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笈の小文
─風来の旅─3

ゆきゆき亭 こやん



第二章、伊勢参り

1、二日にも

 宵のとし、空の名残なごりおしまむと、酒のみ夜ふかして、元日寐わすれたれば、

 二日にもぬかりはせじな花の春

 よく盆と正月がいっぺんに来たような忙しさなんていうが、正月が忙しくなったのはいつ頃からだったのか。今では廃れつつあるが、正月というとたくさんのお客さんを集めて接待する家があれば、年始回りにと何軒も尋ねて回ったりして、それでもまだ男は接待に気を使うものの、酒飲んで料理を食ったりしてまだ楽しみもあるが、女性にとっては最も憂鬱の日だったりもするのだろう。
 日本の正月に限らず、どこの国でもパーティーというのは一見華やかでも、必ずしもみんな心のそこから楽しんでいるというわけではあるまい。人間関係を円滑にするというのは奇麗事で、どこの世界にもある生臭い力関係、上下関係、命令服従関係というのを確認しあう儀式に他ならない。ただ、酔っ払ってバカやっているように見えても、そこには様々な人間の悲哀のドラマがある。いわば、宴会というのも男の戦場なのだ。
 芭蕉が故郷伊賀で久々に親戚一同と顔をあわせて、そこでどんなドラマがあったのかは知らない。ただ、芭蕉のように江戸で俳諧師として成功し、故郷に錦を飾る身なら、気を使ってくれる側ではあっても気を使う側ではないかもしれない。結構気持ちよく故郷での正月を過ごせたのだろう。『若水』には、「そらの名残おしまんと、旧友の来りて酒興じけるに、元日のひるまでふし、明ぼのみはづして」という前書きがあるように、昔の友と再会し、夜を徹して酒を飲み、語り交わし、初日の出を見ずに昼まで寝過ごしたようだ。我々ならよくあることでも、生真面目な芭蕉さんとしては失態だったのだろう。

   二日にもぬかりはせじな花の春

この句はそんな自戒に取れる。
 人間一人一人それぞれ能力が違うのだから、そこに自ずと上下の関係が出来てしまうことは避けがたい。ただ、ほんの少しの差による上下関係でも、その力を無制限に行使すれば、いつでも隷属化に発展する危険を孕んでいる。たかが子供のいじめでも、放置すれば死に至ることがあるのはそのためだ。
 人間関係の中で隷属化が生じると、奴隷になった人間は向上心を失い、労働意欲やモラルが著しく低下する。そのため奴隷制社会は結局自由民の社会よりも著しく生産性が低下することになる。よりよい社会を作るには、上下関係が生じても、そこに無制限な権力の行使が行われないよう、絶えず気を配らなくてはならない。しかし、残念ながら弱者が強者に対して力を行使することが困難なため、結局は強者に自制を求めるしかない。元来、礼節というのはそうした君子の徳を表すものだった。その礼節の基本は距離を置くこと。つまり、人間同士立ち入ってはいけない領域というのを守ることだ。鳥にも三枝の礼、三尺下がって師の影踏まずというのも、基本的には距離を取れということだ。
 ところが、実際は礼節を履き違えて、自分のことは棚に上げて下の者ばかりに一方的に礼儀を求めたりする人が多いのも事実だ。これだと、むしろ人間関係の不平等を緩和するどころか拡大してしまうため、かえって礼節の体系を崩壊に導く。今の日本で礼儀が廃れているというのも、結局は偉い人たちがきちんと襟を正さなければどうしようもないのではないか。セクハラ、パワハラ(パワーハラスメント)など、やりたい放題やってて「近頃の若いもんは」などと言っても説得力はない。礼儀が廃れれば人間関係は隷属的なものとなり、人間関係が隷属的になれば労働意欲やモラルが低下し、結果的に日本の経済を崩壊させるであろう。
 宴会も、無礼講となると上下関係が露骨に出てしまいがちになる。部下に裸踊りをさせたり、酔いにまかせてセクハラしたり、無礼講は日ごろ抑圧されている下々のものに不満を発散する機会を与えるというなら意味はあるが、偉い人までがいっしょにはめをはずしては収拾がつかなくなる。無礼講とはいえ、偉い人はそれなりの節度を保たなくてはならない。
 たとえ酔っても乱れてはいけない。それは君子として求められることであって、芭蕉の自戒は、むしろその誇りの高さといってもいいだろう。そういうわけで、今年もしまっていこーう!

