大江戸経済学
趣味と贅沢と市場経済

アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します        If you are not a liberal at age 20, you have no heart. If you are not a conservative at age 40, you have no brain.――Winston Churchill    30歳前に社会主義者でない者は、ハートがない。30歳過ぎても社会主義者である者は、頭がない。――ウィンストン・チャーチル       日曜画家ならぬ日曜エコノミスト TANAKA1942bが江戸時代を経済学します     好奇心と遊び心いっぱいのアマチュアエコノミスト TANAKA1942b が江戸時代の神話に挑戦します     アマチュアエコノミスト TANAKA1942b が経済学の神話に挑戦します

趣味と贅沢と市場経済

(1)江戸はアダム・スミスの世界 百姓は百の職業を持つ兼業農家 ( 2004年12月20日 )
(2)東福門院和子の涙 幕府が朝廷支配のための政略結婚 ( 2004年12月27日 )
(3)涙が絹になって尾形光琳・乾山 商売破綻から創作活動へ ( 2005年1月3日 )
(4)衣装狂いによる貿易赤字 糸割符貿易の仕組み ( 2005年1月10日 )
(5)後水尾院・東福門院の文化サロン 寛永文化への貢献度 ( 2005年1月17日 )
(6)先に豊かになった人への憧れ トレンド・メーカー東福門院 ( 2005年1月24日 )
(7)当世流行の衣装くらべ 伊達もの対決、江戸か京都か ( 2005年1月31日 )
(8)スタイリスト尾形光琳の影響力 京都東山での伊達くらべ ( 2005年2月7日 )
(9)♪ザッとおがんでお仙の茶屋へ♪ 大江戸美少女噂話 ( 2005年2月14日 )
(10)美少女を取り巻く文化人 平賀源内とその仲間たち ( 2005年2月21日 )
(11)先に豊かになれた豪商たち 特権階級相手の商売から町人相手へ ( 2005年2月28日 )
(12)少し遅れて豊かになれた人たち 木綿の普及が生活革命 ( 2005年3月7日 )
(13)金さえあれば、何でも買える風潮 改革とは幕府の「贅沢は敵だ」政策 ( 2005年3月14日 )
(14)リーガル・パターナリズム 小さな政府の大きなお世話 ( 2005年3月21日 )
(15)絹輸入のため金銀が流出 新井白石『折りたく柴の記』での心配 ( 2005年3月28日 )
(16)代表的輸入品が主要輸出産業に 西陣の技術が地方に拡散 ( 2005年4月4日 )
(17)拡散する技術情報と職人 技術空洞化と地方産業の発展 ( 2005年4月11日 )
(18)東日本へ広がる絹・絹織物産業 農村に新しい産業として育つ ( 2005年4月18日 )
(19)絹・絹織物産業の中心地は群馬県 現代でも品種改良の伝統を守る ( 2005年4月25日 )
(20)中部地方の絹・絹織物産業 冨山・山梨・長野での発達 ( 2005年5月2日 )
(21)本家京都はどうなったのか? 空洞化から衣裳芸術へ昇華 ( 2005年5月9日 )
(22)木綿の由来と各地の生産 三河の綿から各地へ拡散 ( 2005年5月16日 )
(23)贅沢に関する先人たちの見解 現代にも生きてるユートピア信仰 ( 2005年5月23日 )
(24)東福門院和子から輸出産業へ 需要こそが生産を決める ( 2005年5月30日 )
(25)参勤交代という公共事業 三代将軍家光時代に制度化 ( 2005年6月6日 )
(26)道中費用はどうだった? 藩の財政を圧迫 ( 2005年6月13日 )
(27)「総費用」とは「総売上」 参勤交代が通貨流通速度を速めた ( 2005年6月20日 )
(28)世界一旅行好きな江戸庶民 弥次・北コンビは人気ツアーガイド ( 2005年6月27日 )
(29)一生に一度は伊勢参り 現代人の海外旅行より盛んだった! ( 2005年7月4日 )
(30)旅にまつわる費用など 女性も旅を楽しんでいた ( 2005年7月11日 )
(31)夢のような伊勢参宮の旅 ハレの食事の極めつけ ( 2005年7月18日 )
(32)お殿様以上の豪華な神楽と直会 御師の館での儀式と費用 ( 2005年7月25日 )
(33)抜け参り,お蔭参り,ええじゃないか その不思議なエネルギー ( 2005年8月1日 )
(34)おかげまいりの経済効果 無銭旅行を支えた「施行」( 2005年8月8日 )
(35)「ええじゃないか」騒動の発端 お札の降下とその後の不思議( 2005年8月15日 )
(36)いろいろな庶民の旅 富士講・大山講や富士塚など( 2005年8月22日 )
(37)旅の普及を支えた経済制度 統一貨幣・頼母子講・為替制度・飛脚( 2005年8月29日 )
(38)旅が第3次産業を育てた 江戸の出版文化と蔦屋重三郎( 2005年9月5日 )
(39)旅が江戸社会に及ぼした影響 「貨幣数量説」と「情報数量説」( 2005年9月12日 )
(40)江戸時代の旅を総括する 欧州にはない平和な近世( 2005年9月19日 )
(41)園芸は代表的な道楽だった 造形化した自然も好んだ江戸庶民( 2005年9月26日 )
(42)椿から始まった江戸の園芸 無類の花好きだった徳川家康( 2005年10月3日 )
(43)話題の多いキクとアサガオ 変化朝顔の不思議( 2005年10月10日 )
(44)ツツジやハボタンなど 大久保はツツジの名所だった( 2005年10月17日 )
(45)江戸園芸を総括する 現代も盛んなフラワービジネス( 2005年10月24日 )
(46)倹約の吉宗か?贅沢の宗春か? 享保の改革に反抗したモルモット( 2005年10月31日 )
(47)野暮将軍吉宗が格闘した享保改革 贅沢と新しいことの徹底禁止( 2005年11月7日 )
(48)『温知政要』と『遊女濃安都』 宗春の政治姿勢をみる( 2005年11月14日 )
(49)宗春の政治をどう評価するか? 英雄か?ケインズ政策の失敗か?( 2005年11月21日 )
(50)倹約と贅沢を総括する ゾンバルト以上に資本主義的であった( 2005年11月28日 )


大江戸経済学 改革に燃えた幕臣経済官僚の夢
大江戸経済学 大坂堂島米会所
趣味の経済学 Index
FX、お客が損すりゃ業者は儲かる 仕組みの解明と適切な後始末を

(1)江戸はアダム・スミスの世界
百姓は百の職業を持つ兼業農家

<はじめに> 「大東亜戦争」として始まった戦争が終わって、「太平洋戦争」と名前が変わった後、日本経済は世界の政治家・経済人が羨むほどの高い成長を達成した。何故そのような高度成長が実現したのか?その答えを、『日本株式会社』と呼ばれる、世界にも例を見ない独特な日本型経済システムに求めようとする日本人がいる。 しかしそれは視野狭窄的な見方で、「官に逆らった経営者が出るほど、自由な経済環境にあった」と考えた方が自然だ。特に同時代のヨーロッパ諸国──フランス、イギリス、ドイツなどと比較してみれば、一目瞭然。 戦後復興政策、ヨーロッパは西も東も社会主義をやっていた。
 アジア諸国の指導者の中には「このような発展を遂げた日本を見習おう」との意識があった。マレーシアのマハティール首相が提唱した「ルックイースト政策」は政官協力体制の「日本株式会社」と「終身雇用」を中心とした、欧米諸国とは違った経済政策であった。 この非西欧的経済政策と並んで言われたのが「日本の経済発展は、儒教的倫理観に基づいた日本人の仕事に対する誠実な態度があったからだ」という見方だった。 「儒教的倫理観」とはマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を意識した発言と考えて良いだろう。
 日本の戦後の経済成長は「日本株式会社」ではなく、「官に逆らった経営者」がいたからだ、と言うのがTANAKAの考え方だ。そして、こうした経済成長を支えてきたのは、「プロテスタンティズム」でも「儒教的倫理観」でもなく「趣味と贅沢が市場経済を発展させた」であり、それは「恋愛と贅沢と資本主義」と同じ考えであり、「市場経済の基礎は江戸時代にできた」がTANAKAの考え方だ。 「禁欲と資本主義」ではなくて「人々が自分の欲望を満足させようとすることによって、資本主義経済は成り立っている」とのアダム・スミスの考えや、ヴェルナー・ゾンバルトの考え方の方が経済を理解するには役立つように思える。そこで 「江戸時代、趣味と贅沢とが市場経済を発展させた」との発想で「大江戸経済学」を展開してみようと思った。第1回目は題して「江戸はアダム・スミスの世界 百姓は百の職業を持つ兼業農家」。
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<八っつあん、熊さんも朝顔の品種改良を楽しんでいた> 江戸庶民の道楽と言えば先ず「園芸道楽」をあげよう。長屋住まいの、「町人」の分類にも入らない、八っつあん、熊さん、ご隠居さんが楽しんだのが朝顔の栽培。もう少し裕福な人たち、すなわち「町人」と呼ばれた土地を持っている人たちはキク作りに夢中になった。江戸時代になり、世の中が安定してくると平安時代に盛んだった「菊合せ」も復活する。もう少し上層階級である武士、殿様、将軍はツバキの鉢植えに熱中する。こうした趣味は鉢植えの鉢に凝ったり、大きなキクや珍しい品種が高く取引されたり、それを幕府が取り締まったりと、 社会問題、経済問題、政治問題へと発展していった。経済面から見れば、こうした趣味が、植木業、陶磁器制作、造園業などを刺激したし、植物の品種改良の知識はその後の日本農業に大きな影響を与えた。今日「農業は先進国型産業であり、品種改良に比較優位を持つ日本の基礎は江戸時代にあった」と言えるのも、八っつあん、熊さん、ご隠居さんをはじめ、町人、殿様、大名の園芸道楽があったからだ、と言える。(参考HP
 江戸時代の植物栽培はどのような品種が愛されたのか?順不同で羅列してみよう。江戸時代初期にはツバキの鉢植えに熱中した人たちがいた。それは後水尾天皇、二代将軍徳川秀忠、それに京の貴族たちだった。やはり江戸初期の寛永期にはキクの栽培が行われ珍種売買の商売も行われた。京や大坂ではキクなどの花合せ(花の品評会)も盛んであった。1772(安永元)年、田沼意次が老中になり、「田沼意次の時代」が始まると、キクは大輪がもてはやされるようになる。 田沼が失脚し松平定信のデフレ時代には巣鴨村や染井村や雑司ヶ谷が観菊の地として栄えた。アサガオの栽培熱は江戸後期、文化年間ごろからにわかに流行した。キクやアサガオのほかランは元禄のころから品種改良が行われていた。同じく元禄時代にはツツジの栽培も盛んになった。
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<何度も「贅沢禁止令」が出るほど、「贅沢は素敵」だった> 江戸時代、幕府は何度も「贅沢禁止令」を出している。主に町人の衣服に関する贅沢が対象だ。それだけ、幕府がお触れを出すほど町人が豊かになって、贅沢を楽しんでいたことがうかがえる。その衣装道楽は町人だけでなく将軍・殿様の取り巻き連中でも広まっていた。その道楽に応えるための絹をはじめとする衣装産業の発展は江戸時代の産業を考える場合に見過ごすことができない。 後の時代になって、大本営が「贅沢は敵だ」とのスローガンを出すと、庶民は「贅沢は素敵だ」と言った。それでも「禁欲は善である」との価値観はいろんな場面で主張される。「デフレを乗り切るには」との問いに対して、禁欲的な回答を寄せる識者も多い。エコノミストの立場では「趣味と贅沢が市場経済を進化させる」が正解だと思うのだが、あまりにも本音の正直な考えは、あまり歓迎されないようなので、せいぜいアマチュアエコノミストが主張することにしよう。
 江戸時代の贅沢の代表は「絹」と言っていい。江戸時代で最も大概貿易が盛んであったと考えられる明暦元年の輸出入品目を調べると、次のようになる。
 輸入品 生糸 絹織物 皮革 香料 薬種 砂糖
 輸出品 金・金製品 銀・銀製品 銅・銅製品 樟脳(「江戸時代」から)
 この場合の金・金製品などは、輸出品というより輸入品の支払のための「通貨」と考えた方が分かりやすい。さて、輸入品の代表は絹と絹織物で、この二品で輸入額の大半を占めていた。この絹・絹織物は江戸時代の贅沢品の代表でもあった。そのため貿易赤字の解消のために、絹・絹織物の国産化が進み、明治維新後には日本の代表的な輸出品目になった。 つまり、贅沢品の絹・絹織物な輸入増のため、その国産化を進めることによって絹・絹織物産業が育っていった、ということだ。
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<幕府は小さな政府の典型なのだ> 江戸時代を経済学の面から特徴づけると「幕府は小さな政府の典型」と言える。諸藩は独立国のようでもあり、江戸という都市は幕府の直轄地であり、多くの行政サービスが民間に委託されていた。 100万人都市江戸の治安を司る警察機構は、南北奉行所の下に与力・同心がいて配下の岡っ引(目明)を使っていた。その数は下っ引きまで含めても千人程度、それに加えて自身番・木戸番の制度があった。 このうち与力・同心までが幕府から給料をもらっていたので、その他の岡っ引から自身番・木戸番までは民間人だった。
 国家の基本的な事業、国防、警察、教育、司法、等を調べてみると、いかに小さな政府だったかが分かる。国防は各地方自治体にまかせ、警察は民間人である「岡っ引き」に任せ、その費用の工面は岡っ引きの裁量に任せていた。 教育は寺子屋が中心で、司法に関しては中央政府ではなく、藩と言われる地方自治体が担当し、商業上のトラブルに関しては株仲間が自主的に処理していた。百万人都市江戸の清掃に幕府は関係せず、下水処理は練馬あたりの百姓が下肥として買い取っていたし、燃えるゴミは風呂屋の燃料にと、朝早くに風呂屋の小僧が集めていたので、江戸の町は世界でも有数な清潔な都市だった。
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<百姓一揆は、まるで春闘みたいだな> 江戸時代には飢饉もあったし、百姓一揆も多発していた。「封建社会」「士農工商」「百姓は生かさず殺さず」などの言葉から連想されるのは、「百姓がまるで奴隷のように扱われていて、そのために不満が爆発して百姓一揆が起きた。しかし結局弾圧されて目的を達しなかった」という図式だ。 「歴史の必然性」を強調したい人たちは、江戸時代をこのように見ている。しかし、一つ一つのの出来事見てみると少し違う。一揆を起こす百姓も、弾圧する藩主側も命がけだったわけでななさそうだ。そう考えるよりも、春闘のような年中行事だった、と考えた方が良いような例もある。百姓側も役人側も槍、刀、鉄砲はめったに使っていない。
 百姓一揆と言っても、江戸時代の人が、子供のイヤイヤとしか映らないような一揆があったのも事実のようだ。広瀬淡窓は、1812(文化9)年、在所の近くで起きた一揆について、凶作とか困窮とかいった具体的な原因もなく起きたものだと、多少の不審と軽蔑の念をにじませた感想を日記に残している。
 「此時格別の凶歳と云うにもあらす、民の窮も未だ甚しからす、只何となく人気さわきたちたるなり」『懐旧楼筆記』 (「江戸は夢か」から)
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<庶民・百姓の視点から江戸時代を見てみようよ> 暗記物としての歴史は、中世・近世・現代とか、「やあなへかなむあえめげ」のように覚えたり、政治体制、支配階級の側から見る歴史が多かった。そのため庶民の生活は「封建時代なのだから庶民はこのように抑圧された生活をしていたはずだ」のような発想だった。そうではなくて「実際に庶民・百姓はどのような生活をしていたのか?」との発想から江戸時代を見てみようと思う。 そうすると「封建時代」という言葉がとても不自然に思えてくる。このシリーズでは、そのような不自然な面を取り上げてみようと思う。つまり、「江戸時代、百姓・庶民は結構豊かな生活をしていた」との見方になる。
 例えば年貢。七公三民などと言われ、収穫されたコメの7割を年貢として納め、自分は3割しか食べられなかったため、主食はコメでななくアワやヒエなどの雑穀だった、との考えは「生産された作物をこれほどまでに領主が奪ったので、百姓は常に食料飢饉の危機にさらされていた」との貧農史観に結びつく。 「七公三民」は戦国から江戸初期にかけてのことで、これは戦国武将がコメを集め「戦の準備のために城を造る。人夫として働けばコメを分け与える」と宣言した。つまり一度年貢として納めたコメを、城造りで百姓に配り、結果として百姓はコメを食べていた。これは戦国から江戸初期のこと。城造りが一段落すると、領主はコメを商品として大坂米会所などで現金化・現銀貨する。百姓はそれを買って食べていた。買う金はどうしたのか? 答えは「百姓は百の職業を持つ兼業農家」だ。百姓はコメ以外にも収入源を持っていた。現代「米作り専業農家が減っている」と嘆く人がいるがそれは思い違い。兼業農家とはリスクを分散させようとの賢い知恵なのだ。もしかしたら江戸時代の百姓に学んだのかもしれない。だとしたら現代のお百姓さんはなかなか賢い経営者だと言えそうだ。
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<江戸時代を経済学します> 日本の歴史学者は、文学部歴史学科卒業日本歴史専攻が多いのだろう。江戸時代を見る場合、政治学から見る場合、法学から見る場合、美術から見る場合、教育学から見る場合、農学から見る場合、科学技術から見る場合、そして経済学から見る場合、見る立場によって評価も違ってくるはずだ。 士農工商という身分制度から見る場合、商法もなく商業上のトラブルは株仲間の制裁に任せていた徳川幕府という政府、平賀源内の仕事を科学技術な立場から見ると歴史学者とは違ってくるかもしれない。 それぞれの専門的立場から見るとすれば文学部歴史学科だけに任せておくこともできない。特に経済学の立場から見れば、歴史学者とは違った見方ができるに違いないからだ。 などと、自惚れながら、江戸時代を経済学してみようと思いたった。さてどこまでその試みが成功するか?新たな江戸時代の神話解明にチャレンジします。 先ず来週は、幕府と朝廷との力のバランスの中で涙を流した女性のとてつもない贅沢、についての話から始めます。乞うご期待!
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<主な参考文献・引用文献>
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25 
資本主義は江戸で生まれた                      鈴木浩三 日経ビジネス人文庫 2002. 5. 1
江戸は夢か                             水谷三公 ちくま学芸新書   2004. 2.10
江戸の道楽                             棚橋正博 講談社       1999. 7.10
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 マックス・ウェーバー 大塚久雄訳 岩波文庫      1989. 1.17 
マックス・ヴェーバーとアジアの近代化                富永健一 講談社学術文庫    1998. 8.10 
恋愛と贅沢と資本主義           ヴェルナー・ゾンバルト 金森誠也訳 講談社学術文庫    2000. 8.10 
百姓の江戸時代                           田中圭一 ちくま新書     2000.11.20 
( 2004年12月20日 TANAKA1942b )
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(2)東福門院和子の涙
幕府が朝廷支配のための政略結婚

 人間のさいわいと徳、いえ、女子(おなご)のしあわせと申上げたほうがよろしゅうございましょうか、これはひとそれぞれなれど、世に私ほどの冥加を得た者はふたりと指折ることはできぬのではありますまいか。
 何ゆえかと申しますれば、ただいまは延宝八年、庚申の年廻りにて、長い戦乱の世も治まり、天下さまは第百十二代、霊元天皇の御代となられ、将軍さまは第五代綱吉さまにご勅諚下りましたところにございます。
 かくなる時代、将軍家にお仕え申せしお女中方のうち、生涯かけてその勤めを全うせし者、めったとあるまじく、しかもおん主(あるじ)、東福門院和子(まさこ)姫の崩御の際まで見極めさせて頂きましたばかりか、法皇後水尾(ごみずのお)院おかくれのときにもめぐり遭うという運を賜り、 そして皇女朱(あけ)宮さまご落飾ののち林丘(りんきゅう)寺へお入り遊ばした報にも接し、これにて何ひとつ思い残すこと無し、というただいまの心持にてございます。
 私、本年とって七十七歳と相成ります。
 昨年春頃より目の前に常に白雲たなびきて視力落ち、どうやらそこひらしく思われますものの、いうなれば年病い、他にはこれというて体に悪しき個所も見当たりませぬ故に、甘んじてこの成りゆきを受け入れるべく心得おります。
 その代わり、こしかたの記憶すこしずつ冴えて参り、いずれ私も冥界より和子姫さまお呼び下されるその日まで、胸にとどめおくことすべて打明け申上げたく、かくお運び頂ましてござります。
 ここは、和子姫のお眠り遊ばす御寺(みてら)の東山の麓、私の小さな庵にて、誰にお気兼ねも要りませぬ。
 お手をわずらわせますなれど、そこの灯心をいま少々お掻き立て下さりませぬか。かたじけのうござります。どうやらぼんやりと明(あこ)うなって参りました。私のそこひの目にても、虹の向うに和子姫のお立ち遊ばしておいでのご様子がはっきりと拝まれます。お小さいころの振分髪にござります。
 何ゆえか、私の目裏(まなうら)に在わす和子姫はいつとてもお小さい折のお姿ばかり、それと申しますのも、私が初めて江戸城西のまるに上りましたのは慶長十九年、姫さまお八つの年、私十二の四月ついたちでござりました。 (「東福門院和子の涙」から)
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 このように始まるのが宮尾登美子の『東福門院和子の涙』、多くの作家が東福門院和子をヒロインとして描いている。江戸時代初期、幕府と朝廷の力関係の中で政略結婚させられた和子、その数奇な生涯は作家にとって取り上げてみたい女性ではあったろう。 江戸時代の女性としては、皇女和宮とならぶヒロインと言って良い。幕府と朝廷、この力関係の中で、それでも誠実に一生懸命生きた女性、作家が取り上げたくなる二人の女性だ。
 ところでそれは文学での話。経済学では少し違った面から興味を引く存在だった。それは和子の「涙の代償」だ。 悲劇のヒロインであった和子、金に不自由はしなかった。そして買いまくった衣装の数々。 こうして、これから見ていくように「権力闘争から派生した子供である奢侈は、資本主義を生み落とした」と言うのがこのシリーズ最初のテーマだ。 「大江戸経済学 趣味と贅沢と市場経済」の第1回目の登場人物にふさわしい存在だと思う。そこで、当時の状況から話を始めることにしよう。
<いろいろトラブルはあったが、徳川家は天皇家の外戚になる> 戦国時代を生き抜くには先ず軍事力が物を言った。それは天下を取るまでのこと。天下を取って政権を安定させるには、軍事力とは別の権威が必要だった。秀吉が「関白」という位に喜んだのも、家柄で誇ることの出来ない秀吉にとって政権維持のためになる大きな権威だったからだ。 家康の場合は「征夷大将軍」という、武士としては最高の位に就いたがそれで満足はしなかった。長期安定政権のために天皇の権威を利用したかった。天皇家の外戚になること。これを望んだ家康は、二代将軍徳川秀忠の八女、和子(まさこ)を後水尾天皇の妃として入内させようと考えた。 男子を生んで、その子が天皇になれば、徳川家の朝廷側に対しても発言力が増す。しかし朝廷側としては徳川幕府の支配力の増大を恐れてことあるごとに抵抗した。それに対して幕府は力ずくで考えを押し通そうとした。ここに幕府と朝廷側との間でいつくかの摩擦が起きた。
{幕府の承認を得ずには内大臣にはなれない}
勧修寺(かじゅうじ)大納言兼勝が、徳川幕府の承認を受けずに内大臣に任じられた。徳川幕府は「禁中並公家諸法度」を出し、公家の官位は家々の旧例を基礎とし、それに本人の器用如何を勘案し、幕府の諒解を得たうえで昇進させるようにと決めている。 しかし名族ではあるが摂家・清華につらなるほどの家柄でもなく、また大臣に任じられた先例も絶えてなかった勧修寺の者を、幕府の了解なしに朝廷の一存で内大臣に任命するのはけしからぬ、とクレームをつけた。
{後水尾天皇が子供を産ます}
後水尾天皇が藪左中条詞良の妹於四ノ局の子供を産ませ、これが和子の父秀忠を怒らした。宮廷の常識としては特別問題はなかった。江戸時代では正妻の他に妾を持つことは珍しくなかった。極端に言えば武家にしても公家にしても、身分を問わず「相手が誰でもいいから、男の子を産める者」を見つけて種付けをすることが社会的な合意として成立していた。 十一代将軍徳川家斉(在職期間は1787-1837,天明7年ー天保8年の50年間)の場合は正妻の他に何十人といった妾に50何人もの子を産ませている。 宮廷側としては和子の父秀忠が怒っていることに戸惑っていた。
{豊臣家の滅亡と家康の死}
入内の宣旨が正式に発せられた後、大阪冬の陣、大阪夏の陣があり臣秀頼とその母淀殿が自害し、豊臣氏は滅亡する。その1年後には家康が 駿府城で急死する。このように入内までに多くの出来事があったが、1620(元和 6)年6月18日に入内が決まる。
{入内時のトラブル@}
二条城でのお迎えには、関白九条忠栄、左大臣近衛信尋、内大臣一条兼遐(かねとう)、武家伝奏の広橋兼賢、三条西実條、その他主な公卿はほとんど頭を揃えた。これについては宮廷でちょっとした騒ぎがあった。 はじめ徳川側から申し入れがあったとき、女御入内に関白や左大臣が供につく前例がないと公家方が突っぱねたが、結局徳川側に押し切られた。
{入内時のトラブルA}
禁中に入ると中門でお供車の人たちは降りる。女御の車だけ進もうとすると、後宮の女官たちがたむろしていて馳せ寄り、車を止め会釈を求めた。これは女御入内の慣習で最初に女御を見るのが後宮の女官の特権であった。「われわれの仲間入りするなら、誰よりもまずご会釈を賜りたい」という一種の示威だった。 このとき物見の窓を和子が開けようとするより早く、藤堂高虎がとんできて、大声で怒鳴った「不埒者奴。何故に御車をさえぎるぞ」。宮廷の慣習を破る藤堂高虎の態度に対する反発はその後も長く残った。
{紫衣事件}
最高の僧衣である紫衣は武家伝奏をとおして願いでたものを勅許するという形で許される規定であるのに、伝奏の儀もなく朝廷側が勝手に勅許したものが数多くあるのはけしからぬとして、幕府がその取り消しを求めたために起こった騒動だった。 この件では大徳寺、妙心寺の長老たちが15人紫衣をはぎとられ、これに講義を申し立てた大徳寺派の沢庵宗彭、玉室宗柏、妙法寺の東源慧等、単伝士印らは咎められ遠隔地に流刑になった。
{興子内親王が明正天皇として即位}
朝廷側では豊臣家に親近感を持ち、徳川家には反感を持つ者も多かった。また平清盛の娘徳子以来の武家からの入内には天皇をはじめ朝廷側では抵抗した。 多くのトラブルが発生しながらも幕府側の「天皇家の外戚になる」目論みは、興子内親王が明正天皇として即位したことによって達成された。
 因みに平清盛の娘(建礼門院)の場合は、高倉天皇の中宮として入内させ、やがて徳子は安徳天皇をもうけた。これにより清盛は天皇家の外戚となったと、狂喜している。 なおその安徳天皇は1185(文治元)年、祖母の平時子に抱かれて壇ノ浦で入水。このとき三種の神器のうち宝剣が海中に没した。
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<東福門院の入内> 徳川和子の入内について戦前に書かれた文献から一部引用してみよう。と言っても現代と違った見方をしている訳ではないが、視野狭窄にならないために読むのも良いだろうと思う。
 家康が秀忠の女和子の入内を望んだのは藤原氏が競ってその女を入内せしめたのや、彼が盛に大名と婚姻を結んだのとは、頗趣を異にして居る。即藤原氏の如くこれによって政権を支持せんとする必要も感じて居なければ、大名の如く、懐柔策とのみは断ぜられない。 固よりこれによって徳川氏の栄誉を増し、又朝廷懐柔策の機会を造ることも一部の理由ではあったろうが、主とする所は形を公武融和に仮りて、その勢力を内廷にまで及ぼす手段であった。
 武士の女の入内は建禮門院以外にないことであり、これさへ清盛が後白河法皇の猶子として入内せしめたのであるから、先例故格を主とする朝廷では悦ばれなかったことは勿論だが、幕府の圧力と藤堂高虎の運動とによって、慶長十九年に女御入内の宣下となった。然るにその後大坂陣や、家康の死去によって延々になり、元和五年秀忠上洛の際に漸くその準備に当たらんとしたが、はしなくも主上に内寵があり、皇女まで降誕せられたことが判ったため、再び行悩となった。 秀忠はこれを不快として、近侍の奉仕宜しからず、「内裏にて傾城、白拍子其外當世流布女猿楽等被召寄、但夕遊覧酒宴」に耽ったのを名として、前大納言萬里小路光房、中納言中御門尚長、同四辻秀継、中将藪嗣良、同堀川康胤、同土御門泰重等を或は流罪に処し、或は出仕停止を命じ、入内も延引となった。この処分には主として傳奏廣橋兼勝が興ったと見え、土御門泰重の如きは、「一応理非の無穿鑿、被軽赦慮候事、天罰如何難計事也、廣橋内府兼勝は三百年以来之姦妄之殘臣也」と憤慨した。 天皇も秀忠の「無道」の擧の逆鱗あり、旦入内延引のことを宸襟を悩させられ、御落飾の赦慮を漏されるに至った。かくて九月五日御胞弟近衛信尋を通じて、入内の事に當って居た藤堂高虎にこれを傳へられた。 (「江戸時代史 上巻」から)
略年表
西暦 年月日 出来事
1600 慶長 5. 9.15 関ヶ原合戦
1603 慶長 8. 3.24 徳川家康が征夷大将軍となり、幕府を開く
1605 慶長10. 4.16 家康、将軍職を秀忠に譲る
1607 慶長12.10. 4 和子、2代将軍徳川秀忠の8女として生まれる
1613 慶長18. 3. 8 入内の宣旨が正式に発せられる
1614 慶長19.11.15 大阪冬の陣 20万の徳川軍が大坂城攻撃に出陣
1615 元和元. 5. 8 大坂夏の陣 豊臣秀頼とその母淀殿が自害し、豊臣氏は滅亡する
1616 元和 2. 4.17 徳川家康が駿府城で没 75歳
1620 元和 6. 6.18 後水尾天皇の妃として入内 和子12歳 後水尾天皇23歳
1623 元和 9.11.19 17歳で興子内親王(明正天皇)を出産
1623 元和 9. 7.27 徳川家光が将軍となる
1629 寛永 6. 7.25 紫衣事件 大徳寺の沢庵宗彭(そうほう)らは流刑に、沢庵は出羽の上ノ山(山形県上山市)へ流される。
1629 寛永 6.11. 8 後水尾天皇退位し、興子内親王が明正天皇として即位。和子は女院御所にうつり、東福門院とあらためた
1635 寛永12. 5.28 日本人の海外渡航と帰国を禁止、外国船の入港地を長崎1港に限定
1637 寛永14.10.25 島原の乱起こる
1643 寛永20.10.21 明正天皇、後光明天皇に譲位
1657 明暦 3. 7.22 江戸明暦の大火 振袖火事とも言う 死者10万人
1658 万治元 尾形光琳生まれる
1678 延宝 6. 6.15 東福門院和子崩御 享年72歳

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<東福門院和子の衣装への執念> 徳川家が朝廷と外戚関係になるために利用された和子、1629(寛永12)年に興子内親王が明正天皇として即位したことによってその役目を完了した。 20歳そこそこで政治的使命を完了した和子は、「雁金屋」(かりがねや)という京都の呉服商を通して多くの衣装を買い求めたり、1659年に完成した修学院離宮を舞台に文化サークルを開いたり、後の元禄文化への先駆けを作った。 特にその「衣装狂い」はすさまじいもので、その日本経済に及ぼした影響は大きい。このためアマチュアエコノミストが「江戸時代、趣味と贅沢が市場経済を発展させた」と主張する材料の一つになっている。
 京都の呉服商「雁金屋」には2人の息子がいて、兄の尾形光琳と弟の乾山は修学院離宮を舞台に開かれた文化サークルに参加し、その仕事は後の絵画・陶芸に大きな影響を与えた。
<精一杯生きた和子の崩御>
江戸時代幕府と朝廷との力関係のなかで政略結婚させられた2人の女性、和子と皇女和宮、2人ともに精一杯生きた。 東福門院和子の場合は結局幕府の朝廷支配に利用されたのだが、その状況で和子は精一杯生きた。当初後水尾天皇をはじめ朝廷側では強く抵抗していた和子の入内、しかし和子の人柄のせいか、あるいは誠意が朝廷側の人びとの心を動かしたのか、次第に和子への抵抗は減っている。 和子は幕府の財力を利用し、修学院離宮を舞台に文化サークルを開き、これが後の元禄文化へと発展していった。そして「衣装狂い」と言われるほど雁金屋から絹織物を買い込み、それが江戸時代の絹産業発展を刺激し、さらに民間人の伊達くらべをも誘発した。 こうした和子は特にその最期も印象的なので、一部小説から引用することにしよう。
*                     *                      *
 東福門院和子ご最後は、まことにご立派で、崇高なまでに神々しいみまかりぶりであった。
 意識の混濁はみられず、遺志をしっかりと述べられての御臨終を迎えられるのである。
 この日の昼過ぎ、苦しい息の下から、
 「お見舞い忝うござりますが、今より心静かに臨終の時を迎えたく、大変恐縮ながら、尼公にのみ此処にお残りいただき、他はご遠慮願わしゅう存じます」 と仰せ下された。御臨終を看取るべくお詰めの皇子皇女がたも、すべて別室に退かせて、女院は文智尼公と文梅尼だけを枕頭に残された。
 女院御所の誰れ一人も、想像だにしかなかったこの場面に息をのんだ。
 女院と尼公の宿命のお二人が、晩年に心を寄せ合い、親しく往来するのを、周囲は感嘆と好奇の目でずっと見守って居た。しかし女院の実子である内親王方が在しますのに、常識的には最も難しい立場の、つまり継子(ままっこ)の文智尼公に立ち会って死を迎えたいと願われた女院のお言葉が、人々には意外であったのだ。
 この時、修学院でお二人が顔を合わせてから三十三年もの歳月が流れており、その間の女院の仏道への傾斜も含めて、このお二人の精神的レベルの高さは、凡人には計り知れないほどの域に達しておられた。
 和子は生来おっとりと、しかも恬淡とした性格であり、梅宮こと文智尼公に対しても、純粋に真正面から現実を直視あそばれた。詰まらぬ他人の噂や目には一切気にせず、本質だけを見据えて取り上げ、生きてこられた。
 最晩年の寝て過ごされた時間も、死の為の準備期間として無駄にしなかったからこそ、あの大往生は為しとげられたのである。
 透き通って水鏡のような魂になられた女院は、髪こそ下ろさないが、その死の迎え方は高僧の如くであられた。
 [観音経]を、読誦する尼公と文梅尼の声だけが、息を詰めた女院御所の中を流れていた。それは東福門院が死に臨み、西方浄土の御来迎を頼み参らす、心に沁みこむような読経であった。
 静かに読誦が続いていた。合掌して心の中で読誦に加わる御身内の皇族方。
 やがてこの普門品読誦に、弱々しいながらお声が加わった。東福門院御自ら、最後の力をふり絞ってお二人の尼僧の経に、ご唱和あそばれたのである。
 東福門院、文智尼公、文海尼が心を一つにしての読経に、誰もが感動をし、涙した。
 と、不意に女院のお声が途絶えた。時に女院七十二歳。
 怨讐を超え、至高な愛に帰結させたこの場面は、劇的な、と申しても過言でないのに、実際には澄み切った、余りにも静かなあの世への旅立ちであった。
 延宝六年六月十五日 東福門院和子 崩御 享年七十二歳。 (「養源院の華 東福門院和子」から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
小説 東福門院和子の涙                      宮尾登美子 講談社       1993. 4.13 
小説 東福門院和子                        徳永真一郎 光文社文庫     1993. 4.20 
養源院の華 東福門院和子                  柿花仄(ほのか) 木耳社       1997. 9.20 
歴史ロマン 火宅往来──日本史のなかの女たち            澤田ふじ子 廣済堂出版     1990
小説 江戸の花女御 東福門院和子                  近藤富枝 毎日新聞社     2000. 1.15
花の行方 後水尾天皇の時代                    北小路功光 駸々堂出版     1973. 4.15
近世の女たち                             松村洋 東方出版      1989. 6.15
人物日本の女性史 8 徳川家の夫人たち               円地文子 創美社       1977.10.25
新・歴史をさわがした女たち                     永井路子 文芸春秋社     1986.11.15
修学院と桂離宮 後水尾天皇の生涯 歴史と文学の旅         北小路功光 平凡社       1983. 6.15
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25 
江戸時代史 上巻 1927(昭和2)年の復刻版           栗田元次 近藤出版社     1976.11.20 
( 2004年12月27日 TANAKA1942b )
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(3)涙が絹になって尾形光琳・乾山
商売破綻から創作活動へ

<「雁金屋」への莫大な注文> 東福門院和子は後水尾天皇退位の1629(寛永6)年11月、23歳の若さで事実上の後家・隠居の立場にまつりあげられ、夫からも生家からも見捨てられたこの不幸な女性は、それから死ぬまでの50年間にもわたる長い年月をなにを生き甲斐に暮らしていたのであろうか。 それは一言でいえば”衣装狂い”狂気のような着物の新調にあけくれた一生であった。東福門院和子は1678(延宝6)年6月20日に死亡するが(72歳)、この死亡する年の半年間にでも山根有三氏の計算によれば御用呉服師「雁金屋(かりがねや)」に、
  御地綸子御染縫         31反
  御地りうもんノ綸子御染縫    49反
  御地ちりめん御染縫        7反
  振袖御地りうもんノ綸子御染縫   2反
  御遣物りうもんノ綸子御染縫   10反
  御帷子御染縫          96反
をはじめとして都合340点もの衣装を注文している。そのどれも、「御地上々りうもんノりんす」「御地上々りんす」「御地上々類なし」「御地上々ちりめん」といった極上上の地のものだけである。 そしてその総代価は銀になおして150貫目におよんだとのことである(山根有三「尾形光琳について」)。いまこれを銀50匁を金1両、金1両を今日の通貨5万円として試算してみると1億5千万円という額になる。これが72歳の老婆が半年間に雁金屋という御用呉服店につくらせた衣装だからただただ驚くほかはない。 それはまさに”狂気”としか言いようがない。雁金屋のこの帳簿をみつめていると、寒気のなかに荒廃しつくした彼女の心象風景が瞼に浮かび、私はそこに鬼気といったものさえ感ずるのである。
 ちなみに彼女が入内して3年目の元和九年(1623)1年間に雁金屋につくらせた衣装は小袖45点、染物14反で金額にして都合銀7貫868匁(前記のような計算をすると787万円)であるので、彼女の”衣装狂い”は後水尾天皇退位以降、年とともにはげしくなったとすべきであろう。 (「江戸時代」から)
<「雁金屋」の大福帳>
このシリーズ「趣味と贅沢と市場経済」を思い立ったきっかけはこの”衣装狂い”だった。この”衣装狂い”のため貿易赤字が積み重なり、新井白石が指摘したように金・銀が流出し、その後これを改善しようとして絹産業が育っていった。こうしたことから「趣味と贅沢が江戸時代の市場経済を育てた」との発想になった。
 上記、「雁金屋」への莫大な注文のこと、山根有三「光琳関係資料とその研究」からいくつか興味を引く部分を引用してみよう。
雁金屋女御和子(徳川和子)御用呉服書上帳  一冊
(表紙)
┌─────────────────┐
│(印)         (印)  │
│ 元和九年いのとしノ分      │  
│ 女御様めしの御ふく     │    
│ 同 御つかいこそて上申候帳   │ 
│          かりかねや  │
└─────────────────┘
(T注 現物は縦書き、縦長 31.6X23.5 )

一 御ねり嶋小袖       五つ
   壱つニ付九拾五匁つゝ
    代銀四百七十五匁

一 御綾嶋小袖        弐つ 
   壱つニ付八拾七匁五分つゝ
    同百七十五匁

一 御かわり物小袖      三つ
   壱つニ付九十七匁つゝ
    同弐百九拾壱匁

雁金屋東福門院御用呉服書上帳  一冊
(表紙)
┌──────────────┐
│(印)        (印)│
│   延宝六年     留 │
│女院御所様御用       │
│御呉服諸色調上申代付之御帳 │
│          雁金屋 │
│午戊正月〜同九月迄     │
│           宗謙 │
└──────────────┘
(T注 現物は縦書き、縦長 29.2X21.3 ほぼA4の大きさ)

女院御所様御めし(召)
 二月廿七日
一銀五百目  御地上々りうもん(竜紋)ノりんす(綸子)  壱端
     御染縫
御ゑやうハ御ち白左の御袖下より右の御袖下迄波嶋とり」
御かたの方二嶋にいたしひしかのこ(菱鹿子)あかへにかのこ波の下
左の」御身より右の御わき迄滝をなかし嶋とり右の方滝
二通り」はゝ(幅)五寸の水筋五つふより二つふ迄の打ちきゝや(桔梗)
うかのこあいあい」同程つゝきゝやう滝のあいあいあさき
しほり但右の御身御わきより」左の御わきへ立波段々に┐
たゝせあかへにかのこひ(鶸)はかのこ波の内より左より左の」御す
そへ水筋にて嶋取右の方水筋あいあさきしほり(浅葱絞)御上もん
に」二寸七分つゝのきく色々にかさねかけつゝけ金糸へ
たぬい」御まへも同やうすきく(菊)九十一
 1678(延宝6)年の半年間に受けた注文、雁金屋の大福帳には次のように書かれている。
雁金屋宗謙東福門院御用書上
    右御帳壱冊之寄
一 御地綸子御染縫        参拾壱端 但紅裏
一 御地りうもんノ綸子御染縫   四拾九端 但紅裏
一 御地ちりめん御染縫        七端 但紅裏
一 御帷子御染縫         九拾六端 
一 振袖御地りうもんノ綸子御染縫   弐端 但紅裏
一 御遣物地りうもんノ綸子御染縫   拾端 但紅裏
    以上
 (上記雁金屋の資料は『光琳関係資料とその研究』からの引用)
[徳川秀忠大奥関係]
『光琳関係資料とその研究』には徳川秀忠大奥関係のものが多く記載されている。「慶長十七年十月廿七日 徳川秀忠大奥老女刑部呉服支払書」から 「元和五年八月十二日 徳川秀忠大奥局支払書」など、元和九年十二月廿日までのものが記載されている。当時の高級呉服を知るのに貴重な資料になるように思われる。
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<雁金屋のぼんぼん、尾形光琳と乾山> 東福門院和子は雁金屋から衣装を買い求めていた。その雁金屋に2人の息子、次男尾形光琳と三男乾山がいた。光琳と乾山の仕事は日本美術史に残るすばらしいものだ。そこで和子と光琳・乾山のことに少し触れておくことにしよう。
 光琳は、万治元年(1658)に、京都の裕福な呉服商の雁金屋、尾形宗謙の次男として生まれた。はじめ市之丞といい、34歳(元禄4年)ごろから光琳と改めた。5歳下の三男権平が陶器と画に名をあげたのちの深省、すなわち乾山である。
 尾形はもと緒方で、本国は豊後、『平家物語』や『源平盛衰記』に出てくる無精の緒方三郎惟義がその遠祖だという。しかしそれ以後、戦国時代末の伊春までのことは不詳なので、尾形家家系図も伊春を元祖としている。ただ光琳や乾山がそれぞれ惟富、惟充と名付けられたのは、遠祖惟義のあやかったためで、かれらも父からその由来を聞かされていたことだろう。
 二代目道柏のとき雁金屋と号し、三代目宗柏(光琳・乾山の祖父)の代に雁金屋は名実ともに非常な発展をなした。
 一般にそのころは平和が到来して華麗な呉服の需要が急激に高まり、いわゆる桃山染織の花が咲いた時代であるが、雁金屋は、慶長年間は淀君、元和年間は秀忠夫人を最大の顧客として、その一族子女の高給呉服を作ったから尚更であった。宗柏は早くからこの道に入った上に、刀剣のめきき・とぎ・ぬぐいを職とした本阿弥家の血統をうけているから、染織家としても大きな役割を果たしろう。 現在桃山小袖のうちには宗柏の関係したものも含まれているかもしれない。それはともかく、宗柏によって雁金屋の基礎は固まり、財産もおのずから豊かになった。ただ、雁金屋と幕府の関係は秀忠夫人を通じたもpので、茶屋・後藤・亀屋などのような表向きの幕府呉服師ではなかったから、それらの諸家のように、巨富を積んだり、貿易に乗り出すほどではなかった。「謙遜家」と伝えられる宗柏の性格もそれには適しなかった。 その代り、秀忠夫人の信用は厚く、その娘和子が後水尾天皇の女御(東福門院)になると、その呉服御用を命ぜられ、秀忠夫人死後(寛永3年)はもっぱら東福門院御用達となったのである。
 宗柏は母方の叔父光悦が鷹峰のいわゆる光悦町を営んだとき(1615年)、これに加わって間口二十間の居を構えた(この家は宗柏の息子宗謙から乾山に譲られた)。宗柏は、学問を好み、茶の湯を愛し、書を能くしたと伝えられるが、親しく接した光悦から大きな影響を受けたことと思われる。
 また宗柏は、光悦と姻戚であったという節のある俵屋宗達(したがって尾形家とも遠い姻戚)、そうでなくても光悦と深い芸術的関係にあった宗達を知っていたはずである。宗達が、元和七年に秀忠夫人の再建した養源院(浅井長政のための寺)に障壁画を描くにいたったのには、秀忠夫人─宗柏─光悦─宗達という線さえ想像される。なお、もし宗達が織屋俵屋の一族とすれば、染織を業とする宗柏との関係はさらに早く、また密なものがあったろう。 のちに光琳と乾山が光悦や宗達から大きな影響をうける素地は、この祖父宗柏のときに作られたと言える。
 宗柏の息子宗謙は書画のほか能を深く愛し、3人の子供たちにも早くから教えた。その感化で光琳はすでに15歳のとき、「花伝抄」や「装束付百二十番」を筆写し、19歳のときには渋谷七郎右衛門から「諸能仕様覚書」を伝授された。宗謙はよく能の会を開いて、藤三郎や光琳とともに舞ったが、光琳はそのころの能や仕舞の華やかなうちに静かさの漂う雰囲気や、その洗練された美しい形に魅せられたようである。能はかれの生涯の楽しみとなり、またそれによってかれは公卿との交わりを結んだのであった。
 宗謙の雁金屋は母の力で東福門院を顧客とすることができ、寛文から延宝年間にかけて、非常に栄えた。延宝六年(1678)の正月から九月の間に女院関係だけでも、各種の染縫二百反ほど、その合計九十四貫五百八十一匁となっている。しかしこれが絶頂で、この年、東福門院が死ぬと、女院との特殊関係に頼っていただけに、注文もにわかに衰えたようである(特権承認の衰退期にもあたっていた)。宗謙はそのころから貯えた富をもとに金融業の方へも手をのばしたが、老年に達したことと共に、なにか焦りが見えはじめ、長男藤三郎を勘当したりした。
 しかし光琳・乾山がともに商売に向かないのは確かだし、光琳などもとりなしたので、結局勘当を許して家督を藤三郎に譲った。そして、光琳と乾山には、二軒の大きな屋敷と、諸道具や買いためた反物や大名方への資金などを、丁度同じだけ与えた。藤三郎に家業を与えたかわりに光琳・乾山には貸金の手形すべてを譲ったらしい。宗謙は貞享四年(1687)に死んだが、そのとき、光琳は30歳、乾山25歳であった。光琳の母は木下宮内少輔利房の家来である佐野笑悦の娘としか分からない。 (「山根有三著作集3 光琳研究1」から)
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<光琳のその後> 和子なき後、雁金屋は長男の籐三郎が継いだがうまくゆかず、光琳は生活費のために絵を描き始める。しかし贅沢な生活は急には変えられず苦しい生活を強いられる。さらに女性関係で問題を起こしたり、京を離れて江戸へ出たり、又京に戻ったりと、生活は安定しなかった。
 光琳画で制作年代の明らかなのは元禄17年の中村内蔵助像1点しかない。 これは、昭和12年(1937)秋に発見されたとき、尾形光琳の唯一の肖像画「藤原信盈(のぶみつ)像」として話題を呼び、やがて像主信盈が絵師光琳のパトロンともいうべき中村内蔵助とわかり、いっそう有名になった作品である。黒の小袖・黒地に白の山字文様の上下(かみしも)・ひざもとに梅と波を描く扇、すずやかな目元・ひざにおくやわらかな手など、能役者を思わせる内蔵助は、いかにも雅びな京の優男(やさおとこ)である。 (「千年の息吹き 京の歴史群像 赤井達郎著中村内蔵助」から)
 その中村内蔵助とは親しいつきあいをしていくのだが、とくに伊達くらべの話はよく知られている。それは、京の東山で富豪の妻子が参会する催しがあったとき、内蔵助の妻は光琳の趣向で、他の女達の華麗な色模様の中へ白無垢を重ねた上に黒羽二重の無地という衣装で出かけ、大評判を得たといわれる。この内蔵助の過奢として有名な逸話「東山の衣装競べ」は、いつ行われたのか。山根有三は次のように書いている。
  「華麗な色彩に交わったときの白と黒の美的効果を狙った」のは、光琳の画風から見ると、元禄十四、十五年ごろの華麗な「燕子花図屏風」よりも、 正徳二、三年ごろの金地墨画の「竹梅図屏風」や「光琳乾山合作松波図蓋物」を想起させる。内蔵助は正徳二年九月から同三年三月まで江戸詰であるから、それ以後の京都在任期のうち、正徳三年と考えられる。もし「東山の衣装競べ」の時期がこのように正徳三年中と認めてよいのなら、その過奢の噂はすぐに江戸にまで伝わり、同四年五月の内蔵助追放の理由の「過奢」として取り上げられたかも知れない。もとより内蔵助の過奢はこの他にも数多くあったのだろう。なお、「東山の衣装競べ」には、光琳による白と黒の美的効果以外に、内蔵助による銀座の同僚(夫人たちも衣装競べに参加した筈)や世俗への皮肉が籠められているように想われてならない。 またそこには「宝永後期の改鋳」に対して、消極的は反応しかしなかった自分への自嘲も入っているかも知れないのだ。とにかく「東山の衣装競べ」は、光琳と内蔵助の合作であり、傑作なのである。 (「山根有三著作集3 光琳研究1」から)
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<京の着倒れ> 衣装くらべに関しては改めて取り上げるとして、とりあえず次の文章をここでは引用しておこう。
 着物に対する関心の強さは、たとえば井原西鶴の『好色五人女』に「都人、袖をつらね、東山の桜は捨てものなし、行くもかへるも是や此、関越えて見しに大かたは今風の女出立、でれかひとり後世わきまへて参詣(まいり)けるとは見へざりき、皆衣裳くらべの姿自慢比心ざし、観音様もおかしかるべし」(巻三の三)。又、絵島基磧の『傾城禁短気(けいせいきんたんき)』に「吉田院方(揚屋吉田屋喜右衛門)には五五三の高盛、嶋台の松に小判の花咲、衣桁に十二の小袖を掛け、衣着、蒲団錦の山を重ね、一つ家の女郎十一人、衣裳比べの花を競ひ」(五の巻第一)。 又、『武野燭談(ぶやしょくだん)』には、江戸の石川六兵衛と京都の難波屋十右衛門の両妻女のことが書かれ、難波屋の女房は緋綸子に洛中の図を縫あわせた立派なものを着て歩いたが、石川の女房は黒羽二重に立木の南天の小袖を着ただけであったので、見合わせるまでもなく京方がよいと言ったが、よく見ると南天の実は珊瑚珠を砕いてひしと縫いつけさせていたので、これは難波屋の負けと人々が言いあったことが記されている。 『翁草』には、京都の町人銀座年寄の中村内蔵助の妻が衣裳比べにあたり、光琳の意見に従ったことが記されている。即ち、他の妻女方は唐織りや綾羅錦繍をまとい、又数度の着替えも結構を尽くしたものであったが、内蔵助の妻は、その侍女には他の妻と同じような衣裳を着せ、自らは黒羽二重の表着に下は白無垢を幾重にも着重ねただけであった。しかも数度の着替えも全く同じ姿で出て来たので、これが抜群であったと世に沙汰されたという。京都の着物に対する好みを示唆するものであった。現在、京都の有名な祭りである十月二十二日の平安神宮の時代祭りの近世婦人列に、中村内蔵助の妻としてこの姿が執り入れられているのも、京都の立場における「衣」に対する認識と言える。 (「歴史の花かご 井筒雅風著京の着倒れ」から)
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<度重なる幕府の「贅沢は敵だ」のお触れ> 朝廷での東福門院和子の衣装狂いは民間にも広まっていった。それが衣装くらべであり、町人の衣装贅沢は留まるところを知らぬほどであった。それに対して幕府は明暦の大火(1657明暦3)年後の、1663(寛文3)年10月にお触れを出す。
一 女院御所姫宮上之服、一おもてにつき白銀五百目より高直に仕間舗候
一 御台様上之御服、一おもてにつき白銀四百目より高直に仕へべからず
一 御本丸女中之小袖、一おもてにつき三百目より高直にいたすまじく候、それより下之衣類ハ品により弥下直ニ仕へき事右之通、京都、江戸呉服師之輩共にかたく申付候云々 (「図解人物日本の女性史7 江戸期女性の美と芸」から)
 このような通達が以後何度も出るが、町人の「贅沢は素敵だ」の気持ちは変えられない。そしてこうした趣味と贅沢によって江戸時代の市場経済は進化していったのだった。
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<主な参考文献・引用文献>
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25 
小西家旧蔵 光琳関係資料とその研究                 山根有三 中央公論美術出版  1962. 3.31
山根有三著作集3 光琳研究1                    山根有三 中央公論美術出版  1995. 5. 1 
千年の息吹き 京の歴史群像               上田正昭・村井康彦編 京都新聞社     1994.11      
歴史の花かご 上 人と文化                吉川弘文館編集部編 吉川弘文館     1998.10. 1
図解人物日本の女性史7 江戸期女性の美と芸             相賀徹夫 小学館       1980. 4.10
( 2005年1月3日 TANAKA1942b )
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(4)衣装狂いによる貿易赤字
糸割符貿易の仕組み

<絹・絹織物が主要輸入品目> 江戸時代初期の貿易では絹・絹織物が主要な輸入品目であった。東福門院和子は絹・絹織物消費者の象徴として取り上げてみた。戦国時代が終わって世の中が平和になり、金・銀の産出量が伸び、人びとが豊かになり始めると、先に豊かになれる者がどんどん豊かになり、贅沢品を購入し始める。 その贅沢品が絹・絹織物であった。当時の貿易は「糸割符」との言葉で象徴されるように、絹・絹織物を輸入することが主要な貿易目標であった。 そこで、江戸時代初期の貿易、つまり「糸割符」について調べてみることにしよう。
<家康の決断、白糸割符>  17世紀の初頭、1隻のポルトガル船が長崎に入港してきた。このころの長崎には主に明の船が入港していたし、南蛮船の入港は、松浦郡の平戸ということになっていた。 このポルトガル船には大量の中国生糸が積んであったが、1年以上たってもまだ買い手がつかず、船は長崎に停泊したままであった。  『糸乱記』ではその様子を、「サレドモ金銀イマイゴトク沢山ナラネバ、積来ル白糸買手ナク、両年マデコソ逗留シテ、此船ノ紅毛、一庵老ヘ御願ヒ申セシコソトワリナレ……」と述べている。
 たしかに、打ち続いた戦いで国内は疲弊し、金銀に不自由していたのであろう。この一庵老とは、家康の腹心で、長崎奉行として赴任してきていた小笠原為宗(一庵)である。なんとか生糸を買い取ってもらえないだろうかという、ポルトガル人の要請を受けて、為宗は伏見に上がり、家康に申し出ている。
 家康は堺の10人の豪商を呼び、この白糸を買い取るよう指示した。もし売れずにこのままポルトガル船が帰ることにでもなれば、もう二度とわが国へ生糸を運ぶことはあるまい……、このように考えた家康の、機敏な対応であった。10人の商人は長崎へ下り、白糸を全部引き取ったのであるが、このとき長崎に来ていた京都の豪商一人と、長崎の町年寄一人も、この取引に加わっていた。
 その翌年にも多量の生糸が船で運ばれてきた。これを機会にこれらの商人は、一手売買の権利をお与えくださいと願い出た。家康はこの願いを受け入れ、かれらには次のような奉書を授けた。
  黒船着岸之時、定置年寄共、糸ノ直イタサヽル以前ニ、諸国商人長崎ヘ入ルベカラズ候、糸ノ直相定候上ハ、万望次第商売致ス可者也
     慶長九年五月三日  本多上野介
               板倉伊賀守
 これによって、いわゆる糸割符(白糸割符)法が制定されたわけである(1604)。これにより後は、ポルトガル船が運ぶ生糸の価格と一括購入の特権は京都・堺・長崎の商人(つまり定め置いた年寄りども)に限られることになったし、かれらの交渉が終わらなければ、諸国の商人はポルトガル側との商売が許可されなかった。
  白糸一二○丸……堺
  白糸一○○丸……京
  白糸一○○丸……長崎
 一丸は五○斤であったが、荷の多少にかかわらず、按分はこの数量の一二○・一○○・一○○の割合で行われた。
 糸割符の法とは、政策的には幕府の輸入管理であったが、経済の面では、上質の生糸(白糸)を独占的に購入し販売できるシステムであった。輸入価格は、特定の年寄だけが交渉に参加して決められた。堺・京・長崎の糸割符年寄の下には、何人かの糸割符仲間が置かれていた。糸割符法の施行により、商人だけでなく幕府もまた、輸入からあがる利益を分かちあうことができた。 (「絹Tものと人間の文化史」から)
<パンカド=ホール・セール>  江戸時代の初期から中期にかけての長崎輸入品の大宗は、生糸であった。寛永十年前後には、一ヶ年およそ30万斤ないし40万斤ほどを、御朱印船・イスパニア船・唐船・蘭船などが舶載した。 生糸は、はじめは自由取引であったが、1604(慶長9)年、京、堺・長崎三都の有力商人が、糸座を結成し、ポルトガル船が舶載する生糸──当時、ポルトガル船は最も多く生糸を輸入していた──を一定価格ですべて買い取ることにさだまった。 ポルトガル人は、この取引をパンカドPancado と言った。平戸のイギリス商館長リチャド・コックス Richard Cocks はその日記で、「いわゆるパンカド、すなわちホール・セール Whole sale 」と言っている。「 Whole sale 」は、全部売却する意味であろう
 資金がどのように出資されていたかは明らかでない。糸座のメンバーだけが出資して買い取り、家康をはじめ後藤庄三郎(光次)のようなかれの側近の政商たちが、その一部を元値で先占的に買い上げることになっていたのか、それともはじめから、かれらも出資していたのか、どうかわからない。 それはともかく、慶長年代には、買い取った生糸は家康がまず手をつけ、側近の者へも配分して、残り糸を糸座に与えることにしていたらしい。配分方法には二段階があって、慶長9年の定めでは、堺のメンバーたちの優位が決められてあり、糸座に与えられる総糸量を、堺へ37.5%、京・長崎へそれぞれ31.25%の割で、まず配分することになっていた。 次に、堺・京・長崎への配分糸量が算出されると、それぞれのメンバーの間では、その糸量を前提として、座の役付きの者(糸割符年寄・糸請払役などがある。より多くの出資者であったろう)が最も多く配分を受け、無役の者(平割符人と言う。少額の出資者であったろう)が最も少なく配分を受けるという具合に、やはり一定の配分率が決められてあった。 このように、パンカドで買い取った生糸を、一定比率に従って配分するのを、糸を割符(わっぷ)すると言った。ゆえにパンカドと糸の割符とは同一ではない。けれども、パンカドを前提としない糸の割符はないから、一般には、パンカドから配分までを一貫して糸割符と理解している。 糸割符商人自身も同様であって、パンカドの場合を糸割符と言い、また糸の配分をも糸割符と呼んでいる。 (「長崎の唐人貿易」から)
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<糸割符仕法の概要>  糸割符仕法は、最初は、長崎におけるポルトガル船との貿易の方法として、慶長九年(1604)に始められた。堺、京都、長崎の三都市から富裕な町人が選ばれて、糸割符仲間と称される株仲間が結成された。これを三ヶ所糸割符仲間と呼んでいる。この株仲間は、ポルトガル船が長崎に持ち渡った種々の品物のうち、白糸と称された中国産の生絲を一括輸入し、これを国内市場へ売り出して得られる利益を得る権利を幕府から与えられていた。
 糸割符仲間の代表者を糸年寄あるいは糸割符年寄りと言い、堺。京都、長崎の各都市の町年寄がこの役を兼務した。ポルトガル船は、通常はマカオから各年六月頃から長崎に来航する。この頃に、各都市の糸年寄は長崎に来て、長崎奉行の指示に従って、ポルトガル船からの白糸の輸入を行う。
 まず、糸年寄は、長崎奉行の貿易開始の指示が出ると、夏から秋にかけて長崎に渡来したポルトガル船側と白糸の輸入価格を折衝し決定する。この行為を色糸値組(しらいとねぐみ)とかパンカドと言う。ここで決められた白糸の輸入価格は、その後、翌年の同時期に改定されるまで一年間適用された。
 そして、色糸の輸入価格が決定すると、色糸以外の品物の輸入が一般の商人に開放される。すなわち、糸割符仕法では、色糸値組によって、その輸入価格が決定されるまで、一般商人の長崎市内立ち入りが禁じられており、色糸の輸入価格が決定した後に、色糸以外の品物の輸入が、輸入承認とポルトガル商人との間の自由売買の方式で許可されたのである。 こちらの自由売買の方式を相対売買法と称している。
 輸入価格が決まった白糸は、糸年寄によって一括輸入され、家康から注文分を差し引いて、その残部を堺120、京都100、長崎100の比率で三都市へ配分される。この比例配分の方法を題糸配分(だいしはいぶん)と言う。三都市に配分された白糸は、各都市の糸割符仲間の構成員へその持ち株数に応じて分配される。そして、この白糸は市場へ出され売られていく。すなわち、白糸の輸入価格と市場への売却価格の差額が糸割符仲間の利益となる。 この利益銀を糸割符増銀(いとわっぷましがね)と言う。もっとも実際には、長崎で一括輸入された色糸は、糸割符仲間の構成員個々へは分配されずに、すぐ売却され、ここに生じた糸割符増銀が三ヶ所いと割符仲間へ所定の比率で配分され、各都市でその構成員へ個々の持ち株数に応じて配当金が支払われる仕組みであったろう。 (「長崎貿易」から)
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慶長3年(1650)唐船70艘の輸入品目、数量表
生糸
白 糸 108,120斤
広南絹糸 20,150斤
ボイル絹糸 5,810斤
絹縫糸 2,306斤
トンキン生糸 30,500斤
ふしいと 18,700斤
生糸計 185,586斤
織 物
りんず 79,608反
しやあや 27,826反
ちりめん 12,490反
北絹(黄絹) 655反
1,086反
9,517反
バー 493反
つむぎ 880反
びろうど 414反
どんす 296反
繻珍 66反
海黄 87反
金入りらしゃ 10斤
はぶたえ 11,017斤
さらさ 7,145斤
麻布 4,675斤
らしゃ 52斤
赤色らしゃ 1斤
織 物 計 156,318反
砂 糖   
白・黒砂糖 790,960斤
氷砂糖 6,150斤
砂糖計 797,110斤
皮 革   
鹿 皮 38,773枚
大鹿皮 9,700枚
牛の皮 4,390枚
ロホの皮 8,140枚
皮革計 61,003枚
薬 物   
土茯苓 138,750斤
こしょう 31,900斤
10,750斤
肉桂 1,050斤
その他 488斤
薬 物 計 182,853斤
その他   
明 礬 214,645斤
木 香 8,350斤
うるし 35,400斤
水銀 1,000斤
水牛の角 1,845斤
白色さんご 21コ
白色さんご樹 25束
枝さんご 3本
 この売高 銀15,299貫415匁余  (「長崎の唐人貿易」から)
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<絹はどの程度の贅沢品だったのか? 「江戸時代、絹は贅沢品であった」と言って、それに反論する人はいないだろう。しかし、どの程度贅沢だったのか?ピンとこないかも知れない。歴史問題を扱う場合、事実関係の把握も大切だけど、「当時の人はどのように感じていたか?」を考えることも大切だと思う。私たち21世紀に生きる人は「現代に比べて、不便だった、人権が無視されていた。江戸時代の人はかわいそうだった」と言うことができる。しかし江戸時代の人は21世紀を知らないし、考えもしなかったろう。 「村の古老から聞いていた室町、戦国時代に比べて、今は良い世の中だ。家族は夫婦子供と一緒に暮らせるし、食事は1日2食から3食になったし、木綿という温かい着物も着ることができるし、武士同士の天下取り戦に巻き込まれる心配はないし、良い世の中になったのものだ」と思ったに違いない。
 大切なことは、「当時の人はどのように感じていたか?」を理解することだ。21世紀の価値基準ではなく、江戸時代の価値基準を考えることだ。ということで、江戸時代の絹はどにような贅沢品だったのか?それを考えてみようと思う。そうしたことに参考になりそうな文章を引用してみた。
『絹の文化誌』から
 絹は衣服の材料として古い歴史をもっているとはいえ、これはあくまでも支配階級に属する人たちの衣服についての話である。わが国では、庶民の多くはからむし(苧麻=ちょま)のような麻の繊維で織った衣服を着ていた。麻は植物の茎や幹の皮を細く裂いたもので。その織物を「布」と言い、さらに粗いコウゾ(楮)やシナノキ(科の木)やフジ(藤)の木の皮で織ったものを「太布」と呼んでいた。
 日本の各地に「麻績=おみ」「麻植=おえ」「麻布=あさふ」のような、麻にちなんだ地名が沢山あることからも、麻の方が絹よりも庶民にとっては身近な衣服材料であったことがうかがわれる。わが国で、麻に代わって庶民の繊維となる木綿が普及するのは、江戸時代になってからで、柳田國男が有名な『木綿以前の事』の中で、この事情をいきいきと描いている。
 一方、上流階級の人たちの間では、古代から愛用されている。唐の国からの舶来品が、王侯貴族の手にわたり、平安時代になると、織り方染色も、かなり高度なのもが提供できるまでになっていた。『源氏物語』に登場する人物の服装をみると、豪華な十二単が目に浮かんでくる。しかし、この衣服の材料である絹糸、そして絹糸を吐く蚕を飼う農民たちは、絹物を着ることができなかったのである。
 昔は絹の糸や織物は米と同じように、租税として物納しなければならなかったため、農民は蚕を飼い、糸を繰り、機を織っても、自分では絹を着ることはできなかった。実はこんな時代がつい半世紀くらい前まで続いていたのである。
 享和三年(1803)に出版された上垣守國の『養蚕秘録』という書物の下巻に、
  粉色全無飢食加 豈知人世有栄華
  年年道我蚕辛苦 底事渾身着紵麻
という詩がのっている。作者はわかっていない。詩の内容は、「お化粧もしいないで、毎日毎日苦労して蚕を飼っても、なぜか身につけるのは、ごわごわした麻の衣服だ」というほどの意味である。紵は苧と同じで、からむしのことである。 (「絹の文化誌」から)
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<町人は東福門院和子を真似たがる>  天和三年(1683)正月には「女衣類の製作禁止品目」として、金紗、惣鹿子(そうかのこ)小袖などを禁制品に指定し、同じ年に「町人男女衣類之事」とか「町人の衣類は絹袖、木綿、麻のうち分に応じて選ぶこと」といった内容のお触れが矢つぎ早に出された。ところが数年後にはまた元の木阿弥になってしまう。そしてまた禁令、と江戸時代を通じてこの繰り返しであった。
 延享元年(1744)には「絹袖、木綿布の外は一切用いるべからず、もし着せしを見及ばば、めし捕べきと申付べし」というお触れが出ているが、実際に町人で召し捕らえられた者もいた。天保の改革期に着飾った花見の女たちが逮捕された時の落首に、
  かるき身へおもき御趣意の木綿ものうらまでも絹ものはなし
 というのがあった。軽い身分の者に重い禁令だが、木綿を着ていて、裏地にも絹は使われていない、といった意味であろう。財力のある商人などは、表地は木綿にし、裏地に絹を用いたのであり、そのために裏地のような見えないところに銭をかける粋な風俗が出てきたのである。
 絹と同じようにぜいたく品として、禁令の対象にされたものに、タバコがあるが、これに関連して、 
  きかぬもの煙草の法度銭法度玉のみこゑに玄沢の医者
 という落首が残っている。玄沢の医者というのは、藪医者のことである。この煙草や銭を絹にかえても同じである。
 結局のところ、為政者による奢侈禁令や過差の禁のお触れは、下級階級がぜいたくな衣服を着ることによって、上流階級を真似ることを禁止し、自分たちの地位を保ち続けることに狙いがあったのである。徳川家から後水尾天皇に入内した東福門院の衣装狂いは有名であるが、富を貯えた町人に、これを真似るな、と言っても無理なはなしである。 (「絹の文化誌」から)
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<主な参考文献・引用文献>
絹Tものと人間の文化史                       伊藤智夫 法政大学出版会   1992. 6. 1
長崎貿易 同成社江戸時代史叢書8                  太田勝也 同成社       2000.12.10 
長崎の唐人貿易                  山脇悌二郎 日本歴史学会編 吉川弘文館     1964. 4.15 
絹の文化誌                    篠原昭 嶋崎昭典 白倫編著 信濃毎日新聞社   1991. 8.25 
( 2005年1月10日 TANAKA1942b )
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(5)後水尾院・東福門院の文化サロン
寛永文化への貢献度

<女院は優しく賢い女性だった> このシリーズ、東福門院の「衣装狂い」ということから始めたのだが、東福門院に「衣装狂い」という表現はあまり適切ではないようだ。「彼女は優しく賢い女性で、決して狂ってはいなかった」多くの参考資料を読む内にそのように思い始めた。 徳川家康の政略のためたった14歳で武家の家から宮廷に入り、宮廷では多くの気苦労があったにも関わらず、優しく穏やかな和子は賢く生きた。周囲の人たちと愛し愛され、晩年になっても天皇と円満な生活をおくった。大石慎三郎が表現する「衣装狂い」は不適切のように思える。 そこで東福門院に関する文章を幾つか引用することにした。
<東福門院> 洛北の山荘を訪ねる後水尾院のあとには、必ずといってよいほど東福門院の姿があった。晩年の円満は二人の前半生を思えば、まことに希有なこととしか評せない。入内から後水尾院の譲位に至る朝幕の確執は、想像に絶する苦しみを東福門院にもたらしたであろうが、そうした困難をはねかえすだけの大きさが東福門院にはあった。それが武家の血というものであったのだろう。
 女御とよばれた入内当時から、東福門院のむずかしい立場を支えていたのは、もちろんその経済力である。化粧料一万石といわれる内容は必ずしも確認できないが、もしそれが事実なら、入内当時、禁裏御領全体とほとんど同額の公式的な収入(臨時の収入が実質的には大きかったろう)が女御御所にはあったことになる。東福門院のいささか派手な好みは、生来のものであったにしろ、こうした環境のなかで育てられた面もあったのであろう。
 東福門院のはで好みは京の評判であったという。女院歿後五十年ごろの見聞記にはこんな噂があった(中村氏筆記)。お虎という女性は遠山久太夫の妻で、夫と離別後、三万両を持って京に上がり、その生活は贅沢をきわめた。烏丸光広の妻は細川家の女で、この女性も豪勢であった。これに女院を加えて「三所ニテ、京中ノ小袖模様モナニモ、イロイロ仕リ候」という。つまりニューファッションの源がこの三人であったというのである。
 たしかに東福門院の衣装好きは、その注文書からもうかがわれる。当時京都有数の呉服商であった雁金屋尾形家の史料には女院からの注文書が残されている。 まず入内後4年目の元和九年(1623)をみると、和子自身の着用分と贈答用も含め、また仕立てられたものと生地とを合わせて62点、代金7貫864匁となっている。同じ年の徳川秀忠将軍大奥の江戸からの注文は総額36貫631匁で、東福門院はその約5分の1ということになる。これだけでは多いとも少ないとも言い難いが、東福門院の注文が62点と、相当あったことだけは確かである。
 『近世世事談』に、
 寛永のころ女院の御所にて好ませられ、おほくの絹を染めさせられ、宮女、官女、下つかたまでに賜る。この染、京田舎にはやりて御所染といふ。
とあり、東福門院の注文する染物が手本となって御所染なる流行が生まれたという。御所染の特徴はよくわからない。しかし東福門院の求めた小袖等の絵柄はやはり派手なものであった。東福門院が歿する延宝六年(1678)の注文帳がやはり雁金屋の史料にある。たとえばその第1頁をみると、
  女院御所様御めし
 二月二十七日
一、銀五百目、御地上々りうもんのりんす
       御染縫         壱端
とあって竜紋の下地に染と刺繍をほどこした贅沢な着物であった。その絵柄が次に記されている。 地は白で、左の袖下から右の袖下まで滝を流し、島をおいて右の方は滝を二筋、滝は幅五寸のうち水筋を五つから二つまでとして下に桔梗鹿子、滝の間は浅黄絞り、その他波や島をだんだんに立たせ赤紅鹿子を配し、二寸七分ずつの菊をいろいろに金糸で刺繍し、菊の数は全部で九十一。七十歳をこえた東福門院の着衣としてはかなり派手好みにちがいない。琳派の祖尾形光琳の生まれた雁金屋であるから、この紋様もたぶん琳派風のものだったのであろう。
 この延宝六年の注文帳は東福門院の死によって九月までしかないが、それでも総計すると二百点にのぼり、総額は94貫581匁である。60匁1石で計算すれば、約1580石。膨大な衣装量であったことがわかる。
 東福門院の派手さには反撥もあった反面、羨望の目で見られることも多かったであろう。公家社会よりもかえって禁中の外の世界で東福門院を受け入れる部分があったように思える。寺社に対して数多くの寄進を行い、かつての豊臣秀頼に匹敵するような寺院の創建、再興に力をかしたのも、禁中以外での東福門院の仕事であった。幕府政策の一環といえばそれまでだが、人々の東福門院の経済力に期待は大きかっただろう。 寛永三年(1626)の家光上洛は幕府の力を京都の庶民に強く印象づけるもので、幕府と東福門院のイメージが重なったとき、かえって東福門院は庶民のスターでさえあった。さきにも記した町方における御所染などの流行が、東福門院を機転にしていたというのも、その一つである。また寛永三年十一月十三日、東福門院に皇子が誕生すると、町の人々の祝いの踊りが洛中から中宮御所へとくり広げられた。
  千代も八千代もあおげやあおげや、小松の枝さしそへて、竹の末葉の末々までも
  めでたき御代には下戸もないものじゃ
  上戸おどりは面白や
 と歌声がつづいてという。東福門院は、むしろ庶民にこそ受け入れられていたのである。 (「御水尾院」から)
● 大石慎三郎の「江戸時代」では東福門院の衣装代は「総代価は銀になおして150貫目におよんだとのことである」と書いてあるが、「御水尾院」では「総額は94貫581匁である」とあり、 「小西家旧蔵 光琳関係資料とその研究」でも合銀九十四貫五百八拾壱匁 とあり、集計すると94貫581匁になる。
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<皇女品宮の日常生活>  後水尾院の生来の文学歌学への嗜好は、長い院生活間の勉強によって磨きをかけられ、心ある皇族公家郡を啓発して伝統文化の振興を巻き起こした。後水尾上皇(後に法皇)を囲む「寛永サロン」ともいうべきグループが古典文学、歌学、和漢連句、能筆(書と絵)、茶道、立花、楽、その他伝統芸術すべてにわたって意欲的に活躍したことはよく知られている。 後水尾院がその総指揮官としてこれらの活動に垂範した様子は熊倉功夫氏によって詳しく研究されている。品宮の日記の始まる寛文六年(1666)頃も院は文芸活動を続け、近衛家に御幸して『詠歌大概』や『新古今集』を講じて歌の詠み方などを基煕(もとひろ)や品宮に教えたり、朗詠の素読を教えたり(寛文六年六月五日、七日条)している。 例を引くと、
  法皇御幸。内府(基煕)、詠歌大概の詠み癖うかがはるる。その外新古今の歌などもうかがはるる。総じて歌の詠み様などの事仰せきかせらるる。准后の御方(皇姉清子内親王)、陽徳院殿、御喝食御所(妹大聖寺殿)なる。此御衆夕方御口(食事)相伴なり。……(寛文六年三月十二日条) (「皇女品宮の日常生活」2後水尾法皇 から)
東福門院
 品宮の日記に現れる女院は、後水尾院がそうであるように、晩年になってからの東福門院である。当然、長年にわたった徳川和子の京都での生活が、以前どのようであったかは品宮の記録からは知ることはできない。しかし穏やかでおおらかな人柄の東福門院が、周囲の人びとから愛されていたことは十分うかがい知れる。 何よりもよくわかるのは女院の周りの人びとに対する公平な心配りである。拝領品について豪放磊落であった後水尾院に比べ、女院は季節の肴や果物もたびたび下賜しているが、その女らしい優しさをもっともよく表すのは衣類の下賜品である。女院は毎年何度か美しい着物を皇室の男性や女性に送った。「女院よりいつもの如く小袖拝領す。いづれも美しき事どもにて眺めている」「美しき春の小袖一重拝領、内府も同じ」「とりどり美しきことどもなり」 というような言葉が毎年数度、暮れと初夏ばかりか他の季節にも現れるが、ある時など二日つづけて美しい小袖をたくさんもらってどれも美しいので、品宮は感嘆して眺めていった。女院はまた、華やかな伊達はものや「今様のお物好き」つまり流行のトップモードが好きだった。
  (前略)今朝女院より、此のごろ世間にはやる由仰せにて、更紗染めに縫い物好きにさせられ小袖たぶ。又鼻紙袋中へいろいろそろへさせられ美しく伊達異なる物どもたぶ。誠にかたじけなさとも嬉しさとも御心ざしのほど浅からず。喜びこの外はあらじととりどり眺むるばかりなり。(寛文十二年十二月二十二日条) 
 品宮は自分の着物を誂えたりしたことも、どんなものを来ているかということも一切日記に書いていないので、彼女の衣装に対する感覚も嗜好も全然わからないし、大体着物などに興味があったのかということさえわからない。自分の服装については無関心だったのか季節の衣替えのことさえ書いていない。東福門院から拝領した着物も芸術品を鑑賞するような見方をしているので、多分普段の服装は地味で保守的だったのだろう。 しかし拝領した美しい衣類には、自然の美しさにみとれるのと同じ感覚で素直に反応している。 
 東福門院は、明るい華やかな娯楽行事で人びとを悦ばせるのが好きだった。将軍家綱から贈られた風領(風鈴)二つ、時計の風鈴と音楽を奏でる風鈴を見せて珍しがらせたり、毎年盆に、女院御所の庭池に無数の灯籠を流したり蛍を放したり、ほうずき灯籠を庭中つりさげたりして人びとの目を楽しませた。東福門院の優美な趣味は今日でも女院御所の奥対面所(崩御後修学院の中御茶屋に移築)の有名な霞棚、その他中御茶屋客殿のしつらえによって見ることができる。
 また、女院は踊りや芸事の上手な若い女中や童女を大勢抱えていて、たびたび法皇の周囲の人びとを招いて愛らしい踊りを見せて喜ばせた。子供たちの踊りや芸は、外の一般社会でも少し後になって少女たちの芸事として大流行したが、これを宮中の娯楽としてはやらせたのは東福門院ではなかっただろうか。
  (前略)夜に入り、女院へなる。みなみなも御伴なり。幼き子たちに今程世間に流行るひょうたん踊りを踊らせてお目にかけらるる。しほらしき事、おもしろさ、いふばかりなし。(寛文十一年)
というような記事が何度か現れる。 
 女院はいつも控え目でやさしく、後水尾院の子供たちや幼い孫たちをよく可愛がった。基煕と品宮の子供たちは、たびたび女院からいろいろな人形や「しほらしきものども」を拝領している。それらは美しい布や袱紗の細工が多かったが(東福門院の押し絵については品宮は何も書いていない)、江戸から来たほうずきや柿栗など素朴な物をきれいな籠に入れて煕子に与えたりしている。 (「皇女品宮の日常生活」2後水尾法皇 から)
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<「人物日本の女性史」から>   和子自身の晩年にも絵画や茶の湯、立花(りっか)などを趣味として、上皇とともに楽しんだであろうことは、これも容易に推測される。千利休の孫の千宗旦は、その生涯をとおして大名に仕えず、清貧をよろこんだといわれるが、仙洞(せんとう)御所には出入りしていた。とくに東福門院のために爪紅(つめべに)の台子(だいす)など茶道具一式を献上し、また女房たちのために紅茶巾(ちゃきん)を工夫したと伝えられる。 それに対して和子は自作の押し絵や貝合(かいあわせ)の貝桶や硯箱などを与えたと言われ、今も京都の表千家には、和子からの拝領品として、能楽の押し絵が伝えられているという。
 ここには和子みずからの生き方として、京都の宮廷趣味にとけ込んだ柔らかで優美な、そしてあまりにもおだやかな生活感覚の現れがあると思う。もともと和子の性格がそうであったのかもしれないが、その立場を十分に心得て、つとめてそのようなあり方で、あるいはやや積極的に、そして意識的にその役割をつとめていったと思われるのである。
 たとえば、さきの堯怨(ぎょうにょ)法親王の弟にあたり、おなじく新広義門院を母とする霊元天皇を、和子は猶子にしていた。また桂離宮を造営した八条宮智仁親王は、和子入内のはしわたしをしたことがあったが、その子智忠親王に前田利常の女、富姫をすすめ、縁組みのため両人を猶子としたのも和子であった。富姫は和子の姉の子々姫につながりがあり、前田家と徳川氏、そして宮廷とのつながりは、和子にとっても望ましいものであったに違いない。
 こうした和子の近親の者への深く優しい思いやりは、京都の宮廷人としての立場からだけではなかった。『徳川実紀』をみると女院時代の和子の動きは、毎年の季節の推移とともに、京都からの様々な祝物、進物となってあらわれてくる。元旦・五節句・中元と続くその挨拶は、たんなる実家への儀礼ではなく、和子のこころのどこかに、十四歳まで暮らした江戸城の生活への愛着が生きていたと言うべきであろう、
 また飴の千姫や勝姫が没したとき、家光の病気見舞いとその葬礼のとき、そして十一歳で父を失い四代将軍に就任した甥の家綱に対するかずかずの思いやりは、和子の徳川家を思う心のあらわれであろうが、女としての和子の優しさが、もっともあざやかに表現されたものとみられるのである。幕府もまた女院和子の存在をつねに忘れなかった。たとえば八月になると必ず、京都では珍しい鮭の贈り物をつづけているのである。
 14歳で京都へ嫁いだ和子が一度も江戸へ帰らなかったというのは、立場のうえからそれができなかったという他に、このような強く温かいえどからの援助があり、心のあったためとも言えるであろう。
 延宝六年六月十五日、東福門院和子は、七十二歳の生涯をおわった。江戸では家門、諸大名をはじめ諸役人が登城して、将軍家綱の御けしきをうかがった。えどの人々の心の中でも、菊と葵の時代の幕が、静かに下ろされるのが見えたであろう。この日から二年の後、御水尾法皇も没した。八十五歳であった。
 女が女として生きることを、時代の求めに応じて、和子ほど自らの役割と一致させた幸せな女は、近世では珍しいのではないだろうか。このように思うのは、筆者が女であるためかも知れない。しいて言えば、ここに女が女を書くことの意味があるのではあろうか。 (「人物日本の女性史」8徳川家の夫人たち 東福門院和子 から)
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<「近世の女たち」から>  「近世の京都は和に始まり和で終わる、と言えますね。男性は破壊の象徴、そして女性は平和の象徴、朝廷と幕府を和で結んだ二人を見て、本当にそう思います」──元京都市歴史資料館長、森谷尅久(かつひさ)さんの言葉である。
 初めの「和」は徳川二代将軍秀忠の娘、和子、御水尾天皇の女御として入内、中宮となる。終りの「和」は光明天皇の娘、和宮親子内親王。幕末の激動に揺さぶられた皇女和宮の短い生涯が、人々の追憶にいつまでも残ったのに比べて、徳川和子の事跡はさほど知られていなかった。 しかし近年、歴史の中で女性の果たした役割に光りが当てられるにつれて、この人の影像は次第に輝きを増している。(中略)
 「譲位に至る朝幕の確執は想像に絶する苦しみを東福門院にもたらしたであろうが、そうした困難をはねかえすだけの大きさが東福門院にはあった。それが武家の血というものであったのだろう」と『御水尾院』の著者、熊倉功夫氏は評している。上皇の仙洞御所と門院の大宮御所では、連歌や茶の湯、華道などの集まりが催され、公家や上層の町衆で賑わった。 これを史家は「寛永サロン」と呼ぶ。本阿弥光悦の多彩な芸術や俵屋宗達の華麗な絵は、こうした交流の中に育った華だった。
 門院はまた衣装に凝り、注文した染め物を手本に「御所染め」がはやった。入内の祭持参した化粧料一万石でぜいたくもできたわけである。心にかけたのは兵乱で衰微した社寺の復興で、仁和寺、大覚寺、清水寺をはじめ数多い寺々が幕府の経済的援助で面目が改まった。その裏にあった彼女の尽力を知ることにつけ、今日の古風の風光に門院がどんなに大きなものを残したかが実感される。
 その優しい思いやりのある人柄は、33人にのぼる御水尾院の子供たちの良い母親となり、3人の親王を自分の子として即位させ、経済面で助けたことにも表れている。中でも、和子入内の直前に天皇と側室の間に生まれ、秀忠が激怒した一幕があって幕府から憎まれていた文智女王のために大和・円照寺を建立して行き届いた配慮が見られた。女王が感謝の気持ちを込めた漢詩には、水に映じた月の姿が「清らかで心ひかれる様は女院様あなたのゆかしさそのものです」と詠まれている。
 延宝六年(1678)72歳で死去。京都市編集の『京都の歴史』は門院を「希有の存在」と記している。 (「近世の女たち」文化の華あでやかに──古都の風光に余香 から)
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<「東福門院和子の涙」から>  しかしながら姫君さま、何か他にお気を外らすものなければお気詰まり、お悲しみはますます深まりゆくだけにござります。 よいことにはこのころより、衣装集めのお楽しみのほうにどうやらその思いを向けられる如くに拝され、これは一つの風穴とも申すべき救いともなったのでござります。
 ひとつには、この雁金屋、姫君さまとは浅からぬ縁にて、と申しますのは、主の尾形宗柏の父道柏どのはもと浅井家の長政さまのおん祖父君に当られます。
 その伝手(つて)にて、道柏どのは淀どの、秀頼、秀頼さま、高台院、京極さまご夫婦、また家康さま秀忠さま、ご一族のご用を相勤められしお方とて、この雁金屋をごひいき遊ばすは、徳川のご威勢をお示しになることでもあったのでございます。
 雁金屋が持参する反物をお選び遊ばすときの姫君さまのお目の輝きを拝しますと、私も思わず笑みが漏れるのでございますが、入内直後は年間六十二点、代金七貫八百六十四匁という高にござりました。
 これは、幕府大奥およそ一千人からの一年分の注文総数が三十六貫六百匁にござります故、姫君さまご用はその五分の一に当たり、そでに相当額にござりましたものが、寛永の半ばごろよりうなぎ上りに上がって行ったのでござります。
 私手許のこの書付は、おかくれになる年のもの故半年分にござりますが、それでも二百点、九十四貫と相成り、石数で申さば一千五百八十石、立派なお旗本のお禄にござります。ついでながら、書付の余りにはそのときご注文の小袖の一枚の柄ゆきも記してござります故、念のためご披露申上げますと、 「竜紋の綸子、壱反」とあり、地白に左袖下より右袖下まで波島、島をおいて右のほうは滝を二筋。滝は幅五寸のうち水筋を五つから二つまでとして下に桔梗鹿子、滝の間は浅黄絞り、その他、波や島をだんだんに立たせ、赤鹿子を配し、二寸七分ずつの菊をいろいろに金糸で刺繍、菊の数は全部で九十一、とござります。
 いかにも華やか、かつ贅を尽したものにござりましょう?
 これがおん年七十二歳の折りのご注文にござりますが、姫君さまはかような派手さがまたよくお似合いになるのでござりなす。お買い上げの品はもちろんご自身のものが多うござりますが、また贈り物とするためのものもあり、私をも含め、おそばの者たちはどれだけそのお恵みにあずかりましたことやら。
 それに、唯一おなぐさみの押絵の枝も年々ご上達になり、おそばの者に下しおかれることも多く、能舞台をそのままに、などのむずかしいものに取り組まれます故、その絵柄の人物衣装の調達もなかなかめんどうにて、かつ費用もかかるのでござります。
 このような姫君さまを指して「派手好み」とか「衣裳狂い」とか、さまざまかげ口きく者あるを知っておりますが、もはや私、それに対して、気の苛立つこともなく、知らぬ顔で打捨ておくようにいたしましたのも、いささかのわきまえ出来たと申しましょうか。
 お衣裳ごらん遊ばすことにより、姫君さま束の間にても憂さお忘れあるは何より喜ばしきこと、幕府より賜わりし門院料一万石は、禁裏の高と同じであり、なおこの上、裏よりはさらにご援助ある御身の身の上であれば、これも一つの、大いなる姫君さまの御運の強さと申せましょう。
 雁金屋、呉服の間に来る日は女院御所色めきたち、華やかに笑いさざめきて美しき衣裳選ぶ風景、またおん前にうずたかく積まれた反物を姫君さま一つ一つお手にとられ、
「これは駿河局によう似合う。常着にしやれ」 
とか、 
「ゆきも思い切って派手なものはいかがじゃ。正月着に雪持笹、これがよい」 
 などど仰せられ賜るときの、われらの喜び、かようなこと考えますと、上皇ご寵愛の女房たちいかに多くとも、皇后宮として堂々たる貫禄と、人々を追従せしめるお力とは、わが姫君さま郡を抜いてご立派なのでござります。
 禁中お儀式の折りなど、女房がた居流れるなか、姫君さまいちばんおあとよりしずしずと門院の座にお出ましになれば、そのお衣裳、お持物、頭に戴く天冠の燦き、に皆々気圧され、深いためいきを吐きつつ仰ぎみりさまを見れば、これこそ私の、会心の笑みと申すべき満足でござりました。 (「小説 東福門院和子の涙」から)
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<主な参考文献・引用文献>
御水尾院                              熊倉功夫 朝日新聞社     1972.10.30 
皇女品宮の日常生活 『无上法院殿御日記』を読む           瀬川淑子 岩波書店      2001. 1.19 
小西家旧蔵 光琳関係資料とその研究                 山根有三 中央公論美術出版  1962. 3.31
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25 
人物日本の女性史 8 徳川家の夫人たち              円地文子編 創美社       1977.10.25
近世の女たち 文化の華あでやかに 古都の風光に余香          松村洋 東方出版      1989. 6.15
小説 東福門院和子の涙                      宮尾登美子 講談社       1993. 4.13 
( 2005年1月17日 TANAKA1942b )
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(6)先に豊かになった人への憧れ
トレンド・メーカー東福門院

<東福門院のノブレス・オブリージュ> 東福門院が雁金屋から多くに衣裳を購入したことを「衣装狂い」と表現するのは適切ではないと思う。東福門院は庶民ではなく、当時日本ではただ一人の特別な人であり、歴史を振り返ってもあまりいない特別な立場の人だった。特別な人は特別な倫理基準で判断すべきで、庶民感覚で判断してはマズイ。
 たった数え年14歳で徳川家から後水尾天皇のもとに嫁いだ和子、幕府と朝廷との力のバランスの中でもて遊ばれたわけではあるが、両者の融和のために力を尽くした。幕府から1万石を自由に使えることになっていた。武士は1万石から大名と呼ばれる。その1万石を使って幕府と朝廷との融和のために力を尽くした。 寺院・神社に寄進したり、文化サロンを開いたり、周りの人たちへの心配りなどを通じて穏やかな人間関係環境を作り、それが朝廷での嫌幕府感情を和らげたに違いない。そうした行為の一つが衣装購入であり、その衣装を周りの人たちにプレゼントすることだった。優しい心の東福門院は周りの人達の笑顔を見るのが嬉しかったに違いない。 「東福門院のノブレス・オブリージュ」と理解すると、多額の衣装購入は何も不自然なことではない。東福門院の趣味も生かしながら、幕府と朝廷との融和のために精一杯生きた、と言うべきだろうと思う。
 「趣味と贅沢と市場経済」の元になったゾンバルトの「恋愛と贅沢と資本主義」では贅沢を満足させるために、贅沢産業が育ったと述べている。江戸時代の贅沢は産業を育てもしたが、朝廷の贅沢が町民にまで広まった、ということに特徴がある。先に豊かになれる者から豊かになって、それに憧れて続いて豊かになった者がいた。 東福門院の衣装道楽は町人の憧れであり、尾形光琳の雁金屋から仕入れた御所染は流行の最先端でもあった。つまり東福門院は寛永文化のトレンド・メーカーでもあったわけだ。
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<東福門院の真似をして「衣装くらべ」「伊達くらべ」>  東福門院が派手な衣装を好んだ、ということは、「幕府と朝廷との力のバランスの中で精神的に苦しい生活だったろう」と心配し、同情する者としては少しほっとする。年齢以上に地味な衣装で一生慎ましやかな生活をおくった、とすると悲しくなる。
 東福門院のトレンド・メーカーについては先週書いているが、もう一度その一部を引用しよう。
  東福門院のはで好みは京の評判であったという。女院歿後五十年ごろの見聞記にはこんな噂があった(中村氏筆記)。お虎という女性は遠山久太夫の妻で、夫と離別後、三万両を持って京に上がり、その生活は贅沢をきわめた。烏丸光広の妻は細川家の女で、この女性も豪勢であった。これに女院を加えて「三所ニテ、京中ノ小袖模様モナニモ、イロイロ仕リ候」という。つまりニューファッションの源がこの三人であったというのである。 (「御水尾院」から)
 トレンド・メーカー東福門院の真似をして何があったか?と言うと「衣装くらべ」とか「伊達くらべ」言われるコンクールあるいはコンペティションが行われた、ということだ。
 その「衣装くらべ」とか「伊達くらべ」言われる事例で現在よく知られているのは、
 @ 江戸に住む石川六兵衛の女房が京へ出向き、難波屋十左衛門の女房と伊達くらべをしてこれに勝った件。
 A 同じ石川六兵衛の女房が「もう相手になる者はいない」と言って、将軍綱吉に伊達くらべを仕掛け、綱吉の怒りに触れて夫婦共々追放、屋敷家財没収の処分になった件。
 B 京都の町人銀座年寄の中村内蔵助の妻が「東山での衣裳比べ」にあたり、光琳の意見に従って侍女には他の妻と同じような派手な衣裳を着せ、自らは黒羽二重の表着に下は白無垢を幾重にも着重ねただけ、という地味な衣装で、これが抜群であったと世に伝えられている件。
 これとは別に衣装くらべが行われていた、ということが江戸時代の文献に幾つか見受けられる。
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<A 石川六兵衛の女房将軍綱吉に伊達くらべ>  延宝9年(1681)5月8日(この年の9月に天和と改暦)、江戸町人石川六兵衛の女房は、将軍綱吉が上野寛永寺にお詣りなるのにあわせて、通り道の民家を借りて伊達比べを仕掛けた。これはこの時代の象徴的な出来事であり、歴史の文献で取り上げられているし、また小説も書かれている。そこで幾つかの文献から関係する部分を引用してみよう。
「伊達くらべ元禄の豪商」から
 延宝九年(1681)五月八日、五代将軍綱吉は上野へ仏参した。この日は前将軍家綱の忌日である。長い行列が下谷大名小路にさしかかると、どこからともなく香の匂いが漂っていきた。それも有りふれたものではない。高価な伽羅をおびただしくたいているようである。
 匂いは当然、乗物の中の綱吉の鼻にも届いた。
 乗り物の両脇には、御側衆、若年寄がついている。そのうしろに御小姓、御小納戸衆が続いている。不審に思った綱吉が、乗物の中から、あの薫りはなんだと聞くと、だれも、どこでたいているのか、わからないという返事である。
 香をたく家は多いだろうが、それが道路にまで強く匂ってくるというのはめずらしい。しかも伽羅である。それでも、綱吉はまだ大して気にしていなかった。
 ところが、香の匂いはだんだん強くなってくる。大名小路から上野広小路に入ると、匂いが出てくる方角まではっきりしてきた。
 広小路は繁華の地で、道の両側は町屋である。匂いはその並んだ町屋の一軒から出ている。行列の者の目は、勢いその方へ注がれたが、間口一杯に開け放たれ、床には赤毛氈が敷いてあり、金屏風その他、結構尽くした調度がしつらえられ、中に美しく着飾った女が、晴れがましい様子で拝礼をしていた。
 それが女主人と見え、ほかに腰元風の女、下女など数人、みな善美を尽くしたいで立ちで控えていた。
 香は、その部屋に置かれた立派な香爐にくべた銘木の伽羅の煙を、下女たちが金箔刷りの扇子であおぎ立てていた。
 その光景は、行列の者の目をむかせるに十分なものだった。さながら大大名の奥御殿を切り取って持ってきたようである。
 将軍の乗物からは外を見ることができる。綱吉も町屋の様子を見て一驚を喫した。いったい何者の妻か。ああして、乗り物を拝見しているところからすれば町屋の者だろうが、それにしてはぜいたく、おごりの度が過ぎる。
 当時の綱吉は将軍職を継いだ翌年のことで、俗な言い方をすれば、張り切っていた。綱紀を粛正し、人倫五条の道を正し、財政を立て直し、節倹をすすめようと考えていた矢先である。あの者たちを召喚してきびしく調べた上、僣上のことがあれば厳罰に処さなければならんと思った。
 「不埒な町人、何者か尋ねて参れ」
 と綱吉は命じた。
 行列には両番組、御徒組などのほか、小人目付、御徒目付などが従って警備に当たっている。側の者からの命令で、早速御徒目付の組頭がくだんの町屋に行って調べると、女は町人石川六兵衛の妻とわかった。
 いったい、将軍の通行の時、その順路はもちろん、横町に至るまで人払いになり、従って制止の声を掛けることもないが、通りに面した町屋に対しては何の構いもなかったという。つまり、戸や窓をすべてとざしておく必要もなく、家々の主人が溝板の上に出て、お通りの節平伏するだけで、その他の家人、女などは店に坐って、別に改まって頭を下げることもなく、 お通りを見物していいのである。だからこそ、六兵衛の妻はそんなことが平気でできたのであろう。
 武家の場合には制限があって、長屋長屋の窓を全部閉じてしまう。主人は門内にあって、お通りの時に、行列の御徒目付、御小人などが、いまお通りですよと声をかけると平伏する定めだったという。
 その町屋は仕立屋で、石川六兵衛の家ではない。一時借り受けただけであった。
 六兵衛の妻は、将軍の目をひくように、舞台や衣装ばかりではなく、香までたいて万全を期したわけである。
 その目的は達せられた。新将軍は彼女の衣装の立派さにおどろいたが、感心はせずに怒ってしまった。これは彼女の思惑違いだったかどうか。彼女は綱吉を、風流で物のわかった、伊達好きな将軍と考えていたのだろうか。それとも、処罰を覚悟の前で、「伊達」をしかけて将軍の度肝を抜いたのだろうか。 (小説「夢魔の寝床」伊達くらべ元禄の豪商 から)
「江戸風狂伝」から
 およしは、京での伊達くらべに勝ってきた。
 相手は、那波屋(なはや)十右衛門の妻で、十右衛門の妻は、洛中の名勝を金糸で刺繍した緋の繻子の小袖を着てあらわれた。ほっそりとした躯つきの十右衛門の妻に、緋の色がよく似合って、美しい人形のようだったという。
 およしは、約束の場所へ、南天を染めだした黒の羽二重を着て行った。一見したところでは地味で、伊達くらべを見ようと集まった人々は、こんな衣装を見せるためにわざわざ江戸から出てきたのかと、首をひねったそうだ。
 が、およしの着物の南天は、珊瑚の玉を一つずつ縫いつけたものだった。しかも、透きとおるように白いおよしの肌に黒が映えて、神々しいくらいの美しさだった。人々は、迷わずおよしに軍配を上げた。
 「京からも大坂からも、待っているとのお便りをいただいているのですが」
 やはり、将軍綱吉に、伊達くらべをしかけたいと言う。
 六兵衛は、大声で笑い出した。笑っても笑っても、次の笑いがこみあげてきて、しまいには涙が出てきた。
 大の男が、お家騒動の決着を将軍に咎められるのではないかと思い悩み、或いは将軍の厳しさに戦々恐々として遊びしも出てこられぬさなかに、およしは、その将軍へ伊達くらべをしかけようと、本気で考えているのである。おのが女房ながら、そののんきさが、たまらなく好もしかった。 おしゃれの好きなおよしにとっては、京の那波屋の女房も、伊達くらべを待っているとの手紙を寄越した女達も、将軍綱吉も、みな同じ仲間なのかもしれなかった。
 「やってみるがいい」
 六兵衛は、目頭にたまった涙をふき取りながら言った。
 「伊達くらべをしかける広小路の店は、わたしが見つけてやる。どうしても貸さぬと言うたら、買い取ってやる」
 嬉しい──と、およしは胸の前で手を合わせた。
 「が、言うておくが、将軍様はてごわいぞ」
 「いえいえ、わたしも負けてはおりませぬ。店先には金の簾を垂らし、わたしのうしろには金の屏風をたてまわして……」
 「そうではない」
 どんな罰をうけるかわからぬと言いたかったのだが、六兵衛は、黙っていることにした。(中略)

 店にはすでに緋毛氈が敷かれ、金屏風が立てられていて、石川屋から連れてきた手代が、金の簾を吊しているところだった。和田屋の女中がはこんできたのは白磁の香炉で、石川屋の女中の指図で位置をきめている。
 「こちらの用意はできました」
 と、和田屋の女中が言い、奥の方で小さなどよめきがあがった。およしが居間から出てきたのかもしれなかった。
 店先へは、まず八人の女中があらわれた。緋色に金糸の刺繍がある着物を着て、香木の入った箱を持っている。中に入っているのは、無論、伽羅だろう。左右の香炉に二人ずつ、中の二つに一人ずつが坐り、作法通り、灰点煎をはじめた。
 そのうしろに坐った二人は、やはり緋色の着物をまとっていたが、手には扇を持っている。伽羅の香りを、綱吉へあおぎかれるつもりらしい。
 およしな、伽羅がたかれてから店先にあらわれた。
 きれいだ──と言う、正兵衛の声が聞こえた。
 およしの着物は、涼しげな白地に浜辺を描いたものだった。動くたびに雨が光るのは、ところどころに銀糸の刺繍が混じっているからにちがいない。浜辺の砂は金糸の刺繍で、落ちている貝は、螺鈿の細工のように、光沢のある貝を磨いて金糸の中に埋め込んであった。 間違いなく、ただ一度しか着られぬ着物であった。
 六兵衛に気づいたおよしは、口許をほころばせて店の中央に立った。天女が舞いおりたようだと、六兵衛は思った。
 三保の松原におりた天女に土地の漁師が心を奪われたように、これならば綱吉も、およしに目をとめるにちがいなかった。およしに目をてめて、自分の気のきかぬ身なりが情けなくなって、早く戻れと駕籠をいそがせる筈だった。
 いい気持ちではないか。
 人の頭の上へ手をひろげ、町奉行も作事奉行も抑えたうけ、おじけづかせている将軍へ、小柄で青白い顔をした女が一矢お見舞い申すのだ。
 もっと胸を張れ──と、六兵衛は、自分の躯を反らせて見せた。
 身上など取り上げられても惜しくはない。江戸から追放になってもこわくはない。みなが恐れる将軍に勝てるのは、およし、お前だけなのだ。 (小説「江戸風狂伝」伊達くらべ から) 
 小説ではこの後、将軍の目に留まり、後日家財没収の上、江戸十里四方追放を言い渡された、ことが書かれている。小説の最後の部分を引用しよう。
 六兵衛は大勢の使用人に暇を出したあと、身のまわりの品を包んだ風呂敷包みを背負い、およしの手を引いて江戸を出た。五月も末になったというのに、雨の気配はなく、今年は空梅雨かもしれなかった。 
 水田には無情でも、旅には都合のよい空模様だったが、品川の宿を出るとすぐ、およしが足をひきずりはじめた。
 「やれやれ」
 六兵衛は、風呂敷包みをおよしの背にくくりつけたかわり、およしを背負って街道からそれた。品川の海が見える草叢に腰をおろすと、陽は暑かったが、風は快かった。
 およしな、草鞋を脱いでいる。緒の当たるところに血がにじんでいた。
 「でも、こんなものを持っています」
 と、およしは懐から紅絹を出して見せた。和田屋で伽羅をたいていた女中の一人が、餞別がわりにと持たせてくれたのだという。
 「や、そんなものがあるなら、どこへでも行けるな」
 六兵衛は、笑っておよしの背を叩いた。親類や親しい仲間からの餞別は、あらたか使用人に配っていまったが、それでもまだ、これだけは風呂敷の中へ入れてくれと言った和田屋正兵衛からの金包がある。
 「京でも大坂でも、お前の好きなところへお供するよ」
 「そうですねえ」
 およしは、草鞋の緒に紅絹を巻いている手をとめて首をかしげた。
 「鎌倉へ行こうかしら」
 「鎌倉か。頼朝公の夢の跡を追うのもわるくはあるまい」
 「それから小田原へ行って、名古屋へ行って……」
 「さあてね、そんな所まで行けるかどうか。鎌倉で働いて、小田原で働くとなると、名古屋へ行くまでに二十年はかかる」
 「お互い、年をとりますねえ」
 およしは、布を巻いた草履に足を入れた。
 「京へ行く時も、こんな風でございました。ところが、歩きつづけているうちに、肌がかたくなってしまって、──面白うございますね」
 これからの人生もおそらく面白いだろう。およしと一緒ならば。
 六兵衛は、のびをしながら立ちあがった。
 「さ、足が痛いかもしれないが、川崎まで行ってしまおうよ」
 素直に立ち上がったおよしへ、六兵衛は、片方の目をつむってみせた。
 「鎌倉へ腰を落ち着ける前に、足の擦り傷も癒さねばなるまいな」
 「箱根の湯へ行くのでございますか」
 およしが目を見張った。
 六兵衛は、風呂敷包みを肩にかけて歩き出した。およしと潮風が追ってきた。(小説「江戸風狂伝」伊達くらべ から) 
 所払いとなった二人がその後どうなったか?は分からないが、小説としてはこのような悲劇的でない終わり方がこの時代の空気を表現していると思う。「素人歴史家は楽天的である」(森鴎外「伊沢欄軒」)。
「元禄歳時記」から
 杉本苑子の『元禄歳時記(上)』「さんご珠は血の色」では最後が悲劇的に終わっている。
 ──亀屋、石川屋への厳罰が、江戸中をふるえあがらせたのは、それから十日ほどのちである。
 「町人の分をわきまえず、不相応な奢侈にふけった」
 というのが、おとがめの理由だが、直接のきっかけは言うまでもなく、寛永寺への参詣途上、綱吉将軍の鼻先をかすめた高価な焚き物にあった。一つ、たぐれば、ギヤマン天井、金無垢すだれ、能舞台と、 とっこに取れる口実は出てくる。両家はそろって、家産を没収され、江戸十里四方から追放された。
 骨の髄までしみこんだぜいたくくらしを奪われ、一転、乞食の境遇に落ちたお栄が、半狂乱となり、男泣きに、泣いて無念がる石川屋六兵衛と、身をよせた信州の遠縁の家で、最後の夫婦喧嘩をしでかし、興奮したあげく、ありあう刃物でのどを突いて死んだという悲報が届いた。 (「元禄歳時記(上)」さんご珠は血の色 から)
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<丸谷才一の衣装くらべ>  丸谷才一は『忠臣蔵とは何か』で伊達くらべのことを書いている。
 戸田茂睡といふ浪人の書いた同時代史『御当代記』に、こんな話が載ってゐる。江戸の富豪、、石川六兵衛の妻は、京都へ出かけて衣裳くらべをしたほど派手好きな女だったが、天和元年(1681)五月、上野の寛永寺に詣でる綱吉に伊達くらべを仕かけた。すなわち、行列の通る上野の下の町屋を借り、金屏風を立てまはして自分はその前に坐り、結構な衣裳の小間使ひ六人に伽羅を焚かせ、 その伽羅の煙を、外に出て立ってゐる振袖の腰元二人が、通りかかった綱吉の駕籠に金の扇子であふぎかけたのある。このため六兵衛は追放、家財は没収されたのだが、月 罰を受けるかもしれないことは充分わかってゐながらこんなことをするあたり、彼女の芝居っ気はかなりのものだ。わたしはこの話に贅沢とか町人のエネルギーとか自己顕示欲とか、そんなことよりも、まづ演劇的人間を感じてしまふ。六兵衛夫婦は隅田川のほとりに下屋敷を構へ、大名衆や幕府の役人をしきりに招待したといふことだが、その招宴ではきっと、松平大和守の邸と同じやうに役者に藝をさせたにちがひない。 六兵衛の妻が上野でしたことは、赤穂の浪士の場合と違って呪術的要素と結びつく気配はまったくないけれど、しかし命がけの華麗な自己劇化といふ点で四十六人の徒党とよく似てゐるのである。 心中の流行でも見当がつくやうに、芝居心がふんだんにあることは元禄期ないし綱吉の治世の一特徴なのだらう。豊かで平和で安定した時代はどうしても日常生活からの藝術的=儀式的離反を盛んにするし、その結果、幸か不幸か、演劇と実生活との混乱をもたらしがちなのかもしれない。とにかくこれは、飛脚宿の入り婿と見世女郎から、豪商の妻や浪人の一味を経て、征夷大将軍に至るまでに共通する風俗であった。 (「忠臣蔵とは何か」から) 
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<「御当代記」から>  この伊達くらべ、江戸時代に書かれた出典は?と捜してみた。丸谷才一が書いているように『御当代記』がそれらしい。ということで『御当代記』からの文を引用しよう。
 一 延宝八年十三月廿七日、石川六兵衛と申町人夫婦籠者(ろうしゃ)被仰付候、是ハ富貴の町人にて浅草山の宿浅草川のはたに下屋敷をもとめ、大きに家を作り結構の造作を仕、大名衆御役人を招請いたし、おごりを極め申を、兼而上聞に達し候所に、五月八日上野へ御社参の節、右六兵衛が女房かくれなき伊達者にて、すでに先年上方に小べに屋権兵衛と申者の女房だてものなるよしを聞、江戸にハなる善兵衛が女房などだてものと聞たれ共、 中々我にハ及ぶものなしとて、右小べに屋が女房とだてくらべせんとて上方へわざわざのぼりたる程の女なれば、当公方様へもだてを仕、世上に無隠名qをとらんと思ひけん、御成おがミに上野の「下」町の町屋をかり、金の屏風を立廻し、こしもとの振袖の女弐人花の如く出たゝせ、しんミよう六人にもけっこうなる衣装をさせ、台子をしかけ伽羅を夥敷くべ、御駕籠の通り候時に臨て、こしもと二人に金の扇子をもって伽羅の煙をあふぎかけ申候ニ付、誰が妻と御穿鑿有りて右のとをり也。
 一 石川六兵衛を籠者の被仰付候も、総而御仕置きび敷ゆへなれば、当御代になり候て少しの御科あるものも御改易・御追放・閉門あるひハ御役を御とりあげ、延慮の人、町人も少しも家をきれいに立、町屋の門などもひらき門に作り、庭の植木石なども大きなるをかまへたるハ、御とがめにあふ御ふれなれば、俄に家をこぼち庭の木を切、石をほりうめ、人の心さらにおちつけず候、殊ニ庚申の年八月六日大風洪水にて田畑損し、五穀みのらざるに、御代替りなればさらだに城主城主も米をたしなむべきに、 殊更御仕置ききび敷科人多く出来候へば、自然に気短なるものゝ、いかやうの心ありて逆心もあらんかと、世をあやぶミ一しほ米を廻さず候へば、江戸中米の高サ大飢饉のごとし、武具・馬具・鎧・長太刀の外ハ求る物なければ、諸色かつてあきなひなく町人もこまり果申候
 「一 乗物駕籠の御法度出ル、是ハ此以前も候事なれども此度ハ強キ御あらため也、駕籠舁曷命ニ及ト云々」
 校注 『徳川実記』には、この月二十八日条に浅草黒船町の市人六大夫という豪商が八日将軍の寛永寺御成りに家の男女を華麗によそおって出たのを咎め、宅地を没収して追放に処した記事がある。なお『改正廿露叢』には、二十八日に小舟町の商人石川六兵衛の商家に不似いの奢侈を咎め入牢のところ、昨日妻子とも追放、屋敷家財没収の処分と記す。本書の記述は二十八日の処分に先立っての噂をとったものか。 (「御当代記」申年 延宝八年 から)
 『徳川実記』も調べようと思ったが、膨大な文献でどこに書いてあるのか、時間がなく調べつかなかった。見つかり次第引用します。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
御水尾院                              熊倉功夫 朝日新聞社     1972.10.30 
小説 夢魔の寝床 伊達くらべ元禄の豪商               多岐川恭 光文社時代小説文庫 1992. 3.20  
小説 江戸風狂伝 伊達くらべ                   北原亞以子 中央公論社     1997. 6.30
小説 元禄歳時記(上)さんご珠は血の色               杉本苑子 講談社       1974.12.12 
忠臣蔵とは何か                           丸谷才一 講談社       1984.10.12  
御当代記 東洋文庫 将軍綱吉の時代          戸田茂睡著 塚本学校注 平凡社       1998.11.11
( 2005年1月24日 TANAKA1942b )
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(7)当世流行の衣装くらべ
伊達もの対決、江戸か京都か

