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野ざらし紀行
─異界への旅─2
(ver.2)

ゆきゆき亭 こやん



8、神風かむかぜ伊勢いせ

 松葉屋風瀑まつばやふうばく伊勢いせありけるを尋音信たづねおとづれて、十日計とおかばかりあしをとどむ。腰間えうかん寸鐵すんてつをおびず。えり一嚢いちなうをかけて、十八じふはちたまたづさふ。そう塵有ちりありぞくににてかみなし。我僧われそうにあらずといへども、浮屠ふとぞくにたぐへて、神前しんぜんいることをゆるさず。
 くれ外宮げぐうまうではべりけるに、いち華表とりゐかげほのくらく、御燈みあかし処々ところどころえて、またうへもなきみね松風まつかぜにしむばかり、ふかきこころおこして

 みそかつきなしとせのすぎだくあらし

 マツバヤフーバクがイセにありけるをたずねおとずれて、とーかばかりあしをとどむ。ヨーカンにスンテツをおびず。えりにイチノーをかけて、てにジューハチのたまをたずさう。ソーににてちりあり。ゾクににてかみなし。われソーにあらずといえども、フトのゾクにたぐえて、シンゼンにいることをゆるさず。
 くれてゲグーにもーではべりけるに、イチのとりいのかげほのくらく、みあかしところどころにみえて、またうえもなきみねのまつかぜ、みにしむばかり、ふかきこころをおこして

 みそかつきなしちとせのすぎをだくあらし

 旧暦きゅうれき八月はちがつ二十日頃はつかごろ小夜さや中山なかやまえた芭蕉ばしょうは、その一週間いっしゅうかん道中どうちゅう省略しょうりゃくし、伊勢神宮いせじんぐうだんはいる。小夜さや中山なかやま異界いかいへのくち暗示あんじしていたとすれば、これは当然とうぜんだろう。芭蕉ばしょうはここで現世げんせわかれ、神々かみがみくにはいったのだ。さて、その伊勢いせくだりをんでみよう。

松葉屋風瀑まつばやふうばく伊勢いせありけるを尋音信たづねおとづれて、十日計とおかばかりあしをとどむ。

 伊勢いせといえばふるくから「神風かみかぜ伊勢いせ」とばれ、かぜだとかあらしだとかにえんがある。その伊勢いせで「松葉屋風瀑まつばやふうばく」をたずねるというのも、随分ずいぶんできすぎたはなしだ。この風瀑ふうばくさん月前げつまえ江戸えどから伊勢いせかえとき芭蕉ばしょうはかってんだ自分じぶんの、

 いのちなりわずかのかさ下涼したすず

というけて、
 わすれずば小夜さや中山なかやまにてすず

というおくっている。そして、そのすぐあと、芭蕉自身ばしょうじしん小夜さや中山なかやまえて、伊勢いせくこととなった。

そう塵有ちりありぞくににてかみなし。我僧われそうにあらずといへども、浮屠ふとぞくにたぐへて、神前しんぜんいることをゆるさず。

 芭蕉ばしょうもまた、こしかたなをささず、ふくろえりところけ、には数珠じゅずち、乞食僧こじきそうのようないでたちをしてこの伊勢いせあらわれる。
 「我僧われそうにあらず」というのは、どこかのてら所属しょぞくしている正式せいしきそうではない、という意味いみもあるだろうが、「そう塵有ちりあり」とっているように、たびをするために俄仕立にわかじたてのそうとなったというのが真相しんそうだろう。ちょうど『おく細道ほそみち』の旅立たびだちのとき曾良そらこと岩波庄右衛門いわなみしょうえもんにわかかみったように、一般いっぱんひとがなかなか自由じゆうたびのできなかった時代じだい諸国しょこくあそあるくには、そうになるのがもっともてっとりばや手段しゅだんだった。
 貞享じょうきょう4(1687)ねん鹿島根本寺かしまこんぽんじ月見つきみったたびえがいた、『鹿島詣かしまもうで』でも、芭蕉ばしょう自分じぶんのことを、

 「いまひとりは、そうにもあらず、ぞくにもあらず、鳥鼠てうそかんをかうぶりの、とりなきしまにもわたりぬべく」

いている。
 本当ほんとう修行しゅぎょうをし、ちゃんとおきょうめ、おつとめをたせるようなきちんとしたそうとは程遠ほどとお自分じぶん多分たぶん自嘲じちょうしているのであろう。そうになったおかげでたびをするのはらくだが、伊勢いせ内宮ないぐうれてもらえないという欠点けってんもあった。

 くれ外宮げぐうまうではべりけるに、いち華表とりゐかげほのくらく、御燈みあかし処々ところどころえて、またうへもなきみね松風まつかぜにしむばかり、ふかきこころおこして

 伊勢いせで「松風まつかぜ」といえば、西行法師さいぎょうほうし

 ふかくいりて神路かむぢおくをたづねれば
   またうえもなきみね松風まつかぜ

といううたおもしておこう。神路かむぢ、つまり神道しんとう奥義おうぎたずねれば、まつくシューシューという心細こころぼそ無常感むじょうかんのただようかぜおとで、仏教ぶっきょう真理しんりにもつうじるという、いわゆる「本地垂亦ほんちすいじゃく」をんだうただ。
  さて、この伊勢いせでの発句ほっくてみよう。

  みそかつきなしとせのすぎだくあらし

 この一般いっぱんに「あらし」が千歳ちとせすぎくという解釈かいしゃくと、芭蕉ばしょう千歳ちとせすぎくという解釈かいしゃくがある。
 しかし、前者ぜんしゃのようなあらし擬人化ぎじんかしたまわしはやや近代的きんだいてきなようにおもえる。
 芭蕉ばしょう時代じだいには山口素堂やまぐちそどうによる『ざらし紀行きこう』の波静本はせいぼんじょに、「ゆきゆきて、山田やまだはら神杉かむすぎをいだき」とあるように、芭蕉ばしょう千歳ちとせすぎくというふうにまれていたようだ。
 今日こんにち自然しぜん文法的解釈ぶんぽうてきかいしゃくでも、三百年前さんびゃくねんまえとなれば当時とうじ自然しぜんだったとはかぎらない。とく俳諧はいかいのようなみじかく、ともするとどうとでもれるような文芸ぶんげいには、特殊とくしゅ省略しょうりゃく仕方しかたがなされる。とくに、主語しゅごがはっきりとしている場合ばあいにしばしば主語しゅご省略しょうりゃくされるのは、日本語にほんごおおきな特徴とくちょうでもある。
 近代きんだい人間にんげん翻訳調ほんやくちょうまわしにれて、本来ほんらい日本語にほんごになかったような不自然ふしぜんまわしでも、文学ぶんがくでは普通ふつうおこなわれている。まして、昭和期しょうわきのシュールレアリズムをくぐってきたあととなっては、相当そうとう奇妙きみょうまわしにも寛大かんだいになっている。しかし、本来ほんらい、「あらし」はくものであり、「く」が人間にんげん動作どうさであることは自明じめいだったのではなかったか。
 わたしは、この本来ほんらい三十日みそかつきのないなか千歳ちとせすぎにすがりきしめた、そんなあらしよるだった、というふうにむべきものだったとかんがえている。今日こんにちではまちあかりのせいでよるそらえどもかなりあかるいが、三百年前さんびゃくねんまえともなればつきのないばん漆黒しっこくやみだ。神社じんじゃ境内けいだいよるともなれば人影ひとかげもなく、あらし木々きぎをゆさぶりかなしげなおとてていればきた心地ここちもしない。あきふかまりころあらしといえば、

