ゆきゆき亭日乗、2012年

5/24 オリンピックは今や単なるスポーツの祭殿ではなく、その国の環境対策技術や建築技術はもとよりエンターテイメントに至るまで世界中にアピールできる、いわば国際見本市でもある。
 特に日本がこれから震災から復興し、生まれ変わった日本をアピールするには、またとないチャンスでもある。当然ながら、日本の再生可能エネルギー技術とエンターメント産業(ジャパンクール)が大きな柱となる。
 電力不足の不安と言うが、実際に原発が全部止まってみてわかったのは、夏場の電力需要がピークになる時期をのぞけば、現状でもそんなに不安はないということだ。夏場だけの電力なら、そんなに解決困難なことではない。
 スペインはバルセロナでやったばかりだし、トルコはクルド人問題を抱えている。ドーハがこけた以上日本に十分チャンスはある。
 むしろ最大の障壁は、実は石原慎太郎氏自身だったりする。
 石原氏の古い感覚で、これを原発復活の口実にしようだとかいうやましい政治的動機が見え隠れしたり、都のマンガアニメ規制に見られるような、わざわざ世界に通用するジャパンクールを弾圧し潰そうとしたりして、せっかくのオリンピックを古臭い陳腐なものにしてしまう可能性が大きいのが一番の問題だ。
 オリンピックに向けて日本の世論が盛り上がらない最大の原因もそこにあるのではないかと思う。
 日本でもう一度オリンピックを成功させるには、結局都民が次の選挙で賢明な判断を下すかどうかにかかっているように思える。脱原発とジャパンクールに肯定的な人間を選ぶこと、それが唯一の道だと思う。

5/21 金環日食を見た。
 朝起きた時は曇っていたが、会社へ行く途中の車のなかで雲が切れて太陽が時折顔を出し、手近にあった紙に安全ピンで穴をあけて車の中に映してみると、三日月状の光が映った。
 コンビニの観測眼鏡は売り切れていた。昨日まではたくさんあったが、そういえばコンビにはどこも結構車がたくさん止まっている。
 会社の車庫に着いて少しすると金環になった。あたりは薄暗くなった。明け方や夕暮れのような赤みがかかった暗さではなく、灰色になる暗さだ。曇った時の暗さではなく灰色の光が降り注いでいるような暗さだ。
 あたりで犬が吠えてたりカラスが鳴いたり、雀が二羽戯れながら飛んできたり、結構賑やかだった。
 雲がうっすらかかっているので何とか肉眼でも見ることができたが、やはり1秒も見ていることはできない。目を閉じると金環の残像がいくつも現われる。
 さっきのピンホールを空けた紙をかざして、その穴から見ると、エスキモーサングラスの原理で若干光は和らぐが、それでも長くは見れなかった。
 写メを取ったが、全体に光ってしまってうまく写らなかった。

5/20 今日は午前中いい天気だったので、ご近所の散歩に出た。
 保木から川崎市麻生区の白山神社と月読神社を目指した。保木のあたりには芍薬を植えてる農家があり見事に咲いていた。
 そのちょっと裏手に十社宮があった。この辺はよく通るのだけど今まで気づかなかったものがたくさんある。となりが薬師堂で本地垂迹そろっている。狛犬はなかったが古い庚申塔があった。
 このあと、裏門坂から白山神社の方へ向った。
 白山神社には赤いきれいな両部鳥居があり、その前に明治20年銘の狛犬があった。横に平たい顔でどこかにこやかに見える。阿吽両方とも子取りで阿形の方は二頭の子獅子を抱えている。
 拝殿には立派な彫刻があり、本殿は石造りの鞘堂に覆われていたが、中にはもっときれいな彫刻に彩られた建物があるらしく、写真入の解説板があった。
 そのあと、月読神社を目指したが、途中で道を間違えて石橋の方へ出てしまった。
 柿生の里散歩道案内図の看板を見て、この散歩コースをたどって月読神社へ向うことにした。
 この散歩コースは結構狭い道を通る。
 途中、神明社と稲荷森稲荷(とうかもりいなり)神社があった。このあたりは竹薮が多く、竹の子を取るなという看板がある。
 籠口ノ池(ろぐちのいけ)公園を抜け東柿生小学校の交差点を抜け、不動橋を渡った所に月読神社入り口があった。
 ここもやけに狭い道で家の庭先をかすめていくので本当かと思ったが、やがて鳥居が見えてきた。
 正面の表参道ではなく東側に出る裏参道だった。
 ここの狛犬は大正7年銘で、子取りの子獅子も玉取りの玉も大きめだった。このあたりの狛犬は優しい表情をしているものが多い。狛犬もムスコニウムの補給が必要なのだろうか。
 帰る途中に王禅寺の裏側にある原子力研究所の前を通った。
 子供の頃、市ヶ尾古墳と王禅寺を結ぶ「原始から原子へハイキングコース」があったのを思い出した。結局一度も歩くことなくすすき野の造成が始まって消滅してしまった。
 1970年頃だったか、まだ原子力が未来のエネルギーとして期待されてた頃だった。

 よく、自然エネルギーはまだまだ何十年先の未来のエネルギーだと言う人がいるが、自然エネルギーは既に実用化されているものがほとんどで、むしろ原発の核燃料再処理の方が技術的に問題が多く、まだ実用に何十年もかかりそうなもので、そんなロマンチックなものを見切り発車させてしまったのはやはり失敗だったのだろう。
 核分裂反応の制御も、今の固形ウラン燃料の原発では、ほとんど石炭ストーブのようなもので、火掻き棒ならぬ制御棒で火力を調節し、消す時には水で冷やすという意外にローテクな物で、液体トリウム原発なら石油ストーブくらいに扱いやすくなるのだろうけど。
 原発も先端技術というよりは60年代に作られたかなり古い技術だということなのだろう。
 日本企業はインド進出が遅れているが、インドは侮れない。民主主義の国だし、人口もやがて中国を追い抜くし、それに唯一液体トリウム原発を実用化している国でもある。
 なぜか韓国はインド進出が進んでいる。同じB型同士、気が合うのか。日本人はドイツ人と同じA型文化だから、ドイツに倣って自然エネルギーに力を入れた方がいいのだろう。

 ところで、日本野鳥の会が福島の風力発電所に反対しているという報道があり、これだけ見るといかにも自然エネルギーの導入に消極的であるかのような印象を与えてしまう。
 ただでさえ、法人会員に電力会社や原発関連の企業が名を連ねているというところで、いろいろ勘ぐる向きもあるだろう。
 もちろん日本野鳥の会も原発には反対しているし、今回の事故で多数の野鳥が被曝したのみならず、ツバメの減少にまで影響を与えていることにまで憂慮している以上、法人会員のお金の力で組織の方針が捻じ曲げられるということはないと思う。
 日本野鳥の会は風力だけでなく、もちろんダム建設にも反対しているし、野鳥の立場からすれば、人間の活動は基本的にことごとく脅威になる。
 本当の脅威は生息域の減少で、これは農地開発でも、宅地開発でも、工業団地の建設でも、道路の建設でも、ありとあらゆる開発が野鳥に限らず野性生物全体にとって脅威になる。
 野鳥を保護するのは人間であり、人間に「生きるな」とは言えない。ただ、無制限な開発ではなく自然との調和があくまで目的なのだから、自然に与える影響を最小にする努力は必要だろう。
 風力発電の風車に、野鳥の衝突を防ぐ工夫はできないか、場所も山地よりは洋上の方がふさわしいのではないか、その辺のことはやはり考えなくてはいけないことで、脱原発だからと言って風力発電を水戸黄門の印籠にするわけにはいかないし、そういうやり方は地球温暖化を盾に原発ルネッサンスを押し進めてきた論理と何ら変らない。

5/18 「源氏物語」末摘花巻クリアー!
 ついでに序文も付けてみた。
 源氏物語は今読んでも古さを感じさせない。ただ翻訳が古かっただけだ。
 今のところ俺に翻訳に関しては苦情は一件も来ていないので、これでいいのだと思う。ドナルド・キーンの名前を出しているけど、未だにその方面からの苦情も来ていないから、これはもうドナルド・キーン公認といってもいいのかもしれない‥‥なんて、ただ知らないだけなのだろうけど。

5/14 ここんとこ洋楽ばかり、主にメタル系(バイキング、ゴシックなど)を聞いてたけど、最近また少し邦楽に戻ってきた。
 赤い公園が、目下のヘビロテ。
 きゃりーぱみゅぱみゅもいい。パフュームは特に何とも思わなかったけど、中田サウンドというのは、基本は土屋昌巳のライスミュージックなのかなと思った。テクノと日本的なメロディーとの融合によるポップサウンド。

5/11 源氏物語を訳してふと思ったんだが、能や歌舞伎が見ていてつまらない理由の一つに、言葉がわからないということがあるのではないか。
 あれが今の言葉で演じられたらどんな感じかなって思う。
 もちろん、いわゆる翻訳口調ではなく、昭和の標準語でもなく、本当に今の言葉で蘇ったら、もっと興味を持つ人がいるかな、なんてね。
 でも、結局古典の好きな人というのは、今の日本の文化が大嫌いな人たちばかりで、嫌悪と憎悪の塊だったりして、そういう人たちが古典に救いを求めていることを思うと、結局そういうのは古典への冒涜と見做されて潰されてしまうんだ。
 古典はあくまで今の日本にないものでなくてはならず(西洋にあるものはよくて)、今の日本を否定してくれるものが古典に期待されている以上、古典はいつまでもわれわれの日常とは別世界で超然としたものでなくてはならない。
 古典を保護し、普及しようとする人たちも、基本的には今の日本を否定させるためにそれを行なっているのだと思うと、そんなのはいつまで経っても無理な話で、結局誰も見ないものに対して無駄に税金をつぎ込むだけになっているんだと思う。
 古典の保存が必要なことには異論はないが、問題はその背後にある思想なんだと思う。
 古典に限らず、オーケストラへの援助なんかも、結局今の日本の誰もが親しんでる文化を呪う人たちによって牛耳られているのが問題なんだと思う。
 能を現代語にするというのは、いつかやってみたい。でも能を保存しようとする人たちからすると、とんでもないと一笑に付されるだけだろう。
 大阪の文楽の問題も、結局そういうことなのではないのか。

5/10 ここんとこ雷が続いている。
 地上では電力が不足するというのに、空の上では電気が余っているのか、何かそういうのも利用できないのかなんて思ったりする。
 雷は瞬間的に大きな電力を発生させるけど、問題はそれを溜めておけないということなんだろうな。
 竜巻なんかも凄いエネルギーなんだから、それで発電できないのかなんて思ったりする。
 もちろんいつどこで起こるかわからない竜巻は、実際には無理だろうけど、竜巻の正体は上昇気流なんだから、それを利用すればと、「上昇気流」「発電」でぐぐれば、いろいろと上昇気流発電のことが出てくる。とっくにみんな考えてたんだな。
 自然エネルギーというと、すぐ電力の安定供給に問題がという議論になりやすいが、実際日本の場合、電力需要が真夏の昼間に極度に集中するのだから、真夏の昼間に集中的に発電するものがあってもいいのではないか。その点では、上昇気流発電というのもありではないかと思う。
 風力や波力や潮力を利用した洋上発電は、結局漁民の反対で進まないのか。漁業にだって電気は不可欠なのだから、その電気を自分たちで作るという発想にはなれないのだろうか。
 海の安全を守るためにも魚を集めるためにも灯を煌々と照らすし、魚を加工するにも電気は要る。将来は漁船だって電気で動くようになるかもしれないし。