<伊達くらべ、鳶魚の見方──東西の衣装競べ> このシリーズで多くの文献から引用したのだが、江戸時代の文化をテーマにしたら この人を抜きにする訳にはいかない。 ということで、三田村鳶魚の「江戸の生活と風俗」と題された文庫本の「驕妻東西の衣装競べ」から、引用しよう。
 天和改革は、寛文度と大いに状況が違っておりました。石六夫妻の処刑を見ましても、様子は知れます。
 小舟町三丁目石川屋六兵衛の女房が、天和元年五月八日、綱吉将軍が寛永寺へ廟参されるのを拝観に出ましたのが一件の端緒で、この女房は中橋上槇町の石屋久三郎の娘、親の久三郎は明暦大火の記を書きました亀岡石見入道宗山でございます。 久三郎は石垣普請の請負で大いに儲けた男、石垣成金であったから、自宅へ能舞台を拵えたり、別荘を持ったり、町人の癖に、平常乗馬を飼ったり、大名暮らしをしておりました。その贅沢な亀岡の家に生まれ、大町人の石六の妻になった。 石六の女房は、江戸中に自分と伊達競べをする女はいない、京都の富豪那波屋金右衛門の妻が衣装自慢だと聞きまして、わざわざ上京いたし、東山で両人が衣装競べをしたが、遂に石六の女房が勝ったという大変は伊達女、京都は織物も本場だのに、そこへ衣装競べに行く。 前にも申し上げました通り、この頃は、西陣もまだまだ、正徳・享保以後の発達に比べれば、幼稚なものでした。延宝度の諺に、「吉原の張りを持たせ、長崎の衣装を着せ、九軒で遊びたい」と申しました。 これは遊女についての諺でございますが、長崎は織物の産地ではありません。そこの遊女が江戸や大坂の遊女に勝った衣類を持っていたと申すのは、長崎は本邦唯一の互市場で、日本にない織物の入口であったからでございましょう。 寛永以来、輸入織物を珍重いたすことが一段と盛んになり、寛文度には唐物屋というものが出来ておりました。輸入織物の愛用が追々と下漸いたしますことも、目立ってまいります。驕妻二人の衣装競べは、国産品ではなく輸入品ですから、西陣や堺の生産とは交渉がございません。 従って、関東も関西もなく、資金次第で手に入ります。その石六の女房が、綱吉将軍の廟参を拝観に出るのに、別に趣向をつけたのではないが、平素華美な暮らしに慣れたままに、自身が着飾っていたばかりか、侍女には緋縮緬の掻取(かいとり)に秋草づくしの模様、三人の童女には唐織の小袖を着せ、下女二人にもはではでしく装わせて、 下谷広小路の仕立屋の店先を借り受け、店一面に毛氈を敷き詰め、金屏風を立てた所へ、ズラリと居並んで、香を焚かせておりました。そこを綱吉将軍が経過されまして、お目に留まり、あれは何者かとお尋ねがございました。 それから、役々へ命令がございまして、御徒頭(おかちがしら)が取り調べますと、石川屋六兵衛の女房と知れました。翌九日、町奉行所へ呼び出されまして、石六夫婦と倅甚右衛門は、江戸十里四方追放になりました。この宣告書には、衣裳法度の違犯を言わずに、山の宿の別荘が身分不相応なもので、常に奢っていた咎による、と書いてございます。 しかし、綱吉将軍のお目に留まって、一件を惹き起こしましたのは、驕妻等の着類で、勿論衣裳法度を犯したものであります。しかし、石六は御用町人であって、別荘も諸役人を招待して御馳走する場所なので、当時の言葉にいたせばテレンというやつでございます。 女房の衣裳法度違犯よりも、このテレンの方が事態が重いので、宣告書には重い方を書いたものでございましょう。記録には、女房以下の衣類を、将軍が見咎められての処刑だ、と書いたのが、二三のみならずございます。 さて、かような贅沢な女房が出ますのは、町人の奢り、驕商によるのであって、こう商人を驕らせるように何故なったか、時世を検討するためにも、天和改革を知らねければなりません。 その端的を衣裳法度に捉えるのが、便利でございます。その時は、織物も、染め物も、縫物も、寛文以後著しく進展いたしております。これを大略申し述べたいのですが、紙数も尽きましたから、残念ながら他の機会に譲りましょう。 (「江戸の生活と風俗」驕妻東西の衣装競べ から)
<江戸期女性の美と芸>
 衣装くらべは「女性史」という観点からも注目すべき出来事であった。こうした面からの見方も引用してみよう。
 江戸時代初頭における女性の闊達さはほかの時代には見られないほどで、新しい風俗の煙草を吸う女も出れば、街頭に男性をとらえる遊女も現れ、自由奔放の気分に満ちていた。それはまだ粗野の色合いの抜け切れないものではあったが、寛文から元禄(1661-1704)ごろになると洗練された美を描き出すのである。
 尾形光琳が秋草を描いた白の小袖を着たのは、江戸深川の材木商冬木家の妻女である。菱川師宣の「見返り美人」は誰をモデルにしたのであろうか。豪華な衣服や調度に千金を投ずる人のために、西陣の高級織物も発達し、友禅染も発明され、蒔絵や陶芸の進歩も見られたのである。
 江戸浅草に住む豪商石川六兵衛の妻は、江戸ではかくれもない伊達者であったが、江戸には相手になる者がいないというので、はるばる京都にのぼり、難波屋(なにわや)十右衛門の妻と伊達くらべをしたのである。それでもやまず、ついに公方様(将軍)に伊達をしかけて、世間にかくれない名をとろうというので、天和元年(1681)、将軍綱吉が上野の寛永寺の霊廟に参詣したおりをうかがって、山下の町屋を借りて、 室内で名香を焚かせ、金の簾を垂れ、金の屏風を引きまわした前に美女を並べたて、金の扇子で、その香あおぎかけさせた。これを綱吉が聞き咎めて、六兵衛は家財を没収されたうえ、追放された。その妻の寝所の天井にはガラスを張って金魚を泳がせ、寝ながら見ることができるようにしてあったという。生類憐れみの悪令を発すること二十年に及び、大名・小名が一人もこれを諫めることができなかったというのに、六兵衛の妻は伊達をしかけようという、ここに元禄女の代表を見ることができる。
 西鶴が扱った五人女にしても、恋のために命を捨てた女性たちである。終わりを全うした琉球屋のおまんにしても、恋のためには家を捨てて、衆道一筋の源五兵衛のもとに出かけて行ったのである。 (「図説 人物日本の女性史 7 江戸期女性の美と芸」 から)
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<伊達くらべ、東西対決>  江戸で将軍綱吉に仕掛けた伊達くらべ、その張本人である石川六兵衛の妻は以前に京で伊達くらべをやっていた。 これは将軍綱吉への伊達くらべに較べれば大胆なことではなかったが、江戸と京との比較で考えると面白い。つまり、それまで江戸は田舎で京が都会だった。大坂から出津された物を「下り物」と呼び、舶来品のようにありがたがった。 当然流行に関しても東福門院がいた京の方が進んでいて、江戸はそれを真似ているだけだ、と思われていた。ところが伊達くらべでは江戸が京に勝ったのだった。江戸の人たちは拍手喝采したのではないだろうか。そのような伊達くらべ、例によって幾つかの文献から引用しよう。
元禄時代の着物の特色
 大名諸侯が天災地変やそれにともなう物価高で生活がいよいよ苦しくなっていくのと相反して、寛文年間(1661-1673)の終わりから延宝年間(1673-1681)の初頭にかけて町人の生活は向上し、これによって婦人たちの着物も大名家族とは違った豪華さを迎えた。 京都の丸山で、江戸の豪商石川六兵衛の妻女と、京の豪商難波屋十右衛門の妻女が桜花咲き乱れるもとで偶然に出会い、その衣装くらべとなった。江戸の妻女の梅の立ち木模様に対して、京の妻女は嵐山の風景を描いたものを着用、どちらもすばらしい身なりであったので雌雄を決めかねていた。 ところが、つぶさに江戸の妻女の着物を見ると、梅の蕾が全部、珊瑚で飾られていて、さすがの京雀も江戸の金持ちには勝てなかったという。この話は延宝年間に起きたものである、と『武野燭談』にみえている。 (「図説 人物日本の女性史 7 江戸期女性の美と芸」 から)
那波屋十右衛門の妻
 およしは、京での伊達くらべに勝って戻ってきた。 
 相手は那波屋十右衛門の妻で、十右衛門の妻は、洛中の名勝を金糸で刺繍した緋の繻子の小袖を着てあらわれた。ほっそりした躯つきの十右衛門の妻に、緋の色がよく似合って、美しい人形のようだったという。
 およしは、約束の場所へ、南天を染めだした黒の羽二重を着て行った。一見したところでは地味で、伊達くらべを見ようと集まった人々は、こんな衣装を見せるためにわざわざ江戸から出てきたのかと、首をひねったそうだ。
 が、およしの着物の南天は、珊瑚の玉を一つずつ縫いつけたものだった。しかも、透きとおるように白いおよしの肌に黒が映えて、神々しいくらいの美しさだった。人々は、迷わずおよしに軍配を上げた。 (小説「江戸風狂伝」伊達くらべ から) 
京での伊達くらべ
 男は、遊びはしなくても商売──事業というものがある。それに全力を傾けることができる。面白いと言えば、これほど面白いことはあるまい。武士なら天下の政治にたずさわるという、これまた至極生き甲斐のある仕事を持っている。女には許されていないのだ。
 六兵衛の妻のような女には、我慢のならないことだ。彼女が衣装に凝り、江戸の名だたる町人の妻と衣装くらべをやり、もう相手がいないというほどになったのも、それほど衣装好きというのではなく、胸中の鬱を散じるには、ほかにいい手段がなかったからなのだ。
 上野や浅草など、社寺詣での時、春の花見、夏の水遊びの時、芝居見物の時など、衣装を見せびらかす機会はいくらもある。一般の物が見たこともないようなものを出入りの呉服屋に命じてあつらえ、頭から足先まで着飾り、伴の女中にも華美な装いをさせて、目抜きの場所に現れると、 諸人が目をむき、あれは石川の女房だ、きょうはまた、徳にすばらしい衣装だなどとささやき合う声を聞くだけでも、胸のつかえが下りる。
 これがまた、同じように張り合う町女房がいて、申し合わせたように、自慢の衣装を着、伴を連れて、さりげなく競い合うということになると、スリルは倍加する。暗々裡の衣装くらべが、どこででも行われている。
 その衣装くらべに、彼女はいつも勝ったという。
 江戸では、もう相手になるものがいないので、いざ、本場の京に行って、京童のどぎもを抜いてやりましょうと思う。彼女にすれば、京女に勝てば本懐なのだ。複雑はことは何もない。要するに勝ちたいのであり、人目を引き、名を上げたいだけである。あとはどうなろうと構ったことではない。……その底には女の深い不満があり、 さらには町人としての、特権階級に対する抵抗があることなど、彼女自身は意識していない。意識すれば、「伊達」というものが濁ってしまう。
 伝えられるところでは、京都の豪商、難波屋十左衛門の女房が古今の衣装道楽であるというので、衣装くらべをしましょうと言い送ったところ、いつでもお相手しましょうという自信たっぷりの返事が来た。
 そこで彼女は自家仕立てのけっこうな女乗り物に乗り、女中共を引き連れて東海道を下った。衣装くらべと言っても、どこぞの屋敷で二人が並び、ファッション・ショーまがいのことをするのではなく、名所旧蹟あたりを互いにさりげなく徘徊して、見物の諸人にどちらの衣装が勝っているか、その評判によって決めようという、優雅な趣向なのである。
 さて難波屋の女房は、緋繻子に京の景色を刺繍で入れた着物を新調して、目に立つところを歩いた。関東の田舎者に負けられるものかとばかり、その衣装は見る人の目をそば立たせるに十分で、これでは江戸者がかなうはずはないと、専らの評判になった。
 これを聞いても六兵衛の女房は別にあわてず、自分の衣装を着て京の名所をそぞろ歩きする。黒羽二重に、南天の立木を染めただけの、一見なんの変哲もないものだった。人が失望して、江戸とはなんと田舎だろうと軽蔑したところ、よくよく見れば、衣装の南天の実の一粒一粒が珊瑚の玉であったので、みながびっくりし、勝負の判定はくつがいされてしまった。
 この伝説は、あまり俗っぽくてつまらないが、彼女が衣装くらべのために、京都まで出張したようなことがあったのは、事実かもしれない。伊達のためなら、遠路もいとわないのである。江戸の女の意地もあったろう。また、京坂が日本の台所なら、江戸は将軍の膝元というわけで、新旧の張り合いもある。関東、関西の対抗意識は、なかなか歴史の古いものだ。 元禄前後までは、なんと言っても関西だが、時代が下がるにつれて、次第に関東の勢いが強くなってくる。だが、経済的にも関西がおくれてしまったのは、明治、大正という頃になってからであろう。 (小説「夢魔の寝床」伊達くらべ元禄の豪商 から)
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<武野燭談から──伊達くらべ> この伊達くらべの出典は「武野燭談」にあるようだ。そこで江戸時代の文章で読むのに苦労するのだが、ここに引用し、江戸時代の空気を感じてもらいましょう。
 商家の者共、大名の真似のしたさに、或いは聖護院宮峯入(しょうごいんのみやみねいり)の伴をし、或いは官家公達に扶持を乞いて、其家来と号し、槍を持たせ、馬を牽かせける様なる奢り重畳して、京に、難波屋十左衛門が女房、江戸にて石川六兵衛が女房など、奢りの余りに衣裳競べにとて、 態々江戸より京へ上りけるに、難波屋が女房、此事を聞くと等しく、緋綸子に洛中の図を縫はせて着たりけるに、江戸上がりの石川が女房、東山辺を徘徊せし日の出立(いでたち)は、黒羽二重に南天の立木の染小袖ぞ着たりける。 是は見合いはするまでもなき、京の方こそ結構なれ。何の衣裳競べぞ。と、例の京童言ひはやすに、彼の小袖を能く能く見れば、南天の実は、珊瑚珠を磨らせて、悉く縫付けさせたるなり。此に至りて難波屋が負けしとなり。是れ延宝の末の物語なり。 綱吉公御代初めに、此石川江戸追放となり、是れより町人と名の付きたる者は、悉く刀を差止められ、衣類は絹、袖の外堅く制禁せられけるに、京都は猶ほも華美重畳して、石垣茶屋と云ふは、名こそこはごはしけれ。河原を見下し、崖作りにして、四壁金襴純子を以て張り、床をば畳を止めて天鵞絨を以て包み、天井をば水晶の合う天井として、水を湛へ置きて金魚を放ち、 障子には硝子にて張り、珍膳美味を尽くして、美女是を配膳す。さる程に高位の人々、さあらぬ富人も、金銀次第の遊興放埒なることなりしを、稲葉美濃守正通、所司代職の時、天和年中禁止せられけるとか。古へは長以が心持の商家多かりしとなり。貞享年中より、全く町人の奢侈天下になくなりしは、珍重の事ぞかし。 (「武野燭談」巻之十四 から)
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<主な参考文献・引用文献>
江戸時代の生活と風俗 鳶魚江戸文庫23        三田村鳶魚 朝倉治彦編 中公文庫      1998. 7.18
図説 人物日本の女性史 7 江戸期女性の美と芸      相賀徹夫・児玉幸多 小学館       1980. 4.10 
小説 江戸風狂伝 伊達くらべ                   北原亞以子 中央公論社     1997. 6.30
小説 夢魔の寝床 伊達くらべ元禄の豪商               多岐川恭 光文社時代小説文庫 1992. 3.20 
武野燭談                             村上直校注 人物往来社     1967. 7.25 
( 2005年1月31日 TANAKA1942b )
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(8)スタイリスト尾形光琳の影響力
京都東山での伊達くらべ

<東山での衣裳くらべ> いくつかの「衣装くらべ」「伊達くらべ」について見てきた。伊達くらべとしてよく知られているのは次の3件。
@江戸に住む石川六兵衛の女房が京へ出向き、難波屋十左衛門の女房と伊達くらべをしてこれに勝った件。
A同じ石川六兵衛の女房が「もう相手になる者はいない」と言って、将軍綱吉に伊達くらべを仕掛け、綱吉の怒りに触れて夫婦共々追放、屋敷家財没収の処分になった件。
B京都の町人銀座年寄の中村内蔵助の妻が「東山での衣裳比べ」にあたり、光琳の意見に従って侍女には他の妻と同じような派手な衣裳を着せ、自らは黒羽二重の表着に下は白無垢を幾重にも着重ねただけ、という地味な衣装で、これが抜群であったと世に伝えられている件。
 この3番目の「東山での衣裳比べ」は『翁草』にあるので、これを引用しよう。
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<翁草>  或人曰、内蔵介世盛りの時、畫師光琳常にしたしく来る。或時内蔵介、光琳に謂て云く、来る何日東山に於て、一家の妻室参會の事有り。某が妻女も出席するなり。定て綺羅びやかなる出會成べし、右に就て能き物数寄有らん。 其の趣向奈何と問、光琳暫く考て爾々と教示す。内蔵介諾て教に任せ、扨(さて)當日に至り、晴れの會なれば、家々の妻室花を粧ひ、段々に端の寮重阿彌が許に来り、乗物を手ぐりにして奥へ昇入れ、数多くの侍女前後をとり巻、静に乗物を出たるさま、唐のやまとの美を盡(つく)し、綾羅錦繍の目もあやなるに、得なら薫り粉々として座に着ば、追々に家々の乗りものを昇入、 徐々と居流れたる有様、何れ天人の影向綺羅天を輝す計なり、などや内蔵介室の遅きと、各待頬ふ處に少し程有て中村の乗物をあないして繰入る。皆皆あはやと彼内室の出立を詠れば、襲う帯付共に黒羽二重の両面に、下には雲の如くなる白無垢を、幾重も重ね着し、するりと乗物を出で、静に座に着けば、人々案の外にぞ有りける。扨其の外の内室我もわれもと間もなく納戸へ立て、 前に増す結構成る衣装を着替る事度々也。
 内蔵介妻女も、其の度々に納戸へ入て、着替る所、幾度にても同じ様なる黒羽二重白無垢なり。一と通りに見る時は、などやらん座中を非に見たる様なれども、元来羽二重と云う物、和國の絹の最上にて、貴人高位の御召此の上なし。去れば晴れの會故に、羽二重の絶品を以て、衣装を多く用意せし事、蜀紅の錦に増れる能物数奇なり。且つ外々の侍女の出立を見るに、随分麗敷なれども、皆侍女相応の衣服なり。 内蔵介方の侍女の衣装は、外の妻室の出立に倍して、結構なり。是光琳が物数奇にて、妻室は幾篇着替えるとも、同色の羽二重然るべし。其の代わりに侍女に随分結構なる内室の衣装を着せられよと、指圖せしとなり、去ればにや、始の程はさも無く見にしが、倩(つらつら)見る程、中村の出立抜群にて、一座蹴押され、自らふし目になりぬ。其の頃世上に此沙汰有りて、流石光琳が物数奇なりと美談せり。
 其の後内蔵介は島より召返され、剃髪して風竹と號し、漂客と成る。昔に引替たるさまなりし、余も風月の宴に折々出會たる事有しが、世を諷せし中にも、昔の優美残りなつかしき風情も見たり。去れども付け合の句は多分述懐成しも實に理なり。 (「翁草」巻十享保以来見聞雑記 内蔵介の世盛り から)
<スタイリスト尾形光琳の実力> 「東山での衣裳比べ」について「山根有三著作集3 光琳研究1」から引用しよう。
  「華麗な色彩に交わったときの白と黒の美的効果を狙った」のは、光琳の画風から見ると、元禄十四、十五年ごろの華麗な「燕子花図屏風」よりも、 正徳二、三年ごろの金地墨画の「竹梅図屏風」や「光琳乾山合作松波図蓋物」を想起させる。内蔵助は正徳二年九月から同三年三月まで江戸詰であるから、それ以後の京都在任期のうち、正徳三年と考えられる。もし「東山の衣装競べ」の時期がこのように正徳三年中と認めてよいのなら、その過奢の噂はすぐに江戸にまで伝わり、同四年五月の内蔵助追放の理由の「過奢」として取り上げられたかも知れない。もとより内蔵助の過奢はこの他にも数多くあったのだろう。なお、「東山の衣装競べ」には、光琳による白と黒の美的効果以外に、内蔵助による銀座の同僚(夫人たちも衣装競べに参加した筈)や世俗への皮肉が籠められているように想われてならない。 またそこには「宝永後期の改鋳」に対して、消極的は反応しかしなかった自分への自嘲も入っているかも知れないのだ。とにかく「東山の衣装競べ」は、光琳と内蔵助の合作であり、傑作なのである。 (「山根有三著作集3 光琳研究1」から)
白と黒の美的効果
 山根有三はこう書いている。<「華麗な色彩に交わったときの白と黒の美的効果を狙った」のは、光琳の画風から見ると、元禄十四、十五年ごろの華麗な「燕子花図屏風」よりも、正徳二、三年ごろの金地墨画の「竹梅図屏風」や「光琳乾山合作松波図蓋物」を想起させる>と。「白と黒の美的効果」というと川久保玲を連想する。 それとも川久保玲は尾形光琳を研究したのかな?以前仕事で訪れた会社、そのビルにコムデギャルソンCOMME des GARCONSが入っていて、社員は皆真っ黒のスーツなのでショックを受けたことを覚えている。しかし当時はともかく、今では <蝶々> よりはずっと自然に受け入れられると思う。
 東福門院に始まった衣装道楽が、「伊達くらぶ」へと発展し、その美的センスは尾形光琳の白と黒の美的効果を狙ったものへと進化していった。そしてその美的効果は現代へと受け継がれている。
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<伊達くらべの盛行>  こうした伊達くらべ@ABについて、大石慎三郎著「江戸時代」から引用しよう。
 近世初頭、鎖国前もその後も含めてわが国の輸入品の圧倒的大部分は白糸と呼ばれる絹糸および絹織物であった。 豪奢を好むわが国の新興支配階級に、とくにその妻子たちにこのうえもなく絹が愛好されたからである。それは急速に国民の各層にまで伝播したらしく早くも寛永19年(1642)の幕法に「村役人は絹・紬・布・木綿を着てもよいが、 一般百姓は布・木綿以外は着てはいけない」とあるのでわかるように、この段階には絹・紬の使用が一般農民にまでおよび始めていたことがわかる。この傾向は農民的余剰が一般的に成立して、庶民大衆の生活水準が急向上をはじめる四代将軍家綱の後半から五代将軍綱吉の初政時代にかけてひときわ目立つようになる。 金持ちで派手好きな妻女は金にあかせ意匠をこらした衣服をつくって、それを仲間どうしで競いあった。この衣装競争のゆきつくところが、この時代を代表する社会風俗である「伊達くらべ」、つまり「衣装くらべ」であった。
 天和元年(1681)五月、綱吉が五代将軍になってまだ一年たっていないときの話である。彼が祖先の廟がある上野寛永寺に参詣したとき、上野の町を通りかかると、ひときわみごとに飾りたてて自分を迎えている女性が目についた。 彼女は金の簾をたれ、金の屏風をひきまわした前に、これも美しく着飾らせた八人の腰元を従えて立っていた。
 調べさせてみると浅草黒船町の町人石川六兵衛の妻だということであった。綱吉は身のほどをわきまえない者、ということで早速この六兵衛一家を闕所処分(財産没収のうえ追放)の刑にしているが、彼女pの言い分は「自分は将軍の行列に”伊達くらべ”をしかけたまでだ」というのであるから面白い。 衣装くらべも行きつくところまで行ったものである。これよりさきのことであるが、この石川六兵衛の妻は、江戸には自分の相手になる女性がいないというので、はるばる京都にまで”伊達くらべ”に出かけている。このとき彼女の相手をしたのは、京都の小紅屋権兵衛の女房とも、また那波や十右衛門の妻女だともいわれている。
 ともかく石川六兵衛一家は前記のように闕所になったが、それは天下の将軍に”伊達くらべ”をしかけたからで、”伊達くらべ”そのものが悪いというわけではなかった。元禄の繁栄のなかでそれはますます盛んになったようである。
 たとえば尾形光琳の最大のパトロンであった銀座商人中村内蔵介の妻も、伊達女として有名であった。彼女が京都の東山で行われた衣装くらべに、尾形光琳の助言をいれて、みずからは白無垢の着物に羽二重の裲襠(うちかけ)を着、その侍女たちには花のごとく美しく着飾らせたのを従えて、なみいる伊達女たちを圧倒したという話は有名である。 また光琳が、江戸深川の豪商冬木屋の妻女のためにつくった”冬木小袖”は、当時の伊達の到達した美として有名である。
 東福門院和子は皇太后でもあるので、さすがに自ら”伊達くらべ”に出ることはなかったが、このような”衣装狂い”のオピニオンリーダーでもあり、またそれ故に衣装製作技術の最大の育成者でもあった。そして彼女の愛顧のもとで技術をみがいたのが尾形光琳の生家雁金屋であった。 (「江戸時代」から)
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<「女郎十一人、衣裳比べの花を競う」> これとは別に衣装くらべが行われていた、ということが江戸時代の文献に幾つか見受けられる。
 難波西横堀新町の一廓、川流山瓢箪寺に、名題の太夫に揉み込まれし禿、出家して松の上座を許され、今日水上の新談義ありと、夜見世の燈明輝き、寺中九軒の其一ヶ寺、吉田院方には五々三の高盛、嶋臺の松に小判の花咲、衣桁に十二の小袖を掛け、夜着蒲団錦の山を重ね、一ツ家の女郎十一人、 衣裳比べの花を競ひ 、次の間迄に居流れ、千秋万歳の千話箱火燵に、唐織の蒲団を掛け、能化の姉女郎寄掛て聴聞あり。 教おかれし客を泳がし、節供・正月を括りつける方便、退客を留めやう、指・爪・髪・起請の書時、泣いて見せる潮合い、振ると振らぬ床入りの身拵、色道至極の奥義を示され、今日口明け初談義、聴衆は粋の女郎共、頭の白き碩學の遣手、耳を澄まして聞居たる。新艘子擧屋に陞って發願の紐を解き、紅舌を動かし述べられける。 (「傾城禁短気」五之巻第一から)
<西鶴「好色五人女」の衣装くらべ>  「世にままならぬものは情の道」と「源氏物語」にも書き残してある。
 この春は石山寺の御開帳というので、都の人々は連れ立って、東山の桜を見捨て、逢坂山を越えて出かけるのであった。参詣の女たちは、おおかた当世風のぱっとした旅姿で、誰ひとり後の世の安楽を願ってのお参りとは見えなかった。みな衣装くらべの姿自慢、その心には観音様もふき出されることだろう。
 そのころ、おさんも茂右衛門をつれてお寺に参り、この花のように我々の命も、いつ散るもnやらわからない。この浦山の景色をまた見られるかどうかわからない身の上だから、今日の思い出に存分楽しもうと、二人は瀬田から小舟をかりて湖に漕ぎだした。 (「現代語訳 西鶴全集4 好色五人女」人をはめたる湖 から)
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<「トレンドメーカー」「トレンドテーカー」> 経済学の用語で、プライスメーカーとかプライステーカーという言葉が使われる。これを「流行」について使えば、「トレンドメーカー」「トレンドテーカー」となる。 東福門院和子、遠山久太夫の妻のお虎、細川家の女で烏丸光広の妻が当時のトレンドメーカーであったとすれば、石川六兵衛の女房、難波屋十左衛門の女房、中村内蔵助の妻、冬木屋の妻女がトレンドテーカーであったと言えるだろう。 そうしてさらに多くの女性がトレンドテーカーになり、江戸時代初期の流行を作っていった。それはそれまでの時代には考えられない「生き生きとした女性の生き方」であった。江戸時代初期は、女性解放とまでは言わないが、女性が元気になっていった時代であったのは間違いないことだ。
現代の伊達くらべ
こうした伊達くらべ、現代ではどうなのだろうか?と考えると、毎日、繁華街で伊達くらべが行われているのかも知れない。それでも改まって「現代版伊達くらべ」を行ったらどうだろうか? 例えば東京の日比谷公園で、桜の季節、花見を兼ねての「伊達くらべ」。50人ほどの参加者を募って、2時間程度、園内散策、お茶会、などを行い専門家による審査を行う。入賞者にはスポンサーからの商品授与がある。 スポンサーには化粧品メーカー、繊維メーカー、家電製品メーカーなどが参加する。一般人もこれを見て楽しむ。芸能ジャーナリズムや芸能プロダクションが多く取材に来る。江戸時代がブームなら参加者も抽選をするほど多く集まるだろう。 ミスコンテストを女性蔑視のように非難する人もいるようだが、江戸時代の伊達くらべからはそれとは違った、「元気な女性」が感じられる。ということで、現代版伊達くらべは多くの人の支持を受けるだろうと思う。
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<主な参考文献・引用文献>
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25 
翁草1                               神沢貞幹 歴史図書      1970.10.
山根有三著作集3 光琳研究1                    山根有三 中央公論美術出版  1995. 5. 1
八文字屋本全集 第2巻 傾域禁短気             八文字屋本研究会 汲古書院      1993. 3.
日本古典文学大系91 浮世草紙集 傾域禁短気            野間光辰 岩波書店      1966.11. 5
現代語訳 西鶴全集4 好色五人女            井原西鶴 暉峻康隆訳 小学館       1976. 7.31
( 2005年2月7日 TANAKA1942b )
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(9)♪ザッとおがんでお仙の茶屋へ♪
大江戸美少女噂話

<ミーハー的経済学> アマチュア・エコノミストに必要なのは「好奇心」と「遊び心」。東福門院から伊達くらべと話を進めてきた。ここではミーハー的な話を取り上げることにする。それがアマチュア・エコノミストらしい態度だからだ。 その話題とは、「大江戸美少女噂話」。朝廷の話から、豪商の妻女の話になり、それが江戸市井の美少女の話になる。だんだんと庶民に近い話になってくる。ゾンバルトの「恋愛と贅沢と資本主義」では特権階級の贅沢の話で終わっている。江戸時代の「趣味と贅沢と市場経済」では一部特権階級の話が、庶民の段階にまで広まって行く。 これが特徴だ。ということで、例によっていろんな文献から、江戸の美少女の話を引用しよう。初めは、「笠森稲荷のお仙」から。
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<お仙の茶屋>
♪♪ 向こう横町のお稲荷さんへ、一銭あげて、ザッとおがんでお仙の茶屋へ、
腰を掛けたら渋茶を出して、渋茶よこよこ横目で見たらば、土の団子かお団子団子、
この団子を犬にやろうか猫にやろうか、とうとうとんびにさらわれた ♪♪
 この江戸の童歌はよく知られていて、いまでもうたわれる。歌のなかに出てくる「お仙の茶屋」が、谷中笠森稲荷の門前にあった。鍵屋という水茶屋で、その店の看板娘がお仙(お千)である。
 鍵屋の主は五兵衛というもので、お仙はその娘であった。明和六年(1769)にお仙は十八という娘盛りであった。「美なりとて、皆人見に行く」と、大田南畝の『半日閑話』にある。
 お仙はたいした評判で、同書によると、錦絵の一枚絵、あるいは草双紙・双六・読み売りなどに、その艶姿が出て、手拭にも染められた。芝居にもとりあげられ、またいっそうの人気をあおった。 (「図説人物日本の女性史7」多岐川恭著「笠森お仙」 から)
 明和のころ、江戸の市井では「評判娘」といわれる美女たちが注目を集めていた。美女といっても、遊女や女形役者ではない。その多くは、盛り場などの水茶屋で働く美人の茶汲女であった。
 谷中笠森稲荷の鍵屋お仙、浅草寺(せんそうじ)境内の本柳屋お藤、同境内の茶屋のおよしらが特に有名で、のちに明和の三美人と称された。なかでも、薄化粧の自然美のお仙と、化粧のやや厚い都会美のお藤は大評判で、江戸の美女一、二を競った。 人気の評判娘は、絵双紙や芝居などの題材にもなり、鈴木春信らが描く錦絵は飛ぶように売れた。さらに寛政期には、喜多川歌麿らが描いた高島おひさをはじめ、難波屋おきた、菊本おはんの、いわゆる寛政の三美人が、世人にもてはやされた。 (「ビジュアル・ワイド 江戸時代館」竹内誠著「江戸の美人たち」 から)
 ところで、三美人の筆頭、つまり当世風に言うなら「ミス江戸」の椅子は、どうやらお仙のものであったらしい。 稲荷参道の水茶屋で、来客に茶を供し菓子を運ぶこの娘は、浅草境内で石臼を回し揚枝を商ういま一人の娘はと、絶えずその美貌を競わされている。しかし、当時流行の「娘評判記」の類が、およそ軍配を上げるのは、お仙の方であった。 たとえば『江戸評判娘揃』は彼女を一位に選び、『新板風流娘百人一首見立三十六人歌仙』もまた、大極上上吉にお仙を据えていた。さらに、大田南畝や伊庭竹坡、あるいは加藤曳尾庵など好事家たちの筆も、惜しみなく彼女に江都第一の美女の誉れを与えている。
「お仙」の名が、文献の上に初めて現れるのは、明和二年であるという。その年の数え歌の中で、「八つ谷中のいろ娘」と歌われたのがそれ。そして、同五年には、狂言の中島三甫蔵の科白に、「采女ヶ原に若紫、笠森稲荷に水茶やお仙」とその名を読み込まれ、また、ほぼ同じ頃から、錦絵や、双六、手拭いなどに、その絵姿が頻出するようになった。 大田南畝の「半日閑話」は、「お仙十八歳、美なりとて、皆人見に行く」と伝えている。
 ここで、私どもは、一つのことに気付かされる。すなわち、明和の美少女「お仙」は、お仙ばかりではなく「お藤」やその他の娘たちもそうなのだが、彼女たちは、「物語の種子」となるような格別の事件とも無縁に、従って物語的興味を煽るべき何らの趣向とも関係なく、ただ、その美しい姿形だけが注視されたのだった。 ひたすらに見える姿の美しさが話題となり、そのさながらの姿態に人々の視線が吸い寄せられる……。そして、このことが指し示すのは、「物語」を解体し、「映像化された身体」という形で「断片」を浮上させる、江戸後期のまなざしに他ならない。(中略)
 さて、このあたりで、私どもの視線を、いま一度、明和の娘たちに戻そう。先に触れたように、お仙やお藤の名声は、格別の事件とも、あるいはそれを種子として枝葉を繁らせた物語とも無縁であった。ただ、人々の見開かれた目に、美しい肢体として像を結び、それが市井の噂の中に浮上してきたのだ。 彼女たちは、何よりもまず、とび切りの美少女として衆の目をそばだたせる。そして、噂に高い美女ぶりに一目触れようと蝟集する好奇の視力は、彼女らの姿・形を、さながら一枚の絵のように切り取ってその美形ぶりを鑑賞し始めるのだ。こうして、生身の娘たちのたたずまいが、飽くなく見ようとする視力で「お仙」や「お藤」という一枚絵に変貌させられたとき、彼らの一瞥を、画面に引き移して、美しく紙面に摺り着けて見せたのが、錦絵作者、とりわけ、鈴木春信だったということになる。  (「大江戸漫陀羅」本田和子著「美少女へのまなざし」 から)
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<江戸の町娘おしゃれ革命>  今から230年前、浮世絵師鈴木春信は、その頃江戸で評判だった3人の美人を描いた。3人の美女とは、役者で女形で大評判の瀬川菊之丞。谷中・笠森いなり門前にあった茶屋の看板娘お仙。それに浅草の楊枝屋の娘、柳屋お藤であった。 のちにこの3人は「明和の三美人」と称された。このほか明和の評判娘は、浅草の茶屋の娘とされる蔦屋およしをはじめ、おりん、おそでなどが有名で、いずれも20歳前後の町娘である。
 3人の中で特に評判が高かったのが笠森お仙で、その名は明和年間(1764-72)に江戸じゅうに知れ渡った。化粧、髪型、履物からかんざし、櫛などの装飾小物に至るまで、江戸の町娘のおしゃれ革命は、このお仙の登場から始まった。(中略)
 お仙の名を一躍有名にした鈴木春信は、当時、美人画で名高かった浮世絵師である。その春信が谷中にある感応寺の笠森稲荷門前の茶屋に立ち寄った折、そこで参詣人にお茶を注いでいる茶屋娘お仙の姿を見て、その美しさに心惹かれた。
 それまで吉原の遊女などを題材にたくさんの美人画を描いていたが、そうしたいわゆる商売用の美しさではない、素朴で清楚な美しさをお仙に見出したのだった。そして、お仙をはじめとする町娘を描くことを決意したと伝えられる。
 お仙は当時十八歳。田畑が広がる中に寺社があるだけの江戸の端、谷中の農家で生まれ育った。
 お仙と出会った頃、春信はいくつもの色を重ねた浮世絵、「錦絵」の絵を手掛け始めたところだった。その錦絵の特徴である精巧さ、華麗さを生かしてお仙の姿を色鮮やかに描き、それが版木に彫られ次々に摺られていったのである。
 それまで普通の町娘を描いた美人画というのはなかったので、人々に大きな衝撃を与えた。評判は評判を呼んで、一回で二百枚は摺られたと思われるお仙の美人画は、刷り上がるのをまって飛ぶように売れた。また茶屋は江戸のはずれのあったにもかかわらず、お仙を目当てにやって来る人々で賑わった。
 茶屋の娘にすぎなかったお仙の人気が沸騰したことで、江戸には次々と町娘のアイドルが登場する。
 当時、江戸で人気のある美人の名前、容貌、評判そして居場所などを記した「娘評判記」と総称される読み物がたくさん出版された。そのうちの一つ「江戸評判娘揃」の中で、お仙は「大極上上吉」と、最高の格付をされている。
 お仙の人気は男性だけではなく、女性の間にも広がっていった。「美しくなりたい」と願う女性たちは、春信が描いたお仙の絵を見て、そのファッションを取り入れることに夢中になるのである。櫛やかんざしなど、お仙と同じ物を身に着けたいと思う娘たちのために、お仙関連商品も売られるようになった。
 蜀山人の名で知られる大田南畝の「半日閑話」、明和六年(1769)の条に、「……錦絵の一枚絵、或いは絵草紙、双六、よみ売等に出る。手拭に染る。飯田町中坂世継稲荷開帳七日之時、人形に作り奉納す。……」とあるのを見ても、あっという間にお仙がアイドルとして江戸じゅうに広まった様子がわかる。 (「NHKニッポンときめき歴史館」>江戸の町娘おしゃれ革命 から)
時代が変わっても失われないおしゃれ心
 天明七年(1787)、老中松平定信による寛政の改革が始まり、人材登用、財政節約、農村新興などと同時に風俗取締りも掲げられた。質素倹約を命じ、町娘が自由に楽しんだおしゃれも、その取り締まりの対象となる。
 華美な服装や髪飾りを禁じる様々なお触れが相次ぎ、寛政七年(1795)には、女髪結禁止令が出される。女性が髪を自分で結わないのはぜいたくであるとし、女髪結は転職を命じられ、違反する者は厳しく罰せられた。
 さらに、美人の姿を広く伝えることでおしゃれブームを巻き起こした浮世絵にも、厳しい規制が加えられた。絵の中に娘たちの名前を書くことを禁じ、ファッションリーダーが生まれないようにしたのである。
 しかし、この改革はあまり効果を見ず、江戸の女房、娘たちは女髪結を家へ呼んで、「知り合いに頼んだ」として秘かにおしゃれを楽しんだりした。江戸庶民のしたたかさが、こんなところにもあらわれている。
 そうした中で、一世を風靡したお仙の名もしだいに人々の話題にのぼることがなくなり、手鞠歌の中に残るのみとなった。
「向こう横町のお稲荷さんへ一銭あげてざっとおがんでお仙の茶屋へ……」
 この手鞠歌は江戸時代から明治、大正、昭和と長く歌い継がれ、お仙に対する親しみを後世の人々の心に残した。
 それは「おしゃれをしたい」という人々の気持ちが、厳しい寛政の改革の中でも失われることがなかったからかもしれない。 (「NHKニッポンときめき歴史館」>江戸の町娘おしゃれ革命 から)
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<大田南畝「半日閑話」>  「大江戸美少女噂話」、当時はどのように噂話になっていたのだろうか?いつもながら江戸時代の文章、読み辛いのだが、これで当時の空気を感じて頂きましょう。
◆笠森お仙、お藤 谷中笠森稲荷地内お千(18歳)、美也とて皆人見に行。家名は鎰屋五兵衛也。錦絵一枚絵、絵草紙、双六、よみ売等にいづる。手拭に染る。飯田町中坂世継稲荷開帳七日の時、人形に作りて奉納す。 (明和五年五月堺町にて中島三甫蔵がせりふに云、采女が原に笠森いなりに水茶屋お千と。是より評判有、其秋七月森田座にて中村松江おせんと成る)
浅草観音堂の後、いてうの木の下の楊枝見せお藤も又評判あり、いてう娘と称す。錦絵、絵草紙、手拭等に出、よみうり歌にも出る。是より所々娘評判甚しく、浅草地内大和茶屋女蔦屋およし、堺屋おそで、一枚絵に出る。
◆童謡 なんぼ笠森おせんでも、いてう娘にかないやしょまい。(実は笠森の方美なり) どうりでかぼちゃが唐茄子だ、といふ詞はやる。
◆娘評判記 此節娘評判甚しく、評判記など出る。よみ売歌仙などにしてうりあるく。公より是を禁ず。
◆とんだ茶釜 此頃、とんだ茶がまが薬鑵と化したと云ことばはやる。
 按に、笠森いなり水茶屋のおせん他に走りて、跡に老父居るゆえのたはぶれ事とかや。上野山下の茶屋女林屋お筆、もとは吉原四つ目屋大隅といへる妓なるよし。人みな見に行。名づけて茶がま女と云。錦絵に出る。
◆鈴木春信死す 十五日、大絵師鈴木春信死す。(この人浮世絵に妙を得たり。今の錦絵といふ物はこの人を祖とす。明和二年乙酉の頃よりして其名高く、この人一生役者絵をかゝずして云、われは大和絵師也、何ぞや河原者の形を画にたへんと。其志かくのごとし。 役者絵は春章が五人男の絵を始とす。浮世絵は歌川豊春死して後養子春信と名のりて錦絵を出す)
◆桜川お仙 芝愛宕下薬師堂水茶屋の美婦評判有。名付て桜川お仙とも、又仙台路考とも云。(去年あたりか不詳、仙台の産なるや)
(「大田南畝全集」第11巻 半日閑話 から)
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<江戸評判娘揃>   伝え聞婦人。軍中にて名を残せしをかぞふるに、漸く片手を満す。遠きおもんはかりなければ抔(など)と。上下(かみしも)でで羅れたら。何といゝわけを。駿河の不二より。高ひこと葉も高高と。唄三味線の耳には。何白雨(なにいふだち)と。 こちらがふっても。あちらはふらぬ。ふられぬように。あそびこのすが。しゃれものと。呑舞うたへ二つ三つ。ちょっきりこうと是をかう持て。受取たりや其次は。いよ市川と誉めさわぎ。無礼もみんな酒にきせ。きせ綿をあたゝめて。酒をいざや呑もふぞと。引受引受。其時は楚の時。嗚呼面倒な。是何ぞ五十年。女の徳をもふさは。 さもありなむか。仏も元はぼんぶのしるし。開帳場でさへ。女中者内陣へと。側近く拝ませ。麁相は勿論いゝあやまりも。女だけとそれなり。すぜうのしれぬ娘も。稽子なれは。貴人かうけに。お道外取附引附。恋なればこそ。手を取てのたまわく。屋敷のうち迄。眠りながら人耳寄行。婚礼には。呑始じめて男に戴かせ。又左ぎってうに楊弓を射習。 なが袖月夜もの。しんごさ息子かぶ。みなぶらつきの相手なり。亭主に飯をたかせ。摺子木は生きたを掴む。其外かぞふるに。いとまあらんなれど。ながいはおそれ在原の。昔男も思い出され。とても世を送るとならば。女にこそと。寝がへりをして。又れいこくの時。下になるを不思儀と思へは。茶人の女房が。始じめたか。上になる事を案事。 遊女はとつぱづして。男にくらいこませ。じんぜうな口つきでも。蔵も屋舗も。運ばせるを見ては。さりとは広ひ。江戸中で。かくれなき。大和茶の娘揃ひを。よみ売に拵らへ売歩行と。日毎にきかぬ事はなかりき。我も又。いわきならねは。其よしあしをと。早朝から。歩行廻り。今夜は根津に。起きどほし。谷中時分に帰へらんとおもへど。 いやいや飛鳥起ねはならぬ。身のうへと。道を急ひで。笠森にて日暮しぬ。なる程世間の評判大和絵師に銭儲けをさせしも。此娘の連のとくならんと。涎と汗とをぬくひながら。漸やどへ帰へり。じぐちまぢりのいゝ送りの手耳於葉。狼に衣をきせて。古寺へなをせし如く。あれ是とつまらぬ事而斯已おゝく。一ツとしてつかまへ所はなし。 ひやうたんで鯰をおさへるにひとし。嗚呼馬鹿な事に。紙をよごしぬとおもへば。よはりふしたる。枕の夢はさめたり
         海月庵
  明和丑  穐   無骨
江戸評判娘揃惣目録 時行娘之部

 武蔵野の秋広々と 咲乱たる見立茶屋花尽し左如し

巻頭
大極上上吉 鎰屋お勢ん 谷中笠森座 
名にしほふ江戸むらさきと名も高く人々の気にあいこび茶当世の立もの其色深く染たがられますもむりとはさらさらおもはれませぬ行さきざきて評判をききやう
 紫は江戸の手柄や桔梗まで

極上上吉 甲州屋お松 高なわ座 
若ひ衆の目に月夜にはあたまがぶらりしゃらりとそゝり歩行人々にも次第色深く袂の庭も気色に送りさりとは美しくそのひやうばんも高なわの葉鶏頭
 行秋に猶色深し葉鶏頭

大上上吉 玉屋おまん 鷺森座 
いかにもしっとりとやさしく打あかっておとなしく見へますさりとはてい女とふもいふ所はあるまいと見すしらぬもの迄も見ぬ恋にこがれて毎日毎日御噂をきくの花
 風に散あふなげはなし菊の花

大上上吉 住吉屋お富 浅草座 
なる程心も住吉やきれいにさっはりとして人好のあるさりとはおしあわせしせんと色は穂に出てそのたをやかなるやうすは陰なき月影にうつりすなをなる当世風はすゝきすゝき
 行秋を招や風の糸薄

上上吉 万歳屋お政 下谷広小路座 
人々の気にふれ菊は夕暮の秋風は身にしみしみと若ひ衆はとかく内證てつかわれます少しの情に世を送るよりははるかませ菊と夜昼となき評判はきつゐおかほのしら菊しら菊
 白菊や闇にあかるき立姿

巻軸
極上上吉 柳屋お不二 浅草いてふ座 
青柳硯に見へしも誠にことはりなり二町まちでも聞及びまづ柳屋へより風が妻の役は里香がつとめても鷺考いゝふんのないしこなし外にはなし地の乗物にめしてもなかなかひけはせまいせまい見せでもひやうばんはさりとは広ひ秋野のに咲乱れたるおみはへし
 名にめでゝ落馬あぐなしおみなへし
(「洒落本大成」第4巻 江戸評判娘揃 から)
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<あづまの花> とうざいとうざい高ふは御ざりますれど是よりおことはり申上まするとまくのそとの切口上年々かはらぬ役者評判記は見るばかりが百銅のいた事まれに出る吉原ひやうばんきな見た跡が百疋のいた事 爰にあらはす芸子ひやうばん記はわづか小銅で御もとめなされおわかい方には御近所の芸子などはその被成かたにて物いらずに御手に入る法も有と承はればくはしく御らんのうへ右の儀はぢきぢきの御相たいに被成ませ利勘先生此だん申上たく 下手の長口上上牛のせうべん十八丁芝のはてから神田の四ッ谷赤坂かうじ町深川本所浅草下谷すみからすみの若ひ衆へそのためのおことはりすらりっとさやうに明て和らけき年
  いきな月
     しゃれる日
          利勘先生勘当之門弟
                  道楽散人著
たちばな町 路考娘
瀬川菊之丞にいきうつしなるゆへろかう娘と称ずおよそ唐天ぢくはいざしらず日本の地においてこのきみにならぶはあらじ鼻すじ打とふりいろのしろき事ゆきかとあやまたれ 首すじなどははくちやうのとつくりにひとしゆびさきのじんじやうさ浅草くわんおん地内の女yすじに異ならずいきすぎ少もなく物ごしうるはしく義太夫の大めいじん長うたさみせんおどりの上手かみのゆひかたはでならずじみならずわるじゃれはきついきらいしらね 御方は武家そだちと見給ふもことわりぞかし
日本がし 慶子娘
中村富十郎によくにたるゆへ慶子むすめとせうずうそろそろとしまの部に入るといへ共いろつや十五六に異ならずひとへに艶顔すぐれしゆへなるべし せい高くしてほっそりと柳ごし三弦ぶんごの大めいじん少しかうまんのきみあれども是はきりやうと芸とつりあふ故なるべし 一め見る人はあはれ此世へ出たる甲斐に此やう成君とせめて一夜のまくらをかはさば死てもだいじないなど思はざるはなしまことに美女の上の吉也
横山町 里江娘
中村松江によく似たるゆへ里江むすめとせうず唐のやうきひ我朝の小野ゝ小町は当世見し人なければその実しれず今此やうなうつくしい君が又とあらばたて引がしたいどふ共こふともほむるに詞なし此きみに思はるゝ人は前生にどのやうなよきたねをまきしやらん当時の色男たち身だいを棒にふる共 此きみを一生の手がらに手にいれ給はゞまつだいの高名成べしびじんの親玉外にはないぞや
品川 亀音娘
瀬川雄次郎ににたるゆへ亀音娘とせうず芸もよくいひぶんもなけれ共おりおりむかばらをたつ事有又人のはなしのこしをおるか得手もの也何さま心にまがれる所有とみへたり
かうじ町 都巨娘
嵐小式部ににたるゆへ都巨むすめとせうずすこし女太夫といふ身あり手ぬぐひをかたにかけると人のみゝに口をよせてさゝやくがゑて物也 少しわきが有との説なれ共山の手ニてはひやうばんよし
(「洒落本大成」第4巻 あずまの花 から)
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<主な参考文献・引用文献>
図説人物日本の女性史7 江戸期の女性の美と芸           相賀徹夫編 小学館       1980. 4.10
ビジュアル・ワイド 江戸時代館                        小学館       2002.12. 1 
大江戸漫陀羅                        朝日ジャーナル編 朝日新聞社     1996. 5.10  
NHKニッポンときめき歴史館5   NHKニッポンときめき歴史館プロジェクト 日本放送協会    2000. 3.10 
大田南畝全集 第11巻 半日閑話                 濱田義一郎 岩波書店      1988. 8.29 
洒落本大成 第4巻 江戸評判娘揃 評判娘名寄草 あづまの花      水野稔 中央公論社     1979. 4.10
( 2005年2月14日 TANAKA1942b )
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(10)美少女を取り巻く文化人
平賀源内とその仲間たち

<ひろしです> 東福門院和子の衣装道楽から始まり、豪商の妻女たちの「伊達くらべ」へと進み、さらに錦絵に描かれた「お仙」をはじめとする美少女へと話を進めてきた。 ところでこうした傾向は現代ではどうなっているのだろうか?そう考えている内に、こんなことを言う人がいるのに気づいた。
 ひろしです。渋谷のギャルがみんなAV女優に見えるとです。 
 夜、センター街を歩いてみる。「なるほどな」と思う。
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<絵師春信と源内> お仙をはじめとする町娘が話題になったのは、鈴木春信が描いた錦絵の影響が大きい。そしてその錦絵は1765(明和2)年、一気に多色摺りへと進化した。その進化に平賀源内が大きく関与していた。このあたりの事情について芳賀徹著「平賀源内」から引用しよう。
 春信の錦絵創製というのは明和2年のいわば突発的ともいうべき美の開花であった。その突然の開花が生じるには、勿論当年の絵暦ブームのプロデューサー菊簾舎巨川からのさまざまの具体的な注文や指示、また交換会での絵師同士の啓発や競争が、強いうながしになったにちがいない。 だが、またその創製のプロセスにはいずれかの段階で源内の思いつきやヒントが生かされていたというのも、やはり大いにありうることだったのである。
 浮世絵は単純な墨摺りの木版から始まって、丹絵、紅絵、漆絵へと手彩の色数を少しずつ増し、その摺りや彩色の技法もしだいに複雑にはなってきたが、それが紅摺絵という紅と緑を基本にする2〜4色ほどの版彩画にまで進んだのは、1740年代半ばのころ(延享期)であったという。 それから20年ほどは、いくらか色数がふえる程度でその段階で足踏みし、春信自身にしても明和元年まではもっぱらこの紅摺絵を制作していたのだが、それが翌2年からは一挙に美麗な多色摺の錦絵へと転じたのである。
 そのにわかな変化を小林氏は蛹から蝶への華麗な変態(メタモルフォーゼン)にたとえるが、まさにそうとでもいう以外にないような錦絵の誕生には、さまざまの技術上の新工夫と、それを求める新しい美的表現への意欲とが働いていた。 一枚一色の版木を画面に次々に何枚も寸分狂わずに押しあててゆくための「見当」のつけ方の改善、地潰し、空摺り、キメコミといった素材(木と紙)の質をフルに生かした技法の驚くべきソフィスティケーション、胡粉を混じえたしっとりと不透明な中間色の多用、そしてそれらの一枚の上に何回も繰り返される馬連による摺りの強い圧力に十分耐えて応じる良質な奉書紙の採用── ざっとあげてもこれだけの新しい工夫が集中して、あの匂い立つばかりの春信の錦絵は蝶のように舞い立ったのだが、その変態の全課程とはいわずとも、そのどこかで源内のアイディアを貸すということがあったのではないか。
 およそカラクリの類が好きで、その発想にも富んでいた源内、物産学を通じて諸国の物産や種類の顔料にくわしい上に、絵やデザインにももともと心のある源内であった。製作現場の彫師、摺師ももちろん絵師春信とともに、パトロン巨川の意匠を実現するためにありったけの智恵と経験とを傾けたであろうが、それでも制作が行きづまり、失敗が続くようなとき、春信は同町内の、歩いて数十間ぐらいの浪人学者源内宅にふらりと寄って、 中津川座の磁石石や方解石のころがる間に坐って、なにかと相談することもあったのではないか。
「どうなさいました、春信さん、例のお旗本の大小(絵暦)は。……」
「いや、それがね、実は源内先生、例のところがどうもきれいにいかなくって……」
などと、1765年ごろ、日本・江戸の神田白壁町における平賀源内と鈴木春信とのやりとり──古今東西の歴史の上で、これほど魅力的な二人の対話は、ちょっと他に思い浮かばない。
 何にせよもの珍しいこと、抜きんでてあざやかな思いつきや発明は、よかれ悪しかれみな源内のものとしてしまう、後代のあの「源内病」に、万象亭森島中良はすでに罹ってしまっていたのだろうか。しかし源内は、例の「はこいりはみがき嗽石香、はをしろくし口中あしき匂ひをさる」(明和6年)であろうと、あるいは「きよみづもち、りやうごく橋辺新見勢ひらき仕候」(安永4年?)であろうと、江戸町人からの頼みならば、ごく気軽に、はなはだ達者に、 口上書き(CM文)を書いてやるような「才気」と「侠気」に富んだ男であった。同町内の町人絵師春信の絵と才に、三歳ほど年下であろうと源内が惚れ込んで、なにかと智恵を貸し助けてやったということは、やはり「大いにありえた」ことであった。「吾妻錦絵」との命名(ネーミング)さえ、もしかすると源内のものであったかもしれないのではないか。
 春信は明和二年からわずか五年ほどの間に、あのほそやかにコケティッシュな春信スタイルの美少女たちの、八百余点の錦絵で、明和の江戸を、いや1760年代の世界を美しく飾って、同七年(1770)六月、四十五、六歳であっという間に世を去ってしまった。「徳川の平和」を、そのなかで甘く熟した夢を、そのまま宿したような彼の作品は、絵暦のサークルを離れ独立した錦絵として売り出されると、もちろん江戸中の大評判となった。 越前武生の手工業(マニュファクチュア)の特産である奉書紙に、秘技を尽くして摺られ、一枚一枚畳紙に包んで売られたから、それは従来の浮世絵とは段違いに高価であったが、それでもよく売れたという。当時の町人層は懐も肥えたが眼も肥えてきていたのである。
 吾妻錦絵の評判が高まると、さっそくそれを詩に詠んで、それによって自分を売り出すような青年才子も登場してきた。戯名陳奮翰子角(ちんぷんかんしかく)、実は幕府の御徒といういちばん下っ端の役人大田南畝(1749-1823)で、その処女狂詩文集「寝惚先生文集」(明和4年)を出版したときは、まだ数えで十九歳の若者であった。
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<鏡餅を上から見た絵を描いてごらん─小野田直武> この時代のキーパーソンは平賀源内と田沼意次だ。天才であり、狂人であった平賀源内、失敗ばかりしていたが彼から影響を受けた人が沢山いる。そうした源内と取り巻く人たちに目を向けてみよう。
 源内は1773(安永2)年6月、秋田へ向かった。秋田藩鉱山技術指導に招聘され、その後何度か江戸と秋田を往復している。藩主佐竹義敦は絵心があり、家臣の小野田直武とともに源内から絵の指導を受けている。その折り源内は直武に言った「鏡餅を上から見た絵を描いてごらん」と。直武は初め意味が分からなかったが、源内は西洋画の手法を直武に教えたのだった。
 角館生まれで角館育ちの小野田直武(1749-1780)が秋田本藩の「銅山方産物吟味役」とも呼ばれる役に任じられ、あわせて江戸勤務を命ぜられて、角館を出立したのは1773(安永2)年12月のことだった。江戸へ来て直武は源内の家に同居し、絵を描いたり、源内を手伝って金唐革を政策したり、司馬江漢と西洋画について話合ったりしていた。その直武が源内の紹介により杉田玄白など『解体新書』翻訳のグループに紹介され、その翻訳書の挿し絵を担当することになる。 そして『解体新書』が1774(安永3)年8月に刊行された。実に短期間の内に直武は挿し絵を描いたのだった。そして、『解体新書』は直武の挿し絵があったからこそ価値があった、と言われている。源内も予想していなかった才能を発揮した。
<『解体新書』翻訳─中川淳庵・杉田玄白>
中川淳庵(1739-1786)は江戸生まれで江戸育ち、本草学者田村元雄の社中で源内と一緒だった。 その淳庵を通して源内と知り合い、生涯最良の友となったのが杉田玄白(1733-1817)であった。その玄白は源内が死んだあとその碑に一文を書いている。その最後の部分を引用しよう。
 嗟(ああ) 非常ノ人 非常ノ事ヲ好ミ
 行ヒ是レ非常 何ゾ非常ニ死スルヤ
 源内はドドネウスの『阿蘭陀本草』を1765(明和2)年に買って、これを翻訳したかった。二度目の長崎留学、それは田沼意次によって幕府の仕事として認められたのだが、結局オランダ語はものにできず、翻訳はできなかった。それだけに、玄白等の『解体新書』翻訳は悔しかったに違いない。しかし源内はそうした感情は出さなかった。「意地が廃れりゃこの世は闇さ」とイキがっていたのかも知れない。 この長崎留学について四年後に書いた源内の手紙がある。
 四年以前、田沼候御世話ニて、阿蘭陀本草翻訳のため長崎へ罷越し候。段々珍書共手ニ入れ、且つ蛮国珍事共承り出で、御国益二も相成り候事共数多御座候。(服部玄広あて、安永二年四月二十五日) (「平賀源内」から)
 こうして源内と意次の関係が浮かびあがってくる。
<日本初の銅版画─司馬江漢>
源内が神田白壁町に住んでいた頃、そこには小野田直武も同居していた。そして鈴木春信も度々通ってきた。そこに司馬江漢もいた。彼は初め鈴木春重となのり、春信の贋作を描いていたが兄貴分にあたる直武の助言で西洋画を学び、後に日本で初のエッチングを始める。源内からすれば孫弟子にあたるということか。 源内の『根南志具佐』に書かれた江戸の風景、それにピッタリなのが司馬江漢の「両国橋図」だ。江漢は絵だけでなく文章も沢山書いている。
<松平定信ににらまれた下役人─大田南畝>
大田南畝(蜀山人)が19歳で「寝惚先生文集」を出したとき、その序文を源内が書いている。
 <馬鹿孤ならず、必ず隣り有り。目の寄る所たまが寄る> 平賀源内は大田南畝の漢詩集「寝惚先生文集」の序で、こんなふうに書いた。「徳孤ならず、必ず隣り有り」徳ある者は孤立しない、必ず同じ類の有徳の者が出てこれを助ける、と「論語」に語るところのパロディだ。徳ある者もあつまるだろうが、馬鹿もまたあつまる。天明文化は、賢人ならぬ馬鹿が寄りあつまって出来た文化だ、という達見であった。(「江戸の想像力」から)
 南畝は売れっ子の作家になるが、田沼の時代から松平定信の時代になって、寛政の改革を皮肉った有名な狂歌「世の中にか(蚊)ほどうるさきものはなしぶんぶ(文武)といひて夜もねられず」によって、幕府からにらまれ大田南畝としての活動をやめる。その後は蜀山人と名乗って、役人と作家とを両立させながら地味に生きていく。
 源内にその処女出版作の序文を書いてもらった南畝は、山東京伝の処女作黄表紙「開帳利益札遊合」の序文を書く。この分野でも源内の孫弟子が生まれる。
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<市場を信頼した─田沼意次> 田沼意次が幕府の中心にいて政治を行っていた時代は、江戸時代にあって不思議な時代だった。幕府の政策の基本は「贅沢は敵だ」だった。程度の差はあっても常に倹約を奨励していた。このため奢侈を理由に家財没収・所払いになった町人は多い。そしてその中心には儒教や朱子学があって、外国文化の影響を嫌っていた。 ところが田沼の時代は違っていた。杉田玄白の表現を借りれば「なんとなく明るく、自由な時代」だった。源内のような天才で狂人という不思議な人間が生きて行けたのも田沼の時代だったからで、杉田玄白等の『解体新書』が出版できたのも田沼の時代だからであり、大田南畝が活躍できたのも田沼の時代だったからだ。
 江戸時代は町人が先に豊かになり、その豊かさを味わい、贅沢を楽しんだ。それに対して幕府はそれを抑え質素・倹約を奨励した。町人が趣味と贅沢で市場経済を発展させ、幕府がそれを儒教や朱子学、プロテスタンティズムの倫理などで押さえつけようとした時代だった。そして市場の勢いを抑えようとしたのが、新井白石・将軍吉宗・松平定信・水野忠邦であり、 その反対側にいて市場の力を生かそうとしたのが田沼意次と徳川宗春であった。
 「徳孤ならず、必ず隣り有り」はこの時代、源内と意次を考えるとピッタリの言葉だ。松平定信が意次を追い落としても、それだけでは「田沼の時代」は終わらなかった。それは意次一人だけで作って行った時代ではなかったからだ。そして源内も失敗ばかりしていたが、多くの人を刺激してすばらしい文化の花を開かせた。利己的な文化の遺伝子「ミーム」が東福門院から伊達くらべの豪商の妻女に感染し、 お仙をはじめとした天明の美少女へと感染して行った。そしてこの時代源内からの「ミーム」が実に多くの人々に感染していった。こうしたミームというウィルスの繁殖を抑えようとした「贅沢は敵だ」の幕府の政策があったけれども、江戸時代を通じてミームは増殖し、やがて時代は明治維新へと進んでいったのだった。
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<主な参考文献・引用文献>
平賀源内                               芳賀徹 朝日新聞社     1981. 7.20 
平賀源内を歩く 江戸の科学を訪ねて                 奥村正二 岩波書店      2003. 3.25
図説人物日本の女性史7 江戸期の女性の美と芸           相賀徹夫編 小学館       1980. 4.10
江戸の想像力                            田中優子 筑摩書房      1986. 9. 5
( 2005年2月21日 TANAKA1942b )
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(11)先に豊かになれた豪商たち
特権階級相手の商売から町人相手へ

<豪商と呼ばれた豊かな人たち> 江戸時代、先に豊かになれた人たちの中に豪商と呼ばれる人たちがいた。その中でも紀伊国屋文左衛門の名前だけはよく知られている。ここでは江戸時代の豪商について幾つか引用することにした。 象のことを知ろうと思って、目を瞑って象を撫でるとしたら、なるべく多くの所を撫でるのがいい。豪商についてもいろんな見方があるだろうから、同じようなことでも多くに人の見方を知っておこうと思う。
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<倫理観でも多視的な日本人>  江戸時代の豪商三井家には「商人に限らず、儒仏両道に心得、一向仏道にかたより候へば、家危うく成候事」とか「商人は賢者に成ては家衰ふ」という家訓が残っていた(三井高陽『越後屋反古控』)。 儒教にせよ、仏教にせよ、あまり深く信心すると家がダメになる。また、学問をやりすぎて賢人になったら家が衰える。そういう教えの中に、要するに神も仏も、適当に信仰していればよろしい、という現世的な思いが強く流れている。おそらく、西鶴の天理・冥理のようなものを念頭に置くぐらいにしてしてしてお、その日その日の仕事に励むくらいが適当ということになろうか。
 それは将軍に対しても大名に対しても、似たような態度となって現れる。いちおうの礼儀は尽くす。必要とあらば土下座して頭を下げるだろう。が、敬意を払うこともない。それは、現代人がダイアナ妃も松田聖子も区別なしに騒ぎ立てるが、いささかの尊崇の念も抱かないことにも通じる。靖国神社に参拝し、天皇を尊敬し、現代の若者にその念の薄いことを憂うる某首相にしても、 「しからば貴下は、陛下の馬前に死ぬことを光栄と思い、あるいは乃木将軍の殉死のごとく天皇に生命を捧げる心情があるか」と問われれば、「そこまでは考えていない」と答えるに違いない。
 すべて相対的で、便宜上は敬神拝仏忠君をタテマエとするけれども、キリスト教のように絶対神と対決し、神と対話をするといった態度は全く存在しない。マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読むと、宗教が経済はもちろん人間生活のすべてに一貫して影響を持っている。そこには、唯一絶対神であるザ・ゴッドにたいする信仰が核になっている。 いってみれば、その視点から、宇宙の新羅万象が整然と秩序づけられている。それに比べ、西鶴にせよ現代人にせよ、自らの生活の一つ一つに神の定めた原理が働いているなどと夢にも信じない。 (「板坂元の江戸再発見」から)
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<柏屋の花嫁>  豪商、巨商ということばで真っ先に思い泛んでくるのは、江戸八百八町に黄金を撒き散らして豪興を競い、奢りをもって人生の理想として歴史の舞台を走りぬけていった”お大尽”紀文や奈良屋といった、一種、破滅型の豪快きわまりない大商人たちの表情である。
 それと、京の都で<<金銀をもっての歓楽は、およそ心に任ぜずと云う事もなく、あらゆる事を仕尽しぬ>>といわれ、その奢侈の咎で家屋敷を闕所競売、遠島に処せられていった中村内蔵助。大坂の陣の競争成金で<<おどり屋敷を四方に構え、庭に唐、天竺の樹を植え数奇をこらした座敷は四方にビイドロの障子をたて、天井もビイドロを張りつめ水をたたえて金魚を放ち>>と、 公方も及ぶまいと噂された大坂の淀屋。そして西鶴の『日本永代蔵』のなかに登場する絲屋十右衛門の贅をきわめた姿……などであろう。
 数奇者の十右衛門は、茶入一個を買うため大八車に銀三百貫を積ませ、市中を練るようにして運ばせたという。銀三百貫は米に換算すれば七千百余石。が、一説によるとその茶入は判金千枚、つまり一万両であったという。銀に換えれば六百貫、米にすれば一万四千二百石あまり。六百貫の銀といえば、なんと表高三十万石の長州藩毛利家の年間総収入の千二百五十三貫九十匁(寛永二十年「米と金」奈良本辰也)の約半年分にあたる。 茶入一個の値段がである。
 そんな当時の巨商の、はかり知れない財力と格式の高さを象徴するような豪華な婚礼調度の品々が、昭和の現在も遣っていて見る人の目をみはらせる。江戸中期、大名諸侯をしのぐばかりの権勢を誇った京の難波屋九郎左衛門(五代目祐英)の四女里代が、おなじ京商人の柏屋孫左衛門(四代目)に嫁いだおりの嫁入道具である。
 華やかな輿入れ行列に先だって運ばれる長持ち、唐櫃、屏風箱、そして新婦が婚儀の粧いをおこなう部屋の、長谷川等伯が松を描いた金屏風をひきめぐらせた粧の間に飾りつけられた絢爛たる、おびただしい数の調度類。そのいずれもが”柳に海棠”を描いた金時絵に”丸に角立四目菱”の定紋を散らした華麗な品々であった。 粧の間の飾りつけの中心になる三つの棚だけを眺めてみても、まず中央の……金泥高時絵の厨子棚。この棚を飾っている諸道具は、沈木(じんぼく)や唐桑などで造られた梨子地時絵総紋散らしの十二手箱(鏡台2合、櫛箱4合、白粉箱4合、油桶2合)、香道具としては、香盆の上に火道具、聞香炉、重香箱。そのとなりには空薫物の香を容れた沈箱(じんばこ)。大文箱。手紙用の通箱。進物用の水引箱。左手の黒箱には、汚れた櫛を拭っておさめる、三つ櫛十一組と櫛払い刷毛をいれた払箱。 朱うるしの小角赤箱。三つ櫛一組を納めた小櫛箱。小文箱。
 三つ目の、右手の書棚には書物や巻物が置かれ、これら三つの棚の前には、金箔を貼りそれぞれ『源氏物語』の絵を描いた三百六十個の蛤を入れた六角形の貝桶が二つ。それに書見台。羅の上に朱うるしを塗った大角赤箱。眉作箱。大鏡。昆布箱。香炭箱。耳だらいや椀嗽(うがいわん)など御歯黒道具をいれた鍍金箱。髪箱。粧の間に飾られた以外の道具には、畳紙(たとう)箱。香合せの十種香箱。外出の際に携行する食事用器の食籠(じきろう)。二十人分の弁当を入れて運ぶ円筒形の行器(ほかい)。 そして上流社会でもてはやされていた双六盤に駒石。このほか化粧箪笥。裁物箱。物指箱。色紙箱。煙草盆。硯箱。長硯箱。薬箪笥。刀掛。脇息。重箱。そしてまた寝具のなかの枕だけでも、花嫁の床入りの儀に用いられる祝まくらから、花嫁の供をしてきた女たちの枕。沈香をくゆらせて眠る風流な焚掛枕などさまざまな枕がある。そしてこれらすべてが、塵取りや炭取りにいたるまで黒うるしに蒔絵した華麗なものなのだ。
 それはそうであろう。花嫁の父、那波屋九郎左衛門は、三井総本家三代の三井高房が著した『町人考見録』にも、<<京一番の有徳人>>と書いたほどの豪商であった。那波家は大名貸の関係から諸大名との交際も深く、その生活も小川通り二条上ルの松平加賀守の屋敷を買い求めて住むという豪勢をきわめたものであった。花嫁里代の祖父素順(四代目)のとき、筑前黒田藩から二百石を与えられ、槍持ちを供に昴然と京の町を往来した素順の姿は、京雀たちの話題になったという。
 享保十年(1725)那波屋の大名貸し総額、銀一万百六十貫余。時価にすると、およそ八十五億円。これをみても那波やの財力の巨きさがわかる。 (「江戸を駆ける」から)
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<元禄の豪商たち>  17世紀後半、寛文年間(1661-1673)から元禄年間(1688-1704)にかけては、社会構造が大きく変化した時代だった。もともt江戸時代の支配体制は、絶対多数の農民を「生かさぬよう殺さぬよう」にして、かれらから目一杯年貢を搾り取るかたちをとっていたが、やがて、農業生産力の向上によって、農民の手許に少しづつではあるが、余剰が残るようになった。 そうなるちお農村にも交換経済が入り込み、全国的に諸湯品流通が活発化する。商品流通の活発化は、必然的に都市の商工業者の台頭を促し、なかでも全国流通の中心に位置した三都(大坂・京都・江戸)には、莫大な資本を蓄積する豪商が多く生まれた。
 この時代の豪商たちは、社会構造の変化を反映して、大雑把に二つの類型に分けることができる。
 第1は、前代の特権商人と同様、大坂・江戸など大都市建設に伴う土木工事、建築請負、鉱山開発など、幕府や諸藩つまり政治権力と結託して財を成した者たちで、かれらはまた、その財をもって米相場や材木の買い占めなど、投機的商業を行ったという点で共通性をもっている。このタイプには紀伊国屋文左衛門・奈良屋茂左衛門・河村瑞賢らがあり、淀屋もまたこのタイプであった。
 奈良屋の場合、日光東照宮の普請にあたって、御用材木の入札を市中相場よりはるかに安い値段で落札したうえ、当時江戸の独占的材木問屋だった柏木伝衛門が抱え持っていた檜材を、幕府御用をかさにきてだまし討ち同様の手口で横取りし、二万両という大金を稼いだ。これが奈良屋が豪商に成り上がる契機になったという。 紀伊国屋は、紀州みかんの江戸送りで有名であるが、このエピソードは伝説の域を出ず、確かなところでは、江戸の大火のたびに材木の買い占めで巨富を成し、幕府の材木御用達を命じられたものという。また、上野寛永寺の造営を請け負って50万万両を稼いだという話も伝えられている。
 こうした特権商人が存在する一方、不特定多数を相手に斬新なアイディアで勝負する新興の商人たちがあらわれた。この第二の類型の代表的豪商としては、三井越後屋が挙げられる。
 天和三年(1683)、三井八郎右衛門は江戸駿河町に呉服店越後屋を開店したが、この店の商法は「よろず現金、切り売り、掛け値なし」という革新的なものだった。つまり、それまでの呉服商が訪問販売で年三回払いであったのと違い、すべて店頭売り、一銭も掛け値は付けず、したがって、値切ってもまけない、すべて現金払いで延べ売りはしない、その代わり安いというわけである。 このようなかたちでディスカウント制を導入したほか、一反以下の半端でも切り売りし、多くの手代を商品別に配置する、さらに、急ぎの注文には数十人の職人がその場で即座に仕立てるなど、越後屋の商法は、大衆サービスを徹底的に追及したものだった。
 このように、元禄という時代は、政治権力と結託して投機的商売を行う古いタイプの豪商と、大衆を相手にすることによって財を成した新興商人とが併存する時代であった。
 ちなみに、越後屋の開店は、西鶴の処女作『好色一代男』発表の翌年のことである。西鶴は『日本永代蔵』のなかで、越後屋商法について細かく記している。かれは、これら商人の姿をつぶさに観察し、自作のなかに描き込んだのである。 (「歴史発見15 元禄の豪商たち」から
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<近世本町人の登場>  経営史的には京都経済の転換は17世紀後半の庶民経済の発達をうけて、大町人の没落していく話が数多く集められており、その歴史を反省することで、新興町人としての経営哲学を確立しようというねらいが、こめられている。
 近世初頭の朱印船貿易や金・銀座の経営、大名貸しの金融業などで、莫大な財産を蓄えた大町人が京都には数多くいた。しかし、『町人考見録』が引用した事例だけでも、大名貸、驕奢、愚かなること、投機事業、闕所等々の理由で没落したものが七十家以上にのぼっている。 その資産家度も京坂第一の大両替商とか、上京で一、二といわれる大名貸の問屋であったとか評される巨商ぶりであり、資産は二、三十万両あるいは銀数千貫と称される人びとであって、年収からいえば数万石規模の小大名に匹敵するものあったという。 (「京都 歴史と文化1」{政治・商業} から)
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<昔は掛算今は当座銀>  以前は将軍家や大名方の御婚礼、または年末の衣配りの際などには、その係の小納戸方の役人の好意で、一商いしてもうけたものである。ところが昨今は、大名方が出入りの商人だけにまかせず、入札(いりふだ)で請け負わせるようになったために、商人たちはすこしの利益を目当てに競争するので、 おたがいにじり貧となり懐は苦しく、ただ世間体ばかりで御用をととのえるようになった。あまつさえ多額の掛売りの代金は、数年でこげついてしまい、そのもうけは、京都の両替屋が預金に対して支払う利息にもおよばず、上方の問屋に払いこむ為替銀の支払いにも手づまって難儀している。そうかといって、これまで拡張してきた店を、 にえあかにしまうわけにもいかず、自然と小商いになってしまうのである。つまりは引き合わぬ算盤、この分でいくと江戸店(だな)だけ残って何百貫目の損が目に見えているのだから、足もとの明るいうちに、格を下げてでも身代を建て直そうと、それぞれ思案している時節に、また商いの道はあればあるものである。
 三井九郎右衛門という男は、手持ちの資金に物をいわせて、家康が鋳造させた駿河小判も思い出される駿河町に、間口九間に奥行四十間という棟の高い長屋を造って新店(しんだな)を出し、すべて現金売りで掛値なしと定め、四十余人の利発な手代を思うままにさばき、一人に一品を受け持たせた。たとえば金襴類一人、日野絹・郡内絹類に一人、羽二重一人、紗綾類一人、 紅類一人、麻袴類一人、毛織物一人というふうに手分けして売らせた。おまけに天鵞絨一寸四方、緞子を毛貫袋になるほど、緋繻子(ひじゅす)は槍印になるだけの長さでも、竜門は袖覆輪の片方だけでも、求めに応じて売り渡した。ことに奉公口きまった侍が、にわかに主君にお目見えする際の礼服の熨斗目(のしめ)や、急ぎの羽織などは、その使いを待たせておいて、数十人もかかえる職人が居ならび、 即座に仕立てて渡してやる。そんなふうだから家が繁盛し、毎日百五十両ならしの商売をしたという。世の調法とは、この店のことである。
 この亭主を見ると、目鼻手足があって、ほかの人と変わったところはないが、ただ家職にかけてかしこいだけである。大商人の手本といってよかろう。いろはの番号をつけた引き出しに、中国や日本の絹布を畳みこみ、そのほかさmざまの古渡りの絹までととのえてある。たとえば中将姫の手織の蚊帳、人麻呂の着た明石縮、阿弥陀如来の涎掛け、朝比奈三郎が着ていた舞鶴の紋所のある布、達磨大師の座布団、 林和靖の括り頭巾、三条小鍛冶の刀袋まで、何によらず無いというものがない。あらゆる物が帳面に書きこんである。まことにめでたい。 (「日本永代蔵」から)
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<特権商人─賄賂─役人>  17世紀後半の日本は、各地の城下町建設が急ピッチにすすみ、材木などの建築資材をあつかう商人の活躍が目立った。ことに最大の城下町である江戸では、大火がしばしばおこり、材木の需要は非常に大きかった。
 「材木」、それは今日であえば鉄鋼に相当する江戸時代の期間商品であった。城も屋敷も橋も、そのほか何をつくるにも欠かせぬ中心的建設資材である。
 折しも、五代将軍綱吉による元禄政治が展開した。神仏への信仰心が厚く、また学問好きでもあった綱吉は、護国寺や寛永寺根本中堂や湯島聖堂などの造営をはじめ、日光東照宮や下総香取社などの修復事業をつぎつぎに命じた。
 このような官営の土木事業には莫大な資金がいる。源田慰留にいえば、いくつもの高層ビルや高速道路や新幹線の建設に匹敵するような大事業である。綱吉は、幕府財政が不足してきたため質の悪い貨幣を大量に増鋳し、これらの建設資金に投下した。
 こうした元禄政治に対する従来の評価は、すこぶる悪かった。綱吉の浪費ぐせによる悪政だというのである。しかし近年の評価はだいぶ風むきが違ってきている。すなわち、幕府主導の大規模な財政投資事業をつぎつぎに断行することにより、民間の活力を刺激し、 日本経済全体の底上げをはかった良政だというのである。
 ともあれ、こうした綱吉の政治に便乗し、材木商人が利を得る機会がいっそう増大した。新井白石は自叙伝『折りたく柴の記』において、「前代(元禄時代)に土木の功しばしば起りしより、材木の価騰り貴くなれる事、古今の間いまだ聞かざる所なり、(中略)されば材木をあきなふ商人共の、たちまちに家を起して、某は幾百万を累ぬといふもの、 いくらといふ数しらず」と指摘している。
 紀文も奈良茂(ならも)も、まさにこの元禄時代の潮流にあざやかに乗って、短時日の間に江戸の超一流の豪商にのしあがった。
 特権商人─賄賂─役人(政治家)、という三題噺は、いつの世にも通用するようだ。ことに、官営の土木事業がさかんであった元禄時代には、新井白石も指摘しているように、請負の利権を獲得しようと暗躍する材木商人と、彼らと結託して私腹を肥やそうとする賄賂役人の横行が顕著であった。
 一攫千金をめざす投機的材木商人にとっては、絶えず新たな利権の獲得を意図して、自己を宣伝しておく必要があった。たとえ少々背伸びしてでも、金を湯水のごとく遊び捨てることによって、財力のあるところを誇示し、自分とむすんだ役人には、賄賂をたんまり出すぞと暗示しておく必要があった。 吉原は、自己宣伝と役人饗応の場として、格好の場所であった。才智にたけた紀文や奈良茂のことである。ただ無目的に、ばかな豪遊をしたわけではない。
 しかし元禄期をすぎるころから、濫伐による山林の荒廃が顕著となり、また城下町の建設も一段落するなど、商品としての材木が需要・供給両面ともに悪化したため、材木商たちはつぎつぎに転・廃業を余儀なくされた。
 とくに不正役人を退け、諸事緊縮を旨とする新井白石の「正徳の治」の展開は、彼ら特権商人にとっては致命的であった。しかも元禄の貨幣悪鋳によるインフレ経済時代から、正徳・享保の良質貨幣鋳造のデフレ経済時代を迎え、もはや一攫千金は昔日の夢と化した。
 紀伊国屋文左衛門と奈良茂左衛門の盛衰は、いずれも政権の交代と軌を一にしていた。その意味で二人は清祥であった。地道で堅実な商人道からみれば、それは元禄の夜空をいろどる一瞬の花火にも似た存在であったといえよう、 (「大系日本の歴史10」から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
保坂元の江戸再発見                          保坂元 読売新聞社     1987. 7.31
江戸を駆ける                            神坂次郎 中央公論社     1986.10.25 
歴史発見15 元禄の豪商たち              NHK歴史発見取材班 角川書店      1994. 8.30
京都 歴史と文化1{政治・商業}                林屋辰三郎編 平凡社       1994. 4.18 
日本永代蔵 現代語訳西鶴                    暉峻康隆訳注 小学館ライブラリー 1992. 4.20 
大系日本の歴史10                          竹内誠 小学館ライブラリー 1993. 4.20
( 2005年2月28日 TANAKA1942b )
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(12)少し遅れて豊かになれた人たち
木綿の普及が生活革命

<人は着る物によって意識が変わる> 朝廷・幕府関係者が贅沢をし始め、それを真似て金持ち町人が贅沢をし始めた江戸時代初期、庶民は木綿の普及によって意識革命がおこり始めていた。 柳田国男はその著書『木綿以前の事』で、江戸時代に木綿の普及が生活を変えたことについて書いている。今週はここから話を始めることにしよう。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<木綿以前の事>
 (一)
 『七部集』の附合(つけあい)の中には、木綿の風情を句にしたものが三ヶ所ある。それから木綿とは言ってないが、次の『炭俵』の一節もやはりそれだろうと私は思っている。
   分にならるる娵(よめ)の仕合    利牛
   はんなりと細工に染まる紅うこん  桃隣
   鑓(やり)持ちばかり戻る夕月    野坡
 まことに艶麗な句柄である。近いうちに分家するはずの二番息子の処へ、初々しい花嫁さんが来た。紅をぼかしたうこん染めの、袷(あわせ)か何かをきょうは着ているというので、もう日数も経っているらしいから、これは普段着の新しい木綿着物であろう。 次の附句は是を例の俳諧に変化させて、晴れた或る日の入り日の頃に、月も出ていて空がまだ赤く、向こうから来ると鑓と鑓持ちとが、その空を背景にくっきりと浮き出したような場面を描いて、「細工に染まる紅うこん」を受けてみたのである。 またこれとは反対に、同じ恋の句でも寂しい扱い方をしたものが、『比佐古』の亀の甲の章にはある。
   薄曇る日はどんみりと霜をれて     乙州
   鉢いひ習ふ声の出かぬる        珍碩
   染めてうき木綿袷のねずみ色      里東
   撰(よ)りあまされて寒き明(あけ)ぼの  探志
 この一聯の前の二句は、初心の新発意が冬の日に町に出て托鉢をするのに、まだ馴れないので「はちはち」の声が思い切って出ない。何か仔細ありそうな、もとは良家の青年らしく、折角染めた木綿の初袷を、色もあろうに鼠色に染めたと、若い身空で仏門に入ったあじきなさを嘆じていると、 後の附句ではすぐにこれをあの時代の、歌比丘尼の身すぎの哀れさに引移したのである。木綿が我邦(わがくに)の行われ始めてから、もう大分の年月を経ているのだが、それでもまだ芭蕉翁の元禄の初めには、江戸の人までが木綿といえば、すぐこのような優雅な境涯を、聯想する習わしであったのである。 
 (二)
 木綿が我々の生活に与えた影響が、毛糸のスエーターやその一つ前のいわゆるメリンスなどよりも、遙かに偉大なものであったことはよく想像することができる。現代はもう衣類の変化が無限であって、とくに一つの品目に拘泥する必要もなく、次から次へ好みを移して行くのが普通であるが、単純なる昔の日本人は、木綿を用いぬとすれば麻布より他に、肌につけるものは持ち合わせていなっかたのである。 木綿の若い人たちに好ましかった点は、新たに流行して来たものというほかに、なお少なくとも二つあった。第一に肌ざわり、野山に働く男女にとっては、絹は物遠く且つあまりにも滑らかでややつめたい。柔らかさと摩擦の快さは、むしろ木綿の方が優っていた。第二には色々の染めが容易なこと、是は今までは絹階級の特権かと思っていたのに、木綿も我々の好み次第に、どんな派手な色模様にでも染まった。 そうしていよいよ綿種の第二回の輸入が、十分に普及の効を奏したとなると、作業はかえって麻よりも遙かに簡単で、僅かの変更をもってこれを家々の手機で繰り出すことができた。そのために政府が欲すると否とに頓着なく、伊勢でも大和・河内でも、瀬戸内海の沿岸でも、広々とした根市が綿田になり、綿の実の桃が吹く頃には、急に月夜が美しくなったような気がした。 麻糸に関係ある二千年来の色々の家具が不要になって、後にはその名前まで忘れられ、そうして村里には染屋が増加し、家々には縞帳と名づけて、競うて珍しい縞柄の見本を集め、機(はた)に携わる人たちの趣味と技芸とが、僅かな間に著しく進んで来たのだが、しかもその縞木綿の発達する以前に、無地を色々に染めて悦んで着た時代が、こうしてやや久しく続いていたらしいのである。
 (三)
 色ばかりかこれを着る人の姿も、全体に著しくかわったと思われる。木綿の衣服が作り出す女たちの輪廊は、絹とも麻ともまたちがった特徴があった。そのうえ袷の重ね着が追々と無くなって、中綿がたっぷり入れられるようになれば、また別様の肩腰の丸味がでてくる。全体に伸び縮みが自由になり、身のこなしが以前より明らかに外に現れた。ただ夏ばかりは単衣の糊を強くし、或いは打盤で討ちならして、僅かに昔の麻の着物の心持ちを遺していたのだが、それもこの頃は次第におろそかになって行くようである。 我々の保守主義などは、いわば只五七十年前の趣味の模倣にすぎなかった。そんな事をしている間に、以前の麻のすぐな突張った外線はことごとく消えてなくなり、いわゆる撫で肩と柳腰とが、今では至って普通のものになってしまったのである。 それよりも更に隠れた変動が、我々の内側にも起こっている。すなわち軽くふくよかなる衣料の快い圧迫は、常人の肌膚を多感にした。胸毛や背の毛の発育を不必要ならしめ、身と衣類との親しみを大きくした。すなわち我々には裸形(らぎょう)の不安が強くなった。一方には今まで眼で見るだけのものと思っていた紅や緑や紫が、天然から近よって来て各人の身に属するものとなった。 心の動きはすぐ形にあらわれて、歌うても泣いても人は昔より一段と美しくなった。つまり木綿の採用によって、生活の味わいが知らず知らずの間に濃(こまや)かになって来たことは、かつて荒栲(あらたえ)を着ていた我々にも、毛皮を被っていた西洋の人たちにも、一様であったのである。 (「木綿以前の事」から)
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<新・木綿以前の事>  『木綿以前の事』が書かれたのが1939(昭和14)年のこと、それから50年経って『新・木綿以前の事』とのタイトルの書が出版された。『木綿以前の事』の話の続きとしてこちらも取り上げることにしよう。
「おあむ」の生い立ち
 戦国から江戸の初めに生きた一人の女性の昔語りが記録されて、今日に伝えられている。『おあむ物語』である。
「おあむ」は多分「御庵」で、彼女の本当の名前ではあるまい。晩年出家して尼僧となったので、「御庵さま」と呼びならわされていたのであろう。しかし名前が分からないから、ここでは「おあむ」を名前のような形で使わせてもらうことにする。
 おあむの父は、山田去暦といって、石田三成に仕え、300石の知行を受けた侍だった。初め近江の彦根の城におり、のち関ヶ原合戦のときには、美濃の大垣城にたてこもった。おあむも父に従って大垣に籠城し、家中の女たちと一緒に鉄砲玉を鋳たり、味方が取ってきた敵の首を上級者に見せるため、おはぐろをつけたり気丈に働いた。そのとき流れ弾丸に当たって戦死した弟は14歳だったというから、おあむは20歳少し前の年頃であったろう。 この物語を記録した人物も、奥書で、おあむのことを「寛文年中(1661-73)八十歳にして卒す」といっているから、当時20歳前という推定に誤りはないと思われる。  
かたびら一つの育ち盛り
 このおあむは、戦国末期の生活について、いくたの貴重な証言を残している。その中で、いま私が注目しているのは、朝夕「雑水(炊)」しか食べられなかった食生活の貧しさの話につづいて、衣生活について述べた次の一節である。
「さて、衣類もなく、おれが十三の時、手作のはなぞめの帷子一つあるよりほかには、なかりし。そのひとつのかたびらを、十七の年まで着たるによりて、すねが出て、難儀にあった。せめて、すねのかくれるほどの帷子ひとつ、ほしやと、おもふた。此様にむかしは、物事ふ自由な事でおじやつた。……今時の若衆は、衣類のものずき、こころをつくし、金(こがね)をついやし……沙汰の限りなこと」
 年寄りが、「今の若者はぜいたくだ」というのはいつの世も同じセリフでおもしろいが、おあむの衣生活はそれにしてもきびしいものだった。若い乙女の恥じらい心も日増しに強くなる十三歳から十七歳という育ちざかりの四年間、着たきりスズメの暮らしだったというのは、なんとしてもおどろきである。いかに乱世とはいえ、主君を持ち、しかも三○○石の知行も取る侍の娘である。それがこのような貧しさを強いられていたというのは、いったいどうしたことなのだろうか。
 おあむの話に誇張があれば別だが、とりわけ意図的にうそを語ることがらでもないから、実際にそうだったと受け取るほかはない。そのおどろくべき衣生活の貧しさの理由として、私は彼女のいう「帷子一つ」に注目する。
 「帷子」というのは、裏をつけない一重の着物である。その素材は、生絹(紗に似た薄織りの絹)のこともあるが、それは贅沢な場合で、普通は麻地である。戦前では、夏の着物として麻の帷子という言葉は、私たちの暮らしの中でも生きていた。
 とすると、おあむは、夏冬通じて、一重の麻の着物一枚で通したわけである。今ではとても信じられないが、古代や中世ではこの種の麻の一重を、寒い折りには何枚か重ねて着るというのが衣生活のごく普通の姿であったから、夏冬通して「帷子」ということ自体にも特別の不審はないのである。
麻の時代と木綿の時代
 では、おあむは、どうしてもっとたくさんの衣類をもっていなかったのか。中世の絵巻物類を見ると、子供がはだかで遊んでいる光景が描かれており、実際そういう育て方が行われていたくらいだから、全体に寒さに対しても薄着で過ごしたことは考えられる。 しかし主たる理由は、やはり、多数の衣類をそろえるということが、一般にむつかしいことだったからと考えるのが筋である。
 結論を先にいうと、おあむの少女時代は、日本人の衣料の中心が麻であった時代の最後の段階に当たっていた。ちょうどそのころから木綿が普及し始め、急速に麻にとって代わるのであるが、おあむはまだ麻の帷子で乙女の時代を通したと思われる。 
 衣生活における麻の時代と木綿の時代とでは、以下詳しく考察してゆくが、非常に大きな違いがあった。麻の時代の民衆の衣生活は、原料植物の栽培から紡績・織布にいたるまで、全体として未分化で自給性が強い上、一反の生地を作りあげるまでの手間は非常に多くを必要とした。それにくらべると、木綿の時代は、原料作物栽培、紡績、織布の工程の分化が進み、全体として商品生産の度合いが高まるとともに(この点はのちに詳しく検討する)、 そもそもその生産工程は、麻とくらべるとはるかに効率がよく、手間が少なくてすむものだった。
 そのため、麻の時代から木綿の時代に入ると、日本人の衣生活は一変し、衣服の保有量の点でも一挙に豊かになった。おあむが昔を回顧しつつ、今の若い衆は好みにまかせたくさんの衣類を買っている、というのは、かならずしも贅沢な絹の着物だけを指しているわけではなく、木綿の着物が以前にくらべ容易に手に入るようになったからである。 (「新・木綿以前の事」から)
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<木綿の普及は文化革命>  江戸時代に入ると、文化革命といってよいほどの変化が社会の諸方面に現れた。柳田国男の『木綿以前の事』で取り上げられている木綿の普及もそのいちじるしい例の一つだが、これをパーセントで見れば、江戸時代初期にコットン使用は8パーセントの壁を破ったということができる。 万葉集の時代には、木綿は貴重品のように貴ばれている。そして、人が身に着けるものは麻か絹に限られていた。それが江戸時代に入ると、絹は贅沢品と見なされ、庶民は木綿を着るよう強制されはじめた。柳田は、木綿の綿ゴミが空中に飛び交い、日本の空の色が汚れてきたに違いないと、時代の変化を詩的に描いているが、現代でいえばテレビや自動車・冷蔵庫・洗濯機などの普及によって生じた生活革命に匹敵する変化を、江戸時代初期の人は体験したと考えてよい。 (「板坂元の江戸再発見」から)
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<衣類以外にも大きな変化が起きていた>  人が自分の生活を考える場合、比較するのは他人と、過去のことだろう。江戸時代の庶民が自分の生活を考えて、「周りの人たちとあまり変わりはない。昔よりはずっと良くなった」このように考えたと思う。そのように考えたであろう理由は、木綿の普及による衣料革命であり、その他にも大きな変化があった。こうしたことについて考えてみよう。
生産の伸びとともに庶民の生活も豊かに
 戦国時代以来の大規模な開発に基づく生産力の発展と経済成長は、武士や民衆の生活を飛躍的に向上させた。享保改革期の農政家で幕府の代官を勤めた田中丘隅は、著書『民間省要』において、 「衣食住の哀レさをいはゝ、誠ニ涙もとゝめ難し。ケ様の事も近年そろそろと変し、世とともに食事もよくなれり」 と、 かつて貧しかった衣食住が年とともによくなったと述べている。
 衣の分野では、麻から木綿へと衣料の変化が起きた。木綿は丈夫で着心地がよく、保温と吸湿にすぐれていた。しかし、戦国時代以前は、朝鮮や明からの輸入に頼っていたため、いまだ高価であった。戦国時代になり、兵衣・陣幕や鉄砲の火縄などに仕様され、需要が高まると、三河・河内・摂津・伊勢などの各地で木綿栽培が急速に発達し、武士や民衆の間に普及した。
 木綿を用いた衣服として、小袖・帯・羽織・浴衣などが普及したが、これらは斬新な模様や色彩とともに、さまざまな流行を生みだした。
 履き物も、かつて民衆の多くは裸足であったが、江戸時代になると草履・下駄・草鞋などが広く普及した。傘や合羽が普及したのも江戸時代である。
 享保18年(1733)に刊行された『当世風俗通』には、当時流行りの髪型として本多髷があげられている。この本には、髪型以外にも羽織や頭巾をはじめ装飾品も示されている。
 18世紀後半には、女性の髪を結う女髪結も広く見られるようになり、流行の髪型が広まった。このほか、髪の油・鬢付油・笄(こうがい)・挿櫛・お歯黒・黛など、化粧品や装飾品も大いに発達した。
 江戸時代は、衣の分野で武士や民衆の生活に大きな変化が見られ、ファッションの大衆化・多様化とともに、さまざまな流行が見られるようになったのである。
食──1日2食から3食へ──
 食も大きく変化した。菜種油やろうそくによる灯火の広がりとともに1日2食から3食へと増えた。武士や公家は米を主食としたが、民衆の多くは雑穀を用いた。 魚の煮物や野菜など1,2菜のおがずも定型化した。おかずは味噌、醤油、砂糖などで味をつけた。南蛮料理から生まれた天麩羅や、中国料理から伝わった卓袱なども普及した。
 初物食いなど、季節を先取りして競って食べる風習も広まった。江戸では、4月ごろに伊豆や相模湾でとれた初鰹を食べることがさかんになった。幕府は貞享3年(1686)に、生シイタケは正月から4月まで、梨は8月から11月まで、蜜柑は9月から3月までなど、商売期間を決めた「初物禁止令」を発布して、ぜいたくや価格の上昇をおさえようとしたが、金さえ出せば人より早く食べられるということから、ブームはなかなか静まらなかった。
 江戸では、貞享4年ごろに上方から鮨が伝わったが、文化・文政期になると、江戸湾でとれるさより・穴子・白魚など、豊富な魚介類を素材に、握り寿司がおこり、江戸前寿司として広まっていった。
 参勤交代し伴う武士や奉公人・出稼ぎ人など、単身の男性が多い江戸では外食産業が発達した江戸前期はお茶漬けのような感嘆なものであったが、18世紀半ばには屋台の食べ物屋や料理茶屋が普及した。
 屋台で人気があったのは、蕎麦屋や天麩羅屋などで、江戸後期から幕末期の風俗を記した喜多川守貞『守貞謾稿』は、江戸の蕎麦屋の多さについて、「今の世、江戸の蕎麦屋およそ毎町一戸あり、不繁昌の地にても四,五町に一戸なり」と述べ、万延元年(1860)には夜鳴き蕎麦屋を除き、3763軒の蕎麦屋があったことを記している。
 他方、京や大坂においては饂飩屋が普及し、「京坂の饂飩屋、繁昌の地にておよそ四,五町に一戸なるべし、所により十余町一戸の当たるもあり」と、その普及ぶりを記している。東西の食文化のちがいが明確化したのも、江戸の後期であった。
 また料理茶屋の料理について、「今の世、三都ともに士民奢侈を旨とし、徳に食類に至りては、衣服等と異にして、貴賤貧富の差別なきがごとし」と、衣服で武士と庶民の差があっても、領地ではほとんど差がないと述べており、身分のちがいを越えて食文化が発達したようすがうかがえる。
近代に連なる生活習慣の確立
 以上のように、江戸時代は衣食住の各分野において武士や民衆の生活が大きく変化し、新たな生活習慣が確立した時代であった。そしてこの生活習慣は、明治以降の近代社会へと連なるものであった。
 鎖国体制下で確立した日本型の生活は、その後の西欧化、近代化の過程においても、日本社会の基底で重要な役割を果たしたのである。 (「ビジュアル・ワイド 江戸時代館」 大石学著「生産の伸びとともに庶民の生活も豊かに」 から)
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<主な参考文献・引用文献>
木綿以前の事                            柳田国男 岩波書店      1979. 2.16
新・木綿以前のこと 苧麻(ちょま)から木綿へ             永原慶二 中公新書      1990. 3.15 
ビジュアル・ワイド 江戸時代館                        小学館       2002.12.
板坂元の江戸再発見                          板坂元 読売新聞社     1987. 7.31
( 2005年3月7日 TANAKA1942b )
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(13)金さえあれば、何でも買える風潮
改革とは幕府の「贅沢は敵だ」政策

<マネーゲームは悪なのか?> トレンド・メーカー東福門院から始まった衣装狂い、これが豪商の妻女の伊達くらべへと進化し、江戸の美少女が錦絵のスターになった。この流れを支えたのは、人々が豊かになったということだ。マネー・ゲームでの勝者が豪商になり、その豪商の座を新興商人が狙う。資本主義経済の原型がこの江戸時代初期にはっきりしてきた。 しかし、イギリスでの産業革命初期とは違って、過酷な労働条件での工場労働者は出ていない。それでも豪商たちは「金さえあれば、何でも買える風習」を作っていった。それに対して幕府は幾度も「奢侈禁止令」を出している。幾度も出しているということは、結局効果はなかったということだ。大本営と同じ「贅沢は敵だ」は「贅沢は素敵だ」に変わった。 それでも「贅沢は敵だ」は時代を超えて主張されている。現代でも「金さえあれば、何でも買える風習は良くない」との主張を支持する人がいる。「ライブドアが時間外取引でニッポン放送の株を大量に買った。これは違法ではないが、グレーゾーンだ。そして何よりも<< 金さえあれば、何でも買える風習 >>が良くない」と、解説する人がいる。十分に金があって、今更取り立ててほしいものがない人は金に執着しない。しかし、 「もっと金があれば、もっと欲しい物が買える。もっと金があるといい」と言う人。「もっと金があれば、他人が考えていないようなユニークな、有効な使い方が出来る」と考えている人がいる。この人たちは「贅沢は敵だ」とは考えていない。TANAKAは前者で、堀江貴文は後者です。
 「もっと金があれば、他人が考えていないようなユニークな、有効な使い方が出来る」と考えている人の中から「官に逆らった経営者」が出てきた。
@日銀総裁からは「ペンペン草を生やしてやる」と言われ、世界銀行からの資金融資をもとに大胆な、そしてやや無謀とも言える設備投資をした川鉄の西山弥太郎。
A大切な外貨でトランジスタの特許を買って、「井深さんはトランジスタ補聴器を作るのですか?」と冷やかされた東通工(現ソニー)。 その補聴器はシーメンス(siemens)が作っている。シーメンスに関しては 戦後復興政策 ヨーロッパ 西も東も社会主義 で次のように書いた。
 ドイツの電機産業と言えばジーメンス。ヨーロッパ企業の売り上げでは、(1)ロイヤル・ダッチ・シェル、(2)ブリティッシュ・ペトロリューム、(3)ダイムラー・ベンツ、(4)フォルクスワーゲン、(5)ユニレバー、(6)ジーメンス、の順になる。 しかしこのジーメンス、OECD報告にみられるようにマイクロ・エレクトロニクス(ME)技術革新の立ち後れが問題になっている。東ドイツ、東ヨーロッパ、共産圏との前線基地国として政府、西ヨーロッパ諸国、アメリカなどの意向に企業は逆らうことが出来なかった。それが長く続き保守的な経営になり、デジタルICの重要性を過小評価し、機械工学に対する固執と過大評価の企業行動をとった。こうして1970年代前半にLSI-超LSI世代の開発に立ち遅れ、技術開発力の停滞が半ば構造化する。現在ジーメンスは高速化・大容量化がいっそう進むDRAMの自力開発が困難であり、しかも半導体売上高が国際競争に耐えうる臨界点にあるとさえ言われている。戦前からの伝統ある企業も時代の変化を感じ取る経営者が現れないと、新規参入のベンチャー企業・モルモット企業の後塵を拝することになる。 この業界についても、日本は「比較的政府関与の少ない、自由主義経済」であったと言える。少なくとも「日本株式会社」という表現は不適切であった。
B通産省事務次官佐橋滋と喧嘩した本田宗一郎、「うちの会社にはな、本田宗一郎という気違いがいてな」「本田宗一郎が本気を出せば何でもできるんだ。世間の奴らはその恐ろしさを知らないがね」との藤澤武夫の言葉で四輪車参入を決意した本田宗一郎、これまた無謀な決断でもあった。
C日本の流通機構を大きく変えた「宅配便」、そのヤマト運輸は苦し紛れの決断でもあった。従業員に給料を支払うためには「金さえあれば、何でも買える風潮は良くない」などとは言っていられなかった。
<江戸時代の改革とは>
 江戸時代の三大改革とは、「贅沢は敵だ」政策であり、「金さえあれば、何でも買える風習」を正そうとする権力者の政策であり、抑えようとしたのは、町人の「贅沢をしたい気持ち」であった。そして「マネーゲーム」や「市場でのメカニズムを生かす仕組み」を否定するものであった。それでも抑えきれなかったのは、町人の市場でもマネーゲームの力の強さだった。 市場の力を発揮させたのは豪商をはじめ町人であり、その町人が力をつけ、武士階級が抑えきれなくなって幕藩体制が崩壊した、と考えられる。この「金さえあれば、何でも買える風習は良くない」との政策実行者は新井白石・将軍吉宗・大岡越前守忠相・松平定信・水野忠邦であり、積極的な経済政策をとったのは荻原重秀・田沼意次・徳川宗春であった。 現代日本で「金さえあれば、何でも買える風習」を正そうとする人たちは……、マスコミ報道を注意深く見ていれば分かるでしょう。
 そして多くの評論家は、「どちらに味方した方が今後仕事がしやすいか?」考慮中で、自分の意見をハッキリ言わない。それでも「早い内に現勢力側に見方した方が良い」、と判断した人もいる。
 30歳過ぎて conservative であっても、かつて liberal であったときの熱い heart は失いたくない。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<淀屋の米市>  「金さえあれば、何でも買える風潮」を正そうとして幕府は豪商を奢侈を理由に処罰した。その例を挙げてみよう。
 大坂の豪商として淀屋辰五郎の名前は有名である。大変な金持ちで豪奢な生活ぶりが幕府のにらむところとなり、五代目辰五郎(三郎右衛門)のとき財産を没収されたと伝えられている(淀屋の闕所)。 この淀屋は山崎の岡本荘出身で、岡本氏を名乗っていた。豊臣時代に初代の常安が材木商を大坂十三人町(十三軒町ともいう、のち大川町)で始め、大坂の陣では徳川家康の陣小屋を作ったとされている。その褒美として山城国八幡に土地をもらい、大坂に入る干鰯(ほしか)の運上銀を与えられたという。 常安は開発町人の一人で中之島を開発し、常安町・常安橋はその名残である。二代目三郎右衛門言当(ことまさ)は个庵(こあん)ともいい、京橋青物市場の開設や葭島(よしじま)の開発、糸割符の配分にも尽力した。しかし个庵の事跡として著名なものは米市である。 淀屋は諸国から大坂に上がってくる諸藩の米を売りさばくことを請け負う蔵元を務めていたが、北浜の店先で市を開き、これが米市場の始めとなった。この市に参加する人々の便宜のため私費で土佐堀川に架けたのが淀屋橋である。淀屋の米市は北浜の米市とも呼ばれ、多くの米問屋が集住していた。 この北浜の米市は元禄十年ころに新たに開発された堂島新地に移り、堂島米市場として賑わうようになった。
 淀屋は初代常安、二代个庵の時期に日本一の豪商に成長した。それは、諸大名蔵米・蔵物販売や大名貸を行ったことによっている。淀屋の驕奢として知られているのは、四代重当(しげまさ)のこととされるが、その有様を当時の『元正間記』は、
 家作の美麗たとへて言へき様なし、大書院・小書院きん張付、金ふすま、(中略)ひいとろの障子を立、天井も同しひいとろにて張詰め、清水をたたへ金魚・銀魚を放し
 と記している。建物は金を張り詰めて金のふすまを立て、夏にはビードロ(ガラス)の障子をめぐらせ、天井にもガラスを張ってその中には金魚・銀魚を泳がせたというのである。 誇張もかなりあると思われるが、いかに豪奢な生活ぐりかがわかる。四代目の重当は経営にはまったく関与しなかったといわれている。そのため、大名からの返済金もしだいに滞るようになり、経営が悪化した。
 淀屋の闕所として知られているのは、宝永二年(1705)、五代目広当(ひろまさ)が新町遊郭に通い、吾妻太夫を身請けしたが、その二千両という金を工面するため、淀屋の手代が第三者の印判を偽造し、天王寺屋を信用させて金を借りたが、これがもちに発覚し、手代は蓄電したため当主の広当が捕らえられ、 吟味の結果、印判偽造(謀判)は資材であるが、減刑されて闕所・所払いになったというものである。広当は十九歳とも二十二歳とも伝えられている。身請けの金策かどうかは断定できないが、手代が今でいう私文書偽造を行い、偽印を使用したことで処罰されたのである。 普通辰五郎とされるが、辰五郎と名乗ったのは二代言当と四代重当であり、通常辰五郎といわれているのは四代と五代を混同してのことと考えられる。 (「大阪市の歴史」から)
<闕所事件の背景>
 四代重当は元禄10(1697)年に没し、その跡を継いだ五代目の三郎右衛門も町人の分際をこえた豪奢な生活をした。この三郎右衛門が、闕所の処分をうけた辰五郎と推定される。
 このさい、幕府に没収された淀屋の莫大な財産は諸書によってまちまちであり、いずれもそのまま信用できる数字ではない。まじめに計算していくと、金10億両とか20億両とかいう、国家予算どころではない、ばかげた金額になってしまう。
 しかし、そうした数字になる大半の要因は、たとえば「大名衆へ貸銀、凡そ1億貫目」などとあるように、大名への貸付高が巨額にのぼっているからである。これによって、その絶対値は信用できなくとも、淀屋の莫大な大名貸活動を推察することは可能であろう。
 要するに元禄〜宝永期(1688〜1711)に、淀屋の諸大名に対する債権があまりにも巨額となり、大名たちは淀屋に対し身動きできぬ状態となった。そこで幕府は諸大名の財政を救うため、倹約令違反という口実のもと、強引に淀屋を処罰したと考えられる。淀屋辰五郎の闕所事件は、表面的にはその驕奢な生活が、幕府の咎めの理由となったが、 その背景には、このような大名財政の窮迫を救うために、淀屋一家が犠牲にされた事件であったと言えよう。 (「大系日本の歴史10」から)
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<婦女の衣服を統制>  幕府の「贅沢は敵だ」政策を扱った文章を幾つか取り上げてみよう。
 天和三(1683)年正月に幕府は「金紗・縫物・惣鹿子は、今後婦女の衣服に用いることを許さない。すべて、新奇の織物・染物を製造してはならぬ。小袖の表、一端の代銀二百目を限ること」と布令した。 また二月になり、「商人にあっては、かりに月俸を給わるものでも、今後帯刀してはならない」という命令も出した。また同月に、「失火の節または旅行のときであっても、商人の帯刀は一切禁じる」命令した。
 それから同じ二月には、「先日命令した商人帯刀衣服検査のため徒(かち)目付を差し出し、違反すうるものは逮捕せよ」と触れた。商人帯刀のことは、前代すでに触があったが、年来の旧習がことごとく定まらないので、このたびまた令を出して、厳しく禁じたのである。 このころ、小舟町一丁目に石川六兵衛という豪商があった。その妻は非常な奢りもので、常に紗、絹、毛織物を着し、晴れがましい所へは、さまざまな金入りを着て出た。天和中、将軍がはじめて東叡山寛永寺へ参詣したとき、かの六兵衛の妻は行列を拝もうと黒門前に桟敷をかけ、黄金の簾をめぐらし、名香をくゆらせ、左右に赤の縮緬の大振袖を着た切禿(かぶろ)の女人を侍らせ、 自分はその中央に座して、将軍通行の歳に簾を巻き上げさせて拝した。これ見た綱吉が、町人に似合わしからぬ奢り方であると、夫婦を遠流(おんる)に処し、その家を潰してしまった。後で夫婦の寝室を見ると、天井を玻璃で張り、金魚を放して寝ながら眺めるようにしてあったという。また、大伝馬町の丸屋という豪商の妻女は、将軍通行の際、家の中で伽羅を焚いたが、この香は世にも稀な名木であることを誇って焚いたのを咎められ、 糾問の結果、日ごろの奢侈が発覚して、同様遠流に処せられた。(徳川太平記)
 このころの幕政の根本理念は、農業至上主義の考えであったから、商人が商するとき、買い取った物に対して三割、四割と値をつけ不当に高利をむさぼり、他人の弱みにつけ込むことは不道徳な行為で、悪であると考えていた。したがって、士・農・工・商という階級制度のなかの最下位におき、富があり、奢る商人をみれば、わずかの口実がありさえすれば取り潰すのであった。 (「物語日本の歴史・第23巻」から)
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<寛文・天和の衣装法度──国産織物の大回転>  こうした幕府の政策について三田村鳶魚はどのように書いているのだろうか?『江戸の生活と風俗』のなかの「寛文・天和の衣装御法度」と題された分を引用しよう。
 近年のような意味で、市民生活に制限を加えたことは、江戸時代にないのでございます。幕府の改革は、いつでも倹約を同道しないのがなく、その倹約は、必ず奢侈を禁じるのが定例でした。それもそのはず、改革はいずれも政治費節減を主要とするものですから、約三百年に、おおきな改革は、寛文・天和・享保・寛政・天保と、前後5回ありました。 その他にも、奢侈抑損はしばしば行われたのですが、五大改革の際には、殊更その取り締まりが緊しい。しかし、七七禁令とは意味合いが違うので、みだりに比較することも出来ませんけれども、ここには、寛文・天和の二大改革の衣装法度を捉えて、その大略の様子を眺めることにいたしましょう。あたかも、寛文ないし天和度は、わが国の織物業の開展し始めた際でもございますので、他の三大改革よりも、そこを考慮すべきところが多いかと存じます。
 寛文三年十月晦日、京都及び江戸の呉服調達店へ命令された制限は
  女院御所、姫君方、うへの御服一おもてに付、白銀五百目(銀六十目を金一両に換算)より高直に仕間敷(つかまじるまじく)候。
  御台様(武家では将軍の夫人のみの称)、上の御服一おもてに付、白銀四百目より高直に仕間敷候。
  御本丸女中(将軍の奥向きに仕えるもの、武家女奉公人の最高頂にあり、故に、諸大名、諸旗本の仕女は、皆これより順次に逓減するはず)、上の小袖一おもて、白銀三百目より高直に仕間敷候。
 これで、公家、武家を通じて、一切の扶助の最高分限者を初めて制限いたしました。江戸時代には、奢侈の解釈が終始一貫しておりまして、分限に相応いたしたのは奢侈だはなく、不相応なのを奢侈ということになっておりました。それゆえ、その品物によってすぐに奢侈と決定いたしません。前記の法令にいたしましても、女院御所・御台所・御本丸女中と申すのが、その分限なのでございますから、その方々にそれが相応でも、大名・旗本の奥方にすれば、不相応になります。 その相応不相応を品物で申すよりも、代価で申す方が、制限いたすのに明確適切だったのでございましょう。
 同十二年四月十三日に、当業者に対して、縮緬・紗綾・綸子・羽二重・晒布を上中下三段にいたし、毎月二日に値段の届け出を命じ、また、真綿・絹・紬をも前記の通り三段にいたし、相場の上がった度ごとに、届け出るように命じました。これで、制限の品柄が知れました上に、、もっぱら売方を抑えたことも知れます。幕府は更に、長崎貿易について、輸入織物の綸子・絖(ぬめ)・縮緬・絖綸子・羽二重・袖・木綿・真綿を、校訂値段で取引させることにいたしました。これで前記の品柄が主として輸入物であったのが知れます。
 天正年中に、シナの職人が堺へ来て、織り方を伝えまして、錦・金襴・繻子・絖綸子・縮緬を生産いたし、堺の織物業が盛んになり、それを京の西陣へ移しましたのは、寛文になってからのことらしゅうございます。西陣俵屋の唐織と申した錦も、それより以前のものでがざいますまい。縮緬も堺伝来なのでございますが、西陣で良品が出来るようになりましたのは、天和年間のことで、紋縮緬・柳条(しま)縮緬を織りだしたと申します。 岐阜・長浜・峰山は、縮緬の産地として名高うございますが、その業を西陣から伝来したのですから、それも後年のことです。天鵞絨(ビロード)は、慶長中に、西陣へ阿蘭陀(オランダ)の法を伝えて産出したと申します。綾は、天正年間から、西陣で織り出していたと聞きましたが、紋紗綾・綾唐織・加女(かめ)綾・八反掛柳条綾は、天和度からの産出で、皆シナ様式を学んで、巧妙に転化したのに過ぎません。
 寛文五年(家継将軍の時)に、一端の長さを二丈六尺と定められましたが、その時は、国産の好い絹織物がだんだん出回った機会なので、京と堺とで織ったのを羽二重といい、美濃・加賀・丹後の産を撰糸と言ったそうでございます。品物は違いませんが、名称は別でありました。本場と場違いという心持ちででもございましょうか。その際、京産の紋羽二重・綾羽二重は大いに賞賛されたものだそうでございます。同時に、筑前・上野・下野・越前・越中・但馬等で、盛んに絹を織り出しまして、諸国へ売り出しました。 かく寛文度には国産の絹織物に精品も出来、種類も増加し、国々にも織物業が起こった様子でございます。しかし、まだまだ外国品が来なければならなかったとみえます。
 転じて民間の方を眺めてみますと、代価でなく、品目で制限してございます。寛文八年三月に、庄屋は、絹・紬・布・木綿・脇百姓は、布・木綿に限る。ただし、紫及び紅梅の染色は相成らぬ、と申すので、これは、既に寛永三年、同二十年にも同様な規定がございます。慶安元年二月には、町人の召仕は絹布(平ぎぬ以上)は相成らぬ、絹または紬に限る、また、町人は羅紗のカッパを着用してはならぬ、と見えます。これで町人に外国織物を需要するもののあったが知れます。 武家の奉公人にも、寛永八年十一月に、歩侍(かちざむらい)は、練羽二重より上の衣類を着用してはならぬ。同十二年十二月には、歩・若党の衣類は、紗綾・縮緬・平島・羽二重・絹・紬・布・木綿のまかを停止す、弓・鉄砲の者は、絹・紬・布・木綿、小者・中間は、すべて木綿に限る、と定めました。弓・鉄砲の者と申すのは、麻布・細よみなどを言うのでございます。 これだけは、寛文以前に決まっておりましたから、寛文改革には、主として最高分限にある御女性に対する制限が、先頭に立つように、あったのでございます。その時の睨みは、輸出品もしくは国産でも最優良品で、その需用者はどこにあったかも知れます。
 さて、この取り締まりにつきまして、寛文八年十一月十日、御老中方申合書付に、
   婦人衣類等の儀、同列申合の書付
  縫入り候間着、持合の品にても、以来着いたす間敷事、
   但、かいどり下は勿論、帯付の節も同様の事
  衣服あつらへ候とも、先達て仰出され候直段の上に出ざる様に申付、勿論の事。
 とあるのが目をひきます。かかる取締りには、警察力が加わらなければなりませんが、従来は、町与力・町同心がだんだん動いておりますけれども、寛文度には、御徒目付(おかちめつけ)が巡回して、御法度の衣類着用の者があれば、一々主人の名前を書き留めることになっているから、家来どもの着衣のみだりにまらぬようにせよ、という達しがございます。 民間よりも武家階級を取り締まる方が主要であったのかと存じます。それも、寛永八年には、御法度の衣類を着用した者があれば剥ぎ取れ、と命じたのに、寛文度は取締りもだいぶ穏当だったらしゅうございます。 (「江戸の生活と風俗」寛文・天和の衣装御法度 から)
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<婦女の衣服を統制─「徳川実紀」から>  江戸時代の公式文書であった「徳川実紀」から、こうした問題についての部分を引用しよう。
寛永十九年
 廿四日、この日郷邑に令せらるゝは、祭礼仏事等美麗になすべからず。男女衣類前に定められし如く。庄屋は絹。紬。布。木綿を用ひ。其他の農民は布。木綿のみを着し。其外の品は襟帯にも用ゆべからず。嫁娶に興用ゆる事停止すべし。 身に応ぜざる屋舎も向後造るべからず。公料私料共に本田圃に煙草植べからず。荷鞍に毛氈かけて乗るべからず。また來癸未年より。各村に木をうへ林を取立べしとなり。(紀伊記、令條記、日記) (「徳川実紀」寛永十九年(1642)五月 から)
延享元年
 三日令せらるゝは。市井の男女衣服の事。前にも度々令せしが。頃日ことさら美麗を用ゆるよし聞ゆ。いとひが事なり。前々定しごとく絹。紬。木綿。布の外は一切用ゆべからず。もし着せしを見及ばゞ。めし捕べきと申付べし。旦また婚姻する時。身に応ぜざる品。あるいは金銀。蒔絵の調度用ゆる事停禁さらる。 違犯するにをいては。とがめらるべしとなり。(憲教類典) (「徳川実紀」延享元年(1744)十月 から)
将軍綱吉への伊達くらべ
 廿八日 浅草黒船町の市人六太夫といへる豪商。この八日寛永寺御参のとき。御行装を拝せむと市人等あまた道路につどひたる中に。六太夫をのがとめるまゝ。家の男女みな美麗によそひ出しを御覧あり。市人に似つかはしらぬ奢侈なりとて。其宅地牧公せられ。其身を追放せしめらる。 (「徳川実紀」天和元年(1681)五月 から)
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<ようく考えてみよう。お金は大事だよう>  資本主義社会での企業活動は「マネーゲーム」であり、企業活動とは「利益追求活動」に他ならない。 江戸時代商人の考えた経済社会は市場経済であったが、幕臣はその経済システムを理解していなかった。幕藩体制維持だけを考えていて、そのために経済システムまでは考えが及ばなかった。 たとえば「大坂堂島米会所」、享保15(1730)年に幕府は公認するのだが、そこでの価格が市場のメカニズムによって決まる、ということが分かっていなかった。このため将軍吉宗は米会所に対して、米価格を高く維持するよう指示している。
 「先に豊かになれる者から豊かになる」は経済の常識であり、人々が豊かに成る速度が速ければ早いほど所得格差は広がる。平等を望むなら経済成長を遅らす必要がある。 ところでライブドア堀江社長のニッポン放送株取得問題、マスコミは興味本位で扱っている。テレビとはそういうもので、「公共性」は単なる建前で、視聴率をとるためには興味本位で扱うこともしばしばある。それにしてもテレビ東京のWBSでさえ、興味本位で扱っていた。 「落とし所は何処ですか?」との質問は、自民党と野党との国会運営委員会での駆け引きに対する質問だ。また「日本人の感覚に合う」とか「合わない」とかは、評論家同士でも会話でしかない。 マネーゲームのプレーヤーは自己の利益追求に専念すればいい。アダム・スミスの表現を借りればこのようになる。
 かれは、普通、社会公共の利益を増進しようなどと意図しているわけではないし、また、自分が社会の利益をどれだけ増進しているかも知っているわけではない。外国の産業よりも国内の産業を維持するのは、ただ自分自身の安全を思ってのことである。そして、生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは、自分自身の利得のためなのである。だが、こうすることによって、かれは、他の多くの場合と同じく、この場合にも、見えざる手に導かれて、自分では意図してもいなかった一目的を促進することになる。かれがこの目的をまったく意図していなかったということは、その社会にとって、かれがこれを意図していた場合に比べ、かならずしも悪いことではない。社会の利益を増進しようと思い込んでいる場合よりも、自分自身の利益を追求するほうが、はるかに有効に社会の利益を増進することがしばしばある。社会のためにやるのだと称して商売をしている徒輩が、社会の福祉を真に増進したという話は、いまだかつて聞いたことがない。もっとも、こうしたもったいぶった態度は、商人のあいだでは通例あまり見られないから、かれらを説得して、それをやめさせるのは、べつに骨の折れることではない。 (「国富論」第4編 第2章「国内でも生産できる財貨を外国から輸入することにたいする制限について」から)
 好奇心と遊び心があれば「ネットとラジオ、テレビが結びついたら、どんなメディアが出来るだろう?可能性がイッパイありそうだ。堀江社長はどんな夢を持っているのだろう?」このように質問すると思うけれど、あの場にいた人たちには好奇心も遊び心もなかった。そしてアダム・スミスも単なる歴史上の人物でしかなかったのだろう。 日経新聞の影響下にあるテレビ東京でさえ得意であるはずの経済問題を興味本位で扱っている。経済学の香りなどこれっぽっちもしない下世話な週刊紙的扱いしか出来なくなっている。この分野にも新規参入の緊張感が必要だ。
 ビル・ゲイツでさえ「市場経済は弱肉強食の社会だ」その通り。産業界では、今トップにいる企業も「われわれの次の競争相手が、どこからともなく現れて、ほとんど一夜にしてわれわれを業界から追い出すかもしれない」という恐怖心をもっている。 (「ビル・ゲイツの面接試験」から)
 マスコミ関係者がこのような緊張感で仕事するように、新規参入の危機感を与えなくてはならない。そうでなければ社員までが反対声明を出す企業になってしまう。反対意見の出ない自家不和合性に陥った組織になってしまう。江戸時代のことを考えながらも、現代の問題が頭から離れない。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
大阪市の歴史                         大阪市史編纂所 岩波書店      1999. 4.20
大系日本の歴史10                          竹内誠 小学館       1993. 4.20
物語日本の歴史・第23巻 ─騒動に明け暮れる江戸の権力─      笠原一男編 木耳社       1992.11.10
江戸の生活と風俗 鳶魚江戸文庫23          三田村鳶魚 朝倉治彦編 中公文庫      1998. 7.18
国史大系 第40巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1964.12.31
国史大系 第46巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1966. 2.28
国史大系 第42巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1965. 4.30
国富論 アダム・スミス                     大河内一男訳 中公文庫      1978. 4.10
ビル・ゲイツの面接試験       ウィリアム・パウンドストーン 松浦俊輔訳 青土社       2003. 7.15 
( 2005年3月14日 TANAKA1942b )
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(14)リーガル・パターナリズム
小さな政府の大きなお世話

