
野ざらし紀行
─異界への旅─5
(ver.2)
ゆきゆき亭 こやん
9、丑の年の歳旦
といひいひも、山家に年を越て
誰が聟ぞ歯朶に餅おふうしの年
といーいーも、ヤマガにとしをこして
たがむこぞシダにもちおううしのとし
結局、実際芭蕉は故郷の伊賀で新年を迎えることになった。
「歯朶に餅おふ」は、新年に聟が舅の家へ鏡餅にシダを添えて送る風習によるものらしいが、詳しいことはよくわからない。シダは今日でいう裏白のことか。裏白は今でも鏡餅の下に敷くが、かつては正月のわらべ歌に、
お正月さん、どこまでござった。羊歯を蓑に着て、つるの葉を笠に着て、門杭を杖について、お寺の下の柿の木に止まった
というふうに歌われていたように、正月さんの蓑にも見立てられた。餅を背負って歩く牛の姿は、まさに正月さんの旅姿といえよう。
歳旦の句にその年の干支を折り込むのは、この頃より半世紀くらい前の貞門(松永貞徳門)の俳諧では、しばしば行なわれていた。
霞みさへまだらにたつやとらの年 貞徳
雪や先とけてみずのえねの今年 徳元
土芳の『三冊子』に「此句は、丑のとしの歳旦や。此古体に人のしらぬ悦ありと也。」とあるのは、そのことを指すのであろう。
インドの聖なる牛ではないが、普段農耕で酷使される牛も今日ばかりは晴れ姿。牛のようにゆっくりと確実に、今年も旅を始めよう。
寛文12(1672)年、芭蕉は28歳の若さで藤堂藩をやめ、江戸に出ることとなった。おそらく、貧農の出である芭蕉に身分社会の壁は厚く、もうこれ以上の出世もないと見切りをつけたのだろう。しかし、元来文才があり、書に長け、帳簿にも通じていた芭蕉は、俳諧で得た人脈を手がかりに、江戸でもたちどころに成功を収めた。江戸に出てきた芭蕉は、まず季吟門のつてで、日本橋本船町の名主、小沢太郎兵衛得入の家の帳簿付けをやった。田中善信の『芭蕉二つの顔』によれば、町名主は相当の激務で、業務を代行する町代を雇う名主が多かったという。芭蕉が江戸に出た頃は、まだ「町代」という名はなかったが、似たような業務を担当していたと思われる。今でいえば町長の秘書といったところか。かなりの要職であった。
さらに、延宝期に入ると、小石川の神田上水の浚渫作業がそれまで町人に割り当てられて、重労働を強いられていたのに目を付け、人足を集めて作業を代行する新商売を思いついた。こうして、延宝期の芭蕉は延宝5(1677)年の俳諧師匠としての立机とも相成って、まさにこの世の春を迎えていた。
この頃一世を風靡していたのが談林の俳諧だった。連歌師西山宗因(梅翁ともいう)の老いのすさびで始めたこの俳諧は、とにかく型破りで、古典の趣向に囚われず、庶民の日常生活をリアルに描き出していった。それが、上方・江戸の都会っ子にバカ受けで、芭蕉も延宝3(1675)年、宗因が江戸に来た際、それまでの貞門(季吟門)をやめ、談林の俳諧師となった。元来実務派のリアリストだった芭蕉にとって、このムーブメントは渡に舟だった。しかも、芭蕉の場合は、さらにそれに奇抜な空想を加え、人々を驚かせていった。しかし、芭蕉の俳諧は次第にシュールとも言える大胆な言葉の取りなしや表記の実験などを加えてゆき、マニアックなものになっていった。
双六の菩薩もここに伊達姿
衆生の銭をすくいとらるる
雲助のたなびく空に来にけらし
幽霊となって娑婆の小盗み
よしなき 千万
夢なれや 夢なれや
