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『去来抄』を読む2

ゆきゆき亭 こやん



─同門評─

およそ篇中ノ異評みづかトスルニ似タルハ、いまだ判者なきゆへ也。なほ後賢をまち侍る。

1、 腫物はれものに柳のさハるしなへかな   芭蕉
 浪化集らうくゎしふにさハる柳と出。これハ予が誤り伝ふるなり。重て史邦ふみくに小文庫こぶんこに柳のさハると改めいだす。支考曰しこういはく、さハる柳也。いかで改め侍るや。去来曰、さハる柳とハいかに。考曰、柳のしなへハ腫物にさハる如しと比喩也。来曰、しからず、柳のぢきにさハりたる也。さハる柳といへバ両様にきこえ侍るゆゑかさねて予があやまりをただす。考曰、吾子ごしの説ハ行過ゆきすぎたり。たださハる柳ときくべし。丈草ぢゃうさう曰、ことばのつづきハしらず、趣向ハ考がいへる如くならん。来曰、流石さすがの両士ここきき給ハざる口をし。比喩にしてハ誰々だれだれも謂ハん。ぢきにさハるとハいかでか及バん。格位も又各別也かくべつなりト論ず。許六きょりく曰、先師の短尺たんじゃくにさハる柳とあり其上そのうえ柳のさハるとハ首切くびきれ也。来曰、首切の事ハ予が聞処きくところ異也ことなり。今論に不及。先師之文のふみに、柳のさハるとたしか也。六曰、先師あとより直し給ふ句おほし。真跡證となしがたしと也。三子皆さハる柳の説也。後賢相判じ給へ。来曰、いかなるゆへや有けん。この句ハ汝にわたしをくかならず人にさたすべからずと江府かうふよりかき贈り給ふ。其後大切の柳一本ひともと去来に渡し置きけりとハ、支考にも語り給ふ。其比そのころ浪化集らうくゎしふ続猿集ぞくさるしふの両集にものぞかれけるに、浪化集撰のなかば、先師遷化有せんげありしかバ、この句のむなしく残らん事をうらみて、その集にハまいらせける。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,29~30)

 これは簡単に言えば

 腫物はれものに柳のさハるしなへ哉   芭蕉
 腫物にさハる柳のしなへ哉   芭蕉

のどっちが本当の芭蕉の句かという議論だが、去来きょらい支考しこう許六きょりく丈草じょうそうと関西の蕉門を代表とするそうそうたるメンバーが揃って、まさに雁首並べての議論で面白い。
 ことの発端は浪化ろうか篇の『有磯海ありそうみ』(元禄8(1695)年刊)に載ったのが後者だったのに対し、後から史邦ふみくにが『芭蕉庵小文庫こぶんこ』(元禄九年刊)に前者の句を載せたことによるものだが、まず支考が何で改めたんだと問うところから始まる。問題は「腫物にさハる柳の」だと「腫れ物にさわるような」という慣用句となり、比喩になるが、「腫物に柳のさハる」だと実際に腫れ物の部分に柳の枝がさわっているという意味になる、芭蕉が言おうとしたのはそのどっちかということだ。支考は単純に「腫れ物にさわるような柳の」と受け取ったようだ。しかし、去来によれば、この言い回しだと「腫物にさハる」は慣用句とも実際に腫れ物にさわっているとも両方とも取れるから、慣用句と受け取られないために「腫物に柳のさハる」でなければならないと言う。
 そこに丈草が口を挿む。言葉の続き方はともかくとしても、柳の枝が腫れ物にさわるようだ、というのがこの句の趣向ではないのか。去来は応える。それなら誰でも思いつく。本当に腫れ物に枝がさわっているから面白いのではないか。
 ここで許六が、先師の短冊に「さハる柳」とあったことを持ち出す。それに対し去来は先師の文には「柳のさハる」とあったと応酬する。去来の文は本当で、元禄7年正月29日付の「去来宛書簡」の真跡が残されている。そこには

    頃日初けいじつはじめて発句いたし候。
 腫物に柳のさはるしなへ哉

とある。しかし許六も負けてはいず、先師は後から句を直すことが多いから、真跡だからといって当てにはならない、支考も丈草も俺も三人とも「さハる柳」のほうが良いといっているぞ、と。そして、結論は出さず、「後賢相判じ給へ」と、後の評価にゆだねようという意見だった。
 おそらくこの四人は、二百年後に正岡子規が写生説を唱えることなど想像だにしなかっただろう。写生説の立場なら答は簡単だ。 「さハる柳」は比喩だから写生ではない。去来一人写生を理解していた、と。しかし、そこで終わってしまっても面白くないだろう。私の感覚では、「柳のさハる」とした場合、腫れ物に柳がさわってむずがゆい様を描写しながらも、暗に「腫れ物にさわる」という慣用句を含ませたように思える。柳は卯の木と書き、十二支の卯は東や春や夜明けを表す。それは夜が昼に転じ、死が生に転じる境界線の意味も持ち、それゆえに、柳は門前や川縁や街道などに植えられることが多く、公界くがいの木でもある。それは道祖神どうそじんに招かれた旅人にふさわしい木でもあり、俳諧もまたこの境界領域に咲く花でもある。境界線を行く旅人は定住者の目からすればアウトローであり、腫れ物にさわるような存在かもしれない。しかし、そうした人たちの芸に人は笑い、しばし楽しいときを過ごす。腫れ物にさわる存在だから、くすぐったくもあり、ちくりともするが、それが世間に笑いとゆとりをもたらし、春を彩る。「柳のさハるしなへ」とは、まさに俳諧のことではなかったか。
 「さハる柳」でも基本的に意味は同じだ。ただ、「腫れ物にさわる」という慣用句の意味を表に出すか、裏に隠すかの違いだ。そう考えれば、四人ともあと一歩だったということになるだろう。支考、丈草、許六は句の両方の意味に気づいてはいたが、それをあからさまに言わずに裏に隠すという面白さに気づかなかった。去来は「柳のさハる」のほうが面白いことをなんとなく感じてはいたが、それが、表向き消されていても暗に「腫れ物にさわる」という慣用句が響いていることに気づかなかった。それで両者とも一件落着ではないのか。
 芭蕉は去来と支考に「大切の柳一本去来に渡し置きけり」と語ったようだ。芭蕉は自分の説を押し付けるのではなく、よく門人たちにこうした謎掛けをして、考えさせたようだ。そして、門人たちの間にも自由に議論ができる雰囲気があった。それが蕉門十哲とも呼ばれる優秀な門人を多数輩出した蕉門の強さだったのだろう。

2、 雪の日にうさぎの皮のひげつくれ   芭蕉
 魯町曰ろちゃういはくこの句意いかが、去来曰、まず前書に子どもと遊びてと有れバ、子供のわざと思はるべし。しひて理會すべからず。機関からくり踏破ふみやぶりてしるべし。昔先師この句を語りたまふに、予はなはだ感動す。先師曰、これよろこバん者、越人と汝のミと思ひしに、はたしてしかりとて殊更ことさらの機嫌なりし。或曰あるいはいはく、雪ハ越後兎の縁にいでたり。来曰、この説の古キ事神代巻に似たり。或曰あるいはいはく、兎の皮の髭つくるハ、雪中寒キゆへなり。来曰、如此かくのごとくに解せバ、暑日あつきひ猿若髭さるわかひげをはずしけりのたぐひなるべし。いとあさまし。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,30)

 

 「雪の日に…」の句は詠まれた当初から難解な句とされてきたようで、今日でも明快な解釈はなされていないように思える。ここでもはっきりと意味は述べられていない。ただ「子供のわざ」というヒントが与えられている。兎を越後の雪兎とする説や、寒いから兎の皮で暖めるという説は否定されている。
 子供のわざというヒントにしたがって、まず子供のやりそうなことを想像して見よう。雪といえば、雪だるま、雪兎、雪合戦といったことが思い浮かぶだろう。雪だるまは当時は雪まろげと言われて、これは雪を転がして丸めたものという意味で、果たして今のような雪の玉を二段に載せて人形をつくっていたのかどうかは定かではない。雪兎も当時あったかどうかは定かでない。しかし、雪で何かの形をつくって遊ぶというのはありそうなことだ。雪合戦というのも不明だが、雪をぶつけあう遊びを思いつくのはそう難しいことではないし、端午の節句の石合戦があったのだからいかにもありそうだ。
 おそらく鍵になるのは「兎の皮」が本ものの兎の皮ではなく、比喩だという点だろう。退けられている説は両方とも、本当の兎の皮の意味にとっている。兎の皮は確かに防寒用に利用されていたが、頭がそこからはなれないのが大人の発想だったのだろう。兎の皮とは他ならぬ雪そのものではなかったか。
 たとえば子供が遊んでいて、雪で兎の形をつくる。しかし、そうおとなしく遊んでばかりもいられず、別の子供が雪の塊をぶっつけてくると、今しがた作った雪兎をつかんで投げつける。顔に雪がついて真っ白になる、それが「兎の皮の髭」ではなかったか。芭蕉もしばしその子供の雪遊びに加わって、顔に雪の髭ができる。雪の髭のついた顔はあたかも白髭の老人のようで、翁の風情がある。そう、時ならぬ翁の登場こそ芭蕉の心を動かしたのではなかったか。
 去来は子供のやることだから強いて頭でわかろうとしてはいけない。機関からくり、つまり計算や技巧的発想を捨てろという。しかし、去来がいったい何に感動したのか、もはやリアルタイムでそれを追体験できない以上、やはり何らかの解明が必要だろう。多分、反射的に雪をかぶった白髭姿が浮かんだのだろう。

3、山路やまぢきて何やらゆかし菫草すみれぐさ   芭蕉
 湖春こしゅん曰、すみれハ山によまず。芭蕉翁俳諧にたくみなりと云へども、歌学なきの過也あやまちなり。去来曰、山路に菫をよミたる證歌多し。湖春ハ地下ぢげの歌道者也。いかでかくハ難じられけん、おぼつかなし。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,30~31)

 の方は、芭蕉が『野ざらし紀行』の旅の途中にんだ句である。
 證歌しょうかというのは元来雅語の言い回しとしての正しさや語句の本意本情の正しさを証明する歌であって、いわゆる「本歌」とは違う。本歌というのは古人の歌の情や場面設定などを引用することで、いわばもとの歌を新たな解釈でカバーするものだ。これに対し、證歌というのは、内容的に異なっていても、言葉の使い方が古歌の例にかなっていればよしとする。
 そのため、基本的には湖春が問題にしているのは、山路の菫が雅語の本意本情として正しいかどうかだ。湖春は菫は野に詠むもので山には詠まないという。これに対し、去来は「山路に菫をよミたる證歌多し」と反論する。
 古代において菫は

 春の野にすみれ摘みにとこし我ぞ
    野をなつかしみひとよ寝にける
                  山部赤人やまべのあかひと
 山吹の咲きたる野辺のつぼすみれ
    このはるの雨にさかりなりけり
            『万葉集』詠み人知らず
 我が宿にすみれの花のおほかれは
    きやとる人やあるとまつかな
            『後撰集』詠み人知らず
 いその神ふりにし人をたづぬれば
    あれたる宿にすみれ摘みけり
                  能因法師

のように、野の菫と宿の菫が詠まれている。
 中世においても菫はそれに加えて岡の菫、小野の菫、田のくろの菫、庭の菫、、故郷の菫、篠原、武蔵野などがよく詠まれているが、山の菫はほとんど見られない。数少ないの例外が、『夫木抄ふぼくしょう』の箱根山の菫を詠んだ

 箱根山うすむらさきのつぼすみれ
    ふたしほみしほ誰かそめけむ
                 匡房

の歌だ。だが、これだけで去来の言うように「山路に菫をよミたる證歌多し」と言えるかどうかは疑わしい。また、芭蕉が果たしてこの歌を知っていたかどうかもわからない。
 證歌というのは、一句の中に俗語は一語だけに限っていた基本的に雅語で作り雅語の学習を第一にする貞門や初期の談林の俳諧では、重要な意味を持っていた。しかし芭蕉が、季題などの使い方に関して、證歌を参照すべしといったような発言は見られない。芭蕉は決して古典の本意本情を無視していいと言っているわけではなく、本意本情をあくまで重視する立場ではあるが、むしろ対象から直接感じ取ることによって新しい季題を発見したり、古い季題に大胆な新しい解釈を施したりすることを重視するもので、古典の不易の情と新味とを一致させる不易流行の俳諧こそ、芭蕉が目指すところのものだった。だから、山路の菫の句で菫を古人が山に詠んだことがあるかどうかはさして重要ではない。野の菫や宿の菫にかつて古人が見出した情を旅の途中の山路で見出すところに新味があったと言ってもいいだろう。
 證歌といえば、伊丹派の上島鬼貫うえしまおにつらがまだ若かった頃、西山宗因の同席する俳諧興行の席で、

    ちょっと見には近きも遠し吉野山
 腰にふくべをさげてふらふら     鬼貫

という句を付けたところ、宗因に吉野にふくべ(ひょうたん)は何か古歌や古事に出典があるのかととがめられ、あわてて即興で

 みよし野の花の盛りをさねとひて
    ひさごたづさへ道たどりゆく

という歌をこしらえ、確か万葉か夫木にあったなどと言って宗因を騙したエピソードがある。しかし、このエピソードも「いにしへは名所などに物もて付くる句は、古歌にても古事にても、たしかならん証拠なき句は付けさせ侍らず。」ともはや昔話のように語っている。
 湖春はそうした古いタイプの俳諧師で、去来としては無視してもよかったのかもしれない。しかし、師匠が和歌を知らないと言われれば、やはり面白くなかったか、ついつい具体例を引用するでもなく「山路に菫をよミたる證歌多し」などと言ってしまったのだろう。
 そして、去来はさらに「湖春ハ地下じげの歌道者也」というが、確かに湖春は宮廷歌人でないという意味では地下じげの歌人に違いない。この「地下」という言葉には「もぐり」という意味も込められているのだろう。

4、 笠さげて墓をめぐるや初しぐれ    北枝ほくし
 先師の墓にまうでての句なり許六きょりく曰、これわきよりいふ句なり。みづかラ何の疑有うたがひありてやとハいはん。去来曰、やハ治定ちぢゃう嘆息のや也。常に人をとふにハ、笠をさげて門戸にこそレ。是ハおもひのほかに墓をめぐる事哉ことかなやといへる也。おほそほ句ハ一句をもつきくべし。笠提て門に這入はひるやといはば疑なき外人よそびとの句也。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,31)

 「や」という切れ字は今日では何の問題もなく詠嘆の言葉として読まれているから、森川許六もりかわきょりくが何で「みづかラ何の疑有うたがひありてやとハいはん」と言ったのか、理由がわからないかもしれない。「や」に限らず、近代では切れ字の用法についてはほとんど問題にはならない。 正岡子規が明治31(1897)年の『或問』で切れ字について「大体より言へば切字は文法上の終止言を指すといひて可なるべし」と断定し、それに基づいて「古俳書の切字などを論ずる誤謬多きこと此類なり」と一方的に決めつけ、しまいには「切字など論ずるは愚の至りなれど問はるゝ儘に何くれと書いつけ置きつ」と締めくくったことで、それ以来切れ字を論じること自体が方法的に間違っているとされてきたからだ。近代俳句の句作法としてはそれでいいかもしれないが、それを安易に古典に適用するのは、法律を制定以前に遡って適用するようなものだ。
 切れ字は終止言とは関係なく、発句を一句として完結させる働きのある言葉で、切れ字が来たからといって、そこで文章が終わるわけではない。たとえば、

 花や雪あらしの上の朝ぐもり    二条良基にじょうよしもと
 花や雲見し面影おもかげのたつた山     周阿しゅうあ

の句で。「花や!」で一度文章が終止しているなんて言う人はいないだろう。「花や雪」は「花は雪(のごとし)」の強調の形であり、雪まで来て文章は終止する。むしろ本来「や」を詠嘆の言葉としてそこで終止させる用法は口語的なもの(今日でも関西地方で用いられているように)であり、雅語ではこうした用法はほとんど見られなかった。雅語ではむしろ係助詞の「や」から派生した言葉で、「や・・・らん」と言う係助詞の言い回しの「らん」の省略に近い。古くは『古今集』の

 谷風のとくる氷のひまごとに
    打ち出づるなみや春のはつ花
                  源当純みなもとのまさずみ

にその例がある。
 そもそも、係助詞の起源そのものが倒置によるものであり、「去年こぞとやいはむ今年とやいはむ」は「去年こぞといはむや今年といはむや」の「や」を前に持ってきたもので、そのため連体形で終ることになる。同様に、「鹿ぞ鳴くなる」は「鹿の鳴くなるぞ」の倒置、「人こそ見えね」は「人の見えね(ば)こそ」の倒置となる。倒置されても動詞の活用はそのまま残るため、連体形や已然形で結ぶことになる。だから、「花や雪」は「花は雪や?」の意味で、花は雪だろうかという疑いをあらわす。それゆえ、「疑いのや」となる。「打ち出づるなみや春のはつ花」は、「打ち出づるなみは春のはつ花や?」となる。このように倒置させた場合、「や」以下の部分は推量を含んだ主観的な断定となる。芭蕉の有名な句

 行春ゆくはるや鳥啼き魚の目は泪
 夏草や兵共つはものどもが夢の跡
 しずかさや岩にしみいる蝉の声

の「や」も、本来は

 行春ゆくはるに鳥啼き魚の目は泪や
 夏草は兵共つはものどもが夢の跡や
 しずかさに蝉の声の岩にしみいるや

の倒置と言っていいだろう。これを、

 行春ゆくはるに鳥啼き魚の目は泪
 夏草に兵共つはものどもが夢の跡
 しずかさの岩にしみいる蝉の声

とした場合と比較してみればわかるが、明らかに一句としての完結性が高い。その意味では、明らかに「や」は切る字なのである。

 行春に鳥啼き魚の目は泪
    悲しかりけり悲しかりけり

などとつなぐと川柳(付け句が独立したもの)と区別がつかなくなる。「や」という言葉が切れ字として働くのは、「や」以下の句を疑うことによって、「や」より前の句をより強調し、「や」以下を「や」以前に従属させる働きがあるからだ。だから、「や」を他の助詞に代えると、後ろのほうに重心がかかり、最後が体言止などの終止のはっきりしない言葉が来れば、必然的に後に何かまだ文章が続かなくては収まりが悪くなるのだ。
 さて、「笠提て」の句だが、森川許六の『俳諧問答』にはこうある。

 「加賀北枝集にいはク、序ニ翁三年忌に木曾塚へ上りて、追善の句書入たり。

 笠提て塚を廻るや村しぐれ

云句也いふくなりこの一句にて、大方奥まで決定せり。句にかくれたる事なし。湖南の衆もとりたるか、集の序文ニハ書入かきいれたり。中の七字のやの切字きれじ、うたがひなり遥々はるばる加州より師の追善ニ上りて、何のうたがひあるや。惣別そうべつ自句・他句といふ事をしらぬ程の作者也。此句ハ北枝が句ニハあらず。「塚をめぐるや」といへば他句也。自句ニハ非ズ。加賀の友などの句にて、北枝の事をおもひやりたる句也。」

