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野ざらし紀行
─異界への旅─5
(ver.2)

ゆきゆき亭 こやん



9、うしとし歳旦さいたん

 といひいひも、山家やまがとしこし

  むこ歯朶しだもちおふうしのとし

 といーいーも、ヤマガにとしをこして

 たがむこぞシダにもちおううしのとし

 結局けっきょく実際じっさい芭蕉ばしょう故郷こきょう伊賀いが新年しんねんむかえることになった。
 「歯朶しだもちおふ」は、新年しんねんむこしゅうといえ鏡餅かがみもちにシダをえておく風習ふうしゅうによるものらしいが、くわしいことはよくわからない。シダは今日こんにちでいう裏白うらじろのことか。裏白うらじろいまでも鏡餅かがみもちしたくが、かつては正月しょうがつのわらべうたに、

 お正月しょうがつさん、どこまでござった。羊歯しだみのて、つるのかさて、門杭かどくいつえについて、おてらしたかきまった

というふうにうたわれていたように、正月しょうがつさんのみのにも見立みたてられた。もち背負せおってあるうし姿すがたは、まさに正月しょうがつさんのたび姿すがたといえよう。
 歳旦さいたんにそのとし干支えとむのは、このころより半世紀はんせいきくらいまえ貞門ていもん松永貞徳門まつながていとくもん)の俳諧はいかいでは、しばしばおこなわれていた。

 かすみさへまだらにたつやとらのとし 貞徳ていとく
 ゆきさきとけてみずのえねの今年ことし  徳元とくげん

 土芳どほうの『三冊子さんぞうし』に「このは、うしのとしの歳旦さいたんや。この古体こたいひとのしらぬよろこびありとなり。」とあるのは、そのことをすのであろう。
 インドのせいなるうしではないが、普段ふだん農耕のうこう酷使こくしされるうし今日きょうばかりは姿すがたうしのようにゆっくりと確実かくじつに、今年ことしたびはじめよう。


10、江戸えどでの芭蕉ばしょう

 寛文かんぶん12(1672)ねん芭蕉ばしょうは28さいわかさで藤堂藩とうどうはんをやめ、江戸えどることとなった。おそらく、貧農ひんのうである芭蕉ばしょう身分社会みぶんしゃかいかべあつく、もうこれ以上いじょう出世しゅっせもないと見切みきりをつけたのだろう。しかし、元来文才がんらいぶんさいがあり、しょけ、帳簿ちょうぼにもつうじていた芭蕉ばしょうは、俳諧はいかい人脈じんみゃくがかりに、江戸えどでもたちどころに成功せいこうおさめた。江戸えどてきた芭蕉ばしょうは、まず季吟きぎんもんのつてで、日本橋にほんばし本船町ほんふなちょう名主なぬし小沢太郎兵衛おざわたろうべえ得入とくにゅういえ帳簿付ちょうぼづけをやった。田中善信たなかよしのぶの『芭蕉ばしょうふたつのかお』によれば、町名主ちょうなぬし相当そうとう激務げきむで、業務ぎょうむ代行だいこうする町代まちだいやと名主なぬしおおかったという。芭蕉ばしょう江戸えどに出たころは、まだ「町代まちだい」というはなかったが、たような業務ぎょうむ担当たんとうしていたとおもわれる。いまでいえば町長ちょうちょう秘書ひしょといったところか。かなりの要職ようしょくであった。
 さらに、延宝えんぽうはいると、小石川こいしかわ神田上水かんだじょうすい浚渫しゅんせつ作業さぎょうがそれまで町人ちょうにんてられて、重労働じゅうろうどういられていたのにけ、人足にんそくあつめて作業さぎょう代行だいこうする新商売しんしょうばいおもいついた。こうして、延宝えんぽう芭蕉ばしょう延宝えんぽう5(1677)ねん俳諧はいかい師匠ししょうとしての立机りっきとも相成あいなって、まさにこのはるむかえていた。
 このころ一世いっせい風靡ふうびしていたのが談林だんりん俳諧はいかいだった。連歌れんが西山宗因にしやまそういん梅翁ばいおうともいう)のいのすさびではじめたこの俳諧はいかいは、とにかく型破りで、古典の趣向に囚われず、庶民の日常生活をリアルに描き出していった。それが、上方・江戸えどの都会っ子にバカ受けで、芭蕉ばしょう延宝えんぽう3(1675)ねん宗因そういん江戸えどに来た際、それまでの貞門ていもん季吟きぎんもん)をやめ、談林だんりん俳諧はいかいとなった。元来実務派のリアリストだった芭蕉ばしょうにとって、このムーブメントは渡に舟だった。しかも、芭蕉ばしょうの場合は、さらにそれに奇抜な空想を加え、人々ひとびとを驚かせていった。しかし、芭蕉ばしょう俳諧はいかいは次第にシュールとも言える大胆な言葉ことばの取りなしや表記の実験などを加えてゆき、マニアックなものになっていった。

