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野ざらし紀行
─異界への旅─
(ver.2)

ゆきゆき亭 こやん



前編

1、ざらしをこころ

 千里せんり旅立たびだちて、路粮みちかてをつつまず、三更月下さんかうげっか無何むかいるいひけむ、むかしのひとつえにすがりて、貞享じょうきょう甲子きのえね秋八月あきはちがつ江上かうじゃう破屋はおくをいづるほどかぜこゑそぞろ寒気さむげなり

 ざらしをこころかぜのしむかな
 あき十年却ととせかへって江戸えどさす故郷こきゃう

 センリにたびだちて、みちかてをつつまず、サンコーゲッカムカにいるといーけむ、むかしのひとのつえにすがりて、ジョーキョーきのえねあき8がつコージョーのハオクをいづるほど、かぜのこえそぞろさむげなり。

 のざらしをこころにかぜのしむみかな
 あきととせかえってエドをさすコキョー

千里せんり旅立たびだちて、路粮みちかてをつつまず、三更月下さんかうげっか無何むかいるいひけむ、

 「千里せんり」といっても、文字もじどおり4せんキロという意味いみではない。漢文かんぶん常套句じょうとうくで、「千里せんりこう」とか「千里せんりほか」とかいうふうに、はるかにとおみちのりを意味いみする。『おく細道ほそみち』に「前途三千里ぜんとさんぜんりのおもひむねふさがりて」とあるのとおなじだ。路粮みちかての「かて」は「かて」とおなじで、たび行軍こうぐんのさいの食糧しょくりょうをいう。「三更さんこう」というのは時間じかんあらわす言葉ことばで、真夜中まよなか意味いみする、このあたりの言葉ことばは『江湖風月集こうこふうげつしゅう』(憩松坡けいずんばせん)の偃渓広聞えんけいこうぶん和尚おしゃうつぎ詩句しくをふまえたものといわれている。

 路不齎粮笑復歌  三更月下入無何

 食糧しょくりょうたずにわらってうたみちけば
 真夜中まよなかつきした無何有むかうきょうはい

 無何むかというのは本来文字ほんらいもじどおり「なにもない」という意味いみで、「無何有むかうきょう」もそのままめば「なにもないさと」という意味いみになる。てんくような岩峰がんぽう遥々ようようながれる大河たいが中国ちゅうごく山水画さんすいがえがかれるような景色けしきは、人間にんげんせつけないような広大こうだい大地だいちだ。荒涼こうりょうとしているがゆえに、人間にんげんはいることのなかった、そんな自然しぜんのままの場所ばしょだ。
 焼畑やきはたをすれば森林しんりんうしなわれ、森林しんりんうしなわれれば洪水こうずいこる。洪水こうずいおさえるために人間にんげん国家こっかつくり、治水ちすいおこなう。国家こっか圧政あっせい重税じゅうぜいみ、飢饉ききん戦争せんそうもととなる。
 それは、前近代的ぜんきんだいてき社会しゃかいひとつの宿命しゅくめいだった。農耕のうこう開始かいし潅漑農法かんがいのうほう発明はつめいなど、あたらしい技術ぎじゅつ一時的いちじてきには人間にんげんゆたかさをもたらした。しかし、こうした技術革新ぎじゅつかくしんによる生産力せいさんりょく向上こうじょうは、きわめて緩慢かんまんなテンポでしかおこらず、そのあいだ人口じんこうえることで、結局生産けっきょくせいさん余剰分よじょうぶんくされてしまう。こうしたかえしが、文明ぶんめい無力むりょく人知じんち限界げんかいとされ、つね自然しぜんへの回帰かいきへのあこがれをんできた。
 今日こんにちはどうかというと、それもむずかしい問題もんだいである。たしかかに今日こんにちでは、加速かそくする技術革新ぎじゅつかくしん少子化しょうしか同時どうじおこったことで、先進諸国せんしんしょこく未曽有みぞうゆたかさを実現じつげんしている。しかし、それは膨大ぼうだい資源しげん浪費ろうひするもので、人類じんるいがもし資源しげん循環じゅんかん(リサイクル)という問題もんだい解決かいけつできないなら、いますぐということはないにせよ、長期的ちょうきてきには終息しゅうそくしてゆくことになるだろう。最終的さいしゅうてきに、あるときリサイクル革命かくめいおこり、低人口ていじんこう高度消費社会こうどしょうひしゃかい安定あんていするのか。それとも資源しげん使つかたして近代以前きんだいいぜん逆行ぎゃっこうするのか。それはまだわからない。
 そんななかにあって、人間にんげん容易よういちかづくことのできないようなきびしい自然しぜん景色けしきのなかに、老荘ろうそうすくいをもとめた。なにたず、深夜しんやつきした広漠こうばくたる世界せかい夢見ゆめみる。そんなおもいで芭蕉ばしょうたびたのだった。

むかしのひとつえにすがりて、

 「むかしのひとつえにすがりて」とあるように、このたび芭蕉ばしょう古典こてん風雅ふうがへの回帰かいき意図いとしている。
 正岡子規まさおかしきが「貞門ていもん洒落しゃれ談林だんりん滑稽こっけい」と一括いっかつして以来いらい貞門ていもん談林だんりん俳諧はいかいはただ諧謔かいぎゃく追求ついきゅうするだけのものであるかのような偏見へんけんられることがおおかった。しかし「蕉風しょうふう」の確立かくりつとは、けっしてたんなるわらいの俳諧はいかい真面目まじめ芸術げいじゅつたかめたといった意識いしきおこなわれたのではない。そうした意識いしき正岡子規以降まさおかしきいこう近代俳人きんだいはいじん意識いしきなのである。
 ユーモアというのはどこのくにでも文学ぶんがくくべからざる要素ようそとしてみとめられているし、わらいだけを卑下ひげしたり、芸術げいじゅつから排除はいじょしたりするのはむしろ不自然ふしぜんだ。
 松永貞徳まつながていとくによってひらかれた貞門ていもん俳諧はいかいというのも、けっしてただ面白おもしろければいいという理由りゆう駄洒落だじゃれきょうじていたのではない。むしろ、貞門ていもん俳諧はいかい本質ほんしつは「俗語ぞくご連歌れんが」というところにあった。基本きほんはむしろ中世ちゅうせい連歌れんがなのである。俗語ぞくごまじえながらもあくまで品性ひんせいとさない、むしろ貴族趣味きぞくしゅみ理想りそう俳諧はいかいなのである。
 掛言葉かけことば縁語えんごなどの伝統的でんとうてき和歌わか技法ぎほう習得しゅうとくや、連歌れんが言葉ことば変幻自在へんげんじざいにあやつる機知きちきそ要素ようそ重要じゅうようなのであり、たんなる駄洒落だじゃれとは次元じげんをことにする。
 しかし、それは上品じょうひんではあるものの、実際じっさい江戸えど庶民しょみん生活感覚せいかつかんかくからすれば、浮世離うきよばなれした絵空事えそらごと世界せかいおちいってゆく傾向けいこうっていた。
 たとえば、芭蕉ばしょう貞門時代ていもんじだい発句ほっく