 『去来抄』にいう「許六曰、これわきよりいふ句なり。みづかラ何の疑有うたがひありてやとハいはん。」というのは、この論難に他ならない。つまり、「笠提て塚を廻るや村(初)しぐれ」の句は「村(初)時雨に笠提げて塚を廻るや」の倒置、つまり時雨に打たれながら笠を被らずに手に提げて塚を廻ったのだろうか」という意味で、自分で回ったのなら「廻ったのだろうか」と疑うはずはなく、これは北枝の友が北枝のことを思いながら作った句だというのだ。
 これに対し、去来はこの「や」は「治定ちじょう嘆息」の「や」だと言い切る。これは単純な詠嘆の「や」で、近代俳句ではほとんどこの用法しか用いられない。これだと、句の内容は、普通なら門戸のうちに入るときに笠を手に提げるものを、なき芭蕉翁の追善だからこそあえて屋外の塚を廻るにも笠を手に提げたという意味で、「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」の不朽の名作を詠み、時雨の季節に死んだ師匠を慕って、あえて時雨に濡れたという意味に解する。その心がわかるのは紛れもなく北枝であり、よそ者が詠んだのなら、当たり前に、

 笠提て門に這入るや初時雨

とでもするだろう、と言うのだ。
 問題は、許六が雅語の「や」の用法にこだわっているのに対し、去来を始め、他の門人も普通に口語的な「や」の用法を用いてたということだろう。たとえば許六は、

 秋風や誰にかミつく栗のいが   幽泉

の句に対し、『俳諧問答』では「秋風や」と「誰」と、疑いの言葉が重複していて、「や」の後を疑うなら重複だし、「や」の前の秋風を疑う理由はないので、むしろこれは、

 秋の風誰にかミつく栗のいが

とでもしたほうが良いという。これだと「秋の風に栗のイガは誰にかみつく」の倒置となる。この場合、「誰にかみつくや」とすると、誰にという疑問詞と「や」という疑問詞が重複するからおかしいというのである。「誰にかみつくや」という二重疑問が可であれば、「秋の風や栗のイガは誰にかみつく」という倒置も可能であり、さらに「秋風や誰にかみつく栗のイガ」と倒置にすることも可能になる。
 ここでさらに許六は、榎本其角の、

 初雪や内に居さうな人ハ誰

の句を例に出し、これは「初雪や」と疑った後、後に雪の話題が続くから良いのだと言う。この場合、「初雪に内に居さうな人ハ誰や」の倒置だから、スムーズにつながるが、「秋風や」の句は「誰にかみつくや」と疑問詞が分離してしまっているので、確かに不自然な感じになる。

 おそろしや誰にかミつく栗のいが

であれば、「おそろしや」が分離して独立した文になり、「おそろしや!栗のいがは誰にかみつく」となる。
 こうした許六の議論は確かに筋が通っている。ただ、われわれから見て奇異に思えるとすれば、それは我々があまりに詠嘆の「や」を自明なこととして、他の「や」の用法を視野に入れていないからだ。
 これに対し『俳諧問答』の

 春風や焼野の炭の跡もなし   笑計
 七夕やいはむ事なし夜半過   猿雖

の場合は

 春風に焼野の炭の跡もなし
 七夕にいはむ事なし夜半過

と書き換え可能で、また問題は違ってくる。この場合、「や」より前を疑う理由もないし、「や」以下は「なし」というもう一つの切れ字で断定されてしまっていて、疑いの余地はない。異なる切れ字の重複でこれも許六にはNGとなる。許六によれば芭蕉の

 明月や座にうつくしき顔もなし

の句は「名月の」の上五が正しいという。確かに「名月や」という上五は『泊船』『初蝉』のような芭蕉の死後に出版された本に見られるもので、元禄3年8月16日付の加生宛書簡には「月見する」とある。 「名月の」の形もあったのか、許六の記憶違いかは定かではないが、その主張の正当性は認められる。
 さて、結局

 笠さげて墓をめぐるや初しぐれ    北枝

の句に戻るが、この句は確かに「初しぐれに笠さげて墓をめぐるや」の倒置であろう。ただ、この「や」は詠嘆の「や」であり、疑いの「や」ではない。おそらく、詠嘆の「や」というのは本来の雅語の「や」ではなく、今日関西方言で用いるような、「アホや」とか「まんまやないけー」とかいうときの口語の「や」であり、許六と去来との間に溝があったとすれば、この「や」を許六は理解していなかったし、認めてもいなかったという点だろう。同様な議論は、同じ「同門評」の32でも展開されている。

5、 春の野をただひとのミや雉子きじの声   野明やめい
 はじめハ春風や広野にうてぬ雉子きじの声なり。去来曰、うてるうてぬとあたりあひてやかまし。広キ野をただひとのみやといハん。丈草ぢゃうさう曰、広の字いやし。春の野ト有らんか。去来心腹ス。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,31)

 この句は初案では、

   春風や広野にうてぬ雉子きじの声

だった。「うてぬ」というのは「うてる」で心打たれるということか。辞書には「気をのまれる、圧倒される」とある。何かドキッとするような感覚だろう。雉の声は今では聞こえなくなってしまったが、昔は野原や田畑など、半分人工的な開けた土地に数多く生息していたのだろう。狩猟の対象にもなっていた。春の季題でもある。
 この句を去来は「うてるうてぬ」と「やかまし」と言う。「やかまし」は今日の「やかましい」という意味の他にかつては「ややこしい」という意味もあり、このばあい、「うてぬ」が「撃てぬ」に聞こえてややこしいということだろう。そこで、

 広き野をただひとのみや雉子きじの声

としたらどうかと言う。雉だけで春の季語になるから、春風は省き、「うてぬ」を「ただ一のみや」という長い言葉にしている。雉の一声に心打たれるのを、、一声に余韻を持たせ、「ただ」に感動を込めた言い回しで、さすがにうまい。ただ、「広き野」が何となく即物的で、殺風景な感じが残る。丈草が

 春の野をただ一のミや雉子きじの声

としたので、これには去来も脱帽だった。

6、 馬の耳すぼめて寒し梨子なしの花   支考しこう
 去来曰、馬の耳すぼめて寒しとハわれもいへり。梨の花とよせらるる事妙也ことめうなり。支考曰、何のかたき事か有らん。吾子ごしの如く、かしらより一すじにいひくださん社難こそかたけれと論ず。曲翠きょくすゐ曰、二子たがひ得処うるところやすしとし、不得処えざるところかたしとす。其論共に尤也もっともなり。しかれども惣体そうたいいはバ、一すじに謂下いひくださんハかたかるべし。来曰、翠亦得すゐまたえられざる故也ゆえなりおよそ修行ハが得処を養ひ、不得処を学バば、次第にすすミなん。得処になづんでほかをわすれバ、ついに巧を成すべからず。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,31~32)

 漢語では「梨雪」という言葉もあり、梨の白い花は雪にたとえられる。山桜に似ているが、花はやや大きめで、桜よりはややしっとりとした梨の花は、樹の形状からして華やかさに欠け、春も終わりの暖かい季節に咲くにもかかわらず、寒々とした印象を与える。『枕草子』の第三十七段には「梨の花、世にすさまじきものにして、ちかうもてなさず、はかなき文つけなどだにせず。」とある。
 去来が言うには、「馬の耳すぼめて寒し」までは自分でも思いつく。しかし、そこに「梨の花」を持ってくるというのは自分にはできない、と。
 写実というのは絵画であればそのまま視覚体験を再現するということも可能だ。しかし、言葉の場合、長い散文の描写ならまだしも、俳諧のような短い言葉での写実ということになると、いわゆる描写の精密さはほとんど問題にならない。むしろ、読者の多くが持つ共通のイメージや体験に訴えることによって、まざまざと江を浮かび上がらせる、いわば読者に「ある、ある。」と思わせることが重要になる。たとえば、芭蕉の『冬の日』の

    わがいほは鷺にやどかすあたりにて
 髪はやすまをしのぶ身のほど       芭蕉

といった付け合いでも、当時の人は「いるんだよなー、こうゆうの」という反応が期待できただろう。ただ、ほとぼりが冷めるまで、一時的に頭を丸めている人、直接あったことはなくても噂には聞くような人物像、それを巧みに思い起こさせるところにリアリティーが生じる。現代で言えば尾崎豊の『十五の夜』の、

 盗んだバイクで走り出す
 行き先もわからぬまま

のようなもので、実際にそんなことをやった人は少数だろうけど、話には聞いたことがあり、やってみたいと思ったことはあるような、そういう記憶は誰にでもあるだろう。こうしたぎりぎりのリアリティーが大衆に常に求められていることは確かだろう。去来の

 なにごとぞ花見る人の長がたな

の句にしても、実際に武士がおしのびで庶民に混じって花見に来ることはあるだろうけど、これ見よがしに刀を差していたかどうかはわからない。
 写実はもちろん、芭蕉の「塩鯛しほだひ歯茎はぐきも寒し」や「鶯の餅にくそする」や「汁もなますも桜かな」のように、いかにもありそうなというよりも当時なら誰もが目にしたことがあるようなものもあるだろう。ただ、「ありそうな」と「あった」との境界はそれほどはっきりしたものではない。あっても見過ごしている場合も多いからだ。「先師評」39

 妻呼雉子つまよぶきじの身をほそうする   去来

の句にしても実際に雉をつぶさに観察した人なんてそうはいないだろう。ただ、こう言われると何となく絵が浮かぶ。
 支考の

 馬の耳すぼめて寒し梨子なしの花

の句にしても、私自身馬のことはよくわからないから、本当に寒いときに馬がそうするのかどうかは知らない。しかし、ありそうだという感じはする。
 こういう絵が浮かぶことを、芭蕉は「姿」と呼んでいたようだが、支考の独自の俳論では、むしろ「虚」と呼ばれるものであろう。虚は実に対する概念で、そこには目に映るものは見せかけの世界で、現象の背後に隠された真実の世界があるという、当時の世界観が反映されている。虚とは仏教的に言えば「色相」であろう。「実」は「み」とも読めるように、「実」に対して「虚」を「花」と呼ぶこともできるだろう。朱子学的には「実」は「まこと」であり、「理」や「性」でもある。これに対し、「虚」は「気」といえよう。
 「実」とは風雅の誠であり、人間としての普遍的な感情、真情を言う。これがなければいかに句に姿があっても「謂いおうせて何か有る」ということになる。

 下臥につかみ分ばやいとざくら
 つき出すや樋のつまりのひきがえる

はこの類になる。ただし、これは発句の場合で、付け句は二句合わせて情が生じればそれでいい。  去来は「馬の耳すぼめて寒し」のような虚の部分は真似できても、実の部分をこういうふうに一見何の関係もないかのようなものと取り合わせて作るようなやり方が自分にはできないというのだろう。確かに凡庸な作者なら、「馬の耳すぼめて寒き月夜かな」だとか「馬の耳すぼめて寒き時雨かな」みたいに、「寒月」や「時雨」の出来合いの情にまとめ上げてしまうところだろう。それに比べると、「梨の花」には飛躍がある。こうした飛躍は理屈で思いつくようなものではなく、感覚的なひらめきであり、おそらく支考は芭蕉の「古池」の句もそのようなものと考えていたのだろう。
 これに対し支考は「難しくも何ともない。去来のように頭から一気に言い下すような句の方が難しい」という。支考の句は馬の耳と梨の花との取り合わせでできている句で、その関連性はあくまで感覚的なもので、「一すじに謂くだす」ようなものではない。むしろ、「馬の耳すぼめて寒き時雨かな」とでもすれば一筋に言い下せるし、「馬の耳すぼめて寒し初時雨」でも、一筋に言い下している。なぜなら、これは倒置で、「初時雨に馬の耳すぼめて寒し」とできるからだ。当時はこうした句が多かった。

 笠さげて塚をめぐるや村しぐれ

は「村しぐれに笠提て塚を廻るや」の倒置だし、

 春の野をただ一のミや雉子きじの声

は「雉子の声は春の野をただ一のミや」という意味になる。これに対し、

 馬の耳すぼめて寒し梨の花    支考

は、「梨の花に馬の耳すぼめて寒し」としても意味がよく通らない。つまり、支考の句は近代でいう二物衝突に近い。そこが去来としては「妙」だったのだろう。支考はこういう句の作り方が得意だった。他にも、

 春雨や枕崩るるうたひ本
 食堂じきどうに雀啼なり夕時雨
 元服や丹波の小雪ふれこんこ
 鳥のねも絶ず家陰やかげの赤椿

のように、余り必然性がなく感覚的に物を取り合わせてゆく句が支考には多い。その意味では支考の句の方が近代的なのかもしれない。蕪村もこういう句を得意としている。
 曲翠は、一般的には一筋に言い下す方が難しい、というが、去来は戒めて言う。それは曲翠が取り合わせる方が得意だからで、人にはそれぞれ得意なもの不得意なものがあり、得意なものに満足して不得意なものを学ばないなら進歩がなく、得意なものを大事にしながら不得意なものを学んでいかなければならない、と締めくくる。この無難な締めくくりこそ、いかにも去来らしい。

7、 白水の流も寒き落葉かな   木導もくだう
 其角曰きかくいはく、もハ今一ツ有の詞也ことばなり。去来曰、角ハこれを又もト思はるるにや。是等これらハ力もなるべし。寒きハ冬の惣体也そうたいなり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,32)

 言葉は生き物で、時代によって変わってゆく。そもそも文法というのは言語を記憶する際の形式で、生得的に持っているいくつかのパターンの中から一定の法則を選び、秩序付けてゆくにすぎない。わかりやすく言えば、人は生まれながらにいくつかの言葉をしまっておく容器を持っていて、どの容器に入れるか、その組み合わせで様々な言語の文法体系ができる。この容器の選択が、赤ちゃんが言語を自然習得してゆく段階で、各自の頭に独自に起こる以上、百人が百人同じ文法を学習するわけではない。ただ、一人だけあまりに人とかけ離れていると通じなくなるため、その場合は実際に会話を繰り返してゆく中で次第に修正される。しかし、数的に伯仲してくれば、そこでお互いに綱引きが生じ、最終的に勝ったほうが正しい文法となる。たとえばここ二三十年絶えず話題になる「ら抜き言葉」にしても、これは上一段活用やカ行変格活用する動詞の可能体を表現するのに、助動詞の「られる」を使うか、五段活用の動詞のような可能動詞を生成するかの間で揺れ動いているのにすぎない。「ら抜き言葉」は正確に言えば「ら」が抜けているのではない。「動く」を「動かれる」と言わずに「動ける」としたり、「学ぶ」を「学ばれる」と言わずに「学べる」と言う、その文法を上一段活用やカ行変格活用の動詞に拡大使用しているにすぎない。
 古典を学習するときに気をつけなくてはならないのは、古語と言うのは万葉の時代から明治初頭(言文一致運動以前)にかけて千年以上の幅があるため、その間でも言葉は絶えず変化しているということだ。だから辞書や参考書の意味を丸暗記しても、かえって先入観になる場合もある。言語の習得は外国語を学ぶ場合もそうだが、単語の丸暗記や文法の丸暗記ではまず物にはならない。それは中学・高校・大学で十年英語を勉強しても多くの人が簡単な日常会話すらできないのを見ればわかる。理由は簡単だ。丸暗記した単語は日本語の文法の容器に入ってしまうし、丸暗記した文法は単に知識として記憶され、新たな文法の容器を選択するわけではないからだ。だから、interectだとかconscienceとかいう単語を覚えても、それを英語の文脈の中で使いこなすことは難しいが、カタカナ言葉として「君にはインテレクトがない上、コンシエンスのかけらもないのか!」という使い方ならいつでもできる。これは日本語の語彙として記憶されているからだ。残念ながら、受験で覚えた何千という単語は、日本語の語彙を増やしただけだったのだ。それと同様、古文単語の丸暗記も、基本的には現代日本語の語彙を増やしているだけだ。ただ、古文の場合は実際に会話して学ぶということができないため、ただ用例からイメージをふくらまし、この時代はこういう言い方をしたというのを体に刻み込んでゆくしかない。
 「笠さげて」の句のときも治定ちじょうの「や」か疑いの「や」かが問題になったが、(詠嘆の「や」は現代語だ。)ここでも「又も」と「力も」が問題になる。これを今日の感覚で単純に「こう読むのが自然だ」だとか「こうしか読めない」と言われても困る。その人がいかに正確な標準語を話そうが、それは現代の言葉であって芭蕉の時代の言葉ではない。芭蕉が今のNHKラジオを聴いたとしても、外国語を聞いているようなものでチンプンカンプンだろう。
 この文章からわかるのは、其角はこの

   白水の流も寒き落葉かな   木導

の句を、何か寒いものがあって、それとは別に白水の落ち葉も寒い、という意味に取ったということだ。こうした「も」の用法を「又も」といい、それに対して去来は、この「白水の」の句の場合は「力も」だという。これだけではどういう用法かわからないが、そのあと「寒きハ冬の惣体也。」という言葉から推測するなら、冬の何もかもが寒い中でとりわけ白水の落ち葉が寒い、というそういう用法だと思われる。白水は清らかな流れのことで、白と水を合わせると泉になる。米のとぎ汁という意味での「しろみず」という言葉もあるが、それだと意味がよくわからない。むしろ「はくすい」と読んだほうがいいのかもしれない。
 あとは、この用法で句をよりよく解読できる別の用例を探せばいい。たとえば、

 二日にもぬかりはせじな花の春   芭蕉

の「も」はどうだろうか。これを「力も」だとすると、いつだって本当はぬかってはいけないのだけど、とりわけ正月の二日はしっかりしなくてはいけない、という意味になる。この句は通常「又も」に解釈されて、正月元旦はしっかりしなければならないが、二日も気を抜いてはいけない、という意味に解されている。しかし、この句は大晦日に酒を飲みすぎて元旦を寝過ごしたという自戒の句だということは、「宵のとし、空の名残おしまむと、酒のみ夜ふかして、元日寝わすれたれば」と『笈の小文』の前書きにあることから明らかだ。元旦はしっかりしていたが二日も抜かりなく、という句ではない。その意味では、この句の「も」も「力も」だとした方がわかる。

 今日ばかり人もとしよれ初しぐれ   芭蕉

の「も」はどうだろうか。この雲通常は「又も」と解され、今日ばかりは年寄りだけでなく若い人も年寄りの気分になってくれ、といった意味に解説されていることが多い。これに対し「力も」だとすると、時はいつでも過ぎ去り、あらゆるものは年を経て年老いてゆくが、初時雨の今日ばかりは人もより年を経てゆくのを感じる、といった意味になる。「人も年経れ」とすれば句の意味はわかりやすくなるが、あえてそれを嫌い、「降る」「経る」の古典的な掛詞を言外に留めたところが芭蕉ならではのテクニックだろう。
 このほかにも、

 塩鯛しほだひの歯ぐきも寒し魚のたな   芭蕉

は、用法が「白水の」の句によく似ている。こうした並べるものがないときに用いられる「も」は「力も」と考えていいのだろう。こうした「力も」の用法は、今日では失われてしまったかもしれない。しかし、かつてあった用法がわかれば、句の読み方にそれだけ広がりが出てくる。

8、 卯の花に月毛つきげの駒のよあけかな
 去来曰、予この趣向リキ。句ハ有明の花に乗込のりこむといひて、月毛駒・芦毛馬ハ詞つまれり。の字を入れバ口にたまれり。さめ馬ハならず。紅梅・さび月毛・川原毛かはらげ、おもひめぐらして首尾セず。其後六そのごりくが句を見て不才をたんず。に畠山左衛門佐さゑもんのすけいへバ大名、山畠佐左衛門やまばたけすけざゑもんと云ヘバ一字をかえず庄屋也しゃうやなり。先師の句調ととのハずんバ舌頭ぜつとうに千囀せよとありしハ、ここの事也ことなり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,32)