   双六の菩薩もここに伊達姿
 衆生しゅじょうの銭をすくいとらるる

   雲助のたなびく空に来にけらし
 幽霊となって娑婆の小盗み

   よしなき    千万
 夢なれや    夢なれや

宗因そういんや井原西鶴などの本来の談林だんりん誹諧は、庶民の風俗や人情などを巧みに描いたが、芭蕉ばしょうの誹諧は菩薩が博打打ちになって金儲けしていたり、雲助が空から来たのを文字どおり幽霊と取りなし、この世に舞い戻っても盗みを働いていたり、突飛な空想を楽しむ方向に向かっていった。また、伏せ字を使って当時としては危ない話題に触れたりもしていた。伏せ字部分を補うと

   よしなき謀反笑止千万
 夢なれや由井正雪夢なれや

となる。
 そんな芭蕉ばしょう延宝えんぽう8(1680)ねん、突然転機が訪れた。芭蕉ばしょうは急にそれまでの仕事をすべて投げ捨てて深川に隠棲し、仏頂和尚のもとを尋ね、仏道に傾倒していった。芭蕉ばしょうなにが起こったのか、芭蕉ばしょう自身じしん芭蕉ばしょうの弟子たちも黙して語らない。作品も、それまでの都会的で華やかなものから、急に貧乏臭くなる。
 このとき本当になにが起こったのかは、ほとんどなにもわかっていない。たいていの研究者は無常感に駆られての発心という精神的な問題として捉えている。しかし、田中善信は、ここに一つの大胆な仮定をしている。それによると、芭蕉ばしょうには寿貞という妻がいた。もちろん正式の妻ではない。正式の妻ということになると、いえ同士の関係が生じ、また身分が釣り合わないやら何やらで問題が起こりやすい。そこで実質的には妻であっても、表向き奉公人の形態をとる、いわば愛人契約にする場合がしばしばあったという。こうして寿貞と仲睦まじく暮らしていた芭蕉ばしょうが、たまたま余裕もできたということで、甥の桃印を伊賀いがから呼び寄せたところ、桃印が寿貞と駆け落ちしてしまい、いわば芭蕉ばしょうが寝取られた形になってしまった。当時不倫は死罪だったが、血縁のものということで殺すにもしのびず、芭蕉ばしょうは一計を案じた。延宝えんぽうねんに起きた火災は芭蕉ばしょうの棲んでいる日本橋小田原町のすぐそばにまで迫り、もう少しでという所のものだった。そこで芭蕉ばしょうはこの火事で桃印が死んだことにし、伊賀いが藤堂藩に死亡届けを出し、桃印はこれで戸籍を失ったものの命は助かるということになった。さらに、桃印のことで噂が広まることを恐れ、芭蕉ばしょうは深川隠棲を余儀なくされた、というものだ。
 この説は週刊誌の三面記事のようで面白いのだが、面白すぎるのがむしろ欠点といえよう。当代きっての俳諧はいかいが三角関係ということになれば、いくら抑えても噂にならないはずはない。それこそ後々まで芝居のネタにできそうな話だ。しかも、寿貞が芭蕉ばしょうの妻だったという話は100ねんたった後に多賀庵風律が老いた野坡から昔に聞いたことを書いたもので、信憑性に乏しい。芭蕉ばしょうに妻がいたということでさえ、当時の人々ひとびとの好奇心を刺激しただろうから、それについて100年間だれも語らなかったというのは不自然だ。
 当時は一般に結婚の年齢も早く、元服したらすぐに嫁を取ることも多く、子供ができるのも早かった。だから、たとえ二十歳でやっと最初の子が生れたとしても、40になるころにはもはや孫がいてもおかしくなかった。世代の交代がいまよりはるかに早かった。そのため、当時は40過ぎれば「初老」と呼ばれ、家督を息子に譲って隠居することも珍しくはなかった。芭蕉ばしょうの深川隠棲も36歳とやや早いがそういう年齢だったと言えばそれまでだ。
 しかし、芭蕉ばしょうにとってこの隠棲は新たな一つのチャンスにもなった。このころ既に一世を風靡した談林だんりん俳諧はいかいも衰退ムードにあり、芭蕉ばしょうの隠棲はそういう時期だけに、むしろ世間の目にはいさぎよく映っただろう。そして、仏頂禅師の下で参禅して、坊主になるつもりかと世間のひともうわさしただろう。さらに、天和てんなの新風を小出しにすることで、芭蕉ばしょうなにか次の俳諧はいかいをたくらんでる、と期待を集めることもできた。芭蕉ばしょう庵の焼失も不運な出来事ではあったが、そうした事件があったからこそ、『野ざらし紀行』のたびを数々の苦難を乗り越えてのドラマチックなものとして世間に印象づけ、翌貞享じょうきょうねんはるの『蛙合』興行こうぎょうで古池のを発表し、蕉風しょうふう  ところで、寿貞が妻でないとすると、一体芭蕉ばしょうは若き日の性の欲望をどのように発散させていたのだろうか。そのあたりの疑問から、芭蕉ばしょうには昔からホモ説が絶えない。この場合、芭蕉ばしょうがまだ伊賀いがにいた頃に書いた『貝おほひ』に「われもむかしは衆道ずきの」とあるのが、最も有力な証拠とされている。衆道というのは男色のことだからだ。そこから、芭蕉ばしょうと蝉吟との関係が疑われるし、この『野ざらし紀行』で出会う杜国との関係もいろいろ噂された。しかし、『貝おほひ』の文は単に句合わせを盛り上げるための冗談と取れないこともない。確かにホモ説でもないことには、芭蕉ばしょうという人間はあまりに色気がなさすぎる。だから、ホモ説をむきになって否定するのではなく、むしろ灰色のままにしておいたほうが、芭蕉ばしょうへの世間の興味をつなぐという意味で必要なことかもしれない。