宗因や井原西鶴などの本来の談林誹諧は、庶民の風俗や人情などを巧みに描いたが、芭蕉の誹諧は菩薩が博打打ちになって金儲けしていたり、雲助が空から来たのを文字どおり幽霊と取りなし、この世に舞い戻っても盗みを働いていたり、突飛な空想を楽しむ方向に向かっていった。また、伏せ字を使って当時としては危ない話題に触れたりもしていた。伏せ字部分を補うと
よしなき謀反笑止千万
夢なれや由井正雪夢なれや
となる。
そんな芭蕉に延宝8(1680)年、突然転機が訪れた。芭蕉は急にそれまでの仕事をすべて投げ捨てて深川に隠棲し、仏頂和尚のもとを尋ね、仏道に傾倒していった。芭蕉の身に何が起こったのか、芭蕉自身も芭蕉の弟子たちも黙して語らない。作品も、それまでの都会的で華やかなものから、急に貧乏臭くなる。
この時本当に何が起こったのかは、ほとんど何もわかっていない。たいていの研究者は無常感に駆られての発心という精神的な問題として捉えている。しかし、田中善信は、ここに一つの大胆な仮定をしている。それによると、芭蕉には寿貞という妻がいた。もちろん正式の妻ではない。正式の妻ということになると、家同士の関係が生じ、また身分が釣り合わないやら何やらで問題が起こりやすい。そこで実質的には妻であっても、表向き奉公人の形態をとる、いわば愛人契約にする場合がしばしばあったという。こうして寿貞と仲睦まじく暮らしていた芭蕉が、たまたま余裕もできたということで、甥の桃印を伊賀から呼び寄せたところ、桃印が寿貞と駆け落ちしてしまい、いわば芭蕉が寝取られた形になってしまった。当時不倫は死罪だったが、血縁のものということで殺すにもしのびず、芭蕉は一計を案じた。延宝8年に起きた火災は芭蕉の棲んでいる日本橋小田原町のすぐそばにまで迫り、もう少しでという所のものだった。そこで芭蕉はこの火事で桃印が死んだことにし、伊賀藤堂藩に死亡届けを出し、桃印はこれで戸籍を失ったものの命は助かるということになった。さらに、桃印のことで噂が広まることを恐れ、芭蕉は深川隠棲を余儀なくされた、というものだ。
この説は週刊誌の三面記事のようで面白いのだが、面白すぎるのがむしろ欠点といえよう。当代きっての俳諧師が三角関係ということになれば、いくら抑えても噂にならないはずはない。それこそ後々まで芝居のネタにできそうな話だ。しかも、寿貞が芭蕉の妻だったという話は100年たった後に多賀庵風律が老いた野坡から昔に聞いたことを書いたもので、信憑性に乏しい。芭蕉に妻がいたということでさえ、当時の人々の好奇心を刺激しただろうから、それについて100年間誰も語らなかったというのは不自然だ。
当時は一般に結婚の年齢も早く、元服したらすぐに嫁を取ることも多く、子供ができるのも早かった。だから、たとえ二十歳でやっと最初の子が生れたとしても、40になる頃にはもはや孫がいてもおかしくなかった。世代の交代が今よりはるかに早かった。そのため、当時は40過ぎれば「初老」と呼ばれ、家督を息子に譲って隠居することも珍しくはなかった。芭蕉の深川隠棲も36歳とやや早いがそういう年齢だったと言えばそれまでだ。
しかし、芭蕉にとってこの隠棲は新たな一つのチャンスにもなった。この頃既に一世を風靡した談林俳諧も衰退ムードにあり、芭蕉の隠棲はそういう時期だけに、むしろ世間の目にはいさぎよく映っただろう。そして、仏頂禅師の下で参禅して、坊主になるつもりかと世間の人もうわさしただろう。さらに、天和の新風を小出しにすることで、芭蕉は何か次の俳諧をたくらんでる、と期待を集めることもできた。芭蕉庵の焼失も不運な出来事ではあったが、そうした事件があったからこそ、『野ざらし紀行』の旅を数々の苦難を乗り越えてのドラマチックなものとして世間に印象づけ、翌貞享3年春の『蛙合』興行で古池の句を発表し、蕉風