 「卯の花」の句は最初去来が、

 有明の花に乗込月毛駒のりこむつきげこま
 有明の花に乗込芦毛馬のりこむあしげむま

などいろいろ下五が決まらず行き詰まっていたが、それを見た許六が語順を思い切って入れ替え、

 卯の花に月毛の駒のよ明かな

にしたという。
 語順を入れ替えると句の雰囲気が変わるのは、芭蕉の句の推敲過程でも見ることができる。たとえば、

 旅に病んでなほかけめぐる夢心
 旅に病んで夢は枯野をかけめぐる

の場合はどうだろうか。発句は十七文字で短いとはいえ、絵画のような静止した空間を描いているのではなく、あくまでいくつかのイメージが時間軸上に生起してゆく過程を表す。「かけめぐる夢心」とすれば、旅に病んで何が駆け巡っているのだろうか、と読者は結末を想像し、最後に夢が駆け巡っているのか、と納得する。「夢は枯野を」だと、旅に病んで、その旅人の夢はどうなったのか、と想像しているところに、なんと枯野を駆け巡っていたのか、と驚く。この順序によって、句が盛り上がるかどうかが大きく左右される。上五の難しさはいわば「つかみ」の難しさで、読者に何が始まるんだろうと期待させる難しさなのに対し、下五の難しさは「落ち」をつける難しさだ。
 越人のにも

 思い切る時うらやまし猫の恋



 うらやまし思い切る時猫の恋

に直した句があったが、これも句のつかみとしては「うらやまし」で始まったほうがインパクトはある。
 去来の迷いも、「有明の花」で始まり、夜明けの桜の幻想的な風景を振っておいて、そこで何が起こるのか読者に期待させてしまうため、下句でそれを超える趣向がないと尻つぼみになってしまう。下五がどうやってもしっくり来ないのは、上句が重すぎたからだ。
 許六は何となくそれに気付いていたのだろう。桜の夜明けでは月毛の駒もかすんでしまうので、桜よりは地味な卯の花と取り合わせ、夜明けを最後に持ってくるところで、月毛の駒を夜明けの美しさの添え物としている。
 ただ、語順の重要性は盛り上げ方の問題であって、畠山左衛門佐の例が適切かどうかはよくわからない。 畠山左衛門佐というといかにも大名のような堂々とした名前だが、山畠佐左衛門だと立派そうだがどこか風格に欠ける庄屋クラスの名前になるというが、これはあまり関係がないのではないか。ネタとして面白いから使ってみたかっただけだろう。

9、 鶯のないて見たればなかれたり
   おきざまにそつとながし鹿の足   杜若とじゃく
   干鮭からざけとなるなるゆくや油づつ     雪之せつし

 去来曰、伊賀の連衆れんじゅにあだなる風あり。これ先師の一体なり迁化せんげの後益々ますますおほし。如此かくのごとき類也たぐひなりその無智なるにハ及がたし。支考曰しこういはく、いがの句あるいハさしてもなき句ハ有れども、いやルハ一句もなし。いがの連衆ハ上手じゃうずなり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,32~33)

 「あだなる」というのは通常ははかない、中身のない、というあまり良い意味ではない。あだなる風というのは、ただ思いついたことをそのまま言い放ったような作風で、良い意味では嫌味がなく素朴だが、悪い意味では洗練さを欠いた田舎臭い句といえよう。
 芭蕉の晩年行き着いた「軽み」は、古典から受け継がれたものの本意本情を重視しつつも、出典の重さを感じさせないような、表向き日常卑近なリアルな題材で本意本情を表現しようとするもので、それが蕉風の最終的な形となった。
 おそらく、伊賀のあだなる風というのは、その「軽み」を十分理解せずに、ただ軽ければ良いという方向にいってしまったのだろう。

 鶯のないて見たればなかれたり

の句は、鶯の初音がテーマだが、啼いてみたら啼くことができたという、ただそれだけの句で、春の目出度さは感じられない。

 おきざまにそつとながし鹿の足   杜若とじゃく

これも起き上がってみたら鹿の足が結構長かった、とそれだけの句で、特に秋の啼く鹿の悲しげな情はない。

 干鮭からざけとなるなるゆくや油づつ     雪之せつし

これも、背負った干鮭(今日の新巻鮭あらまきじゃけとはちがい干してカチンカチンになったもの)と油筒が歩きたびにぶつかって音を立てるというもので、歳末の風物ではあるが、だから何なんだと言いたくなるような句だ。こうした句は、しいて言えば芭蕉の

 あまのやは小海老こゑびにまじるいとどかな

風体に近いだろう。
 去来はこれを「無智なるにハ及がたし」といい、支考は「上手」という。去来と支考の作風の違いだろう。去来は句をひねりすぎるあまりにかえって月並みな発想を脱しきれず、支考はひらめきで面白い取り合わせをするが、一発芸で技巧的ではない。去来から見ると、伊賀の連衆は古典も知らないし技術もないと思うし、支考から見ると素朴で嫌味がないのは技術があるからだとする。もっとも、支考がやがて起こす身のはやその延長線上の伊勢派の作風も、この「あだなる風」とそれほど遠くなかったのではなかったか。

10、 鶯の舌にのせてや花の露   半残はんざん
 去来曰、乗スるやといハバ風情ふぜいあらじ。のせけりとハバ句なるまじ。てやの一字千金。半残はんざんに手だれなり丈草曰ぢゃうさういはく、てやといへるあたり、上手のこままはしを見るがごとし。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,33)

 これは切れ字の微妙な使い方で、問題は現実に鶯の舌に花の露が乗っかっているはずなく、あくまで花の露が乗っかっているかのように澄んだ美しい声だというところにある。

 鶯の舌に乗するや花の露

では、この場合の「や」は疑いの「や」で、鶯の舌に花の露を乗するや、という倒置になる。句としては意味は通るが、これだと「これから乗せるのだろうか」というニュアンスになり、既に鳴いた鶯の声の美しさが引き立たない。

 鶯の舌に乗せけりや花の露

はまったく論外で、これでは現実に鶯の舌に花の露が乗ってしまったという、何ともシュールな光景になってしまう。
 鶯は既に鳴いているのだから、時制としては過去でなければならないが、あくまで過去を振り返っての推量であり、「てや」が正解となる。

11、 鶯の身をさかさまにはつねかな     其角きかく
    鶯の岩にすがりて初音哉はつねかな    素行そかう

 去来曰、角が句ハ春煖しゅんだん乱鶯らんあう也。幼鶯ようあうに身をさかさまにするきょくなし。初の字心得がたし。かうが句ハ鳴鶯めいあうの姿にあらず。岩にすがるハ、あるいハ物におそはれてとびかかりたる姿、或餌あるいはゑひろふ時、又ハここよりかしこへとびうつらんと、つたひ道にしたるさま也。およそ物を作するに、本性ほんじゃうをしるべし。しらざる時ハ珍物新詞に魂を奪ハれて、外の事になれり。魂を奪るるは其物に着するゆゑ也。これ本意ほいを失ふといふ。角が巧者すら時にとつ過有あやまちあり。初学の人つつしむべし。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,33~34)

 句の姿は重要だし、誰もが「ある、ある。」というようなものや、「いかにもありそうな」というのは、句にリアリティーを与える。しかし、誇張しすぎると、いかにも作りっぽくなってしまう。
 ベタな漫画に「遅刻ー!」と言いながらパンをくわえて走る人がいたりするが、実際にこんな人を見た人がいるだろうか。TVアニメの「サザエさん」の主題歌に「お魚くわえたどら猫」という歌があるが、本当に裸足で猫を追っかけている主婦を見たなら感動ものだろう。
 鶯の初音だから、何か不慣れで、通常とは違う突飛なことをやりそうだ、という雰囲気はわかる。しかし、

 鶯の身をさかさまにはつね哉     其角

はいかにも大げさで、やはり去来に、これは春も爛漫で乱れ鳴く鶯ではあっても初音ではない、と突っ込まれてしまった。

 鶯の岩にすがりて初音はつね哉    素行

も同様、実際にそんな岩場の危なっかしいところで恋鳴きはしない。
 これらは鶯の初音という、初春の目出度い心を表現したものではなく、むしろ何か目新しい趣向を求めるあまりに、現実離れし、本来の目出度い情を逸してしまっている。俳諧は新味を命とするが、目新しさばかりを求めると、かえって荒唐無稽になってしまう。

12、 桐の木の風にかまハぬ落葉かな   凡兆ぼんてう
 其角曰きかくいはくこれ先師の樫木かしのき等類也とうるゐなり。凡兆曰、しからず。ことばつづきの似たるのミにて、こころかハれり。去来曰、等類とハいひがたし。同巣どうさうの句なり。同巣をもつさくせバ、今日の吟たる、こがらしの地にもおとさぬ時雨哉しぐれかな云巣いふすを借りて、瀧川の底へふりぬく霰哉あられかな言下ごんかにいふて、いささか作者の手柄てがらなし。されども兄より生れまさりたらんハ又各別也またかくべつなり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,34)

 まだ著作権なんて物のなかった時代だが、やはり過去の有名な作品にそっくりだと非難されるのは、人間の普遍的な価値意識といっていい。ただ、どこまでが許されるのかということになると、人によって意見が分かれる。今日のJ-popでも「パクリ」と言われる曲は多く、その程度も様々だ。ただ、裁判になっても盗作が認められる例は極めて稀だ。まして、コード進行が同じだとか、ギターやベースのフレーズが似ているだとか、全体に雰囲気が似ている程度ではほとんど問題にならない。また、ヒップホップでいうサンプリングは盗作ではなく、あくまで借用であり、いわば他人の曲を自分の曲だと言い張れば盗んだことになるが、人の曲を使っているだけだから、使用許可を取ったかどうかは問題になるが、盗作にはならない。

 桐の木の風にかまはぬ落葉かな   凡兆
 樫の木の花にかまはぬ姿かな    芭蕉

確かにこうして並べてみると似ている。「の木の」「にかまはぬ」「かな」と、十七字中十字は完全に一致している。しかし、一致の多さという点では、

 世にふるもさらに時雨の宿りかな  宗祇
 世にふるもさらに宗祇の宿りかな  芭蕉

の方が上だろう。この場合、宗祇の句を使っているのが明瞭で、その宗祇の名を使っているから、こっそりと盗んだわけではなく、堂々と借用したというもので、ヒップホップのサンプリングに近い。

 はぜ釣るや水村山郭酒旗すいそんさんかくしゅきの風   嵐雪らんせつ

これも杜牧とぼくの詩からの引用が一目瞭然で、借用といえよう。
 これに対して凡兆の句は借用ではない。そこが微妙なところだ。似ているけど句の内容はまったく違うから別のものだという凡兆の主張も一理ある。
 去来は同巣どうそう同竈どうそうともいう)という微妙な概念を使う。鶯の巣から郭公ほととぎすが育つようなイメージか。自分の句を例として、

 こがらしの地にもおとさぬ時雨哉しぐれかな
 瀧川の底へふりぬく霰哉あられかな

という同巣の句を作ってみせるが、語句の一致は凡兆の句よりはるかに少なく、内容的には凡兆の句より近い。木枯しが激しく、時雨も地に落とさないようだ、という趣向を瀧川の底に届くくらい霰が激しいに変えたものだ。時雨は弱いから地に落ちず、霰は強いから川底にまで届く、というふうに違えてはいるものの、発想は同じといっていい。これでは「いささか作者の手柄なし」だろう。
 ところが、凡兆の句は発想がまったく違う。芭蕉の句は鎮守の森に黒々と茂っているようなお堅い樫の木のようなあなたは、今の流行の花にはかまわずに、我が道を行きなさい、という三井秋風への励ましの句なのに対し、凡兆の句は桐の大きな落ち葉が風もないのにひらひらと散ってゆく姿に目を留め、天下の秋を知るといった句だ。だから、凡兆の句が果たして同巣と言えるかどうかは疑わしい。異巣でも姿形が似ることはある。
 似ているといえば、

 木枯に二日の月の吹き散るか   荷兮かけい
 木枯に浅間の煙吹き散るか  高浜虚子

もこの凡兆のケースに似ている。十七文字中十一字の一致で凡兆の句より一字多く一致している。たぶん虚子なら、二日の月の散るのは空想だが浅間の煙の散るのは写生だからまったく違うとでも言いそうだ。
 いわゆる知的所有権というのも、絶対的なものではない。それがなければ新しいものを発明しようという意欲が薄れ、文明の遅滞を招く恐れがあるが、あまり極端に認められてしまうと新しい技術の使用が限られた人しかできなかったり、改良がしにくくなったりして、やはり文明の遅滞を招く。たとえば、エイズの特効薬を発明しても何の報酬もないなら、開発しようという意欲も薄れる。だからといって、特許使用料があまり高ければ、薬は高価になりすぎて金持ちだけのものになるし、一つの会社だけで独占されれば、必要な改良をせず、既得権にどっかりと胡坐あぐらをかいてしまう可能性もある。
 結局、等類の問題も、作品の進歩を考えて決めるべきだろう。ちょっと似ているだけでだめなら新たな創作が困難になり、結局作者になろうとするものがいなくなり、そのジャンル全体を衰退させる。中世の和歌には過去の有名な作品について、その上五文字を使ってはいけないみたいなものもあったらしいが、そこまで厳しいと、創作の幅が限定されてしまう。パクリとわかっていても、よほどそっくりでない限り大目に見た方が、かえってそのジャンルの発展につながる。そして、大事なのは結局最後は良いものが残り、たいしたことのないものは忘れ去られる、ということだ。小林亞星のCFソング『どこまでも行こう』をパクッたといって一時問題になった曲があったが、今となってはそれが誰の何ていう曲だったのか、思い出す人も稀だろう。その意味では「されども兄より生れ勝たらんハ又各別也。」というのが一番重要なのかもしれない。
 本来人々の生活を豊かにするすばらしい発明や創作は、人類の共有財産なのだが、発明者や創作者に報酬がなければ意欲もそがれてしまう。そこで、一定期間の独占を認め、そこから上がる収益を発明者の報酬に当てるというのが、今日の知的財産権の基本的な考え方だ。このやり方だと、その発明・創作のもたらした社会的な価値が、売り上げという形で反映されるため、透明性が高く、官僚が恣意的に価値を算定するような社会主義的システムよりは公正といえよう。
 しかし、俳諧の場合、句を独立した商品として販売して利益を生むということはきわめて困難で、今日の俳人でも、句集の印税だけで生活できる人は皆無といっていいだろう。芭蕉の時代では基本的に句は商品ではなく、あくまではいかい師としての名を高めるためのもので、其行け大量生産する必要はなく、むしろ長期間かけて推敲して質の高い作品をタイミングよく発表することで名を上げる方が重要だった。そして、そのことでたくさんの弟子を集めたり、点料や興行料を吊り上げることのほうが重要だった。今日の俳句でも、基本的には俳句教室や投句欄の担当や講演は俳人の重要な収入源だ。
 句自体がほとんど売り物にならない以上、盗作自体はさほど知的財産権を侵害するわけではない。むしろ、剽窃ひょうせつしたという噂が立つことで、俳諧師としての名が廃ることのほうが重要だっただろう。「等類」という言い方が何よりもそれを示している。つまり、剽窃の意図がなくても、偶然の一致でも剽窃の疑いを持たれかねない句は発表すべきではなかった。
 句自体は商品にならないのだから、自分の納得できない句を自分の名で発表すれば、自分の名を落とすだけで何のメリットもない。『去来抄』でも、他人がいじった句の作者の名前を誰にするかは、そうした作者同士のプライドの問題として考えればよくわかる。等類をめぐるこの議論も、知的財産権というよりは、凡兆の名、蕉門の名の問題と考えた方がいい。

13、 駒買こまかひに出迎ふ野べのすすきかな     野明やめい
 去来曰、駒買こまかひに人の出迎ふたる野べのすすきにや。またすぐすすき風情ふぜいにや。野明やめい曰、すすき)の上なり。来曰、はじめよりさハ聞侍ききはべれど、吾子ごしの俳諧のかく上達セんトハおもハざりし。ただ驚入侍おどろきいりはべるのみ。支考曰、句の秀拙ハともかくも、野明この場をしらるる事いとふしん也と感吟す。予この人ををしふる事としありかつ不通つうぜずひととせ先師曰、廿日許はつかばかりの旅ねに抜群ばつぐん上達せり。常に俳友なく修行むなし。しかども先師をはじめ、丈草・支考なと折ふし会吟して、ほかのわるこうをしられず、おのづからかかる句もきたれり。まことに手筋を尊むべし。ただ平生へいぜい俳意弱きを難とす。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,34~35)

 駒買いというのは馬の売買をする人で、昔は野に市が立ち、そこに馬買いたちが集まり、馬を求めて大勢の人が集まった。

 駒買こまかひに出迎ふ野べのすすきかな     野明やめい

 この句は「駒買いに出迎える、野辺の薄」とも「駒買いに(人の)出迎える野辺の、薄」との取れるため、去来が問いただしたところ、前者、つまり野辺の薄が駒買いを出迎えているという意味だという。これを聞いて去来は野明が上達したと喜ぶ。支考も、句のうまい下手はともかくとして(つまり下手ということか)、どうしてこういう境地の句が詠めるのか不思議だという。
 駒買いが集まる市場に出迎える人がいて、そこに薄があるというのでは、単に見たままを詠んだだけで、近代では写生かもしれないが、特に深い意味はない。駒買いを薄が出迎えているという発想が、ここでは重要だ。薄はその形態からして手招きしているような風情があり、華やかさのない、枯れたような薄の穂に手招きされるところに、市場の賑わいとは裏腹に売られていく馬の悲哀を表現している。馬への共感と寂しげな薄の風情が重なり、確かに一つの境地に達している。
 野明には俳諧の友がいず、なかなか上達しなかったが、芭蕉や丈草・支考と二十日ばかり交際したことで、急に上達したという。上達には良い友にめぐり合うことが重要だという。確かに環境は重要だろう。孟母三遷もうぼさんせんの教えにも通じる話だ。

14、 嵐山あらしやま猿のつらうつ栗のいが   小五郎こごらう
    花ちりて二日おられぬ野原かな

 正秀曰まさひでいはく、嵐山ハ少年の句にして、しかも風情あり。落花ハわる功の入たる処見えて、少年の句と謂がたし。去来曰、二日おられぬといへるあたり、他流の悦ぶ処にして、蕉門の大ひに嫌ふ事也。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,35)

 「嵐山」の句は上五の「嵐山」と下七五の「栗のいが」が羅列された感じで稚拙な感じがするし、栗のいがが猿の面を打つという趣向も絵が浮かんで面白いし無邪気な感じがするが、想像力は豊かでも、それほどリアリティーはない。そういう点では子供の考えそうな、ということになるのだろう。
 「花ちりて」の句は、花が散ってしまった殺風景な野原には二日といられないという意味なのだろうが、花というのは散る様も風情があり、散った後の名残を惜しみ、花は散っても心の花は散らないというところに風流の心がある。花が散ったからもう用はないというのはいかにも非情で無風流な感じだ。
 この二句は浪化ろうか編の『有磯海ありそうみ』の句で、どちらも子供の句だという。前者は野明息十一歳とあり、後者は嵯峨農十二歳市とあり、句風の違いは親の教え方の違いか。去来は「他流の悦ぶ処にして、蕉門の大ひに嫌ふ事也」とはいうものの、浪化も一応北陸蕉門の中心人物で、なぜこのような句を採ったのかはわからない。子供ならこの程度でいいかというところか。

15、ちる時の心やすさよけしのはな   越人ゑつじん
 其角きかく許六共曰きょりくともにいはくこの句ハ謂不応故いひおほせざるゆえ別僧そうにわかる前書まえがきあり。去来曰、けし一体の句として謂応いひおほセたり。餞別せんべつとなして猶見なほけんあり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,35)

