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「白菊の」の巻、解説
元禄七年九月二十七日、園女亭興行

ゆきゆき亭 こやん


     参考;『校本 芭蕉全集 第五巻』1988、富士見書房


初表

発句

 白菊しらぎくたてちりもなし    芭蕉ばせを

 芭蕉が没したのは、この半月後の10月12日で、この大阪の園女そのめ亭での興行は芭蕉にとって最後の俳諧興行となった。芭蕉の病気が何だったかは定かではないが、一説には大腸癌だったともいう。既に歩くことも困難になり、おそらくは骨と皮だけになったかのように痩せ細り、そんな中でおそらく弟子たちに体を支えてもらいながら、やっとのことで興行の席についたのだろう。芭蕉を含め、九人の連衆が集まり、なかなか賑やかな会となった。
 発句は、亭主の園女を美しく清楚な白菊の花にたとえ、「眼に立て見る塵もなし」と、あえてあら探しはしないことにしようと、冗談を交えて挨拶としたものだ。ただ、この句は一ヶ月前の嵯峨野で詠んだ、

 大井川浪に塵なし夏の月   芭蕉

の句とかぶっていた。後、10月9日に各務支考かがみしこうを呼んで、大井川の句を、

 清滝きよたきや波に散り込む青松葉あおまつば   芭蕉

と直すように指示している。これが、芭蕉の最後の句となった。ただ、これは改作ということで、その一日前に詠んだ、

    病中吟
 旅にんで夢は枯野かれのをかけめぐる   芭蕉

の句が、一般には芭蕉の絶筆としてよく知られている。

「白菊」は秋。草類。

    白菊しらぎくたてちりもなし
 紅葉もみぢみづながすあさつき    その

 (白菊しらぎくたてちりもなし紅葉もみぢみづながすあさつき

 発句はゲストの挨拶で、ここでは芭蕉が詠み、脇はホストの挨拶ということで、ここでは園女そのめが付ける。発句の挨拶の心を受けて、それへの返礼となる。自分のことを清楚な白菊に例えた前句の心を受けて、いえ、そんないいものではありません。この紅葉の季節に朝早く起きて、白んだ月を見ながら流し場で働く、普通の女です、と返す。
 昔は台所のことを流し場と言ったが、流し場の句というと、

 鴬に手もと休めむながしもと   智月ちげつ

という句もある。男の場合、たいていは仕事のオン・オフがはっきりとしているから、俳諧は仕事を離れた立場から詠むことが多いし、風雅に仕事を持ち込むのは野暮という感覚もあるが、女性の場合、多くは家事や育児といったオン・オフの境のない仕事を二十四時間やっているため、風雅はそのほんの合間の一瞬にすぎない。まして、そうそう自由に旅ができるわけでもない。そうした中から生まれる風雅を確立したという点では、羽紅うこう、智月、園女といった人たちを忘れることはできない。蕉門十哲というとたいてい男ばかりが選ばれているが、すぐれた女性作者を生んだことも、蕉門の一つの功績だった。
 発句が秋のため、月の定座にこだわらず、発句から秋の句が三句続くうちに早めに繰り上げて出すのが普通。脇に月を出すのも、何ら特別なことではない。考えてみれば、発句で月を詠んでもいいのだから、これは当然といえよう。「あさ月」は有明ではない。既に日が昇って空が明るくなった後に、ぼんやりと白く見える月のことで、どこか「昼あんどん」みたいな影の薄い、間抜けな感じもある。ここでは園女がへりくだって、自分もあんな月のようなものです、という意味が込められている。

「紅葉」は秋。植物。「あさ月」も秋で、天象てんしょう中世連歌ちゅうせいれんがでいう「光物ひかりもの」に相当そうとうする)。ただし、「あさ」であるため、夜分にはならない。「水」は水辺。

第三

    紅葉もみぢみづながすあさつき
 冷々ひやひやたい片身かたみ折曲をりわけて      之道しだう

 (冷々ひやひやたい片身かたみ折曲をりわけ紅葉もみぢみづながすあさつき

 之道しどう諷竹ふうちくともいう。本によっては諷竹となっている。前句を台所の主婦ではなく、魚屋や料理人などに取り成し、鮮やかに鯛をさばいてみせる姿とする。「紅葉」の赤に「鯛」の赤と響くものがある。