ところで、寿貞が妻でないとすると、一体芭蕉は若き日の性の欲望をどのように発散させていたのだろうか。そのあたりの疑問から、芭蕉には昔からホモ説が絶えない。この場合、芭蕉がまだ伊賀にいた頃に書いた『貝おほひ』に「われもむかしは衆道ずきの」とあるのが、最も有力な証拠とされている。衆道というのは男色のことだからだ。そこから、芭蕉と蝉吟との関係が疑われるし、この『野ざらし紀行』で出会う杜国との関係もいろいろ噂された。しかし、『貝おほひ』の文は単に句合わせを盛り上げるための冗談と取れないこともない。確かにホモ説でもないことには、芭蕉という人間はあまりに色気がなさすぎる。だから、ホモ説をむきになって否定するのではなく、むしろ灰色のままにしておいたほうが、芭蕉への世間の興味をつなぐという意味で必要なことかもしれない。
私としては、むしろ芭蕉は病弱だったのではないか、と考えている。芭蕉というと忍者説まであるように、旅での健脚ぶりが強調されてきた。しかし、その旅の大半は馬に乗っていたとすれば、果たして健脚だったかどうか疑ってみる価値はある。馬といっても、武士のように愛馬にまたがって颯爽とというわけではない。街道で営業している馬子の馬に乗って、歩く早さでゆっくりボクボク歩いていただけだ。ちょうど遊園地のポニーに乗るような状態を、延々何時間も過ごすようなものだ。しかも、許六の描く『芭蕉行脚図』を見ればわかるように、芭蕉は笠だけを手にし、旅の荷物は全部曾良が背負っている。これは従来、「当時の師弟関係はこのような厳格なものだった」と説明されているが、芭蕉の体が弱かったとしたら、これは当然だろう。芭蕉が一人旅に旅の理想を求めているにもかかわらず、実際の旅は常に門人が同行していた。これも芭蕉の体が弱かったとしたら当然だ。
芭蕉には持病があった。延宝9年7月25日付けの木因宛の手紙に、すでに「拙者夜前は大に持病指発り、昨昼之気のつかれ、夜中ふせり申さず候う間」とあり、この頃すでに「持病」だったのだから、この病はこの時が初めてではない。つまり、芭蕉は延宝期、働き盛りのときから既にしばしば病に苦しめられていたのだ。そして、破笠の語るところによると、貞享期に初めて会った芭蕉は41~42歳なのに「六十有余の老人」に見えたという。これを、深川移住以降の貧しさや仏道の影響による質素な食生活のせいと見る人もいるが、もっと前から、延宝期から病気がちだったせいではないか。そうなると、深川移住の動機の一つにも、あるいは仏道に心を寄せるようになった動機の一つにも、健康状態の悪化があったのかもしれない。病弱ということになると、この『野ざらし紀行』の読み方も多少違ってくる。たとえば、「野ざらしを心に風のしむ身かな」の旅に死ぬのではないかという不安はもっと現実的なものだったのかもしれないし、「芋洗う女…」の句も、西行のように健康だったなら、というニュアンスなのかもしれない。
芭蕉の病弱が疑われるもう一つの根拠は、やはり51歳の若さで死んだことであろう。当時「人生50年」と言われていたとはいえ、みんながみんな50くらいで死んでいたわけではない。中世でも西行は73、定家は80、中世の連歌師宗祇は82、肖柏は85、宗長も85、俳諧の祖の宗鑑は89、荒木田守武は77、貞門を開いた松永貞徳は83、そのほか世阿弥も81、一休宗純も88、雪舟も87で、みんな長生きている。芭蕉の周辺でも、宗因は77、曾良は61、任口は81、季吟は82、素堂は75、杉風は85まで生きた。もっとも、其角は47、嵐雪は54、去来54、丈草45といった若くして死んでいる人も少なくない。其角、嵐雪は大酒飲みで遊廓に入り浸たる不健康な生活をしていたし、丈草ははっきりと病弱で、そのため仏道に入っていた。芭蕉は途中からベジタリアンになるなど、あれほど生真面目で節度ある健康的な生活をして短命だったのは、やはり芭蕉も病弱だったと考えられるのではないか。