2、伊賀の春

   初春
  春たちてまだ九日ここのかの野山哉
  枯芝かれしばややゝかげらふの一二寸

 立春から九日目というのは、特に何かの日というのではなく、たまたま小川風麦亭で興行があり、その時の発句だったというだけのようだ。しかし、名もない日だからといって春の風情がないわけではない。名もなき日でも目出度さが変わるわけでないのは、三年前の『野ざらし紀行』の旅の時に、故郷伊賀から奈良へ行く途中で詠んだ、

 春なれや名もなき山の薄霞うすがすみ

と同様だ。
 昔の正月は長く、松の内が過ぎ、鏡開きが終わっても、小正月、薮入り、二十日正月などが続き、二月八日の正月事納めまでは正月気分が続いた。芭蕉としても、この日が仕事始めであり、もちろんぬかってはいられない。
 枯れ柴の句は、まだ春も浅いから陽炎も一二寸、一寸ちょっとだけというやや理に走った句だ。ただでさえ陽炎というのは見過ごしやすいもので、一二寸の陽炎なんて、どうやって目を凝らして見つけたかという感じだが、強いていえば小さな春を見つけ出す鋭い観察力といったところか。
 陽炎は体用の日差しによって急に空気が温まり、その空気が上昇するとき、上の空気との温度差から屈折率に差が生じ、光が揺らいで見える現象で、石の上だとか校庭だとか瓦屋根やトタン屋根のような暖まりやすいものの上に出やすい。あまり風情はないけれど、車の屋根の上をよく見ると、一二寸の陽炎が見えたりする。だが、もっとはっきりとわかりやすいのは、炎の上にできるものだ。おそらく陽炎が春の季題なのは、古くは焼畑の際の野焼きと結び付けられていたからだろう。
 陽炎は古代においては「かぎろひ」ともいい、「かぎる」は「かげる」と同じで、「影」という言葉は「月影」「星影」「火影ほかげ」「面影」というように、ほのかな光という意味を持っている。日光のようなまばゆい光ではない、弱い光のことを「影」という。「かぎろひ」というのは、その意味では燃え盛る炎とは違う微かなあるかないかの炎という意味なのだろう。『万葉集』の「軽皇子かるのみこ安騎野あきののに宿りましし時、柿本朝臣人麻呂の作れる歌」の三番目の反歌(巻一 四八)、

 ひむかしの野にかぎろひの立つ見えて
    かえりみすれば月西渡かたぶきぬ

の場合、時刻からいってもいわゆる「陽炎」の意味ではなく、東の空の曙光ではないかといわれている。このかぎろひは死んだ軽皇子の魂ともいわれ、夜明けの夜と昼の境には異界の扉が開き、西、つまり西方浄土へ行く月とともに、一瞬の死者の面影を見たのだともいう。(この歌は中世には「あづま野にけぶりの立てるところ見て」とも訓じられていて、煙の意味であれば、そのものずばり、哀傷歌によく出てくる火葬の煙のことになる。)
 和歌では陽炎は「糸遊いとゆう」とも言われる空気が糸を引いて遊んでいるようで、春の風情としてはこの方が感じが出る。陽炎は一方では儚いものというイメージもあるが、本来は春の訪れを喜ぶものであった。『万葉集』(巻十 一八三五)の

 今更に雪ふらめやもかぎろひの
    もゆる春べとなりにしものを
              よみ人知らず

の歌は『新古今集』にも収録されている。春だというのに雪が降ってくるというのは、農家にとっては遅雪で作物に被害が出るが、象徴的にはようやく戦乱が収まったというときにテロ事件が起きた時の心境を思い起こさせる。新古今の時代にこの歌がよみがえったのは、保元・平治の乱以降の「乱世」のせいなのかもしれない。
 「枯芝や」の句は、次の新大仏寺の句へと続いてゆく。