 くからにあき草木くさきのしをるれば
    むべ山風やまかぜあらしといふらむ
                      文屋康秀ぶんやのやすひで

というくらいのもので、草木くさきれるさま暗示あんじされるのイメージをこす。
 ここで芭蕉ばしょうがあえて「そうににて塵有ちりあり」とったもうひとつの理由りゆうえてくる。このは、恐怖きょうふ克服こくふくした仏法ぶっぽうさとりきった高僧こうそう境地きょうちんだではない。かげさとりきれずにまよ戸惑とまどう「無明むみょう」のこころんだだ。つきのない闇夜やみよはまさに「無明むみょう」にほかならない。そんな不安ふあん心細こころぼそさのなかで、芭蕉ばしょうは「ふかこころ」をおこし、ほとけにすがるようなおもいで千歳ちとせすぎにすがりついたのだ。
 中世ちゅうせい連歌書れんがしょである宗祇法師そうぎほうしの『宗祇初心抄そうぎしょしんしょう』に、「述懐しゅっかい連歌れんが本意ほいをそむくこと」という項目こうもくがある。そこには、

はすてつうきたれのこるらん
 ひとはまだこのよを我出われいで
 おいたるひとのさぞうかるらむ

やうにてあるべくさふらふ述懐しゅっかい本意ほいまうすは、

 とどむべきひともなきすてかねて
 のがれぬるひともあるにわれすみ
 よそにるにもおいぞかなしき

かやうにあるべくわれはやすくて、憂世うきよたれのこるらんといひたるこころ驕慢きゃうまんこころにてさふらふ、さらに述懐しゅっかいにあらず、たとへばおいずともおいたるひとて、あはれこころあるべきを、さはなくて色々いろいろ驕慢きゃうまんこと本意ほいにそむく述懐しゅっかいさふらふなり、」

とある。芭蕉ばしょう述懐しゅっかいではないが、およそ風雅ふうがこころというのはそういうものだ。
 大体だいたいおれはもうさとりきったのだ、俗世ぞくせじょうすこしもたないのだ、なんて高飛車たかびしゃはなもちならない傲慢ごうまんにすぎない。人間にんげんである以上いじょうだれでもこころよわさをっていて当然とうぜんであり、それがまったくないなんて自分じぶんっている人間にんげん信用しんようできるものではない。大嘘おおうそつきか、たんなる鈍感どんかん人間にんげんかどちらかだ。自分じぶん罪深つみぶかさを直視ちょくしし、自分じぶんのなかの「無明むみょう」を率直そっちょくみとめることができる、そうした人間にんげんのみ、本当ほんとうおおきな理想りそうかってすくいをもとめることができる。
 だれでもおそろしい。無常むじょうがよだつような経験けいけんだ、まして、つきのない闇夜やみよ松風まつかぜこおりつかんばかりにせつない。芭蕉ばしょうはそんな心細こころぼそさのなかで、おもわずこの千歳ちとせ御神木ごしんぼくにすがりついたのだ。それはまさに、西行法師さいぎょうほうしうたとして当時一般とうじいっぱんつたえられていた

 何事なにごとのおはしますをばらねども
    かたじけなさのなみだこぼれて

心境しんきょうで、おそらく芭蕉ばしょうもまた千歳ちとせすぎきしめながら、とめどもなくなみだげてきたにちがいない。

9、西行さいぎょうならば…

 西行谷さいぎゃうだにふもとながれあり。をんなどものいもあらふをるに

 芋洗いもあらをんな西行さいぎゃうならばうたよまむ

 サイギョーダニのふもとにながれあり。おんなどものいもあらうをみるに

 いもあらうおんなサイギョーならばうたよまむ

 『新古今集しんこきんしゅう』の仮名序かなじょにも、大和歌やまとうたは「いろにふけり、こころをのぶるなかだちとし」とあり、色好いろごのみのみちだった。連歌れんが俳諧はいかいでも「一巻いっかんこいなくばはしたもの」とわれるくらい、こい連歌れんが俳諧はいかいはなともうべきものだ。それはたん読者どくしゃへのサービスといったものではない。こい人間にんげんきていくうえもっと重要じゅうようなテーマのひとつだ。
 ところで、西行さいぎょう宗祇そうぎしたい、古典こてん風雅ふうが継承けいしょうしようとした芭蕉ばしょうではあるが、ひとつだけ十分受じゅうぶんうぐことのできなかったのがこの「こい」だ。
 風雅ふうが本来ほんらい煩悩ぼんのう告白こくはくおおやけにすることによって発散はっさんさせ、解脱げだつたすけるためのものであるなら、その煩悩ぼんのう中心ちゅうしんともいうべきこい、それもむくわれぬこいくるしみや人間にんげんのつきせぬ欲望よくぼうこそ、さき問題もんだいにされなくてはならない。ところが、芭蕉ばしょうはどうもこのテーマが苦手にがてだったようだ。
 もっとも、芭蕉ばしょうなかでは、数多かずおおくのこいんではいるし、『おく細道ほそみち』でも市振いちぶりで、となり部屋へやとまった遊女ゆうじょ題材だいざいにして、

 一家ひとつや遊女いうぢょもねたりはぎつき

というおもわせぶりな発句ほっくんでいる。はぎはその姿すがたから、す、るにつうじる。
 しかし、宗祇法師そうぎほうしの『宗祇初心抄そうぎしょしんしょう』の「恋連歌こいれんが本意ほいそむくこと」に、

「かならずといひつるひとのけふは
 われをやひとのおもひいづらん
 おもふかとわかれにしばしやすらひて

是皆恋これみなこひこころたがさふらふこひ本意ほいまうすは、とはれぬをうらみ、わかるるをしたひ、待暮まつくれをうきとかなしみ、たつをいとひ、しのびはつるなどと、色々いろいろこころつくすをこひ本意ほいまうすべく候哉さふらふかなわれひとおもかほなることこひ本意ほいにたがひ、さふらふ