 はなにあかぬなげきやこちの歌袋うたぶくろ
 春風はるかぜにふきわらはなもがな

などをとってみても、「あかぬ」を「かぬ」「かぬ」にけたり、「こち」を「こっち」と「東風こち」にけたりするあたりは見事みごとだが、さくらした大宮人おおみやびとうたんであそぶといった趣向しゅこうは、当時とうじとしてもほとんどリアリティーがなかったであろう。「春風はるかぜに」のも、「笑」という字が漢文かんぶんでははなくという意味いみもちいられるところからの発想はっそうで、それにくと「す」とをけたものだが、たんはなく=はなわらうという以外いがいにこれといった意味いみはない。
 連歌師れんがし西山宗因にしやまそういん指導しどうのもとに延宝えんぽう4(1676)年頃ねんごろから一世いっせい風靡ふうびした談林だんりん俳諧はいかいは、むしろ庶民しょみん日常的にちじょうてき世界せかい解放かいほうしてゆくなかからまれたムーヴメントだ。そのためにあたらしい創作そうさく足枷あしかせになるふる連歌れんが式目しきもくをかいくぐる方法ほうほうかんがえることによって、事実上無効じじつじょうむこうにしていったのである。
 談林時代だんりんじだい芭蕉ばしょう

 はなえり袴来はかまきかたなさすおんな
 さかりじゃはなにソゾロ浮法師うきぼうしぬめりづま

さきくらべてみれば、ちがいは歴然れきぜんとしている。うた大宮人おおみやびとのような過去かこ空想くうそうではない、手近てぢかにある風俗ふうぞくなかから題材だいざいひろっている。こうしたリアリティーこそが談林だんりん本質ほんしつであり、滑稽こっけいはその外見がいけんにすぎない。
 しかし、こうした改革かいかくも、一歩間違いっぽまちがうと和歌わか連歌れんが風雅ふうが伝統でんとうから乖離かいりして、たんなる卑俗化ひぞくかにつながる危険きけんをはらんでいたことはたしかだ。実際じっさい談林だんりん江戸座えどざ点取てんと俳諧はいかいて、川柳せんりゅうへとながれてゆくもうひとつのみちひらいた。
 その一方いっぽうで、むしろ談林俳諧だんりんはいかい古典こてん風雅ふうがとの接点せってんさぐっていたのが、天和期以降てんなきいこう芭蕉ばしょう俳諧はいかいだった。
 このみち単純たんじゅんではなく、紆余曲折うよきょくせつんでいた。『ざらし紀行きこう』のたびもそうしたひとつのあたらしい俳諧はいかいの、古典こてん風雅ふうが談林だんりんのリアリティーとの融合ゆうごう模索もさくだった。それこそ西山宗因にしやまそういん提起ていきし、たせなかった課題かだいだったのだ。
 その宗因そういん天和てんな2(1682)ねんにこのり、芭蕉ばしょうはまさに宗因そういんなきあと俳諧はいかいのリーダーとなろうとしていた。また、各務支考かがみしこうの『俳諧十論はいかいじゅうろん』によれば、芭蕉ばしょうはこの時既ときすで古池ふるいけ完成かんせいさせており、すでつぎ俳諧はいかい新風しんぷうのイメージがある程度ていど出来上できあがっていたとすれば、むしろ天和調自体てんなちょうが、刺激しげきんだ談林調だんりんちょう俳諧はいかいから古風こふう回帰かいきするつぎ俳諧はいかいへの中継なかつぎの意味いみっていたのかもしれない。
 リアリティーはたしかに重要じゅうようだ。だれだって過去かこ世界せかいきることはできない。今生いまいきているこの現実げんじつからのがれることなんてできやしないのだ。しかし、ひとはどうきるべきか、人生じんせいとはなんなのか、ただいまだけよければそれでいいというわけでなく、なにかしら時代じだいえた価値かちというものをひともとめずにはいられない。
 古典こてん風雅ふうがたんなる過去かこ遺物いぶつではなく、そこには時代じだいえたなにかがあるはずだ。その時代じだいえたなにかを会得えとくしながら、いま現実げんじつ世界せかいんでゆけば、はその場限ばかぎりのものではなく、時代じだいえることができるのではないか。西行法師さいぎょうほうし宗祇法師そうぎほうし、それに、ちかいところでは宗因法師そういんほうし、いずれもたびき、たびんでいった。そうした古人こじんこころまなぶところに、芭蕉ばしょうのこのたび意義いぎがあった。
 もちろん現実げんじつには、江戸えどのローカルな俳諧師はいかいしから全国制覇ぜんこくせいはへの野心やしんがなかったとはいえないだろう。いずれにせよ、宗因そういんなきあと、リーダーをうしなった俳諧はいかいみずか再建さいけんしようという野望やぼうえていたにちがいない。

貞享じょうきょう甲子きのえね秋八月あきはちがつ江上かうじゃう破屋はおくをいづるほどかぜこゑそぞろ寒気さむげなり

 西暦せいれき1684ねん甲子きのえねとしで、十干十二支じっかんじゅうにし最初さいしょとしだ。
 この年、天和てんなねんから貞享じょうきょう元年がんねん改元かいげんされている。明治以前めいじいぜん天皇てんのう崩御ほうぎょがなくてもしばしば改元かいげんがなされ、とく甲子きのえねとし改元かいげんおおく、964ねん康保元年こうほうがんねん改元かいげんされて以来いらい幕末ばくまつの1864ねん元治元年げんじがんねんへの改元かいげんまで、甲子きのえね改元かいげんのなかったとしは1564ねん一回いっかいしかない。
 このねんは、いまでいえば天文学者てんもんがくしゃでもあり数学者すうがくしゃでもある安井算哲やすいさんてつ上表じょうひょうによって、貞享じょうきょう改暦かいれきまったとしでもあり、翌年よくとしからは生類哀しょうるいあわれみのれいはじまる。また、芭蕉ばしょう工事こうじかかわった小石川こいしかわ植物園しょくぶつえんができたのもこのとしだ。そして、このとし芭蕉ばしょうにとっても変革へんかくとしだった。延宝えんぽう5(1677)ねん俳諧はいかい宗匠そうしょうとして立机りっきした芭蕉ばしょうは、天和元てんながん(1681)ねんの7がつに『俳諧次韻はいかいじいん』を発表はっぴょうし、従来じゅうらい談林調だんりんちょうだっした独自どくじ俳諧はいかい確立かくりつしたが、その天和てんな大火たいか八百屋やおやしち大火たいか)といった不運ふうんもあり、おもうような興行活動こうぎょうかつどうができない状態じょうたいだった。しかし、こよみ甲子きのえねもどり、元号げんごうあらたまったことで、芭蕉ばしょうならずとも俳諧変革はいかいへんかく気運きうんたかまったことであろう。『ざらし紀行きこう』は『甲子吟行かっしぎんこう』ともばれ、まさに芭蕉ばしょうあたらしいしい俳諧はいかいもとめてのたびだった。
 「江上こうじょう破屋はおく」というのは深川ふかがわ芭蕉庵ばしょうあんのことで、この言葉ことばは『おく細道ほそみち』にもてくる。延宝えんぽう8(1680)ねん深川ふかがわいおりかまえた、当時とうじ桃青とうせい」を名乗なのっていた芭蕉ばしょうは、門人もんじん李下りかから芭蕉ばしょうおくられ、にわえたことから、芭蕉庵桃青ばしょうあんとうせい名乗なのり、やがて「芭蕉ばしょう」という定着ていちゃくしてゆくこととなった。芭蕉ばしょうとはバナナのことで、日本にほん本土ほんど気候きこうでははならず、おおきな秋風あきかぜやぶれやすいところから、もろいもの、繊細せんさいなものの象徴しょうちょうだった。その芭蕉庵ばしょうあん有名ゆうめいにしたのがつぎ発句ほっくだった。

