
野ざらし紀行
─異界への旅─
(ver.2)
ゆきゆき亭 こやん
前編
1、野ざらしを心に
千里に旅立て、路粮をつつまず、三更月下無何に入と云けむ、むかしの人の杖にすがりて、貞享甲子秋八月江上の破屋をいづる程、風の聲そぞろ寒気也。
野ざらしを心に風のしむ身哉
秋十年却って江戸を指故郷
センリにたびだちて、みちかてをつつまず、サンコーゲッカムカにいるといーけむ、むかしのひとのつえにすがりて、ジョーキョーきのえねあき8がつコージョーのハオクをいづるほど、かぜのこえそぞろさむげなり。
のざらしをこころにかぜのしむみかな
あきととせかえってエドをさすコキョー
千里に旅立て、路粮をつつまず、三更月下無何に入と云けむ、
「千里」といっても、文字どおり4千キロという意味ではない。漢文の常套句で、「千里の行」とか「千里の外」とかいうふうに、はるかに遠い道のりを意味する。『奥の細道』に「前途三千里のおもひ胸ふさがりて」とあるのと同じだ。路粮の「粮」は「糧」と同じで、旅や行軍のさいの食糧をいう。「三更」というのは時間を表わす言葉で、真夜中を意味する、このあたりの言葉は『江湖風月集』(憩松坡撰)の偃渓広聞和尚の次の詩句をふまえたものといわれている。
路不齎粮笑復歌 三更月下入無何
食糧を持たずに笑って歌い道を行けば
真夜中の月の下で無何有の郷に入る
無何というのは本来文字どおり「何もない」という意味で、「無何有の郷」もそのまま読めば「何もない郷」という意味になる。天を突くような岩峰、遥々と流れる大河、中国の山水画に描かれるような景色は、人間を寄せつけないような広大な大地だ。荒涼としているがゆえに、人間の手の入ることのなかった、そんな自然のままの場所だ。
焼畑をすれば森林が失われ、森林が失われれば洪水が起こる。洪水を抑えるために人間は国家を作り、治水を行う。国家は圧政と重税を生み、飢饉や戦争の元となる。
それは、前近代的な社会の一つの宿命だった。農耕の開始、潅漑農法の発明など、新しい技術は一時的には人間に豊かさをもたらした。しかし、こうした技術革新による生産力の向上は、きわめて緩慢なテンポでしか起らず、その間に人口が増えることで、結局生産の余剰分は食い尽くされてしまう。こうした繰り返しが、文明の無力や人知の限界とされ、常に自然への回帰への憧れを生んできた。
今日はどうかというと、それも難しい問題である。確かに今日では、加速する技術革新と少子化が同時に起ったことで、先進諸国は未曽有の豊かさを実現している。しかし、それは膨大な資源を浪費するもので、人類がもし資源の循環(リサイクル)という問題を解決できないなら、今すぐということはないにせよ、長期的には終息してゆくことになるだろう。最終的に、あるときリサイクル革命が起り、低人口高度消費社会で安定するのか。それとも資源を使い果たして近代以前に逆行するのか。それはまだわからない。
そんななかにあって、人間の容易に近づくことのできないような厳しい自然の景色のなかに、老荘の徒は救いを求めた。何も持たず、深夜の月の下で広漠たる世界を夢見る。そんな思いで芭蕉は旅に出たのだった。
むかしの人の杖にすがりて、
「むかしの人の杖にすがりて」とあるように、この旅で芭蕉は古典の風雅への回帰を意図している。
正岡子規が「貞門の洒落や談林の滑稽」と一括して以来、貞門や談林の俳諧はただ諧謔を追求するだけのものであるかのような偏見の目で見られることが多かった。しかし「蕉風」の確立とは、決して単なる笑いの俳諧を真面目な芸術に高めたといった意識で行われたのではない。そうした意識は正岡子規以降の近代俳人の意識なのである。
ユーモアというのはどこの国でも文学の欠くべからざる要素として認められているし、笑いだけを卑下したり、芸術から排除したりするのはむしろ不自然だ。
松永貞徳によって開かれた貞門の俳諧というのも、決してただ面白ければいいという理由で駄洒落に興じていたのではない。むしろ、貞門の俳諧の本質は「俗語の連歌」という所にあった。基本はむしろ中世の連歌なのである。俗語を交えながらもあくまで品性を落とさない、むしろ貴族趣味に理想を置く俳諧なのである。
掛言葉や縁語などの伝統的な和歌の技法の習得や、連歌の言葉を変幻自在にあやつる機知を競う要素が重要なのであり、単なる駄洒落とは次元をことにする。
しかし、それは上品ではあるものの、実際の江戸の庶民の生活感覚からすれば、浮世離れした絵空事の世界に陥ってゆく傾向を持っていた。
たとえば、芭蕉の貞門時代の発句
花にあかぬ嘆きやこちの歌袋
春風にふき出し笑ふ花もがな
の句などをとってみても、「あかぬ」を「開かぬ」「飽かぬ」に掛けたり、「こち」を「こっち」と「東風」に掛けたりするあたりは見事だが、桜の下で大宮人が歌を詠んで遊ぶといった趣向は、当時としてもほとんどリアリティーがなかったであろう。「春風に」の句も、「笑」という字が漢文では花が咲くという意味で用いられるところからの発想で、それに芽が吹くと「吹き出す」とを掛けたものだが、単に花が咲く=花が笑うという以外にこれといった意味はない。
連歌師西山宗因の指導のもとに延宝4(1676)年頃から一世を風靡した談林の俳諧は、むしろ庶民の日常的な世界を解放してゆくなかから生まれたムーヴメントだ。そのために新しい創作の足枷になる古い連歌の式目をかいくぐる方法を考えることによって、事実上無効にしていったのである。