3、新大仏寺

 伊賀の国阿波あはの庄といふ所に、俊乗上人しゅんじょうしゃうにんの旧跡あり護峰山新大仏寺ごほうざんしんだいぶつじとかやいふ、名ばかりは千歳ちとせ形見かたみとなりて、伽藍がらんやぶれていしずゑのこし、坊舎は絶えて田畑と名の替り、丈六じゃうろくの尊像は苔の緑にうづもれて、ぐしのみ現前げんぜんとおがまれさせ給ふに、聖人しゃうにん御影みえいはいまだまったくおはしまし侍るぞ、其代そのよの名残疑ふ所なく、なみだこぼるゝばかりなり。石の蓮台れんだい獅子ししの座などは、よもぎむぐらの上にうづたかく、双林さうりんかれたる跡もまのあたりにこそ覚えられけれ。

 丈六じゃうろくにかげらふ高し石の上
 さまざまの事おもひ出す桜哉

 五宝山新大仏寺ごほうざんしんだいぶつじは伊賀上野の東の大山田村、長尾峠の麓に今もある。芭蕉の時代には荒れ果てていた新大仏寺だったが、享保12(1727)年に陶蛍とうけい和尚によって再建されたからだ。
 新大仏寺は源平合戦の際、平重衡たいらのしげひらによって焼け落ちた奈良東大寺を源頼朝みなもとのよりとも俊乗坊重源しゅんじょうぼうじゅうげんに命じて再建させる際、いくつかの別所を設置したその一つだった。 本尊は快慶かいけい作の丈六(1丈6尺、約5メートル)の三尊立像だった。
 しかし、芭蕉の時代にはかつての大伽藍は跡形もなく、あたりは田畑となり、礎石だけが草むらに転々としていて、5メートルの釈迦三尊像も苔むして、痛々しい姿だった。「双林さうりんかれたる跡」というのは釈迦が入滅したとき、あたりの沙羅双樹の林が枯れて白くなったという伝説のことだが、それが今ここでも起きているかのようで仏は滅んでしまったのかと、何となく末法の匂いを感じさせる。

 丈六じゃうろくにかげらふ高し石の上

 5メートルといえば当時の人の150センチくらいの身長からすると身の丈の三倍くらいあり、圧倒するような大きさだ。それが野原の中に野ざらしになり、折から春の陽射しに陽炎が燃え、揺らめいて見える。日を遮るもののない広々とした野原は陽炎が立ちやすい。それはめでたい春の訪れというよりも、陽炎の歩かないかの儚いものというイメージを用いている。それは和歌の伝統の中では男女の仲を表現するもので、いわば恋の儚さ、愛は陽炎のように儚い、という意味で用いられる。『拾遺集』巻十二、恋二の、

 夢よりもはかなきものはかげろふの
    ほのかに見えしかげにぞありける
                よみ人知らず

もあくまで恋を詠んだ歌だ。これに対し、芭蕉はそれを歴史の儚さに詠みかえる。そこには遠い王朝時代に黄金時代を見、保元・平治の乱以降の武家社会を乱世と捉える中世以来の世界観を踏襲している。そこには末法思想の影もあるが、やがて、こうした王朝時代を極度に美化する観念は江戸後期の国学に受け継がれ、明治の王政復古にもつながってゆくものだ。
 よく、「わびさび」というと、こういう荒れ果てた古寺の美を賛美するものだと思われがちだが、本来は荒れ果てた昔の面影を「悲しむ」ものであり、「嘆き」だとか「恨み」だとかに結びついていて、純粋に美的に風情として眺められるようなものではなかった。芭蕉もここでは涙している。それを間違えると、結局平泉中尊寺の鞘堂さやどうを文学的に余計なものとみなし、