   茅舎ぼうしゃかん
 芭蕉野分ばせをのわきしてたらいあめきくかな

 「茅舎ぼうしゃかん」とは杜甫とほの『茅屋ぼうおく秋風あきかぜやぶところうた』のイメージからたものだ。安禄山あんろくざんらんで「国破くにやぶれて山河在さんがあり、城春じょうはるにして草木深そうぼくふかし」となった長安ちょうあん都城とじょうはなれ、成都せいと浣花渓かんかけい茅葺かやぶ屋根やね草堂そうどうつくり、隠棲いんせいしていたところ、おりからのあきあらし屋根やねび、寝床ねどこ雨漏あまもりでびしょれになった、そのときの杜甫とほおもこし、芭蕉ばしょうもまた、にわ芭蕉ばしょうきつける台風たいふうかぜおとたらいちる雨漏あまもりの水音みずおと杜甫とほこころしのんだのだった。この芭蕉庵ばしょうあん天和てんな大火たいか隅田川すみだがわ対岸たいがんからわたってきたえてしまい、このとき芭蕉ばしょう隅田川すみだがわみ、なんのがれたという。芭蕉庵ばしょうあんは、このあとすぐに再建さいけんされ、それがここでいう「江上こうじょう破屋はおく」だ。
 かって芭蕉庵ばしょうあん由来ゆらいになった芭蕉ばしょうかぶおくった李下りかは、『ざらし紀行きこう』の旅立たびだちのさい、つぎのような発句ほっくおくっている。

 ばせを野分のわきその草履わらじかへよかし

 芭蕉野分ばしょうのわきのあの「茅舎ぼうしゃ」もたび草履わらじえるといいでしょう。それにたいして芭蕉ばしょうはこうす。

   ばせを野分のわきその草履わらじかへよかし
 つきともみぢをさけ乞食こつじき

 なぜならば、つき紅葉もみじさけむのが似合にあいの乞食こじきだからだ。

 のざらしこころかぜのしむかな
 あき十年却ととせかへって江戸えどさす故郷こきゃう

 この『ざらし紀行きこう』の旅立たびだちの二句にくは、これからたびへの力強ちからづよ決意けついあらわすというよりは、むしろたび不安ふあんかなしみに重点じゅうてんいている。
 「ざらしをこころに」までは力強ちからづよい。たとえ道端みちばたてようとも、それは覚悟かくごうえだ。しかしそう決意けついはしても、こころにはあきかぜがしみとおる。朱子学しゅしがくで「はる万物ばんぶつしょうあきむ」というように、 あきかぜ万物ばんぶつへとかわせる。にはさやかにえなくても、確実かくじつにやってくる。そんなこおるような感覚かんかくだ。
 鯉屋杉風こいやさんぷうは、この旅立たびだちのときに

 なんとなう柴吹しばふかぜあわれなり

というんでいる。あえて季語きごれずにんだのは、この送別そうべつで、「送別そうべつ」というテーマ自体じたい四季しきとはべつ独立どくりつして部立ぶたててされうるからであろう。
   もうひとつの「秋十年あきととせ」ののほうも、意味いみ明瞭めいりょうだ。まれそだった故郷こきょうはなれるには、たいていみなそれなりの事情じじょうがあり、故郷こきょうなつかしくおもっても、なかなかかえるにかえれない事情じじょうがあるし、かえったところで自分じぶん居場所いばしょがあるわけでもない。室生犀星むろうさいせいが、

 故郷ふるさととほくにありておもふもの
 そしてかなしくうたふもの
 よしや
 うらぶれて異土いど乞食かたゐとなるとても
 かえるところにあるまじや

うたったとおりである。
 本来ほんらい和歌わかにおいても連歌れんがにおいても、たびみやこはなれた大宮人おおみやびと故郷こきょうであるみやこ恋慕こいしたうようにむべきものとされていた。その意味いみで、芭蕉ばしょうたび本当ほんとう故郷こきょうかえたびなのだが、「かえって江戸えど指故郷さすこきょう」の一言ひとことで、故郷こきょうはなれ、都落みやこおちする古人こじんたび同様どうようのものになる。

2、富士ふじ

 せきこゆる雨降あめふりて、山皆雲やまみなくもにかくれたり。

 きりしぐれ富士ふじをみぬ面白おもしろ

 せきこゆるひはあめふりて、やまみなくもにかくれたり。

 きりしぐれフジをみぬひぞおもしろき

 ふゆになると、東京とうきょうからでも毎日まいにちのように富士ふじしろ姿すがたることができる。ところが、あき長雨ながあめころとなると、そうはいかない。芭蕉ばしょう貞享元じょうきょうがん(1684)ねんあき、『ざらし紀行きこう』のたび箱根はこねせきえたのも、そんなあめだった。やまなか雨雲あまぐもかれてしまうと、ほとんど白一色しろいっしょく世界せかいになってしまう。だが、そうしたしろ世界せかいも、詩人しじんにとっては無限むげんゆめえが恰好かっこうのキャンパスとなる。
 富士ふじといえば、芭蕉ばしょうは『士峯しほうさん』という俳文はいぶんなかで、

 「崑崙こんろんとほきき蓬莱ほうらい方丈ほうじょうせん地也ちなり。まのあたりに士峯しほうぬき蒼天そうてんをささえ、日月にちげつため雲門うんもんをひらくかと、むかふところ皆表みなおもてにして美景千変びけいせんぺんス。詩人しじんをつくさず、才士さいし文人ぶんじんげんをたち、画工がこう筆捨ふですててわしる。」

っている。
 富士ふじ姿すがた筆舌ひつぜつくしがたい。ただたままを表現ひょうげんしたとしても、それはたまたまその時見ときみえた富士ふじ姿すがたひとつにすぎず、富士ふじ魅力みりょくのすべてをみじか十七文字じゅうななもじ表現ひょうげんするには、描写びょうしゃというのはまったく無力むりょくなのだ。
 「富士ふじをみぬ面白おもしろき」というのは、そのことを逆説的ぎゃくせつてき表現ひょうげんしている。富士ふじきり彼方かなたることができない。そのえないなかに、芭蕉ばしょうはありとあらゆる富士ふじ姿すがたおもえがいたのだ。そして、読者どくしゃもまた、みずからのこころなかにある様々さまざまうつくしい富士ふじ姿すがたおもえがけばいい。
 荘周そうしゅうは『荘子そうじ斉物論せいぶつろんなかで、昭文しょうぶんのような後世こうせいにまでのこすようなこと名人めいじん演奏えんそうでも、ひとたびおとしてしまえば、演奏えんそうされなかった無数むすうおとがそこなわれる、とっている。陶淵明とうえんめいげんのないことをいつもかたわらにいてでていたという伝説でんせつまれるのも、こうしたかんがかたによるもので、ジョン=ケージの「四分三十三秒よんぷんさんじゅうさんびょう」にもつうじそうな逆説ぎゃくせつだ。
 「富士ふじ」の不死ふしにもつうじる。それだけに、このやま崑崙山こんろんさん蓬莱山ほうらいさん方丈山ほうじょうさんのような神仙郷しんせんきょう彷彿ほうふつさせる。そんな富士ふじ神々こうごうしさをえがそうとしたとき下手へた描写びょうしゃよりも白一色しろいっしょく世界せかいにあれこれ想像そうぞうをめぐらすほう賢明けんめいなのかもしれない。芭蕉ばしょう吉野よしの松島まつしま白河しらかわせきでも)のような名所めいしょでは、景色けしき圧倒あっとうされめなかったというポーズをりたがる傾向けいこうがある。(実際じっさい吉野よしの松島まつしまんでいる。)
 一年遅いちねんおくれて、貞享じょうきょう2(1685)ねん伊丹いたみ俳諧師はいかいし上島鬼貫うえしまおにつらおなじくあき富士ふじをこのようにんでいる。