談林時代の芭蕉の句
花に酔えり袴来て刀さす女
盛じゃ花にソゾロ浮法師ぬめり妻
を先の句と比べてみれば、違いは歴然としている。歌を詠む大宮人のような過去の空想ではない、手近にある風俗の中から題材を拾っている。こうしたリアリティーこそが談林の本質であり、滑稽はその外見にすぎない。
しかし、こうした改革も、一歩間違うと和歌や連歌の風雅の伝統から乖離して、単なる卑俗化につながる危険をはらんでいたことは確かだ。実際、談林は江戸座の点取り俳諧を経て、川柳へと流れてゆくもう一つの道を開いた。
その一方で、むしろ談林俳諧と古典の風雅との接点を探っていたのが、天和期以降の芭蕉の俳諧だった。
この道は単純ではなく、紆余曲折に豊んでいた。『野ざらし紀行』の旅もそうした一つの新しい俳諧の、古典の風雅と談林のリアリティーとの融合の模索だった。それこそ西山宗因が提起し、果たせなかった課題だったのだ。
その宗因は天和2(1682)年にこの世を去り、芭蕉はまさに宗因なき後の俳諧のリーダーとなろうとしていた。また、各務支考の『俳諧十論』によれば、芭蕉はこの時既に古池の句を完成させており、既に次に来る俳諧の新風のイメージがある程度出来上がっていたとすれば、むしろ天和調自体が、刺激に飛んだ談林調の俳諧から古風に回帰する次の俳諧への中継ぎの意味を持っていたのかもしれない。
リアリティーは確かに重要だ。誰だって過去の世界に生きることはできない。今生きているこの現実から逃れることなんてできやしないのだ。しかし、人はどう生きるべきか、人生とは何なのか、ただ今だけよければそれでいいというわけでなく、何かしら時代を越えた価値というものを人は求めずにはいられない。
古典の風雅も単なる過去の遺物ではなく、そこには時代を越えた何かがあるはずだ。その時代を越えた何かを会得しながら、今の現実の世界を詠んでゆけば、句はその場限りのものではなく、時代を越えることができるのではないか。西行法師、宗祇法師、それに、近いところでは宗因法師、いずれも旅に生き、旅に死んでいった。そうした古人の心を学ぶところに、芭蕉のこの旅の意義があった。
もちろん現実には、江戸のローカルな俳諧師から全国制覇への野心がなかったとはいえないだろう。いずれにせよ、宗因なきあと、リーダーを失った俳諧を自ら再建しようという野望に燃えていたにちがいない。
貞享甲子秋八月江上の破屋をいづる程、風の聲そぞろ寒気也。
西暦1684年は甲子の年で、十干十二支の最初の年だ。
この年、天和4年から貞享元年に改元されている。明治以前は天皇の崩御がなくてもしばしば改元がなされ、特に甲子の年の改元は多く、964年に康保元年へ改元されて以来、幕末の1864年の元治元年への改元まで、甲子で改元のなかった年は1564年の一回しかない。
この年は、今でいえば天文学者でもあり数学者でもある安井算哲の上表によって、貞享の改暦が決まった年でもあり、翌年からは生類哀れみの令も始まる。また、芭蕉が工事に関わった小石川に植物園ができたのもこの年だ。そして、この年は芭蕉にとっても変革の年だった。延宝5(1677)年に俳諧の宗匠として立机した芭蕉は、天和元(1681)年の7月に『俳諧次韻』を発表し、従来の談林調を脱した独自な俳諧を確立したが、その後天和の大火(八百屋お七の大火)といった不運もあり、思うような興行活動ができない状態だった。しかし、暦が甲子に戻り、元号が改まったことで、芭蕉ならずとも俳諧変革の気運が高まったことであろう。『野ざらし紀行』は『甲子吟行』とも呼ばれ、まさに芭蕉の新しい俳諧を求めての旅だった。
「江上の破屋」というのは深川の芭蕉庵のことで、この言葉は『奥の細道』にも出てくる。延宝8(1680)年に深川に庵を構えた、当時「桃青」を名乗っていた芭蕉は、門人の李下から芭蕉を贈られ、庭に植えたことから、芭蕉庵桃青を名乗り、やがて「芭蕉」という呼び名が定着してゆくこととなった。芭蕉とはバナナのことで、日本の本土の気候では実はならず、大きな葉も秋風に破れやすいところから、もろいもの、繊細なものの象徴だった。その芭蕉庵を有名にしたのが次の発句だった。
茅舎の感
芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
「茅舎の感」とは杜甫の『茅屋秋風の破る所と為る歌』のイメージから来たものだ。安禄山の乱で「国破れて山河在り、城春にして草木深し」となった長安の都城を離れ、成都の浣花渓に茅葺き屋根の草堂を作り、隠棲していたところ、折からの秋の嵐に屋根が吹っ飛び、寝床が雨漏りでびしょ濡れになった、そのときの杜甫の詩を思い起こし、芭蕉もまた、庭の芭蕉を吹きつける台風の風の音や盥に落ちる雨漏りの水音に杜甫の心を偲んだのだった。この芭蕉庵は天和の大火で隅田川の対岸から渡ってきた火の粉に燃えてしまい、この時、芭蕉は隅田川に飛び込み、難を逃れたという。芭蕉庵は、この後すぐに再建され、それがここでいう「江上の破屋」だ。
かって芭蕉庵の名の由来になった芭蕉の株を贈った李下は、『野ざらし紀行』の旅立ちのさい、次のような発句を贈っている。
