
*俳諧とはなにか?
*俳句と川柳のちがい
*芭蕉について
*旧かなのよみかた
*発句の鑑賞
*連句の鑑賞
*哲学とはなにか?
いまの国語の授業では、俳句と短歌をおしえるだけで、たぶん俳諧について、ほとんどの人はしらないのではないかとおもいます。
これは順をおって、説明してゆきましょう。
まず古代から、日本に和歌というのがありました。これは「やまとうた」とも、単に「うた」ともよばれていました。ひらがなにしたときの字のかずが、5-7-5-7-7になります。よくまちがえて5-7-5-7-5だとおもっている人がいますが、最後は7文字です。
例
ひさかたのひかりのどけきはるのひに
しづこころなくはなのちるらん
紀友則
鎌倉時代から室町時代には連歌が大流行します。これは庶民のあいだから宮廷の貴族にいたるまでまきこんでの大流行でした。これは、和歌5-7-5-7-7を、上句5-7-5と下句7-7のふたつにわけて、だれかが5-7-5の上句をつくると、つぎにまただれかが7-7の下句をつけ、5-7-5-7-7の和歌を完成させるゲームです。その7-7にまただれかが別の5-7-5の上句をつけ、また別の5-7-5-7-7を完成させます。その5-7-5にまた別の7-7をつけるというように、えんえんと句を鎖のようにつないでゆきます。こうして、100句つらねる連歌を百韻とよびました。→連歌について
例
ゆきながらやまもとかすむゆうべかな 宗祇
ゆくみずとおくうめにおうさと 肖柏
かわかぜにひとむらやなぎはるみえて 宗長
ふねさすおとのしるきあけがた 宗祇
・・・以下、略・・・→水無瀬三吟解説
連歌はそのころの共通語だった京都の宮廷言葉をもとにした、和歌のことばでつくるのが普通でした。これを雅語といいます。これにたいし、室町時代もおわりごろになると、商業もさかんになり、大都市がつくられ、宮廷のことばにかわって、都市にすんでいる庶民のことばが、共通語になりはじめてきました。これを雅語にたいして俗語とよびました。この俗語をまじえてつくる連歌がうまれ、それが俳諧とよばれるようになりました。
例
とびうめやかろがろしくもかみのはる 守武
われもわれものからすうぐひす 同
のどかなるかぜふくろうにやまみえて 同
めもとすさまじつきのこるかげ 同
・・・以下、略・・・
連歌や俳諧の最初の一句を発句といいます。いまではこれも俳句のなかにふくめていますが、俳諧は発句だけでなく、それにえんえんと句をつけてゆくゲームでした。発句と付け句の両方あわせてはじめて俳諧なのです。
それではなんで発句のことを俳句とよぶようになったのでしょうか。それは明治時代にはいって、正岡子規という人がでてきて、それまでの和歌・連歌・俳諧の伝統を、西洋の詩にくらべておとったものとかんがえ、これらを近代日本にふさわしい、西洋的なものにつくりかえようとしました。西洋の近代詩はひとりの作者がつくるのがふつうで、連歌や俳諧のような大勢でつくるようなものはありませんでした。そこで、正岡子規やその後継者たちは、こうした連句を、前近代的なおとったものとみなし、文学とはみとめませんでした。
また、このとき、つかうことばも和歌・連歌のような雅語でつくるものは、前近代的とされ、俗語をまじえてつくる5-7-5-7-7があらたに近代短歌として確立され、同時に、俳諧の発句も俳句とよばれるようになりました。そのため、いまの学校でおしえているのは、このふたつというわけです。
しかし、最近では、こうした極端な西洋中心のかんがえかたは反省されてきています。むしろ連歌・俳諧の研究はこれからだといっていいでしょう。
俳諧は発句と付け句からできています。
例
しらぎくのめにたててみる塵もなし 芭蕉
もみじに水をながすあさ月 その女
ひやひやと鯛のかたみをおりわけて 之道
なんにもせずに年はくれゆく 一有
・・・以下、略・・・→「白菊の」の巻
このなかの最初の一句、
しらぎくのめにたててみる塵もなし 芭蕉
が、もともとは発句とよばれていました。これが、明治時代の正岡子規による俳句革新によって、俳句とよばれるようになりました。
俳諧は、もともと何人もの人があつまって、みんなで句をつけてゆくゲームでした。そのため、最初の一句はこれから俳諧をはじめますというあいさつだったのです。いまでもあいさつをするときは、季節の話題からはいることが多いように、「すっかり春めいてまいりましたね」「きょうは本当にあついですね」みたいに、そのときの季節を句にする習慣がありました。そのため、発句には季語がつかわれます。その習慣は、近代俳句にもうけつがれていますから、いまの俳句でも季語をつかいます。ただ、習慣であって規則ではないので、絶対に季語をいれなくてはいけないというものではありません。