 にょっぽりとあきそらなる富士ふじみね

 こうした「にょっぽりと」という俗語ぞくごまじえた描写びょうしゃ面白おもしろさは、芭蕉ばしょう数年後すうねんご

 うめにのっと山路やまじかな

にも匹敵ひってきしそうだが、富士ふじかんして、あえて描写びょうしゃきらったところに芭蕉ばしょうらしさがあらわれている。
 なお、箱根はこねというと中世連歌ちゅうせいれんが大成者たいせいしゃで、芭蕉ばしょう敬愛けいあいする宗祇法師そうぎほうし終焉しゅうえんでもあった。本来ほんらいふゆ季語きごである「時雨しぐれ」を「霧時雨きりしぐれ」という独特どくとく造語ぞうごでもって強引ごういんあきとした背景はいけいには、宗祇法師そうぎほうし代表作だいひょうさく

 にふるもさらに時雨しぐれ宿やどかな

おもこしての、鎮魂ちんこん意味いみめられていたのかもしれない。

3、芭蕉ばしょう富士ふじ

 何某なにがしちりといひけるは、このたびみちのたすけとなりて、よろづいたはりこころくしはべる。つね莫逆ばくげきまじはりふかく、朋友信ほうゆうしん有哉此あるかなこのひと

 深川ふかがは芭蕉ばせを富士ふじ預行あづけゆく    ちり

 なにがしチリといーけるは、このたびみちのたすけとなりて、よろずいたわりこころをつくしはべる。つねにバクゲキのまじわりふかく、ホーユーシンあるかなこのひと。

 フカガワやバショーをフジにあずけゆく    チリ

 富士山ふじさん実在じつざいやまながら神仙郷しんせんきょう面影おもかげつ。きりえない富士ふじとなればなおさら、想像上そうぞうじょう異界いかいであり、芭蕉ばしょうは「かえって故郷こきょう」となった江戸えどからべつ世界せかいへとたびだってゆく。
 このたび同行どうこうした千里ちりは、柏屋甚四郎かしわやじんしろうといい、これから芭蕉ばしょう大和やまと葛下郡かつげぐん竹内村たけのうちむら今日こんにち北葛城郡きたかつらぎぐん當麻町たいまちょう竹内たけのうち)の人だった。このたび千里ちりにとっても帰省きせいたびだった。意味いみ深川ふかがわから富士ふじ芭蕉翁ばしょうおうあずけにくというそのまんまの意味いみだが、本来旅立ほんらいたびだちちのさい深川ふかがわまれるべきを「きりしぐれ富士ふじをみぬ面白おもしろき」のあとくことによって二人ふたり姿すがたしろきりなかえてゆくかのようにおもえる。

4、富士川ふじがわ

 富士川ふじがはのほとりをゆくに、みっばかりなる捨子すてごの、哀気あわれげ泣有なくあり。このかは早瀬はやせにかけてうきなみをしのぐにたえず。つゆばかりいのちまつまにと、捨置すておきけむ、小萩こはぎがもとのあきかぜ、こよひやちるらん、あすやしほれんと、たもとより喰物くひものなげてとをるに、

 さるきくひと捨子すてごあきかぜいかに

いかにぞや、なんぢちちににくまれたるか、ははにうとまれたるか。ちちはなんぢにくむにあらじ、ははなんぢをうとむにあらじ。ただこれてんにして、なんぢさがのつたなきをなけ。

 フジガワのほとりをゆくに、みっつばかりなるすてごの、あわれげになくあり。このかわのはやせにかけてうきよのなみをしのぐにたえず。つゆばかりのいのちまつまにと、すておきけむ、こはぎがもとのあきのかぜ、こよいやちるらん、あすやしおれんと、たもとよりくいものなげてとーるに、

 さるをきくひとすてごにあきのかぜいかに

いかにぞや、なんじちちににくまれたるか、ははにうとまれたるか。ちちはなんじをにくむにあらじ、はははなんじをうとむにあらじ。ただこれテンにして、なんじのさがのつたなきをなけ。

富士川ふじがはのほとりをゆくに、みっばかりなる捨子すてごの、哀気あわれげ泣有なくあり

 富士川ふじがわ場面ばめんは『ざらし紀行きこう』の序盤じょばんひとつの山場やまばで、ひといのちおもさというずっしりとおも問題もんだいふくんでいる。
 この場面ばめんには、虚構きょこうではないかというせつもあるが、当時とうじ社会問題しゃかいもんだいでもあった。もちろん、当時とうじはまだ収容しゅうようし、そだてる、孤児院こじいんのようなシステムはなかった。江戸時代えどじだい子供こどもは、一般的いっぱんてきには無理むりなしつけや離乳りにゅうをさせず、のびのびと愛情あいじょうをもってそだてられていたものの、経済的けいざいてき貧窮ひんきゅうした家庭かてい満足まんぞく援助えんじょがあったわけでもなく、それに双子ふたごきらうなどの迷信めいしんからもけっしてすくなくなかった。はん幕府ばくふもこれにかねて、そだてるひと報奨金ほうしょうきんしたりもしたが、ぎゃくにそれを悪用あくようして、ひろってきては虐待ぎゃくたいやネグレクトをかえし、おかねだけもらおうというひともいた。
 そういう時代じだいにあって、この富士川ふじがわ虚構きょこう断定だんていできる根拠こんきょはどこにもない。かり虚構きょこうだとしても、せいぜいどこかほかところを、富士川ふじがわという歌枕うたまくらけて、ここにってきたという程度ていどのものだろう。いずれにせよ、芭蕉ばしょうはこれをかずにはいられなかったのだし、しばしばわれるようの「さるひと左勝ひだりかち、秋風あきかぜ」(句合くあわわせは縦書たてがきでぎょうけてくから、ひだりというと「」のちになる)といったような句合くあわせてき趣向しゅこう遊戯ゆうぎとみなすには、「」のいのちはそんなふうにもてあそぶほどかるくはない。(山本健吉やまもとけんきちともあろうひとがこのような発言はつげんをしているのは、しんがたいことだ。)
 それにしても、問題もんだいおもいだけに、文章ぶんしょうのほうもむずかしく、発句ほっくのほうも禅問答ぜんもんどうめいていて、なかなかすんなりと意味いみあたまはいってこない。とくに、このころの芭蕉ばしょうは、出典しゅってんのある言葉ことば多用たようする傾向けいこうにあった。だからまずはひとひとつの語句ごく出典しゅってん丁寧ていねいにたどっていったほうがいい。下手へたいま感覚かんかくかんがえると、誤解ごかいもとになる。

つゆばかりいのちまつまにと、捨置すておきけむ、小萩こはぎがもとのあきかぜ、こよひやちるらん、あすやしほれんと、たもとより喰物くひものなげてとをるに、

 「小萩こはぎがもとのあきかぜ」は『源氏物語げんじものがたり桐壺きりつぼ

 宮城野みやぎの露吹つゆふきむすぶかぜおと
   小萩こはぎがもとをおもひこそやれ

からきている。みっつになる光源氏ひかるげんじ小萩こはぎにたとえ、ははである桐壺きりつぼんだいま野分のわきかぜなかでこのおさな子供こどもがどうなってしまうのかかんがえてもみろ、というみかどうただ。
 最初さいしょ参内さんだいかたくなにこばんでいた桐壺きりつぼ更衣こうい母君ははぎみも、やがてはこのうたさとされてか、光源氏ひかるげんじ内裏だいりそだててもらうことになる。
 しかし、富士川ふじがわ光源氏ひかるげんじでもないし、芭蕉ばしょうもまたみかどではない。せいぜい食物しょくもつめぐんでやる程度ていどのことしかできない。それは、一時的いちじてきえをしのぐだけの応急措置おうきゅうそちではあっても、問題もんだい解決かいけつにはならない。