<幕府の衣装お節介─『徳川実紀』から> 今週のタイトルは「リーガル・パターナリズム(legal Paternalism =温情主義・お節介主義) 小さな政府の大きなお世話」。金さえあれば、何でも買える風潮に対して、「贅沢は敵だ」政策をとった江戸幕府。現代でもこの「贅沢は敵だ政策」と同じ考えの政治家・財界人がいる。 ライブドア堀江貴文社長のニッポン放送株取得問題も「贅沢は敵だ」主義の権力者と、そうした既得権者がいるのを知りつつも金で買える物は買うことにしようとする新規参入者との争い、と捉えると分かりやすい。 そうした「贅沢は敵だ」政策を江戸時代の公式文書であった『徳川実紀』から、関係する記事を抜き出してみた。
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寛永十九年五月  廿四日、この日郷邑に令せらるゝは、祭礼仏事等美麗になすべからず。男女衣類前に定められし如く。庄屋は絹。紬。布。木綿を用ひ。其他の農民は布。木綿のみを着し。其外の品は襟帯にも用ゆべからず。嫁娶に興用ゆる事停止すべし。 身に応ぜざる屋舎も向後造るべからず。公料私料共に本田圃に煙草植べからず。荷鞍に毛氈かけて乗るべからず。また來癸未年より。各村に木をうへ林を取立べしとなり。(紀伊記、令條記、日記) (「徳川実紀」寛永十九年(1642)五月 から)
寛永二十年二月
 十八日万石以下の侍を営中に召して、老臣仰をつたふるは。先年より諸士奢侈を禁ぜらるゝところ。近年また奢を競ふきこえあれば。いよいよ慎み(てトア)。先令を守り。をのをの質素をむねとすべし。この後奢侈のふるまひするものあらば。采邑を牧公せられ。其上厳刑に処せらえうべしとなり。(紀伊記) (「徳川実紀」寛永二十年(1643)二月 から)
慶安元年二月
 この月令せられしは。市井泥濘の道路は。浅草砂に海砂まじへ。道途高低なく中高に築くべし。芥ならびに泥もて街道を築くべからず。下水の樋井に路傍の溝渠壅埋せざるやう塵芥を除くべし。もしそむくものは曲事たるべしとなり。 また市井めし仕ひ絹布着する事。前にゆるされしことあれば。このゝち絹袖のみを用ゆべし。市人はいふまでもなく。店かり。借屋の者までもこの旨厳に守るべし。刀脇差美麗に造るべからず。羅紗の雨衣着すまじとなり。(大成令) (「徳川実紀」慶安元年(1648)二月 から)
寛文八年二月
 廿八日。此日令せらるゝは。各国村里の醸酒。累年の半額たるべき旨令せらる。よて減額を注記し。勘定所に出すべし。領内の寺社領たとへ御朱印賜はり。税額のそとたりとも。醸酒の額は各地領主。代官よりかき出すべし。 本田圃に煙草培栽いよいよ停禁せらる。厳に曉告すべしとなり。」又大目付。目付より伝ふるは。侍。若党衣服。紗綾。縮緬。綸子。あま島を停むべし。元よりたくはへし羽二重は苦しからず。毛羽織あるは雨衣用ふべからず。直参のともすがら麁品を用ふべし。老臣の家士はすでに絹布のみ着せしめ。毛織はかたくとゞむれば。各其心すべしとなり。(日記、御側日記、年録) (「徳川実紀」寛文八年(1668)二月 から)
寛文八年二月
 廿九日。目付して達せらるゝは。歩行。若党。紗綾。縮緬。毛布のたぐひ。是まで貯へたりとも着すべからず。羽織は貯へしまゝに着ふるし。重て裁縫の時。絹。紬より上品を用べからずとなり。(日記、大成令、憲教類典) (「徳川実紀」寛文八年(1668)二月 から)
寛文八年三月
 三日。この日目付のともがらより伝ふるは。こたび火災により節約の令を下され。麾下の士等衣服。絹。紬を着するも苦しからずとの盛慮なれば。老臣もこれをはゞかり。家士等此のち紗綾。縮緬。毛布のたぐひ着する事を禁じ。羽二重。ひら縞は着ふるすまゝにして。かさねてつくる時は。絹。紬の外は禁ずれば。各家人等にも曉告し。思ひ違ふ事なく。元より貯ふる衣服はひそかに着し。この後つくらしむげからずとなり。」 (日記、御側日記、令條記、憲教類典) (「徳川実紀」寛文八年(1668)三月 から)
寛文八年三月
 七日。大目付より伝ふるは。このたびの火災により。いよいよ倹素をかたく守り。卑賤艱困せざらんやう曉告すべし。麾下の士ことに疲弊に及べるをもて。当時当直は絹。紬。木綿袴を着すべき旨令せらる。 直参のともがらすらかうやうに麁服を着すれば。藩士はことに麁悪を用ひ。綸子。紗綾。縮緬等。其他美麗をはゞかるべし。其品により。制を定めては令せられ難し。直参のともがら麁服を着すれば。それに准じ。末々のともがら其ほどほどに麁簿を用ゆべし。 又藩士には城持しもあるにより。藩士は何品と概して令し難し。熨斗目は名代の使。あるは賀使の時のみ着せしめ。其時宜に遣ひてとひはからふべし。熨斗目もて上下のうらとするは。元より用ひはらひし事なれば苦しからず。平亀綾。羽二重の小袖。羽織。貯へしは着すべし。こは絹。紬にまがへるもあれば。 新たに制するは絹。紬を用ゆべし。在府の時贈答の書簡又は口伸には。歩行使たるべし。かく毎事簡易に令せられるうへは。月次の朝會延引の時も。其事触らるまじ。主人の賜物といへども。紗綾。縮緬。綸子。其他美麗の衣服憚るべし。従者の衣服美麗に見え。憚らざるに似てしかるべからず。 老臣の家士近頃絹。木綿を着せしむれば。いかにも麁品を用ゆべし。毛布のたぐひ。かたく着すべからずとなり。(大成令、日記) (「徳川実紀」寛文八年(1668)三月 から)
寛文八年三月
 八日。此日長崎奉行に論告せらゝは。真綿。くり綿。絹。紬。木綿織物。麻布。染物。蝋燭。銅。漆。油。酒。今年より異域にをくるべからず。但油。酒は船中の常用に備ふるはくるしからず。 薬品の外植物。生類。諸器材。金絲。薬剤とならざる唐産類。珊瑚樹。たんから。丹土。蘭産器物。唐草。ひょんかつ。衣服の用に充らざる美麗の布帛等。かたく舶来せしむべからず。羅紗。羅脊板。猩々緋の三種はゆるさるべし。その他の毛布は禁ずべしとなり。(年録、大成令) (「徳川実紀」寛文八年(1668)三月 から)
寛文八年五月
 四日、此日猿楽等。鼓吹手。狂言師まで刀帯る事禁ぜらる。よて條制を下さる。旅行の時も鎗もたすべからず。をのをの其技をもはらとし。につかわしからぬ他技をなすべからず。 衣服は絹。紬を着すべし。猿楽催さるゝ時は。大夫の宅に集まり試業すべし。すべて若党めし具すべからずとなり。役者惣員三百七十人。此旨堅く守るべしとなり。(日記、御側日記、年録) (「徳川実紀」寛文八年(1668)五月 から)
将軍綱吉への伊達くらべ
 廿八日 浅草黒船町の市人六太夫といへる豪商。この八日寛永寺御参のとき。御行装を拝せむと市人等あまた道路につどひたる中に。六太夫をのがとめるまゝ。家の男女みな美麗によそひ出しを御覧あり。市人に似つかはしらぬ奢侈なりとて。其宅地牧公せられ。其身を追放せしめらる。 (「徳川実紀」天和元年(1681)五月 から)
天和三年二月
 三日長崎奉行に仰下されしは。羅紗。猩々緋。其外毛織の類。并に金糸。其外衣服に用ふべからざる織物・珍禽。奇獣及び薬品にあらざる植物。木材。はた器財。翫具の類。来泊するとも買上ぐべからず。此よし唐蘭の商人にも曉論すべしとなり。(日記、大成令) (「徳川実紀」天和三年(1683)二月 から)
天和三年二月
 五日市井に令せらるゝは 金紗。繍物。惣鹿子。今より後婦女の衣服に用ふる事許さず。すべて新奇の染物を停止すべし。小袖の表一端価銀二百目限りたるべしとなり。(日記) (「徳川実紀」天和三年(1683)二月 から)
天和三年二月
 十九日。進献の時服に。伊達染。紋縞。純子。繻珍を禁ぜられる。向後は男子の着用すべき服を献ずべしとなり。(日記) (「徳川実紀」天和三年(1683)二月 から)
天和三年六月
 十四日。けふ令せられしは。明日山王の祭礼。ねりものゝ品々。ならびに人形の衣装。あるは其事にあづかりしもの迄も。制限の外華飾すべからず。見にまかる者も。是におなじかるべしとなり。(日記、大成令) (「徳川実紀」天和三年(1683)六月 から)
貞享元年六月
 この月令せられしは。市井にて屋形船みだりにつくるべからず。今よりのち新に造らんとおもふものは。あらかじめ町年寄へまうして指揮うくべし。もし申いでずして作るものあらば。過失たるべしとなり。(大成令) (「徳川実紀」貞享元年(1684)六月 から)
延享元年十月
 三日令さらるゝは。市井の男女衣服の事。前にも度々令せしが。頃日ことさら美麗を用ゆるよし聞ゆ。いとひが事なり。前々定しごとく絹。紬。木綿。布の外は一切用ゆべからず。もし着せしを見及ばゞ。めし捕べきと申付べし。且また婚姻する時。身に応ぜざる品。あるいは金銀。蒔絵の調度用ゆる事停禁せらる。 違反するにをいては。とがめらるべしとなり。(憲教類典) (「徳川実紀」延享元年(1744)十月 から)
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<生類あわれみの令>  江戸時代、幕府のお節介と言えば「生類あわれみの令」が思い浮かぶ。
  【解読文】   覚
一兼而被 仰出候通 生類あハれミの志、弥
 専要に可仕候、今度被 仰出候意趣ハ
 猪鹿あれ田畑を損さし、狼者人馬
 犬等をもそんさし候故、あれ候時計
 鉄砲にてうたせ候様ニ被 仰出候 然處ニ
 万一存たかひ生類あハれミの(「心」脱)わすれ、
 むさと打候者有之候ハヽ急度曲
 事に可申付事 (以下略)
 読むのに疲れるので、読み下し文を引用しよう。
  【読み下し文】  覚
一、兼て仰せ出され候通り、生類あわれみの志、いよいよ専要に仕るべき候、 今度仰せ出され候意趣は、猪鹿あれ、田畑を損ぜさし、狼は人馬犬等をも損ぜさし候故、あれ候時ばかり、鉄砲にて打たせ候よう仰せ出され候 然る処に、万一、存じ違い、生類あわれみの(心)忘れ、むざと打ち候者これ有り候わば、きっと曲事に申し付くべき事。
一、御領・私領にて猪鹿あれ、田畑を損ぜさし、或いは狼あれ、人馬等損ぜさし候節は、前々の通り、随分追いちらし、それにても止み申さず候わば、御領にては御代官、手代、役人、私領にては地頭より役人ならびに目付を申し付け、小給所にては、その頭々へ相断り役人を申し付け、右の者共にきっと誓詞致させ、 猪鹿狼あれ候時ばかり日切を定め、鉄砲にて打たせ、そのわけ帳面にこれを駐し置き、その支配支配へきっと申し達すべく候、猪鹿狼あれ申さず候節、まぎらわしく殺生仕らず候ように堅く申し付くべく候。若し相背く者これあらば、早速、申し出で候様に、その所々の百姓等に申し付け、みだりがましさ儀候わば、訴人に罷り出で候様に兼々申し付け置くべく候。 自然隠し置き、脇より相知れ候わば、当人は申さず(申すに及ばず)、その所の御代官・地頭、越度たるべき事。
右の通り堅く相守り申すべき者也
    巳の六月日

是は御付紙の御文言
猪鹿狼打ち候わば、その所に慥かに埋め置き、一切商売、食物に仕らざるべく候、右は猟師の外の事に候
右御書付の通り、きっと相守り申すべき者也
    元禄二巳年七月日
(「独習江戸時代の古文書」から)
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<生類憐れみ令>  同じような令が幾度も出されているので、別な文章を引用しよう。
   【読み下し文】  覚
一、そうじて馬に荷付け候儀、その馬の様子により荷物の分量を考え、馬難儀致さざるように軽く付け申すべく候。並びに道中荷付馬定めの貫目いよいよ相違なきよう念を入れ、重荷付け申すまじき事。
一、病馬並びに痛みこれ有る馬、随分いたわり、左様の馬は使い申すまじく候こと。
  但し、右の類の馬育みかね候者は、最前も相触れ候通り訴え出るべく候こ事。
  右の趣堅く相守るべく候。もし違背の族これ有るに於いては曲事たるべきものなり。
    午五月 日
  右の書付、小奉書堅紙、四百六十通(これを)調(ととの)える。
一、一万石以上並びに大寄合は、但馬守宅へ家来呼び(これを)渡す。
  但し、建部内匠頭は御役人にて候えども万石、榊原越中守は大寄合ゆえ、これまた但馬守宅にて相渡る。尤も奏者番・寺社奉行・喜連川左衛門・那須衆・美濃衆・信濃衆、ならびに中島与五郎・松平太郎左衛門nへも但馬宅にて渡る。
一、甲府殿・御三家城付へ但馬守より四通、御同朋頭をもって(これを)渡す。(中略)
  五月十一日に(これを)遣わす。
   京都・大坂・長崎・伏見・奈良・駿府・日光。
    このほかへは(これを)遣わされず。
      覚
諸人仁愛の心これ有るようにと常々思い召され候ゆえ、生類憐みの儀たびたび仰せ出され候ところ、今度橋本権之助、犬を損じさし不届きに思い召され候。これに依り死罪仰せ付けられ候。いよいよ人々仁愛の心に罷り成り候ように大身小身ともに相成り、末々まで急度(きっと)申し合わすべきものなり。
  午十月 日
右小奉書堅紙、四百五・六十通ほど表御右筆(これを)調える。但し余慶とも。
  午十月十五日書付渡る覚
高家・奏者番・寺社奉行・御留守居・大御番頭・大目付・町奉行・御勘定奉行
 大目付より相触れる分
  御旗奉行・御鑓奉行・御作事奉行・御普請奉行・遠国奉行・遠国役人・御留守居番
 右は書付十五通、大目付へ相模守(これを)渡す。
一、奥向きへ三十通。
一、美濃守・右京大夫一通ずつ。
一、呂宇宙・若年寄中一通ずつ。
(以下略)
(「江戸時代の古文書を読む」から)
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<小さな政府─経済紛争は株仲間任せ>  徳川幕府は小さな政府であり、警察官に相当する目明かしは民間人であった。日本では2006年6月までに 違法駐車取締事務が民間に委託されることになり、こうした点ではあたかも、江戸時代のような小さな政府を目指しているかのようにみえる。
 江戸時代金銭トラブルは当事者同士で解決するように、というのが幕府の方針だった。では実際どうだったのか、というと、業界団体が商業上のトラブルを解決する機関になっていた。 幕府は「事業をするなら、業界団体に入りなさい。そうでなければ事業することを許さない」として業界団体である「株仲間」を公認していた。株仲間では代金不払いなどの業者を仲間はずれにして、実質的に商売できなくしていた。 問屋仲間の誰かが代金不払いを起こすと、その業者の名前を文書にして株仲間全員に周知させ、取引を停止させ、実質的に商売できなくした。『江戸の市場経済』では次のように表現している。
 株仲間は、仲間の一人に代金不払いその他のさまざまな不正を働いた取引相手に対して、一致して取引を停止するという多角的懲罰戦略を採った。こうした株仲間の行動様式が、公権力による所有権と契約履行の保証に限界がある状況下で、 商取引の拡大を可能にしたと考えられる。(「江戸の市場経済」から)
これに関しては岡崎哲二「江戸の市場経済」>  <株仲間という江戸産業人の知恵を参照のこと。
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<大きなお世話─自己責任社会から過保護社会へ>  ここでは衣服のことと<生類憐れみの令>を取り上げたのだが、『徳川実紀』を読むとこの他、「火の用心」「不審者に注意」など、町人生活に細かいことに触れているし、大岡越前守忠相は江戸の諸物価について事細かに指導している。 現代ではどうかと言うと、「自己責任」という言葉に嫌悪感を持つ人がいて、「政府の責任」との表現で市民生活に行政の規制が多くなっている。一方で「規制緩和」のかけ声があって、一方で既得権者が規制を守り、その範囲を広げようとする。 そうした傾向を「市場の暴力から市民生活を守る」との趣旨で賛成し、国民の保護者としての政府を目指す思考傾向がある。こうした傾向を「母子家庭国家・日本」「老化する日本」「未熟児国家」「アダルト・チルドレン」などと表現する人もいる。 現在ヨーロッパでは「社会民主主義」という左翼政党が多くの支持を集めているが、日本で左翼は人気がない。日本では右翼・左翼との分け方よりも、「保護主義」か「自己責任」かの分け方の方が的確かも知れない。そしてイデオロギーとしての左翼は人気ないが、 市民生活を事細かく干渉・保護するリベラリズム、リーガル・パターナリズムは公の場で訴えやすく、支持されると考えられている。
 リーガル・パターナリズムに対して自己責任を大切にする考えがある。TANAKAは今まで幾度も取り上げてきたので、そちらを参照してください。 自然界に「福祉主義」はない > <人間幼稚化の構造 >  「自助努力」と「過剰補償能力」
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<主な参考文献・引用文献>
独習江戸時代の古文書                         北原進 雄山閣       2002. 8.20
江戸時代の古文書を読む 元禄時代            徳川林政史研究所監修 東京堂出版     2002. 6.25 
国史大系 第40巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1964.12.31
国史大系 第42巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1965. 4.30
国史大系 第46巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1966. 2.28
江戸の市場経済                           岡崎哲二 講談社       1999. 4.10
近世日本の市場経済─ 大坂米市場分析                 宮本又郎 有斐閣       1988. 6.30 
株仲間の研究                            宮本又次 有斐閣       1958. 3. 5 
経済倫理学のすすめ                         竹内靖雄 中公新書      1989.12.20
父性なき国家・日本の活路                      竹内靖雄 PHP研究所    1980. 2.27
「日本」の終わり 「日本型社会主義」との決別            竹内靖雄 日本経済新聞社   1998. 5. 6
国家と神の資本主義                         竹内靖雄 講談社       1995. 1.27
得する生き方 損する生き方                     竹内靖雄 東洋経済新報社   2001. 4.26
市場の経済思想                           竹内靖雄 創文社       1991. 6.30
マン・チャイルド 人間幼稚化の構造  D.ジョナス、D.クライン 竹内靖雄訳 竹内書房新社    1984. 7.10
サバイバル・ストラテジー          ガレット・ハーディン 竹内靖雄訳 思索社       1983. 4.20
( 2005年3月21日 TANAKA1942b )
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(15)絹輸入のため金銀が流出
新井白石『折りたく柴の記』での心配

<金銀の海外流出> 「趣味と贅沢が江戸時代の市場経済を発展させた」というのがTANAKAのこのシリーズのテーマだ。東福門院和子から始まった「衣装狂い」が広く民間にまで普及し、その結果絹の輸入が増加し、そのために日本の金・銀が海外に流出することになった。今週はその流出に関することを扱い、さらに視野狭窄にならないよう、この時代を取り巻く問題にも目を向けてみよう。まずは『江戸時代』から引用し、この時代を俯瞰してみよう。
『江戸時代』から
 戦国末期から江戸時代初頭にかけては、わが国は世界でも有数な貴金属の産出国であったことはT章で記したとおりだが、その結果得られたわが国保有金銀は、このようにして生糸、絹織物輸入の代価品として、どんどん国外に流出していったのである。 もしこの金銀産出がそのまま続けば問題はなかったのだが、ほぼ寛永の末年(1643)ころ底をつくので、後は保有金銀の消耗によって生糸は購入されていたことになる。貞享元年輸入額を制限したうえで糸割符制を復活したことは先に触れたが、この段階になると保有金銀の底がみえはじめ、もはや輸入額を制限する以外に方法がなくなっていたのである。
 このようにしてさしものわが国の保有金銀も衣装代として国外に流出してしまうのだが、その額を新井白石はその著『折りたく柴の記』のなかで、正確には知り難いが、慶安元年(1648)から宝永五年(1708)までの60年間に金239万7600両余、銀37万4229貫目余であると計算し、さらにその前の慶長6年(1601)から正保4年(1647)までの46年間にはその2倍あったと推定している。 これでゆくと慶長6年から宝永5年までの108年間の流出したわが国の貴金属の量は金719万2800両と銀112万2687貫となり、それはわが国の慶長以降の総産出金銀の、金はその4分の1、銀はその4分の3にあたり、このままほうっておけばあと100年もすると金は半分にもなってしまい、銀にいたってはそこまでいかないうちに零になってしまうと心配している。
 このような認識から金銀は人間にとって骨のようなものであり、農作物等の生産物は(もちろん生糸、絹も)人間の毛や髪のようなものである。したがっていくら切ってもあとから生えてくるこの(毛・髪=食料・生糸等)を買うために、一度なくなったら再生のきかぬもの(骨=金銀等)を使うのは愚の骨頂である。 すべからく輸入を制限してそれは薬種と書籍のみにすべきである(白石建議)、という新井白石の貴金属重視のうえに立った貿易管理論がうまれ、それがやがて田沼時代の本多利明などによる重商主義的貿易立国論へと展開していくのである。(中略)
 これでわかるように、元禄〜享保期には大量海外流出は重農主義者、重商主義者をとわずわが国識者の憂えとなっていたのである。ところでその原因はたとえば大飢饉による食糧の緊急輸入とかいったものではなく、ひとえに女性を美しく着飾るための輸入だったのである。
 さて新井白石はそのために江戸時代初頭から108年のあいだに海外に消えた金銀は金719万2800両と銀112万2687貫であると計算しているのだが、(この他銅が大量に出ているが便宜上省略)、いま銀50匁を金1両、金1両をいまの通貨5万円として試算してみると、総額で1兆4823億2700万円ということになる。 これを1年に平均してみると日本人は毎年主として衣装(生糸)代として137億2千万円余の金銀を海外に支払った計算となる(ちなみに当時の幕府1年間の年貢収入は同様手法で計算すると約6〜700億円ということになる)。
 もちろん大変おおざっぱな計算であるが、世界最美の和服文化も、また尾形光琳の芸術も大変高価は支払のうえに開花しているのである。
 なお最後に一言つけ加えておくと、前述したように支払手段(金銀)不足のため生糸の輸入は段々と困難になるが、それと歩調を合わせて、その国産化がおしすすめられていった。 その努力は領主財政の立て直しなどどからめていっそう促進され、約150年たった安政6年(1859)の第二次開国段階には、すでにわが国は世界有数の産糸国家に成長していたことは周知のところである。近世初頭にはわが国の保有金銀を食い尽くした生糸が、こんどは明治・大正・昭和の三代にわたってわが国経済を支える輸出資源に転化していたのである。 (「江戸時代」から)
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<『折りたく柴の記』による金銀の海外流出> 江戸時代絹輸入に伴う金・銀の流出に関しては、この新井白石の『折りたく柴の記』をもとに話を進めることになる。『折りたく柴の記』には荻原重秀批判が多く記載されているが、ここではその話題は扱わないことにして、金・銀流出に関する文章を引用しよう。
長崎貿易銅のこと
 御代を継がれたはじめの年から、長崎港で外国貿易に使う銅貨が不足して、貿易が行われにくく、庶民たちが産業を失うという報告が奉行所からあって、私に御下問があった。 「簡単に議論すべきこととは思われません。そのことの本質をじゅうぶん考えたうえで申し上げましょう」とお答えした。それからあとで差し上げた草案は、別に本としたもの(『市船議』『市船新例』など)が多いから、詳細なことはここに書かない。その大要は次のとおりである。
「御当家が天下を支配されて、海外貿易が始まって以来、およそ百余年のあいだ、わが国の貨幣が海外に流れ出して、すでに大半はなくなった〔金は4分の1、銀は4分3を失った。しかし、これも、公式に示されたところから推量して言うのである。そのほか、推量できないことは、まお大きな数量にのぼるであろう〕。
 今後百年以内にわが国の財貨がつきはてることは、知者ではなくても明らかなことです。たとえ年々諸国に産出するものがあるといっても、これを人体にたとえてみれば五金(金・銀・銅・鉄・錫)のたぐいは、骨が二度と生じないのに似ている。五穀についてすら、なお肥えた土地と痩せた土地があり、豊作と凶作がある。 まして五金については、産地が多くなく、しかも採掘しようとしてもいつでも得られるものではない。
 わが国の有用の財をもって外国の無用の財にかえることは、わが国にとって永久の良薬とはいえない。むかしから、わが国はまだ外国の助けを借りたことがない。だから、こんにちも、薬以外で外国に求めなければならないものはない。貿易船がむかしのように来なくなったしても、こちらからの必要とするものを手に入れる方法はないわけではない。 もしやむをえないことがあったならば、古代の聖人の制度に『歳入の額を見きわめて支出を定める』(『礼記』王制篇)ということもあるから、わが国の財貨で現在流通しているもの、および毎年諸国から産出するものを見当したうえで、中国および西や南の海外の国々、朝鮮・琉球などに渡すべき年額を定められるべきである。 たとえ、わが国内で売買する物価が倍にあがったにしても、わが国永久の財貨を出しつくして外国に渡すよりは、その憂いは少ないように思われます」などと詳しく意見を申しあげた。 (「折りたく柴の記」から)
長崎貿易の新令
 御先代のとき、長崎奉行所に命じて、長崎で、貿易のために費やされたところの金・銀・銅の数をお尋ねになったとき、「慶長6年から正保4年までの計46年間のことはよくわからない。 寛文3年から宝永5年にいたる計60年間に、海外に流出した金は239万7600両あまり、銀は37万4229貫あまりである。銅については、寛文2年以前の61年間のことはよくわからない。 寛文3年から宝永4年にいたるまでの計44年間に、11億1449万8700斤あまりに達した」と答えた。これは慶安元年以後、奉行所でわかっただけの分である。それ以前には、長崎だけのことではなく、前にも書いたように、外国船はわが国のここかしこに来て商い、わが国の船も、外国のここかしこに行って商売をした。 このほか対馬から朝鮮に入ったもの、薩摩から琉球に入ったものなどは、すべてその数量をはかることができない。
 しかし、試みに、長崎奉行所から書き記して差し出したところを基礎として、慶長以来の計107年間に外国に、流出した金銀のおよその数を算定し、また慶長以来、国内で鋳造された金貨・銀貨のおよその数と比較してみると、金は4分の1が失われ、銀は4分の3が失われたことになる。 だから、今後、金は百年たてばその半分がなくなり、銀は百年以内に、わが国で使用すべきものはなくなってしまう。銅は、すでにいま海外貿易の材料に足りないだけでなく、わが国の1年間の使用量にも足りないのである。わが国に産出する永久の宝ともいうべきものをむだ使いして、外国から来る、ただ一ときの珍しいもてあそびものと交換し、 そうした取引きのためにわが国威を落とすようなことは、適当とは思われない。もし薬品や書籍などを求めるためにやむをえない場合は、現在わが国に流用している数量と、毎年、日本の諸国に産出する数量とを計算して、長崎および対馬・薩摩などから外国に流出すべきものの年額を定めるべきである。 すべてこうしたこともしないで、ただ長崎で、毎年貿易に使用する金・銀・銅の額だけ決められたのは、納得のいかぬことである。
 しかし、たとえ今後これらの額を決められるにしても、いままでのように、1年間に来る船数も、船ごとに載せる物資の数量をも決められないと、密貿易のやまないことは、いままでどおりであろう。だから、まず、毎年わが国に産出する金・銀・銅と、外国に流出する概数を比較して長崎で貿易のために使用すべき年額を決め、次に外国船に載せてくる ところの物資の量を計り、その船数およびその積んでくるものの数まで決めて、積んできたかぎりのものはすべて買い取るようにしたならば、いままでのように密貿易のためにわが国の宝を失うこともなくなり、外国人どもがわが国の法を無視すつということもなくなって、国威は万里の外にまでおよび、わが国の財宝は、万世ののちまで足りるようになるであろう。 (「折りたく柴の記」から)
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<糸割符制度のはじまり>  中世にあっては、中国で生産された高級絹織物が輸入され、その輸入絹織物にたいする需要は公家・社寺の荘園領主主層から御家人層にいたるまで大きかった。 ところが、中国の優れた絹織技術も同時にもたらされ、こうした動きに刺激されて、国内の絹織技術の水準が向上した。京都では、伝統的な絹織技術者であった大舎人座(おおとねりざ)の職人たちが、応仁の乱後、西軍の陣営となっていた地に住んで機織を行い、西陣織として名を知られるようになる。
 また、堺や博多は日明貿易の基地であった関係から、明の技術の影響を受けて絹織物生産が発達し、絹織物業はしだいに地方の都市や農村にまでおよんだ。いっぽう、明では蚕糸業がさかんに行われ、湖糸(こし)と呼ばれる江南産生糸の生産も急増した。 そして、わが国では、完成品である高級絹織物を輸入していた時期から、原料である中国産生糸を輸入する時期へと移行する。
 こうした中国産生糸をもたらしていた日明勘合貿易も天文16年(1547)で終了する。それと前後して、いわゆる後期倭寇が活発な動きをみせるが、それも明政府によって鎮圧される。ここに日本と中国とのあいだに一種の空白状態があらわれ、そこを往復する船は数少ないものとなった。
 このころ16世紀なかばにポルトガルは、マカオに拠点を築き、マカオと日本貿易の一体化をねらった日本貿易カピタン・モール制という制度を設け、一時期空白状態となった日中間に仲介貿易という形式で登場した。 このカピタン・モール制は、ポルトガル国王が日本貿易を王室直営ろし、任命された司令官は日本貿易の全県を掌握するとともに、マカオ滞在中は同市の行政・司法上の最高の地位を占める、といった制度である。やがてポルトガル船は日本に中国産生糸をもたらすようになり、その輸入生糸取引きに関して徳川幕府が糸割符制度を創設する。
 糸割符制度の創設期の状況は、その制度下で輸入生糸取引きに関与した糸割符商人が後世に書き上げた由緒書類によってうかがい知ることができる。それらによると、糸割符制度は、江戸開府の翌年にあたる慶長9年(1904)5月3日、伏見城で、家康の面前で糸割符奉書と呼ばれるものが下布されて始まったと記されている。 そのさい、糸割符制適用範囲の輸入生糸(当初は白糸のみ)は、堺・京都・長崎で、120/100/100の割合で配分されたという。この堺・京都・長崎を三ヶ所(のちに江戸・大坂を加えて五ヶ所となる)と称した。幕府は三ヶ所(五ヶ所)で糸割符仲間を組織させ、その代表を糸割符年寄と言った。
 糸割符制度のはじまりを示す、幕府から下付された糸割符奉書は、原文書と称されるものが天理大学付属天理図書館に所蔵されているので、それを読み下し文にして次に掲げれることにしよう。
 〔糸割符奉書〕
 黒船着岸の時、定め置くく年寄共糸のねいたさざる以前に、諸商人長崎へ入るべからず候。いとのね相定め候うえは、万望み次第商売致すべきものなり。
 慶長九年五月三日           本多上野介(花押)
                    板倉伊賀守(花押)
                  (天理図書館所蔵文書)   
(「古文書の語る日本史」から)
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<「鎖国」とは……>  元禄時代に、ドイツ人ケンプェルがオランダ東インド会社に雇われ、長崎出島に医師として滞在したことがある。彼は歴史に強い関心を持っており、後に『日本誌』を著しているが、この書が長崎に渡来し、その一部分を長崎の阿蘭陀通詞志筑忠雄(しつきただお 1760〜1806年)が翻訳した。 このときに「鎖国」という言葉が用いられており、これが文献上に現れた「鎖国」という言葉の初見であるといわれる。時に享和元年(1801)のことである。
 「鎖国」という言葉を文字通りに解釈すれば、「国を鎖す」という意味で、外国との関係を遮断して国際的に孤立するということを意味している。しかし、江戸時代の初期に幕府の大概政策によって成立した「鎖国」状態は、このような厳しい国際的孤立の状態ではなく、「鎖国的な制限がなされている状態」を内容とするものであるということは、周知のところであろう。
 幕府の行った「鎖国」政策は、明治期以降じつに多数の人々によって注目され論じられてきており、いまだに議論が絶えない課題である。 したがって、「鎖国」についての認識が、けっして一様とは言えないのが現状である。ここではおおむね次のように認識しておくことにしよう。
 すなわち、まず、「鎖国」状態について具体的に整理し、「鎖国」状態を成立させ、展開していく幕府の行為を「鎖国」政策、そして、「鎖国」状態を幕府の大概関係に関わる一つの形式・組織と見る場合に、それを「鎖国」体制とする認識に立つことにする。
 まず、「鎖国」状態とは、朝鮮・琉球・蝦夷との関係を除く、老中の直轄支配・長崎奉行の管轄下において、おおむね次のような基本的要素によって形成されている対外関係に関わる状態と認識する。
@日本船・日本人の異国渡海禁止
A異国居住の日本人の帰国禁止
Bポルトガル船の日本寄港禁止
C唐人・長崎オランダ商館関係以外の異国人の日本渡来禁止
D唐船・長崎オランダ商館関係以外の異国船の日本寄港制限
E異国人の日本居住禁止・制限
F国内港における外国貿易の相手を唐船とオランダ商館に限定
G国内港における外国貿易を長崎一港に限定
H海上銀(投銀投資)の禁止
I異国居住の人との文物交流の禁止
 したがって、このような状態を成立させ、それを展開していく政策を「鎖国」政策と認識し、さらにこのような基本的要素によって形成されている江戸幕府の対外政策を「鎖国」体制と言うように認識する。 (「長崎貿易」 から)
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<江戸時代・昭和時代の「贅沢禁止令」>  江戸時代の一時期、輸入羅紗(らしゃ)類が御法度になったこともあるが、わが国では養老律令以来、一貫して禁制品にされたのは絹であった。そして、この贅沢禁止令は、その背景を変えながら、後々まで続き、昭和15年7月7日、「奢侈品等製造販売制限規制」が公布された。これが悪名高い七七禁令で、指輪や宝石類とともに、白生地羽二重や丸帯などの絹物が対象になった。 日米開戦の千円、「贅沢は敵だ」の標語が出た時代で、暗い谷間に落ちていったころである。日本ではこれが一般的な奢侈禁令としては最後のものとなった。(T注・しかし現代でも「贅沢は敵だ」と主張する人や、その考えを基本に市民運動を起こす人がいる。 特に最近は資源・環境問題とからめて誰も反対できない「正義論」として目立っている。本人たちは「小さな親切」のつもり、受け取る方は「大きなお世話だ」の反感)。
 贅沢禁止令は欧州の諸国にもあった。ここでも絹物がその第一の対象になっている。欧州でこの種の禁令が出たのは13世紀の末だという。英国ではエドワード3世治下の1336年ごろで、衣服の制限令というより、道徳規範のようなものであった。 1363年にはには「身分相応の衣服」を強制し、奉公人や一般の職人の絹製品の着用を禁止した。欧州においても、「分を守る」ということが、体制を維持する上で大切なことであり、絹の産出しない国だけに、効果は大きかったと思う。
 当然この種の禁令への批判も出てくる。モンテーニュの有名な『随想録』(エセー)の第43章「贅沢を取締まる法律について」はその代表である。その中で絹や黄金などを庶民に禁止するのは、これらの価格を増し、これを用いてみたい気持ちを強くもたせるだけだと皮肉っている。 ここでも黄金とならんで絹が贅沢品の双璧となっている。これが書かれたのが1580年代のことである。英国ではエリザベス1世時代、国力がつき、舶来品崇拝熱が出てきた1601年、贅沢禁止令は一括廃しされてしまった。いずれも徳川幕府が開かれた時代のことである。 (「絹の文化誌」 から)
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<司馬遼太郎/ドナルド・キーンの「鎖国論」> 司馬遼太郎とドナルド・キーンが江戸時代について対談している本があった。その中から今週のテーマに関係有りそうな部分を引用しよう。
キーン 近世にオランダ人が日本にはじめて来たころは、日本は山ばかりだと思ったでしょう。自分の国と正反対でした。
司馬 いまのキーンさんのケンペルの話と同じようなことが、シーボルトにもあります。シーボルトもドイツ人ですから。「日本側がどうもちがう発音だと言ってきたときには、 自分のオランダ語は山オランダ語だと言え」という伝承があったのかなあ。
キーン もっとも、シーボルトはケンペルの『日本誌』を読んでいたのでしょう。最近、オーストラリアで教えているドイツ人の女流学者が、ケンペルがドイツ語で書いた本の英訳(1727年に刊行)を読んで、誤りが非常に多いことに気が付きました。 そこでケンペルの原文を読むと、ケンペルはもっともっと日本のことに感心していたことがわかりました。始めに英訳したスイス人は、なるべくヨーロッパ人を怒らせないように、けんぺるにいろいろ条件をつけて、たとえば仏教が嫌いだというふうに原文を変えたわけです。 今度新しい英訳をつくるそうですから、きっとケンペルの仕事が見直されるのではないかと思われます。
司馬 楽しみですね。
キーン ええ、ケンペルは日本のことを高く評価したにちがいないです。もちろん、いままであった翻訳でもそれはわかりますけれども、でも翻訳者が勝手に文章を書いていたらしいのです。 日本人にとって一番大切なところは、ケンペルの『日本誌』の最後のところですが、その日本語訳が志筑忠雄(しつきただお 1760〜1806年)によって徳川末期の1801年に出まして、「鎖国論」と訳されていました。私はドイツ語の原文を覚えていませんが、「鎖国」という言葉がそのときに訳語としてでてきたのです。新造語でした。そのときまで、日本語に「鎖国」という言葉はなかったそうです。 翻訳として「鎖国論」がでてきたときまで、日本人は自分たちが鎖国のなかにいるとは気がつかなかったようです。
 ケンペルは、鎖国は非常にいいと言っていました。私たちの常識に反します。ヨーロッパ人としては、鎖国は貿易の自由の障害になるとか、外国人が自由に日本に入れないから大変不愉快だと思うはずですが、ケンペルは「日本に何も欠けているものはない。すべてのものがあるから、鎖国がいい」と言っています。 (「世界のなかの日本」から)
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<小袖をめぐるモード>  江戸時代の人々が主に着用した衣服は小袖であった。小袖は、現代のきものの祖型であり、上下一部式で、袖口が詰袖で袂があり、垂領(たりくび)で衽(おくみ)がある。
 「小袖」といっても単純に袖が小さいという意味ではない。袖丈が地面に触れるほpどの振袖から庶民の浴衣に至るまでこの範疇に含まれる。「小さい袖」というのは、中世まで中心的な位置を占めていた狩衣や直垂(ひたたれ)といった大袖型式の衣服に対しての呼称なのである。
 衣服の変遷を数世紀に及ぶスパンで見ていくと、下位で用いられている実用的な衣服が次第に上層の公的な衣服型式に採用されていくという傾向と、下着が表着(うわぎ)に変化していくという傾向が認められる。前者を形式昇格の原則、後者を表皮脱皮の原則と呼ぶが、わが国の服装史における小袖は、この二つの原則にきわめて忠実な変遷を示すものとして注目される。
 和様の衣文化の基礎ができあがった平安時代の後期のころ、小袖は上層の公家階級において下着として用いられていた。下着は実用性を第一とした機能的な衣服である。それゆえ小袖の場合も、庶民のあいだでは労働着として用いられることが多かった。つまり、小袖はもっとも肌に近い衣服であると同時に、もっとも簡便な衣服であり、服飾のヒエラルキーの最下位に位置していた。 しかし、時代の下降とともに、小袖は表着としての型式を調え、次第に上層の衣生活に進出するようになっていった。
 近世の小袖は古代とはその有り様を一変させ、下着としてはもちろん、上層階層の表着にまで昇格し、老若男女、貴賤高下の隔てなく、衣生活のほとんどの領域を占めるに至ったのである。 (「事典 しらべる江戸時代」から)
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<主な参考文献・引用文献>
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25 
折りたく柴の記                     新井白石 桑原武夫訳 中公文庫      1974. 2.10
古文書の語る日本史 6江戸前期                  所理喜夫編 筑摩書房      1989. 7.30
世界のなかの日本 十九世紀まで遡って見る    司馬遼太郎/ドナルド・キーン 中公文庫      1996. 1.18
事典 しらべる江戸時代             編集代表/林英夫・青木美智男 柏書房       2001.10.15
絹の文化誌                    篠原昭・嶋崎昭典・白倫編著 信濃毎日新聞社   1991. 8.25 
日蘭貿易の史的研究                         石田千尋 吉川弘文館     2004. 9.10
長崎貿易 同成社江戸時代史叢書8                  太田勝也 同成社       2000.12.10
( 2005年3月28日 TANAKA1942b )
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(16)代表的輸入品が主要輸出産業に
西陣の技術が地方に拡散

<サプライサイドから絹産業を見る> 「贅沢が産業を育てた」と主張するには、「贅沢」の話だけではなく「産業」の話も扱わなくてはならない。絹をディマンドサイドからとりあげてきたので、今度はサプライサイドから、つまり生産者側を取り上げることにしよう。 朝廷の・豪商の・庶民の贅沢としての「絹」は多くの文献で扱われているが、「贅沢の対象としての絹産業」という文献は見当たらない。江戸時代を「贅沢」と「産業」を結びつけて考える人はいなかったようだ。「贅沢」は文化面から、「産業」は歴史・郷土史から扱われている。 「こうした今まで別々に扱われていたテーマを関連づけてみると、新しい見方が出来るだろう」というのがTANAKAの考え方。そしてそれが視野狭窄にならない姿勢だと思う。
 東福門院和子の衣裳狂いから始まった絹への贅沢嗜好が新井白石を悩ましたが、開国して気がつけば「絹産業」が日本の主要な輸出産業になっていた。貿易赤字の主な原因であったものが、何故主要な輸出産業になったのか?経済に興味を持つ人間なら知りたいことのはずだ。 日本の産業を考えたり、「国際競争力」などという言葉を使いたがる人には知りたいテーマであるはずだ、などと考えながら、絹産業がどのように発達したのか?いつくかの文献から引用することにした。
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<西陣機業の空洞化>  16世紀には、堺とともに二大織物業の産地として競合していた京都西陣は、江戸時代に入ると江戸幕府の京都保護政策と機業家の研鑽によって、堺を圧倒する随一の機業地となった。 江戸幕府のとった身分制支配は、住宅と衣装による支配といってよく、とりわけ衣装による表徴的区別が重視されたので、高級絹織物を主体とする西陣は急速に発展した。 17世紀末ごろの状況を伝える『京羽二重』によると、徳川将軍家の御呉服所7軒をはじめとして、京都に呉服所をもつ大名は143を数え、大名呉服所の数は167軒にのぼっている。
 西陣の企業家たちは、織物にかける熱意と研鑽の面でも他都市のそれを圧倒していた。16世紀から17世紀初めにかけて、井関氏の紋織、野本氏の金襴、俵屋の唐織などに代表される新たな織物技法を導入して、西陣は飛躍的な発展をとげた。 羅の復興や天鵞絨の織技の習得などもその一つである。さらに17世紀から18世紀にかけては、織技の発達に加えて、染と繍(ぬいとり)の技法にめざましい発展があって、かえって織技の方としてな白生地の需要増大に対応するかたちで、羽二重・縮緬(ちりめん)・紗綾・綸子などの生産を主とするにいたっている。 そして、羽二重における撰糸羽二重・白羽二重・紋羽二重、または縮緬における紋縮緬・柳条縮緬などのように、織技は多様化の方向で発達をみせるようになった。
 品質の向上と生産の増大は西陣共通の目標となり、織物技法も中世的な家伝の秘法というかたちをとらず、西陣の同業者たちの共有となった。元禄五年(1692)の「織物仲間一礼証文之事」によれば(『三上家文書』)、御寮織物司(ごりょうおりものし)六人衆は仲間をつくり規則を定め、禁裏御用や幕府御用については仲間全員で分配し、 仲間全員の責任と信用を保持していこうとしている。また仲間の相互扶助と団結による家名の相続も、御寮織物司たちは誓いあっている。
 西陣織物の製作工程は複雑で、また製織にいたる準備の過程もさまざまな作業分野から成り立っている。原料糸の供給と加工から織物の完成までの工程のうち、いくつかは専門の仕事として織屋から独立する。17世紀に織屋から独立して専業化したものに、機(はた)道具屋・練屋・紋屋・染屋などがあるという。 とくに17世紀末から18世紀初めにかけて、扇の絵や模様染の絵を描いたりしていた宮崎友禅の考案した染色の技法は、友禅染、または京友禅の名を得て、京染め物の世界をさらにおしあげた。
 しかし、享保15年(1730)上立売室町(かみだちうりむろまち)西入ルから出火した西陣焼けとよばれる大火で、西陣160余町のほとんどを全焼した。室町通以西、北野神社以東、一条以北、廬山寺通以南の類焼地は機業地のまさに中心地であり、この大火によって離散した技術者が地方機業に迎えられて、桐生や足利などのように西陣をおびやかす機業地に成長したところもあり、 西陣は機業の再建と地方機業勃興による圧迫という内外からの危機に遭遇した。
 大火以後、西陣は未曾有の苦境に立たされたが、延享2年(1745)西陣高機(たかはた)織屋仲間が公認されたのを最初とし、同業者の諸株仲間をつぎつぎと結成して、地方絹に対抗するとともに、西陣機業家の共存をはかった。 しかし、原料糸の確保や資金繰りの問題から、機屋たちは糸仲買や糸問屋への従属を強いられることも少なくなく、また販売上の問題から、上仲買(かみなかがい)や下仲買(しもなかがい)とも特別な関係を結んだりしながら、西陣としての総体的な発展の道を求めた。 上仲買とは、西陣区域に店を設け、機業家と卸売または小売人との間に立って、継続的な取引きをおこなった仲買・問屋であり、下仲買とは二条以南の下京中心部あたりに店舗を構えて、西陣地区の仲買から織物を仕入れる仲買・問屋であった。 (「京都 歴史と文化」から)
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<蚕品種の変遷> 「品種改良にみる農業先進国型産業論」でも取り上げた通り、江戸時代から日本人は品種改良に熱心であった。庶民はアサガオの品種改良に凝っていたし、百姓はもちろん品種改良に取り組んでいた。そうした日本人が絹・カイコにはどうであったのか?『日本人が作りだした動植物』から引用してみよう。
 古い昔のことは知る由もないが、江戸時代になると、養蚕に関する技術書がつぎつぎに刊行された。それらの中には蚕品種について記載されたものもかなり見受けられる。
 蚕書の中で最も古いのは元禄15年(1702)年に奥州津軽藩の織会所から出版された『蚕飼養法記(こがいようほうき)』であるが、この書には「土まゆ」「きんこまゆ」「金目貫」「小まるまゆ」「白玉」「かなまろ」「石まる」などの名があげられている。 「土まゆ」は多数のカイコが集まって一つの繭を作る多蚕繭で、真綿の原料にした。 (T注・半月ほど前にTVで、どこかの試験所で「数匹の蚕を使って大きな繭を作ることに成功した。この繭はインテリアとして利用できる」と報じていた。土まゆのことなら江戸時代から知られていたことで、特に新しい事とは思われない。) また「きんこまゆ」は絹子まゆで、上等の繭の総称、生糸用に供した。これらは繭形の大きいもの、小さいもん、榧実(かやのみ)形(かやなり)、楕円、俵形、黄色、白色などさまざまなものがあった。
 江戸時代には蚕種家(蚕種の製造販売を行う業者)が専業となっていたが、その多くは識見すぐれ、経験も豊かで、単に蚕種の製造販売ばかりでなく、独自の蚕品種を育成そたり、また養蚕農家の技術指導に当たった。江戸時代から明治末期まで、日本の蚕品種の改良はこの人たちによって行われていたのである。
 蚕種製造には砂質壌土の畑のクワが適する。このため蚕種家は河川の沿岸に集まり、いわゆる蚕種本場の名で知られていた。このような土地はカイコノウジバエ(寄生蠅)による被害が少ない。常陸国結城地方は文武(703)の昔から蚕種の本場として知られ、各地に饒種(にぎたね=豊饒種の意味)を提供していたが、寛保2(1742)年大洪水のため流出し、蚕種の製造が不可能になった。 そこで結城の蚕種家たちは岩代国伊達地方(阿武隈川沿岸)に格好の地を探し求め、そこの如来堂を借り受けて蚕種を製造し、その名称を「如来堂」と名づけて販売した。
 このころ土地の蚕種家からもつぎつぎとすぐれた蚕品種が作出された。すなわち「赤熟」「青熟」「世界一」「又昔」などである。いずれも中縊れのある俵形の白繭を作る。いわゆる日本種の代表とも言うべきものである。これらはいずれも純糸分離法によって作出されたものと思われる。 これらの品種の原種がもともと伊達地方にあったものか、それとも結城からもたらされたものかは知る由もない。
 ではこの時代の蚕品種の実力はどの程度のものだったろうか。幸いなことに伊達地方の蚕種家の中には毎年自家で製造販売した蚕種の親繭(正しくは親蛾の脱出した出殻繭)をたんねんに整理保存している家が数戸あった。 外山亀太郎博士はこれらの繭殻を集めて長さ、幅、繭層量(博士は繭糸量と表現したが、繭糸量は今日では繰糸した繭糸の量と定義されているので繭層量と表現したほうがよい) などを測定した。こうして宝暦から慶応に至る115年間の繭の性状の変遷のあとをたどることができ、選抜技術のすばらしさに博士は驚嘆している。
 明治の初頭フランスやイタリアへ輸出された蚕種の大部分は「青白(せいはく)」系の品種だった。ヨーロッパ人は白繭よりも着色繭を好んだ。「青白」は緑色の繭を営む。当時日本の品種はもとんど白繭で、着色繭としてはわずかに「青白」種だけが実用になっていた。 この品種は蚕種製造中の蚕室内へたまたま飛来したクワコ(野性で、カイコの近縁種)の雄蛾が、カイコの雌蛾に交配してできたものの子孫といわれる。虫は丈夫だったが、繭糸量はやや少なかった。
 ヨーロッパへの蚕種輸出は明治10年代の終わりには止まり(パスツールの研究により微粒子病対策が完成した)、再び白繭種の時代に戻った。このころ日本在来種に中国やヨーロッパから輸入した外来種を交配して新しい品種を作出する試み(交雑固定)が行われた。 このうち日中交雑固定種は飼育容易で、糸量が増大する。また日欧交雑固定種は虫が大きく、収繭漁が増大する。カイコでは異系統間の交雑が容易なので、多くの蚕種家はそれぞれ独自の交雑固定種を作り、互いに競い合った。このため異名同種や同名異種が輩出し、全国あわせて1千品種にも達するありさまだった。 このため製糸原料繭雑駁さが著しく、品種統一の必要性が叫ばれた。(「日本人が作りだした動植物」から)
<欧州で評価された、蚕の品種改良書『養蚕秘録』>  享和3(1803)年に出版された蚕書で、著者は但馬の蚕種家上垣守国。江戸時代に出版された蚕書の中の白眉と言われている。内容はわが国蚕業の起源、カイコの種類、蚕種の取り扱い、クワの栽培、蚕室、蚕具などについて述べ、さらに飼育、蚕病、製糸法等を詳述し、また和漢蚕桑故事、伝説等を紹介するなど、広汎にわたっている。
 この本はシーボルトが帰国するとき持ち帰り、それをライデン大学のJ・ホフマンがフランス語に翻訳したものに、養蚕学者ボフナーが解説を加えて1848年出版された。伊藤芳樹氏によるとこの本の仏訳はほかにも2種あるという。1つは駐日フランス公使館の一等通辞メルメ・ド・カションの翻訳したもので、サン・マルスランから出版された。 このイタリア語版もミラノから出版されている。他の1つは東洋語学校教授レオン・ド・ロニーにより日本語から直接仏訳され、パリの帝国印刷所から1868年出版された。
 カイコの微粒子病病原体を発見し、その予防策を完成してフランス養蚕業を救った有名なパスツール博士も、政府の特命を受けて、初めて南仏に赴いたときにはカイコの取り扱い方をまったく知らず、ホフマン訳の本書からカイコの取り扱い方を学んだという話が残っている。(田島弥太郎) (「日本人が作りだした動植物」から
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<諸藩の養蚕振興>  参勤交代の制度は、各藩にとり大きい財政負担となった。そのうえ年貢金のほかにも、諸藩は幕府の命令で、各地の土木や建築などの工事を負担させられることが少なくなかった。このような事情のなかで各藩は、窮乏した財政を救うため、あるいは乱脈な藩政を立て直すため、藩内の産業振興に意を注ぐようになった。 各藩のの養蚕振興策をみると、それぞれに特徴がみられるが、いずれの藩も新しい技術を導入して振興をはかっていた。
 米沢藩では、藩主となった上杉治憲(鷹山=ようざん)が、藩政の再建をはかり殖産製作を打ち出した。安永年間には、国産役所を開いて漆方・桑方・楮方を置き、漆・桑・楮のそれぞれ100万本を近国から購入し、藩内のあらゆる土地に栽植させる計画を進めようとした。しかしこの計画は途中で放棄せざるをえなくなった。 のちの寛政年間になり、 新たに「蚕桑方」を設けて養蚕の振興がはかられた。このときな専門の職工を京都から招き、良質の織物生産にも意を注いだ。また蚕桑方が中心となり、飼育法・上蔟法・採種法(蚕種のとり方)・桑の植え方などを述べた『養蚕手引』(文化3年=1806)を版行して、藩内の指導に当たった。
 津軽藩は都から遠くもあり、また冷寒の地であるため、農業生産に遅れがみられたが、藩主松平信政は鋭意産業の奨励し努め、藩内に産出しない農作物の種子や果樹の苗を取り寄せ、栽培を試みるなどした(その中に桑も含まれていた)。また学問に通じた野本道玄を京都から招き、産業振興の指導を委嘱した。 道玄の提言で、養蚕の普及と高級織物の生産を奨めることになり、桑の栽植を開始するとともに、さらに京都から養蚕と織物の指導者、および製糸工女を呼んだ。また蚕種を購入する資金のない農民には、資金の貸し付けを行ったりもした。農民には蚕の飼育法を理解させるため、道玄に『蚕飼養法記(こがいようほうき)』を執筆させ、元禄15年(1702)に版行して配布するなどの豊作もとった。 ちなみに、本書はわが国で一番古い蚕書なのである。
 肥後藩においても、藩主の細川重賢が家臣の力を借りて政治の改革を行っており、とりわけ養蚕業の発達には少なからぬ力を入れていた。『熊本県蚕業史』によると、宝暦10年のころ、桑を植えさせ、蚕飼のことをすすめ、城下の市中に糸採機織所を設けた、とある。また藩はこの分野に詳しい島己兮(きけい)を京へ上らせた。 己兮は近江から職工を連れて帰ったが、さらにその後にも糸繰りの熟練者(女性)3人を呼び寄せ、技術の普及をはかった。島己兮は各地を講話して歩くとともに、みずからは『養蚕栽桑同治法要略教論』を著した(宝暦13年=1763)。この冊子は、郡郷村へ回覧して書き写すよう指導が行われ、そのために郡代の御触状が出されたほどの、熱意の入れようであった。
 この3つの例では、経験者や指導者の意見を取り入れ、さらに専門の職人を呼び寄せ、かつ指導書(蚕書)を執筆させるなどの、こまかい配慮のもとで養蚕の振興が進められており、そこには共通するところが多くみられる。 しかしすべての藩がこのような進め方をしていたわけではなかった。また、各地で繭や生糸の生産が進んでいった一方では、農民および糸繰工・織工・染工に対する労働の強化や、利権をめぐる商人の争いの増加や、さらに絹織物にたいする新たな徴税などがあった。 (「ものと人間の文化史」から)
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<オランダ船の更紗輸入>  異国的な花鳥・人物・幾何学文様等、様々さまざまな模様を色鮮やかに主として木綿布に染めたものを、今日、われわれは「さらさ」と呼んでいる。「さらさ」の発祥地についてははっきりしていないが、今日もっとも古い染色の歴史をもつインドに求められている。 また、「さらさ」の語源についても、西インドの地名スラット Surat からきているとする説、ポルトガル語の Saraca,Sarasa 説、スペイン語の Saraza 説、ジャワ語の Srash 説、インドのグジャラットの土語 Sarasa 説等、従来からさまざまな説がとかれているが、いまだに確証が得られていない。
 「さらさ」がいつ、誰によって日本に持ち渡られたかも決め難い。しかし、16世紀後半には、ポルトガル・スペインもしくは琉球・中国等の船で輸入されていたと推測される。16世紀から17世紀にかけてヨーロッパからポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスが相次いで日本に来航し、その舶載品の中に異国情緒豊かな「さらさ」が含まれていたことは容易に推測されよう。 当時、「さらさ」は日本で好奇の眼を、おって迎えられ珍重されたに違いない。今のところ「さらさ」に関する最古の記録といわれる慶長18年(1613)のイギリス人ジョン・セーリスの日本渡航記に、当時の平戸の領主等に対して、pintados pisgars すなわち、更紗ピスガルを贈り物にしたという記事がみられ、「さらさ」が贈答品として使用されていたことがわかる。
 日本に輸入された「さらさ」はさまざまなもに使用された。江戸時代初期には、陣羽織や小袖、帯、茶道具、祇園祭の装飾品などに珍重された。しかし、中後期になると、風呂敷や煙草入れなどの袋物や下着や襦袢・着物の裏など実用的な方面にも用いられた。 『守貞漫稿』に「文政天保の頃来船の華印布俗に廣更紗と云物価廉也、故に三都ともに男女晴着略服の時の下着に専之し」とあるように文政・天保期頃になると「さらさ」も廉価なものとして一般にも用いられていたようである。
 日本に輸入されて、「さらさ」は紗羅紗・佐羅佐・佐羅左・佐良佐・紗羅紗・皿紗・更紗と表記され、沙羅染(しゃむろぞめ)・花布(かふ)・印花布(いんかふ)ともよばれた。また、特に金箔・金泥を施したものを金華布・金ザラサ・金入さらさ等ともいっている。 「さらさ」の到来は近世の友禅染をはじめとする日本の模様染の発達に多大な影響を与えた。今日よく知られている鍋島更紗をはじめとして、京更紗、堺更紗・長崎更紗・天草更紗等、インド更紗の模造ともいえる和更紗が製作されたのである。 (「日蘭貿易の史的研究」から)
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<主な参考文献・引用文献>
京都 歴史と文化                        林屋辰三郎他 平凡社       1994. 4.18
日本人が作りだした動植物── 品種改良物語 日本人が作りだした動植物企画委員会 裳華房       1996. 4.25
ものと人間の文化史 絹T                      伊藤智夫 法政大学出版局   1992. 6. 1 
日蘭貿易の史的研究                         石田千尋 吉川弘文館     2004. 9.10
( 2005年4月4日 TANAKA1942b )
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(17)拡散する技術情報と職人
技術空洞化と地方産業の発展

<輸入制限と西陣の大火により、諸藩は絹産業を奨励> 新井白石の輸入制限と西陣の大火により、絹の供給不足が起こる。それに対処するために諸藩は養蚕・絹織物産業を奨励する。 東福門院和子から始まった衣装狂いが、糸割符貿易を促進し、新井白石をして輸入制限をさせる。ここに贅沢産業が日本各地で奨励されることになる。 幕府が贅沢を厳しく制限するが、町人・百姓の贅沢嗜好は変わらない。贅沢ができる人たちが増えてきたことによって、贅沢産業が勃興する。 日本各地で始まった養蚕・絹産業、これらがどのようであったのか?生産者側の史料を幾つか紹介することにしよう。
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<桐生の織物業>  兵農分離をへて成立した近世社会は、食料を生産する農民が住む村と、これを消費する武士・職人・商人が住む町とが切り離された社会であった。むらの生産物は、年貢としてこれを徴収した領主をとおして、あるいは、農民みずからが直接に売り払うという行為をとおして町へ供給され、町の人びとの生活を維持していた。
 江戸時代の農民の生産物販売については、慶安2年(1649)に幕府が出した、いわゆる「慶安の触書」でも、生活の向上のために少々の商心(あきないごころ)を認めており、必ずしも全面的に禁止されていたわけではない。 ただし、触書の中には「年貢の為に」とあり、この時期の生産物の販売は、あくまでも納税のため、さらには農民が再生産をつづけていくため、という枠をこえるものではなかった。
 しかし、ほぼ寛文〜延宝(1661〜1681)のころをさかいに、生産力の向上や農民闘争の成果として、農民の手元にしだいに剰余生産物が恒常的に残るようになる。農民はこの剰余をいっそう拡大することを目的として、生産を行うようになった。年貢納入や再生産のためだけではない。売るための生産活動、すなわち商品生産がはじまったのである。
 商品生産の開始は資本主義的生産の第一歩であった。ただし、それはいまだ農業経営者である農民みずからが労働するかたちをとっていたことから、経営者が賃金労働者をやとって生産を行う資本主義的生産と区別して。「小商品生産」段階とよばれる。
 さて、こうした小商品生産がすすむと、各地に特産物地帯が形成されるようになった。元禄〜享保期(1688〜1736)は、全国各地において特産物地帯が形成される時期であった。大坂西北地方の菜種(灯火用)、大和の木綿(衣料用)、常陸・下野・薩摩の煙草などはその代表的な例である。さらにその後、宝暦〜天明期(1751〜1789)になると、これら特産物地帯は質・量ともに飛躍的な発展をとげた。
 上野地方では、中世においてすでに桐生付近の仁田山絹、藤岡付近の日野絹などの名が示すように、各地で養蚕が行われた。しかし当時は国内産の生糸の質が悪く、京都西陣をはじめとして、織物の原料糸は中国産の輸入白糸(染めてない白い生地のままの糸)にたよっていた。桐生は、おもに当時質の悪い国内産の和糸を使用し、衣坐機(いざりばた)とよばれる旧式の織機を用いて平絹織物を生産する産地であった。
 ところが、絹の需要が拡大するのとともに白糸の輸入が増えて、貿易支出が増大したため、幕府は貞享2年(1685)以降、数度にわたって輸入の制限を行なった。このため西陣などの原料糸として、国産糸の需要が急速に高まった。
 正徳3年(1713)、幕府が国産糸の使用、養蚕奨励策を打ち出したこともあって、全国各地の養蚕業がさかんになり、上野地方もいっそうの発展をみた。こうした状況のなか、桐生には享保7年(1722)に三井越後屋の出店が設けられ、同8年ごろ京都から九兵衛という職人が来て、吟手染という新しい染め方を伝えた。ついで享保18年ごろには、京都の染物師張屋久兵衛・頼兵衛らが、紅染の染色技術を伝えた。
 その後、元文3年(1738)には、京都から新型の織機である高機(たかはた)が伝えられた。これは、享保12年当時7,000機といわれた西陣織機が、同15年の大火により3,000余機を失ったのをきっかけに、一部の職人が地方へと移動したことによる。
 高機生産の開始に伴い、当時の高級織物である縮緬が寛保3年(1743)から、絽が延享2年(1745)、飛紗綾(ひさあや)が寛延元年(1748)、紋絽が宝暦年間(1751〜1764)から、それぞれ生産が開始され、江戸・京都方面へと送り出された。
 西陣織の本場である京都への桐生織物の進出は、従来特権的な地位を保ってきた京都側に、大きな衝撃を与えた。寛保4年、西陣高機織屋仲間31人は、桐生地方の新規紋織の停止を幕府に請願した。そのなかで高機織屋仲間は、原料生糸の入手が困難になったうえ、製品の販路が縮小された、休機や減機をしなければならない機業家が続出しているという窮状を訴えている。
 桐生では出稼ぎの機織奉公人の雇用も増えてきて、宝暦7年の記録によると、桐生新町1〜7丁目で奉公人数331人(内男212人、女119人)が知られて、明和年間(1764〜1772)には館林郊外の川股に、桐生むけの奉公人宿が7軒あり、ここでは年間総数700人もの奉公人を口入れしたことが確認されている。
 その後、天明3年(1783)には、岩瀬吉兵衛が桐生に滞在して紡ぎ車に改良を加え、「八丁車」と呼ばれる水力利用の撚糸を発明した。さらに、天明8年、西陣がふたたび大火によって大きな打撃を受けると、桐生地方へ下った西陣の織師やその門下により、緞子・金襴・繻子・御召縮緬・天鵞絨などの高級織物が織り出されるようになり、西陣を圧倒する勢いとなった。
 また、このころになると、北上川の養蚕、中上州の製糸、桐生・伊勢崎の織物というように、地域的な分業も行われるようになった。機屋の作業も、機織・糸繰・紋引などの分業化が進んだ。
 こうした生産様式の普及や拡大を基礎に、天保年間(1830〜1844)になると、機屋の一部には、多くの雇用労働力を用いて、堅染・紡績・染色・機織・製織という生産工程のいっさいを自家作業所で行うマニュファクチュア経営もみられるようになった。
 以上のように、18世紀中頃における西陣技術の移入を契機として、桐生織物業は飛躍的な発展をとげ、「関東の西陣」と呼ばれるまでに発達した。なおこの時期、桐生と同じように織物の特産地として発達した地方に、野州足利、武州八王子などがある。 (「大系日本の歴史10」から)
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<「足利織」の成立>  文献によれば、奈良時代に足利産の織物が東大寺の大仏開眼に際し献上されている。このおりものは獣の毛を原料にしたものと考えられている。また、鎌倉時代に足利義氏(足利氏四代目当主 幕府の重臣)が、幕府の執権北条時頼に毎年染め物を贈っていた話が『徒然草』(第217段)に載っている。この織物は絹の白生地を美しく染め上げたものと考えられている。 これらの例のように、足利織物は大変に古い歴史を有している。しかし、このような文献上の織物は、後の時代のいわゆる商品としての足利織物とは異質なものであり、いずれも特産品な、工芸品的なものであったと思われる。
 商品としての足利織物は、江戸時代の中期に成立した。当地で「きるい」と呼ばれた家々の自家用織物として成立していた綿、あるいは絹綿の着尺織物が、おそらく余剰分、あるいは注文分が、商人の手で集められ、商品化され、全国的に出荷された。18世紀の頃にはすでに「足利結城」など、高い評価を得た綿織物が知られていた。
 明治時代の中頃までの足利の農村では農家のほとんどが自家用の織物を織った。女性たちが真綿(屑繭)から手で糸を紡ぎ、それを草木染めし、手機で織物を織った。平織りで小幅のきもの用の織物であって、これが「きるい」である。この種の織物、それを作り出す技術が、江戸時代中期以降、商品としての「足利織」につながったと考えられる。
 江戸時代の足利地方は、幕府により徹底的な分散支配製作が取られていた。1705(宝永2)年に戸田氏1万1千石足利藩が成立したが、足利地方を構成する足利郡、梁田郡には石高の半分しか置かれず、足利地方全体に対する藩の支配力、統制力は弱かったと考えられる。また、城が築かれることもなく、在郷町として一続きの街村として成立していたいわゆる足利町の東部分(足利新田町)の喜多川に、藩の陣屋が設けられていた。
 足利地方を貫流する利根川の支流渡良瀬川には、江戸に年貢米を運ぶことを主たる目的として、1624年(寛永元)から農民資本により猿田河岸(やえんがし)ができ、1649年(正保2)に幕府から認可されていた。水運の便は、江戸時代中期以降、沿岸の農村に江戸向けの商品作物や菜種・木綿・麻など興業原材料物の栽培をもたらし、同時に農民による農村工業の成立をも促した。足利地方はこの傾向はこの傾向が特に強かった。 水運では次第に米以外の積み荷が増加し、多くの河岸と回漕問屋が成立し、渡良瀬川水運の終点足利猿田河岸は発展し、川沿いには街村が成立し、新たな機能を備えた飛脚問屋取次も成立した。
 足利地方は北関東では例外的に赤土(関東ローム層)を乗せた台地を欠き、水田耕作が広い。米も豊富で安かったとの指摘もある。反面、桑栽培の適地は乏しく、したがって養蚕は左官ではなく、生糸の生産業は興らなかった。 織物を作る場合、足利の人は生糸は西の上州(群馬県)から、綿糸は南の東毛(上州東部)や武州(埼玉県)、東の野州(栃木県)から糸商を通して購入した。西の絹織物地帯、東、南の綿織物地帯に対し、原料生産のない足利地方が次第に絹綿交織織物地帯になっていく背景がここにあった。
 1654年(承応3)に足利新田町に上・中・下三織物取引市場が作られた。市場に出て日本各地の織物問屋と足利の織物生産者とを結び付けたのは、京屋、嶋屋といった全国規模の飛脚問屋の桐生視点の足利町取次ぎ屋であった。彼らは猿田河岸にも店を持った。織物では一般大衆向け綿織物を中心に生産が進んだ。木綿縮(17世紀前半)、小倉織(18世紀後半)、足利結城(18世紀末)などの人気商品はいずれも綿織物であった。
 18世紀の末頃、寛政年間には足利の織物「足利織」は、完全に商品化を果たしていた。町にも村にも農民、商工民による専業の機屋(元機)が成立し、足利町には原料糸商が出店し、次第に力を付けていった。そして、飛脚取次屋から買次ぎ商(のち買継ぎ商)が分離、成立し、回漕問屋と組んで流通も独占し、産地支配力を付けていった。 19世紀初頭の文化年間には京都菱陣織地域から、桐生を経て、高機が足利にも入り、綿織物生産にも応用され、生産力向上と品質向上に大きな寄与をした。また、長く続いた流通における桐生市場の支配から独立する努力が18世紀末から続けられてきたが、1832年(天保3)に独自の足利織物市場が開設された。桐生側の打撃には大きいものがあった。
 足利は桐生と異なり、織物生産の仕組みは農村工業の方向へ進んだ。すなわち元機は織物生産の企画、統括、販売を行い、染め、撚り、準備、織り、整理等々の、ほぼ全行程を農村の農家の手に委ねた。生産の中心の織りを担当したのが賃機(ちんばた)で、「きるい」を織った女子が労働力の主力であった。賃機は一切の機台、機具、原料糸を与えられ、注文の織物を織り上げ、元機に引渡し、その量に対して工賃を受け取った。 18世紀末の事典で足利の織物生産は、前貸し制を伴う問屋制家内工業が主流となっていた。こういった製造工程の足利地域内における分業が幕末の事典で一般化し、織物産業(機業)はたの農村工業とは異なり巨大な地場産業となっていった。
 1867年(慶応3)の「足利最寄織屋仲間連名帳」によれば、桐生組に入っている足利郡西部の数村を除いても610名に及ぶ多数の足利組の織屋の存在を知ることができる(足利教育会『足利の歴史』などの、故荒井勝の研究による)。 これを元機と考えた場合、この下に数千戸の賃機が存在したはずである。機屋の数は桐生領五四ヶ村のそれとほぼ同じである。機屋のうち184名(30%)がいわゆる足利町(足利五箇村と足利新田町)である。
 安政の開港後まもない1862年(文久2)、大正〜昭和期に日本有数の輸出絹織物製造販売業者に発展する足利町の織屋秋間家では横浜から輸入綿糸を購入し、絹織織物の製造に取り入れている(同じく荒井勝による)。開港による国内生産糸の価格暴騰で「桐生織」側は大きな打撃を受け、「足利織」側は逆に発展した。 (「京都、リヨン、そして足利」」から)
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<地方機業の絹>  西陣機業を揺さぶる絹機業が地方に興るのは、18世紀の20年代からである。町人はいうまでもなく農民にまで広がった絹需要の拡大と和糸の生産増加を背景にして、まずは丹後に縮緬生産が興る。 堀江英一氏によれば、1720年(享保5)丹後峯山の絹屋、絹屋、左平次という者が西陣から縮緬技術を盗み出して中野・竹野郡に伝え、2年後には加悦(かや)の絹屋も与謝郡に伝え、生産勃興した。縮緬は経糸(たていと)に無撚の生糸、緯糸(よこいと)に郷土の撚りをかけた片撚糸を用い、右撚の片撚糸と左撚の片撚糸を交互に打ち込んで織る。 当時西陣は片撚糸を撚糸車で撚り、右撚・左撚に撚り分けることもできる八丁撚糸機を持っていた。西陣から盗み出した縮緬技術とは八丁撚糸機の設計図では、と想像をたくましゅうするのも面白い。(中略)
 さて本題に戻って、峯山・加悦地方は従前、農民が撰糸絹・精好・紬を作間稼ぎに織っていて、地場機業があったところである。この絹屋というのは、堀江氏によれば機屋・織屋とも呼ばれ、居坐機で農の作間の織っていた農民のうちから現れてきた者である。 注意されるのは丹後縮緬の素材、原糸である。堀江氏によれば、それはまず丹後地元の糸問屋が関東・奥羽、あるいは京都西陣糸屋町の分糸屋から仕入れ、地元の糸問屋から糸を仲買いする糸仲買人がいて、絹屋はその糸仲買人から原糸を手に入れた。 先に1725年の京都の京都の糸・絹問屋37軒の答申書に触れたが、37軒のうち8軒の関東問屋があり、関東とはいわゆる関八州(上野・下野・常陸・武蔵・上総・下総・安房・相模)ばかりでなく、奥州(磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥、すなわち原材の福島・宮城・岩手・青森の諸県)も含めている。この答申書には出羽国・陸奥国からも糸・絹が上がると記しているが、 これは関東問屋から答えたもので、奥州問屋というのはなく、関東問屋が奥州産の糸・絹を扱っていた。奥州とは陸奥国・出羽国(羽前・羽後・原材の山形県・秋田県地方)である。つまり注意されるのは、丹後縮緬の原糸は上州(上野国・原材群馬県)・野州(下野国・現栃木県)・奥州産の各糸、すなわち現在の関東・東北地方から京都に上す糸であったとされている点である。 おそらく上州糸がその中核であったのではなかろうか。(「事典 絹と木綿の江戸時代」から)
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<主な参考文献・引用文献>
大系日本の歴史10                          竹内誠 小学館ライブラリー 1993. 4.20 
京都、リヨン、そして足利                 日下部高明・随思舎 随想舎       2001. 5.10
ものと人間の文化史 絹T                      伊藤智夫 法政大学出版局   1992. 6. 1 
事典 絹と木綿の江戸時代                     山脇悌二郎 吉川弘文館     2002. 6.20 
( 2005年4月11日 TANAKA1942b )
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(18)東日本へ広がる絹・絹織物産業
農村に新しい産業として育つ

<桐生・足利だけでなく、東日本あっちでもこっちでも絹・絹織物産業> 前回、桐生と足利を中心に絹・絹織物産業を取り上げたのだが、調べてみると、東日本あっちでもこっちでも絹・絹織物産業が興っていた。 日本各県の歴史を扱った本を調べて見ると、江戸時代各藩が絹・絹織物産業を奨励し、各地で西陣に代わる地位を得ようと努力していたことがわかる。しかし、領主主導と言うよりも、実際の生産者である農民やそれを売買する商人の活躍の方が目立つようだ。 絹・絹織物産業が農村に新しい産業として育ち始める。そして「百姓は百の職業を持つ兼業農家」となっていく。 その絹・絹織物産業がどのように広がって行ったのか、今週だけではとても書ききれない程の普及速度、東日本の北の方から段々に取り上げてみることにしよう。
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<米沢藩の養蚕・織物=山形県>  米沢藩においては安永の改革時、桑・漆・楮(こうぞ)の各100万本植立てが計画された。また、寛政4(1792)年には蚕養(さんそう)役局が設けられ養蚕と桑栽培が奨励されることになった。 上杉鷹山も隠居所である餐霞(さんか)館で蚕を飼わせるなど力を入れている。養蚕は家中の貧苦を救う副業としておおいに奨励された。また、農民・町民のあいだにも生産の広がりをみせた。 文化・文政期(1804〜1830)になると、養蚕家の発達を背景に養蚕業も盛んになった。その中心となったのは下長井地方と北条地方である。文政11(1828)年の調べでは、蚕利1000両以上をあげる村が、宮内村(2132両)、五十川村(1718両)、宮村(1640両)など10ヶ所を数えている。
 安永期にはまた、越後から縮織(ちぢみおり)の熟練技術者を招き、家中の婦女に織り方の技法を学ばせた。やがて織物の種類は縮布から横麻(横糸が麻、縦糸が絹)、絹織物へと推移した。米沢織といえば絹織物をさすようになったが、その技術の導入は文化年間初頭である。 米沢の織物問屋高橋嘉左衛門や渡部伊右衛門は、京都の織師宮崎球六を招き織り方の伝授を受けた。彼の製法は、縦・横ともに絹糸を用いるもので唐糸織と呼ばれた。 また、下級藩士町田八之丞は、藩命で京都に出かけたときに織り方を修得し透綾(すきあや)と称される絹織物を作りあげた。彼は積極的に織物業に取り組み、文政12年には絹糸の買入高1900両、透綾の生産量2004両にも達し、士族のなかで第一の富豪といわれた。
 紬布は、絹糸にむかない屑繭から紡いだ糸で織る布地である。下長井地方では寛政のころから白紬や縞紬の生産がみられた。その後成田村の飯沢半右衛門が結城で織り方を学んできてその技術を周辺の村に広めた。これはのちに長井紬として発展した。また、桐生と米沢の技術交換が盛んになり、米沢に招かれた桐生の縮緬師田島常右衛門は、 万延元年(1860)年米沢節糸織を寛政させた。これは幕末には年間7000反を超える生産量をあげるようになっている。
 米沢織に従事したのは多く中・下級藩士とその婦女であった。織師は「御物師(おものし)」と呼ばれ、織物問屋から織機や絹糸を渡され織物に仕上げる問屋制家内工業の形態をとっていた。米沢藩の織物問屋には前述した高橋嘉左衛門や渡部伊右衛門などがいるが、織物の総売上高は弘化・嘉永(1844〜1854)ころで10万両余といわれている。 織物は初め藩が設置した国産所ですべて買い上げ、江戸の国産掛をとおして御用商人三谷三九郎手代志摩屋に一手販売した。寛政期には生産額が増加したため志摩屋の注文分以外は自由取引になった。また、文政期には織物運送の円滑化をはかるため、産物会所が江戸と米沢に設置された。産物会所の運営は有力織物問屋にまかせられた。こうして米沢織の販売も間接的な専売制に移行した。 (「山形県の歴史」から)
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<信達地方の養蚕業=福島県>  阿武隈川がその中央を流れ、東岸には阿武隈山地、西岸には吾妻の山々がせまっている信達(しんたつ)両郡は、洪水がいんぱんに起こる氾濫原に桑の木を植え、湿気の少ない丘陵地で蚕を飼育する、古くから養蚕業の盛んな地方であった。 伝承によれば、古代にはすでに「伊達の絹」「信夫毛地摺(しにぶもじずり)」と呼ばれた絹が世に知られていたという。しかし、本格的にこの地方の産業として養蚕業が登場してくるのは、近世に入ってからのことである。
 寛文4(1664)年までこの地を領有した上杉氏の殖産興業政策により、畑地への桑栽培が急速に広がり、周辺の丘陵地に養蚕業が展開していった。保原・梁川・掛田(伊達郡霊山町)・桑折・藤田(同郡国見町)に開かれた六斎の定期市は、農村における養蚕業など商品生産の発展と深いかかわりを持っていた。 陰暦六月十四、五日、伊達郡岡・長倉(伊達町)で開かれた天王市は、まさに養蚕の一代市で、糸・蚕種・真綿などが取引されていた。この市で売買された糸が、寛文十一年には「登せ糸」として京都西陣へ送られている(吉田勇『佐藤友信』)。蚕業技術もしだいに発展していった。口伝のよれば、天和年間(1681〜1684)ころ、柳田村(伊達郡梁川町)の鈴木吉之丞が、早生桑を栽培してよい結果を得、「吉之丞早生」と呼ばれ、元禄以降盛んに栽培されるようになっていったという。 同じころ、伏黒村(同郡伊達町)の八城六之丞が育てた「六之丞桑」、同村佐藤市兵衛発見の「市平桑」など、早生桑が登場し、蛆の被害を免れるための早期の蚕の掃く立てが可能になっていった。
 信達の養蚕がさらに一段と発展したのは、白糸割符制による中国生糸の輸入制限により、西陣機業の原料生糸の需要度が増大したころからである。良質の糸を出す繭を生産するために良質の蚕種が要求されるようになり、蚕種製造が阿武隈川沿岸の村々を中心として専業化していった。 さらに糸の需要に応じ、絹産業が川俣を中心に形成され、近世中期には、信達地方で生産された良質な蚕種は進達地方内部で売られるばかりではなく、上州・信州など遠隔地へも売りさばかれるようになっていった。元禄のころには最盛をほこった結城種も、近世中期をすぎると信達地方に蚕種製造の中心地を譲らなければならなくなった。
 しかし、このように信達地方の蚕種が優れているということになると、本場福島産と偽って粗雑な蚕種が出回りはじめた。これを防ぎ、流通面での利を守ろうとした蚕種商人たちの要望により、さまざまな経緯を経たのち、幕府公認の良種として、信達産蚕種は、冥加金を納入するかわりに本場銘を記入することが認められた。 安永2(1773)年のことである。小幡(伊達郡保原町)・二野袋・粟野・梁川(ともに同梁川町)・桑折・伏黒など17か村が本場、箱崎(同郡伊達町・柳田・瀬上(福島市)・福島など8か村の村々が場脇(ばわき)となり、場脇につぐ村13か村と合わせ計38か村で冥加金を納入することとなった。 だがこの成り行きによっても、他の地方の蚕種制阿産を抑えることはできなかった。そればかりか、冥加金を納入しなければならないことになった本場種は価格が高くなり、かえって他の地方の安価の蚕種との競争に破れるという事態がでてきた。農民は、安永6年冥加金と改印の1年休止を願い出、それがだめなら3ヶ年、5ヶ年の半額上納を希望、冥加金を半額にしてもらった。 さらに天明元(1781)年には全廃を願い出、幕府は、同3年この制度をやめることとした。
 以後の信達養蚕業は、他地方との競争のなかで、天明3年著わされた佐藤友信の『養蚕茶話記後編』に述べられている「清涼育」すなわち気温の変化に注意し、湿気には火気を有効に使用する方法や寛政年間(1789〜1801)、田口留兵衛によりとなえられた「温暖育」すなわち蚕の飼育に炭火を用いる方法、弘化3(1846)年中村善右衛門が寛政した「蚕当計」すなわち蚕室で用いる寒暖計の発明など、技術改良に努力し、 奥州種の声価を維持していき、安政の開港によってなおいっそうの活況をみることとなった。 (「福島県の歴史」から)
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<結城紬=福島県>  結城市を中心とし、栃木県小山市の東北部を含む鬼怒川と田川に沿った地域は、古くから養蚕業が盛んで、絹織物の紬の生産地であった。周辺の地名にも、鬼怒(絹・衣)川・小貝(蚕飼・養蚕)川・糸繰川(小貝川の支流)のように、養蚕・製糸にかかわるものが多い。 結城市内の旧小森村は、古くは蚕籠と呼ばれ、村内の大桑神社は養蚕の神として農家に信仰されてきた。結城地方は17世紀後半に蚕種生産地として知られ、結城種とよばれる蚕種は、関東のほか、信濃や南陸奥(福島県)に販売市場を広げていた。 蚕種の生産地は結城本郷の他、下野都賀・河内両郡・下総結城郡・常陸真壁郡に広がっていた。蚕種生産をささえていた有力な条件は、鬼怒川・田川沿岸の桑畑だったが、享保8(1723)年の「五十里水」とよばれる大洪水をはじめとする度重なる鬼怒川の洪水のため、この桑畑が壊滅的な打撃をうけ、蚕種の主産地は奥州伊達地方(福島市ほか)に移ってしまった。
 一方絹織物の方は、寛永15(1638)年刊行の『毛吹草(けぶきぐさ)』諸国土産下総の条に「結城紬」と出ている。また享保17(1732)年の三宅也来著『万金産業袋(ばんきんすぎはいぶくろ)』は、「下総の結城よりいずる。幅九寸五分、広といふは一尺、丈五丈四尺、六尺有もあり、いかにもつよし。 練屋にてざっとふかして染むべし」と結城紬を具体的に説明している。丈(長さ)の記述は、当時結城紬が布地二反分に相当する一疋単位で取引されていたことを示し、また後半の記述は、結城紬が丈夫で、染色しない状態で取引されていたことを示している。
 18世紀初めの生産地は、おもに中川原・中島・福良・梁(以上小山市)、山王・上山王・大谷瀬・小田林(以上結城市)など、鬼怒川や田川に誓い村々で、現在でも紬の生産が盛んな土地である。結城紬は本来無地の平織りで、近世中期に縞紬や貫紬とよばれる緯紬が織られるようになった。 縮織の技術は明治期に導入されたものである。結城紬は真綿から糸を紡ぎ、これをいざり機で織り上げた。寛政2(1790)年の史料によると、上質の紬一疋のために、210匁の真綿を金3分で購入し、糸紡ぎに約70日かかり、約20日かけて織り上げ、これを結城町の紬買継商人が金一両三分で買い取った。縞紬の柄や模様は、いざり機で織る前段の作業として、色の違う数百本の糸を一定の法則で並べて筬(おき)にとおさなければならない。
 結城縞紬は18世紀初頭から江戸に出荷され、同世紀後半には江戸の人ぎとの人気を獲得するようになった。結城紬には、秩父紬には、秩父絹や信州紬のような競争商品も出現したが、結城紬の声価は高く、寛政期には京都・大坂・近江など上方へも販路を広げている(『結城市史』第二巻近世史編・第五巻近世通史編)。 (「茨城県の歴史」から)
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<足利の絹織物=栃木県>  中世以来の機織りの伝統を有する足利では絹織物の生産が盛んになり、養蚕・製糸と機織りの分業が進展した。すでに宝暦・明和(1751〜1772)のころ紗綾織・白縮緬・縞縮緬・八丈縞・竜紋など、比較的高級な絹織物が生産され、桐生市場をとおして江戸に出荷されていた。 まもなく江戸の問屋で足利にも出店を開くものがあらわれ、足利と周辺の機屋の数も増加してきた。小佐野茂右衛門の足利小倉の創織や岩瀬吉兵衛の水力撚糸機(水力八丁車)の発明もこれに拍車をかけた。さらに化政期(1804〜1830)の高機の導入と大衆的な綿織・絹綿交織への進出は、その後の発展を決定的なもnにし、桐生とならび北関東を代表する全国有数の機業地帯として発展していった。 (「栃木県の歴史」から)
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<秩父の絹織物=埼玉県>  入間郡から比企・秩父・児玉郡にかけての丘陵・山間地帯では、養蚕・絹織物業が、原料の生産から加工まで農家の副業として盛んで、織り出された製品は付近の市場で取り引きされた。入間郡では川越絹平とよばれた川越・坂戸周辺のものと、扇町屋(入間市)を中心に取引された多摩郡青梅地方から続く縞織の生産が大きい。 一方、秩父・児玉・榛沢・男衾郡地方は、上州から続く養蚕・絹織物生産地帯で、とくに秩父郡では寒冷な大滝地帯を除くほぼ全郡で絹織物が生産され、「秩父絹」の名で広く知られた。この地方での絹織物がいつごろから始まったは明らかではないが、近世初頭の年貢関係史料には「絹のわり」という項目が広範にみられる。 また、寄居の六斎市でも寛永8(1631)年の段階で絹や繭の取引が確認され、さらに延宝6(1678)年には絹の売場についてあらためて議定が結ばれるなど、近世前期から盛んに生産・流通していたことがわかる。 秩父郡での年間取引量は5万2000疋、絹一疋(二反)の価格が同史料では金二分とされているので、郡全体での売上高は2万6000両にのぼると推計される。織り上げられた絹は郡内の六斎市で取引され、とくに大宮郷妙見宮(秩父神社)の霜月大祭の市を「大市」とよび、諸国からきた絹商人で賑わい、その豪華な祭礼は秩父夜祭として現在に引き継がれている。 (「埼玉県の歴史」から)
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<縮に代わる紬生産=新潟県>  縮みの販売には問屋の手を通さずに、縮み布を直接江戸に持ち運び行商する、江戸行商人も出現した。文化3(1806)年、魚沼・頸城・刈羽などからの江戸商人は500人を数え、直接江戸市中で縮を売り歩いたので、江戸十組呉服問屋の経営をおびやかすほどであった。
 縮みの生産は天保期以降停滞し10万反前後で明治期を迎えた。この停滞の原因には天保改革の節約令により、模様・品質・染色にまで厳しい統制が加えられ、さらには武士の経済的困窮からの需要減や天保飢饉による羽州青苧生産の減少で青苧価格が高騰し、機屋の利を減じ縮生産を減少させるなど種々の要因があげられる。
 こうした縮の生産減少のかなで、養蚕・製糸・紬など、絹織物生産が農民の余業として増加した。絹織物の産地は栃尾・五泉・山辺里(村上市)・加茂・新津などの形成され、近世中期以降、絹織物需要増のなかで特産化していった。 栃尾紬が各地にその名を知られるようになったのは縞紬寛政以降で、栃掘村(栃尾市)などでは庄屋植村角左衛門の努力で寛政年間(1789〜1801)の商品化に成功し、文化初年には1万疋の生産高に達した。幕末期には魚沼七市場(小千谷・堀之内・小出島・須原・塩沢・六日町・十日町)全体の扱い高は絹8000反、紬2万反、生糸5000貫に達していた。
 平野部で生産がはじまった木綿織物は天保期に急激に発展し、亀田縞・加茂縞・見附結城などの産地が形成された。これらは日本最北の綿織物物産地として発展し、庶民の平常着、農作業用着として広く利用された。
 このように、18世紀から19世紀にかけて越後の村々の産業・経済の発展は著しく、在郷町の六斎市などを中心に、地域的な市場経済を発展させつつ大坂・江戸などを中心とした経済圏との結びつきを強めていた。 (「新潟県の歴史」から)
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<主な参考文献・引用文献>
山形県の歴史 県史6            横山昭男・誉田慶信・伊藤清郎・渡辺信 山川出版社     1998.12.10
福島県の歴史 県史7          丸井佳寿子・工藤雅樹・伊藤喜良・吉村仁作 山川出版社     1998.12.10
茨城県の歴史 県史8    長谷川伸三・糸賀茂男・今井雅晴・秋山高志・佐々木寛司 山川出版社     1997. 6.20
栃木県の歴史 県史9            阿部昭・橋本澄朗・千田孝明・大獄浩良 山川出版社     1998. 2.10
埼玉県の歴史 県史11                 田代脩・重田正夫・森田武 山川出版社     1999. 6. 5
新潟県の歴史 県史15 田中圭一・桑原正史・阿部洋輔・金子達・中村義隆・本間恂一 山川出版社     1998. 1.25
( 2005年4月18日 TANAKA1942b )
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(19)絹・絹織物産業の中心地は群馬県
現代でも品種改良の伝統を守る

<にぎわう村と町=群馬県><高機と桐生織物業> 安永4(1775)年、新田郡出身の尊皇論者高山彦九郎は、西上州の桐生織物業について、「左右の人家皆ナ糸織を以て業とす」と記し、なかでも女性はつねに絹織業をしているので戸外に出ることが稀になり、紗綾(地紋に紗綾形がある絹織物)・縮緬・綸子・緞子・龍紋・魚子(ななこ=織り目が方形で魚卵のようにみえる、いずれも高級絹織物)など多く生産して繁華であり、 「人驕奢の風あり」と書きとめている。それから60余年後の天保9(1838)年4月22日、幕府の巡検使も、「この地機織を業とするもの多く」、山間僻村の村民も「茅屋破壁」に住居しながら、女性の頭髪に紅絹をまとい、身に綿布の着物を着ながら、その下の襦袢の袖にぜいたくな縮緬を使っていると記し、その盛んな生産とそれによって消費生活が活発であったようすを伝えている。
すでに、近世初頭から絹織物業が展開していた桐生領五四ヶ村(桐生市から山田郡大間々町・勢多郡東村におよぶ)は、もともと山間の村で田畑が少なく農業生産だけでは生活できなかった。絹織物業が農民経営を補完するために、農業の片手間に女性が中心となって養蚕・製糸・織布を家内で一貫して行う、零細な副業の一つになった。生産性の低い「居坐機」による、縦糸と横糸を交差した平組織の絹織物は、 染色仕上げをしてない「生絹(きぎぬ)」と呼ばれる半製品で、「登せ絹」として京都西陣に送って加工され、商品となった。そのため桐生地方の生産は高級織物技術をもつ京都に従属し、独自の発展性に乏しかった。
 元文3(1738)年、桐生織物業は、京都から「高機」の導入に成功した。高く組み立てられ、織る人が端の横板に腰掛け、足で踏木をふんで綜絖(そうこう=横糸を通すために、縦糸を上げ下げする装置)を作動させて織る高機は、居坐機より生産性が高く、飛紗綾・縮緬・龍紋・紋絽など、複雑・高度な高級絹織物の生産を可能にした。 しかも、天明3(1783)年には、高級絹織物の原糸となる、強い撚りをかけた撚糸を生産する。水力八丁撚車が発明され、同6年には、京都西陣から先染技術の染色仕上げ行程も得て、桐生織物業は発展そ一途をたどることになった。天保6(1835)年には、桐生領54ヶ村を中心(下野国足利郡内20ヶ村を含む)に、絹織物を織りだす織機数が1万5000台におよび、元治元(1864)年には、販売した絹織物が70万両に達した。
 絹織物を生産する機屋のなかには、機織女などの大勢の奉公人を雇用するものも現れた。自家内に作った作業場に、「糸染」2人、「機織」2人、「手子」3人、計12人の奉公人を配置して、準備行程の原料糸の染色から織布工程までを組織するとともに、近隣の農家に各行程の一部や賃機を委託して外業部に編成した、 嘉永元(1848)年の下広沢村(桐生市)の彦部家の経営は、2352両の帯地1317本の生産を行うマニュファクチュア(手工技術に基づく分業と協業の生産形態)と見られている。この地域の機屋に雇用される奉公人は、「上機」200人・「中機」200人・「並機」100人・「紋引」200人・計700人とも言われている。山田郡堤村(桐生市)の大沢家で、嘉永3年、前貸金3両をもらうとはいえ、7月から12月までのあいだに、 1両に11疋の割合で絹織に雇用された「まさ」や、同4年、前貸金2両2分をもらい、8月から12月までのあいだに、1疋10匁の割合で縮緬織の雇用された「きさ」のような「反織奉公人」は、「居消(いけし)奉公人(単に前借金を返済する奉公)ではなく、事実上の賃労働者の登場ともみられている。
 もっとも、すでに宝暦期(1751〜1764)に、織布から仕上加工行程までを自家作業所内に一貫して編成した、桐生新町の新居家では、慶応2(1866)年、逆に作業場を縮小して、織布を行う16人のうち14人が外業部になる賃機となり、生産量も6〜7割を担当するようになっていることをみると、自家作業場は農民に技術の普及をはかる技術伝習所的性格をもち、 その経営形態は、技術を習得させて家に帰した農民を賃機に編成する、問屋(といや)制家内工業ともみられるところがある。
<広がる蚕糸業=群馬県>
 養蚕・製糸行程からなる蚕糸業は、上州ではすでに近世初頭から、零細な農民の副業として、一部地域で展開していたが、享保期以降、ほぼ全域に広がった。
 山田郡内では養蚕の収入をあてにしない人は稀となり、明和7(1770)年ごろの養蚕が、夜も寝ないほど「心をつくし身をくるしめて養ひ育て上げる」ほど(「養蚕極意伝」)の上州東部の村々に広がる盛況ぶりであった。 新田郡武郡島村(尾島町)の宮下家は、宝暦8(1758)年に、蚕種5枚からの上族(じょうぞく=あがりこ)220籠、それから得た収繭量55籠半・19貫400目、同12年に、蚕種6枚からの上族290籠、収繭80籠・25貫目という大きな生産量をあげ、 養蚕にかかった経費は、宝暦8年には2両1分ながら、桑の売上代が3分あったことから、実際には、1両2分であった。同12年、2両2朱・3貫700文ほどかかった経費の内訳は、桑の売上げがあったので、実際の経費は2両余、収益は8〜9両ほどであったとみられる、雇用労働に依存する養蚕経営であった。
 西部でも、山中領中山郷(多野郡中里村)の黒沢家は、寛政3(1795)年には蚕種2枚半からの収繭量71籠と3倍に増加し、桑を30駄余も購入している。文政7(1824)年、同家は、蚕種8枚半からの収繭量122籠・30貫550目も生産するようになった。購入した桑31駄に6両1分2朱をはらい、4月10日に掃立て、6月11日に揚終い、およそ掃立てから上族までの日数は47日ほど、「蚕大当たり」の年であった。
 零細な養蚕農民にまじり、宮下・黒沢両家のように、大規模に発展する養蚕経営が展開するなかで、生産された繭の集荷にあたる商人も登場した。享保6(1721)年、吾妻郡五反田村(中之条町)の田村家が、6月22日に、村内外の農民14人から、繭を最高2貫700目(代2両2分)〜最低120目(同250文)、 翌23日に同じ農民14人から、最高6貫目(同6両)〜最低90目(同150文)、さらに、7月2日にも1人から190目(同1分)を買い集めている。これだけでも、同家は農民62人から65貫200目(1人平均1貫余)においぶ繭を、59両余(1人平均1両弱)かけて集荷したことになる。
 農民から繭を集荷する商人のなかには、零細な農民が自家製の繭から挽いた糸も回収する、「出釜」「釜掛」などと呼ばれる、製糸の賃挽経営を営む者も現れた。金融業者、糸繭集荷商人でもある、勢多郡水沼村(黒保根村)の星野家は、寛政12(1800)年に、賃挽人50人に挽かせた糸量77貫目余、享和2(1802)年に、賃挽人63人に挽かせた糸量94貫目余、天保12(1841)年には、賃挽人97人に挽かせた糸量177貫目余のおよんだ。 享和2年の「釜入帳」を見ると、同家では、正月17日に清水の孫左衛門の繭2貫400目を渡し、2月19日に挽いた糸475目を回収し、21日に挽賃2朱を払い、正月19日に、涌丸(いずれも黒保根村)の権之丞に繭2貫400目を渡し、2月19日に挽いた糸450目を回収し、21日に挽賃1分を払っている。 星野家では、1人の賃挽き人に渡す1回の繭量は2貫200〜2貫400目ぐらい、それから挽く糸量は400〜470目ぐらいで、作業期間は1カ月ほど、挽き賃は挽いた糸量により2朱から2分ほどの差があった。 実際に繭から糸を挽く作業は、零細小作層の婦女子の労働で、年間の挽糸量は平均2貫目ほど、就労機関は冬から」春にかける平均4〜5カ月であった。星野家が編成する賃挽製糸経営は、問屋制家内工業とみて良いだろう。
 発展する上州の蚕糸業は、幕末期には桐生・伊勢崎絹織業に原料糸を供給する、北部の養蚕、中・東部の製糸という地域的な分業を形成するようになるが、西部では養蚕・製糸・織布工程を一貫して行う生産形態をとっていた。
<在町の発達と市=群馬県>
 商品経済の進展は、村のなかに、商工業従事者を増加させ、農業集落から商工業集落へと装いを変える「在町(在郷町)」を生みだし、その核が、広く展開をはじめた商品生産物の集荷・販売市場となる「市」の登場であった。在町は、上州の北部では、中之条(吾妻郡中之条町)・原町(同吾妻町)・長野原(同長野原町)・月夜野(利根郡月夜野町)、西部では藤岡(藤岡市)・富岡(富岡市)・下仁田(甘楽郡下仁田町)・東部では桐生新町(桐生市)・ 大間々(山田郡大間々町)・堺(佐波郡堺町)・小泉(邑楽郡大泉町)などがあげられるが、なかでも、東の桐生新町とならび、西の藤岡はその典型であった。
 上州西部の山中領(多野郡上野村・中里村・万場町)のついて、文化2(1805)年、甘楽郡神原村(多野郡中里村)の割元名主・黒沢覚太夫は、瓢亭百成のペンネームで書いた「山中竅過多(さんちゅうあなだらけ)」のなかで、「上毛山中の繁栄は、花の都にもならぶと見える。蚕は化して山中絹の丈夫向きとなり、楮(こうぞ)ハたちまち山半紙の徳用ものとなる。 煙草は名産の館をもしのぎ、大白豆ハ秩父産よりもすぐれている。酒糟は、麻畑の肥料に用いて効果があり、春に蚕種を購入する商人は、秋には生糸を買い集め、夏には麻布を売り、冬は唐松苗を売り、同じ商人がさまざまな商品を売買するのも、富裕の地のほまれである」と、商品経済の進展を述べている。この地域の生産物は、元文3(1738)年、緑野郡三波川村(多野郡鬼石町)の「明細帳」に、「女ハ蚕飼、絹仕候、尤、紙漉候者茂有之、右之市場(鬼石・渡瀬・藤岡)ニ商売」るとあるように、藤岡の市にも出荷・販売されていた。
 緑野郡藤岡は、「前橋風土記」によれば、貞享期(1684〜1688)に、毎月6甲斐開かれる「六歳市」で絹綿の売買が行われ、とくに6,7月には諸国の商人が群れ集まるとあり、すでに近世初頭から在町化していた。 明和7(1770)年の「村明細帳」に、市は「1・4・6・9・11・14・16・19・21・24・26・29」の各日と倍加した「十二斎市」となり、「絹綿たばこ売買」がさかんに行われたとある。 藤岡の市で取引される最大の産物の「生絹」「太織」は、天明期(1781〜1789)には、上州の絹市21ヶ所で取引で取引される。それぞれ計19万8500疋(1疋は2反)・7100疋のうち、その25%にあたる5万疋、15%にあたる1000および、2位の高崎の3万疋・1000疋 を多きく引き離してトップにあった。藤岡には、安永5(1776)年、手数料の「口銭」を得て、江戸関東物呉服問屋の買付けにあたる「絹買宿」が11軒存在し、文化11年には、取引する呉服問屋が、三井越後屋八郎右衛門を始め40軒にも達した。 京や江戸の大商人に従属しながらの繁栄とはいえ、絹買宿の星野兵四郎家では、取引する戎(えびす)屋だけでも、口銭が5000両〜9000両もある隆盛ぶりであった。
 明和7(1770)年、藤岡(村高1022石余)の戸数666戸・人口2721人は、いずれも標準的な農村の2〜3倍であった。「男は耕作の外、絹・真綿・煙草、その他品々を売買し、女はきぬ・真綿を製造し」として、商品生産の担い手となるが、50余年後の文政5(1822)年には、さらに戸数15%にあたる109戸も増大し775戸となった。 天明8(1788)年、「藤岡町は、田舎にも似ず、繁昌の栃になった。その証拠は市日へ人が集まるのも、高崎よりも多く、栄えている。そのうえ他国からの地借人・店借人も覆いため、高1020石余でありながら人数もことのもか多い。そのため衣食住におごり、江戸表へもたびたび出かけ、江戸の風俗を見習い、男女とも驕奢になり、その身の分限をもわきまえず、 紗綾・縮緬・絹袖を着て、鮫鞘などの拵えの立派な長脇差を持ち、遊芸・歌舞・琴・三味線を習う遊び人が多く、江戸町人よりも増長している。農業だけで生活するものを、田夫野人等と軽蔑して不敬粗略に取り扱い、神事仏事吉凶の行事に農民を下座し着席させる風俗になるので、農民が農業を止め、商売に移り、江戸へ出て商売を心掛候」 (『群馬県史』資料編9)と、もはや農村の面影もとぼしい、在町の変貌ぶりを伝えている。
<絹糸運上一揆=群馬県>
 緑野郡藤岡町(藤岡市)に出店を設け、1年間で5万疋もも絹の取引を行っていた三井越後屋の手代は、天明元(1781)年8月8日から各地でおこった「上州甚大大騒動」の様子を連日詳細に江戸の本店へ知らせた。 「14日より高崎宿へ入り込み候処、飛道具にて御固め遊ばされ候故、猶々騒動に相成り、人数およそ6万人程も相集り候の由の御座候」と記し、高崎城下へ6万人もの農民が押しよせ、高崎藩は禁制の鉄砲で武装して農民と対立したことにおどろいている。 高崎藩は実際に城内から300余挺の鉄砲に紙玉をつめて打ち、空砲の轟音で農民を威嚇したり、または「城中の士鉄砲をもて、前にすすみもの1,2人打ちころし」(『徳川実紀』第10篇)と、一部の農民を射殺して撃退しようとしたのである。 高崎藩だけでなく、役所が攻撃されるとの風聞があった吉井藩でも「日野(藤岡市)や多比良(吉井町)などから鉄砲打ちを大勢召集して、そのうえ江戸屋敷からも目付衆・物頭衆20人ほどが、8月16日に到着した」(『島高堅自記』)とあり、領内の猟師などを呼び寄せて鉄砲で迎撃する態勢を調えるとともに、えど屋敷へ応援を依頼したのである。
 領主が「仁政」をかなぐりすて、むきだしの武力で弾圧しなければならない程の威力を示した絹運上一揆に結集した6万人もの農民は、絹糸改会所(きぬいとあらためかいしょ)の設置に反対して立ち上がったのである。絹糸改会所とは、田沼意次が実権を握っていた幕府が甘楽郡金井村(藤岡市)の高山半兵衛や新町宿本陣・問屋ら3人の出願をうけて、 絹取引の不正取締と円滑化をはかるという名目で、3年をかぎって上野・武蔵両国の47ヶ所の絹市場に10ヶ所の改会所を設立して、農民が生産した絹の企画などを検査し、その改料を商人から徴収して幕府財源そ一部にあてようとする計画であり、この触書は天明元年6月27日に発せられ、7月20日から実施の予定であった。 改料は「端物1疋につき銀2分5厘、糸100目につき銀1分、真綿1貫目につき銀5分」の割合で商人が上納するというものであったが、実質的には生産者である農民の負担になることは明白であったため、農民による猛烈な反対運動が一部の在方商人や都市商人なども巻き込んで各地で展開されたのである。
それまでの百姓一揆は、主として村の代表による直訴という形態が多かったが、18世紀なかばから小さな藩や旗本領、幕府領が錯綜する非領国地帯では支配領域を越えた広域型一揆が打ち壊しを伴って起こるようになった。 明和元(1764)年に上野・信濃・武蔵3ヶ国の農民20万人が中山道の伝馬増助郷に反対して西上州を中心に起こした伝馬騒動とともに、この絹糸運上一揆がその特徴をよく示している。 一揆の原因は、近世中期から上州や武州で盛んになった蚕糸業への課税であった。そして絹糸改会所の設置の動きも、すでに元禄11(1698)年2月、寛延2(1749)年7月、宝暦9(1759)年12月に特定商人らの市場独占のために試みられたが、いずれも農民の反対で失敗に終わっている。
 上州では桐生・大間々・伊勢崎・高崎・藤岡・富岡などの絹糸市場を中心とした地域からつぎつぎと反対の訴訟がおこされたが、その中で最も強硬な手段に出たのが西上州の農民たちであった。とくに、西上州の絹市場の中心地であった藤岡町では8月の初め農民集会が開かれ、地頭所へ提出されるはずの願書が町役人のところで止められていたことに激怒した農民が改めて江戸に直訴することを評決し、 同月8日にはその準備も整えられた。これに呼応して周辺の村々でもそれぞれ鮎川や三名川などの河原で寄合を開き、会所設立反対の気勢をあげた。
 翌9日になると、53ヶ所の農民3000人余が徒党して小幡町(甘楽郡甘楽町)の新井吉十郎宅を打ち壊したことに端を発し、以後、会所設立に参道する富民豪商の家がつぎつぎと打ち壊された。 11日には吉井町4軒、12日には藤岡町・新町・一ノ宮町・富岡町など41軒、そして13日には倉賀野町など8軒におよび、西上州一帯に広まっていったのである。この騒動がピークに達したのは、農民らが倉賀町から高崎へ出て、藩主松平右京大夫輝高の高崎城へ押し寄せた13日であった。
 このように農民が高崎城を包囲するという実力行使に出たのは、幕府老中という要職にいた松平輝高が勘定奉行松平秀持の意見を容れて絹糸改会所の設立に深く関与していたからである。事態を重くみた幕府は同年8月16日、ついに改会所の設立を 断念せざるを得なくなった。これによって騒動もようやく鎮静化にむかい、19日には藤岡、翌20日には高崎の絹市場で農民や商人の自由な取引が再会されたのである。 なお幕府はこの騒動の首謀者の捜索を行って数十人の農民を逮捕し、天明2年11月徒党や打ち壊しの罪で処罰した。こうして西上州を中心に展開された天明の絹糸運上騒動は落着した。
 一方、絹糸改会所の設置に対して東上州の桐生周辺の54ヶ所の農民は、同年7月に訴訟費用を高割りで負担することを決めて9人の総代を選出したのち、「恐れながら権現様(徳川家康)が江戸へ御入国遊ばされ候節、御旗絹2410疋を献上たてまつり候吉例の地なので、諸役御免を仰せつけられ」と、 徳川家康に旗絹を献上した由緒を根拠に、広域の訴訟という合法的な反対運動をおこし、西上州の百姓一揆とは対照的な形態で目的を達し、のちに「神妙の致し方」と幕府役人からほめられている。 (「群馬県の歴史」から)
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<ふわふわジャンボ繭>  直径15センチの巨大な繭がランプシェードや置物になる。全国一の生産量を誇りながら、衰退の一途をたどる群馬県の養蚕業、絹製品の既成概念を打ち破るアイデアや新技術が、新しい商品をつむぎ出した。繭の化粧品も発売中だ。
 このようなリード文で朝日新聞では品種改良による巨大繭の紹介をしている。
 群馬県蚕業試験場の小林初美主任研究員(52)は、80匹のカイコに同時に糸を吐かせ、繭をどんどん大きくすることに成功した。直径15センチのまん丸なジャンボ繭で、内側はツルツル。普通の繭よりもふわふわした感触で、綿菓子のような優しい雰囲気がある。 中に電球を入れると、淡い光の趣がある。「ひとつ千円ほどでマーカーが商品化すれば、養蚕業の励みになる」と小林さんは話す。
 以前、カイコの餌である桑、これをペースト状にする技術を開発した、蚕を育てるのにかける手間が大幅に少なくなる、とニュースで報じていた。「品種改良にみる農業先進国型産業」養蚕業でも日本の得意芸は発揮されている。 しかし、江戸時代は養蚕も農業も「産業」であったが、現代では「環境保全のための公共事業」であり、採算性は問題にされない。農業に携わる人たちは、環境や地域社会のために農業をする、となっていてその生活は保障されない。いや、保障されている、「百姓は生かさず、殺さず」との程度の保障はされている。
 研究者たちは品種改良の伝統を守ろうとする。日本の農業は品種改良を含む、新しい事へのチャレンジ、改良の積み重ねであった。現代では古いものを守ることに重点が置かれているが、江戸時代は新しいことに重点が置かれていた。
 この<ふわふわジャンボ繭>は<蚕品種の変遷>で書いた「土まゆ」の改良種なのかも知れないが、品種改良の歴史的面からの記述はなかった。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
群馬県の歴史 県史10               西垣晴次・山本隆志・丑木幸男 山川出版社     1997. 5. 5 
朝日新聞 2005年4月15日夕刊                伊藤隆太郎記者 朝日新聞社     2005. 4.15
( 2005年4月25日 TANAKA1942b )
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(20)中部地方の絹・絹織物産業
冨山・山梨・長野での発達