西行については、文覚という武士の出で武芸に長けた法師が、西行は頓世の身なのに歌など詠んで遊んでいてけしからん、「いづくにても見合ひたらば、かしらを打ちわるべきよし、つねのあらましにて、有けり」と言っていたが、実際に会ってみると、これなら頭をかち割るどころか逆にやられてしまうと思ったという話が『井蛙抄』に記されている。それほど屈強な男だったからこそ、あの乱世の世を長生きできた。もし芭蕉が西行なみの肉体の持ち主だったなら、蝦夷や琉球はもとよりオランダまでも旅をし、行く先々で恋をし、夢はチューリップ畑を駆け巡っていたかもしれない。
奈良に出る道のほど
春なれや名もなき山の薄霞
ナラにいずるみちのほど
はるなれやなもなきやまのうすがすみ
故郷伊賀で正月を過ごした後、芭蕉は再び奈良へと向かう。
奈良には春日山、三輪山、生駒山、葛城山、など数々の名山があり、中でも天の香具山の霞は後鳥羽院の、
ほのぼのと春こそ空に来にけらし
天の香具山霞たなびく
の歌で有名だ。そんな美しい、まさに日本武尊皇が「国のまほろば」といった、青垣山隠れる奈良盆地を思い浮かべながら、芭蕉は伊賀を後にしたのだろう。心が天の香具山にあれば、道筋の名もなき山の霞でも、どことなく神々しく思えてくる。名山名所はそれだけで高貴なものであるが、名もなきものに春が来ないというわけではない。春は貴賤を問わず天下あまねくやってくる。香具山の霞は連歌の世界、そして、名もなき山の霞の風雅-それこそが俳諧なのである。
宗祇法師は『筑紫道記』のなかで、海辺の景色に目を止めながらも「名所ならねばしひて心とまらず」と言った。宗祇の真意は金子金次郎によれば、その後の「やまと言の葉の道も、その家の人、又は大家などにあらずば甲斐なかるべし」とあわせて、自分も歌を詠んではみたものの、勅撰集入集など夢の夢だろうという嘆きにあり、それを名もない景色の美しさに例えたのだという。いわば、歌が身分によって評価される現実を逆説的に述べたものらしい。題材に貴賤をとやかく言うのは、芭蕉の時代にも普通のことだった。
写生は西洋の絵画であれ、近代俳句であれ、少なからず貴族趣味からの脱却の中で起こってきた。近代の市民が自分たちの身近な世界を解放し、独自の美を発見しようとする中で、何でもない風景の美しさが描かれてきた。しかし、こうした卑俗なものの美を解放する試みも、古い権威との拮抗の中でこそ輝くのであり、一度写生が体制の側のものとなってしまうと、あとは平凡な風景の羅列となる。それこそ何でも作者が美しいと言えば美しいことになってしまうし、およそこの世にあるもの、明日は死んでもう見られなくなると思えば何だって美しいものなのだ。こうして写生句は際限なく増殖して行く。すべての景色が平等であり、等価であるなら、結局、あとはただ描写の奇抜さや題材の珍しさの勝負となる。
談林の俳諧は既にその傾向をもっていた。風俗の描写は確かに庶民の生き生きとした世界を解放した。しかし、芭蕉はそこにとどまらず、普遍的な価値とリアルな描写の両立を目指す。名もなき山の霞も、結局は香具山の霞を心においてこそ特別な意味を持つのだ。