 さるきくひと捨子すてごあきかぜいかに

 『源氏物語げんじものがたり』の作者さくしゃ紫式部むらさきしきぶよりほんのすこした世代せだい赤染衛門あかぞめえもんという、一説いっせつには『栄花物語えいがものがたり』の前半部分ぜんはんぶぶん著者ちょしゃともいわれているひとがいる。『新古今集しんこきんしゅう』には彼女かのじょのこういううたおさめられている。

   野分のわきしたるあしたにおさなきひとをだにとはさりけるひと
 あらかぜはいかにと宮城野みやぎの
   小萩こはぎうえひとへかし

芭蕉ばしょうは『源氏物語げんじものがたり』だけでなく、このうた念頭ねんとういていたのではなかったか。
 そうかんがえれば、芭蕉ばしょう下五しもごの「あきかぜいかに」の意味いみおのずとわかってくる。芭蕉ばしょうは「さるひと」に、すてがこれからどうなってしまうのかをいかけたのだ。
 「さるひと」がだれか、ということについては、復本一郎ふくもといちろうせつにならい、さきの「三更月下入無何さんこうげっかむかにいる」のんだ広聞和尚こうぶんおしゃうということにしておこう。その広聞和尚こうぶんおしゃう詩句しく

 後夜聴猿啼落月  又添新寺一楼鐘

 夜明よあけにさるが、しずんでゆくつきかって次々つぎつぎすのがこえる。
 それにうかのようにあたらしいてらかねひびく。

  とあり、『江湖集鈔こうこしゅうしょう』には、「霊隠れいいんでさびしき猿声えんせいきぬ鐘声しょうせいきいたことはわすれまじきそ。猿声えんせい鐘声しょうせい無心むしん説法せっぽうたとゆるそ。無心むしん説法せっぽうきい省悟しょうごしたことはわすれまじきそとなり。」というちゅうがある。つきさるこえかなしさにさとりをひらいた広聞和尚こうぶんおしゃうなら、きっと気持きもちも理解りかいできるだろう、とおもい、芭蕉ばしょうはあえて広聞和尚こうぶんおしゃううたのだった。
 さるこえというと「ウキッキー」といたくなるが、ここでいうさるはテナガザルのことであって日本にほんさる(ニホンザル)ではない。漢文かんぶんではかって「えん」と「こう」は区別くべつされていて、「えん」というのは本来ほんらいテナガザルをさす言葉ことばだった。(これはmonkeyとapeの区別くべつちかい)テナガザルは夜明よあ前後ぜんご二時間にじかんくらいのあいだ大声おおごえで「ウォー,ウォッウォッウォッウォー」とながいてうたうようにき、テリトリーをらせう。それは、冥界めいかいからひびいてくるようなせつないこえで、て、人里離ひとざとれた山奥やまおく隠棲いんせいしているときにでもけば、まさに断腸だんちょうおもいだ。テナガザルは今でこそ海南島かいなんとうなどの中国最南部ちゅうごくさいなんぶ北限ほくげんだが、かっては長江流域ちょうこうりゅういきひろ生息せいそくしていたらしい。京都きょうと大徳寺だいとくじぞう牧谿もっけいの『観音猿鶴図かんのんえんかくず』のさるも、龍泉庵りゅうせんあんぞう長谷川等伯はせがわとうはくの『枯木猿猴図こぼくえんこうず』のさるもテナガザルだ。芭蕉ばしょう影響えいきょうけた狩野派かのうはにあっても、テナガザルの定番ていばんだったし、江戸後期えどこうき円山派まるやまはがニホンザルのえがくようになるまでは、さるというとテナガザルのだった。
 さるこえは、ふるくはすでに『楚辞そじ』にも

 雷填填兮雨冥冥  猿啾啾兮狖夜鳴

 かみなり重々おもおもしくデンデンとり、あめはすべてをおおうかのようにメンメンとる。
 さるはしょうしょうと、ゆうくろさる)は夜鳴よるなく。

とあり、六朝時代ろくちょうじだい無名詩むめいしにも

 巴東山峡巫峡長  猿鳴三声涙沾裳

 巴東はとう山峡さんきょう巫峡ふきょうながく、
 さるのたびたびこえなみだ裳裾もすそらす。

うたわれている。
 さるこえさとりをひらいた広聞和尚こうぶんわじょうもまた、遁世人とんせいにんであり、いわばからてられた「」だ。秋風あきかぜっているだけの運命うんめいをどうめるべきかもっておられるでしょう、ということだ。
 この「さるひと」のを、ただやまなかでのんびりさるこえいている趣味人しゅみじんなにができるのか?いのちのほうがずっとおもいではないか!とかいするひともいるが、それは過去かこ伝統でんとう決別けつべつした近代的きんだいてき見方みかたであって、芭蕉的ばしょうてきではない。それでは、「さるこえ」に感銘かんめいし、断腸だんちょうおもいになった古人こじんたちは一体何いったいなんだったのか、ということになってしまう。古人こじんこころうやまい、継承けいしょうしつつ、リアルな現実げんじつせっしていくというのが、芭蕉ばしょうのやりかただ。このはあくまで、さるひとにどうすればいいのかいかけているのだ。せいへの執着しゅうちゃくてるのが仏教ぶっきょうおしえなら、はそのままくべきなのか?いや、そうではなく、殺生せっしょうきんじるように、すべていのちあるものをいつくしむのがしん仏教ぶっきょうなのか?
 しかし、もはやこのにいない広聞和尚こうぶんおしょういかけても、こたえはない。芭蕉ばしょう自分じぶんなりにひとつのこたえす。

 いかにぞや、なんぢちちににくまれたるか、ははにうとまれたるか。ちちはなんぢにくむにあらじ、ははなんぢをうとむにあらじ。ただこれてんにして、なんぢさがのつたなきをなけ。

