や単行本が出たりしたのである。 そしてその問いは、その後も現在に至るまで、脳死や安楽死、妊娠中絶など生命倫理の諸問題や死刑論、戦争論などにも関連づけられて、広く取り上げられている。現代という時代を象徴するテーマとなったのだ。
 しかしながら、問題は広まったものの、問題の重さのわりに議論が深まったようには見えない。そこで私は、この小論で、再生観と倫理観についての比較思想的関心を根底に置きつつ、そのテーマを発端から哲学的に整理し分析してみたい。 (『柔らかなカント哲学』から)
 この本ではこのように問題提起し、多くの人の意見を紹介している。そこに登場するのは、児童文学者の灰谷健次郎、不登校などの問題を抱える親と子のグループ「バクの会」代表である主婦、滝谷美佐子、社会経済学者の佐伯啓思、 精神科医の町澤静夫、社会学者の大澤真幸、社会学者の宮台真司、精神科医の香山リカ、哲学教師の永井均、ホッブス、ベッカリーア、親鸞、旧約聖書、神戸連続児童殺傷事件弁護団長の野口善國、評論家の芹沢俊介、カント、亡命ユダヤ人のカール・マンハイム、
 このように多くのひとの意見を紹介しながら著者は「なぜ人間は人間を殺してはいけないのか──法と道徳と宗教──」と題して結論を書いている。
結論
 ここで簡略に結論を述べれば、「どうして人を殺してはいけないのか」という問いは、生命権、すなわち「殺されない権利」を認めるか認めないかで、答えは差し当たり2つに分かれる。
 生命権を認めなければ、人を殺していけないことはない。この場合、剥き出しの生存本能を制御するルールは存在せず、ホッブスの言う自然状態となる。 人と人との関係は生き残りを賭けた戦時状態にあり、死者はもとより生者にも一切の権利が認められない。神戸の殺人少年もポスト全共闘世代の論客も生命を補償されず、アリやゴキブリのように殺されても仕方がない。 こうなると「どうして人を殺してはいけないのか」という問いを発する余裕もなく、問うこと自体が愚問どころか、無意味となる。
 したがって、有意味な答えを求めるならば、生命権を認めざるを得ない。人は相互に生命権を承認することによって公共社会を樹立し、人と人との間の存在、すなわち人間、となる。すると問いは、「なぜ人間は人間を殺してはいけないのか」へと変換(相転移)する。
 しかし、生命権の承認が相対的あるいは手段的なものであれば、生命権は実質的に尊重されず、生存競争がサバイバルゲームとして復活する。 人間関係は駆け引きに満ちた緊張状態となり、立て前では生命権をより尊重し本心ではより尊重しないものが、有利となる。法も道徳も宗教も、生き残ったものがさらに生き残るための手段とされ、殺された死者は文字どおり切り捨てられる。 これは外形的な法論理が貫徹する功利主義の社会であり、加害者など生者の論理が、殺された被害者の論理を圧倒する。この場合、問いの答えは、殺さないほうが生き残るに有利だから、となる。
 これに対し、生命権の承認が絶対的なものであれば、正当な理由もなく生命権を侵害した者は社会の正当な一員としての資格を剥奪され、また、生命権を侵害された者については、公共社会が当人に代わって可能な限り侵害された権利を回復しなければならない。 それが正義の実現となる。殺された死者の権利そ殺した生者の権利と対等に扱い、前者が後者を制限する論理を、私は道徳的論理と呼びたい。 道徳的権利が尊重される社会では、生命権という根元的権利の回復に関わるがゆえに、殺された被害者の論理に優位性が与えられる。この場合、問いの答えは、生命権は絶対に守らなければならないから、となる。
 だが、死者が現実に生き返るわけではないから、理念的に来世を想定して死者の冥福を祈ることが論理的に要請される。それで、こうした贖罪のための奉仕活動が、義務として殺した加害者に課せられなければならない。 道徳的論理が尊重される社会では、生者のための論理である法と、生者と死者が対等な論理である道徳と、死者のための論理である宗教とが、互いに調和しながら、それぞれに固有の機能を発揮することができる。
 結局、「どうして人を殺してはいけないのか」と問われたら、誰にだって絶対に「殺されない権利」があるから、と私は答えたい。 (『柔らかなカント哲学』から)
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<「自分がして欲しくないことは、他人にするな」これが社会の基本原則> 「なぜ人を殺してはいけないのか?」この問いに対する答えは、「自分がして欲しくないことは、他人にするな。これが社会の基本原則だ」と言うのがTANAKAの答えだ。 子供が疑問を投げかけた。それなら子供にも分かる答えを出すべきだ。誰にも分かる答えを出してこそ、多くの人に理解・支持され、社会の常識になる。カント哲学を研究した人にしか理解できない答えは、結局誰も支持しない。 子供の質問にこそ「素人さんお断り」ではない答えを出すべきだ。
 子供が犯罪を犯し、その結果被害者が死んだとすると「命の大切さを教える」などと教育関係者は言う。「命の大切さ」などという抽象的なことを、人に教えることができると思っているのだろうか。 それよりも「自分がして欲しくないことは、他人にするな。これが社会の基本原則」と教えた方が分かりやすい。「打たれたらいやだろう」「イジメられるのはいやだろう」「だったらそういうことを友だちにするのは良くないことだ、と分かるだろう」と説明すべきだと思う。
 哲学の分野も、教育の分野も、同じ業界内の人間にだけ通じる言葉で話している。以前に政治哲学に関して同じ様に感じた。 「六本木あたりのクラブで朝まで踊っていて、社会のことなんかまるで考えていないお姉ちゃんと、日本のこと真剣に考えているオレと同じ一票なのか?」との不満があっても選挙では同じ1票。これがデモクラシー=民主制度だ。 多くの人に理解されるような分かりやすい・やさしい言葉で語りかけてこそ、その考えが正しいのか、間違っているのか判断される。「素人さんお断り」の文章は評価の対象から外される。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『「おろかもの」の正義』                    小林和之 ちくま新書    2000.12.10
『柔らかなカント哲学』増補改訂版                平田俊博 晃陽洋書房    2001. 6.20
( 2007年5月28日 TANAKA1942b )
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(11)『刑法という法律』をやさしく解説 
古田佑紀、今は最高裁判事の著書から

 今週は、このシリーズの最初に取り上げた、古田佑紀の著書『刑法という法律』から引用する。 刑法とはどういう法律なのか、専門家の著書を読んでそのセンスに馴れることにしよう。
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刑法は常識のかたまり? 刑法は、だれもがなんとなく分かっているような気になる法律といえる。人の物を盗めば泥棒であり、人を殺せば殺人で、こういうことをすればお巡りさんが来て捕らえられ、刑務所に行かなければならない、と考えるのが率直な常識である。
 その意味では、刑法は、だれでもが常識として悪いことだと思っていることを罰するための法律で、いわば常識のかたまりだとも言われる。 人を殴って怪我をさせたり、人を騙してお金を取ったり、人から預かっているものを勝手に売ってしまったり、人の家に火を付けたりすれば、みんな悪いことで、刑務所に行かされるのは当たり前だということになる。
 けれども、反対に、刑法とは、むずかしい顔をした裁判官や検察官や弁護士が集まって、時には何回も裁判を繰り返して、ああでもない、こうでもないと議論をしなければ結論が出ないらしいし、しれに立派な大学教授も、あれこれ首をひねってむずかしい言葉を使い、ぶ厚い本を書かなければならないような、よくわからないが、なにか神秘的にむずかしいものらしいという印象も一方ではある。 それに加えて、世の中の常識ではこんな悪い奴がと思われる人間が起訴されなかったり、裁判で無罪になったり、軽い刑を言い渡されたりして、首をかしげることもある。 そうすると、一方では、刑法は、悪いことは悪いとした、常識のかたまりと言われるなじみやすい法律のようでありながら、他方では、わけのわからない法律のような気がしてきて、結局、頭が混乱してしまう結果となる。
 この2つの印象は、おそらく、どちらも正しい。確かに、刑法は社会が素朴に悪いことだろ思うことを処罰することが基本になっている。しかし、刑法の性格からこれが濫用されたときにはたいへん不幸なことが起こるので、人類の長い間の知恵で、そんなことが起こらないようにいろいろな歯止めが掛けられている。 その歯止めは、刑法のなか自体に直接決められていたり、あるいはその解釈によって掛けられているものもあるし、人を刑法によって実際に処罰するための手続きを慎重に行うことを要求することによっているものもある。 また、それに携わる人について、裁判官とか検察官とか弁護士とかある一定の資格を要求するなど、制度の面からも歯止めが掛けられている。
 そこで、悪いことは処罰されるという基本は変わらないが、このような歯止めが働いた場合に、一見すると、なにか素朴な常識に反するように感じられる場合がでてこることになる。 このような場合は、刑法はもしかすると非常識のかたまりということとなるかもしれない。そこで、この本では、刑法に関して、なんとかく素朴な常識に反すると感じられるであろうと思われる問題、いわば「刑法の常識は世の中に非常識」といった問題を取り上げ、刑事の世界ではなぜそうなっていくかということを考えてみることとしたい。
なぜ処罰される? さて今、刑法は濫用されると危険は法律だといったが、そのことが「非常識な常識」の理由に共通する流れであるので、個々のテーマに入る前にこの点についてもう少し詳しく考えてみて、刑法の性質というようなものを探ることとする。
 最初に、刑法は、悪いことをした者を処罰するものだと素朴に考えられるという話をした。しかし、悪いことをしたら、なぜ処罰されるのだろうか。 そんなことは自明のことだと言われるかもしれない。しかし、どうして人が人を処罰するのか、その理由を考えてみると、なかなか簡単にはいかない。
 試しに何人かに理由を尋ねてみると、まず、最初に返ってくる答えは、おそらく、悪いことをしたのだから、苦痛を与えて懲らしめなければならない、という答えだろう。 しかし、そばに物事を傍らから斜めに見る七目氏がいて、それでは結論をいっているだけで、なぜ懲らしめられなければならないか理由をいっていない、と反論するに違いない。 これに対しては、悪いことをして他人に迷惑をかけ苦しみを与えたのだから、自分も苦痛が与えられるべきだ、という答えもあろうし、悪いことをすることを止めさせるためには、痛い目に遭わせなければならないからだ、という答えも出てくるだろう。 なかには、悪いことをする奴は危険だから、刑務所に入れて閉じこめておくために罰を加えるのだ、という人もいるかもしれない。 以下、会話の紹介という形で、話を進めてみる。
 さて、こんな議論に対し、七目氏が、殺人や脅迫などは人に苦しみを与えるだろうが、犯罪のなかには、たとえば賄賂罪のように、だれかに苦しみを与える犯罪とはいえないものもあるし、悪いことをすることを止めさせるためだと言うならば、父親の酒乱にたまりかねてとうとう父親を殺してしまったわかい娘のような場合は二度とそのような事件を起こすことは考えられないから、 処罰する必要も、閉じこめておく必要もないことにならないか、と疑問を出してくる。
 そのうちに、一杯きげんの哲学者が話しに加わり、世の中にはまず正義があり、犯罪は正義が保たれている状態を覆すものであるので、犯罪者に罰を加えて、正義が回復された状態にする必要がある、それがカント、ヘーゲル以来の弁証法的帰結であると主張する。 すると、七目氏は、それはまことに立派なお話であるが、そうだからといって、犯罪がなくならない現実をどうするか、とからめ手から茶々を入れてくる。
 そのうちに、犯罪の原因はなにかということを研究している人が数人酒をたっぷり飲んで登場して、口をそろえて、犯罪を防止できない刑法は無力であり、単に罰を加えることで物事が解決しないことは明らかで、まず、犯罪の原因をはっきりさせて、それからどうしたらよいかを考えることが大事だと言い出すが、仲間の間で、原因は、犯罪者の性格など本人に問題があるから、教育として罰を考えるべきだと主張する者と、社会に彼らを犯罪に追い込む原因があるので、犯罪者を保護にながら、割れらが犯罪に追い込まれる環境を取り除くことを目的とするべきだと主張する者が出てきて大激論が交わされる。 それをそばで聞いていた哲学者が、もし、悪い性格を問題にするならば、犯罪によって起こった害悪の程度は問題とならず、軽い犯罪の場合であっても、性格の悪い者は長く刑務所に入れることとなり、犯罪の重さとバランスを欠く結果となって、人権を侵害することが甚だしいし、社会の原因があるとするのは、理性を持って自分で自分の行動を決めるという人間のあり方を無視するものであると批判を加える。
 ここまでくると、話は日常の素朴な会話を離れて、哲学論争となる。そこへ再び登場するのが七目氏で、七目氏は、興奮して何かしゃべっている異国の人を連れてきて、
「皆さん口角泡を飛ばして議論しているけれども、この人は『この国に来て酔っ払いが堂々と外を歩いているのでびっくりしました。私の国では、酔っ払ってそとをうろうろしていると捕まえられて処罰されます。悪いことかどうかは、だれがどんな基準で決めるのでしょうね。 よく分からなくなりました。もともと、犯罪というものがあるわけではなく、だれかが犯罪と決めたから、犯罪というのでしょうか』と言っていますよ」
 と紹介し、すべての議論を混ぜ返してしまった。 (『刑法という法律』から)
刑法とは 以上の話は、刑法に絡まるすべての問題を含むものではない。しかし、刑法を考える上で、これまで激しい議論が行われた多くの重要な問題を含んでいる。
 最初の話は、刑法を復讐ないし応報として考える一番基本的な考え方を示していることはいうまでもない。これが典型的に現れるのが有名な「目には目を、歯には歯を」というハムラビ法典の言葉ある。 いずれにせよ、この報復の思想が刑法の始まりであったろうことは確かであろう。正義の回復という哲学者の主張も、基本的には、このような流れに立つものであるといえる。 このような考えは、処罰自体をいわば自己目的的にとらえるものとはいえ、強いてほかに目的を考えると、応報感情、正義感情の満足をその目的とするということができる。 ただ、ハムラビ法典の同害報復の思想で注意しなければならない点は、応報感情の満足を図ることを積極的に認めたものと考えるべきではなく、これをやくを得ないものと受けとめ、その限度を同害の範囲に制限したものと見るべきことである。
 次に、処刑をある具体的な目的を持ったものと考えて、犯罪者に苦痛を与えて、悪いことをさせないという考えも、おそらく古くからあった考えであろうし、社会の棄権を防止するという考えも、わかりやすい考え方である。 ただ、この2つの考え方は、その結果においてかなり違ったものとなる。前者のような考え方は、ある犯罪をさせないようにするために苦痛を与えるのであるから、その基本は、犯罪の結果に比例した範囲でだけ与えられるべきであるということとなり、犯罪の結果を超えるような処罰は、許されないという考えに結びつく。 これに対し、社会の危険を防止するという考えは、処罰の範囲も、その危険そ程度によって決まられるということとなり、実際の結果とは必ずしも結びつかない。
 処罰を具体的な目的を持ったものと考える立場を徹底させ、かつ、犯罪の防止を強調する考えに立つと、犯罪の原因を研究している者の話に見られるように、刑罰が処罰の範囲を超えて、本来、犯罪の原因を除くための教育的ないし保護・治癒的なものととらえられることとなる。 このような考え方は、応報の思想あついは苦痛を与えるという考え方が陥りやすい、犯罪者に対する処遇を人道的なものとする上では、重要な役割を持つ。
 これらの考え方は、いずれも、犯罪あるいは刑法のある側面を見てみると、それぞれ、もっともな部分がある。しかし、いわゆる近代刑法の1番基本的な枠組みは、処罰を具体的な目的を持つものとする考えに対する哲学者の主張及び批判であるといえる。 すなわち、したことに対する応報ではなく、犯人の危険性に着目する考え方は、過去、多くの政治的な濫用を生んできた。外国においてはソクラテスやキリスト、我が国においては有馬皇子など、政治的な理由により刑死し又は実質的に刑死したと思われる人は少なくない。 さらに、過去、君主の意思などにより恣意的に刑を科せられた者がたくさんいたであろうことは、想像にかたくない。現在においても、世界の一部では、似たようなことがしばしば起こっているということが伝えられる。 哲学者の主張と批判は、刑罰制度の持つこのような危険性に着目したものであり、その意義は、このような問題を生じる可能性をできる限り防止しようとするところにあると言える。
 しかし、この哲学者の主張のみでは、なお、問題がある。それは、異国の人間の観察である。哲学者は、客観的な正義がまずあり、これが侵害されたとき、そのバランスを回復させる限度で処罰を主張しているのであるが、実は、正義も、必ずしも、常に普遍的、客観的に共通なものであるとは限らず、それがある特定の社会の感情や考え方に支えられた主観的なものである場合も少なくない。 ガリレイに「それでも地球は回っていえう」とつぶやかせた過去の宗教裁判はこのようなものであることが少なくないし、現代になってからも、何年か前に、イラン王女が姦通の罪で、石を投げつけられるという方法により死刑になったという報道があった。 しかし、現在、姦通罪の規定を持っている国は、いわゆる先進国ではないようであるし、我が国においても、現在、これが、道徳的非難はともかく、刑罰を科してまで個人の自由を制約すべき性質の行為とは一般には考えられていないであろう。 そうすると、種々の価値は相対的であり、ある社会のある時期における感情や考え方に反する行為であるということだけでは、これを刑法によって処罰することには大きな問題があるということになる。
 結局、刑法は、その出発点で常識的なものであるが、同時にその出発点が人の感情の問題であるだけに、その根源において非常に不安定なものを持っており、ある場面、ある時期あるいはある者の感情によって動かされるようなことがあったときには、制裁が最も厳しいものであるため、たいへん危険な存在となるし、また、政治的な濫用が起こりやすいことは過去の歴史が示している。 そこで、ある特定の場面から見れば、「悪い者」を見逃すこととなるような非常識と思われる結果になることがあっても、長い目で、かつ、広い範囲で見れば、大きな弊害が起こらないこととすることが必要であると考えるのが、歴史の教訓に基づく人間の理性的な判断として、常識となっているのである。 (『刑法という法律』から)
刑法とは大変わかりにくい法律だと思った 率直にいって、刑法という法律は、大学で勉強しているとき、たいへんわかりにくいものの1つであった。 その理由は様々だけれども、1つには刑法の講義で使われる言葉が具体的にどんなことを意味しているのか、イメージが実につかみにくかったことがある。 法律としての刑法の用語が難しい感じが入った文語体でわかりにくいと言われるが、それよりも刑法で使われる言葉のほうが、私にとってははるかに難しかった。
 たとえば、どのくらいまでの範囲で共犯者が処罰されるかという議論で、共犯独立性説と共犯従属性説という学説があり、共犯従属性説のなかには、さらに、制限従属性説、極端従属性説等々があると言われて、目を白黒させた覚えがある。 簡単に言えば、人に犯罪をそそのかしたときに、そそのかされた人が、実際に犯罪行為にでなくても処罰されるというのが共犯独立性説、犯罪行為にでた場合に限って処罰されるというのが共犯従属性説で、制限従属性説というのは、たとえば、泥棒をそそのかされた人が、小さな子どもで処罰の対象にならないとしても、 やったことが間違いなく泥棒で客観的に悪いといえるものであれば、そそのかした者を処罰するのには十分だという考えであり、極端従属性説というのは、それでは足りずに、そそのかされた人が子どもでないとか、個人の特別は事情からしても処罰されるべきものだということまで至らなければ、そそのかしたほうも処罰されないという考えである。 しかし、このようなことは言葉を聞いただけではすぐにはわからないし、まして、刑法の条文を見ても、見当がつかない。それと、刑法がわかりにくかったもう1つの理由は、先ほどの例のように、素朴に考えればそう問題になりそうもないことでも、あれこれ難しい議論がついて回り、その意味合いがどうも現実感を以てピンとこないということだった。
 その後、主に刑法の世界で仕事をするようになってから20年以上の年月がたち、その間、よくわからなかったことについて、もしかするとこのようなことかも知れない、と自分なりに思うところが多少出てきたところ、時の法令の編集者から、刑法のことでなんとなく分からないという気がする問題をいくつか分かりやすく書いてもらいたい、という話があり、 身の程をわきまえず、時の法令に2年にわたって連載することになった。
 本書は、その連載に多少の追加、補筆をして1冊にまとめたものである。ここに書いた刑法についての考えは、もちろん、私なりに1つの理解にすぎないが、普段なんとなく寄りつきがたい感がある刑法の議論に、少しでも読者の方に親しみを持っていただくきっかけになれば幸いである。
 平成5年8月  法務省大臣官房審議官  古田佑紀    (『刑法という法律』はしがき から)
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<刑法とはチャレンジし甲斐のある分野なのだろう>  悪いことをすると刑法に従って罰する。刑法とはとても分かりやすい、しかし、とても分かりにくい面もある。あの頭の良い古田が、それを承知でチャレンジしたのだから、刑法とは法律のなかでも奥の深い、チャレンジし甲斐のある分野なのだろう。
 このように書くと専門家に任せておくべき分野のように思われるかも知れない。けれども日本はデモクラシー=民主制度の国だ。専門家に任せて素人は黙っていれば良い、という社会ではない。 愚衆政治と非難される恐れがあっても、国民みんなが同じ1票をもって問題に向かい、答えを選択する仕組みになっている。だから、専門家に任せておけば良い、というわけにはいかない。 素人もそれなりに参加すべきだし、参加できるような分かりやすい議論をすべきだと思う。『刑法という法律』という本は素人にも分かりやすく書いてある。そこで、このシリーズで取り上げることにした。 「死刑は廃止すべきか?存続させるべきか?」アマチュアなりに分かりやすい論理を展開していこうと思う。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『刑法という法律』改訂版    古田佑紀 国立印刷局    2005. 4. 1
( 2007年6月4日 TANAKA1942b )
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(12)法律のセンスに馴れておこう
法律解説書から刑法のポイントを説明する

 今週は刑法を扱った本から、分かりやすい部分を引用して、刑法とはどのようなものなのか、その感覚に慣れ親しんでみようと思う。 いろんな本からややアトランダムに選んだのでまとまりはないかも知れないが、それなりに法律の世界、刑法の感覚を知ることができると思う。
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<刑法はどのような役割をもっていますか=『刑法がわかった』(船山泰範)>  刑法の3つの役割
 刑法は、犯罪がなされたときに刑罰を科すものですが、その役割としては、次の3つが主なものです。
@ 予め犯罪窃盗事件とそれに対する刑罰を規定しておくことによって、犯罪の発生をできるだけ未然に防ごうとすることです。
 たとえば、窃盗事件を犯すと一番重いときは10年の懲役に処すると規定されています(235条)。これは、一般の国民に対する関係で、ある程度、威嚇効果が期待されるでしょう。
A 実際に犯罪を犯した人に対して刑罰を科すことによって、2度と同じような過ちを犯さないよう、更生を願うことです。
 今日の刑罰の中核を担っている懲役刑は、受刑者の自由を剥奪することによって、行った犯罪に戒めを与えるだけではありません。 それとともに、警務作業や規律ある生活、篤志面接委員による助言指導などを通して、受刑者が刑務所を出た後、社会生活をやり直すことを期待しているのです。
 なお、篤志面接は、民間の篤志家が刑務所に出向いて、受刑者が抱えている精神的な悩みや、家庭・職業・将来の生活設計等の問題について相談にのるものです。
B 刑法も犯罪の被害者やその家族に対する配慮を怠ってはならないということです。
ただし、ここで忠治しなければならないのは、今日の刑法では、犯罪を社会共同生活に対する悪事ととらえて、理非曲直(⇒正しいことと、そうでないこと)を明らかにするために、国家として刑罰を科すのですから、刑罰について、単に私的制裁の肩代わりと考えてはならないということです。
 したがって、刑法が被害者・その家族に配慮するということは、被害者らの処罰感情が強ければ重くすればよいという短絡的なことではありません。 刑法を適応する実現過程で、被害者の立場を考えた施策がなされるべきだということです。その一例として、犯罪の被害者と加害者とが和解するための場を設けることが検討されています。
 以上3つの役割をまとめると、結局、刑法は明るい社会の実現を目指しているのだと言えます。 (『刑法がわかった』 から)
<無期懲役は終身刑ではないのですか=『刑法がわかった』(船山泰範)>  終身刑と無期懲役の違い
 終身刑とは、一生、刑務所から出ることのできない刑罰のことです。自由刑(⇒自由という法益を奪う刑罰)の1つの究極の形と言えるでしょう。 諸外国の中には、そのような刑罰を採用している国もあります。
 これに対して、わが国の無期懲役は必ずしも一生出ることができない、というものではありません。というのは、無期懲役・無期禁固についても仮出獄を受けることが可能だからです。
 ここで、懲役と禁錮について説明しておきますと、両者とも監獄(刑務所)に身柄が拘束される点では変わりがありませんが、懲役の場合には、所定の作業(刑務作業)を行うことが義務とされています。
 無期刑については、入獄後、10年を経過した場合に仮出獄の最低条件が整います。ただし、実際に認められるためには、受刑者に改悛の情(⇒自分の犯した罪を悪かったと反省して、あらためる様子)が認められることと、地方更生保護委員会という行政官庁は許可することが必要です。 無期懲役囚についての仮出獄までの入獄期間の平均は約19年10か月です。なお、1999年末現在、無期懲役で服役している受刑者は全国で1,200人に上ります。
 ところで、有期刑については、残った期間をいわば真面目に過ごせば刑期を完うしたことになるのですが、無期刑の場合は、再入獄することがないとしても、一生、仮出獄の身分ということになります。 (『刑法がわかった』 から)
<私人による現行犯逮捕は認められますか=『刑法がわかった』(船山泰範)>  国民が逮捕される場合
 国民が逮捕されるのは、憲法により、@現行犯逮捕と、A令状による逮捕(逮捕状による通常逮捕)に限られています(憲法33条)。
 これは、」犯罪の疑いがる場合でも、逮捕という行為が国民の身体や自由に対する侵害という面を有しているため、基本的人権の保障にの一環として、特に限定しているのです。
 なお、刑事訴訟法には、別に、重大犯罪について緊急を要する場合に、逮捕をしておいてから後で逮捕状をもらうという、B緊急逮捕(刑訴210条)を規定していますが、憲法違反ではないとするのが判例です。 逮捕状を発布するのは、捜査当局とは別の立場からチェックすることを期待されている裁判官です。
 逮捕をするのは誰か
 逮捕する側として考えられているのは、警察官や検察官という犯罪捜査に携わる人です。
 ところで、現行犯人に接するのは、警察官よりはむしろ一般国民(私人)の方が多いはずです。また、私人が現行犯人を逮捕する機械を奪うのは、犯罪防止の面からも得策ではありません。 むろん、その私人の中に被害者自身も含まれます。
 そこで、刑事訴訟法は、現行犯人については、何人(なにびと⇒だれでも、ここでは、とくに警察官などでない一般の国民でも、という意味)でも逮捕状なくして逮捕することができる旨の規定を置いたのです(刑訴213条)。
 このように、私人による現行犯逮捕が刑事訴訟法によって認められていることから、刑法35条の1つである法令行為に含まれることになります。 また、私人による現行犯逮捕が許される以上、それを実現するための実力行為も許されることになります。
 法令行為については、一般に、違法性阻却事由としてとらえられます。刑罰の執行や警察官の具気使用も法令行為の例です。 (『刑法がわかった』から)
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<犯罪の予防とその鎮圧=『刑法の基本思考』(中村勉)> 人間が社会生活を営み、秩序ある生活を始めてから、種々な犯罪防止と、その鎮圧のための対策が考えられてきました。 しかし、その中でも一番有効で、しかも速効性のある手段として実施されてきましたのが「刑罰」というものでしょう。私たちの社会生活には、ルールを維持するために様々な制裁手段があります。 過程生活においても、親が子供の教育のために不正な行いをした場合に加える懲戒という「制裁」、社会生活において、一定の団体や組織に一員として守るべき責任を怠ったりする場合の訓戒、減俸、 免職といった「制裁」があるでありましょう。また、契約関係において、不当に損害を与えた場合の損害補償といった「制裁」があるわけです。 この点で、私たち社会生活の秩序というものは、種々の内容と種類の「制裁」よって維持されてきていると言っても言い過ぎではないこらいです。 多分、「なになにをしてはいけません」と言い続けられ、それに反する行為をしたとき、精神的意味でも肉体的意味でも、制裁を受けたのではないでしょうか。そのため、人間の社会とは「してはいけない」ことばかりに囲まれて、不自由で息苦しい世界であると感じたことがあるのではないでしょうか。 しかし、なぜ「○△してはいけない」ことがあるのかは、犯罪の考えのところで学んでいるはずですから、想い出して戴きましょう。
 犯罪を行った──特に重罪を犯した──者には、よほどの例外がないかぎり刑罰が加えられるでしょう。刑罰との不利益が加えられるのです。 刑罰も犯罪も条件に加えられる「制裁」なのです。この刑罰という犯罪予防と鎮圧の手段は、人間が国家という社会組織を営むことになって以来、社会生活秩序を平和的に維持するために用いてきた「制裁」なのです。 (『刑法の基本思考』から)
<刑罰改善運動=『刑法の基本思考』(中村勉)> 人間が人間として生きる基本的権利は、犯罪者といえども当然に約束されなければならないという「人間の尊厳性」と「人道主義(人間愛)」の基本精神に基づき、耐え難い残忍な刑罰、不当に重い刑罰、犯罪と均衡のかけた刑罰を改良、改善しなければならないとの改革運動が展開されてくることになるわけです。
 すでに、この改革の点に、私たちは触れています。今から約200年前にイギリスでベッドフォードの執行官であったジョン・ハワードを挙げることができるわけです。 彼は私財を投げうって当時のイギリスをはじめ、ヨーロッパ各国の刑務所の実情を克明に調べ、直接受刑者の様子を実見し、その調査内容を本にして一般に出版にしたのであります。 それが『監獄事情 (The State of the Prisons)』であります。それが刑務所の運営改善と囚人の待遇改善運動の強力な引き金となったのです。 この当時の囚人の取り扱いの実情や、刑務所及びその内部の運営状況を克明に実態調査・記録し、つつみ隠さず報告され、一般国民の理解と啓蒙に大いに寄与することになったのです。 刑務所内の秩序は乱れ、腕力と顔のきく者が暴力的に支配する世界であり、看守はピンはねを公然と行い、食糧事情も貧困で、ほとんど慢性的栄養失調状態であり、構内は悪臭をはなち、不衛生も極に達し、疫病が蔓延し、この伝染病のために、死亡する者は、死刑による死者の数よりはるかに多いという惨状の地獄的状態であったという。 この悲惨な窮状を忠実に国民に知らせ、当局(国家)に改善を訴え、人道主義の観点から、囚人の扱いを抜本的に改めるべきことを世に問うものであったわけです。 このような身を挺した改善の努力と批判の結果、囚人の処遇は大幅に改善が進められ、囚人といえども、人間としての基本的権利を保障すべきことが地道に続けられてきているのです。 この努力は、今日でも怠られてはならないのです。常に、人間として幸福に生きる基本的自由が、犯罪者にいかに行刑の内で可能か、このための最良の方策は、常に模索され続けられなければならないのです。 もちろん、囚人(犯罪を犯したがゆえに一定の事由剥奪という刑罰執行の対象者)であることから、一般人のように、完全な形で、基本的な事由が、約束されるべきものでないことは当然であり、やむを得ないことであります。 刑罰の執行のゆえに、一定の自由拘束や制限は受けざるを得ません。しかし、だからといって、犬や猫のような扱いを受けたり、牛や馬のように酷使されて良いわけではありません。 やはり、最低限、人間としての尊厳性は尊重されなければならないことを忘れてはいけないでしょう。
 このように、犯罪と刑罰、特に刑罰の合理性を社会契約説の立場から根拠づけ、不当な刑罰を批判したのが、イタリアの思想家チェーザレ・ベッカリーアその人であります。 かれは、人間の基本的自由を擁護して死刑の廃止をはっきり訴えた人であります。国家といえども、最も基本的な自由の根拠となる「生命」を奪うことはできないし、それは人間性を無視した、野蛮な行為であると非難したわけです。 彼の著書『犯罪と刑罰 (Dei delitie delie pena,1776)』は、当時のヨーロッパの超ストセラーとなったものです。いかに犯罪と刑罰の理解と、その人道主義的啓蒙に寄与したかがはかり知れないと言えるのです。
 もちろん、この刑罰の改良の点で、わが国においても、世界に誇りうるものが、江戸時代の後期に芽生えていたことは特記すべきことです。 それは、テレビの時代劇にもなっている「鬼平犯科帳」のモデルとなった実在の人物、火附盗賊改方の長谷川平蔵その人なのです。彼の建議によって「人足寄場」という授産目的(今日の職業訓練)と同時に石田梅岩の始めたいわゆる石門心学による教誨教導による道徳的教育を施すことによって、いわゆる無宿者や軽い犯罪を行った者を教育改善しようとする事業が展開され、実際に、社会復帰に成功したことが、伝えられていることは注目に値するというべきでしょう。 この犯罪者や無宿者の社会復帰のための改善・更生の施設と、改善のための基本理念は、わが国独自の発想によるものであることに誇りをもって良いでしょう。 もちろん、今日のように、人権思想の下に、展開されたものでないことは言うまでもないことです。しかし、この江戸幕府による犯罪者の改善及び更生の事業は、幕末に至って見る影もないほど衰退し、困窮し、維新政府に引き継がれず、近代的発展が期待できなくなったのは、誠に、残念なことであったと言わなければならないでしょう。 (『刑法の基本思考』から)
<犯罪者の人権尊重=『刑法の基本思考』(中村勉)> 犯罪者といえども人間として、その者の基本的人権が尊重されなければなりません。では、ジャン在社の人権を尊重し、刑罰を科するとはどのような意味なのでしょう。
 すでに、犯罪を私たちの社会から放逐する有力な手段の1つとして、「刑罰」が必要であることを学んでいるにしても、人権を無視したり、踏みにじるような苛酷な「刑罰」は許されないでしょう。 刑罰は犯罪者にとっても、また、一般国民にとっても「正義」に適っていると感じ、納得できるものでなければなりません。そこで、正義に適ったといえる刑罰とは、どのようなものなのか。 この点が明らかにされなければならないでありましょう。
 適正な──正しいと言える──刑罰とはなにか。このことを問題にするわけです。これは、実は、刑罰の本質とはなにかという最も重大な、そして基本的な問題なのです。
 かつて、ドイツの有名な哲学者であるカントは、人間とはそれ自体目的であって、決して他の人間の手段とはなり得ないと、人間の自由の尊重を高く唱えていました。 この人間観の下では、刑罰は一般予防の手段とか、他の犯罪の予防・鎮圧の手段のために、加えられるべきものではないと考えたのです。 すなわち、人間は、他の者の手段として存在するのではなく、あくまでも、自己喚声のためのみ存在するものであり、それ以外のために、決して存在するものであってはならず、それゆえ、処罰されるものも自己喚声のための自己自身(完結)の存在の確認にあると主張したのであります。 それが人格的存在者として扱うことになると考えたわけです。
 犯罪者を処罰することによって、つまり刑罰が苦痛であることを周知徹底させることによって、国民に管財に近づかないよう威嚇するのは、犯罪者を手段──犯罪予防の道具──として利用したことになるから、決して許されないと批判したわけです。 一般予防のための刑罰は、犯罪者(人間)を他の人の犯罪予防のための手段として用いたというわけです。
 同様に、このカントの考え方は、かの有名なドイツの哲学者ヘーゲルによっても唱えられていたのです。彼は、犯罪者を処罰して、他の国民を犯罪に近づけないように利用するのは、犯罪者を犬や猫のように利用することに等しいことになる、と厳しく反対したのであります。 刑罰を犯罪予防や犯罪者の更生の手段として用いるのは、人間の尊厳性を無視することであると考えたわけです。
 それゆえ、彼ら両哲学者は、刑罰を科する根拠は、犯罪を行ったという理由のゆえに、犯罪に対する報復(応報)としてのみ可能なのであると考えたのです。 このような犯罪に対する報復(応報)として刑罰を捉える考え方を「応報刑主義」と呼んでいるのです。特に、刑罰を加える根拠をもっぱら犯罪の存在のみに求めるわけですから、すなわち、刑罰の根拠は」犯罪のみに絶対的に存在するわけなので、これを「絶対的応報主義」と呼んでいるわけです。 「犯罪」という被害を加えたわけですから、犯罪者は、刑罰によって加えた被害と、同様の被害を身に受けなければならないと見ることになるのです。 これを「同害同報の刑(タリオ)」と呼ぶのです。有名な言葉、「目には目を、歯には歯を」の侵害と同様の被害によって償いをすることが正義に適うと考えたのです。 物理的に全く同じ害をもって報復するわけです。それがカントの刑罰論です。これに対して同じ応報でありながら、すこし、意味を異にするのがヘーゲルです。 彼は、カントのように、物理的な「同害同報」といった応報ではなく、法的価値の視点から応報を捉えようとしたのです。法的価値の視点から、犯罪によって侵害された法的価値を回復するに、相応しい反動としての害を刑罰として加えればよいと考えたわけです。 法的公平の視点から、等価的報復(応報)として刑罰を捉えようとしたと言って良いでしょう。 (『刑法の基本思考』から)
<刑罰の軽重はどうやって決めるのだろう=『刑事法を考える』(石塚伸一・大山弘・渡辺修)> 法定刑を比較するルール
 法定刑の軽重は、@刑法9条に規定する順序によるが、懲役と禁錮の間には、若干の修正のためのルールがある。A無期と有期では、無期の方を重い刑とする。B有期の禁錮の長期が、有期の懲役の2倍を超えるときには、禁錮を重い刑とする。同じ刑の中では、 C自由刑ならば長期の長いもの、財産刑ならば多額の多いものを重い刑とする。D長期または多額が同じときには、短期の長いもの、寡額の多いものを重い刑とする。 そして、刑がまったく同じときには、E犯情の軽重によって、刑の軽重を決める。
 刑法典中の229の既遂犯罪型を上記のルールに従って、法定刑の重い順に並べ、その上限を死刑、無期懲役、無期禁固、15年の懲役、10年の懲役、7年の懲役、5年の懲役、10年の禁錮、7年の禁錮、3年の懲役、2年の懲役、1年の懲役、6月の懲役、罰金および拘留に分類し、 その実数、累積数、構成比および累積比を整理に、それをヒストグラムで表したものが図表1.4.2である。
 生命刑と財産刑は、いずれも5.2%にすぎず、ほぼ90%が自由刑であることがわかる。最も重い犯罪は外患誘致罪であり、最も軽い犯罪は屈辱刑であることがわかる。 業務上堕胎、保護責任者遺棄、逮捕監禁、未成年者略取・誘拐など、3月以上5年以下の懲役の犯罪が中央値付近の犯罪である。
刑法典の刑罰の種類
 主刑
   死 刑
   無期懲役
   無期禁固
   有期懲役(1月以上15年以下)
   有期禁錮(1月以上15年以下)
   罰 金 (1万円以上)
   拘 留 (1日以上30日未満)
   科 料 (千円以上1万円未満)
 付加刑
   没 収 (追 徴)
      (★:生命刑 ◎:自由刑 〇:財産刑)
刑法典中の229の既遂犯罪類型の法定刑の上限
刑の上限 累  計    
死  刑  12件─  5.2% 殺人・強盗致傷・強盗強姦
無期懲役 22件─  9.6%   
無期禁固 23件─ 10.0% 強盗・強姦・傷害致死
懲役15年 48件─ 21.0% 窃盗・傷害
懲役10年 92件─ 40.2% 強制わいせつ
懲役7年 107件─ 46.7% 業務上過失致死傷
懲役5年 138件─ 60.3%   
禁錮10年 140件─ 61.1%   
禁錮7年 141件─ 61.6% 常習賭博・贈賄・器物破損等
懲役3年 169件─ 73.8%   
禁錮5年 170件─ 74.2% 暴行
懲役2年 192件─ 83.8%   
禁錮3年 197件─ 86.0% 遺棄・遺失物横領
懲役1年 211件─ 92.1% 公然わいせつ
懲役6月 216件─ 94.3% 過失致死・賭博・過失傷害
罰  金 228件─ 99.6% 侮辱
拘  留 229件─100.0%   
総  数 229件─100.0%   