<にぎわう村と町=群馬県><高機と桐生織物業> 今週は絹・絹織物産業が冨山・山梨・長野でどのように発展していったかを見ることにしよう。
<井波絹と菅笠=冨山県>
 元禄期(1688〜1704)の越中農村では、『元禄中農隙所作村々寄帳』によると、つぎのみるような自然産物以外の特産物の生産が行われていた。 山間部の紙や炭・蝋生産をのぞくと、瀬戸焼(新川郡上下瀬戸村・同新瀬戸村)、塩硝(五箇山)、茣蓙・筵(氷見庄の飯久保・深原村など)、箕(氷見庄論田村)があった。 織物関係では布さらし稼ぎがあるが、八講布・五郎丸布の名称をもった布が礪波郡農村で産出された。また、在町・町方には城端に絹や冨山の売薬業などもある。 その後、商品経済が展開した文政期(1818〜1830)には、『諸産物盛衰上帳』(「林家文書」)によると、五箇山の蝋や新川郡の瀬戸焼など一部の商品生産は衰微したが、五箇山の生糸・紙煙草入れの生産、礪波郡高月の売薬が盛んとなっていた。 在町を加えるならば、戸出の八講布・縮・嶋、福光の生糸・真綿・生布、福岡の笠、和田町の紙・煙草入れの生産、そして新庄新町・滑川・氷橋では売薬稼ぎが盛んとなっていた。 このほか城端と井波では絹織物、福野では木綿の桟留縞生産が行われている。また、天保元(1830)年の加賀藩産物調査によると、輸出高では松本行き木綿が京都問屋売りの絹紬類とならぶ最高額商品となっており、文政以降に松本売りの新川木綿生産が新川郡で盛んになっていったことも見落とせない。
 天保期に最盛期を迎えた井波の絹生産の中心となっていた柳絹の製法は、観寿という僧が文政年間に武蔵国小川から指導員を招いて普及させており、また彼は京都から染物師を招き、経糸を紅染にする糸紬生産を始めさせている。
 藩の殖産興業政策も越中の特産物生産発展に大きな役割を果たした。安永年間(1772〜1781)設置の産物方は、井波の絹織物業に天明2(1782)年に資金を貸与した。この結果、井波では移出用の緞子・綸子・大紋の生産が行われ、絹織物を主産業とするようになった。 井波絹業は文化10(1813)年以降に生産を拡大させ軌道にのるが、これには化政期の藩からの借銀も大きな役割をはたした。井波絹業の発展もこのときの江戸への市場進出とからんで文政末以降にさらに生産を増大させ、4万疋(8万反)もの生産をあげた。一方、福野の桟留縞生産も一丸の援助により生産が始まり、当初は産物会所の買い上げが行われた。
 福光の曽代糸などを使用する城端・井波の絹業では女工を雇用して生産する機業者が存在した。元禄期の城端には機織女の下女10人を雇う絹屋もいたが、手間機といって下請けで機織りをする者も多かった。のちの天保8年の井波の場合、町続きの村も含めると織機を10台以上かかえる業者が15人もいた。また、彼らのもとには懸機や・煉屋・糸繰屋などの下請けの業者も出てきていた。 (「冨山県の歴史」から)
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<郡内織=山梨県>  郡内織または単に郡内とも呼ばれた絹織物を産出したのは、郡内領(都留郡)の村々であった。郡内領は、山国の甲斐のなかでも、とくに山地が大部分を占めて耕地は狭少なため、面積は甲斐四郡のうち28%ほどにあたるにもかかわらず、19世紀初頭の数字で石高はわずか6.8%(2万911石)と農業生産力はきわめて低く、それに比して人口は22.3%(6万2961人)と過大であった。 このような郡内領の経済を支えてきたものに、甲州街道や鎌倉往還で展開された駄賃稼ぎや、入会山の利用による林産物の収入、その他の稼ぎがあったが、もっとも大きな比重を占めたのが絹・紬の織出しであったことは言うまでもない。江戸後期に村々から支配役所へ差し出された文書に、つぎのような箇所がある。これは諸種の願書などにほぼ共通してみられる内容で、「織物渡世専一に仕る」ことで地域経済が成り立っていることを端的に示している。 「当郡は山間の地で耕地が狭く、米穀が払底のため、他郡から七分どおり買い入れて主食の不足を補わなければならない。したがって、男女ともに養蚕と機稼ぎに専念して収入を得なければならない。それから織物の運上を納め、年貢・諸役を上納するので、皆金納となった土地柄である」と。
 郡内領で古くから営まれてきた絹・紬の生産が、この地方の特産物として定着し発展することになったのは、寛永10(1633)年の谷村藩主となって入部した秋元泰朝の殖産政策に基づくものと考えられている。やがて江戸をはじめ京都・大坂などへむけた商品として、元禄期(1688〜1704)にかけて生産を漸増させていくが、江戸の越後屋では店内に日野嶋(上州絹)と郡内絹を並べて販売しており、 また、白木屋の江戸店でも上州絹についで貞享3(1686)年から郡内嶋の仕入れをはじめたという。当時、郡内縞に代表された上州絹が、中等の品として都市の庶民生活のなかに普及していたことは、井原西鶴の天和2(1682)年の『好色一代男』や、貞享3年の『好色五人女』の八百屋お七の物語などに郡内縞の名がみえることからもわかる。 元禄3年の『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』が秋元喬知の郡内領について、「国民絹布ヲ織ルヲ業トスル故ニ民豊カ成」と述べているのを、そのまま認めがたいが、当時の郡内絹の風評にもとづいたものであろう。
 幕府領になって20年ほどを経た享保10(1725)年の『郡内領郷帳』には、絹紬運上として金235両2分余がみえ、その上納は210両余が請負人によったもので、25両2分余が村々直納の分であった。そのころの郡内織の展開のようすを、享保17年の『万金産業袋=ばんきんすぎわいぶくろ』は、郡内縞・白郡内・織色郡内(海気=かいき)・郡内太織・郡内平などの各種織物とその特色について記し、全体に谷村(都留市)の辺から織り出されるのが上品だと述べている。 同年の『甲州噺』によれば、上物と目される織物の山地がさらに明らかにされていた。白絹は真木・花咲(ともに大月市)、菱絹は小形山(都留市)、縞の類は上下谷村(都留市)、八反掛は新倉(富士吉田市)と玉川(都留市)、紬は松山(富士吉田市)、夏袴地は暮地(富士吉田市)と小沼(西桂町)というのである。 そして、これらの織り出しを一年に五万疋とし、したがって土地の生糸だけでは不足していたと記録される。
 絹生産は元来、養蚕─製糸─製織と一貫して営まれた作業で、ほとんどは女性の稼ぎであったが、少なくとも18世紀初頭には領外からの購入原糸を必要とするようになっていた。先の花咲村では、享保5年に織り出した600疋のうち360疋 (60%)が購入糸繭に依存していた分であったというように、機業地としての発展は、相模・駿河や国中東部の養蚕地帯からの原糸の購入を増加させていった。
 この間、越後屋・白木屋など呉服商売の江戸の大店は、谷村のほか流通上の拠点となる土地商人を買宿とし、手代をむけて織物の仕入れにあたらせた。買宿は買継を努めたわけであるが、絹問屋へ営業を拡大した者もあった。そして問屋の下に仲買人や、問屋に抱えられその指図に従いながら目利によって絹の買い集めを業とした場造の活動が広く見られたほかに、他国へ旅売り行商を営む者が多く存在した。 先に八反掛の山地として名を現していた新倉村が天保3(1832)年に谷村の問屋の場造2人をなじめ、仲買2人、他国出し10人の商人を書き上げていたように、絹の流通にかかわった小商人の簇出が目立った。一方、甲州道中東端の上野原宿(上野原町)には、1・6の日を市日とするいわゆる六斎市が寛保2(1742)年に開設されて以来、郡内領における唯一の市として賑わった。後に猿橋宿(大月市)、ついで下吉田村(富士吉田市)に市立の運動が起こったが、上野原宿の故障にあって挫折している。
 文政12(1829)年、幕府は絹・紬の運上の徴収を従来の運上請負人制にかえて、農民(生産者)が所有する機具数を基準に賦課しようとした。これに対する織物運上場77ヶ所村の反対運動が運上仕法替(しほうがえ)一件と呼ばれるもので、村方側から出された村請負制が天保3年に決着をみるまで、生産者によって執拗に展開されたのである。
 この頃の織物の生産規模を、個々の農民が所有する機具台数についてみると、3〜5台の所有者もわずかながら認められるが、1〜2台に集中して平均値で1戸当たり2台弱となる。また、織出数を葛野(かずの)村(大月市)と小明見(こあすみ)村(富士吉田市)の2ヶ村についてみると、1戸平均では前者が6疋、後者が9疋と零細性は否めないが、一方、村内での個々の生産にかなりの差異が明らかにされる。 つまり織物の生産者のなかには、すでに専業化の途をとっていた者の存在が知られよう。江戸末期における郡内織の生産は10万疋を数えるまでになっていたという。
<東部の養蚕と登せ糸=山梨県>
 東郡(ひがしごおり)と呼ばれた甲府盆地東部(山梨・八代両郡東部)の村々は、用水や土壌など農業生産の諸条件に恵まれていたうえに、養蚕が営まれて、甲斐ではもっとも富裕な地と言われた。 「民多クハ驕奢ニ弊(おち)ユ」(『甲斐国志』)と指摘されたのも、江戸時代、地域産業として形成されたこの養蚕地域における消費生活の高まりを伝えるものであろう。
 慶長検地で桑1束が米1升に換算されて本高に組み入れられていたように、旧来この地域で営まれてきた養蚕が、一層の進展を見せるこのになったのは、貞享2(1685)年白糸(中国産生糸)輸入がされたため、元禄年間(1688〜1704)から一般に国内産生糸の生産を増大させたことにある。 宝永2(1705)年の東部の村明細帳に、女の稼ぎとして「蚕仕り、糸に引き申し候」と記されるのは、京都糸問屋へ送るいわゆる登せ糸の生産であった。
 正徳2(1712)年に甲斐藩が行なった施策に注目してみたい。一つは桑代金の貸付で、蚕養いのため他から桑を買い入れる元手で、4カ月後に元利を返納させる定めであった。在地の登せ糸商人(豪農層)は自己資金に基づいて、仲買人を通して集荷した生糸を京都に送ったが、京都糸問屋の仲間組織による糸値段の規制に対抗するための、 在地糸商人の組織化を図ったことである。そして釜元(生産者)の直売や商人の抜け売りの禁止と、釜元への糸代金支払いに差し支えないように、藩から糸商人に糸買金の拝借が許されるというものであった。この頃、そでに自家栽植の桑だけでなく、買桑により養蚕規模を拡大したり、やがて享保期(1716〜1736)になると、他から繭を買い入れて糸生産の増大を図る農民がある一方で、商人が繭を農民に貸し付けて糸を挽かせる賃挽もみられるようになっていた。 同じ養蚕地帯にあっても、個別的には煙草栽培や他の商業的農業へのかかわり方で、村方による違いはあったが、少なくとも村内の半数以上から、「百姓残らず」と書き上げる村まで、養蚕は広がりをみせていた。
 寛延3(1750)年7月、養蚕地帯における象徴的な一揆がおこった。発展の顕著な養蚕と煙草に着目した八代郡米倉村(八代町)の豪農平七が、幕府へ新規運上の上納を出願し、みずから運上請負人となる利権を得ようと企図したことにあった。これに対する反対運動が、東郡の村役人主導の惣百姓による蜂起となって、平七宅が打ち壊されるに至った。 発頭人をはじめ多数の犠牲者を出したが、この運上願いは沙汰止みとなったもので、「米倉騒動」と呼ばれる。
 この頃の蚕(春蚕)の飼育日数についてみると、享保9年に東郡の北東部にあたる上於曽(かみおぞ)村(塩山市)で、3月下旬(旧暦)の掃立(はきた)てから5月上族まで50日ほどとしていたが、隣接する赤尾村(塩山市)の保坂家日記の宝暦5(1755)年と同10年にみえる養蚕記録では42日ほどに短縮されていた。30数石を持高とする保坂家のような豪農層によるこの間の飼育法の向上であろう。
 働き手としての女子の労働が求められた養蚕期間中でも、熟蚕の時期を迎えると、家族のほかに他家からの手伝いを必要とする同家の日記では「蚕ひろい」(熟蚕を取り上げる)に近所の3人の女性を頼んでいるが、その後の記録でも「ほこひき」(上族)の日には3人ずつの女性を他に求めていたことがわかる。 この地域の百姓が女子を奉公に出した証文に、とくに蚕飼中には夜中とも手伝いをさせることの文言を入れているのは、いかのも養蚕地帯にみられる特色と言えよう。5月上旬に養蚕が終わると、麦刈りから同月中旬には田植えが始まり、田仕事が一段落したあとの夏のうちが繭から糸を挽く作業となる。 このように養蚕と製糸は一貫して女性によって担われ、商品経済の進展に伴い、地域農民の経営上ますます大きな役割を果たすことになった。豪農層のなかには女子奉公人を糸挽きに従事させたり、一定の時期に近村から糸取り女を雇い入れることも行われた。また、糸繭商人として活動する仲買人が糸を賃挽きさせる形態(問屋制家内工業)も広範化していた。
 19世紀になると、この養蚕地帯で2つの養蚕手引き書が著されている。文化13(1816)年の山梨郡竹森村下切(塩山市)の萩原治兵衛の『蚕養育伝書』と、天保8(1837)年の同郡上萩原村(塩山市)の宮原良弥の『蚕養秘録=こがいひろく』である。 とくに後者は、蚕の掃立てから上族までの育蚕の方法のもか、蚕病防止法、桑の管理、種紙(蚕卵紙)の取り方などにも及んで詳細である。村役人であった治兵衛も良弥も、養蚕の巧者だったに違いない。 (「山梨県の歴史」から)
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<養蚕の発達と蚕種・製糸=長野県>  養蚕は古来行われていたが、幕府が貞享2(1685)年輸入白糸を制限してから発達した。小県郡や下伊那は早く、上田領では宝永3(1706)年に養蚕を営む村が全領の83%、桑の栽培村90%に及んでいた。 だが、養蚕が本格的に広がるのは18世紀後半から19世紀にかけてのことである。この時期、信州各地で農民が河川敷や山畑の桑畑化を進め、桑の新品種を発見したり先進地の奥州・上州から苦心して導入したりした。 より育ちが翌広葉の品種に更新され続け、幕末には四ツ目・鼠返し・道元などが普及している。桑樹の仕立て方も改良され、根刈り法が一般化した。幕藩役所も養蚕を奨励し、桑苗の無償配布、養蚕資金の貸しつけ、養蚕技術書の回覧などを行った。 松代藩は文化8(1811)年、吾妻銀右衛門らに命じて関屋御林(長野市)に藩営桑園を造成させている。幕末開港後には、農民が本田畑に桑を植える動きも広がる。
 養蚕の成否は蚕種(蚕の卵)にも左右される。蚕種は初め自家用を採取していたが、18世紀初め頃から良質の蚕種の遠隔地取引が活発になった。信州には、幕府が「本場」と公認した奥州伊達・信夫郡(福島県)の蚕種が上田付近の蚕種商人によって移入、販売されていた。 しかし、19世紀に入ると上塩尻村(上田市)などでつくる上田蚕種の品種が高まり、信州一帯や関東・中部に販路を拡大し、市場価格でも奥州物を凌ぐに至った。蚕種屋(たねや)は秋から冬にかけて蚕種場(たねば=得意先の地域)を廻り、蚕種を貸し渡すとともに前年に貸しておいた蚕種代金を回収した。 前貸し法を取るため、蚕種屋優良蚕種の製造・販売につとめるとともに、養蚕技術の改良や伝授にも熱心だった。上塩尻村の藤本善右衛門がみいだした「青白」、善右衛門や同村清水金右衛門が春蚕(はるご)と夏蚕(なつご)を交配してつくりだした「掛合(かけあい=信州かなす)などの品種は、開港後に外国貿易商人に評価され高値で取引される。 養蚕はずっと春蚕だけだったが、品種と飼育法の改良により18世紀後半に夏蚕、19世紀になって秋蚕(あきご)が飼われるようになった。
 蚕種屋と養蚕農民のなかには、経験的実証に基づき優れた養蚕技術書を著す者も出てくる。宝暦7(1757)年刊行の上塩尻村塚田与右衛門が先進的な方法を記した『新撰養蚕秘書』をはじめ、同村の藤本善右衛門『蚕(こ)かひの学』、清水金右衛門『養蚕教弘録』、更級郡中沢村(長野県)の玉井市郎治『養蚕輯要』などは、なかでも代表的な養蚕書であった。 実証的養蚕書の半面で、蚕玉(こだま)神社が村々に勧請されて祀られた。また養蚕にネズミは大敵であるため、「猫絵の殿様」で有名な上州新田郡の旗本岩松徳純が文化10(1813)年に善光寺参りに来たときには、沿道で所望されて猫絵96枚を描いている。
 蚕種屋は小県郡のほか更級・植村・高井・水内・佐久・安曇・伊那郡にも増し、寛政13(享和元、1801)年信州の蚕種屋仲間は「神明講」を結成し、優良蚕種の確保・販売価格の安定、蚕種場の独占などを取り決めている。諸藩も国益政策から蚕種の奨励と統制にのりだす。 上田藩は天保4(1833)年と安政4(1857)年に鑑札制と改印(あらためいん)制をしき、無鑑札者の商いを禁じ、「信州上田産」の改印を押して領内産蚕種の品種向上を期した。
 繭から生糸をとる糸取りも盛んになった。上質の生糸は京都西陣に出荷されて為登糸(のぼせいと)と呼ばれ、18世紀に飯田領などで始まり信州全域に広がる。飯田領では宝暦2(1752)に生糸に運上を課し、翌3年領内225人の糸取り人(掻子=かきこ)に鑑札を渡している。 糸掻きは当初は農家の小規模な家内生産だったが、諏訪郡では糸師(糸元師)が多数の専属の掻子を集めて行うものも現れた。高島藩は寛政6(1794)年自宅に集めることを禁止し、これ以降は糸師が繭・薪炭・蒸気釜などを貸しだし、賃金を支払って生糸を回収する出釜方式が発達した。他の地域でもこれと似た問屋制家内手工業による生糸生産が広がった。
 松代領では文化6(1809)年、上田町商人に流れていた生糸をおさえるため領境の鼠宿・新地村(植科郡坂城町)に糸市を立てた。上田町が訴えて幕府から禁じられると、藩は松代城下町に月3回の糸市を立てさせ領内生産糸流通の掌握を図った。さらに文政3(1832)年糸会所を改組して産物会所を設け、絹・紬も対象とした。 同様にこの頃、諸藩もそれぞれ領域のさまざまな産物を対象に国産(産物)会所を設けた。
 商品作物や養蚕などの発達と軌を一にして、さまざまな加工手工業が信州各地におこり、地場産業として発達した。
 蛾が食い破った巣殻繭(すがらまゆ=屑繭)を原料に真綿が作られるが、上田近辺では真綿から糸を取り紬を織った。上田紬とそれを縞柄平絹も織られた。上田紬・上田縞の最盛期は19世紀初めで、文政13(天保元、1830)年上田城下町の商人は計3万8800反の絹紬を仕入れている。 このころを境に上田付近では蚕種・生糸の生産に比重が移り、紬・絹織りは松代領の植科・更級郡に広がった。木綿衣料では、帯地・袴地・足袋裏などに用いられた諏訪の小倉織が「諏訪小倉」「諏訪平」の銘柄で江戸・京都のも知られた。 (「長野の歴史」から)
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<主な参考文献・引用文献>
富山県の歴史 県史16          深井甚三・本郷真紹・久保尚文・市川文彦 山川出版社     1997. 8.25 
山梨県の歴史 県史19           飯田文弥・秋山敬・笹本正治・斎藤康彦 山川出版社     1999. 1.25 
長野県の歴史 県史20    古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文 山川出版社     1997. 3.20 
( 2005年5月2日 TANAKA1942b )
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(21)本家京都はどうなったのか?
空洞化から衣裳芸術へ昇華

各地に拡散した絹・絹織物産業、では本家の京はどうなったのか?を取り扱う。その前に各地の絹・絹織物産業、岐阜県の例がまだ取り上げてなかったので、そちらを先に取り上げることにする。
<岐阜縮緬と美濃縞=岐阜県>
 美濃は、古代から絹(当時は山繭から作られる絹が中心か?)の産地の一つであった。近世にも寛永15(1638)年の『毛吹草=けふきぐさ』には、美濃国の名物として糸・綿・絹とあり、正保2(1645)年の「美濃国郷帳」にも桑木高が41ヶ所あって、147石、紙・桑木高は74ヶ所で771石と記されている。 郷帳から桑が栽培されていた地域は、おもに池田・方県・本巣郡の山麓地域や安八郡の村々であったことがわかる。
 岐阜町についてみると、明暦2(1656)年の「美濃国尾張領村々覚書」には「この所に刀脇差しを作る鍛冶多し、美濃絹も多く織り出し申し候」とある。小田信長時代には京都と呉服などを取引する商人がいたし、長良川上流で生産される繭や生糸が舟運などによって入手しやすかったこともあってか、早くから絹織物とくに薄絹が織り出されて京都などに販売されていた。 美濃絹という名称はおもに京都向けのものであろう。
 岐阜町や周辺地域の絹織物がさらに発展する契機は、享保15(1730)年の京都西陣での大火であったと言われている。火事で西陣を離れた職人が日本各地に高級絹織物の技術を伝え、各地で高級絹織物が織られるようになり、岐阜町では絹縮緬が織り出されるようになったとされる。絹縮緬は普通の絹糸の横糸に撚りの強い絹の縦糸を織り込んで、むるま湯につけて縮ませた絹布であった。
 しかし『増補岐阜志略』によれば、享保期ではなく寛延期(1748〜1751)に上笹土居町の九助というものが縮緬を織り始め、京都から職人を招いて紋縮緬、すなわち模様の入った縮緬を織りだしたのがきっかけとなって町中に織り屋ができ、さえあに周辺農村でも織るようになったという。小熊・忠節・早田村などの岐阜周辺の村々では、やがて縮緬を織る高機を出機(問屋が機具を貸し出す)して織り出すという生産形態が展開していった。
 岐阜で縮緬生産が発展したように、丹後・近江・加賀・越前・甲斐などでも絹織物生産が発展し、各地から大量の縮緬や絹布が京都西陣に持ち込まれたために、西陣の織物業者は経営を圧迫された。そのため延享元(1744)年、宝暦9(1759)年、明和6(1769)年に西陣の織屋は京都町奉行を動かして、地方産絹織物の京都流入を制限し始めた。 それに対して岐阜町の織屋たちは、岐阜縮緬を西陣の規制外である尾張藩の「御藏物」として出荷しようと画策した。明和6年、小熊村吉三郎が織屋総代として尾張藩国奉行に「御藏物」扱いを願い出た。こうして京都の絹問屋との交渉の結果、安永3(1774)年に尾州御藏縮緬として京都へ出荷することに成功し、岐阜町の織屋は京都西陣の絹問屋の規制を受けない販路を確保したのである。
 一方御藏縮緬としての認可を受けることを通じて、岐阜町の織屋(問屋)は岐阜町周辺の村々の織屋たちを支配下に置くことに成功した。しかし寛政期(1789〜1801)になると、名古屋の問屋水口屋が進出してきて岐阜縮緬を一手に独占しようと動き始めた。これに対して岐阜町の織屋に支配されていた加納や竹鼻の織屋たちが水口屋を支持したが、岐阜町の織屋たちは巻き返しをはかり、水口屋の一手取り扱いを断念させることに成功した。 (「岐阜県の歴史」から)
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  今まで見てきたように絹・絹織物産業は東日本各地で盛んになった。熱力学の第2法則「すべてのエネルギーはエントロピーの増大する方向へ向かう」ならば、情報工学で言えば「すべての情報は拡散する方向へ向かう」となる。 つまり、西陣の技術が日本各地へ広がっていったのは、ごく自然な現象と言える。それによって西陣の絹・絹織物産業が衰退しても、先端技術を誇っていた西陣ならば、さらに新技術を開発するなり、新たな産業を興すなりして生き延びて言ったに違いない。 「日本の技術が韓国・中国へ流れて、日本の産業空洞化が心配だ」との悲観論もあるが、日本の技術がアジア諸国へ拡散するのは自然なことで、これを無理に止めようとすると、どこかに歪みがでる。道のない所に道を造って、新しい分野を開拓してきた者は、その道を後からついてきた者に技術を譲り、新たな技術・商品を開拓すればいい。 大宅壮一の言葉を借用すれば、「ソニー、モルモット論」ならば、「日本産業モルモット論」であり、「西陣モルモット論」になる。そのような観点から京都西陣の絹・絹織物産業について調べてみよう。今週は、このように大火災(西陣焼け)後の西陣を中心に扱うことにした。
<伝統の形成と継承=京都府>
 平安京依頼の歴史を背景に、他に隔絶した技術水準を誇った工芸・文化都市京都は、18世紀に入ると、その展開に陰りが見え始めた。首都として成長を遂げつつある江戸や、「天下の台所」としての地位を占めるに至った大坂に押されて、三都 のなかでの地位が下がり、また、全国市場のルートにのって大量に出回り始めた地方産の絹織物、陶磁器、紙などの流通によって京都の特産品は圧迫され始めたのである。こうしたライバル都市やライバル業者の成長のなかで、京都は、それまでにつちかってきた伝統を維持・革新しながら、活路を切り開いていった。
 16,7世紀を通じて隆盛を誇っていた西陣機業に陰りが出始めたのは、直接的には享保15(1730)年の大火災(西陣焼け)である。この火災で西陣は160余町の過半数108町、3千輯百軒が焼失、3000余の機を失った。しかし、西陣機業いきずまりの根本的な原因は、西陣の技術を持ち帰った丹後、美濃岐阜、上野桐生や、 丹後経由で技術伝播が行われた近江長浜などに輩出した全国各地ライバル業者の成長にあった。なかでも、北関東の桐生や足利の成長と、これらの製品の江戸市場への参入は、西陣機業と京都呉服商人に深刻な打撃を与えた。
 こうしたマイナス条件に対して、西陣機業は、得意とする分野の伸長と、大衆品・流行織物の政策という両面作戦で対抗しようとした。たとえば、18世紀末期の段階でみてみると、僧衣、仏具用品、能装束などの分野や、諸大名・富裕町人層が好む打掛けなどの高級衣料品の分野では、西陣製品は相変わらずの独壇場である。 他方、当時流行となりつつあった綾・紋織・竜紋・精好・平については、桐生・足利にさきだって手掛け、武蔵川越や上州安中などに対抗して、新天地の開拓に努めている。染色の部門においても、国内各地への染色加工技術の伝播という不利な条件の元で、京都では、高度な模様染め部門を重視し強化するといった新しい方向が追求された。
 技術面でも努力が払われた。安永年間(1772〜1781)には井筒屋瀬平が綴れ錦を製作して大奥にも賞され、彼の下に、紋屋次郎兵衛、長岡常之進、天野房義、生駒兵部らの門人がつぎつぎと輩出された。紋屋次郎兵衛は、綴れ綿を発展させて、祇園会占手山(ぎおんえうらでやま)の日本三景の胴巻や菊水鉾の水引、西本願寺兆殿司筆の五帝図を織りだした。 房義門下の天野弥助と妻もんは、藤森神社の鎧直垂をつくり、また仁和寺からの注文も多く御室織りと呼ばれた。こうした努力もあって、元治元(1964)年の調査では、高機機屋1978軒を筆頭に、19の織屋仲間3819軒の水準にまで回復し、近代における発展の基礎となった。 (「京都府の歴史」から)
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<京と染色─芸術を着る>  絹・絹織物産業が日本各地で発展し、京の西陣を脅かす程になった。ちょうど現代日本のモノ作り産業技術がアジア各地に移転し、あたかも日本で産業空洞化が起き始めたかのようであった。こうした技術移転をどのように評価すべきか?一方で産業空洞化を憂い、日本のモノ作り大国が衰退するような危機を訴える人もいる。一方で「モルモットはさらに新たな技術へ挑戦していけばいい」との楽観論もある。 「素人歴史家は楽観的である」との性格から、TANAKAは楽観論を採る。江戸時代、京はどうであったか?京の都は衰退したのだろうか?そうではない。モノ作り産業としての絹・絹織物産業は東日本各地に拡散していったが、京は相変わらず文化の中心であった。そうした観点から、京の文化の一端を探ってみることにしよう。
<京と染色─芸術を着る>
 日本の着物は芸術とまでいわれ、なかでも京都の染織は、古代以来の伝統をふまえつつ各時代に多彩な華を咲かせた。そのなかに宮崎友禅が完成させた「友禅染」がある。それは伝統の品格と、洗練された当時の現代的感覚とを調和して人々の心をつかむ、一方、応仁の乱あとに再興した「西陣織」も、多難な道のりを歩みつづけた後、能装束によって芸術水準に昇華する。
芸術を着る
 江戸時代の染織美をうかがおうとするとき、きわめて印象的に思い起こすことができるのは、神沢貞幹(杜口)著『翁草』(安永5年<1776>序)が述べる次の一条である。
 内藏介(助)の世盛り
<翁草>
 或人曰、内蔵介世盛りの時、畫師光琳常にしたしく来る。或時内蔵介、光琳に謂て云く、来る何日東山に於て、一家の妻室参會の事有り。某が妻女も出席するなり。定て綺羅びやかなる出會成べし、右に就て能き物数寄有らん。 其の趣向奈何と問、光琳暫く考て爾々と教示す。内蔵介諾て教に任せ、扨(さて)當日に至り、晴れの會なれば、家々の妻室花を粧ひ、段々に端の寮重阿彌が許に来り、乗物を手ぐりにして奥へ昇入れ、数多くの侍女前後をとり巻、静に乗物を出たるさま、唐のやまとの美を盡(つく)し、綾羅錦繍の目もあやなるに、得なら薫り粉々として座に着ば、追々に家々の乗りものを昇入、 徐々と居流れたる有様、何れ天人の影向綺羅天を輝す計なり、などや内蔵介室の遅きと、各待頬ふ處に少し程有て中村の乗物をあないして繰入る。皆皆あはやと彼内室の出立を詠れば、襲う帯付共に黒羽二重の両面に、下には雲の如くなる白無垢を、幾重も重ね着し、するりと乗物を出で、静に座に着けば、人々案の外にぞ有りける。扨其の外の内室我もわれもと間もなく納戸へ立て、 前に増す結構成る衣装を着替る事度々也。
 内蔵介妻女も、其の度々に納戸へ入て、着替る所、幾度にても同じ様なる黒羽二重白無垢なり。一と通りに見る時は、などやらん座中を非に見たる様なれども、元来羽二重と云う物、和國の絹の最上にて、貴人高位の御召此の上なし。去れば晴れの會故に、羽二重の絶品を以て、衣装を多く用意せし事、蜀紅の錦に増れる能物数奇なり。且つ外々の侍女の出立を見るに、随分麗敷なれども、皆侍女相応の衣服なり。 内蔵介方の侍女の衣装は、外の妻室の出立に倍して、結構なり。是光琳が物数奇にて、妻室は幾篇着替えるとも、同色の羽二重然るべし。其の代わりに侍女に随分結構なる内室の衣装を着せられよと、指圖せしとなり、去ればにや、始の程はさも無く見にしが、倩(つらつら)見る程、中村の出立抜群にて、一座蹴押され、自らふし目になりぬ。其の頃世上に此沙汰有りて、流石光琳が物数奇なりと美談せり。
 其の後内蔵介は島より召返され、剃髪して風竹と號し、漂客と成る。昔に引替たるさまなりし、余も風月の宴に折々出會たる事有しが、世を諷せし中にも、昔の優美残りなつかしき風情も見たり。去れども付け合の句は多分述懐成しも實に理なり。
 引用が長くなったが、この興味ある記述にはいろいろ教えられる点がある。そのうちから次ぎのことどもに注目したい。
(1)近世の服飾にとって江戸時代中期はまた最高の華を開かせた時期であったが、ここで第1に注目したいのは、その極まりいたった服飾意匠の概念を、画家尾形光琳が痛快に打ち破ることである。これは光琳が、承知のように呉服商雁金屋の出身であることと無関係でないにしても、もっと広い意味で芸術家光琳の営為と考えたい。 たんに人目を驚かすばかりであれば、黒衣での登場はそれなりの効果を示したと思われるが、着替えのつど黒衣で終始したとあるのは、服飾という形式によった造形芸術の世界だと言えるであろう。中村内藏助夫人は芸術を身につけ、彼女自身が作品でもあったのである。 
 ところで近世日本の服飾が芸術であると明確に言い切った展覧会が開催された。それは1992年秋、アメリカ、ロサンゼルス・カウンティ美術館で開催された「小袖」の展覧会で、その副題は When Art Became Fashion とされた。内容は、桃山時代後期の辻が花から江戸時代後期におよぶ諸作による構成である。 かねて、諸国の民族衣装と着物をならべて論じ、ともに民族衣装であるとすることにある種の違和感を持っていたが、この展覧会が、なぜそのような違和感を持つのか、ついての明解な回答を与えてこれることとなったと言える。
 すなわち、日本の服飾は芸術作品であるというのである。それは、身に着ける人の、作る人の考えを反映して豊かな内容をもち、見る人に大きく働きかけて感じさせるという、まさに造形芸術の本質を備えたものなのである。
(2) またいま一つの別の点に注目される。それは、近世における染織意匠の展開においては、染織の専門家や注文主の力が大きく働いていたことは言うまでもないことであるが、しばしば表面に明らかな姿を現すのが画家たちであることをいっそう印象づけるのである。 たとえば、浮世絵師として周知の菱川師宣であり、後にいま一度述べなければならないが、友禅染を完成した扇絵師宮崎友禅、友禅流の文様を広めた大坂の浮世絵師吉田半兵衛、うあはえい浮世絵師西川佑信、そそて尾形光琳である。
 この衣裳競べにおいて光琳はこのような意匠で注目を集めたが、別に独自の画風を文様表現にとりあげたものが、光琳文様として染織意匠で大いにもてはやされた。やがて江戸時代中期末から後期にかけて丸山・四条派の絵師が活躍した。とくに応挙一門は三井越後屋の意匠を手がけたことが、小袖類と原寸大の意匠紙絵、あるいはそれによったことが明らかな小袖や振袖、打掛類の現存例によって知られるのである。
江戸時代の京の染織
 江戸時代を通じて京の染織は、その伝統を生かしつつ、各期特有の特色を示して大いに栄えた。なかでも、他の多様な文化と同様に染織工芸においても、江戸時代中期はまさに日本の染織史上、最も華やかな頂点の一つであると言える。そのことがうかがえるのは、実際に遺品について明らかであり、画中の資料、あるいは当期にいたって矢継ぎ早に出版される「ひいなかた(雛形)本」の、この期における集中ぶりである。 しかし、こうした様相はしだいに姿を変え始める。ことに今田洋三氏の『江戸の本屋さん──近世文化史の側面』(NHKブックス299)での詳細な調査考察によって指摘される。上方・江戸の出版物の数にみる変化は大いに興味深く、当時の文化の実態が推考できるのである。
画期的な友禅染
 近世の京の染織を代表するものに友禅染を落とすことはできない。友禅染は、天和・貞享(1681〜1688)のころ、東山知恩院門前に住まった扇師宮崎友禅によって完成された染である。当時は友禅染のほかに多彩な染技の行われていたことが知られている。たとえば貞享4(1687)年の『源氏ひなかた』には、「御所染・御江戸染・正手染・すがはら染・千種染・伊達染・よし長染・しや室染・唐人染・さらさ染・よし岡染・遠山染・かう染・ひんろうじ染・加ゞ染・ ほそ染・茶屋染・しゅんさい染・一ちん染・焼刃染・うこん染・ふすべ染・ゆかた染・玉子色染・大夫染・あかね染」などがあげられている。現在ではこれらの染の実際はほろんど不明に近くなっている。そして友禅染完成以降は、各種のひいな形本の染の注記にこの中のいくつかの染の名を見出すことができるが、友禅染流行の前には光を失ってしまった観がある。当時の染織界を驚かせた友禅染、その魅力は今日も生き続け、世界にも類のないこの文様染は、まさに芸術そのものの感動を与えている。
西陣──織物美の世界
 染の美が主として庶民の側に属するものとすれば、織の美は公家・武家や寺社などろ深い関係があると言えよう。西陣織の名は周知のように京が戦場となった応仁の乱で、日本の各地に逃れた京の織り手たちが、その終息を待ちかねたように焼け野が原となり果てた京の地に帰り来て、乱の間、東西の陣に分かれたうち、山名宗全が構えた西陣のあった場所に機業を再開したことによる。 西陣織の美についてひとことで言えば、それはきわめて高級な美しさであるということであろう。まさに公・武や寺社とともに存在したその特色がよくうかがえる。しかしその歴史を振り返れば、高級機業地として今日では欧米でも知られている西陣織の展開は、なみたいていではなかったことに感動されるであろう。(中略)
 高級織物を中心とした西陣機業のなかでも、諸悪条件を乗り越えて、西陣織に、さらに日本の織物に芸術的水準を保ち続けさせたのが、能装束の成織である。能が将軍家や諸大名の後援を得ていたことは、たとえば禁令の対象にもされにくかったし、織技や意匠の工夫や精進も、一般の人々とは一見繋がりがないように見えつつも、実際はそこに芸術制作の火が燃えているということは、いかばかり京の染織全体を活気づけたことであろう。
 なかでもその代表とも言える唐織は女役系の装束で、不思議に伝存する例を見ないが、緯糸(よこいと)には絹に代えて麻糸などを用いて禁令を避けたというが、ごく平凡な身近の存在する四季の草花に注目して、誰をも魅了させずにはおかない織物美を現出させる、あるいは舞衣や長絹(ちょうけん)は意匠美はいうまでもなく、絹そのものの素材の特色を十分に生かした、工芸ならではの成果を、江戸時代を通じて展開させたのである。 一方、男役用の厚板は唐織の和様の世界とは異なる唐様の意匠で工夫が凝らされたし、なかでも格子文様は、日本の格子意匠の原点とも言えるような変化ある魅力を示している。これら能装束が、日本の近世の染織をいかに豊かに、しかも高度な芸術性で彩ったかを思うのである。
 現在もなお京の特色の最も重要な部分の一つを担っていると言ってよい染織の、ことに近世後期に視点を据えつつうかがったのであるが、そのあらましを粗雑に述べるばかりであった。
 最後に次の資料をあげて、京の工芸の特色の片鱗をのぞいておこう。それは寛政2(1790)年の雛騒動の際に、奉行所が新案の古今雛を売り出して大好評を得た大槌屋半兵衛に対する取り調べの控えで、細々とした役人の質問の中に
 上着之候は別段に京都へ注文を遣したるいとにしき哉
 其方雛は江戸にて頭を彫 京都へ塗に出しおつくう成儀を致
 が見出せる。実際はともかくとして、取り調べの役人の頭には、高級品は京ならではとの思いがあったであろうし、きわめて専門的な、すなわち高度な仕上がりの必要ないわば高級品は、京での制作が当然であるとの思いが見てとれるのではないかと感じられるのである。 そしてこの人形頭についての問答にうかがえるのは、けっして染織関係ばかりでばいのも言うめでもないことである。 (「匠 成熟する都」から)
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<江戸の産業ルネッサンス>  江戸時代の絹・絹織物産業を京都やその他地方の面から見てきた。いわばミクロの視点であった。これをマクロな視点から見るとどうなるか? 江戸の産業と言う面から見た文を引用しよう。
 京都は江戸・大坂に比べると、もっと芸術性の高い、技術の工芸都市であった。まず西陣に代表される織物は、中国からの長崎経由輸入品のほか、信州・機内からの国産系、越中からの平絹などを原料とするもので、これを有する京都は最高の機業地であった。 これとならんで、染色、漆器、武具などの美術工芸品や薬種などの生産も全国最大のスケールを誇っていた。 (「江戸の産業ルネッサンス」から)
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<今日の衣裳贅沢はどうなっているのか?>  衣裳贅沢が市場経済を成長させるなら、今日の不況は衣裳贅沢が冷え込んでいるからなのだろうか?1980年代、日経平均が4万円に近づきつつあった頃、 紳士用の衣服では贅沢品が多く見られた。綿200番手のワイシャツや、ウールやシルクのワイシャツもデパートで扱っていたし、シャルベのワイシャツも特別な違和感もなく見られた。バキューナのスーツ(規制前に仕入れた物)も見られた。 メンズでは、ブルーのピンストライブかペンシルストライブのロイヤルオックスフォードのボタンダウンにリチャード・アトキンソンのシルク+ウールのネクタイ、これに紺ブレなど組合せはいかがでしょうか?などの文章も違和感なく受け入れられた。 最近のデパートではネクタイはストライブとドットばかり、ペイズリーやワンポイントは見られない。靴はストレート・チップかユー・チップかプレーン・トウばかり、ウイング・チップやムンク・ストラップは見られない。遊び心が感じられない。これでは消費意欲はわかない。
 省エネ、省資源が叫ばれている現在、「贅沢は敵だ」の感覚は多くの人が持っているかも知れない。そうであるならば、現在の経済状況は国民の意識・感覚を的確に表現したものであると言える。民主制度・市場経済は国民の意識を正確に表現する。 そして現在の日本ではこの制度は実に予期されている通りに機能している。江戸時代の衣裳道楽が世界からも注目される芸術になったが、そうした「贅沢は素敵だ」の感覚、価値観がどれほど多くの人に受け入れられるのか? こうした状況で「資本主義とは所詮バブルである」などとの発言は不謹慎と非難されるのだろう。「日本経済が不況から脱却するにはまだまだ時間が必要だ」と言えそうだ。
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<主な参考文献・引用文献>
岐阜県の歴史 県史21  松田之利・谷口和人・筧俊生・所史隆・上村恵宏・黒田隆志 山川出版社     2000.10.10 
京都府の歴史 県史26    朝尾直弘・吉川真司・石川登志雄・水本邦彦・飯塚一幸 山川出版社     1999. 8. 1 
匠 成熟する都                             松井康彦 講談社       1994. 8.25
江戸の産業ルネッサンス                         小島慶三 中央公論社     1989. 4.25 
( 2005年5月9日 TANAKA1942b )
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(22)木綿の由来と各地の生産
三河の綿から各地へ拡散

江戸時代旺盛な消費意欲に支えられて絹・絹織物産業がめざましく発展した。幕府の度重なる「奢侈禁止令」にも関わらずこれだけ産業として発展したのは、「贅沢は素敵だ」との思いが強かったとみるべきであろう。 一方、絹ほど贅沢品ではないが江戸時代の庶民の生活を大きく向上させたものに「綿・綿織物」がある。『木綿以前の事』『新・木綿以前のこと』を読めばいかに「綿・綿織物」が庶民の生活を変えたかが分かる。その綿・綿織物は主に西日本で発展していった。 桑と綿、どちらも気候の影響を受ける。そのために東日本と西日本で分業することになった。こうした点に注目すると、幕藩体制でも産業の地域分業と生産物の流通が大量に行われていたことに気づく。各藩が独立した経済体制を敷き、各所に関所があって、自由な往来が妨げられていたかのように思われるが、実際はかなり自由に人々が行き来し、入津・出津(藩対藩の貿易)が行われていて、決して各藩が鎖国していたわけでは無いことがわかる。
 絹・絹織物産業の発展として取り上げたのは、山形県、福島県、茨城県、栃木県、埼玉県、新潟県、群馬県、富山県、山梨県、長野県、京都府、岐阜県。
 綿・綿織物産業として、このシリーズ『○○県の歴史』に登場するのは、愛知県、鳥取県、岡山県、香川県がある。こうした中から特徴的な文章を抜き出してみることにしよう。
<河内・摂津・三河・尾張の順=愛知県>  明治20(1887)年の愛知県の綿の作付面積は、大阪府を上回って全国1位であった。生産高は、明治9年から15年までの年平均で、河内国が全国生産の12.2%、摂津国8.1%、それと同率で三河国、ついで尾張国5.3%の順位であった。明治中期のこのような生産の高さは、近世の生産活動の延長上にある。
 尾張では尾西を中心とした尾州縞が盛んに織り出されていた。大蔵永常は弘化元(1844)年に脱稿した『広益国産考』のなかで、「尾州より織り出し諸国へ売り出すこと数百万反とも云うべし」と記したほどであった。生産方式は、三河や知多のように問屋から資金を前借りし、織り糸支給されて家内労働で織るのではなく、専門の織物業者が自分の家に工場をもち、織機を数十台据え付け、織り子雇って織り出すというものであった。 工場をもたず、織機を何軒のも貸し出し、織り糸を渡し、工賃を払って織物を入手する業者もいた。このように尾州縞は新しい生産方式で大量に生産されていたのであった。 (『愛知県の歴史』から)
<伯州綿=鳥取県>  綿の栽培には、排水のよい砂質の土壌が適している。海岸沿いの砂丘や河川の下流の沖積平野をもつ伯耆で盛んに行われ、「伯州綿」と大坂市場で呼ばれるほどの産地になっていった。
 主産地の一つである弓浜半島は、米川開削によって綿作地として発展していく。元禄14(1701)年在方吟味役である米村広治の主導で米川開削が着手され、60年近い歳月をかけて、19キロにおいぶ用水路が宝暦9(1759)年に完成する。 米川開削により水利に恵まれなかったこの地域に用水を確保し、多くの農地が造成されたのである。弓浜半島に綿作を導入したのは、延宝年間(1673〜1681)とされている。 (『鳥取県の歴史』から)
<失敗に終わった毛綿会所=岡山県>  備前・備中の南部では、江戸時代の前期から木綿の生産が始められ、中後期には新田地帯を中心に綿作が広く行われるようになった。 綿作の盛んな村では、田の40〜60%、畑の70〜80%で木綿が作付されるようになっていた。木綿は米などに比べて収益の多い作物であったが、他方で乾鰯(ほしか)などの金肥を大量に投入する必要があるため、農民たちは貨幣経済に深く巻き込まれていった。 
 綿作の発展に伴い、江戸時代の中後期には綿加工工業が展開する。岡山藩では領内で産出する毛綿(日本綿)を城下の御国寄問屋3軒に集中させ、これを通じて大坂へ一括して売りさばく体制をとっていた。しかし、文政4(1821)年に国産会所をつくって専売制を始めた姫路藩が、岡山産毛綿の買い占めをはかるようになる。 これにより独占集荷体制は大きく動揺する。これに対して岡山藩では、弘化元(1844)年に改めて城下に毛綿会所を設立し、再び領外移出の独占をはかった。さらに弘化3年には毛綿集荷量を増加させるために、1軒が1カ月1反の木綿を織り出すよう命じた。これは、とくに邑久郡・上道郡・赤坂郡など備前東部において、農家の副業として展開しつつあった毛綿生産の成果を吸収しようとするものであった。 しかし、こうした強制策にもかかわらず毛綿の独占集荷体制は確立せず、安政3(1856)年毛綿会所は廃止となった。 (『岡山県の歴史』から)
<綿が丸亀藩の特産に=香川県>  讃岐は気候が温暖で作物の生育に適しているのみならず、西廻り航路の瀬戸内の沿岸に位置し、しかも「天下の台所」の大坂に近いという地理的関係もあって、近世中期以降に各種の商品やその原料の生産が盛んになった。 綿および木綿・和紙・塩・菜種および絞り油・砂糖・蝋などが作られたが、これらのうち讃岐を代表する特産物となったのは、塩・綿・砂糖で、これを讃岐三白(さんぱく)と言う。
 近世にはいると麻に代わって木綿が用いられるようになり、元禄(1688〜1703)頃に全国的に普及していった。讃岐からは元文元(1736)年に木綿と繰綿、天明6(1786)年には白木綿5万反が大坂に送られていた(『大阪市史』)。丸亀藩ではすでに元禄8年に丸亀城下での夜間の綿打ちを禁止し、宝永元(1704)年には綿の取引のため旅商人が郷村へ入ることを禁じ、また同じ7年には城下の繰綿問屋として唐津屋清治郎を指定しており、 このころ領内での生産が相当盛んになっていた(「古法便覧」『新編香川叢書 史料編(1)』)。
 これからほぼ1世紀後の寛政末には、以前より大量に木綿が大坂に送られていたといい、文化4(1807)年ころは「木綿売りには「木綿売り代より外、他国より銀入り候義は御座無く」とあるように、丸亀藩第一の特産となっていた。(覚帳「長谷川家文書」)。こうして発展してきた綿の生産に対して、丸亀藩では文化元年ころには年間銀300貫匁の「生綿銀」を割り当て、江戸藩邸での費用の財源にあてていた。
 幕末の天保(1830〜1843)ころには、「国々へ積み出す雪綿は、大与(大坂屋与十郎のこと)がかどさきにむれをなし」(丸亀繁盛記」『日本都市生活史料集成7』)と言われたように、丸亀城下での活発な綿の取引の様子をうかがうことができる。なお綿の生産状況は安政3(1856)年の三野郡勝間村の場合をみると、計11町余の土地に174人が綿を植え付けており、 ごく零細な規模での綿の栽培であった(「安藤家文書」)。嘉永5(1852)年に城下商人太田岩蔵・高貴清八の要望をいれて、綛糸(かせいと=綛に糸をまいたもの)を大坂へ積み送るために城下に綛糸寄会所を設置している。
 高松藩では丸亀藩ほどではなかったが、享保の尾張ころには「近年打ち続き鵜足郡・那珂郡は、別して木綿作り大分仕り」とあるように、藩領西部の鵜足郡・那珂郡で綿作りが盛んになっていた。 (『香川県の歴史』から)
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 木綿に関する話題をいくつかの文献から拾い出して引用しよう。
<綿作による利潤の発生>  「米遣い経済」においては、米作農民の手元に、ほとんど余剰は残らなかった。しかし、綿作に好適する地帯、とりわけ河内木綿地帯などでは、綿作は米作の2倍以上の収益があげられるということを、彼らの努力によって体験した。 このことは日本の経済史上におけるきわめて重大な新事実であった。すなわち利潤の発生である。もちろん利潤の発生は綿作や木綿織に限らないし、河内木綿地帯に限ったことではない。そして三河地帯でも、畿内には劣るが綿作は有利なものであった。 (「綿と木綿の歴史」から)
<繰綿延売買会所=先物取引所>  宝暦10(1760)年に大坂と堺に綿の先物取引をする繰綿延売買会所が設けられ、さらに明和9(1772)年に摂津平野郷に出店を、また内本町橋詰町にもあらたに増会所ができた。 このために摂津泉の綿作農民にあたえた打撃は絶大なものであった。安永6(1777)年11月13日に河内国若江郡村々の庄屋たちが、また同26日に河州各郡村々の惣代が、さらに、翌安永7年1月13日には河州各郡村々の惣代および摂州住吉郡の村々の惣代が、それぞれ合同で再三綿延売買会所差止(廃止)要求の訴状を奉行所へ提出している。 これらの訴状は、都市の特権的商人あるいは問屋資本の不当な圧迫から逃れようとする綿作農民の切実な声にみちみちていた。 (「綿と木綿の歴史」から)
<綿による衣料革命>  記録上、日本へはじめて綿種子がもたらされたのは、延暦18(799)年に三河へ漂着したインド青年とされているが、これも1年で栽培に失敗している。その後何回も綿種子を導入・栽培した記録はあるが、いずれも成功した事例は見られない。 応仁(1467〜)のはじめのころは輸入文綿と言われ、木綿は奢侈・珍品であった。文献上、ほぼ日本に綿栽培が定着するのは、早めに見ても永正・大永(1504〜1528)ころとみられる。
 以後、綿の栽培は西南暖地を中心に急速に普及し、温かくて、丈夫で、肌ざわりのよい木綿は、ほぼ全国的に織られ、多くのすぐれた銘柄木綿を産出した。
 江戸時代の三大農学者が、霊財・霊草・宝物とたたえた綿や木綿が普及する前の庶民は、厳寒のときでも、暖かみが少なくて、肌ざわりの悪い麻で織った刺児(さしこ=刺子)や、葛衣・藤衣や、楮(こうぞ)や科木(しなのき)の樹皮の繊維で織った太布(たふ)などを着て、寒さのために疫病(はやりやまい=感冒か?)にかかり、死亡する者も多かったというほどの惨めさであった。
 日本における綿や木綿織の普及・発展は、とりわけ庶民に衣料生活にとって、画期的な変革をもたらしたことからみて、それはまさに衣料革命と言える。渡しは、日本で初めて織物が織られたことを第1次衣料革命と言うならば、綿や木綿織の普及・発展を第2次衣料革命と言い、その期は、ほぼ近世=江戸期の初期とみるのが適当と思う。 日本の綿と木綿の歴史のうえで、この意味における第2次衣料革命が、大切なことだと思う。 (「綿と木綿の歴史」から)
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<綿種の渡来>  綿の花は白や黄色の花を咲かせ、その花弁の奥に濃紅を秘めて開花する珍しい植物である。10月の声を聞くと、桃の形をした綿の実が割れて白い綿が開き、綿畑は白く彩られる。これを摘んで糸に紡ぎ、布とされた。
 綿は日本古来の植物ではない。今から約1200年の昔、延暦18(799)年7月に三河の国幡豆郡天竹村(西尾市天竹町)に漂着した異国の若者が綿種をもたらしたと言われている。そのことを、菅原道真が寛平4(892)年に編した『類聚国史』を基に、徳川光圀の『大日本史』が伝えている。
 「桓武帝ノ延暦十八年、一人ノ小舟ニ乗リテ漂ヒ参河ニ至ルアリ。布ヲ以テ背ヲ覆ヒ、犢鼻ヲ著ク。袴ナク、左肩ニ紺布ヲ著ケ、形袈裟ニ似タリ。年二十ナルベシ。身長五尺五寸、耳長ク三寸余。言語通ゼズ、唐人コレヲ見テ曰ク、コレ崑崙人ナリト。 ソノ人、後ニ中国語ヲ習ヒテ、自ラ天竺人ト謂フ。常ニ一弦ノ琴ヲ弾ジ、許シヲ得テ所持ノ貨物ヲ売リ、屋ヲ西郊ノ外ニ作ルニ、路傍ノ行人ミナ停リテ息ヲ止ム。ソノ人初メテ綿種ヲ持チ来タリテ、試ミニ紀伊、淡路、丹後、讃岐、伊予、土佐ノ国及ビ太宰対ニコレヲ植エシム」云々。(原漢文)
 この異国の若者は、恐らく難破して三河の国に漂着したものであろう。今この付近は花や植木の産地であるが、昔は海浜の砂まじりの地であり、三河湾がこの地まで深く入り込んでいた所で、その後土地の隆起や海流によって海岸線から遠くなったものである。
 顔も衣服も異なった異国人の漂着に、村人は驚愕し、鐘を打って大騒ぎになったことは思いやられるが、自称天竺人の若者の持っていたツボの中に綿の種があった。
 若者は綿の栽培法を知っており、許しを得て南の暖かい国々に植え、その栽培を指導している。しかし、気候や地味が適さなかったのか、国によっては育たなかったが、その中でも一番よく出来たのは太宰府(福岡県)だった。それでもいろいろ障害があって、その栽培には苦労したらしい。 (「綿づくり民俗史」から)
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<主な参考文献・引用文献>
愛知県の歴史 県史23                    三鬼(みき)清一郎 山川出版社     2001. 1.10 
鳥取県の歴史 県史31             内藤正中・真田廣幸・日置粂左ヱ門 山川出版社     1997. 2. 5 
岡山県の歴史 県史33       藤井学・狩野久・竹林榮一・倉地克直・前田昌義 山川出版社     2000. 6. 5
香川県の歴史 県史37           木原溥幸・丹羽佑一・田中健二・和田仁 山川出版社     1997.10.10
綿と木綿の歴史                             武部善人 御茶の水書房    1989. 6.25 
綿(わた)づくり民俗史                          吉村武夫 青蛙房(せいあぼう)1982.10.20 
( 2005年5月16日 TANAKA1942b )
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(23)贅沢に関する先人たちの見解
現代にも生きてるユートピア信仰

東福門院和子の衣裳道楽から始まったこのシリーズ、そろそろ絹・絹織物産業のまとめをすべき段階になった。その前に今までとは少し違った面を見てみようと思う。「贅沢が市場経済を発展させる」との考えは「贅沢は素敵だ」に通じる。しかし、世間ではこれと違った「贅沢は敵だ」との考えもある。そこで「贅沢」に関するいくつかの考えを調べてみた。 経済学の分野ではあるが、倫理学、思想、信仰といった言葉の方が適しているようなものもあるが、視野狭窄にならないように、自分の感覚と違った思想に触れてみるのもいいだろう。そのような考えで、先人たちの考えを取り上げてみた。
 「贅沢は敵だ」の考え方で書かれた著作にトマス・モアの『ユートピア』がある。いくつかの個所に出てくるので、それを抜き出して引用してみよう。16世紀に書かれた書物だが、現代でも「衣服」や「贅沢」に関しては、『ユートピア』思想が根強く生き続けている。「省エネ」とか「エコロジー」といった言葉と結びついて強い信仰の対象にもなっている。
<『ユートピア』の服装観>
 ひとつの仕事は、すべての人に男女の別なく、ひとりの例外もなく課せられており、それは農業です。農業についてはすべてのひとが子どものころから教えこまれ、一部には学校での倫理教育を通じ、一部には都市周辺の農村地帯に連れ出されて遊びがてらに教え込まれます。 (遊びがてら)といっても傍観しながらではなく、体力錬成の機会として実習しながら教え込まれます。農業{いま申したように、これはみな共通(の職業)です}のほかに、だれもがなにか一つのものを自分の職能として覚えます。それは普通、毛織業、亜麻織業、石工職、鍛冶職、錠前職、または大工です。 ほかに、言及するに価するほど多数の人が従事している職業はありません。(製服職もありません)というのも、衣服は、性別や、既婚未婚の別がわかるようになっているほか、全島を通じ、あらゆる年齢層にわたり同じ形をしているからです。見た目に不快でなく、体の動きが楽なようにできており、寒さ暑さどちらにも適しています。 各家庭がこの衣服を自分たちで作ります。ところで、さっきあげた職業のうちどれか一つは、男だけでなく女も習います。女は弱者として軽い仕事をします。たいてい羊毛や亜麻織りです。男にはほかの、もっと骨の折れる仕事が回されます。(中略)
衣服費削減法 衣服についても、彼らがほんのわずかな労力しか費やしていないことに注目してください。まず、彼らは、仕事をしているあいだはなめし皮か毛皮の質素な服を着ており、これは7年間持ちこたえます。外出するときはその上に外套をひっかけ、それで下の粗末な服を隠します。 この外套は島じゅうどこでも同じ一色、つまり布地本来の自然色で作られています。ですから、ほかのところに比べると、あそこでは毛織物がきわめてわずけで足り、その値段もたいへん安いのです。しかし亜麻地のほうがもっと労力をかけずに作れるので毛織物よりよく用いられます。 彼らが注意するのは、亜麻の場合には白いということ、毛の場合には清潔であるということだけで、織り糸の質が上等かどうかということなど勘定に入りません。それゆえ、ほかのところでは一人のために種々の色の毛織の服が4、5着と、同数の絹の下着があっても十分でなく、そしてもっとやかましい人には十着あってもまだ足りることはないのですが、 あそこでは誰でも大体2年間に1着の服があれば満足しています。事実、それ以上欲しがる理由はありませんし、たとえそれ以上もらっても、普通以上に防寒の役に立つ訳でもなく、衣服のおかげでもっとエレガントに見えるなどということもまったくありません。(中略)
 まやかしの快楽のなかには、私が前にあげた人たち、つまり衣服が良ければそれだけ自分たちの善くなると考えるような人たちの楽しみがあります。こういう人たちは、一つの点で二つの誤りを犯しています。というのは、衣服がより良くなったと考えるのは、自分自身がより善くなったと考えるのに劣らず間違っているからです。 つかり、衣服の実用的機能ということを思いいたすならば、どうして、細い糸で作った布地の方が太い糸で作った布地より上等だなどと思われますか。それなのに彼らは、まるで誤謬によってではなく、ものの本性によって自分たちが他人に優越しているかのように鼻を高くし、上等な衣服をまとえば、自分たちの価値がももっと上がるかのように思い込んでいます。 ですから彼らは派手な服を着ると、粗末な服装のときにはあえて期待しようともしまかった敬意を、まるで自分たちの当然のけんりであるかのように、他人から強要します。そして人がそれに気づかずに通り過ぎようとすると、憤慨するのです。 (『ユートピア』から)1535年7月6日、国王ヘンリ8世の怒りに触れ、断頭台の露と消えたサー・トマス・モアに黙とう。
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<スモール・イズ・ビューティフル>  この言葉は大変大衆受けする。この本から衣服に関する部分を探し出してみた。この文章は、後に出版された『スモールイズビューティフル再論』にも出てくる。著者が言いたかった主要な部分なのだろう。
 唯物主義者が主としてモノに関心を払うのに対して、仏教徒は解脱(悟り)に主たる関心を向ける。だが、仏教は「中道」であるから、けっして物的な福祉を敵視しはしない。解脱を妨げるのは富そのものではなく、富への執着なのである。楽しいことを享受することそれ自体ではなく、それを焦がれ求める心なのである。 仏教経済学の基調は、したがって簡素と非暴力である。経済学者の観点からみて、仏教徒の生活がすばらしいのは、その様式がきわめて合理的なこと、つまり驚くほどわずかな手段でもって十分な満足を得ていることである。
 現代経済学者には、これが非常に理解しにくい。「生活水準」を測る場合、多く消費する人が消費の少ない人より「豊かである」という前提に立って年間消費量を尺度にするのが常だからである。 仏教経済学者に言わせれば、この方法はたいへん不合理である。その訳は、消費は人間が幸福を得る一手段にすぎず、理想は最小限の消費で最大限の幸福を得ることであるはずだからである。
 そこで、もしも衣服の目的とするところが一定の快適な温度と見た目のよさだとすると、この目的を、最小限の労力、つまり年間の衣服の消費を最小限にし、衣服のデザインももっとも簡素にすることで達成しなければならない。 このような労力が少なければ少ないほど、芸術的創造に力と時間を割くことができる。たとえば、裁断しない布を巧みにひだをとってまとえばずっと美しくなるのに、現代のヨーロッパ風の手の込んだ仕立ての衣服はすぐすり切れたり、形がくずれて醜くみすぼらしいものになってしまうのは、野暮で粗野なことである。 衣服について述べたことは、他の必需品のすべてに当てはまる。モノの所有と消費とは、目的を達成するための手段である。仏教経済学は、一定の目的をいかにして最小限の手段で達成するかについて、組織的に研究するものである。
 これに反して現代経済学は、消費が経済活動の唯一の目的であると考えて、土地、労働、資本といった生産要素をその手段と見る。つまり、仏教経済学が適正規模の消費で人間としての満足を極大化しようとするのに反して、現代経済学者は、適正規模の生産努力で消費を極大化しようとする。 消費を適正規模に抑える生活様式をとるには、最大限の消費への欲求を満たす場合よりはるかに少ない努力で足りることは誰にもわかることである。であるから、たとえばビルマではアメリカと比べて、省力機械はほとんど使われていないのに、生活の圧迫感は非常に少ないのも驚くには当たらないのである。
 簡素と非暴力とが深く関連していることは明らかである。適正規模の消費は、比較的に低い消費量で高い満足感を与え、これによって人々は圧迫感や緊張感なしに暮らし、「すべて悪しきことをなさず、善いことを行う」という仏教の第一戒律を守ることができる。 物的資源に限りがあるのだから、自分の必要をわずかな資源で満たす人たちは、これをたくさん使う人たちよりも相争うことが少ないのは理の当然である。同じように、地域社会の中で高度に自給自足的な暮らしをしている人たちは、世界各国との貿易に頼って生活している人たちよりも、戦争などに巻き込まれることが稀である。
 そこで、仏教経済学の見地からするならば、地域の必要に応じ、地域でとれを資源を使って生産を行うのが、もっとも合理的な経済生活ということになる。遠い外国からの輸入に頼り、その結果、見知らぬ遠い国の人たちに輸出品を送り込むために生産を行うといったことは、例外的な場合、またごく小規模な場合はともかくとして、きわめて不経済なことである。 現代経済学者が通勤のために高い交通費は不幸であって、生活水準の高さを意味するものではないと認めているのと同様に、仏教経済学者は、欲求を満たすために手近にある資源を使わずに、遠隔地の資源に頼るのは、経済学的成功どころか、むしろ失敗だと主張するものである。現代経済学者は、国民一人当たりの輸送量(1マイル当たりのトン数で表示される)の数値が上がれば、 それが経済的進歩の証左だというのが、この同じ数値が仏教経済学者にかかると、消費の様式が悪化した指標となる。 (『スモール・イズ・ビューティフル』から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<贅沢からの資本主義誕生>  このシリーズ「趣味と贅沢と市場経済」を思いついた元になった本、その『恋愛と贅沢と資本主義』、どのようなことが書かれているのか、よく知られている題名の割にあまり読まれていないと思うので、一部紹介しよう。
 どんな時代でもよい、奢侈が一度発生した場合には、奢侈をより派手なものにしようという他の無数の動機がうずき出す。野心、はなやかさを求める気持ち、うぬぼれ、権力欲、一言で言えば他人に抜きん出ようという衝動が、重要な動機として登場する。 ヴェブレンは、その精彩ある著書『有閑階級の理論』の中で、あらゆる奢侈ならびに所有を求める気持ちのすべてを、他人に先駆けて何か所有しようというこの衝動に帰着させようとした。 たとえこの衝動が、飢えや性欲に直面したときの人間の本来自然の衝動と同じであると認めるにしても、どうしてこの衝動が贅沢にふけるという方向をたどるかについては、つねに特別の事情の絡み合いを必要とする。 つまりそのさい、奢侈な生活がすでに現存していること、また人並み、あるいは人並み以上の贅沢にふけることによって、他人に抜きん出ようという欲望を満足させうる手段が発見されていることが、前提とされるのは明らかだ。 他の場合では奢侈が量的に他人にたち優っていること、すなわち奴隷の数、所有する土地の大きさ、財産の額、位階の高さやそれに似たものについて他人を凌ぐことが、おのれを見せびらかす最も適切な形式となる。 だが、同じ贅沢でも、個人的な、唯物的な贅沢をしようとなると、感覚の楽しみが煽られなくてはならず、とりわけ、性の楽しみが生活の形成にあたって決定的な影響をおよぼさなければならない。
 私が展開しようと思う問題、すなわち奢侈は資本主義の発展にとってどんな意味をもっていたかということ、換言すれば、奢侈によって、あるいは奢侈を通じて、資本主義の歩みは促されたかどうかという問題は、理論家、実業家を問わず、17、8世紀の経済学者の間できわめて熱心に論議された。 この問題は、ある意味で、その周りに他のすべての経済ならびに政治上の問題を集める中核的問題であり、今日ではさしずめ「農業国か、それとも工業国か「といった問題に匹敵する重要なものである。17、8世紀では、資本主義という言葉は用いられず、それぞれ思い思いに、工業、製造業、富などと言われていた。 だが、事柄そのものについては、意見の一致が見られた。そして、奢侈とはその発生の途上にあった経済形式であり、資本主義的な経済形式の発展を促すものであることが認められた。そのため経済的進歩主義を称える者はすべて、奢侈を歓迎した。 彼らは極端に走った奢侈消費は資本形成を中段するのではないかと恐れただけで、アダム・スミスと同様に、必要な資本の再生産と蓄積を確実ならしめるためには、倹約家たちがすでに大勢いるはずと信じては、おのが心を安じさせたものだ。
 各国政府は、奢侈を奨励する方向で政策を広げた。
 17世紀を通じ、すみやかな歩みで資本主義が発展した国々では、贅沢禁止令が消滅していった。
 一定の奢侈支出、たとえばある種の美味は食物をとることを禁じることを含む「衣服令」は、イギリスで1621年廃止された。それでも1644年および1672年に、贅沢の目的のために貴金属を過度に使用することが禁ぜられた。(もっとも、これはもともと貨幣政策を考慮して行われたものだ)。 1656年には50リーヴルを上まわる(ビーヴァー皮の)帽子の禁令が出ており、1708年にはフランス最後の衣服に関する法律が発せられた。それ以後支配層は、(資本主義的工業の利益にとっての)奢侈支出の必要性を革新し、分断のリーダーたちも奢侈礼賛に傾いた。(中略)
 奢侈はたしかに害悪であり、罪であるけれども、産業を促進することによって全体には利益をもたらすものであるというこうした考え方は、イギリスにも広まっていた。「浪費の悪徳は、個人にとって害はあるが商業にとってそうは言えない」倫理的色彩の強いデイヴィッド・ヒュームさえ次のような結論に達した。 すなわち、よい奢侈はよい、悪い奢侈はたしかに悪徳ではあるけれども、悪い奢侈がなくなれば、おそらくその代わりに登場するであろう怠惰と比べれば、遙かに優れているというのだ。この考えは、社会哲学組織の一形式として、バーナード・マンデヴィルによって、「蜜蜂の詩」の中に表現された。彼が奢侈が称えた詩句は次の通りである。
 おそるべき悪徳、これ以上呪われ
 憎まれるべきもののない吝嗇(りんしょく)は、
 あの高貴ある罪、浪費の奴隷だ。
 奢侈は百万もの貧しき人々を
 養うことに役だっている。だが、
 かの不思議なる華美を誇る心根は
 さらに百万もの人々をとらえている。
 羨望と虚栄が産業を振るわせる。
 つねに嘲笑され驚嘆されているが、
 衣裳、住居その他もろもろの事柄で、
 流行におくれまいとする欲望は、
 商業の真の原動力である。
 (『恋愛と贅沢と資本主義』から)
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<『大転換』>  よく知られた題名の割にあまり読まれていないと思われる本として『大転換』も取り上げてみよう。最近の「経済人類学」と題された本を読むと、この『大転換』の影響を受けているな、と感じる。
 1世紀のあいだ近代社会のダイナミックスは二重の運動に支配されていた。すなわち、市場は絶え間なく拡大したが、その運動は特定方向へ拡大を妨げる対抗運動に出くわした。 こうした対抗運動は社会の防衛にとってきわめて重要なものであったが、結局のところ市場の自己調整作用とは相容れないものであり、したがって市場システム自体とも相容れないものだった。
 市場システムは飛躍的に発展した。時間と空間を席巻し、さらに銀行通貨の創造によってかつて例を見ないダイナミクスを作りだしたのである、市場システムが最高潮に達したころ、つまり1914年ごろには、 地球上のあらゆる地域、地球上の全住民および将来生まれてくる世代、自然人のみならず法人と呼ばれる巨大な擬制体も、そのシステムに包み込まれたのであった。キリスト教が歩みを開始して以来絶えてなかったほどの普遍性への要求を伴って、一つの新しい生活様式が地球上に広がった──ただし、今度は、運動は純粋に物質的レベルでありはしたが。
 しかし時を同じくして対抗運動が起こった。これは変化に直面した社会がとる通常の防衛行動を越えるものであった。それは社会の骨組みを侵そうとする反作用だったのである。この混乱は、市場が生みだした生産組織そのものをも破壊しかねないものであった。
 ロバート・オーウェンの洞察は正しかった。そなわち、市場経済は、もしそれ自身の法則に従って発展するにまかされるならば、巨大かつ永続的な害悪を作り出すことになっていたであろう。
 生産は、品限と自然の相互作用である。それゆえ、もしこの過程が交易や交換の自己調整的メカニズムを通じて組織されることになれば、その時、人間と自然はこのメカニズムの軌道に乗らなければならない。人間と自然は需要と供給に従属しなければならない。 言い替えれば、商品つまり売るために生産される財としての扱いを受けなければならに。
 それがまさしく市場システムのもとにおける仕組みであった。労働という名で人間が、土地という名で自然が、売り物になった。労働力使用権は賃金という価格で売買できたし、絽地仕様は地代という価格で譲渡された。労働と土地は売るために生産されたのだという擬制が矛盾なく受け入れられた。 こうして労働と土地にさまざまの組合せで投下された資本は、諸部門の収益が平準化するように、ある生産部門から他の部門へと移動することができた。
 しかし、生産は理論的にはこのやり方で組織できたとしても、土地と人間の運命を市場に委ねるということは結局のところ9それらを破壊させるも同然であるという事実を、商品化擬制は無視していたのである。 それゆえ、対抗運動はこの生産要素つまり労働と土地にかんする作用の抑制を目指したのである。これが干渉主義の主要な役割であった。
 生産組織もまた同一方向から脅かされた。価格水準の変化の影響に関する限り、危険は──工業、農業、商業を問わず──個々の企業に対して存在した。市場システムのもとでは、価格が下がれば企業は損害を被り、コストの全要素が比例して下がらなければならない「会社」は整理を余儀なくされたのである。 ところが、価格の低下はコストの一般的低下に因ってではなく、もっぱら貨幣制度のあり方に因るという可能性もあった。実際、後に見るように、自己調整的市場下で生じたのは後者のたぐいであった。 (『大転換』から)
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<制度派の祖=ヴェブレン>  これまたよく知られている題名の割に読まれていないと思う、『有閑階級の理論』。ヴェブレンをどのように評価するか?経済学の本流から外れた異端であり、とくに注目するほどの評価はできない、との見方もあるだろうし、「制度派」の祖とみなし、経済学の主流である「新古典派」を批判する人もいる。経済学と言うよりも、思想、哲学、宗教に分類されそうで、数式も使わず、反証不可能な非科学的な仮説のようでありながら、かつて数理経済で業績を上げた人が「制度派の祖」と認めている、という程の不思議な存在だ。 『有閑階級の理論』をどのように評価すべきか?アマチュア・エコノミストには荷が重すぎる。それでも遊び心をもって取り上げるなら、「資本主義経済が成長してくると、このように生きていく上で必ずしも必要でない贅沢品に多くの需要が集まってくる」とのメッセージと取ると面白い。、 ゾンバルトは「恋愛と贅沢と資本主義経済を成長させた」と言い、ヴェブレンは「資本主義経済が成長すると贅沢と見栄のための消費が増える」と言った、と理解すると面白い。それでもこの本は要約しにくい。ポイントがどこなのか?難しい表現を優しい言葉にはどう言い替えたらいいのか?などで悩むので、ここではあちこちの部分から引用して、その雰囲気を感じてもらいましょう。
序文 この研究の目的は、近代生活のひとつの経済的要因としての有閑階級の地位と価値を論ずることであるが、しかし、その議論をそのような確然とした限界のなかに厳重に閉じこめることは、実際にはできないことがわかった。 そこで、やむを得ず、この制度の起源とか系譜とか、普通は経済的なものとして分類されていないような社会生活の様相に対しても、多少の注意を払った。(中略) 
緒論 有閑階級(Leisure Class)の制度がもっともよく発達しているのは、たとえば封建時代のヨーロッパや封建時代の日本のような野蛮文化の比較的高い段階の場合である。諸階級の間の区別が極めて厳重に守られる。そして、これらの階級間の差別の、もっとも際立った経済的意義をもつ特徴は、 いくつかの階級に固有な職業の間にこたれる区別である。上層階級は習慣上、生産的職業から免除、もしくは除外され、ある程度の名誉をともなう特定の職業のために留保される。すべて封建社会の名誉ある職業のうち主要なものは、戦争である。そして僧侶の職務が、多くの場合、戦争の次位にくる。もしもその野蛮国がとくに好戦的でないならば、 僧侶の役目が上位を占め、軍人の役目が次位となるかもしれない。しかし、軍人でも僧侶でも、上層階級は生産的職業から免除されるという原則は、ほとんど例外なしに当てはまる。そして、このような免除は、彼らの卓越した地位の経済的表示である。(中略)
金銭上の見栄 文化的進化のなかで、有閑階級の出現が、私有財産制の始期と時を同じくするのは必然的な事柄である。というのは、これらの二つの制度は、経済的諸力の同じ一組から生まれ出るものであるからである。それらのものは、その発展の端初の段階では、社会的構造の同一の一般的事実の異なった様相にすぎない。
 閑暇と私有財産制が当面の目的にとって興味ある事柄となるのは、社会構造の要素──因習的事実──としてである。仕事を等閑にする習慣が有閑階級を作り出すものではない。また、使用や消費の機械的事実が私有財産制を作り出すのではない。それゆえに、現在の研究は、怠惰の起源に関するものでもなければ、有用な品物の個人的消費への充当の起源に関わるものでもない。 問題点は、一方では習俗としての有閑階級の起源と正確であり、他方では習俗的な権利ないしは請求権としての個人財産の起源である。(中略)
衒示的閑暇 いま大雑把に述べたような金銭的闘争の直接の効果は、もしもその作用がその他の経済力や見栄をきそう過程のその他の様相によって妨げられないとすれば、人々を勤勉にし節約的にするものであるに違いない。 下層階級に関する限り、このような効果がある程度まで現実に起こってくる。彼らが財貨を獲得する普通の手段は、生産的労働であるからである。このことは、農業的産業段階に立っている定住共同体の労働階級について、いっそう特別に当てはまる。そこでは財産のかなりの細分割がが行われ、またその社会の法律や習慣は、 これらの階級に、その勤労の生産物の生産物の多かれ少なかれきちんとした分け前を保証しているからである。これらの下層階級はいかなる場合も労働をされることはできない。だから、彼らにとっては、少なくとも彼らの階級の内部では、労働を引き受けることは、はなはだしく名誉を傷つけることではない。 むしろ、労働は彼らの公認の生活様式であるから、彼らのその仕事に有能であるという名声のなかに、ある種の見栄による誇りをいだく。けだし、これこそしばしば、彼らに許された見栄の唯一の方向であるからである。生産的能力や節約の分野においてだけ、獲得や見栄を行うことができる人々にとっては、金銭的名声を争うことは、 ある程度、勤勉や吝嗇(りんしょく)の増大をもたらすであろう。しかし、後に論ずるはずの見栄をきそう過程のある種の第2次的様相が入り込んできて、たんに上層階級のあいだばかりでなく、金銭的に劣等な階級のあいだにも、このような方向の見栄を、きわめて著しく限定し修正することとなる。(中略)
衒示的消費 代行的有閑階級の進化と、その勤労階級の一般的母胎からの分化について論じたところで、さらに進んだ分業──すなわち各種の使用人階級の間の分業──についても言及した。 使用人階級の一部のもの、すなわち主として代行的閑暇を職務とするものは、新しい副次的な範囲の義務──財貨の代行的消費──を引き受けるようになる。このような消費が起こるもっともはっきりした形態は、制服の着用や、広大な使用人宿舎の占拠に見られる、もう一つのそれに劣らず目立って効果的な形の代行的消費、しかもそれよりも遙かに広く行われているものは、貴婦人によって行われる食物、衣料、住居、家具の消費や、その他の家庭備品である。
趣味の金銭的な基準 消費を規制する規範は、概して衒示的消費の要求であるけれども、消費者があらゆる特定の場合に、それにもとずいて行動する動機は、単純率直な形のこの原理であると考えてはならない。という警告はすでに一度ならず繰り返したことである。 普通の場合、消費者の動機は、確立された慣行に従い、都合の悪い注意や噂話を避け、消費する財貨の種類、分量および等級なり、彼の時間や労力の作法にかなった使い方なりの点での世間並みの対面の基準に従って生活しようとする願望である。 ことに、見物人の目の前で行われる消費についてそうである。しかし、外部のものには、決して目立った程度には、わからないような消費の場合にも、慣行的贅沢の多くの要素が見られる。──たとえば、下衣、ある種の食品、台所用具その他、一目につくことよりもむしろ便益のために作られた家具類などがそれである。 そのような便利な品物のどれをとっても、よく調べてみれば、当該財貨の生産費をまし、その商業的価値を高めるに違いないが、しかし、これらの品物が、外見上、それに役立つだけのために作られている物質的目的にたいするその効用を比例的に増大させるとは限らないような若干の特徴が見出されるであろう。
金銭的文化の表示としての衣服 いままで述べてきた経済原理が、生活過程のある方向の日常の事実に、いかに当てはまるかを、実例によって、多少詳しく示すことが適当であろう。 この目的にとっては、衣服に対する支出ほど適当な例証を与える消費の方面はない。金銭的名声の、これに関連する他の原理も、同じ考案のなかに例証されるけれども、衣服のなかに表示されるのは、とくに財貨の衒示的消費の法則である。そのひとの金銭的立場を証明して見せるその他の方法も、そのような目的に効果的に役立つし、したがって、その他の方法も常に、またどこでも盛んに用いられる。 しかし、衣服に対する支出は、その他の方法の多くのもの以上に、次のような長所をもっている。それは、われわれの服装は、いつでもはっきりとわかるものであって、われわれの金銭的な地位を、あらゆる観察者に対して、一目で示す、というのである。また、衣服については、他のいかなる方面の消費よりも、衒示のための公認の支出がずっとはっきりと表れており、 またおそらく、ずっと一般的に行われていると言ってよいであろう。あらゆる階級が服そうのためにまねく金銭支出の大部分は、身体の保護のためよりも、むしろ尊敬されるような外観のために行うものであるという常識に同意することは、なにびとにとっても少しも困難ではなかろう。そして、もしもわれわれがこのような衣服の点で、社会的慣習によって定められた標準に劣るようなことがあれば、 それほど、みすぼらしい感じが鋭く感ぜられることは、他にあるまい。人々が、見苦しくない程度の浪費的な消費と考えられるものの余裕をもつために、非常に大きな程度の、生活の愉楽や必需品を犠牲にすることをしのぶということは、他の多くの消費項目よりも衣服について、ずっと高い程度に当てはまる。それゆえに、人々が、気候が悪いときに、、立派な衣服を着ているように見せるために、薄着で行くことは、決して珍しくない。 そして、あらゆる近代社会で衣服に使われる財貨の商業的価値は、その財貨が衣服を着る人の身体を包むために提供する機械的効果よりもずっと大きな程度で、流行の性質、すなわち、その財貨の名声を博する性質からなり立っている。衣服の必要は明らかに、「高級な」もしくは精神的な必要である。 (『有閑階級の理論』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
ユートピア                     トマス・モア 沢田昭夫訳 中公文庫      1978.11.10 
スモール・イズ・ビューティフル  E.F.シューマッハー 酒井懋(つとむ)訳 講談社学術文庫   1986. 4.10
スモールイズビューティフル再論  E.F.シューマッハー 酒井懋(つとむ)訳 講談社学術文庫   2000. 4. 1
恋愛と贅沢と資本主義               W・ゾンバルト 金森誠也訳 講談社学術文庫   2000. 8.10
大転換      カール・ポラニー 吉沢英成・野口達彦・長尾史郎・杉村芳美訳 東洋経済新報社   1975. 4. 5 
有閑階級の理論             ソースタイン・ヴェブレン 小原敬士訳 岩波文庫      1961. 5.25  
( 2005年5月23日 TANAKA1942b )
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(24)東福門院和子から輸出産業へ
需要こそが生産を決める

東福門院和子の衣裳道楽から始まったこのシリーズ、開国し貿易を再開したら絹が主要な輸出品になっていた。こうして、「江戸時代、贅沢が江戸の産業を発展させた」との主張が証明されたので、今週はそのまとめを書いて、来週からは「趣味の贅沢と市場経済」別の側面から検討することにしよう。
1865(慶応元)年の主要輸出入品
輸出品目 生糸 蚕卵紙 海産物 そのほか 輸入品目 毛織物 綿織物 鉄砲など 艦船 綿糸 そのほか
79.4 10.5 3.9 2.9 3.3 40.3 33.5 7.0 6.3 5.8 7.1

<主要輸入品目から輸出品のトップへ>
 江戸時代初期、代表的な輸入品は絹であった。
 ⇒新井白石により貿易量が制限され、日本は自給自足を始めた。
 ⇒東福門院和子から始まった衣裳道楽、豪商、庶民へと絹への憧れに続き、幕府の奢侈禁止令にもかかわらず消費は増え続けた。
 ⇒「贅沢は敵」か「贅沢は素敵」か、江戸時代の人は「贅沢は素敵」を選択した。
 ⇒享保15(1730)年の大火災(西陣焼け)から京都西陣の絹織物産業が日本各地へ拡散し始め、西陣の絹産業は空洞化した。
 ⇒日本の繊維産業は東日本では絹、西日本では綿、と分業が進んだ。
 ⇒1865(慶応元)年、外国との貿易が再開されて日本からの輸出品目を見ると、生糸が全体の80%近くを占めた。
 ⇒このように「贅沢」が江戸時代の産業を発展させた。
<贅沢が江戸経済を発展させたポイント>
 これまで書いてきたことをまとめてみよう。
十分な需要
 幕府が何度も奢侈禁止令を出したにもかかわらず、絹への憧れは強かった。「絹を扱えば儲かる」と藩主も商人も百姓も思った。 藩主も商人も百姓も自己責任において絹産業に取り組んでいった。江戸時代の絹産業をみると、「需要量が消費量・生産量を決定する」が正しく思えてくる。その反対は「供給はそれ自らの需要を創造する」というセイの法則だ。 セイの法則の感覚で言えば「世界の人口増に食料生産が追いつかない。日本も食料自給率を向上させるべきだ」になる。これに対して、「需要量が生産量を決定する」のセンスで考えると、「先進諸国が農業保護政策をやめれば、最貧国の農産物輸出による外貨獲得の可能性が生まれ、少しでも豊かになった国民の食料需要に対して、その人たちへの輸出を目指して諸国の農民が利益拡大を狙って食料生産に力を注ぐだろう」との考えになる。 「生産か?需要か?」一般論は話が抽象的になるが、江戸時代の絹産業は「需要量が生産量を決定する」の良い例だと思う。
各地へ拡散する生産技術
 京都西陣の生産技術が東日本各地へ拡散した。本家の京都は生産工場都市から文化都市に進化した。絹産業の技術拡散は、初めのうちは京都にとって不幸な出来事のように思われていたが、その後京都は芸術性の高い製品を生みだし文化都市として栄えていった。 現代物作り大国日本の生産技術がアジア諸国に拡散している。「産業空洞化」と表現し、危機感を煽る人もいるようだが、日本は更に付加価値の高い技術を開発し、高品質を目指し道を開いて行くであろう。そのような先頭にたって新しい付加価値を生み出すことは日本人に適していると思う。 産業空洞化などと怯える必要はない。
活発な物と情報の往来
 江戸時代のイメージとして各地に関所があって、諸藩は人や物の出入りを厳しく制限していたかのように思うが、絹産業について見ると、原材料・職人・技術・生産された商品が活発に日本国内を移動していたことがうかがわれる。 結果的に見れば東日本で絹が生産され、西日本で木綿が生産されていた。東日本でも木綿を着たし、西日本でも絹は着た。米は大坂堂島と江戸蔵前に集まった。絹と木綿はそのような中心地はなく全国の人たちに供給されていった。
各地で取引市場が開かれた
 米は大坂堂島で1730(享保15)年8月から「帳合い取引」とよばれる先物取引が行われた。絹でもこうした取引が試みられた。大坂堂島と同じように、商人が中心での取引所が多かった。幕府が司令塔になっていた訳ではない。現代の米取引は「自主流通米価格形成センター(「自主流通米価格形成センター」から平成16年4月1日に名称変更)」によって行われる。 理事・監事・運営委員の名前を見れば国の意向によって出来たことがわかる。大坂堂島米会所に例えれば、大岡越前守忠相が常任理事に名を連ねたようなものだ。
 絹に関する取引所は各地で試行錯誤の連続で、必ずしも成功したとは言えない。商人が自分たちの既得権を守るために取引所を作ろうとしたり、他藩に負けないようにと藩が中心になって計画したりと、それだけに計画経済とは違った自由な市場経済であった。
贅沢は特権階級だけではなかった
 このシリーズ、東福門院和子から始まって、豪商の妻子、そして庶民のアイドル「笠森稲荷のお仙」へと話を進めた。ヴェルナー・ゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』は18世紀、ロココあたりの宮廷や貴族生活を中心に書いている。庶民のこと、笠森稲荷のお仙のような例はない。「著者まえがき」には次のようにある。
 本書の内容をなすこの前半部分は、「恋愛と贅沢と資本主義」と題して然るべきである。なぜなら、本書の根本思想は、ヨーロッパ社会が十字軍依頼経験した変革を通じ、男女両性の互いの関係も変化したこと、またこの関係の変化のために、支配階級の生活様式がすべて新しく形成されたこと、それにこうした新しい形成が、近代の経済組織をつくり上げるにあたって、本質的な影響を与えたことを指摘することにあるからである。 (「恋愛と贅沢と資本主義」から)
 江戸時代には支配階級だけでなく庶民も贅沢を楽しみ、そうして産業が栄え、人々は豊かになっていった。このことをゾンバルトが知ったら、わが意を得たり、と「恋愛と贅沢と資本主義」の続編を書いたかも知れない。ゾンバルトには及びもつかないが、それでもゾンバルトの知らなかった社会について、ゾンバルトの考えを補足できそうな見方を展開できそうに思う。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<マックス・ウェーバーの見方>  マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』はよく知られている割に、あまり読まれていないのではないかと思う。そこで一部分を少し引用し、雰囲気を味わって頂きましょう。
信仰と社会層分化  さまざまな種類の信仰が混在している地方の職業統計に目を通すと、通常つぎのような現象が見出される。それはドイツ・カトリック派会議の席上や同派の新聞、文献の中でたびたび論議されていることだが、近代的企業における資本所有や企業家についてみても、あるいはまた上層の熟練労働者層、とくに技術的あるいは商人的訓練のもとに教育された従業者たちについてみても、彼らがいちじるしくプロテスタント的色彩を帯びているという現象だ。 この現象は、たとえば東部ドイツにおけるドイツ人とポーランド人の間のように信仰の種類が国籍の区別と一致し、したがって文化の発達程度とも一致しているような地方で見られるだけではない。およそ資本主義の発展期に、その結果として、住民たちの間に社会層分化と職業分化が生じた地方ではいたるところ──この分化が激しければ激しいほど明白に──信仰統計の数字をとおして明らかに見出される。 このように近代の大商工企業における資本所有や経営、それから高級労働にかかわりをもつプロテスタントの数が総体的にきわめて大きいということ、換言すれば、それらに参加しているプロテスタントの数が総人口におけるプロテスタントの比率よりも大きいということは、ある点まで、古い過去の時代に発した歴史的な理由によるものと見ることができる。
禁欲と資本主義  禁欲的プロテスタンティズムの宗教的基礎諸観念と経済的日常生活の諸原則のあいだに存する関連を明らかにするには、なかんずく、霊的司教(牧会)の実践から生まれてきたことの確かめられるような神学書を用いることが必要となってくる。 なぜなら、来世がすべてであって、聖餐に参加できるかどうかがキリスト教徒の社会的地位を左右し、霊的司教と教会規律と説教による聖職者の感化が──>>consilia<<「勧告」集や>>casus conscientiae<<「良心問題」集などを一見しても分かるように──われわれ現代人にはもはや簡単には想像もできないほどの影響をおよぼした時代には、そうした霊的司牧の実践のうちに働いていた宗教的諸力こそが「国民性」の決定的な形成者だったからだ。 (「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」から)
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<主な参考文献・引用文献>  来週からは「大江戸経済学=趣味と贅沢と市場経済」東福門院和子の衣裳道楽から「旅」に話題を移そうと思う。そこで今までに扱った<参考文献・引用文献>をまとめてみた。
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25
資本主義は江戸で生まれた                      鈴木浩三 日経ビジネス人文庫 2002. 5. 1
江戸は夢か                             水谷三公 ちくま学芸新書   2004. 2.10
江戸の道楽                             棚橋正博 講談社       1999. 7.10
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 マックス・ウェーバー 大塚久雄訳 岩波文庫      1989. 1.17
マックス・ヴェーバーとアジアの近代化                富永健一 講談社学術文庫    1998. 8.10
恋愛と贅沢と資本主義           ヴェルナー・ゾンバルト 金森誠也訳 講談社学術文庫    2000. 8.10
百姓の江戸時代                           田中圭一 ちくま新書     2000.11.20
小説 東福門院和子の涙                      宮尾登美子 講談社       1993. 4.13
小説 東福門院和子                        徳永真一郎 光文社文庫     1993. 4.20
養源院の華 東福門院和子                  柿花仄(ほのか) 木耳社       1997. 9.20
歴史ロマン 火宅往来── 日本史のなかの女たち           澤田ふじ子 廣済堂出版     1990
小説 江戸の花女御 東福門院和子                  近藤富枝 毎日新聞社     2000. 1.15
花の行方 後水尾天皇の時代                    北小路功光 駸々堂出版     1973. 4.15
近世の女たち                             松村洋 東方出版      1989. 6.15
人物日本の女性史 8 徳川家の夫人たち               円地文子 創美社       1977.10.25
新・歴史をさわがした女たち                     永井路子 文芸春秋社     1986.11.15
修学院と桂離宮 後水尾天皇の生涯 歴史と文学の旅         北小路功光 平凡社       1983. 6.15
江戸の素顔                             暉峻康隆 小学館       1995. 7. 1
遊びをする将軍 踊る大名                      山本博文 教育出版      2002. 6. 6
江戸時代 町人の生活                       田村栄太郎 雄山閣       1994. 5. 5
江戸のまかない                           石川英輔 講談社       2002. 1.30
江戸の助け合い                            芳賀登 地歴社       2004. 1.10
江戸時代史 上巻 1927(昭和2)年の復刻版           栗田元次 近藤出版社     1976.11.20
江戸の火事                              黒木喬 同成社       1999.12.25
図説 人物日本の女性史 7 江戸期女性の美と芸           相賀徹夫 小学館       1980. 4.10
大江戸曼陀羅                        朝日ジャーナル編 朝日新聞社     1996. 6
小西家旧蔵 光琳関係資料とその研究                 山根有三 中央公論美術出版  1962. 3.31
山根有三著作集3 光琳研究1                    山根有三 中央公論美術出版  1995. 5. 1
千年の息吹き 京の歴史群像               上田正昭・村井康彦編 京都新聞社     1994.11  
歴史の花かご 上 人と文化                吉川弘文館編集部編 吉川弘文館     1998.10. 1
図解人物日本の女性史7 江戸期女性の美と芸             相賀徹夫 小学館       1980. 4.10
絹Tものと人間の文化史                       伊藤智夫 法政大学出版会   1992. 6. 1
長崎貿易 同成社江戸時代史叢書8                  太田勝也 同成社       2000.12.10
長崎の唐人貿易                  山脇悌二郎 日本歴史学会編 吉川弘文館     1964. 4.15
絹の文化誌                    篠原昭 嶋崎昭典 白倫編著 信濃毎日新聞社   1991. 8.25
御水尾院                              熊倉功夫 朝日新聞社     1972.10.30
皇女品宮の日常生活 『无上法院殿御日記』を読む           瀬川淑子 岩波書店      2001. 1.19
小西家旧蔵 光琳関係資料とその研究                 山根有三 中央公論美術出版  1962. 3.31
人物日本の女性史 8 徳川家の夫人たち              円地文子編 創美社       1977.10.25
近世の女たち 文化の華あでやかに 古都の風光に余香          松村洋 東方出版      1989. 6.15
御水尾院                              熊倉功夫 朝日新聞社     1972.10.30
小説 夢魔の寝床 伊達くらべ元禄の豪商               多岐川恭 光文社時代小説文庫 1992. 3.20
小説 江戸風狂伝 伊達くらべ                   北原亞以子 中央公論社     1997. 6.30
小説 元禄歳時記(上)さんご珠は血の色               杉本苑子 講談社       1974.12.12
忠臣蔵とは何か                           丸谷才一 講談社       1984.10.12
御当代記 東洋文庫 将軍綱吉の時代          戸田茂睡著 塚本学校注 平凡社       1998.11.11
江戸時代の生活と風俗 鳶魚江戸文庫23        三田村鳶魚 朝倉治彦編 中公文庫      1998. 7.18
図説 人物日本の女性史 7 江戸期女性の美と芸      相賀徹夫・児玉幸多 小学館       1980. 4.10
小説 江戸風狂伝 伊達くらべ                   北原亞以子 中央公論社     1997. 6.30
小説 夢魔の寝床 伊達くらべ元禄の豪商               多岐川恭 光文社時代小説文庫 1992. 3.20
武野燭談                             村上直校注 人物往来社     1967. 7.25
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25
翁草1                               神沢貞幹 歴史図書      1970.10.
八文字屋本全集 第2巻 傾域禁短気             八文字屋本研究会 汲古書院      1993. 3.
日本古典文学大系91 浮世草紙集 傾域禁短気            野間光辰 岩波書店      1966.11. 5
現代語訳 西鶴全集4 好色五人女            井原西鶴 暉峻康隆訳 小学館       1976. 7.31
図説人物日本の女性史7 江戸期の女性の美と芸           相賀徹夫編 小学館       1980. 4.10
ビジュアル・ワイド 江戸時代館                        小学館       2002.12. 1
大江戸漫陀羅                        朝日ジャーナル編 朝日新聞社     1996. 5.10
NHKニッポンときめき歴史館5   NHKニッポンときめき歴史館プロジェクト 日本放送協会    2000. 3.10
平賀源内全集 上 根南志具佐                          名著刊行会     1970
大田南畝全集 第11巻 半日閑話                 濱田義一郎 岩波書店      1988. 8.29
洒落本大成 第4巻 江戸評判娘揃 評判娘名寄草 あづまの花      水野稔 中央公論社     1979. 4.10
平賀源内                               芳賀徹 朝日新聞社     1981. 7.20
平賀源内を歩く 江戸の科学を訪ねて                 奥村正二 岩波書店      2003. 3.25
図説人物日本の女性史7 江戸期の女性の美と芸           相賀徹夫編 小学館       1980. 4.10
江戸の想像力                            田中優子 筑摩書房      1986. 9. 5
保坂元の江戸再発見                          保坂元 読売新聞社     1987. 7.31
江戸を駆ける                            神坂次郎 中央公論社     1986.10.25
歴史発見15 元禄の豪商たち              NHK歴史発見取材班 角川書店      1994. 8.30
京都 歴史と文化1{政治・商業}                林屋辰三郎編 平凡社       1994. 4.18
日本永代蔵 現代語訳西鶴                    暉峻康隆訳注 小学館ライブラリー 1992. 4.20
大系日本の歴史10                          竹内誠 小学館ライブラリー 1993. 4.20
木綿以前の事                            柳田国男 岩波書店      1979. 2.16
新・木綿以前のこと 苧麻(ちょま)から木綿へ             永原慶二 中公新書      1990. 3.15
ビジュアル・ワイド 江戸時代館                        小学館       2002.12.
大阪市の歴史                         大阪市史編纂所 岩波書店      1999. 4.20
物語日本の歴史・第23巻 ─騒動に明け暮れる江戸の権力─      笠原一男編 木耳社       1992.11.10
江戸の生活と風俗 鳶魚江戸文庫23          三田村鳶魚 朝倉治彦編 中公文庫      1998. 7.18
国史大系 第40巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1964.12.31
国史大系 第46巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1966. 2.28
国史大系 第42巻 徳川実紀                  黒板勝美/編輯 吉川弘文館     1965. 4.30
国富論 アダム・スミス                     大河内一男訳 中公文庫      1978. 4.10
ビル・ゲイツの面接試験       ウィリアム・パウンドストーン 松浦俊輔訳 青土社       2003. 7.15
独習江戸時代の古文書                         北原進 雄山閣       2002. 8.20
江戸時代の古文書を読む 元禄時代            徳川林政史研究所監修 東京堂出版     2002. 6.25
江戸の市場経済                           岡崎哲二 講談社       1999. 4.10
近世日本の市場経済─ 大坂米市場分析                 宮本又郎 有斐閣       1988. 6.30
株仲間の研究                            宮本又次 有斐閣       1958. 3. 5
経済倫理学のすすめ                         竹内靖雄 中公新書      1989.12.20
父性なき国家・日本の活路                      竹内靖雄 PHP研究所    1980. 2.27
「日本」の終わり 「日本型社会主義」との決別            竹内靖雄 日本経済新聞社   1998. 5. 6
国家と神の資本主義                         竹内靖雄 講談社       1995. 1.27
得する生き方 損する生き方                     竹内靖雄 東洋経済新報社   2001. 4.26
市場の経済思想                           竹内靖雄 創文社       1991. 6.30
マン・チャイルド 人間幼稚化の構造  D.ジョナス、D.クライン 竹内靖雄訳 竹内書房新社    1984. 7.10
サバイバル・ストラテジー          ガレット・ハーディン 竹内靖雄訳 思索社       1983. 4.20
折りたく柴の記                     新井白石 桑原武夫訳 中公文庫      1974. 2.10
江戸幕府御用金の研究                        賀川隆行 法政大学出版局   2002. 3. 7
江戸幕府財政の研究                         飯島千秋 吉川弘文館     2004. 6. 1
古文書の語る日本史 6江戸前期                  所理喜夫編 筑摩書房      1989. 7.30
世界のなかの日本 十九世紀まで遡って見る    司馬遼太郎/ドナルド・キーン 中公文庫      1996. 1.18
事典 しらべる江戸時代             編集代表/林英夫・青木美智男 柏書房       2001.10.15
日蘭貿易の史的研究                         石田千尋 吉川弘文館     2004. 9.10
長崎貿易 同成社江戸時代史叢書8                  太田勝也 同成社       2000.12.10
京都 歴史と文化                        林屋辰三郎他 平凡社       1994. 4.18
日本人が作りだした動植物── 品種改良物語 日本人が作りだした動植物企画委員会 裳華房       1996. 4.25
ものと人間の文化史 絹T                      伊藤智夫 法政大学出版局   1992. 6. 1
日蘭貿易の史的研究                         石田千尋 吉川弘文館     2004. 9.10
京都、リヨン、そして足利                 日下部高明・随思舎 随想舎       2001. 5.10
ものと人間の文化史 絹T                      伊藤智夫 法政大学出版局   1992. 6. 1
事典 絹と木綿の江戸時代                     山脇悌二郎 吉川弘文館     2002. 6.20
山形県の歴史 県史6          横山昭男・誉田慶信・伊藤清郎・渡辺信 山川出版社     1998.12.10
福島県の歴史 県史7        丸井佳寿子・工藤雅樹・伊藤喜良・吉村仁作 山川出版社     1998.12.10
茨城県の歴史 県史8  長谷川伸三・糸賀茂男・今井雅晴・秋山高志・佐々木寛司 山川出版社     1997. 6.20
栃木県の歴史 県史9          阿部昭・橋本澄朗・千田孝明・大獄浩良 山川出版社     1998. 2.10
埼玉県の歴史 県史11               田代脩・重田正夫・森田武 山川出版社     1999. 6. 5
新潟県の歴史 県史15田中圭一・桑原正史・阿部洋輔・金子達・中村義隆・本間恂一 山川出版社    1998. 1.25
群馬県の歴史 県史10             西垣晴次・山本隆志・丑木幸男 山川出版社     1997. 5. 5
富山県の歴史 県史16        深井甚三・本郷真紹・久保尚文・市川文彦 山川出版社     1997. 8.25
山梨県の歴史 県史19         飯田文弥・秋山敬・笹本正治・斎藤康彦 山川出版社     1999. 1.25
長野県の歴史 県史20  古川貞雄・福島正樹・井原今朝男・青木歳幸・小平千文 山川出版社     1997. 3.20
岐阜県の歴史 県史21松田之利・谷口和人・筧俊生・所史隆・上村恵宏・黒田隆志 山川出版社     2000.10.10
京都府の歴史 県史26  朝尾直弘・吉川真司・石川登志雄・水本邦彦・飯塚一幸 山川出版社     1999. 8. 1
愛知県の歴史 県史23                  三鬼(みき)清一郎 山川出版社     2001. 1.10
鳥取県の歴史 県史31           内藤正中・真田廣幸・日置粂左ヱ門 山川出版社     1997. 2. 5
岡山県の歴史 県史33     藤井学・狩野久・竹林榮一・倉地克直・前田昌義 山川出版社     2000. 6. 5
香川県の歴史 県史37         木原溥幸・丹羽佑一・田中健二・和田仁 山川出版社     1997.10.10
匠 成熟する都                           松井康彦 講談社       1994. 8.25
江戸の産業ルネッサンス                       小島慶三 中央公論社     1989. 4.25
綿と木綿の歴史                           武部善人 御茶の水書房    1989. 6.25
綿(わた)づくり民俗史                        吉村武夫 青蛙房       1982.10.20
江戸の誕生 史話 日本の歴史17      梅原猛・尾崎秀樹・奈良本辰也監修 作品社       1991. 4.15
元禄の美と粋 史話 日本の歴史18     梅原猛・尾崎秀樹・奈良本辰也監修 作品社       1991. 4.15
飢饉の生き地獄 史話 日本の歴史20    梅原猛・尾崎秀樹・奈良本辰也監修 作品社       1991. 4.15
日本史再発見 理系の視点から 朝日選書477            板倉聖宣 朝日新聞社     1993. 6.25
日本史を読む                       丸谷才一・山崎正和 中央公論社     1998. 5.25
江戸の暮らし図鑑 道具で見る江戸時代                高橋幹夫 芙蓉書房出版    1994. 5.25
江戸の生業事典                          渡辺信一郎 東京堂出版     1997. 5.20
原色日本服装史                           井筒雅風 光琳出版      1989.12.16
近世風俗事典              監修=江馬務・西岡虎之助・浜田義一郎 人物往来社     1967.12.15
ユートピア                     トマス・モア 沢田昭夫訳 中公文庫      1978.11.10 
スモール・イズ・ビューティフル  E.F.シューマッハー 酒井懋(つとむ)訳 講談社学術文庫   1986. 4.10
大転換      カール・ポラニー 吉沢英成・野口達彦・長尾史郎・杉村芳美訳 東洋経済新報社   1975. 4. 5 
有閑階級の理論             ソースタイン・ヴェブレン 小原敬士訳 岩波文庫      1961. 5.25  
 来週からは、「旅」をテーマに、参勤交代、お伊勢参り、おかげまいり、などを取り上げるつもりです。ご期待ください。
( 2005年5月30日 TANAKA1942b )
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(25)参勤交代という公共事業
三代将軍家光時代に制度化

江戸時代の贅沢は、第1が「絹」、そして第2は「旅」だと思う。鎖国時代で海外旅行はなかったけれど、そして関所があって勝手に住んでいる所は離れられなかったように思われているけれど、調べれば調べるほど江戸時代の庶民は旅行好きだったことが分かる。 もしかしたら現代人よりも旅を楽しんでいたかもしれない。だとすれば「旅」による経済効果もあったはずだし、江戸時代には庶民の旅行好きが市場経済を発展させたに違いない。こうして、また一つ「江戸時代は封建時代と言われるように、庶民は土地に縛り付けられていて、移動の自由がなかった。一生涯生まれた土地から出なかった人が多かった」などの通説が、神話として葬り去られることになる。 けっこう庶民は「旅の恥は掻き捨て」を楽しんでいたのかも知れない。そのような江戸時代の旅について調べてみることにした。まずはとても大がかりな旅──参勤交代から始めることにしよう。
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<参勤交代制度の成立>  参勤交代とは、江戸時代に諸大名が一定の時期を限って交互に江戸に伺候し、もしくは領国に帰った制度をいう。諸大名が江戸の伺候することを「参勤」といい、領国に就くのを「交代」といった。 即ち諸大名が領国に就くのは他の大名の参勤と、交代で行われていたからである。
 この制度の目的についてはさまざまな説がある。まず、徳川家康本人が、6歳で織田信秀の人質となり、しかも、岡崎に帰り再び19歳まで今川義元の人質となった体験から、この制度が大名を臣従させるに最も効果的な手段であることを、身をもって体験したことに淵源を求める説。 大名の威厳を沿道の庶民に知らしめた制度であるという説。諸大名を江戸往復の繁忙のなかに身を常に置いてお金を消費させ、領国にいて清涼を蓄積するのを防いで、幕府への反抗を抑えたという説。 諸大名の江戸在中、安逸に流れさせ怠惰の気風から幕府への反抗心を無くさせたという説。諸説紛々である。
 参勤交代の目的を一言でいえば、地方割拠の傾向にあった時代に、諸大名を幕府の意のままに統御して、権力の集中・掌握を図り、中央集権の実を挙げるための制度であったといえるであろう。
武家諸法度
 寛永11(1634)年になって、3代将軍家光は諸代大名の妻子を江戸に移させ、翌寛永11(1634)年6月21日、御三家以下、外様・譜代の大名の全員を江戸城の大広間に呼び出し、「武家諸法度」を発布し、その第2条で「大名小名在江戸交替所相定也、毎歳四月中可致参勤」と、江戸に参勤することを役儀・奉公として正式に制度化した。 『徳川実記』は、寛永12年6月晦日になって、加賀中納言始め26人を国に就かせ、薩摩中納言以下55人を在府させたと記載する。しかし、この時、譜代大名は交代から「別儀もて滞府」となって除外され、将軍の不時の御用に参殿すべき旨を命令されている。譜代と外様大名との差はなくなりつつあったが、まだ将軍との関係や公儀における位置には、差が残っていた。
 その後、寛永19(1642)年になって、先の寛永12年の法度で「滞府」となっていた譜代大名の交代期が、6月あるいは8月の交代と定められた。ただし、関東の譜代大名は2月と8月の半年交代に定めている。ここに参勤交代制度は全ての大名に義務化されることになった。 もっとも水戸藩と老中など役付の大名は、定府になり、対馬の宗氏は3年に一度、蝦夷地の松前氏は5年に一度の参勤になるなど、若干の例外も見られる。
 以上のように長い年月を辿り、任意制度から強制制度へと移行し、外様大名だけの制度から譜代大名にも適用される制度へと拡がり、参勤交代制度はその実質と形態を徐々に備えていったのである。 (『参勤交代道中記』から)
武家諸法度=徳川実記から
 『徳川実記』から武家諸法度に関する部分を一部引用しよう。
 (六月)廿一日法令を仰出さるゝにより。尾紀水の三卿を始め。在府の諸大名大廣間に群参し。普第の衆は庇に伺公す。時に井伊掃部頭直孝。松平下總守忠明。酒井雅楽頭忠清。土井大炊頭利勝。酒井讃岐守忠勝法令仰出さるゝ旨を傳へ。儒臣林道春信勝中央に出て是をよむ。 其文に曰く。文武弓馬の道。専可相嗜事。左文右武古法也。不可有不兼備。弓馬は武家之要枢也。号兵為凶器。不得止而用之。治不忘乱。何不勘修練呼。』
 大名小名在江戸交替所相定也。毎歳夏四月中可到参観。従者之員数近来甚多。且國郡之費。且人民之労也。向後以相応可減少之。但上洛之節は任教令。公役は可随分限事。』
 新義之城郭構営堅禁止之。居城之隍塁。石壁以下破壊之時は達奉行所可受其旨也。塀門等之分は。如先規可修補事。』………
 (六月)晦日先に在府の諸大名交替のこと仰出されしにより。けふ加賀中納言はじめ廿六人を召て。就封すべき旨つたへらる。これ大名四月交替の始なり。薩摩中納言はじめ五十五人は。在府たるべき旨つたへられ。岩城但馬守宣隆。戸澤右京亮政盛もいとま給ふ。』………
 堅可相守者也。寛永十二乙亥歳六月御朱印。(これ道春信勝と弟永喜信澄草せし所といふ)よみ畢て大廣間に渡らせ給ひ。中段に御着席あり。 諸大名を御前に召て。  神祖。  台徳院殿両代の法令。年月をふる事既に久しければ。今度損益册定して令せらる。各此旨を守るべし。又是迄諸大名の誓詞をめさるゝ例なりといへども。各忠勤既に三朝を歴て怠らざるが故。  當代には誓詞を御覧ずるに及ばず。 又我年やゝ長ずと雖どもいまだ男子を設けざれば。早々嗣子を定むべしと思う事久し。こは後日更に議定すべき旨面令ありて奥にいらせ給ひぬ。 (『国史大系39 徳川実記第2篇』寛永十二年六月 から)
 七月朔日月次拝賀例のごとし。』奥にて見参する普第衆をめして。今度諸大名ことごとく交替命ぜらるゝといへども。此輩は別儀もて滞府せしむれば。召させ給ふ時速に参殿すべき旨面命し給ふ。 (『国史大系39 徳川実記第2篇』寛永十二年七月 から)
武家諸法度現代文
 武家諸法度の現代文を引用しよう。
 一、大名・小名、在江戸交代、相定むる所なり。毎年夏四月中参勤致すべし。従者の員数近来甚だ多く、且つ国郡の費、且つ人民の労なり。向後、其の相応を以て之を減少すべし。但し、上洛の節は教令に任せ、公役は分限に従ふべき事。 (『参勤交代』から)
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<藩財政が窮して日本社会が活性化した>  「(参勤交代は)国力疲弊の損害は御座候えども、其益はこれなし」
 とは、安政元(1854)年2月、松平慶永がときの老中・阿部正弘に、参勤交代の緩和を進言した建白書のなかの言葉である。
 このように参勤交代は、諸藩の国力を疲弊するだけの、害はあっても益のない制度である、というのが江戸時代以来今日まで続いている一般的な評価だが、はたしてそうであろうか。
周防・長門二ヶ国の領主毛利重就の宝暦2(1752)年の参勤を見ると人数549人、先行15人となっている。計564人である。
 これだけの人数が約30日ほどの日数をかけて2年に一度の割合で、江戸と毛利藩藩庁のある萩(山口県)の間を行き来するのだから、そのための出費は大変なものであったろう。参勤交代は大名たち、とくに日本の外周に領国をもっている外様大名に出費を強いて、謀反をおこす力をなくすために実施したのだ、 という説がまことしやかに出るのも、あながち無理からぬところである。
 貞享4(1687)年、毛利藩主吉就の参勤道中
萩  3月11日 午前7時ごろ駕籠で出発
山口       午後2時ごろ御茶屋着。泊
山口   12日 午前7時ごろ出発
三田尻     
三田尻  13日 悪天候のため船中泊
三田尻  14日 雨がやんだので午後2ごろ乗船
上ノ関  15日 押し船で着。船中泊
上ノ関  16日 午前7時ごろ出船。2時ごろ家室着
亀が首      午後7時ごろ芸州亀が首着。船中泊
亀が首  17日 午前6時すぎ出船
高崎       午後2時ごろ着
高崎       4時ごろ潮時がよく、順風だったので出船
鞆ノ津  18日 夜も走って午前3時ごろ着。泊
鞆ノ津      午前6時ごろ出港
下津井      午後2時ごろ入港。潮が悪いため潮待ち。船中泊
下津井  19日 潮待ち。船中泊
下津井  20日 昼ごろ出港。

 毛利吉就の参勤日程表を見れば判るように、海路をとる場合は潮待ちということはあっても、原則的には1ヶ所に2泊することなく、朝7時には出発して夕方まで移動するのだから、徒歩のお侍はもちろん、 駕籠に乗った殿様といえども大変な肉体労働で、その苦労は並大抵のものではなかったろう。
 毛利藩の参勤交代の規定(享保10年)によると、毎朝、一番拍子木で朝支度をはじめ、二番拍子木で御供揃をし、三番拍子木で出立というルールになっているから、仮に朝7時に出発ということになると、少なくともそれより2時間は早くおきて、色々準備を始めなければならなかったろう。
 そのうえ4月1日は朝、池鯉鮒(ちりゆう=知立)をたち、途中岡崎で昼食をとり、夜は赤坂宿に泊る予定だったが、たまたま岡崎で幕府のお金道中にかちあってしまい、同所で昼食をとることができなかった。 結局その日は昼食抜きで歩いたか、それとも岡崎以外のところで臨時に食べたのか、そこらあたりは記録にないので判らないが、ともあれ500人をこえる集団の移動であるので、たとえどこかで食べることができたとしても、大変な騒ぎであったことは疑いない。 また有名な大井川の渡河は4月4日の午後になっているが、この時川越え人足を2465人もつかい、一人につき銭32文ずつ支払っている。ともかく参勤は殿様にも家来にも大変で、自らも越前福井からの参勤者であった松平慶永が、参勤を「国力疲弊の損害は後座候えども、其の益はこれない」といったのは無理からぬところである。
 しかし視野を大きくしてみると参勤交代のプラス面の大きさも見落とすことはできない。それは参勤交代のもつ富・文化・情報の攪拌均等化作用である。
 たとえば、富について考えてみると、江戸時代にはまだ今日のように、中央政府が国民から税金を取り、年金や投資などの形で国民に再配分するという機構はもっていなかった。つまり富を集めた者が、それを使わない限り、それは下々に拡散しなかったのである。 この視点から見ると、参勤交代は全国に散在する約2700の藩が、江戸を行き来する間に、旅費や経費の形でこまかく銭をまいて歩くのだから、富の拡散機能としてはこれにまさるシステムは他に考え及ばないのである。 同じことは、文化の交流や情報の伝播についてもいえるので、もしこの制度(参勤交代)がなかったら近世約300年の間に、個々の領主がつくる地域国家(藩)はもっともっと固定化して、日本の国民国家の形成はもっともっと立ち遅れていただろう。
 たとえば、江戸が創り出した日本を代表する文化=浮世絵の発展も参勤交代を抜きにしては語れない。すなわち、参勤交代で江戸へやって来た地方武士たちが、郷土への手土産として、手軽で都会的雰囲気のある浮世絵を買い求めたたわけであり、彼らの購買がない限り、浮世絵はあそこまで発展することはなかったと言えるのである。 また、江戸時代に盛んに出版された名所案内記も参勤交代で江戸に来た武士たちの需要であった。
 ”可愛い子には旅”とか”百聞は一見にしかず”とかいう言葉がある。旅は文化の牽引車である。たとえそれがある程度の副作用を伴うにしても、旅は人や文化の交流、経済の活性化に大きな役割を果たす。 国家的な旅の制度としての”参勤交代”を、このあたりで見直すべきであろう。 (『史話 日本の歴史17』大石慎三郎「参勤交代は日本経済を活性化させた」から)
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<歴史学者の作業>  このシリーズ「趣味の贅沢と市場経済」の江戸時代の捉え方は、「農民は土地に縛り付けられていた封建時代で、武士以外の被支配階級であった人びとは苦しい生活を強いられていた」との歴史観とは違う。こうした歴史観の違いをどのように考えたらいいのか?ここで参考になる文章があったので引用することにした。
 そもそも歴史学というのは客観的実在(史実)の学であって、文学のように筆者側に自由な創造と空想が許されていない。しかしそうかといって史実をただ並べただけでは歴史とはならない。 われわれに与えられている史実とは歴史実態が時空の浸食作用によって、バラバラにつきくずされた残骸であり、また断片の無秩序な集積に過ぎないからである。
 歴史学者の作業とは、この断片を考証検討し、失われた部分を含めて実態を復元する作業といえるだろう。したがって、そこでは筆者の歴史そのものへの認識が、また若干大時代的な言葉を使えば、歴史に対する筆者の哲学が大きな意味あいをもつのである。つまり、多様な史実の取捨は筆者の歴史認識にまかされているのである。 (『江戸時代』から)
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<主な参考文献・引用文献>
参勤交代道中記 加賀藩資料を読む                  忠田敏男 平凡社       1993. 9.14
国史大系39 徳川実記第2篇                   黒板勝美編 吉川弘文館     1964.10.31
参勤交代                              山本博文 講談社現代新書   1998. 3.20 
史話 日本の歴史17 江戸の誕生      梅原猛・尾崎秀樹・奈良本辰也監修 作品社       1991. 4.15 
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25
( 2005年6月6日 TANAKA1942b )
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(26)道中費用はどうだった?
藩の財政を圧迫