 このこたえ意外いがいおもうかもしれない。今日こんにち常識じょうしきではたしかに「」はてたおや犯罪以外はんざいいがいなにものでもない。しかし、それはわれわれが避妊ひにん方法ほうほうっているし、わがくにでは堕胎だたい事実上許じじつじょうゆるされている。そのため、子供こどもかず自由じゆうめることができる。意図いとせざる子供こどもまれたとしても、すくなくとも憲法けんぽう生存権せいぞんけんもとづいた最低限さいていげん公的援助こうてきえんじょけられる。子供こどもはどんな場合ばあいでもそだてられないはずはない、という前提ぜんていがあってこそ、「」はゆるすべからざる殺人行為さつじんこういとして認識にんしきされるようになったのだ。
 また、この文章ぶんしょう虚構きょこうとする根拠こんきょとして、正常せいじょう感覚かんかく人間にんげんだったら、ものげてとおぎるなんてことをせずに、しかるべきところにとどけたはずだ、というひともいるが、それも孤児こじ収容しゅうようする施設しせつととのったうえ行政ぎょうせいがそれに責任せきにんつことを義務ぎむづけられたいま時代じだい感覚かんかくほかならない。
 この意識いしき芭蕉ばしょう時代じだいもとめるのはやめたほうがいい。時代じだいがあまりにもちがうのだ。運命うんめいであり、「てん」だったのだ。そこからむしろ、「」がすべての人間にんげん運命うんめいでもあることにおもいをせることが重要じゅうようだったのだ。
 すべてのものはこの地球ちきゅうというかぎられた空間くうかんらすしかない。それゆえ、きるということは、有限ゆうげん土地とち有限ゆうげん資源しげん有限ゆうげん生態系せいたいけい、そのなかわることのない椅子取いすとりゲームをかえすようなものだ。ゆたかになるものがいれば、そのぶんかならほろびてゆくものがいる。そんな生存競争せいぞんきょうそうかえしは、今日こんにちのわれわれも例外れいがいではない。
 今日こんにちのわれわれは、膨大ぼうだい地下資源ちかしげん消費しょうひすることによって、生産性せいさんせい飛躍的ひやくてき向上こうじょうさせ、未曽有みぞうゆたかさをった。しかし、その資源しげん有限ゆうげんであることにはわりない。
 近代化初期きんだいかしょき段階だんかいではこのゆたかさは人口じんこう爆発ばくはつんだが、一定以上いっていいじょう生産技術せいさんぎじゅつ高度化こうどかすると、むしろ高度こうど生産技術せいさんぎじゅつ維持いじするためには、高度こうど教育きょういくけたしつたか労働力ろうどうりょく不可欠ふかけつとされるため、子供一人当こどもひとりあたりの教育投資額きょういくとうしがく急速きゅうそくふくがり、少子化しょうしかむかった。これによって、われわれは19世紀せいきのマルサスの予言よげんはんし、生産力せいさんりょく向上こうじょう少子化しょうしか同時どうじにおきるという状況じょうきょうしょうじ、もはや飢餓きがとなわせの生活せいかつ過去かこのものとなり、はもはや社会問題しゃかいもんだいではなく、たんなる犯罪はんざいとなった。
 しかし、これはほんの半世紀はんせいきばかりの現象げんしょうで、先進諸国せんしんしょこく限定げんていされた出来事できごとにすぎない。いまだに世界せかいくにおおくは、近代以前きんだいいぜん段階だんかいや、近代化初期きんだいかしょき人口爆発じんこうばくはつ段階だんかいにとどまり、飢餓きがとなわせの生活水準せいかつすいじゅんにある。
 たとえば、人身売買じんしんばいばいなども、われわれの感覚かんかくからすれば、うほうもうほうだが、るほうもるほうだとおもうかもしれない。だが、いまでも世界せかい一部いちぶでは、子供こどもをこのまま餓死がしさせるよりは、どこかでびてくれる希望きぼうのある選択肢せんたくしとして、人身売買じんしんばいばい成立せいりつしている。
 しかも、今日こんにち先進諸国せんしんしょこく繁栄はんえいも、有限ゆうげん地下資源ちかしげん依存いぞんしているため、その根底こんてい脆弱ぜいじゃくだ。そのゆたかさをもたらす技術ぎじゅつ文化ぶんか地球上ちきゅうじょうすべてにわたるには、まだまだ時間じかんがかかる。それまでに資源しげん枯渇こかつしないという保障ほしょうはない。結局けっきょく人類じんるい繁栄はんえい有限ゆうげん地球ちきゅううえっているもので、有限ゆうげん資源しげんうばってきていることをわすれてはならない。
 われわれはたしかに自分じぶん子供こども河原かわらるほどまずしくはない。しかし、そのかわりにおおくの難民なんみん野性生物やせいせいぶつている、ということもわすれてはならない。芭蕉ばしょうにわずかなほどこものをしてとおりすぎるしかなかった。それは、今日こんにちのわれわれが、テレビで飢餓難民きがなんみん姿すがた古着ふるぎおくってやるくらいしかできないし、うしなわれゆく自然しぜん姿すがたになすすべもない、そんなにがにがしさにちかいのではないか。
 すべては生存競争せいぞんきょうそうだから仕方しかたがないといって放置ほうちすべきなのか。そんなことはない。かなしいし、だれもそれをほおってはおけない。だからといって自分じぶんってそだてればいいかというと、このにいる膨大ぼうだいかず一人ひとりかかむなんてできやしない。そのやりのないさけびが、さるさけびとかさなり、「さるひと」のとなった。
 談林時代だんりんじだいから芭蕉ばしょうとともに俳諧はいかいつくってきた山口素堂やまぐちそどう(「には青葉山あおばやまほととぎす初鰹はつがつお」の有名ゆうめい)は、『ざらし紀行きこう』の波静本はせいぼんへのじょなかでこうっている。

 「富士川ふじがは捨子すてご惻隠そくいんこころえける。かかるはやきまくらとしてすておきけん、さすがにながれよとハおもハざらまし。にかふるものぞなかりき。みどりはやらむかたなくかなしけれどもと、むかしのひとのすてこころまでおもひよせてあはれならずや。」

 あるいは濁子じょくしぼん後書あとがきでこうう。

 「富士ふじ捨子すてごそのおやにあらずしててんをなくや。なくひとりなる往来わうらいいくばくひとじんたんをかみる。さる聞人きくひと一等いっとうかなしミをくはへて今猶いまなほ三声さんせいのなみだたりぬ。」

 いつわるともしれぬ生存競争せいぞんきょうそうきびしい自然しぜんおきては、ただくよりほかにどうしようもない。しかしそれをかなしみ、あわれむところに、人間にんげんらしさが、「じん」の発端ほったんがある。

5、大井川おおいがわ

 大井川おほゐがはこゆは、終日ひねもす雨降あめふりければ、

 あきあめ江戸えどゆびおらん大井川おほゐがは ちり

 オーイガワこゆるひは、ひねもすあめふりければ、

 あきのひのあめエドにゆびおらんオーイガワ   ちり

 徳川幕府とくがわばくふは、てき侵略しんりゃくふせぐために、おおきなかわにあえてはしけなかったといわれ、大井川おおいがわは「箱根八里はこねはちりうまでもすが、すにされぬ大井川おおいがわ」とわれるくらい、東海道とうかいどう難所なんしょひとつだった。芭蕉ばしょうもここで川止かわどめをくらったようだ。
 ここでふたたび「ちり」が登場とうじょうする。芭蕉ばしょう弟子でしたび同行どうこうしたのだが、この名前なまえ結局けっきょくここが最後さいごとなる。
 このは、7、8、5で三文字さんもじほど字余じあまりである。当時とうじ字余じあまりは一種いっしゅ流行りゅうこうで、これよりすこまえ天和てんなころには芭蕉ばしょうも 

  こゑなみをうってはらわたこほなみだ

というような10、7、5の五字ごじ字余じあまりのんだりしていた。
 もっとも、この程度ていどのものはまだ可愛かわいいもので、おなころ伊丹いたみ上島鬼貫うえしまおにつら中心ちゅうしんとするグループは「伊丹流長発句いたみりゅうながほっく」としょうし、十文字じゅうもじくらい字余じあまりになるようなんでは,一世いっせい風靡ふうびしていた。それは、

 踊子をどりこあなあらば数珠じゅずにつないで後生ごしゃうねがわんものを   百丸ひゃくまる
 あたご江戸鬼灯えどほほづきめせところてんものまいれ    青人あをんど
 なかばう一本立ひともとたちたるはもずをおどすかせんか  馬桜ばおう

といったものだ。ただ字余じあまりりというだけでなく、発想はっそうそのものも奇抜きばつで、シュールともいえる。
 おどあなというと、ちょっときわどいが、それを数珠じゅずにして釈教しゃっきょうげるあたりはさすがだし、百丸ひゃくまるという俳号はいごう人丸ひとまる(=人麻呂ひとまろ)のパロディーだろう。
 「あたご火」は、西山宗因にしやまそういんに、