 五月雨の降りのこしてや光堂   芭蕉

の解釈を決定的に誤ってしまう元となる。荒れ果てた寺は涙が出るほど悲しいものであり、それが大切に保存されていたということは涙が出るほどありがたいことだった。そういう意味で、後の新大仏寺の復興も、素直に喜ぶべきことだろう。快慶の丈六仏はやはり大切に保管されるべきで、野ざらしにしておくべきではない。
 なお、この新大仏寺の件は『徒然草』第二十五段の京極殿きょうごくどの法成寺ほうじょうじの影響があったかもしれない。

 「 大門だいもん・金堂など近くまでありしかど、正和しゃうわのころ南門は燒けぬ。金堂はそののちたふれ伏したるままにて、取りたつるわざもなし。無量壽院むりゃうじゅゐんばかりぞ、そのかたとて殘りたる。丈六ぢゃうろく佛九體ほとけくたい、いと尊くて竝びおはします。行成かうぜいの大納言の額、兼行かねゆきが書ける扉、あざやかに見ゆるぞあはれなる。法花堂ほっけだうなどもいまだはんべるめり。これもまたいつまでかあらむ。かばかりの名殘だになき所々は、おのづからあやしきいしずゑばかり殘るもあれど、さだかに知れる人もなし。さればよろづに見ざらむ世までを思ひおきてむこそ、はかなかるべけれ。」

 芭蕉はこのあと伊勢から帰った後、万菊丸と吉野へ行く途中、『笈の小文』には書かれていないが、伊賀国見山の兼好塚を訪れている。芭蕉の出身地伊賀は、兼好法師ゆかりの地でもあった。

 さて、もう一つの句

 さまざまの事おもひ出す桜哉

だが、この句は本当はここで詠まれたものではなく、吉野の花見に行く前に藤堂探丸別邸の花見に招かれたときの吟で、新大仏寺を尋ねた早春に桜の句は季節に合わない。芭蕉は故郷で幼い頃のことや、藤堂家に奉公した頃のことを懐かしく思い出したのだろう。だが、新大仏寺のところにこの句が置かれると、あたかも桜の季節にこの地を訪れ、荒れ果てた中に一本の桜の木があり、昔の栄華を偲んでいた、という趣向になる。
 この句はやや反則送という気がする。「さまざまの事おもひ出す」というのはあまりにも具体性がなく漠然とした内容で、どういう意味にでも取れる。しかし、だからこそ、読者は自由に自分の記憶をたどり、自分にとって一番かけがえのない思い出だった桜を思い出すことが出来るのだろう。
 ある意味で芭蕉の句の秘密はここにあるといってもいいのかもしれない。五七五の短い文章では、とてもではないが作者の頭の中にあるイメージを十分正確に表現することは出来ない。絵画なら自分のイメージを具体的に描き表すことができるかもしれないが、言語というのは基本的に読者がその言葉から何を想起するかに依存している。丈六仏の陽炎も、実際にそれを見たことがない読者にとっては、ただ自分が今まで見た様々な記憶から想像する以外にない。まして、新大仏寺はいまや再建され、芭蕉が見たような荒れ果てた光景は今は存在しないのだから、厳密に言えばわれわれは芭蕉が見たのと同じイメージを再現することは不可能だ。しかし、そのことは芭蕉にとってまったく問題ではなかったのだろう。大事なのは何を伝えるかではない。何を思い出させるかだ。
 『野ざらし紀行』のとき芭蕉は

 霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き

と詠んでいる。富士山のすばらしさはどんな画工でも再現することができない。しかし、発句なら読者が一番好きな富士の姿を思い出させることができる。なぜなら、そこには富士山がないからだ。

4、お伊勢参り

 江戸時代は建前としては移動の自由はなかったのだけど、伊勢参りの名目があればかなり自由に旅ができた。『野ざらし紀行』でも芭蕉は伊勢に立ち寄っているし、『奥の細道』でも最後は伊勢で締めくくられている。この『笈の小文』でも伊勢は必ず行かねばならない場所だったのだろう。しかし、僧形であるために内宮には入れてもらえず、外宮だけの参拝なのは『野ざらし紀行』のときと同様だ。