5/6 正直言って一年前の今頃は、原発が本当に全部止まって大丈夫なのかと思っていた。だが、実際止まってみると、何ごとも起こらない。夏の電力に不安があるといっても、それは去年も同じだったし、去年は国民の多くが節電に協力したことで無事乗り切れた。今年もおそらく同じだろう。
 多分去年の、火力発電所がまだ復旧しない時点で原発を「即時停止」していたなら、夏の計画停電も避けられず、かなりの混乱が起きただろう。くしくも何の混乱も起こらず理想的な仕方で脱原発へソフトランディングできたと言ってもいいのかもしれない。
 多少荒療治ではあるが、産業界もこれで電力会社に全面依存するのではなく、自家発電に再生可能エネルギーを利用する方向へ、いやおうなく向わざるを得なくなるだろう。もちろん家庭用のソーラーパネルの普及も早まるに違いない。
 工場が海外へ移転し産業の空洞化につながるという意見もあるが、それは原発事故が起こる以前から、安価な労働力と現地生産によるコスト削減で、原発事故があろうがなかろうが早かれ遅かれ起きていたことだ。
 むしろ自然エネルギー利用の技術を促進することで、日本に新たな輸出産業を創出する方が重要だ。原発ルネッサンスの幻想は早かれ遅かれ終り、脱原発は世界的な流れになるからだ。
 原発推進派の根拠の一つに、将来の再軍備・核武装のために原発は何が何でも維持しなくてはならないという考え方がある。
 そこには、日本が敗戦国として国連常任理事国から排除され、事実上国際秩序が戦勝国によって作られていることへの不満があるのはわかる。
 だが、果たして日本は核武装できるのだろうか。核の管理は相変わらず戦勝国の手の中にあるし、この状況を変えるのが困難であるなら、敗戦国には別の戦略が必要なはずだ。
 原発を推進する限り、日本は戦勝国を越えられない。もし無理を押して核開発をすれば、イランや北朝鮮のようになるだろう。
 ドイツとイタリアが脱原発に舵を切ったのは偶然ではない。敗戦国は原発・核開発では戦勝国を越えられないのだ。ならば再生可能エネルギーの利用で戦勝国の先を行くことを考える方が現実的だ。この流れに日本も加わり、新たな三国同盟を結成するのには十分意味がある。
 これから日本がかつての戦勝国を押しのけて世界に冠たる国になるには、軍事中心、核中心の発想を切り替える必要があるだろう。核兵器の廃絶も、これからの世界の流れとなるなら、それに変って世界を支配するのは地球に優しい技術だ。
 原発によって撒き散らされた放射能は、これからの日本にとって何十年にも渡って大きな足枷になる。除染や被害者の補償や廃炉費用などにも莫大な金がかかり、東電だけではまかないきれず、必ず国家財政を圧迫するにちがいない。
 そんなハンディを背負いながら、戦勝国とまともに渡り合おうというのは所詮無理な話だ。ならば、再生可能エネルギー開発に活路を求めるのが最も合理的な考え方ではないかと思う。

5/5 今日は等覚院のツツジを見に行った。
 ツツジはやや終りかけてたけど、正面の赤いツツジは鮮やかだった。
 今年は寒さのせいでツツジの咲くのが遅れ、木によって開く時期がまちまちになったのかもしれない。なかなかきれいに咲きそろわなかったのだろう。
 そのあと東高根森林公園を一回りし、バスで溝の口の駅へ出て帰った。

5/4 今日は西那須野スタート。
 朝5時半に出発。天気予報は外れて、まだ雨が残っていた。
 上野駅についてスーパーラビットを待つが、宇都宮線の大雨のせいで遅れているという。結局10分遅れて出発。間々田-小山間でも徐行運転で、結局西那須野到着は9時25分でほぼ30分遅れだった。
 ただ、駅の前にちょうど黒羽行きのバスが止まってたので、これに乗って大田原神社まで行くことにした。西那須野-大田原間は別に芭蕉が歩いた路でもないので、別にかまわないだろう。大田原神社は前回行っているので、路はちゃんとつながる。
 神社と城址公園を結ぶ橋をくぐると蛇尾(サビ)川を渡る。昨日からの雨でかなり増水している。そこからひたすら461号線を歩く。
 家も途切れてまっ平で見晴らしがいいが、山の方は雲がかかっている。上奥沢で広い道に合流する。脇を歩いていると、田んぼにジョボッとタゴンくんの飛び込む水の音、でなくて蛙の水音がする。蛙の声も賑やかだった。
 ここへ来るまでの電車の中で読んだラヴクラフト全集1の「インマウスの影」では半漁人というか半蛙人のようなのがいかにも不気味に描かれていたが、日本では田んぼの蛙は昔から親しまれてきたので、蛙に対するイメージも西洋人とは違うのだろう。
 ニャルラトホテプもキリスト教の文化では邪神だが、東洋では混沌は老子が「万物の母」と呼んだように、万物を生み出す元のなるもので、陰陽未分という意味では太一神に相当するのではないか。
 まあ、その辺の文化の違いからニャルラトホテプも日本だと萌えキャラになるのかもしれない。「這いよる混沌」というよりは「母なる混沌」か。

 混沌というやさしさよ蛙鳴く

 那須神社(金丸八幡宮)の近くになると、ふたたび雨が降りだした。那須神社は二年前のちょうど同じ日に一度行っている。この時は車で那須のステンドグラス博物館や殺生石を見てから黒羽を一回りし、雲巌寺を見て、最後に室の八島にも寄った。
 震災の後でも那須神社は特に変わったところはなかった。大田原神社のあたりは特別だったのか。
 黒羽の中心地に入る。2年前に来た時は寂れた印象があったが、今回は逆で、むしろ壬生の町みたいに旧市街と新市街が分離しない、こじんまりとしたなりの活気が感じられた。矢板や大田原を見てきたせいだろうか。
 今回は時間の都合で黒羽城址の方へは行かなかった。前回も来ているし、ここと雲巌寺への路は宿題ということにした。
 黒羽向町を左折し、芭蕉の宿泊した余瀬の方へ向った。
 光明寺跡は、前回見つけられなかったところで、芭蕉が「夏山に足駄を拝む首途哉」の句を詠んだところだ。このころ雨は止んだ。
 次に、前回も見た鹿子畑桃翠邸跡へ行った。それから玉藻稲荷神社に向ったが、この頃からふたたび雨が降り出し、着いた頃はどしゃ降りだった。蜂巣集落センターの方に戻り、犬追物の跡を見に行こうと思ったが、この雨なので黒磯駅の方へ急ごうと思った。それに、このあたりから犬追物の跡のある場所は見える。どっちにしても何もないところだ。
 そこから北へ向い黒磯駅に向った。
 蜂巣小の先で路が分かれ、そこに最近立てられた「奥の細道」と書いた碑と馬頭観音塔があった。左の細い方の路が「奥の細道」なのか。
 雨も小降りとなり、道の脇にはスミレがたくさん咲いていた。あたりは水田や麦畑だが、昔は那須の篠原だったのだろう。
 曾良の旅日記に「‥‥余瀬ヲ立。及昼、図書・弾蔵ヨリ馬人ニテ被送ル。馬ハ野間ト云所ヨリ戻ス。」とあり、ここから野間までは芭蕉は馬に乗っている。そして、この道で「野を横に馬牽むけよほととぎす」の句を詠んでいる。
 ホトトギスの声は聞こえないが、鶯は鳴いていた。
 やがて雨も上がり雲が切れて日も差込み、車もほとんど通らない長閑な田舎道が続く。いい所だ。
 羽田(はんだ)に入ると視界が開ける。天気が良いと那須の山々がくっきり見えるのだろう。今日は山頂に雲がかかっている。
 県道と交差する所に「和郷之絆」と刻まれた立派な碑がある。何の碑だかよくわからない。隣には獣畜霊魂供養塔がある。
 さらに行くと左に小さな観音堂がある。
 その先に道が左にカーブする所の突き当たりに鳥居が見える。八龍神社だ。
 狛犬は平成18年銘で新しいが、全体に角ばった感じが那須神社の狛犬も通じる、このあたりの伝統なのだろう。
 境内に羽田太々神楽の舞台があった。このあたり特有の神楽があるのだろう。
 この先、公民館前のバス停の先を右に曲がると道は未舗装になり、田んぼの間を抜けると旧奥州街道に出る。このあたりが野間になる。
 旧奥州街道を少し行くと野間十文字がある。このあたりでは十字路のことを十文字というようだ。
 いままで八龍神社の通る道を「野を横に‥‥」の句の道だと思って歩いてきたが、実際の所はっきりとしているわけではない。
 奥の細道の碑のある分岐点を右に行き、砂の目を通り黒羽刑務所やなべかけ牧場の中を突き抜け、野間十文字に出たのかもしれない。あるいは、八龍神社の手前を右に行き野間十文字へ抜けたか、これが唯一というのを証明するのは難しいだろう。
 それと、このあたりで気になるのは、ムスカリがあぜ道などにこぼれて雑草化していることだ。スミレ、タンポポ、ハルジオン、ナガミヒナゲシなどに混じって咲いている。
 野間十文字の先に樋沢神社がある。八幡太郎義家が蹄の跡をつけたという伝説のある巨石がある。
 その先には鍋掛の一里塚があり、その奥には愛宕神社がある。その先すぐにファミマのある鍋掛十文字がある。
 今回はここで左に曲がり、真直ぐ黒磯の駅に向った。芭蕉はここを直進し、越掘から左折したらしい。ただ、曾良の旅日記には「鍋掛」は書いてあるが「越掘」の地名は見えない。
 黒磯までの道は真直ぐな一本道だった。駅に着くとちょうど上野行きの快速ラビットが止まっていたのですぐに乗って帰った。8時半には帰れた。

5/3 「奥の細道」の旅は、だんだん電車に乗る時間が長くなり、本を読むにはちょうどいい。
 以前電車通勤をしていた頃には週1冊ペースで読めたのだが、車で通勤するようになってから読書量はかなり減った。それを少しは埋め合わせできるか。

 上田雄の『渤海国─東アジア古代王国の使者たち─』(2004、講談社学術文庫)は、この種の歴史書にしては読みやすく、渤海国入門にはちょうどいい。
 それにしても、日本が渤海国に送った使節を中国への使節だなんて言っている中国は油断ならない。彼らの論理では中国に朝貢した国はみんな中国だというのだから困ったものだ。「沖縄は中国の領土だ」と言うのもその論理だ。
 小野田守という人物が出てきたが、マンガ日本史みたいなのだと安易にサングラスキャラにされてしまいそうだ。個人的には眼帯キャラにしてほしい。新羅にも渤海にも行ったという謎の外交官だ。
 能登号の漂流では、迷信によって女子供を海に投げ込んだという記録があり、著者は「当時の航海中の船中の様子をリアルに描写した」(p.114)と言っているが、ちょっと裏読みしたくなる。
 案外真相は、漂流中に飢餓に陥り、食ってしまったのを、後で公に報告する時に口裏を合わせて、海に投げ込んだことにしたのかもしれない。

 平沼光の『日本は世界一の環境エネルギー大国』(2012、講談社+α新書)も、なかなか日本の未来は明るいという感じの本だ。
 自然エネルギーの可能性については、原発推進厨がいちいち難癖つけてぶっ潰そうと企んでいるようだが、そんなに核武装がしたいかという所だ。
 今さら日本が核を持ったところで、どのみち戦勝国に遥かに先を越されてしまってるのだし、原発も戦勝国の管理下にあるのだから、そんな所で頑張るよりもドイツ・イタリアと三国同盟を復活させた方がいい。
 洋上での風力発電は、日本の造船業界を救うことにもなるから一石二鳥で、早く実現するといいなと思う。
 そのときには開いているスペースで太陽光発電もやったり、同時に波力でも発電するような複合施設にすると良いと思う。
 今の日本で一番駄目なのは、「あれかこれか」という硬直した発想だ。大体、サルトルの実存主義の「あれかこれか」も、ハイデッガー哲学を誤解した九鬼周造という日本人の影響で誕生した哲学で、本来西洋は対立する意見をより高次な思考で乗り越えて行く弁証法的な「あれもこれも」の文化で、そこに西洋の強みがある。
 日本だって本来は「あれもこれも」の文化だった。本地垂迹説なんてのは神道と仏教のいいとこ取りから生まれたのではなかったか。
 「増税か歳出削減か」なんていつまでも下らない「あれかこれか」議論をやってるから、いつまで経っても財政再建が進まない。両方やれ!
 一石二鳥を狙うなら、洋上複合発電所の横にさらにもう一つ大きな船を浮かべて、漁業基地を作ったらどうだろうか。
 何しろ送電ロスのない採りたての新鮮な電力をふんだんに使うことができるのだから、そこで急速冷凍したり缶詰にしたりすればいいのではないか。されにそこに市場の機能を持たせ、そこから世界に輸出なんてのはどうだろう。
 宇宙太陽光発電の可能性も、せっかく「宇宙兄弟」が盛り上がってる今だからこそ、もっと大騒ぎしてほしい。
 ただでさえ宇宙開発競争は、日本が自動車作りに邁進している間に中国というできの悪い弟に先を越されているのだから、ここらで兄ちゃんの貫禄を見せてほしい。早く敗戦からの出発というコンプレックスをふっきってほしい。