とあるように、「かならずとひつるひと今日けふで」のような、じょうのこもらないたんなる客観描写きゃっかんびょうしゃは、本来ほんらいこいとはいわなかった。もちろん、「われをやひとおもいづらん」のような、自分じぶんこいをせずに、おんなからもててこまっちゃうみたいなものは、今日こんにちでもラブソングとはいえない。こいというのは、今日こんにちのいわゆるラブソングもそうだが、たとえ想像上そうぞうじょうのものでも、自分自身じぶんじしんこいをしているかのように、そのおもいをべ、切々せつせつとそのこころつたえようとするのが、本来ほんらいのものだった。
 しかし、これは芭蕉ばしょうだけの責任せきにんではないだろう。江戸時代えどじだい俳諧はいかいは、がいしてこうした中世的ちゅうせいてきなラブソングとはかけはなれている。おそらく、江戸時代えどじだい儒教文化じゅきょうが、みずからのこい気持きもちをあからさまにけることをはじとし、こい遊郭ゆうかくなどの風俗ふうぞくひとつとしてしまったのだろう。江戸時代えどじだい俳諧はいかいこいというのは、あくまでそのようなものにとどまった。
 その意味いみでは、『ざらし紀行きこう』でも一応恋いちおうこいまれている。それが西行谷さいぎょうだに場面ばめんだ。
 藤原定家ふじわらのていかは、こいうたむときは在原業平ありわらのなりひらになったようなつもりでめとっているが、芭蕉ばしょう西行法師さいぎょうほうしになったつもりでこのんだのであろうか。西行さいぎょうならおんなつきにたとえてこいうたむところを、わたし俳諧師はいかいしにふさわしく、つきそなえるいもあらっているきみにこうして発句ほっくみ、一夜いちや宿やどうてみようか、というわけだ。名月めいげつというといまでは団子だんごそなえるが、かっては里芋さといもそなえるのが普通ふつうで、「芋名月いもめいげつ」という言葉ことばもある。それゆえ「いも」はあき季題きだいになる。
 とはいうものの、本気ほんきおんな口説くどこうというのであれば、「西行さいぎょうならば」なんてわず。自分じぶんおもいをうたうべきだろう。つまり、この本気ほんきんだ恋句こいくとはほどとおく、俳諧師はいかいしとしての冗談じょうだんにしかなっていない。山口素堂やまぐちそどう波静本はせいぼんじょで、

 「西行谷さいぎゃうだにのほとりにて、いもあらをんなにことよせにけるに、江口えぐちきみならねバ、こたえもあらぬぞくちをしき。」

っているように、このうたたんなる片歌かたうたわっている。
 おとこうた口説くどき、おんながそれにうたでもってこたえる習慣しゅうかんは、ふるくからまつりのときの歌垣うたがきなかおこなわれていたもので、日本にほんだけでなく、中国南部ちゅうごくなんぶ少数民族しょうすうみんぞくなかにもしばしばられる。江南系こうなんけい農耕民族特有のうこうみんぞくとくゆう習慣しゅうかんだったのだろう。和歌わか色好いろごのみのみちなのも、そうしたうた起源きげん根差ねざしたものなのだろう。
 西行さいぎょう江口えぐちきみんだ、

 なかをいとふまでこそかたからめ
   かりのやどりをしむきみかな

たいして江口えぐち遊女ゆうじょが、

 いえをいづるひととしればかりのやどに
   こころとむなとおもふばかりぞ

こたえたエピソードも、そうした伝統でんとうによるものだ。
 なお、『ざらし紀行きこう』の天理本てんりぼん末尾まつびには、つぎのような付合つけあいしるされている。

   伊勢山田いせやまだにて、芋洗いもあらふと云句いふくす。
   宿やどまいらせむさいぎゃうならばあきくれ  雷枝らいし
 ばせをとこたふかぜやれがさ    芭蕉ばせを

雷枝らいし女性じょせいなら面白おもしろいのだが、そうではなさそうだ。西行さいぎょうなら宿やどしましょう。それにたい芭蕉ばしょうこたえる。いや、こんなみすぼらしいわたし西行さいぎょうではなく、芭蕉ばしょうです。なんとも他愛たあいのないやりりだ。
 それでも「西行さいぎょうならば」の一言ひとこと当時とうじ人々ひとびとあいだでは、結構けっこうけたのではなかったか。西行さいぎょうしたっていながら、こいかんしては西行さいぎょうてもつかぬ堅物かたぶつ芭蕉ばしょうのキャラクターからして、この一言ひとこと俳諧はいかいそのものだ。二年後にねんご貞享じょうきょう3(1686)ねんはる撰集せんしゅうはる』に、

   朝熊あさくまおるる出家しゅっけぼくぼく
 ほととぎす西行さいぎゃうならば歌詠うたよまん  荷兮かけい

というがある。「ぼくぼく」から芭蕉ばしょう

 うまぼくぼくわれ夏野哉なつのかな

連想れんそうし、伊勢いせ朝熊山あさくまやまからりてきた出家僧しゅっけそう芭蕉ばしょうりなしたのであろう。それでも「西行さいぎょうならば」といながらこいまず郭公ほととぎすむほうがいかにも芭蕉ばしょうらしい。ここでの「郭公ほととぎす」は西行さいぎょうの、

 きかずともここをせにせん郭公ほととぎす
   山田やまだはらすぎのむらたち

といううたからている。芭蕉ばしょう恋句こいく結局けっきょくけなかった郭公ほととぎすこえのようなもの、とかいするのはやや穿うがちすぎか。
 連歌れんが式目しきもくには、とくこい二句続にくつづけなくてはならないというまりはないが、連歌れんがでも俳諧はいかいでも、こい一句いっくわらせるのを野暮やぼかんがえ、二句以上にくいじょうつづけるのが習慣しゅうかんとなっていた。このふるくからの美風びふうやぶって、こい一句いっくててもかまわないとしたのも芭蕉ばしょうだったが、『ざらし紀行きこう』ではまだ律儀りちぎまもってくれている。

10、らん

 そののかへさ、ある茶店ちゃみせ立寄たちよりけるに、てふといひけるをんな、あがにほっくせよといひて、しろききぬいだしけるに書付かきつけはべる。

 らんやてふのつばさにたきものす

 そのひのかえさ、あるちゃみせにたちよりけるに、チョーといーけるおんな、あがなにホックせよといーて、しろききぬいだしけるにかきつけはべる。

 ランのかやチョーのつばさにたきものす

 この本文ほんぶんだけだとちょうというおんならんがするというだけのだが、これにはかくれたエピソードがあったらしい。芭蕉ばしょう弟子でし一人ひとり土芳どほうによる『三冊子さんぞうし』のなかにこのようにかれている。

 「此句このくハ、ある茶店ちゃみせかたはらにみちやすらひしてたたずみありしを、老翁らうおう見知みしはべるにや、うちしゃうじ、家女かぢょ料紙持れうしもちいでねがふ。そのをんなのいはく、われこのいへ遊女いうぢょなりしを、いまはあるじのつまとなしはべなりさきのあるじも、つるといふ遊女いうぢょつまとし、其比そのころ難波なには宗因そういん此処このところにわたりたまふをかけて、をねがひこひたるとなりれいおかしきことまでいひいでて、しきりにのぞみはべれば、いなみがたくて、かの難波なには老人らうじんに、つたのおつるのうらみよるしも、とかいふ前書まへがきにしてこの句遣くつかははべるとのものがたりなり老人らうじんれいにまかせて書捨かきすてたり。さのこともはべらざればなしがたき事也ことなりいへり。」

 いくら有名人ゆうめいじんとはいえ、ひとごとにをねだられたのではたまったものではない。しかし、先代せんだいつま談林だんりん西山宗因にしやまそういん発句ほっくをもらったというえんであれば、芭蕉ばしょうこころうごいたのであろう。いわば、日頃ひごろ尊敬そんけいしてやまぬ宗因そういんとの句合くあわせだ。
 芭蕉ばしょうがまだ江戸えどてきてもないころ、江戸えどにやってきた宗因そういんい、それまでの貞徳門ていとくもんふう一新いっしんし、談林調だんりんちょう傾倒けいとうしていった。
 延宝えんぽう3(1675)ねん宗因そういん江戸本所えどほんじょ大徳院だいとくいんでの興行こうぎょう百韻ひゃくいんに、すでに芭蕉ばしょう本来ほんらい俳号はいごうである「桃青とうせい」のられる。芭蕉ばしょうはこのとき四句目よんくめんでいる。