   伊勢山田
 何の木の花とはしらずにほひ
 裸にはまだ衣更着きさらぎの嵐哉

 「何の木の」の句は『花はさくら』(秋屋編、寛政十三年刊)にこのような前書きがある。

   貞享五とせ如月きさらぎの末、伊勢に詣づ。
   此御前のつちを踏事、今五度に及び
   侍りぬ。更にとしのひとつも老行ま
   まに、かしこきおほんひかりもたふ
   とさも、猶思ひまされる心地して、
   彼西行のかたじけなさにとよミけん、
   涙を跡もなつかしければ、扇うちし
   き砂にかしらかたぶけながら、

 何の木の花とハしらず匂ひ哉

 芭蕉が伊勢に来たのはこれが五回目で、四回目の時は『野ざらし紀行』の旅の途中で、

 みそか月なし千とせの杉を抱あらし

の句を詠んでいる。月のない真っ暗な闇の中で心細げに千歳の神杉にすがる姿に、伊勢の神の有難さを詠んだこの句は、どこか近代文学的な内面的な叫びを感じさせる。それに比べると、今回の句は良いにつけ悪いにつけ落ち着いている。西行法師の歌と伝えられていた

 何事なにごとのおはしますをば知らねども
    かたじけなさの涙こぼれて

を踏まえての句で、そこには闇も嵐もなく、ただ花の香ばしい匂いがあるだけだ。仏法の蓮の花でもなく、後に出てくるように梅の花でもない。何の香りだかわからない。ある意味で、それが神道の本質なのかもしれない。
 「大和はかむながら言挙ことあげせぬ国」とは柿本人麻呂かきのものとひとまろの長歌の一節にもあるが、これといった教義や戒律などの体系があるわけでもなく、ただあるがままに存在することで、神道は言葉に縛られることなく無限に開かれている。何の香りか、その香りの元を特定するのではなく、ただその香りがあるがままにある。強いて言えば、それは開かれているということの香りなのだろう。
 もう一つの句、

 裸にはまだ衣更着きさらぎの嵐哉

は、伊勢神宮に奉納された句だという。
 当時は西行奉仕の作とも伝えられていた『撰集抄せんしゅうしょう』の一番最初の話は増賀上人の話で、天台山根本中堂に千夜こもって祈りを捧げたけども悟りを得られなかったが、あるとき、伊勢神宮を詣でて祈っていると、夢に「道心おこさむとおもはば、此身を身とな思ひそ」という示現を得て、それならとばかりに着ているものを皆脱いで乞食に与え、裸で物乞いをしながら帰ったという。慈恵じゑ大師の御堂に来ると、さすがに皆気でも狂ったかと思い、大師が、「そこまですることはない。ただ威儀を正して名義を捨てればいい」と言ったものの、それは長く捨て果てた後のことで、「あらたのしの身や」と言って走り去った。寺にはたくさんの修行僧がいるのに、そのほとんどは寺の中での出世を願い、結局名利を離れられないが、増賀上人は伊勢神宮の神のおかげで名利を離れることができた、という話で、「貪癡どんちのむら雲ひきおほひ、名利の常闇とこやみなる身の、五十鈴いすず川の波にすすがれて、天照大神あまてるおむかみの御光に消えぬるにこそと、かへすがへすかたじけなくたふとく侍り。」と結ばれている。
 しかし、なぜそれが伊勢だったのか。キーワードは「五十鈴川の波にすすがれて」だろう。夢のお告げは単に「此身を身とな思ひそ」というだけで、裸になれとは言っていない。裸になるということは、おそらく五十鈴川でみそぎをしている人の姿を見、あるいは自分も禊をしてみて思いついたのではなかったか。そして、芭蕉もまた、旧暦二月のまだ冷たい水につかり禊をしている参詣者の姿を見て、自分にはとてもできないと思ったのだろう。芭蕉の句は、増賀上人のようには裸になれない、貪癡どんちのむら雲、名利の常闇とこやみを離れられず、煩悩が嵐のように吹き荒れている我が身であるが、五十鈴川の水ですすがれたいものである、という謙虚な句だ。 嵐は「三十日月なし」句にも出てくるが、伊勢は「神風の伊勢」と言われるように、嵐に縁がある。
 ただ、増賀上人の話に対して一言言わせてもらうなら、名利を捨てたといっても、結果的にそれが僧侶としての高い評価につながり、後世に名を残したからよかっただけで、それがなければ結局世間からさげすまされながら、人に道を説くどころか人からあからさまに罵倒されたり、逆に説教される立場のまま、過酷な生涯を終えなくてはならなかっただろう。だから、名利を捨てるといっても、ある程度の社会的身分は手に入れなくてはならないという点で、慈恵じゑ大師の忠告は間違ってはいない。
 芭蕉も、かつて芭蕉に禅を教えた仏頂ぶっちょう和尚のかつて修行をしていた五尺の庵を『奥の細道』の旅の途中に訪ね、