 被害者の死亡
 人の生命や身体に危害を及ぼす犯罪について、その軽重を考えてみよう。
 @他人を殺すつもりで行為をすれば殺人罪である(刑199条[死刑又は無期もしくは3年以上{15年以下}の懲役])。 未遂の場合は、減軽することができる。
 A他人を傷つけるつもりだったが、穂会社が死亡してしまったのであれば、傷害致死罪である。(刑205条[2年以上{15年以下}の懲役])。
 B他人を傷つけるつもりで、傷つければ傷害罪である(刑204条[10年以下{1月以上}の懲役または30万円以下の罰金若しくは科料])。
 C業務上必要な注意を怠って他人を死傷させると業務上過失致傷害罪である(刑211条[1月以上]の懲役又は禁錮又は50万円以下の罰金)。
 D他人を傷つけるつもりで、傷害までいたらなければ暴行罪である(刑208条[2年以下{1月以上}の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料])。
 E過失によって他人を死亡させると過失致死罪である(刑210条[50万円以下の罰金])。
 F過失により穂とを傷害すれば過失傷害罪である(刑209条[30万円以下の罰金又は科料])。(中略)
 自由の値段
 それでは、刑罰は、どのように適用されているのだろうか。確定した判決を見てみると、財産刑が約95%を占め、自由刑は5%程度にすぎない。 死刑は年間数件、無罪は100件前後といったところである。このように、法定刑レベルでは自由刑が90%を占めているにもかかわらず、宣告刑レベルでは95%が財産刑であることをどう考えたら良いのだろうか。
 思うに、近代の資本主義経済社会においては、すべての構成員が自らの財産を商品として売ることによって生活の糧を得て生活をしている。 ところが、プロレタリアート(無産者)と呼ばれる人たちは、財産を持ち合わせていないように見える。しかし、よく考えてみると、どの人も、自らの労働力という商品を持っている。 これを時間という単位で市場に売り出せば、財貨を得ることができる。労働を商品として売り出すという偉大で苛酷な発明が、近代市民社会における商品交換のスピードを速め、生産力を飛躍的に発展させた。
 大学に入り、アルバイトを始めた学生諸君には、労働力を時間で売るということが実感として理解できるであろう。懲役1年を自給800円で計算してみれば、いくらぐらいになるであろうか。 その意味で、罰金は軽い刑である。
 私たちにとって、自由はとても貴重な財産だ。他人の自由を大切にしない人は、自分の自由も大切にできない。刑罰として自由を奪われるということの意味をよく考えてもらいたい。 そして、大学生活の中で自由の意味をじっくり考えてほしい。 (『刑事法を考える』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『刑法という法律』改訂版             古田佑紀 国立印刷局    2005. 4. 1
『刑法がわかった』                船山泰範 法学書院     2000. 9.30
『刑法の基本思考』                 中村勉 北樹出版     2000. 3.25
『刑事法を考える』        石塚伸一・大山弘・渡辺修 法律文化社    2002. 7.20
『いちばんやさしい刑事法入門』 佐久間修・高橋則夫・宇藤崇 有斐閣アルマ   2003. 4.30
『刑事法を考える』        石塚伸一・大山弘・渡辺修 法律文化社    2002. 7.20
( 2007年6月11日 TANAKA1942b )
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(13)経済学的観点から法曹界をやぶにらみ 
「感情」から「勘定」への判断へ

 今週は趣を変えて、法曹界以外=経済学者から見た法曹界を取り上げる。死刑制度にな拘らず、 「法曹界の匂いのしない意見」を取り扱うことにする。ポイントは、<「感情」のよる判断から「勘定」による判断へ>ということだ。 ここでは竹内靖雄著『経済倫理学のすすめ』を中心に話を進めて行くことにする。
*                      *                      *
<「希少性」の制約と倫理問題> 本書は「経済学の発想による倫理学入門」である。
 ここで、「倫理学入門」とは言っても、古代以来数多くの哲学者、思想家が書き残してきた数多くの倫理学的入門書とは、必要とするもの趣を異にする。 本書で取り扱われるのは、「希少性」という制約の下で人々が行動する場合に生じる問題、例えば「人々が欲しがっているものが全員に行き渡るほどには存在しない時に、どのようにしてそれを人々に分配すればよいか」といった 性質の問題である。これを「どのように分配するのが正しいか」、「分配の正義とは何か」という形で議論すれば、普通の倫理学の教科書と似たスタイルになる。 アリストテレスやトマス・アクィナスによってすでに十分論じられたこの「分配の正義」という言葉は、本書でももちろん取り上げるが、ただ、この言葉の意味、用法の学説史的な穿鑿はしない。 例えばこの「分配の正義」ということは。早く言えば「どのように分配すればよいか」という問題であるから、この問題は、誰もがもっている経験と想像力と推理力、要するに「常識」を動員して、単刀直入に考えてみればよい、というのが本書の立場なのである。 しばしば必要以上に難解な、もってまわった表現で語られることの多い哲学者たちの説を紹介するよりも、現実に起こりうる状況を想定して直接問題を解いてみる方が、「頭の訓練」にもなってはるかに有益ではないだろうか。
 ありとあらゆるものが無限に存在して「ただで」手に入り、いくら使ってもなくなるということがない「おとぎの話のワンダーランド」では、他人からものを奪って損害を与える「窃盗」もなければ、分配の仕方が不公平だという問題もない。 おまけに「生命も無限」にあって、人々が不老不死ならば、「殺人」という犯罪もない。このような「夢のユートピア」では、倫理問題も経済問題もなく、したがって倫理学も経済学も消滅しているはずである。 そして、そこに残るただ1つの問題は、「何が美しいか」、「高貴な行動とは何か」、「優雅な態度とは何か」等々の美学的問題になる。実はこれまで倫理学の名で論じられてきた「人間の徳」の中には、この種の美醜の問題に属するものが案外多いのではないか。 「衣食足りて礼節を知る」と言われるのはまさにその例で、「希少性」の制約がゆるんだ豊かな社会では、何よりも「カッコよさ」が求められるのである。「礼節」というのは倫理的に正しい行為というよりも、「サマになってカッコいいマナー」のことを指している。
 しかし、これは倫理学の終わったあとの話になる。残念ながら、本書ではこのような「人間の徳」、つまりわれわれが称賛し、身につけたいと願うような「優れた人間としての質」の問題にはほとんど立ち入ることができない。 ここではあくまでも倫理問題がテーマであって、言いかえると、「どのような行為が称賛されるか」ではなくて「どのような行為が非難されるか」、「何が正義で、何が不正か」、「何が妥当な解決か」といった、ある意味では厄介で不愉快な性質の問題を取り上げる。 希少性の制約の下で「何事もままならぬ」状況から生じるのが倫理問題であるから、もともとそれは考えて愉快になるような問題ではない。 そこで人々は考えることを停止し、思考を節約して、いきなり感情的非難に走ったり怒りを爆発させたりすることになる。これは度を過ぎれば愚行につながり、しばしば困った結果を生む。
 もともと倫理問題は感情問題でもある。「ある人のある行為は正しいか」という問題は、「それが是認できるか、それとも許せないと思うか」という問題であり、数学の問題のように論理だけで正解を見つければよいという性質のものではない。 倫理問題は論理のレベルだけで扱える問題ではない。あるいは哲学者好みの言葉で言えば、「理性」に属する問題ではない。これはデオヴィッド・ヒュームのとった立場であるが、われわれもここではこの立場をとることにする。
 例えば「人々が何を、なぜ不正と考えるか」という問題に対しては、「それは聖書に書かれた神の言葉によって明らかだ」とか、「神が人間が与えた理性に照らして自明のことだ」といった形で答えることはできない。 それどころか、この問題は、人々の「反感」や「嫉妬」のような感情を抜きにしては考えられない性質のものである。また、人が「不公平だ」と言うのは、その人が直接不利益を蒙る場合は無論のこと、そうでなくても他人が「濡れ手に粟」で利益を得たのを知ったりした時であり、このあとの場合、「不公平」という認識を支えているのは明らかに嫉妬という感情である。 「他人の幸福は自分の不幸」であり、だからその逆もまた真で、「他人の不幸は自分の幸福」なのである。しかし、このような嫉妬はどう考えても「高級な感情」ではない。 人前にさらけだすのが憚られるような「劣情」であることは否定できない。そこで人は「濡れ手に粟」の利益を得た行為が、実は「不正な行為」ではないかと疑う。 そして法律に照らして違法であるかどうか、贈収賄にあたるかどうかといった「ケジメ」(区別)はそっちのけで、「何が何でも悪を摘発せよ」という声が高まる。マスメディアも人々の嫉妬を煽り、この声を増幅して、「世論によるリンチ」に熱中する。 倫理問題はしばしばこのような感情問題として人々を興奮させる性質のものである。
 贈収賄が違法であり、不正であることは間違いない。ただ、贈収賄という犯罪は、殺人、強盗、詐欺などの犯罪とは違って、明確な「被害者」がいない。 贈賄をもらった方も渡した方もそれぞれ得をしているけれども、関係のない第三者の「庶民」にどのような実害を与えたかははっきりしない。 それがなぜ犯罪になるか、なぜ贈賄を禁止するルールが必要か、という問題については、感情問題とは別に、もう少し複雑な理由づけを要する。 それにしても贈収賄事件は「庶民の感情を逆撫でする」ものであって、人々がむきになって起こることは殺人や窃盗の比ではない。 その怒りの正体も嫉妬であろうが、このような感情を人間から一掃するわけにはいかないものの、度を過ぎて感情に支配される社会は健全であるとは言えないのである。
 このように、倫理問題のあるものは、ほとんど感情だけで構成されている「感情問題」そのものであって、このことを無視して倫理学を「理性」の領域に閉じこめようとする立場は間違っている。 嫉妬を抜きにした正義論などはセックスの問題に触れない恋愛論に似ている、とはいうものの、何が不正であるかという問題を、人々が嫉妬の情を発動して決めるのに任せておけばよい、ということにはならない。 多数の感情が支持することが正義になる、と言って済ませておくわけにはいかないであろう。 それでは単なる集団的愚行に終わるだけではないか、という疑問が残るのである。人々が「革命的情熱」に駆られて王や王妃の首を切り、あるいは「反革命分子」の粛清と称して大量虐殺に走ったという愚行の歴史を、われわれは後世の第三者として肯定するわけにはいかない。
 そこでわれわれは倫理問題を、その成立の根は感情問題にあることを認めながら、できるだけそれを感情のレベルでは処理せず、可能な限り「勘定」の問題として取り扱う、という立場をとりたい。 というのも、問題の性質が「希少性」という枠の中で妥当な解決を見いだすべきものである以上、できるだけ人々の利益や満足を大きくするような、あるいは損失や不満を少なくするような、無難な答えを得なければならないのであって、それには損得勘定が不可欠なのである。
 しかしそれならば、倫理問題・経済問題はすべて国家が中に入って「公平な分配」を決める、というような形で解決されるかと言えば、そうではない。 どんなに強力な全体主義国家や社会主義国家を考えてみたところで、国家がすべてを計画し、命令し、生産し、配給するという形で「正義」を実現することは不可能である。 それが可能であり理想である、という思いこみがどのようにして裏切られたかは、過去の歴史を眺め、近くはロシア革命以後のソ連の経験、戦後の中国の経験などを眺めてみるだけで十分理解できるであろう。
 むしろ、倫理問題・経済問題は、人々が自由にしたいことをしながら解放されていくのが理想である。そして、「希少性」という制約がある以上、各人が自由に利益を追求するならば「競争」は不可避となる。 そこで適当なルールの下で競争が行われるようにすれば、それは力づくの「闘争」ではなくて「ゲーム」になるから、人々がどのような状態に落ち着くかはゲームの結果に任せればよい、ということになる。
 この競争的な「ゲームのシステム」──経済の場合なら「市場システム」──がうまく働くようにしておけば、ほとんどの経済問題とともに、同じような構造をもつ倫理問題も解決されて、いわば問題としては「消去」されえうことになる。 本書の狙いは、こうして厄介な倫理問題とされているものを極力「消去」していくことにある。つまり、新しい解決と称して複雑な答えを書き加えることではなく、問題の性質、構造を明らかにした上でそれを消していく消しゴムの役目を引き受けようというものである。
 この「消却」と「損得勘定」という手続きは、伝統的な倫理学が固定してきた感情をしばしば「逆撫でする」ことがあるかも知れない。例題として設定した問題にはその種のものが混じっている。 また、それに対して示した「考え方の例」にも習慣化した道徳感情の動きとは食い違うものがあるかもしれない。しかし本書はこれらの問題に決定的な解答を用意したものではなく、問題の解き方のヒントを示したものにすぎない。 倫理問題は、数学の演習問題と同じで、原理を明確につかんだ上で実際に解いてみることに意味がある、ということなのである。 (『経済倫理学のすすめ』から)
*                      *                      *
<「感情の問題」を「勘定の問題」に> 経済問題と倫理問題は同型の構造をもっている。この点に着目すれば、倫理問題すなわち「感情の問題」を可能な限り「勘定の問題」に還元し、競争の場である市場にゆだねて解決することができる。 同じように、感情に支配される世界の常識(実は非常識)を、市場の論理を使ってくつがえしていくと、嫉妬に発する私欲否定の正義がしばしば愚行に終わることも明らかになる。
 この本も、感情を勘定に還元して倫理問題を消却しようとする立場に立ちながら、成熟した市場社会である日本の社会と日本人の行動の表層を批評する試みになっている。 そして日本人がその行動を倫理的に正当化するために利用し、あるいは私益追求の行動の指針として採用しているさまざまな思いこみや知識、イデオロギーなどを「迷信」と名づけ、その正体を分析することを目指している。 つまり、この本はその意味で、迷信の「見えざる手」の働きを明らかにしようとした「経済倫理学応用編」であるということができる。(中略)
 今日の市場社会ではさまざまな迷信が流通している。
 この迷信とは何の根拠もない荒唐無稽な説ではない。迷信にはそれぞれもっともらしい根拠があり、信じるに足りる理由が用意されている。 だから人はその説をもっともらしいと思って信じるのである。信じるに足りる理由がかならずしも「盲信」や「妄信」ではない。 血液型で性格が決まるという説にも「**を食べれば健康になる」という説にもそれなりの理論があり、経験上の裏づけらしいものがあるし、「**を信じることによってあなたも救われる」という宗教的な教えは、しばしば複雑精妙な教義の体系で支えられている。 そして簡単には反論を許さない。ここが実は迷信の迷信たるゆえんで、その誤りが簡単に証明されたり、簡単に論破されたりするような「謬説」、「珍説」のたぐいでは大した迷信とは言えない。 第1級の迷信は、それが間違っていると証明することが不可能であるためにまさに正しいと信じられてしまうような説なのである。 「宇宙人の乗ったUFOは存在する(それを見た人がある)」という説に対して、「それは存在しない(見たというのは間違いである)」ということを証明することは不可能であろう。同様に、「神は存在しない」ことを証明するのも至難のわざである。
 日本も他の国に劣らず迷信の栄える国である。その繁栄ぶりからいえば世界有数の迷信大国かもしれない。その最大の理由は、日本には一神教タイプの宗教という、他を寄せつけないような「大迷信」や多くの人を支配する「大思想」(たとえばかつてのマルクス主義)の独占的状態が存在しないことにある。 つまり日本は宗教、思想、迷信などの情報市場が競争的で、人々が消費して楽しめるような迷信情報が氾濫しているのである。宗教をとってみても、日本人は冠婚葬祭から入学、病気快癒等々まで、その時々の必要に応じていくつもの宗教のお世話になり、お賽銭、戒名料、お布施などを支払っている。 こうして、宗教も今ではサービス産業の1つとして繁盛しており、日本人はある宗教を信じて命を捨てたり他人を殺戮したりするといった行動とはおよそ無縁である。 このようは社会の居心地のよさに日本人は気がついているのかいないのか、日本には本物の宗教がないとか、日本人は信仰心がないとか、不思議な迷信を真に受けて肩身の狭い思いをしている。
 何が真実であるか、何が正しい説であるか、何が正義であるかについてむきになって議論するという習慣は日本がまだ貧しい時代のものであった。 その頃の貧しい欲求不満人間の代表であった学生たちの中には、そういう議論に明け暮れて、ついにはマルクス主義を奉じ、「革命」のために闘うといって警察官を相手に市街戦ごっこに熱中するものもあった。 しかし高度成長の達成とともに、学生たちもこのような思想にとりつかれて行動するという「まじめさ」を卒業したようである。かれらも豊かな消費者の仲間入りをしたので、今は消費生活とそのためのアルバイトにだけ関心があり、ポスト・モダン系その他、多種多様な思想のファッションも遊びの情報も、すべて消費して愉しむだけである。 こういう状況は、成熟した市場社会にふさわしい情報市場の姿であり、「知的消費生活」の姿であって、今後この傾向が逆転することはないであろう。
 そこで人はそれぞれ自分の立場と現状を正当化してくてる迷信を信じて「かのように」行動し、快い迷信を選んで消費しながら生きている。 この「かのように」の生き方、「かのように」でつくられた世界というものが、実は普通の生き方であり、普通の世界なのである。 それをとりあえず本物とみなして生きることが普通の人の知恵であり、またそれが大動乱でも起こらない限り一番無難な生き方でもある。
 人はさまざまな迷信にもとづいて行動した結果、愚行に走ることもある。しかしそれが愚行であるかどうかは簡単には分からないことが多いので、愚行のために自分が損をしたり、世間に迷惑をかけて非難されたりした時にはじめて、それが愚行であったことに思いいたるのである。 そして賢い人ならそれを引き起こした考え方の間違いに気づき、それがまさしく迷信にほかならなかったことを知るのであろうが、ほとんどの人はこの経験もしないまま生きていく。 だから多くの迷信は安泰である。そして人々が飽きて捨てるまで迷信は栄える。
 こうして迷信の繁栄とともに、いたるところで「小愚行」のバブルが発生するけれども、全体として社会は安定して存続し、社会そのものが破滅的な「大愚行」に陥ることはない。 この不思議さ、あるいは「いい加減さ」をアダム・スミス流に説明するならば、すべては迷信の「見えざる手」に導かれるかのように進行し、かつ大過ない結果に到達する、ということになる。 人は国家から「唯一の正しい説」を配給してもらうわけでもなく、政府に正しい行動を指示されるわけでもなく、また大賢人の説に導かれて行動するわけでもなく、それぞれ迷信を奉じて「愚考」し、「愚行」する。 しかしそれで社会が大過なく動いていくのは、根本のところで人々の目的がそれぞれの自己利益にあるからで、迷信は人々を試行錯誤へと導く「見えざる手」となっているからである。 つまり、これがアダム・スミスの「見えざる手」が働く世界の表層の姿にほかならない。
 ただし、ここで個人も社会も大きな愚行に陥らないためには、迷信の迷信たることを知った上で、それを真なりと認める「かのように」行動することが重要である。そこで迷信の薄い皮を剥がしてその正体をよく吟味してみることが必要になる。
 本書ではこのような立場から迷信の繁栄する市場社会の姿を分析している。それは、さまざまの迷信が嘘であり間違っているということを「証明」しようとするものではなく、それらの迷信の正体と役割を明らかにすることをめざしている。 (『迷信の見えざる手』から)
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<「利己的な遺伝子」> 問題 人間には自分が犠牲になってわが子を助けるといった利他的行動が数多く見られる。 動物の場合も、母鳥が自分を危険にさらして襲撃者を引きつけることでヒナを守ったり、カマキリのオスが交尾の際メスに食われてメスのための栄養源になったりするような、一見利他的に見える行動が知られている。 動物、人間を問わず、「種の維持」に貢献する自己犠牲はある種の合理性をもつ行動として一般に行われているのではないか。
 確かに、この種の行動は広く見られるもので、人間や動物の「母性愛」あるいは「母性本能」という言葉で説明され、美化されている。 それと同時に、こうした一見利他的な行動は、その種族の集団全体の生き残りという目的に照らして合理的なものである、という説明もよく聞かされてきたところである。
 たとえば、40歳の母親が生き残るよりは10歳の子供が生き残る方が、将来子孫を残す可能性が大きい。「母性愛」に導かれた母親の自己犠牲は、結果としては人類全体の生き残りに貢献することになる。 このような「有益な利他主義」は、人間にも動物にも、いわば行動プログラムとして内蔵されているのではないか、「個体の生き残り」を至上とする利己主義の原則には反していても、この限りにおいて合理性があるのではないか…… といった説明は一応もっともらしい。それは利己主義の原則に加えて、種の保存という目的にとって有効な利他主義的行動を、例外的な補完物として認めよう、という立場である。
 もちろん、これは証明することはできない1つの「解釈」であるにすぎない。それならば、同じ解釈としては、単一の原理による例外なしの統一的な解釈の方が優れているのではないか。 そこで注目されるのがR・ドーキンスなどが提唱する「利己的遺伝子」(selfish genes) という考え方である。この考え方によれば、個体の種の保存あるいは集団全体の利益にかなうよう行動する、という曖昧な解釈を採らず、動物の行動は、結果において遺伝子自身の永続と拡散に役立つようプログラムされているかのように見える、ということになる。 もちろん、動物の個体がそのことを意識して行動するわけではない。また個体が「利己的な遺伝子」から直接指令を受けてそのように行動するわけでもない。 結果がそのように、つまり遺伝子が自己保存を目的として行動しているかのように解釈できる、ということなのである。
 例えばライオンのオスが、ライバルのオスを追放してメスを手に入れた時、前のオスとの間にできた子は殺してしまう。ゴリラのオスは子連れのメスかた子供を奪って殺す。 すると子供を奪われたメスは発情し、そのオスについていく。
 これらの行動は、「子供の生き残りを図ることが種の保存に一層貢献する」ということでは説明できない。母親はなぜ自分の生んだ子供を新しい夫から守らないのか。 人間の場合はさらに極端で、愛人や新しい夫に嫌われないように、邪魔になる自分の連れ子を母親自身が捨てたり殺したりする例があとを断たない。
 オスの立場からすれば、他のオスの遺伝子をもっている子を殺し、それによって授乳中は発情しないメスを発情可能な状態に導き、自分の遺伝子をもった子を残す方が合理的である。 メスの立場からすれば、前のオスよりも強くて優秀な(ということはオス同士の戦いによって結果が出ている)オスの子をつくる方が、これまた自分の遺伝子の永続にとっては有利である。 したがってライオンその他の「種内の幼児殺し」は異常な行動ではなくて、きわめて合理的な行動だということになる。動物の世界には、原則として、合理性から逸脱しているという意味で異常なものはない。すべては余りにも合理的である。 (『経済倫理学のすすめ』から)
<犯罪を経済学的な観点から見る> 犯罪はある人間が他人に危害や不利益を与える行動であるから、犯罪があればかならず不正が生じる。 被害者は正義回復のための措置を取らなければならない。一方、国家は犯罪者を逮捕し、処罰するが、これは被害者の正義回復を代行してくれるものだろうか。 たとえば、人を殺した者を裁判にかけて死刑にすることは、国家は犯罪を抑止するという国家自身の目的のために犯罪者に刑罰を科すのであって、被害者の正義の回復は、これと別に、加害者に対する損害賠償請求によって行うほかない。
 犯罪を抑止するためにはさまざまなコストがかかる。社会はいくらでもコストをかけて犯罪の絶滅を目指すというわけにはいかない。 また、警察が個人に関するあらゆる情報を持っているような「超警察国家」をつくることもできない。犯罪を抑止するためには、まず犯罪を行うことが「引き合わない」ような厳しいペナルティを用意することが必要である。 2200年以上前にこの経済学的な発想をはっきり述べたのは韓非であった。何をしても「怖いものがない」社会では、多発する犯罪に対応するためにますます多くのコストをかけなければならないし、しかもその効果が期待できない。 犯罪者を罰しないで保護・管理することが人権拡大だと思うには錯覚である。
 市場では、ルールの下で、自分の責任において、自分の利益を自由に追求するのが原則である。今日の市場社会は、個人が最大限の「自己決定」の自由を主張する方向に進んでいるが、この最大限の自己決定権と抱き合わせになるべきものが最大限の自己責任である。 自由に行動する以上、失敗した時に国家の救済や保護を当てにすることはできない。
 本書では、人権派と同じく、最大限の自己決定の自由を支持する立場をとる。ただし、人権派とは違って、同時に最大限の自己責任を要求する立場をとる。 刑事裁判においても、被告の責任能力を最大限に認めることを原則とすべきであり。犯罪者についても、「心神喪失」といった自己決定能力欠陥を軽々しく認めるべきではない。 それは犯罪者の人権を無視することになる。未成年者についても同様である。
 日本でも、「お上」すなわち「官」が、さまざまなトラブルを規制・指導・保護といった行政的な手法で処理する形から、裁判によって司法的に解決する形へと移行する傾向が見られる。 このことは、日本もアメリカ型の訴訟社会に近づかざるを得ないことを意味する。「お上の裁き」に近い性格を残している日本の裁判も、「両当事者が判定者を前にして争うゲーム」の性格の鮮明なアメリカ型の裁判に近づくことになるであろう。 しかしそれは、日本もアメリカ型の陪審裁判を採用すれなよいということではない。陪審制にしても参審制にしても、市民参加型の裁判には重大な難点がある。 司法改革がこの方向を目指すことには賛成できない。また、アメリカのように、企業から巨額の懲罰的損害賠償を獲得する一攫千金的ビジネスとしての弁護士産業が膨張していくのも歓迎すべきことではない。 とはいうものの、日本のようの弁護士・裁判官・検察官が人口に比べて異常に少ない状態をこのまま続けることはできない。超難関の司法試験によって法曹人口の「供給制限」をすることで。司法サービス産業を競争の少ない「聖域」に隔離しておくのは間違っている。 (『法と正義の経済学』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『経済倫理学のすすめ』「感情」から「勘定」へ  竹内靖雄 中公新書   1989.12.20
『迷信の見えざる手』              竹内靖雄 講談社    1993. 9.30
『法と正義の経済学』              竹内靖雄 新潮選書   2002. 5.15
『現代日本の市場主義と設計主義』         小谷清 日本評論社  2004. 5.20
( 2007年6月18日 TANAKA1942b )
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(14)レントシーキングと規制緩和
法曹界に市場経済の空気を入れてみよう

 今週も先週に引き続き法曹界以外=経済学者から見た法曹界を取り上げる。死刑制度に拘らず、 「法曹界の匂いのしない意見」を取り扱うことにする。キーワードは「レントシーキング」だ。どういうことか?徹底した自由経済の立場からの意見を聞いてみよう。
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<陪審員制度・公的領域への参加は国民の義務か> 「公」の領域への一般市民の参加は市民の権利であり義務である、というタテマエに隠れて人は気づかないかも知れないが、陪審制や参審制は、素人を低報酬で使う、民間活力の悪しき利用の例である。 市民の参加といえば、民主主義の精神からしてそれは当然のこと、「多々益々弁ず」と信じて疑わない人が多い。しかし現実の陪審制や参審制は、こうした美名の下に一般市民に奉仕活動を強いるものであり、低報酬での奉仕活動を欲しない人たち、つまり多忙で高収入の人たちに忌避される仕事であることは間違いない。
 現にアメリカでは、安い日当でもないよりましという人、仕事のない人(失業者を除けば、専業主婦と老人)が陪審員をつとめる傾向がある。 日本にも暇を持て余している人が多いので、こういう人たちは低報酬など問題にせず、進んで参加しようとするかもしれない。 しかしカルチャーセンターや宗教団体の奉仕などへの参加と裁判への参加とでは、事の性質がまったく違うのである。
 政治に参加すると称して数千万票の中の1票を行使するのと、政治家、すなわち国会議員として立法の仕事に従事したり、大臣になって他国の首脳と会ったりするのとでは、参加の性質に根本的な違いがある。 後者のような政治参加は、選挙で選ばれ、正式に任命された人にしかできない性質のものである。官僚は選挙で選ばれた人間ではないが、それでも国家試験に合格して採用された人たちである。 行政参加と称して一般市民が官僚の仕事を分担することはできない。できるのは「1日警察署長」、「1日税務署長」までである。
 江戸時代には公務員としての警察官(与力・同心)はきわめて少なかったので、実際の捜査活動や情報収集は、正規の警察官でも何でもない目明かし・岡っ引きなどと呼ばれる町人が、わずかな小遣いをもらい、あるいは「目こぼし料」その他の好ましからざる収入を自ら稼ぎながら手伝っていた。 よくいえば「警察への市民参加」であり、実際はいい加減な民間下請け制であり、要するに「民間活力」の利用による公的支出の節約である。 陪審制・参審制にも民間人の利用という点で、これと同じ意味が含まれていると言わなければならない。 (『法と正義の経済学』から)
陪審裁判への根本的な疑問 陪審制や参審制がなぜ好ましくないか。
 個人が政治、行政、裁判に対して自由に批判し、不適正な政治、行政、裁判が行われるのを何らかの方法でやめさせる行動がとれる、ということは重要である。 その方法とは、選挙で落選させることで、そして、訴訟を起こすことである。アメリカでは政治家だけでなく、判事・検事も選挙で選ぶことができる。 ということは、好ましくない判事や検事を当選させないこともできる、ということを意味する。日本では最高裁判所判事が国民の審査を受けることになっているだけである。
 しかし参加する意志のない個人を、義務だと称して政治、行政、裁判に強制的に参加させるのは好ましいことではない。 これは消費者を製品の製造現場に参加させるようなものである。個人は自分の責任で自分の仕事をするのが原則で、自分が好きで選んだものではない国家の仕事(公務)を割り当てられ、強制的にやらせるべきではない。
 政治家(国会議員)、官僚、裁判官などの公務員は、いずれも自ら進んでその仕事を選び、報酬を得てその仕事をしている。 そしてその仕事に責任を負っている。裁判の仕事も裁判官に任せるべきであり、「1日○○」」を体験してもらうだけならともかく、責任ある仕事を責任のとれない素人に分担させるべきではない。
 個人が自分の仕事を離れて公務に参加すればよい、という「参加主義」は特殊な思想である。かりに個人が全員平等に国家の仕事(司法・立法・行政)を分担すべきだということなら、抽選で議員になって議会で仕事をすべきだし、「1日警察署長」ではなく、交代で警察署長や警官の仕事も実際にやるべきであろう。 もちろん、兵役の義務も全員に課すべきであり、少なくとも抽選で兵役に服することにしなければならない。
 古代ギリシャのポリスでは成人男子の市民には兵役の義務があった。ポリスのような小規模な都市国家では、成人男性の市民全員が兵士として戦うことを原則としなければ、対外戦争もポリスの防衛も成り立たなかったのである。 この「国民皆兵」の原則は、近代になってナポレオンが復活させたが、数千万から数億規模の近代国家ではこの原則は無理であると同時に不必要でもある。 現在、多くの国では徴兵制度をやめており、平時には、職業として軍人になることを選んだ者だけが軍隊を構成している。同じことが政治、行政、司法についても言えるはずである。 公的サービスの供給は、それを専門の職業とする公務員によって行われており、それを職業としない「素人」にまで供給側の仕事を強制するのは変則的なやり方である。
 一般市民の裁判への参加を義務づけることが望ましいというのであれば、次の条件が必要になる。
@陪審員または参審員の選任は無作為抽出を原則とする。
A例外的な理由(病気、心身の能力に問題がある者、選挙で選ばれた公職にある者など)による場合を除いて、選任を拒否することはできない。
B陪審員または参審員に選任されたことでこうむる金銭的不利益やチャンスの喪失その他の不利益については、十分な補償を行う。
 @、Aのような厳しい条件で国家への奉仕の義務を課されることになると、これはかの徴兵制度と何らかわりがないではないか。 国民全員が平等に司法参加の義務を果たすべきだという立場は、同様にして全員が平等に兵役の義務を果たすべきだという立場に対応している。 後者には反対だが前者は歓迎するというのは筋が通らない。
 陪審制にしても参審制にしても、職業裁判官以外の市民を参加させることの1つの利点は、その方が明らかに安上がりだということである。 彼らは「薄謝」(きわめて安い日当)でその義務を果たすことになる。重要な仕事を抱え、それによって高い報酬を得ている人に対してその仕事上のロスや「失われた報酬」を十分に補償するといったことは、一般には不可能であろう。 アメリカでもそれは行われていない。とすれば、別の分野で専門的な仕事をもち、高収入を得ているような「信頼できる人」ほど裁判への参加を忌避する強力な動機をもつことになる。 さらに、陪審員や参審員を引き抜かれた企業、学校その他の組織では、そのために生じた仕事の穴を埋めるためのコストを負担させられることになるが、国家にはそれに対する補償までする気はないであろう。 (『法と正義の経済学』から)
裁判はボランティアには任せられない では陪審員はやりたい人がやる、というボランティア活動方式はどうだろうか。実はこれこそもっとも好ましからざりやり方である。陪審員や参審員を意欲があって応募してくる人にやってもらうということにすれば、特殊な考え方の人だけが熱心に応募してくる恐れがある。 高額の報酬を支払う場合には、それを目当てに応募してくる人も増えるであろう。いずれにしても、この制度が偏った考え方のグループに「活用」され、自分たちの利益実現のために利用されることになるのはもっとも好ましくない。
 もちろん、ボランティアを募って陪審員または参審員を任せるという方式こそ市民参加の司法のあり方にふさわしいと考える人も少なくないであろう。 しかしこれが最悪の方式である理由は別にある。それは、裁判のような公的な意志決定に、「資格を審査されず、投票による支持も得られていない市民」を直接参加させるべきではない、ということにほかならない。 積極的に裁判に参加したい市民には参加する権利がある、という考え方は間違っている。
 自分から手を挙げる人々を参審員として認める場合は、「参審員試験」によって資格ないしは適正を認定するか、立候補制にして選挙で選ぶか、いずれかの手続きを経なければならない。 裁判所が適当に審査して「公平で良識ある」参審員候補を選び、その中で引き受けてくれる人を選任する、といった手続きではダメである。
 さらに重要な問題点は、こうして裁判に参加した素人市民に対して、誤審や「問題判決」の責任をどのように追求するのか、ということである。 一体、彼らは参加することにのみ意義があると称して参加した市民代表であって、その仕事ぶりや責任は一切問われなくてよいということだろうか。
 市民参加型裁判が物事を画期的に改善するだろうという期待には根拠がない。それは、消費者を工場の生産現場に参加させればよい製品ができる、あるいは欠陥製品の生産が防止できる、といった考え方に似ている。 こんなことは実際にできない相談である。 (『法と正義の経済学』から)
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<ロースクール構想の経済学・どのような制度なのか> ロースクール構想と呼ばれた企画に基づいて法科大学院が2004年4月に開設される予定である。 この構想は、適切な法曹人の選抜方法として機能していないと現行司法試験制度を強く批判した上で、ロースクールを中核とした法曹人養成を求めている。 より具体的には、この構想は司法試験制度を廃止し、新たに設立するロースクールの卒業を法曹人となる唯一の資格要件とすることを提言している。 構想では、新たな形で司法試験が存続する場合にはロースクール卒業を受験資格とし、ロースクール卒業生のほとんど、8割程度が新司法試験に合格するものとされた。(中略)
 社会の基本的条件から生じ、政府の作為なしで生じる秩序(自生的秩序)と一致するのでなくて、政府の作る公的秩序は花壇が原野に戻るように自生的秩序に取って代わられてしまう。
 ロースクール構想の目的は、内容は何であれ政府認定のロースクール卒業を法曹人となる唯一の要件に、(事実上)することによって、官製秩序である公的法曹教育とその関係者を自生的秩序から守ることと思う。 つまり、ロースクール構想は法曹人口の拡大を目的としてあげるなど一見規制緩和の一環として進められているように見えるが、自生的秩序の形成に対抗するための法曹に対する規制強化であり、経済学でいうレントシーキングである。
 自生的に生じる秩序は混乱・不潔といったものにしか多くの人々には見えない。それは、いかがわしく、不正規なものと、ときには道徳的糾弾を伴って嘆かれたりさえする。 このような自生的秩序に対する一般的反応を背景とすると、公的秩序に利益を有する人々が自生的秩序に抗い、レントシーキングを行うとき、彼らが正義の側に立っているかのように映る。 ロースクール構想はこのような例である。
 ロースクール構想はレントシーキングであるのにもかかわらず、市場主義の旗を掲げる人々がこの問題に沈黙を保ってきたのは興味を引かれる現象である。 その理由の1つは、法学部同僚の利益にはあえて反対しないのは仁義(暗黙の結託)であるという常識的な考慮であろう。しかし、もっと奥深い理由も存在するように思われる。 それは、日本的市場主義者が市場さえも官製であると考えるほどの設計主義者・制度主義者であることである。彼らは本当の自生的秩序には共感がなく、不潔感をむしろ抱く一方で、官製の公的秩序(本章では法曹教育の場として政府の決めた教育機関)を当然のものと見がちである。 このため、教科書的条件反射を引き起こさないロースクール構想のような非教科書的文脈でのレントシーキングに対しては、日本的市場主義者は官製秩序を守る側に自然に立つ。 (『現代日本の市場主義と設計主義』から)
レントシーキング ロースクール構想と呼ばれるものは論拠薄弱な現状批判に基づいたものである。そのようなものがなぜ強く推進されるのかを憶測すれば、ロースクール構想は経済学でいうレントシーキングを本当の目的としているからだと思われる。 レントシーキングとは、特定の集団が、法的行政的な各種規制の導入や保護策などの供給制限的措置によって、さもなければ得られないような権益・特権を自分たちに付与するように政府に働きかけることである。 政府の認定を受けたロースクールの卒業生を事実上唯一の法曹人になる必要要件とするのは、政府の認可した整備工場で検査を受けなければ車検を得られないとか、自動車運転免許の更新の際の提出書類は自動車免許試験場の周囲に群がる事務所に作ってもらわないと事実上受け付けてもらえないとか、 国際競争力に劣る日本の農業やアメリカの鉄鋼業界が国内需要を自分たちに向けさせようと輸入規制を政府に働きかけるとの同じことである。 (『現代日本の市場主義と設計主義』から)
公的法曹教育の衰退 法曹界にあって中心的な存在であったとはいえない大学法学部は、代替的な法律教育機関である司法試験受験予備校の最近の伸長によって法律教育機関としての地位をも大きく脅かされるようになった。 日本の農業と同じように成り立ちえなくなった法学部業界は(事実上の)ロースクール義務化によって自らへの需要をつけてくれるよう政府に要求しているのである。これがロースクール構想の主眼である。
 旧帝国大学の大学院重点化によって制度的に拡充された旧帝大の法学系大学院では閑古鳥が鳴いている。これが一般に知られて法学系大学院の社会的低評価とその拡充の無用さが、だれの目にも明らかになれば、直接間接の不利益を旧帝大法学系大学院は被る。 ロースクール義務化によって定員を埋めて(振り替えて)、これを未然に防ぐこともロースクール構想の目的とされているのであろう。 (『現代日本の市場主義と設計主義』から)
花壇を蔽う雑草 指定工場での車検や運転免許更新書類作成の問題は規制緩和によって消滅した。農業保護策も旗色が悪い。しかし、規制緩和の一環と一般には理解されているものの中に、新たな規制強化がすべり込まされようとしている。食料に不自由しない国での農産物輸入規制はそれほど重要でもない分野での規制であり、レントシーキングである。また、それによって利益を得る人々も日本社会では必ずしも恵まれているとは言えない人々である。 ところが、司法という社会の根幹とされる分野で大学法学教授のように恵まれていないとは言えない人々が、規制緩和の美名の下で政府からの保護と権益を求めている。
 ロースクール提唱者は、現行法曹選抜制度の不適さの象徴として司法試験予備校についていかがわしい印象が抱かれるように努めている。 しかし、有力大学法学部学生が有力大学法学部の授業をなおざりにし、有力大学法学部教授を無視して、いかがわしい予備校に通学して司法試験に合格し、しかも有力法学部も卒業する。 これほど有力法学部の社会的威信を揺るがすものは少ないであろう。司法試験予備校の繁栄は有力法学部が裸の王様であるにすぎないことを示し、長く批判されてきた受験体制や学歴主義の土台を掘り崩す最も有効な働きとして歓迎すべきものではないだろうか。 ロースクール義務化は、ロースクール設置対象校とされる無用な権威を永続化するのに役立つだけではないだろうか。
 政府が意図したからといって望んだ秩序が生まれるわけではない。経済社会の基本的条件に合致しなければ、それは存続し得ない。 花壇が雑草に蔽われる如く、官製秩序は自生的秩序に取って代わられてしまう。国公立、私立を問わず、法学部は法曹養成を目的とした官製秩序である。 この花壇は、自生的に生じた雑草のような司法試験予備校に取って代わられてしまった。ロースクール構想は、予備校という雑草から花壇を守るための除草剤といえよう。
 長く社会的権威を保ち続けたものが、その権威を支えていた社会的意義を失ったとき、その穴を埋めるものがひっそりと自生的に生まれる。 それは、成長するにつれていかがわしく、胡散臭くスキャンダラスな存在として軽蔑され、社会の庶子のように白眼視される。 しかし、それは既存の無内容な権威の基礎を白アリのように着実にむしばみ世の中を変えていく。既成の権威はその非正規性をさげすむように対抗し、その社会的認知を遅らせようとする。 現代日本社会で盛んに試みられている、政治家・官僚・ジャーナリズムとそれに連なる人々が行政的にまたは法令によって社会を変えようとする行為は、本当の改革ではない。 市場経済化とか既成緩和といった美名の下で行われていても、社会主義的・計画経済的発想の権威的行為である。本当の社会改革・市場主義的改革とは、社会的に胡散臭く見られている非正規の存在が既存の権威を朽ちさせていく、一見猥雑で不潔な印象を与える過程である。 (『現代日本の市場主義と設計主義』から)
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<治癒力・自生的秩序・盲目の時計職人> ほんの少し前まで「平成不況から脱出するため、日銀は買いオペを進め、インフレターゲット政策を行うべきだ」との主張が聞かれた。そこには、「日銀の政策次第で不況から脱出できる」との期待があった。 つまり「不況は日銀の政策次第で脱出できる」「経済はコントロールできる」との考えがある。それに対して「自生的秩序」があると考える人は、そうした考えを「設計主義」と批判する。「設計主義」と同じようなイメージに、TANAKAがよく使う「治癒力」やR・ドーキンスの「盲目の時計職人」などがある。
 生物の進化は、ある一定の方向を持っているわけではない。現在、生態系のバランスがとれているからと言って、神がこの秩序をつくったわけではないし、初めからこの秩序に向けて進化が進んできたわけでもない。それをR・ドーキンスは「盲目の時計職人」と表現した。 ハイエクは「設計主義」「自生的秩序」という言葉を使った。こうしたセンス・感覚は、違う感覚の人には理解も納得もできないかも知れない。それでも、「自生的秩序」「治癒力」「盲目の時計職人」といったイメージを持つ人がいることだけは知っておいて欲しい、と願う。
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<主な参考文献・引用文献>
『法と正義の経済学』       竹内靖雄 新潮選書   2002. 5.15
『現代日本の市場主義と設計主義』  小谷清 日本評論社  2004. 5.20 
( 2007年6月25日 TANAKA1942b )
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(15)裁判員は忠臣蔵をどのように裁くのか? 
東京裁判・仇討ち・必殺仕事人