 咲く花を悦び散る花を悲しむのは風雅の基本であり、生命に共感するというのはそういうことだ。生まれてくるのは目出度く、死ぬのは悲しい。それと同じだ。ただ、人はいつかは必ず死なねばならぬ運命ゆえに、散りぎわは安らかであるにこしたことはない。古くから桜の散りぎわの潔さは日本人にとって心に刻み込まれてきたものだった。(最近では「遺伝子に刻み込まれてきた」という言い方をする人が多いが、あまりいい比喩とはいえない。)「ちる時の」の句はその意味では散りぎわの潔さを感じさせる句ではある。
 しかし、この句が路通ろつうとの別れの句だったという事情がわかると、話はややこしくなる。路通については「先師評」のの「行く春を」の句のところで述べたが、破門された門人で、そのため『猿蓑』では名を出さずに「別僧(僧に別る)」という前書きをつけて掲載されていた。おそらくそのとき、選者の一人であった去来は、そんな前書きは要らない。芥子の花の句で十分だと主張したのだろう。去来はこの句が路通との別れの句だという暗示すら嫌ったのだろうか。路通と去来の間に何かよほどのことがあったのだろう。
 ただ、純粋に芥子の花の句としてしまうと、本来花が散るのは悲しいはずなのになんで「心安さよ」なのか、いくら潔いといっても落花は悲しいはずではないかと、疑問が残ってしまう。そこが「謂い応せぬ」所なのだろう。この状は、花そのものを詠んだ句ではなく、芥子の花が散るように潔く去っていった、と餞別句にした方が分りやすいのは確かだ。
 ところで、この路通だが、岡田喜秋おかだきしゅうの『旅人・曾良と芭蕉』(1991、河出書房新社)によれば、正徳元(1711)年に並河誠所と関祖衡の二人が書いた『伊香保道記』に、榛名神社で、昔芭蕉と旅したという仙人のような老人に会ったとあり、これが路通ではないかといっている。路通は蕉門を破門された後も諸国を放浪し、元文3(1738)年89歳まで生きたといわれている。(もっとも蕉門の一員ではなくなったというだけで、蕉門の興行に参加することはあった。)

16、いなづまのかきまぜてゆく闇よかな   去来
 丈草ぢゃうさう支考共曰しこうともにいはく、下の五文字すぎたり。田づらとか何とぞありたし。去来曰、物ををくべからず。ただ闇夜也。両子曰、もっともの句にしてつたなしと論ズ。其後さうに語りて曰、退しりぞいておもふに両士はいなづまの句と見らるる也。ただ電後闇夜でんごあんやの句也。ゆゑゆくとハまうし侍る。草曰、さバかりハ心つかず。いかが侍らん。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,35 ~36)

 この句は今日であればこれで良いように見えるかもしれない。しかし、当時としては稲妻が闇夜にまたたくのは当たり前のことであり、荷兮の「蔦の葉は残らず風のそよぎ哉」の句と同様、くだくだと長く引き伸ばしただけで、つまり下五文字はなくてもよく、むしろ他の景物と取り合わせたほうがいい、という反応となった。
 稲妻というと「電光石火」という言葉があるが、これは本来雷に打たれたように一瞬にして悟りを開くことであり、芭蕉にはこれを逆手に取った、

 稲妻にさとらぬ人のたつとさよ   芭蕉

の句もある。その意味で、闇夜の稲妻は、無明の闇に一瞬にして悟るという寓意も読み取れるが、それも当時とすればいかにも月並みだろう。そういう点からも「もっともの句にしてつたなし」というのは妥当だろう。
 しかし、去来はこの句について、これは闇夜の稲妻の句ではなく、稲妻が去った後の闇夜の句だと説明する。つまり、「かきまぜてゆく」ではなく「かきまぜて、(稲妻の)ゆく闇夜かな」と読めというのだ。いささか無理がある読み方ではあるが、丈草はそれで納得したようだ。稲妻が盛んに空を引っ掻き回しながら、最後に闇が残ったというのであれば、なるほど動の後の静、古池の蛙のような余韻が残る。ただ、丈草も支考もすぐにはそういうふうに聞こえなかったところに、やや「謂い応せず」なところがあったのではないか。いかがだろうか。
 稲妻に景物という発想だと、

 いなずまのかきまぜてゆく田づらかな

はわりと無難な解決策だろう。しかし、その何十年か後に蕪村はこう詠んでいる。

 いなづまや波もてゆえる秋津島   蕪村

田づらどころか、なんと日本列島全体を付けてしまった。さすがにこれは丈草や支考でも思いつかなかっただろう。

17、時鳥ほととぎす帆裏ほうらになるや夕まぐれ   先放せんばう
 はじめハ下を明石潟あかしがたいへり。渡鳥集わたりどりしふにあらたむ。可南曰かないはく、いかなるゆへにや。去来曰、時鳥ほととぎす帆裏ほうらに成るやと云にて景情足れり。是上このうへに明石潟をもとむるハ心のねばりなり。可南曰、同集卯七うしちの時鳥も明石也。いかが変り侍るや。来曰、卯七句ハ明石といはねバ、すずしけれと云本意いふほいたたず。ほ句ハ趣向を二つ三つとりかさぬる物にあらず。又下意したごころもたセて作する事ハ各別かくべつ也。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,36)

 明石に時鳥というと、「先師評」10の「面梶おもかじよ」の句の時に、芭蕉が「明石の時鳥といへるもよし」と言ったのに対し、去来は「明石の時鳥は知らず」と突っぱねている。
 実は、明石の時鳥の歌は『新古今集』に一首だけある。

   「海辺の時鳥」といふことを詠んだ歌
 二声ふたこゑと聞かずばでじほととぎす
    幾夜いくよ明石の泊りなりとも
                     按察使公通あぜちきんみち

明石という地名と時鳥に「夜を明かす」とを掛けている。
 去来は明石の時鳥に興味がないのか、「時鳥帆裏に」の句の初案

   時鳥帆裏になるや明石潟

も、やはり「明石潟」は余計だという。句の意味は、明石潟に船が着いて時鳥の声に帆の裏から聞こえるということだろう。明石に「夜を明かす」の意味を汲み取るなら、これは明け方に帆を上げて港を出ようとすると、帆の裏から時鳥の声が聞こえてくる、という趣向だったのかもしれない。それを、

 時鳥ほととぎす帆裏ほうらになるや夕まぐれ

とすれば、夕暮れで港に帰る船に、帆の裏から時鳥の声が聞こえる、という趣向になる。画題としては定番の瀟湘八景しょうしょうはっけいの「遠浦帰帆」を思わせる、風雅ではあるが月並みの感のある趣向だ。
 去来によれば、水辺の夕暮れの時鳥と明石の時鳥の両方は要らない、ということで、もとより明石の時鳥にさしたる意味を認めない去来が、明石の時鳥の方をカットするのは当然だろう。確かに元の句は二兎を追った感じで、イメージが散逸するのに対し、去来の改案は夕暮れの風情だけに絞り込まれて焦点ははっきりする。ただし、新味に乏しいのは否めない。

 これに対し、可南は卯七の

 時鳥当てた明石もずらしけり   卯七

という句出、この時鳥と明石はどうなのかと問う。柿本人麻呂かきのもとのひとまろが「明石のとより大和島見ゆ」と詠み、古来和歌で名高い明石の地に、ここなら時鳥が聞けるかと当てにしたのに聞けなかったという意味で、最初から明石の時鳥だけがテーマだから、当然これは変えようがない。ただ、去来はここでも強情に「明石の時鳥」の本意を認めず、「ずらしけり」の本意が立たないという。
 この議論は表向き可南との議論になっているが、可南は去来の妻であり、何か女房の名を借りた去来の作りという感じがしないでもない。野水やすい

 面梶よ明石のとまり時鳥   野水

の句を『猿蓑』の撰のときに落選させたことが後々まで尾を引いて、苦しい言い訳をせざるを得なかったのだろうか。

18、 とられずバ名もなかるらん紅葉鮒もみぢぶな   玄梅げんばい
 許六曰きょりくいはくこれ説教せっきゃうはねといふ。かんぜん者ハなかりけりトなりまた曰、或人あるひと路上にて人にあひて、かみへやゆくべし、しもへや行べしと路ヲとへるが如し。てにをはあハず。去来曰、上へや行べしといふハ、上ハ疑ひ下は決し語路不通。疑ひて決するといふてにはにもあらず。此句このくハ上に疑ひ有りて下をはねたり。又らんはらしにかよふ。はねたる事くるしからじ。りく曰、穴勝あながちにはねたるをいハず。惣体そうたいてにをはあしきトなり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,36)

 ここでまた「てにをは」にうるさい許六の登場。句の方は、紅葉鮒も取られなかったならそんな名もなかっただろうという意味で、言い回しとしては「雉も鳴かずば撃たれまい」と言う諺に近い。この場合「・・・ずば・・・まい」というように、断定の言葉を取ることが多いのだろう。多分、

 取れずば名もなかるべし紅葉鮒

ならOKなのだろう。
 今日なら「取られなかったならそんな名もなかっただろう」と、仮定には推量で結んでいいのだが、当時としては仮定は断定で結ぶものだったのか。

  植ゑずば聞かじ荻の上風うはかぜ   長綱朝臣ながつなのあそん

という句もある。
 おそらく、本来日本語は仮定には断定で結ぶ言語だったのだろう。「なせばなる」「見なきゃ損」「打てば響く」など、こうした言い回しはいくらもある。これを「なせばなるだろう」と言ったのでは何だか間延びしてしまう。人を脅迫する時にも、「金を持ってこなきゃ人質を殺す。」ならまぎれもなく日本人だが、「金を持ってこなかったならば、人質を殺すでしょう」と言ったら犯人は外国人だ。
 事実に反する仮定をすれば、その帰結は当然想像上のものなのだから、推量で結ぶのが論理的に正しいのかもしれない。だから、「とられずバ名もなかるらん」という言い回しを説教はねというのはうなずける。学者や高僧のような、日頃論理的にものを考える訓練をしている人ほど、こういう論理的には正しいが日本語として不自然な言い回しをしやすい。「感ぜん者はなかりけり」は「感じないものはない」という意味で、説教節の常套句だが、これは単純な「ぬ」が省略されて「ん」になったもので、「知らぬ」を「知らん」というようなものだが、今でも「知らぬものはない」を「知らんものはない」というと変なので、やはり当時としてもちょっと変な言い回しだったのだろう。このような「ぬ」や「む」が「ん」に変化することを当時は「はねる」と言ったようだ。
 もう一つの「かみへやゆくべし、((しもへや行べし」は単純に係り結びの間違い。「べき」と連体形で受けなくてはならない。許六の「てにをは」がおかしいという指摘はいいのだが、どれも「てにをは」がおかしいという以外には相互に関連のない例で、混乱を招きやすい。
 去来は係り結びをよく知らないのか、「かみへやゆくべし、しもへや行べし」のおかしさを、上で疑って、下で断定するからだという。そして、「取れずば」の句に関しては上も「疑い」で下も疑いの「らむ」をはねたもので、「らむ」は「らし」にも通じるからおかしくないのではないか、という。これは理屈だ。だが、論理的に正しいからといって文法的に正しいとは限らないというのが、学のある人ほど陥りやすい誤りでもある。許六はこう答える。「別にはねたからどうのこうのではなく、全体的に『てにをは』がおかしい句だ。」
 「てにをは」が整わない句というと、近代の

 むさしのの空真青なる落葉かな   水原秋桜子しゅうおうし

の句が何か気になる。「真青なる」は連体形で、そのまま読むと落ち葉に係ってしまい、落葉が真っ青という意味になってしまう。武蔵野の空に真っ青な落葉が降ってくる、という意味ならそれはそれでシュールでいいが、それでは『ホトトギス』の写生句ではなくなってしまう。かといって、

 むさしのの空真青なり落葉かな

だと、切れ字が重なって語呂が悪い。

 落葉してむさしのの空真青なり

なら句の姿としては落ち着くが、これだと葉が落ちたから空が真っ青だという理屈の句になってしまう。結局、もともと理屈でできている句を、理屈がなさそうに見せかけようとして言葉を並べなおしたため、「てにをは」に無理が生じてしまったのだろう。

19、 鞍坪くらつぼ小坊主こばうずのるや大根引だいこひき    はせを
 蘭国曰らんこくいはく此句このくいかなるところ面白おもしろき。去来曰、吾子今ごしいマ解しがたからん。ただ図してしらるべし。たとへバ花を図するに、奇山幽谷霊社古寺禁闕きんけつによらバ、その図よからん。よきがゆへに古来おほし。如此類かくのごときのたぐひハ図の悪敷あしきにハあらず。不珍なれバとりはやさず。また図となしてかたちこのましからぬものあらん。此等元これらもとより図あしとて用ひられず。今珍らしくナル図アラバ、これを画となしてもよからん。句となしてもよからん。されバ大根引だいこひきかたはらに草はむ馬の首うちさげたらん。鞍坪くらつぼ小坊主こばうずのちょつこりと乗たる図あらバ、古からんや、つたなからんや。察しらるべし。国が兄何某なにがしかへって国より感驚ス。かれハ俳諧をしらずといへども、画をよくするゆへなり図師尚景ずししゃうけいが子なり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,37 )

 「鞍坪に」の句は芭蕉の元禄6(1693)年冬の句で、「軽み」の風も円熟してきた頃の句だ。蘭国はおそらく大根引きと鞍坪の小坊主は何か出典があるのか、と思って尋ねたのだろう。だが、古典の本意本情を残しながら出典の重さを排す方向に進めたのが、芭蕉の「軽み」だった。鞍坪は馬の鞍の座る場所で、そこにおそらく芥子坊主けしぼうずと呼ばれる頭のてっぺんだけ毛を残して束ね、他を刈り上げた小さな男の子が乗っていて、その横でお百姓さんが大根を一本一本丁寧に引き抜いている。田舎のいかにもありがちな光景だ。
 基本的には古典でいう、「しず」「やまがつ」のテーマを下敷きにしているのだろう。百姓の生活そのものの美というのはもう少し後の話で、山奥に隠棲する都人から見たその土地の住人というのが、あくまで風雅の基礎となる。都での苦しい権力闘争や様々な宮仕えの苦労、それを逃れようとすればするほど思い出してしまい、かえって憂鬱になる。都の華やかの暮らしはもはやなく、隣にいるのは都の言葉のほとんど通じないような人たちで、苦しい身の内を話す相手があるわけでもなく、ただ彼等は無言でこの世に棲むということがどういうことかを語りかけてくれる。結局人間の生活というのは単純に言えば、自分で食物を作るか、交換によってそれを手に入れるかどちらかしかない。たったそれだけのことなのに何を難しく考えているのか。そういう意味では、鞍坪の小坊主と大根引きも何を語るわけではなく、ただ無言にして、生きるというのはこういうことだと語る。藻塩焼く海人や小山田の畑打つ男と同様、それがこの句の本意本情といっていいだろう。
 去来はその本意本情についてはすぐにはわからないだろうということで、古典の情を表現する際に、むしろいかに出典をはずし、新しい題材で表現するかについて、絵に例えて説明している。桜の花を描くのに深山幽谷の景色や名山古寺や宮廷の風景を添えるのは、いかにもありがちで、これといって新しくはない。だからといって厠の桜でも描けばいいのかというとそうでもない。それと同じで、「しず」「やまがつ」という古典的なテーマも、牛を引く牧童や柴を刈る木こりではありきたりで、だからといってそこいらの百姓をそのまま描けばいいというものでもない。牛を引く牧童や柴を刈る木こりに匹敵するような何か新しくて風雅を感じさせる題材があれば、それは絵に描いてもいいし、句にしてもいいと説明する。軽みの説明としてはこれで十分だろう。
 この話には、絵師をしている蘭国の兄のほうが感動したというおまけがついている。当時の絵画もまた中国山水画の趣向を離れ、大和絵と融合しながら新しい表現を探していた時代でもあった。英一蝶も蕉門や其角との交流を通じて、独自の風俗画を切り開いていった。芭蕉もまた狩野派の絵を学んでいたし、去来のライバルの許六もまた狩野派の門弟だった。当時の俳諧と絵画との間には並々ならぬ関係があった。

20、 夕ぐれハ鐘をちからや寺の秋     風国ふうこく
 此句初ハ晩鐘のさびしからぬといふ句也。句ハ忘れたり。風国曰、頃日このごろ山寺に晩鐘をきくに、かつてさびしからず。よつて作ス。去来曰、これ殺風景なり。山寺といひ、秋夕トいひ、晩鐘と云、さびしき事の頂上也。しかるを一端いったん游興騒動の内にききて、さびしからずと云ハ一己いっこわたくし也。国曰、此時此情有らバいかに。情有りとも作すまじきや。来曰、もし情有らバ如何かくのごとくにも作セんト。今の句に直せり。勿論もちろんまさらずといへども、本意ほいを失ふ事ハあらじ。((岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,37~38)

 これは「夕涼み疝気せんきおこしてかへりけり/去来」のと重複するが、秋の夕暮れ、山寺、いりあいの鐘とくれば、月並ではあるものの寂しさが増幅される効果的な組み合わせであるはずなのである。しかし、これをあえて「晩鐘の寂しからぬや寺の秋」とした場合、なぜ秋の寺の夕暮れの鐘が寂しくないのか、意図がよくわからなくなる。まさに風景を殺すという意味での「殺風景」だ。しかし風国は言う。「でも実際に寂しくなかったのだからしょうがない。それならそういう時はどう作ればいいのか。」そこで去来は「鐘を力に」直したという。つまり、寂しい中だけども鐘の音にその寂しさを克服しようと勇気を奮い起こし、という意味に作り変えたわけだが、いかにも無理がある。「句まさらず」というのは本当だ。
 最後に「本意ほいを失ふ事ハあらじ」とあるように、この議論は中世連歌以来問題となる「本意本情ほいほんじょう」を説いている。つまり、言葉から感じ取れる情は個人が勝手に変えられるものではなく、常に一つの伝統を背負っている。「秋の夕暮れ」という言葉は『新古今集』の三夕さんせきの歌をはじめ、たくさんの秋の夕暮れを詠んだ古歌を想起させることによって、既に深い情を含んでいる言葉であり、和歌でも俳諧でもその情を生かして詠み込むことによって短いこの詩型でも深い意味を表現できる。それに対し、夕暮れが寂しくないと詠むとせっかく古典の情を想起させるこの言葉も、ただの物理現象としての夕暮れとなり、感情を持たない言葉になってしまう。そして、ひとたびその伝統が跡絶えてしまうと、古歌の情すら再現困難になるかもしれない。過去の優れたし人たちによって作られた深い意味を持つ言葉を後世の人間が勝手に違う意味で使うと、結局祖先から受け継いだ文化遺産を失うことになる。それゆえ「一端いったん游興騒動の内にききて、さびしからずといふ一己いっこ私也わたくしなり」と去来はかなり厳しい言い方をしている。
 蕉門の俳諧は決して古典の本意本情を否定して写生に徹することによって新風を作り出したのではない。それは明治時代の正岡子規の主張であって、日本の伝統文化を軽視し、俳句の西洋化を推進する中で主張されたものであって、芭蕉は決してそのようなことを説いてはいない。
 本意本情というのは基本的には共感に基づくもので、花が咲くのを悦び、花が散るのを悲しむのは、その命を自分のことのように考えるからだ。ただ、共感自体は、もし自分がそうだったらという一つの想像上の仮定に過ぎないため、必ずしも確実なものではないのは、たとえ親子・夫婦といえども誤解が絶えないのを見ればわかるだろう。まして、この宇宙の生命を感じることができるなんていうやつは疑った方がいい。
 そもそも共感という能力が進化したというのは、本来は利己的な遺伝子の働きで、過酷な生存競争の中でライバルや獲物の行動を予測したりするのに役立ったからだろう。ただ、人間の場合、協力し合って戦うことを覚えたために、多数派工作が重要になり、そこから味方を増やすための様々な利他的行動が発達した。そこで、共感能力は利己的にも利他的にも不可欠なものとなった。
 共感はまず想像的に対象の気持ちを推測することと、それを各自が何らかの好悪の感情を挿んだり、利用しようとして様々な判断を加えたりする過程に分けられる。前者は自然(本性)であり、後者は「私」である。たとえば、目の前でこれ見よがしにいちゃつくカップルを見ると深いなのは、一方ではそのカップルの幸せに共感し、もう一方では今の自分にそういう相手がいなくて不幸だ、悔しいという感情が沸き起こるからだ。また、いじめというのも、こういうことをしたら相手がいかに傷つくか知っているからいじめ甲斐があるのであり、相手が傷つかないと知ったらやってもしょうがないと思うだろう。いじめは共感能力の欠如から起こるのではない。共感能力の使用法の問題だ。医者のメスと言えども使用法を誤れば人を殺す凶器になる。それと同じだ。
 本意本情と私情との違いはそういうもので、感じたそのままの感情と、それを個人的に好悪の感情を挿んだり、何かに利用しようとしたときの感情とは一線を画す。よく八重桜の木の下で、こういうごてごてとした花はだめだなんていう人がいるが、自分の趣味の良さを自慢したいのだろうけれど、素直に咲く花を喜べないのは可愛そうだ。戦争で罪なき人が死んでゆく詩は悲しいが、そこに露骨に政治的な意図が見えたりすると興ざめになる。本意本情を踏み外すというのはそういうこともある。
 「松のことは松に習え」と土芳どほうの『三冊子さんぞうし』にもあるように、対象から直接共感を覚えればそれにこしたことはないが、何日も松をじっと見つめてノイローゼになっても困るので、そういう場合は対象から何かを感じ取った古人の心に共感して、間接的に学べばいい。
 見るもの聞くもの感じたままをしにして、それで人を感動させることができるなら、その人は天性の詩人だ。特に、子供の頃はそれができたりする。しかし、どんな天才でも、いつでもそれができるというものではない。急にそれが出来なくなったなら、ランボーのように潔く詩を捨てるか、そうでなければきちんと古典を学び、技術でカバーすることを考えた方がいい。世阿弥も、役者の花には三種類あり、子供だけが持つ天然の花、若者の持つ季節の花は散ったらそれでおしまいだが、老いた役者が長年の修行の末に獲得した人工の花は散ることがない、と言っている。老成というのは、結局学習の積み重ねなのである。