ばせを野分その句に草履かへよかし
芭蕉野分のあの「茅舎」も旅の草履に替えるといいでしょう。それに対して芭蕉はこう和す。
ばせを野分その句に草履かへよかし
月ともみぢを酒の乞食
なぜならば、月や紅葉で酒を飲むのが似合いの乞食だからだ。
野を心に風のしむ身哉
秋十年却って江戸を指故郷
この『野ざらし紀行』の旅立ちの二句は、これから行く旅への力強い決意を表わすというよりは、むしろ旅の不安と悲しみに重点を置いている。
「野ざらしを心に」までは力強い。たとえ道端で朽ち果てようとも、それは覚悟の上だ。しかしそう決意はしても、心には秋の風がしみとおる。朱子学で「春に万物を生じ秋に止む」というように、
秋の風は万物を死へと向かわせる。目にはさやかに見えなくても、死は確実にやってくる。そんな身も氷るような感覚だ。
鯉屋杉風は、この旅立ちのときに
何となう柴吹く風も哀れなり
という句を詠んでいる。あえて季語を入れずに詠んだのは、この句が送別の句で、「送別」というテーマ自体が四季とは別に独立して部立てされうるからであろう。
もう一つの「秋十年」の句のほうも、意味は明瞭だ。生まれ育った故郷を離れるには、たいてい皆それなりの事情があり、故郷を懐かしく思っても、なかなか帰るに帰れない事情があるし、帰ったところで自分の居場所があるわけでもない。室生犀星が、
故郷は遠くにありて思ふもの
そして悲しく歌ふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
と歌ったとおりである。
本来、和歌においても連歌においても、旅は都を離れた大宮人が故郷である都を恋慕うように詠むべきものとされていた。その意味で、芭蕉の旅は本当は故郷へ帰る旅なのだが、「却って江戸を指故郷」の一言で、故郷を離れ、都落ちする古人の旅と同様のものになる。
関こゆる日は雨降りて、山皆雲にかくれたり。
霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き
せきこゆるひはあめふりて、やまみなくもにかくれたり。
きりしぐれフジをみぬひぞおもしろき
冬になると、東京からでも毎日のように富士の真っ白な姿を見ることができる。ところが、秋の長雨の頃となると、そうはいかない。芭蕉が貞享元(1684)年の秋、『野ざらし紀行』の旅で箱根の関を越えたのも、そんな雨の日だった。山の中で雨雲に巻かれてしまうと、ほとんど白一色の世界になってしまう。だが、そうした真っ白な世界も、詩人にとっては無限の夢を描き出す恰好のキャンパスとなる。
富士といえば、芭蕉は『士峯の賛』という俳文の中で、
「崑崙は遠く聞。蓬莱・方丈は仙の地也。まのあたりに士峯地を抜て蒼天をささえ、日月の為に雲門をひらくかと、むかふところ皆表にして美景千変ス。詩人も句をつくさず、才士、文人も言をたち、画工も筆捨てわしる。」
と言っている。
富士の姿は筆舌に尽くし難い。ただ見たままを表現したとしても、それはたまたまその時見えた富士の姿の一つにすぎず、富士の魅力のすべてを短い十七文字で表現するには、描写というのはまったく無力なのだ。
「富士をみぬ日ぞ面白き」というのは、そのことを逆説的に表現している。富士は霧の彼方で見ることができない。その見えない中に、芭蕉はありとあらゆる富士の姿を思い描いたのだ。そして、読者もまた、自らの心の中にある様々な美しい富士の姿を思い描けばいい。
荘周は『荘子』斉物論の中で、昭文のような後世にまで名を残すような琴の名人の演奏でも、ひとたび音を出してしまえば、演奏されなかった無数の音がそこなわれる、と言っている。陶淵明が弦のない琴をいつも傍らに置いて撫でていたという伝説が生まれるのも、こうした考え方によるもので、ジョン=ケージの「四分三十三秒」にも通じそうな逆説だ。
「富士」の名は不死にも通じる。それだけに、この山は崑崙山や蓬莱山・方丈山のような神仙郷を彷彿させる。そんな富士の神々しさを描き出そうとした時、下手な描写よりも白一色の世界にあれこれ想像をめぐらす方が賢明なのかもしれない。芭蕉は吉野や松島(白河の関でも)のような名所では、景色に圧倒され句が詠めなかったというポーズを取りたがる傾向がある。(実際は吉野の句も松島の句も詠んでいる。)
一年遅れて、貞享2(1685)年、伊丹の俳諧師、上島鬼貫は同じく秋の富士をこのように詠んでいる。
にょっぽりと秋の空なる富士の峯
こうした「にょっぽりと」という俗語を交えた描写の面白さは、芭蕉が数年後に詠む
梅が香にのっと日の出る山路かな
にも匹敵しそうだが、富士に関して、あえて描写を嫌ったところに芭蕉らしさが表われている。
なお、箱根というと中世連歌の大成者で、芭蕉も敬愛する宗祇法師の終焉の地でもあった。本来冬の季語である「時雨」を「霧時雨」という独特の造語でもって強引に秋の句とした背景には、宗祇法師の代表作、
世にふるもさらに時雨の宿り哉
を思い起こしての、鎮魂の意味も込められていたのかもしれない。
何某ちりと云けるは、此たびみちのたすけとなりて、万いたはり心を尽くし侍る。常に莫逆の交はり深く、朋友信有哉此人。
深川や芭蕉を富士に預行く ちり
なにがしチリといーけるは、このたびみちのたすけとなりて、よろずいたわりこころをつくしはべる。つねにバクゲキのまじわりふかく、ホーユーシンあるかなこのひと。