 裁判員制度実施のために各地で事前練習が行われている。新人営業マンがロールプレイングをやるようなものだ。そこで、ここでは法曹界の人が考えつかないような事前練習を考えてみよう。 竹内靖雄著『法と正義の経済学』からの引用で、「赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件を、江戸の町人から陪審員を選定し、陪審裁判にかけたとしたら、どのような評決が出るだろうか」という設定だ。
 この死刑制度を扱って、刑法だとか、死刑廃止だとか、法曹界の人たちの本を読んで感じたのは「気配り半径の狭さ」「視野狭窄」ということ、つまり、発想が皆同じで、2次元的発想から3次元的発想に飛躍するようなものに出合わない淋しさを感じている。 たしかに、裁判員制度導入のために事前練習であれば、起こりそうな事例を設定して練習することになるのだろうが、発想の貧しさを感じてしまう。
 ということで、赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件をどのように裁くか?以下の文章を読んで頂きましょう。
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赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件を、江戸の町人から陪審員を選定し、陪審裁判にかけたとしたら、どのような評決が出るだろうか。
 弁護士は次のような主張を展開する。
 赤穂浪士の討ち入りは主君浅野長矩の仇討ちである。それは武士の範たるべき義挙であり、その行為は儒教道徳の精髄ともいうべきものである。 彼らは犯罪者ではなく、義士として遇するべきである。なお、この事件の発端となった江戸城松の廊下での刃傷事件は、吉良義央の方に刃傷を誘発する原因があり、少なくとも「喧嘩両成敗」の原則をもって処断すべきところを、原因究明の審理もなく、 浅野を即日切腹、浅野家は改易(領土没収)とし、吉良にはお咎めなしとした措置は不当である。吉良邸討ち入りはこの不正を正し、武家社会の正義を回復する行為でもあった。 赤穂浪士の行為には犯罪性はなく、むしろ顕彰されるべきものである。しかし形式上、法を犯したことも事実であり、何らかの処罰を受けることはやむを得ない。ただし死罪にはあたらない。
 検察側は次のように主張する。
 赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、徒党を組み、武装して他人の住居に侵入し、多数を殺傷した最大級の犯罪である。 この行為を仇討ちであり、義挙であると強弁することはできない。主君を殺された家臣がその手下人を討つのが仇討ちであって、本件の場合、そもそも仇討ちにもなっていない。 討てる敵を勝手に決めて恨みを晴らしたにすぎない。武家社会の慣行や儒教倫理など持ち出してこの犯罪行為を正当化することはできない。赤穂浪士全員を極刑に処するのが至当である。
 当時の世論や町人の反応からすれば、陪審の評決はほぼ全面的に弁護士の主張を支持したものとなり、赤穂浪士は無罪放免となったであろう。 法を無視し、感情的正義回復論を支持する形で、陪審員が自分たちで法をつくってしまったことになる。いわゆる「ジュリー・ナリフィケーション」(jury nulification 陪審による法の無視)の好例であろう。 そして赤穂浪士は一定期間謹慎したのち、希望に応じて諸藩に召し抱えられるといった扱いになる。その際、義士というヒーローを召し抱えたいと希望する大名は数多くいるので、ドラフト会議のようなものが開かれ、大名間で調整が行われるであろう。 大石良雄は大藩の家老にスカウトされるのにちがいない。
 しかしこの事件の実際の決着は、赤穂浪士全員の切腹ということであった。被告側は討ち入り(不法侵入・殺傷)の事実を認めているので、陪審裁判に至ることなく、司法取引が成立したとすれば、そのような決着になる可能性もある。 あるいは、弁護人は有罪を認めた上で、情状酌量による助命を主張するが、検察側は死罪を譲らない、という展開もありうる。結局、幕府は、赤穂浪士を罪人として処刑するのではなく、武士としての名誉を尊重し、自ら責任をとらせる形をとることで決着をはかった。 こうして赤穂浪士には切腹が言い渡されたのである。これは実質的には斬首による死刑であるが、名目上は名誉ある自決であり、義士の最期にふさわしいと見られた。 赤穂浪士が自死を受け入れて潔く「散った」ことで、彼らの犯罪性も封印され、こののち、義挙、快挙、美談としての「忠臣蔵」だけが人々の記憶に残ることになる。
 二・二六事件の場合も、陪審裁判の下では似たような評決が出るであろう。被告たち(反乱を指導した将校たち)の行為は「憂国の至情」によるものであり、その目的が正しいものである以上、その手段の違法性を問うわけにはいかない。 あれは反乱ではなく、「昭和維新」のための行動の一環であった……というわけで、ここでも超法規的感情論がまかり通って、法の存在は堂々と無視されることになるであろう。 これも「ジュリー・ナリフィケーション」である。 (『法と正義の経済学』から)
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<東京裁判、ストーカー殺人事件、フセイン裁判をどう裁くか?>  俗に「東京裁判」と呼ばれる極東国際軍事裁判に陪審員が参加したらどうなるだろうか?ウィキペディア(Wikipedia)で「東京裁判」を引いてみて下さい。 この裁判をどのように評価するか?となると国論を統一することはできないだろう。民主制度の評決の基本は多数決だ。しかし、東京裁判のようなことを多数決で決めることはできるのだろうか?
 1999年10月26日午後12時53分頃、S県O市のJRのO駅前の路上で自宅から乗ってきた自転車に鍵をかけようとしていた女子大生(21才)が、突然男に背中と胸部の2ヵ所を鋭利な刃物で刺された。通行人らが女子大生を介抱したが即死状態だった。目撃者の証言によると犯人は女子大生を刺した後、ニタっと薄笑いしながら逃走したという。
 ストーカー殺人事件と呼ばれるこの事件、犯人は死刑ではなく無期懲役であった。死刑廃止論者はこの判決を批判するはずはないが、一般人はどうだろうか? 「死刑にすべきだ」との声は多いに違いない。
 「世の中の常識ではこんな悪い奴がと思われる人間が起訴されなかったり、裁判で無罪になったり、軽い刑を言い渡されたりして、首をかしげることもある」 ということは、一般社会人の常識と、刑法での常識と違うことがあるということだ。
 フセイン裁判となるともうこれは陪審員の判断基準を超えていて、まともな判決は期待できない。
 これらの裁判に陪審員として参加したらどのような判決を下すことになるだろうか?皆さんも、想像逞しく考えてみて下さい。
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 … は じ め に …で取り上げた、古田の文章にこのように書いてある。
 世の中の常識ではこんな悪い奴がと思われる人間が起訴されなかったり、裁判で無罪になったり、軽い刑を言い渡されたりして、首をかしげることもある。そうすると、一方では、刑法は、悪いことは悪いとした、常識のかたまりと言われるなじみやすい法律のようでありながら、他方では、わけのわからない法律のような気がしてきて、結局、頭が混乱してしまう結果となる。
 この文章から分かることは、刑法のルールと世間一般の常識とは必ずしも一致しないときがある、ということだ。陪審員制度は素人が裁判の判決に参加することになる、ということは、刑法のルールを知らない人間が判決に参加するということだ。 上の文章の絡みで言えば、「世の中の常識ではこんな悪い奴がと思われる人間が起訴されなかったり、裁判で無罪になったり」という刑法のルールを知らない素人が「それでは世間一般の常識に反する」と異論を唱えることになる。 こうなると、刑法のルールから外れた判決を要求することになる。
 「陪審員制度によって法曹界の人間が、世間一般人の常識を知ることは良いことだ」と書いたが、判決が、刑法のルールから外れたものになるとしたら、これは良くない。 かと言って、「皆さん、陪審員はそのように言いますが、刑法のルールで言えば、それは間違っています」と言って陪審員の判決を無視するとしたら、陪審員制度を採用する意味がなくなる。
 農業問題を扱っていくと、「消費者教育が必要だ」という意見によく出合う。「農林水産省では、食に関する知識と食を選ぶ力を身に付けるための「食育」を推進しています」とは農水省からのメッセージだ。 農業問題を議論していくと、「食品の安全性について消費者教育が必要だ」「消費者は遺伝子組み換えの危険性について考えていない」「そんなに言うなら農村に行ってコメを作ってごらんなさい」 との意見が「土の匂いのしない人」に向かって発せられることがある。「食品の安全性に関しては、消費者の誰よりも私の方が知識がある」との自信と思い上がりに満ちた発言に出合うことがある。
 裁判の判決についていろいろ批判があるようだが、それなら一般人に「裁判で判決を出すということがいかに難しいことなのか、一般人にも分かってもらいましょう。そのためには裁判に参加して貰うのが良いでしょう」 という発想なのだと考えられる。
 乱暴な言い方をすれば「そんなに文句を言うなら、オレたちのやることをお前さんもやってみなさい」ということだ。「そんなに食料自由化を言うならば、農村に行ってコメを作ってご覧なさい」と同じ発言と感じた。
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 上記文章は頭の体操になったのではないかと思う。ここでもう1つ。頭の体操をして頂きましょう。 それは、死刑に代わる「仇討ち制度」についてだ。上記「陪審員は忠臣蔵をどのように裁くだろうか?」と同じ著者が違う本で書いている。それを引用することにした。
<仇討ちの復活は可能か=死刑廃止をめぐる迷信> 死刑の執行されない国 日本ではこの数年間死刑の執行がなかった。歴代の法務大臣がその職務をサボタージュして、在任中、執行命令書にハンコを捺さなかったからである。 刑法に死刑があり、裁判の結果死刑が確定しているのもかかわらず、その執行だけが理由もなく停止されるという変則的な状態が続いていたのである。 これらの法務大臣は、自分がハンコを捺して人の命を奪うのは後味が悪いとか、死刑制度廃止の声も高まっているおりでもあるし、自分ももともと死刑制度には反対だから、というような理由で、自分の任期中は死刑を執行せず、執行命令書を貯め込んで先送りにしていたらしい。 法はあっても、それをいい加減に運用して「ないに等しいことにする」という、まことに日本的なやり方である。こうして世論の風向きと自分の「良心」(?)の双方に対して「いい顔をする」ことが、格別非難されることもなくまかり通っていたのである。 ようやく職務に忠実な人物が法務大臣に就任して、何人かの死刑の執行を命じると、それを死刑廃止論者たちは非難している。
 このような幼児レベルの知的混乱は別として、死刑そのものを存続すべきかという問題については真面目に検討されてもよい。 日本人の間には、よほどのはっきりした利点がない限り、現状を変更しようとはしない「保守主義の知恵」が働いているので、今のところ死刑廃止は当然、という世論ができあがっているわけではない。 廃止こそ世界の大勢であるといわれても、それではたしてよいのだろうかという懐疑がまだ十分残っているのである。何が何でも死刑は廃止しなければならないという確信にみちた意見は少数であると思われる。
 死刑は蛮行か 死刑に反対する人々の根拠はどういうものだろうか。死刑は国家が法の名において人間の生命を奪う「蛮行」である、というような意見に対しては、人間の歴史の大部分、そしてほとんどの国や社会で死刑は行われてきたのであり、 それにはたんなる「蛮行」というよりもそれ相当の理由があったからではないか、と反問したくなる。死刑廃止論者は、これに十分に答えることができない。 とにかくそれは蛮行であった、許すべからざることであった、と繰り返すのみである。
 人間の生命を奪うことはいかなる理由があっても許されない、という生命至上主義に対しては、ではその生命を奪った殺人犯は許されてよいか、と反問することができる。 これに対する唯一の論理的な答えは「殺人は許すべからざる過ちであった。しかし国家がこの上さらに同じ過ちを重ねるべきではない」というものであろう。 ただしこの答え方は、「死刑を科すべきでないから殺人に対しても死刑を科すべきでない」と言っているだけの循環論法であって、死刑に反対すべき理由の説明にはなっていない。
 一方には、死刑制度がある限り裁判の誤りによって無実の人を死刑にしてしまう恐れがある、という理由をあげる人もある。 しかし裁判に誤りはつきもの、と簡単に言ってもらっては困るのであって、文明国の裁判では、有罪ではないかも知れないという「合理的な疑い」が残る限り有罪にはできない。 その場合は、犯人かも知れないという濃厚な疑いがあっても、有罪とは断定できないのだから無罪(正しくは not guity で「有罪ではない」)となるはずである。 もしも有罪とされたものが、やり直してみるとたちまち「合理的な疑い」が見つかって無罪へとひっくり返るような裁判なら、それは死刑の有無とは別に改善する必要がある。 「裁判は信用できないし、誤審を絶無とすることは不可能だから、死刑は廃止すべきである」という議論の仕方はおかしいのである。 ついでに言えば、裁判とは、神のような「明智」の裁判官が隠れた真実を発見する手続きなのではない。真実は犯人だけが知っている。検察官も裁判官もそれを推定することができるだけである。 けれども、有限回のしかるべき手続きを経て有罪という結論が出れば、それを妥当なものと認めるのが裁判という制度である。
 死刑反対論には、結局のところ、死刑は蛮行である、許せない、情において耐え難い、という感情を持ち出す以外に説得力となるものがない。 しかし実はこの感情論こそ決定的である。死刑には耐えられない、廃止すべきだと人々が感じるようになれば、死刑の存続は事実上不可能となるのである。 ただし、この感情論に対しては、もう1つの協力な感情論が立ち向かうであろう。つまり、自分の子供や妻等々が無惨に殺されて、その犯人が死刑にならないのは耐え難い、納得できない、という被害者側の感情論がそれである。 死刑廃止論者の感情論は、この被害者側の感情論に答えることができない。こちらのほうは公式には無視されされさいる。無視されているのは被害者の遺族の感情だけではない。 殺された人の感情はもっと徹底的に無視されている。なぜなら死んだ人は無であり、もはや感情もあり得ない、というフィクションが受け入れられているからである。 霊魂の不滅を説くような宗教の信者も、こういう時は殺された人の霊魂も感情も無に帰したものと考えるらしい。だから人々は、犯人が処刑されなければ殺された人が「化けて出る」とか祟りをなすといった考え方も今はない。
 要するに、被害者とその遺族たちの感情は無視され、第三者の「死刑はいや」という感情には大いに関心が寄せられる。これは数の問題である。 被害者側の人間はごく少数であるが、第三者は圧倒的多数を占める。多勢に無勢なのである。
 復讐の正義 古い社会の考え方は、何よりも被害者側の感情を尊重するものであった。今Aという人が殺されたとすれば、Aの一族は、殺した張本人のBか、Bの一族のうちAに相当する誰かを殺して復讐しなければ、怒りや悲しみは収まらない、あるいは気がすまない。 「復讐がなされなければ正義は回復されない」というのはこの感情論のことなのである。いわゆる「目には目を」の報復の原則はきわめて古いもので、正義の原型も実はそこにある。 集団対集団」、個人対個人の関係を律する正義の原則とは、この「やられたらやり返す」であり、「贈り物をもらえばお返しをする」である。 互いによいものを「ギブ・アンド・テイク」でやりとりする「交換」の関係も、さらに貨幣を使って交換を行う市場というシステムも、すべてこの古い正義の原則から発展したものである。 死刑廃止論者や教育刑論者のように、報復の原則など古くさいものでもう流行らない、などと言って済ませてしまうのは浅はかと言うべきであろう。
 報復の正義は人間の感情に基礎をおいているが、「やられたらやり返す」原則そのものは、無差別一般的で、関係者の特殊な事情や都合によって左右されるものではない。 極端に言えば、相手に殺意があったか、それとも過失であったかを問わず、人を殺した者は殺されなければならないのであって、この原則はきわめて厳しいものである。 古い社会では、個人の事情や都合は無視されて、一般的なルールが支配するのであり、個人はその支配から逃れることはできない。 そこには個人本位という意味での個人主義はないのである。
 重要なのは、ルール通りに正しく報復が行われることであるとすれば、それを被害者の身内が行うかどうかは関係がなくなる。個人で「仇討ち」をすることがあまりにも大きな負担になるとすれば、報復を国家の手に委ねて代行してもらってもよい、ということになる。 こうして人を殺した者を国家が処刑する制度ができあがったのである。しかしそうなると国家は、復讐の代行ばかりではなく、国家自信が死刑にすべきだと判断する人間も死刑にするようになった。 たとえば、国家に対する反逆者はその理由で国家によって殺される。
 こうして報復の正義から出てきた死刑制度は、その後修正を重ねられて今日にいたっている。修正とは、個人の事情と都合をできるだけ認め、それを重視しようという方向のものである。 殺人についても、なぜ殺したのか、殺さざるを得なかったのかという加害者個人の事情と殺意の有無ということが考慮されるようになる。 そこで自分がその立場に立ってみた時、自分でも殺したであろうと思われるような事情があれば、この人を死刑にするのは妥当ではない、という考え方が出てくるであろう。 また、「邪悪な目的のために人を殺した」のであれば、その感情には同情の余地がなく、このような場合は極刑に処してしかるべきではないか、という感情論も出てくる。 こうして、加害者個人の事情をめぐる感情論が重視されるようになる。今日の裁判の判決理由の文章を読むと、かならずこの感情論が展開されている。 被告は「同情の余地がある」と言われたり、「同情の余地がない」と言われたりするのである。そして死刑が適用されるのは、この「同情の余地がない」場合に限られるようになる。
 このようにして、立場を交換した場合の同情や同感に基づいて正義を決めようというのはアダム・スミス流の考え方である。 これによって死刑の必要を説明するならば、人々がこの殺人については同情の余地はなく、古い豊北の正義によって死を与えるしかないと感じる場合が必ずある、という事実のために死刑は必要なのである。 死刑反対論者も、そのような場合が絶無であると証明することはできないであろう。そこで、「それのもかかわらず死刑には反対する」という立場は、「死刑によって人が殺されることにはやはり耐えられない」という、もう1つの感情論にほかならないのである。 この感情論を持ち出された場合、もはや論理を用いて反論することも正当化を試みることもできない。問題は感情論と感情論の対立という形になってしまうのである。(中略)
 「必殺仕事人」の登場 死刑が廃止され、人を殺しても死刑にはならないということになれば、何が起こるだろうか。 死刑がなくなりさえすればよいという無邪気な死刑廃止論者のために多少の想像力を働かせてみると、おそらく次のようなことがおこりそうである。
 今、強盗殺人や強姦殺人、あるいはM君のような幼女殺害や誘拐殺人で家族を殺された遺族の感情を考えてみよう。犯人はもはや死刑になることはない。たとえば懲役250年といった刑に服することをになるであろう。 終身刑務所から出られないことは確実であるが、これでは気持ちがおさまらない、できれば犯人を「殺してやりたい」と思うことはよく理解できる。 ところで、かりに復讐のため犯人を殺したとしても、死刑にはならず、また情状が酌量されるので懲役100年ということにもなたず、たぶん懲役10年程度ですむであろう。 わが子を殺されて人生に望みを失った親なら「仇討ち」を試みることは大いに考えられる。自分で実行することが困難なら誰かに代行を以来したい。 そこでこの需要に応じて復讐を代行するプロの業者が登場するに違いない。かのテレビドラマでよく知られている「必殺仕事人」がこれである。
 この種の「闇の仕事」は、国家が十分なサービスを提供し得ないである分野には必ず登場してくる。需要を満たす適切な供給がないということは、市場に「隙間」があるということで、この隙間は必ず埋められる。 国家の手で死刑になるべき人が死刑にならないという状況があれば、民間でその死刑を執行しようということになるのである。
 この「必殺仕事人」の殺人代行料金は当然のことながら極めて高額なものになるだろうが、競争の結果、余裕のない顧客のために低料金で仕事を請け負う「いい加減な」業者も出てくるかも知れない。 これは業者も顧客も公になってはならない性質のビジネスであるから、「必殺仕事人」は闇の世界にひそみ、顧客が接触するのは極めて困難である。 そこで、中巻の取次業者も登場する。斡旋料を詐取されて、仕事人に接触できないまま終わるケースも多発するであろう。
 テレビの「必殺仕事人」の場合には、依頼された仕事が、法による処罰を免れている悪業を罰することになるかどうか、殺す対象が私的処刑に値する人物であるかどうかを確認したうえで仕事をする、というこの業界独自の倫理が確立されていた。 「中村主水」以下の仕事人たちは、カネさえもらえばどんな殺しでも引き受けるという殺し屋ではなく、違法であるが、あくまである種の正義にもとづいて行動しているのである。 もしも依頼人のほうに非があれば、依頼人のほうを「処刑する」ことになる。
 闇の世界に果たしてこの種の倫理綱領ができあがるものだろうか。カネでどんな殺人でも引き受ける業者が横行するようになれば、他人の恨みを買えばいつ消されるか分からないという恐ろしい世の中になる。 政治家はライバルを暗殺し、会社でも出世の邪魔になるライバルを消そうとする人が出てくる。国家はこんな状態を放置することはできない。 そこで仇討ちは厳禁され、代行業者も依頼人も、厳罰に処されることになるであろう。しかし少々の厳罰では仇討ちとその代行業を根絶することはできない。 ではどうすればよいか。「報酬を得て仇討ち代行と称して殺人を犯した者は死刑に処す」とでもしなければならなくなる。なんとも逆説的であるが、死刑が廃止された社会では、結局死刑がぜひとも必要となるのである。 (『迷信の見えざる手』から)
*                      *                      *
<刑法の論理か?庶民感情の論理か?> 「裁判員制度」と「犯罪被害者が参加できる法廷」とを考えると同じ様な傾向にあることが感じられる。 それは「刑法の論理か?庶民感情の論理か?」という疑問だ。裁判員制度下での「忠臣蔵裁判」で問題になるのは、刑法の論理よりも庶民感情の論理が重視される、いうことだ。 そして、「犯罪被害者が参加できる法廷」でもそれは問題になる。被害者が裁判に出席して、まったく判決に影響を与えない、とは考えられない。まして、素人の裁判員は影響を受けるはずだ。 まったく影響を受けないのならば、素人が裁判に参加する意味が薄くなる。裁判官という専門家だけの判断だけではなくて、一般庶民の判断も判決に影響させようという意味があるはずだからだ。
 この2つのことは、裁判官が自家不和合性に陥る危険性が薄れる、という意味では評価できるが、判決が、刑法の論理とは違った庶民感覚の論理に大きく影響を受ける、という意味では、不安が残る。
 忠臣蔵事件は過去の出来事だけど、最近の出来事としては、向井亜紀・高田延彦夫妻の代理出産の問題がある。最高裁の古田佑紀は2007年3月25日、双子の男児(3)との親子関係を認めず、日本国籍を認めなかった品川区の判断を支持した。 これに関して、民間の裁判員はどのように判断するだろうか?一般市民感情としては「認めてあげたい」というのが自然のような気がする。法律が整備されていないのだから認める訳にはいかない、とは裁判所の判断と正しいと言えるだろうが、庶民感覚としては少し違うかも知れない。 この問題に関して、一般人としては法律という面からよりも夫婦に対する好悪の感情に支配され易いと思う。
 NOVA裁判はどうだろう?こちらも法律から見ればNOVAの敗訴は正しい。けれども「まとめて買えば安くなる」が否定されることには、簡単に認めたくはない。民間の裁判員はNOVAに対する好悪の感情に支配されやすいだろう。 「感情」か「勘定」か?判断基準が揺れ動くことになりそうだ。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『法と正義の経済学』                         竹内靖雄 新潮選書   2002. 5.15 
『迷信の見えざる手』                         竹内靖雄 講談社    1993. 9.30 
( 2007年7月2日 TANAKA1942b )
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(16)法と正義の経済学の立場から見る 
死刑に代わるべき制度が見つからない

 死刑制度は存続さすべきかどうか、経済学の視点からの意見をここで1つ取り上げてみよう。
*                      *                      *
死刑は何のためにあるのか 死刑は何のためにあるのか。実はこれについて単純明快な答えはない。
@「仇討ち代行論」 国家が被害者にかわって仇討ちの代行をしてくれる、というわけである。しかしこの説はすでに指摘したように間違っている。
A「刑罰応報論」 国家は刑罰において、「殺人には死刑を」の形でタリオン(同害復讐)を実現するというのであるが、国家と個人との関係にタリオンの原則を持ち出すのはおかしい。 それはあくまでも殺人者と被害者との関係に適応されるべき原則である。
B「犯罪抑止論」あるいは「見せしめ効果論」 刑罰は法を犯したことにたいするペナルティであり、殺人のようなもっとも重大な違法行為に対してはもっとも重い刑罰である死刑が適用されるのは、抑止効果を考慮してのものである。
C「社会の免疫機能論」あるいは「有害人間抹殺論」 死刑は古代に行われていた「追放刑」の形を変えたものである。国家・社会は有害で危険な人間をメンバーとしておくことはできない。 免疫機能が「非自己」と認識したものを排除あるいは無力化して自己を防衛するように、社会もこのような人間を外へ、あるいは「あの世」へ、追放しなければならない。 死刑が廃止された場合は刑務所に「完全隔離」しなければならない。
D「道徳的懲罰論」 これは罪を犯した人間を国家(裁判所)が神にかわって罰しなければならない、という考え方である。 しかし国家を神の代理人にして道徳の管理者であるかのように見るのは、一神教の世界でも(少なくともユダヤ教、キリスト教の世界では)今や通用しにくい考え方であろう。 普通の国家では、神と宗教法に照らして悪を裁き、罰するのではなく、世俗の法に照らして犯罪(違法行為)にペナルティを与えるのである。 世俗の権力である国家に、そしてその官吏の1人にすぎない裁判官に人間を裁く資格はない、といった議論が、国家や裁判官は「神の代理人」でありえないということを主張しているのであれば、それはその通りである。 ただし、それだからといって人間を死刑にする資格はない、ということにはならない。人間を裁くのは人間であるしかなく、その人間が法によって他の人間の生命を奪うのも人間にとって必要な行為である。
 以上のような死刑についての説明のうち、意味があるのはBとCだけであろう。したがって、BとCが期待しているような効果が現実にはない、ということになれば、それが死刑を廃止する合理的な理由になる。 (『法と正義の経済学』から)
脱死刑の傾向 欧米諸国をはじめ、多くの国が死刑を廃止している。また歴史的に見ると、死刑離れの傾向が進んでいる。昔は、日本の平安時代のような例外はあるが、どの社会でも死刑がさかんに行われていた。
 ただし、古い時代には、人間(死刑執行人)が直接人体を切断したりするような、血を流す処刑方法を避ける傾向もあった。 昔の人間は血を恐れたたし、死者は恐ろしい存在であった。古代のもっとも重い刑は、死刑というよりも追放刑だったが、昔の社会は重罪人や危険な人間を死刑または追放刑としないで抱え込んでおくだけの余裕がなく、そのコストに耐えられなかったのかもしれない。 江戸時代までの日本にもカネのかかる刑務所のような施設はなく、懲役にあたるのは島流しであった。社会が豊かになるとともに、死刑になっても当然の犯罪者を死刑にはせず、刑務所に入れて管理していくだけの余裕ができてくる。 そうなると「何も死刑にしなくてもよいではないか」という人権擁護派が登場し、彼らの主張はさらに進んで、「人を死刑にしてはならない」という信念が成立する。
 かつて残虐な死刑がさかんに行われたのは、その時代のその社会の嗜好なのか、支配者の性向の反映なのか、いずれにしてもそれは人権思想の抵抗を排して無理やり行われたわけではない。 人々もそれを支持していたのである。公開の死刑は「見せしめ効果」を期待して行われたとされているが、それを見る人々の反応はそれほど単純ではない。 K・B・レーダーの『図解 死刑物語』(西村克彦・保倉和彦訳 原書房)にも詳しく紹介されているように、公開処刑は民衆にとってまたとない「見せ物」であり、娯楽でもあって、人々は「怖いもの見たさ」で押しかけてきたのである。 もちろん、そのことと「怖いもの」が犯罪に対して抑止効果をもつこととは矛盾しない。人々が興奮して見たがるのは、それが他人の処刑だからで、自分がそのように処刑されることを望むものは誰もいない。
 死刑が忌避され、次第に廃止に向かっている理由は、実に簡単なことである。
 それは死刑のような残酷な刑は人道上許されないということだろうか。あるいは、死刑が最大級の人権侵害だからだろうか。人道主義や人権主義という感情は、もっぱら死刑を執行される者を被害者と見て、その被害者に向けられているが、それはタテマエにすぎず、人々のホンネは、自分だけは何としても死刑になりたくない、それも火あぶり、釜茹で、車裂きといった恐ろしい死刑にはなりたくない、ということに決まっている。 現実には自分が重罪を犯して死刑になるようなことはあるまいと思っている人も、自分がいつか死刑を、宣告される可能性はゼロではない、ということは想像できる。それなら死刑に反対しておいた方がよい、と人は考える。 この利己主義から出てくる結論は完全に合理的なもので、誰もそれに異を唱えることはできない。つまり、死刑反対のホンネは「自分だけは死刑になりたくない」ということであり、それをタテマエとして高く掲げる時の看板が人権尊重や人道主義なのである。
 (T注)死刑反対のホンネは「自分だけは死刑になりたくない」ということに関しては、ジョン・ロールズの『正義論』との関係で後ほど扱います。
 また、人は他人を自分の手で殺すことを望まない。死刑執行人が1つの職務であり、職業であり、報酬や特権を伴うものだとしても、その仕事を望む人だけが死刑執行人になるわけではない。 人は国家の命令で死刑を執行することがその職務である以上、やむを得ないから執行にかかわっているのであり、自分の手で人を殺すころを望んでいるわけではない。 残虐な死刑が廃れ、ついには死刑そのものが廃止される傾向が一貫して進んできたのはこのこととも関係がある。
 国家が行う死刑は違法行為に対する刑罰であり、その目的は法秩序の維持ということである。刑罰は目的を達成するため威厳のあるものであればよい。 死刑、それも残虐な死刑は、それが絶大な「見せしめ効果」を発揮するという場合にのみ、合理的である。そうでなければ残虐な死刑を行うことに意味はない。 殺人事件の被害者の遺族や市民代表などの立会人も慣習もいない刑務所の一角で火あぶりその他の残虐な死刑を執行することにはほとんど意味がないのである。
 個人の利益を尊重し、個人の言い分をできるだけ認めることが文明の進歩だとするなら、文明はたしかに進歩してきたことになる。文明の構成要素の1つである国家は、この個人が求めるサービスを拡大し、個人がいやがることはやめるという形で、「個人本位」の傾向を推進してきた。 死刑廃止も残虐刑の廃止も、この個人本位が拡大する傾向の産物であると言える。 (『法と正義の経済学』から)
死刑反対論の根拠 死刑反対論の根拠になりそうなものは次の5つであろう。
 @人道主義の絶対反対論
 人道主義者にとっては、人の生命を奪うことは最大級の人権侵害であり、最大級の悪であるから、死刑に反対するのは当然、ということになる。 この信念は根拠も証明もいらない「迷信」であて、あらゆる反論を受けつけない性質のものであるが、ここでは次の反問をしておこう。 死刑が最大級の人権侵害であるとすれば、「死刑を宣告されるような殺人者は、すでに殺人という最大級の人権破壊を行っている。その人権破壊をどう考えるか」と訊きたい。
 人権主義者の答えはこうであろう。済んだことは仕方がない。しかし「殺人には死刑を」という応報主義をとってさらに人の生命を奪うことはゆるされない。 殺人者がその行為を反省し、刑務所の中で「教育」を受けて、人権を尊重する人間に更生することこそ真の責任の取り方である、と。
 この立派な理屈からは、被害者の受けた不正はどうなるか、その正義の回復はどのように行われるかという観点が完全に欠落している。 そこまで指摘されれば、人道主義者は、被害者には国家が十分な補償をなすべきである、というかもしれないが、これは言葉だけの辻褄合わせにすぎず、人権派が実際には加害者の人権擁護にばかり熱心であることは誰もが知っている。
 A「国家による殺人」論
 これは@の立場と重複することが多い。絶対的生命尊重主義(ただし尊重するのはもっぱら加害者の生命であるが)の人権派は、国家が人の命を奪うことにも当然反対する。 したがって死刑反対と戦争反対は彼らの一致した合言葉となる。死刑と戦争とは、国家だけがなしうる行為であり、国家が国家であることの証しでもある。それを絶対に認めないということは、国家の存在を認めないということに等しいが、それでは彼らは無政府主義者、無国家主義者であるかといえば、そうではなく、国家には弱い人間を手厚く保護する義務があるという。 人権の保護は国家がなすべきもっとも重要な仕事であるという。つまり、国家は人間に対して無限に優しい神様仏様、あるいは母親の如き存在でなければならない、ということになる。 死刑を執行し、戦争を繰り返す現実の国家は、神仏ではなく悪魔であり、死刑や戦争は国家の行う犯罪だということになる。このような理屈は実は妄想にすぎないが、この種の妄想を固く信じてい繰ることも、その人の自由である。 他人がこの妄想を訂正する方法はないし、そのような干渉をすれば、それこそ人権侵害だと叫ばれるであろう。
 B誤審の可能性を理由とした反対論
 人間が行う裁判には、いかに万全を期しても誤審がつきものである。誤審をゼロとすることは不可能である以上、無実の人間が誤って死刑を宣告され、執行される可能性もゼロとは言えない。 これは国家の手によって行われる最大級の不正であり、取り返しのつかない過ちである。これを避けるためには、いったん執行されれば絶対に訂正不可能な死刑という刑罰だけはやめなければならない、ということになる。
 (T注)初めに取り上げた「銀行強盗の例」では誤判の可能性はゼロと言える。「誤判は避けられない」は、一般論としては正しいように思われるが、すべての事件に誤判の可能性があるわけではない。
 C功利主義ないしは利己主義の立場からの反対論
 人は誰しも死刑にはなりたくない。たとえ自分が人を殺したとしても、死刑だけは免れたい。これはいかにも自分勝手な願望であるが、人はみな利己主義者であり、自分だけは死刑になりたくないと考える。 実はこれが死刑廃止論の底にある本当の気持ちであろう。しかしこれでは余りのも勝手すぎるので、人はホンネを表に出さず、人権主義その他のタテマエを考案して死刑反対を唱えているのかも知れない。
 D「死刑廃止は世界の大勢」論
 文明の進歩とともに死刑という野蛮な刑罰は廃止されるのが当たり前であり、世界の大勢はすでにその方向に進んでいる。 日本はこの世界の大勢に乗り遅れている。したがって1日も早く死刑を廃止すべきである。多くの人が、その根拠を明確に意識しないまま支持している死刑反対論、死刑廃止論は、実はこのような「世界の大勢」論であり、他人と同じように行動した方がいいという「横並び行動主義」でもある。
 死刑を非文明または野蛮の証明のように見る人は多い。しかしそれは間違っている。都市と市場がワンセットになって文明が登場した時から、国家は死刑と戦争を行う独占権をもっていた。 これをもたない国家はありえない。したがって死刑も戦争も文明の産物であって、それを非文明、あるいは野蛮の証明であるかのように考えるのは間違っている。 国家の法律による死刑やルールのある戦争とは違った次元の殺人、たとえば宗教の命じるところにしたがって人を殺し、「異端」の罪を糾弾して火あぶりにし、ルール無用の無差別テロの形で戦争を仕掛ける、といった行為が非文明、野蛮と呼ばれるべきものである。 (『法と正義の経済学』から)
誤審の問題 結局、死刑廃止論の唯一の正当な根拠となりうるのは、誤審の可能性がゼロではない、ということである。(中略)
 ただし誤審があり得るということを問題にするのであれば、あるとあらゆるタイプの誤審が無視できないほど頻繁に発生することを立証しなければならない。ただし、誤審と判明した誤審以外にも誤審がないとは言えず、しかもその数は絶対にわからない。 そこで死刑反対論も、結局のところ、「誤審が発生する可能性はゼロとはいえない」ことをその反対の根拠とするほかない。つまり、将来ただ1人でも無実の人間を死刑にしてはならないから死刑は廃止すべきだ、ということになる。 この立場は、国家は裁判と刑の執行に関して絶対に無謬でなければならない、ということを意味する。これもまた、「犯罪は根絶されなければならない」という信念と同じレベルにある厄介な思い込みである。 人間の社会をこうして「無謬の神」の目で見てその不完全さを断罪する態度は、ある種の幼児的な態度の名残りであるかも知れない。 人間がゲームの1つとして行っている裁判に無謬性を求めるのは間違っている。この点では、神にだけ無謬性を認める一神教徒の方が正しい。彼らは人間のすることには誤りがあるのは当然、と達観している。 その信仰によれば、誤審を含む人間の誤りは、最終的には「神」が訂正してくれりはずだから人間が気にする必要はない、ということになるのである。
さまざまな代案 死刑が廃止された場合、死刑に代わって「もっとも恐ろしい刑罰」として死刑に次ぐ抑止効果を発揮しそうなものは何か、常識では終身懲役または終身禁固である。 アメリカ式に、刑を加算する方式をとれば、強盗・強姦・殺人(4人)・死体損壊・放火などを全部やってのけた凶悪犯は、たちまち懲役200年を超えて、事実上「終身懲役」となる。 死ぬまで刑務所から出ることはできない。
 これを世にも恐ろしい刑罰だと考えるか、「一定の作業さえすれば、失業も生活費の心配もなく、死ぬまで安心して生きていける生活保障制度」と考えるか、それは人さまざまである。 普通の人は自由のない「塀の中の生活」は耐えがたいと考える。しかし考えようによっては、「塀の中」も「住めば都」で、そのうちに終身懲役を福祉制度のように実感するようになるかも知れない。 塀の外では、事業の失敗、失業、借金その他のトラブルに追いつめられて自殺に至ることも少なくないが、塀の中ではそのようなトラブルは一切ない。 能力と意欲さえあれば、十分すぎるほど長いほど長い年月を利用して、獄中作家や獄中芸術家になり、後世に残る作品を生み出すことも不可能ではない。 ある宗教に帰依して信仰三昧の生活を送り、大往生を遂げることも可能である。
 そう考えると、獄中で20年を過ごし、中高年の「前科者」として塀の外へ投げ出されることの方がはるかに苛酷な制裁であるといえる。
 フィリップ・カーの近未来推理小説『殺人探求』には、絞首刑や電気椅子にかわる「昏睡刑」が登場する。これは囚人を植物状態にしてある装置の中に入れ、人工的に無期限に生存させるという刑である。 万一、誤審であることが判明した時には、「生」の状態に戻すことが出来るので「取り返しのつかない」死刑よりはよいだろうということになる。 フィリップ・カーはイギリス人らしく、刑罰にかかるコストが無視できない問題であることを承知している。刑務所に入れて終身懲役あるいは終身禁固の刑を科すのと、昏睡状態にして自動栄養供給装置の中に入れておくのとでは、後者の方が十分の一の費用で済む、といった理由がある限り、昏睡刑に軍配を上げざるを得ない。 しかし本当は、塀の中から出さないという形で行動の自由を制限する終身懲役と、行動も意識もありえない状態で生存させるだけの昏睡刑とでは、自由の制限の質がまったく異なる。 昏睡状態で脳の中でどのような意識が残っているかわからないが、本人にとっては、昏睡させられた時以後、死んでいるのと同じ状態に陥るといってよい。 この刑は事実上死刑に等しい。その意味で、死刑存続論者はこの昏睡刑を死刑にかえある次善のものとして支持することができる。
 要するに、こうした死刑にかわる刑は、「可逆的猶予期間つき死刑」といってよい。終身刑(あるいは懲役200年など)がよいか、あるいは昏睡刑などがよいか、ということになると、死刑廃止論者は前者を支持して後者には反対するであろう。 しかし、終身刑務所に入れ、そこでの教育が功を奏して「囚人聖者」をつくりだしたとしても、それにどんな意味があるのだろうか。 本人にとってはすばらしい人生になるかも知れないし、教育刑論者の満足も大きいかも知れない。しかし社会は莫大な費用を負担して、一部の犯罪者にここまでサービスを提供しなければならないものだろうか。 死刑はどうしても認められないというのであれば、終身刑よりは死刑に近く、コストもかからない昏睡刑の方が望ましいということになる。
 今のところ、もっともコストはかかる終身刑が、死刑以外でもっとも重い刑である以上、それを適用することが文句なしに有効かつ必要となるのは、サイコパスの連続殺人犯や脳に障害がある殺人犯に対してである。 社会としては、この種の危険な人間を隔離・監禁して安全を確保することは、コストをかけるに値する措置である。死刑廃止論者や人権派にもここまでは同意してもらう必要がある。 さもなければ、「危ない人」の監視と保護については、刑務所でも精神病院でもなく、人権派の人々に責任をもってもらうしかなくなる。 (『法と正義の経済学』から)
しかし死刑にかわるものはない 死刑を廃止すればたしかに死刑という「いやなもの」はなくなるが、それによって肝心の犯罪抑止の問題は解決するわけではない。 死刑にかわる有効な刑罰がいずれも採用できないまま、刑はますます軽くなり、加害者の人権だけが重視される方向に進むようであれば、犯罪の増加と不正の累積を抱えて、社会はそれに対するコストに苦しむことになる。 それはどう考えても賢明なことではない。
 「死刑は何のためにあるのか」を説明したところであげた、Aの見せしめ効果による犯罪抑止、およびCの有害人間抹殺論は、死刑がもっとも有効になしうるものであると同時に、社会にとってもっともコストのかからない方法といえば、やはり死刑以外にはない。 時代の趨勢、世界の大勢ということで死刑を廃止してしまえば、その国家は犯罪に対処するためのもっとも有効でコストのかからない手段を失い、自らの手を縛り、より多くのコストを負担しなければならなくなる。 それが人権主義の路線に沿った進歩であるという自己満足のために死刑の廃止を急ぐことは、賢明な態度とは言えないであろう。 (『法と正義の経済学』から)
 民主制度も、市場経済も、死刑制度も、これに代わるより良い制度がない以上、この制度採用するのが最良だ、と言うことになる。 完璧主義者、原理主義者は不満だろうし、ケチをつければイッパイつけられるし、けれども、「より良い制度が提案されるまでは、死刑制度を存続させるべきだ」というのがTANAKAの主張です。
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<主な参考文献・引用文献>
『法と正義の経済学』       竹内靖雄 新潮選書   2002. 5.15
( 2007年7月9日 TANAKA1942b )
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(17)死刑制度に劣らず残酷な刑があった
旧ソ連の『収容所群島』という負の遺産