 いとすず大徳也だいとくなりけりのりみづ     宗因そういん
    のきむねちな蓮池はすいけ
 反橋そりはしのけしきにあふぎひらき
    石壇いしだんよりも夕日ゆふひこぼるる   桃青たうせい

発句ほっく大徳寺だいとくじという興行場所こうぎょうばしょけて、それに「すずし」という季語きごえたもので、当時とうじ発句ほっくはこうした景物けいぶつ趣向しゅこうによらずに言葉ことばえんつくることがおおかった。それに、大徳寺だいとくじ住職じゅうじょくの磫畫が、ゲストの宗因そういんみ、発句ほっくの「すずしきみず」を「蓮池はすいけ」でける。こうした物付ものづけも、当時とうじ一般的いっぱんてきかただった。
 第三だいさんも「蓮池はすいけ」に「反橋そりはし」というものによる物付ものづけで、芭蕉ばしょう四句目よんくめも、「反橋そりはし」に「石壇いしだん」をける、当時とうじかたしたがっている。ちなみに、

    石壇いしだんよりも夕日ゆふひこぼるる
 領境りゃうさかひまつのこして一時雨ひとしぐれ      信章のぶあき

という五句目ごくめんだ信章のぶあきは、のち山口素堂やまぐちそどうだった。
 芭蕉ばしょうにとって、宗因そういんはかけがえのないだった。とはいえ、宗因そういんは『西翁十百韻さいおうじゅっぴゃくいん恋俳諧こいはいかいはなそうろう」のまきのような、こいだけで百韻ひゃくいんつくるほどの、恋句こいく達人たつじんであり(ただし江戸時代的えどじだいてき恋句こいくで、中世的ちゅうせいてきなラブソングではない)、この勝負しょうぶ無謀むぼうともいえる。

 つたのおつるのうらみよるしも    宗因そういん
 らんやてふのつばさにたきものす   芭蕉ばしょう

 宗因そういんは、「結婚けっこんこそおんなしあわせ」としんじるものにとっては理解りかいがたかったのか、なぜここで「うらみ」をわなければならなかったかわからないとする解説書かいせつしょおおい。しかし、発想はっそうぎゃくにしてほしい。つまり、遊女ゆうじょという仕事しごとほこりを女性じょせい立場たちばつといい。江戸時代えどじだい遊女ゆうじょは、戦前せんぜん赤線あかせん遊女ゆうじょ今日こんにちのソープじょうではなく、しっかりとしたげいけていたし、きゃくえらぶこともできた。せっかく才気さいきあふれる女性じょせいでありながら、よるとしなみにてず、結局一人けっきょくひとりおとこのもとに「ちて」、ててしまった、そんな遊女ゆうじょ生涯しょうがいへの共感きょうかんがこの本意ほいだったのである。 
 これにたいして、芭蕉ばしょうらんによって「てふ」というおんなつばさ高貴こうきかおりになった、というものだ。らんといえば山中さんちゅうにひっそりとらす君子くんしこころで、遊女ゆうじょをやめて、ひっそりとみさおまもってらすことによって、はなからはなへの浮気うわきちょうはねこうばしいかおりただよわすというものだ。芭蕉ばしょう残念ざんねんながら遊女ゆうじょ境遇きょうぐうへの共感きょうかんというよりも、貞操ていそう賛美さんびする儒教道徳じゅきょうどうとくそのものだ。やはり芭蕉ばしょうはただの堅物かたぶつとしかいようがない。わたしならこの句合くあわせを、このように判定はんていする。
 -らんたふとくたぐひまれなれども、霜枯しもがれのつたはまたあはれひとしほにて、幽玄いうげんこころあらはす。よりて右勝みぎかち。
 芭蕉ばしょうが「こい」を苦手にがてとしていたことにかんして、ちまたにはホモ説なるものがある。これは江戸時代えどじだいからあるふるせつで、芭蕉ばしょう寛文かんぶん12(1672)年刊ねんかん発句合ほっくあわせかひおほひ』のなかに「われもむかしは衆道しゅどうずきの」とあるのが根拠とこくとなり、杜国とこく曾良そらとの関係かんけいうたがうものだ。
 たしかに芭蕉ばしょうは、幼少期ようしょうきから武家奉公ぶけぼうこうをし、そこで武家ぶけあいだひろがる衆道しゅどう影響えいきょうけた可能性かのうせいはある。しかし、衆道しゅどう武家ぶけ寺社じしゃなどの女性じょせいとのまじわりをきんずる社会しゃかいでの代償行為だいしょうこういという色彩しきさいつよく、衆道しゅどうまっていたとしてもそれは一時的いちじてきなものであり、それだけでホモ(真性同性愛者しんせいどうせいあいしゃ)ということにはならない。それに自分じぶんなんらかのかたち特異とくい性癖せいへきつと自覚じかくしていたなら、むしろ、否応無いやおうなしに世間せけん性観念せいかんねんたたかうかのように情熱的じょうねつんだであろう。せいかんして凡庸ぼんよう観念かんねんしかてないのは、むしろノーマルで淡泊たんぱくだったせいなのである。
 芭蕉ばしょうかんしては、ロリコンせつというのもあるが、これは『おく細道ほそみち』のかさねという少女しょうじょ登場とうじょうする場面ばめんで、同行どうこうした曾良そらが、

 かさねとは八重やへなでしこのなるべし

んだのを、芭蕉ばしょう代作だいさくだと断定だんていし、芭蕉自身ばしょうじしんのことだとする乱暴らんぼうせつにすぎない。
 わたしはむしろぎゃくに、芭蕉ばしょうこのみは熟女じゅくじょではなかったかとおもっている。ひとつには、芭蕉自筆ばしょうじひつの『甲子吟行画巻かっしぎんこうがかん』のなかで、芭蕉ばしょうみずから「芋洗いもあらおんな」をえがいているが、これがながかみわずにばした女性じょせい姿すがたえがかれていることである。芭蕉ばしょう時代じだいは、江戸えど遊郭ゆうかく発信地はっしんちとして、一般人女性いっぱんじんじょせいあいだ島田髷しまだまげひろがっていった時代じだいで、おとこ月代さかやき同様どうよう江戸時代えどじだいらしい風俗ふうぞく確立かくりつされていった時代じだいだった。ながかみわずにたらしているのは、それ以前いぜん古風こふう女性じょせいのイメージであり、しかも「芋洗いもあらう」という労働ろうどうする姿すがたかれるというのは、母親ははおやのイメージがけきれていない。13さいとき父親ちちおやわかれ、はは手一てひとつでそだてられてきた芭蕉ばしょうにとって、いつまでもおんな母親ははおやのような存在そんざいでなければならなかったのだろう。芭蕉ばしょうはマザコンの熟女好じゅくじょごのみであり、性的せいてきには未熟みじゅくで、それをかくすために衆道しゅどう気取きどっていたのではなかったか。
 連歌れんがというのは、まえじょうをいつまでもきずってはならない。煩悩ぼんのうててつぎすすんでゆくことで、そのつど解脱げだつしていかなくてはならない。紀行文きこうぶんでもおなじだ。芭蕉ばしょうこいもまた二句にくり、またべつのテーマへとすすんでゆくことになる。