フカガワやバショーをフジにあずけゆく チリ
富士山は実在の山ながら神仙郷の面影を持つ。霧に見えない富士となればなおさら、想像上の異界であり、芭蕉は「却って故郷」となった江戸から別の世界へと旅だってゆく。
この旅に同行した千里は、柏屋甚四郎といい、これから芭蕉も行く大和葛下郡竹内村(今日の北葛城郡當麻町竹内)の人だった。この旅は千里にとっても帰省の旅だった。句の意味は深川から富士に芭蕉翁を預けに行くというそのまんまの意味だが、本来旅立ちのさい深川で詠まれるべき句を「霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き」の句の後に置くことによって二人の姿が白い霧の中に消えてゆくかのように思える。
富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀気に泣有。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露計の命待まにと、捨置けむ、小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、
猿を聞く人捨子に秋の風いかに
いかにぞや、汝ちちに悪まれたるか、母にうとまれたるか。ちちは汝を悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝の性のつたなきをなけ。
フジガワのほとりをゆくに、みっつばかりなるすてごの、あわれげになくあり。このかわのはやせにかけてうきよのなみをしのぐにたえず。つゆばかりのいのちまつまにと、すておきけむ、こはぎがもとのあきのかぜ、こよいやちるらん、あすやしおれんと、たもとよりくいものなげてとーるに、
さるをきくひとすてごにあきのかぜいかに
いかにぞや、なんじちちににくまれたるか、ははにうとまれたるか。ちちはなんじをにくむにあらじ、はははなんじをうとむにあらじ。ただこれテンにして、なんじのさがのつたなきをなけ。
富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の、哀気に泣有。
富士川の捨て子の場面は『野ざらし紀行』の序盤の一つの山場で、人の命の重さというずっしりと重い問題を含んでいる。
この場面には、虚構ではないかという説もあるが、捨て子は当時の社会問題でもあった。もちろん、当時はまだ捨て子を収容し、育てる、孤児院のようなシステムはなかった。江戸時代の子供は、一般的には無理なしつけや離乳をさせず、のびのびと愛情をもって育てられていたものの、経済的に貧窮した家庭に満足な援助があったわけでもなく、それに双子を忌み嫌うなどの迷信からも捨て子は決して少なくなかった。藩や幕府もこれに見かねて、捨て子を育てる人に報奨金を出したりもしたが、逆にそれを悪用して、捨て子を拾ってきては虐待やネグレクトを繰り返し、お金だけもらおうという人もいた。
そういう時代にあって、この富士川の捨て子を虚構と断定できる根拠はどこにもない。仮に虚構だとしても、せいぜいどこか他の所で見た捨て子を、富士川という歌枕に掛けて、ここに持ってきたという程度のものだろう。いずれにせよ、芭蕉はこれを書かずにはいられなかったのだし、しばしば言われるようの「猿を聞く人、左勝ち、捨て子の秋風」(句合わせは縦書きで行を分けて書くから、左というと「捨て子」の勝ちになる)といったような句合わせ的な趣向の遊戯とみなすには、「捨て子」の命はそんなふうに弄ぶほど軽くはない。(山本健吉ともあろう人がこのような発言をしているのは、信じ難いことだ。)
それにしても、問題が重いだけに、文章のほうも難しく、発句のほうも禅問答めいていて、なかなかすんなりと意味が頭に入ってこない。特に、このころの芭蕉は、出典のある言葉を多用する傾向にあった。だからまずは一つ一つの語句の出典を丁寧にたどっていったほうがいい。下手に今の感覚で考えると、誤解の元になる。
露計の命待まにと、捨置けむ、小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、
「小萩がもとの秋の風」は『源氏物語』桐壺の
宮城野の露吹きむすぶ風の音に
小萩がもとを思ひこそやれ
からきている。三つになる光源氏を小萩にたとえ、母である桐壺が死んだ今、野分の風の中でこの幼い子供がどうなってしまうのか考えてもみろ、という帝の歌だ。
最初は参内を頑なに拒んでいた桐壺の更衣の母君も、やがてはこの歌に諭されてか、光源氏を内裏で育ててもらうことになる。
しかし、富士川の捨て子は光源氏でもないし、芭蕉もまた帝ではない。せいぜい食物を恵んでやる程度のことしかできない。それは、一時的な飢えを凌ぐだけの応急措置ではあっても、捨て子問題の解決にはならない。
猿を聞く人捨子に秋の風いかに
『源氏物語』の作者紫式部よりほんの少し下の世代に赤染衛門という、一説には『栄花物語』の前半部分の著者ともいわれている人がいる。『新古今集』には彼女のこういう歌が収められている。
野分したるあしたにおさなき人をだにとはさりける人に
荒く吹く風はいかにと宮城野の