<死刑制度に劣らず残酷な刑はあるか?> 「死刑は残酷だから廃止すべきだ」、というのが死刑廃止論者の主要なポイントだ。では、死刑に代わってどのような刑を極刑とすべきか? 死刑廃止論者のなかには「代替案を提示する必要はない」と主張する人もいる、 ということは「どんな代替案が出ても反対はしない」ということになるが、ここでは「代替案」について少し考えてみよう。
 そこで、代替案────
 @仮釈放なしの終身刑 これについては、前にも書いた。刑務所で真面目につとめても、悪いことしても、刑期に関係ないのだから「真面目につとめて、早く仮釈放になろう」とのインセンティブが働かない。 刑務所内の雰囲気が荒れる。採用できない。
 Aむち打ち刑 例えば「むち打ち刑15年」、となったら、1日10回のむち打ちを15年続けることになる。 むち打ちは残酷だけれども、15年で釈放されるとなれば、死刑に比べて残酷な刑ではないし、「仮釈放なしの終身刑よりも残酷ではない」と言える。
 B仇討ち受け入れ人間として、仮釈放 国家は、判決が出たら「仇討ち受け入れ人間」として仮釈放する。被害者およびその関係者が申請したら、仇討ちを許可する。 被告は自己責任において仇討ちから逃れるために逃走する。国家は行き先を把握しているが、仇討ち者には教えない。国家がこの判決に対してのコストは非常に少ないものとなる。 財政再建政策として効果的なので、税収の少ない国家で採用が検討される。
 C収容所送り ソ連時代のラーゲリをロシアで復活させ、世界各国から収容所送りの囚人を受け入れる。死刑が廃止され各国でそれに代わる刑が検討されるが名案はない。 そこでラーゲリの復活となるのだが、運営のノウハウはロシアにしかない。そこで各国はロシアに依頼して囚人を管理して貰うことになる。ロシアとしてもせっかくのノウハウを生かさない手はない。そこで当時の関係者がラーゲリを復活させる。ロシアの外貨稼ぎの主要な産業になる。 各国は、金さえ払えば体裁の悪い制度はロシアに任せられるので、積極的に利用する。このイメージはこういうことだ。「わが国は平和を愛し、戦争をしないために軍隊を持たない。従って、世界のどこかで紛争があっても、わが国は軍隊=自国を守る自衛隊は送らない。その代わり資金を提供する。 汗を流さず、金ですべてを解決するのがわが国の姿勢だ」との考えをイメージすると分かりやすい。
 死刑廃止論者のなかには「死刑廃止論者としての私見としては、基本的には死刑廃止論者が代替刑を主張することに論理的に矛盾のあることを承知している」 とか「死刑廃止側から代替刑を提案する必要はない」との意見もある。それならば「収容所送り」にも反対はしないだろう。
 さて、その「収容所送り」どのような刑だったのか?これについてはジャック・ロッシの『ラーゲリ(強制収容所)註解事典』を読んで頂くとして、ここではソルジェニーツインの作品を読んで、その感じを掴んで頂きましょう。
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<イヴァーン・デニーソヴィッチの一日> 午前5時、いつものように、起床の鐘が鳴った──本部の建物のそばにつるしてあるレールを、ハンマーでたたくのだ。その断続的なひびきは、指2本の厚さに水の張ったガラス越しに、弱々しく伝わったが、じきに静かになった。寒かったし、看守にしても、いやでも手を振り回していたくはなかったのだ。
 そのひびきはやんだが、窓の向こうは、シューホフ(イヴァーン・デニーソヴィッチ・シューホフ)が用便桶の方へたっていった真夜中と同じく、いぜん闇また闇だった。だが、3つの黄色い常夜燈が、窓に光りを投げていた。2つは立入禁止地帯、1つはラーゲル構内だ。
 どうしたのか、バラックの鍵をあけにもやって来なかったし、当番たちが用便桶を棒でかついで、運び出す音も聞こえなかった。
 シューホフはこれまで寝すごしたことはなく、いつも起床の鐘とともに起きた──作業に出る前の点呼までに、公のものでない自分の時間が、1時間半ばかりあったからだ、ラーゲルの生活を知っている者なら、いつも内職かせぎができるのだ。 古い裏地で指なし手袋の覆いをだれかに縫ってやるとか、金持ちの班員が靴の山のまわりで選り分けるために足ぶみなどしないように、直接そのベッドへ乾いたフェルト長靴を持っていってやるとか、あるいは、とかく用事のある差入保管所へひと走りして、そこで掃除をするとか、何かを持ち運んでやるとか、あるいは、食堂へ出かけて、テーブルから皿を集め、それを山とかかえて食器洗い場へ持ってゆくのも── 食い物にありつけるのだが、これは志願者が多くて、どうにもならない。ただかんじんなことは──皿に残っているものがあると、こらえきれずに、皿をなめるようになるということだ。ところが、シューホフは自分の最初の班長クジューミンの言葉を、強く心にとどめていた。 古参の海千山千のラーゲル男で、1943年ごろすでに12年間もぶちこまれていたのだが、戦線から送りこまれてきた自分の斑の補充の者たちに、いつだったか、草木1つはえてない森の中の空き地で、焚火にあたりながら、こう話してくれたものだ。
 「なあ、みんな、ここじゃ弱肉強食なんだ。だが、人間はここでも生きているんだ。ラーゲルでくたばるやつはといえば、皿をなめるやつとか、医務室を当てにするやつとか、保安部員のところに仲間を密告しにいくやつなんだ」
 保安部員のことについては、もちろん、班長は口ぎたなくののしった。一方、その密告する連中といえば、自分を大切にするんだが、それはもっぱら、他人に皿を流させて──身の安全をはかっているのだ。
 いつもシューホフは、起床の鐘とともに起きたのだが、きょうは起きなかった。きのうからずっと気分が悪かった。寒気ともつかず、からだの痛みともつかなかった。夜中も暖まらなかった。夢うつつの中で、すっかり病気になったかとも、いくらかよくなったかとも思われたりした。どうにも、朝になるのがいやだった。
 だが、朝はちゃんとやってきた。 (『イヴァーン・デニーソヴィッチの一日』初めの部分から)
<イワン・デニーソヴィチの一日>  シューホフ(イワン・デニーソヴィチ・シューホフ)ハタバコのけむりを吐きながら、アリョーシュカの興奮ぶりを、落ち着いて眺めていた。
「なあ、アリョーシャ」と彼は、パプテスト信者の顔にけむりを吹きかけて、その手を払いのけた。「おれだって神さまには反対じゃねえんだ。よろのんで神さまを信じてえくらいだ。だけど、天国とか地獄だけは信じねえな。 でも、なんだっておれたちを馬鹿扱いするんだ、天国だ、地獄だとご託をならべて?そこんとこだけは気にくわないな」
 シューホフはまた仰向けになった。そして、中佐の荷物を焦がさないように気を使いながら、頭のうしろの、ベッドと窓の間に灰をおとした。 もう自分の物思いに耽りだした彼の耳には、アリョーシュカがなにを呟いているのか聞こえなかった。
「結局のところ」と、彼は独りぎめした。「いくら祈ってみたとこえおで、この刑期は短くなりゃせねえんだ。とにかく、『はじめから終わりまで』入っていなくちゃならねえんだ」
「いえ、そんなことを祈っちゃいけません!」と、アリョーシュカは声を震わせた。
「自由がなんです?自由の身になればあんたのひとかけらの信仰まで、たちまち、いばらのつるで枯されてしまいますよ!いや、あんたは監獄にいることを、かえって喜ぶべきなんですよ! ここにいれば魂について考える時があるじゃありませんか!使徒パウロはこう申されました、『汝ら、なんぞ嘆きてわが心をくじくや?われ、主イエスの名のためには、ただ縛らるるのみならず、死ぬるもまた甘んずるところなり!』とね」
 シューホフは黙って天井を見つめていた。もう自分でも、自由の身を望んでいるのかどうか、分からなかった。はじめのころは激しく望んでいた。 毎晩のように、刑期は何日すぐて、何日残っているかと、数えたものだ。が、やがてそれも飽きてしまった。そのうちに、刑期が終わっても家へは帰されず、流刑になることが分かってきた。 それに、流刑地とここでは、どちらのほうが暮らしやすいのか、それすら分からなかった。
 自由の身になりたかったのは、ただ家へ帰りたい一心からだった。
 ところが、その家へ帰してはくれないのだ……。
 アリョーシュカは嘘をついているわけではない。その声をきいても、目をみても、彼が牢獄生活を喜んでいることははっきりわかる。
「なあ、アリョーシュカ」とシューホフは彼に弁解した。「お前さんの場合は、どうやら、うまい具合にいってるらしいな。だってキリストのは、お前さんに入ってるようにお命じたわけだし、お前さんはお前さんでキリストのかわりに入っているんだからな。 じゃ、このおれはなんおために入ってるんだい?41年にいくさの用意ができていなかったためかね、え、そのためかね?そんなことおれになんの関係がある?」
「どうやら、2回目の点呼はねえらしいな……」と、キルガスは自分のベッドから呟いた。
「そうだなあ!」と、シューホフは相槌をうった。「こりゃ煙突の中に炭で書いとかなくちゃ。2回目の点呼なし、ってな」そういって、あくびをした。「きっと、寝ちまったんだろう」
 ところが、そのとき、静まりかえったバラックのなかに、外扉のかんぬきをガタガタさせる音が聞こえた。廊下から、長靴を運びにいった2人がとびこんできて、大声で怒鳴った。
「2回目の点呼だぞ!」
 すると看守もそれにつづいて叫んだ。
「むこう側へ出ろ!」
 いや、もう眠っている者もいた!ぶつぶついいながら、体をおこし、フェルト長靴へ足を突っ込んでいる。(綿入れズボンを脱いでいる者はひとりもいない。毛布だけだと足がかじかんで、寝つかれないのだ。)
「ちえっ、忌々しい!」と、シューホフは当たりちらした。しかし、それほど腹をたてているわけではない。とにかく、まだ寝ついていなかったのだから。
 ツェーザリが上段へ手をのばして、ビスケットを2枚、砂糖を2かけら、ソーセージを1切れ、差し入れてくれた。
「ありがとう、ツェーザリ・マルコヴィッチ」とシューホフは、下の通路のほうへ身をかがめて、いった。「さあ、あんたの袋をこの上へかして下さい。このマットレスのしたへいれときゃ、大丈夫だから」 (上段なら通りがかりにちょいとかっぱらうわけにはいかない。それに、シューホフのところなんかのぞくばかもいない。)
 ツェーザリは、口をしめた白い袋を上段のシューホフに手渡した。シューホフはそれをマットレスの下に隠すと、激しく追い追いたてられるまで、なおしばらくじっとその場にいた。 廊下の床の上にはだしで多っている時間をすこしでも短くしようとしたのだ。しかし、看守は歯をむいて、怒鳴った。
「おい、そこにいる奴!その隅だ!」
 やっとシューホフもはだしのまま、さっと、身軽に床の上へとびおりた。(かれの長靴と脚絆がそれはうまい具合にペーチカの上にのっていたので、取りはずすのが惜しかったのだ)
 彼はこれまでずいぶんスリッパを縫ってきたが、いつも他人のためばかりで、自分のは以ていなかった。いや、彼はもうなれっこになっている。 それに、ちょっとの間のことだ。
 昼間みつかれば、このスリッパも没収されるのだ。
 長靴を乾燥台へ運んでしまった斑の連中も、今のように部屋のなかなら、平気なものだ。スリッパをはいている者、脚絆だけ巻いている者、はだしの者と、まちまちだ。
「さあ、早くしろ!」と、看守はわめいている。
「やい、このろくでなし!」と、バラック長もやはり怒鳴っている。
 全員がむこう側の部屋へいれられ、おくれた者は廊下へ追い出された。シューホフも壁ぎわの、糞桶に近いところに突っ立っていた。 足もとの床はじめじめしており、戸口の下からは氷のような風が吹きこんでいた。
 全員を追いだしてしまうと、看守とバラック長の2人は、だれか隠れている者はないか、暗がりで寝込んでいる者はいないか、と、もう一度見廻りに出かけた。 なぜなら、員数がひとりでもあわなかったら、大変だからだ。またぞろ点呼ではかなわない。ぐるぐると見廻ってから、戸口へ戻ってきた。
「1番、2番、3番、4番……」と、もう今度は1人ずつ入れていった。シューホフも18番目にもぐりこんだ。そしてたちまち、駆け足で自分のベッドへ戻ると、足場に片足かけ、パッと上段へ躍りこんだ。
 やれやれ、両の足をまた防寒服の裾へ突っ込み、上に毛布をかけ、そのまた上にジャケットをかけ、あとは寝るだけだ!今度はバラックのむこう側の連中がこちらへ追いたてられる番だ。 だが、もうそんなことはこちらの連中にはなんの関係もないことだ。
 ツェーザリが戻ってきた。シューホフは彼に袋を下ろしてやった。
 アリョーシュカも戻ってきた。お人好しというのか、みんなをよろこばせているだけで、自分では内職稼ぎひとつできない。
「さあ、食べなよ、アリョーシュカ!」と、彼はビスケットを1枚やった。
 アリョーシュカはにっこりする。
「ありがとう!でも、自分の分はあるんですか?」
「食べろったら!」
 おれたちはなくなったら、またいつものように、稼げばいいのさ。
 そして自分では、一切れのソーセージを口の中にほうりこむ!歯でかみしめる!歯で!ああ、肉のかおり!ほんものの、肉の汁!それが今、腹の中へ、入っていく。
 それで、ソーセージはおわり。
 あとはあすの朝にとっておこう。そうシューホフはきめた。
 そして、薄っぺらは、汚らしい、毛布をすっぽり頭の上からかぶった。と、間もなくベッドの間には、点呼を待つもこう側の囚人たちがいっぱいひしめきあってきた。が、彼はもうそのもの音に耳をかそうともしなかった。

 シューホフは、すっかり満ちたりた気持ちで眠りに落ちた。きょう1日、彼はすごく幸運だった。営倉へぶちこめまなかった。 自分の斑が<<社生団>>へもまわされなかった。昼食のときはうまく粥(カーシャ)ごまかせた。班長はパーセント計算をうまくやってくれた。 楽しくブロック積みができた。鋸のかけらも身体検査で見つからなかった。晩にはツェーザリに稼がせてもらった。タバコも買えた。病気にもならずにすんだ。
 1日がすこしも憂鬱なところのない、ほとんど幸せとさえいえる1日が過ぎ去ったのだ。
  
 こんな日が、彼の刑期のはじめから終わりまでに、3,653日あった。
 閏年のために、3日のおまけがついたのだ……
   (『イワン・デニーソヴィチの一日』終わりの部分から)
<収容所群島> 私は胸に何か重苦しいものを感じながら、数年の間、すでに完成したこの書物の出版を思い留まってきた。 それはまだ生きている人たちに対する義務のほうが、死んでしまった人たちに対する義務よりも重かったからである。しかし、いずれにしても国家保安委員会がこの書物を押収してしまった今となっては、ただちにこの本の出版にふみきるほか残された道はないのである。
   1973年9月 A・ソルジェニーツイン
 この書物には虚構の人物も虚構の出来事も描かれていない。人物も場所もすべて実名で語られている。イニシアルを使った場合は、個人的な配慮によるものである。 まったく名前が示されていない場合は、人間の記憶がそれらの名前を憶えておくことができなかったからにすぎない。 だが、すべてはここに描かれているとおりであった。
 1949年ごろ、私は友人たちと科学アカデミーの雑誌『自然』(プリローダ=природа)の誌上に注目すべき記事を見付けた。そこには小さな活字で次のようなことが書かれていた。 コルイマ河の岸で発掘作業中、偶然、地下の氷層が発見された。それは凍結された大昔の流れであったが、その中からこれもやはり凍りついた数万年前の動物(ファウナ=фауна)が発見された。 その動物が魚だったかサンショウウオだったかはともかく、それがとても新鮮なまま氷づけになっていたため、記事を書いた学者の目撃したところによると、その場に居合わせた人びとは氷を叩き割り、さっそくその場でこれらの動物をよろこんで食べてしまったという。
 あまり数多いとは言えないこの雑誌の読者たちは、おそらく、氷の中では魚肉がなんと長持ちするものかと少なからず驚いたにちがいない。 だが、不用意にも掲載されてしまったこの記事のもつきわめて意味深長な側面に気づくことのできた人は少ない。
 私たちはすぐわかった。その場面が微細な点に至るまでありありと念頭に浮かんできた──その場に居合わせたひとびとがどんなに慌てふためいて氷を割り、崇高な魚類額的興味などには目もくれず、互いに肘で仲間を押しのけながら、何万年前の氷づけをちぎり取って、焚き火のところへ引きずっていき、氷を融かし、がつがつと腹に詰め込んだか、が。 
 なぜわかったかと言えば、私たち自身もその場に居合わせた人びとと同類の、強大な囚人族の1員だったからである。 この地上でサンショウウオを喜んで食べることができる唯一の種族は囚人だけである。
 コルイマは<<収容所>>という驚くべき国の最も大きく最も名高い島であり、苛酷の極致ともいうべき場所であった。 この国は地形的に見れば群島の形で散らばっていたが、心理的には1つに合わさって大陸をなしていた。ほとんど目に見えず、ほとんど触れることのできない、大勢の囚人たちの住む国であった。
 この<<群島>>は国中のあちらこちらに入り組んで点在し、都市の中に入り込んだり、通りの上におおいかぶさったりしていた。 それにもかかわらず、まったくそれに気づかぬ人びともいた。いや、漠然と何か耳にしていた人びとはかなり多くいたのだが、その実情はそこにいたことのある人びとのしかわからなかったのである。
 しかもそういう人びとまでが、まるで<<群島>>の島々で言語能力を失ってしまったかのように、ずっと沈黙をまもってきた。
 わが国の歴史が思いがけぬ方向転換をしたために、この<<群島>>の事情が何やかやもんの僅かながら明るみに出た。 ところが、われわれの手錠のめじを締め上げたその同じ手が、今度は取りなすような制止の手つきをしているのだ。「いけませんよ!過去ををほじくり返したりするなんて!……<<昔のことを憶えている者は、片目が飛び出す!>>って言うじゃありませんか」 ところが、この諺はその先をこう結んでいるのである──<<忘れる者は、両目とも!>>
 歳月が流れていき、過去の切り傷やただれを永久に舐め浄めていく。その間にある島々はぐらりと揺れて、地すべりが起き、今は忘却の北氷洋のかなたに没してしまったものもある。 やがて来世紀のいつか、氷層に閉ざされたこの<<群島>>、そこの空気、住民たちの骨があらわれて、例のサンショウウオのように後世の人びとからうさんくさく扱われるであろう。
 私はこの<<群島>>の歴史を書こうとするほど厚かましくはない。というのも、<<群島>>の記録を読む機会に恵まれなかったからである。 しかし、そんな機会に恵まれる人がこれから先あるだろうか?……思い起こすことを望まない人びとにはすべての記録をきれいさっぱり抹殺する時間がこれまでにも十分あったし、これからもあるだろう。
 私はそこで過ごした11年間を恥だとも呪わしい悪夢だとも思わず、かえって自分の血とし肉とした。いや、それどころか、私はあの醜い世界をほとんど愛さんばかりであった。 そして今や、幸せなめぐり合わせによって<<群島>>の新しい話や手紙がたくさん私のもとに寄せられている。 だから私はそうした骨や肉をいくらか提供できるかもしれない。もっとも、それは例の発掘の時と違って、まだ生きている肉、今日もまだ生きているサンショウウオであるが。
 この書物を創るのはひとりの人間の手にあまることであった。私が自分の目と耳を働かせ、自分の皮膚と記憶に焼き付けて<<群島>>から持ち出せるだけ持ち出したもののほかに、
 総計227人
 に及ぶ人びとが、その物語や回想や手紙の形で、この資料となるものを、提供してくれたのである。
 私はそれらの人びとに対して、ここで私個人の謝意を表することはしない。それはこの書物が迫害され責め殺されたすべての人びとのためにわれわれが一致協力してうち建てた鎮魂の碑であるからである。
 私はこれらの協力者たちのなかでも、特に、現在図書館にある蔵書や、とうの昔に絶版や解版され、その1冊でも捜し出すのに大きな忍耐を要した書物の中から、この著述に文献的裏付けとなるものを与えるべく私のために苦労を惜しまれなかった人びと、さらにまた、追求のきびしい時期にあってこの書物の原稿を秘かに保存し、その後それをコピーしてくれた人びとの名を改めて特記したい気持ちでいっぱいである。
 しかしながら、私がそれらの人びとの名をあえて公表する時期はまだ訪れていない。
 ソロフキ島の主ともいうべきドミートリイ・ペトローヴィッチ・ヴィトコフスキーはこの書物の編者になるはずであった。 だが、彼はあそこで過ごした半生の見返りに、(彼の収容所生活の回想録はずばり『半生』と題されている)年の割には早すぎる中風にかかった。 もう口のきけなくなった彼が通読できたのは、すでに完成していた数章にすぎなかったが、彼はあらゆることが語られるにちがいないという確信をいだいてくれた。
 これからも長いことわが国に自由の光が射し込まず、この書物の受け渡しがきわめて危険だということになるなら、私は未来の読者に対しても、亡くなった人びとに代わって、感謝をこめた挨拶を送らなければならない。
 1958年に私がこの書物の執筆に取りかかった時、私は収容所に関する回想録とか文学作品とかのあることをまったく知らなかった。1967年までの長年にわたる執筆活動の間、ヴァルラム・シャラーモフの『コルイマ物語』とか、D・ヴィトコフスキー、E・ギンズブルグ、O・アダーモフ=スリオズベルグなどの回想録を私は次々と知るようになったが、 それらは私が叙述を進めていく過程で、万人周知の文学的事実として(結局のところ、そうなることは間違いない!)引用させていただくことにした。
 この意図とは裏腹に、いや、その意志に反して、この書物のために貴重な資料を与えてくれ、たくさんの重要な事実や数字、はては<<群島>>で暮らした日とびとの呼吸していた空気に至るまで保存しておいてくれたのはM・I・スドラプス=ラツイス、多年にわたり検事総長をつとめたN・V・クルイレンコ、そのあとを継いだA・Y・ヴィシンスキーとその共犯者の法律家連中であるが、 そのなかでも特にI・L・アヴェルバッハの名を逸するわけにはいかない。
 この書物の資料はまた、ロシア文学においてはじめて奴隷労働を賛美した<<白海運河(ペルモルカナル)>>に関するあの恥じずべき本の著者たるマクシム・ゴーリキーを筆頭とする36人のソヴィエト作家たちからも提供してもらった。
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<主な参考文献・引用文献>
『イヴァーン・デニーソヴィッチの一日』        アー・ソルジェニーツィン 稲田定雄訳 角川文庫  1966.12.20
『イワン・デニーソヴィッチの一日』              ソルジェニーツイン 木村浩訳 新潮文庫  2005.11.25
『収容所群島』                        ソルジェニーツイン 木村浩訳 新潮社   1974.12.20
『ラーゲリ(強制収容所)註解事典』 ジャック・ロッシ 染谷茂・内村剛介・梶浦智吉・麻田恭一訳 恵雅堂出版 1996.10. 1
( 2007年7月16日 TANAKA1942b )
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(18)トマス・モア『ユートピア』と死刑
理想の共和国では銀行強盗は起きない

 死刑について昔の人はどのように言っているのだろうか?現代と違った見方をしているかも知れない。 TANAKAの考えは、「銀行強盗事件@AB」で取り上げたような、法秩序が乱れる制度は良くない。それを防ぐには、死刑制度が必要だ、ということだ。 そうした面から死刑を扱った論者はいないようだが、それでも識者がどのように主張しているのか?参考にはなるだろうと思って取り上げることにした。 今週は、トマス・モア『ユートピア』を団藤重光の著書から引用することにしよう。
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<死刑廃止論の思想的系譜──トマス・モア『ユートピア』>  死刑廃止論の系列を考えるとなると、やはりヨーロッパから始めなければなりません。 そうして、そのいわば前奏曲のような形で登場するのがイギリスのトーマス・モア(Thomas More,1478-1535)です。かれは有名な『ユートピア』(1516)──言うまでもなくユートピアというのは彼が設定した理想の共和国の名です── の中で、ラファエル・ヒスロディという架空の人物をもってきて、これに自分の考えを代弁させています。『ユートピア』には、平井正穂氏の名訳がありますから、訳者のお許しを得て、以下、これを引用させていただくことにしたいと思います。(以下、括弧内は同書の頁数)。
 まず、相手がこう聞きます。
 ところでラファエルさん、あなたに1つお訊きしたい点があります。あなたは、窃盗罪は死刑に値しないとお考えのようだが、なぜそうなのか、またもしかりに値しないとすると、公安を維持してゆく上に、もっと有効な、どういう刑罰があるとお考えなのか、そういう点をおききしたいと思います。 まさか、あなたが、窃盗行為は罰する必要はない、と考えておられるとは思われないからです。死刑という極刑をもってしても泥棒をやめさせることができない、というのが現状です。 もし絶対に生命だけは大丈夫だ、ということが分かれば、いくら圧力を加え、威嚇を試みたところで、強盗どもの泥棒を禁ずることはできないのではないでしょうか。 何しろ、この連中ときたら、刑の軽減をかえって犯罪奨励策とでも取りかねまじき連中なのですからね。(32P)
 そこでラファエルは、こう答えました。これは、今申しましたように、実はモア自身の意見です。
 恐れいるますが、私は、金を盗ったために命を奪られるということは、決して正しいことでも道理にかなったことでもない、と思っております。 世界中のあらゆる物をもってしても、人間の生命には代えられない、というのが私の意見なのです。しかし、中にはわれわれがこの極刑を課するのは、金を盗んだというそのことに対してではなく、正義を踏みにじり、法律を犯したことに対してである、と説く人もあろうかと思われます。 しかし、もしそうなら、この極端な法行為はむしろ極端なる不法行為と称しても良いのではないでしょうか。なぜなら、どんな小さなものであろうと、罪を犯したら最後、直ちに刃の露と消えなければならないなどという、そういう残酷な政治、そういう峻厳な国法、無情は法律などは許すべからざるものであるからです。 (中略)神は汝殺すなかれ、と誡め給いました。われわれは少しくらいの金を盗んだからといって、むざむざと平気で人を殺してよいものでしょうか。(32P以下)
 当時は、窃盗罪にも死刑があって、それで処刑される人は大変な数に上っていたのです。ですから、今と違って、まずそういうものから死刑をやめさせなければ」ならないということで、その当時としては、これが一番現実の問題だったわけです。ラファエルすなわちモアは続けて言います。
 もしわれわれが、汝殺すなかれという神の諌めは人間の法律が殺人をどの程度まで合法的と認めるかということによって規定されると解釈するならば、同じく淫行も姦淫も偽証も場合によっては合法的となり、結局人間の法律が決定的なものとなるのではないでしょうか。 人間には自殺する力も他人を殺す力もありません。それは神が許し給わないからです。しかるにもしわれわれが、勝手にお互いに相談して人を殺す法律をつくり、それを強力なものとし、神の諌めに背いて、この法律の命ずるところに従って人を殺しても構わない、つまり、神の諌めの力というものが、結局人間の法律の規定し、許可する範囲以外一歩も出ることはできない、ということにならざるを得ません。 同様に、あらゆる問題においても、神の諌めを守る範囲を決定するものは人間の法律に他ならない、ということになりましょう。(33-34P)
 このように、モアはキリスト教の信仰──特にかれの場合はカトリックで、ローマ教会の教え──を基にして死刑廃止を強く言っているわけです。 ここに出てくる考え方、例えば自殺をすることが許されない以上は、人を殺すこともできないだろう、まして人を殺す法律を作るなどということは、神の誡めに背くものだ、という考え方は、後の思想家たち、いな現代の死刑廃止論者にいたるまで尾を引いています。
 西欧では自殺は宗教上だけでなく法律上も罪でした。イギリスでは、自殺罪が廃止されたのは1961年のことでした。今でも自殺幇助は依然として罪になります。そういう思想を頭に置きますと、人を殺す法を作るなどというのは、神の掟に背くものだ。神の誡めを人間の法によって動かしてもいいのか、 という、自然法の思想とも結び付くかれの議論がよくわかります。
 それだけではなく、モアは他方では刑事政策的なことまで言ったいるのです。
 一たび窃盗罪を宣告された人間は、殺人罪に判決を下された人間と同じように、生命はまさに風前の灯火であり、 また同じ極刑に処せられるということが、泥棒に前もって分かっているとすれば、ただこのことを考えただけでも、本来ならただ物を盗っただけですませた筈の、その当の相手を殺そうという気がむらむらと涌いてくる、 いや、むしろある意味では、殺すことを余儀なくさせるといってもいいのです。(34P)
 窃盗罪を死刑に処するということになれば、どうせのことに、人を殺しても同じですから、むしろ重い犯罪を犯させるようなことにもなる、というわけです。 また、モアは、この国では、窃盗犯人は監禁や束縛さえもしないで、公共の労役に服させ、稼ぎを国庫に納めさせるようにしている、というようなことも言っているのです。(36-38P)。彼は、こんな風にも書いています。
 それが相当凶悪な犯罪の時には懲悪的な意味から公開の懲罰が加えられる。しかし大体において凶悪な犯罪に対しては仮借なく奴隷刑にするのが普通である。 この方が手っ取り早く死刑にしまって厄介払いをするよりも、犯人自身の苦しみは変わらないにしても国家にとっては一層有利であると想像されているからである。死刑にしてしまえば元も子もなくなるが、奴隷にして働かせるなら、そこから多くの利益も浮いて来ようというものである。(136P)
 これは、現代の刑事政策で言われるようなことを、16世紀の初めに言っているのですから、大変な見識だと言うべきです。彼の言葉を続けて引用します。
 しかもその上、奴隷として人の見せしめにしておけば、同じような罪を犯す者への戒めもそれだけ永く保つであろう。それでもなお反逆罪を企てる者があれば、それこそ死に物狂いで荒れまわる野獣でも屠るように、忽ち死刑にしてしまう。 もはや牢獄も鐵鎖も意味をなさないからである。けれどもじっと我慢強く奴隷の境遇に耐え忍ぶ者は前途に全然希望がないわけではない。 長年の悲惨な生活でしっかり骨の髄まで打挫がれて悔恨の情を示す者があれば、しかもそれが単に刑罰がいやでたまらないからと言うのではなく、本当に自分が悪かったという心からの悔恨である限り、時には市長の大権により、時には一般市民の与論と斡旋によって、奴隷刑が大いに軽減されたり、或いは全然青天白日の身となることもあり得るのである。(136P)
 以上に見てきましたように、モアは、一方では神の掟ということから説き起こして、「人を殺すなかれ」ということからして、「人を殺す法」を作ることがいかに神の教えに背くものであるかを論じているのです。 しかも、神の教えの範囲を、人間が勝手に動かすことは許されないというのが、彼の強い主張でした。(中略)
 モアは、他面では、理想の共和国(たといモンテスキュウーの指摘するように「ギリシャの年の簡明さ」をもってするようなものであろうとも)を想定して、しかも刑事政策のような近代的とも言うべきもどの合理的思想を鼓吹くしているのです。 当時はヨーロッパ大陸において宗教改革の狼煙があがり新時代へ向けての胎動がすでに始まっていたのですが、政治的にはまだ専制君主の時代でした。 彼は死刑廃止論を全面的に展開したわけではありませんが、窃盗罪に焦点をしぼって死刑廃止を強く主張したのは、それが当時の現実的な問題であったからで、彼の政治家としての見識であったとも言えましょう。 このようにして、モアは啓蒙思想の──そうして死刑廃止論の──先駆者の名誉を担うことになったわけです。約200年を隔てた啓蒙思想家の間でさえ、モンテスキューやルソーなど、多くは死刑肯定論者であったのですから、モアの死刑廃止論はまさしく時代に抜きんでた巨塔であったのです。 (『死刑廃止論』から)
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<何処にもない場所=ユートピア>  トマス・モアの『ユートピア』、この「ユートピア」という言葉は、ギリシャ語の「何処にもない場所」という造語で、トマス・モアが考えた「理想郷」で、現代でもここに書かれた社会を理想郷と考えている人もいる。
 多くの人が考える「ユートピア」では、登場人物がみな善人で、凶悪犯など出てこない社会になっている。現実社会は「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」だ。善人が出来心で悪事を働くこともある。かと言って、全ての人が悪人であったり、すぐに悪人に変身するというわけではない。 刑法を取り扱う場合、「性善説」「性悪説」に凝り固まっていると視野狭窄になる。
 死刑問題を考える場合、性善説、性悪説、感情論での発言が多い。とくに廃止論者の場合にそれを強く感じる。大切なことは、法律として、法体系に矛盾が生じないかどうか?ということだ。 死刑を廃止すれば、銀行強盗@ABのように、<人を殺さなくても実質的な死刑⇔人を殺してもシャバの畳の上で大往生>という矛盾が生じる。こうした点での議論が見当たらない。
 法律の専門家が『ユートピア』という現実にはあり得ない社会を引用して、死刑廃止を主張することに違和感を感じる。
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<主な参考文献・引用文献>
『死刑廃止論』第4版                    団藤重光 有斐閣   1995. 1.30 
( 2007年7月23日 TANAKA1942b )
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(19)カント、ベッカリーア、団藤重光
誰も銀行強盗事件@ABは予想していない