11、隠士いんしこころ

   閑人かんじん茅舎ぼうしゃをとひて
 蔦植つたうゑ竹四五本たけしごほんのあらしかな

   カンジンのボーシャをといて
 つたうえてたけシゴホンのあらしかな

 芭蕉ばしょう時代じだいといえば元禄文化げんろくぶんか次第しだい花開はなひらいてゆくころで、商才しょうさいけ、一代いちだい巨万きょまんとみをなしたような新興商人しんこうしょうにんが、かねにまかせて贅沢ぜいたくかぎりをくした時代じだいだった。
 こうした文化ぶんか中心ちゅうしんとなったのが遊郭ゆうかくで、そこでもまた王朝時代おうちょうじだい風雅ふうがひとつの贅沢ぜいたく典型てんけいをなしていた。遊郭ゆうかくはまずお目当めあての遊女ゆうじょ垣間見かいまみるところからはじまり、一夜いちやちぎりにいたるまでの様々さまざまなプロセスは、王朝時代おうちょうじだいこいをモデルにしたものだった。
 あるいは、五兵衛ごへいとかいうおとこは、遊女出羽ゆうじょでわの「はぎうえ妻恋つまこ鹿しかてみたい」の一言ひとこと一夜いちやにして奥座敷おくざしき解体かいたいしてはぎえ、雌雄しゆうつがいの鹿しかをつかまえにかせ、にわはなしたという。うしなわれた王朝時代おうちょうじだい貴族きぞく趣味しゅみかねちから再現さいげんしてみせた、というわけだ。
 商人しょうにんたちがかねにものをわせてつくりものの風雅ふうがにばかさわぎしている一方いっぽうで、武士ぶし生活せいかつかならずしもくはなかった。まして、この時代じだい大名だいみょうのとりつぶしや改易かいえき領地没収りょうちぼっしゅう)が相次あいつぎ、二十万にじゅうまんとも四十万よんじゅうまんともいわれる浪人ろうにんまちにあふれていたという。武士ぶしとしてのほこりをまもり、清貧せいひんえているものにとって、こころささえとなったのは中国ちゅうごく隠士いんしたちの美学びがくだった。芭蕉ばしょうをスターにした原動力げんどうりょくも、多分たぶんそこにあったのだろう。
 『ざらし紀行きこう』の濁子本じょくしぼん末尾まつび山口素堂やまぐちそどうはこうう。

 「こがねはひともとめなれど、もとむれば心静こころしずかならず。いろひとのこのむものから、このめばをあやまつ。ただこころともとかたりなぐさむよりたのしきはなし。ここに隠士いんしあり、その芭蕉ばせをとよぶ。」

 一口ひとくち隠士いんしといっても様々さまざまあって、くに要職ようしょくにあっても職務しょくむはそこそこにやって、あとは趣味しゅみ世界せかいあそぶようなものから、左遷させんされて地方官ちほうかんあまんじるものかんして故郷こきょうこもものてらはいものやまこもものなど様々さまざまだ。結局けっきょく君子くんしのようなこころざしちながら、それを国政こくせいかすことができずにいるものは、皆隠士みないんしといってもよいのだろう。
 隠士いんしというと、なんとなく世間せけんけた消極的しょうきょくてきかたのようにこえるが、そうではない。それが消極的しょうきょくてきだというなら、今日こんにち政治せいじ文句もんくばかりいながらもけっして政治家せいじかになろうとはしない無数むすう文化人ぶんかじんなんだということにもなろう。それにくらべて、かつての隠士いんしというのはむしろ人一倍ひといちばい社会しゃかい関心かんしんち、くにうれえ、理想りそう実現じつげん情熱じょうねつやすもののことなのだが、独裁的どくさいてき政治形態せいじけいたいのもとでは、その能力のうりょく発揮はっきできなかったという場合ばあいおおい。そしてなによりも、彼等かれら直接権力ちょくせつけんりょくかかわらないことによって、文化ぶんか国家権力こっかけんりょくから独立どくりつさせることに成功せいこうし、そして今日こんにち政治家せいじか文化人ぶんかじんとの分離ぶんり基礎きそつくっていたのだ。
 芭蕉ばしょうおとずれた「閑人かんじん茅舎ぼうしゃ」のあるじもまた、そうした隠士いんしこころ一人ひとりなのだろう。たけかぜおとだけでも物悲ものがなしいというのに、それにくわえて晩秋ばんしゅうかぜいろえてゆくつたえるという茅舎ぼうしゃ主人しゅじんが、いかに閑寂かんじゃくこのものか、してるべしといったところであろう。「ゑずはかじおぎ上風うはかぜ」(文和千句ぶんなせんく第一百韻だいいちひゃくいん賦何人連歌なにひとにふすれんが長綱ながつなといったところか。
 たけはまっすぐでありながら柔軟じゅうなんで、ってもはらなにもないところから、君子くんしとくあらわす。中国ちゅうごく隠士いんしこのまれてきた植物しょくぶつだ。竹林ちくりんなか天地てんちみちかたり、くに現状げんじょうなげきあった阮籍げんせき嵆康けいこう山濤さんとう向秀しょうしゅう劉伶りゅうれい阮咸げんかん王戎おうじゅうといった「竹林ちくりん七賢しちけん」のことがおもかぶ。
 中国ちゅうごく歴史れきし地球規模ちきゅうきぼでの寒暖かんだん変化へんか左右さゆうされる。寒冷化かんれいか時代じだいには北方ほっぽう西方せいほう民族みんぞく移動いどうしてきて、異民族いみんぞくによる征服せいふく国内こくない分断ぶんだん戦乱せんらん飢饉ききんなどの多発たはつするふゆ時代じだいむかえる。かん隋唐ずいとうあいだはさまれた、三国さんごくしん南北朝なんぼくちょう時代じだいも、そんなふゆ時代じだいだった。隠士いんし文化ぶんか花開はなひらいたのもこの時代じだいだった。
 たけはまたふえ材料ざいりょうにもなるように、かぜくとおとをたてる「らい」にもつうじる。
 『荘子そうじ逍遥遊編しょうようゆうへんによると、のうろにかぜくとおとしょうじるように、万物ばんぶつはそれぞれ固有こゆうあなをもっていて、えぬかぜのようなものの作用さようによって様々さまざま現象げんしょう形作かたちづくっているという。える様々さまざま自然現象しぜんぐんしょう根源的こんげんてきかぜによってしょうじたおとにすぎない、というわけだ。天地てんちがそうであるように、人間にんげんもまたえぬかぜうごきによって、よろこんだりかなしんだりする。自然しぜん事物じぶつ人間にんげん心情しんじょうも、あらわれかたちがうけれど、ともにおなかぜによってしょうじたおとにすぎず、根底こんていにおいてはひとしい。それが『荘子そうじ』の天籟てんらい地籟ちらい人籟じんらいだ。西洋せいようではひと主体しゅたい自然しぜん客体きゃくたいけてかんがえ、主体しゅたい超越ちょうえつとロゴス〔言葉ことば〕の優位ゆういくが、東洋とうようではむしろひと自然しぜん一部いちぶかんがえられ、ともにおなみちしたがうものとかんがえられてきた。そこに、自然しぜん科学かがく対象たいしょうとしてとらえるのではなく、直接的ちょくせつてき共感きょうかん対象たいしょうとしてとらえる、独自どくじ伝統でんとうつくられてきた。あき景色けしき物悲ものがなしいのは、景色自体けしきじたいかなしいからではないし、景色けしき無関係むかんけい自分じぶんかなしいのでもない。様々さまざま生命せいめいおとろえてゆく姿すがた共鳴きょうめいすることができるからであり、その根底こんていにはすべての生命せいめいひとしいという認識にんしきふくまれている。
 書道しょどうのほうで有名ゆうめい王羲之おうぎしは『蘭亭集詩らんていしゅうし』でこのようにうたっている。