21、 応々おうおうといへどたたくや雪のかど   去来
 丈草曰ぢゃうさういはく此句このく不易にして流行のただ中を得たり。支考しこう曰、いかにしてかく安き筋よりハ入らるるや。正秀まさひで曰、ただ先師の聞たまハざるをうらるのミ。曲翠きょくすゐ曰、句の善悪をいハず、当時作せん人をおぼへず。其角きかく曰、まこと雪門也ゆきのかどなり許六きょりく曰、もっとも好句なり。いまだ十分ならず。露川ろせん曰、五文字妙也。去来曰、人々の評又おのおのその位よりいづ。此句ハ先師迁化せんげの冬の句也。そのころ同門の人々もかたしと、おもへり。今ハ自他ともにこの場にとどまらず。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,38)

 芭蕉の「軽み」は、まだ古典から受け継がれた深い情を、何か卑近な事物の中に発見しようというものだったが、芭蕉の死後、多かれ少なかれ卑近な事象自体の表面的な面白さを追い求め、中身が薄くなってゆく傾向にはあった。伊賀のあだなる風もそうだし、美濃派から伊勢派に至る平明化もそうだし、維然坊の句はその一つの極に走ったともいえる。そして、この傾向は結局明治の俳句革新から今日の等身大俳句に至るまで、延々と続いているのかもしれない。
 何気ない日常の小さな発見は、確かにおしゃべりのネタとしては面白い。しかし、ただ面白いで終わってしまえば、句は次から次へと新しい刺激を求め、新鮮さを失った句は作るそばから忘れ去られてゆく。

 応々おうおうといへどたたくや雪のかど   去来

の句もその不安の一つの始まりだったのかもしれない。芭蕉の死んだその年の冬に作られたこの句は、残された門人の間で絶賛された。
 丈草はこれこそ不易にして流行の句と、それこそ芭蕉の言う不易流行の見本のような句とみなした。支考は「やすき筋」とその平明なわかりやすさがこれからの時代の句だとみなした。正秀は先師芭蕉に聞かせたかった、という。曲翠は良いにしても悪いにしても今これを作れる人はいないと価値判断を避けた。其角はなるほど雪の門だ、というにとどまり、許六も確かに好句だが不十分と、何か足りないように思った。露川は上五の「応々と」が良いという。
 私個人の感想としては其角の言葉が一番もっともだと思う。雪が降っていて外は寒いから、戸を叩くほうとしては早く開けて欲しいが、中にいるほうは外に出るのがおっくうだから「応々」と生返事をしてなかなか出て行かない。いかにもありそうな光景で、確かに雪の門だ。しかし、これがありふれた雪の日の風景という以外に何か人生に重大な意味を持つようなことがあるのかというと、そんなことはないだろう。雪が降っているから早く入りたい。なかなか外に出たくない。こういう情は果たして本意本情というほどのものなのか。
 この句には当初

 たたかれてあくる間知れや雪の門
 あくる間を叩きつづけや雪の門

という案もあったと言う。これだと、雪の中だと戸を叩いて戸が開くまでの長さを分って欲しい、ということで、待つ身のつらさが直に伝わってくる。ただ、これだけでもどういう事情で雪の中を待たされているのか、何かわけでもあるのか、それともただ雪で寒いから動きたくないというだけのその部分が「言い応せていない」。しかも、これを「応々と」の句形にすると、待つ身のつらさを訴えるという部分が消失し、単なる日常の一場面に終わってしまう。
 この句は

 嘆きつつひとりぬる夜のあくる間は
    いかにひさしきものとかは知る
                 右大将道綱母うだいしょうみちつなのはは

の歌を踏まえているというが、本歌は単なる待つ身のつらさではなく恋の情であり、恋の情を平凡な日常の一風景に作り直しても情は深まらない。やはりこれは「軽み」の勘違いだろう。
 しかし、若い門人ほど、これこそが先師を越えてゆく新風というふうに見えたのか。結局芭蕉亡き後の蕉門はこの方向に流れていった。去来は「その比同門の人々も難しと、おもへり。今ハ自他ともに此場にとどまらず。」と自慢げに言うが、これは本当に良かったのか。
 もちろん、日常のおしゃべりのレベルで手軽に作れるということが、今日もなお多くの人が俳句を作る動機だとすれば、それはそれで良かったのだろう。少なくともそれは俳句そのものの大衆的な広がりを維持するには役に立っている。しかし、その一方で、何十万、何百万という凡作者を輩出しただけで、芭蕉が極めた一つの頂点を再現できる作者は終に現れなかったのも事実だ。

22、 幾年いくとせ白髪しらがも神のひかりかな   去来
 大宰府だざいふ奉納の句なり許六きょりくは、ほ句に切字きれじを二ツ用ゆるは法ありこの句切字ふたつやまひあり。去来曰、予かつて切字二ツあるに心なし。二ツ有ともこれを切字に用ひずバくるしからじ。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,38~39)

 許六によると、この句にはは切れ字が二つあるという。最後の「かな」が切れ字なのは分るが、最初の「幾」も切れ字だということに気付く人は少ないかもしれない。だが、紹巴じょうはの『至宝抄』には、「いつ」「いかで」「いづれ」「いく」は確かに切れ字として扱われている。「いく」については、

 見ずもあらず遠山いく重朝霞あさがすみ   宗祇

の句が例示されている。
 もっとも、何が切れ字かは中世連歌の頃から人により異なり、切れ字を使わなくても体言止めが切れ字の代わりになったり、要は句が一つの文として独立できればそれでよかった。ただ、便宜的にこの言葉を使うとうまく句が切れるというのを列挙したのが切れ字であり、切れ字を使ったから必ず句が切れるというものでもなかった。
 宗祇の句だと、朝霞に遠山は幾重とも見ずにあらず、の倒置で、必ずしも「いく」を切れ字としなくても、「あらず」で切れているといえば切れているのではないか。その点では切れ字としての働きは弱い。
 去来の句にしても、「幾年経た白髪も神の光かな」という意味で一句として完結している。これが

 幾年ぞ白髪も神のひかり哉

だったとすると、「幾年ぞ」で一度切れて、「ひかり哉」でもう一度切れるから句が分解してしまう。
 去来は切れ字が二つあっても一つは切れ字として用いていないからよしとするのは一応の理屈で、結局は切れ字が三つあろうがゼロだろうが句が一句として完結していればそれでいいのである。切れ字はただ、これを使うとうまく切れるという便宜上のものにすぎない。

23、 白雨ゆふだちや戸板おさゆる山の中   助童じょどう
 去来曰、墨崎(黒崎)にききこれに及ぶなし。句体風姿あり語路ごろとどこほらず。じゃうねばりなく事あたらし。当時流行のただ中也。世上の句おほくハとするゆへにかくこそ有レト、句中にあたりあひあるいはハ目前をいふとて、ずんぎりの竹にとまりしつばくらめ、のうれんの下くぐる事いへるのミなり此児此下地有このちごこのしたぢありて、よき師に学ババいかばかりの作者にかいたらん。第一いまだ心中に理窟なき故也ゆえなり。もしわるごう出来いできたるに及んで、又いかばかりの無理いひにかなられん、おそるべし。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,39)

 これも「応々と」の句に通じるものがある。夕立で一天にわかにかき曇り、山中のあばら家なので戸のしつらえが悪く、雨が吹き込まないように戸板を押さえなくてはならない。山中ということで隠士の風情もあり、杜甫の『茅屋ぼうおく秋風しゅうふうの破る所とる歌』の連想も働き、古典の意にもかなうが、果たしてこの少年がそこまで考えていたかは知らない。
 芭蕉の

 芭蕉野分はせをのわきしてたらひに雨を聞く夜かな   芭蕉

と比べれば、全体として盛り上がりを欠き、平板な印象は否めない。ただ単に「戸板」だと、どこにでもある百姓の家を連想させ、結局は日常の何気ない情景を鋭く突いた、という所からなかなか先へ進めない。つまり、隠士ならではの句だと感じさせる何か、たとえば「芭蕉野分」の句でいえば「芭蕉」が足りないのだ。多分、作者の少年は隠士というところまで考えずに、日常の風景として詠んだのだろう。
 しかし、確かにこの句は芭蕉亡き後の蕉門の一つの到達点であり、その意味ではよくできた句だ。去来の言うように、世間でいう凡句というのは、やれ軽みだ、目の前の何でもない景を詠めといわれると、

 ずんぎりの竹にとまりしつばくらめ
 のうれんの下くぐり来る燕哉つばめかな

といった句を詠みたがる。これは単に平凡な景色を写しただけで、裏に情が隠されていないか、隠されていたとしても完全に消えてしまっている。もっとも、近代の写生派では、「わる功」を恐れるあまりにこの段階の句でも良しとするかもしれない。
 「わる功」というのは、結局のところ、本意本情を欠いたか履き違えた句を、技巧的にうまく隠した句ということだろう。先の

 花ちりて二日をられぬ野原哉

は、花の心をわきまえていないがゆえに悪句なのであり、これを素直に技巧を排し、

 花ちりてもう用はなき野原哉

としても、句は良くならない。技巧は頭で「なるほど」と理解させてしまうため情が伝わりにくくなるという欠点があるが、とても風雅とはいえない情の句の場合、むしろ情が伝わらない方が好句に見えてしまう。そこに「わる功」の罪がある。近代写生説は、あつものに懲りてなます吹くみたいに、「わる功」を恐れるあまりに古典技法全体を否定してしまったのではなかったか。
 明治十年代の月並み俳句の典型とされている夜雪庵金羅にしても、そうした選者の好む句が

 つまのるす月さへ入れず戸ざしけり

のようなものだとしたら、確かに世俗の道徳を言うだけで、月の本意本情とは無縁の句といえよう。いくら世間が貞淑な妻を理想としようとも、恋に揺らめく女心は不易だし、その切ない思いこそ月に託すべきもので、「月さへ入れず」とは無風流もこの上ない。しかし、この手の句に当時のオヤジ連中は、そのとおり、よくぞ言ってくれた、いまどきの若妻は見習うべきだと拍手したりしたのだろう。
 もちろん、世間の大半は自他共に認める凡人で、いわゆる世の常識を句にすれば、常識を突き抜けた天才的なひらめきの句よりもはるかに世間での受けはいい。近代俳句の月並調批判は、確かにそうしたものから「文学」を切り離したいという欲求から来たものだろう。しかし、いつの時代でも芸術というのは玉石混交なもので、一時は玉も石も一緒くたに流行するが、長い年月を経れば結局良いものは残り、たいしたことのないものは忘れ去られてゆく。その自然の摂理を信じずに、高いところから一方的に得体の知れぬ形而上学を振り回し、最初から文学を大衆文芸から分けてしまうやり方が果たしていいものなのだろうか。もっとも、心配はいらないだろう。百年二百年たてば、結局今日文学と呼ばれようが呼ばれまいが関係なく、最後は良いものだけが残るのだから。
 去来が絶賛した「白雨や」の句も、去来の「応々と」の句も、結局今日ではほとんど知る人もいない。「芭蕉野分」の句なら、確かに残っている。

24、 さびしさやしりから見たる鹿のなり   木導もくだう
 許六曰きょりくいはく是句このく入鹿いるしかのあとふきおくる荻の上風と云る等類なり。去来曰、吹送ふきおくるのうたは朝鹿の山に帰る気色けしきをいへり。これハ鹿一体のさびしさをいへり。趣意各別也かくべつなり。等類なるまじ。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,39)

 許六はこの句を、

 明けぬとて野べより山へいる鹿の
      跡吹あとふきおくる萩の下風
                源左衛門督通光みなもとのさえもんのかみみちみつ

の歌と等類だと指摘する。これに対し、去来は「明けぬとて」の歌は明け方に山に帰る鹿の寂しさだが、「さびしさや」の句はただ単に後ろから見た鹿が寂しげだというもので、趣向が違うという。確かに、動物の背中というのは無防備で、間抜けな感じもする。本来敵に向かって向き合うように進化した体は後ろを見せたら負けで、しかも正面には大きな角があるが、尻というのはそれとは対称的に哀愁が漂う。
 ところで、この「明けぬとて」の歌は、前にも見なかっただろうか。そう、『先師評』23で芭蕉に

 ゐのししのねに行くかたやあけの月    去来

との類似が指摘された歌だ。ここでは鹿を猪に変えているが、明け方に山に帰る動物の寂しげな姿という趣向はよく似ている。鹿というと妻問う鹿のイメージがあり、通い婚時代の朝毎の男と女の別れも連想させる。これに対して猪だと、夜興引よごひきの狩りのイメージになるが、鹿も狩猟の対象という点では、同じイメージに取れないこともない。

25、 唐黍たうきびにかがらふのきや玉まつり    酒堂しゃだう
 酒堂曰しゃだういはく路通曰ろつういはく唐黍たうきびあはにもひえにもふるべし。ほ句となしがたしト也。去来曰、通いまだ句ノ花実くゎじつをしらざる故也ゆえなり此句このくハ軒の草葉に火影ほかげのもれたるしづ玉祭たままつりふしたるにて、一句のじつここにあり。その草葉ハ唐黍たうきびにても粟稗あはひえにても、其場そのばかなたらん物を用ゆべし。これハ一句の花也。実ハ魂祭たままつりにてうごくべからず。動けバほかの事也。花ハいくつもあるべし。その内雅うちがなる物を撰び用ゆるのミ。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,39~40)

 「ふる、ふらぬ」の論に芭蕉は取り合わなかったが、蕉門を破門された路通がここで酒堂の句を難じてきたので、去来としても面白くはないが、放ってもおけなかったのだろう。
 句は内容からいって貧しい家の魂祭り(盂蘭盆会うらぼんえ)で、家の中で灯る提灯の光が外のトウモロコシ(唐黍)に陽炎のようにゆらゆらと映っていて、あたかもそこに死者の霊が帰ってきたかのようだというもので、句の実はまさにその死者の面影にある。「草葉の陰」という言葉があるが、まさにトウモロコシの陰でご先祖様が見守っていてくれると思う、その気持ちが、不易の情といえよう。
 ただ、そこに個人の面影を忍ぶにも、別にその草がトウモロコシである必要はない。確かに粟でも稗でも、貧しい家の周りにありそうなものなら何でもいいといえば何でもいいのだが、粟稗はあまりにありきたりだ。アメリカ原産で当時としてはまだ珍しかったが、米麦の代用食になる雑穀として当時広まりつつあったトウモロコシを詠んだところに新味がある。「此道(俳諧)ハ心辞共ニは新味ヲ以テ命トス」と、去来の不玉宛書簡ふぎょくあてしょかんにあるように、新味はまさに俳諧の花であり、不易流行説とあわせて言えば、不易の部分は動かないが、流行は動かねばならない。故に「花ハいくつも有べし」となる。

26、 玉祭たままつりうまれぬさきの父こひし   甘泉かんせん
 去来曰、吾子ごしハ出生以前に父をさうし給ふや。甘泉曰かんせんいはく、去々年送葬し侍る。来曰、しからバこれハ他人の句也くなり。吾子に対しておかしからず。およそほ句を吟ずるに、こころは無常狂狷きゃうけん境にも遊ぶべし。ところ禁裏仙洞きんりせんとうのうわさをもまうすべし。事ハ乞食桑門こつじきさうもんの上にもおよぶべし。於句くにおいて身上しんしゃうを出べからず。もし身外を吟ぜバ、あしくハ害を求め侍らん。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,40)

 ずいぶん昔の話だが、70年代に小椋圭が三歳になる自分の子が死んだことを想像して曲を作ったら、家族親戚から縁起でもないと非難を浴びたという。ポップスの場合、歌の内容をそのまま作詞者や歌手の現実と混同する人はまずいない。失恋の歌を歌ったからといって本人が失恋したわけではないし、友達がバイクで死んだなんて歌を歌っても、誰もそれが本当にその人の身に起きたかどうかなんで問題にしない。
 俳諧でも、付け句の場合はそれでいいのだろう。ただ、発句というと、一応当座の挨拶だから、そこで詠まれたことはその時の作者の気持ちと取るのが普通だ。魂祭りでの興行の席で「うまれぬ先の父こひし」と詠めば、聞く人は作者が本当に父の顔を知らないんだと思って涙するかもしれない。ましてそれが嘘だとわかるとどうなることかは推して知るべし。
 去来も言う。気持ち的には風狂の徒になるもいいし、聖賢の境地になるもいい。芭蕉も宮廷であっていいし、乞食をしたり仏門に入ったりする句でもいい。ただ、自分の一身上のことを偽って詠めば、世間で誤解を招き、挙げ句の果ては嘘つき呼ばわりされ、信用を失うことになり、ろくなことはない。
 これは発句の特殊な性格によるもので、文学に一切虚構があってはならないみたいな私小説的発想とは何の関係もない。

27、 御命講おめいこやあたまの青き新比丘尼しんびくに   許六きょりく
 去来曰、七字かくいひくださんハいかが、レを直さバ一句しほり出来いできたらん。許六曰きょりくいはく、しほりハ自然の事なり。求めて作すべからず。此ハ七字をもつてほ句なり其角きかくもさこそ評し侍りける也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,40)