 今週は哲学者カントを扱う。カントは死刑存置論者の代表格と見なされているようなので、このシリーズで無視することはできない。 そのカントとベッカリーアや団藤重光も改めて扱うことにしよう。扱う姿勢は、タイトル通り「誰も銀行強盗事件@ABは予想していない」ということだ。 まず初めは、平田俊博著『柔らかなカント哲学』から引用しよう。
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<柔らかなカント哲学>  「人を謀殺したものは、死ななければならない。この場合には正義を満足させる代償物は何もない。 ……たとえ公民的社会が構成員全員の一致で解散されるとしても……。刑務所にいる最後の謀殺者はその前に死刑に処せられなければならないであろう」
 このように語ったことで、哲学者カントは、いまや古今東西を通じてナンバーワンの死刑論者と目されることとなった。 死刑制度廃止論が世界の趨勢となりつつある現在、死刑存置論者が最後の拠り所とするのが、ほかならぬカントなのである。(中略)
 死刑廃止論を口にしやすいのは、それが理想主義的な輝きを放つからである。例えば死刑廃止条約は、生命に対する権利(right to life)ないし生命に対する固有の権利をすべての人間に認めることから出発している。 死刑の廃止が人間の尊厳の向上と人権の漸進的発展に寄与する、と信じているのである。同じ趣旨でアムネスティ・インターナショナルは、死刑を「もっとも基本的な人権を侵害する、法に基づく殺人」「国家による計画殺人」であるとして、糾弾する。 人間の生命の価値を否定する点では、法の外で行われる殺人と同じだと考えるわけである。
 このように人権を正面に据えてかかるのが、現在の死刑廃止論の1つの特徴である。しかし、それは古くからあった主張であって、必ずしも現在に特有なわけではない。 しかも、死刑を殺人罪に限定するなら、被害者の側に立つか加害者の側に立つかで、人権の取り扱いが対立することにもなりうる。人権だけでは水掛け論に終わるかもしれないのである。 例えばカントは、殺人犯への死刑の執行を正義の実現と見なしている。
 そこで、改めて注目されたのが、誤判、つまり誤った判決の問題である。これも古くから死刑廃止論の「有力な論拠のひとつ」に挙げられてはいた。 しかし、今日、決定的な理由へと格上げされる。例えば、国内の死刑廃止運動の「精神的支柱」となっている団藤は、誤判の問題を、死刑廃止論についての「最後の決め手」だと見なしている。 死刑の存廃に関する議論が結局は水掛け論だとしても、「少なくとも誤判の問題だけは水掛け論ではない」と考えるのである。誤判に基づいて執行された死刑は取り返しがつかないからである。
 それを支持する哲学上の見解がある。カール・ポパーの可謬論である。彼は、「人間の可謬性(human fallibility)こそが死刑廃止論の決定的な理由」だと考えている。 哲学者ポパーの見解を紹介しながら、団藤は刑法学者の立場から次のように述べる。
 「裁判が神ならぬ人間の営みである以上は、誤判を絶無にするということは性質上不可能である。死刑制度が存在する以上は、必然的に処刑の可能性が内在しているのである」しかしながら、「万が一にも誤判によって無実の人が処刑されるようなことがあれば、それは言語に絶する不正義であって、それはあらゆる死刑=正義論を根底からくつがえす」
 裁判が構造上誤判の可能性を免れることができず、しかも誤判の事実が内外を問わず多数明らかである以上、「死刑はその積極的存在意義を失っている」というのが、現在の日本における死刑廃止論の独自な特徴である。それは世論にも反映されている。
死刑廃止論と哲学の議論 死刑に関する議論にあっては、廃止論であれ存置論であれ、いずれにしても哲学の議論が必要なことは見てきたとおりである。 としわけカントの死刑論を避けるわけにはいかない。理由は2つある。
 1つには、現在の日本の死刑議論において、対立する両陣営を代表する学者がどちらも、哲学者としてはカントを最も重視しているかれらである。 つまり、団藤は、ドイツの法哲学者ラートブルフを介して、カントの人格論を批判的発展的に継承していると、また植松は、カントの正義論を基本的に踏襲していると考えられるからである。
 2つ目の理由は、近代的な意味での死刑論議は、カントのベッカーリア批判に始まると見ることが出来るからである。人権と社会契約論に立脚して、ベッカーリアは罪刑法定主義を核とする画期的な刑法理論を確立したのであるが、同時に、初めて本格的な死刑廃止論を展開した。 そのベッカーリアは、ほぼ同じ立場を標榜しながら、カントは真っ向から反論したのである。
 さてそこで、次節で、カントの刑罰論と死刑論を、さらにベッカーリア批判でもある反・死刑廃止論を見てみよう。
カントの刑罰論及び死刑論 カントによれば、「刑法は定言的命法」であって、犯罪者はまずもって無条件に罰すべきものと判定されなければならない。 裁判所が下す刑罰は、犯罪を犯したという理由だけで犯罪者に課されてはならないのであり、決してただ単に何か他の善を促進する手段として、犯罪者自身のために、あるいは公民的社会のために、課されなければならない。 つまり、犯罪者の社会復帰とか医学上の人体実験とか犯罪予防上の見せしめとかのために刑罰を用いてはならない。刑罰は整備のためなのである。 それでカントは次のように言う。「もし正義がなくなるとしたら、人間たちが地球上に生きていることには、もはや何の価値もない」
 では、刑罰の種類や程度についてはどうか。それらを規定する公共的正義の原理としてカントが採用するのが、同害報復の法、すなわちタリオの法である。 こうした相等性の原理だけが「刑罰の質と量を確定」できる。つまり、「君が国民の中の他の誰かに不当にどのような害悪を加えようとも、それを君は君自身になすのだ。…… 君が彼から盗むならば、君は君自身から盗むのだ。……君が彼を殺すならば、君は君自身を殺すのだ」
 だが、相等性の原理として提示されるカントの同害報復の法は、「目には目を歯には歯を」という素朴で古典的なタリオの法とは別物である。 この点を団藤は誤解している。カントの同害報復の法は私的な復讐とは無関係な公共的正義の原理なのであり、したがって配分的正義の問題であって、犯罪者個人が国家全体に関わることとなる。 けっして、団藤が語るように民事法的な平均的正義が問題なのではない。加害者と被害者が個人対個人の関係で向き合うこともない。それゆえ、団藤の場合と同様に、被害者への補償とか配慮とかは本質的に問題とはならない。
 こうした点に関して、カントは次のように説明している。「君が彼から盗むならば、君は君自身から盗むのだ、とはどういうことか。盗みをなす者は、他の人たちすべての所有権を不確実にする。 それゆえ、その者は(同害報復の法に従って)可能的な所有権すべての確実性を奪い取られる」要するに、公民的社会にあって物を盗んだ者は、単に物を盗んだだけでなく、所有権そのものを辛亥したことになる。 被害者は、公民的社会であり、公民的社会としての国家そのものなのである。それで、カントは更に続ける。
 「彼は何も持たずまた何も取得できず、しれでいて生きようとする。結局、他人が彼を扶養するしかないわけだ。しかし、こうしたことを国家が無償でするはずはないから、彼は国家に自分の労働力を引き渡して、国家が望む労働(手押し車苦役か懲役労働)をしなければならず、 かくて一定期間、あるいは事情によっては永久に、奴隷身分に陥る」窃盗罪に対してカントは、広い意味での懲役刑を相等だと考えているのである。
 それでは、殺人罪の場合はどうか。本章の冒頭で示したとおり、「人を誅殺したものは、死ななければならない。この場合には正義を満足させる代償物は何もない」というのが、カントの答えである。 どれほど悲惨な生であっても、生と死は全く別物だ。殺人罪に相等する報復は、裁判を経て執行された死しかない。虐待は何であれ、犯人の人格のうちなる人間性を歪めるから、許されない。 もしも殺人犯が処刑されないとしたら、国民全裸委が「正義の公然たる侵害の共犯者」ということになり、国民が殺人の罪を問われる。このようにカントは考えている。
 この際、カントの死刑論を、彼の刑罰論全体の文脈の中で押さえてみるとどうなるであろうか。試みに、先の」盗みに関する」カント自身の説明を読み替えてみよう。すると、以下のようになる。
 <君が彼を殺すならば、君は君自身を殺すのだ、とは、どういうことか。殺人をなす者は、他の人たちすべての生命権を不確実にする。それゆえ、その者は(同害報復の法に従って)可能的な生命権すべての確実性を奪い取られる>
 要するに、「他人を違法に殺害することは死をもって処罰されなければならない」。これは「刑罰正義の定言的命法」なのである。 そして、裁判官が厳格な同害報復の法に則って下す死刑判決だけが、殺人罪における刑罰の相等生を可能とする。
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カント対ベッカリーア 刑罰論 カントの場合、「社会契約の中には、自分を者罰させたり、さらには自分自身や自分の生命を処分したりする約定は全く含まれていない」。 「処罰されることを良くするということは不可能」だとされるからである。それで、刑法(刑罰権、Strafrecht)とは、「従属者にその犯罪のゆえに苦痛を課するという、命令権者の権利」だと定義される。 人間は本体人として社規契約に参加することで国家を創設し、「公民的人格性」を、つまり命令権を獲得するが、犯罪を犯せば、それを喪失して「人格的従属者(persönlicher Unterthan)となる。 つまり、現象人となる。だが、それでいて全くの現象になりきるのでもない。行動すべてを物体の運動のように自然の因果法則で説明し尽くすことに対して、人間の「生得的人格性」が抵抗するからである。 一切の帰責能力の主体として、犯罪者は「あらかじめ可罰的(strafbar)だと判定されていなければならない」。犯罪者は無条件に同害報復の法に基づいて、犯した犯罪に相等する刑罰(苦痛)を受けなければならないのである。 同害報復の法が、公共的正義の原理として質と量を確定する。すでに見たとおり、刑法は定言的命令となる。
 ただし、犯罪の重さを測る基準が、犯罪者の内的な悪意に、つまり犯罪者の意志の違法性にある点に注意しなければならない。なぜなら、「行為の帰責能力(Zurechnungsfähigkeit,imputabilitas)の程度」は、客観的に定まるのではなく、主観的(subjeciv)であって、 行為に際して克服されねばならなかった生涯の大きさに従って評価されるべきだからである。一時の激情に駆られたのか、それとも沈着冷静に理性的に行ったのかという、行為主体の心の状態(Gemüthszestand)が── 犯罪行為においては、内的な悪意の度合いが──、責任の程度を決定することにならざるを得ない。
 これに対し、ベッカリーアでは、刑法の主たる目的は犯罪の「予防」にある。刑罰は必要悪であって、予防のための手段にすぎない。 罰することが不幸(苦痛)の絶対量を増大させるのに対して、、予防は不幸の増大を防ぐからである。そもそも法律は自由人どうしの契約のはずであり、「最大多数の最大幸福(la massina fericità divisanel maggior numero)」を目指すものである。 したがって、人生の幸不幸(快苦)を計算して、「最大限の幸福と竿証言の不幸へ人間を導く技術」が、法律なのである。その意味で法律は「公共的功利(utilità comune)」に他ならず、公共的功利が「人間的正義の基礎」となる。
 それゆえ、犯罪の真の基準となるのは、「国家に与えられた損害(dannno fatto alla nazione)」である。犯罪者の意図(intenzione)を問うのは間違いとされる。
カント対ベッカリーア 死刑論 カントでは、死刑は刑罰正義の定言的命令であり、人を謀殺すたものは同害報復の法に従って死刑に処せられねばならない。
 これに対して、ベッカリーアでは、「各人の自由のできるだけ小さな分担分を統合したものげ、刑罰権の基礎」なのだから、「死刑は権利ではあり得ない」。つまり、自分の生命は誰にも支配されてはならず、死刑は「国家による謀殺(pubblico assassinio)」に他ならない。 と言うのも、生命は誰にとっても「最大の財産」であって、分担分として公共へ差し出されることは絶対にあり得ないからである。
 また、ベッカリーアは、自殺の禁止という宗教的な理由からも、死刑の廃止を訴えている。人間は自分を殺す権利を持たないのだから、その以ていない権利を譲渡しようがないと言うのである。
 さらに、ベッカリーアは、死刑とは、一人の国民に対して国家がなす「戦争」だとも説明する。しかし、通常の場合には、すなわち、国家が対内的にも対外的にも十分の安定していて、犯人を生かしておいても公共の安全に危険がない場合には、死刑は不必要だと主張する。 死刑よりも「終身隷役刑」のほうが、犯罪予防の上で効果が確実だとするのである。
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ラートブルフの死刑廃止論 20世紀前半に活躍したドイツの法哲学者ラートブルフは、カントの人格主義的人間観を批判的に継承しており、日本の法学者にも大きな影響を与えた。 彼によれば、死刑の権利は、「個人主義に立脚して考えることができない」ものであり、ただ「国家契約に基づいて初めて創設される権利としてのみ考えられる」にすぎない。 要するに、「超個人主義的権利観(überindiviualistische Rechtseauffssung)だけが死刑を正当化できる」と言うのである。例えば、カントは次のように述べている。
 たとえ公民的社会が構成員全員の一致で解散されるとしても……刑務所にいる最後の誅殺者はその前に死刑に処せられなければならないであろう。そうすることで、各人は各自の行為に値することをその身に受けるのであり、また、 処刑を行おうとしなかったせいで殺人罪の責めを国民が翁といったこともなくなるのである。と言うのも、処刑を行おうとしまかった国民は、殺人罪という、正義の公然たる侵害の共犯者と見なされうるからである。
 本章の冒頭でも一部紹介したカントのこの有名な文章において、国民という概念が、「個々人の総計としてではなくて、個々人の個人的な利益よりも生命の長い、超個人主義的な固有価値の担い手」として出現しているのを、ラートブルフは私的する。 死刑を応報説(同害報復の法)によって正当化するために、国民という超個人主義的な観点が社会契約説の個人主義的な文脈の上に、言わば、接ぎ木されていると言うのである。
 ラートブルフによれば、もし社会契約説の倫理を貫徹させるなら、「同意説(Einwillingungs-Theorie)しかない。たとえば、ベッカーリアは、人間には自分を殺す権利がなく生命は放棄することのできな法益だから、社会契約において死刑に自殺的に同意することはありえない、と言う。 この、あり得ないという点を、ラートブルフは一段と強調する。犯罪者が死刑に「同意することは許されない」のではなくて、「理性的に判断して(vernünftigerweise)同意することはあり得ない」と言うのである。 なぜなら、「粗景はそれこそ利益の主体を滅ぼすことだから、死刑が犯罪者自身の利益にも奉仕することだとはどうしても証明できない」からである。 したがって、個人を「理性の固まり」だと、見ても、個人が死刑に同意するとは考えられない、とラートブルフは主張する。そう主張することで、カントを批判するのである。 カントによれば、同一人物中の本体人が理性的人格として片割れの現象人たる犯罪的人格に死刑を課す。つまり、犯罪者の理性がそれ自体必然的に、自分の「生命を失わざるを得ないと判断するはずである。 しかし、そういうことはあり得ない、とラートブルフは断言する。
 ラートブルフ自信は、社会的刑法理論としての「保安および改善説(Sichierungs und Besserunguslehre)に立って、カントの応報説を批判している。基本的には個人主義的で非社会法的である応報説では、行為が行為者から、ないしは行為者が人間から分離していて、犯罪者は「行為の没個性的な行為者」であるにすぎない。 その場合、刑法関係は部分的な関係でしかなく、特定の行為の行為者としてのみ人間を見る。それに対して、社規的刑法は、ひとりの人間をまるごと視野に納める。カントにおけるように「抽象的で孤立した個人」ではなくて、具体的で社会化された個性」が問題となるのである。 その結果、刑罰は、個々の犯罪行為にではなくて、個々の個性的な犯罪者に関わるものとなる。
 かりにこの理論を死刑論に適応するとすれば、誅殺行為は死刑に値し、濃い者は誅殺行為に関するかぎりは死刑に値するが、まるごとの人間(ganzer Mensch)としては部分的にしか値しねいこととなろう。 だが部分的な死刑なぞあり得ない。価値相対主義者であったラートブルフは、禁欲的に、そうした論理の一歩手前で立ち止まっている。
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団藤重光の死刑廃止論 ラートブルフの保安および改善説は、ベッカリーアの社会予防説的な教育刑思想を批判的に発展させたものと言えるが、それを更に洗練させたのが、団藤の「人格責任論・動的刑罰論」に他ならない。 彼の人格責任論によれば「犯罪行為はつねに行為者人格と結びつけて理解されなければならない」。「ちょうど作品が作者の人格の現れであるように、我々の行為はすべて我々の人格の発露」だとされるのである。 しかも、人格は、静的・固定的ではなくて、動的・発展的なものと理解されている。先天的と後天的の素質を基礎にして、行為環境と人格環境の制約を受けながら、各自の主体的な人格態度によって、人格は障害にわたって形成され続けるのである。
 また、動的刑罰論によれば、犯罪と刑罰の間に一種の緊張関係が存在する。「犯罪論は静的・固定的」だが、「刑罰論は動的・発展的」なのである。 と言うのは、刑罰が課せられるのは、個々の犯罪行為にではなくて、あくまでも犯罪者という人間にだからである。過去における犯罪行為のゆえに、現在ないし未来の人格に刑罰が課せられるのである。ところが、人格そのものが動的・発展的なのだから、当然それに対応して、刑罰も動的・発展的たらざるを得ないこととなる。 動的刑罰論は、何よりも、犯罪後における犯罪者の人格形成を、そしてまた、犯罪に対する社会や被害者たちの反応の変化をも重視するのである。 したがって、死刑は、更なる人格形成の可能性を全く摘み取ってしまうのであるから、動的刑罰論と「真正面から矛盾する」ものとなる。
 ただし、犯罪論としては、死刑に値する行為も認めざるを得ないのだから、死刑制度の廃止までを要求することはない。「死刑の宣告まではよいとして、最小限度において、死刑の執行だけは認めるべきでないという結論にならざるを得ない」と、団藤は、ひとまず「純理論的」に論断する。 その上で、裁判官という実務上の経験が、氏をさらに「決定的に廃止論者」たらしめることとなる。 (『柔らかなカント哲学』から)
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<死刑を廃止したらどうなるのか?>  偉大な哲学者カントも、死刑を廃止したらどうなるか?については何も言っていないようだ。一つの制度を論じるとき、「それが完璧かどうか?」「欠点はないか?」という議論も必要かも知れないが、では「それに代わる制度はあるのか?」という議論も必要だ。 TANAKAの主張は「死刑制度を廃止したら、法体系に矛盾が生じる」ということだ。その主張を議論するには、「死刑制度を廃止したらどうなるか?」を議論しなければならない。 どのような制度を議論するにしても、その制度が実際に施行されたら、どのようなことが起こるのか?を議論しなければならない。哲学の分野での議論はこの点が欠けているようだ。 そして、そうした点からのカント批判もないようだ。
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<主な参考文献・引用文献>
『柔らかなカント哲学』増補改訂版              平田俊博 晃陽洋書房     2001. 6.20
『ベッカリーアとイタリア啓蒙』               堀田誠三 名古屋大学出版会  1996.11.20
『公共経済の諸要素』      チェーザレ・ベッカリーア 三上禮次訳 九州大学出版会   1997. 2.28
( 2007年7月30日 TANAKA1942b )
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(20)ジョン・ロールズの『正義論』と死刑廃止論
原初状態と格差原理と誤判と死刑

 今週はジョン・ロールズの『正義論』を扱う。刑法とか死刑廃止論などの本を読んでも『正義論』と死刑廃止の関連を説明したものはない。 また、『正義論』の方から死刑廃止に関する記述も見当たらない。この2つを強引に結び付けようというのが今週の試みだ。どの程度説得力を持つか?チャレンジのし甲斐はある。 そうした強引なチャレンジこそ、アマチュア・エコノミストの特権だと思い、勝手に自分を納得させて、さて、スタートです。
<格差原理のたとえ話>  ジョン・ロールズの『正義論』を真正面から批評しようとしたら、それだけで1冊の本が書ける。そして内容は「素人さんお断り」の難解なものになるだろう。 『正義論』については、<民主制度の限界 (22)『正義論』とはどんな本?> で書いたので、詳しくはそちらを参照して頂くとして、 ここでは「死刑廃止論」との関係だけに絞って扱うことにする。『正義論』のなかで「格差原理」は主要はテーマなのだが、一読しただけでは分かりにくい。 そこで、思いっきり「格差原理」を「素人さん、大歓迎」の文章にするとどうなるか?次のような素人の読者をも意識したやさしい文章が多くなると、政治哲学の分野もアマチュアや他分野からの新規参入が容易になり、F1ハイブリッドが生まれやすくなる、と思って引用してみた。
 むかしむかし、まだ社会というものがなかったころ、人々が集まって社会を作る相談をしたそうじゃ。そこでまず決めなければならなかったのは、社会が何をすべきかの原則、つまり社会にとって正義とは何かということだったんじゃ。みんなは、なんとか自分に一番有利なように正義の原則を決めようと考えた。ところが、人々は始めて会ったので面識もなく相手がどういう人物かはもちろん、これから作られる社会のなかで自分がどういう位置を占めるかも知らなかったそうじゃ。つまり、自分は社会のなかで優れた人間なのか劣っているのか、成功しそうなのかダメそうなのか、自分とは何者なのか分からなかったのじゃ。そこでみんな考えたんじゃ。自分にとって一番最悪な場合、つまり、社会のなかで自分が一番恵まれない人間である場合を考え、そういう自分を救ってくれる正義を考えれば安全じゃ、と。 こうして社会は始まったそうじゃ。
 ロールズはこのフィクションを原初状態と呼び、慎重な個人が最悪な状態に落ち込む危険を心配して共通に示す判断だから、格差原理が正義であることは論証されているとしたのである。彼は、自分が何者であるかを知らないという空想を「無知のヴェール」と表現したが、私は、ロックの時代の「神の前には皆平等」という思想を現代風に洗練したのがこれであると思っている。 (『経済学の知恵』から)
 この『経済学の知恵』の著者は、『経済学の知恵』についてこんな風に書いている。
 ジョン・ロールズを初めて読んだとき私は清々しさと、現代においてこんなことを正面から論じるのはどのような人なのだろうという感慨を抱いた。 そして、そのことは、彼の生い立ちと当時のアメリカの状況を考えるとき、至極当然のここと思うようになったのである。(『経済学の知恵』から)
<自分が一番不利な立場になったら=誤審で死刑判決を受けたとしたら>
 『正義論』を何となくでも分かったら、次は死刑廃止についての話。 死刑廃止論の根拠の1つは、「人が裁く以上誤審は避けられない。死刑が執行されたら、誤審と分かっても元に戻すことはできな」だ。 「もしも貴方が身に覚えのない罪で、死刑の判決を受けたらどうしますか?死刑制度が廃止されていたら、刑務所で有りとあらゆる手段を使って無実を証明しようとするでしょう。 でも、死刑が執行されてしまっては、貴方が無実を証明することはできません。誰かがあなたの無実を証明したとしても、死刑が執行された後だったらどうしようもありませんね」 というのが、死刑廃止の論拠の1つだ。
<ロバート・ノージックの「最小国家」>  話題はドンドン飛びます。次は『正義論』とは対極にある『アナーキー・国家・ユートピア』。ロバート・ノージックは『アナーキー・国家・ユートピア』の中で、「最小国家」という言葉を使って彼の理論を説明しようとしている。 その「最小国家」とはどのようなものか?ジョナサン・ウルフ著『自由論』から引用してみよう。
 しかし、ノージックは、人々にとって良い唯一の生といったものが存在するという考えに異を唱える。個々人は彼あるいは彼女自身の善の構想を持つだろうし、また、一つのユートピア社会であらゆる人々が幸せな、あるいは満足のゆく生活を送りうるとは考えにくい。自称ユートピア主義者の精神を集約して、ノージックは「ヴィトゲンシュタイン、エリザベス・テーラー、バートランド・ラッセル、トマス・マートン、ヨギ・ベラ、アレン・ギンスバーグ、ハリー・ウルフソン、ソロー、ケーシー・ステンゲル、ルバヴィッチのレッペ、ピカソ、モーゼ、アインシュタイン……あなたとあなたの両親」にとって最善な一つの社会を構想してみるよう挑戦する。
 「ユートピアのための枠」の背景にあるのは、人々が彼ら自身のユートピアを構想し、生きることができるような背景の記述を提示するという考えである。最小国家においては、あらゆる資源が共有される共産主義者の村をつくる集団もあってよければ、また、高度な文化の追求のためにあらゆる安楽が犠牲にされる完全主義者の社会を作ってもよい。第3の集団はモデル的な自由市場社会を作り出そうとするかもしれない、等々。つまり、最小国家では、個々人は随意的に様々な種類のサブ国家をつくることができる。そこでは社会は資本主義に基づいて組織されるべきか、それとも社会主義の線で組織されるべきかという議論は不要になる。資本主義を好むものは資本主義国家に、社会主義を好む者は社会主義国家に住むことができる。 (『ノージック』から)
<ジョン・ロールズが主宰する「最小国家」で刑法を定めるとき>
 ここでは、ロバート・ノージックの「最小国家」をジョン・ロールズが主宰しようとした、と仮定して、そのとき刑法をどのように定めるか?を想定してみることにする。
 ジョン・ロールズが「正義論国家」の構成員に呼びかける。「皆さん、正義論国家の刑法を定めたいと思います。先ず私からの提案です。 裁判では誤審はつきものです。神ならぬ人間が裁く以上、完全は期待できません。そこで、もし貴方が、身に覚えのない殺人事件の犯人として起訴され、裁判で死刑を宣告されたらどうでしょう? 終身刑なら刑務所の中から有りとあらゆる手段を使って無実を訴え続けることができます。でも死刑を執行されたら、それは出来ません。 私が言いたいのは「もしも自分が思いもかけぬ一番不利な。不幸な立場になったとしたら、どうしたらいいか?」ということです。 この「正義論国家」では、未だ誰がこの最小国家の代表者になるか?一番の下層階級になるか分かりません。自分が一番不利な立場になっても、ある程度諦められる制度にすべきだと思うのですがいかがでしょうか?」
 この最小国家に集まった人々は全く初めて会った人たちで、前歴はだれも知らない。けれども主催者のジョン・ロールズが『正義論』の著者であることは知っていた。 そこでジョン・ロールズの提案はすぐに理解され、全会一致で可決された。ここに「正義論国家」では「死刑は憲法違反である」と規定することが確認された。
<『正義論』信仰と「死刑廃止」信仰>  『正義論』を信仰すれば、「死刑は廃止せと」になるのは自然だ。同じ様な価値観を持っていると見て良い。 『正義論』側からも、「死刑廃止論」側からも、このような見方は聞かれない。ちょっと離れた所から見ると同じ様な匂いがするのだが、岡目八目かも知れない。 「経済学はセンスだ」がTANAKAの持論だ。理論的であるべき「経済学」なのだが、「センス」の違いが立場・見方の違いに大きく影響するようだ。 考え方の違う者同士が冷静に議論しても「結局、貴方とはセンスの違いですね」ともの分かれになることが多いに違いない。 『正義論』信仰者と「死刑廃止」信仰者とは多くは話さなくても、すぐに理解・納得し合えるの違いない。
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<現実は「格差原理」の社会ではない。何故か?>  「ジョン・ロールズを初めて読んだとき私は清々しさと、現代においてこんなことを正面から論じるのはどのような人なのだろうという感慨を抱いた」 と感激した人がいた。ということは、現実の社会は「格差原理」に従った社会ではない、ということだ。現実の社会と違っていたから、、新しさを感じたのだと思う。 では現実の社会はどうなっているのだろうか?そして何故「格差原理」が採用されないのだろうか?一番弱い・不幸な立場の人にとって住みやすい社会制度にならないのは何故なのだろう? 死刑廃止論からこのような疑問に立ち向かってみることにしよう。 この疑問に関しても、扱っている文献には出合っていない。隙間産業を狙うアマチュアエコノミストとしては格好の狙い目のようだ。
ATM機器は機械嫌いの年寄りには迷惑だ  銀行へ行って振込をしようと番号札をとって窓口へ行くと「当行に口座はお持ちですか?キャッシュカードをお持ちならATMの方が手数料も安く、お得ですよ」とATMへ追いやられる。 ATMに馴れている人ならいいが、機械嫌いの年寄りには、ATMでの振込はけっこう面倒なものだろう。ATMを改良して、最新式のロボットを導入し、対話形式で振込ができるようになれば、お年寄りも、もっとATMを利用するに違いない。
 『正義論』を信仰していれば、この様な発想になるに違いない。ATMは確かに便利で、安く、早く取引ができ、銀行のコストも軽減され、ひいては顧客サービスに結び付く。 その一方で、弱者である機械嫌いのお年寄りには迷惑なシステムだ。その社会での一番の弱者のためにシステムを考えるならば、ATMに対話形式のロボットを導入すべきだ、ということになる。
所得税の基礎控除は超低所得者にメリットはない  所得税の計算は次のようになっている。
 (給与所得−給与所得控除額−基礎控除額)×税率
 この計算式で、給与所得控除額は収入金額×40%(65万円に満たない場合は65万円)となっている。例えば、65万円の人も、50万円の人も、10万円の人も同じ、ということだ。 低所得者層に気を配っているとしても、その中での差はない。低所得者層と超低所得者層とは同じ扱いになっている。『正義論』の考え方からすれば、65万円の人よりも10万円の人の方が優遇されなければならない。
年末調整のサラリーマン減税は弱者にとって利益はあるのか? 経済が成長しているときは毎年のように、年末にサラリーマン減税があった。源泉徴収で天引きされていた税金が戻った。 しかし、これも毎月の給与から税金を天引きされているサラリーマンにのことで、フリーター、ニート、一部の派遣社員には関係がない。もちろん、ホームレスにもだ。
少数の弱者への大きな利益VS多数の中間層への少ない利益 ATMに対話式のロボットが導入されたら、少数の機械嫌いにとっては大きな喜びになる。けれども多数のATMに馴れている人にとってはメリットはない。
 基礎控除で差をつけたとして、少数の弱者には大きな利益はあるだろうが、多くの中間層には関係ない。
 サラリーマン減税は少数の弱者にはメリットはなくて、多数の中間層にはメリットがある。
 ここで、人数かけるメリットの大きさを計算してみよう。
 ATMに対話式のロボットが導入されれば、少数の人に大きなメリットがある。ロボットなしのATMが導入されれば多数の人に少しずつメリットがある。 それぞれを計算すれば、たとえ、ロボットなしでもATMを導入するメリットの方が大きいとなるに違いない。
 基礎控除の場合はどうだろう?やはり、少数の弱者と多数の中間層、そのメリットの合計は現在の計算式で十分中間層にはメリットがあり、基礎控除で差をつけるメリットは小さい、となるに違いない。
 サラリーマン減税も多数の中間層にはメリットがあり、人数かけるメリットの大きさは十分大きいと評価されるに違いない。
接待汚職の被害者は何処にいる? 1998年春、大蔵省金融検査部幹部職員の接待汚職に非難が集まっていた。 ところでこの汚職によって誰が得をして、誰が損をしたのだろう。発覚しなければ銀行と担当者(MOF担)および大蔵省の役人が得をして、一般納税者が損をしたことになる。 他の例と同じように、少数者のルール違反の利益と、多数者の少ない損失。この場合は「ルール違反をすると結局は損するよ」ということをハッキリさせることが大切だ。
少数の土木建設業者の利益VS多数の納税者の利益==談合を考える 談合をすることによって誰が得をして、誰が損をするか?得をするのはすぐ分かる。土木建設業者だ。では損をするのは? それは、土木建設業者も含めた一般納税者だ。けれども損をする一般納税者は自分がいくら損をしたのか知らない。そこで、得をする土木建設業者は「談合は必要悪だ」などと言う。
 ここで例にあげたのと同じようだ。少数の者が大きな利益を得て、多数のものが少しずつ損をする。こうした場合一般的なルールとしては、多数者の利益を重視して「談合は悪だ」と規定する。 市場経済では、競争で負けた者はその市場から撤退し、業界の生産性は向上する。この競争社会を『正義論』信奉者は「弱肉強食の社会」と言って非難する。心のどこかに、「談合を容認すべし」との気持ちを持っている。
誤審により無実で処刑される場合VS殺人未遂で実質的な死刑になる場合 誤審により死刑を宣告された例がある。初めに書いた「銀行強盗事件A」のように殺人未遂で実質的な死刑になる場合もある。 どちらを重く見るか?現在では、殺人未遂で実質的な死刑になるケースを重視していると考えられる。そちらの方が多く起こりそうだからだ。 ただし、「銀行強盗事件@」の場合、犯人が3人を殺したことについて誤審は有り得ない。
基本的な制度は多数者を重視 現在日本の制度は「弱者=一番不利な立場にいる人を守る制度になっている」とは言えない。それよりも上の層=中間層の利益を重視して制度が定められている。 『正義論』の主張する「弱者のための社会制度」にはなっていない。このため「政府は格差を拡げる政策を進めている」「弱者切り捨ての政府与党」と非難する人・グループがいる。 そうした人はかつてはマルクス主義を武器に論陣を張っていたが、マルクス主義に人気がなくなって、ごく一部の人は『正義論』を根拠に論陣を張っている。 そうでない人も結局は、自分では意識していなくても『正義論』を頼りに主張を繰り返している。
 『正義論』は、「弱者=一番不利な立場にいる人を守れ」と主張し、現実社会では「それより上の層=多数派=中間層の利益を重視している」 人数かける利益の大きさ、は現実の社会制度の方が大きい。そこで一般的な制度は、多数派重視の制度になる。ただし現在ではそれだけではない。 一般的なルールの他に、弱者対策別途特別制度を設けていることがある。
 ATMではフロア・スタッフが機械操作の苦手な人の手伝いをする。低所得者には「生活保護制度」がある。
 所得税に関しては、ミルトン・フリードマンの提唱する「負の所得税」がある。これに関しては<新しい所得税法>を参照のこと。 『正義論』とは対極にいる人が、『正義論』よりも具体的な「弱者対策」を提案している。
最大多数の最大幸福 『正義論』が批判する現実の社会は「最大多数の最大幸福」を追求する社会と言えそうだ。 一番の弱者を守る制度、ではなくて、多くの人の利益を多くする制度になっている。別の言い方をすると「個人の快楽の総計が社会全体の幸福である」と言うことができる。 ここまで話を進めて来ると多くの人は気づくに違いない。『正義論』が批判する現実の社会制度は「最大多数の最大幸福」を追求する、功利主義の社会であることに気づくに違いない。
 「最大多数の最大幸福」に対する挑戦には「プロレタリア独裁」を主張するマルクス主義があった。「最大多数の最大幸福」という場合の「最大多数」とはブルジョアのことである、との認識がマルクス主義の中心にあった。 このため、数・人数が問題なのではなく階級が問題であった。けれども、マルクス主義を採用した国々は破綻した。このため、「民主制度」や「最大多数の最大幸福」を批判したい人は、そのための教典を捜していた。 そうした時代に『正義論』が登場すれば、新鮮な驚きをもって、迎え入れた人も多かったに違いない。しかし、時が経って『正義論』の限界が見えてくると、かつての新鮮さを感じる人は少なくなっている。 けれども、そうした人のグループに入るには『正義論』を読んでいなければならない。たとえ完全に理解していなくても、使われている言葉位は知っておかないと恥をかくことになるだろう。
 「最大多数の、最大幸福」=資本主義
 「プロレタリアート階級の、最大幸福」=マルクス主義
 「最も弱者である階層の、最大幸福」=ジョン・ロールズの『正義論』
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<正義の2原理> ジョン・ロールズは『公正としての正義再説』で「正義の2原理」を次のように説明している。
 『正義論』第11−14節で論じた正義の2原理を手直ししたい。それらを今回、次のように修正する。
(a) 各人は、平等な基本的諸自由からなる十分適切な枠組への同一の侵すことのできない請求権をもっており、しかも、その枠組は、諸自由からなる全員にとって同一の体系と両立するものである。
(b) 社会的・経済的不平等は、次の条件を充たさなければならない。第1に、社会的・経済的不平等が、機会の公正な平等という条件のもとで全員に開かれた職務と地位に伴うものであるということ。 第2に、社会的・経済的不平等が、社会のなかで最も不利な状況にある構成員にとって最大の利益になるということ(格差原理)。 (『公正としての正義再説』から)
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<§13 民主的平等と格差原理> 『正義論』と言えば「格差原理」を取り上げなければ話にならない。それほど中心的なキーワードだと思う。「民主制度の限界」でも引用したが、『正義論』の中心的なキーワードなのでここでも引用することにした。
 表にあらわれているように、民主的解釈は、機会の公正な均等という原理を格差原理と結びつけることによってえられる。この原理は、その地位から基本的構造の社会的、経済的不平等が判定される特定の地位を選び出すことによって、効率性原理の不確定性を排除する。平等な自由と機会の公正な均等によって求められる制度の枠組みを仮定すれば、より良い状況にある人々のより高い期待は、次のような場合に限り、正義に適っている。 つまり、そのことが、社会の最も不利な立場にある構成員の期待を改善する図式の一部として作用する場合である。そうすることが不運な人々の有利にならないのであれば、その社会秩序は、より暮らし向きのよい人々の見通しをより魅力的なものにしたり、それを保証したりすることはないというのが、直観的な観念である。
 格差原理を説明するため社会階級間の所得の分配を考えてみよう。様々な所得グループは、その人々の期待との関連で分配を判断することができる代表的個人と相関すると想定しよう。さて、私的所有民主主義において企業家階級の構成員として出発する人々は、いってみれば、未熟練労働者階級にはじまる人々よりも、より良い見通しをもつ、これは、現存する社会的不正義が除去される時でさえ真実であるように思える。その時、人生の見通しにおけるこの種の初期的不平等を、一体、何が正当化できるのであろうか。 格差原理に従えば、期待の差が暮らし向きの悪い代表的人間の、この場合には、代表的未熟練労働者の有利になるならば、その時に限って、それを正当化することができる。期待の不平等は、それをそれを縮小すれば勤労階級の暮らし向きを一層悪化させてしまうならば、その時にのみ、許容される。恐らく、開かれた地位に関する第二原理の中にその条項が与えられる。また自由の原理が一般的に与えられれば、企業家により大きな期待が許されると、企業家達は労働者階級の見通しを引き上げるような事を行なおうするようになるであろう。 彼らのより良い見通しは、誘因として働き、その結果、経済過程はより効率的になり、技術革新はより速い速度で進む、等々のことが生じる。私はこうした種類のことがどこまで真実であるかを考察するつもりはない。これらの不平等が格差原理によって正当化されるならば、この種のことが議論されなければならないというのが要点である。
 さて、この原理について、二、三のことを述べておこう。まず第一に、その適用に際しては、二つの場合を区別すべきである。第一の場合は、最も不利な立場にある人々の期待が実際に最大化されている場合である(もちろん、上で述べた拘束に従う)。暮らし向きのより良い人々の期待をどう変えても、最も暮らし向きの悪い人々の状況を改善することができない。私が完全に正義に適った図式と呼ぶ、最善の取り決めが得られる。第二の場合は、暮らし向きのより良い人々全ての期待が、少なくとも、より不運な人の福祉に寄与する場合である。 すなわち、もし、彼らの期待が引き下げられるならば、最も不利な立場にある人々の見通しも、同様に低下するであろう。だが、未だ最大には達していない。より有利な立場にある人の期待がより高い場合でさえ、最低の地位にある人々の期待を引き上げるであろう。そのような図式は、全体にわたって正義に適うが、私はそういうが、最善の正義に適う取り決めではない。彼らのうちの一人またはそれ以上の人のより高い期待が過大である場合にはその図式は正義にもとる。 これらの期待を引き下げるならば、最も恵まれない人々の状況は改善されるであろう。ある取り決めがどのくらい正義にもとるかは、より高い期待がどのくらい過大であるかに依存し、かかる期待が他の正義の諸原理を、たとえば機会の公正な均等をどの程度まで侵しているかに依存する。 しかし私は、不正義の程度を測定してみようとは思わない。ここで注意すべて点は、格差原理は、厳密に言えば、最大化原理であり、一方、最善の取り決めに達しない諸ケースの間には重大な差がある、ということである。社会は、暮らし向きの良い人々の限界的寄与が負である状況を避けるよう努めるべきである。というのは、他の事情にして等しければ、このことは、こうした寄与が正である時に最善の図式に達しないこと以上に、大きな欠点であるように思える。階級間の差があまりに大きいと、民主的平等だけでなく相互の有利化という原理まで侵されてしまう。 (「正義論」から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『正義論』                         ジョン・ロールズ 矢島鈞次監訳 紀伊國屋書店  1979. 8.31
『自由・公正・市場』                               大野忠男 創文社     1994.10.15
『経済学の知恵』現代を生きる経済思想                       山崎好裕 ナカニシヤ出版 1999. 4.20
『経済の倫理学』現代社会の倫理を考えるー第8巻                  山脇直司 丸善      2002. 9.25
『アナーキー・国家・ユートピア』国家の正当性とその限界   ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     2006. 8.25
『アナーキー・国家・ユートピア』上 国家の正当性とその限界 ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     1985. 3.15
『アナーキー・国家・ユートピア』下 国家の正当性とその限界 ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     1989. 4.15
『ノージック』所有・正義・最小国家        ジョナサン・ウルフ 森村進・森村たまき訳 勁草書房    1994. 7. 8
『ロールズ』     チャンドラン・クカサス/フィリップ・ペティット 山田八千子・嶋津格訳 勁草書房    1996.10.14
『公正としての正義再説』 ジョン・ロールズ エリン・ケリー編 田中成明・亀本洋・平井亮輔訳 岩波書店    2004. 8.26
『ロールズ正義論再説』その問題と変遷の各論的考察                渡辺 幹雄 春秋社     2001.12.25 
『自由論』                      アイザィア・バーリン 小川晃一ほか訳 みすず書房   1971. 1. 2
『自由の正当性』                      ノーマン・バリー 足立幸男監訳 木鐸社     1990. 5.15
( 2007年8月6日 TANAKA1942b )
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(21)ノージックの最小国家という自由論 
自由を保証する国家権力を忘れている