「冷々」は秋。「鯛」は水辺。

四句目

    冷々ひやひやたい片身かたみ折曲をりわけ
 ンにもせずにとし暮行くれゆく   一有いちう

 (冷々ひやひやたい片身かたみ折曲をりわけンにもせずにとし暮行くれゆく

 一有いちうはその女の夫。俳諧の腕の方は園女の方が上で、ここでも園女が一座のホスト役を引き受けて脇を詠み、一有は四句目となっている。一流の料理人がついているため、正月の準備など何もせずにのんびりと年が暮れてゆくという、なかなかいい身分の人の句とする。「ンにも」と「ン」を入れることで、口語的なリズムを出している。大阪ではこういう体が好まれたか、古池の句も関西で発表されたときは「古池や蛙飛ンだる水の音」だった。
 「て」止めの場合は、「朝月に」に「鯛の片身を折曲て」というふうに、下句を一首の倒置とみなして付けることもできれば、「鯛の片身を折曲て」に「年は暮行く」とストレートに付けることもできる。第三に「て」止めが多用されるのは、多分にこの法則を知っていれば、楽に句を展開することが出来るからだろう。「て」止めにくらべると稀ではあるが、第三は「て」止めか「らん」止めがいいとされている。「らん」の場合も、疑問にも反語にも取れるため、やはり取り成しがしやすいということで第三に用いられたのだろう。

「年は暮行」は冬。

五句目

    ンにもせずにとし暮行くれゆく
 小襖こぶすま左右ざゆうめいすすびたり     支考しかう

 (小襖こぶすま左右ざゆうめいすすびたりンにもせずにとし暮行くれゆく

 各務支考かがみしこうはこの頃急に頭角を現してきた新進気鋭の作家で、『続猿蓑ぞくさるみの』の撰も任されている。ここでは、前句の「何ンにもせず」を新年に立てた誓いを何もせずにと取り成し、小襖こぶすまに張った誓いも埃をかぶっていると付ける。年の暮れは煤払いの季節だが、それすらやっていない。

無季。「小襖こぶすま」は居所。

六句目

    小襖こぶすま左右ざゆうめいすすびたり
 みやこッて国々くにぐにたび     惟然ゐぜん

 (小襖こぶすま左右ざゆうめいすすびたりみやこッて国々くにぐにたび

 惟然もここに来て頭角を現してきた作者だが、本格的にブレイクするのはもう少し後になる。芭蕉の死後、木魚のような打楽器を作り、風羅器ふうらきと名づけ、古池の句を初めとして、いくつかの芭蕉の句に南無阿弥陀仏なむあみだぶつ南無阿弥陀仏なむあみだぶつと下七七を付けて、歌にして風羅念仏ふうらねんぶつと称して、諸国を吟じて廻ったという。「風羅」は風羅坊という芭蕉の別号からとったもので、『笈の小文』の冒頭に、

  「百骸九竅ひゃくがいきうけうの中に物あり。かりに名付て風羅坊ふうらばうといふ。誠にうすものゝかぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。」

とある。そして、句の方も

 梅の花あかいはあかいはあかいはさ   惟然
 水鳥やむかふの岸へつういつうい     同

のような、「へたうま」とでも言えるような独特な新風を巻き起こす。だが、ここではまだその片鱗はない。
 句の方は、前句の煤にまみれた座右の銘を、旅に出て空き家になったからだと取り成す。「ッて」というところに旅立ったのが春で、桜の花が散るように左遷されたということがほのめかされている。 藤中将実方とうのちゅうじょうさねかたの面影か。

無季。「旅」は羇旅。「都」は居所でも名所でもないと、連歌の式目『応安新式』にある。

初裏

七句目

    みやこッて国々くにぐにたび
 あらたまるはかりぎんをためてる     酒堂しゃだう

 (あらたまるはかりぎんをためてみやこッて国々くにぐにたび

 度量衡の統一というのは、昔から政治の課題ではあったが、たとえ統一しても、秤をコピーしてゆく段階で狂いを生じたりする。そのため、やはり地方によって、物の単位は微妙に違ったりする。畳の大きさなども関東と関西では違うように、昔は銀の重さも地方によってばらつきがあったりしたのだろう。諸国を旅すると、その土地ごとに秤が変わるから、そのつど計りなおさなくてはならない。
 江戸時代の通貨は、金、銀、銭、それに各種の藩札などがそれぞれ変動相場で動いていたため、結構ややこしかった。ただ、うまくやれば利ざやも稼げる。今でいえば、海外旅行のときにその国の通貨のレートを気にするようなものか。都落ちという王朝時代を彷彿させるような前句に、江戸時代のリアルな現実を持ち込んでいる所に俳味がある。
 「ためて」というのは本来弓を射るときなどに弓を引き絞って狙いを定めることで、「矯む」「揉む」という字を当てる。それが転じて、いろいろな角度から凝視することをいう。