 私としては、むしろ芭蕉ばしょうは病弱だったのではないか、と考えている。芭蕉ばしょうというと忍者説まであるように、旅での健脚ぶりが強調されてきた。しかし、その旅の大半は馬に乗っていたとすれば、果たして健脚だったかどうか疑ってみる価値はある。馬といっても、武士のように愛馬にまたがって颯爽とというわけではない。街道で営業している馬子の馬に乗って、歩く早さでゆっくりボクボク歩いていただけだ。ちょうど遊園地のポニーに乗るような状態を、延々何時間も過ごすようなものだ。しかも、許六の描く『芭蕉ばしょう行脚図』を見ればわかるように、芭蕉ばしょうかさだけを手にし、たびの荷物は全部曾良が背負っている。これは従来、「当時の師弟関係はこのような厳格なものだった」と説明されているが、芭蕉ばしょうの体が弱かったとしたら、これは当然だろう。芭蕉ばしょうが一人旅にたびの理想を求めているにもかかわらず、実際じっさいたびは常に門人が同行していた。これも芭蕉ばしょうの体が弱かったとしたら当然だ。
 芭蕉ばしょうには持病があった。延宝えんぽうねん7月25日付けの木因宛の手紙に、すでに「拙者夜前は大に持病指発さしおこり、昨昼之気のつかれ、夜中ふせり申さず候う間」とあり、このころすでに「持病」だったのだから、この病はこのときが初めてではない。つまり、芭蕉ばしょう延宝えんぽう、働き盛りのときから既にしばしば病に苦しめられていたのだ。そして、破笠はりつの語るところによると、貞享期に初めて会った芭蕉ばしょうは41~42歳なのに「六十有余の老人」に見えたという。これを、深川移住以降の貧しさや仏道の影響による質素な食生活のせいと見る人もいるが、もっと前から、延宝えんぽう期から病気がちだったせいではないか。そうなると、深川移住の動機の一つにも、あるいは仏道に心を寄せるようになった動機の一つにも、健康状態の悪化があったのかもしれない。病弱ということになると、この『野ざらし紀行』の読み方も多少違ってくる。たとえば、「野ざらしをこころかぜのしむかな」のたびに死ぬのではないかという不安はもっと現実的なものだったのかもしれないし、「芋洗う女…」のも、西行のように健康だったなら、というニュアンスなのかもしれない。
 芭蕉ばしょうの病弱が疑われるもう一つの根拠は、やはり51歳の若さで死んだことであろう。当時「人生50ねん」と言われていたとはいえ、みんながみんな50くらいで死んでいたわけではない。中世でも西行は73、定家は80、中世の連歌れんが宗祇は82、肖柏は85、宗長も85、俳諧はいかいの祖の宗鑑そうかんは89、荒木田守武は77、貞門ていもんを開いた松永貞徳ていとくは83、そのほか世阿弥も81、一休宗純も88、雪舟も87で、みんな長生きている。芭蕉ばしょうの周辺でも、宗因そういんは77、曾良は61、任口は81、季吟きぎんは82、素堂は75、杉風は85まで生きた。もっとも、其角は47、嵐雪は54、去来54、丈草45といった若くして死んでいるひとも少なくない。其角、嵐雪は大酒飲みで遊廓に入り浸たる不健康な生活をしていたし、丈草ははっきりと病弱で、そのため仏道に入っていた。芭蕉ばしょうは途中からベジタリアンになるなど、あれほど生真面目で節度ある健康的な生活をして短命だったのは、やはり芭蕉ばしょうも病弱だったと考えられるのではないか。
 西行については、文覚という武士の出で武芸に長けた法師が、西行は頓世のなのにうたなど詠んで遊んでいてけしからん、「いづくにても見合ひたらば、かしらを打ちわるべきよし、つねのあらましにて、有けり」と言っていたが、実際じっさいに会ってみると、これなら頭をかち割るどころか逆にやられてしまうと思ったという話が『井蛙抄せいあしょう』に記されている。それほど屈強な男だったからこそ、あの乱世の世を長生きできた。もし芭蕉ばしょうが西行なみの肉体の持ち主だったなら、蝦夷や琉球はもとよりオランダまでも旅をし、行く先々で恋をし、ゆめはチューリップ畑を駆け巡っていたかもしれない。