 御命講は日蓮宗で日蓮上人の命日の10月13日に行われる大御影供おみえいくのことで、そこには剃髪したばかりのまだ剃り跡の青々とした尼僧の姿があり、その初々しい姿は厳粛な中にそこはかとない色気を感じさせる。若くして出家して、身の上に何があったのかと好奇心もそそられ、哀れな中に花がある。ただ、去来はそれとは別のものを求めていたようだ。
 多分、去来としては、日蓮上人の命日で法会とあれば、何か物悲しげなものを期待したのではなかったか。「しおり」は「しおれる」から来た言葉で、咲いた花がしぼむように、新比丘尼の華やかさではなくうらぶれた悲しげな姿が欲しかったのか。多分何か涙を誘うような一言を期待したのだろう。「しおり」は「さびしおり」というように、「さび」と一緒に使われることもある。いずれにせよ、凋落した姿に悲しみや無常観を感じさせることで、かえって永遠のものへの祈りを表現しようとするものだ。
 許六は「しおり」は自然の情で、あえて作るものではないという。花の咲くのもしおれるのも自然のままに、ということか。

28、 門口かどぐち牛玉ごわうめくれてはつしぐれ    作者不覚
 去来曰、此句このく彦根より見せられたるに、其角きかくがよろほうしの門札かどふだの句と等類ト評しぬ。予はなハだあやまりなり。そのころすこし似たる事もかはしく嫌ひのぞきて、一句の惣体さうたいを知らず。門と云ひ札といふにて、はや等類の評をなせり。いとあさまし。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,41)

 等類の問題というのは、今のように著作権だとか印税だとかの概念のなかった時代でも、盗作の疑いをかけられれば名に響くし、たとえ濡れ衣でもひとたび評判を落とすと、俳諧師としての営業活動に支障が生じる。そのため、作者としても等類の疑いはかけられたくないし、選者としても等類の疑いのある句は選びたくない。
 この「門口や」の句は許六の句で、元禄8(1695)年正月29日付許六宛去来書簡きょりくあてきょらいしょかんでは、芭蕉の

 五月雨や色紙しきしまくれし壁の跡    芭蕉

の句の等類だと指摘している。この句は『嵯峨日記』では「色紙へぎたる」と推敲されている。

 門口かどぐち牛王ごわうめくれてはつしぐれ   許六きょりく
 弱法師よろぼふしわがかどゆるせ餅の札     其角きかく
 五月雨や色紙しきしへぎたる壁の跡    芭蕉
 許六の句は門に貼ってあった厄除けのための熊野神社の牛王宝印ごおうほういんの護符が、長年経るうちにめくれ、そこに老いを感じさせる初時雨が降るというもの。
 其角の句は托鉢に来る乞食僧に、お願いだから来ないでくれと、既に他の僧に餅を施したという札を貼っておくというもので、今でいえば前にもらった赤い羽根を取っておいて、毎年歳末募金の季節になると引っ張り出して着けているようなものか。許六の句とは門に札の貼った情景が似ているだけで、内容はまったく違う。
 芭蕉の句は、長年にわたって何度も五月雨の季節を経て、壁がすっかり変色してしまったが、色紙の貼ってあった場所だけ新築したときの頃の色が残っているというもので、年月の経過を示すという点では許六の句に似てないともいえないが、許六の句ははがれた札にただ年月の経過だけを見るが、芭蕉の句ははがれた跡の壁の色に年月が経過しても変わらない昔を見る。
 どっちが似ているかといえば、明らかに情の上では芭蕉の句に近い。だから、去来が芭蕉の句と等類だと言ったのは、なるほどという感じがする。変わってゆく中に変わらないものを見る、不易流行を感じさせる芭蕉の句の不易の部分を見落として、ただ雨に古びてゆくのを「門口かどぐち牛王ごおう」という句の花で飾ったと言えばそれまでだろう。ただ、「門口の牛王」に新味を認めるなら、独自に一興あり、等類を免れる。
 これだと「明石のほととぎす」の句と同様、等類かどうかは微妙になる。

 野を横に馬引きむけよほととぎす   芭蕉
 面梶おもかじよ明石のとまり時鳥ほととぎす     野水やすい

この二句について、芭蕉は「明石の時鳥」に一興あるとしながらも去来は等類として『猿蓑』に入集させなかったことが「先師評」10に記されている。
 しかし、其角の句との類似は明らかに表面的な語句の一致で、これをどう考えればいいのだろうか。なぜ去来は会えて芭蕉の句ではなく、其角の句との類似を持ち出して、あえてこれは等類ではない、あの頃は一句の惣体も知らず見かけだけで等類などと非難したりしたと書いたのだろうか。素人が等類と間違えやすい見かけの一致を、俺も昔はそうスだったと弟子たちに親近感を持たせながら、方便としていったのだろうか。あるいは他の等類の議論がこの手のものではないということを言いたかったのだろうか。
 見かけの上で似ている句というのはよくある。

 木枯こがらしの果てはありけり海の音    言水ごんすい
 海に出て木枯し帰るところなし   誓子

言水の句は木枯しはどこまでも果てしなく吹き過ぎてゆくようでありながら、茫々たる冬の海に出てしまえばそれ以上吹くものがなくなるというもので、草木を枯らしてゆくすべての生き物に共通した死の運命も、生きているうちのものだということを暗に示しているように思える。
 これに対し、近代の山口誓子の句は、海に一度出てしまった木枯しは再び岸に帰ってくることがないという句で、時間が逆戻りしないことを暗示させる。死という運命に対し、言水は生の空間の有限を説き、誓子は生の時間の非可逆性を説く。もちろん等類ではない。

29、 ゐのししの鼻ぐずつかす西瓜すゐかかな   卯七うしち
 去来曰、させる事なし。三四の句なり正秀曰まさひでいはくゐのししなれバこそ鼻ぐずつかしけんトはなはだよろこばれり。その後先師も一興ありなり。去来曰、退しりぞいておもふに、このごろいまだ上方かみがた西瓜ハ珍し。正秀もめづらしとおもふ心より、猪のあやしミたるトハ風情聞出ふぜいききいだセリ。予ハ西国うまれにて、西瓜も瓜茄子うりなすびの如し。かつて心ゆかず。そうじて人の句をきくに、我がしる場しらざる場にたがひありて、虎の咄しをききておはレたるものの、汗をながしたるとゆへる類也たぐひなり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,41)

 確かにどんな芸術作品でも、すべての人に同じように感動を与えるなんてのは無理な話だ。悲しい失恋の歌も失恋経験のないものには何の事かよくわからなかったりするし、逆に今失恋のさなかの人はしょうもない歌でも涙したりする。感情は人それぞれで、無実の罪で殺されてゆく人の悲しみも、ある種の人にはサディスティックな興奮を誘うかもしれない。
 まして新味ということになると相対的なもので、

 汽車道の一本長し冬木立    子規

も、明治20年代にはハイテクマシーンへの驚きがあったが、今ではノスタルジーを感じさせる。
 また、地域においても相対的で、幕末の浮世絵も今日の漫画も日本人にとっては日常のもので、特に目新しいものでもないが、フランス人はそこに新味を見出す。逆に明治の日本人にとっては、西洋画のスフマートや線遠近法は新鮮だったが、西洋人にとってはルネッサンス以来の伝統にすぎなかった。
 西瓜は南アフリカのカラハリ砂漠の原産で、西洋の船が日本に来るようになって、ようやく日本にも入ってきた。同じ日本でも長崎では海外のものが早く入るので、長崎では西瓜はそれほど珍しいものではなかったが、伊賀出身の芭蕉や近江膳所ぜぜ出身の正秀には、それが新味に移ったのだろう。卯七は長崎の人なので、長崎ではありふれた題材も、江戸・上方では新味として評価されるのを見て、同じ長崎出身者の去来としては釈然としない感があったのか。

30、 まんぢうで人を尋ねよ山ざくら     其角きかく
 許六曰きょりくいはくこれハなぞといふ句也くなり。去来曰、是ハなぞにもせよ、謂不応いひおほせずいふ句也。たとへバ灯燈ちゃうちんで人を尋よといへるハぢきに灯燈もてたづねよ也。是ハ饅頭まんぢゅうをとらせんほどに、人をたづねてこよといへる事を、我一人合点われひとりがてんしたる句也。むかし聞句ききくといふ物あり。それハ句の切様きりやうあるいハてにはのあやをもつきこゆる句也。この句ハ其類そのたぐひにもあらず。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,41~42)

 

 謎めいたものというのは不思議と人を惹きつける力がある。わかりやすい文章というのは、「ああなるほど」で終わってしまうが、意味がよくわからない文章というのはかえって「何だろう」とついつい考えてしまい、結果的に長く心に留まることがある。夥しい数のクイズ番組、パズルゲーム、推理小説、人は結局いつでも何か適度に頭を働かすことを楽しみ、そしてそれが解けたときには、ちょうど苦労して山頂に立ったような快感を覚える。それゆえに、言ったとおりの意味しかない句より、多少謎めいた句のほうが好まれるのだろう。
 ある意味で、最も成功した謎句は、あの古池の句かもしれない。

 古池や蛙飛び込む水の音     芭蕉

 句自体の意味は明瞭だが、果たして古池に飛び込んだ蛙に何の意味があるのだろうかと考え始めると、簡単に答が出るものではない。明治31(1898)年に正岡子規は『古池の句の弁』の中で、「古池の句の意義は一句の表面に現われたるだけの意義にして、復他に意義なる者なし」と言い切ったが、それでも何か別の解釈を探そうという情熱に水射すことにはならない。むしろ謎句というのは「意味がない」と言い切ったから謎がなくなるというものではなく、意味がないといっても本当に何の意味のないということを証明することが困難なため、やはり謎が謎を呼ぶことになる。
 謎句には大きく分けて二種類考えられる。一つは作者の頭の中に一つの明確な答が想定されているもの。もう一つは作者自身も答を知らないもの。前者はいわばクイズのようなもので、読者がある一定の答を導いたなら、そこで謎は解消する。去来が「むかし聞句といふ物あり。それハ句の切様、或ハてにはのあやを以て聞ゆる句也。」というのも、これに含まれる。しかし、後者の場合は永遠の謎となる。少なくとも、その謎を解こうという情熱を持ったものが一人もいなくなるまでは謎である。(これとは別に歴史的に本来の読み方が失われ、謎になってしまった作品というのもあり、たとえば額田王の「莫囂圓隣之・・・」の歌や『日本書紀』の童歌などはいまだに謎だが、これは謎になることを意図して作られたかどうかがわからないので除外する。)
 シュールレアリズムの自動記述による詩は後者の典型だろう。アンドレ・ブルトンの「解剖台の上でのミシンとこうもり傘の出会い」のような詩句は、何か答があるわけではなく、その奇抜なイメージそのものに価値がある。去来が、

 雪の日にうさぎの皮のひげつくれ   芭蕉

で、「機関からくり踏破ふみやぶりてしるべし。」というのも、この句の謎は解けないし、解くべきでもないということなのだろう。
 これに対し、去来は、其角の「まんぢうで」の句は、作者の頭の中に一つの答があったことを確信している。ただ、それがわからないのは、設問が不十分で読者が一つの回答に至ることができないためで、言い応せぬ句だという。去来によれば「饅頭をとらせんほどに、人をたづねてこよ」というのが真意だというが、この説で誰もが「なるほど!謎が解けた!」と思うなら問題はないのだが、これもまた一つの解釈にすぎないということになれば、かえって謎は深まってしまう。去来は暗号解読のように一つの謎を解いたわけではない。一つの説を提示したにすぎない。
 この句に一つのトリックがあるとすれば、それは「提灯で・・・」の場合、どういう場面ならそういう言葉が発せられるか、容易に想像ができるが、これを「まんじゅうで・・・」としてしまうと、その状況が誰も即座に浮かんでこない。そのため、読者はどういう場面であればこういう言葉が発せられるのか、あれこれ思案する。花の下で誰もが酒を飲んでドンチャン騒ぎしている中で、まんじゅうを目印に下戸の誰かさんを探してこいということなのか、あるいは酒を断った僧でありながら花を好む隠逸の士、つまり西行法師を探せということなのか。いろいろ想像をふくらましてゆく中で、残念ながら去来の解はそれほど面白い想像ではない。
 言葉というのは人の記憶を刺激し、忘れていた何かを思い出させる力がある。それとは逆に、記憶を想起できない言葉というのは、何か未知の想像を引き起こす。其角ほどの人なら、言葉のこうした性質にはある程度気付いていただろうし、その意味では、この句は謎句であり、答のないタイプの謎句である可能性はある。
 去来はこれを言い応せぬ句だというが、其角の句の場合、作者の意図が伝わらないというよりは、作者の意図を離れて様々な想像が膨らむ。去来自身も認める言い応せぬ句、

 兄弟の顔見るやみ時鳥ほととぎす    去来

では、この「兄弟」が仇討直前の曾我兄弟だということがわかりにくく、それが伝わらなければ単にどこかの兄弟が、「今ホトトギスが鳴かなかったか?」「うん、鳴いた。」というだけの句になる。これに対し、其角の句は作者の意図が何だったにせよ、それ以上の解釈を生み出す可能性がある。
 其角がこうしたトリックを使うのは、この句だけではない。

 あれ聞けと時雨しぐれ来る夜の鐘の声    其角

 この「あれ」が何なのかについては諸説あり、近江三井寺の鐘とも、浅草寺の鐘とも言うし、時雨を聞けとの鐘の声とする説もあるが、基本的にはこの「あれ」はどうにでも取れる。特にこの句が撰集『猿蓑』で

 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也     芭蕉
 あれ聞けと時雨しぐれ来る夜の鐘の声    其角

と並んだ場合、蓑笠着た猿の断腸の叫びを聞けという意味にも取れてしまう。
 芭蕉の古池の句は、当時の人ならばむしろ何か心の底にある原体験みたいなものを想起させたであろう。「古池」は荒れ果てた廃村か没落した旧家の連想を誘い、いわば廃墟をイメージさせる。蛙の水音は、豊作を暗示させる蛙の鳴き声にくらべると侘しげで、春なのにそれを喜べない、何が深い事情を感じさせる。まして「水音」はかつては入水の連想を誘う言葉でもあった。こうしたイメージが重なり合うことで、当時としては「何だかわからないけど涙があふれてきた」という反応を引き起こしたことが想像できる。しかし、其角の場合、あえて記憶を喚起させないことで、読者にイメージをふくらまさせることを知っていた。
 去来の「言い応せぬ句」の説はこうした其角の独特な発想に気付かないか、故意に矮小化しようとしての発想だろう。

31、 あさがほにほうき打敷うちしくをとこ哉   風毛ふうもう
 魯町曰ろちゃういはく此句或人このくあるひと長点也ながてんなり。いかが侍るや。去来曰、ほ句といはばいはれんのミ。牡年ぼねん曰、先師のあさがほに我ハ食喰めしくふおとこかなト、いか成処なるところ秀拙しうせつ侍るや。来曰、先師の句ハ和角蓼蛍句かくがたでほたるのくにわすといへるにて、あくまでたくみたる句に答へ也。句上に事なし。こたゆる処に趣ありて、風毛ふうもうが句ハ前後表裏ひとつの見るべき物なし。如此句かくのごときくハ口を開けバいづる物也。こころ見につくりてミセん。題を出されよ。町すなはち露といふ。露落てしりこそばゆき木陰哉こかげかな。きくと云。きく咲てやねのかざりや山ばたけと、十題十句言下ごんかシ、もしはらミ句のうたがひもあらん。一題を乞て十句セん。町きぬたと云。娘よりよめのよハき砧哉。乗懸のりかけのねむりをさます砧哉 トいふをはじめ、十句筆をおかせず。予ハ蕉門遅吟ちぎん第一の名有ルすらかくのごとし。いはんや集にもいでたる先師の句なれば、各別の処ありとおもひしらるべし。

 去来曰、此言ハ自照らふに似たり。然ども当時世間の作者、このあさがほの句、或ハ道なかのむくげハ馬にくハれけりなどいふ句体のまま侍るにまよひて、あさましき句を吐き出し、芭蕉流とおぼへたるやから有。其輩にしらせんために此を記し侍るなり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,42~43)

 先師評にはふっと口をついて出てきた言葉がそのまま句になる例が二つほどあった。

 じだらくに寝れば涼しき夕哉ゆふべかな   宗次
 玉棚たまだなのおくなつかしやおやのかほ  去来

しかし、そのあと、

   夕涼み疝気せんきおこしてかへりけり   去来

の句を載せているように、ふっと口をついて出てきた言葉が必ずしも良い句になるわけではない。そこが難しいところだ。
 結局そうしたふと口をついて出てきた言葉にも、使えるかどうか瞬間的に判断する鑑賞眼が働くかどうかの問題なのだろう。できる人は、日常の次から次へと飛び交う言葉の中からでも「これだ!」というものを見つける才能がある。それは、今日のコピーライターの世界でも言えることだろう。
 「あさがほに」の句も、朝に庭を掃いているどこにでもいる普通の男が、ふと朝顔が咲いたのに目を止め、箒を地面の上に置く。何気ない日常の仕草の中に、ふっと花に心を奪われる一瞬を見事に描いたといえばそう悪い句ではないが、だから何なんだと言われれば、それで終わってしまう句でもある。そこには特に朝顔ならではの、朝に咲いて昼にはしぼむ哀れさもないし、

 朝顔につるべとられてもらい水   千代女

のような、井戸に一生懸命鶴を巻きつかせ花を咲かせようとする朝顔の生命への共感もない。その点では、本意本情を満たさない句で、去来がこれを「発句といはば、いはれんのみ」、つまり発句といえば言えなくもないが、発句ではないと言えば発句ではない、という評価なのもわかる。

 つき出すやとひのつまりのひきがへる   好春

の類だろう。
 句の形だけ見ると、

 朝顔に我は飯喰ふをとこ哉   芭蕉

の句と、十七文字中十字が一致するが、この句はある日其角が芭蕉の元を尋ねたとき、

 草の戸に我はたでくふ蛍かな   其角

と挨拶したのに答えたものだ。粗末な草庵で「蓼食う虫も好き好き」という言葉もあるように、わざわざ俳諧数寄の道に入る夜の蛍だという。蛍というのは

    五月雨さみだれを集めて涼し最上川
 岸にほたるをつなぐ船杭     一栄
    隠家かくれがやめにたたぬ花を軒の栗
 稀に蛍のとまる露草       栗斎

のように、俳諧ではしばしば客人を褒めて言う言葉として用いられるが、それを自分で使っちゃうあたりが当時の其角の若さかもしれない。また、蓼は当時は酒の肴でもあり、蓼くふ蛍は、酒好きで遊郭を渡り歩く夜の帝王みたいなニュアンスもあったようだ。芭蕉の句はそれに対し、私は夜遊びはせず、普通に朝起きて普通に飯を食う男だ、と答えたもの。自意識過剰ともいえる其角の句をさらっと流したところは面白いが、句そのものとして面白さがあるわけではない。
 ここで去来は調子に乗って、この程度の句はいつでも作れるとばかりに魯町にお題を出させる。