これにたいして、川柳というのは、前句付けというゲームからきた、またべつの文芸です。前句付けというのは、だれかが、7-7の下句を出題して、それにあった5-7-5の上句を募集し、そのなかでいいものをえらんで、賞をあたえるというものです。たとえば、
にぎやかなことにぎやかなこと
というような7-7のお題がありますと、それに、
にぎやかなことにぎやかなこと
ふるゆきを地にもおとさぬ日本橋
というふうに上句の5-7-5をつけるわけです。それをみんなでかんがえるのです。たとえば、
にぎやかなことにぎやかなこと
ストリートロックにまけじとケーナ売り
みたいなのでもいいのです。
川柳という名まえは、江戸時代中期の前句付けの選者、柄井川柳という人の名まえからきています。
最初は7-7のお題をだしていたのですが、のちにとくに題をださずに5-7-5の句を募集するようになったため、いまの川柳でも、とくにお題はありません。季語はあってもなくてもよく、とにかくみんなにうけるようなおもしろいネタをかんがえて、みんなできそうのが川柳なのです。
芭蕉の名まえは、正確には芭蕉庵桃青ですが、たいていは松尾芭蕉の名まえでとおっています。
芭蕉は江戸時代のはじめごろの、正保元年(1644年)伊賀上野でうまれました。父は与左衛門、母のほうはくわしいことがわかっていません。父の与左衛門は伊賀国柘植の松尾氏で、一族のご先祖さんは平宗清だと称していました。ただ、与左衛門はすでに武士の身分をうしなっていて、小作人をやって生計をたてる、いわゆる「水呑み百姓」でした。ただ、のちの人は芭蕉に敬意をこめて、松尾氏の芭蕉さんという意味で、松尾芭蕉とよぶこととなったのです。→伊賀での芭蕉
その父も、芭蕉が13歳のときになくなり、芭蕉は伊賀藩の藤堂新七郎家の料理人として奉公にでました。そのとき、芭蕉は藤堂家の跡取り息子である藤堂主計良忠とであいました。良忠は北村季吟のもとで俳諧をまなんでいて、蝉吟という俳号(俳諧ネーム)をもってました。この良忠とのであいが、芭蕉の俳諧とのであいとなりました。
芭蕉は寛文12年(1672年)、29歳のとき、江戸にでて、プロの俳諧師をめざしました。そして延宝5年(1677年)に正式に俳諧師匠となりました。→江戸での芭蕉
こうして、芭蕉の俳諧師としての活躍がはじまりました。そののち、
ふる池やかわずとびこむ水の音
夏草やつわものどもがゆめのあと
しずかさや岩にしみいるせみの声
はつしぐれ猿も小蓑をほしげなり
秋ふかしとなりは何をするひとぞ
など、有名な発句をつぎつぎとうみだしました。また、『野ざらし紀行』『鹿島詣』『笈の小文』『更級紀行』『奥の細道』などの紀行文もかきました。もちろん付け句のほうでも大活躍したのですが、こちらのほうはまだ研究がおくれています。
そして、元禄7年(1694年)10月12日、西へゆく旅の途中、大阪で亡くなりました。51歳でした。
いまでもなんで「~は」だとか「~を」というときに、発音どおりに「~わ」「~お」とかかないのか、不思議におもっているひともおおいとおもいます。また、なんでおなじ「おー」という発音なのに、「大きい」は「おおきい」で「王様」は「おうさま」なのか、わたしなんぞもワープロをうっていて、まちがえることもあります。英語のような発音とスペルがなかなか一致しない言語というのもありますが、どこのことばでも、すくなからず発音と文字がちがうということはあるものです。
ことばというのは、ときとともににかわってゆくもので、おなじ単語でも、ときがたつにつれて、発音がかわることがあります。いまの口語でも、「すごい」が「すげー」になったり、「みていた」が「みてた」になるようなものです。将来「すごい」だとか「みていた」などとじっさいに発音するひとがいなくなったとしても、文字では習慣として「すごい」「みていた」とかくかもしれなせん。そういうことがいろいろおこってくると、発音と文字は、しだいに一致しなくなってくるのです。
だから、「~わ」ではなく「~は」とかくのは、かつてこれを「は」のおとで発音してたということです。たぶん、正確には「ふぁ」のおとで発音されていたとおもいます。