11、はるなれや…

     

   奈良ならいづみちのほど
 はるなれやもなきやま薄霞うすがすみ

   ナラにいずるみちのほど  はるなれやなもなきやまのうすがすみ

 故郷こきょう伊賀いが正月しょうがつごしたのち芭蕉ばしょうふたた奈良ならへとかう。
 奈良ならには春日山かすがやま三輪山みわやま生駒山いこまやま葛城山かつらぎさん、など数々かずかず名山めいざんがあり、なかでもあま香具山かぐやまかすみ後鳥羽院ごとばいんの、

 ほのぼのとはるこそそらに来にけらし
   天の香具山霞たなびく

うた有名ゆうめいだ。そんなうつくしい、まさに日本武尊皇やまとたけるのみことが「くにのまほろば」といった、青垣山隠あおがきやまこもれる奈良盆地ならぼんちおもかべながら、芭蕉ばしょう伊賀いがあとにしたのだろう。こころあま香具山かぐやまにあれば、道筋みちすじもなきやまかすみでも、どことなく神々こうごうしくおもえてくる。名山名所めいざんめいしょはそれだけで高貴こうきなものであるが、もなきものにはるないというわけではない。はる貴賤きせんわず天下てんかあまねくやってくる。香具山かぐやまかすみ連歌れんが世界せかい、そして、もなきやまかすみ風雅ふうが-それこそが俳諧はいかいなのである。
 宗祇法師そうぎほうしは『筑紫道記つくしみちのき』のなかで、海辺うみべ景色けしきめながらも「名所めいしょならねばしひてこころとまらず」とった。宗祇そうぎ真意しんい金子金次郎かねこきんじろうによれば、そのあとの「やまとことみちも、そのいへひとまた大家たいかなどにあらずば甲斐かひなかるべし」とあわせて、自分じぶんうたんではみたものの、勅撰集入集ちょくせんしゅうにゅうしゅうなどゆめゆめだろうというなげきにあり、それをもない景色けしきうつくしさにたとえたのだという。いわば、うた身分みぶんによって評価ひょうかされる現実げんじつ逆説的ぎゃくせつてきべたものらしい。題材だいざい貴賤きせんをとやかくうのは、芭蕉ばしょう時代じだいにも普通ふつうのことだった。
 写生しゃせい西洋せいよう絵画かいがであれ、近代俳句きんだいはいくであれ、すくなからず貴族趣味きぞくしゅみからの脱却だっきゃくなかで起こってきた。近代の市民が自分じぶんたちの身近みじか世界せかい解放かいほうし、独自どくじ発見はっけんしようとするなかで、なんでもない風景ふうけいうつくしさがえがかれてきた。しかし、こうした卑俗ひぞくなものの解放かいほうするこころみも、ふる権威けんいとの拮抗きっこうなかでこそかがやくのであり、一度ひとたび写生しゃせい体制たいせいがわのものとなってしまうと、あとは平凡へいぼん風景ふうけい羅列られつとなる。それこそなんでも作者さくしゃうつくしいとえばうつくしいことになってしまうし、およそこのにあるもの、明日あしたんでもうられなくなるとおもえばなんだってうつくしいものなのだ。こうして写生しゃせい際限さいげんなく増殖ぞうしょくしてく。すべての景色けしき平等びょうどうであり、等価とうかであるなら、結局けっきょく、あとはただ描写びょうしゃ奇抜きばつさや題材だいざいめずらしさの勝負しょうぶとなる。
 談林だんりん俳諧はいかいすでにその傾向けいこうをもっていた。風俗ふうぞく描写びょうしゃたしかに庶民しょみんきとした世界せかい解放かいほうした。しかし、芭蕉ばしょうはそこにとどまらず、普遍的ふへんてき価値かちとリアルな描写びょうしゃ両立りょうりつ目指めざす。もなきやまかすみも、結局けっきょく香具山かぐやまかすみこころにおいてこそ特別とくべつ意味いみつのだ。

12、こおりのそう

     二月堂にがつだうりて
 みづとりやこほりのさうくつおと

   ニガツドーにこもりて
 みずとりやこーりのソーのくつのおと

 このはよほど難解なんかいだったのか、蝶夢ちょうむへんの『芭蕉ばしょうおう発句集ほっくしゅう』(安永あんえい年刊ねんかん)では「みずとりやこもりのそうくつおと」とあり、また、『芭蕉ばしょう句選くせん』(元文げんぶん年刊ねんかん)では「水鳥みずどりこおりのそうくつおとあやまってかれていたという。「こおりのそう」というのがなんのことかからなかったのだろう。
   「こもりのそう」ならたしかにかりやすい。お水取みずとりりで二月堂にがつどうこもっていたそう姿すがたあらわし、そのくつおとこえるという、そのままの意味いみだ。しかし、これだとあまりに平凡へいぼんすぎる。かといって「水鳥みずどりや…」だと意味いみとおらない。
 近世きんせいひとくびをひねったこのも、近代人きんだいじんはほとんどなやむことがなかった。「こおりのそう」─面白おもしろいレトリックじゃないか、それですんでいた。近代きんだいになり、西洋せいようから象徴詩しょうちょうし手法しゅほうはいってくると、しばしば隠喩いんゆ省略的しょうりゃくてきかたおこわれるようになる。たとえば