江戸時代、参勤交代は最大級の公共事業であった。幕府成立直後には江戸市中建設のための普請があったが、これは恒久的なものではなかったし、時には参加しないで済んだ藩もあった。これに比べて参勤交代は幕末まで続く、それぞれの藩の大きさに応じて出費も違う大きな公共事業であった。 藩の出費が大きかった、ということは、それだけどこかの誰かの売上げが大きかったことになる。その参勤交代、実態はどのようなものであったのか、幾つかの文献から引用してみよう。
<参勤交代と本陣>  大ぜいの人をひきつれてゆく旅を大名旅行という。大名の旅行というものは実に多くの家来、供人をつれて歩かなければならなかった。 将軍の旅行となればもっとおびただしい人が動く。徳川吉宗が日光へ参拝したときには供奉の者だけで13万3000人に達したという。したがってその行列のために狩り出された百姓町人の数も22万8306人、馬の数が32万5940頭にのぼった。 それだけの者が自分の仕事をやめて、ただで奉仕しなければならないのである。
 大名の行列はその何十分の一であったにしても、大名は一人ではない。それが参勤交代のために1年は江戸へ、次の年は国元へ旅をする。大名も徳川幕府以前から大名であった外様大名、徳川家に仕えて大名になった譜代大名、それも関東以外に住むものと関東に住む者にわけ、入替りをする月を区別した。 外様大名は東西に分けて、毎年4月を入替りとし、譜代大名は6月、関東に住む譜代大名は在府在国を各半年ろし、8月に交代するものと、2月に交代するものにわけた。
 それも初めの頃は質素な旅であった。彼らはそれまで長い間戦争をし続けて来た。だから野営することにも馴れていたし、まずい食物にも馴れていた。だから国許と江戸との間を往復するにあたっても、道中の宿場の民家のうち庄屋などしている大きい家を借りて大名はそこにとまり、家来は付近の農家に分宿したものであった。 それも、その土地の領主に一々諒承を得てのことであった。ところがそういう家がしだいに宿のようになって来た。百姓たちは大名をとめるからはじめは大名宿と言ったが、寛永年中から、本陣というようになった。
 もともと本陣というのは戦のとき大将の居るところである。参勤交代も大名には軍旅の意味があった。だが大名旅行が華美になるにつれてその宿をつとめる本陣の建物もりっぱになって来たのである。 そして大名の往来の盛んな東海道筋では1つの宿場に本陣が1軒ではすまず、箱根や浜松には6軒もあった。そして東海道全体では53宿に111の本陣があった。他の街道はだいたい1宿1本陣で事足りた。
 本陣がふさがってしかも大名がもう1組やって来たというような場合には脇本陣を利用した。これは建物も設備も本陣よりはおとり、一般に本陣の数より少なかったのであるが、例外はあって、中仙道(中山道とも書く)の大宮宿のように本陣は1つなのに脇本陣」が9もあった例がある。 東海道では73の脇本陣があり、脇本陣の多かったのは小田原・桑名4軒、保土ヶ谷・戸塚・三島・吉原・江尻・岡崎が3軒であった。一般には1宿1軒というのが普通である。
 本陣や脇本陣に泊まる資格のある者は、勅使・院使・親王・門跡・公家・大名・旗本であったが、おなじ宿場に2人の大名がぶつかることにないようにできるだけ注意して日程をたてたが、実際には日程通りにゆかず、川止めなどがあると川のほとりの宿場には幾組もの大名がかちあうことがり、その宿割りには頭を悩ましたものであった。
 ところが大名には多くの家来や供人がつきしたがう。「護花園随筆」によると次のような人数であった。
  20万石以上 馬上15〜20騎、足軽120〜130人、中間250〜300人
  10万石以上 馬上10騎、   足軽80人、     中間149〜150人
  5万石以上  馬上7騎、    足軽60人、     中間100人
  1万石以上  馬上3騎、    足軽20人、     中間30人 
 すなわち、多いものになると一行450人にのごるものもあったわけである。こういう大きな一行になると、小さい宿場では泊まることができない。足軽・中間の泊まる場所が得られなくなるからである。1万石ほどの小大名でも60人近い人数の旅である。
 しかし大名の旅行は街道沿線の者にとっては儲かる旅人であった。中間は大名直属の人夫で、一種の通し人足になるえあけである。だから宿場や助郷の者がその人足として狩り出されることは少ない。仮に出ても無賃ではない。長持や明け荷を運ぶために宿継人馬が徴発せられても規定の賃は払われたものである。 ただ箱根だけは道中も長く坂も急で、中間たちだけで峠を越えることが難しかったから、臨時の人足を多く使った。しかも箱根宿には助郷がなかったから雲助を多く使っていた。 (『旅の民俗と歴史1 日本の宿』から)
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<慢性赤字の原因>  参勤交代で大名が江戸と国元を往復する旅行は天下普請と同様、やはり軍役と同じ扱いとされた。たとえば、禄高と格式に応じた供揃いと道順、日程で旅行をしなければならない、などといった厳しい条件が付けられていた。 供揃いとはそのまま戦闘行為に移れる武装した行軍隊列のことで、武器・弾薬・食糧などは現地調達を許さず、すべて持ち歩くのが原則だった。現地調達が可能なものは飲料水と薪程度だった。ここが、実態として大名どうしで取引行為を行っていた天下普請の場合と異なる点だった。
 参勤交代も含めた江戸在府に必要な経費は、大名の実収入の50から60%を占め、その費用は各大名にとって大きな負担となっていた。
 しかも、江戸屋敷で消費したり参勤交代の道中で必要となる米はともかくとして、これらの財政支出のほとんどは貨幣で支払うものだった。貨幣経済が本格的に成長していった江戸時代のなかで、米本位の収入構造の下に置かれていた大名にとって参勤交代制度は文字通り「金食い虫」だった。 大坂の大商人から多額の借金をして首が回らなくなる藩も珍しくなかったが、借金のもとんどは江戸屋敷の運営費や生活費に注ぎ込まれた。苦労して工面した貨幣も集めるそばから右から左に消えて行く仕組みだった。
 しかし、耕作適地があらかた開発し尽くされていた当時、農地拡大による年貢増収はほとんど困難だったため、一度借り入れた借金を返済することは難しかった。質素倹約に努めて支出を切り詰めても、参勤交代や江戸での諸活動の手は決して抜けなかったし、農業生産性の向上による年貢増収も厳しかった。 結局、参勤交代関係の義務的経費は大名財政の硬直化や慢性的な赤字体質の最大の原因になっていた。その反面、大名が苦しくなる分だけ、江戸での消費は拡大し、貨幣は町人層に吸収されていった。
 江戸屋敷関係費用の最大の支出先は、幕府や他の大名との交際費だった。これは現在の企業が情報収集活動や営業活動に使う費用ともいえるものだった。この情報収集や営業活動の目的は、思いがけない天下普請や役務を命じらられないための”根回し”のための費用もむくんでいた。、あた、数年に一度の割合で確実に命じられる天下普請などの御手伝大名を大名どうしで調整して決める場合もあった。
 また加賀前田家、筑後黒田家、薩摩島津家など主として外様大名の大藩の場合、御手伝普請担当の子会社ともいうべき2ないし3の支藩を設け、天下普請の時の万が一の事態の累が本藩に及ばない工夫をすることもいわば常識だった。「忠臣蔵」の浅野本家と赤穂支藩の場合はその好例だが、なぜかそのことを今まで指摘したものはほとんどない。 どうしても御手伝を避けたければ、幕府の担当役人に”しかるべき”運動をすることはことより、他の大名家の諒解を予め取っておく必要があった。この場合、大名家側の相談と幕府の担当者などとの事前調整=談合によって、天下普請を担当する大名が決まるシステムだったと考えられる。この辺りの事情は、現在の公共工事にからむゼネコンの談合を想像すれば間違いはないだろう。 建設談合の場合でも「利益の薄い工事や赤字工事が発注されると関係者が事前調整を行って、その工事で”泣く”業者を決め、”泣いた”分は後日の工事で補填するケースがある」との新聞報道が盛んにされている。つまり、幕府やほかの大名家との交際の上手下手は、大名家の運命を左右するほどの重要なものだった。
 これらの活動を実際に担当したのは、江戸屋敷に常駐した「留守居」役と呼ばれる者たちだった。彼らは現在でいえば「外交官兼東京事務所長」にも相当する。留守居役の活躍の舞台は高級料亭や吉原であり、彼らの交際に伴う多種多様の贈答品は、書画・骨董・工芸品をはじめ料理・服装などのすべての分野にわたったため、それらの分野の産業が江戸で異常なまでに発達した。
 さらに、殿様に随行して地方からやって来る大勢の家臣団も江戸の消費需要を継続的に拡大させた。これら多数の家臣は主君から俸禄を支給されて生活費にあてる、文字通りの「サラリーマン」であり、江戸でも国元でも消費生活者として経済生活をおくる存在だった。 これを現代社会にあてはめてみると、さしずめ海外転勤を命じられた単身赴任者の大集団が、転勤先の生活で金を落とすこととさして変わりはない。
 江戸時代広範ともなると、葛飾北斎や安藤広重などが活躍し、『富岳三十六景』『江戸名所百景』『東海道五十三次』などの浮世絵が盛んに出版された。江戸の地図や地誌も同様だった。 これらは、けっこう高級な江戸土産であり江戸や道中のガイドブックでもあったし、参勤交代でえどに集まった武士たちが国元への土産として買い求める商品だった。
 またえどでの流行や最新情報も参勤交代を通じて日本国中に伝えられた。たとえば山王権現(日枝神社)と神田明神の祭礼は、「天下祭」といって将軍も見物する江戸最大の祭礼だった。 しかもその祭礼行列の中の「付け祭」(大奥の特命で各氏子町が負担する芝居や踊舞台のこと=その年の最新モードやファッション、そして長唄、常磐津などの新曲の発表の場として機能した)は、「天下祭」の目玉であり、「付け祭」があるために天下祭は「御用祭」とも呼ばれた。 この祭の形式はほとんど大名の国元に移植されている。「付け祭」での流行は全国のファッション動向に強く影響した。使われた山車も古くなると中古品として地方に売却された。現物でなくとも江戸の山車を真似して地方で製作される場合も多かった。
 これらは江戸から全国に向けた情報や文化の伝達だが、全国からもさまざまな情報がもたらされた。諸国から集まる武士どうしのコミュニケーションによって、江戸では他国の情報にも接することができた訳だった。
 このように江戸は、ヒト・モノ・カネおよび情報が全国から集まり、それらが交流を重ねるなかから新たな価値を生み出す場、すなわち「いちば」としての機能をもっていた(鈴木理生著『江戸の都市計画』三省堂)。これは江戸時代に限らず、現在の東京の場合も同様で、こうした機能こそが都市の最も基本的な部分をなすものといえる。 (『資本主義は江戸で生まれた』から)
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<大名行列の道中費用>  参勤交代は、大藩の普通の年で、2000人から、多い年で4000人にのぼる供の者を引き連れ、十数日を要する大名行列であった。いったい、どれほどの費用がかかったものであろうか。加賀藩の記録から見てみよう。
 今日2000人の人間と馬200疋が、仮に金沢から東京まで12泊13日の徒歩旅行を試みたとする。全員が1泊6000円の民宿に泊まったとしても、13日では宿泊代だけで2億円の勘定になる。
  1泊2食宿泊費    2000人X12泊X6000円=1億4400万円
  昼食費        2000人X13食X600円=   1560万円
  馬1泊2食宿泊費   200疋X12泊X1万5000円= 3600万円
  馬の昼食費      200疋X13食X1500円=    390万円
                            計1億9950万円 
 宿泊費のようにサービス料的な性格の多いものの値段を、江戸時代と現代とで較べると、人件費の著しい値上がりから現代の方が割高であろうが、旅籠賃、即ち宿泊費だけでも2億円ほどかかる勘定になる。
 次の例は、文政元(1818)年、12代斉広が帰国に際し糸魚川宿に宿泊した時の実録である。
   旅籠賃
  一 銭 32貫800文  上 200文一夜分 163人 主人分
  一 銭 93貫60文   中 180文 517人 仲間・若党・鑓持等
  一 銭 214貫880文 下 160文 小者・通し人足 1343人
  一 銭 17貫文     馬 500文 34疋
  一 銭 25貫200文  本陣 280文 90人 藩主付きの人
  一 銭10貫文      本陣 馬 500文 20疋
               (但し本陣については推定)
  〆 392貫940文   (『糸魚川市史』)
 文化・文政期頃に、加賀藩が支払っていた旅籠賃の上の、「上 200文」の相場についてみてみよう。『東海道中膝栗毛』の続編になる『善光寺道中膝栗毛』の中に、西国から善光寺の参詣に出てきた巡礼20人ほどが旅籠賃を考証する場面がある。 宿屋の亭主が言う150文の定値に対して、巡礼の一行は、半値に近い、80文に値切ることを主張し、結局120文で宿泊する。
 また文化9(1812)年、越中国の石崎古近という人が、江戸へ旅した時の北国街道の旅籠賃は、およそ、150文であり、上野・高崎の高い旅籠賃でも172文であった。
 『善光寺道中膝栗毛』、あるいは二人の旅行記からみて、北国街道筋の旅籠賃は、団体の割引料金で120文ほどが相場と考えられ、高田のような城下町で、164文である。信濃の山村の宿場で148文も出せば、脇本陣暮らすの上旅籠に宿泊できたことがわかる。
 これらの例から、加賀藩が道中の旅籠・農家・寺などに北国街道で支払っていた「上の払」200文は、団体扱いで、しかも、民宿なみにしては、破格に高い旅籠賃であったと言えよう。
 加賀藩が支払っていた上のクラス200文という旅籠賃を、他藩の旅籠賃と比べてみよう。
 越後高田藩の榊原侯が、安永3(1774)年4月25日、上田宿に宿泊した時は、一泊160文で取り決めている。ところが賄い勘定の役人が来て、一人について4文を値切ったうえで、更に自分たち10人分の宿泊代を只にさせたので、結局、旅籠賃は一人あたり140文になった。
 天保13(1842)年の会津藩、道中奉行のお達しには御定旅籠賃を上が160文、中が130文、下が100文と定めている。参勤交代の道中で、各藩と旅籠との間で旅籠賃についてのトラブルは、随分あったらしい。 宿札を打った後で権力にもの言わせ、旅籠賃を値切ることのないように注意した触令(『徳川実記』)が、度々出ていることから窺い知ることができる。
 一方、東海道筋の諸色は、当時も北国街道筋より1割から2割高かった。江戸時代の中期から後期にかけての東海道の旅籠代をみると、
  上宿で 172文から300文
  中宿で 148文から164文
  下宿で 100文から140文
程度であった。
 武蔵国、金沢(現在の横浜市金沢区)の瀬戸神社の佐野と言う神主が、天保15(1844)年に伊勢神宮から上方旅行した際の「道中入用の覚」に記載のある旅籠賃は、
  200文 大磯 清水 秋葉 大坂 橋本 金比羅
  180文 桑名 津 堺 大津
  172文 丸子 掛川 名古屋 奈良 法隆寺
とある。そのほかに箱根の芦ノ湖が温泉宿のためであとう、230文と高かった。 
 ところが、加賀藩が東海道を通行した時には、各々上・中・下のランクとも北国下街道の料金の1割増を支払っている。以下のような記録がある。
    覚
  一 220文     上 旅籠代 壱人分
  一 200文     中 旅籠代 壱人分 
  一 180文     下 旅籠代 壱人分
  一 550文     乗馬 壱疋分
     但し 2貫文  干草
        1升   堅大豆
        3升   粉糖
        3升   堅大豆 但し干草これ無きヶ所
   右の内裾湯、寝藁用意相触れ置き候事
   当、御帰国御供人旅籠代等、享和二年御通行の振合を以て右の通り、宿々へ相触れ置き候条、此の段それぞれ仰せ触れられ候様いたし度御座候、以上
     文化十一年二月二十二日
                      (「東海道御通行之節義触留」)
 この他、道中にかかる費用があった。草鞋銭が四文から十六文で、それを4,5日ごとに履き代える。大名行列の時は、荷物を担いでいる者は擦り切れるのが早く4,5日おきという訳にはいかなかった。 茶屋の酒代は1合が15文から20文。宿のあんま代は東海道筋は各地とも協定をしたように24文であった。こういう費用も合算すると馬鹿にならない数字になったのである。 (『参勤交代道中記』から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<華美になる大名行列>  幕府は参勤交代を制度化する時から、その従者を少なくするように命じていた。しかし各大名は、次第にその華美を競うようになり、従者の人数も増加させた。 元禄3(1690)年にオランダの東インド会社の医師として長崎の出島に赴任したドイツ人のケンペルはその著『江戸参府旅行日記』で、「彼等(諸大名)は旅行毎に廷臣全部を従ひ、自分も財産の許す限りを尽くして人数多き、費多き行列をなし、 威風堂々として練り行くを常と」し、さらに「最も威望ある諸侯即ち諸大名は凡そ2万石の同勢と推せられ、小名の行列は其半」分であると記している。誤算や誇張もあるが、外国人にとってはこの大名行列は驚嘆であったはずである。
 こうした状況に対し、幕府はしばしば従者制限令を出したのであるが、ほとんど守られなかった。実際に各藩の大名行列をみると、加賀藩では多い時には2500人に達し、行列全体が一宿を通貨するのに3日も要した場合があるという。 薩摩藩では寛永12(1635)年には1240人の行列であったという。10万石に加増された津山藩主松平斉孝の「津山入国行列図」には、全体で800人余の随行者が描かれている。
 幕府は享保6(1721)年10月、改めて参勤交代の際の従者制限令を出した。それによると、20万石以上で役400数十人、5万石以上で馬上7騎・足軽60人・中間100人である。 もちろんこれらの従者の他に、通し日雇い人足や宿場で雇った人足・馬もいる。
 幕府による従者制限は令は多くの効果を挙げ得なかったが、現実問題として参勤交代には多大の費用がかかったから、大名はある程度の抑止を迫られた。 参勤交代に要する費用については幾つかの試算があるが、天保2(1831)年の紀伊藩では年間総収入金34万両のうち、江戸〜和歌山間の旅費が金1万2930両を占めている。 薩摩藩では藩財政の悪化のために次第に従者を減じ、寛延2(1790)年には訳920人、明和2(1765)年には507人、寛政2(1790)年には559人と少し増やした。 (『日本史小百科<宿場>』から)
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<道中の話>  大名、旗本、それに郡代、代官などが道中すると、一ばん被害をこうむるのは、城下、宿場などにある本陣宿、脇本陣であった。 本陣はその土地の旧家で、大名などの前に出て挨拶をしなくてはならないし、あるじは行儀作法を心得ている。本陣は、ちゃんと門をかまえ、玄関に式台があり、大名を泊める設備はととのっている。 そのかわり、台所の豊かな大名はともかく、裕福でない大名の道中奉行は、泊代は置いても、茶代などは出さない。たちの悪い家来がいると、泊代以上の飲み食いをやった。
 公用で街道を往来する代官の宿泊料は、徳川中期で、一泊35文、昼食は17文、と決まっていたが、やはり本陣か本陣脇で泊まるので、それでは足りるわけがない。すべて、泊めるほうの持ち出しであった。
 代官は幕府の御家人だが、郡代は旗本がつとめる。いずれも幕府直轄の天領地を治める役目で、その土地からとれる米は江戸に送り、浅草の米蔵におさめて、幕府の旗本たちの生活費になる。 道中では威張っていたが、代官というのは、テレビで扱っているように、任地でああいう悪政を行ったら、すぐお役目御免になる。5万石から10万石という、大名の知行地と同じ広さの天領地を、わずか20人の下役と共に治めるのだから、代官もらくではない。 本俸は150俵、ほかに役料が少し加わるだけなので、悪いことをやりたくなる代官もいただろう。
 大坂や京都、もっと遠国へ公用で出かけたり、江戸に帰ってくる途中の旗本たちの中には、女好きな連中も多かった。本陣宿や脇本陣に泊まると肩が凝る、というので、飯盛旅籠で女を抱いて寝る。朝、出立のとき、宿代の受取を出させる。200文で泊まっても、500文と書かせ、江戸へ帰って上役からその分も受け取るが、女のほうは乗り逃げをする。
 九州小倉の小笠原家が、東海道を通ったとき、大津の本陣宿で控えておいた通し人馬賃銀目録帳というのがある。延享2(1745)年の記録だが、小笠原家も道中で人足を傭っていた、というのが、それを見るとわかる。大名の道中の費用も、生やさしい額ではない。
 国許で人足を集め、そのまま乗物や荷を担がせ、江戸まで道中を続けるのは、よほど台所の豊かな大大名でないと、出来ないことであった。西国のある大名の行列が、江戸へ出る途中、宿場宿場で人足たちを傭った。だが、箱根を越えるころ、道中奉行も金がなくなり、人足の賃銀を踏み倒してしまった。 ところが翌年、その大名が帰国の途中、箱根へかかると、手ぐすね引いていた人足は、おびただしい荷物を担いだものの、峠の上で荷をほうり出し、さっさと逃げ戻った。山道に散乱した荷は、家中の侍や子者たちが担いで、ようやく峠をおりた。あいにく下情に暗い殿様だったので、道中奉行を叱りつけた。行列を見送ったあと、道中奉行は峠の上で、腹を切って死んでしまった。 (『史話 日本の歴史17』村上元三著「道中の話」から)
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<主な参考文献・引用文献>
旅の民俗と歴史1 日本の宿                     宮本常一 八坂書房      1987. 4.30
資本主義は江戸で生まれた                      鈴木浩三 日経ビジネス人文庫 2002. 5. 1 
参勤交代道中記 加賀藩資料を読む                  忠田敏男 平凡社       1993. 9.14
日本史小百科<宿場>                       児玉幸多編 東京堂出版     1999. 7.19
史話 日本の歴史17 江戸の誕生      梅原猛・尾崎秀樹・奈良本辰也監修 作品社       1991. 4.15 
( 2005年6月13日 TANAKA1942b )
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(27)「総費用」とは「総売上」
参勤交代が通貨流通速度を速めた

参勤交代とは徳川幕府が地方の武力勢力を意のままにコントロールするために制度化されたのもであった。「参勤交代とは、諸大名の財政支出を多くして、謀反を起こす力を削ごうとするもの」との解説もあろうが、幕府はそのようには意図していなかった。 初めの内は諸大名ともその威厳を保つために豪華な行列を組んだ。しかし経費がかさむためにいろいろとケチり始めた。今まで歴史で扱うのはこうした出費の面ばかりが多く、大名行列によって潤った人たちのことが話題にならない。「総費用」とは「総売上」なのだが、「総売上」として取り上げた史料は見当たらない。
 MV=PY ・・・・・・ただし、M=貨幣量 V=貨幣の流通速度 P=物価水準 Y=実質国民所得
 上記貨幣数量説に当てはめれば、参勤交代は「V=貨幣の流通速度」に影響を与えたと考えられる。しかも貨幣を使ったのは江戸だけではなく、国元から江戸間での街道で使った。全国の大名が江戸への道すがら、貨幣を流通させた。この経済効果は大きい。
 大名行列のために諸国の宿場町が栄えた。これが庶民の旅を容易にする効果もあった。公共投資の乗数効果ににて、大名行列の貨幣ばらまきが庶民の旅を促進し、さらに貨幣の流通速度を早めることになった。
 参勤交代によって江戸が情報交換の場になった。直接の経済効果はなかったにしても、これは大きい。参勤交代によって街道筋での情報量は非常に大きくなった。オランダ人は長崎では出島からなかなか出られず、情報は拡散しなかったが、江戸ではかなり自由であった、との指摘もある。 江戸にいれば異国情報も入手できた。地方の武士にとって、参勤交代で江戸へ行くのは苦痛ではなく、むしろ行きたがったのではないだろうか。現代にたとえれば、地方の企業で東京への転勤は出世街道への出発点、と同じなのだろう。 こうしたことも含めて参勤交代の経済効果を計算したら面白いだろうと思う。 ただし、アマチュアには荷が重すぎる。多方面から史料を集めて検討したら面白いものが出来るだろうと思う。視野狭窄でないエコノミストが出てきてチャレンジすることを期待しよう。
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 大名は参勤交代の際には「本陣」に泊まった。その本陣が明治になってからどんどん解体して跡を残さなくなった。特に東海道でそれが激しかったのは、それだけ東海道では大名行列の経済効果が大きかった事を示す事例と言えよう。そのことについて宮本常一の著作から引用しよう。 宮本常一は1907(明治40)年山口に生まれた民俗学者。1981(昭和56)年に亡くなるまで日本各地を旅した。
 「宮本を物心両面から支えたパトロンの渋沢敬三が、宮本の業績を称していった言葉は有名である。「日本の白地図の上に宮本くんの足跡を赤インクで印していったら、日本列島は真っ赤になる」 との評価もあり、「旅」を扱うときに忘れてはならない存在だと思うので、その著作の一部をここで引用しよう。
<参勤交代で成り立った本陣>  豪華な旅をすることを大名旅行という。しかい大名旅行がどういうものであったかを知っている人はもう少ない。その大名旅行をいまさら言あげして見るのもどうかと思われるけれども、昔大名の泊まったという本陣やそれに類するものが、全国にまだ100近く残っている。 そのはじめは1000近くもあったと思われたのだが、明治以来どんどん解体して跡を残さなくなった。とくにそのはんはだしいのは東海道で、昔の面影をそのまま残しているのは滋賀県草津町の田中本陣くらいであろうか。 東海道が明治以降の変遷がとくにはんはだしかったためと思われるが、大名の通行が多くて、大名に泊まってもえあうだけで生活のたてられたためであると思う。
 東海道以外では通過する大名も少なかったから本陣だけでは生計はたたない。たいてい本業をもっていた。そのことが家を支えて本陣がかなり残っていたのである。
 本文の中でも触れたことであるが大名は江戸へ妻子をおき、1年は江戸、1年は郷里で生活することになっており、1年は参観、次の年は下向と、毎年旅をしなければならなかった。それが特別の宿すなわち本陣に泊まり、一般客は泊めなかったのだから、本陣のけ遺影も容易ではなかったと思われるが、 それでも大名がこれらの本陣を支えた力は大きく、大名のいる間本陣のつぶれたものはほとんどなかったが、参勤交代がやむと多くの本陣がみるみるうちに衰え、維持できなくなって解体し、その一家も土地を離れてしまって、跡形もないというのが大半である。
 いま残っている100近くの本陣も、それがすべて完全であるわけではなく、完全なものはその半分にも満たない。そのうち60近くのものを、足で歩いて確かめ、写真にも撮って来たし、聞取の取れるものも取って来て、文献のあるものも確かめた。
 本陣の中には今にも崩れそうになったものもある。門だけ残ったもある。大名の泊まった上段の間のみを残したものもある。そしてそのうち消えていくものが少なくないのであろう。 記録するには少し時期が遅れたようであるが、こうして本にまとめておけば、古い豪華な旅の様子をしのぶことができるばかりでなく、今の旅とも対比することができる。 (『旅の民俗と歴史2』から)
<参勤交代での多額の雑費>  大名の旅、それがどういうものであったかはいろいろの書物に書かれている。そしてそれが沿道の農民たちを苦しめた助郷の制度については、古くから論じられて来ている。しかし、それは大名自身にとってもわずらわしいたいへんな旅であった。 そのことについて、大名川の記録は萩藩毛利氏のものが、山口文書館に多数保存せられている。ある日私は石川卓美氏に案内されて、文書館の書庫の中で、これらの史料を見せてもらって驚嘆した。しかしそのすべてを討究することは今の私には時間の上から言って不可能に近い。そこでその一部を紹介して、志ある人の忍耐づよい研究を期待したいと思っている。
 宮本常一はこのように始まる文章で、毛利吉就の元禄6年の参観について書いている。その中から、参勤交代に伴う雑費・雑用について抜き出して引用してみよう。
 家中の武士たちは市中から町なずれの大屋縄手あたりまでの沿道にならんで、主君の旅のつつがないことを祈りつつ見送った。一行はそれから山二つをこえて昼まえには佐々並という所へついた。そこには殿様のお茶屋があり、そこでしばらく休んだ。 すると東条三郎兵衛という者が熨斗をさしあげた。やはり旅のつつがなきことを祈っての進物である。またおかん様の使生田権右衛門から杉重1組、名酒1徳、いわを様の使勝木彦太夫から鶉の味噌漬け1器をさしあげている。(中略)
 なお東条三郎兵衛からはしじみ貝焼1鉢、山芋1折が進上されているが、とにかく見送りにあたって、餞別に品をおくるならわしであったが、きわめてつつましいものであったことが知られる。
 一行はお茶屋での急速をおえると、また行列をととのえ一ノ坂峠をこえて、午後5時には山口についた。そこにもお茶屋があって宿所になる。その日早速山口にある伊勢・多賀・八幡・三ノ宮・厳島・諏訪・山王・祇園・今天神・熊野の社に名代をたてて参拝させ旅の無事を祈り、それぞれ金子100疋(1疋は銭10文または25文)ずつを献納した。すると神社の方からは代表の一人がお守札を持って来た。(中略)
 いっぽう妙見・山王・愛宕へはそれぞれ代表をたて、御初穂として金100疋ずつを包み、また釈迦堂へも金100疋、宝乗坊へは銀1枚をつかわしている。(中略)
 六日には国分寺へまいって護摩をたいてもらっている。その初穂として銀5枚を献納した。そのほか薬師堂へ金100疋、西念寺の三三体観音へ銀1枚、国分寺へは無紋の呉服2つ、国分寺隠居へは銀3枚、天満宮へは上銭2貫文を奉納している。
 まったくわずらわしいまでの配慮であり贈答である。書ききれないから省略した部分が多きけれども、これらのことの使者のおびただしい往来があり、挨拶があり、また御馳走のふるまいがある。そして挨拶の使者をよこした重臣に対してはお返しとして、羽織・呉服などがそれぞれつかわされているのであるから、大名の方も道中とは言いながら、あらかじめ用意して持って行かなければならないわけである。 (『旅の民俗と歴史2』から)
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<参勤交代見直し論>  参勤交代が貨幣の流通速度を早めたのは容易に理解出来るのだが、具体的な数字はつかめない。いくつかの藩の参勤交代の費用を計算し、それをモデルに全体を推計しればある程度の数字はつかめるかも知れないが、アマチュアには荷が重い。せいぜい関係するような文章を引用して皆さんに想像してもらいましょう。と言うことで、今までに引用した文章をもう一度ここに掲載することにした。
 参勤交代も含めた江戸在府に必要な経費は、大名の実収入の50から60%を占め、その費用は各大名にとって大きな負担となっていた。 しかも、江戸屋敷で消費したり参勤交代の道中で必要となる米はともかくとして、これらの財政支出のほとんどは貨幣で支払うものだった。貨幣経済が本格的に成長していった江戸時代のなかで、米本位の収入構造の下に置かれていた大名にとって参勤交代制度は文字通り「金食い虫」だった。大坂の大商人から多額の借金をして首が回らなくなる藩も珍しくなかったが、借金のほとんどは江戸屋敷の運営費や生活費に注ぎ込まれた。苦労して工面した貨幣も集めるそばから右から左に消えて行く仕組みだった。 しかし、耕作適地があらかた開発し尽くされていた当時、農地拡大による年貢増収はほとんど困難だったため、一度借り入れた借金を返済することは難しかった。質素倹約に努めて支出を切り詰めても、参勤交代や江戸での諸活動の手は決して抜けなかったし、農業生産性の向上による年貢増収も厳しかった。結局、参勤交代関係の義務的経費は大名財政の硬直化や慢性的な赤字体質の最大の原因になっていた。その反面、大名が苦しくなる分だけ、江戸での消費は拡大し、貨幣は町人層に吸収されていった。 (『資本主義は江戸で生まれた』から)
 参勤交代は、大藩の普通の年で、2000人から、多い年で4000人にのぼる供の者を引き連れ、十数日を要する大名行列であった。いったい、どれほどの費用がかかったものであろうか。加賀藩の記録から見てみよう。
 今日2000人の人間と馬200疋が、仮に金沢から東京まで12泊13日の徒歩旅行を試みたとする。全員が1泊6000円の民宿に泊まったとしても、13日では宿泊代だけで2億円の勘定になる。 (『参勤交代道中記』から)
 たとえば、富について考えてみると、江戸時代にはまだ今日のように、中央政府が国民から税金を取り、年金や投資などの形で国民に再配分するという機構はもっていなかった。つまり富を集めた者が、それを使わない限り、それは下々に拡散しなかったのである。 この視点から見ると、参勤交代は全国に散在する約2700の藩が、江戸を行き来する間に、旅費や経費の形でこまかく銭をまいて歩くのだから、富の拡散機能としてはこれにまさるシステムは他に考え及ばないのである。 同じことは、文化の交流や情報の伝播についてもいえるので、もしこの制度(参勤交代)がなかったら近世約300年の間に、個々の領主がつくる地域国家(藩)はもっともっと固定化して、日本の国民国家の形成はもっともっと立ち遅れていただろう。
 たとえば、江戸が創り出した日本を代表する文化=浮世絵の発展も参勤交代を抜きにしては語れない。すなわち、参勤交代で江戸へやって来た地方武士たちが、郷土への手土産として、手軽で都会的雰囲気のある浮世絵を買い求めたたわけであり、彼らの購買がない限り、浮世絵はあそこまで発展することはなかったと言えるのである。 また、江戸時代に盛んに出版された名所案内記も参勤交代で江戸に来た武士たちの需要であった。
 ”可愛い子には旅”とか”百聞は一見にしかず”とかいう言葉がある。旅は文化の牽引車である。たとえそれがある程度の副作用を伴うにしても、旅は人や文化の交流、経済の活性化に大きな役割を果たす。 国家的な旅の制度としての”参勤交代”を、このあたりで見直すべきであろう。 (『史話 日本の歴史17』大石慎三郎「参勤交代は日本経済を活性化させた」から)
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<主な参考文献・引用文献>
旅の民俗と歴史2 大名の旅                     宮本常一 八坂書房      1987. 6.30
資本主義は江戸で生まれた                      鈴木浩三 日経ビジネス人文庫 2002. 5. 1 
参勤交代道中記 加賀藩資料を読む                  忠田敏男 平凡社       1993. 9.14
史話 日本の歴史17 江戸の誕生      梅原猛・尾崎秀樹・奈良本辰也監修 作品社       1991. 4.15 
( 2005年6月20日 TANAKA1942b )
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(28)世界一旅行好きな江戸庶民
弥次・北コンビは人気ツアーガイド

「絹」に次ぐ贅沢である「旅」、大名は義務で「いやいや」やっていた。それに比べて、庶民は旅を楽しんでいた。関所はあったし、交通機関と言えば「徒歩」しかなかった。庶民には駕籠は自由に使えるほどではなかった。それでも庶民は旅をした。 「入り鉄砲に、出女」は関所で厳しく調べられ、女性の旅は想像に絶するほど困難なものであった。それにもかかわらず女性も旅をした。多くの旅日記も残っている。 「趣味と贅沢と市場経済」の「衣裳道楽」の次は「旅」。江戸庶民がどれほど旅を楽しんでいたのか、その辺から話を進めることにしよう。
<江戸の旅文化 前口上>
 人には、食欲や性欲と同じように「旅欲」なる欲望が内在している、とか申します。いえ、そう申しているのは、私めでございますが。
 人類の歴史をたどってみると、古今東西、人びとは旅を絶やすことはなかったはずです。ただ、旅欲なるもの、食欲や性欲ほど切実なものではありません。そして、その時代の社会的な環境によって、個人の旅欲はいちじるしく抑圧されることにもなります。 社会が政治的・経済的に安定していないと旅の発達はありえないことは、昨今のテロやサーズの例を引き出すまでもなく明らかでしょう。また、社会の安定期には旅欲がいちじるしく促進されることも、これまた10年ほど前のバブル経済時の例を引き出すまでもなく明らかでしょう。
 そのところで、旅は、ハレ(非日常)の消費行動、ということができます。もっとも、旅もさまざまあり、狩猟・行商・諸芸などをもっての生業の旅まで広義に含むと、その概念はあてはまりません。また、探検・冒険行や流浪の旅なども、そのかぎりではありません。ここでいう旅とは、あくまでも物見遊山の旅を対象にします。信仰や視察などの目的を含みながらも娯楽に多くを費やすところの、現代風にいえば観光旅行を対象にします。
 それは、当然のことながら、私用の旅が主流となります。ということは、庶民の旅が主流となるのです。
 江戸時代は、そうした庶民の旅が隆盛でありました。当時の日本は、世界で冠たる「旅行大国」であったのです。そのことは、ケンペルやジーボルトなどが記した江戸参府の紀行文からも明らかです。
 「一生に一度は伊勢参り」「かわいい子には旅をさせよ」「旅は相みたがい」などの言葉が、庶民の旅のありようを物語っています。伊勢参宮ひとつとってみても、現代の海外旅行の人口比にも匹敵するほどの人出がありました。しかも、それが江戸中・後期を通して持続されたのです。
 持続可能の「観光」がいかにむつかしいことか。ということから、江戸の幕藩体制を見直さなくてはならないでしょう。身分制度や年貢制度から庶民の生活は困窮をきわめた、という歴史観からは「江戸の旅文化」の実態は探りにくいのです。
 「ホンネとタテマエ」は、海外の日本研究者をして日本人の行動様式を知るキーワードともされます。江戸の庶民生活を知るにもそうです。タテマエの制度をくぐり抜けてのホンネの行動が許容されもした、江戸とはそんな時代であったのです。
 しかし、庶民の懐具合も気になるところ。そこでも、庶民はしたたかでありました。農間稼ぎ(作間稼ぎ)や駄賃稼ぎ、そうした副業収入は、おおむね年貢の対象外であったことにあらためて注目しなくてはなりません。それに、講組織と代参制度などの発達にもあらためて注目しなくてはならないでしょう。
 けっして、江戸がよかった、というのではありません。だが、少しひもといてみれば、江戸の旅からは、庶民のおおらかな笑顔が伝わってきます。たくましい旅欲が伝わってきます。
 私たちも、ここに「江戸がえりの旅」を試みてみませんか。不祥私めが、旗ふり役を相つとめまする。 (『江戸の旅文化』から)
<庶民の旅が可能になった時代>  徳川家康が江戸に幕府を開いてからおよそ200年後、お江戸は神田八丁堀あたりに住んでいた弥次郎兵衛(弥二と書かれていることもある)と北八(きた八・喜多八とも)というなまけ者が、箱根に向けて旅立った。 ご存じ十返舎一九の『東海道中膝栗毛』である。出版されたのは享和2(1802)年正月。
 このときの十返舎一九はまだ売れていない作家で、当たりをとったことがない。だから一九も版元の村田屋治郎兵衛も、これが大ベストセラーになるとは夢にも思っていなかった。 箱根関所を越えたところで終わるこの初編は、『浮世道中膝栗毛完』となっていて、この表題を見るかぎり続編が出される気配もない。
 ところが案に相違して、本は売れに売れた。版元にせかされて一九は大急ぎで続きを書き、岡部宿までの2編は『浮世道中膝栗毛後編』と題して享和3年に出版、さらにその1年後には浜名湖を渡って新居関所に着くまでを3編として出版した。 この3編から『東海道中膝栗毛』と、私たちが知っている題がつけられることになる。こうして弥次・北コンビの旅はシリーズ物として書き続けられ、伊勢をまわって大坂に到着したのは8編目のことで、江戸を出版してから8年目の文化6(1809)年、てんやわんやの東海道編はようやく完了したのである。
 しかし弥次・北の人気は衰えを知らず、読者の要望に応えて2人はさらに西へと旅を重ねることになる。以下『続膝栗毛』として、金比羅参詣、宮島参詣、基礎街道、木曽路より善光寺道、善光寺道中、上州草津温泉道中、中山道と続き、二人が各地をまわってえどの到着したのは、初編を出してから21年目の文政5(1822)のことであった。
 このシリーズがいかに人気があったかは、この後さまざまな文人によって、「膝栗毛」と題した類似作品が続々と書かれるようになったことでも容易に想像がつく。
 『続膝栗毛』と並行して、一九は姉妹編にあとるもう一つのシリーズ『方言(むだ)修行金草鞋(かねのわらじ)』も著している。奥州山家(やまが)の狂歌師である千久羅(ちくら)坊と鼻毛の延高(のびたか、下手の横好きとなっている巻もある)という二人の田舎者を狂言まえあしに、ホラ話と駄洒落をまじえながら各地の名所や風習を紹介するという趣向である。 初編は『続膝栗毛』の木曾街道と同じ頃の文化10(1813)年に出されている。この『金草鞋』も江戸見物を皮切りに、伊勢から京・西国・木曾・奥州路などほぼ全国に及び、26編まで(林美一氏説)続いた。
 たわいない失敗談が続く弥次・北の珍道中、そして田舎者まる出しの狂歌師とともに諸国を見物する旅行案内が、なぜここのように読み続けられたのだろう。大ベストセラーが生まれるにはそれだけの背景がなければならない。 (『江戸庶民の旅』から)
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 江戸時代の旅を話題にするなら『東海道中膝栗毛』から始めるべきかもしれない。弥次さん北さんの東海道珍道中、江戸時代の人びとも読んでいた。そのベストセラーを一部引用しよう。
<浮世道中膝栗毛初篇>  富貴自在冥加あれやと、営(いとなみ)たてし門の松風、琴に通ふ春の日の麗(うららか)さ、げにや大道は髪のごとしと、毛すじ程もゆるがぬ御代のためしには、鳥が鳴吾妻錦絵に、鎧武者の美名を残し、弓も木太刀も額にして、千早振神の広前に、おさまれる豊津国のいさほしは、堯舜(げうしゅん)のいにしへ、延喜のむかしも、目撃見る心地なん。 いざや此とき、國々の名山勝地をも巡見して、月代(さかやき)にぬる、聖代の御徳を、薬鑵頭の茶飲みばなしに、貯へんものをと、玉くしげふたりの友どちいざなひつれて、山鳥の尾の長旅なれば、臍のあたりに打がへのかねをあたゝめ、花のお江戸を立出るは、神田の八丁堀辺に、獨住の弥次郎兵へといふのふらくもの、食客の北八もろとも、朽木草鞋の足もと軽く、千里膏のたくわへは何貝となく、はまぐりのむきしぼりに對のゆかたを吹おくる、 神風や伊勢参宮より、足引のやまとめぐりして、花の都にむめの浪花へと、心ざして出行ほどに、はやくも高なはの町に来かゝり、川柳点の前句集(古今前句集)をおもひだせば
 高なはへ来て わすれたることばかり(古今前句集、二篇に「高輪へ出ると わすれた事ばかり」とある)
 とよみたれ共(ども)、我々は何ひとつ、心がゝりの事もなく、独身(ひとりみ)のきさんじ(気散じ=心安さ)は、鼠の店賃いだすも費(ついへ)と(荷物を残しておいて、鼠に喰わせるのも益のないことだと。借家を返してしまったのである)、身上のこらず、ふろしき包みとなしたるも心やすし。 (麻生磯次校注岩波書店『東海道中膝栗毛』から)
 これを現代文にすると次のようになる。
 この世の富貴幸福は、思うままにおさずけください、と祈願して家々で用意する、門松の風の音にさそわれて、琴も何処からか聞こえて来る新春の日のうららかさ。まことに大道は撫でつけた髪のように整然として人情風俗は温かく豊かに、 泰平の御代に少しのくるいもなく、荒武者連もたゞ江戸名物の錦絵に色どり美しく面影を残すだけで、切った張ったの弓や木太刀も、額にして神前にお納め申し上げる、平安無類な日本国のおめでたさは、堯舜延喜むかしむかしの聖人の御治世を、目に前に見るようで、なんといゝ気持ちのものではないか。
 さてこのような大御代に、諸国の名所景勝を歴訪して、月代にぬる青黛のかわりに、聖代の功徳をぼんくら頭にしみこませて、茶のみ話の種に貯えてこようと、さそいあった二人の友だち。山鳥の尻尾にも似た長い道中をしようというので、虎の子の財布はしっかりと臍の上に結びつけ、花のお江戸を出発するのは、神田八丁堀周辺に独身暮らしの弥次郎兵衛というのらくら者。 その食客の北八とともに、いくら歩いてもくたびれぬという朽木草鞋で足ごしらえをの、千里膏もしこたま仕込んで、むきみしぼりのそろいの浴衣に、そよそよと吹きわたるあらたかな風にさそわれて、まず伊勢参宮をすませてから、大和を巡って、花の京から梅の浪速へ、さあ出発だと思う間もなく、もの高輪の町へ来かかった。道すがらふと思い出した川柳は、古今前句集に、
 高輪へ来て わすれたることばかり
 とあるけれども、われわれ二人は、なにひとつ気にかゝる心配もない、気楽な独身者じゃないか。 (伊馬春部・小谷恒訳桜楓社『現代語訳 東海道中膝栗毛』から)
 江戸時代の庶民が読んでいた『東海道中膝栗毛』、同じ文章も現代文にすると少し違ってくることもある。
 富貴も思うがままに、冥土までも御利益あれと、祈って立てた家々の門松に吹く松風に、琴の音に通う春の日うららかさ。まことにえどの大道が真っすぐに、毛筋もども揺るがぬ御代の泰平のしるしは、吾妻の国の江戸の錦絵の世界ではあるまいか。
 そこには鎧武者も色美しく描かれてるが、今では弓も木太刀も神の奉納の額に納まるだけ。治まる御代の豊津国日の本の泰平の今でも、あの堯舜の聖人の世や、延喜の帝の昔の栄えを目のあたりに見る心地である。
 いざこのありがたい御代にこそ、国々の名山景勝の地を巡り歩いて、月代に塗る青黛ならむ盛代の御徳を、やかん頭になる年老いてからの茶呑み話のために蓄えておこうと、二人の友だちが誘い合わせ、山鳥の尾のような、長々しい旅のことなれば、臍のあたりに打ち金の胴巻きに、ずっしりと路用の金をあたためて、花のお江戸を立ち出たのは、神田の八丁堀あたりに住む妻を亡くして独り者、弥次郎兵衛と言うのらくら者と居候の喜多八。 千里の道も一足で行くと言う、名代の朽木草鞋の足元も軽く、足の裏に塗ればまめができないと言う千里膏も何貝も買いこんで、二人おそろいの、蛤のむき身しぼりの浴衣の袖を吹き送る神風のお伊勢参りから、足引きの大和の国巡りして、花の都(京都)から梅の咲く浪速(大坂)へと心ざして神田の家から出かけたところ、早くも江戸もなずれの高輪の町に来かかる。
 そこで川柳点の前句集にあったこんな句を思い出した。
 高輪へ来て 忘れたることばかり (江戸っ子が東海道の旅に出ると、たいてい高輪あたりで、あれこれ旅支度で忘れたことを思い出す)
 さいわい、我々には何ひとつ忘れた物も気がかりもなし、ひとりものの気安さで、留守の家にあばれる鼠どものために店賃出すのも無駄なことと、借家をあけ渡して、身代残らず風呂敷包みにまとめてしまったので気安いこと。
 さりながら、旦那寺からお布施あつめのために時々送られてくる仏餉袋(ぶっしょうぶくろ)に、つねずねケチケチして、米をすこしばかりしか詰めなかったので、和尚さんに旅の往来切手を頼むのに気がひけて、銅銭百文自腹を切ってお寺に寄進して往来切手をもらい、また町役人の大家には、古い借金の店賃を払ったかわりに、なんと御関所の手形を受け取った。 (平野日出雄訳静岡出版『東海道中膝栗毛』から)
 弥次さん北さんの東海道珍道中を書いたベストセラー作家の十返舎一九(1765〜1831=明和2〜天保2)、は書いた作品も「遊び心」いっぱいだっただけでなく、その生き方も「遊び心」いっぱいだった。 一九は天保2年(1831)8月6日67歳で江戸長谷川町の裏長屋で病死した。一九は、自分の死を予期していて、前日、頭陀袋へ線香花火をいっぱい詰めておいたので、火葬場でその花火が大きくはじけて、弔いの人々を驚かせたと伝えられている。
 辞世の句は
この世をば どりゃおいとまに せん香の 煙りと共に 灰左様なら
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
 『東海道中膝栗毛』と共によく読まれた旅行案内書に『東海道名所記』がある。
<東海道名所記>  「いとおしき子には旅をさせよ」といふ事あり。万事思ひしるものは、旅にまさる事なし。鄙の永路を行過るには、物うき事、はらのたつこと、おもしろき事、あはれなること、おそろしき事、あぶなき事、をかしきこと、とりどりさまざま也。人の心もこと葉つきも、国により所により、をのれをのれの生まれつき、花車(きゃしゃ)なもあり、いやしきもあり、それのみならず、みちすがらには、海・川、山・坂、橋・平地、石はら・砂原、ほそ道・あぜ道、追分なんどとて、これあり。 道のたすけには、大雪に山ごし、大水に川ごし、ふかき川に渡しぶね、のりかけた駄賃馬、あるひは歩にてゆく人のため、からじりの馬、籠・もり物、あるひは馬のなきときは、かち荷物のたすけもあり、しらぬ道には、あんない者あり、旅屋の遠き所には、店屋の餅・団子、茶屋の焼餅、其他在所により、家により、国の名物、酒・さかな、煮売・焼売、色々あり。一日路すぎて暮がたには、はたごやの宿、泊々、これあり。これをむかしは駅館(むまやど)と名づけ、みかどより、五畿七道に御つかひをくださるゝ時、出(いだ)しける伝馬をば、駅馬(はいま)と申す。 「駅馬」とだにいへば、人おそれてたちのけり。今の世までも、「駅馬駅馬」といへば、道行人もかたはらへ立のくは、此事よりも、いひつたへたること葉とかた。 (『東海道名所記』から)
<携帯用案内記は旅の必需品だった>
 江戸時代の旅の隆盛を支えたものに、道中のさまざまな情報や、旅の案内をまとめた出版物の存在がある。 一般に、案内記・道中記・細見記などと呼ばれる本は、旅籠の宿賃、名所旧跡、主要な地名、人足賃、馬の駄賃、茶屋や名物名産、距離が盛り込まれ、携帯に便利な仕様で出版されている。 一枚ものの摺物も、同種の内容に絵図・表などを加え、旅の目的地や種類によって、多数出された。
 物語や紀行文もまた、旅に大きな影響を与えた。十編舎一九など街道筋の名所をつぎつぎと取り上げ、全8編18冊に及ぶ大著となった。当時の旅ブームがこうした出版物を生み、さらに多くの人を旅へと駆り立てたのである。 (『江戸時代館』鈴木章生著「旅のガイドブック」 から)
 弥次・北コンビは人気ツアーガイドだった。そして『東海道中膝栗毛』の他にも多くのガイドブックが出版されていた。『江戸時代館』では旅のガイドブックとして次のような案内書をあげている。『成田香取鹿島息栖細見絵図』、『大日本道中細見記』、『都名所図会』、『安見道中記』、『安芸厳島御神社図』、『象頭山全図』、『四国八十八箇所順拝略図』、『浪花講定宿帳』。
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<主な参考文献・引用文献>
江戸の旅文化                            神崎宣武 岩波新書      2004. 3.19 
江戸庶民の旅 旅のかたち・関所と女                 金森敦子 平凡社新書     2002. 7.22 
東海道中膝栗毛(上)                十返舎一九 麻生磯次校注 岩波書店      2002. 8.20
東海道中膝栗毛 現代語訳           十返舎一九 伊馬春部・小谷恒訳 桜楓社       1976. 5.10
東海道中膝栗毛 現代訳                     平野日出雄訳 静岡出版      1994.12. 5
東海道名所記・東海道分間絵図  浅井了意・遠近道印作菱川師宣画 冨士昭雄校訂 国書刊行会     2002. 5.31
ビジュアル・ワイド 江戸時代館                        小学館       2002.12. 1
( 2005年6月27日 TANAKA1942b )
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(29)一生に一度は伊勢参り
現代人の海外旅行より盛んだった!

江戸時代の旅として、参勤交代を初めに取り上げたがこれは「趣味」ではなかった。しかし、参勤交代によって宿場町は整備され、庶民の「物見遊山の旅」も便利になった。いわば大名行列によって庶民の「旅のインフラ整備」が整った、と言える。 ハード面でのインフラ整備が参勤交代によって整備され、ソフト面でのインフラ整備は『東海道中膝栗毛』であった。そうしたインフラ整備によって庶民は旅を楽しんでいた。その一番はお伊勢参りであった。実際にどの程度盛んであったのか、とても信じられないような数字もある。江戸時代、現代人ほど数字に神経質ではなかったのだろう。 なるべく信頼できる数字をもとに話を進めていくことにしよう。
<各地で歌われた「伊勢音頭」>

  伊勢に行きたい 伊勢路がみたい
    せめて一生に一度でも
 「伊勢音頭」でそう歌う。伊勢音頭は、盆踊り系の川崎節を基調とするが、近世では古市の遊郭で盛んに歌われるようになった。娼妓たちが客席で輪踊りを演じるときに歌われるようになったのである。
 その歌詞では、いわゆる伊勢自慢のさまざまが詠まれるようになった。それが、伊勢参宮をした者たちの「帰り唄」となり、全国各地にもたらされることにもなった。そのとき、地方ごとに節も歌詞も相応の変化をみるのであるが、 この一節は、ほとんど不変の伝播をみているのである。
  わしが国さは お伊勢が遠い
     お伊勢恋しや参りたや
  伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ
     尾張名古屋は城でもつ
 この2節も、各地に通じる。
 そして、たとえば、次のような歌詞が各地ごとにつくられた(引用は、中国山地での例)。
  お伊勢参りが 伊勢節習うた
     長い道中歌いずめ
  伊勢へ参ったら 子どもができた
     お名前つけましょ伊勢松と
 江戸期、日本人にとっての伊勢参宮は、人生のある種の通過儀礼ともなっていたのである。
 その参宮道中のにぎわいについては、いくつかの文献に登場する。
 たとえば、井原西鶴の『西鶴織留』では、次ぎのように描写されている。
「神風や伊勢の宮ほどありがたきは又もなし、諸国より山海万里を越て貴賤男女、心ざし有程の人、願ひごとく御参宮せぬといふ事なし」
 また、長崎のオランダ商館付きの医師であったエンゲルベルト・ケンペルは、元禄4(1691)年とその翌年に商館長にともなられて江戸参府した際に見聞したことを『江戸参府旅行日記』に著した。 そのなかで、東海道から伊勢に向かう旅人の多いことに注目して、次のように述べている。
 「この参詣の旅は一年中行われるが、特に春が盛んで、それゆえ街道はこのころになると、もっぱらこうした旅行者でいっぱいになる。老若・貴賤を問わず男女の区別もなく、この旅から信仰や御利益を得て、できるだけ歩き通そうとする。 (中略)皆が宿屋に泊まることはできず、そのため、また銭がなくてたくさんの人々が野宿したり、時には路傍で弱み疲れて死んでいるのを見ることがある」(斉藤信訳)
 はからずも西鶴、ケンペル両者ともが、「貴賤男女」が参宮している、といっている。あらためて注目しなくてはならないことである。一般に、江戸時代の幕藩体制とは、庶民に労働と年貢を強いるものであった、との印象が強かろう。 ゆえに、生活は困窮を極め、長旅に出る余裕などなかった、と捉えがちである。しかし、この文章からは、その種の観念とは別な、庶民の大胆な行動のようすがうかがえるではないか。貧しき者も、女たちも伊勢に詣でているのだ。じつは、それが実態であった。
 いうなれば、幕藩体制のタテマエをかいくぐっての庶民のホンネの行動。その代表的な行動様式が「旅」なのである。また、その代表的な旅が「伊勢参宮」なのである。
 そこで私たちは、従来の歴史観をかえて本題に臨まなくてはならないのである。 (『江戸の旅文化』から)
<年間10万人、20人に1人>
 さて、その言葉どおりに皆が一度は伊勢に詣でた、としよう。ただし、実働年代は15歳から50歳までの35年ほど。江戸中期の人口を1800万人とすれば、年間で50万人以上の人出ということになる。単純過ぎる計算ではあるが、実際しそれに似た数値を示す記録もある。
 たしかなところでは、享保3(1718)年4月に、伊勢山田奉行が参宮者数を幕府に上申した例がある。それにとると、この年の正月から4月15日までのあいだに、42万7500人となっている。この場合、江戸時代の伊勢参宮は農民を主体としており、その旅は、ケンペルも指摘しているように農閑期にあたる正月から春先にかけて集中したことを考慮しよう。 ならば、その数の4〜5割増の数が年間の参宮者数となろうか。約60万人が伊勢参宮を行っていた、と推測できるのである。
 さらに、保護者や監督者の諒解を得ずに行く若者や子どもたちの「抜け参宮」があった。農山村では、それが成人儀礼になったりもしている。それは、街道沿いに住む補とびとの喜捨に頼っての旅であった。その正確な人数はつかめないまでも、江戸中期には、抜け参宮を含め年間だいたい数十万人が伊勢参宮を行っていた、とみてよいだろう。 当時の人口比で、およそ20人に1人が伊勢に歩を進めたということになるわけだ。これは、けっして誇張ではなく、むしろひかえまな推測値というものである。
 ゆえに、「一生に一度の伊勢参り」。それは、ただの願望ではない。言い替えれば、均して20年に1度ぐらいの機会はあるのだから、十分に現実的な願望なのである。
 ちなみに、テロやサーズの影響を受けなかった平成10年あたりを基準にすると、現在の海外旅行者は約1500万人。そのうち、観光旅行者に限ってみると、約1000万人。人口比でいうと、12,3人に1人の割合となる。ただ、旅に費やす日数に大きな差がある。ちなみに、現在の海外旅行の平均日数は7泊8日。 伊勢参宮でえどから伊勢を基準にすると、片道が約15日、往復で30日。それに、京都や大坂へのついでの遊山行を加えると50日も、それ以上もの旅程ろなる。実質的な人日数の消費で考えると、江戸期の伊勢参宮の方がはるかに大規模であった、と言えるのである。
 もちろん、これだけの推定数値をもって古今の比較をすることんにさほどの意味はないが、江戸中期における伊勢参宮のすさまじいまでの盛況を検討づけるはずだ。少なくとも、現在の海外ブームに勝るとも劣らない状況であったことに異論をはさむ余地はなかろう。 (『江戸の旅文化』から)
(^_^)                     (^_^)                      (^_^)
<旅する前に>  江戸時代の庶民が長期間家を留守にすることは、よほどの理由がないと許されなかった。たいていの国では、領民が10里(約40キロメートル)以上遠くへ出かけるとき、あるいは隣村で1泊するときでさえも、名主に断らなければならないとされていた。 こんな決まりを作って、かならず戻ってこることを名主に確認させていたほど、領主は領民が居所を離れることを恐れていたのである。数ヶ月を要する旅に出るとなると、その理由がつぶさに調べられた。長期の旅は、故郷を出奔することに繋がりかねなかったからだ。
 武士は農・工・商人たちを支配していたが、武士の生活を支えていたのは、農・工・商の庶民が生産したものにかけた税(年貢)であった。農・工・商人たちが長期間留守にすると、その期間はそれぞれの仕事がおろそかになって、生産に差し支える。それが農民なら耕地が荒れ、元にもどすもに数倍の手数がかかってしまうし、 職人や商人も、旅の最中は仕事にならない。それに少なくない旅費が要るし、旅支度にも何やかやと金をかけ、みやげも買ったりするから、ついつい出費がかさなってしまう。そうなると、戻ってからの生活が苦しくなって、家をつぶしてしまう恐れもあった。旅の途中で事故にあえば、のもまま野垂れ死ぬ可能性も少なくない。どちらにしても年貢は納められなくなるのだ。
 言うまでもないが、江戸時代の旅は自分の足が頼りである。成人男子の1日の平均歩行距離は10里と言われていて、事実、当時の人びとは雨が降っても、雪が降っても、1日に10里近くは歩いている。 例えば江戸から京都までは126里6丁(「五駅便覧」による)。今ではこの距離を、新幹線「のぞみ」でたった2時間15分で行き着いてしまうが、江戸時代は、12泊13日でいくのが基準にされていた。武士ならもっと早足で、1日11里かか12里は歩く。
 これは川留のもあわず、足にマメもつくらず、何の事故にもあわずに行った場合で、現実はなにが起こるかわからないから、この日数以上かかることが多かった。そのまま戻ってきても、この2倍の日数がかかるし、また用事を済ませるまでの日数も加えなければならない。このように旅に出るとなると、長期間にわたってしまうのが江戸時代の旅だったのである。
 領民がこのような長期の旅に出ることを、苦々しく思わない領主はいなかっただろう。たいていの藩は財政のやりくりにあえいでいたから、領内の金が他国へ落とされてくるのが惜しくてたまらなかったはずだ。
 しかし、旅のすべてを禁止するわけにはいかなかった。商取引も規模が大きくなれば全国を股に掛けることになるし、職人や芸人は他国でも修行してこそ名人と言われるようになる。中世からこの方、はるか遠くまで巡礼に出る信心深い者はあとを絶たなかった。名医になるには、江戸か長崎で勉強してこなければならなかったし、宗教者は津々浦々まで布教のために出かけていた。 参勤する領主の人足として江戸を訪れた農民も大勢いる。他国へ嫁いだ女性も、他国から嫁いで来た女性もいる。
 こうして旅を体験してきた者の話は、生きた学問として人びとに伝えられた。中には他国の賑やかさをことさら吹聴する者もいただろう。華やかな渡海、荘厳な神社仏閣、歴史の舞台となった名所旧跡、そして珍しい風景、こうした所を巡り歩く旅の日々がどんなに楽しいものであったかを、人びとは胸をときめかせて聞き入ったに違いない。 旅というものが、汗みずくになって労働している日常とどんなにかけ離れたものかを聞いてからな、仕事がうわのそらになってしまった者も多かっただろうと思う。このうおうにどんな片田舎であっても、遠くを旅してきた人びとはかなり多かったし、また商人や宗教者などさまざまな旅人が村に入ってきて、遠い国の珍しい話を置きみやげにしていったのである。 こうしてもたらされた情報は、旅へのあこがれをますます強くさせたことだろう。
 人びとはいつかは自分も旅に出ることを願った。地道に旅費を貯えて神仏への参詣を果たした者もいるし、他国へ雇われる途中に旅を味わった者もいた。巡礼の中には、喜捨をあてにしてほとんど旅費も持たずに出かけた者もいる。 こうして実際に旅に出る者は着実に増えていったのである。無事に故郷に戻った者がほとんどであるが、途中で病に倒れて他国に葬られた者もいるし、現実に家をつぶしてしまった者もいる。領主から見れば、領民の旅はまったく無駄なものに思えたに違いないのだ。
 しかし領主たちは、旅をしたいという人びとの気持ちを全面的に抑え込むことはせず、風穴のような特例を認めていた。神社仏閣に参拝すること、病気治療の」ために湯治に行くこと、他国にいる親類縁者への病気見舞いや葬式などは、どこでも大目に見られていたのである。
 旅立ちたくてうずうずしている者が、この手を使わないなずがない。生活に余裕がでてくると、信心、あるいは病気治療を理由に、他国へと旅立つ者が増えてきた。表向きの理由は殊勝なものだったが、実際には目的地に行き着くまでに名所を見学するし、参拝が終われば精進落としろ称して派手な散在をし、ようやくここまで来たのだからと、かなり遠くの観光地まで足を伸ばしたりしている。 こうした名目として一番使われたのが伊勢詣でだった。特に江戸や東国では伊勢へ行くことが盛んで、各地に残る庶民の道中手控を見ても、その多くが「伊勢参宮日記」など、伊勢詣であることを表題にしている。
 伊勢詣は表向きの理由で、その実体は観光であることを領主は知っていたに違いない。伊勢神宮(内宮と呼ばれる皇大神宮と、外宮と呼ばれる豊受大神宮の総称)は天皇家が祭るところであり、全国の氏神の総本社のように考えられていた。こうした素朴な崇敬は規制できるものではなかったし、お伊勢様では自分たちの五穀豊穣・家内安全のほかに、御領主の武運長久もお願いしてくるとなれば、領主も禁止できなかった。 こうして伊勢詣を理由に、大手を振って旅に出かけて行った庶民は多かったのである。 (『伊勢詣と江戸の旅』道中日記に見る旅の値段 から)
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<手形なしでの伊勢参りもあった>  江戸時代を理解するためのキーワードは「本音と建前」「アバウト」が思い浮かぶ。幕府は関所を設けて庶民が諸国を旅することを制限していた。しかし現代人の海外旅行以上に旅を楽しんでいた。そのような見方は「自虐的な歴史観」や「貧農史観」あるいは「階級闘争史観」からは生まれてこないのだろう。 結構アバウトだった、という例を見つけたのでここに引用することにした。
 江戸時代のいろいろな日記を読んでみますと、旅の実態がよくわかります。 たとえば京都大学には、『日下村庄屋日記』という元禄の少しあとから、享保の終わり頃まで、毎日詳しく書いた日記がありまして、その日記を私は京都大学に、昭和21年でしたけれども、1年間内地留学というので行っておりましたときに詳しく読んだのでありますが、それを見ておりますと、村の庄屋ですから、村人たちが、善光寺参りとか、 金比羅参りとかに出かけるようなときには、その手形の許可をとってやらなければならない。それで、あるとき、伊勢参りに行くというので、15人は許可をとったけれども、3人は手形なしで出かけてしまった。困ったものだといって、大変心配している箇所がありました。 それも無事に行って帰ってきたらしくて、あとどうなったんだろうと思っていろいろ探しましたけれども、その後のことは全く書いてありませんでした。 (『江戸庶民の四季』から)
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<主な参考文献・引用文献>
江戸の旅文化                            神崎宣武 岩波新書      2004. 3.19 
伊勢詣と江戸の旅 道中日記に見る旅の値段              金森敦子 文春新書      2004. 4.20 
江戸庶民の四季                          西山松之助 岩波書店      1993. 3.24 
( 2005年7月4日 TANAKA1942b )
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(30)旅にまつわる費用など
女性も旅を楽しんでい

江戸時代、伊勢参りをはじめ庶民は旅を楽しんでいた。史料を調べれば調べるほど多くの面に興味が涌いてくる。それだけに、それらをまとめるとなると、これが一仕事。伊勢参りも一本筋の通ったまとめ、となると苦労する。 という言い訳を書いて、伊勢参りについては史料を沢山提供し、読者の皆さんにの頭に中でまとめて頂こうと、ちょうどジクソー・パズルのように史料をランダムに掲載します。 ということで、先ずは民俗学者宮本常一の文から始めます。
<伊勢の御師>  伊勢神宮はもともと皇室の先祖をまつるものとして一般民衆はこの社に奉幣することを禁じられていた。したがって民衆で伊勢に参る者は平安末までは少なかったのであるが、外宮権禰宜(ごんねぎ)であった度会光親が源頼朝のために祈願したという記録があり、たぶんその前後から、民間の者で私幣を献ずるものがあったと考えられる。 すなわち源頼朝がそのはじめではなく、そういう風潮が東国全体に見られつつあったと考えるのである。
 というのは、平安末のころから関東地方に伊勢の神領や御厨が成立しはじめる。もともと伊勢神領は度会(わたらい)三郡があてられていたのであるが、この他の地方に神領のふえて来るのは、民間からの奉納者がふえて来たことを意味する。 つまり伊勢を信仰するものが多くなって来たのである。関東平野に多い神明社はいずれも伊勢神宮から勧請したものであった。
 しかも伊勢にはたくさんの祈祷師がおり、それらが神領へ下っていって宗教活動をするようになって、神領と神宮との間には単なる領有関係ではなくて信仰によって結ばれたつよい紐帯が見られるにいたった。 (『旅と民俗の歴史』から)
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<こんなに費用がかかった>  伊勢は天皇家が祭る神だから一般の人は参拝できない。しかし御師を通せばそれが可能である、と喧伝したのである。みやげを手渡されながら親しくこう話かけられれば、一般庶民の気持ちはくすぐられたことであろう。 さらに、神をなぐさめるために神楽を奉納すれば、信者家内安全、武運長久などさまざまな願文を読み上げて祈願をし、宿泊は御師の邸宅、伊勢の名所も案内すると言われれば、気持ちは大きく傾いたに違いない。
 行きたい気持ちはあっても、伊勢までの旅費をどうするか。これが問題であった。遠国であれば伊勢までの日数は相当にかかる。例えば江戸から伊勢山田までは114里(約456キロ)。1日10里で歩いても、往復するだけで最低1カ月はみなければならない。弥次・北のコンビも11泊12日で伊勢に到着している。
 文政12(1829)年に、江戸から上方へ切り詰めた旅をしなければならなくなった歌舞伎役者の中村仲蔵は、「京まで百二十里なれば、十二日の道中として、一日に一朱当てなれば」と、1日1朱の旅費を胸算用している。 また文政6(1823)年の越後国柏崎郡では、名主が効用で旅をする場合「一日雑用旅籠小遣共三百五十文宛」が出ることになっていた。 金1分は1両の4分の1、1朱は1分の4分の1である。1両が6貫500文(6500文)くらいの年であったから、1朱はその16文の1の406文ほどで、350文では1朱に満たないが、このくらいが目安とされたのだろう。1日1朱として計算すると、江戸から伊勢まで往復するだけで24日かかるから、1両2分が必要ということになる。
 名主の記録の4年前(文政2年)の同じ越後国柏崎の書上げには、大工・左官・木挽き・桶屋の日当は、1人が12日働いて金1分とある。それが徐々にあがって、23年後の天保13(1842)年には大工・屋根葺き・木挽き・畳刺し・桶屋が11日、左官・船大工・塗師は10日で金1分になっていたが、この年に諸色値段が下げられ、再び12日で金1分となった。 1分を稼ぐのに12日かかるのだから、1朱を稼ぐのに3日かかることになる。この年は1両が6830文ほどだったので、1朱はその16分の1の427文。1日の労働賃は1朱の3分の1で、約142文である(これに飯米料が別につくから実際はもう少し賃金は高くなる)。千葉県市原市周辺でも、寛政10(1798)年の大工・木挽き・桶屋の手間賃は9日働いて金1分で、これは天保13(1842)年になっても変わらなかった。 同じ天保13年上州沼田でも、天保13年の値下げ後の賃銭は、大工・木挽き・桶屋は10日働いて1分となっている。おそらく他の地方でもこの程度のところが多いのではなかろうか。
 江戸の伊勢の往復1両2分という旅費は、もちろん何事もなかった場合のことで、運悪く川留に引っかかれば無駄な宿泊を重ねなければならないし、病気や怪我をすれば旅籠屋の逗留代や医者、薬代で予算は大幅に狂ってしまうことになる。 旅費の他に予備費も計上しておくにこしたことはない。だから全体としては少なくない金額が必要になった。
 手間取りの職人でさえ、1泊の旅で労働3日分の旅費がかかった。村の住民の多くは農民で、現金を手に入れる機会はあまりない。しかし年貢を納めたあとの米は、自家用に消費する分をのぞき、できるだけ売るように心がけた。 野菜や藁・竹の細工物を市に持っていって売る者もいたし、行動沿いに茶店をだしてささやかな商売をやっている者もいた。耕作のあいまに野鍛冶や屋根葺きといった職人仕事をする者もいる。 農閑期には出稼ぎをするのが当たり前になっている地方もある。年貢は米の場合は現物納だが、その他は金納が普通で、金銭にまったく無縁ということはなかった。 こうして村人も貨幣経済の渦に巻き込まれていくのだが、村の中では自給自足が原則で、物と物、あるいは労働力と交換ということがまだ多く、貨幣の動きはそれほど活発とは言えなかった。だから遠い伊勢までの旅費を気軽に出せる者は、少数派だったと言わなければならない。
 しかし御師たちは、信者全員を伊勢に呼ぶ方法を知っていた。それは伊勢講を組織し、講員全員で毎月積み立てをして、ある金額が集まったところでクジなでで何人かを選び、その者たちが代表者として参拝に行くというものである。 代参(だいさん)という方式で、次は行かなかった者たちに旅の機会が与えられるから、これをくり返せばいつかは全員に順番が回ってくることになる。集めた金を利息を取って貸し付け、貯めているだけのところより早く目標金額を達成しているところさえあった。
 こうした代参とは別に、積み立てをした一同がこぞって伊勢参拝を果たしたとか、商用のついでや、奈良・京都の古寺巡りの途中に立ち寄ってた者も少なくなかった。農民以外は比較的季節に左右されずに出かけている。 抜参りの者たちも、性別・年齢、そして季節を問わなかった。また伊勢の神は法体の参拝をきらうといって、僧侶たちは神域間近に設けられた僧尼拝所から拝むことになっていたのだが、僧形の者も、黒い雨合羽の裁ち屑で付け髪を付ければ許されることになっていて、仏教者でも参拝する者は少なくなかった。
 西国巡礼の一番札所は那智勝浦の青岸渡寺(せいがんとじ)に設けられ、伊勢参りをしてから西国巡礼にでるようになっている。東国から四国八十八ヶ所巡りをする場合も、まず伊勢に参拝してからという者がほとんどである。 このように、伊勢は西国札所と四国八十八ヶ所の入口にもあたっていて、旅といえば伊勢を頭に浮かべるほどであった。 (『伊勢詣と江戸の旅』から)
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<庶民の旅を発達させた要因>  17世紀後半になると、庶民の旅は次第に盛況をみせだした。これ以前にも旅をする庶民はいたが、数が少なかった。
 江戸時代の庶民の旅の特徴は、仕事や信仰目的のほかに、物見・遊山が増加したことである。旅を通じて庶民はさまざまな異文化を体験し、情報を入手した。
 ただし庶民が安心して快適な旅をするには、克服されなければならない多くの問題があった。まず庶民にある程度の時間的・金銭的な余裕が必要である。治安が安定し、旅行施設が整備されていることも条件であった。全国で信用される統一貨幣の流通も、旅の発達には欠かせない。
 その点、江戸時代は兵農分離の貫徹により、前代に比して格段に治安がよくなった。幕藩領主の陸上交通政策により街道が整備され、休泊施設も整った。宿場には人足や馬が常備され、賃銭さえ払えば誰でも利用できた。17世紀後半以降になると生産力が発達して、庶民のなかには生活にある程度のゆとりをもつ人々も現れた。
 もっとも休泊施設や人馬を利用するには、全国で通用する貨幣が必要である。いわゆる慶長金銀は慶長6(1601)年以降に発行されたが、庶民が入手する機会はもとんどなかった。この時期、庶民の多くは絶対量が少なくてしかも信用度の薄い鐚銭(びたせん)や永楽銭を使用するか、あるいは実際に米や加工品を携行して旅をする以外になかった。これでは何かと不便である。
 しかし寛永13(1636)年から寛永通宝が大量に発行されて庶民に出回り、旅先ではもっぱら寛永通宝が使用されるようになった。これ以降、幕府は新貨幣を発行すると、宿場の助成金として配分したりして流通に努めた。もっとも寛永通宝は四分銭と一文銭という少額貨幣であったので、大量に持ち歩く必要があり、旅に携帯する貨幣としては十分でならった。
 旅との関連で言えば、貨幣問題を一挙に解決したのが、元禄8(1695)から鋳造がはじまった元禄金銀の発行である。元禄金銀は諸物価高騰の原因となり、また鋳造にからむ贈賄問題も発したが、大量に発行されたので庶民でも比較的容易に入手することができた。
 旅に発達には、こうした言わばハード面の整備とともに、旅心をかき立てるソフト面の充実も重要である。その意味では、各種の街道絵図や旅行案内書・道中記、あるいは地図類の出版が、さらに庶民の旅を促した。言わば、机上での「読む旅、見る旅」から旅心を誘い。実際の旅立ちに結び付いたのである。 (『東海道の宿場と交通』から)
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<宿泊に食事付の旅籠屋>  旅籠屋は、宿場における本陣・脇本陣以外の宿泊施設をいう。公用以外の武士や一般旅行者が多く利用し、宿泊に食事付きの旅宿である。旅籠屋は厳密な意味では、近世の宿場において、食料を提供する旅宿を指し、木賃(薪代)を支払う安い木賃宿とは区別している。(中略)
 旅籠屋の成立や、何をもって旅籠屋とするかは難しい問題である。近世初期にすでに旅籠屋の存在を認める説と、近世前期から中期にかけて、木賃宿から天下したとする説がある。いずれにせよ、交通量の増大にともない、元禄・享保期頃までに各宿場に成立したものである。(中略)
 参勤交代の大名一行は、本陣・脇本陣のほかに、札宿・幕宿・駕籠宿・並宿・油紙宿に分宿するが、このうち、旅籠は札宿以下、並宿まで、油紙宿は木賃宿にあたる。
 文政2(1819)年、二本松藩主が家臣281名を連れて、7日間にわたる領内巡見を行っている。宿泊所として、郡山宿・本宮宿の本陣、家臣の宿泊所は下宿として旅籠屋12軒があてられている。旅籠屋が無い場合は、下宿はどのような家でもよい。本陣の近くに12軒を用意し、食事は一汁一菜、馳走がましきことは行わないと触れている。 郡山宿へは4泊したが、その間旅籠屋へは一般旅行者は宿泊できないため、上級役人の賄代1人150文、下級役人の賄代1人100文、巡見中に旅籠屋に残る下級役人の昼食は茶漬けとし、昼旅籠銭として1人150文を支払っている。 (『日本史小百科<宿場>』から)
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<宿泊に食事付の旅籠屋>  江戸時代女性の旅行者は少なかった。伊勢の御師宅に残された記録によると、参宮に訪れた旅人のうち、女性はわずか4〜5パーセント前後に過ぎなかったと言われる。 伊勢だけでなく、他の地方を行き来した女性の旅人もおそらくこの程度で、女性の旅姿は20人から25人に1人見られるくらいだったと言われる。
 そのような時代に、女性が主役で旅をして、その記録を残していた。それは今野於以登(こんのおいと)で羽州由利郡本庄(秋田県本荘市)から文久2(1862)年8月22日(陽暦9月15日)に旅立った。連れは女性1人と男2人。女性2人が主役で、男は下男と思われる。 道順は、越後高田から信州善光寺へ、冨山、金沢、福井から永平寺へ、それから大坂、丸亀から金比羅様へ、それから大坂、高野山、奈良から伊勢へ、それから桑名、鎌倉、江戸へ、それから日光を見物して故郷に着いたのは、12月24日(陽暦では翌年の2月12日)であった。 この間151日、滞在日を除く1日の平均移動距離は6.7里ほど。全行程は780里ほど。芭蕉の『奥の細道』の全行程がおよそ450里であるから、その長さが想像できよう。
 その記録をまとめたのが『関所抜け 江戸の女たちの冒険』。そこで、その中から旅費に関する部分を引用してみよう。
 元禄13(1700)年の公定相場は金1両が銭3貫900文(3,900文)以上に替えられることになっていた。しかし銭価は次第に下落し始めて、明和8(1771)年に金1両が銭5貫500文にもなり、寛政9(1797)年からは6貫文以上が普通となっていた。 幕府は天保13(1842)年に金1両を銅銭6貫500文に公定したが、銭価の下落は止まらず、物価は高騰していった。
 喜多川守貞は、安政6(1859)年に横浜を開港してから洋銀が大量に入って諸物価は高騰し、たちまちのうちに文化・文政頃の3倍、嘉永頃よりも2倍もするものが出てきたと記している(『守貞漫稿』)。また於以登が出発する前年の文久元年、『武江年表』には「春の頃より諸物価登揚せり」、 次年も「諸物の価、尚踊貴し」とあり、物価はうなぎ登りに上昇していた。さらに慶応3(1867)年には、8貫160文から8貫432文になるというありさまであった。
 於以登が151日貫の旅で記帳した日々の出費を合計すると、2両7分24朱と14万3972文になる。この年、江戸では金1両が銭6貫700文から6貫774文の相場であったから、仮にこの平均値である金1両が6貫737文とすると、於以登が使ったのは、26両1分と2貫495文。 ただし宿代と舟渡し賃などは銀蔵分がふ含まれているので、2人分になる。概算だが、1人1日594文ほどを出費していたことになる。このうち宿代は安いところで永平寺前の225文、高いところで武州越谷の450文、全行程の平均は290文であった。
 同じ年(文久2年)の他の者の例を見ると、東海道の旅籠は1泊300文から350文、中国路で250文から300文程度払っているから、於以登たちは普通かそれより少し高い旅籠に泊まっていたようである。
 時代は前のことになるが、文化4(1807)年に武蔵から伊勢に詣でた男性は1日の出費平均が478文(宿代平均169文)、弘化2(1845)年では1日404文(宿代平均170文)、安政4(1857)年では1日359文(宿代平均174文)という例がある。 また個人で行くより伊勢講などで行く場合のほうが旅費を安くあげる傾向にあり、個人で行き、さらに銀蔵の分も払っていた於以登の場合とはそのまま比較はできないが、諸色はかなり高くなっている。
 また於以登はこの日々の出費の他に、帯・白粉など自身の買い物を「調物大略控」に記帳していて、それが8両1分と2貫910文。これを加えた総合計は34両2分と5貫405文のものぼっている。ちなみにこの当時、紀州の江戸勤武士の1年間の総支出は28両程度であった。 江戸の藩邸への進物等に1分3朱をかけるなど他の旅人にない出費をしているが、まずは金銭の心配のない旅だったといえよう。
 道中では小銭が欠かせない。草鞋や茶店代、昼食、橋銭や舟渡し賃、旅籠代もみな銭貨で払わなければならなかったからだ。だが最初から銭を多く持って出るのも厄介なことであった。於以登が使ったおよそ35両分を全部銭で運んだとなると、その重さは800キログラムを超えるだろう。とても運んでいける重さではない。
 旅の第1の心得はいかに荷物を軽くするかであったから、最初から大量の銭を持ち歩くことはしなかった。金貨の1両や2分判(2分の1両)、1分判(4分の1両)、2朱金(16分の1両)などを持っていき、小銭がなくなりそうになると両替をしたのである。(中略)
 於以登が旅立った文久2年の本庄の物価がわかるものは見つからなかったが、天保9(1838)年の諸色値段のうち、旅に関係ありそうなものをあげておこう。
 白米1升は上で73文、中・下70文。ろうそくは7匁掛け1丁が18文、3匁5分掛けが9文。ちり紙1帖が7文。わらじ6文。扇子は上が36文、中・18文。3尺手拭い1筋117文。染め足袋270文。甲掛け1足117文であった。
 天保9年の銭相場は金1両=6貫650文〜6貫735文であったから、文久2年にはわずかだが物価は高くなっていたはずである。 (『関所抜け 江戸の女たちの冒険』から)
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<新稲種の普及>  参宮は農事上方の交流の場であった。伊勢多気郡朝柄村の岡山友清は、幕末に稲種を改良して多収穫の「伊勢錦」を生み出し、これを大和荻原(榛原)の人が文久3(1863)年松阪の湊町でこれを入手し、やがて老農で知られる心学講社の中村直三によって普及された。 友清は不二孝(不二道)の信仰をもち、その講グループを介して近江・紀州・信州までこれを広げたが、参宮の道が農事改良とその伝播に果たした役割を示す事例である。 (『街道の日本史』から)
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<主な参考文献・引用文献>
旅と民俗の歴史 1 日本の宿                  宮本常一編著 八坂書房      1987. 4.30
伊勢詣と江戸の旅 道中日記に見る旅の値段              金森敦子 文春新書      2004. 4.20
東海道の宿場と交通                         渡辺和敏 静岡新聞社     2000. 4.28
日本史小百科<宿場>                       児玉幸多編 東京堂出版     1999. 7.19
関所抜け 江戸の女たちの冒険                    金森敦子 晶文社       2001. 8.10
街道の日本史 30 東海道と伊勢湾             本多隆成・酒井一 吉川弘文館     2004. 1.20
( 2005年7月11日 TANAKA1942b )
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(31)夢のような伊勢参宮の旅
ハレの食事の極めつけ

今週は伊勢参宮を扱う。道中費用にはいろいろな資料があるが、その中から分かり易いものを引用した。伊勢参宮はその豪華な食事で知られる。その一部を紹介することにしよう。先ずは道中費用から。
<道中費用のこと>  寛政7(1795)年3月、河内の荒川村の直右衛門夫婦がおそらく、淀屋という家号の人たちであろう8人と連れだって合計10人で伊勢参宮をした時の記録が黒羽ね兵治郎氏によって報告されている。 この旅は3月6日に河内を出発し奈良から名張に出て、伊勢・二見をまわり帰りは松阪から関に出て東海道を京まで上り、京見物をして3月25日に帰着する20日の道中であった。 出発にあたっては村はずれまでは村人が見送り、さらに両家に関係深い人々は暗峠まで見送って、峠の茶屋で別れの盃を傾けた。この一行は男3人、女7人という構成で、女が多かったせいもあってか、かなり度々休んでいる。 初日の経費を見ると、茶代が峠までの間に高井田新田100文、松原100文、といら86文これは汁銭共となっている。峠の茶屋では茶代100文のほかに、酒汁代共に760文を支払っていることから、ここで別れの一献を傾けたことが知れる。 女のうち1人は奈良まで駕籠を使っている。駕籠賃は村から峠まで550文、峠から奈良まで920文、峠から奈良までは荷持人足を雇って472文、峠から先はまた3回休憩をしているが、これはほんの足休め程度であったらしく、茶代は僅か75文である。 榁ノ木峠では昼食をとっており234文、草鞋88文、奈良での泊まりは猿沢池のほとりの印判屋で1泊2食つき銀20匁(1人2匁)、そのほか茶代100文を置いている。 奈良から伊勢までの泊まりは初瀬・名張・二本木・新茶屋で、宿料は二本木が30匁のほかはいずれも20匁(10人分)に茶代は100文である。銀1匁がほぼ銭100文に替えられているので、1人当たりの宿代は200文ほどになり、この時代としては上等の宿と言うこのになるようである。
 伊勢では内宮の御師栗谷太夫が宿であった。ここでは2泊しているが、その宿料として1両2分、茶代100疋、計1両3分で銀換算は60匁7分で銀106匁2分4厘になっている。 これは14人割で1人前7匁5分9厘(1日が3匁6分になる)となっている。10人のところで14人になっているのは、女の多い淀屋の方で12人分の部屋を要求したのかと思われる。ほかでもこういった割合になっているところがある。 この宿泊料は道中のどこよりも高いものである。またそのほかに祈祷を頼んだ懇志として太夫以下、男衆下女にいたるまでおのおの包んでおり、その合計が金2両2分2朱と銀30匁9分5厘を納めている。 この懇志合計は銀換算で190匁2分7厘である。御師の経済がこういったもので成り立っていたことがよくわかる。 (『旅と民俗の歴史』から)
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<旅籠での食事メニュー>  江戸時代の観光旅行、ではその旅先での食事はどのようであったのか、旅籠での食事を紹介しよう。 
 天保3(1832)年1月、高野山遍照院に泊まった一行に出された夕食は、千切り大根の酢もみ、大汁(具は不明)、梅干し、豆腐、山芋、氷豆腐の煮付け、飯。二の膳の汁の具は氷蒟蒻と椎茸で酒のつゆ(酒粕か)が入っていた。 この他に焼き豆腐とキノコ、それに酒がたくさん出されている。翌日の朝食は「朝同断」とあり、夕食とまったく同じ物が出されたようである。食材の種類は少なく、調理法もいたって簡単なものであった。これにはいくらで泊まったかは記されていない。
 もう一つの例をあげる。天保12(1841)年閏正月に、金1分2朱を出して10人で高野山の桜池院に泊まった一行に出された夕食は、大根と人参の酢の物、汁は豆腐と菜、猪口に干し大根と菜、生揚げ。二の膳は、小皿に香の物と煎り豆、吸物は麩のすまし、煮物は氷豆腐・椎茸、これに酒がついていた。
 戸隠山での食事もあげよう。天保6(1835)年2月の記録である。同行者はいたようだが人数は不明。宿泊費も不明である。宿坊宝泉院に着くと、上等なお茶と菓子が出され、ひと休みした後に風呂に入っている。それから独活と椎茸の吸物、ゆばにたまり醤油をかけたもの、 酒、甘く煎った豆、せりやき(芹を焼いたものか)と百合根、そして蕎麦がむるまわれた。
 翌日の朝食は、慈姑=くわい・干し舞茸・人参・干瓢・山芋の煮物、汁は甘味噌仕立て、大根おろし、独活の和え物、油揚げ・干し椎茸・それに飯、お茶。
 この旅人は「殊之外(ことのほか)馳走」と記しているが、伊勢へ行ったことがあるなら、おそらく別の書き方になったことだろう。 (『伊勢詣と江戸の旅』から)
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 江戸時代の庶民が一生に一度は行きたいと願っていたお伊勢参り、行って来た人の話を聞いて夢を膨らましていた。夢のような旅での出来事、その一つが御師の館での饗応だった。 そうした旅での食事、それを中心に文献から引用してみよう。
<江戸時代の旅籠での食事>  忠兵衛らは、板鼻を11人で出発。中山道をたどり名古屋に到着すると、そこで江戸廻りで東海道を上ってきた別の仲間6人と合流する。そこから伊勢へ。一行は17人となる。伊勢神宮に参詣したあとは、また分散。17人のうち5人は、松阪で分かれて京都見物に向かった。 忠兵衛ら12人は、伊賀越えで奈良に入り、さらに吉野・高野山・和歌の浦へと足をのばす。和歌山からは、7人が四国へ渡るために分かれ、忠兵衛ら5人は大坂へ・大坂でさらに分散し、そこからは忠兵衛は1人となる。そして、山陽道、長崎道を通り長崎へ。帰りは、山陰道を通って出雲大社へ参り、さらに京都面物もしている。旅程3カ月半にもおよぶ大旅行であった。
 さて、その旅のなかで旅籠の食事をいくつか拾ってみると、たとえば中山道の馬籠・釜戸・内津では、次のような食事をとっている。
  馬籠 夕 皿(肴)、平(いも・にんじん・こんにゃく)
     朝 皿(さば)、平(とうふ・こんぶ)
  釜戸 夕 皿(さんまひもの)、平(とうふ・ねぎ)
     朝 皿(えび)、平(いも・大根・にんじん)
  内津 夕 皿(さんまひもの)、猪口(こんにゃくかき)、(とうふ・あぶらあげ)
     朝 皿(玉子)、平(いも・大根・とうふ)
 また、伊勢路の二つの宿、白子、松阪でのそれは、以下のとおり。  
  白子 夕 皿(ねぎ・ぬきみ)、平(あらさ・水な)、皿(えび)
     朝 皿(さわら)、平(白魚)、猪口(ざせん大豆)
  松阪 夕 皿(肴)、平(かまぼこ・青菜)、猪口(やきもの)
     朝 皿(やきもの)、平(すりみ・ふき・れんこん)、猪口(大根葉漬)
 であるから、ほとんど大差がない。夕食が「一汁二菜」か「一汁山菜」。あえて言えば、山間の宿場では「一汁二菜」、東海道や桑名からの伊勢路では、「一汁三菜」が標準になる。 そして、朝食が「一汁二菜」。ただし、夕食の一菜は魚であるが、朝食のそれは二菜とも惣菜である。
 そして、この標準的な紺誰は、明治以降も昭和前期のころまで、観光地での滞在型旅館を除くと全国的な旅館の献立として引き継がれていくのである。
御師の館での饗応  旅籠の食事は、一汁三菜(五器一膳)か一汁二菜(四器一膳)。むろん、それとてハレの食事であった。
 ところが、伊勢に入り御師(伊勢では「おんし」と言った)の館に泊まった一行を迎えた食事は、旅籠のそれよりもまた数段豪華なものであった。ハレの食事のなかの、また特別のハレ。伊勢神宮のハイライトはここにあった、と言っても良い。
 御師は、中世においては神職。近世では、旅行斡旋業に転じる。斡旋だけでなく、館での宿泊と祈祷(神楽)、みやげものの販売など、いうなれば総合旅行業であった。
 ちなみに、世界で旅行業の開祖のようにいわれるイギリスのトーマス・マックが始動するのは、19世紀のこと。それよりも100年も、それ以上も前から日本では伊勢の御師が大量の「講旅」、つまり団体旅行を取り扱って活躍していたのである。
 以下、御師の館での大仰なもてなしを、先の『伊勢参宮献立道中記』から引いてみよう。
 講中が、御師岡田太夫の館に滞在したのは、3月27日から29日までの3日間である。27日は、駕籠を何台か手配してもらい、手代の案内で二見が浦を見物、内宮へも回って館へ到着したのは夜五つ時ごろであった。
 一行は、玄関からすぐに大座敷に通される。そこでは、まず手代が裃姿で出迎えて挨拶。次ぎに岡田太夫が衣冠を正して東条し、一行に祝詞を述べ、丁寧な挨拶を行う。そして、手代によって夕食の案内。
 その献立は、以下の通りである。まずは、歓迎の宴、といってよいだろう。
  本 膳 皿(鱠=なます)、壺(木耳・いか・麩=ふすま)/飯・汁・香の物
  二の膳 猪口(葉のしたし)、椀盛(あいなめ・神馬草)、平(うど・たかんな・かまぼこ)、重引(鮑煮付・結び昆布)、同引(伊勢えび一色)、後吸物(鯛味噌煮)
  引 物 猪口(くづし身・浅草のり・酢の味)、椀(鯛・春菊・すまし)、引酒
 御師の館での夕食としては、これがけっして最上というわけではない。が、これほどに詳しく献立を記述した日記は少なく、同列のおけるのは先述もした『金井忠兵衛旅日記』である。ちなみに『金井忠兵衛旅日記』に記されている御師三日市太夫の館での夕食の献立(文政5=1822年1月17日)は次ぎのとおり。
  菓 子
  雑 煮
  吸もの
  硯 蓋 (あわび・たい・九年母・えび・いも・こぶ・かまぼこ)
  引きさかづき
  大 鉢 (大たい)
  本 膳 皿(なます)、壺(二品しれず)/飯・汁 
  二の膳 小皿(さしみ)、猪口(すみそ)、椀(九年母・魚)
  三の膳 平(あわび・青な・しみとうふ)、皿(焼魚)
 これをみると、前半が茶懐石の形式、後半が本膳料理の形式である。いかに豪華な食事であったかうかがえよう。
 翌朝の朝食も本膳形式であったが、昼食は、さらに目をみはるばかりの御馳走であった。
 まず、八はい豆腐(豆腐を具にしたすまし汁)と飯、それに小皿に大根漬けと奈良漬け。それがふるまわれた後、御師自らが烏帽子姿で現れ、ていねいは挨拶がなされる。 さらに、次のような料理が並ぶのである。
  三ツ組さかづき
  大 鉢 (大たい)
  大 皿 (弐ツ色々取り合わせ さんぱい漬け)
  重 箱 (梅丸煮・白さとう)
  本 膳 (なます)、壺(せんまい・にんじん)、/飯・汁
  二の膳 皿(ほうぼう)、平(生いか・にんじん・ふ)、猪口(な漬け)
 記述形式が異なるが、よくよく比べてみると、『伊勢参宮献立道中記』よりこちらの方が少々上等なまかないと言えるかもしれない。むろん、この例をもって標準的な御師の館での夕食を定めることは難しい。 が、いずれにしても、庶民にとっては一生のうち何度も味わうことのできない二の膳付きの食事であったことは間違いない。道中記のなかには、「大名気分を味わう」と記されたものもあるほどなのだ。
 さて、『伊勢参宮献立道中記』での志度ノ浦講中。翌28日は、手代の案内で外宮へ参拝、下駄は禁じられているため皆裸足で参る。館に戻ると、朝食の用意がなされていた。 献立は、「猪口(菜の漬物)、吸物(みそ・磯物・霰餅)、菓子椀(せり・青貝・麩)、皿引(目ばる煮付)/飯」。この朝食がちょうど、旅籠の夕食並なのである。
 朝食のあと、いよいよ館内の神楽殿で神楽奉納と相なる。
 一行は髪月代を整え、清めの風呂に入る。そして、着衣を改めいぇいるところに手代がやってきて、裃、あるいは裃の用意があるか、とたずねる。ない場合は、優良で貸してもらうことになるのである。
 神楽が始まるまでのあいだに昼食が用意されるが、これは、「平(油やき豆腐・浅草のり)、飯、香の物」といった簡単なものであった。
 神楽殿では、外の間左手に大太鼓が置かれている。舞姫老婆は6,7人。おさげ髪の童女2人が打掛け姿で左右の二畳の上に座す。大烏帽子を冠し黒の素袍姿で鼓を持って座す者が5,60人。折烏帽子を冠した者が4,5人。 もっとも、この規模は、御師の館ごとにさまざまである。『伊勢参宮名所図絵』によると、舞子も楽人も抱えず、必要に応じて他から応援を求めるところも多い、とある。 (『江戸の旅文化』から)
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<主な参考文献・引用文献>
旅と民俗の歴史 4 庶民の旅                  宮本常一編著 八坂書房      1987. 8.31 
伊勢詣と江戸の旅 道中日記に見る旅の値段              金森敦子 文春新書      2004. 4.20 
江戸の旅文化                            神崎宣武 岩波新書      2004. 3.19 
( 2005年7月18日 TANAKA1942b )
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(32)お殿様以上の豪華な神楽と直会
御師の館での儀式と費用

この時代庶民の移動は、ヨーロッパとは比べものにならないほど活発であった。そのような話から、伊勢参宮での神楽、その費用に話を進めることにしよう。
<この時代、庶民の移動>  江戸時代に庶民の識字率が高く、知的好奇心が盛んだった原因の一つに、地理的な人口移動が、これまた同時代のヨーロッパ諸国大半の庶民に比べて大きかったことがあるように思われます。 例えば旅行がそうで、17世紀以降定期的に江戸に使者を送ったオランダ出島の関係者や、幕末に神奈川や江戸に済んだヨーロッパ人は、ほとんど異口同音に大量の庶民の自由な旅行ぶりに言及しています。 特に東海道の街道交通量の激しさは想像を絶したものがあったらしく、ヨーロッパの年の街路にまさるものがあると書き残したケンペルの例もあります(『えど参府紀行』東洋文庫 平凡社)。
 これが見てきたような講釈師風の誇張でないことは、革命前後のフランスをあちらこちら旅行したイギリス人「政治的算術家」、アーサー・ヤングの旅行記に記された、フランス都市間幹線道路の寂しさと比べれば納得いきやすいかも知れません。 道は広くて確かに立派に整備されていたものが多かったようですが、1日旅してもめったに人と会わない日々が少なくなかったと言ったくだりが、読む人の印象に残ります(『フランス紀行』法政大学出版局)。
 交通量についての具体的な数字は不案内ですが、これと比べて江戸の街道が格段の賑わいをみせていたことに、ほぼ疑問の余地はなさそうです。 たとえば、元禄15(1702)年東海道浜名湖の近辺で、1年間の通行者数が200万人あったと言われます。当時の人口が2500万人から3000万人位だったこと、東海道以外にも主要街道が発達していたことなどを考えれば、なかなかの旅行ブームだったと言えるのではないでしょうか。 しかもこれが困窮や圧迫に耐えかねた庶民の、絶望的流浪の旅でなかったらしいことは、江戸時代後期に伊勢神社など当時のリクリエーション名所となった神社仏閣だけで、年間100万から120万人の観光客を集めていたという事情からも知られます(新城常三『庶民と旅の歴史』NHKブックスから算出)。 (『江戸は夢か』から)
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<神楽と直会、饗宴と坂送り>  「一生に一度はお伊勢参りをしたい」。これが江戸庶民の夢であった。そのお伊勢参り、行って来た人の話を聞いて皆行きたいと願った。どのような話をしたのか? なにも誇張することはなかった。伊勢神宮の御師の館での経験は正に夢の中の出来事であった。普通の武士はもちろん、お殿様でさえめったに経験できないほどの経験をした。どのようなことだったのか?それを参考文献から引用してみよう。
 はじめは、清めの御祈祷(湯祓い)。
 鼓と謡が奏されるなか、白衣を着た男が一人出て、五徳寵で火を焚き、舞姫が扇と鈴、竹に柳を結んだものを持って舞う。そして、白木台に置いた銚子の酒を釜にさし、水手桶の水をさす。舞姫は、次々とかわる。かわるごとに太鼓が打たれる。
 次に、長手の杉箸の先に細く刻んだ白紙を付けた幣(ぬさ)が講中に配られる。それを皆一人一人取りいただき、拝し、自分で振って身を清めるのである。なお、その幣は、そのあと寵で焚きあげられる。けがれをこの火に集めて除く、という意味があるのだ。
 謡の奏されるなか、岡田太夫と嫡子が衣冠を正して登場。正面に向かって三拝平伏する。講中の面々も皆平伏す。
 岡田太夫が願文を開き、講中の五穀豊穣、家内安全の趣旨を持ち舞う。そして、幣を講中の頭上で振る。座している舞姫一人が手に米を握り、2,3度盆に移す。さらに、投銭といって、舞姫の座するところ、楽人のいるところ、四方八方に銭を投げること2,3度。 面々の前に落ちたものは、それぞれが拾う。その後、扇舞、山の舞、連舞が舞われる。これも、講中によってかわる。奉納金によって、大神楽、中神楽、小神楽と分かれているにである。
 神楽がすむと、直会(なおらい)である。白木台にのせた瓶子と神酒が下され、三方にのせた外宮内宮の供えものの授与がある。講中がいただき、すめば神楽殿の襖が閉められる。
 以上、神楽から直会まで要した時間は、およそ二た時(4時間)。
 引き続いて、座敷をかえて饗宴。岡田太夫が衣冠を正し正座し、このたび代々御神楽が首尾よくすんで恐悦との段を述べる。三方にのせた金杯銀杯に長柄の銚子の酒。宴席での礼講である。一同が、うやうやしくいただく。その後、手代からも恐悦の挨拶があり、夕食の案内となる。
 饗応の献立は、次ぎのとおりである。ちなみに、本膳から四の膳にいたるまで、すべての白木膳であった。
  本 膳 皿(独活せん切り・とさかのり・かうたけ・さより糸作り・紅酢),壺(磯もの・銀杏),瓦器(粒さんせう・花しほ)/飯,汁
  二の膳 白木台(紅かんてん・肴・青磯草・ねりからし)、白木台籠(大根・かちぐり・干菓子)、椀盛(鯛すまし・さんせう)
  三の膳 白木台(伊勢海老)、白木台(鶴)、椀すまし(鯛真子・じゅんさい)
  四の膳 皿(鯛塩焼)、猪口(ウルカノシホカラ)
  第 五 重引(生)(生麩・すりしやうが)
  第 六 椀(尾ツキすまし)
  第 七 猪口(四の膳にあり)
  第 八 平(敷みそ・松だけ・伊勢えび・ゆば)
  第 九 皿(子鯛を巻。但し酢にて味とる。ばうふう)
  第 十 大鉢引(鎌倉海老一色)
  第十一 二見浦といへる箱入干菓子一箱づゝ引
  金銀の大盃二ツを出す
 こけおどしともとられる豪華さである。 
 むろん、御師は、古くは天皇や貴族、あるいは武士の祈願を仲介することが本務であった。そこでは、奉幣使(願主の代人)を手厚くもてなさなくてはならない。それがこのような馳走の原型だったのであろうことは、想像にたやすい。
 豪華な食事を前にした講中の驚きのようすは、ことに細々と記されていないが。が、本膳から四の膳まではていねいに図示されている。この『伊勢参宮献立道中記』のなかでも異例のこと。ということは、つまり、もっとも豪華なご馳走であり、もっとも印象に深い饗宴であったということになろう。
 饗宴のあとは、前夜と同じ絹の揃いの夜具が用意された。「熟睡に及び衆人前後を知らず伏す」と記されている。
 さて、翌日は出立の日。朝起きがけに、前朝と同じ焼き結びと梅干しひとつ・煎茶がふるまわれた。そして、朝食となるが、それも本膳に二の膳付きの形式であった。
  皿   (しそ・うど・ちさ) 
  汁
  本 膳 壺(ぜんまい・甲州梅・すまし)、薄板(紅つけ大根・わかめ・たひのつけやき)/飯
  二の膳 椀(たひ・すまし)猪口(したしもの)、平ラ引(薄雪・こち・すまし・貝焼引)、椀(引・蛤すまし)、茶碗(新豆・煎海鼠・ヒドリ(火取り永いも))、大鉢(たひの浜焼引)
 むろん、酒もすすめられた。
 朝食がすむと、手代の挨拶。本来であれば宮川まで送ってそこで一酒をさしあげるべきところ、講中にはここから別々になったり先を急いだりする者もあるので、と世話人からいわれたとして、弁当(結び)・組肴(五種献立)・生菓子(餅)・錫徳利酒(二ツ)を取り出す。つまろ、送別の小宴である。 この時代は、旅への出立と帰還時に村境や町境で近親者が集まって酒宴を催す慣行が広く行われていた。これを、「坂送り」「坂迎え」というが、文献によっては、「酒送り」「酒迎え」と記しているものもある。伊勢の御師も、講中を宮川で迎え、外宮あたりまで送るのを慣例としていたのである。
 いよいよ一行が出立。手代は外宮まで見送り、ここで断りをいって帰っていったのである。
 ところで、御師の館で費やした費用はいかほどであったのか。じつは、それも『伊勢参宮献立道中記』に記載されているのだ。
 それによると、「代々御神楽初穂料」が30両である。
 そのほか太夫の奥方や嫡子、助勤の太夫たちにそれぞれ祝儀として2,3歩ずつ。講中から御師岡田太夫に渡された額は、しめて36両余りとなっている。
 代参者は20人、その数からすると講員はおそらく300人以上、あるいは400人ぐらいか。講員が多い伊勢講としても相当な費用といわざるを得ない。例の『東海道中膝栗毛』には、講中での代々神楽の初穂料が15両とある。 これが標準的な中神楽の料金であるので、志度ノ浦講中のそれは、大神楽であった。ちなみに、小神楽の場合は、10両以下で、7両とか6両を支払った、という記録がある。
  しかし、それにしても相当な、というよりも法外な費用であった。江戸の後期、江戸の市中においてさえも、一家数人で年に5両もあれば暮らしがたった時代なのである。江戸時代の歴史、とくに庶民の生活の実態を見直さなければならないという根拠は、ひとえにこうした消費力にあるのである。 (『江戸の旅文化』から)
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<為替制度も発達した>  江戸時代の旅行案内書に持ち物として「印鑑」が書かれている。これは旅先で旅費が足りなくなったとき「為替制度」を利用して国元から資金を送ってもらうためであった。ごく一部の金持ちだけだったかもしれないが、この時代に「為替制度」ができていたのだった。  
 旅には大金がかかる。旅の費用を全額持参すれば荷物を重くしたし、第一危険であった。「金子の儀は大坂表、島屋佐左衛門まで送り着け置くべし。合印おし遣し置き、此印形引き合わせ、右金子御引き渡し下され候様申しおくり置き、道中は多く金子所持すべからず」とあるように、 幕末になると現金を飛脚屋に運ばせる旅人が多くなる。ここに出てくる島屋は、大手の飛脚問屋である。旅人が持っていく品々の中に、印鑑があげられているのは、現金を受け取る時に、あらかじめ捺印されていた印鑑と照合する必要があったからだった。 しかし、現金を持参する場合もまだ多く、小銭以外は胴巻きに入れて直接肌に巻いたり、肌着に縫い込んだりした。団体旅行ならば見張り番も大勢いるから心強かったが、少人数の場合はかなり緊張しなければならなかっただろう。 (『伊勢詣と江戸の旅』から)
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<日常を忘れリフレッシュするための旅>  伊勢参りの費用はどの位だったのか?それに関する文献からの引用を紹介しよう。
 伊勢参宮の旅には、いくつかの方法があった。ふつうは、伊勢講を組織して、講員がお金を積み立て、講員のなかから壮年男性と成人前後の青年男性を選んで代参させる方法がよくとられた。
 関西では、男女を含めた講員全員で総参りするのが見られる。
 関東の講は、外宮御師の縄張下にあたる1月から2月に出立することが多い。
 弘化2(1845)年の高木村の一行は、1月に、東海道から伊勢に向かい、途中、京都などの寺社をめぐり、復路は中山道を経由して善光寺に立ち寄ってから3月にもどっている。
 その間、およそ2カ月の旅は、日常生活からの離脱であり子どもから大人になるための、通過儀礼のひとつでもあった。
 その費用は次の通り。
 昼食・茶菓子代 1両2貫779文(平均約95文)
 祝儀・賽銭代  4貫916文(坊入金百疋、土産、参拝料を含む)
 交通関係    1両5貫16文(渡賃、駕籠、馬など)
 宿泊代     2両389文(平均約150文)
 ガイド・遊び  1貫932文(案内料、芝居、弓)
 その他     1貫764文(草鞋、髪結、身支度)
 合計      約金5両2分 世田谷から伊勢、大坂、金比羅、岩国に至り中山道経由で帰国。86日間
 喜多見(東京都世田谷区)の『伊勢参宮覚』弘化2(1845)年による伊勢参宮および上方・瀬戸内方面の旅日記から抽出。銭で合計を出し、金との両替率1両=6400文で換算。『伊勢道中記史料』より (『ビジュアルワイド 江戸時代館』から)
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<いろんな旅事情>  江戸時代いろんな人が旅をした。伊勢参りにこれほど費用がかかったのだが、旅人は金持ちだけではなかった。武士は自分勝手に旅をすることは許されていなかったが、庶民はいろんな人たちが旅をした。
 関所の通過は無料だが、待たされたり、ことに女性の場合いろいろうるさく調べられたりした。そこで関所役人にこっそり袖の下をつかませもした。通行手形を持たない旅人や、女人に厳しい関所なども、銭さえ積めばそれなりに抜ける方法はあった。 また寺社に詣でれば賽銭も必要だし、ついつい土産品なども買いたくなる。
 ともあれ、徒歩旅行とはいえ江戸時代の旅行は、かくもお金がかかったのだ。
 では、金持ちしか旅行ができなかったかというと、決してそんなことはない。ほとんど路銀を持たない人たちも、結構数多く旅をしていた。 聖や雲水などの行脚僧たち、門付けなどしてわずかにその日の糧を得ながら歩いていた旅芸人たち、本文の「村娘たちと西国巡礼の旅」に記したごとく、貧しい農家の娘たちがほとんど着の身着の儘で霊場巡りの旅をした例もあった。 御蔭参りなどの集団伊勢参宮も、大多数が下層民衆だ。飢饉などで土地を捨て、江戸をはじめ大都市を目指す棄民たちもいた。
 そうした人たちが旅をできたのも、近世までの旅の特質といえよう。かつて日本人は、貧しい人々にたいして優しかった。何がしかの施しをしてくれる家が少なくなかった。また宿場のなずれや村々には、たとえ納屋であれ、宿代を持たない貧しい旅人を泊めてくれる家があった。 草鞋などもまだ履けるものはお堂やお地蔵さんなどに供えておいた。貧しい旅人が利用できるようにである。茶屋で休んでも水を飲むだけなら無料であった。いまでは考えられないことだ。見知らぬ貧しい身なりの旅人に一夜の宿を貸す家など、現代の日本にはどこを探してもないだろう。
 御蔭参りなどの場合は、富豪たちが金品の施行を行い、膨大な無銭旅行者たちの面倒をみた。これには町々の治安を守る意味もあったという。明和期(1764〜1772)の御蔭参りに際して、大坂だけで鴻池善右衛門ほかの豪商たちが、合わせて7300貫文以上の銭を施行したという。 当時の相場で米8万4千石に相当する巨額だ。
 さしたる路銀を持たず旅をしていた者に、文人がいる。彼らは貧者ではない。そこそこに優雅な旅を楽しんだ。文化の伝播者である彼らは、地方の素封家や富商、有力な寺などに逗留した。そこで、その地の名所旧跡を見物したり、句会を開くなどの文学サロンを展開し、また書画を書きのこすなどして、 つぎなる目的地までの相応の路用を餞別に貰い、旅をつづけたものだ。もっとも、無銭旅行をする似非文人もいたであろう。「菅江真澄と民俗記録の旅」の稿で記したように、泊める側が、宿を貸すにふさわしい文人かどうか、さり気なく試したりもしたらしい。また「司馬江漢と畸人の旅」に記したごとく、「儒者、学者、虚名の者、ならびに物もらい不可入(はいるべからず)」という札を掲げた素封家があったりしたのはおもしろい。 (『江戸の旅人』から)
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<浪花講と東講>  庶民は「講」を利用してお伊勢参りをした。この「講」とは皆で金を積み立てて、順番にそれを旅費として使ってお伊勢参りをするための「講」であった。ところが同じ「講」と呼ばれる別の組織があった。先ほどの「講」は利用者のための組織で、こちらの「講」は旅館側の「講」だった。
 江戸時代も後半になり、庶民の旅が活発になると、宿場での様々な弊害も生じてきた。旅籠の強引な客引き、飯盛女の勧誘、旅籠での賭博、独り客の拒絶、宴会での大騒ぎなどは旅人にとっては不快なものである。
 大坂松屋の手代源助は、行商の経験から安心して泊まれる旅籠組合の結成を思いつく。
 そして主人松屋甚四郎と江戸の鍋屋甚八が講元となり、源助を発起人として「浪花組」を結成(後に「浪花講」と変更)した。文化元(1804)年には、江戸、京、大坂の三都に世話人を置いている。
 講元は、講に入った全国優良旅籠に看板を交付した。旅人たちは、この看板を目印に宿泊するというものである。加盟旅館では、飯盛女は置かない、賭博はしない、酒宴は騒がないという規定を守った。 女性や心ある旅人には喜ばれ、その加入範囲は五街道をはじめ全国に及んでいる。
 講を紹介した『浪花講定宿帳』も出版した。これは天保7(1836)年以降、数回にわたって改訂版が出されている。
 旅人は、講発行の道中記を見て指定旅籠を利用したが、自分も講員であることの証明に、講発行の木札を持ち歩いた。
 天保元(1830)年、「浪花講」と同じような組織、「三都講」が発足する・大坂の河内屋茂左衛門が講元で、京都・江戸に世話人を指定、三都の協力により結成された。浪花講と激しい競争をしたが、どうしても勝てない。「三都講」の成立後も、天保7(1836)年に松井講、弘化4(1847)年には永寿講と、似たような組織が出来ている。
 安政2(1855)年には、「東講」が創設された。江戸の大城屋良助が講元である。「東講」は一時「浪花講」「三都講」を凌駕するほどの勢いで隆盛している。
 「東講」が他と異なるところは、三都を結ぶ東海道や中山道が主ではなく、東日本、特に東北から関東地方の旅籠に普及させたことであろう。その特徴は、旅商人を主とした旅籠組合であった。「東講」でも『東講商人鑑』を出版して旅人の便宜を図っている。
 こうした「講」は一時隆盛したものの、月日が経つにつれて設立趣旨も薄れ、指定旅籠の待遇も悪化していったようである。規定は何度か改定されて明治維新を迎えた。明治以後は、こうした「講」はほとんど衰退してしまった。(菅井靖雄) (『図説江戸6 江戸の旅と交通』から)
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<主な参考文献・引用文献>
江戸は夢か                             水谷三公 ちくま学芸新書   2004. 2.10
江戸の旅文化                            神崎宣武 岩波新書      2004. 3.19 
伊勢詣と江戸の旅 道中日記に見る旅の値段              金森敦子 文春新書      2004. 4.20 
ビジュアルワイド 江戸時代館                         小学館       2002.12. 1
江戸の旅人                            高橋千劒破 時事通信社     2002. 5. 1
図説江戸6 江戸の旅と交通                     竹内誠監 学習研究社     2003. 9.12
( 2005年7月25日 TANAKA1942b )
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(33)抜け参り,お蔭参り,ええじゃないか
その不思議なエネルギー