二月堂に籠りて
水とりや氷りの僧の沓の音
ニガツドーにこもりて
みずとりやこーりのソーのくつのおと
この句はよほど難解だったのか、蝶夢編の『芭蕉翁発句集』(安永3年刊)では「水とりやこもりの僧の沓の音」とあり、また、『芭蕉句選』(元文4年刊)では「水鳥や氷りの僧の沓の音」誤って書かれていたという。「氷りの僧」というのが何のことか分からなかったのだろう。
「こもりの僧」なら確かに分かりやすい。お水取りで二月堂に籠っていた僧が姿を表わし、その沓の音が聞こえるという、そのままの意味だ。しかし、これだとあまりに平凡すぎる。かといって「水鳥や…」だと意味が通らない。
近世の人が首をひねったこの句も、近代人はほとんど悩むことがなかった。「氷りの僧」─面白いレトリックじゃないか、それですんでいた。近代になり、西洋から象徴詩の手法が入ってくると、しばしば隠喩の省略的な言い方が行われるようになる。たとえば
山のあなたの空遠く
幸棲むと人は言う
は、
山のあなたの空遠く行くが如く
幸いもまたかくの如くなむ人は言う
の略なのだが、俳諧の伝統的な語法だとこれは
幸や山のあなたの空遠く
で済む。つまり、「幸棲む」という断定を避けて、「や」や「かな」のような疑問とも詠嘆とも取れる曖昧な言い切りや体言止め、連用形などで後跡に何か省略されていることを匂わす言い回しをする。隠喩を断定的に語るというのは、その点では近代詩特有の言い回しなのである。たとえば、
水枕がばりと寒い海がある 三鬼
の句は「海がある」と断定するところが近代的なのであり、
水枕がばりと海の寒さかな
であれば俳諧なのである。逆に、
夢となりし骸骨踊る荻の声 其角
の句は、
荻の声に夢となった骸骨が踊る
ならば近代俳句になる。
氷の如き僧を「氷の僧」とすることは、現代詩であれば別に問題はない。しかし、芭蕉の時代にこの言い回しが成立したかどうか。弟子たちの混乱ぶりからすると、かなり無理があったのではなかったか。
「水とりや…」の句にはもっと簡単な解釈が可能なのではないか。氷の僧が「こもりの僧」の間違いでないとすれば、むしろ私は「氷の」の「の」がどこに掛かるのかを見直すべきだったと思う。「氷の僧」というのは、言い回しとして不自然だし、最初からありえなかったのではなかったか。それなら「氷の沓」はというと、これもありそうにない。残るのは「氷りの音」だ。この句は、氷の、僧の沓の、音、というふうに掛かっていたもので、本来なら「僧沓の氷の音」となるところを575のリズムになるように並びかえただけではなかったか。
旧暦の2月といえば今日で言う3月だが、深夜のお水取りともなればまだ寒く、氷の張ることもあったのだろう。その氷を僧が沓で踏み割っている姿に芭蕉は目を止めたのではなかったか。氷の割れる音は、
袖ひちてむすびし水のこほれるを
春つけふの風やとくらん
紀貫之
谷風にとくる氷のひまごとに
打ち出づるなみや春のはつ花
源当純
といった古歌を連想させ、春の訪れのめでたさを表わしている。それが芭蕉の本来の狙いではなかったか。この句は頭の文字をたどってゆけば、「水」「氷」「沓」水のつく字が並んでいる。ここにもさりげなく、水が一度凍り、日が昇るとともに溶けて水に戻るかのような、細かい演出がなされている。
京にのぼりて、三井秋風が鳴瀧の山家をとふ。
梅林
梅白し昨日や鶴を盗れし
樫の木の花にかまはぬ姿かな
キョーにのぼりて、ミツイシューフーがナルタキのやまがをとう。
バイリン
うめしろしきのーはつるをぬすまれし