<『正義論』と「死刑廃止」と「階級・階層社会意識」> ウィンストン・チャ−チルはこんなことを言っている。「デモクラシーとはひどい政治制度である.しかし,今まで存在したいかなる政治制度よりもましな制度である」と。 この「デモクラシー(民主制度)」を「資本主義」または「市場経済」と言い替えることもできる。民主制度も資本主義も「最大多数の最大幸福」を目指している。この「最大多数」に異論を唱えたのがマルクスだった。 マルクスの主張は「プロレタリア階級の最大幸福」であった。ブルジョア階級でも中間階級でもなく、そして、多数か少数かは関係なかった。 社会主義が政治的にも経済的にも破綻した現在、それでも、階級・階層意識を持つ人は残っていて、今さら宗旨替えはできない。そうした人が新たな教典を求めていた。 そして見つけたのが『正義論』だった。ここでは「プロレタリア階級」ではなく、「最も弱者である人たちの階層」の「最大幸福」を主張する。 「最も弱者である人たちの階層」とはどういう階層か?その人たちの最大幸福とはどういうことか?という具合に議論が進むと、大きな問題点を見失うことになる。 階級とか階層で人を区別する社会観が問題なのだ。階級とか階層は流動的であり、民主制度や市場経済では本人の努力と運次第で上に行ったり、落ち込んだり、流動的であり、決して固定されているわけではない。 そして、社会全体の厚生という点から考え、計算すると、最大幸福を味わうのが多数なのか、少数なのかが問題になる。
  冤罪によって無実でありながら死刑を執行される、という危険は、死刑制度がある以上皆無にはできない。そうでありながら、「死刑制度は存続させるべきだ」と主張するのは、 死刑廃止のメリット、デメリットを天秤にかけて、どちらが社会全体としてメリットがあるか、を判断してのことだ。ここには、確率とか影響を受ける人の数など、数字の感覚が必要になる。
  こうした点で、死刑廃止論とマルクス主義、『正義論』とが、同じ様な発想で、「民主制度」や「資本主義」とは違っていると感じる。死刑廃止論者・マルクス主義者・『正義論』信奉者が一方にいて、 対岸には「民主制度・資本主義・死刑存続を支持する人がいる。このように捉えると分かりやすいと思う。前回の「ジョン・ロールズの正義論と死刑廃止論」のポイントはそのようなことを言いたかったのだった。 そしてもう1つ、「未熟練労働者」とか「社会階級間」との言葉からは、マルクス時代の社会を見ているようだ。ガルブレイスの『ゆたかな社会』とは必ずしも同じではないが、現代はゆたかな社会なのだ。 『正義論』はマルクスの生きていた時代、ゆたかになる以前の社会を取り扱っていると感じた。
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<『正義論』を切り、返す刀で『アナーキー・国家・ユートピア』を切る> 前回の『正義論』、やや煮え切らないところもあったけれど、それでも「死刑廃止論」との関係や「○○階級の最大幸福」といった観点からの切り込みは、経済学教育業界の教科書でも政治哲学業界の文献でも刑法の解説書でも見当たらない、 アマチュアエコノミストならでの隙間産業的発想だと思う。そのような発想で、今週はロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』を扱う。
  ノージックが死刑制度について「死刑は廃止せよ」とか「死刑は存続させるべきだ」などと主張している訳ではないが、「自由を謳歌するには、自由を保証する権力が必要だ」ということを、ノージックも死刑廃止論者も、どちらも忘れているように思える。 このような、権力の必要性に気づかない立場は、経済の問題で言えば、「独占禁止法は企業の自由な活動を規制する、一種の社会主義的規制法律である」との主張になる。確かに独禁法は企業活動を規制する。しかし、もし規制されなければ「カルテル」「トラスト」「コンツェルン」「談合」など、企業間の自由な競争を阻害する危険性がある。自由な競争を保証するためには独禁法は必要になる。
  市場経済をゲームに例えると分かりやすい。スポーツのゲームで言えば、「競技場」と「ルール」が必要になる。市場経済では、「市場」という「競技場」と取引に伴うルールが必ずある。「市場原理主義」という言葉を使って、市場経済ではルールがないかのように言う人もいるが、市場経済ではルールがあって、このルールに違反すると厳しく罰せられる。 これは、人を殺すという重大な犯罪を犯すと、死刑という厳しい罰が科せられる、という刑法に似ている。
  死刑制度について考えると、「人を殺すのは悪いことである」との主張に反対はできない。けれども「人を殺すのは悪いことである」とルールを守らすには、それなりの権力が必要になる。「人を殺すのは悪いことである」と叫んでいれば、人殺しが起きない、との考えは「言霊」信者の言うことであって、国家のルールには採用できない。 そうは言っても、言霊は生きている。「憲法9条があるから、日本は戦争に巻き込まれなかった」と言霊信者は主張する。この言霊信者は日本だけではなかった。 「人を殺すのは悪いことである」とのルールを厳しく守らそうとすると、「国家が人を殺すのは良くない」と反対する。これは「人を殺すのは悪いことである」と叫んでいれば殺人事件が起きない、と考えているように思われる。 そうした発想と、ロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』の発想が似ていると思い、ここに取り上げることにした。 どこが似ているかと言えば、『アナーキー・国家・ユートピア』では、最小国家同士のルールを守らすシステムが想定されていない。実際は最小国家を厳しく監視し、ルール違反を見張る機関が必要なのに、それが考えられていない。 「皆でルールを守りましょう」と言っていればルールが守られるかのように思えてしまう。こうしたことで、今週はロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』を扱うことにした。
<ノージックの最小国家論> ロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』は以前に<民主制度の限界>で書いた。 
  ここでは『アナーキー・国家・ユートピア』の「序」から一部引用しよう。
 諸個人は権利をもっており、個人に対してどのような人や集団も(個人の権利を侵害することなしには)行い得ないことがある。この権利は強力かつ広範なものであって、それは、国家とその官吏たちがなしうること──が仮にあるとすれば、それ──は何か、という問題を提起する。個人の権利は、国家にどの程度の活動領域を残すものであるか。本書の中心的関心は、国家の本質、適正な国家の機能、国家の正当性(それがあるなら)にあり、研究の過程で広い範囲の多様な主題が絡み合ってくることになる。
 国家についての本書の主な結論は次の諸点にある。暴力・盗み・詐欺からの保護、契約の執行などに限定される最小国家は正当とみなされる。それ以上の拡張国家はすべて、特定のことを行うよう強制されないという人々の権利を侵害し、不当であるとみなされる。 最小国家は、正当であると同時に魅力的である。ここには、注目されてしかるべき2つの主張が含意されている。即ち、国家は、市民に他者を扶助させることを目的として、また人々の活動を彼ら自身の幸福(good)や保護のために禁止することを目的として、その強制装置をしようすることができない。
  除外されるのはこれらの[弱者救済と後見的介入という]目標に向かう強制的ルートだけであって、自発的なルートは残されている。 それでも多くに人々は、他者の必要と苦難に対してこれほど冷淡な立場を信奉したくないと考えて、本書の諸結論を即座に否定するだろう。 私はこの反応をよく知っている。ここで述べたような見解を検討し始めた時の私自身の反応が、まさにそれであったのだから。様々な論議と考察によって、私は嫌々ながら、自由尊重主義的(libertarian)──と今呼ばれていることが多い── 見解を支持するようになっていったのである。本書には、以前私のもっていた抵抗感はほとんど名残を留めていない。逆に本書では、(私が立場を変える原因となった)議論と考察の大城が論じられている。 私はそれらを、力の及ぶ限り強力に呈示したのである。これによって私は、二重に誤る危険を犯している。つまり、この(自由尊重主義の)立場を展開していること(自体)と、この立場を支持すべき理由を私が提供していることとである。 (『アナーキー・国家・ユートピア』から)
  ここで問題にするのは、最小国家が誰でも自由に設立できることだ。<民主制度の限界>では、<怖いお兄さんたちの最小国家>として書いた。それは次のような文章だった。
<怖いお兄さんたちの最小国家> ノージックは「〇〇にとって最善な一つの社会を構想してみるよう挑戦する」と言う。それならば、〇〇が次の人たちだったらどうだ?指定暴力団山〇組、アル・カポネ、ヒトラー、麻原彰晃、ジョン・ロールズ、市民運動家たち。つまりこの人たち及びそのシンパが最小国家を作ったらどうなるか?だ。   怖いお兄さんたちの作る最小国家では、例えばカジノを組の独占事業とする。大麻・マリファナなどの薬物の販売許可を組に独占的に与える。他の最小国家とは犯人引き渡し条約を結ばない。 他の最小国家から観光名義の客が来訪し、組は莫大な利益をあげる。経常収支は常に黒字。経常収支はカジノと薬物で稼ぐので、自国通貨が高くなっても輸入品が安くなるだけ、経済的には何も困ることはない。国民(=組員)は近隣の最小国家へ出向き荒仕事をして、警察に目を付けられてヤバくなると、自国へ逃げ込む。犯人引き渡し条約を結んでいないので、自国から出なければ逮捕される心配はない。
  こうした場合周辺国家は圧力をかけないのだろうか?自由貿易に徹していれば効果はあるが、保護貿易、自給自足を目指していると効果はない。かと言って軍事的圧力はかけられない。どの最小国家も他国に圧力をかけられるほどの軍事力を持たないし、組員は即ち軍人になり、ここは最強の軍事大国になるからだ。 経済的圧力に関して言えば、江戸時代、田沼の時代、浅間山の噴火による飢饉が思い起こされる。1783(天明3)年7月8日、浅間山は大噴火を起こした。噴煙が空を覆い、東北地方は冷害になり、コメ不足を起こした。各地で餓死者が出た。しかし松平定信藩主の白河藩だけは例外で死者は出なかった。藩主松平定信が諸藩から前もってコメを買い占めていたからだ。幕府の実力者田沼意次は各藩にコメの買い占めをしないように伝えたが、強制力はなかった。 小判があってもコメがなく飢え死にする者さえ出た、と言われている。こうした場合、周辺諸藩は白河藩に圧力をかけることは出来なかったのだろうか?軍事的には不可能。幕府が許さないし、農民も反対する。現代でも、アフガニスタン、イラクへのアメリカの軍事行動には大きな反対運動が起きる。ミャンマーへの経済的圧力には批判は出ない。周辺諸藩が白河藩に圧力をかけられるとしたら、出津・入津(輸出入)が多くなければならない。 コメ以外に綿、魚、野菜などの交易が盛んで、各藩が経済的に頼り合っていれば経済制裁も効果がある。しかし当時はそれほど各藩の経済は頼り合ってはいなかった。この飢饉を「人災」と言う人もいる。それは「当時から市場経済だったからだ」との主張がある。それは経済を知らない人の考えで、事実は逆。松平定信が買い占めをやっても、自由な市場が整っていれば(ヤミ市場でもいい)、必要な所=高く買ってくれる所へコメは行く。そして周辺諸藩の経済的圧力も効果が期待できた。
  組員の中に経済学に興味を持つ人間が出てくると、こうした仕組みが分かってきて、周辺最小国家から経済的圧力をかけられないような貿易体制を取る。つまり生活必需品の自給率を高くすることだ。こうすればモンロー主義も押し通せる。周辺最小国家がどうなろうと、組員には影響がない。 食糧自給率が高いことで、この国へに信頼は高い。日本では「食糧自給率を上げよう」と叫べば誰も反対はしない。こうして組員中心の最小国家は繁栄していく。最も成功した最小国家として世間の注目を浴びることになる。
<怖いお兄さんたちが『正義論』国家へ荒仕事しに行く>   TANAKAが『アナーキー・国家・ユートピア』ご批判するのは、ここでは、人類すべてが「善人」であるかのように仮定されている、という点についてだ。 これは『正義論』についても言えることだが、このことによって「両書ともに非現実的な空想論である」とTANAKAは決め付けることになる。 ジョナサン・ウルフが『ノージック』で書いている。
  「しかし、ノージックは、人々にとって良い唯一の生といったものが存在するという考えに異を唱える。個々人は彼あるいは彼女自身の善の構想を持つだろうし、また、一つのユートピア社会であらゆる人々が幸せな、あるいは満足のゆく生活を送りうるとは考えにくい。 自称ユートピア主義者の精神を集約して、ノージックは「ヴィトゲンシュタイン、エリザベス・テーラー、バートランド・ラッセル、トマス・マートン、ヨギ・ベラ、アレン・ギンスバーグ、ハリー・ウルフソン、ソロー、ケーシー・ステンゲル、ルバヴィッチのレッペ、ピカソ、モーゼ、アインシュタイン……あなたとあなたの両親」にとって最善な一つの社会を構想してみるよう挑戦する」
  ということは、ここに悪人は存在しないことを前提としている。トマス・モアの『ユートピア』以上に非現実的な社会を描いている。
 政治的・経済的個人の自由を保証するということは、国家という場、競技場とそこでのルールが必要であり、そのルールを守らせる権力が必要になる。『アナーキー・国家・ユートピア』ではその権力の必要性の説明が欠けている。 「経済的自由を保証するためには、独禁法という規制は排除すべきだ」との主張に似ている。
  こうしたことを政治哲学という空想政治学とは違った分野で扱っているのがゲームの理論だ。平和的なハトばかりの社会に、戦闘的なタカが侵入したらどうなるか?をテーマに扱っている。
  怖いお兄さんたちが最小国家を作って、そこがイヤなら他の最小国家に移ればいい。と言うのは個人レベルでの話。しかし、怖いお兄さんたちの最小国家があると、他の最小国家が危険にさらされる。 怖いお兄さんたちの最小国家や、正義論国家など、多くの最小国家間の紛争を調整する機関・権力が必要になる。そうした権力や規制を排除するのが自由だ、と主張するのは、すべての最小国家がハトばかりだと思い込んでいるからだ。
  死刑廃止論者の考えも、「たまたまタカになってしまった犯罪者も、人間本来は平和的なハトなのであって、ハトとしての人権を尊重すべきだ」ということになる。
  ここに『アナーキー・国家・ユートピア』と死刑廃止論者との共通点、現実を見ない甘さを感じる。
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<最小国家論と保護協会>   『アナーキー・国家・ユートピア』では「保護協会」といいう表現で、警察力に相当する機関を説明している。自主的に設立される民間の組織であり、いくつも似た組織ができることになる。 幾つかの弱点を持ちながらも、それでもノージックが説明しているのだから、ここで取り上げることにした。
  自然状態においては、一個人は自分で、諸権利を実行し、自己を防衛し、賠償を取り立てて、処罰を行う(少なくとも、そうするために最善の努力を払う)こともある。彼の要請に応えて他の人々が彼の防衛に加わることもある。 これらの人々が彼とともに攻撃者を撃退したり侵略者を追いかけたりするのは、彼らが公共精神を持つゆえであったり、彼の友人であるためであったり、過去に彼がこの人たちに助力したためであったり、彼らが将来彼から助力を受けたいと望んでいるためであったり、何か物をもらっている場合であったりするであろう。 複数の個人によって構成される様々なグループが、いくつもの相互保護協会を形成することになろう。そこでは、誰であれ防衛や権利実行の要請があれば、全員がこれに応じるのである。同盟には力がある。しかしこのような単純な相互保護協会には、2つの不都合が伴っている。
  (1)すべての者が要請があり次第保護機能を果たすべく常に待機していること(また、全員の奉仕を必要としないような保護機能が要請されている場合、これに応じる者をどのようにして決定するか)。
  (2)自分の権利が侵害されつつあるとか侵害されたと言えば、メンバーの誰でも協会員たちを呼び求めることができる。保護協会は、自己防衛を装って他人の権利を侵害することに協会を利用するようなメンバーについては言うまでもなく、喧嘩好きのメンバーや偏執狂のメンバーに顎で使われ要求に振り回されたいとは考えないであろう。 同一の協会内の2人の異なったメンバーが訴訟を始め、各々が仲間のメンバーたちに対し自分の援助に来るよう招請する場合にもまた困難が生じる。
  協会内のメンバー間での争いに対しては、不干渉政策で対処しようとする相互保護協会があるかもしれない。しかしこの政策は、協会内部の不和を醸成し、場合によっては、互いに闘争し合う内部グループの掲載へと導き、そうして協会の内部分裂の原因となろう。 この政策はまた潜在的侵害者たちに対して、{侵害に対する協会の}報復や防衛行為から免れるために、できるだけ多くの相互保護協会に参加するよう奨励することになるから、協会の最初の参加者審査手続の適切性如何が重大となり、負担となろう。 こうして様々な保護協会は(人々がそれに参加し、存続するようなものはほとんどすべて)不干渉政策に従わないであろう。つまりこれらの協会は、他のメンバーに権利を侵されたと主張するメンバーがいる場合にどう行動すべきかを決定する、何らかの手続をもつぃことになろう。 多くの恣意的な手続を想像しうる(たとえば、最初に不平を訴える方のメンバーの側に立って行動せよ)。しかし、人々のほとんどは、何らかの手続に従っていずれの主張が正しいのかを発見するような協会に参加したいと考えるであろう。 これは、各委員の争いにそれの正・不正にかかわりなく、常にコストのかかる介入を行うということを回避するためだけにも必要である。各人がその時に行っている活動、性向、相対的適性の如何を問わず全員が招請に備えることの不都合は、普通のやり方では、分業と交換によって解決しうる。 保護業務をお子pなうために雇われる者が現れ、そして保護サービスを売る仕事を始める企業家たちが出てくるだろう。より広範囲の念入りな保護を希望する人々のために、別の種類の保護方針が、それぞれ別の価格で提供されるであろう。
  ある人は、犯罪人の捜索・逮捕・司法的決定や賠償の取り立てなどすべての役割を私的保護機関に移転してしまうには至らない、より個別的な約定または委任を行うかもしれない。自分の事件で裁定者になる場合の種々の危険を考慮して、彼は、自分が本当に不正を受けたのか、またどの程度の不正なのかに関して判断することを、他の中立のまたは比較的利害関係をもたない者に委ねるかもしれない。 正義が行われているように見えるという社会的効果が生じるためには、この{裁定}者は、一般的な尊敬を受け、中立で高潔であると考えられていなければならない。 それゆえ紛争の両当事者は、自分が手前勝手に見えることに対する防衛策を講じようとするだろう。そして双方が同じ人を裁定者として、彼の判断に従うことに同意する場合すらありうるだろう。(その判断に満足できない当事者が上訴するための特別の手続があってもよい)いずれにせよ、いくつかの明白な理由から、上述の諸機能が同一の人または機関に収斂する強い傾向が存在するであろう。 (『アナーキー・国家・ユートピア』から)
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<ハイエクの「自生的秩序」>  徹底的に自由を尊ぶ立場として『アナーキー・国家・ユートピア』を取り上げたのだが、こうした立場ならハイエクを忘れたならない。 ここでは、ハイエクの「自生的秩序」を引用し、「自由」ということ、その概念について考えて見ようと思う。まずは嶋津格著の『自生的秩序』から。
  ハイエクの広範な分野にわたる思索を貫いて、そのすべてを1つのまとまった哲学にしている基本的概念を1つだけ挙げるとすれば、それは「自生的秩序」(spontaneous order) の概念であろう。 各要素が整合的に関連づけられて1つの理論を構成している場合に、どれか1つの構成要素をその帰結をも含めてよく理解しようとすれば、理論全体の枠組みの把握が必要となる。 それ故、ハイエクの理論の中の1要素を取り出す場合、理論の基本的な部分を構成する要素でさえあれば、どれを取り出そうがいずれは理論全体に行き着くという点で、取り出し方の選択はある程度任意であるとともに、ここで取り出した「自生的秩序」の概念も、その意味、適用範囲及び適用した場合の理論上の帰結が十分に理解されるのは、結局ハイエクの理論全体が示された後であるという点で、ここでの論及はごく暫定的なものに留まる。
  「自生的秩序」はまず、「人間の行動の結果であるが、人間の企画の結果ではない」ものとしての、社会的諸制度及び「社会」そのものについて問題とされる。「人間の行動の意図されざる諸帰結」というフレーズから現在のわれわれが想像するものは、一般に何か悪いもの、回避すべきもの、少なくとも意図されたものによってできればとって代わられるべきものである場合が多い。 しかし、D・ヒュームからA・スミスに至る18世紀のイギリス道徳哲学がみごとに示したとおり、人間が自覚的、目的的に作り出したものではないのに、結果的に高度に(生物の各器官そうであるというのと同じ意味で)「合目的的」であり今や人間の社会生活に不可欠ともいえる制度(たとえば「至上経済」)が現に存在する。これは、人間から独立しているという意味での「自然」に属する現象ではないにも拘わらず、人間の意図または企画によるという意味での「人為」でもない。 それ故、このような諸制度は、「自然」と「人為」の中間に、どちらにも属さない第3のカテゴリーに属するものとして独立に把握される必要がある。 そして、これらがどのようにして成立し機能するかを説明することが、まさに理論的社会科学の中心的課題となるのである。
  誰かの計画によらなくともある意味で目的にかなった制度が自生的に成立することを示す、18世紀の社会と経済の理論の枠組みは、19世紀にC・ダーウィンによって、生物の種の生成の説明に利用されて大成功を収める。 つまり「自生的秩序」の概念は、現在の生物学にとって、進化による新しい種の成立の説明として、もっとも馴染み深い概念である。 そしてこの進化の連鎖は、人類の発生及び「理性」の成立にまで当然つながるのである。
  自生的秩序の最もよい例の1つは言語である。それ故、言語の成立と発展を論じた言語学者たちのある者は、「ダーウィン以前のダーウィン主義者」と呼ばれる。 ハイエクの「法」の概念の重要な側面は「言語の文法」よのアナロジーで考えると理解し易いように思われる。ハイエクも多くの著作で、自生的秩序の例に言語を持ち出している。 つまり、言語は1つのルールの体系であるが、このルールは、誰かに命令されて話し手が服従しているようなものではない。それどころか、自国語を話す場合、このルールはほとんど意識されないし、自由に正確な言葉を使っていながら、自分の従っているルールを述べることができな人がほとんどである。 文法学者はこのルールを述べる専門家であるが、彼は決してこのルールを定立するわけではなく、それを発見し定型化するのみである。 のそ場合でも彼は」すべてのルールを定型化できるわけではなく、人が実際に使っているルールがいかに複雑化は、例えば自動翻訳機械がまだかなり素朴なものに留まっていることからも明らかである。 それにも拘わらず、文法学者の述べる比較的単純な文法であっても、文章の文法上の誤りを発見するためにはある限度でほとんど常に有効である。 言語を使う人々の目的は、場合に応じ千差万別であるが、それにも拘わらず、個々人が同じルールに事実上従っているからこそ言葉が通じ、個々人の多種多様な目的が達成されるのである。 文章形成のルールに従うことは、具体的に発話する文章の内容を自由に操作することと矛盾しないばかりか、文法的ルールに従うことを覚えることは、自由な言語使用の不可欠に条件である。
  このように述べたことは言語に関する限り、ごく常識的な見方だと思われるが、逐一法についての言明にしてみると、例えば法実証主義的見解をとる論者などから多くの異論が出そうに思われる。 いずれにせよ、法(及び自由)について前述のように考えるのがハイエクの基本的立場である。 (『自生的秩序』から)
<竹内靖雄著『経済思想の巨人たち』から「自生的秩序とは何か」>   「自生的秩序」を真っ正面から説明するとなると結構難しい。ここでもう1人に登場してもらうことにする。 竹内靖雄著『経済思想の巨人たち』からハイエクについて書いてある部分だ。   ハイエクの思想のキーワードである「自生的秩序」(spontaneous order)であるが、その具体的な内容はどのようなのもだろうか。
  ヨーロッパの伝統的な考え方の中には「自然法」とか「自然的秩序」といった概念がある。それはアリストテレスの段階では、人間を含む動物すべてに共通の法則を指していたが、ローマ法を経てそれが万人共通、国際共通のルールと解釈され、さらに中世のキリスト教の下では、神が人間に与えた理性に対応する法と考えられるようになった。 いずれにしても、人為的に定められた法(実定法)ではなく、人間の理性の産物(あるいは神からの贈り物)として存在するルールが「自然法」であり、それは同時に人間の「自然権」の根拠にもなる。 この「自然法」にもとすいて実現する秩序が「自然的秩序」であるが、実はフランソワ・ケネーやアダム・スミスにもこの「自然法」、「自然の秩序」といった考え方が残っている。 しかし神や理性ということを抜きにして考えてみると、ここで「自然」といわれているのは、「自然界」や「自然環境」の自然とは関係のないものである。 そしてそれは人間の行動の結果として、人間の意図とは無関係に、という意味で「自然に」できあがってきたルールや秩序を指すものであることがわかる(日本語では「おのずから」、「ひとりでに」という表現が使われる)。
  このような自然に形成された秩序をハイエクは「自生的秩序」と呼ぶ。市場という秩序がその典型的なものである。そして市場での行動を律するルールも、もともと「自生的に」成立したもぼにほかならない。 そのルールの根底にあるのは「交換の正義」であり、それが市場で行われるゲームの基本原則である。それはまさに自生的の確立したもので、誰かが定めたものではないが、商法をはじめとする多くの実定法はこの「交換の正義」の上に築かれている。
 アダム・スミスもハイエクも、この市場という自生的秩序が(神や理性との関係はともかく)人間にとって不都合のないものであり、各人が市場で自分の判断にもとづいて自由に公ふぉうする状態に任せておけば悪い結果は出てこない、という立場をとっている。
  人間の自由な行動から「自然に」形成される秩序を肯定するスミスやハイエクの立場は、よく考えてみると、「神」というフィクションも「神が人間に与えた理性」というフィクションも不要の立場であって、そこでは神も最終的に「消却」されていることを意味する。 「人間が生まれながらにもっている理性」という近世以降の考え方も、実は中世以来のフィクションの焼き直しにすぎず、それは「人間は神に等しい」というフィクションなのである。
  ハイエクが強力に拒否するのはこうした「理性」のフィクションであると見ることができる。つまり、プラトン的賢人支配から、政府の計画、政府の「見える手」による介入、ケインズのようなエリートないしは「賢人」による経済のマクロ的コントロールにいたるまで、合理的な知識によって経済や社会を紺とr−るすることができるという仮定、これらは国家を理性そのもののように思いこむフィクションにほかならない。
  ハイエクがもっとも力を入れて反対してきたのはこのような「迷信」であり、ケインズも社会主義者も、ハイエクによれば、この「迷信」の代表的な信徒だったということになる。
 ところで、自生的に確立した原則や慣習的なルールだけで今日の市場のゲームがうまく行われるだろうか。理性の力で最適なルールを制定することができるかのように考えるのはハイエクの立場ではない。 その点ではハイエクは正しいが、しかし、必要なら何らかのルールを制定し、試行錯誤を通じて改正していくほかないであろう。できの悪い民主主義という方法によってでもそうしないわけにはいかない。 長い目で見ればそのような試行錯誤の過程もまた、何らかの秩序が「自然に」形成されていく過程ではないか。
  たとえば、関係者が談合して利益を分配したり、価格を吊り上げたりする監修は、それこそ「自然に」できあがってきた秩序で、それなりの合理性をもっているかも知れないが、これを「良くない」慣習と見て別のルールで置き換えることは、「自然に」任せておいたのではできない。 談合も接待も天下りも自然に確立した日本的慣習であり、伝統であり、文化であるから守らなければならない、という立場をとる人は保守主義者である。 ハイエクは保守主義者ではなく、このようなケースでは、ラディカルな伝統破壊者となる。
  なぜか。談合のような日本的秩序になぜ反対しなければならないのか。これを理解することはかなりの難度の経済倫理学の「演習問題」となる。 答えはこうである。談合は、関係者同士の利益のやり取りや分配をうまく行う工夫であるが、外部の一般の人々に不利益を与え(たとえば公共事業の高い入札価格は納税者に損失を与える)、自由な競争という市場のゲームの基本原則を破壊することになる。 それは日本の文化であるかも知れないが、文化には手をつけず、つねに与件として尊重しなければならない、というのが保守主義だとすれば、それはただの思考停止症候群にすぎない。
  一見合理的で、関係者に利益をもたらすこうした「自生的秩序」や伝統を排除するためには、それを禁止し、罰則を用意した人為的なルールが必要となる。 ハイエクもおそらくこのことは賛成するであろう。 (『経済思想の巨人たち』から)
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<「自生的秩序」「治癒力」「盲目の時計職人」それに対する「設計主義」>   自然界の動植物の生態系は「自生的秩序」によってその体系が保たれている。しかし、その一部が大きく変化すると、全体のバランスが崩れて思いもよらぬ所でその影響が拡大されて人の眼に触れることがある。 たとえばある地域で、ある動物の生息数が大きく減少すると、その動物をエサにしていた動物が減少したり、逆にその動物のエサにされていた小動物が異常繁殖したりする。 これを、経済の分野で見るならば、ある経済現象の変化が思いもよらないところに現れる、ということだ。最近のことで言うと、バイオエタノールの原料としてアメリカのトウモロコシやブラジルのサトウキビの価格が上昇している。この影響で農作物全般に価格上昇の傾向が見られる。 この影響が日本では食品会社キューピーのマヨネーズの小売価格10%アップという形で現れた。
  そしてこの農作物の価格上昇は今後もいろんな分野に影響を与えると思われる。こうした農作物の価格上昇について「農作物の価格上昇は発展途上国の人々から食物を奪うことになる。エタノールの普及を急ぐべきではない」「二酸化炭素排出権取引は食糧難に苦しんでいるひとには迷惑は制度だ」と批判する人が出てくる。 これは、一見弱者の立場に立った発言であるかのようにも思えるが、経済が「自生的秩序」で動いていると考えると、視野狭窄な発言と思えてくる。
  バイオエタノールはアメリカではトウモロコシから、ブラジルではサトウキビから、そしてタイではキャッサバから作られる。このキャッサバ、タピオカの原料として知られている。主な産出国はタイ、ブラジルだが、アフリカ諸国で多く生産されている。 農産物と言っても日本のコメ作りとは違って、キャッサバの茎を土にさし込んで置けば、その後面倒をみることもなく収穫することができる、きわめて簡単に栽培できるので、農業専門家の少ない地域でも栽培できる。 さて、農産物の価格上昇は、購入者にとってなイヤなことだが、生産者にとっては見逃せないチャンスだ。アフリカ諸国でキャッサバを栽培している人たちにとって、キャッサバの生産者価格の上昇はイヤなことではない。 価格の上昇・下落は生産者と消費者にとっては逆の意味になる。経済の1面だけを見て「価格上昇は良くない」と言うのは視野狭窄と言うべきだ。そして、それは経済が自生的秩序によって保たれていることに気づかないからだ。 そういう人は、「政府は対策をとるべきだ」と中央のコントロールセンターに大きな期待をかける。自生的秩序や治癒力には期待しない、設計主義者であることが多い。
  話があらぬ方向にさまよい歩きだしてしまった。話をもとに戻すと、『アナーキー・国家・ユートピア』の主張する自由は、放って置いて保証されるものではなく、それを保証するルールや、そのルールを守らす権力も必要になる、ということ。 言葉で主張すればそれで自由が保証されるとの考えは言霊信仰者の言うことだ、ということ。
  自生的秩序とは生物学・進化論を知ると、そのイメージがクッキリと見えてくる。視野狭窄では理解できない。 自家不和合性に陥ると見えなくなる。頭の中での「交雑育種法」を活用し、一代雑種や突然変異を起こす必要がある、ということだ。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
『正義論』                         ジョン・ロールズ 矢島鈞次監訳 紀伊國屋書店  1979. 8.31
『自由・公正・市場』                               大野忠男 創文社     1994.10.15
『経済学の知恵』現代を生きる経済思想                       山崎好裕 ナカニシヤ出版 1999. 4.20
『経済の倫理学』現代社会の倫理を考えるー第8巻                  山脇直司 丸善      2002. 9.25
『アナーキー・国家・ユートピア』国家の正当性とその限界   ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     2006. 8.25
『アナーキー・国家・ユートピア』上 国家の正当性とその限界 ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     1985. 3.15
『アナーキー・国家・ユートピア』下 国家の正当性とその限界 ロバート・ノージック 嶋津格訳 木鐸社     1989. 4.15
『ノージック』所有・正義・最小国家        ジョナサン・ウルフ 森村進・森村たまき訳 勁草書房    1994. 7. 8
『自由論』                      アイザィア・バーリン 小川晃一ほか訳 みすず書房   1971. 1. 2
『自由の正当性』                      ノーマン・バリー 足立幸男監訳 木鐸社     1990. 5.15
『自生的秩序』                                   嶋津格 木鐸社     1985.11.30
『経済思想の巨人たち』                              竹内靖雄 新潮社     1997. 2.25
( 2007年8月13日TANAKA1942b )
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(22)本当に人1人の命は地球より重いのか? 
遺伝子は、自身の繁栄を優先する