タイムトンネルをくぐって江戸時代に行けたら、そして江戸か京か大坂、又は街道沿いに住んだとしたら、この「抜け参り」とか「お陰参り」とか「ええじゃないか」はとてつもなく奇異なものに映っただろう。 人々が突然仕事を投げ出し、日常生活を棄てて、伊勢神宮へ伊勢神宮へと歩き出す。何の準備もなく、路銀もなく、伊勢神宮へと向かう。それでありながら、現実からの逃避行とも言い切れない。ほとんどの人は戻って来ることを前提としていたし、実際戻ってきている。 そして伊勢神宮から、ついでに京の寺社見学や、善光寺参りをしたりしている。沿道の人たちは食料や草鞋などボランティアで提供する。封建制度の重大なルール違反でありながら、幕府は黙認していた。 そのような「お陰参り」、多様な視点から見ないと視野狭窄になる。そこで、いくつかの文献から引用することにした。
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<お陰参り>
 いったいどれほどの人びとが伊勢へと出かけたのだろうか。
 伊勢への旅というと、お陰参りを抜きにしては考えられない。お陰参りは伊勢を信仰したために病気が治ったとか、思わぬ幸運に恵まれたといった人の、お礼の参拝からはじまった。 伊勢の利益はそれほど絶大だという噂がたちまち広まって、その利益にあやかろうという者たちが、一行に加わって伊勢へと向かう。多の地方にもそうした噂が飛んで、そこでまた伊勢へ向かう一団ができる。 こうした集団は道中を進たびに参加者を増やしながらふくれあがっていったという。
 突然参加すうる、彼らは着の身着のままの無一文。旅費はもちろん、往復手形の用意もないし、親や主人に、無断で出てきた者もいる。旅の支度はなにもしていない。こうした一団は熱に浮かされいて、足りないものがあると、沿道の物持ちの屋敷に土足で上がり込んで、必要なものを奪い取りかねないと思われていた。 だから前もって大量の炊き出しをして待ち受け、事なきを得た金持ちもいたし、素朴な好意から率先して喜捨をする沿道の人びとも少なくなかった。食べ物もわらじも、時には寝床さえも、こうして無料で提供された。厳しい取締で知られている関所でさえ、お蔭参りの一団が押し寄せると、門を開いて通すしかなかったという。 だからこうした一団に加われば、旅の用意など一切が不要だったのである。
 江戸時代には、このような大がかりなお蔭参りが数回あった。中でも大規模だったのは以下の4回である。
 最初のブームは慶安3(1650)年正月下旬のことで、江戸の商人たちからはじまった。白衣姿の一団が無数にでき、1組ごとに幟(のぼり)を立てて伊勢へと向かったという。箱根関所の記録では、初めのころは1日500〜600人だったのが、3月下旬から5月までは1日に2000人を超えてしまったとある。
 宝永2(1705)年のときは京都の宇治が震源地だった。西は安芸や阿波、東は江戸に及び、本居宣長の『玉勝間』によれば、4月上旬から1日に2000人から3000人が伊勢松阪を通ったという。それがたちまちのうちに日々10万人を超えるまでになり、5月29日までの50日間に362万人が伊勢に押し寄せ、最高そときは1日に22万から23万という、信じられないような数字があげられている。
 明和8(1771)年は山城の女や子供たちの抜参りにはじまり、徐々に東北を除く全国に広がっていった。このときに外宮から参拝者に出された剣先祓は、1日に37万体に達したとも、4月から8月9日までに伊勢の手前の宮川を渡った者は、207万7450人にのぼったともいう。
 文政13(1830)年のお蔭参りは最大級のものとなり、着の身着のままの者が多かったのがこの時。3月に阿波からはじまり、3月末から9月までに宮川の渡しを通った人数はおよそ486万人、1日の最高では14万8000人とある。19世紀中頃の全国の人口は2952万人ほどと推定されているから、6人に1人が出かけた計算になる。
 もちろんいずれも風聞を集めたもので公式な数字ではないのだが、割り引いて考えてみても大変は人数である。
 お陰参りは60年周期で流行するといわれた。実際に流行したのはきっちり60年ではなかったが、その時期にめぐりあえばごく簡単に長期の旅ができたのである。
 中には道中で施行(せぎょう)されたものを貯めて、無一文で行ったのに銭を持って帰ってきたというメデタイ話もある。反対に施行のある場所に行き着く前に、空腹にたえられず戻ってきたという者もいたし、遊女に売られた娘もいる。 野垂れ死にをしてしまったのか、戻ってこなかった者もいたようだ。しかし、お陰参りのエネルギーに巻き込まれて伊勢まで行って、また戻ってきた者がほとんどだった。 この体験は外の世界をしる機会が少ない人びとにとっては衝撃だったであろうし、また旅というものが案外簡単なことだと印象づけられたことだろう。旅は、こうしたお陰参りによってもずいぶんと庶民に身近なものになったのである。
 しかし、お陰参りはあくまで突発的なものであり、それがいつやってくるか、およその予想はつくものの、はっきりはわからなかった。
 それまで我慢できない者、あるいは女たちや商家の使用人などは、旅をする機会がなかなか与えられなかったので、親や主人の許しを得ずにこっそりと伊勢へ旅立った。これは「抜け参り」といって、明和8年以降に特に多くなった。こうした者の中には、まだ乳臭さのとれない、幼児といっていいほどの少年の姿さえ見られたという。
 『東海道中膝栗毛』にも、東海道神奈川宿のはずれで、「奥州信夫(しのぶ)郡幡山村」から抜参りで伊勢へ行こうとしていた12歳から15歳ほどの少年の一団をからかう場面がある。 信夫郡は現在の福島市に当たり、福島から伊勢までおよそ185里(約740キロメートル)。抜参りの常で、この少年たちもおそらく伊勢から信州の善光寺まで足を伸ばすのだろう。そうすると往復は400里(1600キロメートル)を優に超えるはずである。この距離をもちろん徒歩で、しかもほとんど無銭旅行に近い状態で歩き通すことになる。 (『伊勢詣と江戸の旅』から)
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<御陰参り>
 おかげでさ するりとな 抜けたとさ
 おかげでさ するりとな 抜けたとさ
 単調なリズムにあわせて、同じような菅笠をかぶり、藁で編んだ茣蓙(ござ)を小脇に、そして腰には柄杓をはさんだ一団が通り過ぎていった。と思うと、すぐそのあとから、10人ばかりの子供が草履をひきずりながら、それでも声だけは一だんとはりあげて、「おかげでさ」と唱和してゆく。
 子供の一行に続いて、野良着姿そのままの百姓が何十人か列をなしてゆく。かと思うと、これまた思いきり派手な恰好をした娘さんたちの一行がゆく。揃いの脚絆に、揃いの手甲、そして揃いの衣裳である。赤いしごきが眩いほど美しい。
 それを目当てに、後ろのほうから威勢のよい職人たちの冗談口が追っかけてゆく。これも、どこかの仕事場をそのままに抜けてきたような恰好である。その間の混じって、足弱な老人を乗せた駕籠が走り、馬に乗せられた女や子供の姿も見える。
 宝永2(1705)年閏4月、伊勢神宮参拝の抜参りは、京都方面から始まった。この行列は、伊勢へ伊勢へと続いて、最初のころは1日3,4千人にすぎなかったものが、やがて10日目を数えるころになると、1日に10万人をこえる群衆の更新となった。京都を中心として、それは一方では丹波・但馬・因幡のあたりまでその影響を伝えたのである。
 はじめのころは、「隣の長太は夕べ、抜けおった。去(さり)とても肝のよい奴じゃ」とか、「向かいの八兵衛は、けさ抜けおった。あいつはすっぱりした奴じゃ」などどいって、他人の抜参りをしきりにうらやましがっていた連中も、抜参りから帰ってきた人たちからその道中の話を聞いて、じっとしておられなくなった。 たしかに、初めて抜参りをする連中には、長太にも八兵衛にも勇気が必要であったろう。封建社会の掟は、そのようなかってな旅や行動を許してはいなかったのである。
 京都から伊勢の神宮への往復は、普通の足で7日かかるものとされていた。それが但馬や因幡となると、その倍もかかったであろう。百姓や職人たちが、その間まったく仕事から離れるのである。しかもかれらは、ふと思いたって、突然に姿を消してゆくのだ。 のちに、諸藩が法令を出して、これを欠落人と認めるといいだしたもの当然であろう。明らかに慶安の御触書や、郷中に出された諸法度の精神に背いているのだ。
 しかしながら、長太や八兵衛の話は、道中の限りない楽しさを物語っていた。このようにして町や村から抜けてきた連中は、すっかり解放された気分に浸っていた。因幡の者も近江の者も、その解放された空気のなかで、すぐ友人になることができた。おたがいに冗談口をたたいているうちに、まるで10年の知己を得たようになるのである。
 抑圧された性の解放もあった。旅に出た解放感が、男にも女にも、封建的な性の呪縛を解いて、かれらを原始の性に立ちかえらせるのである。本居宣長の養子大平が書いた『おかげまうての日記』には、そのような性のたわむれを口々に言いはやしながら、浮かれて通り過ぎてゆく年寄りや若者、それに当然恥じらうはずの娘たちも平気でそれに和してゆく姿が記されている。
 それにつれて、京や大坂の道中筋では、報謝ということがしきりに行われていたという。宿は無料で泊めてくれる。食物もただでくれる。銭まで持ってゆけと言う。草鞋が切れれば新しい草鞋をくれる人があり、足を痛めた人には駕籠や馬に乗せて無量で運んでもくれる。笠や茣蓙は、どこでも新しいのが用意され、報謝を受ける人を待っているというのだ。
 しかも、ひとたび堰を切った勢いは、もうどうすることもできない状態になっていた。京から近江にかけて過ぎてゆく行列は、約150万人にものぼったという。わずか1月に足らない間の数字であった。
 京からの行列が、しだいにその群衆の数を減じてゆくと、すぐそれを追うて大坂からの一団が殺到した。それは、最初5,6万人であったものが、やがて12,3万人になり、ついには1日23万人にものぼったという。23万人の大群衆に押しかけられては、もはや宮川の渡しは、船で往復することができなくなった。ついには、船を並べてその上に板を渡した船橋が生まれることにもなる。大坂方面からの群衆、計約220万人。
 宝永2(1705)年閏4月に始まった伊勢参宮の群衆は、本居宣長の『玉勝間』によると、5月29日で終わることになるが、その間、50日あまりのあいだに通ったものすべて362万人に及んだという。そして、これに参集した人々の国はすでに記した山城・近江・丹波・但馬・因幡のほかに、美濃・大和・河内・和泉・摂津・備前・安芸・阿波・伊賀・伊勢・志摩など16ヶ国にまたがっていた。
 宝永2(1705)年から数えて21年ののち、8代将軍徳川吉宗が初めて行った全国の人口調査によると、その数は約2655万人(武家人口を除く)ということになっている。以上にあげた16の国は、当時、わが国ではもっとも人口の集中した地方であったろう。 しかし、それにしても362万という数は、総人口の14パーセントに近く、おそらくそれらの地方に住む人々の半数か、あるいはそれ以上の者が参拝したことになるのではなかろうか。
 もちろん、伊勢への抜参りは、楽しいことばかりではない。おびただしい人間の群の前には、道中の設備はじゅうぶんではなく、茶屋や煮売屋などに食物がきれて、10里も20里ももあいだを空腹をかかえて歩かなければならないことがあり、また、それだけの群衆を泊める宿も家もなかった。かれらは野に伏し草に寝なければならないことも多かった。
 疲れた足を引きずりながらたどりついても、風呂にさえ入るもともできずに、長い道中を過ごさなければならなかった。しかも、旧暦の5月といえば、日差しはすでに初夏であった。ギラギラと光るその大要が単衣の着物を透して、身を焦がすのである。病気に倒れる者も少なくはない。それでもかれらは、ただ神の恵みを求めて、伊勢へ伊勢へとなびいていったのだった。 (『日本の歴史 17町人の実力』から)
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<抜け参りとお蔭参り>
 往来手形を持たない、すまわち主人や親等の許可を得ない参詣の旅を抜け参りと言った。抜け参りは、特殊な人の旅のように思うかも知れないが、実態として相当に日常化していた。『東海道中膝栗毛』をみると、弥次・喜多は各地でこの抜け参りの人々と出会っており、時に彼らにわずかな金銭を施している。
 今切関所のある新居宿の庄屋は、元文3(1738)年6月6日に町奉行へ対し、例年通り来る8日より抜け参りで22人が神宮へ旅立つと予告し、全対象者の名前を届けている。寛保元(1741)年」にも同様に届けているから、同宿では抜け参りが年中行事化していたのであろう。
 地域によっては、若者になると通過儀礼の一環として抜け参りを行うという例も多い。まったく資金を持たない子供や、一方で分別盛りの大人が抜け参りに参加する例もある。
 抜け参りの多くは、十分な旅費を持たず、旅先で旅人や沿道の人々から合力を受けながら旅を続けた。抜け参りへ合力することは、それにより自分にも参詣の功徳が分け与えられるという意識と、子供が一人前になる通過儀礼を支援するという社会通念があったからである。
 抜け参りは、制度的には違法行為であった。しかし旅の目的が、たとえ建前でも参詣という宗教行為であれば、帰ってから厳しくとがめられることは少なかった。抜け参りの理由を尋ねられた時、殿様の武運長久や主人の家内安全・健勝を祈願するためであったなどと答えれば、処罰もできないからである。
 抜け参りの行き先は、伊勢神宮が最も多いが、金比羅宮・高野山・善光寺や教徒の社寺、あるいは近隣の大社寺なども対象であった。神宮に加え、各地の旧跡などを周遊的に回ったりもした。社寺へ参詣をしない旅も考えられるが、旅先には必ずと言っていいほど有名な社寺があった。
 新居宿で年中行事化していた抜け参りは、西方の神宮であったので、同宿東端にある関所の検閲とは直接的な関係がない。ただし通常でも同関所では、往来手形や関所手形を所持しない他国からの抜け参りや巡礼、あるいは非人・乞食の通行を黙認していた。これらの社会的弱者に対しては、当時の政治・制度的な枠を超え、黙殺という建前的な方法により、特別な処遇をしていたのである。
 「抜け参り」の大規模なものを「お蔭参り」と言う。それは一般に江戸時代を通じて慶安3(1650)年春から翌年、宝永2(1705)年から翌々年、明和8(1771)年の夏、文政13(1830)年夏、この4回を言う。またそれは大体60年周年目であるので、人々は一生に一度はその恩恵にあずかることができたとも言われている。
 しかし慶安3(1867)年のものについては、江戸を中心に関東地方で流行したもので、東海以西ではさほどの現象が見られない。それでも箱根関所の調査によれば、慶安3年3月28〜29日の2日間だけで神宮に向かおうとした子供が1万2千人余、そのうち同関所を管理する小田原藩領の者が228人、ほかに女手形を持っていないために追い返され女性が18人もいた。(中略)
 集団による抜け参りは、神宮へのいわゆるお陰参りだけではなく、それ以外にもしばしばあった。領すの政策などにろち庶民が村内に縛られる毎日の生活からの一時的解放であり、また大勢で抜けてしまえば怖くないという群衆真理でもあった。
 例えば、寛永15(1638)年に江戸とのそ周辺で集団による参宮が流行している。えどや駿河国では、万治4(1661)年にも集団による参宮があった。これ以降にも全国各地で群参が流行し、それがいわゆる第1次東海道ブームの基盤となったのである。
 宝永2(1705)年の大規模な抜け参りの流行の後にも、やはり集団による参宮が流行している。特に享保3(1718)年と同8年には全国的に参宮が流行し、各地で施行が行われた。
 享保14年には神宮で式年遷宮があり、その影響で翌年には東海道筋の三河・遠江・駿河国で参宮に出掛ける人数が異常に多かった。遠江・三河国東部の人々の参宮では、三河国の吉田湊から出帆することが多く、享保15年の同湊の利用者は約8千人で、前年の2倍、翌年の3倍にも達している。
 寛延元(1748)年にも各地から大勢の参宮があり、宝暦8(1758)年にも伊勢路に米銭が降るという流言が広まって参宮が流行した。特に宝暦8年は、一部にそれをお陰参りと称した人もいたと伝えられている。
 このように地域的、あるいは全国規模での集団による抜け参りは、ほとんど不定期で発生した。その契機は、何らかの奇端現象の直後に、日常的には旅と縁が薄い女性や子供が旅立つのを見かけ、それに多くの庶民が付随して、集団による抜け参りに展開するのが一般的であった。 (『東海道の宿場と交通』から)
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<伊勢をめざした民衆のエネルギー>
 いったい460万人もの人が、伊勢神宮へ参詣する光景を、どう想像できるだろうか。それは「お伊勢参り」というには、あまりにも型破りな参詣であった。
 江戸時代の慶安3(1650)年にはじまる伊勢神宮への集団参詣は「おかげまいり」の名で呼ばれ、幕末までの前後7回が記録にのぼっている。このうち天保元(1830)年の閏3月に、四国の阿波(現在の徳島県)にはじまった「おかげまいり」は、5センチほどの長さの「おふだ」が降ってきたことがきっかけだった。
 四国はもとより京都・大坂から、東は遠州、駿州、伊豆、相模、さらに美濃、越前等々にまでおよんだ「おふだふり」という奇異な現象は、はじめは子どもたちの集団を誘い、参宮熱ともういうべきそれは、あっという間に各地を襲い、普段は旅する機会もない人々を伊勢参宮へと駆りたてていったのである。
 「おかげまいり」と書いた笠をかぶり、一人ひとりが杓をもった群参。大坂からは若い50人余の女たちが男模様の衣裳を身にたうけ、緋縮緬のふんどしまでしめ、髪も男まげに結んで、道中「御蔭でさ、するちとな、抜けたろさ」とはやしたてて歩いた。さらに京都からの参宮者もまた鬼面をかぶったり、赤い衣裳をまとうなどして、華美をきわめたという。
 いったい伊勢神宮へ詣でるのに、時代の常識、倫理意識を破ることこそが目的であるようなこの出立ちは何を訴えていたのだろうか。
 最初の「おかげまいり」ともいうべき慶安3(1650)年、この年の正月下旬から群参が始まり、もっとも多かった3月中旬から5月にかけて、1日に2100人もの参詣者が箱根の関所を越えて行ったと記録されている。
 東海道沿いの群参については、元禄4(1691)年に江戸参府を行ったドイツ人医師ケンペルの記録にも見える。彼は大津から土山までの13里の道中で多くの旅人に出会い、その大部分が徒歩で伊勢神宮に向かう人であることに驚き、「春の東海道は参宮する人によって埋めつくされている」と記している。
 初期の群参でその衣裳が白衣で整えられていたのは、中世以来の熊野詣でなど、社寺巡礼に観念されていた”死に装束”を意味していた。心身の苦痛をともなう巡礼は、仮死から新たな生へと蘇る、非日常に横たわるタイム。トンネルのようなものだった。
 それが宝永2(1705)年、享保年間の「おかげまいり」をへて、参詣者の風俗はいっきに派手さを増し、異様な衣裳を身につけ、笛や太鼓、三味線までもち出し、宿々ではやしたてながら進んだというのである。
 南山城にはじまり、奈良、大阪、河内と、近畿全体から集まり、東は尾張、岐阜、大垣、江戸、伊豆、相模からの群参もあった明和8(1771)年の「おかでまいり」にいたって、集団参詣は日常から解放されたいという、精いっぱいの思いを反映してか、多分に娯楽的な要素を帯びていた。
 「おかげまいり」の象徴とも言える柄の長い杓(参詣者はこれに銭など施物を受けた)を餅、口々にはやしたてながら、東海道を四日市をへて伊勢まで、およそ500キロの道もりをひたすら歩き続ける群参を想像してみる、そこに、悲しいまでの庶民の純情としたたかな逞しさがない交ぜとなって、彼らを急ぎたてているものが見えてこないだろうか。
 「おふだふり」が、たとえ参詣を待ち望む伊勢神職団による民衆扇動に発端があったとしても、空から舞い落ちた1枚のお札を、まるで天啓のしりしにでも触れるようにしていただき、それを機に耐えていた日常の拘束がいっきに破られる。さらにそれを起爆剤として、誰もが非日常の時間空間へ突入して行くことが暗黙のうちに許されてしまう。 むろんここで「おふだふり」の噂はその都度増幅し、大神宮の髪のお陰によって旅が可能なのだという確信が、人々をいっそう駆りたてていく。
 親子、夫婦、兄弟、姉妹さらに雇い主と使用人という絆など、身のまわりのいっさいの拘束を振り捨て、奉公先を抜け出し、伊勢大神のお陰とばかり、勇んで人々を参宮に向かわせた力。 それは、時代の変化を鋭敏な感覚でキャッチしてきた庶民が、なお果敢に生きようとするエネルギーにちがいない。むろんここには鎌倉時代にはじまる、一般民衆の熊野詣でや観音霊場などへの聖地巡礼が伏線としてあったことはいうまでもない。
 そればかりではない。『日本書紀』が伝えるように、倭姫命(垂仁天皇の皇女)に託された天照大神が、常世の浪が打ち寄せる伊勢の地に祭神として鎮座されるまで、大神は倭の笠縫の邑から長い長い旅をされた神だったことを、いま一度思い出さなくてはならない。
 そして古くから日本人は、旅する人に神の巡幸を見てきたのだ。ほとんど着の身着のままで在所をとび出しながら「お陰でさ、するりとな、抜けたとさ」と囃したてながらの旅が可能だった理由も、日本人のこうした神に認識と無縁ではないだろう。 (『東海道人と文化の万華鏡』から)
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<主な参考文献・引用文献>
伊勢詣と江戸の旅 道中日記に見る旅の値段              金森敦子 文春新書      2004. 4.20 
日本の歴史 17町人の実力                    奈良本辰也 中央公論社     1966. 6.15
東海道の宿場と交通                         渡辺和敏 静岡新聞社     2000. 4.28
東海道人と文化の万華鏡                     久保田展弘他 ウェッジ      2003. 7.29
( 2005年8月1日 TANAKA1942b )
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(34)おかげまいりの経済効果
無銭旅行を支えた「施行」

「抜け参り」「お陰参り」「ええじゃないか」を単純に評価するのは難しい。いろんな面があり、いろんな人がいろんな評価をしている。視野狭窄にならないように多くの人の見方を紹介することにしよう。
<近世最初の「おかげまいり」>  近世に入って最初の「おかげまいり」として伝えられているものは、慶安3(1650)年のものである。これは松浦静山の『甲子夜話続篇』その他諸書にあげられているが、いずれもその典拠としているのは、『寛明日記』の短い記載だけであって、それ以外に詳細はわからない。 これによれば、この年江戸の商人たちが、大神宮へ「ぬけ参」ということをはやらせ、正月下旬から天下の人民が「悉く群参」し、その衣裳はみな「白衣」を用いていた。箱根山の関所で調べたところによると、1日の500〜600人から800〜900人ばかりにのぼり、3月中旬から5月までのあいだに、1日2100人に達した。 そして参宮人は1組ごとに印(しるし)を立てていたという。このときの参宮人が「白衣」を着ていたということは、中世以来の社寺巡礼者の風俗であって、これは「清浄」をたっとぶというところから用いられたのである。 この点から慶安の「おかげまいり」が、まだ中世的な伝統を継承したものであると指摘される。またひと組ごとに印を立てていたといいうことは、「おかげまいり」の参宮集団が、なんらかの組に組織されたことを示すものであり、それは多分、講を単位として参宮に動員されたものであろう、
「おかげまいり」と「ぬけまいり」  宝永2(1705)年の「おかげまいり」ぬいついては、本居宣長(1730〜1801)が『玉勝間』に、「伊勢のお蔭参」と題して書きしるしているのでよく知られている。しかし宣長の記述は、「あるものに、宝永2年伊勢の大神宮に、おかげ参りとて、国々の人どもおびただしくまうづる事のありし、その人数をつぎつぎしるしたるやう、 四月上旬より、京併に五機内の人、ぬけ参宮という事あり」とまえおきして、参宮者の人数の消長を記しているだけである。それによると、「凡閏四月九日より、五月廿九二日まで、五十日まで、五十日の間すべて三百六十二万人なり」とある。 国学者の宣長が、このような大規模の集団参宮の事実を書きとめながら、たんに人数をあげるだけで、国学者としてのなんの感想も意見も記してしないのは奇妙である。ましてかれ宣長は、生涯のうちにのちの明和の「おかげまいり」に出会っており、『玉勝間』はその後刊行されたのだから、このことについて記していないことも含めて、全く不可解といわなければならない。 ここに国学者の「おかげまいり」に対する、過小評価があらわれていると考えられるのである。
  このときの参宮者の人数については、『伊勢太神宮続神異記』に、閏4月9日から5月28日までの日々の人数を記しており、その総数は約330万ないし370万であって、『玉勝間』の362万とほぼ同数であり、両者は同一の資料によったものであろう(もっともこの資料はあまり正確なものとは言えないようである)。
「おかげまいり」による物価騰貴  おかげまいりでは大量の人びとが道中するのであるから、街道筋の物資はたちまち欠乏し、諸物価が値上がりするのは当然のことである。
 「かヽれば、此の伊勢詣の道ほど、宿々所々のちや屋、旅籠屋などといひて、物うり、人やどしなどする家々には、たくはへおきてうる物どもゝ、今はつきなんどぞいふめる。中にも酒もちひ(餅)などはいふもさらなり。 其外もすべて旅人にうる物つくる家々には、例よりも人やとひくはへ、、ながき日に夜をさへかけていかでおほくといそぎつくれど、かぎり有てさしもえつくりあへずなん。なかにもわらうづ(わらじ)は、いづこもいづこものこりなくうりはてゝ、ちかきわたりには今は一つもなきよしなどいひあへれば、 まれまれなほたくはへもたるものは、物の憐もしらぬ商人心に、いとかしこき事と思ひて、こよなう高くなんうるめる」(『おかげまうでの日記』)
 物価騰貴の状況が手にとるようにあざやかである。『御蔭之日記』はその注記に、その日の相場を記している。それによれば、「おかげまいり」の初期である4月18日、白米1升58文であったものが、1カ月後の5月19日には66文、6月16日には70文にはね上がっている。 当時の平常の米価は、大体1升50文前後であったようであるから、非常な高騰といわねばならない。また、草鞋も5月3日に8、9文であったものが、7日の13,14文から15文に、さらに9日には17,18文から24文まで暴騰したという。 旅籠賃も5月7日ごろには、「百文位のはたごは一向干魚などにて済」ませるという有様で、奉行所もほっておくことができず、山田では「はたご80文、木ちん24文に公儀より極」め、また「松阪両入口に馬かた駕かき吟味所出来、籠ちん壱里百に極」めて、暴利の取締りをしなければならなかった。 また一方、伊勢地方の物価が高騰すると、「尾州よりわらじ舟二艘、白米つみ参り候由」(5月9日)というように、他地方から物資が運び込まれた。
「おかげまいり」の経済効果  『翁草』にはこのときの参宮人を150万人として、「此路用上(のぼり)の分金三歩、下(くだり)の分銭三百宛にして、又小児無銭の者平均して、凡銀三万三千五百貫目と記す」とのべている。 これを当時の普通相場で米1石銀636匁とすれば、38万5000石余に当たり、米1石=1万円の計算で換算すると、およそ現今の金で38億5000万円余となる。このときの「おかげまいり」を経済的にみれば、これだけの金が動いたのであって、この点から見ても「おかげまいり」は、近世社会においては重要な社会現象であった、と言わなければならないのである。
 報謝の施行についても、明和の「おかげまいり」にはより大規模に行われたことを示す記録が残っている。大坂だけの施行について見ても『御蔭之日記』によれば 表「大坂施行」のとおりである。
 大 坂 施 行 
施 行 物  施 主備 考
銭 2,300貫文鴻池善右衛門金 460両
草鞋 250,000足安治川問屋中金 150両
餅米 100石中嶋や 
銭 1,000貫文辰巳や金 200両
銭 1,000貫文天王寺や金 200両
笠 120,000かい上町 
琉球竹杖数不知嶋の内 
銭 1,000貫文日野や金 240両
銭 2,000貫文平又金 400両
銭高不知かじまや 
白米1,000石堂島問屋中 
船 300艘天満市ノ側問屋中 
手拭新町茶屋中 
高挑灯 1,000本道頓堀茶や中水油 85樽
人足1日 300人北浜十二浜中 

 この金額は、銭だけでも、金額不明の加島屋の分を除いて7300貫文となり、現今の金にすれば、約1億5300万円ぐらいに当たる。この他にも、大津で三井八郎右衛門が笠と金600両の施行をしたということも伝えられており、 松阪魚町の長谷川次郎兵衛も、金500両と米500俵を施行したと風聞されている。これらを総合すれば、今回の施行の総額は莫大なものであったと考えられ、「おかげまいり」が、当時の京坂地方における商業の発展、豪商資本の蓄積と切り離すこののできないものであったこのがわかる。 (『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』から)
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<時代に向き合う庶民の意識>  近世に起こった7度におよぶ「おかげまいり」のうち、宝永2(1705)年、明和8(1771)年、天保元(1830)年、のそれを3大「おかげまいり」に数えるが、200万人から400万人台におよんだこれら「おかげまいり」の発生にはおよそ60年の周期があった。(中略)
 さらに明和8年の4月ごろにはじまる「おかげまいり」は、山城宇治郡の茶山に働く女、子ども2,30人のグループによって口火がきられ、近郊農村のあいだに広がっていった。
 実質200万人が参詣したと記録されるこの年の「おかげまいり」は東海道周辺の人々のみならず、九州の小倉あたりまでの人々をまき込んだが、京都・大坂の都市部からは、当時の家内工業に従事した奉公人たちの参宮が多かった。
 圧倒的多数を占めるこの庶民の参宮を、雇われ農民や奉公人層に秘められた信仰心や解放運動にだけつながる行動ととらえることはできないだろう。集団参詣は、そこに「抜け参り」を容認する状況があってはじめて可能なことは言うまでもない。 しかも着の身着のままに近い参詣者たちは、各地で食べ物、交通機関、わらじにおよぶ、組織的な施行をもって迎えられているのである。
 群参が通り過ぎる道中筋の、参詣にかかえあるあらゆる物資の欠乏と物価の高騰。しかもこうした状況に対応するかのような、豪商たちによる大がかりな施行。これがたとえ、こんにち見られるような巡礼者にたいする接待、ボランティア精神だけでなく、大資本による時代の動きに対する自己防衛的な判断によるものだとしても、ここには明らかな時代の変化が見てとれる。
 すでに18世紀の後期、米をはじめとする農産物は、広く商品経済の価値観のもとにあつかわれていた。農村にしても商工業者にしても、そこに働く人々の意識は、もはや一方的に雇われている籠の鳥のそれではない。 世の中のベースを支えた民衆の、時代に向き合った意識の変化がなければ、その後訪れる、幕末から明治におよぶ激動の時代を迎えることは不可能だったのではないか。
神の意向と新奇の風流
 もともと皇室の祖神を祀り、律令制のもとで国家祭祀の対象として、すべての神社の中で格別の位置づけあった伊勢神宮には、長いあいだ天皇以外の奉幣は厳しく禁じられていた。 それが平安時代末期にいたって、王朝の財政が衰える中で、伊勢神職団(御師・おんし)による大神宮への援護要請という積極的な活動があって、それまでになかった豪族、武士たちによる参詣がいっきに加速する。 そして室町時代にいたって神明講(伊勢講)が組織化され、江戸時代にそれは全国的規模で広がっていったのである。ここに村々の鎮守神とは別格の、日本人にとっての精神のよりどころ、親神さまにも位置づけられる伊勢信仰が庶民の心を捉えてゆくことになる。
 イエズス会の宣教師として日本に滞在していたルイス・フロイスは天正13(1585)年付けの書簡で日本人は「伊勢へ行かない者は人間の数に加えられぬと思っているかのようである」とさえ報告している。
 伊勢詣では各地に拠点をもつ講を中心に行われてきたのだが「おかげまいり」や「抜け参り」は同じ伊勢参宮でありながら、その動機と道中そのものに意味があった。なぜなら「おふだふり」に触発された群参には、つねに内外宮参詣の喜びより、在所をとび出し、奉公先を抜け出し、あるいは華美をつくして道中の新奇の風流そのものを楽しむ様子ばかりが伝えられているからである。
 近世を通して、日本人の5人に1人は伊勢神宮へ向かったと言われるくらいに民衆を大量動員した「おかげまいり」は、少なくとも神話的な神詣でのそれではない。そこには伊勢参宮をキーワードとする「民衆の時代到来」という、ひそやかな宣言がこめられていたかも知れないのだ。
 はじめ庶民の伊勢参りには、天照大神を祭神とする内宮より、食物神を祭り、農耕的な祈願の対象ともなった外宮・豊受大神宮への比重があった。しかし一方で、鎌倉時代に東大寺勧進職だった重源や、最大時を中興した真言律宗の叡尊などによる伊勢参宮があってから、仏法守護の大神宮としての伊勢が重視され、天照大神は「一切衆生の父母」と言われるくらいに、その信仰が民衆化してゆくのである。 そして神仏習合の意識に促され伊勢に詣でる人は、内外宮とともに、奥の院としての金剛証寺に詣でることを忘れなかった。
 20数年前、寺宝を拝観した折、天照大神のすがたを墨絵にした軸に「日本国主天照大神宮也」と墨書されていたことを今も忘れない。「神は時代の顔を見せる」と直感したのもこのときだった。
 江戸時代という封建制社会にあって、その実、町人が力をつけていた時代、経済活動は年々勢いを増しながら、東海道をはじめ各地の道路、飛脚等々、インフラが整備されてゆく。その中で、伊勢神宮はいち早く、新しい時代の担い手となる民衆に向かって、神異を宣伝し始めたのである。
 「おかげまいり」は、その神異に踊らされながら、時宜を得たように神の意向を逆手にとって風流をさえ楽しむ、民衆の一代パフォーマンスだったかも知れない。 (『東海道人と文化の万華鏡』から)
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<お蔭参りのご利益>  旅が庶民レベルまで広がったのは、何度となく繰り返されたお蔭参りと、主人や家族に無断で伊勢へ出掛ける抜け参りが黙認されていたことの影響が大きかった。
 慶安3(1650)年に始まったお陰参りは、60年ごとに伊勢の神威があらわれると噂されたが、実際には宝永2(1705)年、享保3(1718)年、享保8(1723)年、明和8(1771)年、文政13(1830)年に、爆発的な流行を見ている。
 伊勢へお詣りしたら病気が治ったとか、伊勢のお祓いやお祓いやお札が降ったのが契機となって思わぬ利益にめぐまれたとか、幸運は口から口へと伝えられ、伊勢参宮をする者が増える。 そしてある日突然、着の身着のまま農民や商家の奉公人の大群衆が、どっと伊勢へと繰り出すのである。伊勢からはるか離れたところから来た群衆の中には、驚くことに、少女を含めた子供たち、乳飲み子を抱いた母親まで紛れ込んでいた。 普段ならば旅に出ることができない者ばかりである。もちろん親や主人も知らないうちの行動で、旅の準備らしいものはしていない。不意に飛び出してしまうのだから銭も持っていない。 しかしお陰参りの大集団が来ると聞くと、沿道の住民や富豪が、食べ物やわらじを山と積み上げて待ちかまえた。沿道の人びとも熱に浮かされたようになっていたのである。
 こうしてお陰参りの浪は、宝永2年には東は美濃・尾張・信濃・江戸、西は安芸・阿波のあたりまで広がり、京都方面から120万人、大坂方面から255万人が押しかけたという。 明和8年のお陰参りは山城あたりから始まったが、南九州と東北を除いた全国から人が押し寄せ、約120日間で伊勢の入口の宮川を渡った者は、207万7450人ともいわれている(いずれも『続後神異記』の数字)。 お陰参りが頂点に達した文政13年の数字もすさまじい。参宮者は457万9150人。閏3月26日の1日だけで、14万8000人という信じられないような数字が書き残されている。 明和8年には人口のおよそ1割が、文政13年には1割5分の者が伊勢へと繰り出したとみられている。
旅には貯えが必要  庶民はこうして旅の開放感を知ってしまった。締めつけられた日常から飛び出して、見知らぬところを行くことがどんなに素敵か、どんなに心が晴れ晴れとするか、それは戻ってきたものから熱っぽく伝えられたことだろう。話を聞いた者は今度は自分の番と張り切ったに違いない。
 しかし支配する側にとって、庶民の旅などは苦々しいものでしかなかった。農民が長旅に出れば作付けや収穫にも影響が出る。旅の途中で死亡したりすれば村の労働力が減るし、旅費を工面するために田畑を失う者もいて、年貢高が減ってしまう。 そのうえ旅にはカネがかかり、そのかねはみな他国に落とされるのだから、財政難にあえいでいた藩にとっては気がもめることだった。
 伊勢参宮も遠い土地から出るとなると日数も相当かかる。しかも、どうせここまで来たのだからと、伊勢だけでなく、周辺の観光地に足を伸ばしてたりする。その間は何人もの男たちが村を留守にすることになり、他国に落とされる金額も相当な額に達した。(中略)
 お陰参りの渦の中に入ってしまえば無一文でも伊勢まで行くことができた。しかしそんな機会はめったに巡ってこない。それ以外の時期に旅に出るとしたら、どうしても銭を持たなくてはならなかった。 寝るところも食事も、大河を越すときの舟賃、茶代、わらじ代、そしてささやかな賽銭も、すべてゼニが必要になる。貨幣の貯えがあって、はじめて庶民の旅は実現することになる。 (『江戸庶民の旅』から)
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<主な参考文献・引用文献>
「おかげまいり」と「ええじゃないか」                藤谷俊雄 岩波新書      1968. 5.20
東海道人と文化の万華鏡                     久保田展弘他 ウェッジ      2003. 7.29
江戸庶民の旅                            金森敦子 平凡社新書     2002. 7.22 
( 2005年8月8日 TANAKA1942b )
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(35)「ええじゃないか」騒動の発端
お札の降下とその後の不思議

「抜け参り」「お陰参り」「ええじゃないか」それぞれ少しづつ違うのだが、ここでは幕末に起きた「ええじゃないか」騒動の発端について扱うことにした。幕末の社会的・政治的動乱の時期でもあり、その騒動の背景についてはいろいろの説があるがここでは事実関係を取り上げることにする。 想像を逞しくすれば小説の種としても考えられるだろうが、それはそうした才能のある人たちに任せて、その発端についての事実を扱う。今週は『ええじゃないか』からの引用を中心に話を進めることにする。
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<ええじゃないか 序>  慶応3(1867)年の初秋から翌年春にかけて、東海道・中山道・山陽道筋とその周辺や四国などでは大変な騒動がおきていた。各種の神社・仏閣のお札が降り、いわゆる「ええじゃないか」騒動の乱舞が展開されていたのである。 この間、政治面では大政奉還・王政復古・戊辰戦争などがあり、新たな局面を迎えた。
 この「ええじゃないか」騒動の歴史的意義については、戦前から多くの研究成果がある。戦後の代表的な研究として、昭和26(1951)に遠山茂樹氏は「ええじゃないか」を下からの革命の弱さを暴露したものと批判的に捉え、井上清氏は幕府権力をマヒさせたと積極的に評価した。 昭和40年代(1965〜1974)になると、藤谷俊雄氏が「ええじゃないか」の諸現象を庶民による社寺参詣やおかげ参りの伝統のなかに位置付け、それが新書本での出版であったこともあって長く読みつがれた。
 西垣晴次氏と高木俊輔氏は、各地に残る「ええじゃないか」騒動の関連資料によって実態に迫り、その研究成果は現在でもきわめて大きな意味をもつ。特に、西垣氏は日本人の伝統的精神生活との関連で「ええじゃないか」の発生要因を分析し、高木氏は各地の騒動の様子を紹介した上でその歴史的意義を論じた。
 近年では、田村貞雄氏が「ええじゃないか」騒動の発生地を紹介し、発生の要因を多方面から検討した。伊藤忠士氏は東海地方に焦点を当て、領主権力や女性を含む庶民の行動様式を分析した。 このほか田村氏の著書の巻末にまとめられているように、個別論文でも着目すべきものが多い。
 さて、田沼氏も紹介していることであるが、じつは「ええじゃないか」騒動の発生地は、現在の豊橋市域であったのである。それをはっきり示した資料は、旧牟呂村の牟呂八幡宮の神主である森田光尋が記録した『留記』で、これは関連資料とともに平成12年に豊橋市の文化財に指定されている。
 『留記』は、牟呂村でのお札降りとそれにともなう騒動の様子、および周辺からの伝聞をまとめたものである。騒動が一段落した直後の記録であるが、何か別のメモを参考にしながら記録したもののようで、日付をおって正確にその経過を記している。「ええじゃないか」騒動の発端だけでなく、その騒動の展開の仕方をみる上できわめて貴重な資料であるので、本書の巻末に全文を紹介した。
 本書は、この『留記』を主な資料として、まず現在の豊橋市とその周辺のお札降りから「ええじゃないか」騒動への転換過程を紹介し、その発生要因を再検討する。そして次ぎに先行研究に依拠しながら、騒動の全国的な展開の概要とその歴史的意義を考えてみたい。
 よく外国人から、日本人は宗教に節操がないと言われるが、それは宗教意識が低いということではない。現在でも裁判中の、あの忌まわしい宗教まがい集団の例をあげるまでもなく、しばしば新聞紙上でオカルトが問題視される。 「ええじゃないか」騒動中でもおきたことであるが、日本では歴史の転換期にさまざまな宗教活動が展開されてきた。今年、いみじくも新世紀を迎え、ここで「ええじゃないか」騒動を通じ、日本人が潜在的に有してきた宗教意識を探ることは有意義なことであると思う。
 なお、一般にこの騒動の名称となっている「ええじゃないか」は、関西以西での乱舞の際のはやし言葉である。美濃国(岐阜県)では「お札祭り」と言い、東日本では「お札降り」とか「おかげ」などど呼ぶことが多く、そのはやし言葉も山岳でで行者などが唱えた「六根清浄」という言葉が多かった。 この一連の騒動を一括して「ええじゃないか」と呼びだしたのは、土屋喬雄氏が昭和6年に発表した論文からで、それがいつの間にか教科書用語にまでなっている。それ以前は、各地でさまざまに呼ばれていた。
 しかし教科書をはじめ、多くの書物で「ええじゃないか」という名称を使用しているので、本書もこれにならうことにする。なお伊藤忠士氏によれば、共通語が浸透して以降の「ええじゃないか」という言葉には退廃的なイメージがあるが、関西弁での本来の言葉では積極的肯定の表現であるという。 (『ええじゃないか』から)
<牟呂村でお札が降る>  慶応3(1867)年7月14日の七つ(午前4時)ごろのことである。牟呂村(豊橋市)の大西というところの多治郎という人の屋敷の東竹垣の裏に、伊勢外宮のお祓いが降っていた。それをたまたま通り掛かった大海津(おおがいつ)の人が見つけた。しかしこの人は、このお祓いを無視して通り過ぎてしまった。
 日本人の多くは、ご神体やお札は空から降ってくると信じていて、お札もこれ以前に何度か降った。あるいは降っていたという例がある。そしてそれが、人々の社会・宗教活動に、さまざま影響を及ぼした歴史がある。しかしこのたびのお札の降下は、やがて「ええじゃないか」騒動に発展し、またその連鎖反応の仕方において特別の意味があった。 しかも結果的には、この騒動の期間中に、明治維新という大きな政治変革があったのである。(中略)
 「ええじゃないか」騒動の発端となった最初のお札の降下は、上牟呂に降っていた伊勢外宮のお祓いである。その発見日時は、慶応3(1867)年7月14日の早朝、というよりまだ薄暗い午前4時ごろのことであった。
 しかしこの第1発見者は、森田光尋の『留記』に記載によれば「少し下愚」であったため、このお祓いを見過ごしてしまった。続いて通った子供も、何気なく通り過ぎてしまった。次に、大西の源三郎の屋敷に住む富吉という人が見つけ、このお祓いを多治郎の隣家である組頭の富蔵の家へ届けた。 すると富蔵は、同役の源三郎は穢れ中であるので、同じ組頭の清治郎のところへ持ってゆくよう命じた。組頭の富蔵は、この問題にかかわりあいたくなかったので、たらい回しにしたのである。
 富蔵は命ぜられるままに、清治郎の家へ拾ったお祓いを持って行った。ところが清治郎も、それを届けた富吉も、このお祓いについて疑念を抱いた。その理由は、37年前の文政13(1830)年のおかげ参りのとき降ったお祓いには御師の名がなかったのに、このお祓いには「御師内山八郎太夫」と記してあったからである。 富吉と組頭の清治郎は、このお祓いはだれかが落としたものか、あるいはだれかの作為で放置されたものと思ったのである。しかしとりあえず、富吉はこのお祓いを組頭の清治郎へ預けて帰宅した。
 お祓いが、実際に降下したものか人為的に放置されたものかは別にして、日々平凡な生活をおくる村人のなかでは、こうした出来事のうわさはすぐに広まるものである。なかには、こうしたうわさを意図的に広めようとする人もいたであろう。
 その夜、拾ったお祓いに疑念を抱きながら組頭の清治郎へ届けた富吉の家では、8歳になる男の子が病気でもないのに急死した。しかしこのときには、だれもが、これを富吉がお祓いを疑ったことに対する「神罰」であるとは思っていなかった。
 同じ日の夕暮、大西の天王社の東に住む醜名(しこな)をトコナベと呼ばれた人が、友蔵という人に、やはりこのお祓いについての疑念を話した。トコナベは、伊勢のお祓いが降ったと言って村中で騒いでいるが、そのお祓いは煤が付いたものか、煤びたものであろうと言ったという。 煤が付いているというのは、だれかが自分の家に祀ってあったお祓いを落としたもの、つまり新しいお祓いの降下ではないという意味である。
 トコナベと呼ばれた人の妻は、前日からおこりを煩っていた。この14日は無事であったが、15日に震えながら精神に異常をきたし、夜半になって死亡してしまった。
 お祓いの降下を疑った富吉・トコナベと呼ばれた人の家族の死亡を目の当たりにし、村人は驚いた。これは神のなせる仕業である、2人はお祓いの降下を疑ったために「神罰」を被ったのだ、と言い始めた。 そこで、お祓いの降下を疑った2人の家族が被った「神罰」が、やがて村中に広がることを心配し、16日の夜、大西の総代が神主の森田光尋の家を訪れて、その「神罰」除去の神事を依頼したのである。
 光尋が思ったのか、それとも大西の総代が述べた言葉なのかわからないが、光尋は次のように記している。「此二人ハもとより信心のなきものにて、心よろしからぬものなり、おそるべし、つゝしむへし、かならすうたかうべからず」。
 光尋は、最初のお札の降下について、同じ村内のことであるから、当初から、ある程度は知っていたであろう。しかし詳しいことについては、この夜に来宅した大西の総代から聞いたのであろう。牟呂村でのお札の降下が特別な意味をもったのは、同村内の2人が偶然に死亡するという不幸が重なったからである。
お札納めの神事  牟呂村で2枚目のお札が見つかったのは、7月15日夕暮れのことである。それは、上牟呂の大西にある天王社の庚申の東の雑木の枝に、「世古長官」と記された志摩国(三重県)の伊雑宮のお祓いであった。伊雑宮の上位2人の禰宜を中長官と世古長官と称したので、その世古長官が領布した、あるいはそれに似せたお祓いである。
 この2枚目のお札の降下に関しては、その日のうちに牟呂村三組の庄屋・総代と神主の森田光尋が相談し、きたる18日より神事を行うことを決めた。後述するように牟呂村では当時、お鍬社の百年祭を検討中であり、その元宮である伊勢宮のお祓いの降下には特別の意味があった。
 続いて15日の晩、3枚目のお札が降っているのが見つかった。それは下牟呂の中村にある浄土宗普仙寺内の秋葉灯籠の垣の澄に降っている伊勢内宮のお祓いであった。
 3枚目のお札の降下の知らせを聞いた光尋は、文政13(1830)年のおかげ参りのときに、2枚重ねで降っていた伊勢外宮のお祓いを牟呂八幡宮の境内社の社宮神社(石神)に納めた、と父から聞いたことを思い出した。それを参考にして、17日七つ時(午後4時)、文政13年に使用したお祓い箱に納めて神事を行った。その祭、同社で神酒2樽をあけた。
 牟呂村では慶応3(1867)年のお札降りによる正式な神事は、この3枚目のそれが最初である。その際、文政13年のおかげ参りのときのお札降りによる神事が参考にされたわけである。「ええじゃないか」騒動の発生には、おかげ参りの伝統にも影響を受けていたことがわかる。
 16日になると、最初にお札の降下があった大西で、それを疑った人の家族2人が続けて死亡したことが話題となり、人々は口々に怪しがり、恐れはじめた。
 人々は、今度のお札降りはだれかの作為ではなく、まさに「神事」であると信じはじめた。近頃、近辺でお鍬社の百年祭が行われており、牟呂村でも行わなければならないと話合っていた。そこへお鍬社信仰に関係の深い伊勢宮のお祓いの降下である。人々は、牟呂村だけに「神のしるし」を見せているのだと言って騒ぎだした。 そこで16日夜、前述したように大西の総代が森田光尋の家を訪れ、大西での「神罰」除去の神事を依頼したのである。
 大西の総代から依頼を受けた森田光尋は、17日夕刻の社宮神社(石神)での神事が終わった後、その晩、息子の光文を連れて大西へ出かけた。そして同地の天王社の拝殿において、その最初に降ったお祓いを神殿に納めて神事を行い、その礼として金百疋を受け取った。
 大西では神事にあわせ、村人共用の費用で購入した神酒2樽を振る舞い、その夜は若者が宮籠もりをした。光尋は、翌朝も納めたお祓いに神酒を献じて拝礼をするなどの神事を行った。こうして大西では、17日の晩から19日まで、結果的にいわゆる二夜三日正月となり、祭りを続けたのである。
 すなわち、3枚目のお札の降下に対する17日夕刻の神事は、当該地域・神社だけによるもので、神酒2樽はあけたものの騒動にはならず、そのまま終わった。しかし最初のお札の降下にともなう17日夜からの二夜三日正月により、その様相が急変することになるわけである。
二夜三日正月  牟呂村で見つかった2枚目のお札は、前述したように7月15日夕暮れに見つかった伊雑宮のお祓いである。それを大西の人から聞いた森田光尋は、その地が自身の支配地であったので、直ちに牟呂三組の庄屋や総代へ召集をかけた。
 早速、集まった総代と相談し、次のようなことを決めた。それは、降ったお祓いを牟呂八幡宮へ遷座して神事を行い、そこで酒6樽をあけること、牟呂八幡宮へ幟(のぼり)を立てること、二夜三日正月の祭日として村の休日にすること、そして万事を文政13のおかげ参りに準じて行うことなどである。
 お鍬祭り百年祭りの検討をはじめようとしていたその前日に、その元宮である伊雑宮のお祓いが降ったので、祭礼の規模を拡大したのである。二夜三日正月は、37年前のおかげ参りの際にも行われており、それを参考にしたのである。
 二夜三日正月の意味は、文字通り二夜三日の間は正月並のハレの日・休日ということである。吉田の船町でもお札が降って二夜三日のあいだ燈明を献じており、大西での17日からの祭りも結果的に三日正月となった。7月22日にお札が降った隣村の羽田村でも、23〜5日を祭礼・休日にしている。この地域では、規模の大きな祭礼は三日間を休日にして行われてきた伝統がある。
 さて、牟呂村ではこの決定に基づき、18日七つ時(午後4時)、三日前に降った伊雑宮のお祓いを牟呂八幡宮へ遷座するための行列を出発させた。その行列では、杉の葉で作ったお祓箱にお祓いを入れて竹の先につけ、大西の人々を先頭に、下牟呂村の中村、中牟呂の公文・市場の人々が供奉した。途中、人々は村中で揃えた手拭・三尺帯を身につけ、後に紹介するような「三百年は大豊作」という古歌を歌って、手踊りをしながら行進した。
 その途中では、中村で餅なげがあり、市場では供奉(ぐぶ)の人たちが饅頭を投げながら歩いた。まさにハレ舞台の装置が完備したのである。森田光尋の観察では、我が身を忘れての見事な手踊りであったという。
 お祓いが牟呂八幡宮に到着すると、拝殿の西の間に高机を立てて仮勧請し、その後で神酒・洗米・燈明を献じて朝夕の神事を行った。遷座のための行列参加者のなかには、この行事を、検討中のお鍬祭りの百年祭と混同した人もいたであろう。
 19日の晩には、大西の子供らが手拭・褌などを打ちそろえ、見事な手踊りを踊った。20日には神酒が不足して、改めて2樽をあけた。こうして18日夕刻から続く二夜三日正月の祭りを通じて、人々のなかにはこの祭日が従来の祭りと異なり、それ以上のものであることを認識しはじめる人もいたであろう。
 この3日間の牟呂八幡宮での神事のために、燈明料と神供料としてそれぞれ金2分ずつを要した。その神供は、神酒が1日1升ずつに加えて最終の20日に牟呂八幡宮の境内社であるお鍬社へ1升を献じ、神饌が本社へ3膳、それにお鍬社へ降ったお祓いを納めた20日に神酒1升に加えて3膳を備えた。
騒動への転換  牟呂村内のお鍬社は、牟呂八幡宮の境内社のほかに、牟呂三組にもそれぞれ鎮座していた。それらのお鍬社は、明和4(1767)年に東海地方で流行したお鍬祭りり、あるいはそれに因んだ時期に勧請されたものが多い。明和4年以降、この地方では特にお鍬信仰が盛んであった。
 慶応3(1867)年7月18日からの二夜三日正月では、牟呂八幡宮の境内社であるお鍬社への神供について、神主の森田光尋と牟呂三組の指導者が相談して決めた。ただし中牟呂だけは若者らに「故障」があり、神供を持ってこなかった。
 中牟呂の「故障」とは、若者が、村内の指導者が決めた二夜三日正月に従わず、独自の祭礼を行ったことである。お札の降下にともなう祭礼が、ついに村の指導者の統制から離れてしまったのである。
 「ええじゃないか」騒動の特徴の一つが、支配・指導層による統制から離れ、支配秩序の外延部にある若者らを主体に展開したとするなら、この「故障」事件は画期的であった。お札の降下による粛々とした神事から、神事をともなわない騒動への転換を意味するものであったからである。
 この画期的な「故障」事件が発生するには、さまざまな伏線があった。まず降下した3枚目のお札納めの神事が7月17日だけ、2枚目のお札納めが18日からの二夜三日正月の神事、そして最初のお札の降下による祭日も18日から20日までの二夜三日正月であり、矛盾を含みながらの重複した祭日であったことである。 この日程の決定しは、村の指導者としての判断ミスがあったとみるべきであろう。牟呂村のなかでの若者組の存在形態も、重要な意味があった。さらにこの時期になると、牟呂村の周辺村々や城下町である吉田でもお札が降り、それにともなう騒動の様子が牟呂村の若者へ逆伝播していた。それに加えて、牟呂村ではこの二夜三日正月の間に、さらに大量のお札が降ったことも大きな意味をもった。
 すなわち19日の夜、中牟呂の板津と公文で一夜に秋葉山・大棟梁(大頭竜)・伊勢神宮・伊良胡のお札が、合わせて13枚も降った。そこで中牟呂では、独自に地区内の4つの小宮で祭礼を行い、同村の若者が宮籠もりをした。
 中牟呂から、7月18日からの二夜三日正月の神供が届けられたのは、それがとうに過ぎた24日のことで、しかも若者自らの持参ではなく、総代に持たせてきたのである。ここには、お札の降下にともなう祭礼・騒動が、村の指導者の手から離れていたことがうかがわれるのである。
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 『ええじゃないか』では、その後各地でお祓いの降下があったことが書かれているが、長くなるので省略して、話を進めよう。
「ええじゃないか」騒動の仕掛け人はだれか?  一般的に「ええじゃないか」騒動は、まず他所の情報が伝わり、次いで集落内でお札が降下し、それをきっかけに始まる。お札の種類は、伊勢神宮関係のものが圧倒的に多いが、そのほかにも地域的な特色のあるさまざまな社寺のお札も多く混じっていた。特に名古屋以東、なかでも天竜川水系の村々では、秋葉山のお札が多く降っている。それは秋葉信仰圏との関係である。
 もちろんお札は自然現象で降るわけがなく、何者かのしわざである。藤谷俊雄氏は、それを倒幕派による政治的な作為であると明言した。政治的作為説については、以前から多くの人々によって指摘され、また後に当時のことを述懐した政治家もいる。
 「ええじゃないか」の喧噪を利用し、そのなかで庶民の意識とは別なところで政権交代が行われたという指摘は、一定の説得力がある。たしかに京都やその周辺に限ってみれば、その形跡をまったく否定することはできない。しかしお札の降下について地域ごとに日知事を追ってみれば、必ずしも当時の政治日程で騒動が展開したわけではない。 逆に新たな政治権力が介入したことにより、騒動そのものが静まった礼の方が多い。
 お札の種類として伊勢神宮関係のものが多いので、神宮の御師や各地の神主、あるいは国学者が関与したという説もある。駿府・名古屋では、神社のお札を大量に持っていたために寺僧が謙虚された例もある。 神主にとっては、この騒動を通じて自らの宗教活動を有利にはこぶことができる可能性があり、僧侶にとってはこうした踊狂をともなう騒動を神社側の責任であると印象づけることができる。駿河国(静岡県)でのいくつかの事例は、浅間神社の神主による関わりを否定できない。
 しかし「ええじゃないか」騒動の発端となった牟呂村の神主である森田光尋による『留記』や、彼が当時京都の上級神主へ出した手紙からは、彼の関与が浮上してこない。 牟呂村の隣村の羽田村の神主である羽田野敬雄の場合には、騒動になった時点で、この事件に関し無視を決め込んでいる。この時期の神主をはじめとする宗教人は、相互に一定のネットワークをもっており、もし彼らが主体となった作為だとすれば、もっと同時多発的であったはずである。
 各地の小前・下層民は、嘉永7(1854)年とその翌年の大地震におののき、安政5(1858)年の開港による感覚的な外患危機を抱いていた。文久年間(1861〜1864)以降の慢性的な飢饉や諸物価の値上がりと並行して深化した政治的危機は、庶民にも充分浸透していた。
 その上で、休息にあらわになった幕藩権力の低下と、前年とはうって変わった慶応3(1867)年初夏になっての豊作のきざしは新しく発生した事態であった。従来の一揆・打ちこわしとは別の手段による「世均(よなら)し」運動に、改めて方針を変更する可能性があった。
着実な騒動の展開  江戸時代の情報手段は多様であり、全国各地の投機的商人はそれを敏速かつ正確に駆使していた。東西をゆきかった旅人の言動や各種の出版物なども、「ええじゃないか」騒動に関する情報の広まりに大きく作用した。
 こうした状況を考えた場合、お札の降下や「ええじゃないか」騒動の展開は、けっして同時多発であったとは言いがたい。むしろこうした情報を入手しながら、それぞれが抱える諸問題を踏まえ、街道筋の都市部を中核とする遠心運動が、東西へ着実に伝わったとみた方がよい。
 例えば、三河国藤川宿では、最初のお札の降下では大きな騒ぎになならず、1カ月後の降下で騒乱状態になっている。遠江国新居宿での最初の降下は8月9日であるが、伊勢神宮への「おかげ」騒動は8月11日以降である。 10月3日にお札を発見した相模国柳島村の廻船問屋も、15日のなってようやく施行をはじめている。すなわちお札の降下は、降った家が自ら人々に披露するか、あるいは他者(仕掛け人)によってそれを発見されることにより、はじめてそれが「ええじゃないか」騒動に展開するのである。
 お札降りの仕掛け人は、お札振りを騒動にまで展開させる必要があった。そのためには、この事態を過去におきた飢饉や騒動と対比させて危機感をあおり、騒動の拡大に暗躍した人々がいたことも事実であろう。
 近隣の町村でお札が降ったり、「ええじゃないか」騒動がおきると、村内の僧衣でお札の降下を期待する風習も発生した。それも騒動の拡大の暗躍した人々のしわざであろう。
 お札の降下にあずかった後の「おかげ」や「ええじゃないか」騒動への展開の仕方は、その時期や地域の事情によって多様である。しかし各地で共通的にみられる現象としては、お札降りの神事とあわせて祭礼・祝宴を行い。やがて抜け参りによる社寺への参詣や乱舞・騒動という経過をたどる。 その過程では、施金・施米などについては村落の人々全員への一律分と、一部の富める者への過重分があり、騒動が冬期に近づくとみかんなども施物として重宝された。参詣先の社寺については、伊勢神宮が多いが、地域を代表する大社寺の場合もあった。
 「ええじゃないか」騒動は、江戸時代の後期の諸現象を集約した形で表現された小前・貧弱・雇用労働者の一時的な解放であった。しかもこの騒動を通じ、一部にエロ・グロ的なものがないわけではないが、全体的にみれば騒動の大きさに比べて暴力・窃盗事件という現象が少ない。
 すなわち単なる宗教的熱狂ではなく、共同体による一定の規律にも作用された騒動であったとみることができる。しれは、この時代に人々が一生を通じて体現していた日常的秩序と、それとは裏腹なハレの空間、要するにハレとケの繰り返しのなかで会得した諸事象を、「ええじゃないか」騒動でみごとに表現したものであると言えよう。 (『ええじゃないか』から)
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<主な参考文献・引用文献>
ええじゃないか               渡辺和敏・愛知大学綜合郷土研究所 あるむ       2001. 3.31
( 2005年8月15日 TANAKA1942b )
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(36)いろいろな庶民の旅
富士講・大山講や富士塚など

江戸時代に庶民はいろいろな旅をした。代表的なスタイルは講をつくって寺社への参拝とそれに託けての物見遊山。これまで伊勢神宮を主に扱ってきたが、行き先は伊勢だけではなくて、その他にもいろいろあった。そうした建前=参詣、本音=観光旅行をいくつか取り上げてみよう。
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<江戸近隣への旅>  江戸時代の庶民は、吉原などに遊びに行くとか、浮世絵を購入して楽しむといったようなことだけではなく、江戸近郊の各方面、あるいは遠くお伊勢参りとか、西国三十三所巡礼とか、四国八十八ヶ所巡礼とか、金比羅参りとか、かなり遠いところへ参詣し出かけたり、遊びに行ったりするようになるのです。
 もちろん伊勢参りとか、三十三所巡礼、八十八ヶ所巡りといったものは非常に早くからありまして、特に熊野詣は、後白河法皇を始め、天皇、貴族たちが盛んに行いました。花園天皇なども、山辺路というたいへん難所の多い道を、時には胸まであるような熊野川の流れを渡って、本宮へ参詣するというようなことを実際に行いました。非常に古い時代からの伝統が熊野詣にはあるのです。
 ただし、そういう天皇や貴族たちの参詣は多くの家来たちを連れた旅行ですけれども、江戸時代の旅はそうではなくて、ごく普通に、歩いて行きました。
 今日はそのうち、大山、江ノ島、鎌倉、成田、こういうところへ出かけて行きました名所巡りということについてお話をしてみたいと思います。名所巡りと申しましても、これは今日のレクリエーション旅行と違いまして、江戸時代は自分の土地を離れるためには、そこの責任者の旅行証明書、すなわち往来手形というものが必要でした。 その往来手形をいただくためには、遊びに行くというようなことではなくて、善光寺にお参りするとか、三十三所の巡礼をするとか、金比羅さまにお参りするとか、あるいはお伊勢さまにお参りするとか、そういう参詣旅行ということが、非常に都合がよかったようです。(中略)
 いまも日本では各地に、東京集中で過疎の村や山村がいっぱいできておりますけれども、私はこれは第2の非常に大きな日本の変革期ではないかと思っています。
 江戸時代は、そういう村もありましたけれども、しかしそういう村はどんなに過疎化しても、やはりどこかから、たとえば茨城県ですと、長野県とか、新潟県とかから来てもらうというようなことで、村が再生産できるような形に建て直していくのであります。 そしてまたどういうところでも、江戸時代は、物が生産されるというようなところは人が住みました。島も、どんなに離れ島でもその島でアワビがよく取れるとか、あるいは特別な産物があって、それを生きたまま遠くへ運べるといったようなことができるところは、みんな人が住んだのです。 ですから、どんな山奥でも道がありました。したがって江戸時代後期という時代は、おそらく日本の自然がいちばん隅々まで開拓されて人が住んでいた時代であると私は思っているのです。
 そういう日本の隅々の人までが何らかの蓄えをして、そして伊勢講をつくったり、あるいは金比羅講をつくったり、善光寺講をつくったりしまして、順番で参詣に出かけていくというようなことが全国的に行われるようになりました。こういった参詣には字が読めなくても出かけていくことができましたし、その旅はその人たちにとっては、精神的にたいへん豊かな文化生活であったと同時に非常に新しい知見を、至るところで得ることもできたのです。 たとえば伊勢参りでは、自分が作った稲の穂をお供えして人の供えた新しい稲をもらって来るということがなされました。つまり新種を手に入れて来るといったようなこともいたしましたし、栽培法を新しく勉強してくるとか、いろいろな勉強をしてくることになったのです。
 そのようなことで、お寺参り、あるいは神社詣というものに日本人が驚くほどたくさん出かけて行きました。江戸時代の旅と申しますのは、今の新幹線などの旅とは全然違います。きょうは、鎌倉・江ノ島というのがどのように行われたのか、あるいはまた成田山参詣には、どういう道を通って、どんなふうに行ったものかというようなことなどを、資料をもとにお話してみようと思います。 (『江戸庶民の四季』から)
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<霊地詣の楽しみ>  多くの人が何らかの蓄え積み立てをして「講」をつくり、集めた金で順番にお伊勢参りや大山詣へと旅立った。伊勢講、金比羅講、善光寺講などで順番に参詣に出かけて行くことにより、字が読めないような人たちでも、その旅での多くの人と物との交流によって精神がたいへん豊かになることができた。 お伊勢参りでは、自分がつくった稲の穂をお供えして他国の人の供えた新しい稲穂をもらってくることにより品種の交流が行われ、栽培法にも新しい知識が導入された。行く先々で新しい知見を得て、文化生活への渇望を満たすことが可能となり、旅の魅力は増していったのだ。
 江戸に比較的近い大山詣は、江之嶋弁財天参りとセットになって、人気の旅ルートでもあった。大山は雨乞い・水神として武蔵・相模の農民たちから篤い信仰を集めていた。火防・厄除け招福の信仰としても、鳶・職人たちが講を組織して参拝したため、大山講の一行は、白装束の富士講の一団にくらべて派手で、威勢のよさが特徴だった。 盆山の時期(8月中旬)には、支払決算の時期と重なるため、借金を逃れて大山参拝に紛れ込むといったちゃっかりした旅人もいたという。
 大山の帰りの江之嶋、藤沢宿は人気スポットで、ここで”遊ぶ”ことが、15歳男子の”成人儀式”でもあったようだ。弁財天は音曲の神であったために、長唄や清元を習う女性たちの集団参拝も盛んで、大奥女中の忍びの遊び場でもあったようだ。揃いの笠、着物で江戸から大勢でくりだした音曲稽古事の集団の絵図が残っており、その賑わいが人々の晴れの姿として伝わっている。 (『江戸は躍る!』から)(T注 大山阿夫利神社とは「雨降り神社」からきている)
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<富士講と富士塚>  関八州はもちろん、11ヶ国以上にそびえた富士山が信仰の対象となり、江戸から富士登山に行く人々が組織された。これが富士講である。そして、6月1日が山開き=登山開始の日となっている。これが一般化したのは、宝永(1704〜1711)以降である。
 富士講は富士山を信仰の対象とする在俗の宗派だが、角行東覚(かくぎょうとうかく)によって始められた。戦国時代後期の永禄年間(1558〜1570)に初めて富士山へ登拝した角行は、元和年間(1615〜1624)には富士の人穴に籠もり千日行をしたと伝えられる。その修行法は四寸五分角(約13.6センチメートル)の木材を四角に積み上げ、その上に両足をそろえて立つ「立行」であった所から角行といわれるようになった。 巌冬に寒行などは、浅間神社の大鳥居の大石の上で上半身裸のまま立行をし、さらには48日間食断ちをも行なった。
 富士講の宗旨は、天地開闢と共に生まれた霊峰富士は国土の柱、万物の根本である、加えて山霊である仙元大日は神に中の神であるから、これを信ずれば、世の中のあらゆる困難を乗り越えることができる、というものである。そのためには身を以て登拝することが奨励され、それが神の恵みを受ける唯一の方法でもあった。 また登拝回数が多ければ多いほど信仰心が篤いとされ、講の人たちは競って登拝を繰り返した。中でも33回と拝を大願成就と定め、記念に石碑を建てるのが習わしであった。
 しかし、交通その他いろいろ制約の多かった当時にあって、大願成就は並大抵のことではなかった。中でも女性は不浄と考えられ、登拝自体が禁止されていた。そのくせ、仙元大菩薩変ずるところの浅間神社は女神である木花咲耶姫(このはなさくやひめ)である。また、富士講隆盛の元となった食行身禄(じきぎょうみろく)の教えも、彼の末娘お花によって一層拡まるのであるから不思議である。
 が、いずれにしても希望しても登拝できない人たちがたくさんいたのである。そんな人たちのために築かれたのが富士塚である。
 角行が千日修行をした元和の時、江戸では「つきたおし」病が流行っており、昨今のSARS同様、次々と死者が出ていた。その噂は弟子を通じて、人穴の角行へも届いた。そこで修行を終えた角行は、弟子とともに江戸に向かい、「おふせぎ」という法力を使って病に苦しむ人々を助けた。
 目の前に奇跡を見せられた人々は競って信者となり、第1次富士講ブームを巻き起こした。
 しかし、富士講が江戸の町に定着するのは、食行身禄(1671〜1733)の出現によってである。角行から数えて6代目(あるいは5代目)講祖といわれる。
 この時は、享保の飢饉のさなかにあった。幕府も各藩に対し、1万石につき千両の割で貸し付け、各地の城付米(非常用備蓄米)を回送し、緊急援助をしたと伝える。しかし、それだけではまかなうことができず、各藩とも幕府に対し数倍の借金を要請した。このときの借金が、後々まで各藩の財政を苦しめた。
 この飢饉の影響は、翌年(享保18年)になると江戸にも出てきた。即ち、日本橋本石町の米屋高間伝兵衛等による買い占めと売り惜しみである。その頃幕府は上方からの米の買い付け権限を高田伝兵衛ら7人に独占させていたから、米価は大暴騰し、2月には、江戸における最初の打ち壊しが行われた。追い打ちをかけるように、疫病の流行と死者の増加もあった。
 身禄が藤野人穴において入定を果たしたのは、そんなときである。当初の予定より5年早く入定したのは、庶民が苦しんでいる姿を目の当たりにしながら、私欲に走る幕府に対する抗議である。
 身禄入定が知れ渡るや江戸市民の間に富士講ブームを巻き起こした。信者の数も飛躍的に増加し、俗に「八百八講」といわれるほど流行った。
 身禄の教えを伝えたのは娘のお花と弟子の高田藤四郎(1706〜1782)である。とりわけ高田藤四郎は日行青山と称し、身禄が入定するまで忠実に仕えた直弟子である。
 青山は、宝永3(1706)年但馬国に生まれ、11歳のとき江戸へ下った。富士山へ初めて登ったのは16歳の時である。同時に身禄の弟子となった。身禄没後は身禄同行という講を構え法灯を守った。
 元文元(1736)年には身禄同行という講を組織し、身禄の教えを伝え広めた。さらに安永8(1779)年、高田村水稲荷神社境内に初めて富士塚を築いた。
 天明2(1782)年77歳で没。生前富士山へ73回登拝したと伝え、富士塚を築いたのは死の3年前ということになる。 (『江戸の助け合い』から)
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 庶民はお伊勢参りを始め、参詣に託けて物見遊山の旅を楽しんだ。そして「旅に行きたい。でも行けない」となると、富士塚へお参りして、旅の気分を味わった。武士はというと、同じように、旅の気分を味わおうとした。日本に「箱庭」というものがある。 ミニチュアで本物の気分を味わおうとする。それが「富士塚」であり、次に書く「箱根山」であった。そしてこの箱根山はとてつもなく大きなスケールであった。
<戸山公園の箱根山>
 今は箱根山という東京都区内で標高が最も高い新宿区戸山公園にある箱根山は、かつて尾張徳川の戸山屋敷に造営された巨大な池を造るために掘り上げた土を積み上げて築いた山で、今かつての池であったあたりから、この箱根山の山頂まで登っていくには、ずいぶん高くまで上っていかなければならない。 今は昔の池がまったくなくなっているが、この戸山屋敷の庭園は、尾張徳川家に今も伝わっている狩野養川の描いた「戸山屋敷八景図」谷文晁の描いた「戸山山荘図稾」をはじめ穴八幡、新宿歴史博物館、三井文庫、岩瀬文庫などに伝わっている「戸山屋敷絵巻」によって旧態を知ることができる。
 十三万坪余りにもおよぶ広大な屋敷に、尾張二代光友は寛文年間に戸山山荘を造営した。この庭園はたくさんの絵図が伝わっているだけでなく、文献記録も多く、それが『東京市史稿』の遊園篇に収載されている。 こういう文献や絵図を見ると広々と水をたたえていた池は広大なもので、橋が架かっており、規模の雄大なことは王朝貴族の小さな泉水とは比較にならないほどずば抜けている。 (『甦る江戸文化』から)
<高田の馬場の富士浅間神社>
 尾張藩徳川家が造成したのが戸山荘と呼ばれる回遊式庭園であった。尾張藩徳川家二代光友が、時の四代将軍徳川家綱から下賜(寛文11年 1671)された和田戸山の下屋敷の地に築いたものである。
 朱楽菅江(あけらかんこう)作の洒落本『大抵御覧(らいていぎょらん)』(安永8年 1779 刊)では、今戸の三橋亭、中州の殷賑に続いて戸山荘の高田の富士が築造されて遊山に賑わう様子が描かれている。
 原文は戯文でわかりにくい。そこで大略を現代文に改めて紹介してみよう。
 高田の馬場に長四郎(実名は藤四郎)という植木屋がいた。長四郎は若い時から富士浅間神社を信仰し、富士登山を毎年夏秋2回ずつする大先達であったが、70歳になった折りの安永8年、戸塚村(新宿区戸塚町)の宝善寺(宝泉寺)の境内に浅間大菩薩を勧請しようと思い立ち、諸人の頭髪を埋め、2月3日より山を新に築くべく、そのために砂を貴賤とわず老若男女が運んでこれを完成した。 ここに駿河の富士にそっくりな富士山ができあがり、石と黒木の鳥居、石壇、垢離場を造築、中腹には石尊大権現、麓には浅間大菩薩の社壇を造り、5月28日には開眼式を行った。人々はこぞって富士山詣と称してこの山に登る。見渡せば向こうに目白、早稲田村、井の頭から流れる上水が二手に分かれる関口の滝の響きの音か聞こえ、6月15日から18日まで、日夜を分かたず人々は群集する。 この富士詣には、ことに若い娘も加わりいちだんと華やかさが増し、水茶屋、田楽、団子の店も出て、こんな賑わいは唐土にもあろうかというほどである。
 当時は富士登山は難行で、女子供の登山は困難だったので、高田の模造富士は若い娘などの富士詣と称した遊山でおおいに賑わったものであろう。『江戸名所図会』には次のように記されている。
 高田富士
 稲荷の宮の後にあり、巌石を畳んで容(かたち)を模擬す。安永9年庚子に至り成就せしとなり。この地に住める富士山の大先達藤四郎といへる者、これを企てたりといふ。毎歳6月15日より同18日まで、山を開きて参詣をゆるす。山下に浅間の宮を勧請してあり。 (『江戸の道楽』から)
<尾張徳川家の下屋敷=小田原宿の箱根山>  東京の新宿区戸山町にある都の戸山公園の中に、まん円の小高い山がある。北側はグラウンドなどのある谷合に面していて、20メートルほどの高さだが、背後は高台となっていて、コンクリートのアパート群が迫っている。山の中腹には大きな石碑があって「箱根山」と刻まれている。 戦前、この地にあった陸軍戸山学校の関係者が、昭和42年に建てたものである。散歩に来ていた老夫婦にお尋ねしてみたら、古くから箱根山と呼び慣わしてきてはいるが、由来については知らないという返事がかえってきた。若い人々の間ではその名を知る人さえ少なくなっている。
 戦前の1万分の1の地形図を見ると、明治42年のものから昭和12年にいたるまで、この山には箱根山と明記されており、標高44.6メートルとなっている。100メートル以上の高層ビルの林立する現在の東京では実感が涌かないが、おそらく旧東京市内では最高峰なのである。 愛宕山は25.6メートル、神田明神の高台が約20メートル、王子の飛鳥山でも27.2メートルにすぎない。そしてこの東京最高峰の前身は、意外にも戸山荘と呼ばれた尾張藩徳川家下屋敷の広大な庭園内に造られた人工の筑山であったのである。
 ところで、尾張藩下屋敷内庭園のこの山がなぜ箱根山と呼ばれていたかを探っていくと意外な事実に行き当たる。その事実とは、現在、痕跡も留めていないが、この庭園内には宿場町は1つそっくり造られており、しかも「小田原宿」と俗称されていたことである。 「箱根山」の石碑に添えられた碑銘にも触れられているように、この庭園はもっぱら東海道五十三次の縮景で知られていたが、その実態は主としてこの宿場町であった。五十三次の景を写した庭園は、肥後細川家の水前寺成趣園(じょうしゅえん)をはじめ、江戸時代にはほかにもあったが、このような宿場町をそっくり造ったという例は尾張藩下屋敷以外には見当たらず、 ある意味では奇想ともいえるこの虚構の町の存在が、江戸時代における「戸山荘」の名を高らしめていたのである。箱根山という名称も、その登り口に当たる「小田原宿」の存在と無縁であったとは思われない。
 しかし、この山がいつから箱根山と呼ばれるようになったのか疑問が残る。江戸時代における正式な名称は「丸ヶ嶽」、あるいは「玉円峰」で、その形状から名付けられたものであるが、箱根山という俗称は今のところ記録には見当たらない。明治以後の命名ともみられるが、一方の「小田原宿」は明治初年にはすでに姿を消していたのである。 あるいは、このきわめて印象的な「小田原宿」への強烈な追憶が、唯一遺された筑山に箱根山という名称を与えたのかも知れない。現在市販されている国土地理院の1万分の1の地形図には、戦前にあった箱根山の名称がすでに省かれている。山腹に建てられた箱根山の石碑には、その名の消滅を惜しむ思いが込められているのであろう。(中略)
虚構の町「小田原宿」
 この町は庭の西部にあって南北に延びており、36軒の町屋が約140メートルの町並みを造っていた。町の両端には木戸が設けられており、北の入口の脇に高札が建てられ、次のような文言が記されてあった。
 一、この町中において喧嘩口論これなきとき、番人はもちろん、町人早々に出合わず、双方を分けず、奉行所へ届けべからざること
 一、この町中に押し買いは了簡におよばざること
 一、竹木の枝、キリシタンかたく停止のこと
 一、落花狼藉、いかにも苦しきこと
 一、人馬の滞り、あってもなくても構いなきこと
   年  月  日
            奉行
 この高札の戯言には、虚構の町である御町屋の性格がよく示されていると思われる。
 物理的に虚構であるだけではなく、ここでは現世の法秩序はむしろ逆転させられ、遊び心と風流のみが支配する、いわば桃源郷としての虚構が示唆されている。
 町の東には池と田園風景が拡がり、西側は山林となっていて、山間部にほど近い鄙びた宿場町といった風情を写したものであろうが、本陣、問屋、旅籠屋のほか、店の種類や内容はきわめて都会的で、米屋、酒屋、菓子屋、薬屋などが軒を連ね、さらに瀬戸物屋、本屋、絵屋、扇子屋、植木屋などまで設けられており、また弓師、矢師、鍛冶屋といった職人の店も混じり、和田戸庵と称する医師の家もあった。 そのほか番屋や井戸などもあって、宿のなかほどの街道からやや奥まったところには、大日堂と人丸堂が建っていた。造園手法からみれば、いわば原寸大の宿景といえよう。
 将軍家の御成りなどの、いわば園遊会の当日には、これらの店は暖簾や看板・標識で飾り付けられ、「ものとして足らざるはなし」といわれたほどの多種多様な商品が並べられた。多くは実際の品物であったが、なかには木でこしらえて色を塗った菓子や田楽などもあり、虚と実が渾然一体となっていた。 そのうちで将軍家の目にとまったものは土産として献上した。本陣に当てられた家は、古駅楼と称し、御成りの際には紫と白の縮緬の幔幕が張り回らされ、御座所が設けられた。 (『尾張藩江戸下屋敷の謎』から)
子供の頃遊んだ箱根山
 TANAKAは、自分が子供の頃遊んでいたあの<箱根山>、名前は知っていたけれど、そのような由緒有る所だったなど、全く知らなかった。戦後の「すべての国民が飢えていた頃」から高度成長期になり、豊かさを実感し始めたころ、効率第1で東京の昔からの町名が変更されていった。
 「合理的な住居表示の制度及びその実施について必要な措置を定め、もつて公共の福祉の増進に資することを目的とする。」との「住居表示に関する法律」によって住居表示が変更され、東京で昔からあった町名がなくなっていったのだけれども、当時はあまり気にしていなかった。 しかし、最近江戸時代のことを調べ始めて、江戸時代からの町の名前は残しておくべきだ、と考えるようになった。そして、 あの「箱根山」のすぐ近くに住んでいながらその歴史を知らなかった、ということが恥ずかしいことだし、学校で教えるべきだったと思うようになった。小学校でも中学校でも教えてもらった記憶はない。残念。
鉄砲百人組
 それでも、すぐ近くの「百人町」は江戸時代に鉄砲組=同心百人が住んでいた、ということは聞いていた。
 この百人町で、江戸時代の鉄砲組を再現し、2005年9月25日(日)9:30から「鉄砲組百人隊行列」が行われます。皆中稲荷を出発し14:30までの予定です。お近くの人はどうぞ見に行ってください。
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<主な参考文献・引用文献>
江戸庶民の四季                          西山松之助 岩波書店      1993. 3.24 
江戸は躍る!                            中田浩作 PHP研究所    2001.11. 7 
江戸の助け合い                 芳賀登・光田憲男・谷田部隆博 つくばね舎     2004. 1.10
甦る江戸文化 人びとの暮らしの中で                西山松之助 NHK出版     1992.12.20 
江戸の道楽                             棚橋正博 講談社       1999. 7.10 
尾張藩江戸下屋敷の謎 虚構の町をもつ大名庭園            小寺武久 中公新書      1989.12.20
( 2005年8月22日 TANAKA1942b )
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(37)旅の普及を支えた経済制度
統一貨幣・頼母子講・為替制度・飛脚

旅の普及に伴って多くの経済制度も発達した。それは旅の普及によって発達したものもあるし、またその発達によって庶民の旅が普及した面もあった。そうした「統一貨幣」「為替制度」「飛脚」「頼母子講」などを扱ってみた。 旅の普及は各地の総需要を増大させたし、また経済システムの発展にも大きな影響を与えたと考えられる。
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<庶民の旅を発達させた要因>  17世紀後半になると、庶民の旅は次第に盛況をみせだした。これ以前にも旅をする庶民はいたが、数が少なかった。 江戸時代の庶民の旅の特徴は、仕事や信仰目的のほかに、物見・遊山が増加したことである。旅を通じて庶民はさまざまな異文化を体験し、情報を入手した。 ただし庶民が安心して快適な旅をするには、克服されなければならない多くの問題があった。まず庶民にある程度の時間的・金銭的な余裕が必要である。治安が安定し、旅行施設が整備されていることも条件であった。全国で信用される統一貨幣の流通も、旅の発達には欠かせない。
 その点、江戸時代は兵農分離の貫徹により、前代に比して格段に治安がよくなった。幕藩領主の陸上交通政策により街道が整備され、休泊施設も整った。宿場には人足や馬が常備され、賃銭さえ払えば誰でも利用できた。17世紀後半以降になると生産力が発達して、庶民のなかには生活にある程度のゆとりをもつ人々も現れた。 もっとも休泊施設や人馬を利用するには、全国で通用する貨幣が必要である。いわゆる慶長金銀は慶長6(1601)年以降に発行されたが、庶民が入手する機会はほとんどなかった。この時期、庶民の多くは絶対量が少なくてしかも信用度の薄い鐚銭(びたせん)や永楽銭を使用するか、あるいは実際に米や加工品を携行して旅をする以外になかった。これでは何かと不便である。
 しかし寛永13(1636)年から寛永通宝が大量に発行されて庶民に出回り、旅先ではもっぱら寛永通宝が使用されるようになった。これ以降、幕府は新貨幣を発行すると、宿場の助成金として配分したりして流通に努めた。もっとも寛永通宝は四分銭と一文銭という少額貨幣であったので、大量に持ち歩く必要があり、旅に携帯する貨幣としては十分でなかった。 旅との関連で言えば、貨幣問題を一挙に解決したのが、元禄8(1695)から鋳造がはじまった元禄金銀の発行である。元禄金銀は諸物価高騰の原因となり、また鋳造にからむ贈賄問題も発したが、大量に発行されたので庶民でも比較的容易に入手することができた。
 旅に発達には、こうした言わばハード面の整備とともに、旅心をかき立てるソフト面の充実も重要である。その意味では、各種の街道絵図や旅行案内書・道中記、あるいは地図類の出版が、さらに庶民の旅を促した。言わば、机上での「読む旅、見る旅」から旅心を誘い。実際の旅立ちに結び付いたのである。 (『東海道の宿場と交通』から)
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 江戸時代統一通貨が普及し、これが貨幣経済を普及されることになり、庶民の旅を便利にした。こうした貨幣の普及とともに、貨幣改鋳も貨幣経済を普及させた。荻原重秀の貨幣改鋳に関しては、新井白石の考え方でもある、「貨幣改鋳によって物価が上昇した。悪政であった」との考え方が、現在でもある。TANAKAは「成長通貨を供給した。これによって経済は成長した」と評価する。 それでも、発想は「財政再建」であったと考える。しかしもっと積極的に、現代の考え方である「成長通貨」との見方もある。そのような見方を次に引用しよう。
<商品量の増大と貨幣改鋳>  通貨の運用は、一国の経済活動の中で重要な役割を果たす。徳川幕府も、慶長金銀を発行してから90年もたつと、財政の悪化に苦しむようになった。その理由としては、まず第1に、全国の鉱山からの金・銀の算出が急速に落ちたことを挙げることができる。
 次に、江戸市を構築するための費用や、全国に広がる五大街道の整備にかかる費用の助成金、その他、もろもろの支出などで、幕府の貯蓄が取りくずされ、五代将軍綱吉のころには、幕府財政がピンチに追い込まれてしまったからであった。なにしろ、将軍家恒例となった日光参詣も、財政難を理由に延期されたぐらいであった。 
 そのため幕府は、慶長金銀にかわって質の落ちる元禄金銀を発行し、その改鋳益金(出目という)をもって財政不足を補おうとした。またそれ以外に、この時代になると江戸をはじめ全国に城下町が建設され、そこに市場が発生し活躍するようになっていた。そして商品量が増大し、江戸・大坂・京都を中心に、全国的な物流ネットワークがつくられ、通貨の必要性が広範囲かつ絶対的なものになってきたのである。
 幕府成立当初は、支配階級たる幕府や各大名の城下町を造る建設工事費として貨幣を必要としていたのだが、それが形成される過程の中でさまざまな商品を生み出し、それが全国的な規模で動き出したため、通貨量が相対的に少なくなってきたのである。
 従来の評価では、幕府の貨幣改鋳は将軍家綱の華美な生活の結果によって財政が逼迫し、それを救済するめに品位の落ちる貨幣を発行し、幕府だけがもうけて庶民はインフレに悩まされたという悪評が定着していた。しかし最近では、むしろ商品量の増大に対し、通貨量が少なくなったために貨幣改鋳が行われたという見解が浮上してきた。これは、今後の歴史観を変えていくことになるだろう。 (『江戸の生活と経済』から)
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 江戸時代、江戸の庶民が伊勢参りをすると、4人家族が3年暮らせるほどの費用がかかったと言われる。そのような費用をどのように工面したのか?それは「頼母子講」とか「無尽」と言われる金融制度であった。
<頼母子講・無尽>  京坂では「たのもし」と言い、江戸では「むじん」と言い、無尽と書く。これを行う主催者を親と言う。催主と定めた者がなく各互のために行うのを「おやなし」と言う。その行いには大小がある。また、金貨をもってするのも、銭をもってするのもある。 京坂では銀をもって唱えるのもある。人数は定まりはないが、多くは20人から30人ばかりである。その初めは、たとえば銀1貫目掛の行で20人のものは、初回に各々銀1貫目を携えて会合し、おやなしならば20人のうち1人がこれを得る。 親がある場合には親は出さずの20貫目の銀を収める。次会からは終いに至るまで毎会合に各々1貫目の中から若干を減らして取るという牌を箱中に投じてこれを開き、多く減銀した者に19人の者からこれを与える。 親はまた他の人と同じく1貫目の中を牌のようにこれを減じてこれを与える。3回目の会のときもまた減銀牌を投げ入れることは前と同じで、これを開いて18人と親と会わせて19人は銀を減らして出し、2回目に合銀を収めた者は第3回以後はおわりに至るまで1貫目を出すのである。 第4回も前と同じ。2回、3回に合銀を得た者は1貫目を出し、まだ合銀を得ない者は銀を減らして出す。5回以後はおわりに至るまでこれに準ずる。
 これを入札の頼母子と言う。また振りくじと名付けて初回に1貫目を掛け、2回以後は利息に準じて減法を定めてこれを得る者を選んでくじをもってこれを取るのもある。また、初めからおわりに至るまで1貫目を合銀してくじをもってこれを取るのもある。多募および三貨幣の違いはあっても、みなこのようなやり方である。
 京坂では入札頼母子をもっぱらとし、江戸では初めから終わりまで減法なく、これを与えるのに振りくじをもってする者が多い。武家の万石以下、以上ともにこれを行う者もまた振りくじをもっぱらとする。 大規模なものは1回に各々金千両掛け、あるいは何百両銀とこれに準じ、小規模なものは金1,2分掛け、あるいは銭何貫文掛けである。極小には銭何百文掛けというのがある。婦女などが集まって行うこともある。 この小行を前垂無尽などと名付ける。大行は割烹店などに集まってこれを行う。また大行は3,4カ月に1回開き、1年に3,4回をもっぱらとする。小行の者は毎月行う。これまた金事の一助であり、経済の一挙だけ。また、取り除き無尽というのがあるが禁制である。また掛捨無尽などがあるが、わずらわしいのでこれを略する。 (『近世風俗事典』から)
頼母子講から第二地方銀行へ この頼母子講は現代の第二地方銀行へと変わっていく。 それについては 「19 信用事業は、頼母子講から金融自由化の荒波へ」で次のように書いた。
 この仕組みは、一定の口数を定め、一定の期間毎に一定の出資(掛け金)をさせ、1口毎に抽選または入札により所定の金額を順次加入者に渡す方式でお金を融資するもの。 明治維新後も、新しい銀行制度ができたが庶民の間では、この無尽や質屋が多く利用された。1915年無尽業法が制定され、免許制となった。 1940年に221社あったが1942年「金融事業整備令」が出て、1945(昭和20)年には57社になった。その後いくたびかの法改正を経て、1951(昭和26)年には相互銀行となり、1989(平成元)年に第2地方銀となっている。  宗教関係から発生したように、宗教とか地域とかの共通点を持つ者のためであった。当然農村部で、農家のための無尽もあったと思われる。無尽が相互銀行にに成長した要因は、相互銀行固有業務である相互掛け金の増加によるものではなく、普通銀行が行う預金と融資であった。相互銀行が地方銀行に変わる時点では、総資金に占める相互掛金の割合は約 2.5%と、ほとんど無視できるほどに減少した。
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<為替制度の発達>  江戸時代の旅のガイドブックで、所持品として印鑑が書かれている。これは旅の途中で旅費が不足した場合、為替制度を利用して国元から金を送ってもらうことが出来るとある。 つまり旅先で、現代風に言えば「ATMを利用して預金を下ろす事ができる」ような制度ができていた、ということだ。この為替制度については、「庶民が旅先でどのように利用できたのか?」についての詳しい資料が見つからなかったので、「大坂堂島米会所」を扱ったときの文章=大坂堂島での米商人と江戸とのやり取りに関する文章、をここで引用する。
<大坂ー江戸為替制度の発達>
大坂堂島米会所の発達が新たな経済分野に刺激を与え、江戸時代の市場経済がさらに一歩前進した。それは大坂ー江戸為替制度の発達だった。幕藩体制において、幕府も諸藩も年貢米を大坂堂島で現銀に替える。その現銀を江戸で使うために現金に替えて江戸へ送金する。その送金システムが堂島米会所の発達と平行して確立していく。この件に関しては「大阪府史」(大阪府史編集専門委員会編 大阪府発行 昭和62年)に詳しいので、これを参考に話を進めよう。
 江戸時代離れた地区へ金を送る方法として、公金為替・江戸為替・上方為替・京為替・地方為替などが次第に発達した。この中で、扱い量も多く当時の経済に重要な役割を果たしたのが、公金為替と江戸為替であった。公金為替は1691(元禄4)年に始められ、江戸・京・大坂に両替店を持つ三井両替店が中心になっていた。「公金為替」とは幕府の公金輸送を主な目的とし、これに対して「江戸為替」は大名諸侯の資金輸送を目的としていた。
 江戸為替は、元和・寛永期のころから行われたとの説もあるが、通説では、1723(享保8)年に大坂両替商米屋(殿村)平右衛門によって始められたとされている。この制度は、大名諸侯が年貢米や国元の物産を大坂で売却し、その代銀や、大名貸しから借りた資金などを江戸へ輸送する送金為替と、その反対に大坂問屋から江戸問屋に送付した商品代金取立の荷為替(逆為替)とが結合して、為替取組が可能となった。そしてこの制度運用には大坂の通貨(銀)と、江戸の通貨(金)を両替する、という面倒なことが行われていた。この面倒な銀と金とを両替する、ということを省くために、金を基準にして通貨を統合しようとしたのが田沼意次と勘定吟味役の川井久敬が試みた、1765(明和2)年の明和五匁銀の発行と、1772(安永元)年9月の明和南鐐二朱判の発行 であった。これに関しては、大江戸経済学(1)改革に燃えた幕臣経済官僚の夢(2) 田沼意次と、その協力者たち ( 2002年2月18日 ) に書いたのでここでは触れないことにする。
 この仕組みの流れは次のようになる。
大名がコメなどを大坂問屋に売る(江戸の屋敷で代金を使う場合は、この段階では代銀は受け取らない)⇒
大坂問屋は貸越勘定の相手方である江戸問屋を支払人とする為替手形を振り出す(同時に相当金額の商品を送るか、別勘定で帳尻を合わす)⇒
大坂両替商はこの為替手形を買い集めて、その代金(代銀)を大坂問屋に支払う⇒
大坂両替商はこれらの為替手形を江戸両替商に送り、それと同時に大坂問屋と取引関係のある大名(江戸藩邸)に対して送金為替を取組み、これを送付する⇒
江戸両替商は大坂両替商から受け取った為替手形によって、江戸問屋から代金を取り立てる⇒
この代金(通貨=金)を大名(江戸藩邸)に支払う。
 このようにして諸藩の大名は大坂でコメを売り、その代金を江戸藩邸で受け取る事ができた。この大坂と江戸の為替取組は現金を移動させない、という点で現代のコルレス契約に似ている。ここでも大坂商人の先見性に驚かされる。
 上記文章は、 こちらをクリック→
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<為替制度を支えた飛脚の存在>  為替制度が普及するには旅先と三都を結ぶ情報伝達制度が必要であった。江戸時代には飛脚制度がその役割を果たした。 その飛脚制度を扱うことにしよう。
<飛脚屋>  京坂から江戸に往来するのを第1とする。名づけて「三度飛脚」という。これもまた、京坂を元とし、江戸を末とする。
並便 京坂から江戸に往き、江戸から大坂に帰る日数に差がある。たいがい30日ばかりで1往復するを「並便り」という。これは肩銭が安いので駅馬の閑暇を待ってこれを用いる。だから日数の定めはない。
十日限 また、「十日限」と名づけ、あるいは一往、あるいは一来十日を限るものもある。しかし、出納の日があるので、およそ発日から12日で到着する。賃銭は並便より高い。
早便 六日限を「早便り」という。発日の時刻により七日に達するが、近年は十日限、六日限ともに2、3日、延期することが多いもので、とくに「正六日限」といって、天保初め以来これを行う。 六日限は七日限より賃が高く、正六は六日限よりさらに高い。正六日、出納の日ともに72時間で到達する。
宰領 上の並便以下、宰領といって一夫を馬4,5匹につけて途中これをつかさどって往来する。数匹のうち1匹は乗から尻といって荷を軽くし、宰領がその上に乗る。 並便は昼は往き、夜は必ず宿泊する。十日限は昼夜往って宿することはない。
四日限仕立飛脚 また、とくに火急を報らせる書簡には、「四日限仕立飛脚」というのがある。これは常にはなく、三都ともに需要に応じてこれを発する。 たいがい賃金は4両ばかりである。この仕立には宰領をつけず、放ち贈り、かねて駅ごとに得意の者があってこれをつかさどる。駅毎に夫を代え継いてこれを遣る。発日から必ず48時間で到達する。
差込 また差込というのがある。上の支度便がある時を幸いとして便につけることで、たいてい金2,3分である。
大坂三度飛脚屋 大坂の三度飛脚屋は、船越町尾張惣右衛門、江戸屋平右衛門、津の国十右衛門。この三度の他、大坂には西方諸国および北国、京都、堺、奈良など各別に飛脚屋があるといっても盛んではない。みな小規模である。
江戸三度飛脚屋 江戸の三度飛脚屋は佐内町和泉屋甚兵衛、瀬戸物町島屋佐右衛門、室町京屋弥兵衛、西川岸町大坂屋茂兵衛。 この大坂屋茂兵衛は天保中届金数千両を使い込み、入牢して死んだ。家ト閉所になり、その後呉服町に江戸屋仁三郎が開店した。 江戸でも関八州などおよび奥州の飛脚屋がある。東海道往来は三都ともに三度に付す。また、三都とも町飛脚というものがあり、各市中の使用を便する。けだし、書簡を運ぶを専門とする。 (『近世風俗事典』から)
江戸町飛脚については次の通り。
<便り屋>
 江戸の俗の方言で、「たよりや」という。元来町飛脚といい、昔から貧民の一助として諸業に兼業することにすて、三都ともにこれがあったが、嘉永以来江戸でその法を改め、ことに便り屋とする。 その始めは中央には俗に葭町というところに男奉公人の口入に5,6戸あり、その一人がこれを行い、浅草馬道と、南方は芝とに同業を開いて、中央の諸用書通などは葭町に集め、品川妓家その他の分は芝に集め、吉原などの諸用も馬道に集めて、南北から葭町に集め、南から北に達する用事は馬道の者に託し、北から南に達する者はまた芝の人に託す。 それから頭分安政に至り、益々盛んとなり数戸が諸所にあって数人を出す。これがすなわち町飛脚である。
 また、古来の如く国民の兼行に近国近在代参町小便という看板を出し、肩銭をもってこれを為す者または並び行われるこの便り屋という者は横2尺、竪1尺高さ尺余の筥を背にして前に所名、屋号などを漆書し、挟筥の形に似せ、片長の棒をつけ筥を背にして前に出た棒端に風鈴を釣り歩行する。 用ある家は鈴音を聞いて彼が来たのを知り書簡などを託す。その便り屋の家に近い者はその店に持って行ってこれを託す。片銭は遠近によって定制あり、一用一人を雇う町小便は、町飛脚といわれるものよりは安い。
町飛脚 あるいは町小便といって従来は三都ともにあった。しかし、定額はなく小民はひそかに招牌を出し本業の間にこれをかねることとなったようである。
 江戸では嘉永年中以来常に桂庵と称して奉公人の口入れを業とするものが芳町に5,6軒あり、その1戸および花川戸、芝と3ヶ所のものが相議して行い、それより前はことに小規模であったので、一事をもって一往来した。故に庸銭はこれに準じ、今数事を集めて往来する。
 その扮装は筥形の張籠をもって渋墨に塗り町飛脚および所名、屋号などを朱塗に書いてこれを背にし棒の一端の前の方に一風鈴を垂らし、往来で呼ばずに衆人に知らせる。これをもって下にもいうごとく、ちりんちりんの町飛脚などと異名する。 また、江戸では先年より今に至り、市中辻番人で一事一往来そ便をする者が多い。 (『近世風俗事典』から)
<飛脚屋>  町飛脚というのは市中を専門にして、書簡をおもに扱う。また、京坂と江戸との間を往復するのは三度飛脚という。町飛脚については、『俗事百工起源』に「町飛脚始」として、「町飛脚のはじまりは文政六末年七月中」とあり、四つ時に毎朝発って江戸中に配達する「近江屋」の引札口上が載っている。 それによると、葺屋町を起点として芝金杉橋までが32文、吉原も32文、品川・千住・板橋・新宿・青山辺が50文、などと価格が表示されている。そして43年前にできたこの業が、今も繁昌していると述べている。
 寅の日を選んで飛脚聟を取り (虎は千里を走る)
 この町飛脚については、『守貞漫稿』に「便り屋」とあり、業体も描かれており、「便りや、江俗の方言にてたよりやと言う。元来町飛脚と唱え、昔より貧民の一助として諸業に兼行する事にて、三都ともに有之と雖も、嘉永以来江戸にて其法を改め立て、殊に便なりとす。(略) これ即ち町飛脚なれども、又古来の如く困民の兼行に近国近在参町小使という看板を出し、雇銭を以てこれをなす者、また並び行わる。この便り屋という者は、横二尺、縦一尺、高尺余の筥に所名家名等を漆書し、挟筥の形に似せ、片長の棒を付け、筥を背にして前に出たる棒端に風鈴を釣り歩行す。用ある家には鈴音を聞き手彼が来れるを知り、書簡等を託す。(略) 雇銭遠近によりて定制あり、一用一人を雇う。町小便、町飛脚とのいう者よりは廉なり」とある。
 うそ斗(ばかり)持って山谷を出る飛脚 (吉原の女郎の文)
 大江戸は広し吹矢の定飛脚 (葺屋町の飛脚屋から、吹き矢に掛ける) (『江戸の生業事典』から)
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<現代の町飛脚=自転車便>  飛脚を会社のシンボルにしているのは佐川急便だけども、都心部のオフィス街ではバイク便が現代の町飛脚として活躍している。目に付くのは、ティーサーブ、ソクハイ、DAT,BHCなどだ。 以前郵政が参入しようとして、ヤマト運輸に声をかけて下請けとして利用しようとしたが、ヤマト運輸は断った。別の企業が郵政の下請けとして参入したが、失敗した。その、バイク便、自転車便が都心部のオフィス街で活躍している。 各社共にうたい文句を用意し、競い合っている。民間に任せておけばどこからか需要を見つけだし、創り出し、供給体制を作り上げる。公社ではあまり期待出来ないだろう。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
東海道の宿場と交通                         渡辺和敏 静岡新聞社     2000. 4.28
江戸の生活と経済                          宮林義信 三一書房      1998. 8.31
近世風俗事典                                 人物往来社     1967.12.15
江戸の生業事典                          渡辺信一郎 東京堂出版     1997. 5.20
( 2005年8月29日 TANAKA1942b )
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(38)旅が第3次産業を育てた
江戸の出版文化と蔦屋重三郎

「江戸時代は農業中心で、農村部では自給自足が普通であった」と言えばあまり反対はなさそうだ。そこで当時の産業構造はどうだったのか?ピッタリの史料ではないかも知れないが、参考になりそうなものを引用してみよう。
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<江戸末期の産業構造>  明治7年『府県物産表』に記載された総生産額3億5474万円のなかでは、農産物が2億1188万円で60パーセントと最大の割合になっている。 まさに農業社会と呼ぶにふさわしい。これに水産物・畜産物・林産物を加えた第1次産業の合計は69パーセントと、7割近くが1次産品であった。農産物の中では穀類が大部分を占めていたから、生産物の半分は、直接・間接に口に入る食料品であった。 しかし1次産品のうち、繊維・染料・薪炭・木材・牛馬・羽毛皮革などのように、さまざまな加工品の原料として、あるいは燃料として利用された部分も少なくなかった。
 工産物と鉱業製品をあわせた加工生産物は、1億1070万円で31パーセントとなっている。その内容は、穀質・澱粉類・味噌・醤油・酒類・砂糖などの飲食加工品が4割近くを占めている。この時期の鉱工業は主に食品・繊維関連物からなっていた。 ほかには、金銀鉄などの金属(7%)、主に灯油と思われる油類(5%)、玉石鉱土類(5%)、そして紙類(5%)が目につく。鉱工業生産物といっても、その8割以上は加工度の低い軽工業品であった。
 鉱業生産物の比較的高い府県をみると、上から順に大阪府(工業の割合65%)・京都府(54%)・兵庫県(53%)と近畿圏が並び、続いて東京府(49%)がきていることからみて、工業は都市を中心に発展していたことがわかる。 とはいえ、そうした工業も内容は醸造・繊維といった農産加工が大部分であった。工業といっても都市の職人仕事が中心だったのである。 (『文明としての江戸システム』から)
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 この統計では第3次産業が出てこない。統計の取り方によってこうなったので、実際は第3次産業も盛んであったと思う。そこで違った面からの史料を引用してみよう。
<宿場町の職業構成>  新居宿の明治5(1872)年職業構成は、全756軒のうち第1次産業である専業農家は27軒に過ぎず、漁業を専業とする家が207軒、農・漁業の兼業が19軒で、残りは交通労働や商業・職人の専業者や兼業者であった。 それでも江戸時代の同宿は城下町ではないので、住民のほとんどが百姓身分である。
 大井川の渡しを控えた島田宿の延享2(1745)年の家数は1356軒、そのうち804軒が無高であった。無高層が多いということは、階層分解が深刻であると同時に、農業以外のさまざまな職業があったということでもある。 箱根山麓の三島宿でも同様の傾向にあり、宝暦9(1759)年には家数1910軒のうち、高持は588軒に過ぎなかった。
 総じて、宿場町には本陣・旅籠屋・茶屋などのほかに、商人や職人が多く住んでいた。商人の中には旅人相手のものもあるが、職人を含めて宿内や周辺村々の需要に応じたものが多い。
 宿場町は単なる交通の中継地だけではなく、周辺住民の在町としても機能していた。奉公・日雇い稼ぎの場であり、情報収集の場でもあった。
 見付け宿は、寛永18(1641)の入会裁許絵図によれば、すでに宿場の中心部に旅籠屋や諸商人・職人などの家が密集している。同宿は城下町ではないが、中世以来の宿であり、御殿・代官所の所在地として、一般の宿場より早く町場化していたのであろう。
 時代は下るが、同宿の天保13(1842)年の軒別職業絵図によれば、街道筋町並の家数は465軒。そのうち商人が269軒、職人が47軒、無職が4軒、医師が3軒、農業は119軒で全体の26パーセントに過ぎない。 なかでも宿場の中心部である馬場町では、全53軒のうちの約半数の24軒が本陣・旅籠屋などの宿泊施設で、そのほかに料理屋・居酒屋・蕎麦屋・魚屋・菓子屋・飴屋は合わせて12軒、それに小間物屋などがあり、農業は1軒であった。
 宿場町は周辺村々からみれば、助郷として人足や馬を提供させられる交通施設であると同時に、その課役を通じて現金収入の場でもあった。そして地域の在町として商品交換、すなわち貨幣経済の中心地であり、また高等技術を有した職人の集往する町でもあった。
 江戸時代の東海道には、さまざまは往還(おうかん)稼ぎがあった。旅籠屋・茶屋なども往還稼ぎであり、宿・助郷の馬士・人足も、駄賃・人足稼ぎという往還稼ぎであった。 (『東海道の宿場と交通』から)
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<辻駕籠屋> 五街道における交通手段は、その大部分を人力だけに頼っていた。しかも早飛脚・早駕籠などの例外を除き、原則的に徒歩であった点が特徴である。
 人足には単に荷物を持ったり担いだりするだけの人足と、それに道具として乗物や駕籠を使用したり駄獣を使役する場合があった。人足1人の担当重は文禄元(1592)年の規定では10貫目であったが、その後は5貫目が標準となった。5貫目を超えれば目方に応じて賃銭を支払、10貫目になれば2人で運ぶことになる。
 乗物には腰興・打揚興・引戸網代乗物、そのほかに乗興者の身分に応じたさまざまな種類があり、それを担う興丁(陸尺)の人数も4〜8人とさまざまであった。ただしこの乗物に乗れる身分は「武家諸法度」によって公家・大名とその妻子や医師等の特権階級に限られていた。
 乗物と駕籠の違いはそれに引戸があるか否かである。しかし大名やその妻子が利用したお忍び駕籠、上級武士が利用した留守居駕籠、武士が利用した権門駕籠(引戸駕籠)などは4〜6人の駕籠かきが担ぐもので、体裁的には乗物と変わらなかった。庶民用の最上級の駕籠は、四方が板張りで屋根や板張りの一部に塗り物を施し、三方に窓があってすだれが掛けられる法(宝)仙寺駕籠で、これに乗るときには裃を着用した。
 江戸市中で庶民によく用いられたのが辻駕籠(町駕籠)で、正式には四手(よつで)駕籠と称し、関西では路駕籠と言った。幕府は延宝3(1675)年に江戸市中で辻駕籠を300丁に限るとしたが、やがて有名無実化し、元禄14(1701)には3612丁が登録されている。
 街道筋で旅人が利用する宿駕籠は2人の駕籠かきが担ぐ簡単なもので、俗に雲助駕籠とも言った。箱根などの山中でしようされる山駕籠は底が円形で竹の棒で担ぐもので、宿駕籠よりさらに簡単なものであった。それでも旅日記などを見るとこれらの宿駕籠・山駕籠は、旅人に多く利用されたようである。
 これらの乗物・駕籠は複数の人足によって担われる点では協業と言える。しかしこの協業形態は協業者相互の負担軽減をもやらすことだけが目的で、結果としてわずかの速力を増す可能性を内包するが、輸送量の拡大はほとんど見込めない。そこで、より多くの担重量に応えるものとして駄獣の利用があった。 交通手段としての駄獣には牛と馬があったが、牛については東北。北関東・中部山岳地帯での牛稼ぎと一部大都市での牛車に利用されただけで、五街道では基本的に馬に限られていた。
 馬一疋の担重量は元和2(1616)年に伝馬・駄賃馬とも40貫目と規定され、それがその後の基本となった。すなわち馬は人足の4〜8倍の担重量があったのである。もっともこの馬は、江戸時代を通じてその社会体制の性格を反映して、次第に減少しつつあった。宿場の最も重大な問題はこの馬数の確保であり、しかも実態としてそれを成し遂げていないのである。 (『日本史小百科<宿場>』から)
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<江戸文化を変えた蔦屋重三郎> 十返舎一九の『東海道中膝栗毛』がベストセラーになった。出版文化が栄えていたから『東海道中膝栗毛』がベストセラーになった、というのも本当だし、『東海道中膝栗毛』がベストセラーになっって、それが出版文化を反映させる力になった、というのも、本当と言えるだろう。 その出版文化、蔦屋重三郎の存在が大きい。田中優子著『江戸はネットワーク』から、蔦屋重三郎に関するサワリの部分を紹介しよう。
 蔦屋重三郎は無名ではない。そして天才だった。18世紀江戸という、人口130万をかかえた高度で複雑な情報都市に、彼は出現した。あふれるほどの購読者と、絵画や版画や道具類の多くの眼ききをかかえた知的大衆都市に、彼は出現した。 彼の出現は確かに、江戸文化を変えた。後の我々にだけわかることだが、彼の出現によって江戸文化は普遍的な生命を吹き込まれ、ヨーロッパ文化の中に流れ込むことになった。印象派画家たちを筆頭とするジャポニズムの流れの中にあえうのは、すべて蔦屋重三郎が世に送り出した絵師たちのものである。明治の近代文学者の木曾になっていた江戸文学のほとんどは、蔦屋重三郎が送り出した作家たちの手になるものである。彼のしたことはいったい何だったの」だろう。
 天才的編集者の超能力とは、まず第1に人(作者)を変えてしまうことである。しかしそれはその人間を別の人間にすることではない。より極端に彼じしんになるよう、仕向てしまうことである。簡単ことではない。人をし向けるには、その人の先回りそしなければならないからだ。天才編集者の超能力の第2は、それとまったく同時に、変えた者どうしを関わらせてしまうこと、つまり「連」を編集することである。 これは、仕事上での関わりであろうと、遊びや宴の関わりであろうとかまわない。変わりつつある者どうしの連なりは、エネルギーの火花を散らして、何を起こすかわからない。編集者はそこに賭けるのである。
 このとき、この「賭け」の精神が編集者には不可欠のものになる。であるから今日でも、大手出版社にお勤めのサラリーマン編集者に天才は少ない。「賭け」ができないからである。発想は無難な方へ、編集会議を通りそうな方へ、上役のおぼしめしがよさそうな方へ流れがちになる。その点、江戸期の編集者は即、出版人=経営者であるから、責任は自分ひとりでとればいい。
 蔦屋重三郎は以上のすべてを備えた人間だった。そのような編集者の実績としてすぐに思い浮かぶのは、「ヴィジュアル狂歌本の発明」「政治スキャンダル黄表紙の発明」「美人大首絵の発明」「写楽の発見」「洒落本作者としての山東京伝の発見」等々。これだけでもすでに多すぎるくらいだが、十返舎一九や曲亭馬琴の発掘も、ここに加えることができる。(中略)
 重三郎と京伝は、しばしば私の中で重なってしまう。もしかしたらそれは、江戸というマスメディア都市のもたらした感性なのかもしれない。その感性の中では、作者が現実を刻々と編集し続けているのが見える。そしてわが天才編集人、蔦屋重三郎は、そのような作者たちを正面から身すえ、みすからを際限なく解体しつつ、その際の解体エネルギーに、彼らを巻き込んで行くのである。重三郎のような人がいなければ、マスメディア世界の作者たちは、おのれを超えていくことができないかもしれない。 (『江戸はネットワーク』から)
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<大衆化を支えた貸本ネットワーク> 出版物の大衆化という点でもう一つ注目しなければならないのは、貸本屋のネットワークである。馬琴の読本は売るというよりも貸本屋のためにつくられたのではないかとみられている。 高価なうえに初版が1千部。江戸700,大坂300の貸本屋の数に合わせて作られたとの考え方だ。化政期(1804〜1830)には貸本屋がカバーする地域は江戸全域に及んであり、貸本を業とする人は800人前後で、小説本を風呂敷が笈箱(おいばこ)に入れて背負って得意先を回り、人工100万人の江戸で計10万軒の読者をもっていたといわれる。 彼らが背負った本のなかには、密かに摺られた発禁本もあったようで、隠密裡の出版ルート、いまでいうアングラ出版物も彼らの手によって流通していたようだ。
 この貸本屋は、いまのレンタルビデオの比ではない影響を江戸庶民に与え、江戸文化の重要な担い手にもなったのである。世界の出版事情からみても、この日本の貸本屋は、1842年にロンドンに店を構えた有名なC・E・ミューディーより2世紀も早く始まっており、いかに日本の出版界が進取の気象があったかがわかるだろう。
 当時の本は高価で、職人の日当の3倍から5倍もした。一方では、寺子屋の普及もあって庶民の識字率も高まっていたので、貸本の需要はかなりあったのだ。西鶴や馬琴そベストセラーもこの貸本ネットワークなしでは生まれなかった。また、寺子屋の教科書でもあった『江戸往来』なども、長期レンタルされたので、学問の普及にもひと役買っていたのであった。 戦後、本が少ないころに貸本屋ブームがあったが、いまはテレビなど映像の影響力に追われて、町なかではあまり見かけなくなった。 (『江戸は躍る!』から)
<貸本屋>
江戸の貸本屋は、前掛けをかけ、大風呂敷に包み込んだ本を自分の頭よりも高く背負い、3日に1度ぐらいの割で、屋敷の奥向きや妾宅、遊女屋を得意先として回って歩く。 『古契三娼』(天明7)では、「かし本やの風呂敷は方々へかしぎ……」と描写している。教養書や古典名作なども貸したが、主として実録物、戦記物、また草双紙、人情本などの版本であり、艶本なども所持していた。 『南柯の夢』(天保6)には、「此頃貸本屋の持歩く、吉原大鑑といえる本を見るに……」とあり、『春色梅児誉美』に吉原の番頭新造が禿に言う言葉として、「金曾木の柏屋は来たら、翁草の後編と、拾遺の玉川持て来なと、そういうのだヨ」とある。 
 言葉を拾って行くと、伊勢物語、万葉集、こぶ取り爺さん、源頼政の鶴退治、千手観音の千の矢、小野小町、羽衣、平家の悪七兵衛景清などの話が入り混じっている。
 江戸後期にはこの行商が盛んであり、明治10年代までの行商風俗であった。『明治世相百話』に、「双子の着物に盲縞の前かけ、己が背よりも高く細長い風呂敷包みを背負い込んで、古風な貸本屋が我々の家へも廻って来たのは、明治15,6年頃まで。 悠々と茶の間へ座り込んで面白おかしく、お家騒動や仇討ち物の荒筋を説明。お約束の封切りと称する新刊物を始め、相手のお好みを狙って草双紙や読本を2,3種ずつ置いて行く」とあり、江戸末期の貸本屋の姿を伝える。料金は馬琴の『作者部類』によれば、「貸本屋等も其新板なるは1巻の見料24文、古板なるを16文」と記されている。 支払は月ごとであり、『守貞漫稿』に「此月銭を貸賃或は損料とも云ふ」とある。
 貸本の明智軍記も三日限り (光秀の三日天下と期日三日とを掛ける)
 貸本屋又御枕になさったの (昼寝の枕の代用)
 いわんぼう貸本屋程持って居る (誰にも貸さない蔵書家)
 婚礼をするとこうだと本屋見せ (娘に艶本の絵を)
 飯炊きによんで聞かせる貸本屋 (字を読めない飯炊きの下男や下女) (『江戸の生業事典』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
文明としての江戸システム 日本の歴史第19巻             鬼頭宏 講談社       2002. 6.10
東海道の宿場と交通                         渡辺和敏 静岡新聞社     2000. 4.28
近世風俗事典                                 人物往来社     1967.12.15
日本史小百科<宿場>                       児玉幸多編 東京堂出版     1999. 7.19
江戸はネットワーク                         田中優子 平凡社       1993. 2.25 
江戸は躍る!                            中田浩作 PHP研究所    2001.11. 7 
江戸の生業事典                          渡辺信一郎 東京堂出版     1997. 5.20
( 2005年9月5日 TANAKA1942b )
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(39)旅が江戸社会に及ぼした影響
「貨幣数量説」と「情報数量説」