かしのきのはなにかまわぬすがたかな
奈良から京に登り、鳴瀧の三井秋風の別墅、花林園を尋ねる。
三井といえば「現金掛け値なし」という新商法で繁盛した越後屋呉服店のあの三井の一族で、初代三井の三井高利(その名のとおり金貸しだった)の甥に当たるという。越後屋の江戸進出は延宝元(1673)年で、芭蕉が江戸に登る3年前のことだった。その後天和2(1682)年の八百屋お七の大火で焼け出されたりしながらも苦労して勝ち取った栄光は、業種が違うとはいえ、芭蕉の姿にも重なるものがある。越後屋の発展を見ながら、俺も頑張ろう、と思った地方出身者もたくさんいたことだろう。
三井秋風も当然金持ちで、鳴瀧の花林園もさぞかし立派で、広い庭園には今を盛りと梅が咲き誇っていたのだろう。三井秋風があまりに有名な金持ちだったため、芭蕉のこの句を追従の句だと揶揄する人がいたようで、去来が『去来抄』の中で「秋風ハ洛陽の富家に生れ、市中を去り、山家に閑居して詩歌を楽しみ、騒人を愛するとききて、かれにむかへられ、実に主を風騒隠逸の人とおもひ給へる上の作有」と弁護している。「騒人」というのは別に騒がしい人ではない。騒といのは屈原の『離騒』という詩から来たもので、騒には憂いとか悲哀という意味がある。そこから屈原のような隠逸の詩人を騒人と呼んでいた。三井秋風は金持ちでも心は隠士だから尋ねたのであって、金に媚びたのではない。
しかし、このような金持ちでも、何悩みもないかといえばそうでもない。はじめ北村季吟に師事し、貞門の俳諧師だった秋風は、後に西山宗因や田中常矩とともに談林俳諧の一翼を担うこととなった。
柳短ク梅一輪竹門誰がために青き
歌よまず詩作らず自然と夜着に雪を聴ク
といった破調の句がある。
しかし、天和2年に宗因、常矩と相次いで失い、談林の俳諧も急速に衰退してゆくこととなった。宗因の死は芭蕉にとっても大きなショックで、この『野ざらし紀行』の旅もまた、宗因の面影を追い求めて旅に出たようなものだった。まして宗因、常矩と親しかった秋風にとっては、ぽっかり穴のあいたようなもので、どうも3年たった今でも、まだショックから立ち直ってなかったようだ。この句はそんな芭蕉からの秋風へのなぐさめの言葉だった。
梅白し昨日や鶴を盗れし
梅には赤いのも白いのもあるが、「白」を強調したのは弔意を込めてのことだろう。鶴は渡り鳥だから春には北へ帰っていくもので、それは自然の摂理、運命だから仕方がない。それを「盗まれた」と表現することで、何とか秋風から笑顔を引き出したかったのであろう。秋風はこう答える。
梅白し昨日や鶴を盗れし
杉菜に身擦る牛二ツ馬一ツ
杉菜とは、過ぎし菜のことだろうか、それとも風流を好むという意味の「数寄」の菜のことだろうか。庭園には似つかわしくない雑草に身をすり付けている牛の様なものですよ、という謙虚な答えだ。牛二ツとは、かって梅翁(宗因の別名)が江戸に来た時芭蕉の詠んだ、
この梅に牛も初音と鳴きつべし 芭蕉(当時は桃青)
の句を思い起こしたものか。となると、牛二ツは芭蕉と秋風のことだろうか。ならば馬一ツは誰だろう。いや、脇句はあくまで挨拶だから、自らは謙遜して牛といっても、やはり馬は芭蕉のことなのだろう。そうなるともう一人の牛は誰だろうか、このあと尋ねる任口上人だろうか。
素堂は「洛陽に至り、三井氏秋風子の梅林をたづね、きのふや鶴をぬすまれしと、西湖にすむ人の鶴を子とし、梅を妻とせしことをおもひよせしこそ、すみれ・むくげの句のしもにたたんことかたかるべし。」と言い、「道のべの木槿」や「山路来て何やらゆかし」の句にも匹敵する名吟として評価している。鶴を宗因・常矩と思い、偲ぶ心と、「盗まれし」で見せるユーモアとの微妙なバランス、古池や木槿を詠むだけが芭蕉じゃない、といったところか。