 やまのあなたの空遠そらとお
 幸棲さいわいすむとひと

は、

 やまのあなたの空遠そらとおくがごと
 さいわいもまたかくのごとくなむひと

りゃくなのだが、俳諧はいかい伝統的でんとうてき語法ごほうだとこれは

 さいわいやまのあなたの空遠そらとお

む。つまり、「幸棲さいわいすむ」という断定だんていけて、「や」や「かな」のような疑問ぎもんとも詠嘆えいたんともれる曖昧あいまいりや体言止たいげんどめ、連用形れんようけいなどで後跡あとなに省略しょうりゃくされていることをにおわすまわしをする。隠喩いんゆ断定的だんていてきかたるというのは、そのてんでは近代詩きんだいし特有とくゆうまわしなのである。たとえば、

 水枕みずまくらがばりとさむうみがある   三鬼さんき

は「うみがある」と断定だんていするところが近代的きんだいてきなのであり、

 水枕みずまくらがばりとうみさむさかな

であれば俳諧はいかいなのである。ぎゃくに、

 ゆめとなりし骸骨がいこつおどおぎこえ   其角きかく

は、

 おぎこえゆめとなった骸骨がいこつおど

ならば近代俳句きんだいはいくになる。
 こおりごとそうを「こおりそう」とすることは、現代詩げんだいしであればべつ問題もんだいはない。しかし、芭蕉ばしょう時代じだいにこのまわしが成立せいりつしたかどうか。弟子でしたちの混乱こんらんぶりからすると、かなり無理むりがあったのではなかったか。
 「みずとりや…」のにはもっと簡単かんたん解釈かいしゃく可能かのうなのではないか。こおりそうが「こもりのそう」の間違まちがいでないとすれば、むしろわたしは「こおりの」の「の」がどこにかるのかを見直みなおすべきだったとおもう。「こおりそう」というのは、まわしとして不自然ふしぜんだし、最初さいしょからありえなかったのではなかったか。それなら「こおりくつ」はというと、これもありそうにない。のこるのは「こおりりのおと」だ。このは、こおりの、そうくつの、おと、というふうにかっていたもので、本来ほんらいなら「そうくつこおりおと」となるところを575のリズムになるようにならびかえただけではなかったか。
 旧暦きゅうれきの2がつといえば今日こんにちう3がつだが、深夜しんやのお水取みずとりともなればまださむく、こおりることもあったのだろう。そのこおりそうくつっている姿すがた芭蕉ばしょうめたのではなかったか。こおりれるおとは、

 そでひちてむすびしみづのこほれるを
   はるたつけふのかぜやとくらん
                     紀貫之きのつらゆき
 谷風たにかぜにとくるこほりのひまごとに
   づるなみやはるのはつはな
                     源当純みなもとのまさずみ

といった古歌こか連想れんそうさせ、はるおとずれのめでたさをあらわしている。それが芭蕉ばしょう本来ほんらいねらいではなかったか。このあたま文字もじをたどってゆけば、「みず」「こおり」「くつみずのつくならんでいる。ここにもさりげなく、みず一度凍いちどこおり、のぼるとともにけてみずもどるかのような、こまかい演出えんしゅつがなされている。