5/1 ネットで注文していた「ラヴクラフト全集1」がやっと届いた。ニャル子さんの2巻を読み終わった。

4/30 今日は「奥の細道」の旅の続きということで、矢板スタート。
 朝6時に家を出て、矢板着が9時40分。
 西口を出て扇町から461号線の陸橋の方へ行く。陸橋前から左ヘ行く道が旧道なのだろうけど、線路で途切れている。
 線路を渡って長峰公園の脇に下りて、公園の北側を行くと、長峰霊園の脇に出、更に行くとやがて日光北街道旧道の分岐点がある。旧道は未舗装の山道になる。
 しばらくは昔の道を偲ぶような山道が続き、視界が開けると工事現場の塀のような所に「奥の細道」の解説が書かれていて、その先に芭蕉と曾良の像がある。古池の句も刻まれていたが、もうひとつ、「宇久ひ寿や柳のうし路藪の前 玄甫」の句碑があった。天保5年と書いてあるけど、どう見ても最近立ったものだ。
 その先、製材所の脇を通って国道4号線に出る。合流ポイントには「大聖不動明王」の額のかかった木の鳥居があり、小さな社がある。本体は赤い衣と覆面でほとんど覆われている。後に古代の剣のような形をした金属性のものがたくさん飾ってある。「名状し難き剣のようなもの」とでもいうべきか。
 日光北街道に行くには4号線の向こうの県道52号線に行かなくてはならないのだが、信号はおろか横断歩道もない。車が途切れた隙を見て渡り若干後戻りをして県道52号線に入った。
 少し行くと新幹線の線路が見えてきて、その下の交差点に「沢」とある。曾良の「旅日記」にも出てくる沢村だ。
 新幹線の線路をくぐり少し行くと右側に鳥居が見える。行ってみると、小さな山へと路が続いていてその上に石祠があった。橿原神社と八幡神社と書かれていた。そのほかにも金毘羅社の石祠があった。
 沢の集落は大谷石の蔵や塀など大谷石を多用していて、静かな別世界のようなところだった。小さな稲荷神社があったが、狛犬やお狐さんの姿はなかった。心なしか、日光を過ぎるとかなり狛犬との遭遇率が減る。神社も小さな所が多い。
 沢を過ぎると箒川があり、そこにかかる橋が「かさね橋」となっている。
 曾良の「旅日記」が昭和18年に発見されるまでは、芭蕉の宿泊地などはまったくわからなかったため、「奥の細道」の「かさね」のくだりは那須野ということで、このあたりと推定されてたようだ。そのため、矢板から大田原までは「かさね」の里とされている。
 いったんここがその「かさね」の舞台として流布してしまうと、あとから曾良の「旅日記」が発見され、芭蕉の宿泊地が玉生だったことが明らかになっても、そう簡単に説を変えるわけにはいかない大人の事情があるのだろう。既に観光開発されてしまったところで、実は違ってましたというわけにはいかない。
 一番手っ取り早いのは、「かさね」のエピソードそのものが虚構だとすることだろう。虚構である以上、舞台は日光から黒羽の間のどこであってもいい。
 次に考えられるのは、このエピソードが玉生を出てからしばらくしてであっても良いという説で、もちろん「かさね」そのものは「奥の細道」の登場する以外に他の史料がないため、どのみち実証できない。結局、決定的な証拠がない以上、どこでもいいということになる。
 芭蕉か曾良の真筆で、「かさね」の消息について触れた書簡とかが出てこない限り、この問題は永久に決着のつかない問題なので、まあ、それぞれの場所でうちが本家と主張しあってればいいのだろう。
 かさね橋を渡ると大田原市に入る。このあたりは麦畑と水田が入り組んでいる。麦は穂が出ているもののまだ青く、田んぼは水が張られ一部田植えが終っている。その合間に咲いているタンポポがやけに大きい。このあたりのタンポポは種類が違うのか。

 大田原、田んぼタンポポ麦畑

 また少し行くと八雲神社がある。ここにも狛犬はなく、拝殿もない。石祠が並び、その上を鞘堂が覆っている。
 その先には塩化ビニールのパイプを組んで作った鳥居があった。中は立ち入り禁止になっていたが、奥に拝殿のようなものが見える。近くのバス停には「合格神社」と書いてあった。
 さらに行くと道の左側に赤い鳥居があり、雷電神社の石祠がある。その横に「なんじゃもんじゃ」と刻まれた石が立っている。どうやらそこに立っている木が「なんじゃもんじゃの木」らしい。
 やがて田んぼや麦畑が少なくなり、大田原の市街地に近づく。
 サンクスのある角を過ぎると道が細くなり、旧道っぽくなる。
 そしてやがて日光北街道の新道(国道461号線)と合流する。その合流点のあたりに愛宕神社があるが、ここにも狛犬はない。社殿は公民館を兼ねていているようだ。草鞋の供えられた小さな境内社がある。
 そのすぐとなりには薬師堂があり、石の七重塔は貞享元年建立というから、芭蕉がここを通った時には既に存在していたのだろう。寛政5年のお堂もなかなかきれいだった。
 大田原信金の前には那須与一の銅像があり、金燈篭の角は公園になっていた。
 旧市街が寂れた印象なのは、鹿沼、今市、矢板と見てきて今に始まったものではないが、震災の影響もあるのかもしれない。若い活力がないと、復興への意欲も萎えてしまうのかもしれない。
 龍頭公園から大田原護国神社、大田原神社を回ったが、ここは震災後1年経ってもまだ荒れ果てたままだった。
 大田原城址のほうへ行く橋は通行止めのままだし、大田原護国神社の狛犬倒壊したまま放置されていた。右側の方は横倒しで、倒れた鳥居などの瓦礫に埋もれ、左側の方はちょっと離れた所の地面にぽつんと直置きされていた。ひっくり返った台座には昭和16年の銘があった。
 社殿のあるはずの場所も石垣だけが残り、何もなかった。おそらく倒壊のおそれがあるというので撤去されたのだろう。
 大田原神社の方も鳥居や燈篭などに大きな被害があったようだ。
 狛犬は拝殿前に二対、手前のが昭和15年銘、奥のが大正9年銘のがあり、こちらはどうやら無事だったようだ。
 境内の右側には狛オオカミと昭和12年銘の小さな狛犬があった。ただ、その先には何もなく、三峰神社の社殿も撤去されたようだ。
 狛オオカミは耳が長く、ムーミン谷のスニフに似ている。ただ、阿形の方は上顎が欠けていた。ネットで5年前の写真を見たら欠けてなかったので、震災で欠けたのか。
 境内には稲荷社もあり、昭和8年銘の老獪そうなお狐さんがいた。
 石段を降りて外に出ようとすると、そこには江戸時代の古い鳥居があり、こっちの方は無事だった。あらためて昔の人の技術は凄いと思った。
 さて、今日の「奥の細道」のたびはここまでで、セーブポイントの西那須野駅へと向う。
 その前に白河中華そばよし川家で中華そばと餃子を食べた。醤油味で佐野ラーメンに似ていた。
 西那須野へはぽっぽ通りという遊歩道があった。ぽっぽといっても、どこぞの元首相とは何の関係もなく廃線跡を遊歩道として整備したからで、途中に駅もあった。
 西那須野駅の前で天鷹純米辛口をお土産に買った。駅前の交番にはなぜか巨大なピカチュウ像らしきものがあったが、警察のことだから著作権法に違反するようなことはしていないにちがいない。

4/29 立川の昭和記念公園から玉川上水のあたりを散歩した。
 昭和記念公園は昭和の日ということで無料のせいか、かなり人が多かった。
 ポピー、シバザクラ、ムラサキハナナは今が見ごろという感じで、チューリップやムスカリはやや終りかけていたがまだ十分咲いていた。そのほかにも、菜の花、山吹なども咲いていたし、牡丹も咲き始めていた。
 西立川駅の方から入り砂川口を抜けて、2年前に行ったことのある阿豆佐味天神社にいこうとしたのだが、2年前のことで道がうろ覚えで、五日市街道を反対の方向に行ってしまい、残堀川の橋の所に出てしまい、先に玉川上水沿いの散歩をすることにした。残堀川と玉川上水が交差する所では、玉川上水が途切れたようになっていて、水がどこを通っているのか謎だ。
 玉川上水沿いの桜はすっかり若葉になっていて、ところどころ八重桜が残っていた。このあたりは昔ながらの大きな農家が多く、立派な蔵があり、屋根の上にしゃちほこのある家もあった。ブルーベリーや独活産地でもあるし、造園業も盛んなようだ。
 金毘羅橋の手前には小さな山があり金毘羅神社があった。境内には秋葉神社と浅間神社があった。この山自体が富士塚だったらしい。公園としてきれいに整備されていた。
 金毘羅橋から南へ向い五日市街道へ出て、ようやく阿豆佐味天神社にたどりついた。新しい神楽殿ができていた。猫神様も健在だった。

4/24 今日の突然の雷で停電した。
 パソコンは一度切れて再起動したが、ファイルが開けなかったりした。
 後でもう一度再起動させたら元に戻っていたが、危ない所だったのかもしれない。
 雷というと、この前テレビで見たスプライトのことを思い出した。あれだと宇宙から見たスプライトや、飛行機を飛ばして撮影したものなどで、NHKの技術をアピールしていたが、ネットで見たら地上から撮影された映像とかもあったから、別に宇宙に行かなくても見えるけど、一瞬のことなので気付かないだけだったのだろう。
 遥か上空に電気の溜まっているそうがあるなら、将来はそこから電気を引っ張ってくることも可能になるのかもしれない。そのころには「昔は電気を起こすのに苦労した」なんて言って、原発などがあったことが笑い話になるのかもしれない。

 「リーガル・ハイ」は結構よくできている。弁護士ものというと、正義だの人情だの押し付けがましくなりがちだが、それがないのがいい。
 第一回のラストのあたり、真相は神のみが知るというのは、古代ギリシャで弁論術を極めたゴルギアスの「何も存在しない、存在したとしても知ることができない、知ったとしても伝えることができない」を思い出す。
 推理小説では作者が造物主となって、たった一つの真実を示すことができるが、ゴルギアスの言葉は長年裁判に携わってきた人の率直な感想なのだろう。

4/22 今日は上野の国立博物館へ「ボストン美術館、日本美術の至宝」展を見に行った。
 朝からどんより曇っていて肌寒く、雨になるとの予報もあり、かえってこういう日は人も少なくてチャンスなのではないかと思った。
 実際、上野公園には人が少なく閑散としていた。
 ソメイヨシノはすっかり葉桜になり、八重桜や山吹が咲いていた。
 上野動物園にはパンダを歓迎する垂れ幕と「ホッキョクグマとアザラシの海」ニューオープンの垂れ幕がかかっていた。この時期にパンダと白熊の組み合わせは「しろくまカフェ 」を狙っているのか。
 国立博物館を入ると左側に休館中の表慶館があるが、今まであまり目にとめなかったが、ここの玄関の前のライオンは狛犬みたいに阿吽があった。
 まずは「ボストン美術館、日本美術の至宝」展をやっている平成館へ。
 最初に岡倉天心が釣竿をもった像があった。
 狩野芳崖の「江流百里図」はなかなか緻密に描かれ、若干線遠近法やぼかしの西洋的な技法を取り入れてはいるものの、伝統的な大胆な構図に最後の伝統絵画の輝きが感じられる。まだいわゆる「日本画」になってないところかいい。
 平安時代末の「普賢延命菩薩像」は八頭のゾウが描かれているが、目つきが危ない。本物のゾウを見たことがなくてモンスターにされちゃったのか。
 快慶の「弥勒菩薩立像」もなかなか目立つ。ぽっちゃりとしているものの、鼻筋がしっかりと通っていておとがいのはっきりした顎は、当時の美男だったのだろう。光源氏の顔も本来はこういうイメージだったのか。
 「吉備大臣入唐絵巻」は今で言えばハンター試験みたいなものか。幽鬼の助けを借りて「文選」の試験ではカンニングするし、碁の勝負ではずるをするし、昔の日本人はこういうマリーシアを高く評価する民族だったのだろう。
 『源氏物語』空蝉巻でも軒端荻が整地でごまかそうとして空蝉に見破られているが、当時碁でのインチキは普通のことで、ヒカ碁の佐為は正直すぎたのだろう。
 祥啓の「山水図」は間違いなく室町時代の日本の絵画を代表するものだろう。
 伝狩野元信の「宗祇像」。宗祇さんのえらの張った顔は相変わらずだ。
 伝狩野雅楽助筆の「松に麝香猫図屏風」のジャコウネコはペルシャ猫っぽい。
 長谷川等伯の「龍虎図屏風」。真ん中の雲の曲線は女体のイメージなのだろうか。
 長谷川左近の「牧牛・野馬図屏風」は馬と一緒に桜の木が描かれているが、これは「桜肉」の洒落か。
 狩野山雪の「十雪図屏風」、雪下ろしをしている様子が描かれている。
 そして最後を締めくくるのが曽我蕭白。どれもこれも凄い。圧倒される。
 「龐居士・霊昭女図屏風」は娘の足に見とれる怪しげな老人の絵で、この目つきがなかなかいやらしい。天井から吊るされた鉈や部屋の中のディティールがよく描かれている。
 「朝比奈首曳図屏風」は、鬼が岩を体にくくりつけてずるしているが、それでも勝てないところが、どんなに厳しいハンディを背負っても最後には必ず勝つというアメリカ映画みたいだ。
 「虎渓三笑図屏風」は儒者の陶淵明、僧の慧遠、道士の陸静修が道についての議論しながら大笑いする絵で、電車ごっこみたいなポーズが面白い。右の木の切り株と左の滝は「陰陽」を表しているのか。
 「雲龍図」これは言うことなし。