花林園でのもう一つの句、
樫の木の花にかまはぬ姿かな
の花は、前の句とのつながりで見れば、梅の花を詠んだものだろう。無理に桜に結びつける必要はない。「花」とだけあれば当然桜でなければばらぬというのは理屈だが、そのへんの規則の細かい所にいちいちこだわらないのが談林の作風だ。樫の木は文字通り「堅い」木で、周囲が花で浮かれていても、頑として動じない。あなたも我路を行けばいいじゃないですか、というメッセージを込めたものだろう。
京都はまだ北村季吟が健在で、貞門の古風が生きている。季吟は、芭蕉がまだ伊賀にいた頃俳諧の手ほどきを受けた蝉吟の師匠でもある。季吟から見れば芭蕉は孫弟子にすぎないわけだ。今回の旅で芭蕉が季吟の所へ行ってないのは、このへんの格の違いからか。もっとも、季吟の古風は、今の芭蕉の求めるものでないのも確かだ。芭蕉が会うのは、むしろ宗因とともに貞門を離れた談林の俳諧師だった。
伏見西岸寺任口上人に逢て
我がきぬにふしみの桃の雫せよ
フシミサイガンジニンコーショーニンにおーて
わがきぬにふしみのもものしずくせよ
伏見西岸寺の住職、任口もまた、宗因と親交があった。
久しぶりに会うこの80歳の老僧は、任口と名乗るだけあって、口に任せてよく喋る、剽軽な人柄だったのだろう(これはあくまで推測)。伏見は桃の名産地。桃で作った酒は不老長寿の仙薬にもなる。元気で濶達なこの老人を見て、私にもその長生きの薬を分けてください、と言ったのだろう。この老人も翌年には世を去ることになる。
伏見といえば、豊臣秀吉が桃山城を立てて一度は栄えたが、徳川の世では秀吉は悪者。かつての繁栄も虚しく、荒れ果てていった。井原西鶴の『日本永代蔵』巻三「世は抜取り観音の眼」に、当時の伏見の様子が描かれている。
「その時の繁盛に変り、屋形の跡は芋畠となり、見るに寂しき桃林に、花咲く春は人も住むかと思はれける。常は昼も蝙蝠飛んで、螢も出づべき風情なり。京街道は昔残りて、見世の付きたる家もあり。片脇は崩れ次第に、人倫絶えて、一町に三所ばかり、かすかなる朝夕の煙、蚊屋なしの夏の夜、蒲団持たずの冬を漸うに送りぬ。」
江戸中期になると伏見も酒の町として甦ることになる。
大津にでる道、山路を越えて
山路来て何やらゆかしすみれ草
オーツにでるみち、やまじをこえて
やまじきてなにやらゆかしすみれぐさ
奈良で名もなき山に目を止め、二月堂で僧の靴の音の響に風流を見い出し、京都の秋風の別墅で主人をなぐさめた芭蕉は、奈良から大津に向かう道で、あの有名な句を詠むことになる。
「ゆかしい」というと、今日では品のある、控えめなという意味が強いが、本来は「行く」から来た言葉で、行ってみたくなる、惹きつけられる、という意味だった。山奥にひっそりと咲く蘭の花は君子の心だが、すみれは野にもどこにもありふれている。それでも何だかわからないが引き寄せられる。すみれは澄んでいるとでもいうのか、それとも墨染めの僧の衣を連想させるからだろうか。深く考えるほどのこともあるまい。理由もなく惹きつけられる-そんなこともあるのだ。和歌ではすみれは野に咲くすみれを詠むべきものだったが、そんな言葉の縁とも関係なくこの花に引き寄せられ、しばし旅の足を止める。