小萩が上を人の問へかし
芭蕉は『源氏物語』だけでなく、この歌も念頭に置いていたのではなかったか。
そう考えれば、芭蕉の句の下五の「秋の風いかに」の意味が自ずとわかってくる。芭蕉は「猿を聞く人」に、捨て子がこれからどうなってしまうのかを問いかけたのだ。
「猿を聞く人」が誰か、ということについては、復本一郎の説にならい、先の「三更月下入無何」の詩を詠んだ広聞和尚ということにしておこう。その広聞和尚の詩句に
後夜聴猿啼落月 又添新寺一楼鐘
夜明けに猿が、沈んでゆく月に向かって次々に鳴き出すのが聞こえる。
それに寄り添うかのように新しい寺の鐘が鳴り響く。
とあり、『江湖集鈔』には、「霊隠でさびしき猿声を聞きぬ鐘声を聞たことは忘れまじきそ。猿声や鐘声は無心の説法に譬るそ。無心の説法を聞て省悟したことは忘れまじきそとなり。」という注がある。月に鳴く猿の声の悲しさに悟りを開いた広聞和尚なら、きっと捨て子の気持ちも理解できるだろう、と思い、芭蕉はあえて広聞和尚に問うたのだった。
猿の声というと「ウキッキー」と言いたくなるが、ここでいう猿はテナガザルのことであって日本の猿(ニホンザル)ではない。漢文ではかって「猿」と「猴」は区別されていて、「猿」というのは本来テナガザルをさす言葉だった。(これはmonkeyとapeの区別に近い)テナガザルは夜明け前後の二時間くらいの間に大声で「ウォー,ウォッウォッウォッウォー」と長く尾を引いて歌うように鳴き、テリトリーを知らせ合う。それは、冥界から響いてくるような切ない声で、世を捨て、人里離れた山奥に隠棲しているときにでも聞けば、まさに断腸の思いだ。テナガザルは今でこそ海南島などの中国最南部が北限だが、かっては長江流域に広く生息していたらしい。京都大徳寺蔵の牧谿の『観音猿鶴図』の猿も、龍泉庵蔵の長谷川等伯の『枯木猿猴図』の猿もテナガザルだ。芭蕉が影響を受けた狩野派にあっても、テナガザルの絵は定番だったし、江戸後期に円山派がニホンザルの絵を描くようになるまでは、猿の絵というとテナガザルの絵だった。
猿の声は、古くは既に『楚辞』にも
雷填填兮雨冥冥 猿啾啾兮狖夜鳴
雷は重々しくデンデンと鳴り、雨はすべてを覆うかのようにメンメンと降る。
猿はしょうしょうと、狖(黒い猿)は夜鳴く。
とあり、六朝時代の無名詩にも
巴東山峡巫峡長 猿鳴三声涙沾裳
巴東の山峡の巫峡は長く、
猿のたびたび鳴く声に涙は裳裾を濡らす。
と歌われている。
猿の声に悟りを開いた広聞和尚もまた、遁世人であり、いわば世から捨てられた「捨て子」だ。秋風に死を待っているだけの捨て子が運命をどう受け止めるべきかも知っておられるでしょう、ということだ。
この「猿を聞く人」の句を、ただ山の中でのんびり猿の声を聞いている趣味人に何ができるのか?捨て子の命のほうがずっと重いではないか!と解する人もいるが、それは過去の詩の伝統と決別した近代的な見方であって、芭蕉的ではない。それでは、「猿の声」に感銘し、断腸の思いになった古人たちは一体何だったのか、ということになってしまう。古人の心を敬い、継承しつつ、リアルな現実に接していくというのが、芭蕉のやり方だ。この句はあくまで、猿を聞く人にどうすればいいのか問いかけているのだ。生への執着を捨てるのが仏教の教えなら、捨て子はそのまま捨て置くべきなのか?いや、そうではなく、殺生を禁じるように、すべて命あるものを慈しむのが真の仏教なのか?
しかし、もはやこの世にいない広聞和尚に問いかけても、答えはない。芭蕉は自分なりに一つの答を出す。
いかにぞや、汝ちちに悪まれたるか、母にうとまれたるか。ちちは汝を悪むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝の性のつたなきをなけ。
この答も意外に思うかもしれない。今日の常識では確かに「捨て子」は子を捨てた親の犯罪以外の何ものでもない。しかし、それはわれわれが避妊の方法を知っているし、わが国では堕胎も事実上許されている。そのため、子供の数は自由に決めることができる。意図せざる子供が生まれたとしても、少なくとも憲法の生存権に基づいた最低限の公的援助は受けられる。子供はどんな場合でも育てられないはずはない、という前提があってこそ、「捨て子」は許すべからざる殺人行為として認識されるようになったのだ。
また、この文章を虚構とする根拠として、正常な感覚の人間だったら、食べ物を投げて通り過ぎるなんてことをせずに、しかるべきところに届けたはずだ、という人もいるが、それも孤児を収容する施設の整った上、行政がそれに責任を持つことを義務づけられた今の時代の感覚に他ならない。
この意識を芭蕉の時代に求めるのはやめたほうがいい。時代があまりにも違うのだ。捨て子は運命であり、「天」だったのだ。そこからむしろ、「捨て子」がすべての人間の運命でもあることに思いを馳せることが重要だったのだ。
すべての生き物はこの地球という限られた空間に暮らすしかない。それゆえ、生きるということは、有限な土地、有限な資源、有限な生態系、その中で終わることのない椅子取りゲームを繰り返すようなものだ。豊かになる者がいれば、そのぶん必ず滅びてゆくものがいる。そんな生存競争の繰り返しは、今日のわれわれも例外ではない。