 仰視碧天際  俯瞰淥水濱
 寥闃無涯観  寓目理自陳
 大矣造化工  萬殊莫不均
 群籟雖参差  適我無非新

 あおんだ山際やまぎわそら見上みあげ、はるかな淥水ろくすい水際みずぎわ見下みおろす。
 見渡みわたかぎりのさびしげな景色けしきなかに、天地てんちことわりおのずとあらわれてくる。
 造化ぞうかこう偉大いだいでどんな事物じぶつでもひとしくないものはない。
 しょうふえたけ長短ちょうたんがあるようなもので、そのどれもがわたしにとって新鮮しんせん音色ねいろかなでる。

さびしさは自分一人じぶんひとりのものではない。てん岩峰がんぽうも、てしなくひろがるみずうみも、その荒涼こうりょうとした姿すがたこそ自然しぜん本当ほんとう姿すがたなのだ。人間にんげん山河さんが大小だいしょうちがいいはあるが、そこにはおなかぜながれていて、一体いったいしている。
 大伴家持おおとものやかもちもまた、おなかぜおといていたのだろうか。

 わが宿やどのいささ群竹吹むらたけふかぜ
   おとのかそけきこのゆふべかも

わずかなたけのかそけきおとにも、すべてのせいあるものの運命うんめいさびしさをかんじたのであろう。せいあるものは皆生みないきるためにあらそう。ひともまたきるためにあらそう。それをさびしくもむなしくもおもえるのは、こうした現世げんせ様々さまざま現象げんしょう背後はいごに、しずかなかぜおとくことができるからだ。どんなにことなるおとをたて、たがいにあらそっていても、その根源こんげんにおいて本当ほんとう皆平等みなびょうどうで、おなかぜかれてうたっているにすぎない。

 蔦植つたうゑ竹四五本たけしごほんのあらしかな

 芭蕉ばしょうがこのおくった「廬牧亭ろぼくてい」の主人しゅじんも、きっと四五本しごほんたけかぜおといていたのであろう。

12、帰郷ききょう

 長月ながつきはじめ古郷こきゃうかへりて、北堂ほくどう萱草くわんさう霜枯しもがれはてて、いまあとだになし。何事なにごとむかしかはりて、はらからのびんしろく、眉皺まゆしわよりて、ただいのちありてとのみいひ言葉ことばはなきに、このかみの守袋まもりぶくろをほどきて、はは白髪しらがおがめよ、浦島うらしま玉手箱たまでばこなんぢがまゆもややおいたりと、しばらくなきて、

 にとらばきえんなみだぞあつきあきしも

 ながつきのはじめ、ふるさとにかえりて、ホクドーのカンソーもしもがれはてて、いまはあとだになし。なにごともむかしにかわりて、はらからのビンしろく、まゆしわよりて、ただいのちありてとのみいーてことばはなきに、このかみのまもりぶくろをほどきて、ははのしらがおがめよ、ウラシマのこがたまでばこ、なんじがまゆもややおいたりと、しばらくなきて、

 てにとらばきえんなみだぞあつきあきのしも

 「廬牧亭ろぼくてい」のと、このあとたずねる千里ちり故郷こきょうでののような、陶淵明とうえんめい彷彿ほうふつさせる隠士いんし二句にくはさまれると、芭蕉ばしょう帰郷ききょう場面ばめんも、どこかかんして故郷こきょうかえってきたかのような『帰去来辞ききょらいじ』のおもかげがくわわる。のどかな田舎いなかふるびた旧家きゅうかがあり、あたりではいぬあそび、にわとりこえこえてくる。

 長月ながつきはじめ古郷こきゃうかへりて、北堂ほくどう萱草くわんそう霜枯しもがれはてて、いまあとだになし。

 しかし、その故郷こきょうもすっかり姿すがたえていた。
 北堂ほくどうははむところで、「萱草かんぞう」とはわすれくさのことだ。ユリ多年草たねんそうで、『詩経しきょう』「衛風えいふう」の「伯兮はっけい」というに、

 焉得諼草 言樹之背
 愿言思伯 使我心痗

 どうにかしてわすぐさ(諼草)をれて
 こうしていえうらえたい
 そうねがいつつあなたをおもえば
 わたしこころはとてもくら

とある。日本にほんでも『万葉集まんようしゅう』に

 わすれぐさわがひも香具山かぐやま
    りにしさとわすれぬがため
                      大伴旅人おおとものたびと 巻3、334
 わが宿やどのきのしだくさひたれど
    恋忘こひわすぐさるにいまだひず
                   柿本人麻呂歌集歌かきのもとのひとまろかしゅうか 巻11、2475

といったうたられる。
 しかし、ははからすでに一年いちねん経過けいかしたいまとなって、もはやそれも必要ひつようないくらいわすれさられてしまったのだろうか。「るものは日々ひびうとし」という言葉ことば出典しゅってんとなった中国ちゅうごくの『文選もんぜん』の古詩こしにも、

 去者日以疎 来者日以親
 出郭門直視 但見丘與墳
 古墓犂為田 松柏催為薪
 白楊多悲風 蕭蕭愁殺人
 思還故里閭 欲還道無因

 ってったもの日毎ひごとうとくなり、ものだけが日毎ひごとしたしくなってく。
 まちはずれの城門じょうもん見渡みわたしてみても、ただつちをもったはかがあるばかり。
 ふるはかたがやされてんぼになり、はかえてあった真木まき伐採ばっさいされてたきぎとなる。
 境界きょうかいやなぎにはかなしげなかぜばかりがいて、ショウショウとらすおとにたいくらい物悲ものがなしい。
 故郷こきょうぐちをくぐってかえろうとおもっても、そこでだてなどありはしない。

とある。
 おもえば「あき十年却ととせかへって江戸えどさす故郷こきゃう」といって江戸えどはなれた芭蕉ばしょうだった。そののとおり、ここはもはやかえるべき場所ばしょではなかった。芭蕉ばしょうははも、また芭蕉自身ばしょうじしんも、もはやそこではっていった過去かこひとだった。そんななかでの芭蕉ばしょう浦島太郎うらしまたろう心境しんきょうそのものだった。

 何事なにごとむかしかはりて、はらからのびんしろく、眉皺まゆしわよりて、ただいのちありてとのみいひ言葉ことばはなきに、このかみの守袋まもりぶくろをほどきて、はは白髪しらがおがめよ、浦島うらしま玉手箱たまでばこなんぢがまゆもややおいたりと、しばらくなきて、