13、三井秋風みついしゅうふう花林園かりんえんにて

 きょうにのぼりて、三井秋風みつゐしうふう鳴瀧なるたき山家やまがをとふ。

   梅林ばいりん
 梅白むめしろ昨日きのふつるぬすまれし
 かしはなにかまはぬ姿すがたかな

 キョーにのぼりて、ミツイシューフーがナルタキのやまがをとう。

   バイリン
 うめしろしきのーはつるをぬすまれし
 かしのきのはなにかまわぬすがたかな

 奈良ならからきょうのぼり、鳴瀧なるたき三井秋風みついしゅうふう別墅べっしょ花林園かりんえんたずねる。
 三井みついといえば「現金げんきんなし」という新商法しんしょうほう繁盛はんじょうした越後屋えちごや呉服店ごふくてんのあの三井みつい一族いちぞくで、初代しょだい三井みつい三井高利みついたかとし(そののとおり金貸かねかしだった)のおいたるという。越後屋えちごや江戸進出えどしんしゅつ延宝えんぽうがん(1673)ねんで、芭蕉ばしょう江戸えどのぼる3年前ねんまえのことだった。その天和てんな2(1682)ねん八百屋やおやしち大火たいかされたりしながらも苦労くろうしてった栄光えいこうは、業種ぎょうしゅちがうとはいえ、芭蕉ばしょう姿すがたにもかさなるものがある。越後屋えちごや発展はってんながら、おれ頑張がんばろう、とおもった地方出身者ちほうしゅっしんしゃもたくさんいたことだろう。
 三井秋風みついしゅうふう当然とうぜん金持かねもちで、鳴瀧なるたき花林園かりんえんもさぞかし立派りっぱで、ひろ庭園ていえんにはいまさかりとうめほこっていたのだろう。三井秋風みついしゅうふうがあまりに有名ゆうめい金持かねもちだったため、芭蕉ばしょうのこの追従ついしょうだと揶揄やゆするひとがいたようで、去来きょらいが『去来抄きょらいしょう』のなかで「秋風しうふう洛陽らくやう富家ふかうまれ、市中しちゅうり、山家やまが閑居かんきょして詩歌しいかたのしみ、騒人そうじんあいするとききて、かれにむかへられ、じつあるじ風騒隠逸ふうそういんいつひととおもひたまへるうへ作有さくあり」と弁護べんごしている。「騒人そうじん」というのはべつさわがしいひとではない。そうといのは屈原くつげんの『離騒りそう』というからたもので、そうにはうれいとか悲哀ひあいという意味いみがある。そこから屈原くつげんのような隠逸いんいつ詩人しじん騒人そうじんんでいた。三井秋風みついしゅうふう金持かねもちでもこころ隠士いんしだからたずねたのであって、かねびたのではない。
 しかし、このような金持かねもちでも、なんなやみもないかといえばそうでもない。はじめ北村きたむら季吟きぎん師事しじし、貞門ていもん俳諧はいかいだった秋風しゅうふうは、のち西山宗因にしやまそういん田中たなか常矩つねのりとともに談林だんりん俳諧はいかい一翼いちよくになうこととなった。

 柳短やなぎみじかむめ一輪いちりん竹門たけもんがためにあを
 うたよまず詩作しつくらず自然しぜん夜着よぎゆき

といった破調はちょうがある。
 しかし、天和てんなねん宗因そういん常矩つねのり相次あいついでうしない、談林だんりん俳諧はいかい急速きゅうそく衰退すいたいしてゆくこととなった。宗因そういん芭蕉ばしょうにとってもおおきなショックで、この『ざらし紀行きこう』のたびもまた、宗因そういん面影おもかげもとめてたびたようなものだった。まして宗因そういん常矩つねのりしたしかった秋風しゅうふうにとっては、ぽっかりあなのあいたようなもので、どうも3ねんたったいまでも、まだショックからなおってなかったようだ。このはそんな芭蕉ばしょうからの秋風しゅうふうへのなぐさめの言葉ことばだった。

 梅白むめしろ昨日きのふつるぬすまれし

 うめにはあかいのもしろいのもあるが、「しろ」を強調きょうちょうしたのは弔意ちょういめてのことだろう。つるわたどりだからはるにはきたかえっていくもので、それは自然しぜん摂理せつり運命うんめいだから仕方しかたがない。それを「ぬすまれた」と表現ひょうげんすることで、なんとか秋風しゅうふうから笑顔えがおしたかったのであろう。秋風しゅうふうはこうこたえる。

   梅白むめしろ昨日きのふつるぬすまれし
 杉菜すぎな身擦みす牛二うしふた馬一うまひと

 杉菜すぎなとは、ぎしのことだろうか、それとも風流ふうりゅうこのむという意味いみの「数寄すき」ののことだろうか。庭園ていえんにはつかわしくない雑草ざっそうをすりけているうしようなものですよ、という謙虚けんきょこたえだ。牛二うしふたツとは、かって梅翁ばいおう宗因そういん別名べつめい)が江戸えどとき芭蕉ばしょうんだ、

 このむめうし初音はつねきつべし    芭蕉ばしょう当時とうじ桃青とうせい

おもこしたものか。となると、牛二うしふたツは芭蕉ばしょう秋風しゅうふうのことだろうか。ならば馬一うまひとツはだれだろう。いや、わきはあくまで挨拶あいさつだから、みずからは謙遜けんそんしてうしといっても、やはりうま芭蕉ばしょうのことなのだろう。そうなるともう一人ひとりうしだれだろうか、このあとたずねる任口上人にんこうしょうにんだろうか。
 素堂そどうは「洛陽らくやういたり、三井氏みついし秋風子しうふうし梅林ばいりんをたづね、きのふやつるをぬすまれしと、西湖せいこにすむひとつるとし、うめつまとせしことをおもひよせしこそ、すみれ・むくげののしもにたたんことかたかるべし。」とい、「みちのべの木槿むくげ」や「山路来やまじきなにやらゆかし」のにも匹敵ひってきする名吟めいぎんとして評価ひょうかしている。つる宗因そういん常矩つねのりおもい、しのこころと、「ぬすまれし」でせるユーモアとの微妙びみょうなバランス、古池ふるいけ木槿むくげむだけが芭蕉ばしょうじゃない、といったところか。
 花林園かりんえんでのもうひとつの