 木啄きつつきいほはやぶらず夏木立なつこだち    芭蕉

の句を残しているが、その仏頂和尚もそのことで僧としての高い評価を獲得して、鹿島根本寺の二一世住職の地位を得ている。それが現実なのだから、私はわびさびた乞食坊主を装いながらも、俳諧師としての名利を求め続け、その頂点に立った芭蕉の生き方を否定はしない。その名利に溺れることなく謙虚にその煩悩を認める姿勢は立派だと思う。わざわざ裸になることはない。読者諸兄はどう思うだろうか。

5、菩提山ぼだいさん

 芭蕉は伊勢神宮に参拝した後、伊勢のはずれ、朝熊山の麓にある菩提山神宮寺ぼだいさんじんぐうじを尋ねる。 菩提山神宮寺は奈良時代に立てられた大神宮時に端を発し、平安後期に復興された寺で、ここも新大仏寺と同様、平安時代に作られた丈六仏「木造阿弥陀如来坐像」をご本尊としていたが、その後この大伽藍は見る影もなく荒れ果ててしまった。丈六像は今は愛知県の海徳寺に移されている。(参考;http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/bunka/toushin/03032002/003.htm、http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Studio/4128/361.html)

    菩提山ぼだいさん
  此山のかなしさ告げよ野老掘ところほり

 野老ところというのはオニドコロのことで、自然薯じねんじょになるヤマノイモに似ているが、どこにでも生えている草で、根は苦くて普通は食べられないが、かつてはあく抜きをして食用にしていたらしい。イモの部分に髭のような根が生えていることから、老人のようなので、野老と書くという。長寿のシンボルで、正月に飾る地方もあるという。
 芭蕉の時代に果たしてトコロが食用にされていたかどうかは定かではないが、伊勢の田舎ならありそうなことだろう。多分この村の人たちは平安時代と変わらず、トコロを掘り続けてきたのではなかったか。その姿に芭蕉も、かつてこの地に大伽藍があったことを偲んだのだろう。伊勢といえば海老が有名だが、野老のほうはすっかり忘れ去られている。伊勢神宮の栄える姿が伊勢海老なら、忘れ去られた菩提山神宮寺は伊勢野老とでも言うべきだろう。
 なお。トコロは心太ところてんと何か関係があるのかと思ったが、心太ところてんは「こころぶとてん」の訛ったもので、関係ないようだ。

6、伊勢の俳諧

 伊勢というと山崎宗鑑そうかんと並ぶ俳諧の祖、荒木田守武あらきだもりたけの輩出した土地で、俳諧発祥の地といっても過言ではない。荒木田守武は伊勢の内宮の神官で、竹内玄玄一げんげんいちの『俳家奇人談』によると、ある日の連歌会れんがえで、周りがみんな坊主だったのを見て、

 御座敷おざしきを見ればいずれもかみな月

と詠み、宗祇法師がそれに、

   御座敷おざしきを見ればいずれもかみな月
 ひとり時雨しぐれのふり烏帽子えぼし着て

と脇を付たという。
 守武が開いた俳諧の道は杉田望一もういちやその門人美津女みつじょに受け継がれ、芭蕉の弟子の一人、園女そのめも美津女の門から輩出している。しかも、芭蕉の園女との出会いは、この伊勢参拝の旅の途中での出来事だった。 支考編の『笈日記』には、