   露
 露落ちて尻こそばゆき木陰哉
   菊
 菊咲いて屋根のかざりや山ばたけ

 また、これが「孕み句」つまり席上で出す句の候補として事前に書き溜めていた句だと疑うなら、一題で十句作ってみせると言い、

   きぬた
 娘より嫁の音よわき砧哉
 乗懸のりかけのねむりをさます砧哉

というふうにたちまち十句作ったという。
 確かに何でもいいから五七五で季題が入っていればいいというのであれば、子供でも作れるし、実際国語の授業で作らされたりする。まして、俳人を志す者なら、日常目についたものを何でも五七五にしてみるというのは、練習として誰もがやっていそうなことでもある。「口を開けば出づる」というのはそのレベルということなのだろう。
 当時と今とで違うのは、今日では俳句は出版文化であり、紙面を埋めるという単純な理由から、十句連作のような量産がノルマとして課せられているが、当時はむしろ作者自身の宣伝コピーであり、練りに練られた究極の言葉へと高めることで作者の名声を高め、多くの門人を獲得することが重要だった。だから、誰でも作れるような句を量産することに興味はなかっただけで、もし去来が現代を生きていたなら、十句連作の連載を月何本もこなしていたかもしれない。
 唯一の例外は井原西鶴で、談林時代に西鶴は一夜で何句作れるかで興行を行い、その句数の記録を更新してゆくことで名声を高める戦略を取ったが、たいした効果がなかったか、貞享元年に二万三千五百句という大記録を樹立したのを最後に、物語作家に転向した。もっとも、これは発句の句数ではなく、百韻を二百三十五巻という意味だが、ある意味で二万の俳句よりも凄いかもしれない。
 なお、去来は最後に自らを「蕉門遅吟第一」と言っている。正秀亭での膳所(ぜぜ)の悲劇を思えば、去来は蕉門の中ではアドリブの利かないタイプだったのかもしれない。それは作れないというよりはプライドが高くて下手な句を出すのを恥ずかしがっていただけなのだろう。

32、 年たつや家中かちゅうの礼は星づきよ   其角きかく
    元日や土つかうだる顔もせず   去来

 許六きょりくの説、当時元日と云冠いふかむり用ゆまじき難アリ。去来曰、元日ハきらふべき事にあらず。やの字平懐へいぐゎいにきこゆ。この難なるべし。此句このく元日といハんほかなし。やハ嘆美したる詞也ことばなり。許六曰、其角此句を吟じ、春立はるたつといへバ歳旦さいたんにあらず。元日ハいひふりたりとうかがふ。先師曰、さバかりの作者の今日こんにち元日といハんハつたなかるべしとて、年たつやトハおき給へり。又やの字ニ嘆賞のやといふハなし。五ッめのやハうたがひのやとハならひ侍る。去来曰、角が句に於てハ先師かくの給ふべし。予が句に於てさハの給ハじ。作者の甲乙をもつていふにはあらず。己々おのおの志ざす処に違有たがひあり。予ハ珍物新詞を以て常に第二等に置侍る。そこは先師もよく見ゆるし給へり。又嘆美のやハ名目みゃうもくにハなし。名目を以て謂ハバ治定ちぢゃうのや也。治定にモ嘆息嘆美あり。古今集の和歌にもあり。世話にもさいたりや虎御前とらごぜんきつたりやむさし坊といふ、皆治定嗟嘆也みなちぢゃうさたんなりト論ズ。なほ後賢判じ給へ。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,43~44)

 ここでもまた切れ字「や」の用法について蒸し返されている。許六によると、元日は疑いようもないことなのだから、「元日や」という冠(上五)は変だと言うのだが、去来はこの場合の「や」は嘆美だから疑いではないと主張する。「や」を単純な嘆美・嘆賞、いわば今日でいう詠嘆の用法があるのかどうかをめぐって、許六と去来は延々と平行線にあったようだ。
 ここでは許六は其角と芭蕉を証人として出廷させている。其角は「春立つや」では立春の句出歳旦にはならないし、「元旦や」では言い古されている、どうすればいいかと芭蕉に尋ねる。それに対し、芭蕉は其角ほどの作者が「元旦や」というのはいかにも下手だと言って、「年立つや」とおき、そのとき、「や」の字に嘆賞の「や」というものはなく、この「年立つや」の「や」は疑いの「や」だと習ったという。
 芭蕉がそう言ったとなると、さすがの去来もやや引くが、芭蕉は相手によって教え方を変えるところがあり、其角にはそう言ったかもしれないが私は何も言われなかった、とやり返す。また、「嘆美」という言い方が正確でないことを認め、正確には「治定ちじょう」だという。そして、治定の中に嘆美・嘆賞も含まれているという。『古今集』の例は定かではないが、「さいたりや虎御前」「切ったりや武蔵坊」は明らかに口語的な言い回しで、この問題はやはり雅語の「や」と俗語の「や」(今日の関西弁でいう「アホや」の「や」)との混同の問題だろう。
 芭蕉は伊賀、許六は彦根で、其角は江戸なのに対し、去来は長崎出身京都在住で、口語の「や」を日常的に用いていた可能性がある。其角も「元旦や」にそれほど違和感を覚えず、むしろありきたりという感覚を持っていたのは、江戸はいろいろな国の人が集まり、いろいろな地方の方言が入ってきていたからだろう。芭蕉の時代の伊賀で、当時どのような方言が用いられていたかは定かでないが、あるいは伊賀や彦根にはそのような言い回しがなかったのかもしれない。
 古いところで荒木田守武に

 元日や神代のことも思るる   守武

の句があるが、この場合は「元日に神代のことも思はるるや」の倒置で、元日を疑っているのではない。
 私は本来「雅語」の「や」には詠嘆の用法はなかったと思う。去来がここでいう『古今集』の和歌を

 谷風にとくる氷のひまごとに
    うちいづる波や春の初花
                 源当純みなもとのまさずみ

の歌だという説もあるが、これは波を花に見立てる用法で、「打ちいづる波は春の初花だろうか」と読める。
 去来のいう「治定」という言葉は当時の文法用語で広く用いられていたのだろう。ただ、これも今日でいう詠嘆とイコールではない。治定には事実を指すというよりも、人間のほうから主観的に治め定めるというニュアンスで、この言葉は「かな」にも用いられる。「かな」にも明らかに主観的な要素がある。

 もとに汁もなますも桜かな     芭蕉

を「桜なり」としたら、やはりおかしい。汁や膾の材料に桜が用いられているみたいになってしまう。「桜かな」には、「桜ではないけれど、桜のようだ」というニュアンスが含まれる。その意味で、これを「桜だろうか」と言い換えることもできる。治定という言い方は完全な疑いではないにしても、疑いつつ治定するという側面を含む。だから、むしろこの句は「桜なり」とすることはできなくても、

 木の下や汁も膾も桜花

と言い換えることは可能なのである。(句の調子は悪くなるが、意味は変わらない。)その点では治定と疑いとの間にそれほど距離はない。
 おそらく、「や」という助詞は本来疑問か反語の意味で、語末に置かれる言葉だったのだろう。それがしばしば倒置され、文中に用いて、疑う対象を限定するところから、係助詞の「や」の用法が生じたのだろう。
 「春立てば白雲を花と見らむや」は花を強調するように倒置すれば「春立てば白雲を花とや見らむ」になり、白雲を強調するように倒置すれば「春立てば白雲をや花と見らむ」になる。和歌だと前者はさらに、「春立てば花とや見らむ白雲の」となり、後者は「白雲や花と見つらむ春立てば」というように、さらに複雑な倒置になる。
 そもそも係助詞というのは倒置から生じたもので、「何をか言はむ」は「何を言はむか」の倒置、「花ぞ散りける」は「花散りけるぞ」の倒置、「人こそ見えね」は「人見えね(ば)こそ」の倒置が元になっていて、倒置されても動詞の活用はそのまま残るため、連体形や已然形で結ぶことになる。
 切れ字の「や」は基本的にこの末尾の動詞の省略にすぎない。

 古池に蛙飛び込む水の音すや

は、古池を強調すれば「古池や蛙飛び込む水の音す」となり、この「す」を省略すればあの、

 古池や蛙飛び込む水の音     芭蕉

の句になる。だからこの句は強調する所を変えれば、

 古池に蛙や飛び込む水の音
 古池に蛙飛び込むや水の音
 古池に蛙飛び込む水や音
 古池に蛙飛び込む水の音や

とも言い換え可能である。
 おそらく芭蕉の故郷の伊賀には、当時は詠嘆の「や」の用法はなく、俳諧を始める頃学んだ雅語にもその用法はなかったなら、芭蕉は基本的に「やに嘆賞のやというはなし」という考えだったのだろう。ただし、俳諧は俗語の開放でもあり、その意味では特に去来に関して、京都で日常的に用いられていた嘆賞の「や」を容認していた。そう考えるのが一番妥当なように思える。

33、(季重なり)
 風国曰ふうこくいはく、彦根のほ句、一句に季節を二ツ入ル、手曲有てくせありもっとも難ずべし。去来曰、一句に季節二三有ふたつみつあるとも難なかるべし。もとより好む事にもあらず。

 許六きょりく曰、一句に季節を二ツ用ゆる事、初心のなりがたき事也。季と季のかよふ処あり。去来曰、一句に同季節をふたつ用る事ハ、功者初心によるべからず。されど、許六の季ト季のかよふ処に習ありといへるハ、予がいまだしらざる事也。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,44)

 今でも俳句をちょっとかじった人は、人の句でたまたま季重なりがあったりすると鬼の首を取ったような顔をするが、連歌の式目には季重なりについての規定はない。俳諧の方式も原則としてそれに従うのだから、季重なりは何ら問題ではない。もし、季重なりがいけないというなら、

 目には青葉山ほととぎす初鰹はつがつを   素堂そだう
 田一枚植えて立去たちさる柳かな     芭蕉

の句はどうなるのか。近代俳句ではそれぞれ流派によって違うだろうが、原則的には無季題や自由律が許されているのだから、季重なりばかりに目くじら立てる理由はない。
 とはいえ、季重なりを見つけると鬼の首を取ったような顔をする人は江戸時代にも結構いたのだろう。去来ははっきり言う。一句に季語が二つ三つあってもかまわない。ただ、わざわざ好きこのんでいくつも季語を入れる必要はない、と。
 ただ、もちろん、ただ出たら目に二つ三つの季語を入れれば、テーマが散逸してしまい、いい句はできない。組み合わせが重要であり、許六が言うように、むしろ初心者にとっては難しい。たとえば、紅葉に時雨を組み合わせるのは古歌にも出典があるし、時雨に濡れた紅葉に夕日の射す美しさを知ればこそ、この組み合わせは成り立つ。芭蕉の「田一枚」の句にしても、中世連歌では春の柳の芽吹く時の「青柳」は春だが、そうでないものは無季題として扱われることもあった。それに西行の歌などに夏の柳の下の下涼みを詠んだものもあり、「田一枚」の柳は旅人の涼む夏の柳であることは明白だ。このように、理由があって季重なりになっている場合は、テーマが散逸することはない。
 芭蕉の『野ざらし紀行』の

 冬牡丹ふゆぼたん千鳥よ雪のほととぎす   芭蕉

というは、「冬牡丹」「千鳥」「雪」と冬の季語が三つ、「ほととぎす」という夏の季語が一つと、計四つの季語が入っているが、冬牡丹に千鳥の啼く声が聞こえてくれば、雪の季節にほととぎすが啼いているようで哀れだ、というふうに、四つの季語は互いに緊密に結びついていて、どれ一つでも欠けたなら句は成り立たない。まったくの素人が季語を知らずに「山茶花に吹く春風やほととぎす」とかやるのとはわけが違う。
 ただ、今日俳句の季語は様々な問題を抱えていることは事実だ。明治の初めに新暦が採用されたことで、季節感が微妙にずれた上、西洋的な季節感の影響を受けて、大体今日の季節感は江戸時代に比べて一ヶ月ほど後ろにずれている。そのため、若葉が夏で、朝顔が秋で、落葉が冬だというと、何か違和感がある。江戸時代の季節感では、一二三月が春だが、新暦の二月はまだ寒く、三四五月くらいが春という感じがする。同じく八月は学校も夏休みで、六七八月くらいが夏という感じがする。そのため、今の感覚では朝顔もお盆も七夕も夏だ。その上、明治以降の近代俳句では、古典の本意本情にこだわらずに、ただ何となく季節を感じる詞を次々と季語に加え、季語を乱発していったために何でこの季語がというものもないではない。また、生活の変化で季節感が消失してしまったものもある。とにかく、季語については杓子定規にならず、柔軟に考える必要があるだろう。季重なりが何万という句を選考する際の単なる足切りの手段になったり、歳時記を買わせるための策略だったりしないことを願う。

34、 めくらよりおしのかハゆき月見哉つきみかな   去来
 このごろ或ル連歌師曰、花のもとにて此句このくの評あり。俳諧もかかる感情かんせいの句あれバ、あなどりがたしとなり。去来曰、此句ハ十七八年まへの句なり。そのころハ先師にも賞セられ、世上にもさたありし句也。尤事新敷もっともことあたらしく感ふかしといへど、句位を論ずるにいたりてハ甚(はなは下品也げほんなり。今日蕉門の俳友中々此場なかなかこのばらず。これを賞セらるるとききて、かへつて今日の連歌師のたのもしからずおもひ侍る也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,44~45)

 去来の句は今なら、「目の不自由な人より言葉の不自由な人のほうが可哀想な月見哉」とでもすべきか。月を見ることができないのは可哀想だが、月を見て何も言い表すことができないのも可哀想だということか。もちろん、月が見えなくても心の月を見ることはできるし、言葉だけが月の感動を表現する手段ではない。どっちが可哀想なんて一概に言えるものではない。要するに、たいした句ではない。障害者より心をなくした健常者の方が可哀想だ、というならわかる。
 去来にとっても、この句は若気の至りで、貞享の頃の入門したての去来に対してなら、芭蕉も去来の上達を評価したのだろう。この句は一時流行したのだろうけど、其角編の『続虚栗ぞくみなしぐり』の句で七部集の句ではない。「事新敷ことあたらしく感ふかし」というが、新味はあったにしても、そんなに深いかどうかはわからない。もっとも、「下品」という言葉は今日でいうお下劣という意味での下品げひんではなく、『文選もんぜん』の上品じょうほん中品ちゅうほん下品げほんという分類によるものだろう。
 連歌師も西山宗因そういんを最後に、本来の骨のある連歌師はいなくなったのだろう。「花の本」とは連歌師の最高の師匠に与えられる称号で、それがこんな句を取り上げて評価しているのだから、たかが知れているのはもっともなところだ。
 もっとも、権威者というのは世俗のことを知らないということをステータスと考える傾向にあり、それは洋の東西を問わぬもので、フランスのソルボンヌの文化人も流行に無知な態度を取ることをむしろ権威を高める手段として用いていることは、ピエール・ブルデューも指摘している。今日の日本でも、宮沢和史や椎名林檎の歌詞を文学的だと評価する詩人がいるが、花の本の連歌師にどこか似てないか。
 要するにこう言いたいのだろう。「俺は詩学の権威だから巷で流行る流行歌なんてものには関心はないし、いやしくも文学者たるものそんなものに興味を持つべきではないと考えているが、たまたま聴いたあの曲の歌詞は低俗な流行歌の中にあっては文学的で、なかなか良いではないか。もっとも我々のレベルからすれば問題にならない程度のものではあるが。」去来の句を褒めた連歌師も、そんなやからだったのだろう。

35、 あさがほの裏を見せけり秋の風
 一説曰、此句このく先師の葛葉くずのはおもてみせけりと等類なり許六きょりく曰く、等類にあらず。みせけりとはことばのむすびまでなり。趣向かはれり。去来曰、等類とはいひがたし。同竈どうそうの句なるべし。たとへば和歌には花さかぬ常盤ときはの山の鶯はおのれなきてや春をしるらんといふに、紅葉せぬトキハ山のサホ鹿は己なきてや秋を知るらんトよみても等類にはならざるよし、俳諧には遠慮する事ト見えたり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,45)

 ここでまた等類ネタだ。この句も許六の句らしく、芭蕉の

 くずの葉のおもて見せけり今朝の露    芭蕉

と確かに全体としては似ている。ただ、許六の言うように、「あさがほの」の句は、秋風に吹かれて朝顔の葉が裏返っているというもので、裏は心(うら)にも通じ、「春に万物を生じ秋に止む」という死に向かってゆく定めの哀れさを、朝に咲いて昼には萎む花だけではなく、秋風に吹かれてやがて枯れてゆく葉にも遅速はあれ感じられる、というものだ。
 これに対し、芭蕉の句の方は上を向いていたクズの葉が、霜にやられてだらっと垂れ下がる姿を詠んだもので秋に草木の萎れる哀れを詠んだという点ではそれほど変わらない。だが一方で、この句は服部嵐雪が一度芭蕉に反旗を翻し、しばらくして戻ってきた時の句と言われている。「おもて見せけり」には、背を向けていた葉が世間の厳しさに耐えられず、しおらしく自分の方を向いて帰ってきた、という含みがある。
 言葉の続き方が似ていても、意味は多少違うので、等類かどうかは微妙だ。ここで去来はまた、「同竈どうそう」という微妙な概念を持ち出す。これは凡兆の「桐の木の」の句の所でいう、「同巣」と音が同じだし、同じものなのか違うものなのかは定かではない。どちらにせよ、言葉をいくつか入れ替えて別の句に作るやり方のようだ。音楽に例えるなら、メロディーラインの音符をいくつか変えて、つまり「ドレミファミレドー」というメロディーを「ドレミファミソドー」にして別の曲にするようなものだろう。

 古池や蛙飛び込む水の音

を、たとえば

     青淵やうその飛び込む水の音
とでもすれば、「同竈」だろうか。発句ではないが、

    鞘ばしりしをやがてとめけり
 青淵にうその飛び込む水の音   曾良そら
というはあるが、これは北枝ほくしが記録した『山中三吟評語』によれば芭蕉も認めている。
 なお、この章は、版本には収められているものの、原本には「此句は抜くべし」と注記して前文が抹消されているため、本によってはこの部分がカットされていたり、欄外に掲載されていたりする。

36、 時雨しぐるるや紅粉もみの小袖をふきかへし    去来
 正秀曰まさひでいはく、いとによるのたぐひ、去来一生の句くずなり。去来曰、正秀が評いまだ解し得ず。予ハただ時雨しぐれもてくるあらしの路上に、紅粉もみの小袖ふきかへしたるけしき、紅葉吹きおろす山おろしの風ト、ながめたる上の俳諧なるべしと作し侍るのミなり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,45~46)

 「紅粉(もみ)」というのは紅花の染料を揉んで着色するところから来た名で、赤い薄絹は主に女性の着物の裏地に用いる。小袖は当時は綿を入れたりして冬の重ね着にしていたが、その小袖が風に吹かれ、赤い裏地をチラチラさせる姿に、紅粉もみ紅葉もみじの連想が働いたのだろう。古来、

 龍田川錦織たつたがはにしきおりかく神無月かむなづき
    しぐれの雨をたてぬきにして
                  詠み人知らず

のように時雨に紅葉が色づく歌は多く、それは時雨の露が夕日に映えて美しく輝くからで、去来の句はこうした情とはやや離れて、風に小袖がめくれて赤いものがチラチラするのと、時雨に紅葉が染まる類似だけの句になっている。
 正秀が「いとに寄のたぐひ、去来一生の句くず」と言ったのも、そのあたりの弱点を見てのことだろう。「糸による」とは『古今集』の紀貫之きのつらゆきの、