無季。

八句目

    あらたまるはかりぎんをためて
 そでふさぐよりおや名代みゃうだい    舎羅しゃら

 (あらたまるはかりぎんをためてそでふさぐよりおや名代みゃうだい

 舎羅しゃらは之道の門人。
 江戸時代の衣服というと、男女身分問わずもっとも一般的だったのは小袖で、本来は中世の仕事着だったが、江戸時代の町人文化が開花するとともに、華美な小袖が流行した。本来小袖は仕事着だから、袖口は細く、手が通るだけのものだったが、服装が華美になるにつれ、袖は大きくなり、振袖へと変化していったが、これは男女とも一般に元服前のいわば未成年の着るものだった。袖をふさぐというのは、そういう意味で元服を表すもので、「名代」は代理ということ。江戸時代は十五くらいで元服すると、完全に大人として認められ、結婚の時期も早かったので、今のティーンエイジャーのような大人でも子供でもない青春の期間はなかった。元服したらたいていは家業を継いで、親の代理として働き、そして、親もまた四十過ぎると息子に代を譲って隠居し、趣味の世界に遊んだ。
 前句の銀を秤にかけて、目を凝らしている姿を、元服してバリバリ働いている両替商か何かに取り成したのだろう。

無季。「袖」は衣装。「親」「名代」は人倫。

九句目

    そでふさぐよりおや名代みゃうだい
 堵越かきごしにちょっとたらひれいいふて    荷中かちゅう

 (堵越かきごしにちょっとたらひれいいふてそでふさぐよりおや名代みゃうだい

 荷中は何中かちゅうのことで、談林系の才麿の門人。 舎羅も何中も大阪の人で、「礼いひて」とすべきところを大阪弁で「礼いふて」としている。俳諧は俗語の文学なので、こうした方言隠語等を嫌うものではない。
 「て」止めは倒置的に用いることができるので、この場合は「親の名代」が「堵越かきごしにちょっとたらひれいいふて」とつながる。こうした日常的な平凡な風景の描写がいかにも大阪談林的といえよう。

無季。「堵(垣)」は居所。五句目の「小襖」から三句隔てている。六句目の「都」は居所ではない。

十句目

    堵越かきごしにちょっとたらひれいいふて
 普請ふしんうち小屋こやたく   芭蕉ばせを

 (堵越かきごしにちょっとたらひれいいふて普請ふしんうち小屋こやたく

 前句が人情味溢れるほのぼのとした句なので、次の句はそれを突き放さなくてはならない。これを「根を切る」という言い方をする人もいる。垣根があるところから、立派なお屋敷とし、その建築工事であれば、大工さんたちが現場に小屋を建てて、そこで火を焚いたりもする。いかにもありそうな理由を付けて展開している。

無季。「小屋」は居所。

十一句目

   普請ふしんうち小屋こやたく
 かへらぬにきはまよめのさめすまし    その

 (かへらぬにきはまよめのさめすまし普請ふしんうち小屋こやたく

 「極まる」は困るという意味か。「さめすます」は気持ちが冷めてゆき、澄み渡るということで、帰らぬ嫁に困り果てていた気持ちも収まってきて、という意味になる。夫が帰らずに嫁が困っているのか、嫁が帰らないで困っているのか、どちらにも取れるが、この場合は前者か。家の立替か何かの仮住まいで、夫はどこかほっつき歩いているのか、気を取り直して食事の支度を始める。

無季。「嫁」は人倫。恋。人倫は打越を嫌えばいいので、八句目の「親の名代」から二句隔てているからこれで十分である。

十二句目

    かへらぬにきはまよめのさめすまし
 さけかうてのむ早稲わせのすりぞめ   之道しだう

 (かへらぬにきはまよめのさめすましさけかうてのむ早稲わせのすりぞめ

 前句を嫁が帰らぬという意味に取り成すのは、この場合定石といえよう。「すり初」というのは、その年収穫した米を脱穀し、その後籾摺りをするのだが、その仕事始めのことをいう。当時の籾摺りは土摺臼どずりうすという、竹で編んだ円筒形の容器に粘土を詰め、それを回転させるやりかたが主流だった。棒が両側に飛び出していて、それを二人がかりで回すのだが、嫁に逃げられては一人では回せない。籾摺りが終ったら、その米でどぶろくでも造って飲もうと思っていたか、結局は買ってきた酒を一人で飲む羽目になる。
 「買ひて」ではなく「買うて」となるところは、やはり大阪弁。「かうて」は「こうて」と発音する。
 「買ひて」が関東では「買って」となり、関西では「こうて」となるのは、おそらく音便化した年代のずれによるものだろう。つまり、この言葉は上古にはkapiteカピテと発音されていたため、活用語尾の母音の欠落が生じると、kapteカッテとなる。これが中古になるとkafiteカフィテと変化する。ここに活用語尾母音の欠落が生じるとkafteカフテとなり、このf音が弱いためkauteカウテkouteコウテの変化が生じる。おそらく、関東の「買って」は万葉時代の古い時期に方言化したもので、関西の「こうて」は比較的新しいのではないかと思われる。芭蕉の「閑さや」の句で有名な立石寺も、「りっしゃくじ」か「りゅうしゃくじ」か議論があるが、おそらく、地元の人が古くから「りっしゃくじ」と呼んでいたのに対し、都人が「りゅうしゃくじ」と呼んでいたため、二つの読みができたのではないかと思われる。