    園女亭
 暖簾のうれんの奥ものゆかし北の梅   芭蕉

の句が見られる。

   龍尚舎りゅうしゃうしゃ
 物の名をまずとふあしの若葉哉

 龍尚舎は伊勢山田の神官で国学者でもある。句は、

   草の名も所によりてかはる也
 難波のあしは伊勢のはまおぎ    救済きゅうせい

という『菟玖波つくば集』にも収められている中世連歌から来ている。同じ草でも大阪では芦と呼び、伊勢では浜荻といい、所によって草の名も変わるという句だが、何となく豆知識みたいで、難題によくぞ付けたというだけで、情の不足は否めない。後に一条兼良が、

   草の名も所によりてかはる也
 軒のしのぶは人のわすれか

と試みに付け直している。これだと草の名が所によって変わるように、私は軒のしのぶなのにあの人には忘れ草なのか、という意味になる。これは『伊勢物語』の
 「むかし、をとこ、後涼殿こうらうでんのはさまを渡りければ、あるやむごとなき人の御つぼねより、「忘れ草を忍ぶ草とやいふ」とて、いださせ給へりければ、たまはりて、

 忘れ草生ふる野べとは見るらめど
    こは忍ぶなり後もたのまむ」

という在原業平の歌から来ている。
 そんな物の名の所による違いを芭蕉は学者でもある龍尚舎に尋ねたりしたのだろう。「芦の若葉」というと、

   古池や蛙飛び込む水の音
 芦の若葉にかかる蜘蛛の巣    其角

という脇を思い起こさせる春の季題だ。

   網代民部雪堂あじろみんぶせつどうあふ
 梅の木になほやどり木や梅の花

 足代民部あじろみんぶとは足代弘氏のことで、談林の祖、西山宗因に俳諧を学び、延宝5(1677)年には宗因との両吟百韻が高政編の『後集絵合千百韻』に入集している。俳諧発祥の地伊勢に談林俳諧を広めるべく神風館をを作った。ただ、残念ながら弘氏は天和3(1683)年に44歳の若さで没氏、芭蕉が会ったのはその息子の足代弘員(雪堂)だった。
 句のほうは、「梅の木」とは梅翁と呼ばれた西山宗因の梅の木に忠実な神風館のことで、延宝3(1675)年に宗因が江戸に来たときに宗因に感化されながらも後に袂を分かち新風を起こした芭蕉はヤドリギだと、謙遜をこめて詠んだ句だ。
 神風館も談林の流行の衰退とともに次第に先細りになってゆき、やがては蕉門の涼菟りょうとによって再興されてゆくことになる。その涼菟が入門するのは元禄3(1690)年のことで、ここではまだ出合っていない。

   草庵会さうあんのくゎい
 いもうゑかどむぐらのわか葉哉

 草庵というのは二乗軒という草庵で、船江町大江寺にあったらしい。庵主もメンバーもよくわからない。
 ムグラは藪を作るつる草とされているが、今日ヤエムグラと呼ばれているアカネ科の草は蔓性ではない。蔓になるのはカナムグラでどこにでもある蔓性の雑草だ。『小倉百人一首』にも、

 八重むぐらしげれる宿のさびしさに
    人こそ見えね秋は来にけり
              恵慶ゑぎょう法師

の歌もあり、ヨモギと並びムグラは荒れ果てた、わびしげなものだった。芋というと当時は里芋のことだったが、里芋も質素な感じがする。秋になれば芋が実るが、それとともにムグラも茂り、あたかも恵慶法師の宿のようにひと気のないこの庵に秋は来るのだろう。

6、御子良子おこらごの梅

 『野ざらし紀行』には芋洗う女や蝶という元遊女が登場したし、『奥の細道』では重ねや市振の遊女が登場する。女を登場させ、多少のお色気をサービスするのは、大和歌が色好みの道で、一巻に恋なくばと言われる以上、当然だろう。『笈の小文』では伊勢神宮の御子良子おこらごが登場し、一巻に花を添えている。