 TANAKAはホームページのいろんな場合に「気配り半径の狭さ」とか「視野狭窄」という言葉を使ってきた。1つの問題を解き明かそうとする場合、右から左から、前から後ろから、いろんな方面から、いろんな分野の知識を動員して考えてみよう、との姿勢を貫いてきた。 「考え方のグローバリゼーション」とも言うべき姿勢だ。農業界や経済学教育業界などについて、「視野狭窄」と批判してきた。死刑問題に関しても、廃止論者の主張を読むと「視野狭窄」を感じる。 他分野の知識が直接問題の解決に結びつかなくても、考えるヒントになる場合は多い。ここで扱う「利己的な遺伝子」は必ずしも直接答えを提供するわけではないが、考えるヒントは与えてくれると思う。 ここでの考え方は、進化論的な考え方をすれば「遺伝子DNAには、個体の命よりも遺伝子自身の繁栄が優先するように情報が組み込まれている」ということになる。「人1人の命は地球より重い」とは違った見方だ。 「だから死刑制度は………」とまで話を進めるつもりはないが、考えるヒントにはなると思う。
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<利己的な遺伝子=THE SELFISH GENE という概念> 今週扱う問題では、「利己的な遺伝子」という言葉がキーワードになる。この言葉はチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』から広く使われるようになったもので、 「遺伝子は、個が生き延びることよりも、遺伝子自身が繁栄することを目指している」というのがポイントになる。
 これを人間社会に当てはめてみると「ヒトの遺伝子には、個(個人)を犠牲にしてでも、遺伝子自身(種・人類)の繁栄を優先するようにメッセージが組み込まれている」となる。
 死刑問題を扱うとき必ず扱う言葉に「ヒト人の命は地球より重い」がある。ところが、「利己的な遺伝子」の考え方では、違ってくる。また、今週扱うものでは、 「自然界に利他主義はあり得ない」とか「自然界に<福祉主義>はない」といったようなこともポイントの1つになる。
  そこで初めはリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』から引用し、法曹界とは違った世界の話を始めることにしよう。
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 まずは、本のタイトルについての多少の再考から始めることにしよう。1975年に、友人であるデズモンド・モリスの仲介で、ロンドンの出版界の長老であるトム・マシュラーに未完製本を見せ、ジョナサン・ケープ社の彼の部屋で議論をした。 彼は、その本を気に入ったが、タイトルは気に入らなかった。「利己的」というのは「鬱陶しい言葉(ダウン)」だと彼は言った。なぜ『不滅(インモータル)の遺伝子』としないのだ。 不滅は「明るい(アップ)言葉」で、遺伝子情報の不滅性はこの本の中心的主題だったし、「不滅の遺伝子」は「利己的な遺伝子」とほとんど同じほど、好奇心を掻きたてる響きがあった(われわれのどちらも、オスカーワイルドの『わがままな大男(The Selfish Giant)』との共鳴には気づいていなかったと思う)。 今となっては、マシュラーが正しかったかもしれないと思う。多くの批判者、とりわけ哲学を専門とする声高な批判者たちは、本をタイトルだけで読みたがるということを私は知ったからだ。 このことは、『ベンジャミン・バニーのおはなし』(ピーター・ラビット・シリーズの1冊)や『ローマ帝国衰亡史』のもまったく同じようにあてはまるのは疑いが、本そのものという厖大な脚注がなければ『利己的な遺伝子』というタイトルは、その内容について不適切な印象を与えかねないことを、私は容易に理解できた。 現在の、米国の出版社なら、少なくとも副題をつけることを強く主張していたことだろう。
 このタイトルを説明する最善の方法は、力点の置き方を変えることである。「利己的」に力点を置けば、本書は利己性についての本だと思われるだろう。 ところが、本書はどちらかといえば、利他行動により大きな関心を振り向けているのである。このタイトルで強調すべき正しいことばは「遺伝子」なのであり、その理由を説明することにしよう。 ダーウィニズム内の中心的な論争は、実際に淘汰される単位に関するこのである。すなわち、自然淘汰の結果として生き残ったり、あるいは生き残らなかったりするのは、どういう種類の実体なのかという論争である。 その単位は、その定義からして、多少とも「利己的」になるのである。利他主義はそれとは別のレベルでも十分に進化しうるだろう。自然淘汰の選択は種のあいだでなされるのだろうか。 もしそうなら、生物のそれぞれの個体が「種の利益のために」利他的にふるまうと予想しなければならないだろう。各個体は、個体数の過剰を避けるために、自らの出産率を制限したり、あるいは、その種にとっての将来の獲物の貯えを保護するために、自らの狩猟行動を制限したりするのではないか。 この本を書くようにもともと私を掻きたてたのは、そういった広く流布しているダーウィニズムについての誤解であった。 (『利己的な遺伝子』から)
 (T注)リチャード・ドーキンスは『利己的な遺伝子』について<サイエンス・フィクションのような『利己的な遺伝子』>という表現もしている。
 今日進化論は、地球が太陽のまわりをまわっているという説と同じくらい疑いないものであるが、ダーウィン革命の意味するものすべてが、さらに広く理解されねばならない。 動物学は大学ではいまだ少数派の研究分野であるし、動物学を選ぶ人でさえ、その深い哲学的意味を評価した上でそう決心するのではない場合が多い。 哲学と、「人文学」と称する分野では、今なお、ダーウィンなど存在したことがないかのような教育が行われている。こうしたことがいずれ変わるであろうことは疑いない。 どのみち、この本の意図は、ダーウィニズムの一般的な擁護にあるのではない。そうではなくて、ある論点について進化論の重要性を追求することにある。 私の目的は、利己主義(Sekfishness)と利他主義(altruism)の生物学を研究することである。 (『利己的な遺伝子』から)
 そこでまず私は、この本が何でないかを主張しておきたい。私は進化にもとづいた道徳を主張しようというのではない。 私は単に、ものごとがどう進化してきたかを述べるだけだ。私は、われわれ人間が道徳的にはいかに振る舞うべきかを述べようというのではない。 私がこれを強調するのは、どうあるべきかという主張と、どうであるという言明とを区別できない人々、しかも非常に多くの人々の誤解を受ける恐れがあるからである。 私自身の感じでは、単に、つねに非情な利己主義という遺伝子の法にもとづいた人間社会というものは、生きていくうえでたいへん嫌な社会であるに違いない。 しかし残念ながら、われわれがあることをどれほど嘆こうと、それが真実であることに変わりはない。この本は主として、おもしろく読めることをねらったが、この本から道徳を引き出そうとする人々は、これを警告として読んでほしい。 もしあなたが、私と同様に、個人個人が共通の利益に向かって寛大に非利己的に協力しあうようは社会を築きたいと考えるのであれば、生物物学的本性はほとんど頼りにならぬということを警告しておこう。 われわれが利己的に生まれついている以上、われわれは寛大さと利他主義を教えることを試みようではないか。われわれは自身の利己的な遺伝子が何をしようとしているかを理解しようではないか。そうすれば、少なくともわれわれは、遺伝子の意図を覆すチャンスを、すなわち他の種が決して望んだことのないものを掴めるかもしれないのだから。 (『利己的な遺伝子』から)
 恐らく群淘汰説が非常にうけたのは、1つにはそれが、われわれの大部分がもっている倫理的理想や政治的理想と調和しているからであろう。 われわれは個人としてはしばしば利己的に振る舞うが、理想上は他人の幸福を第一にする人々を称賛する。しかし、われわれが「個人」ということばをどこまで広く会社しようとするかについては、多少混乱がある。 集団内の利他主義は、集団間の利己主義を伴うことが多い。これが労働組合主義の基本原理である。別のレベルでは、国家は利他的自己犠牲の主要な受益者であり、若者たちは自国全体の栄光をさらに高めるために個人の命を捧げるよう期待される。 そのうえ彼らは、他国の人間だということ以外に、まったく知らない他人を殺すことを奨励される(不思議なことに、個人個人に対して、自分たちの生活水準を向上させる速度を少し犠牲にせよという平和時の呼びかけは、個人に自分の生命を捨てよという戦時の呼びかけほど効果的ではないようである)。
 最近、民族主義や愛国心に反対して、仲間意識の対象を人間の種全体に置き替えようとする傾向が出てきた。利他主義の対象のこの人道主義的な拡大は興味深い帰結を生む。 つまり、それはやはり進化における「種の利益」論を支持しているように見えるのである。政治的に自由主義的な人々は、普通は種の倫理をもっとも強く信じている人であり、したがって今や彼らは、利他主義の枠をさらに広げて他種をも含めようとする人々に対して、もっとも強い軽蔑の念を抱いていることが多い。 もし私が、人々の住宅事情を改善することにより、大型クジラ類の殺戮を防ぐことの方に関心があるといったとしたら、一部の友人はショックを受けるであろう。
 自種のメンバーが他種のメンバーに比べて、倫理上特別な配慮を受けて然るべきだとする感覚は、古く根強い。戦争以外で人を殺すことは、通常の犯罪の中ではもっとも厳しく考えられている。 われわれの文化でこれより強く禁じられている唯一のことは、人を食べることである(たとえその人が死んでいても)。しかしわれわれは他種のメンバーを喜んで食べる。 われわれの多くは極悪犯人に対してですら死刑の執行を尻込みするが、一方、たいした害獣でもない動物を裁判にもかけずに喜々として撃ち殺す。 それどころか、われわれは多くの濡外な動物をレクリエーションや遊びのために殺している。アメーバほどにも人間的感情をもたない人間の胎児は、おとなのチンパンジーの場合を遙かにこえた敬意と法的保護を受けている。 だが、最近の実験的証拠によれば、チンパンジーは豊かな感情をもち、ものを考え、ある種の人間の言葉を覚えることすらできる。胎児はわれわれの種に属するゆえに、即もろもろの権利・特権を与えられるのである。 リチャード・ライダーのいう「種主義」の倫理が、「人種主義」の倫理よりいくらかでも確実な倫理的立場に立てるのかどうか、私にはわからない。 私にわかるのは、それには進化生物学的に厳密な根拠がないということである。
 どのレベルでの利他主義が望ましいのか──家族か、国家か、人種か、種か、それとも全生物か──という問題についての人間の倫理における混乱は、どのレベルでの利他主義が進化論的にみて妥当なのかという問題についての生物学における同様な混乱を反映している。 群淘汰主義者ですら、敵対集団のメンバーどうしが互いに忌み嫌いあっているのをみても、驚きはしないに違いない。つまり彼らは、労働組合主義者や兵士と同じく、限られた資源をめぐる争いでは自分の集団に味方しているということだ。 (『利己的な遺伝子』から)
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<利他主義は存在するか> 利他主義は人間以外の動物に存在するであろうか。ハリー・パワーはヤマルリコマドリを使って簡単な実験でこの問題を解明している。 これは多くの種の鳥について当てはまることであるが、つがいの一方が(捕食されたりして)いなくいなると、まわりの独身の鳥の中から新しい相手が選ばれてただちに空きを埋めるのが普通である。 もしもヒナがいる時にこの交替が行われたとすれば、新しいパートナーは自分の子でないヒナの面倒を見るだろうか。(ここでは、「つがいの一方」(mate)よりもパートナー(consort)ろいう言葉を使わなければならない。 というのは、鳥には幼い子がいる間は性的なつがいをつくらないような心理的プログラムが内蔵されているからである)パワーはつがいのオスかメスを取り去ってこのようなパートナーのペアを10組つくった。
 普通、オスの親鳥はヒナに餌を与え、巣を掃除し、巣に危険が迫ったと思われると警報を発して鳴く。ところが観察したオスの新しいパートナー8羽のうち、1羽として自分の子でないヒナに対してこの種の行動をとったものはいなかった。 2羽のメスのパートナーについては、1羽がヒナの世話をしたが、ただしそれは5日間も放っておいた後でのことであった。パワーの議論によれば、この唯一の例外は、正真正銘の利他主義のケースというよりも、生殖上の過誤と考える方がもっともらしい、ということになる。
 動物の継父母についての知識はいずれも同じパターンを示しているという事実がなければ、この実例は数も少ないし、忘れられてしまうところであろう。 メスを奪うオスのライオンは、自分が打ち負かした「前夫」の子を殺してしまう。ハヌマンラングーンのオスも同じ行動をとる。ハツカネズミではブルース効果というものがあって、同じ結果がもっと非暴力的な形で現れる。 つまり新しいオスの匂いを嗅いだだけで妊娠中のメスに流産が起こり、メスは新しいオスによる受胎が可能な状態になるのである。
 これらはすべて、厳密なダーウィニズムにもとづいて簡単に説明することができる。ダーウィンの理論に対するもっとも重大な誤解は、自然淘汰は種にとってよい結果をもたらすよう作用する、と思いこむことである。 そうではないのである。自然淘汰は個体の生殖系列(germ kine)に利益をもたらすものであって、この過程は種にとって利益となるとは限らないのである。 (この重要な問題には第6章でもう1度触れることにする)種の観点からすれば、ブルース効果は生殖過程に不効率を持ち込むことに他ならない。 だが割り込んで来るオスのマウスのための生殖系列という点からすれば、ブルース効果は効果的である。それは種全体の子孫の数を減らすことによってそのオスの子孫の数を増やすことになる。 メスの立場から見たブルース効果の利益は、どうせ割り込んで来たオスに殺されるに決まっている(多分そうなるであろうが)子を産むために、月満ちるまで妊娠を続ける時間と努力の無駄が省かれる、という点にある。
 大人が子供一般──自分の子供に限らず──の生存を助ける行動は、利他的なものと見なすことができるであろう。だが、これは滅多にないことである。 自分の子供だけを助ける行動は、そもそもこれを利他主義と呼ぶなら「血縁利他主義」という特別の名前で呼ばなければならない。 この血縁利他主義の淘汰上の価値は容易に理解できる。 (『サバイバル・ストラテジー』から)
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<自然界に「福祉主義」はない>上記ガレット・ハーディンと似た立場からもう一つ引用しよう。「自由主義」「平等主義」とは全く違った考え方だ。いろんな違った立場の考えが、交雑育種法によって新種の理論が生まれるといいのだが、政治哲学の分野ではその可能性は少ない。それよりも「自家不和合性」が心配だ。
 いわゆる進化とは、自然の失敗の結果である。つまり、病気や能力喪失、あるいは突然変異がもたらした欠陥を過剰に補償するという、自然の失敗の結果なのである。正常な発達をとげた有機体はその環境にうまく適応し、その子孫の全世代にわたって安定している。だからここには次のような2つの相異なる傾向が見られるのである──ひとつは、その環境との最適な関係を見出し、安定的な形態に到達する生物、いま一つは過剰補償の連続によって生き延びているにすぎない不安定な生物である。徐々に新しい種への転換をやってのけるのはこの後者の方である。 そこで思い切ってこういうこともできよう。進化は最適者生存のせいではない。むしろ自己および子孫における一連の過剰補償を通じて新しい形態をつくりあげるのは不安定な生物であり、一方適者は、すでに達成した形態を維持するように、自己を一層適者ならしめる緩慢な修正を行う。
 自然の中では病気の動物が生き残れるチャンスはほとんどない。病気の動物が、ただ自分が生き続けるだけでなく、その子孫にも伝えられるような新しい方法を見出すのはごく稀な場合にすぎない。治療法の進歩のおかげで病人は死ぬことから免れるが、またこれによって不釣り合いに多くの欠陥遺伝子が次代に伝えられる。こういうわけで、人間は他のいかなる動物よりも急速な進化上の変化を示したのである。この加速的な進化には、家畜やペットの場合も含まれる。というのは獣医学のおかげで、それがなければ不安定だったような形態が生命を維持するからである。(中略) (『マンチャイルド』から)
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 博愛主義者や自由主義者は無力な子供に必要なものを用意してやる親の役割を自ら買ってでる傾向がある。それによって彼らは面倒を見てもらう側の幼稚化を助長しているのである。貧乏人であろうと不具者であろうと、また差別の犠牲者であろうと、この種の非保護者に共通した性質がひとつある。何らかの形で彼らは無力な様子をしているのである。この無力ということには、鉄の肺に入っているポリオの犠牲者の場合のように現実にそうであることもあれば、高い賃金を貰っているのに、さらに多くを要求してストライキをする労働者の場合のように想像上のものに属することもある。 労働者は、自分がその労働に対して得ている以上に社会は自分のおかげをこうむっているのだから、面倒を見てくれるのが当然だ、という感情を抱くのである。(中略)
 現実には、恵まれない人間は、いかに孤立無援だとしても、実は自分の力の及ぶ範囲にその無能力をつぐなうだけの、あるいは過剰に補償するだけの力をもっているものである。例えば手を失うという自体に直面した時、足で絵を描く芸術家がいる。片脚を切断してから一本脚で滑りつづけるスキーヤーもいる。貧民窟から身を起こして産業界の大立て者になる人間もいる。これは進化の全体を通じて起こる過程であって、ここではハンディキャップを負わされた動物は補償と過剰補償によって生き残るしかない。動物界には博愛主義的機構など存在しないのである。
 こうして博愛主義的機構やひとつの姿勢としてのリベラリズムは、面倒を見てもらう方の人間から、本来ならばあったはずの補償的能力を発展させる性質を事実上奪ってしまう。そして現実に起こることはこうである。すなわち、恩恵をほどこす方は、保護者である親の役割を引き受けることで、ほどこされる側に、自分では何も努力しなくてもその気まぐれを何でもかなえてもらえる、という子供の態度を助長するだけのことである。(中略)
 だが今日では、自分の面倒は自分で見よ、とか過剰補償とかいった生物学的見解は反動的だと見なされる。その反対に、全面的な保護や扶助の必要を説くリベラル派の反生物学的見解が進歩的だとされるのである。このこと自体が人類の進む方向をまことによく示していると言えよう。 (『マンチャイルド』から)
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<「遺伝子の川」という概念> 死刑問題とはかけ離れた「生物学」「進化論」「遺伝子」のことを扱うので、「利己的な遺伝子」についてゆっくりと話を進めることにしよう。 ここではリチャード・ドーキンスの『遺伝子の川』から引用し、こうした分野について頭を慣らして頂きましょう。
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 どんな民族にも自らの祖先にまつわる叙事詩的な伝説があり、しばしばそういった伝説は宗教的礼賛という形をとるようになる。 人びとは祖先を敬い、崇拝さえする。生命を理解する鍵となるのは自分たちの実在の祖先であって、超自然的な神々でない以上、それも言わば当然なことであろう。 生まれるすべての生物のほとんどは、十分な発育をみないうちに死んでしまう。生き残って繁殖する少数のうち、なお子孫を1000世代の後まで生かせるものは、さらに少数である。 この少数のなかのごく少数者、祖先のエリートのみが将来の世代から祖先と呼ばれる視覚をもつ。祖先は希少な存在であり、子孫はありふれた存在なのである。
 生きとし生けるものすべて──あらゆる動物や植物、すべての細菌とすべての菌類、地上を這いまわるあらゆる生きもの、そして本書を読むすべての読者──は、祖先たちを振り返って、誇らしげにこう主張できるのである。 われわれの祖先に幼くして死んだものはなったくない。彼らはみな成熟し、そのどれもが少なくとも1回は異性の相手をみつけ、交尾に成功したのだ。 われわれの祖先は残らず、少なくとも1人の子供を世に送り出す前に、敵やウィルスに倒されたり、断崖で足を踏み外したりすることがなかった。 同時代に生きていたほかの多数の個体がこうした点で失敗したのに、われわれの祖先はただの1人もそのどれにもつまずくことがなかった、と。 このように申し立ては、まぎれもなく名作だが、そこからはもっといろんなことが引き出される。奇妙で思いがけないようなこと、解明に役立つこと、そして驚くべきことがどっさりと。
 すべての生物がすべての遺伝子を、祖先と同世代で失敗した者からではなく、子孫を残した祖先から受け継いでいる以上、あらゆる生物は成功する遺伝子をもつ傾向がある。 彼らは祖先になるのに必要なもの、つまり生き残って繁殖するのに必要なものをもっていることになる。だからこそ、生物が受け継ぐ遺伝子はおおむね、うまく設計された機械──まるで祖先になるために奮励努力していらかのごとく活発に働く身体──をつくりあげる性質をもっている。 だからこそ、鳥はあれほど上手に飛び、魚はいかにもすいすいと泳ぎ、猿は木登りがとても得意で、ウィルスは広がるのがうまいのだ。 われわれが人生を愛し、セックスを好み、子供を可愛がるのも、それゆえである。それはわれわれすべてがただ1人の例外もなく、成功した祖先からと途切れることなしに受け継がれてきたすべての遺伝子をもっているからに他ならない。 世界は祖先になるのに必要な資質をもった生物でいっぱいになる。一言でいうと、それがダーウィン主義なのである。もちろんダーウィンはもっとはるかに多くのことを言っているし、今日ではさらに多くのことがいえる。 本書がここで終わりにならないのもそのためである。 (『遺伝子の川』から)
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<遺伝子とミーム> ここでは『利己的な遺伝子』に寄せられたジョン・メイナード・スミスの書評を取り上げることにしよう。
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 利己的な遺伝子』は、一般向けに書かれたものであるにもかかわらず、生物学に独自の貢献を果たしたという意味で異例の本である。 さらに、その貢献自体も異例なものである。デイビッド・ラックの古典『ロビンの生活』(これもまた一般向けに書かれた本でありながら独自の貢献を果たした)と違って、『利己的な遺伝子』は新しい事実を何1つ報告していない。 何らかの新しい数学的モデルを含んでいるわけでもない──そもそも数字がまったく含まれていない。それが提供しているのは、1つの新しい 世界観なのである。
 この本は広く読まれ、好評を得てきているが、強い敵意もかきたててきた。その敵意のほとんどは誤解、あるいはむしろ複数の誤解に基づいていると、私は思っている。 そのなかで、もっとも根本的なものは、この本が何についてのものであるかが理解できていないことである。それは進化的な過程についての本であり、道徳、あるいは政治、あるいは人文科学についての本ではないのである。 もしあなたが、進化がどのようにして生じたかに関心がないなら、人間に関する事柄以外の何かに対して、ほかの人間がどれほど本気で考えることができるかということに思いが及ばないのであれば、この本を読まなければいい。 詠めば、不用意に腹を立てるだけのことにしかならないだろう。
 けれども、あなたが進化に関心をもっているとすれば、1960年代から70年代にかけて、進化生物学者のあいだで行われてきた論争がどういう性質のものであったかを把握するためには、ドーキンスがやろうとしていることを理解するのが、いい方法である。 この論争が、「群(集団淘汰)」と「血縁淘汰」という2つの互いに関連のある話題にかかわるものであった、「群淘汰」論争は、ウィン=エドワーズによって口火を切られた。 彼は、行動的な適応は「群淘汰」によって進化した、つまり、ある集団が生き残り、別の集団が絶滅することを通じて進化するのではないかと提案したのである。
 ほとんど同じ時期に、W・D・ハミルトンが、自然淘汰の働き方についてもう1つ別の疑問を提起した。彼は、もしある遺伝子がその持ち主に、数個体の近縁者の命を救うために自らの命を犠牲にするように仕向けるとすれば、のちにその遺伝子のコピーは、犠牲にしなかった場合に比べてより多く存在するのではないかと指摘した。 ……この過程を数量的なモデルにするために、ハミルトンは「包括適応度」という概念を導入した、……包括適応度には、その個体自身の子供だけでなく、その個体の助けによって育てられた近縁者の子供もすべて、その近縁度に応じた適切な比率を掛けて、含められる……。
 ドーキンスはハミルトンに負うところが大きいことに謝辞を述べていながら、適応度の概念を身につけるための最後の努力で、誤りを犯したのではないかと述べ、進化についての正真正銘の「遺伝子俯瞰図的見方(遺伝子の目から見るという視点)」を採用する方が賢明であったかもしれないと述べている。 彼は、「自己複製子」(繁殖の過程でその厳密な構造が複製される実体)と、「ヴィークル」(死を免れず、複製されないが、その性質は自己複製子によって影響を受ける実体)のあいだの根本的な違いを認識するように、われわれに強く訴える。 われわれがよく知っている主要な自己複製子は、遺伝子および染色体の構成要素である核酸分子(ふつうはDNA分子)である。典型的なヴィークルは、イヌ、ショウジョウバエ、そして人間の 体である。 そこで、かりに眼のような構造を観察すると仮定してみよう。眼は明らかに見ることに適応している。眼が進化したのはだれの利益のためだったのかという問いを発するのは理に適っているだろう。 唯一の合理的な答えは、眼は、その発達の原因となった事故複製子の利益のために進化したというものではないかと、ドーキンスは言う。 どちらにせよ私と同様に、説明のためためため、彼は集団の利益よりも個体の利益で考えるほうを強く好み、自己複製子の利益だけで考えることが好きなのであろう。 (『利己的な遺伝子』からジョン・メイナード・スミスの文。『ロンドン・レヴユー・オブ・ブックス』1982年2月号、(『延長された表現型』の書評から抜粋))
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<『利己的遺伝子とは何か』やさしく説明すると………> 今週のキーワードは「利己的遺伝子」、この言葉を易しく解説した本=『利己的遺伝子とは何か』があるので、そこから引用することにしよう。
 肉親同士がお互いに強いきずなで結ばれていることは人類共通の事実である。親と子はその最たるもので、親たるもの、わが子のためならば自分の命を捨てることさえある。
 新聞記事にニワトリ小屋の火事が報道されていた。小屋が火事になって、その中にいたニワトリが焼け死んだ。しかし、そのニワトリの下から、ヒヨコが何羽か元気で、ピヨプヨと出てきた。 親鳥は自分を犠牲にして、子供を守ったのだろう。それを見た近所の人たちは、思わず涙ぐんだという。
 ニワトリ小屋の火事など、地方の新聞ならともかく、全国紙の記事になるわけはない。しかし、この親鳥の子どもに対する愛情は種をこえて、人間の胸を強くうち、特別に報道に値する感動を呼び起こしたのである。
 ゾウリムシやアメーバなどではよくわからないが、一般に、高等な動物では、親子は愛情という絆で強く結ばれている。
 しかし、親子という骨肉の情を超えて、人間は他人を助けることがある。
 これもやはり、新聞記事であるが、マンションから落ちてきた子どもを通りすがりの人が受けとめたという話があった。まかりまちがえば、受けとめた人だって大怪我をする。
 このケースでは、骨肉の愛情は関係ないだろう。落ちた子どもと、それを助けた人とは、お互いに見ず知らずの他人である。助けた人にとってみれば、まさにとっさの本能的な行動であろう。 われわれ人間には、自分を犠牲にしても他人を助けるという利他的本能があるのだろうか?
 とこれで、親や兄弟は、お互いに血がつながった血縁者である。兄弟よりは遠いが、いとこ、またいとこ、おじ、おばも血縁者に入る。
 だから、身内を助けるということは、血縁者同士は助け合う、と言い替えることができる。
 このような行動は「血縁利他行動」とよばれ、血縁者の危機を目前にすると、動物は自分を犠牲にしても、助けようとする傾向があることを述べている。
 このような利他傾向を、単に愛情というものだけでは説明できないことは、すぐ前にも触れた通りである。
 血縁淘汰説
 イギリスの生物学者、W・D・ハミルトンは、この問題を遺伝子の観点からとらえた。
 彼は1964年に「社会行動の遺伝子的進化」という論文を発表して、その数学的定式化を試みた。この論文は、「血縁度」の計算が延々と書かれていて、とてつもなく難解である。
 しかし、ハミルトンの説を要約すれば、「血縁者を助ける行動を引き起こすような遺伝子は、淘汰上、有利であり、個体群内で広がる傾向が強い」ということになる。
 つまり、血縁利他主義が動物界で普遍的にみられるのは、すべての動物がそのような行動を起こす遺伝子をもっているからである。 このような遺伝子は、最初は少なくても、長い淘汰の間に、そうでない遺伝子を押しのけ、個体群の中で、広がり、遂に、全面的勝利を収めるというわけである。
 ここで注意したのは、ダーウィン進化論と違い、淘汰上有利なのは個体ではなく、遺伝子だとハミルトンが述べている点である。
 自分を犠牲にして、血縁を助ける利他的行動は、少なくともそれを行う固体にとって損失以外の何物でもないが、その固体の遺伝子からみると、利他的行動は得になるというのである。
 したがって、個体が行っている利他的行動というのは、実は遺伝子にとっては利己的行動ということになるのである。
 遺伝子の利己的行動といっても、遺伝子自体は生き物でもないし、行動もない。
 しかし、ハミルトンは、個体に血縁を助けるような行動を起こさせる遺伝子を包含する遺伝子は、個体群の中でだんだん増えていき、淘汰上も有利になるだろう、と主張しているのだ。
 ある個体が持っている遺伝子は、母親からのものと父親からのものがペア(対)になっている。
 これを個体中の遺伝子の側からみると、両親の1/2ずつが子どもにあるということになる。だから、親が子どものために自分を犠牲にした行動をとるということは、遺伝子としては、自分の1/2を救ったことになるのである(もっとも、その1/2は自分より長生きするはずだが)。
 親という個体は、その愛情にもとづいて子どもを救ったつもりであっても、実は、そのような犠牲的行動を起こさせる遺伝子を持っていたがためにすぎない。しかも、こうした血縁利他的行動を起こさせる遺伝子はははそうでない遺伝子よりも自然淘汰で生き残るチャンスが大きくなる。 つまり、淘汰というプロセスで生き残ってゆき、群の中に定着するというのである。
 そして、話は親子にかぎらず、兄弟とか親戚同士というふうぬ、その中に血縁利他主義遺伝子を含む遺伝子同士は、お互いに集団安全保障条約を結んでいるようなものということになる。
 遺伝子は、他の個体よりも自分とよく似た遺伝子を持った個体、すなわち血縁である個体が危険になったら、自分を犠牲にしても助けることによって、自分に近い遺伝子を集団的に防衛するというのである。
 この安全保障条約を結んでいる血縁利他主義遺伝子と、そうでない遺伝子の優劣は明らかである。お互いに助け合わない遺伝子の生き残りの能力は、助け合う遺伝子のそれに比べて低いのは当然である。 そのために、長い間には、血縁利他主義遺伝子は淘汰によって増えるわけである。
 これが、血縁進化説または血縁淘汰と呼ばれる考え方である。
 ドーキンスの利己的遺伝子
 ハミルトンは、血縁を助ける遺伝子というものを考えた。 その遺伝子は、自分と同じ遺伝子を持っている可能性の高い血縁者を助けることによって、その遺伝子を沢山残そうとしているのである。 そのためには、遺伝子は、時として自分の乗っている個体を犠牲にすることさえする。遺伝子にとっては、自分が入っている個体を犠牲にしても、自分自身の遺伝子の繁栄からみれば、その方が得策だからである。
 こう考えると、ある重大なことに気がつく。それは、遺伝子は自分のために血縁者を助け、自分自身を犠牲にすることがあるが、助けるのは、果たして血縁者だけだろうかということだ。
 遺伝子にとって、血縁者とは、要するに自分と同じ遺伝子を多く持っている者である。より性格にいえば、自分と同じ遺伝子を持っている確率が高い個体である。
 そこで、何も直接の血縁者だけでなく、血縁者を助ける者を助けるような間接的なルートの自己犠牲的な行動もあってもよいことになる。
 自己犠牲的というろ聞こえはよいが、見方によれば、遺伝子自身が増殖しようとする利己的な振る舞いにすぎない。
 個体という遺伝子の乗り物からみると、自己犠牲以外の何者でもないのだが、しかし遺伝子からみると、むしろ全体的には利己的な振る舞いなのだ。
 ハミルトンと同じ英国の生物学者、リチャード・ドーキンスはこうして、利己的遺伝子という概念に到達した。
 ドーキンスとスミスとゲーム理論
 ドーキンスによれば、遺伝子は徹底的に利己的であり、自己を繁殖させることが至上の目的のようである。
 もしそうならば、おでん死は、自然界で演じられる「生き残り・増殖ゲーム」のプロフェッショナルだということになる。
 一般に、ゲームでは攻撃的な手、防衛的な手、相手を惑わす手など、さまざまなテクニックと戦術が凝らされる。だが攻撃的な手が、いつもベストとは限らない。場合によっては、守りに立つ手が必要なこともしばしばである。
 攻撃と守りのどちらをとるかの判断、もしくはその割合の決定は、戦略に属する高度な判断によらなければならない。
 だから、遺伝子による行動を遺伝子のゲームとみなすと、生き残りのための最適な戦略が駆使されている、と想像することができる。
 ゲームにおける最適の戦略については、「ゲームの理論」という分野があり、多くの研究がなされている。
 イギリスの生物学者メイナード・スミスは、このような観点から、遺伝子による行動にゲームの理論を適用してみた。
 ゲームと進化
 スミスはゲームの理論を、生物の行動や進化の問題に適用した。 スミスは、ケンブリッジ大学では工学を学んだので、生物の進化という問題に、このような数学的アプローチを取り入れるにもあまり抵抗がなかったかも知れない。
 メイナード・スミスが提唱したもっとも重要な概念は「進化的に安定な戦略」(Evolutionally Stable Strategy)で頭文字をとってESSとも言われている。
 ESSの最も簡単な例は、有名な「タカ・ハトゲーム」である。
 子殺しという遺伝子の生き残り戦略
 20年ほど前までは、動物が同じ種内で殺し合いをするのは、きわめて例外的なことであるというのが生物学の常識であった。
 ダーウィン流の進化論によると、同じ種に属している個体同士が殺し合いをしていたのでは、その種の生存と増殖にとって非常に不利になると考えられる。 そのため「種内殺し」などしている動物は、進化のプロセスで淘汰されてしまうと思われてきた。
 ところが、京都大学の杉山幸丸が1962年に、インドのハヌマンラングールというサルの個体群の中で、「種内子殺し」という行動が自覚的ふつうに起きていることを発見した。 それまで、異常な行動とされていた種内における子殺しが、ハヌマンラングールの社会では決して異常な行動ではなかったのである。
 最初は半信半疑だった世界中の学者たちも、1970年代には、ハヌマンラングールの子殺しという杉山の発見について真剣に検討するようになる。
 ハヌマンラングーンは、1頭のオスと数頭のメスが群れをつくって暮らしている。このハヌマンラングーンの群れには縄張りがあるが、なかには群れをつくれなかったオスがいる。 こうした群れから離れた孤独なオスたちは、つねに、群れの頭であるオスを狙っている。
 群れを支配しているオスを襲って、うまく乗っ取りに成功したハヌマンラングーンのオスは、自分のものにしたメスたちと次々に交尾をして、自分の子どもを増やそうとする。
 しかし、群れのメスたちの多くは、それまでの支配者だった先代のオスの子どもを抱えている。とくに1歳未満の赤ん坊がいるメスは、赤ん坊に授乳している最中であるから、ホルモンの作用によって発情しない状態におかれている。
 せっかく群れを奪い取っても、肝心のメスが発情しないのでは、オスは自分の子どもをつくることができない。そこで、群を奪い取ったハヌマンラングーンのオスは、子どもを抱いて逃げる母親を追いつめて、赤ん坊を取り上げて噛み殺すのである。 こうした行動は、1歳未満の赤ん坊をすべて殺すまで行われる。
 赤ん坊を殺されたハヌマンラングーンの母親たちは、乳の分泌がストップして、1週間から1か月後にはまた発情する。こうして、新しい群の支配者であるオスは、群れのメスと交尾することができるようになる。 その結果、半年もすると、群の中のほとんどのメスがニューリーダーの子どもを産み、新しい群れが形成されるのである。
 ハヌマンラングーンの群れの周囲には、必ず群を狙うオスがいて、こうしたオスによる群れの乗っ取りは日常的な出来事なのだという。
 こうしたハヌマンラングーンの子殺しという意外な行動も、利己的な遺伝子の生き残り戦略としてなら納得できる。新たに群を占領したニューリーダーのオスにしてみれば、種の保存などは2の次として、まずは自己の遺伝子を残そうとするのは当然のことである。
 先代のリーダーの子どもを育てることは、自分以外の遺伝子を増やすことに等しい。そのうえ、自分の子以外の赤ん坊を育てるためにメスが発情しないのでは困る。 これでは、先代の子どもたちを殺してしまうのも当たり前なのかも知れない。 (『利己的遺伝子とは何か』から)
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<自然淘汰は盲目の時計職人である>  進化論では「進化は必ずしも進歩とは言えない場合がある」ということを理解することが大切だ。進化の方向が退化の場合もある。つまり、進化の方向は決まっていないで、ときには進歩であり、ときには退化である場合がある。 もちろん、初めから進化の向かう方向が決まっているのではない。「創造論」(創造科学)は、地球の生物世界は神が創造した、との宗教で、初めから生物体系は計画されていた、ということになる。 ところが進化論では、誰かが計画したのではないし、進化の方向も決まっているわけではない。そんなようなことを、ドーキンスは『盲目の時計職人』というタイトルで本を書いている。 ここではそれを取り上げることにする。
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とても起こりそうもないことを説明する この本の表題の「時計職人」は、18世紀の神学者ウィリアム・ペイリーの有名な著作から借りてきたものである。 1802年に出版された彼の『自然神学──あるいは自然界の外貌より蒐集せられし、神の存在と特性についての証拠』は、「デザイン論」のもっともよく知られた解説であり、神の存在に関する議論の中でつねにもっとも大きな影響力をもつものだった。 それはまた私が激賞する本でもある。というのは、その著者が当時としてはみごとに、これから私がなんとかやりとげようとしていることを、うまくやってのけているからである。 彼は通すべきある主張をもち、熱意をもってそれを信じ、それを人々にはっきり示すための努力を惜しまなかった。彼は生物の世界の複雑さに対して然るべき尊敬の念を抱いていたし、その複雑さはきわめて特別な種類の説明を要すると理解していた。 唯一彼が間違っていたことは──そしてこれが重大なのだが──まさしく説明のやり方そのものであった。彼はそれ以前の誰よりもいっそう明晰にかつ説得力をもってその謎に伝統的なキリスト教的解答を与えた。 正しい説明はそれとはまったく異なったものであり、それが見いだされるためには歴史上もっとも革命的な思想家の1人、チャールズ・ダーウィンを待たなければならなかった。
 ペイリーは『自然神学』を次の有名な一節で始めている。
 ヒースの荒野を歩いているとき、石に足をぶつけて、その石はどうしてそこにあることになったのかと訊ねられたとしよう。私はおそらくこう答えるだろう。 それはずっと以前からそこに転がっていたとしか考えようがない、と。この答えが誤っていることを立証するのは、そうたやすくはあるまい。 ところが、時計が1個落ちているのを見つけて、その時計がどうしてそんなところにあるのか尋ねたられたとすると、こんどは石について答えたように、よく知らないがおそらくその時計はずっとそこにあったのだろう、などという答えはまず思いつかないだろう。
 ここでペイリーは、石のような自然の物体と、時計のようなデザインされた人工の物体との違いを認識している。 彼は時計の歯車やバネが精密につくられていることを説明していく。もしわれわれがヒースの荒野で時計のような物体を見つけたとすると、たとえそれがどのようにして存在するにいたったかを知らなくても、それ自体のデザインの精密さや複雑さから、次のように結論せざるを得ないだろう。
 その時計には製作者がいたはずである。つまり、いつかどこかに、(それが実際にかなえられていることがわれわれにもわかる)ある目的をもって時計を作った、つまり時計の作り方を知り、使い方を予定した考案者(たち)が存在したにちがいない。
 ペイリーは、誰もこの結論に対して筋道の通った反論を唱えることはできないはずで、たとえ?無神論者といえども、自然の作品について真剣に考察したならば、こうした結論に達するだろうと主張した。というのは、
 時計にみられるあらゆる工夫、あらゆるデザイン表現が自然の作品にほ見いだされる。ただ、自然の作品は、測り知れないほど偉大で豊富である点が時計と異なっている。
 ペイリーは、生命のからくりのメスを入れ、美しくも敬虔なる記述で描写することによって自分の論点を明確にしている。 彼は、ヒトの眼の話から解き起こしているが、それは後にダーウィンのお気に入りの例となり、本書でもあちらこちらに顔を出すだろう。 ペイリーは眼を望遠鏡のような設計された道具と比較し、「望遠鏡が視覚を助けるために作られたということが自明であるのとまったく同じように、眼が視覚のためにつくられたということが証明できる」と結論する。 望遠鏡にデザイナーがいたのとまさしく同様に、眼にもそのデザイナーがいたはずだというわけである。
 ペイリーの議論には熱意のこもった誠実さがあり、当時の最良の生物学的知識がこめられている。にもかかわらず、それは間違っている。みごとなまでに完全に間違っている。 望遠鏡と眼、時計と生きている生物体とのアナロジーは誤りである。見かけとはまったく反して、自然界の唯一の時計職人は、きわめて特別なはたらき方であるものの、盲目の物理的な諸力なのだ。 本物の時計職人の方は先の見通しをもっている。心の内なる眼で将来の目的を見すえて歯車やバネをデザインし、それらを相互にどう組み合わせるかを思い描く。 ところが、あらゆる生命がなぜ存在するか、それがなぜ見かけ上目的をもっているように見えるかを説明するものとして、ダーウィンが発見しいまや周知の自然淘汰は、盲目の、意識をもたない自動的過程であり、何の目的ももっていないのだ。 自然淘汰には心もなければ心の内なる眼もありはしない。将来計画もなければ、視野も、見通しも、展望も何もない。もし自然淘汰が自然界の時計職人の役割を演じていると言ってよいなら、それは盲目の固形職人なのだ。 (『盲目の時計職人』から)
すばらしいデザイン  自然淘汰は盲目の時計職人である。盲目であるというのは、それが見通しをもたず、結果についての目論みをもたず、目指す目的がないからだ。 しかしそれでも、現在みることのできる自然淘汰の結果は、まるで腕のいい時計職人によってデザインされたかのような外観、デザインとプランをもつかのような錯覚で、圧倒的な印象をわれわれに与えている。 本書の目的は読者が納得するまでこの逆説を解くことなのだが、とりあえずこの章ではデザインという錯覚の力を借りて読者にいっそう深い感銘を与えたい。 まずきわめつけの例について考察し、デザインの複雑さと美しさにかけては、ペイリーといえどもその事実のほんのさわりさえ語り始めていなかったのだ、と結論するつもりである。
 飛ぶ、泳ぐ、見る、食べる、繁殖する、あるいはもっと一般的に生物体の遺伝子の生存や自己複製を促進するといった何か意味のありそうな目的を遂げるために聡明で博識な技術者なら組み込んだと思われるような属性を、生物の体や器官がもっている場合には、 われわれはそれをうまくデザインされていると言ってもかまわないだろう。体とか器官のデザインは、ある技術者が考えつける最良のものであると仮定する必要は何もない。 ある技術者が考えつくことのできる最良のデザインは、いずれにせよ、別の技術者とりわけテクノロジーの歴史にあって後世に現れた別の技術者の考えついた最良のデザインに抜き去られることがよくある。 しかし技術者なら誰でも、たとえ出来ばえがよくなくても、ある物体の構造をちょっと調べればその目的が何らかの目的のためにデザインされていれば、それと認識できるし、その物体の構造をちょっと調べればその目的が何なのかを見抜くことができるのが普通である。 T章では、哲学的な問題にもっぱら取り組んできた。この章では、技術者なら誰でも深い印象を受けずにはいられないだろうと私の信じているとっておきの事実、すなわちコウモリのソナー(「レーダー」)について展開する。 私はどの論点を説明するときも、まず生ける機械の直面している問題を提出し、その上で、気の利いた技術者なら考えるであろうその問題の解決策について考察するつもりだ。 そして結局のところ自然が実際に採用した解決策に到達することになるだろう。コウモリはもちろんほんの1例である。ある技術者がコウモリに深い印象を受けるなら、きっとそれ以外にも数えきれないくらいたくさんある生けるデザインの例にも深い印象を受けずにはいられないだろう。
 コウモリの抱えている問題は、暗闇の中でどうやって自在に動き回るかということである。コウモリは夜間に狩りをするので、光の助けを借りて獲物を見つけたり障害物を避けることはできない。 これが問題だというなら、それは自業自得であり、何のことはない、習性を変えて昼間に狩りをすればすむではないか、と言えるかもしれない。 しかし、昼の経済(エコノミー)はすでに鳥類のような他の生物によって徹底的に利用しつくされている。夜に行われるべき仕事があって、それにかわる昼の仕事がすっかりふさがっているとなると、自然淘汰は夜の狩りの仕事をものにしたコウモリに有利にはたらいただろう。 ところで、夜の仕事というのはわれわれ哺乳類すべての祖先にまで遡るものらしい。恐竜たちが昼の経済を支配していた時代には、われわれ哺乳類の祖先たちはおそらく、夜にどうにか暮らしを立てる方法を見つけたおかげでなんとか生き延びていただけであったろう。 約6500万年前に、恐竜類のあの謎にみちた大量絶滅が起こった後にはじめて、われわれの祖先は昼間にもこぞって姿を現すことができたのである。 (『盲目の時計職人』から)
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<事実確認の「……である」と「べきである」との主張> 生物学・進化論などの科学は、事実を確認し「真実は……である」と話を結ぶ。経済学では「市場の動向は……である」とか「他の条件が変わらないとして、次の与件が変わると、経済はこのようになる」などの事実関係を問題にする。 それと「経済はそのような法則によって変わるので、政府、日銀の経済政策はこうあるべきだ」と結論付けることがある。そして、法律は「べきである」で結論付けられる。
 今週は、生物学・進化論の話を取り上げた。これらは、事実を述べたもので、「こうあるべきだ」とのべき論ではない。「遺伝子は個の生存よりも、遺伝子自身(種)の繁栄を優先させる」と言っても、「だから、人間社会もそうあるべきだ」とは進まない。 この「べき論」と「である論」をハッキリ区別して考えることができないと、今週の話は理解できないだろう。こうした区別ができるとして多くの意見を取り上げた。従って、この文章から「だから死刑制度は必要である」とか「そうであるけれど死刑は廃止すべきだ」と結論すべきではない。 それをハッキリさせた上で、こうした法律とは違った世界の論理を知ることは、視野狭窄にならないためにも有効だし、死刑制度についても何らかのヒントになるだろうと思う。こうした点を理解したうえで、生物学・進化論などの知識・知恵を吸収して欲しいと思い取り上げてみた。
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<主な参考文献・引用文献>
『利己的な遺伝子』      リチャード・ドーキンス 日高敏隆・岸由二・羽田節子・垂水雄二訳 紀伊国屋書店 2006. 5. 5
『サバイバル・ストラテジー』                ガレット・ハーディン 竹内靖雄訳 思索社    1983. 4.20
『マン・チャイルド』            ダビッド・ジョナス+ドリス・クライン 竹内靖雄訳 竹内書店新社 1984. 7.10
『遺伝子の川』                      リチャード・ドーキンス 垂水雄二訳 草思社    1997. 8. 1
『利己的遺伝子とは何か』DNAはエゴイスト                 中原英臣・佐川峻 講談社    1991.10.20
『盲目の時計職人』自然淘汰は偶然か?          リチャード・ドーキンス 日高敏隆監修 早川書房   2004. 3.31
( 2007年8月20日 TANAKA1942b )
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(23)ハト派社会にタカ派が侵入するゲーム理論 
危機管理意識のない死刑廃止論