「早稲」は秋。前句とあわせて、意味的に恋の句となる。

十三句目

    さけかうてのむ早稲わせのすりぞめ
 晴々はればれつきかかるすぎもり   一有いちう

 (晴々はればれつきかかるすぎもりさけかうてのむ早稲わせのすりぞめ

 早稲の初摺りから、景色に転じる。「杉の森」は神社の鎮守の森を思わせる。「林」は「生やす」から、「森」は「守る」から来たと言われている。林は人工的に木を植えたところで、森は人が手を加えずに自然のままにしているところをいう。

「月」は秋。夜分。天象てんしょう。「杉」は木類。

十四句目

    晴々はればれつきかかるすぎもり
 づめひけたる町宿まちやどあき    支考しかう

 (晴々はればれつきかかるすぎもりづめひけたる町宿まちやどあき

 町宿というのは、祭りの際に臨時に作られる休息所で、いろいろな人間の溜まり場になる。夜勤の役人も仕事が引けてから、町宿に顔出し、お祭り気分に浸るのだろう。前句の「杉の森」からのイメージだろう。

「秋」は秋。「夜づめ」は夜分。「町宿」は居所。

十五句目

    づめひけたる町宿まちやどあき
 とれたやらはまからとお肴籠さかなかご     惟然ゐぜん

 (とれたやらはまからとお肴籠さかなかごづめひけたる町宿まちやどあき

 夜勤が終る明け方といえば、夜に漁に出てた船が戻り、獲れたての魚が上がってくる頃でもある。魚売りが上がってきた魚を籠に入れて売りに出かけてゆくと、それとすれ違うように、夜勤明けの人が戻ってきて、明け方ならではの賑わいとなる。

無季。「浜」は水辺。

十六句目

    とれたやらはまからとお肴籠さかなかご
 彼岸ひがんのぬくさこれでかたまる  酒堂しゃだう

 (とれたやらはまからとお肴籠さかなかご彼岸ひがんのぬくさこれでかたまる)

 「ぬくい」という言葉を、今でも暖かいという意味で使う地域もある。「ぬくもり」や「ぬくぬくと」という言葉にも名残を留めていて、暖かいという意味。暑さ寒さも彼岸までというように、大体春の彼岸の頃には暖かい季節となる。「浜」に「岸」という言葉の縁もあり、魚が上がる漁村の風景に軽く季節をつけた感じで、春に転じることで、次の十七句目の花の呼び出しになる。いかにもわざとらしくお膳立てされた花呼び出しだが、そこは大病の中を参加していただいた芭蕉さんに花を持たせるためのもので、空気を読もう。

「彼岸」はここでは春のお彼岸で春。

十七句目

    彼岸ひがんのぬくさこれでかたまる
 青芝あをしばことにもえたつ奈良ならはな     芭蕉ばせを

 (青芝あをしばことにもえたつ奈良ならはな彼岸ひがんのぬくさこれでかたまる)

 順番的には舎羅の番だが、ここは空気を読んで,芭蕉さんに花の句をお願いする場面だ。青芝といえば、奈良の若草山。全山芝生で覆われた山は三笠山ともいい、阿倍仲麻呂が中国で「三笠の山にいでし月かも」と詠んだのも、この三笠山で、麓には藤原氏の氏神である春日大社がある。遣唐使たちも旅の無事をこの神社で祈ったという。
 芭蕉も『野ざらし紀行』の旅のときにこの地を訪れ、東大寺の二月堂に籠って

 水とりや氷の僧のくつの音   芭蕉

の句を詠んでいる。また、『笈の小文』の旅のときにも初夏の奈良を訪れ、

 灌仏くゎんぶつの日に生れあふ鹿哉   芭蕉

の句を詠んでいる。そして、今、大阪へ来る直前にも奈良に立ち寄り重陽(9月9日)を奈良で過ごし、

 菊の香や奈良には古き仏達   芭蕉
 びいと啼く尻声悲し夜の鹿   同

の句を詠んでいる。
 前句が単に時候を示すだけの句なので、ここではかなり自由に花の句を詠める。その中で、芭蕉が選んだのは奈良の若草山の芝生の美しい季節の桜だった。

「花」は春。植物うえもの。「芝」は草類。「奈良」は名所。

十八句目

    青芝あをしばことにもえたつ奈良ならはな
 出替でがはどきたしなむ  荷中かちゅう

 (青芝あをしばことにもえたつ奈良ならはな出替でがはどきたしなむ)