 てんへりけにや伊丹いたみ大燈籠おほとうろ

とあるように、伊丹いたみ愛宕神社あたごじんじゃまつり赤々あかあかとも大燈籠おおとうろうのこと。それに江戸えどのホオズキを連想れんそうしたもの。青人あをんどももちろん赤人あかひとのパロディー。
 「なかに」のはんもののようなもので、なかじゅう。それに一本棒いっぽんぼうくとせんになる。なかぼう一本立いっぽんたっているのは、それはせんか、もずおどすための案山子かかしなのか、という意味いみ馬桜ばおう馬肉ばにく桜肉さくらにくばれているところからったのだろう。仏教色ぶっきょうしょくつよ風雅ふうが世界せかいで、あえて肉食にくしょくなど殺生せっしょうにおわせる俳号はいごうをつけるのは、反骨精神はんこつせいしんか。
 いずれにせよ、これらのは、本来ほんらい俳諧はいかいというものは、今日こんにち俳句はいく常識じょうしきでははかれないほどのはばひろさがあったことを物語ものがたる。
 『ざらし紀行きこう』の時代じだいより十年じゅうねんくらいまえ延宝えんぽう4(1676)年頃ねんごろから大流行だいりゅうこうした「談林だんりん」の俳諧はいかいは、連歌れんが式目しきもく(ルール)を杓子定規しゃくしじょうぎまもるのではなく、式目しきもくうらをかいた、いわばほうみちつくるような作風さくふうをはやらせた。
 たとえば、宗因独吟そういんどくぎんくちまねや」のまき初裏しょうら七句目ななくめに、

    すぎがてにする西坂にっさかはる
 有明ありあけのおぼろおぼろの佐夜さよやま     宗因そういん

というがある。内容的ないようてきには佐夜さや中山なかやま朝未明あさみめいえると、残月ざんげつがおぼろで、このままはる金谷かなや西坂にっさかえがたい(もっとここにいたい)。という意味いみになる。ただ、それだと俳言はいごん一句いっく一語いちごれなくてはならないという貞門以来ていもんいらいのルールに抵触ていしょくすることになる。そこで、この有明ありあけ有明行灯ありあけあんどん、「ありあかし」のことだよということで、ルールをのがれることになる。そして、佐夜さや佐夜さよますことで、地名ちめいではなく、一般名詞いっぱんめいしとしてのよるのことになり、宿屋やどや行灯あんどんがぼんやりとともり、西坂にっさかぎかねてはるたのしむという、江戸えど街道かいどうのリアルな姿すがたとなる。
 ただ、宗因流そういんりゅう俳諧はいかい場合ばあい

 せきをさそひしひとでやらで
    有明ありあけつきさやの中山なかやま
                   藤原定家ふじわらのていか

うた證歌しょうかとしており、卑俗ひぞく情景じょうけいえがくにもかなら證歌しょうかをとり、古歌こかじょうたせることが必須ひっすとされていた。
 しかし、こうした談林風だんりんふう庶民しょみんがれてゆく過程かていで、ややこしい證歌しょうかのルールはすたれてゆくことになった。芭蕉ばしょうはそのなかで、発句ほっくのみ古典こてん本意本情ほいほんじょう実質的じっしつてきまえてつくることで、古典こてんとの連続性れんぞくせい品位ひんい維持いじしようとしたといってもいいだろう。
 芭蕉ばしょうがこのあとざらし紀行きこう』のたび名古屋なごやったとき、名古屋なごや俳諧師はいかいしたちとむことになった『ふゆ』のなか

     たぞやとばしるかさ山茶花さんざか
 有明ありあけ主水もんど酒屋作さかやつくらせて

も、有明ありあけひともちいてあきにしてしまっている。これも、人名じんめい人倫じんりんあたるかどうか曖昧あいまいうえ本名ほんみょうではなく、そうばれている程度ていど通称つうしょうであるところで、二重にじゅうにかいくぐっている。
 こうしたなか字余じあまりも流行りゅうこうしたのだろう。というのも、室町時代むろまちじだいつくられた連歌れんが式目しきもく應安けいあん5(1372)ねんの『應安新式おうあんしんしき』と享徳元きょうとくがん(1452)ねん追加ついかされた『新式今案しんしきいまあん』が正式せいしき式目しきもくとされている)には「字余じあまり」についての規定きていがないからだ。式目しきもく字余じあまりについてなにかれてない以上いじょう何十字余なんじゅうじあまらせようが違反いはんにはならないというわけだ。サッカーでいう「マリーシア(悪知恵わるぢえ)」にちかいかもしれない。
 とはいえ、芭蕉ばしょう二字にじ三字さんじ字余じあまりでもかなりながかんじる。

 芭蕉野分はせをのわきしてたらいあめかな
 さるきくひと捨子すてごあきかぜいかに

そしてこのあと『ざらし紀行きこう』にてくる

 三十日月にそかつきなし千歳ちとせすぎあらし
 にとらばえんなみだぞあつきあきしも
 狂句木枯きょうくこがらしらしの竹斎ちくさいたるかな

といったは、字余じあまりにしてもなお心余こころあまって言葉足ことばたらずのかんがある。字余じあまりでいながら字足じたらずという不思議ふしぎだ。これにたいし、ちりの芭蕉ばしょうのような切羽詰せっぱつまった緊迫感きんぱくかんもなく、ただ流行りゅうこうってながくしただけというかんのこり、芭蕉ばしょうとの力量りきりょう歴然れきぜんとしている。

6、みちのべの木槿むくげ

   馬上吟ばじゃうぎん
 みちのべの木槿むくげうまにくはれけり

   バジョーギン
 みちのべのムクゲはウマにくわれけり

 木槿むくげといえばあさいてはそののうちにしぼむはかないいのち象徴しょうちょうするはなでもあるが、白楽天はくらくてんが「木槿むくげ一日いちにちにしてみずかえいとなす」とうたっているように、いのちみじかさはけっしてあわれむべきことではない。むしろ、「あしたみちきてはゆうべすともなり」という『論語ろんご』の言葉ことばにもあるように、みじかいのち天寿てんじゅとこころえてきているはなだ。ながみじかいは相対的そうたいてきなもので、人生五十年じんせいごじゅうねんだろうが百年ひゃくねんだろうが、あっというといえばあっというで、悠久ゆうきゅうときながれからすれば、あまりにみじかい。それは木槿むくげはないのちとさしてわらない。
 しかし、この木槿むくげ自然しぜんしぼんだのではない。みじかはないのちの、そのみじか天寿てんじゅたずして、突然馬とつぜんうまわれてしまったのだ。
 木槿むくげったのは、ここでは芭蕉自身ばしょうじしんっているうまだ。それだけに、木槿むくげ他人事たにんごとではなく、自分自身じぶんじしんつみ意識いしきとなって、こころなかにじわじわとんでくる。はかないいのち木槿むくげもまた芭蕉自身ばしょうじしん姿すがたかもしれない。だれだっていつぬかわからないだ。うま自分じぶんかもしれないし、木槿むくげ自分じぶんかもしれない。人間にんげんつねにその両面りょうめんをもっている。そんなこころ一瞬いっしゅんうごきが、この生命せいめいだ。ただ木槿むくげあわれむだけなら、たんなる感傷かんしょうにすぎない。
 うま木槿むくげったのは、ほんの一瞬いっしゅん出来事できごとだった。しかし、その一瞬いっしゅんおどろきは一瞬いっしゅんおわらず、かなしさとつみ意識いしき交錯こうさくしたまま、どこまでもつきまとってくる。それが、この不気味ぶきみ余韻よいんとなっている。
 うま悪気わるぎがあったわけではない。芭蕉ばしょう悪気わるぎがあったわけでもない。きてゆくというのはそういうことだ。だれだってきてゆくためには他人たにん退けていかなくてはならないし、だれだって毎日まいにちのようにたくさんのものころしてっている。そんなことをいちいちかんがえてはきてゆけないから、なにごともなかったかのようにとおりすぎてゆく。しかし、眼前がんぜんじじつえることはない。みちのべの木槿むくげうまわれたのだ。