今日のわれわれは、膨大な地下資源を消費することによって、生産性を飛躍的に向上させ、未曽有の豊かさを勝ち取った。しかし、その資源も有限であることには変わりない。
近代化初期の段階ではこの豊かさは人口の爆発を生んだが、一定以上生産技術が高度化すると、むしろ高度な生産技術を維持するためには、高度な教育を受けた質の高い労働力が不可欠とされるため、子供一人当たりの教育投資額が急速に膨れ上がり、少子化に向った。これによって、われわれは19世紀のマルサスの予言に反し、生産力の向上と少子化が同時におきるという状況が生じ、もはや飢餓と隣り合わせの生活は過去のものとなり、捨て子はもはや社会問題ではなく、単なる犯罪となった。
しかし、これはほんの半世紀ばかりの現象で、先進諸国に限定された出来事にすぎない。未だに世界の国の多くは、近代以前の段階や、近代化初期の人口爆発の段階にとどまり、飢餓と隣り合わせの生活水準にある。
たとえば、人身売買なども、われわれの感覚からすれば、買うほうも買うほうだが、売るほうも売るほうだと思うかもしれない。だが、今でも世界の一部では、子供をこのまま餓死させるよりは、どこかで生き延びてくれる希望のある選択肢として、人身売買が成立している。
しかも、今日の先進諸国の繁栄も、有限な地下資源に依存しているため、その根底は脆弱だ。その豊かさをもたらす技術と文化が地球上すべてに行き渡るには、まだまだ時間がかかる。それまでに資源が枯渇しないという保障はない。結局、人類の繁栄は有限な地球の上に成り立っているもので、有限な資源を奪い合って生きていることを忘れてはならない。
われわれは確かに自分の子供を泣く泣く河原に捨て去るほど貧しくはない。しかし、そのかわりに多くの難民と野性生物を捨ている、ということも忘れてはならない。芭蕉は捨て子にわずかな施し物をして通りすぎるしかなかった。それは、今日のわれわれが、テレビで見る飢餓難民の姿に古着を送ってやるくらいしかできないし、日に日に失われゆく自然の姿になす術もない、そんなにがにがしさに近いのではないか。
すべては生存競争だから仕方がないといって放置すべきなのか。そんなことはない。捨て子は悲しいし、誰もそれを放ってはおけない。だからといって自分が引き取って育てればいいかというと、この世にいる膨大な数の捨て子を一人で抱え込むなんてできやしない。そのやり場のない叫びが、猿の叫びと重なり、「猿を聞く人」の句となった。
談林時代から芭蕉とともに俳諧を作ってきた山口素堂(「目には青葉山ほととぎす初鰹」の句が有名)は、『野ざらし紀行』の波静本への序の中でこう言っている。
「富士川の捨子ハ惻隠の心を見えける。かかるはやき瀬を枕としてすて置けん、さすがに流よとハ思ハざらまし。身にかふる物ぞなかりき。みどり子はやらむかたなくかなしけれどもと、むかしの人のすて心までおもひよせてあはれならずや。」
あるいは濁子本の後書きでこう言う。
「富士の捨子ハ其親にあらずして天をなくや。なく子ハ独りなる往来いくばく人の仁の端をかみる。猿を聞人に一等の悲しミをくはへて今猶三声のなみだたりぬ。」
いつ終わるともしれぬ生存競争の厳しい自然の掟は、ただ泣くよりほかにどうしようもない。しかしそれを悲しみ、哀れむところに、人間らしさが、「仁」の発端がある。
大井川越る日は、終日雨降りければ、
秋の日の雨江戸に指おらん大井川 ちり
オーイガワこゆるひは、ひねもすあめふりければ、
あきのひのあめエドにゆびおらんオーイガワ ちり
徳川幕府は、敵の侵略を防ぐために、大きな川にあえて橋を架けなかったといわれ、大井川は「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と言われるくらい、東海道の難所の一つだった。芭蕉もここで川止めをくらったようだ。
ここでふたたび「ちり」が登場する。芭蕉の弟子で旅に同行したのだが、この名前も結局ここが最後となる。
この句は、7、8、5で三文字ほど字余りである。当時字余りは一種の流行で、これより少し前の天和の頃には芭蕉も
櫓の声波をうって腸氷る夜や涙
というような10、7、5の五字も字余りの句を詠んだりしていた。
もっとも、この程度のものはまだ可愛いもので、同じ頃、伊丹の上島鬼貫を中心とするグループは「伊丹流長発句」と称し、十文字くらい字余りになるような句を詠んでは,一世を風靡していた。それは、
踊子に穴あらば数珠につないで後生願わんものを 百丸
あたご火や江戸鬼灯めせところてんものまいれ 青人
田の中に棒の一本立ちたるは鵙をおどすか千の字か 馬桜
といったものだ。ただ字余りというだけでなく、発想そのものも奇抜で、シュールともいえる。
踊り子に穴というと、ちょっときわどいが、それを数珠にして釈教に逃げるあたりはさすがだし、百丸という俳号は人丸(=人麻呂)のパロディーだろう。
「あたご火」は、西山宗因の句に、
天も酔へりけにや伊丹の大燈籠
とあるように、伊丹の愛宕神社の祭で赤々と灯す大燈籠のこと。それに江戸のホオズキを連想したもの。青人ももちろん赤人のパロディー。