 かしはなにかまはぬ姿すがたかな

はなは、まえとのつながりでれば、うめはなんだものだろう。無理むりさくらむすびつける必要ひつようはない。「はな」とだけあれば当然桜とうぜんさくらでなければばらぬというのは理屈りくつだが、そのへんの規則きそくこまかいところにいちいちこだわらないのが談林だんりん作風さくふうだ。かし文字通もじどおり「かたい」で、周囲しゅういはなかれていても、がんとしてどうじない。あなたも我路わがみちけばいいじゃないですか、というメッセージをめたものだろう。
 京都きょうとはまだ北村きたむら季吟きぎん健在けんざいで、貞門ていもん古風こふうきている。季吟きぎんは、芭蕉ばしょうがまだ伊賀いがにいたころ俳諧はいかいほどきをけた蝉吟せんぎん師匠ししょうでもある。季吟きぎんかられば芭蕉ばしょう孫弟子まごでしにすぎないわけだ。今回こんかいたび芭蕉ばしょう季吟きぎんところってないのは、このへんのかくちがいからか。もっとも、季吟きぎん古風こふうは、いま芭蕉ばしょうもとめるものでないのもたしかだ。芭蕉ばしょううのは、むしろ宗因そういんとともに貞門ていもんはなれた談林だんりん俳諧はいかいだった。

14、伏見ふしみもも

   伏見ふしみ西岸寺さいがんじ任口上人にんこうしゃうにんあふ
 がきぬにふしみのももしづくせよ

   フシミサイガンジニンコーショーニンにおーて
 わがきぬにふしみのもものしずくせよ

 伏見西岸寺の住職、任口にんこうもまた、宗因と親交があった。
 久しぶりに会うこの80歳の老僧は、任口と名乗るだけあって、口に任せてよく喋る、剽軽な人柄だったのだろう(これはあくまで推測)。伏見は桃の名産地。桃で作った酒は不老長寿の仙薬にもなる。元気で濶達なこの老人を見て、私にもその長生きの薬を分けてください、と言ったのだろう。この老人も翌年には世を去ることになる。
 伏見といえば、豊臣秀吉が桃山城を立てて一度は栄えたが、徳川の世では秀吉は悪者。かつての繁栄も虚しく、荒れ果てていった。井原西鶴の『日本永代蔵』巻三「世は抜取り観音のまなこ」に、当時の伏見の様子が描かれている。

 「その時の繁盛に変り、屋形の跡は芋畠いもばたけとなり、見るに寂しき桃林に、花咲く春は人も住むかと思はれける。常は昼も蝙蝠かうふり飛んで、ほたるも出づべき風情ふぜいなり。京街道は昔残りて、見世みせの付きたるいへもあり。片脇は崩れ次第に、人倫絶えて、一町に三所みところばかり、かすかなる朝夕の煙、蚊屋なしの夏の夜、蒲団ふとん持たずの冬をやうやうに送りぬ。」