7、小夜さや中山なかやま

 二十日余はつかあまりのつきかすかにえて、やま根際ねぎはいとくらきに、馬上ばじゃうむちをたれて、数里すうりいまだ鶏鳴けいめいならず。杜牧とぼく早行さうかう残夢ざんむ小夜さや中山なかやまいたりてたちまちおどろく。

 うま残夢ざんむ月遠つきとほちゃのけぶり

 はつかあまりのつきかすかにみえて、やまのねぎわいとくらきに、バジョーにむちをたれて、スーリいまだケーメーならず。トボクがソーコーのザンム、サヤのナカヤマにいたりてたちまちおどろく。

 うまにねてザンムつきとーしチャのけぶり

 富士川ふじがわうまわれた木槿むくげのこし、芭蕉ばしょうたびつづく。

 馬上ばじょうぎんでもって、芭蕉ばしょうたびうまってのたびだったということもわかった。芭蕉ばしょうたびがいくらハイペースだとしても、それは芭蕉ばしょう忍者にんじゃ特別歩とくべつあるくのがはやかったということではない。小夜さや中山なかやまえる早朝そうちょうからうまってのたびだった。小夜さや中山なかやまといえば、西行法師さいぎょうほうし

 としたけてまたこゆべきとおもいきや
   いのちなりけり小夜さやのなかやま

うた名高なだかい。

二十日余はつかあまりのつきかすかにえて、やま根際ねぎはいとくらきに、馬上ばじゃうむちをたれて、数里すうりいまだ鶏鳴けいめいならず。杜牧とぼく早行さうかう残夢ざんむ小夜さや中山なかやまいたりてたちまちおどろく。

 杜牧とぼくの『早行そうこう』というは、今日こんにちではあまりかないし、漢詩かんし名詩撰めいしせんのようなものにもほとんどげられていないが、当時とうじ有名ゆうめいだったのだろうか。それは、こういうだ。

   早行
 垂鞭信馬行  数里未鶏鳴
 林下帯残夢  葉飛時忽驚
 霜凝孤鶴迥  月暁遠山横
 僮僕休辞険  時平路復平

 むちしたにたらし、ただうまこういするがままにまかせ、
 数里すうりほどやってたのだが、いま鶏鳴けいめいこくには程遠ほどとおい。
 はやししたがたゆめつづきをぼんやりとただよわせていたのだが、
 おとにはっとおどろがさめた。
 りたしもがかちんかちんにかたまり、ひとりぼっちのつるがはるか彼方かなたえ、
 あかつきつきとおやまよこたわる。
 召使めしつかいおとこはけわしいかおをしてやすもうとう。
 それもいいだろう。とき平和へいわそのもので、みちもまたおなじように平和へいわそのものだ。

 これをめば、「つきかすかにえて、やまいとくらきに」は「月暁遠山横」、「馬上ばじゃうむちをたれて、数里すうりいまだ鶏鳴けいめいならず」は「垂鞭信馬行、数里未鶏鳴」、「早行そうこう残夢ざんむ」は「林下帯残夢」、「たちまちおどろく」は「葉飛時忽驚」という具合ぐあいに、この文章ぶんしょうのほとんどが杜牧とぼくからの引用いんようだということがわかる。
 鶏鳴けいめいというのは鶏鳴けいめいこくのことで、夜明よあけの前後ぜんごす。この時刻じこく気流きりゅう関係かんけいおととおくにとどきやすくなるため、にわとりをはじめ無数むすうとりとおくの仲間なかまけてこえはっする。かってひとはそうしたとりこえ自然しぜんめていたのであろう。その鶏鳴けいめいたずして旅立たびだつというのは、文字通もじどおり「早行そうこう」だ。なが距離きょりいそがねばならないときは、そうしたのであろう。なにやら切羽せっぱつまったあわただしいたびなか昨日きのうまでの悪夢あくむおもこしながら、ふとがつくと静寂せいじゃくにつつまれた自然るぶしぜん景色けしきなかで、いままでのことがみなまよいでありゆめにすぎなかったことに気付きづく。天地てんち人事じんじにかかわりなく悠久ゆうきゅうとききざみ、なにわったことはない。天地自然てんちしぜんの「みち」はあくまでたいらかだ。

 うま残夢ざんむ月遠つきとほちゃのけぶり

 目覚めざめてみると、煩悩ぼんのう残夢ざんむつきとおけむりかすみ、しずかにえてく。
 さて、この杜牧とぼくの「早行そうこう」のきょうりているとともに、当然芭蕉とうぜんばしょう敬愛けいあいしてやまぬ西行法師さいぎょうほうしうたもふまえていたであろう。しかし、このから直接西行ちょくせつさいぎょううたにはむすびつかない。むしろ、それよりもはるかにふる壬生忠峯みぶのただみねうたほうが、このちかそうだ。

 東路あづまぢやさやの中山なかやまさやかにも
    えぬ雲居くもゐをやくさむ
               壬生忠峯みぶのただみね

  とうげというのはくにくにさかいであるとともに、せいさかい暗示あんじする。死出しでやまえてゆくさいの、このとあのとの境目さかいめだ。小夜さや中山なかやまもまた、みやこはなれ、東国とうごくちてゆく異界いかいくちだ。これからどうなるのかわからない異界いかいで、一体いったいどうやってらしていゆくのか、そんな不安ふあんうただ。
 西行法師さいぎょうほうしもまた、わかころ出家しゅっけし、鈴鹿すずかやまにうきをふりて、小夜さや中山なかやまえ、関東かんとうから東北とうほくにかけてたびをしてあるくこととなった。そんなわかころのことをおもしつつ、ふたたび年老としおいて小夜さや中山なかやまえる。そのあいだなかはすっかりわり、院政時代いんせいじだいから平家へいけ栄華えいが滅亡めつぼうといっためまぐるしいときながれをてきた。数々かずかずかたくせぬ悲劇ひげきのあたりにしながら、ふたたびこうして小夜さや中山なかやまひがしくだってゆく。異界いかいぐちをかつてくだったはずなのに、またそこにやってる。つまりきていたのだ。
 「いのちなりけり」─それはここまできてれてよかったという感激かんげきであると同時どうじに、ひと何度なんどこうして生死せいし境界きょうかいえてくのか、という気持きもちもめられているようにおもえる。小夜さや中山なかやま一回限いっかいかぎりの出来事できごとではなく、ひとはそれを永遠えいえん反復はんぷくするのだ。それは、永劫回帰えいごうかいきといってもいいかもしれない。
 芭蕉ばしょうもまた、そんな西行さいぎょうのことをおもかべながら、小夜さや中山なかやまえてく。秋十年あきととせすで故郷こきょうとなった江戸えどはなれ、これからみち雲居くもいならぬちゃけむりにさやかにえない異界いかいだ。具体的ぐたいてきにどこかは、このあとめばすぐにわかる。(つづく)