 「出替でがはり」は半年契約の奉公人の入れ替えのことで、3月5日と9月5日に二回行われる。「」は一分金のことで、4分の1両に当る。 出替りとなると、引越しをしたり、何かと金がかかるので、一分金を用意しておく。ちょうど奈良に花咲く頃には出替りの時期でもある。
 よく江戸時代は「町人文化」というが、厳密に言うと「町人」というのは、土地を持っている地主のことで、実際に待ちにすんでいるのはそこに土地を借りて棲んでいる、地借じがり、店だけ借りている店借たながり、そして、そこに勤めている出替りの奉公人だった。当時は終身雇用ではなく、半年契約の出替り奉公や複数年契約の年季奉公が主流だった。
 舎羅の所は花の定座で芭蕉と代わったが、ここまでは最初一巡の時と同じ付け順に従っている。二の懐紙に入ると順番はばらばらになり、出来た者から付けていったのだろう。

「出替り」はここでは春。

二表

十九句目

    出替でがはどきたしなむ
 通路かよひぢよこにならねばはられず   之道しだう

 (通路かよひぢよこにならねばはられず出替でがはどきたしなむ)

 「通路かよひぢ」は単に通り道と言う意味もあるが、俳諧ではやはり恋の通い路としたい。出替りで引越しをしようとして用意していた一分金の理由を、あまりに狭い路地の住まいのせいとした。

無季。「通路かよひぢ」は恋。恋は応安新式では五句去り、「はなひ草」では三句去りとされている。十二句目の「酒買て」の句からは六句隔てているので問題はない。

二十句目

    通路かよひぢよこにならねばはられず
 しどろになほおくのからひつ   一有いちう

 (通路かよひぢよこにならねばはられずしどろになほおくのからひつ

 「しどろ」というのは「しどろもどろ」ということで、何やら慌てて長櫃を奥に直したようだ。 からびつというのは、前後に二本づつ足の付いた蓋が上に開く大きな木箱のことで、調度品や衣類などを収納した。その唐櫃からびつを慌てて隠すとはどうも怪しい。恋の通い路も何やら堂々と出来ない事情があるのか、つらいもので、木箱に横になって入って隠れていなければならない。

無季。恋の言葉はないが、意味的に恋の句となる。

二十一句

    しどろになほおくのからひつ
 浅々あさあさいろうつくしきぢゅうくき     酒堂しゃだう

 (浅々あさあさいろうつくしきぢゅうくきしどろになほおくのからひつ

 「ぢゅうくき」は蕪や大根などの葉の茎を用いた浅漬けで、緑が鮮やかな漬物だ。前句を年末の煤払いのこととしたか。仕事を早く片付けて、早く飯にしたいもの。

「茎(漬)」は冬。

二十二句目

    浅々あさあさいろうつくしきぢゅうくき
 ゆきのかへしのきたになるかぜ   その

 (浅々あさあさいろうつくしきぢゅうくきゆきのかへしのきたになるかぜ

 「雪のかへし」は一度やんだ雪がまた降り出すことで、北風がシベリアの冷たい空気を運んできて、雪をもたらす。軽く季節を付けた遣り句。

「雪」は冬。降物。

二十三句目

     ゆきのかへしのきたになるかぜ
 柴賣しばうりとなりどもつれだたせ     支考しかう

 (柴賣しばうりとなりどもつれだたゆきのかへしのきたになるかぜ

 柴売りは山で薪を拾ってきて、それを町に売りに行く人のことだが、京都では大原女おはらめの仕事だった。

 柴賣しばうりやいでゝしぐれの幾廻いくめぐり     闇指あんし

という『猿蓑さるみの』の句もある。冬の厳しい寒さの中で思い薪の束を背負い、町までの長い距離を売り歩く苦労は並大抵ではない。それも、闇指の句のように、何度も時雨に打たれながら、何日も歩き回ることもある。雪の降る日もあっただろう。それも子供を食わせてゆくため。子供も母に一緒について歩きながら、人生の厳しさを学ぶのだろう。有心体の句。

無季。「柴売り」「子ども」は人倫。

二十四句目

    柴賣しばうりとなりどもつれだた
 清蔵口せいぞうぐちのしらむなり   惟然ゐぜん

 (柴賣しばうりとなりどもつれだた清蔵口せいぞうぐちのしらむなり)

 清蔵口は長坂口とも呼ばれ、京都の北口だった。今でも堀川紫明と鞍馬口の間辺りに上清蔵口町・下清蔵口町がある。丹波、山陰地方への出口だが、鞍馬・大原方面にも行ける。鞍馬口、大原口も別にあるが、どれも柴売りの大原女たちが通うのに利用され、まだ夜も明けぬうちに出入りしていたのだろう。大原口ではいかにもベタだからあえて清蔵口にしたか。二十九句目が月の定座であるため、そこから四句隔たっているため、この句と次の句までは夜分を出すことができる。