 江戸中期になると伏見も酒の町として甦ることになる。

15、なにやらゆかし

   大津おほつにでるみち山路やまぢえて
 山路来やまぢなにやらゆかしすみれぐさ

   オーツにでるみち、やまじをこえて
 やまじきてなにやらゆかしすみれぐさ

 奈良ならもなきやまめ、二月堂にがつどうそうくつおとひびき風流ふうりゅうし、京都きょうと秋風しゅうふう別墅べっしょ主人しゅじんをなぐさめた芭蕉ばしょうは、奈良ならから大津おおつかうみちで、あの有名ゆうめいむことになる。
 「ゆかしい」というと、今日こんにちではひんのある、ひかえめなという意味いみつよいが、本来ほんらいは「く」から言葉ことばで、ってみたくなる、きつけられる、という意味いみだった。山奥やまおくにひっそりとらんはな君子くんしこころだが、すみれはにもどこにもありふれている。それでもなんだかわからないがせられる。すみれはんでいるとでもいうのか、それとも墨染すみぞめのそうころも連想れんそうさせるからだろうか。ふかかんがえるほどのこともあるまい。理由りゆうもなくきつけられる-そんなこともあるのだ。和歌わかではすみれはくすみれをむべきものだったが、そんな言葉ことばえんとも関係かんけいなくこのはなせられ、しばしたびあしめる。
 芭蕉ばしょうは『おい小文こぶみ』で「かたちはなにあらざるとき夷狄いてきにひとし、こころはなにあらざるとき鳥獣てうじゅうに類ス。夷狄いてきを出、鳥獣てうじゅうはなれて、造化ぞうくゎにしたがひ、造化ぞうくゎにかへれとなり」つまり、人間にんげんらしさをつきはな四季しきうつわりをあいするところにもとめている。うまからすれば木槿むくげたんなる食物しょくもつにすぎないが、人間にんげん木槿むくげはな様々さまざまこころもとめる。はなうつくしいのは、それがたんなる物理現象ぶつりげんしょうではなく、はなひとこころがあるからなのである。しかし、人間にんげんだっていつも「こころ」をもとめているわけにはいかず、うにこまってはをしたり、ひところせば戦争せんそうこす。きてゆくために生存競争せいぞんきょうそうのがれることはできない。しかし、それをかなしいとおもい、そこからの解放かいほうを、いわば解脱げだつもとめるところに人間にんげんらしさがある。それは理屈りくつではない。れば惻隠そくいんじょうしょうじるように、山路やまじのすみれに理屈抜りくつぬきにせられる。山路やまじのすみれはともするとおかまいなしにふんづけてあるいてしまうが、それにめ、ふときれいだとおもときひとはしばしうかわれるかのてんおきてわすれ、自由じゆう幸福こうふくかんじることができる。
 山口素堂やまぐちそどうは「山路やまぢきてのすみれ、みちばたのむくげこそ、この吟行ぎんこう秀逸しういつなるべけれ」と、このを「みちのべの木槿むくげ」のならべて評価ひょうかしている。この二句にくはともに「みち」のだ。ひとつははなかなしみを、ひとつはよろこびをす。はなくのをよろこび、るのをかなしむ。それが「造化ぞうか」にしたがうということなのだろう。
 もちろん今日こんにちでは「夷狄いてき」という表現ひょうげんはふさわしくない。地球上ちきゅうじょうどこでもはなあいさぬ民族みんぞくなど存在そんざいしない。しかし、ここで芭蕉ばしょうが「夷狄いてき」をどうとらえていたか、かえってみるのも無駄むだではあるまい。「夷狄いてき」とは元来がんらい中華ちゅうか」にたいしての夷狄いてきであり、「中華ちゅうか思想しそう」と密接みっせつむすびついた言葉ことばだ。中華ちゅうか思想しそうというと、どうしてもユダヤの選民思想せんみんしそうのようなものと誤解ごかいされやすいが、実際じっさいはそうではない。中華ちゅうかというのはむしろ文明ぶんめいのあるところという意味いみで、文明ぶんめい中心ちゅうしんたいして、そこからへだたった辺縁へんえん夷狄いてきとなる。それをになうのはかならずしも漢民族かんみんぞくでなくてもいい。だから中国ちゅうごくがモンゴルじんげんのように)や満州人まんしゅうじんしんのように)に支配しはいされたとしても、中国ちゅうごく文明ぶんめい継承者けいしょうしゃであれば中華ちゅうかなのである。実際じっさい近世きんせいひがしアジアの華夷秩序かいちつじょは、中国ちゅうごく朝鮮ちょそん日本にほん、ベトナムなどがそれぞれみずからのくに中心ちゅうしんにして、朝貢ちょうこう互市関係ごしかんけいむすび、維持いじされてきた。中華ちゅうか文明ぶんめい中心ちゅうしんであり、日本にほんには日本にほん中華ちゅうかがあり、日本にほんにとっての夷狄いてき可能かのうなのであり、こうして各国かっこくがそれぞれミニ中華ちゅうか形成けいせいしていくことによっておたがいに相対化そうたいかされてゆく性格せいかくっていた。そして、こうした華夷秩序かいちつじょ国境こっきょうによってくにくに明確めいかく区切くぎられるというよりは、むしろ文明ぶんめいおよ度合どあいによって徐々じょじょ辺縁部へんえんぶ移行いこうし、どちらの文明ぶんめいからも等距離とうきょりになるようなボーダレスな空間くうかん、たとえば対馬つしま琉球りゅうきゅうのような交易こうえき中心ちゅうしんす。国境こっきょうというのは西洋せいよう列強れっきょうがアジアに侵略しんりゃくしてきたさいに大慌おおあわてでさだめられたもので、それ以前いぜんには北方領土ほっぽうりょうどだの、竹島たけしまだの、尖閣諸島せんかくしょとうだのといった領有権りょうゆうけん問題もんだいしょうじなかった。
 芭蕉ばしょうにとって、中華ちゅうかとはまさに「はなはな)」を意味いみするものだった。はなくのをよろこはなるのをかなしむ、それが文明ぶんめいであり、はなこころらぬというのが「夷狄いてき」だった。こころはながあれば、そこはいつでも「中華ちゅうか」であり、はながないときは「夷狄いてき」なのである。はなはまた同時どうじうしなわれ、記憶きおくなか理想化りそうかされたはなへのおもいでもある。時間的じかんてきには先王せんのう治世ちせいうしなわれた王朝おうちょうへのおもい、空間的くうかんてきにははなみやこわれた旅人たびびとみやこへのおもいでもある。はなこころはまさに「みやび」であり、みやこのこころで、たとえとおいひなの長路ながじあゆ流刑人るけいにんであっても、はなこころうしなわないならこころ夷狄いてきにあらず、なのである。(つづく)