 にとらばきえんなみだぞあつきあきしも

 ったならえてしまうだろう。なみだだけがあつあきしも
 あきしもといえば、有名ゆうめい李白りはくの『秋浦しゅうほうた』がおもかぶ。

 白髪三千丈 縁愁似個長
 不知明鏡裏 何処得秋霜

 白髪はくはつかぎりなくながびている。
 きぬなやみにこのようにながくなってしまった。
 かがみなか自分じぶんがもはやだれかもわからない。
 一体いったいどこでこんなあきしもをもらってしまったのか。

 あきしもというのは白髪しらがのことだ。浦島太郎うらしまたろう玉手箱たまでばこをあけるような気持きもちではは形見かたみ白髪しらがった。あらためてはは現実げんじつのものとなる。形見かたみ白髪しらがなかにある。しかし、記憶きおくなかはは姿すがたは「」という現実げんじつなかけむりとなってってゆく。それは本当ほんとうにつめたい、こおりつくような現実げんじつだ。その秋霜しゅうそうつめたさはなみだあたたかさと対比たいひさせることによって、よりえさびたものになる。
 日本人にほんじん多分たぶん昭和初期しょうわしょきの、感情かんじょうせいきびしく抑圧よくあつされた日本にほんのビクトリア時代じだいることによって、感情かんじょう表現ひょうげん苦手にがてになってしまったようだ。かなしくても能面のうめんのように表情ひょうじょうし、うれしくても曖昧あいまい微笑ほほえみをかべ、感情かんじょうおさえ、他人たにん刺激しげきしないようにちぢこまって生活せいかつしているところがある。しかし、芭蕉ばしょう時代じだいひとは、かなしいときは大声おおごえいた。つかうごくばかりに。秋霜しゅうそうなみだもまた何度なんど号泣ごうきゅうしては、めどもなくながちたにちがいない。

13、たけおく

 大和やまとくに行脚あんぎゃして、葛下かつげこほりたけうち云処いふところに、かのちりが旧里ふるさとなれば、ごろとどまりてあしやすむ。

 わたゆみ琵琶びはになぐさむたけのおく

 ヤマトのくににアンギャして、カツゲのこーりタケノウチとゆーところ、かのチリがふるさとなれば、ひごろとどまりてあしをやすむ。

 わたゆみやビワになぐさむたけのおく

 ここでもまた、竹林ちくりん隠士いんしのイメージがもちいられている。
 このは、ともすると「綿弓わたゆみ琵琶びわになぐさむ」とんでしまいそうだが、そうではない。素堂そどう波静本はせいぼんじょに「わたゆみを琵琶びはになぐさみ」とあるように、このは「綿弓わたゆみ琵琶びわいてなぐさむたけおく」という意味いみであり、綿弓わたゆみ琵琶びわ見立みたてているのだ。
 芭蕉ばしょう時代じだい綿製品めんせいひん次第しだい普及ふきゅうしてゆく時代じだいであり、それにともない、綿花めんかもあちこちで栽培さいばいされはじめていたのであろう。
 芭蕉ばしょう死後しごになる元禄げんろく11(1698)ねん出版しゅっぱんされた『続猿蓑ぞくさるみの』に、

 名月めいげつふもときりのくもり    芭蕉ばしょう
 名月めいげつはなかとえて綿畠わたばたけ     〃

という二句にくならべられてあり、前者ぜんしゃ不易体ふえきたい後者こうしゃ流行体りゅうこうたい説明せつめいされている。綿畑わたばたけはそれだけ当時とうじとしては新味しんみ代表だいひょうするような題材だいざいだった。
 おそらく、綿弓わたゆみにしても、綿わたをほぐすときのぶんぶんいうおと琵琶びわ見立みたてるというのは、相当そうとう斬新ざんしん趣向しゅこうだったにちがいない。綿わたあき収穫しゅうかくするからあき季題きだいではあるが、それにあたかもきぬたおとのようなさびしげなじょうめることによって、綿弓わたゆみたん流行りゅうこう題材だいざいというだけでなく、古典こてんつうじる不易ふえきじょうることになる。
 なお、このかんしては、芭蕉ばしょう直接宿ちょくせつやど主人しゅじんおくったオリジナルがのこってい、その前書まえがきにはこうある。

 「大和国やまとのくに竹内たけのうち云処いふところ日比ひごろとどまりはべるに、其里そのさとおさなりけるひと朝夕問あさゆふとひきたりて、たびうれひなぐさみけらし。まことそのひと尋常よのつねにあらず。こころたかきにあそんで、芻蕘雉兎すうぜうちとまじはりをなし、みづからすきになひて、淵明ゑんめいがそのに分入わけいりうしひきてハ箕山きざん隠士いんしともなふ。かつ其職そのしょくつとめしょくまず。いへまどしきをよろこびてまどしきにたり。唯是ただこれ市中しちゅうかんぬすみて、かんたらんひと此長このをさならん。」

 ここでは陶淵明とうえんめいいにされている。「芻蕘すうじょう」はきこりのことで「雉兎ちと」は猟師りょうしのことだ。そうしたみやこ風雅ふうがとは程遠ほどとお人達ひとたちまじわり、俗世ぞくせらしながらも、君子くんしのようなこころうしなわずにいる、そんな姿すがた陶淵明とうえんめい彷彿ほうふつさせたのであろう。綿弓わたゆみぞくおとも、そういうひとにとっては琵琶びわ高雅こうが音色ねいろになる。そんな隠士いんしまいを竹内たけのうちという地名ちめいけて、竹林ちくりん七賢しちけんのイメージでんだのが「わたゆみや…」の一句いっくだった。「わたゆみ琵琶びはになぐさみ、竹四五本たけしごほんあらしかなと隠家いんかによせける。此両句このりょうくをとりわけ世人せじんもてはやしけるとなり。」と素堂そどうっているように、こうした隠士いんし当時とうじ人々ひとびとさかんにもてはやされていたようだ。