無季。「夜のしらむ」は夜分。

二十五句目

    清蔵口せいぞうぐちのしらむなり
 上下かみしもはしおちたるかはのをと     荷中かちゅう

 (上下かみしもはしおちたるかはのをと清蔵口せいぞうぐちのしらむなり)

 清蔵口は賀茂川に近く、賀茂川の向こうには下鴨しもがも神社がある。芭蕉も『猿蓑』の「灰汁桶」の巻で、

    堤より田の青やぎていさぎよき
 加茂かものやしろはやしろなり   芭蕉

の句を詠んでいる。それを思い起こすなら、上下は単に川の上下の意味ではなく、上賀茂神社・下鴨神社を指すのかもしれない。「橋の落たる」は橋が落っこちたわけではなく、上下の橋に、川の水の落ちたる音、賀茂川にかかる橋の橋桁に水の当る音が、夜の白む清蔵口にまで聞こえてくるところで、夜明けの静けさと賀茂神社の張り詰めたような神々しさを表現したものだろう。

無季。「橋」「川音」は水辺。

二十六句目

    上下かみしもはしおちたるかはのをと
 植田うゑだなかこうののさつく   芭蕉ばせを

 (上下かみしもかちゅうおちたるかはのをと植田うゑだなかこうののさつく)

 「橋の落ちたる」を洪水で橋の流された後の景色に取り成す。植えたばかりの田んぼがすっかり水に浸かって、湖のようになったところを、コウノトリだけが悠々と歩いている。「のさつく」という言葉は、気合が入らない、間の抜けたという意味の「のさ」から来た言葉で、今でも「のそーっとして」という言い回しは残っている。みんなが大変な思いをしている時に何とも腹立たしい感じもするが、「のさつく」という俳言が笑いを誘うことで救われる。コウノトリはしばしば夏の鶴にも見立てられる。

「植田」は夏。「鴻」は鳥類、水辺。

二十七句目

    植田うゑだなかこうののさつく
 がまへに不断ふだんかるうちなぐり   その

 (がまへに不断ふだんかるうちなぐり植田うゑだなかこうののさつく)

 コウノトリの悠々とした様は、さながら『荘子』逍遥遊しょうようゆう編のほうのようでもあり、そこから小さな構えの家に住む隠士の風情の句になる。物事にこだわらず、田んぼの方も、自分の食べる分だけ取れればいいとばかりに怠惰に放置してある。「不断」は絶えず、いつもということで、普段の生活のこと。「打ちなぐり」というのは怠惰にやりっぱなしにということ。

無季。「小がまへ」は居所。

二十八句目

    がまへに不断ふだんかるうちなぐり
 しま仕出しだしのはやる帯機おびはた   酒堂しゃだう

 (がまへに不断ふだんかるうちなぐりしま仕出しだしのはやる帯機おびはた

 「島」は「縞」のこと。「仕出し」は今では出前の意味で使われる程度だが、本来は外に出すという意味で、衣類などでは新しいファッションを考案することを言い、そこから、おしゃれをすることも言う。特に、江戸時代には縞模様が粋とされ、呉服屋も新しい縞模様の柄を競ったのだろう。前句を町に住む粋人として、新しい柄の帯がはやると付けた句だ。
 資本主義が発達すると、勤勉が美徳とされるようになるのは、洋の東西を問わない。一生懸命働けば、生産性が向上し、みんなが豊かになるという信念に支えられているからだ。しかし、前近代的な社会では技術の進歩もきわめて緩慢で、新しい道具の発明も滅多にないから、生産力はおおむね停滞していた。限られた生産量の中で、みんなが人より多く取ろうとしたら、結局他人の食い扶持を奪うことになる。だから、欲張らず、贅沢をせず、必要最低限のものだけを所有して、のんびり遊んで暮らすことを粋とした。出来る男は人が一日かかる仕事を半日で上げ、昼間から酒を飲む。決して人の倍の仕事をしようとはしない。そんなことをすれば誰かが失業するからだ。そのため、今では怠惰とも取れる「小がまへに不断をかるうちなぐり」という生活も、かつては理想的な生き方とされていた。
 しかし、ある意味ではそれが豊かになろうとする人の心を抑圧し、貧しさの中に縛りつけ、技術革新への意欲をそぐことにもつながる。貧しいから禁欲する。禁欲するから新しい技術が生れない。そのため、貧しさから脱却できない。そんな悪循環を引き起こす。江戸時代はそんな中で、遊びを一つの産業として確立し、新たな生産に結びつけることで、新たな仕事を生み出し、発展してきた。こうして平和で豊かな社会を作り上げたことは、世界的にも驚くべきことだろう。今でもゲームや漫画・アニメなど、日本の遊び文化は世界を席巻している。