「趣味と贅沢と市場経済」の旅シリーズ、そろそろまとめの時期になってきた、ここで「旅」が江戸社会に与えた影響について考えてみよう。
<参勤交代や庶民の旅が情報化社会==江戸を発展させた>
 江戸時代人の移動はヨーロッパれは比べものにならないほど盛んであった。人の移動によって通過流通速度増し、貨幣が大都市から街道を通じて宿場町、農村部へと拡散した。この経済効果は大きい。
 江戸の消費需要を刺激し続けたのは天下普請だけではなかった。大名の日常生活を規制し、しかも大きな経済的負担を課すということで、参勤交代制度は天下普請とともに大名統制のための基本的な制度として定着した。江戸時代を通じて、江戸の消費活動は参勤交代制度によって刺激され続けた。また、大名統制や経済面の効果だけではなく、国元と江戸を往復する武士たちによって全国的な文化交流も盛んになった側面も大きい。 (『資本主義は江戸で生まれた』から)
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<経済の実力者は町人>  宝永2(1705)の御蔭参りがあってから66年後にまた、明和の御蔭参りがあった。このときは、4月から8月にかけて5カ月のあいだに270万余人が伊勢の参宮街道を通っていった。 『翁草』の著者神沢杜口(かんさわとこう)は、この参宮人を150万人と見積もり、その路用に費やされた金額を銀3万3500貫と計算している。
 3万3500貫は、当時米1石の相場56匁の検討で計算すれば、約60万石の費用となり、現在の高になおしてみると100億円くらいの額になろう。このときわずか5カ月間に、それだけの金が動いたのだ。しかし、宝永の場合は、それが2カ月で362万人なのである。当然200億円以上の金が動いたはずであった。
 これはたいへんなことだったのである。それだけ巨額の金を動かす力が、百姓や町人のなんでもない平凡な日常生活のなかに貯えられられていたということであろう。そして、それらの巨大な金を左右したのは者は、いうまでもなく流通過程をにぎる商人であり、都市に住む大町人であった。 荻生祖徠は、「又都も田舎も武家皆旅宿にて、金にて買調て用を弁ぜんとする故、商人の勢盛に成て、日本国中の商人通じて一枚と成。物の値段も遠国(おんごく)と御城下と釣合て居る故、数百万人の承認一枚となりたる勢には勝ぬ事にて、何程御城下にて御下知有りても、物の値段下らぬ筋も有……」(『政談』)と書いている。物の値段や商人の力が、もはや幕府や諸藩の力では、安全にとらえることができなくなったことを物語っている。
 そして現実に、諸藩の経済は、江戸・大坂・京都、それに長崎の町人から借銀することによってようやく維持せられていたのである。たとえば、阿仁(あに)鉱山などを持ち、東北諸藩の中では経済的に比較的恵まれていたと思われる秋田藩でも、延宝8(1644)年で、借銀4944貫余。 その内訳は、京都から440貫、江戸から2401貫、秋田城下の町人から1102貫余、別に藩内から1000貫ということになっている。
 また、西南の雄藩である長州藩を例にとれば、正保元(1644)年で、その総計は銀3682貫余、内訳をみると、京都・大坂で1398貫、江戸で1245貫余、長崎で932貫余、萩で100貫、その他6貫余、というような数字が出ている。 しかし、この負債は毎年雪だるまのようにふえてゆき、延宝4(1676)年には1万2000貫、それから5年後の天和元(1681)年には、すでに2万貫を突破していた。
 享保のころ、太宰春台は「今の世の諸侯は、大も小も、皆首をたれて町人に無心をいひ、江戸・京都・大坂・其他所々の富商にたのんで、其続け計にて世を渡る」(『経済禄』)といっているが、そのような状態は、すでに元禄以前において生じていたのであり、元禄に至って、いよいよきびしいものとなったことは改めて説くまでもないであろう。 (『日本の歴史 17町人の実力』から)
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<貨幣数量説=情報数量説>  経済学で「貨幣数量説」と言われる説がある。
 MV=PY ・・・・・・ただし、M=貨幣量 V=貨幣の流通速度 P=物価水準 Y=実質国民所得
 YをT(取引量)と置き換えて、MV=PTという恒等式も成り立つ。 ここで言えることは、「@貨幣量が多いと、あるいはA貨幣を使った取引が多いと、経済活動が活発になる」ということだ。 これを経済ではなくて、「文化」と置き換えて考えてみよう。つまり「貨幣数量説」を「情報数量説」として考えてみることにしよう。
 MV=PY ・・・・・・ただし、M=情報量 V=情報の流通速度 P=情報の質 Y=文化レベル
 こうしたTANAKAが得意とする「反証不可能な、非科学的こじつけ理論」で江戸時代の「旅」を考えると、江戸時代に「旅」が当時の文化水準向上に大きな影響を与えた事が証明できる。
参勤交代=情報の集中と拡散、その量の拡大と速度を早めた
 諸藩の武士が参勤交代で江戸に集まる。方言も習慣も異なった武士たちが江戸で生活し、1年後には国元に帰る。江戸に日本各地の情報が集中した。 その情報が1年後の諸藩に拡散した。文化水準の平準化に役立ったはずだ。当時のヨーロッパではどうであったのだろうか?フランス、イギリス、ドイツなどに比べれば日本での文化水準の拡散の少なさは想像できる。 参勤交代が全国の経済活動を刺激したのと同じように、日本の文化水準の向上に役だったことは容易に想像できる。
お伊勢参りは町人の参勤交代
 「江戸」を「伊勢」と置き換え、「武士」を「庶民」と置き換えると、お伊勢参りが参勤交代と同じように、江戸時代の文化レベル向上に役立ったことが理解できる。 お伊勢まいりが各地の経済活動を刺激したように、文化レベルの向上に役立ったことがわかる。さらに、これに「抜け参り」とか「お蔭参り」を加えればさらにイメージが鮮明になる。
江戸時代は「武士社会」と「町人社会」の2つの社会の結合体
 「情報数量説」を立てて、江戸時代に人の移動が文化レベルの平準化と向上に役立ったことを証明した。武士の参勤交代と庶民の旅、このように考えると、江戸時代とは<江戸時代は「武士社会」と「町人社会」の2つの社会の結合体>と考えると理解しやすいのではないか、と思えてくる。
 こうした考えは、経済生活から考えると容易に理解できる。江戸時代、時の流れと伴に、武士の生活は苦しくなり、町人の生活は豊かになっていった。支配する階級が貧しくなり、支配される階級が豊かになる。不思議な社会だった。 その原因は「四貨制度」にあった。通常「江戸時代は三貨制度」と言われている。金、銀、銭の三貨制度だ。これに米を加えて「四貨制度」と考えると武士階級の没落が理解できる。8代将軍徳川吉宗が「米将軍」と呼ばれるほど、米価安定に気を使ったのは、武士の給料が米であるという「四貨制度」であったためだった。
 こうした経済面の考え方が、文化面でも言える。武士社会と町人社会で、違ったことが結果として同じ様な影響を与えた。参勤交代と庶民の旅、これが情報数量説として江戸文化向上に大きな影響を与えたのだった。
定説への「やぶにらみ姿勢」の大切さ
 「封建時代」という言葉を使っても、ヨーロッパと日本では大きな違いがあった。それは「農民が土地に縛り付けられている」としても「土地の所有者がだれか?」が違っていた。 ヨーロッパの領主は土地の所有者であり、従って農民が領主に従属していた。江戸時代の領主=大名は土地の管理者ではあったが所有者ではなかった。従って藩主はその土地の行政責任者ではあったが、藩主と農民との関係はヨーロッパでの関係とは違っていた。 藩主は、現代でいえば地方自治体の知事と考えると分かり易い。藩主は油断していると任地替え、お国替えにあってしまう。例えば国元で農民が騒いだ、としよう。ヨーロッパの領主は自分の責任においてそれを鎮圧すればよかった。 江戸時代の藩主は、国元で騒ぎがあり、それが幕府に知られると、国元で騒ぎがあったということの責任を追及され、その始末の仕方が悪いと国替えにあってしまう。そこで、農民が騒ぐと、幕府に責任を追及されないように穏やかに騒ぎを収めよう、とのインセンティブが働く。 賢い農民はそこを突いてくる。「われわれの要求を受け入れないならば、幕府に訴える(追訴=おつそ)ぞ」と藩主を嚇す。藩主側、幕府側の責任が追求され思い責任を取らされた例とした、郡上一揆の例があり、これに関しては<郡上一揆に対する将軍家重のお裁き>を参照のこと。
 中世とか封建時代という言葉を使って、西欧の制度と同じように評価する歴史観は大きな過ちを犯すことになる。常識と思われている事柄がもしかしたら神話なのではないか?と疑う態度=やぶにらみ姿勢も大切だ。それには視野狭窄にならないこと。
識字率の高さが、情報の質の高さを支えた
 上に書いた「情報数量説」で「P=情報の質」は江戸時代の識字率の高さがそれを支えた。識字率が高かったから、情報の質も高かった。そして識字率の高さは出版物の普及の高さにもよっている。旅が盛んになって、旅のガイドブックが読まれ、それによって出版文化が栄え旅が盛んになり、情報量が多くなり情報の流通速度が早まった。 こうした情報量増大による文化レベルアップのスパイラルが進行していたと考えられる。
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<八百万の神が住む、柔らかな社会体制>  封建社会の江戸時代には関所が全国に53ヶ所あった。東海道には「箱根」と「今切(新居)」があり、これによって庶民の移動は制限されていた。そして関所破りは極刑に処せられた。 このことは間違っていない。けれども「抜け参り」「お蔭参り」はこれでは説明がつかない。建前は厳しいけれども実際の制度運用は結構アバウトであった。 こうした面に目を向けると、一神教と多神教の違いが頭に浮かぶ。日本は八百万の神が住む厳しい制度も柔らかく運用される社会であった。「本当は満足とは言えないけれど、この程度なら我慢しようか」という妥協点を見出すことが民主制度の特徴と考える、 デモクラシーとは日本の様な多神教の社会、柔らかな社会体制を受け入れる所にこそ適した社会制度であるように思えてくる。デモクラシーという面からでなくて、アナーキズムを追求していくうちに、日本の特徴として多神教であることに注目したのが、大澤正道であった。
<功利的な民主制度に適した、柔らかな社会体制>
 デモクラシーの要件としては、三権分立、代議員制度、多数決原理、平等な投票権などがあげられる。江戸時代はどれも当てはまらない。 民主制度とはかけ離れた制度であった。それにもかかわらず、江戸時代に気持ちの豊かさを感じるのは、こうした柔らかな社会体制であったことによるのではないだろうか?大澤正道もそうしたことでアナーキズム的な感覚と江戸時代とに共通点を感じたのだろう。
 フリードリッヒ・A・ハイエクがこんな風に言っている。「デモクラシーとは熱狂的な崇拝の対象になるような完全無欠な主義などではなく,政治的・経済的な個人の自由を保証するための功利的な制度なのである」と。
 こうした捉え方は、一神教の「科学とは反証可能なものでなければならない」との姿勢からは生まれにくい。アナーキズムもデモクラシーも西欧で生まれた考え方にもかかわらず、日本の文化風土に適したものである、とは不思議なことだ。 そして日本のこうした文化風土は特別のイデオロギーから生まれたものではない。こうしたことを考えていくと、日本の文化風土は特別なイデオロギーによって生まれたものではないし、特別な人間に始動されたものではないことに気付く。 そうするとここで、進化論での適応論とか、ハイエクのいう自生的秩序 (spontaneous order)という言葉が頭に浮かぶ。 これについては<ハイエクの自生的秩序>に書いたので、そここでは別の文献から引用しよう。
<ハイエクの自生的秩序>
 ハイエクの思想のキーワードである「自生的秩序」(spontaneous order) であるが、その具体的な内容はどのようなものだろうか。
 ヨーロッパの伝統的な考え方の中には「自然法」とか「自然的秩序」といった概念がある。それはアリストテレスの段階では、人間を含む動物すべてに共通の法則をさしていたが、ローマ法を経てそれが万人共通、国際共通のルールと解釈され、さらに中世のキリスト教の下では、神が人間に与えた理性に対応する法と考えられるようになった。 いずれにしても、人為的に定められた法(実定法)ではなく、人間の理性の産物(あるいは神からの贈り物)として存在するルールが「自然法」であり、それは同時に人間の「自然権」の根拠にもなる。この「自然法」にもとづいて実現する秩序が「自然的秩序」であるが、実はフランソワ・ケネーやアダム・スミスにもこの「自然法」、「自然の秩序」といった考え方が残っている。 しかし神や理性ということを抜きにして考えてみると、ここで「自然」といわれているのは、「自然界」や「自然環境」の自然とは関係のないものである。そしてそれは人間の行動の結果として、人間の意図とは無関係に、という意味で「自然に」できあがってきたルールや秩序をさすものであることがわかる。(日本語では「おのずから」、「ひとりでに」という表現が使われる)。
 このように自然に形成された秩序をハイエクは「自生的秩序」と呼ぶ。市場という秩序がその典型的なものである。そして市場での行動を律するルールも、もともと「自生的に」成立したものにほかならない。そのルールの根底にあるのは「交換の正義」であり、これが市場で行われるゲームの基本原則である。それはまさに自生的に確立したもので、誰かが定めたものではないが、商法をはじめとする多くの実定法はこの「交換の正義」の上に築かれている。
 アダム・スミスもハイエクも、この市場という自生的秩序が(神や理性との関係はともかく)人間にとって不都合のないものであり、各人が市場で自分の判断にもとづいて自由に行動する状態に任せておけば悪い結果は出てこない、という立場をとっている。
 人間の自由な行動から「自然に」形成される秩序を肯定するスミスやハイエクの立場は、よく考えてみると、「神」というフィクションも「神が人間に与えた理性」というフィクションも不要の立場であって、そこでは神も理性も最終的に「消却」されていることを意味する。「人間が生まれながらにもっている理性」という近代以後の考え方も、実は中世以来のフィクションの焼き直しにすぎず、それは「人間は神に等しい」というフィクションなのである。
 ハイエクが強力に拒否するのはこうした「理性」のフィクションであると見ることができる。つまり、プラトン的賢人支配から、政府の計画、政府の「見える手」による介入、ケインズのようなエリートないしは「賢人」による経済のマクロ的コントロールにいたるまで、合理的な知識によって経済や社会をコントロールすることができるという仮定、そのための合理的な法体系や制度を設計することができるという仮定、これらは国家を理性そのもののように思いこむフィクションにほかならない。
 ハイエクがもっとも力を入れて反対してきたのは、このような「迷信」であり、ケインズも社会主義者も、ハイエクによれば、この「迷信」の代表的な信徒だったということになる。
 ところで、自生的に確立した原則や慣習的なルールだけで今日の市場のゲームがうまく行われるだろうか。理性の力で最適なルールを制定することができるかのように考えるのはハイエクの立場ではない。その点ではハイエクは正しいが、しかし、必要なら何らかのルールを制定し、試行錯誤を通じて改正していくほかないであろう。 できの悪い民主主義という方法によってでもそうしないわけにはいかない。長い目で見れば、そのような試行錯誤の仮定もまた、何らかの秩序が「自然に」形成されていく過程ではないか。
 たとえば、関係者が談合して利益を分配したり、価格を吊り上げたりする慣習は、それこそ「自然に」できあがってきた秩序で、それなりの合理性をもっているかもしれないが、これを「よくない」慣習と見て別のルールで置き換えることは、「自然に」任せておいたのではできない。 談合も接待も天下りも自然に確立した日本的慣行であり、伝統であり、文化でもあるから守らなければならない、という立場をとる人は保守主義者である。ハイエクは保守主義者ではなく、このようなケースでは、ラディカルな伝統破壊論者となる。
 なぜか。談合のような日本的秩序になぜ反対しなければならないのか。これを理解することはかなりの難度の経済倫理学の「演習問題」となる。答えはこうである。談合は、関係者同士の利益のやりとりや分配をうまく行う工夫であるが、外部の一般の人々に不利益を与え(たとえば公共事業の高い入札価格は納税者に損失を与える)、自由な競争という市場のゲームの基本原則を破壊することになる。 それは日本の文化であるかもしれないが、文化には手をつけず、つねに与件として尊重しなければならない、というのが保守主義だとすれば、それはただの思考停止症候群にすぎない。
 一見合理的で、関係者に利益をもたらす、こうした「自生的秩序」や伝統を排除するためには、それを禁止し、罰則を用意した人為的なルールが必要となる。ハイエクもおそらくこのことは賛成するであろう。 (『経済思想の巨人たち』から)
 著者竹内靖雄の考えは、「自生的秩序と言っても、レッセフェール(laissez-faire)とか無秩序が良いというのではない。商法・独禁法またそれらを執行する関連法が必要だ」ということだろう。つまり、「市場での自由な競争を保証するルールは必要だ」と言える。例えば、ロバート・ノージックが『アナーキー・国家・ユートピア』で言うところの「最小国家」、怖いお兄さんたちが最小国家をつくると、これを取り締まる法律と権力がない。 自由に最小国家をつくるためには、それを邪魔する者を規制するルールと権力が必要になる。これと同じように、自生的秩序を保証するためには、ルールと権力も必要であることに注目。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
資本主義は江戸で生まれた                      鈴木浩三 日経ビジネス人文庫 2002. 5. 1 
日本の歴史 17町人の実力                    奈良本辰也 中央公論社     1966. 6.15
世界六大宗教の盛衰と謎 一神教から多神教復活の時代へ        大澤正道 日本文芸社     1993. 7.20
経済思想の巨人たち                         竹内靖雄 新潮社       1997. 2.25
( 2005年9月12日 TANAKA1942b )
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(40)江戸時代の旅を総括する
欧州にはない平和な近世

旅シリーズも今回が今回が最後です。あっちへフラフラ、こっちへフラフラ、話題がダッチ・ロールを続けたこのシリーズ、これぞTANAKA流「視野狭窄にならない思考法」の奥義。 士農工商というはっきりした身分制度があった封建時代、一握りの特権階級である武士によって押さえつけられていた庶民、しかし、そのような見方とはまるで違った面があった。「江戸時代の庶民は虐げられた階級であったのか?」に答えるには、視野狭窄にならないために多くの面から見なければならない。 ということで、最後は「旅や娯楽の精神安定効果」と「旅と平和の相乗効果」について少し引用して、参考文献・引用文献をあげておきます。
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<旅は経済効果と精神安定効果が大きい>  泰平の世として知られる江戸時代は、観光旅行が庶民にも身近になった最初の時代である。お伊勢参りなどは、年間で100万人前後にも及んだと推定されている。 元禄3(1690)年から2年間、長崎出島のオランダ商館に滞在し、江戸も2度訪れたことがあるドイツ人医師ケンペルも、日本人が非常によく旅行していることに、たいへん驚いている(『江戸参府旅行日記』平凡社東洋文庫、1977年)。
 従来、江戸時代の観光地と言うと、地方の名所旧跡がイメージされることが多い。そのため、江戸の町が観光都市として取り上げられることはあまりない。しかし、江戸は日本最大の観光都市(市場)として、特に地方の人々にとり、憧れの観光地であった。
 この時代、観光地の代表格と言えば神社仏閣である。そこは本来、人々が日常生活での悩みや苦しみから逃れるために訪れ、神仏に祈る場所なのだが、それだけではなかった。様々な娯楽に興じ、ストレスを発散させることも、悩みや苦しみを和らげる手段であることは、今も昔もそう大差はないはずだが、当時から、寺社はそうした娯楽のための使節を備えている場合が多く、行楽地としての性格も兼ねていた。 元来、寺社とは懐がたいへん深い施設なのであり、その特性を生かし、江戸観光文化の発信地として活発に機能するようになった。
 こうして、江戸の寺社は観光地の代表格となった。とりわけ縁日や普段は見られない秘仏・秘宝の開帳の時には、江戸や近郊から観光客が押し寄せ、寺社のみならず、その周辺もたいへんな活況を呈した。それに目を付け、全国各地から名立たる寺社が江戸に出張し、その秘仏・秘宝などを公開するようになった。 江戸に居ながらにして、地方の有名寺社の神仏を拝観できるため、期間中は多くの江戸市民が観光(参拝)に訪れている。
 お賽銭はもちろん、お守りやお札の購入など、観光客による多彩な消費行動は、寺社に多大な収益をもたらした。そのため、江戸という巨大な観光市場では、江戸の寺社のみならず、全国の寺社も参入して、観光客の熾烈な獲得合戦が繰り広げられた。その結果、当の寺社だけでなく、周辺にも莫大な経済効果を生みだし、江戸の消費経済を活性化させていった。(中略)
 江戸の観光市場に登場する人物は、たいへんバラエティに富んでいる。上は八代将軍徳川吉宗から、諸大名のお歴々。五代将軍綱吉の生母桂昌院をはじめ、江戸城大奥のセレブな女性たちや、諸大名の奥方。国元から単身赴任で江戸にやってきた大名家の勤番武士。また、「成田屋」こと人気歌舞伎役者市川團十郎から、コマ廻しの大道芸人松井源水まで、その演じる芸は観光客を楽しませ、観光地の賑わいを増した。
 観光市場が生みだす膨大な需要を目指して、商人も次々と参入してくる。一口に商人と言っても、観光客目当てに店を構える商人もいれば、観光地で自分の店をPRしたい商人もいる。笠森お仙、いちょう娘のお藤など、人気観光地からは、江戸市民に大人気のアイドルも生まれた。 主役は江戸100万の市民であるが、江戸観光を謳歌していた点では、男女の差はなかった。芝居見物など、むしろ女性が江戸観光市場を牽引している場面も随所に見られた。幕末には日本人だけでなく、欧米人も江戸の観光名所を訪れ、日本の文化を堪能している。
 その舞台は、将軍の住む江戸城。庶民は入れないはずの大名屋敷。神仏のデパート・浅草寺。江戸出開帳のメッカ・回向院。大相撲とも縁の深い深川の富岡八幡宮。江戸総鎮守の神田明神。赤穂浪士が眠る泉岳寺。江戸の寺社だけではない。関東地方の初詣の定番・成田山新勝寺、牛に牽かれて善光寺。金比羅参りの金比羅社、安産の神様・水天宮など名立たる寺社の数々。そのほか、江戸のウォーターフロント隅田川、桜の名所・飛鳥山。 さらに、両国・吉原を筆頭として、各所に広がる盛り場。團十郎演じる歌舞伎の舞台も、江戸観光の大舞台であった。
 そこで人々は、水と緑あふれる自然景観に心を癒され、霊験あらたかな神仏を拝んで信仰心が満たされた。さらにはキテレツな見世物、曲芸、講談、芝居など、あらゆる芸能を楽しむことができた。グルメやショッピングも楽しめた。華やかな江戸文化に出会える、日本で最もトレンディな場所であった。
 しかし、その裏では、多くの観光客を集めるために、現代のマーケティングも顔負けの営業戦略、まさに江戸の観光戦略が熾烈に展開されていた。相乗効果に期待した便乗商法も花盛りであり、大名までもが、柳の下のドジョウを狙って、江戸観光市場に新規参入している。 将軍吉宗も、新たな観光地を江戸に造り出し、トップセールスに乗り出している。派手なパフォーマンス、あるいは出版メディアや歌舞伎の舞台など、様々な宣伝広告媒体を駆使した活発なプロモーション活動が展開されていた。
 現在日本各地で展開されている観光地のサバイバル合戦とは、すでに江戸で展開されていたものに他ならなかった。観光という切り口で100万都市江戸を眺めることで、これなで知られていなかった江戸の世界に触れることができる。観光都市江戸が誕生し、大きく成長していく秘密も見えてくるだろう。
 以下、江戸を舞台に繰り広げられた観光客の獲得合戦を通して、江戸観光の泣き笑いを見ていこう。 (『観光都市江戸の誕生』から)
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<ヨーロッパの一揆は命がけの暴動> この旅シリーズ「(37)旅の普及を支えた経済制度」で
 「旅の普及に伴って多くの経済制度も発達した。それは旅の普及によって発達したものもあるし、またその発達によって庶民の旅が普及した面もあった。そうした「統一貨幣」「為替制度」「飛脚」「頼母子講」などを扱ってみた。旅の普及は各地の総需要を増大させたし、また経済システムの発展にも大きな影響を与えたと考えられる」 このように書いた。
 同じことは、「統一貨幣」「為替制度」「飛脚」「頼母子講」だけではなく、「平和」ということについても言えると思う。江戸時代島原の乱を除けば大きな騒動はなかった。それは当時のヨーロッパと比べればハッキリする。人によっては「幕府の締めつけが強かったから、幕藩体制への批判も、反乱も起こせなかった」と言いたいかも知れないが、TANAKAは違う風に考える。平和だったから、伊達くらべや大江戸美少女噂話を楽しんだりの、衣装贅沢が行われ、庶民の旅が盛んに行われた。 そして、そのことがストレス解消、鬱憤晴らしになり、幕藩体制批判に向かなかった、とも考えられる。現代においてインターネットがストレス解消に役立っているように、江戸時代には趣味の贅沢がストレス解消に役立っていたのだと思う。 これについては縄暖簾の経済学を参照のこと。 ちなみに当時ヨーロッパではどうであったか、と言うと、各地で争い事が起きていた。
 これについては<百姓一揆は命がけの暴動なのか?>と<ヨーロッパの一揆は命がけの暴動>で日本とヨーロッパの違いについて書いた。そこからの文をここで引用してみよう。
 1780(安永9)年6月ロンドンで大規模な騒乱事件が起こる。1778年カトリック教徒の身分上の差別がはじめて一部撤廃されたことに対して、ジョージ・ゴードン卿(1751-1793)の率いるプロテスタント教会が反対運動を起こし、1780年6月2日同協会の呼びかけによる請願行進が行われ、5万とも6万ともいわれる人々が議事堂を取り巻いたが、そのうちの一部が暴徒化し大規模な暴動事件を引き起こした。カトリック教会・政治家宅・銀行などが攻撃目標になり、監獄も襲われ、2000人近くの囚人が解放された。事件発生1週間後に鎮圧され、死者は285人、逮捕者は458人だった。
 1789年7月14日フランスでは民衆のバスティーユ襲撃事件が起き、これがフランス大革命の発端になった。以後フランスでは血で血を洗う革命劇が続く。ナポレオンが出て国内がまとまると、今度は周辺国へと戦火は広まる。フランスでは1814年ナポレオンの失脚により第一次帝政が崩壊して以来1世紀の間に、王政復古(1814-1831)、七月王政(1830-1848)、第二共和制(1848-1852)、第二帝政(1852-1870)、第三共和制(1870-1914)とめまぐるしくその政治体制を変えた。しかもその転換点には常に、七月革命(1830)、二月革命(1848)、六月蜂起(1848)、普仏戦争(1870-1871)の敗戦とパリ・コミューン(1871)という、劇的な事件が介在している。 ロシアでは1876年ナロードニキと名乗る革命結社が結成される。以後農村での革命運動が続き、1879年にはヴェーラ・ザスリッチなどによる皇帝狙撃事件も起き、以後弾圧と抵抗運動が続き、ロシア革命へと暗い時代がすすむ。
 これらに比べて「日本の百姓一揆は無責任な子供たちの散発的な癇癪のようなもの」にすぎないのかもしれない。
 江戸時代に庶民の旅がこれほどまでに盛んだったのは日本が平和だったからであり、「庶民の旅がこれほど盛んだったために反体制運動も起きずに、日本は平和であり続けた」と言っても良いと思う。
<経済活動を刺激し、情報流通量を多くし、民主制度の下地を作り、ストレス解消により平和な社会作った「旅」>
 折角これだけの量の文章を書いたのだから、この程度の表現を使っても許されるでしょう。ではそのうちどれが一番重要か?となると、判断できない。どれもそれなりに重要だし、調べ始めれば、興味は尽きず、好奇心を充分満足させることになるだろう。と言う「余韻」をのこしてこの「旅」シリーズを終えることにします。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献> 「趣味と贅沢と市場経済」の”旅シリーズ”で参考にした文献を列挙しました。乱読につき順不同です。
参勤交代道中記 加賀藩資料を読む                  忠田敏男 平凡社       1993. 9.14
国史大系39 徳川実記第2篇                   黒板勝美編 吉川弘文館     1964.10.31
参勤交代                              山本博文 講談社現代新書   1998. 3.20 
史話 日本の歴史17 江戸の誕生      梅原猛・尾崎秀樹・奈良本辰也監修 作品社       1991. 4.15 
江戸時代                             大石慎三郎 中公新書      1977. 8.25
旅の民俗と歴史1 日本の宿                     宮本常一 八坂書房      1987. 4.30
資本主義は江戸で生まれた                      鈴木浩三 日経ビジネス人文庫 2002. 5. 1 
日本史小百科<宿場>                       児玉幸多編 東京堂出版     1999. 7.19
旅の民俗と歴史2 大名の旅                     宮本常一 八坂書房      1987. 6.30
江戸の旅文化                            神崎宣武 岩波新書      2004. 3.19 
江戸庶民の旅 旅のかたち・関所と女                 金森敦子 平凡社新書     2002. 7.22 
東海道中膝栗毛(上)                十返舎一九 麻生磯次校注 岩波書店      2002. 8.20
東海道中膝栗毛 現代語訳           十返舎一九 伊馬春部・小谷恒訳 桜楓社       1976. 5.10
東海道中膝栗毛 現代訳                     平野日出雄訳 静岡出版      1994.12. 5
十返舎一九の江戸見物                        鶴岡節雄 千秋社       1982. 1.15
十返舎一九の甲州道中記                       鶴岡節雄 千秋社       1981. 7.10
十返舎一九の房総道中記                       鶴岡節雄 千秋社       1979. 3.10
十返舎一九の板東・秩父埼玉道中記                  鶴岡節雄 千秋社       1979. 3. 1
東海道名所記・東海道分間絵図  浅井了意・遠近道印作菱川師宣画 冨士昭雄校訂 国書刊行会     2002. 5.31
江戸温泉紀行                           板坂耀子編 平凡社       1987. 8.10
ビジュアル・ワイド 江戸時代館                        小学館       2002.12. 1
江戸の旅文化                            神崎宣武 岩波新書      2004. 3.19 
伊勢詣と江戸の旅 道中日記に見る旅の値段              金森敦子 文春新書      2004. 4.20 
江戸庶民の四季                          西山松之助 岩波書店      1993. 3.24 
旅と民俗の歴史 1 日本の宿                  宮本常一編著 八坂書房      1987. 4.30 
東海道の宿場と交通                         渡辺和敏 静岡新聞社     2000. 4.28
日本史小百科<宿場>                       児玉幸多編 東京堂出版     1999. 7.19 
関所抜け 江戸の女たちの冒険                    金森敦子 晶文社       2001. 8.10 
街道の日本史 30 東海道と伊勢湾             本多隆成・酒井一 吉川弘文館     2004. 1.20 
旅と民俗の歴史 4 庶民の旅                  宮本常一編著 八坂書房      1987. 8.31 
江戸の旅文化                            神崎宣武 岩波新書      2004. 3.19 
江戸は夢か                             水谷三公 ちくま学芸新書   2004. 2.10
江戸の旅文化                            神崎宣武 岩波新書      2004. 3.19 
江戸の旅人                            高橋千劒破 時事通信社     2002. 5. 1
図説江戸6 江戸の旅と交通                     竹内誠監 学習研究社     2003. 9.12
日本の歴史 17町人の実力                    奈良本辰也 中央公論社     1966. 6.15
東海道の宿場と交通                         渡辺和敏 静岡新聞社     2000. 4.28
東海道人と文化の万華鏡                     久保田展弘他 ウェッジ      2003. 7.29
「おかげまいり」と「ええじゃないか」                藤谷俊雄 岩波新書      1968. 5.20
江戸庶民の旅                            金森敦子 平凡社新書     2002. 7.22 
ええじゃないか               渡辺和敏・愛知大学綜合郷土研究所 あるむ       2001. 3.31
江戸庶民の四季                          西山松之助 岩波書店      1993. 3.24 
江戸は躍る!                            中田浩作 PHP研究所    2001.11. 7 
江戸の助け合い                 芳賀登・光田憲男・谷田部隆博 つくばね舎     2004. 1.10
甦る江戸文化 人びとの暮らしの中で                西山松之助 NHK出版     1992.12.20 
江戸の生活と経済                          宮林義信 三一書房      1998. 8.31
江戸の道楽                             棚橋正博 講談社       1999. 7.10 
尾張藩江戸下屋敷の謎 虚構の町をもつ大名庭園            小寺武久 中公新書      1989.12.20
近世風俗事典                                 人物往来社     1967.12.15
江戸の生業事典                          渡辺信一郎 東京堂出版     1997. 5.20
江戸はネットワーク                         田中優子 平凡社       1993. 2.25 
江戸の想像力                            田中優子 筑摩書房      1986. 9. 5 
世界六大宗教の盛衰と謎 一神教から多神教復活の時代へ        大澤正道 日本文芸社     1993. 7.20
現代日本の市場主義と設計主義                     小谷清 日本評論社     2004. 5.20
貧農史観を見直す                    佐藤常雄・大石慎三郎 講談社       1995. 8.20
経済思想の巨人たち                         竹内靖雄 新潮社       1997. 2.25
近世の村と生活文化 村落から生まれた智恵と報徳仕法          大藤修 吉川弘文館     2001. 2.20
観光都市江戸の誕生                        安藤優一郎 新潮新書      2005. 6.20 
江戸参府旅行日記                     ケンペル 斉藤信訳 平凡社東洋文庫   1997. 2.25
( 2005年9月19日 TANAKA1942b )
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(41)園芸は代表的な道楽だった
造形化した自然も好んだ江戸庶民

「趣味と贅沢と市場経済」旅シリーズの後は「園芸」です。植物の栽培や動物の飼育は、農村部では生活費を稼ぐために、都市部では趣味として多くの人が携わっていた。ここでは都市部の趣味の園芸を中心に、経済学的視点を忘れずに扱うことにする。 先ずはいろんな人の見方を紹介しよう。
(^_^)                  (^_^)                   (^_^)
<代表的な道楽=園芸>  武家や町人の間でもっとも広く行われていた江戸時代の道楽とはなんであったろうか、ということになると、その代表的なものは、やはり今日と同様、園芸であったろう。 上は大名といった上流の武士階級が金に飽かしたものから、路地の長屋住まいにいたるまで、大名は大名で、庶民は庶民なりに共通して熱中したものである。
 道楽はほんらい個人の嗜好の問題であり、自身の満足を求めるものである。だから、金で買い求めるものでもない。文字通り小人の楽しみの路であったはずである。それが、巧拙などを競うようになっていくのは、どうしても人間のすることであり、競争意識が出てくることは、やむをえないところかもしれない。
 園芸においても、枝ぶりなどの樹木の姿や、草花における大輪・小輪の花の出来具合いを競うこともしばしばである。今日でも盛んなキク(菊)の品評会などは、そうした成果を競うことの代表的な例といえるであろう。 (『江戸の道楽』から)
(^_^)                  (^_^)                   (^_^)
<自然を造形化した日本人>  江戸時代の日本人はまったく汚されていなかった自然と共生していた。自然の四季の推移を巧みな季語として表現、分析、体系化して、季語集をつくった俳諧の正解が翌これを表していると思う。 俳諧史の権威、尾形仂氏によると、既設の意識は早くも『万葉集』に見え、『古今集』で春夏秋冬に分類され、以来この伝統が引き継がれた。連歌では天正15(1587)年の『毛吹草』が『至宝抄』のほかにその倍くらいの俳諧季語を集載した。 その後18年を経た寛文5年、北村季吟が著した『増山の井』には『毛吹草』よりはるかに多い季語が集約され、これが世に用いられた。そして約半世紀後の享保元年、児島員九が著した『俳諧通俗志』は、本草学や新しい季語や新風俗を集約した、以前のものよりはるかに充実した季語集となった。 これが幕末まで用いられとということである。つまり江戸時代には、俳諧世界では立派な季語の集大成ができあがっていたのである。
 季節のなかでも、「牡丹散ってうちかさなりぬ二三片」(蕪村)というように花吹雪、落花、花屑、花埃、花の雨、落葉──「散る」、花吹雪が散ることは日本人独特の世界であって、福原麟太郎氏の研究によると、西欧では落花を楽しむという文化はほとんど見当たらない。 しかし日本には落花を楽しむ文化がはるか古い時代からある、と氏はいっているが、まことに日本人は花の散る姿、紅葉の散る様子を楽しむということが古い時代からあって、歳時記のなかには、散る花のさまざまな季語が網羅されており、また「風光る」、「山笑う」、「山眠る」などという季語も素晴らしい感覚を表現し、形象化したものだと思われる。
 とくに「風光る」で思い出すが、私は先に「風の文化史」を書いたことがあって、日本の風の文化を古代から現代まで詳しく調査し、また歳時記のなかの風をたくさん拾ってみた。おそらく、中国の沙漠地帯あるいは東北地方(旧満州)あたりでは砂嵐の風とか、はるか向こうに吹き降りの雨が降っているのが見える風というような大まかな風であるのに、日本では村ごとに風の名前が違うほどに、さまざまな風の呼び名があり、また漁師による風の呼び名も多種多様であって、これは江戸時代だけにできたものではないが、非常に多くの名前を持って日本人に感じられる。 そういう意味では、日本人ほど豊かな風文化を持っている民族はないのではないかと思われるのである。いずれにしても四季のさまざまを細かな季語というかたちでデフォルメした日本人は、自然を造形化している民俗である。 (『甦る江戸文化』から)
(^_^)                  (^_^)                   (^_^)
<花と緑の江戸……園芸好きだった江戸の人々>  近頃、日本でもガーデニングブームとやらで、庭づくりや園芸が脚光を浴びるようになってきた。このガーデニングという言葉は、「GARDENING」(造園、造園術、園芸)からきたもので、ハーブやイングリッシュガーデンなどをテーマとして、園芸植物を育てて楽しむことに特徴があるようだ。 日本庭園(枯山水など)のような形式にとらわれず、個人の好みに応じて自由な方法で栽培できる。また、その楽しみ方もただながめるだけでなき、インテリアに取り入れたり、料理や入浴などのシーンで味や香りを楽しんだりと、じつに幅広い。
 過去においても、日本人が生活の中で、現代のガーデニングと同じように園芸と親しみ、ブームとなった時代がある。それは、江戸時代で、対象とした植物や嗜好の違いはあるものの身分の上下、貧富にかかわらず、広い層の人々が植物に深い関心を持っていた。そこで、江戸の町で、どのようなガーデニングが行われていたか少しずつ見ていきたい。
 江戸っ子の植物好きには、幕末期、日本を訪れた外国人たちも少なからず驚いたようだ。イタリアの通商使節、V・F・アルミニヨンは、「日本人は花が大好きで、江戸近辺の植木屋たちは冬でも花を栽培し、大量に供給している。花屋は街中を売り歩き、貧しい人々の住む地域でも確実に買い手を見つけることができる」(『イタリア使節の幕末見聞記』大久保昭男訳、新人物往来社)と観察している。 また、イギリスの園芸家、ロバート・フォーチュンは、「日本人の国民性のいちじるしい特色は、下層階級でもみな生来の花好きであるということだ。気晴らしにしじゅう好きな植物を少し育てて、無上の楽しみにしている。もし花を愛する国民性が、人間の文化生活の高さを証明するこのとすれば、日本の低い層の人びとは、イギリスの同じ階級の人達に較べると、ずっと優ってみえる」(『江戸と北京』三宅馨訳、広川書店)と最大級の賛辞を残している。
 さらに、江戸の町を丹念に見て歩いたプロイセンの使節団長オイレンブルグは、「都市、しかも江戸の商店街の狭い小路の各家々にでも、一隅に小さな植物が置いてある。多分、制限された場所が、矮性樹の栽培という洗練された趣味になったのだろう」(『オイレンブルグ日本遠征記』中井品夫訳、雄松堂出版)と江戸の園芸の特質に迫るような観察力を見せている。
 日に日に政情が不安定になりつつあった幕末の江戸にあって、意外にも現代のガーデニングブームを上回る園芸ブームが存在したことが、外国人たちの記録から推測できる。また、江戸庶民の園芸に対する関心の高さは、江戸の町の景観にも反映されていた。スイス領事として赴任していたルドルフ・リンダウは、「数多くの公園や庭園がこの江戸を埋め尽くしているので、遠くから見ると、無限にひろがる1つの公園の感を与えてくれる。到る所に林として、また、並木として植えられた木立に気付く」 (『スイス領事の見た幕末の日本』森本英夫訳、新人物往来社)と書いている。このように当時の江戸は世界一の人口を抱えながら、園芸を楽しむ国民性によって、緑に囲まれた美しい都市を形成していた。しかも、江戸の緑は、自然の緑ではなく、植栽された植物が多く、人の手によって維持管理されていた。つまり江戸は、園芸植物を効果的に配置した箱庭のようであったと言ってもよいであろう。 (『江戸のガーデニング』から)
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<日本における品種改良の伝統>  明治以後の日本の科学で、最も早く国際水準に到達したものの一つは、遺伝学であると言われる。もしノーベル賞に生物学賞があったならば、1949(昭和24)年の湯川秀樹氏の物理学庄の初受賞と前後して、日本から受賞者が出ただろうと言われている。いわゆる高度成長が始まった昭和30年代のごく初期に、いち早く日本で行われた大規模な国際学会は、国際遺伝学会であった。 遺伝学がめざましく発達できたのは、それに先立ち、栽培植物と飼育動物の分野で、品種改良の長い歴史があったからだと考えられる。その経験から得られた知識の集積が、遺伝を研究する際の素材として生かされたに違いない。
 品種改良と遺伝学のつながりを象徴しているかに思えるのが、学会のあゆみである。1915(大正4)年、まず日本育種学会が発足し、翌年に機関誌として『日本育種学会々報』が発刊された。そして1920(大正9)年に、この学会が日本遺伝学会と改称され、機関誌も『遺伝学雑誌』に変わったのだった。育種学会の事務局は、駒場の農科大学にあった。遺伝学会になった当初も、東京西ヶ原の国立農業試験場に置かれていた。 のちになって東京大学理学部植物学教室に移った。以上の経過は、遺伝学が導入されてから応用の品種改良が起こったのではなく、品種改良がまず母体としてあって、そこから遺伝学が分離独立していった事情を示していよう。(なお第2次大戦後、遺伝学会とは別個に、改めて日本育種学会が新設され、現在に至っている。)
 ではそういう品種改良を、実際に担ってきたのは誰か?明治以前にこのための公共の機関はなかった。すべて民間の人たちの手で──文字通り”手”で──推進されてきた。その民間の意味だが、植物の栽培も動物の飼育も、2つのまったく別個の流れがあった。1つはいうまでもなく、農村で営まれた農業である。もう1つは渡海の趣味として発達した。観賞用および愛玩用の生物の栽培と飼育である。 江戸時代にはそれぞれの流れから、多くの研究書が出現した。農村と渡海とでは扱われる植物と動物の種類がまったく違っていた。しかし品種への関心はどちらも高く、実際に、それぞれの種類でたくさんの品種が作りだされていた。
 農村では当然ながら、イネが常に中心であった。イネの品種について最古の記録が、同時に栽培植物の品種に関する最古の記録になる。それは『万葉集』の歌のなかにある。同書巻14の歌の1つに「葛飾早稲」という言葉が詠み込まれていて、これがイネの品種の最初の文献とされている。早稲があるからには、少なくとも晩稲もすでにあったに違いない。またわざわざ葛飾をつけているのは、これと区別される早稲の品種がほかにもあったことを推測させる。 おそらく『万葉集』が編集されるよりもずっと早く、複数の品種の分化が起こっていたことは確かであろう。(中略)
 都会で栽培される植物は、花と植木であった。植木の場合、これまた近郊に、専門に扱う植木職人が出現した。とくに多かったのが江戸の近くで、駒込から巣鴨にかけての一帯だった。そのなかの染井村で作りだされた1つが、サクラの「ソメイヨシノ」である。サクラを含めて大きく成長する樹木の類は、当然ながら素人が扱うのは難しく、専門の植木職人にたよらなければならなかった。
 これに対して草花は、町なかの住民が好んで手がけた。アサガオ、キク、アヤメ、ハナショウブ、サクラソウ、フクジュソウ……など、種類も多岐にわたった。担い手は主に武士であった。町人が多忙だったのに比べ、武家の隠居には暇があり、それを趣味の植物に振り向けたのだった。 花の色や形を多様にすることと、種類によっては葉の斑入りをつくることが、大きな目標にされた。とくに盛んだったのが、アサガオであった。アサガオの古名は牽牛子(けんごし)で、のちに牽牛とも表記された。(中略)
 農村と対照的に、町では動物の愛玩用の飼育が流行した。個人の住居で飼うのだから、比較的小型のものに限られた。動物の交雑は、植物よりも簡単である。キリスト教の文化圏と違って、倫理上の制約も日本では少なかった。イヌ、ニワトリ、コマネズミ、コイ、キンギョなどで、さまざまな品種が作りだされた。(中略)
 日本の花の改良が著しく発達するのは江戸時代になってからである。
 江戸時代の日本の園芸植物の発達はヨーロッパや中国にひけをとらないが、その改良の基本となったのは変わりものを選抜する選定眼であった。ヨーロッパではかけ合わせによる育種は、遅くとも19世紀前半には行われていたが、日本では積極的な交雑育種は、中尾佐助博士が指摘したように、江戸時代にはまず行われていなかったとみられる。 本書では「ソメイヨシノ」が人為交配によって江戸時代に成立したと述べられているが、これは岩崎文雄氏によって提唱された仮説である。元禄のころから活躍した伊藤伊兵衛三之丞、政武親子は26巻の『地錦抄』シリーズを刊行したが、その書でみる限り、交配にふれた箇所はない。
 江戸後期のアサガオの変異維持には、かけ合わせも行われたと思われるが、むしろ例外的で、江戸園芸は突然変異による枝変わりや自然結実からの実生によって変わりものを見いだし、それをさし木や接ぎ木などの繁殖技術を駆使して殖やし、広めたのが主流である。
 それにしても、爆発的な江戸園芸の発達は、武士や庶民に戦のない時代、ゆとりが生じ、そのエネルギーが花の競争に向けられたからであろう。 (『日本人が作りだした動植物』から)
(^_^)                  (^_^)                   (^_^)
<緑の風を運ぶ小型鉢物>  江戸からつづく東京・下町の路地裏には、アサガオとか釣忍(つりしのぶ)とかいった植物がよく似合う。いずれも場所をとらずに栽培でき、夏の早朝に美しい花を咲かせたり、緑の風の気配を知らせたりする都市の風物といっていいだろう。 いまマンションやアパートでのベランダ園芸が花盛りだが、江戸の人たちは軒下園芸に自然のエッセンスを濃密に詰め込んで、さり気なく草花との共生を楽しんでいたようだ。佃島の横町あたりにその風情はまだ残っている。
 アサガオをはじめとして小型鉢物の園芸植物はいわゆる現代風モバイル植物である。ベランダのどこに置くか、または引っ越しの際には次の居住地へもっていけるし、室内外の移動も可能。まったく便利なモバイル植物として現代人に愛好家がふえている。 この点、軒下に忍を吊したり、物干し場に朝顔の鉢を置きつる立てを行ったり、江戸の人たちも狭い空間をうまく使って、人間と植物お互いに折り合って共生していたところも似ていると思わないか。
 江戸の町では、朝顔は5月のなかばから売り出して、8月前までを限りとした。「アサガオやあ、あさがお」と棒手振で夜明けから朝顔売りが町々を歩き、正午までに売り切って帰る。素焼きの小鉢作りで、花には、紅、白、瑠璃、あさぎ、柿色、ふちとり、しぼりなど多様な色と模様があり、花の大きなものが喜ばれた。 うら長屋の門口にも、貧富の差なく咲く朝顔、それが江戸の夏の風景であった。朝に咲き、夕べにしぼむ朝顔は、江戸っ子気質に合ったのだろう。その栽培は盛んだった。
 朝顔は元来観賞用草花ではなかった。はじめ薬用として栽培されていたものが、しだいに観賞用として人々が愛好するようになったものである。文化のはじめに、下谷御徒町の植木職人が仇顔の栽培を行っていたのだが、このころから花や葉の改良が始まり、文政期(1818〜1830)になると、深川や浅草方面に広がっていった。
 そして、この元来は観賞用草花ではなかった朝顔を観賞用草花として、花を開かせたのは、それは江戸の”先端科学””江戸のバイオ”の成果であった。園芸文化の世界でメンデルよりも前に遺伝の法則を心得た極致の花を創り出したのは、江戸の人々であった。バイオ時代を迎えたいまこそ、もう一度彼らの智恵と経験をたどってもいいのではなかろうか。
 小学校の夏休みの観察日記の材料はたいてい朝顔だった。それは葉や花の形にさまざまな変異が現れやすい性質をもっているからだ。朝顔はもともと日本に自生したものではなく、奈良時代に中国から薬草として渡来したものである。種子に毒性があり、下剤として効果があると考えられ、おもに奈良地方で栽培されていた。
 薬草であるために野性種そのものは小輪青色花、東京古型標準型の「青並葉青丸咲」にその原型をとどめている。葉の先が3つに分かれ、丸くて青い花(あさぎ、または、はなだ色)。その単調で可憐な花ゆえに次第に愛されるようになった。細く伸びたつるに夏の朝まだきに咲く清々しい花は日本人の美的意識にもかなったのか、やがて詩歌や句に詠まれ、書画にも登場するようになった。 (『江戸は躍る!』から)
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<園芸文化の成立と発展>  近年、日本では「ガーデニング」が一大ブームとなっている。多くの人々が生活に潤いを求めて庭造りや園芸を楽しみ、書店には幾多の園芸書が並べられている。 実はこのようなブーム現象は、江戸時代にも難度となく見られた現象であった。
 江戸時代初期における園芸は、伝統的な華道・茶道・庭園文化の流れを汲む京・大坂など上方が1つの核となっていた。しかし徳川将軍家の園芸趣味や、天下の「総城下町」・江戸の都市建設・拡大に伴う寺院や武家屋敷内の庭園整備などを背景に、徐々にその中心を江戸へと移していき、江戸の周縁部にはさまざまな花卉草木・植木類を専門的に供給する地域が成立した。 その代表的な存在が、江戸の東部郊外に位置する葛飾地域や北西部郊外の染井を中心とする駒込・巣鴨地域であり、その盛んな様子は数多くの浮世絵に描かれ、その姿を今に伝えている。
 「私は世界のどこへ行っても、こんなに大規模に、売り物の植物を栽培しているのを見たことがない」。幕末に染井を訪れたロバート・フォーチュンは、著書『江戸と北京』の中でこう述べているが、イギリス人植物学者で著名なプラントハンターでもあった彼をしてこう言わしめるほどその規模は大きく、またレベルも高かった。
 『江戸と北京』を通読すると、当時の日本の園芸文化が、中国(清)におけるそれよりも優れていると彼自身が評価している点を数多く見出すことができる。この江戸の園芸文化を支えたのが「芸家」「花戸」などと呼ばれた植木屋・庭師であり、彼らの集住する駒込・巣鴨地域は、まさに江戸の「園芸センター」の様相を呈していた。江戸の都市緑化事業を担っていたのは。彼ら植木屋だったのである。 (『事典 しらべる江戸時代』から
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<大都市江戸造営から園芸の隆盛へ>  慶長8(1603)年、徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府をスタートさせました。以後、約270年間にわたって政権を握った徳川家ですが、その間江戸は城下町とにての機能を着々と整備し、享保年間(1720年前後)には人口100万人を擁する、世界有数の大都市に成長しました。
 平和が続くなかで町人が力をつけ、経済的にも大きく発展し、文化的のもそれまでにない繁栄をしました。園芸文化もその例に漏れず、飛躍的な発展を遂げたのです。
 私は、<園芸>は<農業><本草学>を親として生まれ。<生け花>と<造園>の、双方を合わせて三位一体となって、つまり兄弟のような関係を保ちながら発達し、生まれてきた文化だと考えています。農業、本草学から話を進めると少し大げさになるので、兄弟である生け花、造園にまず目を向け、思いついたことを述べてみたいと思います。
 日本人はもともと花好きな人種といえるでしょう。野山に自生する草花を愛し、それを何らかの形で身近なところに取り入れたいと考え、花を生けるようになってきた。
 花を愛する一方で私たちの祖先は、樹木に神が宿るとも考えていました。サカキもそうですし、マツも神が降りてくるのを「待つ木」なのです。そういう宗教心も植物への関心をいっそう深いものにしてきたと思われます。 (『江戸の園芸・平成のガーデニング』から
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<自然を愛する心をミームが現代に伝えている>  多くの識者が指摘するように、江戸時代の人びとは園芸を楽しみ、緑のなかで生活していた。リチャード・ドーキンスの発想を借用すれば、利己的な文化遺伝子「ミーム」がこうした感覚を現代に伝えているはずだ、となる。 「明治以後の日本の科学で、最も早く国際水準に到達したものの一つは、遺伝学であると言われる」はミームが時を経ても江戸の人の感覚を現代に伝えているからだと考えられる。「趣味と贅沢と市場経済」今度のシリーズはこうした園芸を扱うことにした。 どこまで意図したものが表現できるか?どこまでミームを解明できるか?好奇心と遊び心をもってチャレンジします。ご期待ください。
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
江戸の道楽                             棚橋正博 講談社       1999. 7.10
甦る江戸文化 人びとの暮らしの中で                西山松之助 NHK出版     1992.12.20
江戸のガーデニング                        青木宏一郎 平凡社       1999. 4.19 
日本人が作りだした動植物 品種改良物語 日本人が作りだした動植物企画委員会編 裳華房       1996. 4.25 
江戸は躍る!                            中田浩作 PHP研究所    2001.11. 7 
事典 しらべる江戸時代                 林英夫・青木美智男編 柏書房       2001.10.15
江戸の園芸・平成のガーデニング                   東征一郎 小学館       1999. 4.20
( 2005年9月26日 TANAKA1942b )
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(42)椿から始まった江戸の園芸
無類の花好きだった徳川家康

江戸時代の贅沢を東福門院和子の話から始めた。先立つものがある人たちの話から始まった、贅沢が市場経済を発展させた、というテーマ。旅では大名の参勤交代から話を始めた。同じように「園芸」も徳川家康から話しが始まる。 あの狸親父家康が園芸好きであった、という意外なことから今週は始まる。
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<寛永のツバキの流行から始まった>  関ヶ原の合戦(慶長5年、1600)の勝利のあと、徳川家康は征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開いた(慶長8年)。ようやく平和な時代を迎えることとなって、園芸復興の時代が訪れる。
 たとえば後水尾天皇(1596〜1680)の嗜好に倣って、大御所(2代将軍)徳川秀忠(1579〜1632)や貴人たちはツバキの鉢植えに熱中する。時は寛永年間(1624〜1644)であった。
 この<寛永のツバキ>の流行と同時に、秀忠は諸国から珍しい木や草花を集めることに執心した。これがおそらく江戸時代の庭園造りの始まりであったろう。こうした<将軍の道楽>がゆすされたのは、なにより世情の安定がもたらされた故に他ならない。 先に述べたように、江戸城を中心に周辺の町割り計画による市街化の進行や、利根川・隅田川等の河川の整備が進んで、江戸幕府の財政的基盤の安定と幕藩体制の定着が背景にあった。
 秀忠に続いて3代将軍徳川家光(1604〜1651)もツバキの愛好者であった。もうこの頃になると、大名が貴人たちの中にあっては「お留花」と称して、自慢の品種の花を確保し、門外不出として愛でることも、ままなされていた。 この「お留花」は、園芸を自身だけのひそやかな楽しみにするという精神構造から生まれた典型的なものであったといえよう。 (『江戸の道楽』から
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<あの狸爺家康が無類の花好きだった>  江戸の園芸はツバキから始まったと言われている。家督を息子の秀忠に譲り、隠居生活に入った家康が、昔、駿河の一領主だった頃に手がけていた花の栽培にふたたび熱を入れ始めた。 そして、芥川小野寺(駿河時代に庭の管理を任せていた花好きの住職)を呼び寄せ、二の丸の「御花畠」の手入れを命じた。これを江戸の園芸の出発点と見たからだろう。それにしても、関ヶ原の戦いで淀君・秀頼親子を死に至らしめ、後世「狸爺」とあだ名された一代の策略家である家康が、無類の花好きだったとは、人間の意外な一面を見るようでおもしろい。
 この「御花畠」はいわゆる築山や池、石組みなどで後世する日本庭園の類ではなく、かといって、実用本位の野菜畑でもない。「御花畠」の奥には、花を観賞するための東屋が建てられ、ツバキや四季の草花などが植えられていた。 草花の周りに柵をめぐらす程度で、灯籠や庭石などは置かなかった。つまり、あくまでも花を見るための庭であった。これはむしろ現代の庭づくりに近いといっていい。つまり、家康は江戸のガーデニングの先駆者でもあったわけだ。
 続く2代将軍、秀忠も相当な花好きであった。特にツバキがお気に入りだったようで、元和元(1615)年の『武家深秘録』には、”斑入り珍花”として名高い「広島椿」を入手したという史実が残されている。 もっとも、このツバキ、開花する直前に家康が死去し、その年は哀悼の気持ちを表すために、花を見るのを我慢したという。 (『江戸のガーデニング』から
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<ツバキの品種改良から始まった日本での品種改良>  観賞植物に品種が多く生じ、その記録が残されるようになったのは江戸時代からで、椿の花と品種名を記入した巻物がその最初のものであった。 日本では中国原産の梅、牡丹、芍薬(しゃくやく)、菊などを早くから導入して栽培してきた。牡丹、芍薬は紀元前から中国で薬草として栽培されてきた。(中略)
 日本では古くから花は庭に取り入れられ、鑑賞されていたことは、万葉集をはじめ平安時代の文学に多く述べられている。しかし、個々のの諸区部の品種を取りあげた園芸書は、江戸時代になって初めて現れた。 水野元勝『花壇綱目』(延宝9年、1681)が最初で、その中には、ボタン、シャクヤク、キク、ウメ、モモ、ツバキ、サクラ、ツツジ等の品種と品種の簡単な説明が加えられてある。 これらのうち最初の5種は中国渡来種で、後の3種は日本に自生する花木である。といっても、サクラ、ツツジは総称名で、実際には植物分類上の種または雑種に当たる品種が扱われることになる。(中略)
 江戸期にブームとなったツバキの新花、珍花づくりは、茶の湯を愛した秀吉が関白となった1585年ごろから漸次盛んになり、以来末期までの280年間にわたり多様な品種を数多く生み出してきた。
 ところが、近年、ツバキ属の発生・分化の中心である中国大陸産の原種を調べる過程で、日本の古典品種である「ワビスケツバキ」や「熊谷(くながい)」(古名・朝鮮椿)、「紅唐子(べにからし)」、「肥後羽衣」などは、いずれも中国産ツバキ属の血が取り込まれているのではないかと考えられるようになってきた。 また、ツバキとサザンカの自然雑種ハルサザンカも、江戸中期にはすでに数種が存在していた。
 このようにいろいろなことがわかってくると、日本のツバキ品種は日本民族と同様、古くから多彩な遺伝子構成の中で成立してきたものと考えられるのである。
 江戸期のツバキブームの始まりについて記した東西2つの史料を紹介しよう。
 『百椿集』・著者の安楽庵策伝は、京都・誓願寺の住職で紫衣を許された高僧であった。新しい時代の花となったツバキを熱愛し、わずか20年間に100を越える品種を収集した。これを花色別にして命名し、文学的な表現で品種の特徴などをまとめたものが本書である。 その前文で京のツバキの流行について「後陽成院の御代(1586年)からツバキの流行が芽生え、今上帝(後水尾帝)の御宇(ぎょう)(1611〜1628)には甚だもって盛んなり」とし、その品種も「元和元年から日ましに増益す」と記している。
 一方、江戸の様子について『武家深秘録』(元和1年、1615)は、「将軍秀忠、花癖あり、名花を諸国に徴し、これを後園吹上花壇に栽えて愛玩す。この頃よりツバキ流行し、数多くの珍種を出す」と述べている。
 ツバキ流行の背景には立花(立華)や茶の湯の流行があったわけで、当時のトップ陣営……京では帝や公家、僧侶などが、江戸では将軍や諸大名らが牽引力、推進力としてツバキ熱の浸透に大きく作用した。とくに家光が参勤交代の制を定めるようになってから、地方の優れた品種が江戸に集中し始め、今日の華麗な江戸椿のもとになったと考えられている。(中略)
 江戸の後期に至ってもツバキブームは衰えを知らず、その様子を屋代弘賢は『古今要覧稿』(天保12年、1841)の中で、「ツバキは世間に大いにもてはやされている。流行しているからこそ植木屋は利益を求めて栽培熱心となり、種子を蒔いて変わりものを作り出す必要が生じた。 その結果、多くの珍種、奇花を得ることができた」と述べている。
 この時代、ツバキ好きの人々はツバキ園を設けて互いのコレクションを競い合い、珍花や変わりものは高値で売買された。ツバキが”金の成る木”であったことが、町人や小録の武士をも巻き込んだブームの一因とみられている。
 元来、ツバキは自家不和合性があり、他家受粉することで種子を結ぶことが多い。したがって多品種を植えたところでは、種子を蒔くと親とは違った変わりものがいろいろとできる。江戸期の新花づくりは、多くの人々の長期にわたる実生の育成、選抜が中心となり、これに枝変わりが加わった。ときには知らぬまに中国系の血も加わって、驚異的な発展をみたと考えられる。
 ちなみに、宮内庁所蔵の『椿花図譜』は、江戸初期から元禄期にかけて、東福門院が絵師に命じて描かせた京のツバキの原色図鑑とさえいわれている貴重本である。 (T注 東福門院は単なる衣装狂いではなかった。東福門院和子の涙を参照) 。この中にツバキ617種、サザンカ12種、唐椿2種があるが、江戸系の品種はきわめて少ない。これに江戸中期以後の品種を加えたら、おそらく1500を優に越えるであろう。
 平成7年現在で日本のツバキ品種は、種間雑種を含めてもせいぜい200余種程度。江戸期の新花づくりの狂乱ぶりが想像されよう。 (『日本人が作りだした動植物』から)
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<植木売り>  植木売りは行商というよりは、神社仏閣の縁日の露天商として盛んであった。日を決めて江戸の各地に植木市が立ち、特に薬師、観音、不動の各縁日を渡り歩くだけで商いが成り立った。 行商の場合は、竹の四ッ手を二つ天秤の両端にさげ、根付きの植木の鉢植えの小さい木を商った。売り値は木の種類により異なるが、かなり掛け値が多いものもあったらしい。
 業態については、鶴屋南北の『貞操花島羽恋塚(みさおのはなとばのこいづか)』(文化6)に、「松、頬かむり、木綿やつし股引、草履、縁日の植木屋にて、植木の荷へ葉蘭、水仙の頬、片手桶の小さきに本水を入れあるを、竹の四つ手へ結わえ、よき所にカンテラを吊し、出で来たり」とある。 (『江戸の生業事典』から)
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<鉢植えが楽しまれ、多くの図譜も刊行された>  江戸時代にはさまざまな種類の植物が園芸品として育てられているが、その中心となったのは、狭い土地でも育てられる鉢物で、時代によって流行した植物がいくつか見られる。 寛永の椿、元禄の躑躅、享保の菊、寛政の橘、文化の朝顔、文政の万年青(おもと)・松葉蘭などである。
 ブームとなった植物は、高額な売買の対象ともなり、寛政10(1798)年には珍品鉢植えの高価売買が禁じられたが、その後もブームはつづき、橘・万年青(おもと)・松葉蘭・福寿草、セッコクなどは、まさに「金成樹(かねのなるき)」とも呼ばれたほどである。 これらの植物の評価は、美しさを競うというよりも希少性が重視され、多くの奇品珍品が生みだされた。
 品評会の記録としては、正徳4(1714)年に京都のの円山でおこなわれた菊合わせの会が早いもので、以後も流行植物の品評会はさかんに開かれた。
 出品物を写した図譜も多く刊行され、葉や茎の斑入り、矮性(丈が伸びないもの)、捻れ、縮み、花の変わり咲きと、驚くばかりの多様な姿が図示されている。
 菊に関して、江戸では文化9(1812)年ごろから巣鴨・染井(東京都豊島区)の植木屋を中心として作り物(菊人形)がつくられ、多くの見物人でにぎわった。弘化期にも再び人気を呼び、多くの番付や道案内・錦絵が出版されている。 (『ビジュアル・ワイド 江戸時代館』から)
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<主な参考文献・引用文献>
江戸の道楽                             棚橋正博 講談社       1999. 7.10
江戸のガーデニング                        青木宏一郎 平凡社       1999. 4.19 
日本人が作りだした動植物 品種改良物語 日本人が作りだした動植物企画委員会編 裳華房       1996. 4.25 
江戸の生業事典                          渡辺信一郎 東京堂出版     1997. 5.20
ビジュアル・ワイド 江戸時代館                        小学館       2002.12. 1
( 2005年10月3日 TANAKA1942b )
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(43)話題の多いキクとアサガオ
変化朝顔の不思議

江戸時代の園芸として、キクとアサガオはいろいろと話題が多い。今週はキクとアサガオでまとめてみました。
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<キクの起源と文化史>  日本を代表する花はと問えば、誰もが春のサクラと秋のキクと答えるであろう。むしろ外国人のほうが日本人よりも、日本の花はサクラよりもキクだ、と言う人が多いようである。 愛好者が多く過程でも栽培されて、各地で品評会などが催される趣味園芸の代表的花であると同時に、切り花として生産され、その数量は現在日本では20億本にも達し、切り花生産量の3分の1を占め第1位である。産業的にも社会的にも、日本人の生活に非常に密接にかかわっている花である。(中略)
 今日のキクの栽培品種は、長い年数の間交雑が繰り返されてきた。したがってきわめて雑種性に富んでおり、また自家受精を行わないため、交雑した場合、その後代には種々の雑多な形質をもった実生が現れる。その中から形質の変わったものを選んできた。 営利栽培のためには、商品性の高いものであると同時に」生産性にすぐれ、営利性の高い品種を作りださなければならない。しかし優良品種の出現の確立は非常に低く、20〜30万本に1本程度であると思われる。
 キクの栽培品種は中国で野生種との交雑で生まれたものであると言われるように、日本に自生する多くの野性ギク(イソギク、シオギク、ナカガワノギク等)と容易に交雑ができ、それらの雑種が得られる。イソギクとスプレーギクとの交雑では小輪で多花性、分枝性が多く耐病性があり、非常に生産性の高い小輪系のスプレーギクが多く作出され、営利栽培で重要な品種群(ハイブリッドマム)がある。 (『日本人が作りだした動植物』から)
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<キクは御禁制>  田沼時代のマイナス面はそれとして、殖産・膨張政策は、近時のバブル経済によく似た現象を世にもたらした。大仰に言うならば、日本の有史以来初めて、消費文化を国民は享受したというわけである。
 そんな消費文化の影響が庶民の道楽まで及ばないはずはなかろう。歌舞伎の流行、俳諧・狂歌・戯作などの文芸の隆盛、着道楽から食道楽、もちろん園芸道楽にいたるまで万事華やかなものとなり、生け花、茶の湯、香道といった、かつて庶民には縁遠かった遊芸までが大衆化し、まさに消費文化は謳歌されたのであった。
 たとえば香道の流行はただちに道具道楽を招き、茶の湯もまた同様に道具道楽や茶室の数寄屋造りの道楽を招いたにちがいない。香料の少なかった当時にあって、香道とは別に花の香りにとり憑かれた御仁もいたはずである。
 生け花が盛んになれば花作りの園芸と連動し、生け花の会も盛んに開かれることになる。鉢植えの鉢はいうまでもなく、、生け花の花器にいたるまで華美を競い、道楽は高価に走り、ともすると「道楽は道に落ちる」ことにもなったわけである。
 天明の飢饉などを契機に田沼意次が失脚し、代わって登場した松平定信は8代将軍吉宗の緊縮政策を復活させた。しかし、いかに封建時代とはいえ、号令一下、すべてが改まるほど単純なわけではなかった。かつての田沼の遺風を慕う国民がすぐに消えるわけではない。 園芸においても同様であったろうと思われる。
 もっとも、士農工商のそれぞれの本分を正す綱紀粛正に重点が置かれていた。いわゆる寛政の改革にとって、園芸道楽などは、初めはさほど重大な関心事ではなかった。したがって、松平定信の推進する改革後も、改められることもなく園芸ブームはしばらく続いていたのであろう。 だが、世の中が改革による変革に次第に適応し、世の中も落ち着きを取り戻してくると、やがてその園芸ブームに対しても、ついに幕府の注文がつくこととなった。
 本来不要の品である珍品鉢植えが、不相応な高価売買をされているといった現実に対する禁止のお触れである。このお触れは大目付を通じて発令されて、人々はこれを充分心得て改めるべきであることを命じている。それは次のようなものである。
   寛政十午年八月
     大目付え
  近来品珍敷鉢植もの、至て高直ニ売買いたし候趣相聞候、都(すべ)て不用之品不相応ニ高価なるを翫ひ候儀は有之間敷事ニ候間、高価ニ商売致間敷申渡候条、其旨相心得候様、向々え寄々可被達候、
        八月
  (近頃の品物で、珍しい鉢植え物と称していたって高い値段で売買しているとのことが聞こえてくる。まったく不用の品であり、不相応な高価で鉢植え物をもてあそびの売買することはあるまじきことである。高価な値段で商売することは今後致さないように申し渡すこと、その旨十分心得て、広く人々に伝えるべくつとめることとする)
 寛政10(1798)年8月23日のことであった。
 しかし庶民もさるもの、高価売買を禁止されるや、個人の道楽熱に新種商売はやめて珍品を売買せず、こんどは見世物とすることが盛んになる。江戸時代のお触れが抜け法だったというより庶民のほうがしたたかだったということであろう。 (『江戸の道楽』から)オランダのチューリップ・バブルは、1637年2月にピークに達した。江戸でのバブルはその1世紀半後のことであった。
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<菊人形考>  「菊人形」は一時期ブームとも呼べるほどの爆発的な人気を博した。江戸っ子は番付をつけて、どこが1番かとハシゴして歩き、地方に住む人も江戸見物の折には、何をおいても菊人形見物にはせ参じるというほどの熱狂ぶりであった。その起こりはというと、文化8,9(1811,1812)年の頃から巣鴨染井の植木や街で、人寄せに「菊人形」の原型を作り出したのが最初のようである。 「白菊だけで富士山をつくり、黄菊ばかりで虎をつくりやがて鳥や舟、人間までも模した」と当時の記録にある。武家の中には「俗物中の俗物」と毛嫌いした人もいたが、派手好き、めずらしもの好きの江戸っ子には”見た目のわかりやすさ”も手伝ってか、大いに受けた。
 当時の様子を、「遊歴雑記」(作者不詳)には「五十余軒もの菊づくりの家々が皆我も我もと”形造り”(「菊人形」の原型という)をやり出し、道ばたには、茶屋や色々な食べ物屋が軒を並べ、大勢の人々が浮かれていた」と書かれている。もっとも、見物料を取らなかったので、コスト面でいきづかり、文化(1816)年頃の巣鴨染井では「菊人形」はすたれてしまったらしい。
 その後、団子坂の植木屋に受けつがれ、菊づくりの余儀としてなかば道楽的に作っていたのが、明治期になるとなぜか、小屋掛けして木戸銭を取って見せるという興業に変化していった。明治10年頃が団子坂の菊人形前世紀で、扱う小屋が44軒にも及んだというからその人気はたいへんなものだったろう。 (『江戸のガーデニング』から)
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<キクと変化アサガオ>  キクの品種については、『花壇網目』『花壇地錦抄』『増補地錦抄』などに簡単な説明がついた品種がそれぞれ、66,137,101種あげてある。 この時代に品種分化は完成していたが、さらに18世紀になって松平頼寛『国字略解菊経』(宝暦5年、1755)はじめ、19世紀までに多くの園芸書が刊行され、そこでは花型、花弁の形態など詳細に説明し、キク鑑賞の様式を説明している。これはキクの園芸的発達のレベルが高くなっていたことを示している。 中国のキクも長い年月の間に変化、発達したらしく、江戸時代のも新しく中国の品種を導入したことが、記録されている。しかし、花形の変化では、ツバキやカエデと同じ感覚で日本のキクのほうが広い変化幅を示すようになった。
 ボタン、シャクヤク、キクに比べ、アサガオは日本で飛躍的に発達し、まったく新しい園芸植物が現れたといってよい。アサガオはネパールから中国に入り、平安時代に日本に渡来した。中国では半野生化し、北京郊外には白、青、赤、紫などの色ものが開花しているが、園芸植物としての改良は行われなかった。 日本では長く種子を下剤として用いてきたが、江戸時代後半になって「変化朝顔」というめずらしい花形をもった品種が栽培されるようになった。その成果は峰岸正吉『朝鮮珍花蕣集』(文化12年、1815)、同『牽牛(あさがお)品類考』(文化12年、1815)で初めて園芸書としてまとめられた。これらの書物は花形、花弁の形など分類、葉の変化などを記述して、色刷り木版の美しい図を収めている。 この後変化アサガオの書物多く出版され、明治にいたったが、成田屋留次郎『三都一朝』(嘉永7年、1854)、同『両地秋』(安政2年、1855)、同『都鄙秋興(とひしゅこう)』(安政4年、1857)などは、嘉永安政時代(1848〜1859)の代表的な書物である。いずれも東西のアサガオの名花を美しい図版で描いたものである。
 このように、江戸時代のアサガオ園芸では、変形の極というべき変化アサガオをつくり出した。1年草のなかで、1種だけから幅広い変異を表した種類は他にアスターがあるぐらいで、きわめて珍しい例である。ただ、変化の極致といえる花の場合は、不稔性で採種ができないから、変化ものが出る兄弟株から採種しなければならない。このように変化ものを出す系統は親木とよばれ、それから出る変化ものは出物(でもの)とよばれる。 ごく珍しい出物が出てくる割合は非常に低いので、多くの親木を準備しなければならない。この煩雑さは、現代のようにスピードを好む時代には歓迎されないのであろう。今日では変化アサガオの栽培は、ごく限られた人たちによって、わずかに続けられているにすぎない。アサガオの形質については、遺伝学者たちの手で、詳細に研究され、一つ一つの花の変化が、遺伝学的に説明された。この点でも他に例がない園芸植物といえる。
 変化アサガオのうち単純な変化を表すものでは、採種できるし、形質が固定するので、採種したもので、毎年同じ姿のものを続けて栽培できる。このようなものを正木(まさき)とよんであるが、大輪アサガオも正木のほうに入る。大輪アサガオの栽培は明治中期に始まり、昭和に入って本格的になった。 形の上では変化アサガオと比較にならないが、大輪アサガオも世界のどこにも見られない優れたものといえる。住まいは狭くなって、植物栽培に必要な空間が少なくなった現代でも、大輪アサガオの栽培は屋上で可能であるから、都市の中にもアサガオの趣味栽培家が多い。しかし、変化アサガオの栽培には場所と時間が多く必要であるから、江戸時代から明治時代までに主流であった変化アサガオの栽培に再び戻ることはないであろう。 それにしても、変化アサガオは貴重な遺産であるから、せっかく高いレベルに達していた園芸文化を喪失するのは惜しいものである。
 欧米の園芸家で日本の変化アサガオを知っている人はほとんどない。多くは聞いたことも見たこともないだろう。したがって、江戸時代の変化アサガオの本を見せると、だれでも驚く。今日の日本人もまた同じようである。江戸時代から明治時代にかけて出た変化アサガオの園芸書は非常に多く、種類別に比較すると、アサガオの本が最も多く出たことになるだろう。 このことも日本の園芸文化の高さを示すもので、この時代に1つの種類について、これだけの書物が出たことも、日本の趣味園芸家に知っておいてもらいたいことである。 (『園芸の時代』から)
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<アサガオ>  アサガオとはどんな花なのか。江戸期以降の熱狂的なブームを経て、日本の園芸文化史上飛躍的な発展を遂げ、今日に受け継がれているのはなぜか。この魅力はどこにあるのか。
 これはアサガオへのユニークな感性と、独創的な智恵と育種技術を駆使そてきた繊細な感情があったからであろう。
 なかでも、珍花奇葉を鑑賞する目的の変わり咲きは、奇葉の変化の妙を満喫し、花形・花色・花模様まで楽しめるのである。三次元の花とか、変化の花とか、変化の極致といわれる牡丹咲きともなると、雄しべや雌しべがすべて花弁化するため種子が取れない。 種子が取れない花の形質を継続するには、親木の選択が必要である。この中から目的の珍花を求めていくのが本来の楽しみ方である。江戸っ子たちは、このたぐいまれなアサガオの瞬間美、朝は朝なに、いくつ花が見られるかといった期待感に包まれて、朝の静かな始まりの中に、精一杯に咲こうとする花の姿をみて、はりのある生活感を充足させたのだろう。 めっきり季節感をなくした現代の暮らしのなかで、江戸期の高度で楽しい育種文化を再び見直そうという風潮が現れてきたことは、誠に喜ばしい限りである。(中略)
 江戸の文化・文政期に、下谷や本所の植木屋が、シーズンともなると自園の朝顔園でふつうの丸咲きや変わり咲きを売り出したり、鉢に植えたアサガオを吊り台に乗せ、肩にかけて町中を売り歩く姿もあった。一方、変化を楽しむ同好者のグループは、花色・花姿の多様さを競い、寺社の境内や自宅の座敷に陳列して花合わせを催した。 この花合わせは、名花の花芸を競うもので、いっそう栽培熱が加わり、珍種を生み出す結果にほつながった。
 競争相手があればこそ、花もいよいよ凝った姿へと変容していったのだろう。
 江戸を起点として、京難波でもブームが起こり、大坂では『牽牛品類図考』・『花壇朝顔通』、江戸では『あさかほ叢』・『丁丑(ていちゅう)朝顔譜』・『朝顔水鏡』など多くの朝顔書が刊行された。とくに、『朝顔水鏡』には、アサガオの培養法が記載されており、親木のことや、葉形により花形を知る苗木の選別の仕方にもふれている。
 とくに、嘉永・安政期のアサガオの進化は目覚ましく、新しい珍種を得てはこれを維持しようと真剣に考えていたようである。 (『日本人が作りだした動植物』から)
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<アッと驚く変化朝顔>  現在ではアサガオのイメージといえば100人が100人、見慣れたラッパ型の花を思い描くに違いない。ところが江戸時代は違っていた。特に19世紀初めに流行したいわゆる「変化朝顔」はおよそアサガオのイメージとはかけはなれていた。奇妙キテレツなもnであった。 たとえば風車のようなものがあったり、花弁が細く長くたれ下がっていて花火のようだったり、おしべ、めしべがかがり火のように突き出したりする。葉や茎も負けておらず、松葉状、握りこぶし状(いずれも葉)、つるなし、茎が平べったく帯のようになった「石花(せっか)」などがあり、実に千変万化な形状であった。
 我々が知っている普通のアサガオは、採れた種を翌年まくと、またほぼ同じ丸形の花を咲かせるが、「変化朝顔」とは特殊な遺伝の組合わせによるもので、種を採って育てても親木と同じ花を咲かせるとはかぎらず、まず、普通のアサガオからは変化朝顔はできないので、変化朝顔の種を手に入れることから始める。 種を入手したらまいて発芽を待つ。そして、子葉が出たら、そのまま成長して複雑な花をつける「出物苗」と、その苗から珍花奇葉は出ないが、変化朝顔の形質は受けついでいるので、育てて種を採って、それをまた育てて……ということをくし返していけば、いずれ珍花奇葉が飛び出す可能性を秘めている「親木苗」とを見分ける。 渡辺好孝氏の『江戸の変わり咲き朝顔』(平凡社)によれば、この段階が1番むずかしいのだそうだが、これは、習熟して選別する能力を身につけるしかないらしい。とにかく、その年には出現しなくても諦めずに、何年も根気よく続けるのが、変化朝顔と出合う唯一の方法なのである。文字通り苦労に苦労を重ねて、見る人をアッといわせるようなろんでもない花を咲かせるという醍醐味があった。
 江戸時代の変化朝顔は名前からしてスゴイ。「孔雀変化林風極紅車狂追抱花真蔓葉数莟生(くじゃくはんかりんぷうごくべにくるまくるいおいかかえばなしんつるはかずつぼみはえ)」や「泡雪掬水葉紅掛鳩地エ黒鳩刷毛目台桔梗袴着咲(あわゆききくすいはべにがけはとじ くろばとはけめだいききょうはかまぎさき)」など、呪文としか思えないような代物だ。 ただし、これは花銘で品種名ではなく、個体の遺伝的特徴を列記したものである。一体だれが、何を思って、こんなふしぎな花を手がけたのだろうと首をみねりたくなるが、起源は文化3(1806)年の大火後、下谷の辺りが、広大な空き地となり、そこに植木屋たちが色々な珍しいアサガオを咲かせたのが始まりである。 したがって、その時点では、特別なドラマはなかった。それがやがて少しずつ広まって、幕臣、僧侶、裕福な町人にとっては目先の変わった趣味として、また、下級武士には、生活の糧として、やがては一般庶民にまで朝顔人口の裾野は広がっていった。 (『江戸のガーデニング』から)
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<朝顔売り>  江戸の各所に植木市が立ち、初夏には朝顔の鉢植えも売られたが、行商もおこなわれ、四つ手の籠に鉢を並べ両天秤で荷って巡った。『東都歳時記』の6月の景物に、「牽牛花(あさがお)。所々植木屋。寺島村百科園其外多し。文化の末より、此花の奇品を玩ぶ事世に行われ、名花も従って少なからず、又栽植事しだいに巧みにして、千態万色あらざる物なし。(略)往還朝顔鉢植え売りありく」とある。
 現在、入谷の鬼子母神の眞源寺は、「入谷の朝顔市」として賑わっているが、これは幕末から恒例化したものらしい。『江戸遊覧花暦』には、「下谷御徒町辺」が牽牛花(あさがお)の産地として、「文政のはじめ頃は、下谷・浅草・深川辺所々に専らつくり朝顔屋敷など号(なづけ)て、見物群集せし也」とあり、1800年代の中頃からこの辺一帯が朝顔で著名であったことがわかる。
 江戸末期の狂歌に、「朝顔の萎れぬうちに売らばやと己が声をからしてぞ呼ぶ(香気亭)」「売れ残る花より葉より商人(あきんど)の昼は萎れてもどる朝顔(山桜亭)」などと、行商の様子が描かれている。 (『江戸の生業事典』から)
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<主な参考文献・引用文献>
日本人が作りだした動植物 品種改良物語 日本人が作りだした動植物企画委員会編 裳華房       1996. 4.25 
江戸の道楽                             棚橋正博 講談社       1999. 7.10
江戸のガーデニング                        青木宏一郎 平凡社       1999. 4.19 
園芸の時代                            塚本洋太郎 日本放送出版協会  1978. 5.20 
江戸の生業事典                          渡辺信一郎 東京堂出版     1997. 5.20
( 2005年10月10日 TANAKA1942b )
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(44)ツツジやハボタンなど
大久保はツツジの名所だった

江戸時代の園芸、品目としてはツツジとハボタンと取り上げることにしよう。ツツジは大久保が名所であった。江戸という都市は政治の中心であったし、同時に観光都市でもあった。 多くの名所があり、下町方面が中心であったように思われるかも知れないが、ツツジは中心部から離れた大久保がその名所として知られていた。
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<ツツジの町・大久保百人町>  ツツジ類は、庭園木や鉢植えとして比較的安定した需要があり、一定の生産がおこなわれていた。元禄以後、目立った流行はないものの、天保期に九州の久留米地方において「久留米つつじ」が誕生するなど、趣味の世界ではツツジの人気は続いていた。 そして幕末には、大久保百人町(現在の新宿区百人町)のツツジがブームとなった。東西8間、南北2町ほどの両側に、数千本のツツジを見ることができるというのが評判を呼び、江戸随一のにぎわいを見せた。中でも、ひときわ美しく、ツツジの本数も多かったのが伊賀組同心飯島武右衛門の住まいで、その1軒だけでツツジの本数は近隣50軒分もあったという。
 なぜ武士の住む町がツツジの名所になったのか、首をひねる人もあるかもしれないが、江戸のガーデニングは、実は武士、それも下級武士がその大部分を支えていた。これまで紹介したツバキやボタンは、もともと上方から入ってきたもので、将軍をはじめ、諸藩の大名、江戸詰めの武士、僧侶たちの中で園芸の嗜みがある者が、めずらしい植物を栽培してひそかに楽しんだり、花自慢をし合ったりした。 そのため、品種の命名一つをとっても謡曲や詩歌にちなんでつけるなど、当初は町人が安易に参入できる雰囲気ではなかった。また、園芸を楽しむには、植木の栽培や鉢物を置く場所が必要で、敷地に余裕のある武士や僧侶でないとむずかしいという事情もあった。 さらに時代が下がって、植木屋や百姓が園芸植物を作るようになっても、下級武士はツツジなどを生産し、生活の足しにしなければならないという苦しい台所事情が背景にあった。
 ところで、江戸時代にはツツジとサツキは区別されていなかった。両者が区別されるようになったのは、サツキが流行した明治30年代以降のことである。江戸時代末期のサツキの品種は、150年前の元禄時代と比べてほとんど増えなかった。サツキが注目され始めたのは、盆栽が明治10年代に流行するようになってからである。 当初の盆栽はマツが主流で、花物のザクロが少し遅れて流行し、これを追うようにサツキの人気が沸騰した。サツキが盆栽とし注目されたのは、花つきがよく、木の上にも下にも、表にも裏にも同じような花が均等に分布するという性質が、鉢物にできる植物がもともと少ない中で、重宝がられたためだろう。 (『江戸のガーデニング』から)
 大久保が江戸時代ツツジの名所であったことは、そこに住んでいる人は子供でも良く知っていた。2005年3月で廃校になった大久保中学校では生徒が皆、校歌として  ♪♪あざやかに富士の嶺見ゆる 武蔵野の昔を今と 咲きほこる つつじのさとに とこしえの生命のすみか 仰げわが そびゆるいらか 大久保の ゆかしまなびや 永久のはえ ああ我が母校 と歌っていた。 2005年8月に最高裁判所判事となった古田佑紀(ブルデン)も当時この校歌を歌っていた。
鉄砲百人組の内職から有名になった大久保百人町のツツジ  鉄砲百人組という下級幕臣団が集住していた大久保百人町(新宿区百人町)では、江戸市民に大変人気のあったツツジを、内職として組屋敷の庭で栽培していた。ついには、大久保地域自体が染井と並ぶツツジの名所として、「江戸名所図会」でも取り上げられるようになった程である 。 こうした園芸産業の隆盛が、江戸の園芸ブームを支えていた。(『観光都市江戸の誕生』から)
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<地味な存在だったハボタン>  ハボタンはキャベツと母種を同じくし、その1変種とされるが、もとはヨーロッパ原産の緑葉キャベツから、比較的草丈が高くて結球性がなく葉が着色し、鑑賞に適するものを分離育成したものといわれている。 キャベツの仲間は野菜として種々に改良利用されているが、観賞用はハボタンだけであり、江戸時代以来、日本人が栽培改良し、育てたものの1つである。(中略)
 ハボタンは他家受精をする植物であるため、従来の品種は集団選抜によって育成され、維持されてきた。そのため、形質の揃いも充分とは言えなかった。品種の純度を高めるために、似た形質のものを多く選抜したり自殖を繰り返したりすると、しばしば自殖弱勢を起こして栽培が困難となり、かつ自家不和合性のため種子ができなくなり場合もあり、品種の維持にも常に困難な面が伴っている。 そこでこれらの欠点を改称するために、一代雑種(F1品種)の作出が行われた。F1品種は両親系統の育成維持とその組合せが重要であると共に、採種経費が問題となるが、自家不和合性を逆に利用することによりこの万台を解決し、F1種子を容易にしかも確実に採種する方法が可能となった。タキイ種苗では1954年に自家不和合性を利用する一代雑種の採種法が確立され、キャベツのF1品種を発表した。 ハボタンもキャベツと同じ胞子体型自家不和合性の遺伝子機構をもつことが認められ、その血葉による育種法で1972年初めて丸葉系のF1品種「白たか」、「紅たか」、名古屋ちりめん系の「紅さぎ」、「白さぎ」が作出発表された。 その後タキイ種苗をはじめサカタのタネ(株)など他の種苗商でもF1品種を発表している。性質が揃い、丈夫で作りやすい優れた品種として、F1品種が今後の主流となろう。
 冬を彩る花壇すは、ハボタンは、いまや欠かすことのできないものとなっている。江戸時代の末ごろ日本人によって作られたハボタンは、長い間生け花や寄せ植えの材料として使われることが多く、昭和の中ごろまでは表舞台に立つことはなかった。 しかし、その後花壇の普及と共に、その改良は目覚ましく、花壇や鉢植えに向く品種が育成され、近ごろでは小鉢植えに良い矮性の小型品種も発表されている。また、一時忘れられかけた生け花用の高性品種も面目を一新して発表され、花壇に立体感をもたせる材料ともなっている。なかでも切れ葉系統の創成はハボタンのイメージを変えるものがあり、その耐寒性は東北、北海道へも花壇を広め、人々の心を温めるものとなろう。 近年、種子が輸出されるようになったが、、ただ”日本人のハボタン”の観があり、世界の人たちから愛され、もっと多様に利用されるように改良が進められ、発展することを願っている。 (『日本人が作りだした動植物』から)
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<バブルを招いた不思議な植物=金生樹(カネノナルキ)>  江戸時代にズバリ「かねのなるき」と呼ばれていた植物のグループが存在した。具体的には、タチバナ(橘、カラタチバナ)、オモト(万年青)、マツバラン(松葉蘭)、フクジュソウ(福寿草)、セッコク(石斛、長年草)、ソテツ(蘇鉄、鉄蕉)などの植物である。
 これらは高額で売買され投機対象と見なされていた。もともと園芸植物は稀少性が評価の大きなポイントとなるために、「お留花(とめばな)」と称して門外不出になっていたり、株分けが厳しく制限されたりしていた。したがって手に入れるためには、それ相応の金がかかった。キクについては正徳年間(1711〜1716)京都の円山とその周辺で「菊合わせ」(品評会)が流行し、人気のあるキク(勝ち菊)の一葉が1両〜3両3分(5万〜15万)で取引されたという話がある。
 このような高額の売買は、江戸では18世紀の末頃から行われていたらしく、寛政9(1797)年植木の高値売買の嫌疑で、駒込村の植木屋が町奉行で吟味を受けている。さらに翌年、珍品鉢植の高値売買が禁じられている。もっとも、その後は高額の取り引きはなくなっただろうと考える早計で、むしろこれはブームの幕開けにすぎなかった。金生樹(かねのなるき)は、文化・文政年間(1804〜1830)にピークを迎えている。 『江戸風俗惣まくり』という本には、奇品を生み出して大もうけし豪邸を建てた話や、道行く人のだれもが苗木を持っていたことなど当時に人々の過熱ぐりが描かれている。
 それでは、金生樹とはどんな木だろう。木とはいっても、本当に木といえるのは、カラタチバナぐらいで、他は樹木とはいえないような気もするが、なぜか一括りにして「かねのなるき」と呼ばれた。
百万両と呼ばれた橘  タチバナの何が人々をそれほど熱中させたのだろうか。それは葉の奇品(斑入り、奇形など)であった。初めは、大坂の好事家たちがタチバナを鉢植えし、斑入りや、葉形のおもしろいものを競い合っていた。タチバナを「百万両」と呼んでもてはやし、その熱狂はたちまち江戸にも広がっていった。 寛政9(1797)年には『橘品』(弄花亭主人)、『橘品類考前編』(灌河山人)、『たちばな種芸の法 素封論』(黄道沙門)、と1年間に3冊もの本が出版されている。今のような出版状況であれば、同じ植物の本が3冊出版されても何の不思議もないが、江戸時代ではきわめて異例のことだ。
 タチバナに始まった金生樹ブームは、オモト、マツバランなどと、種類を増やしながら拡大していった。中でもタチバナの人気は高く、1鉢百両などはざらで、大坂では最高2300両(約1億円)という値がついたという。 こうなると、タチバナの葉の形態や斑入りなどによる鉢植自体の美しさはそっちのけで、利殖第1、皆、目の色を変えてタチバナを栽培するようになった。利殖の対象としても、とにかく斑入りや葉変わりなどの奇品であれば何でもいいというような風潮になり、ますます奇妙な形の植物が幅をきかすようになった。その結果、奇品は法外な値をつけて売買され、利殖のためだけの鉢物栽培が横行した。
流行をくり返す万年青(おもと)  オモトは、関東以南の比較的暖かい地方の、林下に生育する常緑多年草である。非常に強い植物で、日当たりが悪く、雨があまりあたらないような所でも生育できる。移植も真冬を除けばいつでも可能で、根を手で割いて土中に入れておけばそれだけで葉が出てくるという、管理しやすい植物である。 また、現在、一般家庭でよく見かけるオモトは原種ではなく、園芸品種化したものが生育したものだろう。そのため、同じ種から白い縞柄などが入ったオモトが発生することも少なくない。
 鉢物「オモト」として鑑賞する場合、その種類は葉の大きさで、大葉種(30センチ以上)、中葉種(15〜30)、小葉種(15センチ以下、コオモト)に分けられる。オモトの観賞ポイントは覆輪(葉の像をかたどる乳白色の形)、縞柄(葉の黄色の縞)、斑(葉面に生じる白色の模様、図斑、虎斑などがある)、それに葉の厚さとバランスといったところか。
 高さは30〜50センチ程度で、17世紀の末には園芸品として栽培されていた。流行したのは、寛政年間(1789〜1801)以降で、天保年間(1830〜1844)にピークを迎え、その当時は品種も百種を超えていた。『江戸繁昌記』(寺門静軒)によれば、箸ぐらいの大きさのオモトで上半分が白いのを、10両で買おうという人が現れたが、彼はその申し出を断り、謀大諸侯に献上そて300両もの大金を得たという。 これは「太平の万年青(おもと)」という話だが、もし本当なら夢のような話だ。また、文政(1818〜1830)の末から、コオモトが流行し始め、これにも400両という途方もない値段がついた鉢があった。 天保3(1832)年9月の15,16両日、江戸蔵前の八幡社で旗本、水野忠暁らが結成した「東都小万年青連」が開いた「小万年青の聚会」には902品種のコオモトが出品され、盛況を極めたという話が残っている。150年以上も前に園芸のバブルが存在したというわけだ。
 確かに、好きな人にとっては飽きのこない、味わいのある植物であることはわかる。しかし、若い人たちには地味すぎて、どこがいいのかよくわからないのではないだろうか。いずれにしても、マニアックな植物であることは間違いない。
 嘉永5(852)年、3両以上のコオモトの売買が禁止されたことから考えて、幕末になってふたたびオモトが流行していたことがわかる。また、明治期、大正期、さらに、昭和の初めにもそれぞれちょっとした流行があった。
花も葉もない松葉蘭  一体、マツバランとはどんな植物だろう。マツではばいし、かといってランでもない。花の葉もない植物で、おまけに草でもないし木でもないという珍妙なものだ。植物学上はマツバランはシダ類の仲間なのだが、現存するシダ類の中ではもっとも原始的な形態をしている。 その上根っこもなくて、地上に出ている茎が二又に分かれて伸びるだけで、先端には葉が退化したような鱗片状の突起がまばらにできる。高さは、大体30センチ以下で、関東南部以西の暖地に生育する常緑草木である。樹上や岩等に着生することが多いが、時には地面にも生える。ちなみに、『牧野新日本植物図鑑』の1ページ目の1番最初にくる植物がこのマツバランである。
 マツバランがいつ頃から栽培され始めたかは定かでないが、天保7(1836)年に『松葉蘭譜』が出版されていることから、19世紀の前半には流行のピークがあったと推測される。これには、珍品奇品の類が彩色で90品ほど描かれているが、その姿はまるでねじ曲がったニクロム線のような奇妙なものである。 当時は大名草と呼ばれるほど、珍重されていたらしいが、現代の私たちの目から見れば、このようなものが「かねのなるき」だったとは、まったく想像外である。「いいところが何もないのがいい」というような、へそ曲がりな人種が好んだ植物だったのではないかと思えてくるくらいだ。
今も人気が高い石斛  マツバランは、ランという名がついていても分類上はシダの仲間に入るが、セッコクは正真正銘、ラン(蘭)科の植物である。江戸時代は長生草と書いていたが、現在では一般に長生蘭と呼ばれている。なお、セッコクという名前は、漢名「石斛」の音読み、セキコクがつまったものといわれている。(中略)
 セッコクの人気は、明治初頭に少し衰えを見せたが、明治17(1884)年には『長生草見立鑑』(愛知社中版)に135品種が掲載されていることから、ふたたび息を吹き返したものと思われる。また、第2次大戦で消えかかったといわれたが、戦後復活し、 毎年とはいかないが銘鑑が発行されるまでに盛り返し、現在に至っている。
 現代でもセッコクの人気が高いのは、栽培が容易で、初心者でも気軽に入門できること、また、ラン特有の花の美しさがあり、葉の美しさは年間を通して鑑賞でき、増殖も意外に簡単であること、そして、これまであげてきた「金生樹・かねのなるき」の中でもっとも小さく、置き場所に困らないことなどがあげられる。
福を呼び込む福寿草  金生樹の中で、5番目に紹介するフクジュソウは、これまでの葉っぱだけを対象とするものや奇妙な形態の植物とは異なり、花も観賞の対象にしている。正月になると鉢物として出回るフクジュソウは、葉よりも黄色い花が咲く植物である。 フクジュソウの栽培は、比較的容易で、鉢植えにも路地栽培にも適した植物だ。ちなみに、正月の飾り物として市販されている鉢物をそのままにしておいては、翌年花を咲かせることはできない。それは、浅い鉢植にするため、根の多くが切られているからである。(中略)
 江戸時代に園芸種の改良はかなり進んでいた。『本草要正』(泉本幸直)には126品もの品種が示されているが、他種との交雑なしに百以上もの品種がつくられたことは非常に珍しいことである。しかし、フクジュソウの人気は江戸時代から明治時代までで、その後大半の品種が消えてしまった。戦後、園芸品種は、ふたたび収集されるなどして、現在は約50種くらいまでに回復している。
蘇鉄の鉢植え栽培  ソテツが自生しているのは九州南部や沖縄であるが、関東地方以南であれば簡単に栽培できる。本来は南方の祝物であったソテツが江戸で栽培され、人気を得たのは、人々の間に異国情緒への憧れがあったからだろう。また、日陰に耐え、乾燥地を好むなど、栽培が比較的楽なことも理由の1つかと思われる。 庭園では2〜5メートル以上のソテツが植えられているのを目にすることもあるが、金生樹としてのソテツは鉢植で鑑賞するための矮性品(シシソテツ、獅子蘇鉄)が用いられた。
 ソテツは、樹勢が弱った時に、鉄クギを幹に打ち込んだり、根元に鉄クギを散布したりすると蘇生することからこの名がついた。地方によってはソテツを植えると家内に病人が出るといって嫌う所もあるが、逆に江戸時代、特に天保年間(1830〜1844)には正月に飾るおめでたい樹として人気があった。 『金生樹譜』(長生舎主人)にはフクジュソウ、オモト、タチバナの図解を載せ、新年を祝う、めでたさこの上ない植物と説明されている。このソテツ、きれいな赤い実をつけるが江戸時代には鑑賞の対象はもっぱら葉で、斑入りや葉の形のおもしろいものが対象となった。 (『江戸のガーデニング』から)
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<園芸バブルによって園芸産業が発展した>  鉢植え植物が高く売れる、となってより高く売れる商品を作ろうと品種改良が進む。本来趣味であった園芸が産業のようになる。そうしてそれで生計を立てる人はプロとして仕事に専念する。 現在日本では食料自給率の低さを問題にする人がいる。この人たちは「儲け」を問題にしない。つまり食料生産で生計を立てようとする人の質問「農業で豊かな生活はできますか?」の答えようとしない。 「農偉業では儲かりません。豊かな生活は出来ません。日本の食料自給率向上と自然環境保全に意欲のある人が農業に従事すべきです」との答えと理解する。そうして「自分はともかく、妻や子供には豊かな生活をさしてあげたい。それができないのなら農業は諦めよう」となる。
 江戸時代は園芸で一攫千金を狙う人が参入したに違いない。新規参入による競争と緊張感が江戸時代の園芸を発達させたに違いない。一部の人は園芸バブルを非難するかもしれない。しかしバブルが発生するほど園芸産業が盛んだった、と理解すべきで、現代では農業バブルの発生する兆しは全くない。 そのことが、現代日本農業衰退の象徴であると思われる。江戸時代の園芸は自然発生的に盛んになっていった。幕府や識者の指導のもとに発達したのではない。それは自生的秩序に従って発達したと表現できると思う。自給率とか自然保護などというスローガンはなかった、ごく自然な市場経済であったことがわかる。
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<主な参考文献・引用文献>
観光都市江戸の誕生                        安藤優一郎 新潮新書      2005. 6.20 
日本人が作りだした動植物 品種改良物語 日本人が作りだした動植物企画委員会編 裳華房       1996. 4.25 
江戸のガーデニング                        青木宏一郎 平凡社       1999. 4.19 
( 2005年10月17日 TANAKA1942b )
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(45)江戸園芸を総括する
現代も盛んなフラワービジネス

今週は園芸シリーズの最終回です。今まで書き残してきたことを補充し、参考文献を挙げておきます。
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<珍品も登場したナデシコ>  古くから、日本女性をほめるときの代名詞として使われてきたナデシコの花。淡いピンクの花弁、楚々とした風情の中にも強さを感じさせる立姿……。 日本人好みの趣のある、しかも「秋の七草」にも数えられる名花なのに、なぜか生花における扱いな芳しくなかった。 室町時代の花伝書『仙伝抄』には「平生は立つといえども祝言に忌むもの」として「カワラナデシコ」の名があがっているし、実際立花では下段ものとして扱われていたようだ。
 しかし、ナデシコの仲間であるマツモトセンノウは、『本草花蒔絵』には48種も記載されている。濃いオレンジ色の直径5センチ程度の花が咲く。日本産の花としてはめずらしく艶やかな色彩をしている。 「マツモト」の名は松本幸四郎の紋所に似ているところからつけられたという説が有力だが、この一事からみても当時マツモトセンノウはかなり注目されていた。
 ところで、江戸時代の後期にマニアたちの手によって花合わせが催されるなど、人気花の1つであったナデシコは伊勢ナデシコ(別名サツマナデシコ。御所ナデシコ)と呼ばれるもので、「カワラナデシコ」とは起源を異にするものである。 江戸時代に出された専門書『撫子培養手引書』(文久3年、1863、長谷川酔香著)によれば、伊勢ナデシコは、その原種と思われるセキチク(唐ナデシコ)が中国からまず薩摩に伝わり、それがまた、伊勢に伝わってその地で変化したものと説明されている。 長い上に縮れた、まるで女の人が髪をふり乱しているような形の花で、モノクロ写真を見ると、ちょっと気味が悪いくらいだ。現在の伊勢ナデシコでも花弁の長さは、10センチ前後というのが普通らしい。江戸の全盛期には、見た人がびっくりするくらい、長くたれ下がった花もあったのだろう。 それにしても変化朝顔といい、マツバランといい、この伊勢ナデシコといい、江戸っ子の「めずらしもの好き」には驚かされる。 (『江戸のガーデニング』から)
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<江戸時代園芸の限界>  以上見てきた日本の園芸の発達史から、いろいろな特徴を考えてみると、@江戸時代の前半は花木主導の園芸で、おもな花木で品種分化が進んだ。そのなかには日本原産のツバキ、サクラ、モミジ、ツツジ類があって、欧米諸国に導入された。 A中国から渡来した園芸植物の、ボタン、シャクヤクの花型では日本型というべき、心が露出するタイプの花をつくった。B江戸時代後半に入ると、変化アサガオ、キク、サクラソウ、ハナショウブなどの草木花卉が流行して、改良が進んだ。 Cまた、斑入り植物を中心にした葉もの園芸が進んだ。などの点を数えることができる。こうしてみると、日本人が育種した植物とその品種は非常に豊富で、レベルが高かったといえるし、関連のある園芸書の数、質ともに優れていたから、日本の園芸文化は高いレベルであったといえる。 このように優れていたが、西洋の園芸に比べると発達に限界があったことを認めなければならない。
 日本の園芸家は、アサガオ、モミジなどの品種分化で非常に優れた能力を発揮したが、それは個々の植物を徹底的に追って実正をくり返し、変異を調べあげて、品種をつくったのである。それはこれらの植物が都合よく変異性をもっていたから可能になったのでのでの変異性のないものは、いかに実正をくり返し、長年月栽培しても変異は生じない。 たとえば、西洋で広く栽培されているマドンナ・リリーは、紀元前1500年に描かれたクレタ島の壁画にでているが、その花は今日栽培されているものと少しも変わりがない。 地中海東岸部から西に移されたマドンナ・リリーは、ローマの兵隊の欧州駐屯にしたがって欧州全土に広がった。変異性のある植物ならば、南から北に移った場合、実正によって当然変異を生じるが、それは今日まで起こっていない。変異性の少ないものでは、種間交雑、戻し交雑をくり返すときにはじめて幅広い変化が現れることは、多くの園芸植物で知られた事実である。 しかし、江戸時代の園芸植物で人為的に種間交雑されて、品種がつくられた例は1つもなかった。日本と西洋の花卉の品種作出を比較するとつぎのようである。
   日本 自然種間交雑利用、実正種内突然変異の選択
   西洋 種間交雑、種内交雑の実正
 欧州の園芸植物の場合、種間交雑は常識で、主要な種類では必ずといってよいぐらい種間交雑が行われている。この違いはどうして生じたのであろうか。欧州の場合、西洋人はなんといっても牧畜民俗であって、日本人のように縄文時代以前から、植物性食料を主としてきた種族とは違って家畜を飼育していたから、家畜の改良には交雑育種が大昔から行われてきた。 したがって、植物でも目的にそった植物を作出するために、種間交雑は当然の常識であった。 (『園芸の時代』から)
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<ケンペルの見た日本人の自然とのふれあい>  江戸時代にオランダ商館付の医師として来日し、約年間長崎出島に滞在したエンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer, 1651年9月16日〜1716年11月2日)は滞在中の記録を『日本誌』と題して出版した。その中で日本人と植物との関係を詳しく書いている。 そのケンペルの見方を青木宏一郎の著書から引用して紹介しよう。
 ケンペルは、元禄当時の日本人の自然観、植物や庭などについて、自分の自然観をふまえて述べている。
 まず、低級の旅館・小料理屋・居酒屋・食べ物や甘い物を売る茶屋などごく一般的な場所について記述している。
 これらのものは、ケンペルが旅する街道沿いや森や谷間などにあって、疲れた徒歩の旅行者や身分の低い人たちが、わずかな銭を払って、上等ではないが暖かい食事をとり、茶や酒を飲むことができる。 このような場所であっても室内から、花の咲いている植物や小高い遊園、さらさらと流れ落ちる小川といったものがある緑の裏庭が快く目に映るのである。
 また店先に置かれた花瓶には、花をつけた小枝(ケンペルには、ちゃんとした花の咲く植物をこうして使うにはもったいない気がした)が大変上手に活けてあると、書かれている。
 そして、このような美意識は、苦労して暮らしを立てなければならない貧しい人たちがやっている小さな料理店や茶屋でもごく普通に見られ、店は貧弱で粗末であっても、通り過ぎる旅人を惹きつけるに十分であると感心している。
 旅館は、違棚の下に花瓶があり、季節の移り変わりに応じて大変美しい花の咲いた種々の小枝を、華道の規則に従って活けている。この花を飾る技法は、西欧の食卓で肉の切り方やナプキンのたたみ方を教えるのとまったく同じように教授されているという。
 植物に関心があったケンペルは、庭園についても多くの観察を残している。長崎の出島に閉じこめられ、江戸参府旅行でも異国の捕虜に近い立場にあるオランダ人にとって、唯一の楽しみは小庭園だと述べている。
 特に、17世紀はじめ頃から町人の間で茶の湯が流行したのに伴って作られた多くの坪庭に関心を示している。まわりを建物で囲まれた空間を、「つぼ」「壺」「坪」とよび、その狭い空間に自然を取り込み、坪庭というものをつくった。 ケンペルは、白壁で囲まれ、まるで大きな壺のように見えるので「つぼ」とよばれ、広さは後屋の幅だけしかなく、方形で裏木戸があると、その形態を説明している。このような坪庭は、身分の高い人々の屋敷や旅館にはすべてあると述べ、庭の細部を紹介している。
 まず、庭をつくるための空間が非常に狭い所では、接木したウメかサクラかアンズの老木が、せいぜい1本植えてあるくらいだ。その木は、古くて曲がりくねっていて、枝ぶりが変わっているほど、なおさら上品で高価だと考えられていた。
 これらの植木は、しばしば庭の長さだけ枝を水平に延ばし、たくさん花が咲くように、1本か2本の枝を残してほかの枝は落としてある。そうすれば季節が来ると、この一隅にはピンクや八重の花々が信じられないほどに咲き揃って、非常にすばらしい眺めとなる。さらに、花は咲くものの実を結ばないことにまでケンペルはふれている。
 また、まったくスペースがないような旅館でも、建物の中に開け放された明るい場所がとってあって、時々小さな金魚が泳いでいる鉢を置いたり、また1,2の珍しい植木や福寿草の鉢などが置かれてある。また、いくつかの鉢植えには、土がなくとも水分や養分のとれる軽石の上や中に根を延ばす木があることも発見している。
 さらに、旅館だけでなく、普通の家の入口にもこうした鉢植えが趣味や装飾として置いてあると、当時の日本人がごく身近に植物を置いて親しんでいることを書いている。(以下略) (『江戸時代の自然 外国人が見た日本の植物と風景』から)
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<江戸期のイネの品種数は3500種ほど> 都市部での趣味としての園芸を取り上げてきた。最後の少しだけ農村部での話も紹介しておこう。
 明治26年に農商務省に農事試験所が設立され、10年後の明治37年から大阪府におかれた畿内支場でイネの品種改良に着手したが、開始にあたって全国からイネの品種を集めた。 その数は4000に及んだ。同名異種などを整理したところ3500くらいになったという。当時全国でそのくらいの数多くの品種が作られていたものと思われる。おそらく、情報交換や交通の発達していない当時は、狭い地域社会の伝統や千差晩月の風土に適応した品種が、数多くあったのであろう。 それらの多くは、イネを栽培する農民自身が必死の思いで作りだしてきたものであった。 (『日本人が作りだした動植物』から)
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<江戸期のイネの品種改良>  わが国の幕末における稲作技術は、現在の東南アジアのそれよりもかなり高い。それが、明治以降のわが国の急速な発達を可能にした真の要因であろう。すなわち、たんにコメをつくるというだけでなく、どのようなつくり方であるかが重要である。 いいかえれば、同じコメをつくりながら、わが国はいつごろ、東南アジアと決定的に分かれて独自の道を歩み始めたのであろうか。いわゆる日本型稲作の確立の時期と過程を、どこに求めるべきであろうか。
 もとより、わが国と東南アジアとでは気候や土壌を大いに異にする。コメの種類さえ、ジャポニカとインディカの相違がある。したがって、わが国に定着した当時の稲作のあり方が、東南アジアのそれと同一だとは考えられない。 けれどもイネの伝来が東南アジアから揚子江下流沿岸を経て、わが国に伝来されたとすれば、その定着の初期において、栽培技術の決定的な相違があったとも考えられない。
 両者が決定的な訣別をしたのは、おそらく条里制を契機とすると考えるできだあろう。だが、条里制の稲作技術は、まだ充分明らかでない。そこで、はなはだ大胆な意見だが、荘園制のことでの集約な水管理、田植えの普及などによる集約な土地利用の発達、これらが、その訣別の重要な契機だと著者は推定している。 もっとも、それでも日本型稲作といいきるわけにはいかない。それが文字通り決定的に離陸をとげたのは、江戸時代に入ってからだと思われる。
 わが国の稲作技術史で、江戸時代はそのような意味をもっている時期である。 (『稲作大百科』から)
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<現代のフラワー・ビジネスはどうなっているのか?>  江戸時代の産業=園芸が現代ではフラワー・ビジネスと名前を変えて繁昌している。
 日本農業のなかで最もビジネスに近いのは花農業といってよいでしょう。これは花が嗜好品で、食品でなかったために、公的な規制がほとんどなく、生産者も流通関係者も自己責任のもとで比較的自由に仕事をしてきたためだとっかんが得られます。 したがって花農業の展開事例を見ていくと、今後の日本農業のヒントになることがたくさん出てきます。
 ここでは、最近10年ほど大きく構造変化してきた花農業、フラワービジネスの同好を見てみましょう。そこでは、農業とビジネスが相互に影響しあい、連携しながら新しい市場を開拓していることがわかります。
 はじめに花農業とは何を指してしるのか簡単に説明しておきます。花農業は「花き農業」と呼びならわされており、大きく切り花と鉢物と花木類からなります。具体的な植物名でいうと、切り花では、キク、バラ、カーネーション、カスミソウや洋ラン、ユリ等が思い浮かびますし、鉢物ではシクラメン、各種の観葉植物、洋ラン類が、また花木類ではツツジやサツキ、ツバキなどがポピュラーです。
 1995年の日本農業全体の粗生産額は、10兆5800億円で、花き祖生産額は6200億円でしたので、花き農業は農業全体の5.7%を占めることになります。80年におけるこの比率は2.9%でしたから、最近15年間で2倍以上に拡大してきています。農業全体に占める構成比としては大きな数値ではありませんが、その伸び率は非常に高くなっています。
 この「急速な伸び」という点は、花き消費動向から見直すと非常によくわかります。1995年の1世帯当たり年間切り花購入金額は1万3000年弱で80年の2倍以上に伸びています。また、園芸品・同園芸用品の購入金額は同様に95年で8900円以上で、90年にデータをとりはじめてから5年で25%以上伸びています。
 切り花の消費拡大については、「フラワーブーム」、また園芸品・同用品の消費拡大については、「ガーデニングブーム」といわれるブーム現象が大きな追い風になったことはよく死絵荒れています。しかし、われわれの生活がままぐるしく変化し、人々が花や緑に心の安らぎや、生活の潤いを求めるようになってきていることはまぎれもない事実です。 花や緑に対する消費者のニーズの高まりは一過性のブームでかたずけられる問題ではないでしょう。 (『新・アグリビジネス』から)
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<母の日に<キリンカーネーション>が売れている> 「農業は先進国型産業である」がTANAKAの考えだ。その農業の中でも花卉産業は最も先進国型産業のようだ。その業界に他の業種から参入して成功している例だある。それを取り上げてみよう。 なおキリンビールの他には、サントリーが青いバラを開発して「販売については2007年以降を予定しています」と表明している。
「母の日に売られている鉢ものカーネーションの大半は、キリンビールが育てたものである」
 こう言うと多くの人は、恐らく「えーっ、その話って本当?」と驚くに違いない。もっとも昨今は鉄の会社が牛肉を売ったり、銀座では老舗の文房具店が、ワインを売る時代である。ビール会社が、花を売ってもひとつもおかしいことはない。
 ちなみに5月の第2日曜日の{母の日}に、日本では、どれほどのカーネーションが売られているのだろうか。推定では鉢植えのカーネーションつまり鉢ものが、年間販売量の約80%相当で、およそ350万鉢、切り花が、同じく15%相当で、1億5千本から2億本程度と見込まれている。
 いうまでもなく異分野から参入した企業、つまり命じの初めから1世紀余りにわたって、ビールを柱に飲料・食品会社として発展してきた企業がかつて経験したことのないマーケットで、既述のようにマジョリティ{多数派}を獲得することは、容易なことではない。 そもそもキリンビールが、未知の領域であるフラワービジネスの分野──同社ではこれをアグリバイオ事業と呼んでいる──に進出を決めたのは、1980年代の初めである。 それほど古いことではない。なお同じころ同社は、バイオテクノロジーを勝つようした事業として、医薬事業を同時にスタートさせている。ねらいは、ライフサイエンス分野での事業領域の拡大にあった。
 ところでわが国の場合、いわゆるもの日を中心に花が集中して売れる日は、1年のうちでどの程度あるだろうか。{母の日}のカーネーションのように、ある特定の花がまとまって売れる日は、恐らく他にあまり例がないといえよう。 たとえば3月のひな祭の桃の花も、5月の端午の節句の菖蒲も、あるいは春秋の彼岸や弔辞の際の仏花としてのキクも、バースデーやブライダル用のバラも、さらにはクリスマスから新年にかけてのポインセチアやシクラメンも、それぞれ季節を彩る風物詩として生活のなかに根付いてはいるが、一点集中という意味では、{母の日}のカーネーションには到底及ぶまい。
 またカーネーションの場合、切り花は鉢ものろ違って、年間を通して比較的コンスタントに需要がある。そのため花き業界では、キクとバラと並んでビッグスリーと呼ばれ、定番になっている。 これは国際市場でも同じである。したがってカーネーションのマーケットを制することは、フラワービジネスをグローバルに推進する上で極めて大きな意味を持っている。まさに戦略商品なのである。 (『キリンが挑む花ビジネス』から)
上記本の目次の後に次のような文章が引用されてあった。園芸シリーズの最終回なのでここに引用することにした。
 20世紀に入ってこのかた、ガーデニングにかんする専門知識はかつてないほどの発達を見せている。書籍、雑誌、講演、映画、放送を通じて、どれほど知識の旺盛な人であっても、一生かかっても吸収できないほど大量の園芸知識が溢れている。 だが、そうした専門知識や技術の追求の一方で、ガーデニングや庭の植物に秘められたもっと文化的なロマンチックな一面が見えなくなっている。 現代生活の慌ただしさにつれて、そうなるのも不思議ではないだろう。なぜなら、科学の発達によって生活の省力化が進んだのに、ますます時間的なゆとりが失われているように思えるからである。
 A・アンダーソン著武田雅子訳『花の歴史』八坂書房、1998年、8頁
<ホンダの子会社がコシヒカリを開発>  キリンやサントリーなどの大企業が農業に参入する。農業は先進国型産業なのだから当然のことだ。そして農業とは関係のなさそうな日本の大企業が農業分野に参入する。その一つにホンダがある。 インターネットで次のようなニュースが流れた。
 ホンダが全額出資する研究開発子会社のホンダ・リサーチ・インスティチュート・ジャパン(HRI−JP、埼玉県和光市)は2005年8月8日、名古屋大と共同でイネの培養特性を飛躍的に向上させる遺伝子を世界で初めて発見したと発表した。 この遺伝子を交配によって培養が容易なイネの遺伝子と入れ替えることで、培養しやすい「コシヒカリ」の開発にも成功した。 これまで自然交配で二十年以上かかっていた国内で人気の高いコメの品種「コシヒカリ」の新品種開発が3〜5年程度に短縮できる。………
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たくさんの花卉市場が園芸産業の流通を支える  江戸時代の産業=園芸が現代ではフラワー・ビジネスと名前を変えて繁昌している。花卉を取り引きする市場も活況を呈している。 その花卉市場、関東地方ではこのようにたくさんの花卉市場が設けられている。
 大田花き -大田市場花卉部
 フラワーオークションジャパン -大田市場花卉部
 (株)東京砧花き園芸市場 -世田谷市場花き部
 世田谷花き -世田谷市場花き部
 東日本板橋花き -板橋市場花き部
 (株)第一花き -北足立市場花き部 
 水戸中央花き -茨城県
 川崎花卉園芸(株) - 川崎市中央卸売市場北部市場 神奈川県
 株式会社南関東花き園芸卸売市場 -南関東花き園芸卸売市場
 北関東花き(トキワ園芸農業組合) - 茨城県
 東武生花市場 -地方卸売市場 株式会社東武生花市場
 川越花き市場 -埼玉県経済連川越花き市場
 鴻巣園芸センター -埼玉県産地市場
 埼玉園芸市場 -地方卸売市場 株式会社埼玉園芸市場
 (株)東京東久留米花卉園芸卸売センター 
 群馬県中央園芸株式会社 -群馬県中央園芸
 このように現代では園芸が産業として育っている。花はれっきとした花卉産業であり、環境保護を名目とした公共事業である米との違いがハッキリする。
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<道楽の園芸が産業となって現代に受け継がれている>  徳川家康の椿道楽から始まった趣味の園芸が大名や下級武士や商人から庶民にまで広まって、産業として発展して、それが現代に受け継がれている。 フラワー・ビジネスは高度成長を遂げて豊かになった日本で成長し始めている。江戸時代も園芸が趣味の普及したということは江戸市民が豊かになっていった、ということなのだろう。 このことからも、「江戸時代は庶民もけっこう豊かであったに違いない」と言える。
 江戸をはじめ、園芸は都市部でも趣味だった。農村部では農業は産業であった。その稲作も品種改良・生産技術改良が行われていた。 今回は「園芸」がテーマなので多くは扱わなかったが、江戸時代は農村部も決して停滞していたわけではなかった。最後にそれも付け加えてみた。
 このように「園芸」という趣味も、「衣装道楽」や「旅」といった趣味や贅沢と同じように、江戸時代の経済発展に影響を与えていたことがハッキリした。江戸時代のミームは生きている。
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<主な参考文献・引用文献> ”園芸シリーズ”で参考にした文献を列挙しました。乱読につき順不同です。
江戸の道楽                             棚橋正博 講談社       1999. 7.10
甦る江戸文化 人びとの暮らしの中で                西山松之助 NHK出版     1992.12.20
江戸のガーデニング                        青木宏一郎 平凡社       1999. 4.19
日本人が作りだした動植物 品種改良物語 日本人が作りだした動植物企画委員会編 裳華房       1996. 4.25
江戸は躍る!                            中田浩作 PHP研究所    2001.11. 7
事典 しらべる江戸時代                 林英夫・青木美智男編 柏書房       2001.10.15
江戸の園芸・平成のガーデニング                   東征一郎 小学館       1999. 4.20
江戸の生業事典                          渡辺信一郎 東京堂出版     1997. 5.20
ビジュアル・ワイド 江戸時代館                        小学館       2002.12. 1
園芸の時代                            塚本洋太郎 日本放送出版協会  1978. 5.20 
観光都市江戸の誕生                        安藤優一郎 新潮新書      2005. 6.20 
江戸時代の自然 外国人が見た日本の植物と風景           青木宏一郎 都市文化社     1999. 4.19
稲作大百科 第2版 1 総説/形態/品種/土壌管理         農文協編 農山漁村文化協会  2004. 3.25 
世界のフラワービジネス                       小川孔輔 にっかん書房    1991. 5.10
あなたもできるフラワービジネス                     東潔 誠文堂新光社    2002. 1.30
新・アグリビジネス                         大澤信一 東洋経済新報社   2003. 3.30  
江戸参府旅行日記                     ケンペル 斉藤信訳 平凡社東洋文庫   1997. 2.25 
キリンが挑む花ビジネス 世界のガーデニング文化を育てる       中田重光 日刊工業新聞社   1999.11.25 
( 2005年10月24日 TANAKA1942b )
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(46)倹約の吉宗か?贅沢の宗春か?
享保の改革に反抗したモルモット