14、伊賀いがでの芭蕉ばしょう

 芭蕉ばしょう正保元しょうほうがん(1644)ねん伊賀上野いがうえの赤坂あかさかまれた。ちち与左衛門よざえもんははのほうはくわしいことがわかっていない。ちち与左衛門よざえもん伊賀国いがのくに柘植つげ松尾氏まつおしで、一族いちぞく平宗清たいらのむねきよだとしょうしていた。ちち与左衛門よざえもん松尾家まつおけとのつながりははっきりしない。松尾家まつおけ無足人むそくにんという、村落そんらく居住きょじゅうしながら名字みょうじ帯刀たいとうゆるされた特殊とくしゅ農民のうみん家柄いえがらだが、与左衛門よざえもんはとっくにこの身分みぶんうしなっており、小作人こさくにんとして生計せいけいてていた、いわゆる「水呑みずの百姓びゃくしょう」だった。
 芭蕉ばしょう童名どうみょう金作きんさくといい、元服げんぷくして藤七郎とうしちろう改名かいめい、さらに忠右衛門ちゅうえもん宗房むねふさ改名かいめいした。ちち与左衛門よざえもん芭蕉ばしょうが13さいときくなり、芭蕉ばしょう藤堂新七郎家とうどうしんしちろうけ料理人りょうりにんとして奉公ほうこうた。料理人りょうりにんという職業しょくぎょう食物しょくもつのことにくわしい百姓ひゃくしょう出身者しゅっしんしゃにはうってつけの仕事しごとだっただろう。田中善信たなかよしのぶは『芭蕉ばしょうふたつのかお』(1998、講談社こうだんしゃ)のなかで、「大名家だいみょうけなどの料理人りょうりにん素人しろうとのはえた程度ていど」といているが、大名家だいみょうけといえば、京風きょうふう洗練せんれんされた食文化しょくぶんかにもせっしていただろうし、参勤交代さんきんこうたいによって江戸えど食文化しょくぶんかはいってきていただろう。芭蕉ばしょうしょくへの関心かんしんは、その作品さくひんいたところることができる。
 おそらく、最初さいしょ掃除そうじ皿洗さらあらいにはじまり、やがて調理場全体ちょうりばぜんたい指揮しきから仕入しいれれ、帳簿ちょうぼつけ、おかね管理かんりなども、一通ひととおりこなしたのだろう。また、芭蕉ばしょう藤堂家とうどうけのの跡取あとと息子むすこ藤堂とうどう主計かずえ良忠よしただ世話せわあそ相手あいてつとめたという。それと料理人りょうりにんとの時期じきかさなるのか、料理人りょうりにんになるまえなのかはさだかではない。いずれにせよ、良忠よしただとの出会であいは芭蕉ばしょう将来しょうらい決定けっていづけた。良忠よしただからだよわく、武道ぶどうよりもぶんひいで、京都きょうと北村季吟きたむらきぎん俳諧はいかいまなび、俳号はいごう蝉吟せんぎんとした。芭蕉ばしょう良忠よしただ俳諧はいかいならい、しばしば俳諧はいかいせきばれるようになった。
 おそらく、当時とうじ少年しょうねん忠右衛門ちゅうえもんだった芭蕉ばしょうは、傍若無人ぼうじゃくぶじん武士達ぶしたちにぺこぺこあたまげながら、わずかな給料きゅうりょうははのもとにおくり、つら少年時代しょうねんじだいごしたのだろう。そんななかで、唯一ゆいいつすくいが、蝉吟せんぎんさそいで俳諧はいかいせきばれたときではなかったか。俳諧はいかいせきでは身分みぶんはない。5千石せんごく旗本はたもとせがれ百姓ひゃくしょう奉公人ほうこうにんも、正好まさよし一笑いっしょう一以いちいといった商人しょうにんも、対等たいとう関係かんけいになれる。それが、芭蕉ばしょう俳諧はいかい魔力まりょくかれるきっかけではなかったか。晩年ばんねん芭蕉ばしょうは、

 もとしるなます桜哉さくらかな
 影清かげきよ花見はなみには七兵衛しちびょうえ

といった発句ほっくんでいる。芭蕉ばしょう俳諧はいかいゆめというのは、身分みぶんのない世界せかいとうとものいやしきものも、おなはなした和気わきあいあいと談笑だんしょうふける、そういうではなかったか。
 このころ俳諧はいかいはまだ貞門ていもん堅苦かたくるしい俳諧はいかいで、格式かくしきばった権威主義けんいしゅぎ横行おうこうしていたかもしれない。しかし、本来ほんらい俳諧はいかいはもとより、そのもととなった連歌れんが地下ぢげ連歌師れんがしたちが庶民しょみんあいだ流行はやらせ、それがやがて武家ぶけ宮廷きゅうていにまで波及はきゅうしていったもので、こうした中世ちゅうせいに、寺社じしゃなどを中心ちゅうしん公界くがい花咲はなさいた芸能文化げいのうぶんかは、身分みぶん超越ちょうえつする、という理想りそうをもっていた。
 戦国大名せんごくだいみょうたちが、茶道さどうかれていったのも、そうした身分みぶんから解放かいほうされ、一人ひとり人間にんげんもどれる時間じかん大事だいじにしたからではなかったか。身分社会みぶんしゃかいは、したのものにとっても、絶対服従ぜったいふくじゅういられ、過酷かこくなものであったが、うえひととて、よわみをせられず、いつも虚勢きょせいっていなくてはならないし、したのものは遠慮えんりょして意見いけんってくれないから、なやんだとき相談そうだんできるひともいない。そんなとき茶道さどう連歌れんがは、くことのできない息抜いきぬきのだった。豊臣秀吉とよとみひでよし千利休せんのりきゅうかぎりなくかれながらも、最後さいごにはころさざるをえなかったのは、身分みぶんのない世界せかいやすらぎであり、とてつもない快楽かいらくであることがわかっていたからこそ、それが社会全体しゃかいぜんたい風潮ふうちょうとしてひろがってゆくことをおそれたからではなかったか。
 芭蕉ばしょう俳諧はいかいひらかせてくれた蝉吟せんぎんも、芭蕉ばしょうが23のとき、25さいわかさでった。芭蕉ばしょうにとっておおきなショックだっただろう。それでも、芭蕉ばしょうはすでに、貞門ていもん選集せんしゅう続山ぞくやま』(寛文かんぶん7年、1667)に31句入集くにゅうしゅうたし、伊賀いがだけでなく上方かみがた江戸えどでも新進気鋭しんしんきえい作家さっかとして注目ちゅうもくされるようになっていた。このころ芭蕉ばしょうに、晩年ばんねんのさびしおりの境地きょうちなどるべくもないが、それでも、ひとおもかぬようなひらめきとゆたかな想像力そうぞうりょく人々ひとびといた。

 としひとにとらせていつも若恵比寿わかゑびす
 春風はるかぜにふきわらはなかな

    あき吉野よしのやま遁世とんせい
 在明ありあけ影法師かげぼうしのみともとして

    もるゆきはだへわすれかね
 こほなみだつめたさよさて

さらに、こうした想像力そうぞうりょくは、芭蕉自身ばしょうじしんまずしい生活せいかつなかつちかわれた現実げんじつするど描写びょうしゃにもむすいた。

    しづざまのさむさつらしな
 おだまきのへそくりがねでさけかはん

    ひさしぶりにてとふいももと
 奉公ほうこうひま余所目よそめひまとみつ

    ゆたかな想像力そうぞうりょくたしかな現実感覚げんじつかんかくとの共存きょうぞん、それは、晩年ばんねんいたるまで様々さまざま作風さくふう変化へんかさせても、芭蕉ばしょう作風さくふう終始一貫しゅうしいっかんした特徴とくちょうだった。晩年ばんねん芭蕉ばしょうの、さびしおりの世界せかいとはまたひとちがうあの傑作けっさく

 物言ものいへば唇寒くちびるさむあきかぜ

も、その一例いちれいえよう。
 芭蕉ばしょうはやがて、寛文かんぶん12(1672)ねん29さいのとき、藤堂家とうどうけ奉公ほうこうをやめ、江戸えどることとなった。理由りゆうひとつには俳諧はいかい世界せかい自分じぶん実力じつりょくためしてみたい、ということもあっただろう。それにくわえて、あまりられていないが、芭蕉ばしょう実務面じつむめんでも有能ゆうのうだったという。しかし、いくら能力のうりょくがあっても、せま藤堂家とうどうけにあっては身分みぶん問題もんだいもあり、もうこれ以上いじょう出世しゅっせはないだろうという、「さきえた」というかんがあったのではないかとおもわれる。(つづく)