無季。

二十九句目

    しま仕出しだしのはやる帯機おびはた
 月影つきかげさむ師走しはすながさ     之道しだう

 (月影つきかげさむ師走しはすながしま仕出しだしのはやる帯機おびはた

 せわしく最新流行の帯を繰り出す機織機の音も、師走の身も凍るような月夜には「きぬた」の風情。李白の、

 長安一片月 萬戸擣衣聲
 長安一片の月、万戸衣を打つ声

の心か。
 江戸時代には昼間から酒飲んで遊ぶ粋の文化と、夜中まで流行の帯を生産する勤勉の文化とが共存していた。明治に入ると、それまで遊びのためだった生産が富国強兵に振り向けられ、ただただ遊ぶことなく働くだけの暗黒の時代となっていった。今日でも、物は豊富にあるが、ひたすら働くだけの長時間労働社会で、豊かさを実感できない国に成り下がっている。

「師走」は冬。「月」「夜の長さ」は秋の季題だが、「師走」は明確に時期を限定できる言葉で、他の季節ではありえないため、意味上冬の句となる。「月」は夜分。天象てんしょう

三十句目

    月影つきかげさむ師走しはすなが
 つゑ一本いっぽんみちわきざし     荷中かちゅう

 (月影つきかげさむ師走しはすながつゑ一本いっぽんみちわきざし)

 芭蕉の活躍した元禄時代は藩の改易や領地没収が続き、大量の浪人が発生して社会問題になっていた時代だった。師走の寒い月の夜に宿もなくさまよう人影は、そんなさもしい浪人なのだろう。脇差も既に売り払い、ただ杖だけを頼りに、行くあてのない旅を続ける。

無季。

二裏

三十一句目

    つゑ一本いっぽんみちわきざし
 がらすのそれにもそでのぬらされて 芭蕉ばせを

 (がらすのそれにもそでのぬらされてつゑ一本いっぽんみちわきざし)

 カラスは人の死の匂いを嗅ぎつけると言われ、不吉な鳥ではあるが、同時にひとは必ずいつかは死ぬもので、その逃れられない定めを前に人生を振り返ることで、あらためて生きるということを考えさせられる。僧が墨染めの衣を着るところから、カラスは僧にも例えられる。不吉で不気味でもあるカラスは、一方では人を悟りに導くものでもある。
 前句の杖を脇差にする人の姿を、既に死の淵に近い老人の姿と取り成した。この老人は芭蕉自身といってもいいかもしれない。『野ざらし紀行』では自らを「腰間に寸鐵をおびず。」と言っている。
 芭蕉はこの興行の前日に、

    旅懐
 この秋は何で年寄る雲に鳥    芭蕉

の発句を詠んでいる。芭蕉が心敬の、

    わが心誰にかたらむ秋の空
 沖に夕風雲にかりがね     心敬

の句を知っていたのかどうかはよくわからない。ただ、意味的にはよく似ている。心敬の句は沖には夕風が、雲にはかりがねがというように、それぞれ友があるのに、この私には語る友もいず、ただ秋の空だけがあるという意味になる。芭蕉の句もまた、鳥は雲に寄る所があるというのに、この秋は年取るだけで寄る所もない、という句だ。芭蕉は前年の元禄六年三月に甥の桃印とういんに死なれ、この年の六月には京都滞在中に寿貞じゅていの訃報を聞いている。寿貞は一部には芭蕉の妻とする説もあるが、一般的には桃印の妻といわれている。相次ぐ身内の死に、孤独感を募らせていたのだろう。
 こうした事情もあってか、芭蕉は荷中の詠んだ前句に自分の姿を重ね、野原に飛ぶカラスを見るにつけても涙がこぼれる、と付けたのだろう。そして、結果的にこれが芭蕉の最後の付け句となった。

無季。「からす」は鳥類。「袖」は衣類。

三十二句

    がらすのそれにもそでのぬらされて
 おいちからむすめほしがる     一有いちう

 (がらすのそれにもそでのぬらされておいちからむすめほしがる)

 芭蕉の句に、おそらく連衆れんじゅ一同、何かに感じ入ったかのようにしんみりした気分になったのではなかったか。涙を必死にこらえている弟子達の姿が何となく浮かんでくる。それを振り払うかのように、一有が何とか雰囲気をがらっと変えてくれた。死の不安に涙する人を、せいぜい初老ぐらいの人のくらいに取り成す。これから年取ってゆくのに娘がいたらなあと、これから子作りに励むのだろうか。それとも若い娘を侍らせたいのか。まあ、身の回りの世話を頼むには、息子より娘の方が頼りになるのは、今も昔も代わりない。
 こうした、場の空気を詠んだ機転の利いた句というのも、隠れた名吟といえるかもしれない。