 本館の通常展へ行く途中の企画展示室に平安時代の木造狛犬があった。開脚ポーズなのでついつい股間に目が行くが、右側は明らかに玉と思われるものがあるがペニスはよくわからない。左側は小さな突起があるが玉はない。この一対は雌雄なのだろうか。
 本館には伝藤原行成の「敦忠集切」があった。和歌を散らし書きにするようになったのはこの頃からだと言うが、行成の仮名の真筆はないらしい。『源氏物語』に昔風の「手」や今風の「手」が対比されるのは、行成の時代を境にしてのことらしい。
 そのほか、雪舟の四季山水図や浦上玉堂の「春山欲雨図」があった。

 国立博物館を出ると、雨がぽつぽつと降ってきていたが、たいした雨にならずにすぐ止んだ。
 東照宮の牡丹苑を見た。まだあまり咲いてなくて、半券を切らずに次に来た時にこれで入れると言っていた。花がまだ咲きそろってないとはいえ、十分楽しめた。
 せっかく来たのだから、ついでに根津神社のツツジも見に行った。
 ツツジ祭をやっていて的屋の屋台も並んでいたが、まだ三分咲きくらいだった。ツツジも牡丹もゴールデンウィークが見ごろになりそうだ。
 根津神社には大正元年銘の招魂社系狛犬があり、境内社の乙女稲荷神社にはお狐さんがたくさんあった。獅子山ならぬお狐山の右側のお狐さんは耳と鼻が欠けて猫みたいだった。

4/21 ネットで『ラヴクラフト全集 1』を注文したら、在庫切れでいつになるかわからないとのこと。みんな同じこと考えるのか、出遅れた。
 「這いよれ!ニャル子さん」の逢空万太の原作の方を読み始めた。
 原作でははしよられたネタもあるが、原作にないアニメだけのパロディーネタもあるとわかった。
 登場人物の言動に突っ込みを入れて、漫才のような面白さを出すスタイルが、紫式部と谷川流に共通していることは、以前にも指摘したが、これもその延長線上のもので、どつき漫才に近いかもしれない。
 フォークが出てくると、世代的にアブドラー・ザ・ブッチャーを思い出す。

 「関係ですか。そう、例えるなら五十六億七千万年経っても愛しぶげぅ!」
 「衆生を救いに来るのかお前はっ!」(p.109)

の所を読んで、ひょっとして『源氏物語』夕顔巻?と思ったが、ネットでは「創聖のアクエリオン」の「一万年と二千年経っても愛してる」が元ネタだとされているようだ。
 「恐怖のズンドコ」(p.168)というフレーズが出てきたとき、「吉田照美のやる気まんまん」というラジオ番組を思い出した。小俣雅子の言い間違えで、しばらくネタにされていたが、この作者も聞いてたのだろうか。「バールのようなもの」ネタもやってたし。

4/15 今日も近所の散歩くらいで軽く過ごした。
 先週行った桃畑にまた行ったが、花は8割がた終っていた。これから一気に若葉の季節になるのか。
 新しいアニメが大体出揃ったが、今回は宇宙人ネタが多いみたいだ。「這いよれ!ニャル子さん」は何か面白そうだが、「謎の彼女X」にはさすがにディープ過ぎてついてゆけない。
 矢板へ行った頃から少しづつ読んでいた『電力改革─エネルギー政策の歴史的大転換』(橘川武郎、2012、講談社現代新書)を読み終わった。
 電力業界の歴史が書いてあって、脱原発派の人は読んだ方がいいだろう。
 今回の原発事故は、マスコミ報道だと何だか東電と菅前首相に責任を押し付けているようなところがあるけど、そもそも原発を作らせたのは誰なのかというところが曖昧で、当時の自民党政府や通産省や、またそれを後押しした財界の責任があまり追及されてないように思える。
 原発は国策で、政府の介入なしには進められなかったのだから、その責任は政府が負うべく、原発を電力会社から切り離し、国営化すべきというのは、一応筋が通っているように思える。
 ただ、ただでさえ毎年何十兆もの赤字を出しているところに、今後の廃炉や除染や保証などの莫大な費用をすべて政府が賄うということになると、一体どれだけ増税が必要になるのかということにもなる。
 特に昔からの反原発派は、原発事故の収集を国民負担でということに納得しないだろう。
 ただ、どこが金を出すにしても、それは日本経済の足かせとして重くのしかかるのだから、廻り廻って結局国民の所に帰って来ることには変わりない。
 だから、今後の脱原発を速やかに進めるには、案外電力会社を原発から開放し、新たな電力事業への参入者を待つよりも、まず既存の電力会社が積極的に脱原発を行えるようにするというのも必要なのかもしれない。

4/9 あさっては雨の予報が出ていて、桜の季節もこれで終ってしまうのかと思うとなんか寂しい。
 これでまた変りばえのしない一年がだらだらと過ぎてきそうな気がして、

 何か一つ心に刻め花の下

 稲作農耕民族の日本人は、長いことこの桜の季節になると苗代作りが始まり、一年の仕事の始まりの節目としてきた。
 いわば、正月の長い農閑期(バカンス)が終って、これから一年がんばろうと、酒を酌み交わし、誓い合う季節だった。
 ところが、吉田松陰を筆頭に、昔から西洋かぶれの文化人というのは、右翼左翼を問わず、この花見文化を呪い続けてきたようだ。
 まあ、江戸時代には花見は庶民のものとされ、武士たるものそのような所に出入りしてはならぬと教育されてきたから、花見で浮かれ騒ぐ人を見るにつけて、疎外感から来る嫉妬心を抑えることができなかったのだろう。
 去年のこの季節に噴出した花見自粛論も、そういった歴史が背景にあったのだろう。そしてその後、にわかに出てきた大学を9月入学にするという話も、根底にあるのは花見文化を潰そうということだったりして。
 西洋が9月を節目とするのは、彼らが麦作農耕民族だからであり、初夏のいわゆる麦秋に収穫した後、夏の農閑期(バカンス)を経て、9月にさあ一年の仕事が始まるというところで成り立っているもので、麦作を主流としない日本人には感覚的に無理がある。
 ただ、Jリーグくらいは世界のサッカーに合わせて9月開幕にしたほうが、移籍交渉などもしやすくなっていいのではないかと思う。

4/8 今日は近所を軽く散歩。
 この時期の散歩というと、去年も一昨年も来た平川神社からになる。桜はほぼ満開で長閑な日曜日だった。
 そのあと保木へ行き、プロローグというパン屋のあるその道の反対側の方に行ってみた。いつも桜や桃の木が遠く絡みえていたが、長くこの辺に住んでていったことがなかった。  坂道を登ると、家庭菜園みたいな小さな区画の畑が広がっていた。
 馬に乗った小さな子供がいた。もちろん周りには大人たちがいて馬を引いていたが、中田動物病院の馬だろうか。この付近でたまに馬を見かける。
 このあたりでもいろいろな花が咲いてきれいだったが、さらに上のほうへ登って行くと、紅白の桃の木が見え、その先へ行くと視界が開け、桃畑があった。
 住宅地に囲まれた中で、ここだけ山が残っていて、まるで桃花源。家の近くにこんな所があるなんて知らなかった。
 今日はそこで終わり。食品館あおばで買い物して帰った。
 午後は近くの公園の桜祭を見に行った。去年は自粛でチャリティーイベントになったが、今年は昼間のみの開催で復活した。コロナビールを飲んで、持つ煮込みを食べた。

4/1 今日は若干風が冷たいもののよく晴れたいい天気で、東池袋に狛猫があるとのネット情報をもとに出かけることにした。
 駅前ではいつのまに桜が咲いていた。まだ梅も散らぬうちに桜とは、きっと北国の春はこんななのだろうか。
 電車に乗り、有楽町線の東池袋を降りてそれほど離れてない所に、それはあるらしかった。
 店がたくさん並ぶ賑やかな所を抜けると、やがて昔風の小さな路地に入り、やがて右側に鳥居があって、その後に一対の狛猫があった。阿吽の別はなく両方とも同じ形をしている。銘はなかったが平成になってからのものだろう。
 拝殿の前にもほぼ同形のものがあり、こちらは片方だけで、おみくじの出る回転するタイプのものだった。
 鳥居の前には餃子屋さんがたくさん並んでいる。
 狛猫はもう一対、「もののけ番外地」と呼ばれる袋小路十三丁目の入口にもあった。こちらの狛猫は恐い顔して、時折目が赤く光りだして首がニューッと伸びる。
 そう、ここはナムコ・ナンジャタウン内の福袋神社。
 というわけで、本当はナンジャタウンの「輪るピングドラム inナムコ・ナンジャタウンを見に来た。設定画や台本などの展示もあり、ほかにもタイバニや春の乙女祭(いぬぼく、君と僕、夏目友人帳、螢火の杜)などのフードやデザートもあった。
 縁日みたいにいろんな食べ物が売っているので、片っ端から食べたくなってしまうが、そうもいかない。餃子だけでもかなりの種類があるから全メニューを制覇するなんてことは考えない方が良さそうだ。
 とりあえず二階と三階を一回りしてから、二階へ降りて餃子から食べようかと思ったら、イタリアントマトの、たこ焼きとタコウインナーののった「食いしん坊2号のたこ焼きピザ、キュッ!」があったので、とりあえずそれから始めた。
 次に餃子スタジアムに行って、丸満の「まんまるニャンコ先生餃子」を食べた。かりっとした揚げ餃子に近い焼き餃子で、それに春巻きの皮で作った、これもかりっとしたニャンコ先生の顔がついていた。
 餃子の丸満は古河の店で、去年の夏に「奥の細道」を歩く旅で古河を通ったが、知ってたら行ってみたかった。
 ふたたび三階に戻り、ろまん亭の「苹果のカレー型チョコモンブラン」を食べた。
 アトラクションなしの300円のエントリー券でも結構楽しめた。

3/26 ようやく『源氏物語』若紫巻、クリアー!

3/25 一年ぶりに三ツ沢へ横浜FCの試合を見に行った。
 去年開幕戦を見たきり、何となくサッカー観戦から遠ざかっていたから、横浜FCの監督や選手が誰なのかもよくわからなかった。HPを見たらいつの間にか山口素弘監督になっていたが、今シーズンからだと思っていて、これが最初の試合だとは知らなかった。
 試合は今まで見た中で最低だった。ボールがラインの方に飛んでいくと、すぐにあきらめて追いかけるのをやめるし、ヴァンフォーレ甲府の選手が全力で走りこんでくるのを見て、ようやく動き出したり、何かファイトが感じられない動きが多かった。横浜に戻ってきたウッチーと左サイドバックの阿部くらいが頑張っていた。
 前半は終始防戦一方で何とかしのいでいたが、終了間近、ようやく前へ攻めてったと思ったら、あっけなくカウンターで失点といつものパターン。
 後半も似たようなもので、セットプレーからあっけなくまた失点。
 時折横浜の方もゴール前に来るが、カイオまでがゴールの直前で後に誰もいないのにヒールパスして、そんな所まで日本に馴染まなくてもいいのに。
 後半40分近くなってカズが出て来たが、顔見世にしてもどこにいるのかわからないくらい存在感が薄い。最後の意地を振り絞ってゴールに迫ることもないまま試合終了。
 終了後にスタンド前に来る選手たちもいかにも元気がなくて、ブーイングする気も起こらない。
 横浜FCは、初期のメンバーが入れ替わるころ、かつての日本代表の古手が入ってきて、若手とベテランとがうまくバランスの取れたときに一度J1昇格をしたものの、そのベテラン達が抜けてって総崩れになって行ったような所がある。
 興業的にもカズの人気にあやかるばかりで、若い選手の中から目立つ選手が出てこなかったし、そろそろチームを根底から作りなおさなくてはいけない時期なのだろう。
 カズも現役にこだわらずに、早く指導者としての修行を積んで、監督としてワールドカップに出場する姿を見てみたい。