 

 神垣かみがきのうちに梅一木ひときもなし。いかに故有ゆえある事にやと神司かんづかさなどにたづね侍れば、只何とはなしおのづから梅ひともともなくて、子良こらたちうしろに、ひともと侍るよしをかたりつたふ。

 御子良子おこらごひともとゆかし梅の花
 神垣かみがきやおもひもかけず涅槃ねはん

 梅は中国語のメイが訛ってウメになったもので、M音の口をつぼめる動きがウと言う母音に聞こえたのだろう。同様のものに馬(マー)がウマになる例がある。古くは「むめ」「むま」というふうに表記された。梅は日本の固有種ではなく、中国から伝わってきたもので、宮廷から寺社へと広がり、やがて庶民の庭にも広がっていったのだろう。
 伊勢神宮は多くの神社の森がそうであるように、自然のままを良しとして、外来の植物をわざわざ植えたりはしなかったのだろう。梅は御子良子の宿舎に一本見るだけだった。
 子良こらというのは子供のことで、辞書によると男女が互いに親しんで呼ぶときに使うが、特に女に対して用いることが多いという。英語のベイビーに近かったのか。いつから叱るときの言葉になったのかは謎だ。伊勢神宮に使える巫女さんも子良と呼ばれていたようで、丁寧に言うと御子良子おこらごとなる。

 御子良子おこらごひともとゆかし梅の花

 この句をそのまま解釈すると、伊勢神宮の片隅に唯一の梅の花を香らせる宿舎があり、そこに住む巫女さんの可憐さとも相成って、心引かれる、という意味になる。だが、もしかしたら芭蕉にとってはこの旅の途中で出会った園女の面影があったのかもしれない。

 暖簾のうれんの奥ものゆかし北の梅   芭蕉

ともに句の同じ位置で「ゆかし」という言葉を使っていることからも、「御子良子」の句は園女亭の句の改案だった可能性もある。「御子良子」の句には、

 梅まれに一もとゆかし子良の館

という初案があった。これでは梅だけがゆかしく、御子良子はどこかへ消えてしまい、ただその住んでいる家だけが背景に描かれているに過ぎない。 「御子良子の一もとゆかし」とすることで、御子良子と梅の花が両方ゆかしいという意味になる。しかし、これだと園女亭での「暖簾の」の句とかぶってしまう。そこで、園女亭の句は園女編『菊のちり』にある、

 のうれんの奥物ふかし北の梅

の形に直したのだろう。「ゆかし」が惹きつけられる、魅了されるという恋の雰囲気を持つのに対し、「深し」では韻は踏めるが単に遠くひっそりとといったニュアンスになる。
 このとき園女は二十五歳。六年後にも芭蕉は

 白菊の眼に立て見る塵もなし

と園女の美しさを讃えている。これは芭蕉もホモではなく人並みに女性に興味のあった一つの証拠かもしれない。ただ、残念ながら園女には謂川いせんという夫がいた。「北の梅」の北は妻の住むところ、いわゆる奥様の「奥」のことだ。出会ってすぐだが、芭蕉は園女をあきらめなくてはならなかった。そして後に近江の智月という年上の未亡人に心寄せるようになる。それはまたかなり先のことだ。
 もう一つの句、

 神垣かみがきやおもひもかけず涅槃ねはん

は、本来は多分、神社のどこかの館を訪ねたときに涅槃像を見たのだろう。神仏習合が当たり前の国だから、別にあってもおかしくはない。『金葉集』巻九には、

   郁芳門院伊勢におはしましける時、
   六條右大臣北方あからさまに下り
   て侍けるときに、思ひがけず鐘の
   聲のほのかに聞えければよめる
 神垣かみがきのあたりとおもふに木綿襷ゆふだすき
    おもひもかけぬ鐘のこゑかな
                六條右大臣北方

という歌もある。ただ、御子良子の句と並ぶと、涅槃像が何となく女の姿に見えてくる。女には結局縁はなかったが、この伊勢ではある人と再会している。それはこの次に続く。(つづく)