無季。「娘」は人倫。

三十三句目

    おいちからむすめほしがる
 もちちぎるなべのあかりのにぎやかさ     支考しかう

 (もちちぎるなべのあかりのにぎやかおいちからむすめほしがる)

 これも支考の技ありの句。餅の入ったうどんを「力うどん」と言うように、前句の「おいちから」を老人の持っている餅とし、それを娘が欲しがっていると取り成した付け句。
 大家族で、賑やかに鍋を囲んで、爺さんが餅をちぎって鍋に入れようとしたのだろう。それを娘が、「あっ、それいいね、頂戴」とでも言ったのだろうか。囲炉裏の火が赤々と燃えて、ほのぼのとしている。

無季。「あかり」は夜分。二十九句目の月の句から三句隔てているので問題はない。

三十四句目

    もちちぎるなべのあかりのにぎやか
 しかたたみのつんでかさなる    その

 (もちちぎるなべのあかりのにぎやかしかたたみのつんでかさなる)

 前句の一家団欒の情を引きずらずに、何とか別の場面に転じたいところで、ここはやはり普請の場面への取り成しか。すっかり出来上がった家に真新しい畳がうずたかく積まれ、あとはこれを敷き詰めるだけといった所か。主人は大工さんたちに、日頃の労をねぎらい、鍋と餅を振舞う。普請への転換は、図らずも芭蕉の十句目に習う形となった。

無季。「畳」は居所。

三十五句目

    しかたたみのつんでかさなる
 みづ注連しめながるる花盛はなざかり     酒堂しゃだう

 (みづ注連しめながるる花盛はなざかりしかたたみのつんでかさなる)

 高く積まれた畳から、花の句への転換はかなり難しい。ここはやや苦しい展開になる。
 畳も注連縄も藁から作るという縁でかろうじて付けたといっていい。豊作を願って、田の神様を祭ったのだろうか。注連縄で囲まれた場所はいわゆる結界であり、あらゆる魔の手から守られた神聖な場所を意味する。ようやく水が入り、一年の準備を始めた田の脇には、豊作を象徴するかのように桜の花が満開で、散り始めた花が田に流れ込んでくる。だが、それと前句の詰まれた畳との関係はわかりにくい。注連縄は藁を使うということで、畳職人が作ったりもした。また、花見の席のために畳が用意されたということも考えられる。最後の方だから、あまり考えすぎて句が滞ってもいけない。多少付きが悪くても目をつぶる方がいいだろう。芭蕉も相当疲れていて、そろそろ限界に違いない。

「花」は春。植物。「注連」は神祇。「水」「流るる」は水辺。

挙句

    みづ注連しめながるる花盛はなざかり
 やなぎのさしみどりのびゆく   惟然ゐぜん

 (みづ注連しめながるる花盛はなざかりやなぎのさしみどりのびゆく

 田の神様は、道祖神や庚申さんなどと同様、村の境界などに置かれることが多い。そして、境界にはしばしば柳が植えられている。柳は、街道、門前など、境界線に花開く、公界の分化の象徴でもあり、芭蕉もまた去来と支考に、大切の柳という、

 腫れ物にさわる柳のしなへかな   芭蕉
 腫れ物に柳のさわるしなへかな   同

の二句を授けている。どちらの句がいいかは結局蕉門の間でも謎のまま終ったことが、『去来抄』に記されている。その意味では、「柳のさし木」は芭蕉の弟子達を象徴していると言えるかもしれない。芭蕉は常々道祖神を口癖に旅をしていたようだし、惟然が意識していたかどうかはわからないが、芭蕉の死を予感していたかのように、この句は道祖神となった芭蕉の下で、若い弟子達がみずみずしい新しい葉を広げてゆく、そんなイメージをかもし出す。その点でも、芭蕉の最後の興行にふさわしい挙句あげくとなった。
 この挙句を詠んだのが惟然いぜんだったというのも、何かの縁だったのだろう。芭蕉が亡くなると、惟然は何かに取り付かれたように、芭蕉の句を木魚に似た打楽器をこしらえてを叩きながら吟詠し、風羅念仏ふうらねんぶつと称して,諸国を行脚することになる。
 「花はくれない柳は緑」という言葉もあり、

 見渡せば柳桜をこきまぜて
    都ぞ春の錦なりける
                素性法師

の歌もある。花の紅の「陽」と柳の緑の「陰」とが溶け合って、陰陽相混ざり合い、万物の母でもある混沌が生まれる。陰陽相通い合う場所、それがまさに古来東洋で「道」と呼ばれていたものだった。

「柳」は春。木類。