3/20 今日は「奥の細道」の旅の続きで、大桑をスタートした。
 朝6時前に出発して、大桑到着は予定通り9時16分。
 田園都市線は下りがかなり遅れていて心配したが、上りは通常通り動いていた。北千住で東武線の快速に乗った。
 一昨日までの天気予報では曇りだったが、前日に晴れ曇りに変り、今日は朝から多少雲があったものの、栃木県に入るころには快晴となる。これも日頃の行いがよかったせいだろう。電車の中からも、雪を被った日光の山々がくっきりと見える。
 下今市で大きなカメラを提げた車両の写真を撮っている一団がいた。服装からして中国の留学生かと思ったら、喋ってるのは日本語で、テツの一団だったようだ。アニメオタクが結構おしゃれになったのに対して、テツは昔ながらだ。
 大桑駅を下りて、大桑バイパスの歩道橋を渡り、突き当たりを右に曲がると、長閑な農村風景が続き、道路脇の水路には鮮やかの緑の水草が生えていた。
 少し行くと川室の公民館があった。川室は曾良の「旅日記」にも出てくる。だが、芭蕉と曾良がどのルートを取ったかは定かでない。瀬尾から真直ぐ日光北街道には言った方が最短コースだと思うのだが、芭蕉はこの川室を経由している。
 公民館の少し先に道祖神の社があり、男根型の道祖神が大小二体あった。
 すぐに日光広域農道に入る。広い道は大型トラックが通るが、杉並木の道よりは歩きやすい。
 大渡りに近くなったあたりに貴船神社と刻まれた石柱が立っていた。
 そこから斜めに戻るような形で参道があり、その先に鳥居が見えた。狛犬はないのかと思ったら、拝殿の階段の脇に小さな狛犬が置いてあった。だいぶ磨り減っていて江戸中期のものを思わせるようなデザインだが表面は奇麗で、いつのものかは定かでない。足元に木の葉の上に飯が盛られていた。何か「万葉集」の世界だ。
 戻るとすぐに「大渡」と書いてある交差点に出た。振り返ると鳥居があり、小さな社と、となりにはお堂があり、本地垂迹両方そろっていた。
 このあたりには大谷石の蔵がたくさんあるが、結構新しそうなものも多く、窓の所にいろいろな装飾が施されている。大渡り交差点を過ぎると大谷石でできた消防団の建物があった。
 やがて左に折れると東照温泉の建物があり、その先に「のらないよ!しらない車 とどろく小PTA」と書いた小さな立て札があった。
 田舎の方は、歩いていると泊まって乗せて車があったりするが、実際には親切な人ばかりでもないのだろう。
 轟(とどろく)というのは川室の南側の日光北街道沿いにある地名で、芭蕉らが黒羽で巻いた俳諧連歌に、

   尋ルに火を焼付る家もなし
 盗人こはき廿六(とどろく)の里    翠桃
の句がある。ここには轟早進という、名前のとおり足の早い義賊がいたらしい。
 芭蕉が日光北街道を避けたことをネタにした、さては盗賊が恐くて避けたかという句だったのかもしれない。これに対し芭蕉は、

   盗人こはき廿六の里
 松の根に笈をならべて年とらん    芭蕉

 旅の僧に取られるようなものは何もなく、ただ歳を取るだけだ、と答えている。
 すぐ先に橋があり、鬼怒川を渡る。曾良の「旅日記」には、
 「絹川ヲカリ橋有。大形ハ船渡し。」
とあり、普段は渡し舟があるが、水量の少ない時には仮橋が架かっていたようだ。

 大渡はその名のとおり、川幅が広くなっていてその分浅く渡りやすかったのだろう。
 橋を渡り、船場の信号を右に行き、日光北街道の旧道と船生バイパスとの分岐店で右下に降りる道があり、河原に出る。旧道はここから始まっていたのだろう。途中聖徳太子の石塔があるが、そんなに古いものではない。
 むしろバイパスとの分岐店を過ぎた旧道に、古い馬頭観音や庚申塔などが並ぶ。
 しばらく行くと船生(ふにゅう)宿の中心に出る。静かな町だ。右側に小さな鳥居があり、愛宕神社の石祠がある。
 中心部をやや過ぎたあたりに廃墟となった大きな駐車場のある店があり、その角に新しい「芭蕉通り」の刻まれた道標があった。岩戸別神社の入口にもなっていて、遠くに鳥居が見える。
 行ってみると、途中に駐車場があり公衆便所があったのはありがたく、その先は公園として整備され、そこにも同じような「芭蕉通り」と刻まれた石があった。地図には「ほたるの里」と記されている。芭蕉と螢で観光を盛り上げようとしているのだろうか。人の気配はなく閑散としていて、トイレも大の方は故障中だった。
 岩戸別神社は天手力雄命(あまのたぢからをのみこと)を祀った神社で、力岩や力の文字の刻まれた巨大な臼、それにお守りや絵馬にも「力」の一字が書かれていて、文字通りパワースポットとして盛り上げようとしている。
 狛犬は明治44年銘で以前那須の方で見たような角ばったいかつい顔をしている。
 夢福神という獏のキャラがいたが、石像の方は某有名ネズミキャラに似ている。
 岩戸別神社を出て、日光北街道に戻るとしばらくして天頂という交差点で船生バイパスと合流し、ファミマがある。今日初めて見るコンビニだ。
 ここから山あいの道になり、玉生(たまにゅう)へと向う。
 曾良の「旅日記」には、
 「船入ヨリ玉入ヘ弐リ。未ノ上剋ヨリ雷雨甚強。漸ク玉入ヘ着。」
とある。未ノ上刻(1時半くらい)だが、問題は芭蕉が日光を出たのが午の刻で、これが午の上刻(十一時前)だったとしても、二時間でここまで来たことになる。
 今日の俺の足だと、大桑から大渡りの川を越えるまでで一時間以上かかっていて、前回日光から大桑までは途中迷ったりしたせいもあり、3時間かかっている。
 曾良も日光から大渡まで「三リニ少シ遠シ」と記していて、普通に歩いたら3時間以上かかるところだ。大渡から船生までは「壱リ半ト云ドモ壱里程」とあり、合わせて4里余りということになる。
 芭蕉が実は忍者で、フルマラソンを5時間くらいで走るペースで走り続けたというのを別にするなら、唯一考えられるのは、古大谷川を船で下ったのではないかということだ。
 これだと、なぜ真直ぐ轟(とどろく)の里を通らずに、川室のほうへ大きく北回りしたか説明がつく。
 芭蕉が旅する数十年前、慶長の大洪水の前は、古大谷川の方が大谷川の本流だったという。芭蕉の時代はまだ古大谷川の水量も多く、水上の交通路となっていて、仏五左衛門はそれを芭蕉に教えたのではなかったか。
 大渡まで1時間程度でショートカットできるなら、その日の内に一気に矢板まで抜けることも可能だっただろう。ただ、あいにく船生を過ぎたあたりで激しい雷雨に遭い、思うように進めず難儀した末、やむをえず玉生で宿を探すこととなった。そこであの「かさね」との出会いが生まれたのだろう。

 芭蕉と曾良は船生から玉生へ行く途中に雷雨に遭い、難儀した末に玉生に宿を求めたが、良い宿がなくて名主の家に頼み込んで泊まらせてもらい、これが『奥の細道』の、
 「那須の黒ばねと云ふ所に知る人あれば、是より野越にかゝりて直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行くに雨り降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行く。」
というあの「かさね」のエピソードの元になった。
 曾良の「旅日記」にも、
 「船入ヨリ玉入ヘ弐リ。未ノ上剋ヨリ雷雨甚強。漸ク玉入ヘ着。
 一 同晩 玉入泊。宿悪故、無理ニ名主ノ家入テ宿カル。」
とあり、『奥の細道』の本文と一致している。
 これからその舞台となった地に入るということで、天頂のコンビニを出た後、玉生へと向った。
 道はほぼ真直ぐで坂もなだらかだ。ただ、昔の道はこれほど真直ぐではなく山あいを縫うように進んで行ったのだろう。
 旧道の名残はごく一部に残されていて、ここを歩いた先人がネットでupしていてくれたのでそれを尋ねながら行くことにした。
 まずは芦場新田の先の幼稚園の辺りから、その先の左へ大きくカーブする所に抜ける道だというが、幼稚園はどこにもなかった。多分公園か何かを作る工事していたあのまとまった敷地が幼稚園の跡だったのだろう。
 この工事現場の横に鳥居がある。地図で見ると芦場神社とある。
 鳥居の所から山道のような所を登っていくと、小さな社があった。五日市で見た日天神社と雰囲気が似ている。
 結局その先の左へ大きくカーブする手前を戻るように左に登っていく道の古い道標を見つけただけだった。昔の街道はこんな山道だったのだろうという、雰囲気だけは味わえた。
 地蔵坂という緩やかな上り坂を登ると、玉生の集落に出る。
 左に石垣があり、その上に墓地があり、その下を斜めに入る細い道があった。変電所の裏を通る道で、ここが旧道らしい。ただ、別のサイトによると、本当の旧道はさらに山側にあったという。確かに、今は道になっていないが、それらしきものが見えた。
 やがてバス道(と言ってもバスは一日3本くらいのようだが)に合流すると、そこに道標があった。その先に「芭蕉一宿之跡」記念碑入口と書いてある。
 矢印に従って左に行くと、空き地にかつての池の跡と思われる石がごろごろと転がった場所があり、裏手には小さな石祠がある。ここが「芭蕉遺跡 尾形医院」の跡地で、芭蕉が泊まった名主の家は時代が下って尾形医院になったようだが、それも今はない。
 その医院跡の横に「芭蕉一宿之跡 元禄二年四月二日」と刻まれた新しそうな石碑があった。これが元禄二年に立ってられたのでないことは一目瞭然だ。
 バス道に戻ると、道はすぐに右に折れ、突き当たりに伯耆根神社と書いてあったが、社や鳥居の姿は見えない。昔玉生城のあった山の上にあるらしい。
 右に曲がった所が玉生のメインストリートのようだが、この南側の一本入った細道が旧道のようだ。玉生小学校の手前で道は民家に阻まれて途絶えるが、そこに道標をかねた熊野山、湯殿山、男体山の三つの石祠が並んでいた。
 荒川という川を渡る。もちろん東京の荒川とは何の関係もない。この川は那珂川へ合流し、水戸の方へ流れている。このあたりで家が途切れると雪を被った那須の山々が見える。
 やがてローソンのある所で日光北街道の今の新道と合流する。道はなだらかに下り「たてば」というドライブインというか、自販機のたくさん並んだ所の先に分岐点があって、ここから右に入った所が旧道らしい。
 アスファルトで舗装された道は静かで、小山帰の小さな集落をぬうように、なだらかに行く。多分、途中に分岐していた未舗装の林道のような道が本来の倉掛峠を越える旧道だったのだろう。そうとも知らず道なりに歩いてゆくと、峠のような所に小さな社があった。地図だと八坂神社と記されている。庚申塔やお地蔵さんなどが並んでいて、その中の一つだけ、色鮮やかな赤いものをたくさん着せられていた。
 そこから新道に合流する直前に道標があり、右日光道とあった。本来の倉掛峠の道はここに出たのだろう。
 なるほど、やはりわかりにくく、この俺も別の道を来てしまったことでもわかるように、『奥の細道』で草刈るおのこが、
 「いかがすべきや、されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐしき旅人の道(みち)ふみたがえん、あやしう侍れば、此馬のとどまる所にて馬を返し給へ」
と言って馬を貸してもらい、「かさね」という女の子とともに越えたのは、那須野ではなく倉掛峠だったのだろう。
 『奥の細道』の本文のその前の、「明れば又野中を行く。そこに野飼の馬あり。」も、玉生の名主の家を出て、これから倉掛峠を越えて矢板に向おうとするその矢先に、玉生宿を出たあたりに野飼いの馬がいて、と読むのが自然ではなかったかと思う。
 このあたりは山といってもそれほどの高さはなく、なだらかで、「山越え」というよりは「野越え」の方が相応しい。

 かさねとは八重撫子の名なるべし  曾良

の句の、「八重撫子」は大和撫子ではなく、おそらくオランダから入ってきたカーネーションのことだろう。
 きっと「かさね」という女の子は、ほんわかしたの平安貴族が理想とした女の子ではなく、強い目をして時折鋭いことを言うようなツンデレ系ではなかったかと思う。曾良のような学者には、その方がいろいろ刺激があって楽しかったのではないかと思う。まあ、これは勝手な妄想だが。
 このあと新道に左側にあるという、倉掛の松に通じる戸方坂というのも結局わからずに通りすぎてしまった。
 このころにはかなり疲れていたし、早く帰りたいという気持ちから、とにかく黙々と新道を矢板に向かって下っていくだけだった。
 やがて道が開け、東北自動車道が見えてくる。着いた、という感じだ。日光から歩いてくると、何かようやく下界に戻ってきた気分になる。『奥の細道』に「頓て人里に至れば」とあるのはこういうことだったのだろう。
 さて、矢板の町に着いたらお土産の地酒でもと思って、まず道の駅に行ったが、酒のコーナーはそんなに大きくなく、めぼしいものは売り切れていた。
 町中の酒屋を探すが、ここは新鹿沼駅前以上に寂れた感じだった。まあ、多分ここも郊外に、大都市資本の大型郊外型店舗の並ぶ地域があるのだろう。
 ようやく郵便局のあたりにあった酒屋に入ると、店の棚はがらんとしていて、地酒を探していると奥からおばあさんが出て来る。何でも、あの震災の時に棚のものが一斉に崩れ落ちた恐怖から、棚の上に酒を並べるのが怖くなったのだと言う。
 それでも、地元の酒はちゃんとそろえてあった。「花子」というピンク色の瓶の酒を買って帰った。