芭蕉は『笈の小文』で「像花にあらざる時は夷狄にひとし、心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり」つまり、人間らしさを月や花を愛で四季の移り変わりを愛するところに求めている。馬からすれば木槿は単なる食物にすぎないが、人間は木槿の花に様々な心を求める。花が美しいのは、それが単なる物理現象ではなく、花を見る人の心があるからなのである。しかし、人間だっていつも「心」を求めているわけにはいかず、食うに困っては捨て子をしたり、人も殺せば戦争も起こす。生きてゆくために生存競争を逃れることはできない。しかし、それを悲しいと思い、そこからの解放を、いわば解脱を求めるところに人間らしさがある。それは理屈ではない。捨て子を見れば惻隠の情が生じるように、山路のすみれに理屈抜きに引き寄せられる。山路のすみれはともするとお構いなしにふんづけて歩いてしまうが、それに目を止め、ふときれいだと思う時、人はしばし食うか食われるかの天の掟を忘れ、自由と幸福を感じることができる。
山口素堂は「山路きてのすみれ、道ばたのむくげこそ、この吟行の秀逸なるべけれ」と、この句を「道のべの木槿」の句と並べて評価している。この二句はともに「道」の句だ。一つは花の悲しみを、一つは喜びを見い出す。花の咲くのを喜び、散るのを悲しむ。それが「造化」に従うということなのだろう。
もちろん今日では「夷狄」という表現はふさわしくない。地球上どこでも花を愛さぬ民族など存在しない。しかし、ここで芭蕉が「夷狄」をどう捉えていたか、振り返ってみるのも無駄ではあるまい。「夷狄」とは元来「中華」に対しての夷狄であり、「中華思想」と密接に結びついた言葉だ。中華思想というと、どうしてもユダヤの選民思想のようなものと誤解されやすいが、実際はそうではない。中華というのはむしろ文明のある所という意味で、文明の中心の地に対して、そこから隔たった辺縁が夷狄となる。それを担うのは必ずしも漢民族でなくてもいい。だから中国がモンゴル人(元のように)や満州人(清のように)に支配されたとしても、中国文明の継承者であれば中華なのである。実際、近世の東アジアの華夷秩序は、中国、朝鮮、日本、ベトナムなどがそれぞれ自らの国を中心にして、朝貢や互市関係を結び、維持されてきた。中華は文明の中心地であり、日本には日本の中華があり、日本にとっての夷狄が可能なのであり、こうして各国がそれぞれミニ中華を形成していくことによってお互いに相対化されてゆく性格を持っていた。そして、こうした華夷秩序は国境によって国と国が明確に区切られるというよりは、むしろ文明の及ぶ度合によって徐々に辺縁部に移行し、どちらの文明からも等距離になるようなボーダレスな空間、たとえば対馬や琉球のような交易の中心地を生み出す。国境というのは西洋の列強がアジアに侵略してきたさいに大慌てで定められたもので、それ以前には北方領土だの、竹島だの、尖閣諸島だのといった領有権問題は生じなかった。
芭蕉にとって、中華とはまさに「花(華)」を意味するものだった。花が咲くのを喜び花が散るのを悲しむ、それが文明であり、花の心を知らぬというのが「夷狄」だった。心に花があれば、そこはいつでも「中華」であり、花がない時は「夷狄」なのである。花はまた同時に失われ、記憶の中で理想化された花への思いでもある。時間的には先王の治世、失われた王朝への思い、空間的には花の都を追われた旅人の都への思いでもある。花の心はまさに「みやび」であり、みやこの心で、たとえ遠いひなの長路を歩む流刑人であっても、花の心を失わないなら心は夷狄にあらず、なのである。(つづく)