「田の中に」の句は判じ物のようなもので、田の中は十。それに一本棒を引くと千の字になる。田の中に棒が一本立っているのは、それは千の字か、鵙を嚇すための案山子なのか、という意味。馬桜は馬肉が桜肉と呼ばれているところから取ったのだろう。仏教色の強い風雅の世界で、あえて肉食など殺生を匂わせる俳号をつけるのは、反骨精神か。
いずれにせよ、これらの句は、本来の俳諧というものは、今日の俳句の常識では計れないほどの幅の広さがあったことを物語る。
『野ざらし紀行』の時代より十年くらい前、延宝4(1676)年頃から大流行した「談林」の俳諧は、連歌の式目(ルール)を杓子定規に守るのではなく、式目の裏をかいた、いわば法に抜け道を作るような作風をはやらせた。
たとえば、宗因独吟「口まねや」の巻の初裏七句目に、
過がてにする西坂の春
有明のおぼろおぼろの佐夜の山 宗因
という句がある。内容的には佐夜の中山を朝未明に越えると、残月がおぼろで、このまま春の金谷の西坂は越えがたい(もっとここにいたい)。という意味になる。ただ、それだと俳言を一句に一語入れなくてはならないという貞門以来のルールに抵触することになる。そこで、この有明は有明行灯、「ありあかし」のことだよということで、ルールを遁れることになる。そして、佐夜を佐夜と読ますことで、地名ではなく、一般名詞としての夜のことになり、宿屋で行灯がぼんやりと灯り、西坂を過ぎかねて春を楽しむという、江戸の街道のリアルな姿となる。
ただ、宗因流の俳諧の場合、
関の戸をさそひし人は出でやらで
有明の月さやの中山
藤原定家
の歌を證歌としており、卑俗な情景を描くにも必ず證歌をとり、古歌の情を持たせることが必須とされていた。
しかし、こうした談林風が庶民に引き継がれてゆく過程で、ややこしい證歌のルールはすたれてゆくことになった。芭蕉はその中で、発句のみ古典の本意本情を実質的に踏まえて作ることで、古典との連続性と品位を維持しようとしたといってもいいだろう。
芭蕉がこの後『野ざらし紀行』の旅で名古屋に行ったとき、名古屋の俳諧師たちと詠むことになった『冬の日』の中の
たぞやとばしる笠の山茶花
有明の主水に酒屋作らせて
の句も、有明を人の呼び名に用いて秋の句にしてしまっている。これも、人名が人倫に当るかどうか曖昧な上、本名ではなく、そう呼ばれている程度の通称であるところで、二重にかいくぐっている。
こうした中で字余りも流行したのだろう。というのも、室町時代に作られた連歌の式目(應安5(1372)年の『應安新式』と享徳元(1452)年に追加された『新式今案』が正式な式目とされている)には「字余り」についての規定がないからだ。式目に字余りについて何も書かれてない以上、何十字余らせようが違反にはならないというわけだ。サッカーでいう「マリーシア(悪知恵)」に近いかもしれない。
とはいえ、芭蕉の句は二字、三字の字余りでもかなり長く感じる。
芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな
猿を聞く人捨子に秋の風いかに
そしてこのあと『野ざらし紀行』に出てくる
三十日月なし千歳の杉を抱く嵐
手にとらば消えん涙ぞあつき秋の霜
狂句木枯らしの身は竹斎に似たるかな
といった句は、字余りにしてもなお心余って言葉足らずの感がある。字余りでいながら字足らずという不思議な句だ。これに対し、ちりの句は芭蕉のような切羽詰まった緊迫感もなく、ただ流行に乗って長くしただけという感が残り、芭蕉との力量の差は歴然としている。
馬上吟
道のべの木槿は馬にくはれけり
バジョーギン
みちのべのムクゲはウマにくわれけり
木槿といえば朝に咲いてはその日のうちに萎むはかない命を象徴する花でもあるが、白楽天が「木槿は一日にして自ら栄となす」と歌っているように、命の短さは決して哀れむべきことではない。むしろ、「朝に道を聞きては夕に死すとも可なり」という『論語』の言葉にもあるように、短い命を天寿とこころえて生きている花だ。長い短いは相対的なもので、人生五十年だろうが百年だろうが、あっという間といえばあっという間で、悠久の時の流れからすれば、あまりに短い。それは木槿の花の命とさして変わらない。
しかし、この木槿は自然に萎んだのではない。短い花の命の、その短い天寿を待たずして、突然馬に食われてしまったのだ。
木槿を食ったのは、ここでは芭蕉自身の乗っている馬だ。それだけに、木槿の死は他人事ではなく、自分自身の罪の意識となって、心の中にじわじわと染み込んでくる。はかない命の木槿もまた芭蕉自身の姿かもしれない。誰だっていつ死ぬかわからない身だ。馬も自分かもしれないし、木槿も自分かもしれない。人間は常にその両面をもっている。そんな心の一瞬の揺れ動きが、この句の生命だ。ただ木槿を哀れむだけなら、単なる感傷にすぎない。
馬が木槿を食ったのは、ほんの一瞬の出来事だった。しかし、その一瞬の驚きは一瞬で終らず、悲しさと罪の意識が交錯したまま、どこまでもつきまとってくる。それが、この句の不気味な余韻となっている。
馬に悪気があったわけではない。芭蕉に悪気があったわけでもない。生きてゆくというのはそういうことだ。誰だって生きてゆくためには他人を押し退けていかなくてはならないし、誰だって毎日のようにたくさんの生き物を殺して食っている。そんなことをいちいち考えては生きてゆけないから、何ごともなかったかのように通りすぎてゆく。しかし、眼前の事は消えることはない。道のべの木槿は馬に食われたのだ。