3/11 近所で「3.11 未来へのキャンドルナイト」をやっていた。
 蝋燭に火を灯してもらい、水に浮かべてきたが、水に浮かべる直前に火が消えてしまった。結構日が消えた蝋燭がたくさんあって、ボランティアの人が一生懸命着火マンで火をつけていた。
 それとは別にキャンドルホルダーに入ったろうそくがたくさんたくさん置かれていた。こちらの方は別の所で販売されていたらしい。
 会場では弾き語りライブが行なわれていた。誰だか知らないが「ひぐらしの鳴くころに~」と唄っていた。
 鯨の缶詰と長寿味噌のセットを買った。

3/8 ドナルド・キーン氏が日本国籍を取得したということで、ありがたいことであるとともに、生まれながらの日本人でありながら、未だに『源氏物語』の若紫巻をやっと80パーセントほど読んだだけというこの俺は、ただただ恥じ入るばかりだ。
 その恥の上塗りという意味でも、こやん源氏に「偉大なる日本人、ドナルド・キーン氏に捧ぐ」という献辞を付けることにした。
 ひょっとしたら外国の人で日本語が読める人で、たまたまこやん源氏を読んで興味を持ってくれる人が一人くらいいるかもしれないという儚い期待を胸に、俺も駄目は駄目なりに、これからも日本文学研究に貢献していきたい。
 こやん源氏の「若紫」、今月中にUpできるかな。

2/26 天気予報は晴れだと思ってたら、急に予報が曇りに変り、実際に朝からどんよりと曇っていた。
 出かけようかどうしようか迷っていたが、とりあえず大山のもう一つの狛竜を見に行くことにした。
 出発も遅かったので伊勢原駅からバスに乗り、ケーブルカーで阿夫利神社(下社)まで行った。
 伊勢原駅の前には大きな鳥居があり、大山ケーブル駅からケーブルカーの乗り場までは土産物屋や豆腐料理の店などが並んでいた。シーズンにはまだ早いけど市営第二駐車場は既に満車で、やはり車で来るのは厳しいようだ。
 参道の街ということもあって、店の前に狛犬を置いているところもあった。
 途中小さな稲荷神社があり、ケーブルカーの駅の前には根之元神社があった。イワサクノカミを祀っているというから、日光へ行く時に見た磐裂根裂神社の系列なのか。
 ケーブルカーの発車まで時間があったので近くを散歩すると、八意思兼神社追分社 があった。ここから男坂と女坂に分かれて、徒歩で阿夫利神社へ登る石段が続いている。
 ケーブルカーで上に登るとすぐに阿夫利神社の下社があった。曇ってはいるものの相模湾が見渡せ、江ノ島も見えた。
 入口の狛犬は昭和63年銘の新しいもので、招魂社系。次にブロンズの昭和11年銘の狛犬があって、これも招魂社系だった。
 古い神社だから狛犬がなくて新しく作られたのかと思ったが、奥の院には安永の狛犬があるらしい。大山は子供の頃家族ハイキングでも学校の遠足でも登ったことがあったが覚えていない。
 境内には天満宮、大天狗の碑などがあった。ここから奥院への参道があったが、いつもの通り、特に登山やハイキングの装備はしてないので、とりあえず狛竜のある二重社を見て帰ることにした。
 途中道が崩れたのか補修してあって、そこを過ぎるとすぐに橋があって瀧があった。水量は多くない。冬だからというのもあるのか。そのとなりに二重社があった。
 八代竜王の幟とともにすぐにブロンズの狛竜が目に入ってきた。そんなに大きくはない。それに左側の吽形の方の下顎がない。帰ってから狛研の「神使の館」の映像を見たらちゃんと下顎があったので壊れたようだ。
 二重社の際神は高龗神(たかおかみ)で、これも日光へ行く途中に高龗神社というのを見たのを思い出した。
 帰ろうとするとなにやら空から白いものが。さすが阿夫利神社で、さっそく雨ならぬ雪を降らせて歓迎してくれたようだ。
 ケーブルカーで下へ降りると雪は降ってなくて、上だけだったようだ。千葉の木下街道沿いの阿夫利神社でも似たような体験をしたのを思い出した。そういえばあふりらんぽに「あふり伝説」という曲があったが、一昨年解散してしまった。
 さて、行きは楽をしてしまったから、帰りは一応伊勢原まで歩くことにした。
 参道を少し下ると良弁滝があった。歌川国芳展にあった「大山石尊良弁滝図」のイメージとは随分違い、水はちょろちょろで滝壺も狭かった。葛飾北斎の「諸国瀧廻り」の良弁滝の方がリアルで、本当に見て描いたのだろう。
 水が出るところには竜の顔があり、これも浮世絵にはない。最近になって作られたものか。多分、時とともに水量が減ってしまい、滝の人気自体も衰えてしまったのだろう。
 その先には愛宕滝があり、こちらの方がやや水量が多い。これも国芳の「相模州大住郡雨降大山全図」の中央付近に描かれている。この絵には良弁滝がない。
 この鈴川沿いの参道を、今は車で通りすぎてしまうが、江戸時代にはたくさんの人が歩いたのだろう。
 やがて大きな鳥居があり、三の鳥居と書いてあった。その先に諏訪神社がある。
 さらに行くとまた小さな鳥居があり、入るとそこは神社の裏側で、境内社が並んでいて、そこに小さな狛犬があった。獅子山狛犬にあるような尻を持ち上げ、尾を立てた形のもので、額は前へ突き出ている。土台には永代常夜燈と彫られていて、明和5年の銘があった。
 拝殿も古そうなわりには奇麗で、入口には平成12年(紀元2660年)銘の新しい狛犬があった。そこにはさらに、「明和五年建立ノ狛犬付常夜灯老朽化セルニヨリ撤去シ茲ニ之ヲ建ツ」とあった。その狛犬付常夜灯が、境内社の前に移動したようだ。表から外へ出るとそこに子易明神比々多神社とあった。
 東名高速が見えてくるあたりに、二の鳥居があった。となると、一の鳥居は伊勢原駅前で見たものということか。二の鳥居の辺りは参道が途切れ、駐車場になっていて梅の花が咲いていた。先週五日市へ行った時には見なかったが、この一週間、少し暖かい日があったせいかようやく咲いた。
 高速の下をくぐると、五霊神社があった。工事中なのか、拝殿の前に重機が置いてあった。
 駅に着いたのは4時ごろ。今日のお土産は「おおやま地ビール」。

2/19 今年の寒波は異常なのか、例年なら一月から梅もちらほら咲きだし、この時期にはいろいろな花も楽しめるというのに、相変わらずの寒さで、狛竜めぐりも年が明けてあまり時間が立ってしまうのもなんなので、とりあえずあきる野の養沢神社に行った。
 9時過ぎに家を出て武蔵五日市駅に着いたのが11時前。そこから歩いた。
 五日市七福神めぐりの幟が立っていて、33号線桧原街道を行くと「恵比寿天」という札の貼ってある子育て地蔵尊があった。少し先には延命地蔵尊があって、そこには毘沙門天と書いてあった。
 五日市高校前のあたりに鳥居が見えた。八幡神社のようだった。昭和54年銘の狛犬があった。ただ、その横にある大きな招き猫の書いてある店が気になる。招き猫にはそれぞれ名前が付いていた。
 やがて桧原街道の旧道との分岐点が見えてくる。今日のテーマは街道ウォーキングではないが、それでも自然と足は旧道へ。
 すぐに子生神社が見えた。(こやすじんじゃ)と読むらしい。大正2年銘の狛犬がある。

     子生神社
 遅れてる梅をついつい祈ったり

 これは、語尾の(して)を省略している。文語の「たり」ではない。
 その脇の公衆トイレに入ると、「急ぐとも器にそそげ」と書いてある。こういう中途半端な57を見ると下5を付けたくなる。トイレから若水を汲む景に転じて「春の水」というのはどうかと思ってよく見てみると、その横に「朝の露」という落書きがしてある。老境の哀れも見えて、いづれの風流のまさらんや。
 橋を渡り道は右にカーブすると、清酒喜正(野崎酒造)の蔵があった。日曜はお休みのようだった。その先を左に曲がり狭い急な坂道は登って行くと三島神社がある。なかなかこれは足が鍛えられる。鳥居の先の石段と合わせると、体育会系の部活の練習に使われてそうな坂だ。
 登ると渋い木の鳥居が二つあり、境内はひっそりしていて、霜柱が立っている。
 小さい古そうな狛犬が見える。銘はないが、江戸中期の古い狛犬のような顔をしている。左側は形がよく残っているが、右側は見る影もなく円い石のようで、よく見ると足らしきものが見える。もう一対の狛犬もかなり古そうだ。
 境内社というには大きすぎる武多摩神社の拝殿は赤と黒に塗られていて火頭窓があり、元はお寺で本地垂迹の関係にあったものが、明治の神仏分離令で神社にされちゃったもののようだ。
 三島神社の裏から桧原街道にもどるとやがて養沢への分岐点、十里木に着く。
 その先に鳥居が見えてきたので行ってみると、またしても急な石段があり、その上に大戸里神社がある。狛犬は大正2年銘。ちょこんと上を向いた鼻が可愛らしい。
 秋川国際マス釣場の近くに、馬頭刈尾根への登山口を示す道しるべがあった。このあたりは、まだ子供だった頃、親に連れられて大岳山から馬頭刈尾根をハイキングした時、夏休みの終わりごろの厳しい残暑のなかで水筒が途中で空になり、喉がからからになって、やっとこのあたりで水を飲んだのを覚えている。そのとき、川の向こう側に登る道があって、何だろうと好奇心に刈られどんどん登っていってしまい、迷子になった記憶がある。山の神に呼ばれ、危うく神隠しにあうところだった。
 その先にも、同じように右側の斜面を登って行く神社があった。最初は下の方に赤い鳥居が見えただけだが、よく見るとその上のほうにも鳥居があり、登って行くと、途中に小さい稲荷があったり、石祠が並んでる所があったりし、社殿には太鼓が置いてあった。
 その先には八坂神社があり、これはそれほど奥に入らなくてもよかった。さらに崩れた石段のあるところがあり、鳥居はないのだが、川沿いの立て札に神社下とあって、ここも神社なのかととりあえず通りすぎた。
 やがて道が緩やかに右にカーブする先に赤い欄干の橋が見え、その向こうに大きな鳥居が見えた。その手前で道は分かれ、左は大岳鍾乳洞になっている。ここが養沢神社だった。すでに2時近く、3時間は歩いてきたことになる。
 狛竜は鳥居のすぐ後にあってでかい。遠くからでも目立つ。だが、近くに行ってみると、あれ?って思った。竜はなぜか後ろを向いている。
 両方とも口を開けているから阿吽はないが、右側は玉(ドラゴンボール?)を咥え、左側は稲妻の剣を持っている。昭和60年の銘があり、そんなに古くはない。
 この神社には他にも昭和56年銘の狛犬があり、境内社にはお狐さんがいる。山に囲まれて午後2時でも薄暗い。
 さて、帰りは来た道を引き返すのだが、途中気になったあの崩れた石段を登っていくと、確かに小さな社があった。地図だと日天神社と書いてある。
 後はひたすらもと来た道を戻った。何とか2時間で武蔵五日市の駅まで戻った。お土産に純米喜正を買った。なかなかラベルが昔風で渋い。
 どこか日光から裏見の滝を往復したコースに似ていて、結構いい距離を歩いた。これから暖かくなった頃、大桑─矢板間を歩くのに、ちょうどいい足慣らしになった。

2/12 久しぶりに二日間ゆっくりと家で過ごした。
 『長恨歌』を読んでいたら、最初に「漢皇」と出て来て、そのすぐあとに「君王」となっているから、中国でも「皇」と「王」ってそんなに厳密に区別されてたわけではないのだろう。
 川添房江の『光源氏が愛した王朝ブランド品』(2008、角川選書)を読んだ。若紫巻にも出てきた紺瑠璃の壺の写真が乗ってきた。
 平安時代にもやはり流行はあったようだ。中国や渤海からの輸入品は国際情勢に左右されるから、それで流行ったり廃れたりしたのか。
 アニメのAnotherは、原作とかスタッフとか全然違うけど何か竜騎士っぽいところがある。田舎の学校に転向してきて、というパターンといい。