  先週、平和的なハトと戦闘的なタカ、という喩えを書いた。今週は、こうしたハトとタカについて扱うことにする。 これについては以前に、<進化的に安定な戦略>と題して、 『利己的な遺伝子』と『ミクロ経済学 戦略的アプローチ』から引用した。今回はさらに別の文献からも引用し、「危機管理」に関する関心を高めようと思う。 初めは『利己的な遺伝子』から、
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<進化的に安定な戦略> メイナード・スミスが提唱している重要な概念は、進化的に安定な戦略(ESS;evolutionarily stable strategy) と呼ばれるもので、もとをたどればW・D・ハミルトンとR・H・マッカーサーの着想である。 「戦略」というのは、あらかじめプログラムされている行動方針である。戦略の1例をあげよう。「相手を攻撃しろ、彼が逃げたら追いかけろ、応酬してきたら逃げるのだ!」理解してもらいたいのは、この戦略を個体が意識的に用いていると考えているのではないということである。 われわれは動物を、筋肉の制御についてあらかじめプログラムされたコンピュータをもつロボット生存機械だ、と考えてきたことを思い出してほしい。 この戦略を1組の単純な命令として言葉であえあわすことは、これについて考えていくうえでは便利な方法である。あるはっきりとわからぬメカニズムによって、動物はあたかもこれらの命令に従っているかのように振る舞うのだ。
 進化的に安定な戦略すなわちESSは、個体群の大部分のメンバーがそれを採用すると、別の代替戦略によってとって代わられることのない戦略だと定義できる。 それは微妙でかつ重要な概念である。別の言い方をすれば、個体にとって最善の戦略は、個体群の大部分が行っているうことによって決まるということになる。 個体群の残りの部分は、それぞれ自分の成功を最大にしようとしている個体で成り立っているので、残っていくのは、一旦進化したらどんな異常個体によっても改善できないような戦略だけである。 環境になにか大きな変化が起こると、短いながら、進化的に不安定な期間が生じ、おそらく個体群内に変動がみられることさえある。しかし一旦ESSに到達すれば、それがそのまま残る。淘汰はこの戦略から外れたものを罰するであろう。
 この概念を攻撃にあてはめるために、メイナード・スミスの1番単純な仮定的例の1つを考察してみよう。ある種のある個体群には、タカ派型とハト派型と呼ばれる2種類の戦略しかないものとしよう。 (おの名は世間の慣例的用法に従っただけで、この名を提供している鳥の習性とはなんの関係もない。じつは、ハトはかなり攻撃的な鳥なのである)。 われわれの仮定的個体群の個体はすべてタカ派かハト派のどちらかに属するものとする。タカ派の個体は常にできる限り激しく際限なく戦い、ひどく傷ついたときしか引き下がらない。 ハト派の個体はただ、もったいぶった、規定どおりのやり方で脅しをかけるだけで、誰も傷つけない。タカ派の個体とハト派の個体が戦うと、ハト派は一目散に逃げるので、怪我をすることはない。 タカ派の個体どうしが戦うと、彼らは、片方が大けがをするか死ぬかするまで戦い続ける。ハト派とハト派が出合った場合は、どちらも怪我をすることはない。彼らは長い間互いにポーズをとり続け、ついにはどちらかが飽きるか、これ以上気にするのはよそうと決心するかして、やめることになる。 当面のところ、ある個体は特定のライバルがタカ派であるかハト派であるかを前もってしる手だてはないものと仮定しておこう。彼はライバルと戦ってみて初めてそれを知るだけで、手掛かりとなるような、特定の個体との過去の戦いは覚えていないものとする。
 さて、まったく任意の約束事として、戦う両者に「得点」をつけることにする。たとえば、勝者には50点、敗者には0点、重傷者にはマイナス100点、長い戦いによる時間の浪費にマイナス10点という具合である。 これらの得点は、遺伝子の生存という通貨に直接換算できるものと考えてよい。高い得点を得ている個体、つまり高い平均「得点(pay-off)」を受けている個体は、遺伝子プール内に多数の遺伝子を残す個体である。 この実際の数値はかなり広い範囲内でどのようにとっても分析に差し支えない性質のものであるが、われわれがこの問題を考えるうえでは役に立つ。
 重要なのは、タカ派がハト派と戦ったときハト派に勝かどうかが問題なのではないという点である。その答えはすでに分かっている。いつでもタカ派が勝に決まっている。 われわれが知りたいのは、タカ派型とハト派型のどちらが進化的に安定な戦略(ESS)なのかどうかということである。もし片方がESSで他方がそうでないのであれば、ESSである方が進化すると考えねばならない。2つのESSがあることも理論的にはあり得る。 もし、個体群の大勢を占める戦略がたまたまタカ派型であろうとハト派型であろうと、ある個体にとって最善の戦略は先例にならうということであったなら、このことが言える。この場合、個体群は2つの安定状態のどちらでもよいから、たまたま先に到達した方に固執することになろう。 しかし、次に述べるように、実は、タカ派とハト派という2つの戦略はどちらもそれ自体では、進化的に安定ではない。従って、どちらが進化すると期待するわけにはいかない。 このことを示すには、平均得点を計算しなければならない。
 全員ハト派からなる個体群があるとしよう。彼らは戦っても、だれも傷つかない。争いはおそらく長い儀式的な試合、あるいはにらみ合いであって、どちらかが引き下がったときに決着がつく。 このとき勝者は、戦って資源を手に入れたので50点を得るが、にらみ合いに長い時間をかけたのでマイナス10点の罰金を払うため、結局40点になる。 敗者もやはり時間を浪費したので10点引かれる。平均するとハト派の個体はいずれも争いの半数に勝ち、半数に負けるものと考えられる。 従って、一戦あたりの彼の得点はプラス40とマイナス10に平均、プラス15点である。というわけで、ハト派の個体群中ハト派個体はすべてたいへんうまくやっているように思われる。
 ところが今、この個体群にタカ派型の突然変異個体があらわれたとしよう。彼はここで唯一のタカはなので、戦う相手すべてハト派である。タカ派の遺伝子は必ずハト派に勝ので、彼はすべての戦いでプラス50点を獲得し、これが彼の平均点となる。 彼は、正味15点しかないハト派に比べて厖大な利益を享受する。その結果、タカ派の遺伝子は、その個体群内に急速に広まるであろう。 しかし、そうなると、タカ派の各個体、もはや出会ったライバルがすべてハト派であると期待するわけにはいかなくなる。極端な例をあげるなら、タカ派の遺伝子が首尾良く広まって、個体群全体がタカ派になった場合、今度はすべての戦いがタカ派どうしの戦いになるはずである。 今や、事情は一変する。タカ派の個体同士が出会うと、片方が怪我をするのでマイナス100点となり、勝者はプラス50点をとる。タカ派個体群の各個体は戦いの半数に勝ち、半数に負けると考えられる。 したがって、1戦あたりの平均得点は、プラス50とマイナス100の平均、すなわちマイナス25点である。ここで、タカ派の個体群内にハト派は1個体いるとしてみよう。 たしかに、彼はすべての戦いに負けるが、その一方で決して怪我をすることはない。タカ派個体群内のタカ派の平均得点がマイナス25点であるのに対して、彼の平均得点は、タカ派個体群内ではゼロである。したがって、ハト派の遺伝子はその個体群内に広まる傾向がある。
 この話の語り口からすると、あたかも個体群内にたえず震動があるように思われるかもしれない。タカ派の遺伝子は圧勝して優性を占める。すると大半がタカ派になる結果、ハト派の遺伝子が有利になり数を増やしていく。 やがてハトはが多くなると、再びタカ派の遺伝子が栄え始める、という具合に。しかし、このような震動の起こる必要はない。どこかに、タカ派とハト派の安定した比率が存在するのである。 われわれが用いている任意の得点システムから計算してみると、安定した比率は、ハト派が12分の5、タカ派が12分の7であることがわかる。 この安定した比率に達すると、タカ派の平均得点とハト派の平均得点がちょうど等しくなる。このため、淘汰が一方より他方に有利にはたらくことはなくなる。 もし個体群内のタカ派の数が次第に上がり始め、その比率が12分の7以上になると、ハト派が余分の利益を受け始め、その比率がもとにもどって、安定状態になる。 安定した比は50対50であるのと同様に、この仮定的例では、タカ派対ハト派の比が7対5なのだ。どちらの場合も、安定点付近で震動があったとしても、それは非常に大きなものになることはない。 (『利己的な遺伝子』から)
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<エゴイストでも状況次第で協調する>  はたして、エゴイストとは常に他人を押しのけて生きてゆくものだろうか。エゴイストが、自発的に他人と協調することはあり得ないのだろうか。彼らは、中央の権力の強制されなければ、協調などしないのだろうか。 この問題は、長い間人々の興味をそそってきた。そもそも、人間は天使ではないのである。人間は、ついつい自分と自分の一番身近なものに心を奪われてしまう。 エゴイストが協調するかどうかという問題は、他人事ではないのである。一方、たしかに私たちには協調しあう場合もある。私たちの文明そのものも、協調関係のうえに成り立っている。 それでは、一人ひとりがエゴイストの誘惑にかられている中で、協調関係はどのように発達し得るのだろうか。
 この問いにどう答えるか、それは私たち1人ひとりの社会的、政治的、経済的な人間関係に大きな影響を及ぼす。また、他人がどういう解答を出してくるかによって、どの程度彼らが私たちに協調しようとしているかが、大きく左右される。
 なかでも、今から300年以上前にトマス・ホッブズが出した答えが、最も有名である。彼の答えは悲観的であった。彼の考えでは、統治機関が生まれる前は、エゴイストの問題が巷に溢れていたという。 人間の生活は「孤独で貧しく、陰険かつ残酷で、しかも短い」という過酷な条件のもとに営まれ、そのことで人々は闘争状態にあったのである(Hobbes 1651/1962,p,100)。 彼の考えによると、協調関係は中央の権力なしには発展し得ないものであり、だからこそ強い政治組織が必要だということになった。ホッブス以来、政治組織の本来あるべき姿について議論するときには、権力による統治を抜きにしても協調関係が生まれることを期待できるかどうかが、しばしば焦点となった。
 今日、国と国がつき合うときには、間に立つべき中央の権力など存在しない。だから、協調関係が出現するために何が必要かという問題は、国際政治の中心課題と深く関わっている。 その中でも得に大切な問題は、安全保証のジレンマである。すなわち、国家はよく自国の安全を守るために他国のそれを侵害することがある。 これは、地域紛争の激化や軍拡競争という形でよく問題となる。同盟国間の内輪もめ、関税交渉、キプロスで起きたような自治をめぐる紛争もこれに関連があり、やはり国際関係において生じた問題である。
 1979年に勃発したソ連のアフガニスタン侵攻は、典型的な選択のジレンマの中にアメリカを追い込んだ。アメリカはソ連と今まで通りの取引を続けると、ソ連は図に乗って、さらに非協力的な行動をとってくるかもしれない、かといって、アメリカが協調的態度を翻し、報復的態度に転ずると、ますます冷たい関係に陥り、互いの敵対行動が容易には収拾がつかなくなる恐れがある。 外交政策に関する国内の論争の多くは、まさにこうしたジレンマに深く関わっている。そのため、かなり難しい選択を迫られてくるわけである。
 身近な問題でも似たようなことがある。私たちは、何度もこちらが夕食に招待しているのに、1度もお返しに招いてくれない知人に対して、何回くらいで招待するのをやめようかと考えることもあるかもしれない。 組織の幹部が他の幹部の肩を持つのは、後でお返しに自分の味方をしてもらいたいためである。ジャーナリストが特ダネの情報源をあえて秘匿するのは、そうすれば今後も特ダネを入手できると期待しているからである。 ある業界の企業が高い価格を設定するのは、同じ業界の他の企業もこちらに合わせて値を吊り上げ、維持してくれると期待しているからである。 消費者に大きな出費をさせた方がどちらも儲かるのである。 (『つきあい方の科学』から)
 本書で展開する協調関係の理論は、あくまで1人ひとりが自分が自分自身の利益を追求すべく行動するという前提に立ち、その研究をもとに書かれたもので、何らかの中央の権力が人々を互いに協調し合うよう強制しているといったような前提に立ったものではない。 自分の利益を追求すると仮定した理由は、協調とはいっても、他人のため、グループ全体の幸せのためとは言い切れないようなややこしい場合をも含めて考えられるからである。 しかし、この仮定は、さまざまな協調関係の解析にどんどん適用しても差し支えないということは強調しておこう。もし姉が弟の幸福を望むならば、弟の幸福への思いは(数ある姉の関心事とともに)姉自身の利益の一部であるとみなせる。 しかし、だからといって姉弟が争う可能性がなくなると考える必要はない。同様に、国家も友好国の利益をある程度勘定に入れて行動するかも知れないが、このように考慮するとしても、友好国がいつも互いの利益を求めて強調するということにはならない。 以上のように、自分の利益を追求するという仮定は単なる仮定にすぎないものであり、他人への関心という視点から考えようとすると、いつ強調し、いつ強調しないかという問いかけに答えきれない場合が出てきてしまうのである。
 強調関係の基本問題として、2国間の貿易で関税障壁のある場合を考えてみよう。自由貿易は互いに利点があるので、障壁がない方が双方とも都合がよい。 だが、一方の国だけしか障壁を撤廃しなかった場合には、撤廃した方だけが一方的に経済的打撃を被るはめになる。実際、相手が撤廃しようとするまいと、自国の障壁はあった方が得なのである。 したがって、どちらの国も障壁を撤廃しようとしなくなる。これは、両国が協調して撤廃した場合に比べ、ともに不利な事態に甘んじることになる。
 こうした問題は、それぞれが別々に自分の利益を追求すると、かえって両方とも損をしてしまう場合に生じる。この種の事情を抱えた状況はゴマンとあるが、それらをすっきりと理解するために、細かい部分に捉われずに、共通点を反映した場面設定が欲しいところである。 幸い、有名な「囚人のジレンマ」ゲームがうまく利用できる。 (『つきあい方の科学』から)
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<タカとハト>  ライオン同士が戦うときは、獲物を襲うときのように相手の息の根を止めるほど残忍になることはほとんどない。 魚は攻撃的になると頑丈な顎で噛みつきあいもするが、激しい争いになっても、たとえばただわき腹に噛みつく程度のことでは相手を傷つけるまでにはならないだろう。 ビッグホーンは傍らから見ると死んでもおかしくないと思うほど思いきり頭をぶつけ合うが、体の構造上、このような激しい頭突きに問題なく耐えられる。 ガラガラヘビの場合は自分の毒に免疫がないので、噛まれたら死んでしまう。だが、戦うときは大抵背中を押しつけあうので、偶然にも医術の象徴のカドゥケウス[ギリシャ神話の医術の神アスクレピオスが持っていた杖で、2匹のヘビが巻きついている]を思わせる奇妙な体勢になるが、 これはまた相手を死なせずに争いを解決する手段にもなる。負けた側が噛みつかれることはめったになく、たいていはするすると逃げて行くだけだ。
 これらの事例をはじめとする動物の抑制行動はほぼ20世紀を通じて過大視され、その傾向は、殺傷力のある攻撃手段をもつ動物は殺し合わないとした動物学者コンラート・ローレンツの主張で頂点に達した。 現在では、この見解は正しくないことが判っている。狼、ライオン、さらにはチンパンジーまでが殺しをする。これでもこの説は、古くからの格言に似て、見るべき点が数多くある。 相手を徹底的に痛めつける力のある動物は、同種の仲間にそうするのを控えることが多いのである。
 数十年のあいだ、この抑制行動に気づいた生物学者は、これを注目すべき現象とみなして深い関心を寄せたが、予想外のことだとは思わなかった。 進化は「種の保存のため」に起こると長い間考えられていたためだ。この見方は動物の情け深さ、すなわち攻撃制御の事例によっていっそう固められた。
「動物がしばしば殺し合いを控えるのは言うまでもないことで、これは種のためなのである」とされたのである。いまはそうではない。 現在、進化は種の保存のためではなく、個体間と──それ以上に──競い合う遺伝子間に成功の度合いの差があるために起こることが広く知られている(遺伝子は種の保存のためにいつも自己を犠牲にしていたとしよう。 そこへ、種ではなく自己のことだけを気遣う遺伝子が現れた。利己的な遺伝子は優位に立ち、利己的でない周囲の遺伝子を犠牲にしながら機敏に立ち回って、その後の世代に受け継がれたのである)。
 いまでは、種とは単に個体とその遺伝子の集合と見なされ、個体間および遺伝子間の競争が自然選択のはたらく舞台だと理解されている。
 ここで厄介な問題にぶつかる。もし進化が種という大きな集合としてではなく、個体および遺伝子としての成功に褒美を与えるのだとしたら、致命的な攻撃をしないというすばらしい事例をどう説明すればよいのだろう。 種のためでないなら、なぜ行動を制御する個体がいるのだろうか。凶暴なほうが適応度が高い(繁殖の利得がより大きい)としたら、なぜすべての個体が激しやすいわけではないのか。 逆に、もし暴力的でない方が利得が大きいとしたら、なぜ動物は非暴力運動の手本とならないのか。
 解釈は多数あり、そのほとんどが関連しあっている。なかでもゲーム理論の立場から興味深い説明は、イギリスの進化論者ジョン・メイナード=スミスとアメリカの数学者ジョージ・プライスが「動物における闘争の論理」と題する論文で初めて示した説だった。 動物が闘争したり、驚くほどしばしば抑制行動をとったり、凶暴な個体とそうでない個体が(相手を消滅させることなく)同じ個体群の中に共存したりするのは、動物がゲームをしている結果だと2人は考えたのである。この論文はゲーム理論と動物行動の研究を関連づける土台となった。
 メイナード・スミスとプライスが確信敵研究の主眼として初めて打ち出した古典的モデルは、「タカハトゲーム」として知られている。
 2種類の個体があると想像してほしい。タカ派とハト派である。両者はあらゆる点で同じだが、競争に対する反応だけが違う(また、両者は鳥とは限らない)。タカは相手を威嚇し、必要とあらば戦う。ハトは暴力的な闘争を避ける平和主義者だ。まず、すべてがハトの個体群を想像しよう。 さらに、彼らは腹を空かせているが、さいわい生息地のあちらこちらに餌があると考えてほしい。ハトはハトと遭遇し、近くに餌があったとすると、両者は餌を半分ずつ分け合う。 揉めごとも喧嘩も起こらない。このモデルにもう少し現実味を加えるため、それぞれ少々のコスト(損失)もあるとしよう。友好的であることを身振りで相手に分からせるには、いくらか時間がかかるからだ。
 このハトの楽園にタカが現われる。タカは喧嘩っ早く、誰とも餌を分けようとしない。そこでタカとハトが遭遇すると、タカは威嚇して戦う姿勢を示し、ハトはすぐさま引き下がる。 結果はどうだろう。餌はすべてタカが奪い、ハトには何もない。しかし、タカ同士が出合うとどちらも引き下がらず、喧嘩になる。最終的にはどちらかが勝ち、餌を独り占めする。タカ同士の戦いでは、それぞれの勝率は5割なので手に入れる餌も半分になり、ハト同士が出合ったときと同じである。 この2つの戦略の大きな違いは、タカの場合は喧嘩なしでは済まないことだ。タカとタカの戦いは、体力を消耗する、怪我をする、命を落とす恐れがあるなど、両者に大きなコストがある。
 次に示すのは「タカハトゲーム」の非常に単純な利得表である。このゲームは対称ゲームなので、表上のプレーヤーの利得だけが示されている。
それぞれの利得\出合う相手 ハ  ト タ  カ
ハ  ト (1/2の餌)−(友好を示すためのコスト)
タ  カ すべての餌 (1/2の餌)−(戦いのコスト)

 面白い動きが生じる。ハトばかりの個体群の中にやってきたタカの運命を考えてみよう。タカは優勢になり、数を増やすだろう。 ハトと遭遇すると餌を独占できるので、ハトよりも常に栄養状態がいいはずだからだ。だが、時とともにタカがどんどん増えてハトが減っていくと、タカ同士がかち合うようになる。 するとどうなるか。まず威嚇して「猛々しく」振る舞うが、どちらも引き下がらない。はとが大半を占めていた世界ではうまくやっていたタカも、タカの割合が増えてタカ対タカの衝突が避けられなくなるにつれて、苦しい状況に追い込まれていく。 ハトはタカと出合うとまったく餌にありつけないのでいいところなしだが、それでもマイナスの利得(戦いのコスト)になるリスクは冒さない。 そのうえ、出合ったのが運良くはとなら餌を半分受け取れるし──これはタカ対タカのときも同じ──ひどい目に遭わされることもないのだ! ハトがハトであることを相手のハトに示すのに時間がかかるとしても、タカがタカと出くわして戦うときのコストほど大きくないと考えていいだろう。
 以上を考え合わせると、こういうことになる。つまりハトが多いときには、おとなしい平和主義者ばかりのなかで容易に餌を手に入れられるタカが優勢になる。 ところが、タカは数を増すにつれてハトよりも苦しい状況になっていく。成功の中に滅亡の萌芽が隠れているのだ。こうなるとハトが優勢になって数を増やすが、それによって再びタカの侵略を受ける道を開くことになる。 要するに、どちらも数を減らすと成功し、数を増やすと失敗するのだ。均衡状態になると、タカは平均してハトと同じ利得を得るだろう。換言すれば、タカもハトも進化上の利得はまったく同じになり、したがって同じ割合で繁殖する。 この均衡状態において、タカ戦略もハト戦略も等しくすぐれた戦略だ。タカハト状態は進化的に安定し得ると生物学者が言うのは、そういう意味なのである。
 だからと言って、タカとハトが同数になると言うことではない。猟師ドリと海賊ドリ、貯め込み屋とたかり屋のキツツキが同数である必要がないのと同じ理屈だ。 均衡状態では、平均してタカとハトが同じように成功するということである。均衡点に達すると、タカとハト──この戦略をとるどんな動物も──の比率は保たれ、動かなくなる。 では正確に何羽なのかというとそれは利得次第であり、さらにその利得は、争いのもとになっている資源の利得と戦いのコスト(タカの場合)および友好を示すためのコスト(ハトの場合)次第なのである。
 メイナード=スミスとプライスのモデルでは、資源の値は10、タカ同士の争いによるコストは20、ハトがたがいに友好を示すために費やす時間のコストは3と任意に決められた。 この値で計算すると、タカが個体群全体の8/13、ハトが5/13を占めるときに均衡状態になる。あるいは1個体が戦略を使い分けてもいい。各個体が8/13の比率でタカ戦略、5/13の比率でハト戦略をとれば安定するだろう。 どちらも数学的には同じ結果だが、生物学的にはまったく違う。前者は個々の戦略が決まっていて変えられないのだから、無脊椎動物などの単純な構造の生物と考えられるし、後者は行動に柔軟性のある個体ということで、鳥類や哺乳類のような比較的に脳の大きい脊椎度yぶつにとくにあてはまるだろう。
 タカ対ハトの比率の均衡点がこうなるのは、少しも不思議ではない。すべて利得の値によって決まるのである。比率が利得の値によって決まることは直観的にわかるだろう。 たとえばこう考えてみよう。もし戦いのコストが大きくなれば、均衡点でのタカの比率が低くなるのは当然だ。タカ同士が争って死んだりひどい怪我を負ったりする可能性が高まると、タカの平均利得が小さくなるはずだから、タカが少なくなってハトが多くなると予想が立つ。 同じように、もしほかの条件が同じで遡源の利得の値が大きくなったら、タカの比率は増え、ハトは徐々に減少するだろう。これも分かりやすい。 貴重なものを手に入れるには危険を冒さなくてはならないのだ。そして、ハト同士が相手に自分がハトであることを分からせるために時間と労力が多少でも増えれば、タカの増加につながるはずである。
 ここでの重要な要素は、資源(この場合は餌)の値とそれをめぐる争いで生じるコストの関係である。もし、資源の値がそれを得るためのコストよりも大きければ、タカハトゲームは囚人のジレンマとなり、争い(裏切り)が支配戦略となってタカが優勢になるだろう…… ハト対タカの協調関係を結べば、両者にとってもっと望ましい結果になるのだが。しかし、もし資源の値がコストよりも小さいとしたら、タカハトゲームはチキンゲームとなり、タカもハトも資源とコストの値によって正確に決まった比率を維持することになる。 (『ゲーム理論の愉しみ方』から)
<徳行の経済学> これまで本書では、人間の間の繋がりは、ほとんどの動物の間に見られる繋がりと同様に非自発的なものだと仮定してきた。すなわち、英雄的な男らしい男はもともとあなたの周りにいるのであって、つき合おうとしてわざわざあなたが選んだのではあに。その限りでは、押しの強い性格を持つことは、そうした性格の人が多すぎない限り利点がある。
 だが、共同事業者、雇用主・従業員関係といった自発的な繋がりについてな、このようなことは当てはまらない。誰かを協力者に選ぼうとする場合には、押しの強い人はリストかの一番下に下げられる。だから職を得られ見込みが減ったり、結婚できるチャンスが少なくなる。
 自発的なつき合いが行われる社会では、それと異なる戦術をとる方が得をする。思いやりがあり、礼儀正しい人として知られた者、決して他人を利己的に利用しない人、誰も見てなくても決して盗みをしないような人──これらの人は雇用主、従業員、共同経営者、あるいは配偶者として望ましい人物である。他の人たちが正しくその人の性格を読みとっている限り、良い男だろうと自分を鍛えることは、その人にとって自分中心に考えても利益になる。正直な人を雇うことは、窃盗を働かれる費用だけでなく、窃盗を防ぐ費用も節約でき、その節約額は正直な人を雇うことは、正直な人と不正直な人が受ける報酬の差となって表れる。
 この場合にも、理由こそ異なれ、タカ・ハト均衡に似たようなことが考えられる。もしほとんどすべての人たちが正直者であったら、特定の人物がどれほど正直かということに多大な関心を払う必要はなく、したがって、正直者のふりをしながら悪事をうまくやれると思うときには人をだます、猫っかぶり戦術がうまく行くのだ。猫っかぶり屋の数が増えるに連れて、他の人たちが彼らを見分けるために注意を払うようになる。両方の戦術から得られる利益が等しくなったとき、正直者に対する猫っかぶり屋の均衡比率が達成される。
 なぜ人々が良い子になっているのか、あるいはそうでないのかを理解するためのこうしたやり方には、興味深い示唆が見られる。悪人、すなわち押しの強い人間であることは、人々の間の繋がりが非自発的である場合には得である。善人であることは、繋がりが自発的である場合には得である。人々の繋がりが自発的な社会のほうが、非自発的な社会よりも相対的に正直で高圧的でない善良な人が多いと考えられる。 (『日常生活を経済学する』から)
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<悪人同士の会話=日本で死刑が廃止されると……> 日本で死刑が廃止されるとどうなるか?こんな寓話を考えてみた。
 日本で死刑が廃止された頃、世界のある貧しい国で生活に困った若者が将来について話し合っていた。
A 「どうする。オレたち、この国にいても将来性はない。政治も経済も治安もまるでなっていない。外国に行って稼ごうと思うのだけど、どう思う?」
B 「そうだな。この国にいても将来どうにもならない。それは分かっているけど、どうすればいいのだ?」
C 「オレもそう思う。だけどどうすればいいのか分からない」
A 「そこでだ、どこか先進国に行って荒仕事をしようと思う」
B 「オレもそれは考えたけど、何処へ行って何をするかだ?」
C 「先進国に行って肉体仕事をすれば、それはこの国にいるよりは良い生活は出来るかも知れない」
B 「けれど、その国では最低の生活だ。この国はみんなが貧乏だから感じないけど、先進国へ行って、その国の底辺で暮らすのは辛いぞ」
A 「ハッキリ言おう。日本へ行って、金持ちからちょっと恵んでもらうのだ」
C 「金持ちから恵んでもらうなんて、ちょっと甘い考えじゃあないのかな?」
B 「どうやって恵んでもらうのだ?」
A 「それさ。日本では、近くの国から荒仕事しに来ている連中がいる。「蛇頭」とか何とかいうグループがあるらしい」
C 「それって、窃盗グループじゃあないのか?」
B 「何でも、日本では、そのグループや他の国から窃盗・強盗を目的に来ている連中がいるらしい」
C 「地球の反対側から来ている連中もいるらしい」
B 「そう言えば、どこかの国は、日本と犯人引渡条約を結んでいないので、日本で悪いことしても、本国に帰れば捕まらないらしい」
C 「でもオレたちの国はだめだ。捕まって日本に送られる」
A 「残念ながらその通り。しかし、ポイントは「日本では死刑が廃止された」ということさ」
B 「それが、どういう意味がある?」
A 「日本では、人を殺しても死刑にはならない」
B 「だからどうなんだ?」
A 「死刑が廃止されたということは、人権主義者が力を持ったということであり、犯人の人権も尊重されるようになった、ということだ」
C 「法律を犯しても、重い刑にはならない、ということか?」
A 「犯した罪と、その人間がどのような環境で育ってきたかが問題になる」
B 「つまり、オレたちが、国で苦しい生活をしてきた、ということが刑を軽減させる要因になる、ということだな?」
C 「そう言えば、オレたちの国では考えられないけれど、日本では「死刑囚に同情的な市民運動が盛んだ」と聞いている」
A 「日本の人権主義とは、 「すべての人間の人権を尊重し、たとえ殺人犯といえどもその人権は尊重されるべきだ」 との思想なのだ」
B 「人を殺しても、死刑にはならないし、オレたちの苦しい子供時代を考慮して、刑が軽くなる、ということだ」
A 「判決を言い渡したあとで、裁判長がこんなことを言う。「法廷で、大変なことをしてしまった、という反省の気持ちが伝わって来なかったのは事実です。それがいらだちを感じます。姉歯被告はどこまで責任を感じているのでしょうか」と」
C 「公判で、とにかく「悪うございました」と反省の態度を示せば刑が軽くなる、ということだな」
B 「日本もいいけれど、アメリカはどうなんだ?」
A 「アメリカでは警察官が現場で簡易死刑執行(summary execution)と言われる実質的な死刑に処することがある」
C 「一般人も銃の扱いに馴れているから、侮(あなどれ)れない」
B 「たしかに、日本では言霊が信じられているし、空想平和主義は多くの人に支持されている」
A 「歴史で習ったことがある。第1世界大戦後のフランスでは「とにかく戦争はイヤだ」、の厭世気分でナチやフランコの台頭を許してしまった」
C 「日本では、「とにかく残虐な死刑は良くない」との考えから、犯人にも甘い風潮になっている」
B 「金持ちが多いこと、死刑がないこと。これが日本を推薦するポイントだな?」
A 「その通り。日本は先進国に中では治安が良く、それだけに危機管理意識がない。荒仕事しに行くには日本が最適だ」
C 「仕事の前に、市民活動家と仲良くなっておくと、仕事がし易いな」
B 「新聞社の中には、「弱者の味方になることこそリベラルだ」との正義論を持っている記者もいるらしいぞ」
A 「ゲームの理論の、「ハト社会にタカが侵入したらどうなるか?」を考えると、なぜ日本で荒仕事すべきかが良く分かるはずだ」
C 「分かった、流石は、オレたち貧民階層を代表する「アマチュアエコノミスト」だ。筋が通っている」
B 「悪党のF1ハイブリッドだな。自家不和合性には陥っていない」
 このようにして、ABC の3人は仲間を募って日本へと荒仕事をするために行くことになった。こうして、 ハト社会日本にタカが侵入してくることになった。タカが多くなったことで、タカ同士の争いも激しくなった。荒仕事目的のガイジン同士の喧嘩や、殺し合いまで起こるようになった。 けれども、死刑廃止と直接結びつけて「死刑廃止によって凶悪犯罪が増えた」との理論をたてて「死刑復活」を主張する法曹界の人はいなかった。法曹界全体の宗旨に反することを言う勇気を持った「臍曲がり」はいなかった。
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<主な参考文献・引用文献>