江戸時代、趣味と贅沢が市場経済を発展させた、というのがTANAKAの見方だ。衣装道楽、旅、園芸と話を進めてきた。 最後は「贅沢は敵だ」の政策をとった徳川吉宗と「贅沢は素敵だ」の政策をとった尾張藩主徳川宗春について調べてみた。
 歴代将軍のなかでも吉宗は将軍としての主導権を発揮して積極的に政治にかかわっていった。その成果については高低評価が分かれるかも知れないが、積極的に改革を進めたのは事実だ。 そしてその基本姿勢は質素倹約であった。この時代にその吉宗と逆の政策をとったのが尾張藩主徳川宗春だった。宗春の目指した政策は挫折する。 しかしその贅沢を奨励した政策は、このシリーズ「趣味と贅沢と市場経済」で取り上げないわけにはいかない。確かに挫折し、失敗し、公式記録の多くが消し去られてしまったが、そのモルモット精神は現代にこそ見直すべきだと思う。 江戸時代を振り返れば、荻原重秀や田沼意次のように結局は失脚させられた改革者がいた。江戸時代という時代背景を考えれば、あまりにも時代を先取りしていたのかも知れない。本人は思っていなくても、その政策は早すぎたのかも知れない。 だからこそ、21世紀の今もう一度見直してもいいだろう。それだけの価値のある実験だったと思えるからだ。
 現代では「官に逆らった経営者たち」が成功したモルモットだ。江戸時代には荻原重秀や田沼意次や尾張藩主徳川宗春がモルモットであったが旧勢力に失脚させられた。吉宗の倹約政策に反抗した贅沢政策の宗春。平成不況の現在、この政策を見直すことはそれなりの意味があるだろう。
吉宗・宗春関連の略年表
西暦 年月日 出来事
1684 貞享1.10.21 吉宗 紀州徳川の4男として誕生
1695 元禄8. 8月 荻原重秀の貨幣改鋳
1696 元禄9.10.28 宗春 尾張藩主の第20子として誕生
1705 宝永2.10. 6 吉宗 父兄たちの死により紀州藩主となる
1709 宝永6. 1.10 5代将軍綱吉死去
1712 正徳2.10.14 6代将軍家宣死去
1716 享保1. 6.26 吉宗 第8代徳川将軍に就任
1717 享保2. 2月 吉宗 大岡忠相を南町奉行に任命
1718 享保3.11月 新金銀通貨用令、古い貨幣の回収を命じ緊縮政策を徹底
1720 享保5. 5.12 吉宗 新規製造禁止令を出す
1722 享保7. 7. 3 吉宗 上米令を発布
1724 享保9. 6.23 吉宗 倹約令を出す
1725 享保10年 吉宗 御用商人を江戸から大坂へ派遣、米の取引を仕切らせようとする。以後1730年まで3度にわたる       
1729 享保14. 8.11 宗春 奥州梁川3万石の大名となる
1730 享保15.11.28 宗春 兄継友に死に伴い7代尾張藩主となる
    3月 江戸町奉行・大岡忠相のもとに、大坂の商人が米会所開設許可を願いにくる
    8月 大坂商人による米市場=大坂堂島米会所を公認する
    9月 上方の米商人に対し、米価吊り上げを要請
1731 享保16. 1. 1 宗春 将軍吉宗に拝謁
    1.19 宗春 将軍吉宗から一字「宗」をもらい、通春から宗春と名を変える
    3月 宗春 『温知政要』を著し、近侍になどに与える
    4.12 宗春 尾張に着城、建中寺へ参拝。奇異な行列に住民は仰天する
    5. 1 宗春 藩士たちに芝居見物を許可
    7.12 八重姫没。その服喪を補うため、宗春 7月24日と8月1日に盆中の踊りを許す
    8.22 宗春 市中の子供らを集めて下邸で躍らせる
1732 享保17.7月 享保の大飢饉
1733 享保18. 1.26 江戸で初めての「打ち壊し」起こる
1735 享保20.10月 米の公定価格を設定
1736 元文1. 5.12 貨幣改鋳。米の公定価格廃止
1738 元文3.6.9 尾張藩年寄横井豊後守、宗春不在中に遊郭や芝居など諸興業を停止。クーデター
1739 元文4.1.12 吉宗 成瀬隼人正、竹越志摩守らを召し、宗春謹慎の内命を示す
  4.1.13 宗春 麹町邸に隠居
  4.7.5 宗春 名古屋閉居を命ぜられる。道中掃除の必要なし、と。
元文4年 貨幣が市中に出回り、米相場は安定
1745 延享2. 9月 吉宗 将軍職を長男・家重に譲る
1751 寛延4. 6.20 吉宗 脳出血で倒れ、68歳で死去
1764 明和1.10.8 宗春 死す
1821 文政4年 宗春 罪人を許される
1839 天保10.11.5 宗春 従二位権大納言を贈られる。このとき初めて金網をはずされる


<『徳川実紀』から>
江戸時代の公式記録である『徳川実紀』から、吉宗と宗春に関する項目をいくつか抜き出してみよう。
*               *                *
享保16年1月19日 尾張主計頭通春朝臣従三位の中将に拝進せしめられ。御名の一字たまはり。延壽国資の御太刀御盃そへつかはされ。宗春卿とあらためられ。備前高綱の刀を献ぜらる。
享保16年2月28日 松平左近将監乗邑。少老本多伊豫守忠統して。殊更に諸有司に倹約の令を仰下されしは。近年うちつゞき米価いやしきにより。其あたひに応じ。諸事をはからふべし。よて今年より三年の間。 ことさらにこゝろして節倹をもちゆべしとなり。」
 また老臣会議して定めし趣は。常の出仕に白小袖着する事。身ぐるしくとも。用ひらるべきほどは着用し。袷小袖も白小袖着すべし。従者も麁服を着さしむべし。轎興も外をかざらず。 用ひらるゝまで用ゆべし。親戚其他の参会に。一汁三四菜たるべし。香物の外美饌を用ゆべからず。世上に稀まる魚鳥求むべからず。御鷹の鳥を開くとて饗する時も。一汁三四菜たるべし。慶莚に饗膳出さでかなひがたきは。献酬かろくすべし。 屋舎の造営をも無益をはぶき。従者の衣服は絹布。木綿とり交へ。外をかざらず便に従ふべし。見ぐるしき事は苦しからず。私の音信。贈遺其品を省略し。無用の従者を減ずべし。この定めを破る事あるべからずとなり。」
 また万石以下の輩には。衣服。調度等舊くとも有来りしを用ひ。新制を用ゆべからず。朔望等の外は白小袖を着すべからず。かつ上着は。今まで縞類用ひざりしが。この後は着用すべし。家士の衣服は。殊更見ぐるしくともこれをもちひ。 絹布とりまじへもちゆとも。便にしたがふべし。婦女の衣服もこれにおなじかるべし。屋舎も破壊せざらんには搆造すべからず。すべて官事に関係するのほか。家督。嫁娶をはじめ。親戚の贈遺これまでの半たるべし。家督。嫁娶の饗応も。近年定例をもてことさら省略し。 その他の賀儀は、吸物のみにて献報すべし。常の集会には。平日用ゆる食物のほか。いさゝかにても。とりつくらふべからず。なるべきほどは。采邑のものをめしつかふべし。すべての従者も。有用のものをえらび。外貌にかゝはるべからず。 このむねかたく守るべしとなり。」
享保16年3月15日 尾張宰相宗春卿太刀金。縮緬。馬を献じ。昇進を謝せらる。
享保17年8月21日 尾張宰相宗春卿病快てまうのぼりご対面あり。
享保17年9月9日 けふ万石以上以下に令せられしは。西海。山陽。四国。蝗災にかかり。米すくなきをもて。東山。東海。北陸に所領ある輩。米を上方に輸送するは定れることなれど。ことしはわけて大坂のみに限らず。災にかゝりし国々なりとも。 その便宜にしたがひて多く積送り。また民間の売米も。それに准ずべきむね令すべしとなり。」
 かくの如くにても。蝗災の国々なを米乏しくば。公料の米も輪輸せらっるべければ。その心してあるべしとなり。
享保17年10月8日 今日令せられしは。ことし関東の国々。米穀ゆたかにみのりしよし聞えたれば。万石以上采地に。米を多く貯ふべしとなり。 
享保17年10月15日 けふ万石以下に令せられしは。駿河。遠江。参河。尾張。伊勢。公料。私領の地より。官廩に納むる米。及び家々の扶持に預る米の外じゃ。浦賀の湊にて。江戸に入ことをとゞむべしと令せられしが。餅米を輸送するは。其よし申さば通しやるべき旨。かさねて奉行に仰下さるれば。其心得あるべしとなり。
享保17年10月28日 尾張宰相宗春卿に放鷹の暇をつかはさる。
享保17年11月22日 尾張宰相宗春卿鷹場より帰られてけふ御対面あり。 
享保17年11月28日 尾張宰相宗春卿の嫡男万五郎の方髪置の祝あり。松平右京大夫輝貞御使し。綿三十把。三種二荷。大納言殿より金一枚。縮緬五巻をつかはされ。父の卿には三種二荷を送り給ふ。 よて宰相より三種一荷。万五郎の方より太刀馬資の金。縮緬五巻。二種一荷奉らる。
享保17年12月朔日 尾張宰相宗春卿中納言に昇進あり。  
元文4年1月12日 尾藩の老を召れ。伝へしめらるゝ御むねあり。これは中納言宗春卿封つがれしより後。身の行ひたゞしからず。さきに宿老をして申させたまふ事もあり。かつ国の政とゝのはず。 土民困窮せるきこえあり。去年また左近将監乗邑より。藩老にさとすむねありしが。あらためらるゝしるしも見えず。かくては国務に任じがたければ。隠退して糀町邸に蟄居せらるべしとなり。」
 このよし松平安芸守吉長。松平大学頼貞。松平播磨守頼永等ともにまかり。申聞くべきの旨仰出さる。この事により水戸中将宗翰卿に本多中務大輔忠良御使し。紀伊中将宗将に松平右京大夫輝貞御使せり。 宗春卿は成瀬隼人正正泰をもて。かしこまり聞え上らる。
元文4年1月13日 中納言宗春卿もとに。松平安芸守吉長。松平大学頭頼貞。松平播磨頼永まかりて。きのふの仰を伝ふ。また尾藩の支封松平但馬守義淳をめして宗家をつがせらる。よりて水戸中将宗翰卿。 紀伊中将宗将卿。及び庶流のともがらみな出仕あり。
天保10年11月5日 尾張中納言齋荘卿のもとに。太田備後守。脇坂中務大輔御使して。章善院宗春卿元文中つゝしみ仰せ出されしが。こたび格別のおぼしめあしもて免されて。従二位大納言を贈らせらる。 前大納言齋朝卿には。中納言齋荘卿相続ののち国政等世話いたさるるにより。同じく正二位に叙せらるゝとなり。
天保10年11月16日 尾張中納言齋荘卿使して。章善院宗春卿の贈官位を謝して。両御所に物まいらせらる。
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<吉宗に対抗した尾州宗春> TANAKAは吉宗と宗春の違いを「贅沢は敵だ」と「贅沢は素敵だ」の違いとして捉えてみた。その違いから<吉宗に対抗した尾州宗春>として宗春を捉えることもできるかも知れない。ここでは大石慎三郎の著書から、吉宗と宗春の関係についての一部を引用してみよう。
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 享保17(1732)年5月、8代将軍吉宗はことごとく対立していた御三家筆頭の尾州名古屋藩主徳川吉宗を譴責し、さらに元文4(1739)年正月にはこれに隠居謹慎を命じて尾州家麹町屋敷に閉じ込め、その跡を分家の高須松平家から義淳を迎えて継がせた。これが尾州家八代藩主徳川宗勝である。 謹慎は大変厳しく父母の墓参さえ許さず、明和元(1764)年10月宗春が死亡すると、罪人だというのでその墓石に金網をかけてしまった。宗春が許されるのは、それから75年余もたった天保10(1839)年のことである。
 その理由として徳川幕府の正史である『徳川実紀』には、宗春は「身の行いただしからず、……かつ国政ととのはず、土民困窮せるきこえあり、去年また左近将監乗邑(のりさと)より藩老にさとすむねありしが、あらためらるゝするしも見えず、かくては国務に任じがたければ隠退して麹町邸に蟄居さらるべしとなり」と、 処分の理由を全く宗春個人の資質のせいだとしている。
 しかし当時世間には、8代将軍の座をめぐって、御三家筆頭の尾州徳川と第2位の紀州徳川家(吉宗)との間には、深刻な争いがあったとの噂が広く流布し、それが信じられていたむきもある。 そのためこれらのことは、その争いに根をもつ近親憎悪の醜い争いが噴き出したものと見る者も少なくなかったようである。
 さらに8代将軍の座を占めた徳川吉宗と、尾州宗春との間には、その性格・人生観・政治手法ともに極端なへだたりがあり、対立して当然といったものがあった。そもそも歴史の流れには幅があるが、この吉宗と宗春との間には、あたかも元禄〜享保にかけた歴史の大河の両岸に立ったようなへだたりがあったので、 この争いを見ることには、その時代の歴史そのものを見るようなところがあった。
 質素は吉宗のトレード・マークのようなものであった。将軍になってから特にそれが目立ち、どんな厳冬でも襦袢を下に着ることがなく、鷹狩りに出るときは、必ず木綿の羽織に小倉木綿の袴をはいて行った。 また食事も若いときから飽食をしなかったが、、将軍になってからも一汁三菜を守り、それも朝の辰刻(8時ころ)と夕方の申刻(4時ころ)の2回とるのみであった。 食習慣についていえば、日本社会では元禄のころ1日3食の風習が一般にまで行き渡るが、吉宗は「身を養うには1日2食で十分であり、それ以上はみな腹の奢りである」といって、どんなにすすめても3食とることを承知しなかった。 また酒も大変好きであったが、飲むまえに今日は何本と量を決めておいて、決してそれを過ごすことがなかった。
 そんなことから倹約令は将軍吉宗の主要政策の1つで、元禄の繁栄のなかで世間に蔓延した浪費の風潮を引き締めて、政情な社会に戻すことに力を入れた。 それまでは幕府は分をこえた消費をぜいたくとして取り締まってきたが、吉宗は使い捨ての風潮にストップをかけるとともに、今までよりも高い消費生活をすることを、ぜいたくとして取り締まった。 (大石慎三郎著『吉宗と享保改革』から
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<主な参考文献・引用文献>
吉宗と享保改革 江戸をリストラした将軍     大石慎三郎 日本経済新聞社       1994. 9.21
国史大系45 徳川実紀第8篇           黒板勝美 吉川弘文館         1965.11.30
国史大系49 続徳川実紀第2篇          黒板勝美 吉川弘文館         1966. 9.30
歴史探索 徳川宗春 なめたらいかんて、名古屋城  舟橋武志 ブックショップ「マイタウン」1995. 4. 1 
( 2005年10月31日 TANAKA1942b )
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(47)野暮将軍吉宗が格闘した享保改革
贅沢と新しいことの徹底禁止

「倹約の吉宗か?贅沢の宗春か?」と題して吉宗と宗春を対比して取り上げる、その吉宗をはじめに取り上げることにする。日本史では吉宗中心で宗春はあまり取り上げられない。 吉宗がいてその反対者として宗春がいるかのようだ。それなら、それで吉宗のことをシッカリ理解しておこう。まずは享保改革を正統的な見地から見ることにしよう。
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<享保の改革のポイント>  8代将軍徳川吉宗の政治は、享保元(1716)年から延享2(1745)年までの29年1カ月に及ぶ。このうち、20年という最も長い年号である享保(以後、元文が5年間、寛保が3年間、延享が4年間のうちの2年間間、延享2年に吉宗は隠退する)をとって「享保の改革」と呼ぶ。
 江戸初期から始まった経済成長はこの頃から低成長に変わる。新田開発について見れば日本列島ほぼ開発し尽くされた。日本各地の鉱山からの金銀の産出量はピークを迎え、以後衰退し始める。こうした経済成長鈍化は人口増加にも現れ、享保6(1721)年に約3106万に達した人口は以後伸び悩む。 こうした低成長の経済に加えて「米価安の諸色高」というやっかいな問題が起き始めていた。米価安は、江戸時代前期に米の生産力が上昇し、供給が過剰になったためであり、諸色高は、人々の生活水準が上昇し、消費力が伸びたにもかかわらず米以外の生産が追いつかず、供給不足となったためであった。
 こうしたことは給料を米でもらう武士の収入が伸びず、武士以外の農工商民の生活が豊かになる、という支配階級が貧しく、被支配階級が豊かになるという幕府にとっては困った世情になっていった。幕府の財政も苦しく、それに加えて疫病の流行が社会不安を増大させていた。
 こうした時吉宗は将軍として主導権をとって改革に乗り出していった。その改革点を 大石力著『吉宗と享保の改革』を参考に、いくつか拾い出してみよう。
米価安定策  「米将軍」と言われた吉宗は米の価格安定に苦心した。江戸時代は三貨制度と言われ、金・銀・銅が貨幣として用いられた。そして、それに加えてもう一つ、武士の給料はコメで支払われた。農民の年貢もコメであった。つまり、コメで税金を納め、コメで武士の給料が支払われていた。 吉宗の時代、コメが増産され、価格が低下した。武士はコメで給料を貰い、それを売って生活費に充てた。そのコメの価格が下がると、武士の給料は実質的に下がることになる。武士としてはコメの価格は上がって欲しい。こうした事情で、吉宗はコメ価格の低下に対して、高値安定を目指した。 そのためコメが豊作だと各藩に備蓄米として市場に出さないよう通達を出したり、主食としてよりも酒造りに回すよう指示したりした。こうした米政策で特に大きなことは、享保15(1730)年に大坂堂島の米会所を公認したことであろう。これに関しては 大坂堂島米会所に書いたので、そちらを参照のこと。
目安箱の設置  吉宗の行った享保の改革としてよく知られているのが、「目安箱の設置」だ。享保6年閏7月、幕府は次のような触を出した。
  一、此度日本橋え高札相建候、右札ニ有之通、直訴場も相極候上は、此以後捨文は勿論、外え到直訴間敷事
   右之通、急度(きっと)相心得候様ニ、町中え可触知者也 
     (『御触書寛保集成』第2579号)
 このように江戸の日本橋に高札を立て、将軍への直訴を許すので、これからは捨文(無記名の当初や落書)や、将軍以外への訴訟はしないように、江戸の町々へ周知させようとした。『御触書寛保集成』には、これに続いて高札の文言が記されている。その大意は次の通り。
(1) 来る8月から、毎月2日、11日、21日の3度、江戸城竜ノ口(東京都千代田区和田倉門パレスホテル付近)の評定所前に箱を出しておくので、直訴したい者は、正午までに住所・名前を記し、封をして持って来ること
(2) 投書の内容は、政治に有益な事、諸役人の不正に関すること、訴訟を長く待たされている場合などに限ること
(3) ただし、自分を売り込んだり、人を陥れたり、いいかげんなことや、本来役所に提出すべき訴えなどは取り上げず、焼き捨てること
 ここで直訴が許されたのは町人や農民などの一般庶民であり、旗本・御家人などの武士たちは許されなかった。
町火消組の創設  吉宗は享保2(1717)年2月に大岡忠相を町奉行に任命し、首都江戸の改造と、都市政策の実施に乗り出した。大岡は防火都市への本格的な改造を目指し、様々な防火対策を打ち出した。 その一つが、町火消組合の創設であった。享保3(1718)年に、江戸の町ごとに30人1組の火消組合を結成し、火災時には隣接する風上と両側3方面の地域から、各2組ずつ計6組、180人が駆けつけ、消火にあたるというものであった。
 その後、享保5年8月7日、この町火消組織を「いろは47組」に再編成し、各組どとに地域の消火に当たる体制を整備した。その後何度も再編成され、改良されていった。
町奉行所の機構改革  大岡忠相が南町奉行に就任した後、町奉行所の機構改革が進められた。享保4年に、元禄15(1702)年以来、北町・南町・中町と3つに分かれていた江戸の町奉行を南・北の2奉行所に改編させ、同年4月には本所・深川地域(墨田区・江東区)を町奉行所支配下に置いた。
『江東区史』(1955年刊)や『東京百年史』第1巻(1973年刊)によれば、享保改革期の町奉行所の主な役職は次の通り。
  歳番(ねんばん)、本所見回り、牢屋見回り、養生所見回り、出火之節人足改め、火事場建具改め、高積見回り、風烈見回り、新地家作改め、町回り、地方(じがた)改め
仲間組合の結成による物価安定策  吉宗は享保6(1721)年11月に、町奉行の大岡らの指揮のもとで、江戸の商人や職人たちに業種別の組合を結成させ、組合を通じた商人支配・価格統制の体制を作りだした。 このとき指定された業種は、扇屋、紺屋、菓子屋、紙屋、雛人形屋、瀬戸物屋、椀屋、皮細工、小間物屋、きせる屋、糸組屋、火鉢土器屋、塗物屋、など96種類。
 さらに享保8(1723)年、吉宗は、江戸・京・大坂の三都の町奉行に物価を下げるにはどうしたらよいか諮問した。これに対して、江戸の町奉行の大岡と諏訪美濃守頼篤は、連盟で意見書を提出している。 その内容は、商人らが不当な利益を得ないような同業者の仲間組織を作ること、この仲間組合によって仕入れ値を抑えて物価上昇を抑えること、幕府は大坂から積み出す品や、江戸に入る品を調査するなどであった。
 享保9年5月には、布、綿、米、醤油、薪、炭、酒、紙など生活必需品22品目を扱う問屋などに仲間組合を結成するよう命じ、翌6月には物価引き下げ令にもかかわらず、米穀に比べて不当に高い商品について、町名主たちにその理由を書き上げさせている。
 後の時代の田沼意次は株仲間を結成させ、運上金・冥加金という間接税を徴収し幕府財政を再建しようとした。吉宗は同じような同業者組合を結成させ、物価安定を狙った。田沼時代の後の天保の改革の主導者、水野忠邦は株仲間を「物価高騰の主犯」として解散させた。 それにより生活必需品の流通機能は混乱し、狙いとは逆に諸物価が乱高下することになった。
小石川養生所の設立  享保7(1722)年正月21日、麹町十二丁(東京都新宿区)三郎兵衛店(たな)に住む町医師の小川笙船(しょうせん)は、極貧の病人のために施薬院を建ててほしいと、目安箱に投書したところ、翌2月笙船は評定所から呼び出され、さらに詳しい意見を求められた。
 笙船の意見を聞いた幕府は、享保7年12月4日、小石川薬園(現在の東京大学植物園)の中に養生所を開設させた。敷地は約1000坪、建物は柿葺(こけらぶき)の長屋で薬煎所が2ヶ所、収容人数は40名、医師は小川笙船・丹治を始め7名で、いずれも専門は本道(内科)であった。
都市下層民対策  当時江戸には農村部からの人口流入が多くあった。彼らは江戸で日雇取(ひようとり=日雇い人夫)、振売商人(商品を担ったり下げたりして売り歩く商人)などの下層民を形成した。このため大岡は、都市の下層民対策に力を入れた。
 享保6年6月、幕府は、さしあたり生活はできても、ひとたび火事にあうとたちまちその日の生活にも困ると思われる者を調査登録し、同年9月には、それらの者が今後類焼した場合、数日間扶持米(救助米)を与えることにした。こうした施策は、こののち7年正月、8年正月にも出されている。
風俗の取締り  吉宗と宗春の大きな違い、それは風俗に対する姿勢であった。宗春は幕府によって厳しく統制されていた遊郭を広く許可した。その幕府、吉宗は都市風俗の取締りを強化した。
 享保5(1720)年、町奉行所は私娼取締りを強化する触を出した。その内容は、遊女の抱え主や、遊女を置いた家主は、家財を没収し往来3日間晒したうえで追放、遊女を呼んだ茶屋は家財没収、また名主・五人組には連帯責任で取締りの義務を課し、違反があった場合は処分するという厳しいものであった。
 享保7(1722)年12月7日、幕府は心中事件を扱った書物の出版を禁止し、以後役人が巡回して取り締まることにした。この後「心中」の文字は、浄瑠璃や歌舞伎の題名から消え、心中に関する話も、心中するはずの男女が救われるという筋書きに改められたりした。
 享保8(1723)年2月には、心中者を厳罰に処することが決められた。今後、心中した2人の死骸は取り捨てて埋葬や葬儀を許さないこと、一方が生き延びた場合は、その者を死刑とし、死骸は取り捨てること、2人とも生き延びた場合は、3日間晒したうえで非人手下(ひにんてか)とすることなどが定められた。 (T注 「非人手下」とは士農工商のさらに下の階級である非人に落とされ、以後非人頭の車善七の支配下に置かれることを言う)
鷹場制度の復活  吉宗は将軍就任早々、鷹場制度を復活し、享保2(1717)年5月11日に、亀戸・隅田川(東京都墨田区、江東区)で初めて鷹狩を行った。以後、享保の改革全時期(1716〜1745)を通じて鷹場制度はさらに整備・強化されていく。 これは吉宗個人の趣味と言うよりも、軟弱になる武士に対する姿勢、それと鷹場整備を通じて江戸周辺の支配確保も目的であったと考えられる。
行楽地の整備  吉宗は江戸近郊東西南北の地に、庶民のための行楽地を整備した。
 隅田川堤・中野桃園・御殿山・飛鳥山などを行楽地として整備した。これらの土地は鷹狩りと深くかかわりある場所であった。 庶民の行楽は、将軍の御場、御場所のうちで、あくまでも幕府・将軍から賜るという形式をとったのであった。
全国人口調査  享保の改革以前、全国の諸藩は検地(土地の測量)により領国内の土地(耕地)を把握し、人別改めにより人口を掌握していた。しかし、それはあくまでも、各大名が領国を支配するために行ったもので、検地の方法や人口調査の方法は、各藩まちまちであった。 これに対し、吉宗は、享保6(1721)年6月21日に、全国的な規模で土地の面積(反別)と人口の調査を行い、幕府に差し出すように命じた。
 反別調査は、大きな変化がなかったためか、以後行われなかったが、人口調査は5年後の享保11(午年)に、第2回の調査が行われた。こののち人口調査は、子年と午年と、6年に1度ずつの割合で幕末まで続けられ、その回数は22回に及んだ。
 この調査は武家関係の人口がはずされているという江戸時代の人口統計として、最も大規模で信頼できる調査となる。吉宗は全国人口統計の祖でもあった。 (T注 この調査は速水融・鬼頭宏などの歴史人口学の研究者の間で広く活用されている)
司法改革  享保直前の正徳2(1712)年に、当時の司法・立法の最高機関である評定所にあてて出された注意には、訴訟事件が多いにもかかわらず評定所の会合が短いこと、評定所が調査を十分に行っていないこと、審査の菜に議論を尽くさないこと、審理が遅く権勢や賄賂によって判決が傾くこと、などがあげられていた。
 吉宗は享保6(1721)年4月4日、江戸城内の吹上の庭で寺社、町、勘定の3奉行による裁判の様子を見学している。この日吉宗は、老中や若年寄を伴い、御座には御簾(みす=すだれ)をかけ、朝から夕方まで奉行たちの裁判ぶりを見た。 裁判は全部で36,吉宗はその内15を見学し、こののち奉行たちを御前に呼び、引き出物を与え慰労している。
 吉宗は寛保2(1742)年に『公事方御定書』を完成させ、評定書に対し、元和元(1615)年から寛保4(1744)年までの130年間に幕府が出した法令の編集を命じた。 延享元(1744=寛保4)年にこれが『御触書』としてまとまった。法令編纂事業は、この後も続けられ、『宝暦集成』、『天明集成』、『天保集成』が続撰されたので、これらと区別するために『御触書寛保集成』と呼ばれるようになった。
貨幣政策  元禄8(1695)年、幕府の勘定奉行荻原重秀は貨幣の質を落とし、数量を増し財政の不足を補う貨幣改鋳を行った。 その後、新井白石が正徳4(1714)年に慶長金銀と同質の正徳金銀を発行した。ここに金貨は慶長、元禄、乾字、正徳の4種類、銀貨は慶長、元禄、宝字、永字、三宝字、四宝字、正徳の7種類が流通するという、たいへんな混乱に陥っていた。
 享保3(1718)年11月に吉宗は新金銀通用令を出し、正徳金銀と同質の通貨に統一し貨幣領を収縮する方針をとった。通用令の内容は、@これまで物価は乾字金・四字金銀を基準として定めたが、以後は新金銀を基準とする、 A交換の比率は純金銀含有量に応ずるよう改めること、B旧貨の通用期限は享保7年とする。の3点であった。
 両替屋への統制の強化と新金銀通用令の強硬によって、元禄以来混乱を続けてきた通貨は享保7年にようやく統一され、通貨量も縮小するようになった。
 しかし、吉宗の緊縮財政は深刻な不況を起こした。「インフレはいついかなる場合も貨幣的現象である」が分かれば、吉宗のデフレ政策が理解できる。
 そこで元文元(1736)年5月に金銀改鋳を行った。この改鋳により通貨流通量は増大し、経済は安定した。「文字金」、「文字銀」と呼ばれるこの新金銀(元文金銀)は、その後安定した通貨として、文政期の改鋳に至るまで、80年間流通した。
奢侈品の禁止  幕府は享保以前から手遊び物や雛道具、衣類、季節はずれの野菜や果物などの奢侈を禁じていた。
 吉宗はさらに厳しい奢侈禁止令を出した。享保6年4月と5月の規制では、従来も見られた雛道具や破魔弓、羽子板などの取締りに限られていたが、7月の規制では、器物、織物などの新製品の政策をすべて禁止し、書籍や草紙なども奉行所の許可を得なければ出版してはならないとした。 さらに京都や大坂、その他所々から新製品が送られてきた場合は、少量であっても奉行所へ報告し、指図を受けることとしている。 翌閏7月には、諸道具、書籍の他、諸商売物、新製品を作ることを禁止し、どうしても作らなくてはならない場合には、役所の許可を受けることにした。
 さらに、これを徹底するために、幕府は、同月に絹紬問屋、太物(綿・麻織物)問屋、小間物問屋など20種類ほどの町人たちの名簿を、町名主を通じて、町年寄りに提出させた。そして翌8月、町年寄は年番名主を呼び出し、扇屋、雛人形屋、瀬戸物屋、錺(かざり)屋など96種類の職種の商人・職人たちに組合を命じたのである。 これらの職種はいずれも新規物に関連するものであり、米穀、薪炭、材木、味噌、醤油、塩、繰綿などは入っていない。幕府はあくまでも、新規の品々を奢侈品として取り締まることに主眼を置いていたのである。
新田開発  吉宗は、勝手掛老中の水野忠之を中心に、幕府財政再建作の検討するよう命じていた。その答えは「新田開発」と「税制改革」であった。そこで、享保7(1722)年7月、幕府は江戸の日本橋に新田開発令の高札を建て、町人請負も含めた開発促進の方針を示した。 この新田開発の方針に従って、下総国の飯沼新田(茨城県水海道市付近)、越後国の紫雲寺潟新田(新潟県北蒲原郡)、武蔵国の武蔵新田(東京都西部、埼玉県南部)、見沼新田(埼玉県浦和市・大宮市)など、各地の新田が開発された。 (T注 江戸時代の新田開発については大坂堂島米会所を参照のこと)
税制改革  新田開発と並ぶ財政再建策は税制改革であった。吉宗は享保7(1722)年以降、各地の幕領で、従来の検見取法(毎年の出来ばえを実地調査し、これをもとに年貢量を決定する方法)から、定免法(年貢量の一定期間の固定)への切り替えを行い、役人の不正を防止するとともに収入の安定化をはかった。 しかも、この定免法は、定免の年季切れに際して年貢量を引き上げるという、増税の意図を含んだ税法であった。
 幕末期に、幕臣の向山源太夫(誠斎)が編集した資料集である『誠斎雑記』の中の「御取箇辻書付」によれば、年貢総量の平均が、享保元〜11年に140万石であったのが、同12〜15年には156万石余へと、16万石も増加している。 (以上、享保の改革については、大石力著『吉宗と享保の改革』を参考にしました)
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<商品経済の発達に逆行した改革> 「野暮将軍」のほかに吉宗は「八木将軍」すなわち「米将軍」(「米」という字を「八」と「木」の2つに分解)という称号も奉られている。吉宗の最大の関心事が米相場であり、結果的にこれに翻弄され続けたことを揶揄したものである。 江戸時代は「米遣い経済」などと言われ、米が経済の中心であったが、元禄時代以降、次第に「米価安の諸色高」という傾向が顕著になってきた。そして、米価の下落は、そのまま幕府財政を直撃し、幕臣や農民の困窮に直結した。
 米相場をつり上げるため、享保13(1728)年には、従来は米価騰貴の原因になるとして厳禁されていた米切手の転売が許可された。また、諸藩に対しては、江戸や大坂などの消費地に回す米を抑えるよう命じてもいる。 ところが、享保17年、西国が世にいう享保の大飢饉に襲われ、江戸や大坂では米相場が急騰して大規模な打ち壊しが発生した。翌18年から19年にかけては再び大豊作になって、吉宗はまたしても米相場のつり上げに努力しなければならなかった。 そこで米の肯定相場を定めようとしたが、実情に合わず断念せざるを得なくなっている。
 さすがの「八木将軍」も新たな対策を講ずる必要に迫られた。そこで着目したのが、貨幣の改鋳であった。良質の貨幣を出して物価の安定を図ろうとしたころが、かえって米相場の下落を招いていることを知ったからである。 世間の通貨不足を緩和するために貨幣の改鋳に踏み切ったことは、投書の財政方針を放棄して、インフレ政策に転換することを意味するものにほかならなかった。
 貨幣改鋳によって米相場の問題は一応の落着をみたが、インフレ政策のために町民や農民の用いる一般的な通貨である銭貨の相場が下落して、庶民生活の困窮に拍車をかけることとなった。 改革を推進するにあたっては、神尾春央、依田政次、大岡忠相など有能な人材が思い切って抜擢されている。また、目安箱を設置して建言や請願を受け付けるなど、幕府に新風を入れている。
 さらには「公事方御定書」の制定など、法典を整備し、教育や文化事業に力を注ぎ、幕府のお膝元の江戸の市政を重視し、防火・防犯組織を確立するなど、都市機能の充実強化にも努めている。
 勤倹と尚武を貫き、奢侈や安逸にも慣れきった役人たちを、ともかくも引っ張っていった吉宗は、歴代将軍や諸侯の中にあっても出色的存在である。その意味では名君といわれてもよいであろう。
 しかし、享保改革の成果となると、はなはだ疑問が残る。商品経済の統御に失敗し、年貢の増徴も行き詰まり、何よりも改革を推進していった結果、農民の抵抗を激化させることとなった。
 改革が所期の成果を得られなかったのは、「諸事権現様定めの通り」として、「貴穀賤金」「勧農抑商」という伝統的な思想から脱却できなかったことによる。つまり、商品経済の発達という時代の潮流を無視したことである。
 結果的に吉宗は「世直し」という期待を裏切った。この時期、尾張藩主の徳川宗春は、吉宗の勤倹とは裏腹に、自由に奢侈を許し、名古屋に別天地を築き上げている。「公方は乞食に似たり、尾張は天下に似たり」という当時の落首は、世人が吉宗に何を期待していたかを、如実に物語っている。 (『江戸の財政再建』から)
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<将軍吉宗の、新規製造物禁止令>  江戸時代、拡大していった経済が1720年ごろから停滞し始めた。吉宗が享保改革を始めた頃と一致する。ではどうして、この頃から停滞し始めたのか?江戸時代の大きな謎のはずだが、納得できる回答は見当たらない。 将軍吉宗の享保改革にはいろんな評価があるが、その本質は何か?となるとスッキリした答えが見当たらない。 「大江戸経済学」とのタイトルで経済学の視点から、といきがって書いている割には良い答えが出せない。そのように悩みながらいろいろ文献をあさっている内に、歴史家以外の本に興味を引くものがあった。こに紹介するのは、「新規製造物禁止令が成長をとめた」という説だ。 以下、板倉聖宣著『日本史再発見』の<将軍吉宗の、新規製造物禁止令>を要約しながら話を進めていこう。
 先ず、江戸時代、相馬藩の年貢の収納量から話は始まる。相馬藩の経済統計資料によると、相馬藩の年貢収納量は1721年から1726年まで増大しているが、1715年の17.6万俵に達することなく、そのあと増減をくり返しながら、確実に急テンポで落ち込んでいる。
 年貢収入が増減する、ということは大名の収入、ひいては家臣たちの収入が増減するということだ。これが相馬藩だけの特殊な事情ならば、大きな問題ではないが、「江戸時代前半の高度成長と後半以後の衰退ないし停滞」は相馬藩の特殊事情とは言えない。
 多くの経済史料を調べて、長期数量統計をグラフに描くと、江戸時代の前半と後半の違いは歴然としている。
 次ぎに、佐渡金銀山の産出銀の長期統計資料がある。これは1613年から1945年までの資料で、これによると、1721年以後になると採掘量がめっきり減っているのが判る。
 もう一つ、別子銅山における銅の採掘量の資料がある。これによると1698年に採掘量がピークに達した後、1720年頃から横這いに転じている。ところがこの銅山は明治維新以後、かつてない採掘量を記録している。
 4番目は土木工事のこと。土木学会編『(明治以前)日本土木史』(1936)の「開墾・干拓・埋立・地池・灌漑・排水」の工事の件数だ。1600年の関ヶ原の合戦以後、土木工事の件数は飛躍的に増大した。 しかし、1660〜1670年にピークに達して、その後、1710〜1720年になると激減している。これらの資料から、1720前後に日本の経済は大きく変わったと考えざるを得ない。
 1720年という年は、元号で言うと享保5年のことで、徳川吉宗が8代将軍となっていわゆる享保改革を初めて5年目のことだ。その年の前後には、革命や政変のようなものは起きていないし、その他の政治的大事件もない。 1716年の吉宗政権の誕生が転機になっていると見るよりほかない。そこで著者は「吉宗政権は1720年ごろに、経済の発展ないし衰退を抑えるためにどんな政策をとったか」を見るために、吉宗の言動を詳しく記録した『徳川実記』を調べた。 その結果、吉宗は「何事によらず、新規のものを工夫・製造することを禁止する」と指示していたことを見つけた。以下、『日本史再発見』から引用しよう。
なぜ吉宗は<新規製造物禁止令>を出したか  それなら、吉宗はどうしてそんな無茶な政策を実施することにしたのだろうか。
 その理由はかなり推察できる。吉宗(1684〜1751)は、1716年に将軍の座につくと間もなく、「天領からあがる年貢収納量は、神君家康公の時代かた急速に増大して参りましたが、最近では増大することもなく停滞しておりまする」 ということぐらいは知らされていたに違いない。そして、その理由の一つとして、「百姓の数が減っている地域があって、そういう地域ではとくに年貢の取り上げがうまくいかない」といったことも知らされていたに違いない。 そこで吉宗は、大岡忠相(ただすけ 1677〜1751)らの腹心たちと対策を協議して、世界にも先駆けて全国の人口調査を始めることを指示したのであろう。秀吉や家康は「経済の基礎は農地にある」と考えて日本全国の検地を実施したのだが、吉宗政権は「経済の基礎は人口にあるらしい」と気づいて、人口調査を実施したというわけであった。
 そして吉宗は、それとともに新田開発を奨励したのである。農業関係の土木工事の件数を見ても分かるように、新田開発工事は1710年ごろから急激に落ち込んでいた。 そこで、吉宗は新田開発に期待をかけたのである。しかし、そのグラフを見ても、全国の土木工事の件数は1720年以後増大に転じていない。吉宗の新田開発政策は、口でいうほど成功はしなかったのである。それは、1710年ころから落ち込んだ土木工事の件数を維持しただけであった。これはどういうことであろうか。
 じつは吉宗の時代には、当時の技術で新田開発のできる土地はほとんど開発され尽くされていたと言っていいのである。そのことは、明治維新以後になっても「日本の農地面積はほとんど増えていない」ということを見ても明らかである。 それでも当時、「新田を開発したい」と申請する町人などがあった。しかし、多くの場合、既存の田畑に引いていた用水を新田に引き込んで、それで「新田を開発した」と称し、新田への年貢の免除を申し出るものが少なくなかったという。 そういう場合は、新田の代わりに、既存の田畑が荒廃することになり、幕府の年貢収入はかえって減少することになった。だから、吉宗は享保5(1720)年5月12日の指示でも、
  「新田開発するもよきことなれども、古き田畝(田畑)または秣(まぐさ)の妨げとなる開墾なすべからず」
と指示することを忘れなかった。
 そして吉宗は、一方で<弊害のない新田開発>を奨励するとともに、抜本的な解決法として、これまで通りの経済成長を維持・発展させることは無理と見て、「何とか現状維持をはかろう」と懸命になったに違いないのである。 それが<何ごとによらず従来なかったものを作りだすことを禁止する>という<新規製造物禁止令>であった。
 この政策はある意味では完全に成功したと言えるであろう。全国的に見れば、江戸時代の経済はその後ほぼ停滞したと言っていいからである。
 しかし、相馬藩のように、1720年以前からすでに停滞どころか人口が落ち込みはじめていたところでは、日本全国なみに「1720年の水準でとまれ!」ということはできなかった。相馬藩の人口はその後激減し、それに応じて年貢収納量も激減したのである。 (『日本史再発見』から)
(^o^)                  (^o^)                  (^o^)
<主な参考文献・引用文献>
吉宗と享保の改革 教養の日本史                    大石学 東京堂出版     2001. 9.28
江戸の財政再建                            井門寛 中公文庫      2000.12.20
日本史再発見 理系の視点から                    板倉聖宣 朝日新聞社     1993. 6.25 
( 2005年11月7日 TANAKA1942b )
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(48)『温知政要』と『遊女濃安都』
宗春の政治姿勢をみる

江戸時代の三大改革といわれる享保改革、吉宗が大奮闘したのは間違いない。しかしその成果については高低評価まちまちだ。 板倉聖宣著『日本史再発見』は歴史家が目をつけない、<新規製造物禁止令>という点に注目している。歴史家業界が自家不和合性に陥らないためには、業界外からの新規参入があって、雑種強勢が生まれるといい。 そこまで新しい見方、と言えるかどうか?と思いながらも、『日本史再発見』には興味を引かれる。
 そうした吉宗像に対して宗春の方はどうか?宗春がどのような気持ちであったのか?いろんな文献を読んでも今ひとつハッキリしない。 公式資料はほとんど廃棄処分にされてはいるが、残された『温知政要』と『遊女濃安都』から、宗春の政治が浮かび上がってくる。まず宗春の政治がどのようであったのか、その辺りから話を始めよう。
<享保の改革とは全く逆の宗春の政治>  享保15(1730)年11月28日、 宗春は兄継友に死に伴い7代尾張藩主となる。そして、享保16(1731)3月に『温知政要』を著し、近侍になどに与えた。 この『温知政要』は宗春の政治姿勢を著したもので、その後の宗春の政治を理解するのに役立つ。そして『遊女濃安都』(ゆめのあと・夢の後)。これは尾張藩主徳川吉宗の襲封から退隠にいたる9年間の記録で、享保16(1731)年から元文4(1764)年までが書かれている。 そして、追加的に、天保10(1839)年に宗春がようやく赦免、権大納言を贈られることまでが書かれている。
 内容は、宗春一代の編年録を縦糸に、名古屋城下の風俗的欽述を横糸に織りなした名古屋繁盛記。著者は分からない。講義お咎めのの宗春のことを好意的に書かれているので、それはやむを得ない。
 この『温知政要』と『遊女濃安都』を中心に、『徳川実記』を加え、多くの人が宗春について書いている。これらをもとに宗春像を描いてみることにしよう。
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<尾張の異端大名>  宗春の行いで最も奇妙で世間を驚かしたことが、享保16年4月12日、建中寺へ参拝時の奇異な行列だろう。その場面を神坂次郎の小説『江戸を駆ける』から引用してみよう。 なおこの場面は『遊女濃安都』にも記されているので、そちらも引用してみた。
*               *                *
 それは、なんとも異様な光景であった。
 行列の先頭を、長大な、真紅のキセルがゆるゆると歩いていく。長さ2間(約4メートル)。そのきせるの先端から、時おり、ぷかりおうかりと白いけむりが立ちのぼっている。
 行列のあるじは、徳川御三家筆頭の尾張藩65万3千石の太守である。が、それにしてはその行装(みなり)が異風である。緋ぢりめんの頭巾をかぶり、目のさめるような猩々緋(しょうじょうひ)の羽織に紅いろの着物、お気に入りの茶坊主の小野田玄格にキセルを担がせ、煙草をくゆらせながら、まるで無頼の詩人のような物憂い表情で、白い牛にゆられていくのだ。
 異風といえば、行列の供まわりの家臣たちの服装も人目をそばだてるほどの派手やかさである。揃いの股引に、表は雲竜や竹に虎の模様を描いた半纏(はんてん)の、裾裏の紅ちりめんをひらひらさせながら通りすぎて行く。
 徳川宗春──。
 徳川300年の間(かん)を通じて、あらゆる将軍や大名たちななかで、この宗春くらいおのれの思うままに生きた男はいないであろう。宗春、さきの名を通春(みちはる)、尾張徳川家3代藩主綱誠(つななり)の第20子。部屋住みの庶子の身から、分家の陸奥、梁川の松平義昌の跡式を継いで3万石の領主となり、のち、4代藩主吉通、5代藩主の五郎太、そして6代藩主の兄の継友と相つづく藩主たちの急死のため、7代藩主となる。 (『江戸を駆ける(尾張六十五万石の意地徳川宗春)』から
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<遊女濃安都から>  現代に残された数少ない宗春に関する史料、その中で『遊女濃安都(ゆめのあと)』は貴重なものだ。その中からの一部を引用してみよう。数少ない史料でもあり、多くの文献で引用している。江戸時代の文章は読むのに苦労するので、ここではほんの一部だけ引用することにした。 興味を持った方は図書館ででも探して読んでみて下さい。
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 一、近郷にて白牛御買上に付、大代官飯島重左衛門御預りの手代罷越、求来る。右牛、殊の外、思召に入、御機嫌能、依之、右手代両人へ表立御褒美。
   金二百疋づゝ   渡 辺 宅左衛門
            広 田 利右衛門
 一、諸寺社御参詣の節、右白牛に鞍・鐙置候て、猩々緋の装束、時々模様替り候へども、大方は右の通にて、御衣服、是又、時々替り候へども、毎迚も、御頭巾、唐人笠、五尺計の御煙筒御持、奥御茶道衆、其先かつぐ。 右白牛に被為召、定光寺へも、御道中、右の通にて御参詣、總て、所々出御・還御の節、夜に入候へば、町々辻々、揚行燈、家並に思ひ思ひのかけ行燈、尤、町々の境を立、夫々の物好き致候。総体、御在国の節、所々へ御成の節、御道筋、夜は、町々拵付たる趣向の造物・揚行燈・燈籠・掛行燈、美を儘、見物人群集す。 (『日本庶民生活史料集成15巻 都市風俗 遊女濃安都』から)
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<人々を驚かした宗春の行状>  宗春と改名したのは享保16(1731)年1月19日、将軍吉宗の1字、宗の字をもらってからで、それまでは通春(みちはる)といった。大変華美放縦ともいえる性格で、領主になった早々は公儀の法度を守り、尾州家代々の法規を遵守するようにという触れを出している。 しかしそれはいわば慣例に基づくもので、実際には享保の改革が進行している吉宗の政治とは似ても似つかぬ放縦闊達な政治を打ち出した。
 すなわち宗春の代になると尾州藩江戸屋敷は、遊芸・音曲・鳴り物自由ということになったうえ、昼夜の区別なく出入りも自由ということになったので、それまでとは打って変わってにぎやかになった。同16年4月に宗春は尾州藩に初入部するが、その時の行装の華麗さは、人々を驚かすものがあったといわれる。 また領内でもたびたび異様な風体をして人々を驚かせている。
 その1例を挙げてみよう。宗春は入部早々領内から白い牛を買い上げさせるが、それが大変お気に召して見つけてきた代官所手代に褒美の金を手渡した。のみならず、領内の寺社参詣の時も、この白牛に立派な鞍と鐙(あぶみ)を置かせ、猩々緋(しょうじょうひ)の装束に紅色の頭巾をかぶりそれにまたがって出かけた。 そして帰りには羽織袴を脱ぎ捨てて白練の着物を着流しにし、そのうえ帯も前結びにし、2間(3.6メートル)ほどもある長煙管(キセル)の先を茶坊主にかつがせ、それでプカリ、プカリと煙草をふかせながら帰るという有様であった。
 また同年7月、自分の娘が亡くなったために、町の盆祝いが取り止めになったのは気の毒だというので、その代償として同月の24日から8月1日までの間を盆踊りの日として町民たちに踊りを勧めた。 さらに8月22日から23日にかけてのまる一昼夜は、町じゅうの踊り組200組ほどを、次々と屋敷に呼び込んで踊らせ、それを見物して打ち興じ、1組ごとに褒美の金銀を与えるなどした。
 土民の遊興についても大変寛大で、遊女町も願い出ればどんどん許可したから、全国から遊女たちが名古屋を目指して集まった。そのため名古屋には西小路・葛町・富士見原・飴屋町・屈託ヶ原・巾下新道・西主水町・天王崎・錦屋町・朝日町・崇覚寺門前・栄国寺新町などの遊女町ができた。
 また歌舞伎も宗春は自分の領地である尾張ではこれを許し、芝居の興業にも積極的であったので各地に芝居小屋ができ、歌舞伎や芝居がにぎやかに催された。 こうなると下は上にならうで、当時尾張では家老から農工商に到るまで、表は黒または紫色、裏は紅色の縮緬で作った派手な頭巾をかぶり、くわえ煙草をして遊女や野郎を引き連れ、手をとりあって小唄を謡いなどしながら、昼夜の区別なくぞろぞろと町中を浮かれ歩くのが流行したといわれている。
 ために尾州藩では江戸屋敷をはじめ国元は名古屋市内はもちろん領内に至るまで、”元禄の繁栄”が再来したような華美な彩りに浮き立っていた。宗春にいわせると「上が浪費するから下々にまでお金が回っていくので、自分のすることは決して自分一人のぜいたくでも浪費でもない」というのであった。 さらに彼は「すべて人間というものは、老いも若きも、気に締まりとゆるみがなくては、落ち着いた生活はできないものである。特に色を好むということは、人間にとっては飯を食べることと同様、その本性に由来するものである。だから上に立つ者は心して民にゆるみを与えることが肝要である」というのである。
 そんなことから将軍吉宗が綱紀粛正の一環として、江戸の岡場所(私娼窟)の取り締まりに力を入れ、また私藩もこれにならうなか、尾張宗春は名古屋において積極的に遊女街を新設していった。そのため全国の城下町が灯が消えたように沈滞する一方なのに、名古屋ひとりが明々と繁栄した。 日本の中京としての名古屋の地位はこの時に築かれたといわれ、その繁栄の様は「享元絵巻」という絵巻物に画かれて有名である。ちなみに「享元」とは享保と元文との間という意味で、宗春に治世という意味である。
 将軍吉宗による宗春の隠居強制は、このような歴史側面を圧殺するものである。しかしこの側面だけを取り上げて、近ごろ一部で言われているように徳川吉宗をおとしめるのは大きな誤りである。 (大石慎三郎著『吉宗と享保改革』から)
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<温知政要>  宗春の政治に対する姿勢を書いたものに『温知政要』がある。宗春関係の史料が抹殺されて現在に残されたものが少ない中で貴重な史料だ。これが京で出版されようとしたとき、吉宗は主版を差し止めた。それだけ吉宗としては許せない本であった。 その一部を引用してみよう。
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 一、夫人たる者、平生心に執守事なくては叶はざる事なり。しかし其品多ければ忘れ怠りやすし一二字の中より限りなき工夫出る物なり、殊に国持たらん者、すへすへまで行渡らずしてあやまる事多かるべし。 故に慈と忍との二字を掛物二幅にこしらへ、慈の字の上には日の丸を書かせたり。慈は心のうちにのみ隠れてはその詮更になし、外へあらわれすへすへゑも及び、隅々までも照したき心にて、太陽の徳をしたひての事なり。 忍の字の上には月の丸を書かせたり、堪忍は心の中にありて、外へあらわれざる時の工夫ゆへ、大陰の形を表せり。日月の二字を合すれば則明の字也。大学の明明徳にも叶べきか、万の事明らかになくしては、取まがふ事のみにて、宜く正理に叶ふ様にはおこなはれまじ。 駕興道具の者の衣服には、仁の字を相印に申付けたり。是、内に居ては慈忍の二字を見、外へ出ては仁の字を見、朝夕何方におゐても暫くも忘れずして、執行勘弁やむまじき為の工夫也。 (『名古屋叢書第1巻 文教編 温知政要』から)
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<海音寺潮五郎『吉宗と享保』から>  宗春を扱った小説は多くある。その中で海音寺潮五郎の『吉宗と享保』には宗春の『温知政要』を現代風に表現した部分がある。吉宗のお庭番=密偵である助八が宗春邸を探ろうとして捕まり、宗春はお庭番であることを承知で邸内を案内する。 その場面を引用してみよう。『温知政要』をテーマにして取り上げれば、かなりの原稿枚数を必要とする。『吉宗と享保』のこの場面の描写である程度『温知政要』での宗春の考えを理解できるだろうと思う。
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 男子禁制の奥こそ案内しなかったが、表御殿、中奥、庭園、侍長屋………一通りずっと見せた。
 以前(まえ)の庭に帰って来た。
「これで、まず一通り見て貰ったことになるが、どうであった。面白かったかな」 
「……恐れ……恐れ入りましてござりまする」
 助八は恐縮しきっていた。蛇の睨まれた蛙の気持ちがこうもあろうか、底知れぬ深淵に臨んでいるような薄気味悪さに、五体が竦んで、馬鹿になったように頭が働かなくなっていた。
 邸内を偵察するどころの話ではない。一時も早くこの場を立ち去りたいとばかり考えていた。
 だが、宗春は容易に助八を離そうとはしなかった。落ちつきはらった調子で、のんびりと言うのである。
「わし自身はあたり前のことをやっているに過ぎぬと思うているが、世間の目には随分と変わって見えるらしく、いろいろと評判を立てている由、わしは、物好きや、一時のきまぐれでこういうことをしているのではない。わしはの……」 
 宗春がここまで話した時、若い一人の侍が出てきた。
(あ、来た!)
 一目見た時、助八にはそれが誰であるかすぐわかった。
 誰でもない。星野磯部である。助八が星野を知ったのは、吉宗の日光社参の時が、はじめてであった。その時、いつも側去らず宗春が召し連れていたので、よほどの寵臣と思って、くわしく探索して磯部については随分深い知識を持っているのである。
 宗春の襲封と共に、磯部は三百石、側用人に任ぜられていた。
 磯部の姿を見ると、宗春は笑って説明した。
「これは通りがかりの町人だが、しきりに当屋敷を見たがっているようなので、呼び入れて、今、とっくりと見せたところじゃ。隠密かも知れぬ故、斬れと申す者もあるが、わしの見るところでは隠密ではない。こんなおだやかな顔をした隠密があるものではないからのう」 
「御意にござります。隠密などつとまる者は目から鼻に抜けるほどに小気の利いた者でござりまする由。されば、かかる馬鹿面の者などにつとまることではござりませぬ」 
 針のようにとげのある眼で見ながら、皮肉に笑って、磯部は答えるのである。
「そうそう、なるほど随分と間抜けた顔をしているな。ははははは──さて、どこまで話したかな。うむ、そうそう、一時のきまぐれや物好きによってかようなことをいたしているのではないというところだったの。町人、わしは、実を言うと、今の世の中の政治のとりかたに深井疑いがあるのだ。 当代になって、まず上様がなされたことは、倹約令の発布だ。上は将軍大名より、下は百姓町人に至るまで、倹約せねばならぬ、曰く、衣類一枚の価何十匁以上のものは着ることならぬ、曰く、毎食の膳部は一汁一菜といたせ、曰く、酒は何献を越すべからず、曰く、何々すべからず、曰く、何々すべからずと、道学先生が内弟子を躾けるようなやり方で天下の政治をしようとしていなさる。 野放図もなき贅沢はもとよりほむべきことではない。が、倹約だけで世並みがよくなるとは、一軒一家の生活かたと、天下の政治とを混同している考えではないかと、わしには思われるのだ。勿論、天下の政治においても倹約を行わなければならぬ時もある。国を挙げて外国と戦争している時たか、甚だしき天災地変があったとか、狭窄であるとかいう時にはこれ以外に切り抜ける策はない。 が、それは医家の所謂応病与薬であって、今日の如く天下治安、海内無事の場合には適せぬとわしは思う。金は天下の廻り持ちという。金銀が滑らかに天下を廻ってこそ、人の生活は豊かになるのだ。倹約、倹約で、人々が握った金銀を一切手から離さないで握りづめにしていては、世の中どうなると思う。 金銀が金銀の役目をせぬばかりでなく、町人も、百姓も、職人も、その仕事はとんと上がったりになってしまうではないか。天下中の者が食べるものを倹約(しまつ)し、飲むものを倹約するようになれば、食物を作り出す百姓がが困り、酒を造る酒屋が困る。天下の人が残らず着るものを倹約するようになれば、蚕を飼い、麻をつむぐ百姓が困り、織屋が痛む。 運送の仕事にあたる馬子船乗りも困れば、売買いの間に利鞘をかせぐことによって立っている商人も困る。武士だけが困らぬもののように見える。武士は自ら米を作ったり、織物を織り出したり、器物を造り出したりはせぬ。武士は主より禄を貰って使うだけのもの故、倹約すれば倹約するだけ余分に金を残すことが出来て、如何にも結構のように、一応は考えられる。 が、これとても、もう一歩踏みこんで考えれば、そうでないことがわかる。なぜなら、武士の生活の資になるものはどこから出て来るか、百姓の租税、商人の運上から出て来るのだ。 されば、百姓町人は大本、武士はその末じゃ。本が衰え枯れて末がどうしてよかろう道理があろう」 
 恐怖は今は去って、探索に対する熱意がしらずしらずのうちに、助八の顔を熱心にしていた。
 宗春は、そしらぬ顔でつづける。
「いい例がある。倹約令を出されて以来、幕府には随分と金が出来たそうな。前代様までは、お公儀のお勝手は火の車であったのだから、先ず、大したお手柄と申さねばならぬが、どこまでもその手で押して行こうとなさるところに御無理がある。 何とやら言う下世話があるの。それ、馬鹿の一つ覚え、ははは……。どこにその御無理があるか。元禄の希代にお公儀は財政の窮乏を救うために金銀の改鋳をして、慶長の古制より四分方品位を悪くなされた。 つまり、六両の古金銀を以て十両の金銀をつくりなされたわけじゃ。それによって、とまれかくまれ、お公家儀一時の急は救われたが、際限もなく金銀がふえたために、物の値段は天井知らずに騰がって、人民の生活は苦しくなった。 人民の生活苦しくなったため、それが響いてお公儀のお勝手もくるしくなった。その急を救うために、金銀品位を更に落として改鋳をやらねばならなかった。されば、常憲院様(綱吉)の後晩年の世の中は、どうにもこうにもならぬ御治世となった。 その時、出て来たのが、金銀復活の説じゃ。金銀を慶長の古制に返して数を少なくすれば、物の値段が下がって、この混乱した世間もおちつくであろうとの説を立てる者共が出て来た。 六代文昭院様(家宣)の時に用いられた新井白石などがそれじゃ。文昭院様はその説を容れさせられて、金銀復活のお志が在したが、急にはその運びになりかねる事情があって、わずかに準備に着手なされたのみにて御薨去遊ばされた。 次は七代様(家継)だが、七代様は御幼少であったし、御治世もお短く在した故、格別のこともなかった。その次が、当上様じゃ。上様は、倹約令を天下に敷いて、天下の人心を引きしめ、また、それによってお公儀の財政を豊かにして置いて、金銀復活の事業にとりかかり遊ばされた。 この間の段取りはまことにお見事なものであった。誰がやっても、あれほど見事にはやれまい。が、その後が悪い。金銀の復活も出来、幕府のゆとりも出来た以上は、国民一同が生々と元気よく働いて世の中を豊かにするような方法を講じなければならぬのに、いつまでもはじめの手をつづけて行こうとなされている。 その結果は、見ているがよい。士農工商、皆元気がなくなって苦しみ喘ぎ、また、お公儀のお勝手も今を絶頂として、だんだん弱りに弱って、あげくの果てはまた元禄のように、それどころか、元禄以上に質を下げた金銀をつくらねばやりきれぬようになるは必定故、仏法では世に常住不変のものはないと言うが、天下の政治は殊にそうだ。 天下は生き物だ。昨日の天下と今日の天下、去年の天下と今年の天下は違う。違うが故に、昨日の策は今日に適せず、去年の策は今年に適しない。差期日の是は今日の非、去年の非は今年の是だ。それ故、天下の政(まつりごと)を為す者は常住不断に天下の姿を見て、その変に応ずる策を以て臨なねばならぬのだ。 わかりやすい例を取って言おう。生まれたての赤んぼには母親の乳が一番よい。飯であるとか、魚であるとかいうものは食わしてはならぬ。が、一年たち、二年たち、三年たって、なお、乳ばかりあてがっておいたらどうだ。 到底、まともな生育を遂げることは出来まい。今の幕府の政治のとりざまが、わしにはその愚かな母親の育児に似た所があるように思われてならないのだ。もし、わしが天下の政を執るならば、そうした馬鹿の一つ覚えに類したことはせぬ。必ずや、機を見、変を察して、時処位に最も適合した策をとる。 が、悲しいかな、わしは天下の政には縁なきものだ。が、わしの自由になる尾張一国だけは、かかる愚かな政治の下に立たしたくない。最もよいと信ずるわしの政治を行いたい。 新しい法度を立てたのは、その第一歩だ。わしのこのやりかたが成功するか、公儀のやりかたが成功するか、その心あって見ている人には相当に面白い観物(みもの)であろうよ。はッははは………」
 我を忘れて熱心な面持で聞いていた助八は、突然に響いた鋭い宗春の哄笑に、ぎくりとして気がつくと、宗春は声だけはいとも愉快ふぇに響かせながら、眼は抉るように鋭い光をたたえて助八の眼を見つめていりのであった。
 助八は顔を伏せた。
 ゆっくりと、その眼を、傍らの星野に転じて、互いに微笑し合って、それから、宗春はまた言った。
「町人、見るところ、その方は主人持ちのように見える。何商売か知らぬが、相当な家につかえているのであろう。相当な家の主人ならば、わしが今申したことについて、是非の考えもつくであろう。 帰ったならば、逐一に話してみい。主人が何と申すか……連れて行って帰してやれ、手荒なことをするでないぞ」 
 そして、宗春は床几を立って歩き去った。
 助八は入った門まで連れて行かれて、ぽんと突き出された。
「どこへなりと立ち去れ!」
 よろめく足をふみしめて、しばらくの間、助八は、茫然としていた。
 いたうの間にか陽が傾き翳って、薄ら寒い風が出ている。
「覚えていろ!」 
 口の中で言って、乱れた着物を掻き合わせたが、ふと、全身びっしょりとつめたい汗をかいているのに気づくと、今更のようによみがえった恐怖に、ぶるっと身ぶるいしていた。 (海音寺潮五郎著『吉宗と宗春』から)
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<尾張の国の宗春>  享保16(1731)年、7代藩主となったのは宗春である。宗春の治政はわずか9年であったが、藩政史上特記されるべき時代といえる。宗春はまずこの年、自分の治政方針を示す『温知政要』を著した。 その中で彼は法令が多すぎるのはよくないとか、倹約はかえって無駄を生ずることになると述べている。そして城下南部の西小路、富士見ヶ原、葛町(かずらまち)の3ヶ所に、藩祖以来禁止されていた遊郭の設置を認めた。 遊郭はたちまち非常な賑いをみせ、3ヶ所で妓楼101軒、遊女646人という記録が残っている。また常設の芝居小屋が遊郭や寺社地に57座も設けられた。このため江戸、上方の役者が流入し、興行は387回にも及んだといわれている。 一方商業活動も活発になり、後に名古屋の御三家といわれた伊藤・関戸・内田家が、その商業の基礎を確立するのもこの頃である。
 このような宗春の積極政策は、当然将軍吉宗の倹約政策とまっ向から対立し、享保17(1732)年、宗春は幕府からとがめを受けた。この時は何かと言い逃れた宗春も、土風が、乱れてきたり、財政赤字が増加してきたため、享保20年頃から引き締めにはいった。 藩士の遊郭出入りを禁止したり、遊郭の整理や芝居小屋の新設を禁止したりした。しかし元文4(1739)年、ついに宗春は幕府から隠居謹慎を命ぜられ、彼の死後も墓石に金網がかぶせられるという処分を受けた。 (『藩史大事典 第4巻中部編U 東海』から)
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<主な参考文献・引用文献>
江戸を駆ける(尾張六十五万石の意地徳川宗春)            神坂次郎 中央公論社     1986.10.25
日本庶民生活史料集成15巻 都市風俗 遊女濃安都          谷川健一 三一書房      1971. 8.20
吉宗と享保改革 江戸をリストラした将軍              大石慎三郎 日本経済新聞社   1994. 9.21
名古屋叢書第1巻 文教編 温知政要           名古屋市教育委員会編・発行        1960.10.30
吉宗と宗春                           海音寺潮五郎 文春文庫      1995. 4.10 
藩史大事典 第4巻中部編U 東海                  木村礎他 雄山閣       1989. 1.20 
( 2005年11月14日 TANAKA1942b )
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(49)宗春の政治をどう評価するか?
英雄か?ケインズ政策の失敗か?

吉宗と宗春をどのように評価するか?まだまだ評価は定まっていない。歴史家に加え、理系からエコノミストからと、自家不和合性には陥ってはいないが、説得力のあるものはない。 そうした状況で宗春に比較的好意的な見方と、やや否定的な見方をここ取り上げてみた。
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<英傑・徳川宗春の挑戦>  初めは宗春に比較的好意的な見方を紹介しよう。
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 徳川時代の交通網は、江戸と大阪に通じる路が中心で、日本橋を起点とする五街道、物資輸送の水上四路──そのいずれもが、江戸と大阪をあてこむものであった。 幕府も諸藩にしても、大坂で効率よく米を換金し、貨幣経済の密度を高め、自らの首を絞める結果を招いたのである。
  人は武士 なぜ藏宿にあてがはれ(『誹風柳多留』)
 旗本や御家人の扶持米を米蔵から受け取り、その委託販売をしていた「札差」が、まるで旗本たちに俸禄を払っているようだ、と人々は笑った。
 5代将軍・徳川綱吉の治世下である元禄時代は、日本が成長期から低成長期へと転換する過渡期であり、武士や農民はすでに顕著になった商人の「下克上」に恐れ戦いていた。
 以降、武士であれ、農民、職人などの庶民にしても住みづらく、暮らしにくい時代がつづく。
「世を直す者は出ぬのか」
 時代の底流は、約180年間というもの、憧れきっていたと言ってよい。
 天下を再び建て直し、商人の勢力を封じ込め、新政を打開する強力な英雄が希求された。しかし、そのような易姓革命への憧憬は、ついぞ命じ維新まで実現しない。
 無論、幕府もただ手を拱いて傍観していたのではなかった。なんとか膨張する商品経済を押さえ込もうと躍起となり、歴代、将軍の交替するごとに政策を工夫改良した。ときには、豪商・淀屋辰五郎の闕所に見られるような峻烈な処置も講じている。 が、ことごとくが失敗に帰してしまった。
 なぜ、失敗したのかは本書の重大なテーマであり、本章に譲りたい。
 ただ、ここで覚えておかねばならない重要な点は、
「あの時期が、天王山だったかもしれぬ」
 と、誰しもが思う岐路のあったことである。
 徳川幕府265年の真ん中、享保年間(1716〜1736)──正確には享保20(1735)年──このあたりが、一つの分岐点であった事を、後世のわれわれは知っている。
 幕府や諸大名家にあっては、しきりと「倹約令」が発せられ、豪商たちは挙って「家訓」の制定に懸命となった。この江戸期におけるターニング・ポイントは、武士にせよ商人にしても、各自の立場で大いなる飛躍を遂げるか、没落の憂き目を見るかの、二者択一を迫られた時期でもあった。
 ときに、将軍は8代の徳川吉宗であり、”江戸時代三大改革”の一つといわれる”享保の改革”を推進していた。過渡期ゆえに、その改革の意義は大きく、一応の成果をあげたことから吉宗は、”徳川幕府の中興の英主”と後世に呼ばれるようになる。
 平均在任年が17.7年という15代の将軍のなかにあって、8代吉宗は享保元(1716)年から延享2(1745)年まで、足かけ30年にわたって将軍職にありつづけた。
 この間、頭のてっぺんから足の爪先まで、渾身、異常な成長を遂げる商品経済──その中核であるコメの対策に没頭した吉宗は、
「米将軍」などと庶民から揶揄されながら、むきになって商人たちと戦ったものの、所詮は貨幣経済を取り込むことはできなかった。
「──うかうかしていると、幕府は崩壊するのではないか」
 一部に、危機意識があらわとなった。
 この危機意識こそが、思わぬ英雄を生み出したのである。旱天下に慈雨を待つような心持ち、英傑の出現を期待する機運が天下に起こり始めていた。
「かくなった上は、あの方こそ──」 と将軍吉宗の政策を危惧する人々が一様に翹望した人物こそ、吉宗に14年遅れて”御三家”の筆頭・尾張藩第7代藩主となった徳川宗春であった。参議・左近衛権中将、権中納言に任ぜられたこの人物を、人々は”尾張宰相”などとも呼称した。
 宗春を嘱望する気運は潮のように、上げ潮がひたひたと満ちるように広まった。
 一方の宗春の胸中にも、商人を抑え込むのではなく、武士と商人を融合させる秘策が出来上がっていた。
「一気に、かけあがらねばならぬ」
 宗春はがらり、と国を覆すべく、旭日昇天の勢いで風雲を叱咤しつつ立ち上がった。
 当時、朝廷における最大の権力者(摂政・関白)であった一条兼香の日記や、いくつかの風聞が物語るところによれば、もし、将軍吉宗が、あまりに幕府にとって利己的な財政再建をおこなうならば、宗春はそれこそ尾張一藩をもって武装上洛を決行し、幕政改革を担う。それが許されないなら”挙藩一致”して尊皇倒幕の旗を揚げ、一挙に吉宗とその周辺を殲滅するといった、戦備による凄味すら示していた。
 こういう好機は、人間に一生で何度も訪れるものではない。
 あと少し、宗春にとっては、
 運よく。
 としかいいようがない。
 吉宗は宗春の攻勢を、長い将軍座位の年数でからくも支え、どうにか己の地位を守り抜いた。が、しばらくは腑の抜けたような表情をしていたに違いない。このあたりの事情こそが、本書の中心となってくる。一方においては、英雄興亡の叙事詩的興奮、えもいえぬ物悲しさを感じるのだが、内容はひとまず措く。
 両者の生死存亡を賭けた戦いが、太平の世にあっていかに苛烈であり、尋常ならざるものであったかは勝者となった吉宗の、宗春に対するその後の徹底した弾圧をみればよい。
 宗春はその死後、墓標を金網で覆われつづけた。
 尾張の藩士・領民が、宗春の名前を口にすることができるようになったのは、幕府から禁固御免の許しが出た天保10(1839)年12月23日以降のことであった。
 今日、宗春の肖像画は1枚も残されていない。もとより、宗春の存命中の正式な記録は、ことごとくが隠蔽され、闇の彼方へ葬り去られた。換言すれば、将軍吉宗の異常とも思える弾圧がなければ、果たして後世の評価は今日のようなものになり得たじゃ否か。歴史のおもしろさ、怖ろしさがここにもある。
 詳しくは本文で述べるが、将軍吉宗は法令によって人心はおろか、経済そのものを押さえ込もうとした。宗春は逆に、法の濫用を否定し、タテマエを撤廃。”慈”と”忍”の2字を政治の根本にすえ、本音の部分で庶民に語りかけ、商人と対座し、人間性を肯定する「自由」と「四民共楽」の理想を、己の方針に掲げた。積極的に商品経済をうけ入れ、富国強兵策をも講じている。
 わずかに抹消を免れた宗春関係の史料『遊女濃安都』には、次ぎのような件があった。
「老若、男女、貴賤とものかかる面白き世に生まれ逢う事、只前世の利益ならん、仏菩薩の再来し給ふ世の中歟(か)と、善悪なしに難在難在と上を敬ひ地を拝し、足の踏みしまりなく、国土泰平末繁昌と祈り楽しみ送る年こそ暮れゆけれ」
 さて、泰平の世にありながら、商経済の「下克上」に喘ぎつつ、時代を切り拓いたのははたして何れであったのだろうか。
 将軍吉宗と宗春という、およそ性格が対極をなす2人からは、リーダーシップの可能性と限界について考察しうるのも、本書の大切なテーマである。
 とはいえ、宗春の生涯は今となれば根本的な史料とて乏しく、その存在自体、霞の彼方にあるような、あるいは泡沫(うたかた)のような危うさをともなっている。少しでも実態に近づくためには、とりあえずその時代背景や環境の中に、この時代にそぐわない英傑が突出した条件を、手繰りつづけねばならない。そうすることによって、ふいに宗春の”心象”が見えるかもしれないではないか。
 いかに記録が消されたとはいえ、徳川宗春はこの世にナマ身の人間として、今から240年前には確かに存在したのである。伝説の宗春から、実在の宗春に近づけ得ないものでもあるまい。
 今日の、日本が大転換期を迎える中にあって、徳川宗春の生き方が、少しでも読者諸氏の日常生活のヒントとなり得れば、筆者にとって、望外の喜びである。 (加来耕三著『徳川吉春』から)
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<吉宗と反対をいく宗春の政治>  宗春の政治は、まことに吉宗の改革の反対をいったものであるといってもさしつかえない。たとえば、吉宗がわざわざ相対死と名づけさせて、蛇蝎のように嫌った心中事件も、遊女町の繁栄と、庶民の心の解放につれて名古屋に入ってきた。
 享保19年春、飴屋町の遊女小さんと、日置村の畳屋喜八という者が、添い遂げられぬ恋をあの世で、と心中をはかった。ところがそれが失敗して、2人とも生き残ったのである。これは当時の公の法律では、「男女ともにその死骸をとり捨てること、1人が生き残った場合の相対死はその1人を下手人とみなす、共に死骸の埋葬は認めない。 もし両人ともに生き残った場合は、3日ほど市にさらして、これを 非人手下 (ひにんてか)とする」となっていた。
 宗春は、これを3日間、市にさらしたところまでは当時の法に従ったのであるが、その後はこれを許し夫婦になることを認めている。尾張藩の年代記のようなものに『金府記較抄(きんぷきかくしょう)』というのがあるが、そのなかにこれにふれて「広小路にて酒の上 御免 夫婦に相成候」と出ている。
 宗春はまた、その在職中一人の死刑も出さなかったと言われていた。
 しかし、かれの寛大にして自由な施政方針は、そのまま一般的に受け入れられたとは限らない。これまで、自由のなんたるかを知らず、心を慰めることについての節度を持たなかった人々は、その与えられた自由のなかで、すっかり自分を見失ってしまう者も出てきた。
 宗春は、享保19(1734)年、20年とつづけて、家中そ戒める府令を出している。それは、
 「惣じて家中之輩、前々より咄書・風説書を以て申し聞け候趣相守り候ことあたわず、近来別して身の分際をも忘却し、大身は人馬の嗜みも薄く、子身は日用之調度をも欠く、江戸詰の順をも種々断り申し立て、直ぐに詰越(つめこえ=勤務順を変える)を願ひ、自然と慎み憚る事なく、其上奇怪異風の輩ひたと出来し、未練僣上之所行等々」(『御日記頭書』)
がある、また家中のもので博奕をやっている者もあると聞く、これで自分の本心とまったく違うことになるので、これは厳重につつしんでもらいたい、というのだ。 
 しかしながら、この宗春の府令は、なかなか実行されなかった。ついに宗春は、芝居小屋を制限し、西小路・不二見原・葛町などに栄えていた遊郭を一ヶ所に集めることを命ずるのである。そして、四方から入りこんできた遊女や踊子の類に、その出身地に帰ることを要請した。そのころになると、藩の財政がいよいよ窮迫していることも判明してきたのである。
 享保17(1732)年に、滝川・石河の両使を億って宗春を詰問した吉宗は、その後、じっと尾張のやりかたを注視していた。そして、財政窮乏に悩んだ尾張藩が、元文3(1738)年8月、1万5千両の百姓人別金を課し、同じ10月、名古屋・熱田・岐阜などの町人に3万5千両の上納金を命ずるに至ったころ、ようやくその藩内の百姓・町人のあいだに、不満の気が動くのをみて、自己のもっとも強力な反対者たる宗春を葬る決心うぃするのである。
 元文4年1月、隠居慎を命ぜられた宗春の駕籠は、13日に藩邸を出て、糀(こうじ)町の屋敷へ入っていった。その日から幕府の役人が厳重に門を固めて、近習の者もこれに近づけなかったという。その後、宗春は尾張に帰り、そこに幽居して、明和元()1764年10月8日、69際までを生きた。 (『日本の歴史 17町人の実力』から)
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<徳川宗春・ケインズ政策の失敗>  江戸時代に展開された「贅沢は敵か?素敵か?」の政策論争。いや、論争と言うより実際に政治の場で成果を競い合った吉宗と宗春。将軍と藩主との格の違いもあって、結果は吉宗の勝利に終わる。後世の歴史かはどのように評価するか?多くは、吉宗の勝ちを認めながらも、判官贔屓もあってか宗春にも好意的だ。 それでも冷たく突き放す見方もある。このような見方もある、ということで取り上げてみた。
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 彼が藩主になるや否や名古屋は栄えた。町の中心の街路には、夜になると行灯がかけられ、人通りが絶えず、三味線や笛の音が、夜遅くまで聞こえたという。ところが、尾州藩の財政は苦しくなる一方だった。 尾州藩の財政収入は、主として、年貢米に依存しており、米価は低い水準に下がったままだ。
名古屋における消費財需要は、藩内の人によるだけではない。繁栄する名古屋にあこがれ、全国からツーリストがやってくるので、消費需要がもり上がり、消費財価格は上昇した。宗春の華美な生活を支える尾州藩の財政支出は増加の一途をたどった。宗春が藩主になった時は、藩の財政は大幅な黒字だった。 それは何代かにわたる祖先の努力によって、木曽川、長良川の河口の沖積層が良田に変わり、農業の生産性が著しく向上したためだ。しかし、彼が藩主に就任すると、直ちに赤字に転じ、赤字は累積の一途をたどり、彼が職を退く時には、破産状態になっていた。
 彼は、2つの点で誤りを犯した。その1つは、消費的支出の増大によって、経済が成長すれば、消費財産業やサービス産業が著しく成長するから、税体系を変えるべきだった。つまり、税の中心を農民に対する年貢米から、商人や芸人や遊女宿への流通税に変えるべきだった。
 しかし、いつの時代でも、税体系の改革は至難の業だ。商人や芸人は、激しく反対するだろうし、当時は、簿記が幼稚な段階にあったので、所得の捕捉がむずかしかった。宗春は、混乱を呼びそうな税改革を実施しようとしなかった。
 現在の所得税中心の税体系は、勤労者層への税負担が重すぎ、明らかに、社会正義に反している。今後、本格的な高年齢化社会を迎えるに当たって、消費税のウェイトを高めなければ、将来の勤労者の生活は、一層の重税によってひどく圧迫されてしまう。 しかし、消費税の引き上げには激しい反対があって、所得税中心の体系を変えることはできない。歴代の政府はこの課題をずっと果たせないである。税体系の変革は実にむずかしいものだ。
 もう1つの問題は、財政支出の拡大によって、需要不足をカバーしようと考えたのは正しかったが、拡大した財政支出は、宗春や家臣等の華美な消費による支出でなく、消費財産業の供給を拡大し、また生産性を向上させるため投資的支出に向けるべきだった。 そうすれば、工事で働く人夫が増え、彼らの消費は増えただろう。また、工事に使う道具や材料に対する需要も増えたはずだ。それは、需要不足をカバーする役割を果たしただけでなく、消費財価格を引き下げるという効果を持っていた。
 しかし、財政支出をこうした投資に向けるために、消費財産業の調査研究をする必要があった。また、藩当局は、なぜ、消費財産業異だけを育成しようとするのか、という理論づけを用意する必要があった。華美な生活をして、楽しく過ごしているのでは、こういう地道な仕事はできない。
 考えてみれば、大名以下、家臣が率先して華美な生活をし、歌舞伎音曲の類に浮かれて、藩民がそれを見習うといった状態で、経済が発展し、藩の財政が豊かになるほど、世の中はうまくできていない。常識で考えても、それは無理だろうぐらいの見当がつく。
 レーガン大統領は、アメリカの財政赤字を大きくした犯人だ。彼は、カリフォルニア大学のラッファー教授の学説を信じ込んでしまった。ラッファー説は、「大幅な減税を実施すれば、税収が増え、財政赤字は減る」という手品のような理論である。 減税をすれば、税引後の個人所得が増え、それにともなって、消費が拡大する。消費の拡大と共に、経済は活況になり、個人の所得が増加し、税収が増えるというものである。
 もちろん、こんなうまい話があるわけはない。アメリカの財政赤字は、大幅減税と共にぐんぐん拡大した。
 宗春は、大変気のやさしいヒューマニストだった。当時、心中は極端に嫌われた。吉宗は、とくにそれを嫌い、もし片方が生き残ったときには、殺人罪を適用して死刑にし、未遂の場合は、3日間、町でさらしものにした後、非人にするという法がつくられていた。 しかし宗春は、心中未遂の若い男女を3日間さらしものしした後、結婚を認めるという人情味あふれる判決を下した。
 その上、かれは「上の華美は、下を助け、経済を繁栄させる」と信ずるほどの空想主義者だから、吉宗の冷たい経済政策に反抗的な姿勢を示し続けた。ヒューマニストや空想主義者は、政治家として、不適格だ。政治家が甘い理論のとりこになった時には、必ず国が乱れる。 尾張藩の財政赤字が拡大すると共に、かれは家臣の信頼も失ってしまった。吉宗は、その機をとらえて、宗春に蟄居謹慎を命じた。宗春は、元文4(1764)年に死ぬまで、25年間、尾州の麹町屋敷から1歩も外に出ることなく過ごした。
 名古屋は現在も芸どころであって、長唄や常磐津を好み、習う人が多い。それは、宗春の影響だと考えられるが、宗春は罪人になったため、名古屋の多くの人は、彼の名前も忘れてしまっている。 (『歴史の智恵・経済のヒント』から
(^_^)                  (^_^)                   (^_^)
<徳川宗春モルモット論>  宗春の試みは失敗した。本人はどのように考えていたのだろう。いつ頃から失敗だったと気づいたのだろう。それは、現時点では単に推測の域を出ることはない。ハッキリ断言できる資料はない。小説家の力を借りるより他はない。
 今ではハッキリしている結果だけを評価するしかない。その評価がまちまちだ。「英傑・徳川宗春の挑戦」との捉え方もあれば「ケインズ政策の失敗」との捉え方もある。TANAKAの見方はハッキリしている。宗春モルモット論だ。江戸時代、それも「贅沢は敵だ」の吉宗の時代に「贅沢は素敵だ」の政治を行ったのだから、今考えれば成功する筈がなかった。 バーナード・マンデビル(1670-1733)の「蜂の寓話」も、ヴェルナー・ゾンバルト(1863-1941)の「恋愛と贅沢と資本主義」も、ソースタイン・ヴェブレン(1670-1733)「有閑階級の論理」も知らなかった時代、家来さえついて来られず挫折した宗春、しかし、「宗春モルモット」として捉えると21世紀の日本人に考えさせる多くのものを残した。ただ、それを感じない人もいる。 簡単に「失敗」と結論を出すエコノミストもいる。吉宗の享保改革を<新規製造物禁止令>という歴史家があまり問題にしなかった点から切り込んだ、歴史家業界の新規参入者がいて、日本の歴史も面白くなる。宗春に関しても、歴史家業界とは異業種からの参入者が面白い見方を披露してくれるといいなァ、とTANAKAは期待するのだが………。
 このようなことを考えることがある。高い山に登る。遠くを見渡すと、そこよりも低い山の頂上が目に入る、しかし、そこよりも高い山の頂上がどうなっているのかは分からない。評論家が庶民感覚を大切にするのはいい。しかしそれだけではそれぞれの分野における天才を評価することはできない。庶民感覚だけでは金持心理は理解できない。常識を心得ているのはいい、しかし、それだけでは宗春のような型破りの政治を評価することはできない。 かつて大宅壮一はソニーがトランジスタラジオで注目され始めた1960年代、週刊朝日の「日本の企業」に東芝を取り上げ執筆した中で、「ソニー・モルモット論」を展開した。
 「トランジスタでは、ソニーがトップメーカーだったが、現在ではここでも東芝がトップに立ち、生産高はソニーの2倍半近くに達している。つまり、儲かるとわかれば必要な資金をどしどし投じられるところに東芝の強みがあるわけで、何のことはない、ソニーは、東芝のためにモルモット的役割を果たしたことになる」と。
 しかし後年、井深太は「ソニー・モルモット論」に対し、以下のように語っている。
 「私共の電子工業では常に新しいことを、どう製品に結びつけていくかということが、一つの大きな仕事であり、常に変化していくものを追いかけていくということは、当たり前である。決まった仕事を、決まったようにやるということは、時代遅れと考えなくてはならない。ゼロから出発して、産業と成りうるものが、いくらでも転がっているのだ。これはつまり商品化に対するモルモット精神を上手に活かしていけば、いくらでの新しい仕事ができてくるということだ。トランジスタについても、アメリカをはじめヨーロッパ各国が、消費者用のラジオなど見向きもしなかった時に、ソニーを先頭に、日本の製造業者全部がこのラジオの製造に乗り出した。これが今日、日本のラジオが世界に幅をきかせている一番大きな原因である。これが即ち、消費者に対する種々の商品をこしらえるモルモット精神の勝利である。  トランジスタの使い道は、まだまだ我々の生活の周りにたくさん残っているのではないか。それを一つひとつ開拓して商品にしていくのがモルモット精神だとすると、モルモット精神もまた良きかなと言わざるを得ないのではないか」
 大宅壮一でさえ、当時はモルモット・ソニーがこれほどまでに成長するとは予測していなかった。現代の評論家でも宗春をキチンと評価できる人はいないかもしれない。 バーナード・マンデヴィル、ヴェルナー・ゾンバルト、ソースティン・ヴェブレンがあまり話題にならず、ケインズに比べハイエクが話題にならない日本では、宗春の政策を経済学的に評価するのは難しいのだろう。アマチュアエコノミストとしては正しく評価することはできなくても、せめて話題提供ぐらいはできたのではないかと、と自負しています。 歴史家業界・エコノミスト業界とは違う、異業種からの参入者が面白い見方を披露してくれるといいなァ、とTANAKAは期待しています………。
<主な参考文献・引用文献>
徳川吉春 尾張宰相の深謀                      加来耕三 毎日新聞社     1995. 6.25
日本の歴史 17町人の実力                    奈良本辰也 中央公論社     1966. 6.15
歴史の智恵・経済のヒント                       竹内宏 PHP研究所    1994.11. 4 
( 2005年11月21日 TANAKA1942b )
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(50)倹約と贅沢を総括する
ゾンバルト以上に資本主義的であった

<奢侈からの資本主義誕生> このシリーズ”趣味の贅沢と市場経済”はヴェルナー・ゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』からヒントを得て書いてきた。そこでシリーズ最終回の今回は『恋愛と贅沢と資本主義』とそれに似た書物などから引用することにした。 1冊の本を短い文章で紹介するのは難しい。ここでは、一部を引用して文章の感じを味わってもらって、関心を持ったら1冊全部読んで頂きましょう。そのきっかけにでもなれば、と思い引用することにした。
*               *                *
 私が本章で展開しようと思う問題、すなわち奢侈は資本主義の発展にとってどんな意味をもっていたかということ、換言すれば、奢侈によって、あるいは奢侈を通じて、資本主義の歩みはうながされたかどうかという問題は、理論家、実際家を問わず、17、18世紀の経済学者の間できわめて熱心に論議された。 この問題は、ある意味で、そのまわりに他のすべての経済ならびに政治上の問題を集める中核てき問題であり、今日ではさしずめ「農業国か、それとも工業国か」といった問題に匹敵する重要なものである。 17,18世紀では、資本主義という言葉は用いられず、それぞれ思い思いに、興業、製造業、富などといわれていた。だが、事柄そのものについては、意見の一致が見られた。そして、奢侈とはその頃発生の途上にあった経済形式であり、資本主義的な経済形式の発展をうながすものであることが認められた。 そのため経済的進歩主義を称える者すべて、奢侈を歓迎した。彼らは極端に査知った奢侈消費は資本形成を中断するものではないかと恐れただけで、アダム・スミスと同様に、必要な資本の再生産と蓄積を確実ならしめるためには、倹約家たちがすでに大勢いるはずと信じては、おのが心を安んじさせたものだ。
 各国政府は、奢侈を奨励する奉公で施策をくりひろげた。
 17世紀を通じ、すみやかな歩みで資本主義が発展した国々では、贅沢禁止令が消滅していった。
 一定の奢侈支出、たとえばある種の美味な食事をとることを禁じることを含む”衣服令”は、イギリスで1621年廃止された。フランスでは食物の贅沢に関する最後の禁止令が出たのは1621年のことである。 それでも1644年および1672年に、贅沢の目的のために貴金属を過度に使用することが禁ぜられた(もっとも、これはもともと貨幣政策を考慮して行われたものだ)。1656年には50リーヴルを上回る(ビーヴァー皮の)帽子の禁令が出ており、1708年にはフランス最後の衣服に関する法律が発せられた。 それ以後支配層は、(資本主義的工業の利益にとっての)奢侈支出の必要性を確信、文壇のリーダーたちも奢侈礼賛に傾いた。(もっとも、後になるとルソー主義者の反対運動が起こる)彼らがなぜ奢侈を評価したかというと、それはまず、奢侈が市場形成の力をもっていたからである。
 モンテスキューは言っている。
「王国では奢侈はなくてはならぬ。もし富者が贅沢のために消費をあまりしなくなると、貧乏人は飢えてしまうだろう」
 (初期)資本主義の発展にとって、奢侈がどんな意味があったかについてのいくつかのきわめてセンスのある考え方は、『商業にしたがう貴族』に関するアベ・コワイエの含蓄ある第2の書の中に見出される。
「奢侈は暖め、燃焼する火に似ている。奢侈が富裕な人々の屋敷を飲み込むとき、奢侈は商売に活を入れてくれる。奢侈が道楽者の財産を吸収するとき、奢侈は労働者を養ってくれる。奢侈は、少数者の富を減少させるが、その反面、大衆の収入を何倍にもしてくれるのだ。 もし、リヨンの布地、黄金製品、絨緞、レース、鏡、宝石、馬車、優雅な家具、贅沢な机などが軽蔑されることにでもなれば、何百万本の無為の手が硬直することは明らかだ。そのとき同時に聞こえてくるのは、パンを求める叫び声である……」
 フランスには奢侈についての文献が数多くある。そのなかの奢侈を歓迎する文献のうちでもとくにすぐれているのは、『奢侈に関する理論、あるいは、奢侈は国家の福祉にとってたんに有益であるばかりでなく、不可欠の必要事であることを証明せんとする試みについての論文』 (2巻、1771年)である。この書物は『世俗』の中のヴォルテールの言葉「豊饒は最高の必要事なり」をモットーとしてかかげているが、著者は頭のよいユダヤ人のピントである。
 奢侈はたしかに害悪であるけれども、産業を促進することによって全体には利益をもたらすものであるという考え方は、イギリスにも広まっていた。「消費の悪徳は、個人にとって害はあるが商業にとってはそうは言えない」倫理的色彩の強いディヴィッド・ヒュームさえ次のような結論に達した。 すなわち、よい奢侈はよい。悪い奢侈はたしかに悪徳ではあるけれども、悪い奢侈がなくなれば、おそらくその代わりに登場するであろう怠情とくらべれば、はるかにすぐれていると言うのだ。 この考えは、社会哲学組織の一形式として、バーナード・マンデヴィルによって「蜜蜂の詩」の中に表現された。彼が奢侈を称えた詩句は次のとおりである。
  おそるべき悪徳、これ以上呪われ
  憎まれるべきもののない吝嗇(りんしょく)は、
  あの高貴ある罪、浪費の奴隷だ。
  奢侈は何百万もの貧しい人々を
  養うことに役立だっている。だが、
  かの不思議なる華美を誇る心根は
  さらに百万もの人々をとらえている。
  羨望と虚栄が産業を振わせる。
  つねに嘲笑され驚嘆されているが、
  衣裳、住居その他もろもろの事柄で、
  流行におくれまいとする欲望は、
  商業の真の原動力である。 (『恋愛と贅沢と資本主義』から)
(^_^)                  (^_^)                   (^_^)
<蜂の寓話─私悪すなわち公益> ゾンバルトも引用した『蜜蜂の詩』、一般的には『蜂の寓話』として翻訳されている。その一部、初めの方を引用しよう。
*               *                *
ブンブンうなる蜂の巣──悪者が正直者になる話── 
あるひろびろとした蜂の巣があって
奢侈と安楽に暮らす蜂でいっぱいだった。
けれども法律や武力で名高いことは
蜂の大群を早く生むことと同じだった。
その蜂の巣は学術や精励の
偉大な育成所と考えられていた。
そこの蜂ほどりっぱな政治に恵まれ
気まぐれで満足しがたいものはなかった。
彼らは暴政の奴隷でないばかりか
野放しの民主主義の統治下にもなく、
法律で権力が制限されているので
悪事ができない国王のもとにあった。

 この虫けらどもは人間なみの生活をし
小規模ながら人間の行為とそっくりで、
町で行われるあらゆることから
軍人とか学者の職務まではたしていた。
ただすばやくて微小な手足のため
巧みな仕事ぶりは人目につかなかった。
しかし人間の器械にも労働者にも
船舶にも城塞にも武器にも細工人にも
技芸にも学術にも仕事場にも道具にも
相当するものがみなそこにあった。
でも蜂の言葉がわからないので
人間の呼び方によらねばならない。
ないものはいろいろあり
骰子もその一つだったにせよ、
国王があって近衛兵がついていたから
博奕はやったとするのが正しかろう。
ただしそんなことはぜんぜんしない
兵士の連隊を見せてくれれば話は別だ。

 蜂の大群が多産の巣にむらがり
かえってそのために繁栄していた。 
おたがいの渇望と虚栄とを
満たそうとして何百万もが努力し、
他方さらに何百万もも死後は
製作物の破損をめざすことであった。
彼らは世界の半分を供給すうるだけなのに
仕事に労働者が追いつかなかった。
莫大な資本でほとんど苦労もなく
利益の大きい事業に飛び込んだ者もいた。
またある者はのろわしい大鎌や鍬や
すべてひどく骨の折れる商売が定めで、
哀れな連中が毎日すすんで汗を流し
食うために体力と手足を使いつくすのだ。
かと思うとある者がやっていた商売は
ほとんどだれも徒弟に出さないもので、
資本はいらず鉄面皮なだけでよくて
十字印ついた貨幣をかけずにはじめられ、
詐欺師や食客や女衒や博奕打ちや
掏摸や贋金づくりや薮医者や占い師や、
まっすぐ働くことをひどくきらい
人がよくてうかつな隣人のの路ウドを
自分たちのために役立たせようとし
こうかつに細工をほどこす手合いどもだ。
こんな連中が悪者と呼ばれたのだが
名前のほかは堅気の者も変わりなかった。
詐欺を知らない商売や地位はなくて
いかなる天職にも欺瞞があったのだ。

この後は次のように続いていく
弁護士は、いつも事件をこじらせ仕事を増やす………
医者は名声や富を重んじ患者の健康は後回し………
僧侶の中には博学で雄弁な者も少しはいたが、あとは無学で怠情や色欲や強欲や自負を隠した………
戦を強いられた兵士たちは、生き残るとそれで名誉を獲得した………
大臣たちは国王に仕えていたが、悪者よろしく詐欺を働いた………
公正なことで名高い正義の女神さえ、目隠しはしても感情はそのままだった………
かように各部分は悪徳に満ちていたが
全部そろえばまさに天国であった

こうして悪徳は巧妙さをはぐくみ
それが時間と精励と結びついて、
たいへんな程度にまで生活の便益や
まことの快楽や慰安や安楽を高め、
おかげで貧乏人の生活でさえ
以前の金持ちよりよくなって
足りないものはもうなかった。 (『蜂の寓話』から)
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顕示的消費─Conspicuous Consumption> 経済でも主流から外れるとセンスが違ってくる。「これで経済学と言えるのか?」と言いたくなるようなものもある。そうした変わった経済学の中でも、かなり変わっているのがこの『有閑階級の論理』だ。それでも視野狭窄にならないために、こうした本も読んでおく必要はあるだろうと思う。
*               *                *
 代行的な有閑階級の進化と一般的な労働者集団からの分化について論じたときに、そのいっそうの分業──すなわち、さまざまな使用人の間での分業──について言及しておいた。 代行的閑暇を主要な仕事にしている一部の使用人階級は、新しい副次的な領域の義務──財の代行的消費──を行うようになる。このような消費の最も明瞭な形態は、制服の着用や広々とした使用人部屋の専有に見ることができる。 多少不明瞭で効果も劣る形態の代行的消費でずっと広まっているものとしては、貴婦人と居住世帯の他の人々によってなされる食料、衣服、住居、および家具の消費がある。
 だが、貴婦人の登場よりもはるか以前の経済進化の時点で、金銭的能力の証拠としての財貨の特別な消費が、多少とも洗練された体系になり初めていた。消費における差別化の開始は、金銭的能力と読んで差支えないものより先んじていた可能性さえある。 それは略奪分化段階の初期までさかのぼることができるものであり、この側面における当初の差別化は、略奪的な生活の開始と踵(きびす)を接した出来事であるという推測さえ成り立つだろう。 財の消費の生じるこの最も原始的な差別化は、大部分儀式的な性格のものである点で、われわれがよく見慣れている後の時代の差別化に似ているが、蓄積された富に依拠していない点で、それとは異なっている。 富の証拠としての消費の効用は、派生的な発展に分類されるべきものである。それは以前から存在し、人間の思考習慣のなかにきちんと組こまれていた区別が、淘汰的な過程をへて、新しい目的へと適応したものである。
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 価値の高い財の顕示的消費は、有閑紳士が名声を獲得するための手段である。彼の手元に富が蓄積されてくると、彼自身の努力だけでは豊かさを十分に証明できなくなってくる。 こうして友人や競争相手の助力を得て、高価な贈り物や贅を尽くした祝祭や宴会を提供するという手段が活用される。贈り物や宴会は、おそらく馬鹿正直な誇示(オステンテーション=ostentation)とは異なった起源をもっていたはずだが、これがこの目的に役立つようになったのはきわめて早い時期のことで、しかも現代にいたるまでその性質を保ち続けている。 したがってその効用は、いまやこの点に関するかぎり、こうした慣例の実質的な基礎としての役割を長期担ってきたことになる。 たとえばポトラッチ{北米西岸のインディアンの間で、財力を誇示するためになされる贈答の儀式}や舞踏会といった贅を尽くした宴会が、とくにこの目的にかなったものとして利用される。 この場合には、主催者が比較を試みようとする当の相手方が、目的達成のための手段として利用されている。競争相手は、招待主のための代行的消費の実行者であると同時に、招待主だけではとても処分しきれない多量の立派なものの消費の目撃者であり、こうして彼はまた、招待主の社交儀礼の力量をしっかり見せつけられるわけである。
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 高度に組織化されたあらゆる産業社会では、立派な評判を得るための基礎は、究極的に金銭的な力に依存してある。金銭的な力を示し、高名を獲得したり維持したりする手段が、閑暇であり、財の顕示的消費なのである。 したがって、実行可能な最下層まで、この2つの手段が流行する。これを採用する最下層の人々の間では、2つの職務の大部分は、妻と同一家計内の子供たちに委嘱される。 妻が見せかけの閑暇さえ実行できないさらに低い階層では、財の顕示的消費だけが残り、しかも、妻と子供たちによって実行されることになる。過程をもつ男はこの奉公にそって消費の一端を担うことができるし、実際に、ふつうはそうしている。 しかし、さらに下の赤貧にあえぐ人々の階層──スラム街すれすれのところの階層──の場合には、男だけでなく、まもなく子供たちも、事実上見栄(アピアランス=appearance)を保つのに役だつ財の消費を停止することになり、実質的に、女が家庭の金銭的な体面(ディーセンシー=decency)の唯一の象徴になってしまう。 どの社会階層に属する人々であっても、たとえ赤貧極まりない人々の場合であっても、習慣的な顕示的消費のすべてを捨て去りはしない。この部類に属する消費の最後のものが放棄されるのは、抜き差しならない必要に迫られたときだけである。 最後の装身具あるいは金銭的体面の最後の真似事が投げ捨てられるまでには、むさくるしさや不快さなどが限りなく堪え忍ばれる。このような高級ないし精神的な必要物の充足を完全に放棄するほど肉体的な欲求の圧力に屈してしまった階級や国家など、決して存在しなかった。 (『有閑階級の論理』から)
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<信仰と社会層分化> 真面目なプロテスタントが資本主義を発展させた、という考えで書かれたのがマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』だ。今日「日本が経済発展したのは真面目な儒教思想の影響だ」と言うのも同じ様な考え方で、それは『恋愛と贅沢と資本主義』の対極にある考えといって良いだろう。 そこで、ここでは「趣味と贅沢と市場経済」の締めくくりとして、対極にある『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を取り上げてみよう。
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 さまざまな種類の信仰が混在している地方の職業統計に目をとおすと、通常つぎのような現象が見出される。それはドイツ・カトリック派会議の席上や同派の新聞、文献の中でたびたび論議されていることだが、近代的企業における資本所有や企業家についてみても、あるいはまた上層の熟練労働者層、とくに技術的あるいは商人的訓練のもとに教育された従業者たちについてみても、 彼らがいちじるしくプロテスタント的色彩を帯びているという現象だ。この現象は、たとえば東部ドイツにおけるドイツ人とポーランド人の間のように信仰の種類が国籍の区分と一致し、したがって文化の発達程度とも一致しているような地方で見られるだけではない。 およそ資本主義の発展期に、その結果として、住民たちの間に社会層分化が生じた地方ではいたるところ──この分化が激しければ激しいほど明白に──信仰統計の数字をとおして明らかに見出される。
 このように近代の大商工企業における資本所有や経営、それから高級労働にかかわりをもつプロテスタントの数が相対的にきわめて大きいということ、換言すれば、それらに参加しているプロテスタントの数が総人口におけるプロテスタントの比率よりも大きいということは、 ある点まで、古い過去の時代に発した歴史的な理由によるものと見ることができる。もちろんその場合、信仰上の所属問題は、経済現象の原因ではなくて、ある程度までその結果と考えねばならないだろう。そうした経済的職能に携わることは、あるいは資本所有、あるいは巨費を必要とする教育、またたいていの場合この両者を必要条件としており、 したがって今日では遺産の所有者か、あるいはある程度富裕な人でなければそれに携わることが不可能となっている。しかし、すでに、16世紀のドイツでもプロテスタンティズムに帰依したのは、まさしく多数のきわめて富裕な、自然や交通事情に恵まれた、経済的に発達した地方、とりわけ無数の富裕な都市だった。 そして、そのことの余波は今日になっても経済上の生存競争でプロテスタントの立場を有利にしている。
 ところがこの場合、歴史的にみると、次のような疑問が生じてくる。すなわち、このように経済的に発展した書地方がとくに宗教上の革命を受け入れるべき素質を強くもっていたのは、どういう理由によるだろうか、と。 この疑問への答えは一見簡単なようだが、決してそうではない。たしかに経済上の伝統主義から脱却したということが、宗教上の伝統にも懐疑をいだかせ、伝統的権威に対する反抗を力づける原因になったというふうに考えることもできよう。しかしこの点については、今日忘れられがちな一つの事実に留意しなければならない。 それはほかでもなく、宗教改革が人間生活に対する教会の支配を排除したのではなくて、むしろ従来のとは別の形態による支配にかえただけだ、ということだ。 しかも従来の形態による宗教の支配がきわめて楽な、当時の実際生活ではほとんど気付かれないほどの、多くの場合にはほとんど形式に過ぎないものだったのに反して、新しくもたらされたものは、およそ考えうるかぎり家庭生活と公的生活の全体にわたっておそろしくきびしく、また厄介な規律を要求するものだったのだ。
 今日、いちじるしく近代経済の相貌を呈している国民でも、カトリック教会の支配──かつては今日以上に「罪人は憐れみ異端を罰する」ものだった──に服することに少しも困難を感じていないように、15世紀の末葉、当時もっとも富裕で経済的に発達していた地方の人々も、同じカトリック教会の支配に服することに困難を感じていなかった。 カルヴァニズムは16世紀にはジュネーブとスコットランドを支配し、16世紀末から17世紀にかけてはネーデルランドの大部分を、17世紀にはニューイングランドと、一時はイギリス本国も支配した。が、こうしたカルヴァニズムの支配は、今日のわれわれには、およそ個人に対する教会の統制の形態のなかでもっとも耐え難いものだろう。 その当時も、ジュネーブやオランダ、イギリスにおける古い都市貴族の広汎な層にとっては、カルヴァニズムは同じように耐えがたいものと感じられた。じじつ、当時経済的発展が進んでいた諸地方の宗教改革者たちが熱心に非難したのは、人々の生活に対する宗教と教会の支配が多すぎるということではなくて、むしろそれが少なすぎるということだった。 そうだとすれば、経済的発展の進んだ国々の人々、しかも、のちに見るように、その内部ではとくに当時経済生活において興隆しつつあった市民的中産階級がピューリタニズムの、かつてその比をみないほどの専制的支配を受け入れたのは、いったいなぜだったのか。 そかも、彼らが単にいやいやながらというのではなく、それを擁護するために、カーライルが "the last of our heroisms" (わが英雄主義の最後のもの)といったのが誤りでないように、市民的階級そのものにとってほとんど空前絶後ともいうべき英雄行動を示したのは、いったいなぜだったのか。 (『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』から)
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<江戸豪商の顕示的消費> 元禄時代江戸に豪商が誕生した。代表的な豪商として、紀伊国屋文左衛門、奈良屋茂左衛門がよく知られている。彼らについては幕府と癒着した政商として、あるいは幕臣への賄賂、あるいは江戸での派手な散財が取り上げられる。 そのなかで散財は江戸の市場経済を刺激にたであろうことは容易に想像できる。その散財についてつぎのような文が目に付いたのでここに引用しよう。
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 紀文も奈良茂も、まさにこの元禄時代の潮流にあざやかに乗って、短時日の間に江戸の超一流の豪商にのしあがった。
 特権階級──賄賂──役人(政治家)、という三題噺は、いつの世にも通用するようだ。ことに、官営の土木事業がさかんであった元徳時代には、新井白石も指摘しているように、請け負いの利権を獲得しようと暗躍する材木商人と、彼らと結託して私腹を肥やそうとする賄賂役人の横行が顕著であった。
 一攫千金をめざす投機的材木商人にとっては、絶えず新たな利権の獲得を意図して、自己を宣伝しておく必要があった。たとえ少々背伸びしてでも、金を湯水のごとく遊び捨てることによって、財力のあるところを誇示し、自分とむすんだ役人には、賄賂をたんまり出すぞと暗示しておく必要があった。 吉原は自己宣伝と役人饗応の場として、恰好の場所であった。才智にたけた紀文や奈良茂のことである、ただ無目的に、ばかな豪遊をしたわけではない。
 しかし元禄期をすぎるころから、濫伐による山林の荒廃が顕著となり、また城下町の建設も一段落するなど、商品としての材木が需要・供給両面ともに悪化したため、材木商たちはつぎつぎに転・廃業を余儀なくされた。
 とくに不正役人を退け、諸事緊縮を旨とする新井白石の「正徳の治」の展開は、彼ら特権商人にとっては致命的であった。しかも元禄の貨幣改鋳によるインフレ経済時代から、正徳・享保の良質貨幣鋳造のデフレ経済時代を迎え、もはや一攫千金は昔日の夢と化した。
 紀伊国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門の盛衰は、いずれも政権の交代と軌を一にしていた。その意味で2人は政商であった。地道で堅実な商人道からみれば、それは元禄の夜空をいろどる一瞬の花火にも似た、はかない存在であったといえよう。 (『大系日本の歴史10』から)
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<最後までつき合って頂き、ありがとうございました> 『資本主義は江戸で生まれた』という見方がある。『恋愛と贅沢と資本主義』は恋愛と贅沢が資本主義を発展させた、という見方もある。江戸時代の『貧農史観を見直す』と言う人もいる。 「素人歴史家は楽天的である」と言う人もいる。そんなようなイメージが重なり合ってこのシリーズ「趣味の贅沢と資本主義」が始まった。約1年間取り組んでみて、江戸時代に対するイメージが前以上にハッキリしてきた。 「一握りの特権階級である武士に人々は虐げられ、反抗する力さえ奪われていた」と言ったような見方は間違っている。現代に比べれば、生産技術も、それを生かす経済学というソフトパワーも、医療も、未熟であった。けれどもそれなりに人々は幸せを求めて努力していた。 そして、贅沢を楽しむ心の余裕さえ持っていた。そのように考えるのが自然だと思うようになった。
 今回取り上げた「絹」「衣裳道楽」「伊達くらべ」「お伊勢参り」「園芸」など、これがなくては生活できないというものではない。つまり、贅沢だ。なくても困らない物にお金を使う、「バブルとはそういうものだ」と言えば、その贅沢が発展させる資本主義はしょせんバブルなのかも知れない。 バブルを嫌って質素・倹約に徹すれば徳川吉宗の享保改革になる。江戸時代の改革とは反資本主義の運動だったのだろう。生産技術、それを生かすソフトパワーが発達し、幕藩体制が危うくなって、そのため歴史を逆回転させようとしたのが江戸時代の改革であった。 しっかりした理論創りまでには至らなかったにせよ、宗春は直観的に歴史の流れを感じていたのだと思う。これはセンスの問題だ。
 1年間も続いてのだから、何か気の利いた文章を、締めに相応しい文章をと思っていたのだが、まとまりのない最終回になってしまった。それでも当人は今まで知らなかった事をいっぱい発見できたので、けっこう自己満足に浸っています。
 それにしてもアマチュアの試行錯誤の文章に最後までつき合って頂き、感謝しています。本当にありがとうございました。
<主な参考文献・引用文献>
吉宗と享保改革 江戸をリストラした将軍              大石慎三郎 日本経済新聞社   1994. 9.21
国史大系45 徳川実紀第8篇                    黒板勝美 吉川弘文館     1965.11.30
国史大系49 続徳川実紀第2篇                   黒板勝美 吉川弘文館     1966. 9.30
歴史探索 徳川宗春 なめたらいかんて、名古屋城       舟橋武志 ブックショップ「マイタウン」1995. 4. 1 
吉宗と享保の改革 教養の日本史                    大石学 東京堂出版     2001. 9.28
大系日本の歴史10                          竹内誠 小学館ライブラリー 1993. 4.20
江戸の財政再建                            井門寛 中公文庫      2000.12.20
日本史再発見 理系の視点から                    板倉聖宣 朝日新聞社     1993. 6.25 
江戸を駆ける(尾張六十五万石の意地徳川宗春)            神坂次郎 中央公論社     1986.10.25
日本庶民生活史料集成15巻 都市風俗 遊女濃安都          谷川健一 三一書房      1971. 8.20
吉宗と享保改革 江戸をリストラした将軍              大石慎三郎 日本経済新聞社   1994. 9.21
名古屋叢書第1巻 文教編 温知政要           名古屋市教育委員会編・発行        1960.10.30
吉宗と宗春                           海音寺潮五郎 文春文庫      1995. 4.10 
藩史大事典 第4巻中部編U 東海                  木村礎他 雄山閣       1989. 1.20 
徳川吉春 尾張宰相の深謀                      加来耕三 毎日新聞社     1995. 6.25
日本の歴史 17町人の実力                    奈良本辰也 中央公論社     1966. 6.15
歴史の智恵・経済のヒント                       竹内宏 PHP研究所    1994.11. 4 
恋愛と贅沢と資本主義           ヴェルナー・ゾンバルト 金森誠也訳 講談社学術文庫   2000. 8.10 
蜂の寓話──私悪すなわち公益         バーナード・マンデル 泉谷治訳 法政大学出版会   1985. 6.24 
有閑階級の理論              ソースティン・ヴェブレン 高哲男訳 ちくま学芸文庫   1998. 3.10 
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 マックス・ヴェーバー 大塚久雄訳 ワイド版岩波文庫  1991.12. 5