2/11 天皇に関する議論は、戦後長いこと右翼と左翼で硬直したまま思考停止に陥ってたような所があって、この頃いろいろ考える。
 まず、天皇とはそもそも何かということ。1月10日の日記で一部答えたが、天を意味する人間。それは意味を与え続けることによって存続している。神秘主義的な解釈を排するならそう言うほかない。
 天は人間にとって計り知れないもので、人間は天の真意を知ることはできない。そこに恐れが生まれる。人間は天を知ることはできない。ただそれを求めて止まないことができる。西洋ではダイモンの声と呼ばれ、日本では道祖神・猿田彦大神の導きと呼ばれる。求めても得られないところに、無知の自覚が生じ、思い上がりを防ぎ慎みが生まれる。
 コンピュータは未知を認識することはないだろうとおもうと、これが人間の意識にとって本質的なことであり、最大の謎とも言える。
 武家政治の問題。
 歴史の授業じゃ聞かなかったことだが、常にそこには「征夷」の文字が呪縛のように武家にのしかかってた。源頼朝が「征夷」の名を得るには平泉征伐が不可欠だったし、元寇で鎌倉幕府は権威を失い、一時的にではあるが後醍醐天皇の親政となった。
 その後「征夷大将軍」の職名を足利家、徳川家が継承し、既成事実化していっても、この「征夷」の二文字は重くついてまわった。徳川幕府が黒船が来た際に攘夷を行なわなかったことで、「征夷」の大儀を失い、徳川家だけでなく武家政治の時代そのものが終った。
 そして、この二文字は近代をも呪縛する。
 武家ではできなかった「征夷」を、近代国家の軍隊が継承する。そこから明治の軍国主義が始まる。彼らもまた、攘夷ができなければ近代国家の意義が失われると考えたのだろうか。それが闇雲に戦争に突っ走らせたのだろうか。
 そうなると、結局近代国家と天皇との関係を新たに構築できなかったのが軍国主義の原因だったのか。明治政府が単なる将軍家の代用になってしまったのが原因だったのか。
 もし、戦争に勝つことでしか近代国家のシステムは存在する意義がなく、未だに攘夷ができないなら政権を朝廷にお返しするべきだということなのか。そうではないだろう。
 大政奉還は、天皇の下に広く公議に基づいて行なわれるというものだったのだから、司法・立法・行政といった近代国家のシステムは、その公議のためのシステムだったわけだから、別に攘夷を行なわなくても存在する意味はある。戦後の新憲法下の政権もそこに根拠があったはずではないか。
 大臣、参議などの古代からの用語が今の政治システムの中に残っているのも、そのためなのだろう。近代国家のシステムが古代王朝の政治システムを継承するものだとしたら、将軍家のように攘夷に拘束される必要は最初からなかったはずだ。
 一方では天皇制が戦争の元凶として天皇制の廃絶を求め、君が代・日の丸を否定する人たちがいる。一方では天皇制のもとに行なわれた戦争は聖戦だとする人たちがいる。しかし、この議論はどちらも「征夷」だとか「攘夷」だとかいう言葉に呪縛されてたのではなかったか。

2/5 狛研の「神使の館」の情報だと、狛竜は秋葉のほかに大山、あきる野、入間にあるらしいが、山は寒そうだし入間はちょっと遠いし、そこで今回は早稲田にある倶利伽羅不動尊を見に行くことにした。
 倶利伽羅というとヤのつく職業の人の「もんもん」を連想するが、竜となった不動明王が炎の剣を飲み込む姿を、倶利迦羅竜王だとか倶利伽羅不動尊とかいうらしい。ネットで調べていたら、「もんもん」には紋紋だという説と「燃え燃え」が訛ったものだという説があるらしい。「萌え萌え」の字を当てると可愛らしいが。
 そういえばかなり前だが、ドラえもんの紋紋をしたやーさんがいるという都市伝説があったな。
 その倶利伽羅なんちゃらのある金乗院は副都心線の雑司が谷から行った方が近かったのだが、早稲田にあるというイメージから西早稲田で降りてしまい、明治通りをしばらく散歩することとなった。
 高戸橋を右に曲がり、都電の線路のある通りを面影橋まで行き、橋を渡って少し行くとその目白不動、金乗院があった。
 途中、神社があったが、「写真撮影はご遠慮ください」と書いてあったので、紹介の方も遠慮することにする。
 倶利伽羅不動尊の掘られた石塔は、その下に三猿が彫られてあって、庚申塔になっていた。本殿のすぐ脇の目立つ所にあった。寛文年の銘がありかなり古い。この寺には他にも庚申塔がいくつかあり、延宝や元禄など古いものが多い。大きな刀の鐔(つば)の形をした鐔塚というのがあった。
 倶利伽羅不動尊はあきる野の白滝神社にもあるらしく、狛竜を見に行く時には寄ってみたい。
 この後面影橋へ引き返し、水稲荷神社へ向う。
 面影橋のすぐ南側に天祖神社があった。狛犬はなかった。さらに南へ行くと如意山と書いた山門があり、その内側に狛犬の姿が見えた。延享元年(1744)のものらしく、きりっと釣り上がった眉毛といい平たい顔といい、独特な味のある逸品だ。
 この少し先から左へ折れると水稲荷神社の参道に出る。
 ここは稲荷というだけあってお狐さんばかりだ。メインの拝殿前の大きなお狐さんは昭和3年も銘があった。
 裏側には富士塚があり、ここもたくさんのお狐さんの社に占領されている。麓にはお狐さんの洞もあり、小さなお狐さんがたくさん並んでいる。右側には北埜神社や水神社、三島神社などの境内社もあった。猫も二匹いたが、柳森神社と違ってなかなか寄ってこない。
 水稲荷神社の隣は甘泉園という庭園があり、公園になっている。
 このあと、早稲田通りに出て穴八幡宮へ行った。大きく立派な神社で建物も新しい。拝殿前の狛犬は平成4年銘の大きなものだった。
 その境内の片隅に白い鳥居があり、そこに狛犬がいた。神武天皇遥拝所を守る狛犬で、平成8年修復の銘があったが、宝暦5年(1755)の古いものだ。頭の上の宝珠と角があり、これもなかなかいい顔をしている。頭のてっぺんに穴の開いた狛犬をよく見るが、本来はこうした宝珠と角が乗っかってたのだろう。
 今日の散歩はここまでで、このあと新宿のジュンク堂に寄って渤海国関係の本を仕入れて帰った。

1/29 展示の入れ替えがあり、ふたたび六本木ヒルズ52Fの森アーツセンターギャラリーへ、「歌川国芳展」を見に行った。
 「忠孝名誉奇人伝 兼女」のバックに描かれている馬がどこかで見たようなと思ったら、前回見た「近江の国の勇婦於兼」の異様にリアルな馬を左右反転させて小さくしただけで、そのまんまだった。この馬のポーズは「流行道外こまづくし」の独楽と駒という駄洒落の作品にも流用されていた。「義経功臣 四天王出世鑑之内 亀井六郎」の中央の黒い動物のポーズにも引き継がれている。
 「三代目尾上栄三郎のしづか御ぜん‥」の狐は、いかにも着ぐるみという感じで、実際こんな感じで芝居をやっていたのだろうか。
 美人画の所にあった、「四季心女遊 冬」では、女たちが大きな雪像を作っていたが、達磨にしては耳があるし、何だろうと、トトロみたいだと思ったが、ひょっとしてミミズクか。
 昔から女はこういう雪遊びが好きだったのか、ネットで国芳の画像を探している時偶然見つけた「初雪の戯遊」という絵では、雪で巨大な白猫を作っていた。15万円で売っていた。
 「本朝景色美人図会 防州岩国錦帯橋之景」の鳥の提灯みたいなのが描かれているが、こういうみやげ物があったのだろうか。
 「絵兄弟やさすかた」鵺退治は、お魚ではなく鰹節をくわえたドラ猫の首根っこを掴まえて、この美人は裸足で追いかけてきたのだろうか、ってそれじゃサザエさんだ。
 子供の出てくる絵もたくさんあった。江戸時代は児童虐待は死刑で、子供は大事にされていた。子供の頃のいっぱい遊んだ楽しい記憶があるからこそ、大人になっても子供のような遊び心を忘れず、こうした浮世絵の文化を生んだのだろう。
 風景画の所には、最近スカイツリーみたいだということで有名になった「東都三ッ股の図」があった。右側の大きな橋は永代橋で、その向こうに見えるのは佃島だろうか。だとすると、左側にあるのは小名木川でその左には元禄の頃に芭蕉庵があったあたりということになる。当時はまだ清洲橋はなかった。そうすると、これは箱崎の辺りから見た景色か。そうなると、左側の低い方のタワーは新川西水門の火の見櫓だ。今では2010年に完成した15.5メートルの火の見櫓が立っているが、そっちの方を予言してたのではなかったか。スカイツリーとはだいぶ方向が違うように思える。
 小名木川と新川は今では荒川で分断されているが、昔は行徳へと続く水路で交通の要衝だったから、何かそういう塔のようなものが立っててもおかしくはなかったのではないか。
 「本朝名橋之内 江都日本橋略図」は日本橋の人の多さを物語るもので、さすがに「降る雪を地にも落とさぬ日本橋」と川柳に詠まれただけのことはある。
 戯画のところの「金魚づくし」はポニョの原型か。
 そしてやはり猫。たくさんあった。東海道五十三次の双六に猫股が踊ってる絵があったが、何だろうと思ったら、「其まま地口猫飼好五十三疋」に答があった。岡崎(おかざき→おがさけ)の駄洒落。
 他にも色々面白い絵があった。
 今日は北風が強く、ヒルズの下はビル風が突風のように吹いていた。そういうわけで、今日はお散歩はなく、ノースタワーにあるらーめん鐵釜で久留米ラーメンを食べて帰った。

1/22 大河ドラマの「平清盛」をチラッと見たが、「王家」という言葉以上に、台詞全体が堅苦しすぎるのが問題なのではないか。歴史家でない素人には何を言っているのかさっぱりわからない。
 歴史観ばかりが先行し、肝心なドラマとしての面白さを忘れている。それが「王家」という言葉に象徴されているのではないか

1/19 今日は仕事で日光街道を通った。
 ところどころで去年の夏に歩いた時のことを思い出す。
 草加のところで、あの時見つからなかった三峰神社が、日光街道の新道沿いにあるのを見つけた。
 曾良の像が見えたので芭蕉像を見ようとしたら、草加せんべいの碑を見落とした。車だとあっという間に通りすぎてしまうので、見落としも多い。
 あらためて、日光までよく歩いたものだと思うと、多分死ぬ間際になっても思い出すような人生の一大イベントだったのかもしれない、なんて考えが浮かんできた。
 余命後わずかになったときに、もう一度あの景色を見てみたいなんてわがまま言って、また車に乗せてもらって走るのかもしれない。
 今年もまた日が長くなったら続きを歩きたい。
 東北へ行くというのが当初の目標だったのだから、白河まで行けたらなと思う。

 ところで石原慎太郎。
 「いつか若い連中が出てきて、足をすくわれる。そんな戦慄(せんりつ)を期待していたが、全然刺激にならないのでやめる。」
と言ったらしいが、本当の戦慄は文学ではなくてマンガやアニメやラノベなのではないのかな。
 今時西洋文学の猿真似みたいな「現代文学」なんて流行らないし、とっくに衰退しているから、そんな凄いものがこれから出て来ることはないだろう。それはみんな思ってることだと思う。
 文学全体が、マンガやアニメに押されて足をすくわれているから、あんな変な条例を作ってでも何とか潰したいのだろう。本人はプライドが高くて認めないだろうけど、きっととっくに戦慄しているにちがいない。

1/15 「ああ、俺だ。
 狂気のマッド・ヒューマニスト、鈴呂屋こやんだ。
 たった今、さる組織から、狛竜があるという情報を入手した。
 すぐに柳森神社に向う。」

 なーんてね。実際はネットで狛研の「神使の館」を見ただけだが、久しぶりに秋葉原に行った。
 柳森神社は「シュタインズ・ゲート」に出てくる柳林神社のモデルになったところで、「シュタインズ・ゲート」の聖地でもある。もっとも、このアニメに出てくる柳林神社は、台東区松が谷の秋葉神社の画像と合成されているようだ。
 日比谷線の秋葉原駅で降りて、京浜東北線のガードをくぐるとラジオ会館があったが、全体が足場で覆われて工事中だった。万世橋を渡り左へ行き、ふたたびガードをくぐった向こうに柳森神社はあった。
 神社は道路より一段低くなっていて、石段を降りて中に入る。まず正面に狸の像がある。この神社は狸の社でもあり、「他を抜く」といって、出世祈願の場所でもあるようだ。また、八畳敷きではないにせよ、狸の像のあれは巨大で、そこから「金運」の神様でもあるようだ。
 本殿はお狐様の社だが、狭い境内に境内社がたくさん並んでいて、その中におたぬきさん福寿神の社があり、石造りの小さな狛狸があったが、顔が欠けていた。社の下にも素焼きの狛狸があった。
 秋葉原らしく秋葉大神の社もあり、そこには小さな狛犬があった。
 ちょっと奥まった所に水神厳島大明神と江島大明神と書いたある社に、やはり小さいが、狛竜があった。
 境内には猫が2匹いて、片方はぶち猫で人懐っこく寄ってくる。カメラを提げたおじさんがずっとこの猫を撮ろうとしている。もう一方の猫はおなかの白い雉虎だった。
 神社のすぐ向こうは川で、すぐそばに神田・ふれあい橋があり、そこを渡って駅前に戻った。
 取り合えず秋葉原まできたから、一応アニメイトに寄ってみやげ物でも買っていこうかということで、メラルーさぶれを買った。
 そのあと、一応聖地巡礼ということでラボのある方へ行った。なんてこともない路地だった。芳林公園、メイリッシュの辺りを一回りした。
 この後、マックでグランドキャニオンバーガーを食ってから、もう一つの柳林神社のモデル、松が谷秋葉神社へ向った。
 春日通で謎の石像を見たが達磨だろうか。さらに、西町太郎稲荷神社、下谷神社に途中立ち寄った。下谷神社には昭和9年銘の招魂社系狛犬があった。正月なので、吽形の方はテントの中にあった。境内社に下谷稲荷神社があったが、本当はこっちの方が先にあって、下谷神社の方が後にできたようだ。
 松が谷秋葉神社は本当は秋葉原にあり、秋葉原の地名の元にもなった神社だったのだが、秋葉原駅ができる時に立ち退きになり、ここに移ったという。狛犬は昭和47年銘の結構大きなものだった。
 「シュタインズ・ゲート」では入り口の石段を下って入る部分と、そこへゆくのに神田・ふれあい橋を渡るところが柳森神社で、境内や拝殿、手水場の映像はこの秋葉神社が使われていた。
 秋葉神社の近くにキムチ屋があったので、キムチを買って帰った。上野駅へ行く途中に、前におおかみさがしで一度行ったことのある、下谷三峰神社に寄った。神社修復のための募金の告知が貼ってあった。