日本語はかつて「は」行のおとを「ふぁ」行で発音していたじだいがあったとされています。そして、もっとふるい時代には「ぱ」行で発音していたといわれています。また、かつて「わ」行は「わ」だけではなく、「わ」「ゐ」「ゑ」「を」のおとがあり、「わ」「うぃ」「うぇ」「うぉ」と発音していたといわれています。それが、時代がいまにちかづくにつれて、「ふぁ」行のおとの一部と「わ」以外の「わ」行のおとは「あ」行のおとにかわってしまったのです。じっさいには発音されなくなっていても、文字のほうはそのままのこり、戦前までは、いまでいう「旧かな」または「歴史的かなづかい」とよばれるかきかたがされていました。
例
いる(居る)→ゐる
いど(井戸)→ゐど
こえ(声)→こゑ
えびす(恵比寿)→ゑびす
おとこ(男)→をとこ
かおる(香る)→かをる(「かほる」ではない)
あお(青)→あを
しわす(師走)→しはす
こい(恋)→こひ
いう(言う)→いふ
ふたえ(二重)→ふたへ
なお(猶)→なほ
このほかにも、かつて「さ」行の「す」のにごった「ず」と「た」行の「つ」のにごった「づ」のと発音も区別されていましたが、これもいつのまにおなじになっていまったため、かつて「づ」とかかれていたもののおおくが、いまでは「ず」とかかれています。
例
みず(水)→みづ
おとずれ(訪れ)→おとづれ
さらにややこしいのが漢字のよみかたで、中国語には日本にない発音がたくさんあります。たとえば、yang,yong,のようなngのおとでおわることばや、それにむかしの中国語にはkap,iep,のようなpでおわることばもありました。はじめは、これをできるだけそのとおりにあらわそうとしました。そこで、万葉集(まんようしゅう)はman iep sipなので「まにえふしふ」とかきあらわしました。むかしの「ふ」はいまの「ぷ」のおとだったからです。また、yang,yong,のようなngのおとは、むかしの日本人はよくききとれなかったためか、「んぐ」でも「ん」でも「ぐ」でもなく、「う」であらわされました。「楊枝」の楊(よう)の字はもとがyangだったため、「やう」とかきあらわしました。これにたいし「用事」の用(よう)はもとがyongであったため、「よう」でいいのです。また、「甲子園」の甲(こう)はもとがkapであるため、「かふ」とかきました。また「葉」はiep、「業」はgiepだったために「えふ」「げふ」とかきあらわしました。さいしょはそのとおり発音していたのでしょう。しかし、だんだんと「あう」は「おー」と発音するようになり、「おう」も「おー」と発音するようになり、「あふ」も「おー」と発音するようになり、「えふ」も「おー」と発音するようになっていきました。そして、戦後になって、旧かなが廃止され、いまのかきかたにあらためられたとき、どれも「おう」に統一されたのです。
これにたいして「おおきい」はもとから日本語で、「おほきい」からきているため、「おほ」の表記は戦後になって、「おお」にあらためられたため、「王様(わうさま)」は「おうさま」、「大きい(おほきい)」は「おおきい」になったのです。ひょっとしたら将来また文部科学省のほうで改革がおこなわれて、「おう」も「おお」も「おー」に統一される日がくるのかもしれません。
例
あう、わう、おう、あふ→おう
えう、えふ→ょう
いう、いふ→ゆう
また、むかしの中国語では漢(かん)と関(くわん)のような「か」「くわ」の区別もありました。これもいまでは「かん」に統一されています。
例
か(加、可、家)、くわ(花、火、瓦、過)→か
かん(閑、間、漢、勘、感)、くわん(関、巻、官、観、還)→かん
がん(岩、含)、ぐわん(元、願)→がん
かつ(喝、渇)、くわつ(活)→かつ
がつ、ぐわつ(月)→がつ
ことばは時代とともにかわるものですから、その時代の人がかきやすいように、発音とかきかたが一致するようにかきかたをかえてゆくのは必要なことです。ただ、そのことで、むかしの文章がよみにくくなるという欠点もあります。むかしの文章もいまのかなにあらためるというのも一つの手ですが、それをするにも、むかしのかながよめる人が必要です。めんどうでも、むかしのかなづかいを勉強しましょう。外国語をまなぶのといっしょで、だいじなのはなれることです。
それに、むかしのかなづかいをしっていると、便利なこともあります。たとえば韓国語をまなぶときに、韓国語も漢字のよみかたもむかしの中国語からきていますから、よくにています。たとえば、陽、楊、洋といったむかしのかなで「やう」とかくものは、だいたい양で、用のような「よう」とかくものは영、葉のように「えふ」とかくものは입とかんたんに推測できます。もちろん、むかしの中国語を研究するのにも便利です。