   東へまかりける時、道にてよめる
 糸による物ならなくに別れ路の
    心細くもおもほゆるかな
                   紀貫之

の歌のことで、主な街道は大体都へと集まってゆくものだが、東国へ下る路はその反対に途中で方々に分岐し、細くなってゆく。それを糸の撚りがほどけてゆくのに例えた歌で、そんな悪い歌ではないが、糸の比喩だけに頼り、景物などに乏しいことからか、中世では嫌われたのだろう。『徒然草』第十四段に「この頃の歌は、一ふしをかしく言ひかなへたりと見ゆるはあれど、古き歌どものやうに、いかにぞや、言葉のほかに哀れにけしきおぼゆるはなし。貫之が、「いとによる物ならなくに。」といへるは、古今集のうち歌屑うたくずとかやいひつたへたれど、今の世の人の詠みぬべきことがらとは見えず。」とあり、「歌屑」などとけなされてはいるが、兼好法師の時代にはない言外の余情を認めている。
 正秀に対する去来の反論もわからないではない。

 ほのぼのと有明の月の月影に
    紅葉吹きおろす山おろしの風
                  源信明

の風にめくれる紅葉の情を俳諧らしく卑近な題材で表現した、いわば不易の情を流行の現象で表現した不易流行の句だと言えなくもない。ただ、芭蕉が峰の猿の叫びを魚屋の塩鯛の歯茎で表現しようとしたのと決定的に違うのは、情の連続性が読み取れない点だ。風に翻る小袖の裏地は、形態の類似であって情の一致ではない。そのため、古典の情は句の表面に現れない。
 これは「応々と」の句にも言えることだ。

 応々おうおうといへどたたくや雪のかど   去来

の句と

 嘆きつつひとりぬる夜のあくる間は
    いかにひさしきものとかは知る
                 右大将道綱母うだいしょうみちつなのはは

の歌との類似は「待つ身のつらさ」という形態の類似に過ぎず、恋に悩む女性の身も引きちぎれんばかりの切なさはどこにも受け継がれていない。やはり、これは不易流行の誤解だろう。そして、この誤解に気付かなかったことが、去来の句の限界だったのではなかったか。
 芭蕉の塩鯛の句はただ形が似ているというものではない。塩鯛の口をあけた表情に、人間に捕らえられた断末魔の表情が読み取れ、月に叫ぶ猿の哀れに古人が託した、月を捕らえようとしてつかめなかった無念の情との間には、十分な一致がある。この情の一致があってこそ「軽み」は成功する。
 去来のこの紅粉もみの小袖の句は、そういうわけで「句屑」は言い過ぎとしても、せいぜい日常の何気ない情景を鋭く描写したというレベルで終わる。

37、 はつのいのこにちゃうどしぐるる
    生鯛いけだひのひちひちするをだいにのせ
    どこへ行やらうらの三介さんすけ

 去来曰、此付句このつけく台にのせてといへるところ、いのこの祝儀ときはめて此分このぶん過たり。やはりひちひちとしてはねかへりなどあらまほし。しからバ次の付句までもよからん。かかる処より手おもくなれり。そうじて一句に謂尽いひつくしたるハあとあとつけがたき物なり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,46)

 

 和歌ではあくまで一つの意味、一つの情をきっぱりと言い切ることが求められるのに対し、連歌は次の句の展開があるので、言葉にあえて曖昧さを残しておかなくてはならない。たとえば、

 見渡せば花も紅葉もなかりけり
    浦のとまやの秋の夕暮れ
                 藤原定家

の歌も連歌なら、

    浦のとまやの秋の夕暮れ
 見渡せば花も紅葉もなかるらん

とすべきところだろう。「なかりけり」と言い切ってしまうと、「ない」という意味に極まってしまうが、「なかるらん」と曖昧にぼかせば、これを反語と取り成して、花も紅葉もないのだろうか、そんなことはない、という意味で次の句を付けることができる。
 また、付け句に景物を読み込みすぎると次の句が付けにくくなるという弊害も、古くからあるテーマで、心敬の『所々返答』でも、

    秋もなほあさきは雪のゆふべ哉
 水こほる江にさむき雁がね     宗祇

の脇を「此御句、いささかさかゐに入ずき結構のものにて候、発句のしな意、心よらず哉、脇の句、下句など少し云ひ残したく哉、水辺物、冬の物尽し給では、第三の作者不便覚候歟」と評している。
 「生鯛の」の句もそうした欠点と見ていいだろう。「初亥の子」は旧暦十月の最初の亥の日で、ちょうどその日に初時雨だという句だろう。ただ、「初」の字を省くのは、他の意味にも取れるようにの心遣いだろう。その亥の日のご馳走に獲れたてのぴちぴちはねる鯛という付け合いだが、「台にのせ」だと料理の情景に限定されてしまう。去来の言うように、

    はつのいのこにちゃうどしぐるる
 生鯛いけだひのひちひちとしてはねかへり

とでもすれば、単に鯛がぴちぴちはねているだけの情景だから、魚屋の風景と取っても漁の風景と取ってもいい。「台にのせ」と限定してしまうと、跡の句が詰まってしまい、

    生鯛いけだひのひちひちするをだいにのせ
 どこへ行やらうらの三介さんすけ

とあまり意味のない逃げ句を一句挟まなくてはならなくなる。
 付け句というのは一句で完結するものではなく、前後二句が付くことによって二通りの意味を持つように作らなくてはならない。そこが和歌や発句と違うところだ。

38、 梅の花あかいハあかいハあかいハな   惟然ゐぜん
 去来曰、惟然坊ゐぜんぼうが今の風おほかた類也たぐひなり是等これらハ句とハ見えず。先師遷化せんげの年の夏、惟然坊が俳諧導びき給ふに、そのひいでたる口質くちぐせところよりすすめて、磯際いそぎはにざぶりざぶりと浪うちて、あるいは杉の木にすうすうと風の吹わたりなどといふを賞し給ふ。又俳諧ハ季先きさきもつて無分別に作すべしとの給ひ、又この後いよいよ風体ふうていかろからんなど、の給ひける事をききまどひ、我が得手えてにひきかけ、みづからの集の歌仙に侍る、妻呼雉子つまよぶきじ、あくるがごとくの雪の句などに評し給ひける句ノ勢、句の姿などといふ事の物語しどもハ、皆忘却セると見えたり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,46~47)

 惟然が芭蕉に入門したのは貞享5(1688)年、『笈の小文』の旅から戻り越人らと『更科さらしな紀行』の旅に名古屋を発つ前で、その時に、

 見せばやな茄子なすびをちぎる軒の畑    惟然

と詠んだ。「ちぎる」は芭蕉をもてなすために何もないけど軒になった茄子くらいなら、という謙虚な気持ちを表すとともに、これから弟子としてついて行きますという「契り」の意味をも掛けたものだ。それに対し芭蕉はこう答える。

    見せばやな茄子をちぎる軒の畑
 その葉を重ね折らん夕顔      芭蕉

と答えている。その後しばらくは蕉門の中でもそれほど目立った作者ではなかった。
 去来が「遷化の年」というのは、元禄7(1694)年8月の末に、芭蕉が西へ向かう最後の旅の途中に故郷伊賀に立ち寄ったときのことだろう。この頃の芭蕉はそれまでの軽みに飽き足らず、これからは風体がもっと軽くなることを説き、浪のざぶりざぶり、風のすうすうなども句となることを説いていたようだ。これが惟然や伊賀のあだなる風に影響を与えたのだろう。その後、惟然は芭蕉の最後の旅に同行し、大阪で師の最後を看取ることになる。
 すでにぼろぼろになった体で最後まで旅を続けようとする芭蕉の壮絶な最期に感化されたのか、その後、惟然は風羅器という木魚に似た楽器を作り、

 古池にかはづとびこむ水の音
    南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

などと唄う風羅念仏を唱えながら、諸国を旅したという。このことは去来や其角のような正統派の蕉門の俳諧師からは顰蹙ひんしゅくを買ったが、惟然は惟然なりの仕方で蕉門の伝道師となり、俳諧のすばらしさを庶民に広めようとしたのだろう。俳諧は庶民のものだとはいえ、立派な師匠を呼んで、それにふさわしい興行の席を設けるなんて事は、やはり相当にお金のかかることで、まして其角や去来を呼ぶなんてことは、到底普通の人にはできない。それに比べれば、惟然の行動ははるかに俳諧を身近なものにしただろう。
 惟然はしばらくは普通の句を作っていたが、元禄15(1702)年ごろから

 梅の花あかいはあかいはあかいはさ   惟然

のような大胆な破調を試み出した。これも古い門人から見れば顰蹙もんだったが、惟然編の『二葉集じようしゅう』を見ると、芭蕉とも関わりの深かった智月・乙州親子や膳所の正秀なども参加している。特に

 そんならば花に蛙の笑ひ顔    智月

のような、明らかに惟然の風に感化された句もあり、面白い。
 去来は酷評しているが、よく見ると、

 梅の花あかいはあかいはあかいはさ   惟然

にしても、梅咲いて春の来る目出度さを見事に表現していて、決して本意本情にたがうものではない。

 きりぎりすさあとらまへたはあとんだ   惟然
 水さっと鳥よふはふはふうはふは     同
 なむでやの柿が大分なったはさ      同
 のらくらとただのらくらとやれよ春    同
 水鳥やむかふの岸へつういつうい     同

こうした句も、きちんと蕉門俳諧の基礎があってこそ、本意本情を踏み外すことなくできるもので、むしろ仙厓せんがいの禅画の境地に近い。これは実際誰にでもできるというものではなく、事実惟然の後に惟然はいなかった。
 惟然の句は明らかに芭蕉の軽みの一つの極限の姿であり、少なくとも伊賀のあだなる風の、

 鶯のないて見たればなかれたり

の中途半端さに比べれば気持ちがいい。これこそマニュアル的な堅苦しい句作りをして、ついついひねり過ぎてしまう去来には、思いもつかぬものだ。「是等ハ句とハ見えず」と言い放つあたりに、むしろ嫉妬すら含まれているのではないか。「句ノ勢、句の姿などといふ事の物語しどもハ、皆忘却セる」とは言うものの、去来こそこうしたものを一度忘れた方が良かったのではなかったか。

39、 ゆかずして五湖いりがきの音をきく   素堂そだう
    なき人の小袖も今や土用ぼし      はせを

 素堂師の句ハ深川ばせを庵におくり給ふ句なり。先師の句は予妹千子ちねが身まかりけるころ、ミのの国よりおくり給ふ句也。共にその事をいとなむただ中にきたれり。このごろ古蔵集ふるぐらしふを見るに、先師の事どもかきちらしたるかたはしに、素師の句をあげ、いりがきのただ中にきたる事を以て、名人達人と名誉がられたり、これをもて名人といはば、そのそしらるる先師の句もかくのごとし。皆人のしりたる事なり。それのミならず、世話にも人ごといはばむしろしけといへり。一気の感通かんつう自然の妙応めうおう、かかる事も有ものとしらるべし。誠に痴人面前ちじんめんぜん夢を説べからずトなり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,47)

 今で言えば、シンクロニシティーということか。一見偶然の一致のように見えることでも、実は前世からの因縁であったり、何か超自然的な力が働いている兆候と見る考え方は、どこの国にもありそうなことだ。
 素堂の句は「行かずして見て、五湖の牡蠣がきの音を聞く」という句で、字余りは天和てんなの頃はやった天和調だとか虚栗みなしぐり調だとか言われるスタイルで、深川を中国の五湖に見立てるあたりも時代を感じさせる。 「煎り牡蠣」は牡蠣を煎ったもので、その頃はまだ菜食主義者でなかったか、芭蕉の好物だったという。芭蕉はかつて伊賀藤堂藩の料理人だったから、自分で作って食べていたのだろう。牡蠣を殻ごと煎るので、独特な音がする。
 「行かなくても芭蕉さんが煎り牡蠣を作っている音が聞こえ、その姿が目に見えるようです。」という句が芭蕉のものに届いたちょうどそのとき、まさに芭蕉は煎り牡蠣を作っている最中だったという。
 『古蔵集ふるぐらしゅう』は何かちょっといかがわしい感じの俳書で、俳諧が大衆化したせいで、ちょうど東スポのように冗談記事を載せたりして、庶民を喜ばせていたのか。芭蕉のような権威のある人を、あることないこと書いてこき下ろすのも、この手のものの常だ。素堂のこのエピソードを載せて、素堂がそれこそ千里眼のような超人的な力を持っていたと持ち上げていたようだ。これでもし五七五で書いたことを具現化させる能力があったとしたら、富樫義博の漫画『ハンター×ハンター』のバショウだ。
 去来もこの手のものに同じ次元で反論しているところが面白い。「それくらいのことだったら芭蕉だってやってるぞ」てな感じで、自分の妹が亡くなり、その形見の小袖を土用干ししていたちょうどそのとき、

 なき人の小袖も今や土用ぼし      はせを

の句が届いたという。
 「人ごといはば筵しけ」というのは、今でいえば「噂をすれば影がさす」ということだが、何のことはない。「一気の感通、自然の妙応」と、去来も千里眼のような超能力は信じないにせよ、一種のシンクロニシティーの存在を信じていたようだ。単に、親しい間柄で、「アイツは今頃こんなことやっているだろうな」と思って句を贈ったら、うまい具合にタイミングよく届いた、と言ってしまえば元も子もないが。
 なお、「痴人面前ちじんめんぜん夢を説べからず」というのは、幻覚を見ている人間にそれを幻覚だと教えることはできない」ということだが、しばしば幻覚というのは我々の現前知覚と同じくらい鮮明な事実として映るため、それを否定されると、かえって騙されているか馬鹿にされているように取られてしまう。誰だって人の言葉より、自分の目で見たものの方が信じられるものだ。そのため、どれが幻覚でどれが幻覚でないかを説明しても、結局患者の頭を混乱させることにしかならない。幻覚を見ている人間には、むしろそれを否定したりせず、相手に話を合わすことが必要だ。去来がそれを知っていて、精神分析医が患者の言葉を使うように、わざと相手の論法で反論しているのかもしれないが、去来がそこまで科学的な合理性を持っていたかどうかはわからない。

40、 梅白しきのふや鶴をぬすまれし  はせを
 去来曰、ふる藏集ぐらしふ此句このくをあげて、先師のうへをなじりたりしなり。これらハ物のこころをわきまへざる評なり。此句ついしゃうに似たりと也。凡秋風およそしうふう洛陽らくやうの富家に生れ、市中を去り、山家やまがに閑居して詩歌しいかを楽しみ、騒人さうじんを愛するとききて、かれにむかへられ、まことあるじを風騒隠逸の人とおもひ給へる上の作あり。先師の心に侫諂ねいてんなし。評者の心に侫諂あり。その後ハしばしばまねけどもゆきたまはず。誠にあざむくべし、しゆべからず。又句体またくたいの物くるしきハ、そのころの風なり。子亥一巡しがいいちじゅんの後評とハ各別かくべつなるべし。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,47~48)

 三井といえば「現金掛け値なし」という新商法で繁盛した越後屋呉服店のあの三井の一族で、初代三井の三井高利の甥に当たる。三井高利と同様、三井秋風も当然金持ちで、鳴瀧なるたきの花林園もさぞかし立派で、広い庭園には今を盛りと梅が咲き誇っていたのだろう。芭蕉の『甲子吟行画巻かっしぎんこうがかん』では、遠くに京都の五重の塔を描き、その手前の山に囲まれたところに二つの大きな屋根と立派な門を描き、その合間に簡単に梅の木を描いている。この絵からもその広さが想像できる。これが、蕪村の絵になると、やけに質素に描かれている。「山家をとふ」という文章からのイメージだとやはりこうなのだろう。
 三井秋風があまりに有名な金持ちだったため、芭蕉のこの句を世辞追従せじついしょうの句だと揶揄やゆする人がいたようで、去来はここで弁護している。曰、秋風は確かに京都の名だたる金持ちではあるが、「市中を去り、山家に閑居して詩歌を楽しみ」、屈原くつげんのような隠逸の詩人を好むからだと弁護している。「騒人そうじん」というのは別に騒がしい人ではない。騒といのは屈原の『離騒りそう』という詩から来たもので、憂いとか悲哀という意味がある。そこから屈原のような隠逸の詩人を騒人と呼んでいた。三井秋風は金持ちでも心は隠士だから尋ねたのであって、金に媚びたのではない。『奥の細道』の尾花沢のところに「尾花沢おばなざわにて清風せいふう云者いふものたづぬ。かれはとめるものなれどもこころざしいやしからず。」とあるが、それと同様ということだろう。
 そのあと去来は、それ以降秋風に何度も招かれたが芭蕉は行かなかったと言っているが、これは芭蕉を弁護するあまりに「鍋の論理」に陥っている。金持ちでも隠士の心を持つものだというのであれば、何度も秋風のところに行っても問題はなさそうだ。一度しか行かず、あとは断わったというのであれば、かえってただの俗物だということを証明してしまう。
 秋風ははじめ北村季吟きぎんに師事し、貞門の俳諧師だったが、後に西山宗因や田中常矩つねのりとともに談林俳諧の一翼を担うこととなった。しかし、天和2(1682)年に宗因、常矩と相次いで死去し、談林の俳諧も急速に衰退していった。宗因の死は芭蕉にとっても大きなショックで、この句の詠まれた『野ざらし紀行』の旅もまた、宗因の面影を追い求めて旅に出たようなものだった。まして宗因、常矩と親しかった秋風にとっては、ぽっかり穴のあいたようなもので、どうも三年たった今でも、まだショックから立ち直ってなかったようだ。この句はそんな芭蕉からの秋風へのなぐさめの言葉だった。

 梅白し昨日や鶴を盗れし

 梅には赤いのも白いのもあるが、「白」を強調したのは弔意を込めてのことだろう。鶴は渡り鳥だから春には北へ帰っていくもので、それは自然の摂理、運命だから仕方がない。それを「盗まれた」と表現することで、何とか秋風から笑顔を引き出したかったのであろう。

41、 うぐひすの海むいてなくすまの浦    卯七うしち
 はじめハ鶯も海むいてなくなり野坡曰やはいはく、鶯もちあたらんハおもかるべし。やはり鶯のといハん。去来もっともなりとどうじてあらたむ。丈草ぢゃうさう曰、のといひて風情ふぜいは侍れど、やはりたしかに鶯もといはんかたまさるべしと也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,48)

 この句は切れ字が入っていないため、何となく収まりが悪い。そこから結局は「鶯の」でも「鶯も」でも何かしっくりこない感じがしてしまう。

 鶯の海むいてなくすまの浦
 鶯も海むいてなくすまの浦

 「鶯も」とした場合でも、この場合の「も」は「力も」と呼ばれる強調の「も」で、「他の鳥も海向いて鳴くが鶯も」という意味ではない。両方とも意味は同じで、「鶯」を強調するかどうかの違いだ。ここで野坡と去来は強調しない方がいいとし、丈草は強調した方がいいと言う。結論は出ず、『同門評』の最後は後の人の判定を待つ形で終わる。
 この句は倒置や何かを元に戻し、散文にすれば、

 須磨すまの浦の鶯は海を向いて鳴くや

だろう。それを率直に鶯を強調して前に持ってくる形で倒置ずれば、

 鶯の海むいて鳴くや須磨の浦

になる。これだと字余りで語路が悪い。そこで切れ字を落とすと、

 鶯の海むいてなくすまの浦

の案になる。切れ字の位置を変えて、

 鶯や海むいてなくすまの浦

という解決もあるかもしれない。しかし、これだと鶯を疑っているように響いてしまう。この句の中で疑うとすれば「海むいて鳴く」しかないが、海むいて鳴いているのは鶯だろうかという疑いに、両義的に取れてしまうと、句の意味が変わってしまう。そこで「も」のような疑いの意味のない単なる強調の「も」を入れると、

 鶯も海むいてなくすまの浦

の案になる。確かにこれは難問だ。これに関しては私も結論は出せない。後賢判ごけんはんたまへ。