1/10 確かに、皇室を「王家」と呼ぶのは何となく違和感がある。
 だからと言って「皇家」と言えばいいのかというと、それも違う気がする。
 別に「王」という文字を使うから問題なのではない。それなら「王朝時代」という言葉もいけないということになる。
 天皇は皇帝であって王の上に立つ者だという人もいるが、それは西洋的な概念であって、確かに天皇はエンペラーと訳されるが、これも便宜上のものだろう。天皇は中華皇帝と同等のものではない、というより同質のものではないと言ったほうが良いし、シーザーやナポレオンと一緒というのもなんか違う感じがする。
 天皇は覇王ではないし、武力によって諸国の王を束ねてきたわけでもない。重要なのは「天」の概念であり、天を象徴し、地上における天帝の役割を果す一つの血統、というべきもので、単なる地上の支配者としての皇帝ではない。支配者であるかないかは問題でなく、「天」であることが問題なのだから。

 天皇とは、一言で言うなら「天を意味する人間」だと思う。
 記号論的に言えば、能記(意味するもの)は人間であり、所記(意味されるもの)は天、ということになる。
 戦後に天皇の人間宣言というのがあったが、天子様であることと人間であることは最初から矛盾してはいない。
 「天」という言葉は、能記という側面から見たら、単なる空気の振動であったり、紙の上のインクの染みであったり、液晶の発する光にすぎない。その意味では天皇は一人の人間に違いない。
 「天皇だとか言ってもただの人間にすぎない」というのであれば、「君のその主張はただの空気の振動にすぎない」、と言うことができる。
 ならば、能記と所記を結び付けているのは何か?
 もともと言葉に意味はない。人が喋ればそこに意味ができる。
 それと同様、一人の人間が「天」を意味するというのは、人がそのような意味を与えているからであり、誰もそのような意味を与えなくなれば、意味は消滅する。
 つまり、一人の人間が「天」を意味するのは、過去にたくさんの人間がそのような意味を与えてきた結果であり、要するに「伝統」だからだ。
 そしてそのような人間は、誰もがなれるものであってはならない。誰もがなれるなら、たくさんの「天」が存在し、争いになってしまうからだ。だから、特定の血筋に限定する必要があった。それは権力争いを緩和し、国の統一を維持するには良い方法だった。
 日本では王の地位をめぐる血で血を洗う時代が古代の早い時期に終結し、そして世界に類を見ない平和な国となったのは、たとえどんなに武力や経済力などの現世的な実力があっても絶対に王にはなれない、というこのシステムがあったからだ。
 このシステムは平将門も源頼朝も織田信長もくずせなかった。
 この平和が破られたのは、天皇が世界の中でたくさんいる王や皇帝の一人になってしまったときだった。その中で天皇に軍隊の統帥権を与え、武力で「皇帝」であることを示そうとした時、日本の平和は終った。そして、「天」の地位に戻った時、日本はふたたび平和になった。

 皇室は血統であり、いわゆる「家」とは区別されるという説もあるが、だからといって「王氏」というと、何か「王」という姓の氏族みたいに聞こえる。王貞治も王氏なのか。

1/9 何かテレビで日本語のことをやってて、真剣に聞いてるわけではなかったけど、平安時代は音声の構造が複雑だから今よりもゆっくり喋ってたなんて、はっきり言ってありえない説だ。世界には音韻構造の複雑な言語がたくさんあるけど、どの言語も喋る速さなんてそんなに変わるもんではない。
 江戸時代になってからいろいろな方言ができた何で戦前の説も、未だに信じている人がいるのかな。
 方言の分化は言語集団の孤立により徐々に形成されるもので、一気に形成されたりはしない。しかも、江戸時代は街道が整備されて馬や船などの交通も発達し、商業も活発で、参勤交代などもあり、人の移動がむしろそれまでより盛んになった時代だというのが、今の考え方だ。
 テレビは結局そんなに専門知識のない人間が、どこぞのネタ本かなんか見て企画するから、新しい知識と古い知識がごっちゃになっていて、聞いてて頭がおかしくなりそうだ。
 まあ、昔からテレビばかり見ていると馬鹿になるというのは、結局そういうことなのだろう。テレビの与える知識は玉石混交で、あまり真に受けないほうが良い。

1/8 六本木ヒルズ52Fの森アーツセンターギャラリーへ「歌川国芳展」を見に行った。
 結構メディアでも取り上げられて、国芳の知名度が上がったせいか、行列ができるほど混んでいた。  浮世絵の場合、どうしても絵が小さいという印象を受ける。本来家庭用で、狭い長屋の中でも楽しめるように作られている上、多分コストの点で決まった大きさの紙を使っていたというのもあるのだろう。大きな画面のものは3枚組みだったりする。
 最初は武者絵だが、悲しいことに出典がわからないから、どういう絵なのかよくわからない。当時としては、誰もが知っている物語を題材にしていたのだろう。こういうのも研究してみたいけど、「源氏物語」を読むだけでもあと10年はかかりそうだから、いつになることやら。
 役者絵も、歌舞伎に詳しい人ならもっと楽しめたのかもしれない。市川海老蔵、尾上菊五郎、松本幸四郎など、役者の名前だけは今と一緒なのが変な感じだ。
 美人画もなんかみんな同じ顔に見える。まあ、今のマンガアニメの絵も100年後の人から見たらみんな同じに見えるのかもしれない。着物は奇麗だし、模様も多彩で、当時のファッションカタログでもあったのだろう。ひょっとしたらタイアップとかもあったのかな。浮世絵を買って、この着物いいなといってそれを買いに行く人とかいそうだし。
 「猫と遊ぶ娘」「艶姿十六女仙 豊干禅師」など、猫が登場する者もある。やはり国芳といえば猫だ。
 子ども絵、「稚遊雪月花の内 雪」の雪ウサギはかなりリアル。「新板子供遊びの内 雪あそび」の雪だるまは本当に達磨の形をしている。今の雪だるまは西洋のスノーマンの影響で逆に退化したのだろうか。
 風景画では「大山石尊良弁瀧之図」の大山詣での賑わいは凄いなと思った。二枚の「東都御厩川岸之図」の変り摺というのは、リミックスのようなものなのだろうか。同じ版木で絵の具の色合いを変えて別の作品に仕上げている。
 「近江の国の勇婦於兼」の馬は異様にリアルで、これは西洋の挿絵をぱくったのでは。「東都富士見三十六景 昌平坂の遠景」は今のお茶の水とはずいぶん違って、切り立った岩の谷間で山深いような印象を受ける。今はここに聖橋が架かり中央線が通っている。右側に塀のように見えるのが、湯島聖堂の塀なのだろう。
 摺物と動物画では、「花車」の絵が奇麗だし、「えびざこ」が渋い。
 戯画の方は待ったましたという感じで、どれもこれも面白い。「流行猫の曲手まり」は実際にこういう手まりを使った曲芸が流行ってたのだろうか。今で言えばフリースタイルフットボールチーム球舞みたいなリフティングの技を基本としたものみたいだが。
 「道外化ものの夕涼」は千と千尋に出てくる妖怪みたいだし「道外獣の雨やどり」にはタイガーマスクがいた。「猫の当字 ふぐ」や猫の顔した役者絵、鳥人や人面魚、狸が登場するものはほとんど「狸の金○八畳敷き」ネタだった。
 「朝比奈三郎義秀小人じま遊」はどう見てもガリバー旅行記だ。ガリバー旅行記が書かれたのが18世紀だから、何らかの形で日本に入ってきていて影響されたのではないか。
 落書き風の「荷宝蔵壁のむだ書」黄腰壁は中央に手ぬぐいかぶって踊っている猫又がいるし、右の端には相合傘が書かれている。相合傘ってそんなに古い歴史があったんだ。
 風俗・娯楽・情報では捕鯨の絵があった。今ではクジラの値段が高すぎて需要がなく、調査捕鯨で捕ってきた鯨肉が余っているとも言う。
 「生月鯨太左ェ門」は身長7尺5寸の実在した力士らしい。チェ・ホンマンのようなものか。
 そういうわけで、いろいろと楽しめた。1月17日に入れ替えなので、また行きたい。
 終ったあと、ミッドタウンで昼食を食べて乃木坂から千代田線で明治神宮前へ行った。同行者が一度明治神宮に行きたいというので。
 明治神宮は人がたくさんいた。拝殿の前には大勢人が並んでいたが、拝殿前の石段の所に布を敷きつめて巨大な賽銭箱状態になっていたので、横から行くとその左端から参拝することができた。
 神社としては、明治神宮は狛犬はないし、立派な楼門はあってもそれを守る武者もいないし、境内社もないし、参道には人が大勢いるというのに的屋の屋台はないし、かなり殺風景な所だ。奥で参拝するには申請書を書かなくてはいけないのだが、それを書く台が並べてあて、役所か!って感じだった。
 その後代々木公園を通って渋谷に向った。代々木公園では韓流グルメフェスタをやっていた。プゴク(干鱈のスープ)を食べた。あっさりした味でふわっとした卵が心地良い。
 五人組のアイドルがステージに出て歓声が上がっていた。大国男児というグループらしい。流暢な日本語で、韓国より日本で活動する方が多いのだろう。
 韓流アイドルとは言っても、徹底して現地ニーズに合わせているので、日本のアイドルとほとんど変わりはない。日本のファンもジャニファンがジュニアの内から目をつけて育っていくのを楽しむみたいに、韓流ファンもシン (xing)の頃から応援している人が多いのだろう。
 韓流アイドルは完全に日本の文化に同化しているので、そんなに目くじら立てるようなものではないのかもしれない。「韓流」と呼ぶからややこしくなるだけで、欧陽菲菲やテレサテンと同じように考えればいいのだと思った。
 この後渋谷に出て帰った。楽しい一日だった。

1/3 本屋に行ったら、「“若紫” ヒカルが地球にいたころ」(野村美月、ファミ通文庫)というのを見つけた。ちょうど若紫巻を読み始めたところなので、ちょっと興味がある。「葵」「夕顔」に続く3作目なので、まずそっちの方を探さなくては。
 去年読んだ「奥ノ細道オブザデッド」といい、古典がいろいろな形でラノベの中に取り入れられているのは面白い。

1/1 朝早く目が醒めたので6時半に家を出て、いつも初詣に行く柿生琴平神社に向った。
 さすがに朝早いだけあって、臨時駐車場はまだまだがらがらだった。それでも人は結構来ていた。
 儀式殿の前には既に20人くらいは並んでいたが、5列で進むのでそんなに待つことはなかった。売店は、まだ巫女さんたちが一生懸命品物を並べて準備している最中で、それでもなんとか交通安全のお守りは買えた。
 境内社の稲荷社には、塩釜大明神(際神は武甕槌神・経津主神・鹽土老翁神)も合祀されていて、震災からの復興を祈ってきた。
 去年完成した新しい本殿の方は、正面の石段が通行止めになっていて、横の女坂の方から登っていった。登り終えると手水場のところに人だかりがしていて、何かと思ったら、ちょうど初日の出だった。
 本当は既に日は昇っていたようだが、地平線近くに雲がかかっていて、その雲の上にちょうど太陽が顔を出そうとしていた。何かかなり久しぶりに見る初日の出だった。
 本殿とその裏の小さな稲荷社にお参りして駐車場に戻ると、既に駐車場は満車になっていて、無理に入ろうとする車が一つしかない出入り口を塞いでなかなか出れなかった。
 そういうわけで、一体どんな年になるのか、先行きの不安も多いが、一年の始まりは思いがけずに初日を拝み、まずは上々といったところか。

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