学校でおしえている俳句の鑑賞法は明治時代に正岡子規などによってつくられた近代俳句を基礎とするものです。
そのため、掛詞、縁語、折句などの言葉遊びは良くないものとされ、寓意や象徴的な意味を読み取ることも、嫌われることが多いようです。
俳句を読むときは、あくまで、句の全体がどのような情景を言いあらわしているか、想像力をはたらかせる必要があります。
しかし、これはあとから作られたルールで、本来俳諧の発句は言葉遊びや寓意を認めるものでした。そのあたりはもっと自由に読んでもいいのです。
今日の近代連句はが5-7-5の上句に7-7の下句をつけ、5-7-5-7-7の和歌を完成させるということはほとんどなく、あくまで5-7-5の俳句と7-7の俳句というふうに独立したものとして読むようです。そして、二つの句の関係はあくまで連想によるものとされているようです。
これに対し、連歌や俳諧は、前句をどのように解釈して、独自な意味をあたえたかが重要になります。そのため、前句が本来どういう意味だったかや、前句の作者がどのような意図で、何を言おうとしてその句をつくったかは問題になりません。そのため、通常前句の作者名は表示しません。句が付いた場合、その前句は後句を付けた作者のものになるのです。
たとえば、
野分せし日のきりのあはれさ
しづかなる鐘に月まつ里みえて 宗祇
とある場合は、まず前句だけ読んで、どういう句なのかイメージしてみるといいでしょう。台風の日の霧があわれ・・・何か漠然とした感じです。
つぎにこれを5-7-5-7-7の和歌のかたちにして、
しづかなる鐘に月まつ里みえて
野分せし日のきりのあはれさ
というかたちで読んでみましょう。名月なのに折からの台風で霧がかかり、はたして月は見られるのかどうか気をもみながらまっている村の人たちがいる。そこに日没をつげるお寺の鐘が静かに響く。ここに前句では漠然としていた「台風の日の霧」に新たな命が吹き込まれたのです。これが連句の面白さだといっていいでしょう。
哲学とはなにか?それを考えるのが哲学だ、なんてことをいってはぐらかす人もいますが、それでは答えになっていません。だからといって、ひとことでいえるようなことでもないので、とりあえず、哲学とそれに似ているものと比較することで答えることにしましょう。
まず宗教とのちがいです。
宗教というと、神さまを信じることのように思えますが、かならずしも神さまを信じるわけでもない宗教もあります。仏教は神さまではなく仏さまを信じる宗教です。また、儒教は孔子をはじめとして、堯や舜などの聖人を信じる宗教です。
共通しているのは、この宇宙の真理を知る、特殊なものがいるということです。宇宙の真理はだれでもが知ることができるというものではなく、なんらかの特殊な存在を通してしか知ることができないため、その特殊な存在を信じるのが宗教なのです。それを神と呼んだり、仏と呼んだり、聖人と呼んだりするのです。
宇宙の真理をだれでも知ることはできないと考えるため、われわれ普通の人は、そうした真理を知るものの言葉を信じるしかないのです。
これに対して、哲学はだれでも真理を知ることができると考えます。それも、自分自身をふりかえることで、反省することで真理を直観できると考えます。そして、それが本当かどうかは、きちんと論理が通っているかどうかで判断します。
このとき、論理に関係なく、単に人の共感をえることができればそれが真理だという考えかたもでてきます。これは哲学というよりは、文学あるいは芸術といったほうがいいでしょう。
つぎに、科学とのちがいです。
科学の場合、真理は自分自身のなかにあるのではなく、自分のそとの世界にあると考えます。科学は外の世界にむかって、まず仮説を立てます。そして、それが実験や史料などによって実際にくりかえし検証されることで、それが真理に近いということになります。
そのため、科学に絶対はありません。科学はあくまでも仮説の体系です。ただ、それがくりかえし検証されることで、かぎりなく真実に近づいてゆくとみなされてゆくのです。
宗教は真理が自分のそとにいる特殊な存在のなかにあり、それを信じるものです。
科学は真理が自分のそとのこの世界のなかにあり、それを仮説を立て、検証することで、かぎりなくその真理に近づいていこうとするものです。
これに対し、哲学は自分自身のなかに真理があると考え、直観によってそれを知ることができると考えます。
そして、その直観を理論にするという点で、文学や芸術と区別されます。