二十日余のつきかすかに見えて、山の根際いとくらきに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽驚く。
馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり
はつかあまりのつきかすかにみえて、やまのねぎわいとくらきに、バジョーにむちをたれて、スーリいまだケーメーならず。トボクがソーコーのザンム、サヤのナカヤマにいたりてたちまちおどろく。
うまにねてザンムつきとーしチャのけぶり
富士川の捨て子や馬に食われた木槿を残し、芭蕉の旅は続く。
馬上の吟でもって、芭蕉の旅が馬に乗っての旅だったということもわかった。芭蕉の旅がいくらハイペースだとしても、それは芭蕉が忍者で特別歩くのが早かったということではない。小夜の中山を越える日も早朝から馬に乗っての旅だった。小夜の中山といえば、西行法師の
年たけて又こゆべきと思いきや
命なりけり小夜のなかやま
の歌で名高い。
二十日余のつきかすかに見えて、山の根際いとくらきに、馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず。杜牧が早行の残夢、小夜の中山に至りて忽驚く。
杜牧の『早行』という詩は、今日ではあまり聞かないし、漢詩の名詩撰のようなものにもほとんど取り上げられていないが、当時は有名だったのだろうか。それは、こういう詩だ。
早行
垂鞭信馬行 数里未鶏鳴
林下帯残夢 葉飛時忽驚
霜凝孤鶴迥 月暁遠山横
僮僕休辞険 時平路復平
鞭を下にたらし、ただ馬が行こういするがままにまかせ、
数里ほどやって来たのだが、未だ鶏鳴の刻には程遠い。
林の下に明け方の夢の続きをぼんやりと漂わせていたのだが、
落ち葉の飛び散る音にはっと驚き目がさめた。
降りた霜がかちんかちんに固まり、ひとりぼっちの鶴がはるか彼方に見え、
暁の月は遠い山の端に横たわる。
召使の男はけわしい顔をして休もうと言う。
それもいいだろう。時は平和そのもので、道もまた同じように平和そのものだ。
これを読めば、「月かすかに見えて、山の根いとくらきに」は「月暁遠山横」、「馬上に鞭をたれて、数里いまだ鶏鳴ならず」は「垂鞭信馬行、数里未鶏鳴」、「早行の残夢」は「林下帯残夢」、「忽驚く」は「葉飛時忽驚」という具合に、この文章のほとんどが杜牧の詩からの引用だということがわかる。
鶏鳴というのは鶏鳴の刻のことで、夜明けの前後を指す。この時刻は気流の関係で音が遠くに届きやすくなるため、鶏をはじめ無数の鳥が遠くの仲間に向けて声を発する。かって人はそうした鳥の声で自然に目が醒めていたのであろう。その鶏鳴を待たずして旅立つというのは、文字通り「早行」だ。長い距離を急がねばならない時は、そうしたのであろう。何やら切羽つまったあわただしい旅の中で昨日までの悪夢を思い起こしながら、ふと気がつくと静寂につつまれた自然るぶしぜんの景色の中で、今までのことがみな迷いであり夢にすぎなかったことに気付く。天地は人事にかかわりなく悠久の時を刻み、何も変わったことはない。天地自然の「道」はあくまで平かだ。
馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり
目覚めてみると、煩悩の残夢の月は遠く煙に霞み、静かに消えて行く。
さて、この句は杜牧の「早行」の興を借りているとともに、当然芭蕉の敬愛してやまぬ西行法師の歌もふまえていたであろう。しかし、この句から直接西行の歌には結びつかない。むしろ、それよりも遥かに古い壬生忠峯の歌の方が、この句に近そうだ。
東路やさやの中山さやかにも
見えぬ雲居に世をや尽くさむ
壬生忠峯
峠というのは国と国の境であるとともに、生と死の境も暗示する。死出の山を越えてゆく際の、この世とあの世との境目だ。小夜の中山もまた、都を離れ、東国へ落ちてゆく異界の入り口だ。これからどうなるのかわからない異界で、一体どうやって暮らしていゆくのか、そんな不安の歌だ。
西行法師もまた、若い頃に出家し、鈴鹿の山にうき世をふり捨て、小夜の中山を越え、関東から東北にかけて旅をして歩くこととなった。そんな若い頃のことを思い出しつつ、ふたたび年老いて小夜の中山を越える。その間に世の中はすっかり変わり、院政時代から平家の栄華と滅亡といっためまぐるしい時の流れを見てきた。数々の語り尽くせぬ悲劇を目のあたりにしながら、ふたたびこうして小夜の中山を東に下ってゆく。異界の入り口をかつて下ったはずなのに、またそこにやって来る。つまり生きていたのだ。
「命なりけり」─それはここまで生きて来れてよかったという感激であると同時に、人は何度こうして生死の境界を越えて行くのか、という気持ちも込められているように思える。小夜の中山は一回限りの出来事ではなく、人はそれを永遠に反復するのだ。それは、永劫回帰といってもいいかもしれない。
芭蕉もまた、そんな西行のことを思い浮かべながら、小夜の中山を越えて行く。秋十年で既に故郷となった江戸を離れ、これから行く道は雲居ならぬ茶の煙にさやかに見えない異界だ。具体的にどこかは、この後を読めばすぐにわかる。(つづく)