
よし野にて桜見せふぞ
よし野にて我も見せふぞ檜の木笠 万菊丸
おそらく、こうしたことは近代以前の社会にはしばしば見られたことなのだろう。古代ギリシャの同性愛は有名で、プラトンのソクラテス対談集の中にも同性愛がおおらかに肯定されていることはよく知られている。特に有名なのは『響宴』の中でのアリストファネスの説で、人はもともと二人で一つで、男と男、男と女、女と女の三種類いて、それが二つに引き裂かれたことによって、お互いに元の半身を取り戻そうとするのだが、そのとき元が男と男だったものや女と女だったものは同性愛になり、男と女だったものが異性愛になるというものだった。
通常、社会は男と女の結婚をもって家族を作り、それが代々広がっていって大きな血縁集団を作り出すことで成立する場合が多いのだが、これに対し軍人、僧侶、職人、芸能、など血縁に基づかない男社会が形成されたとき、しばしば同性愛がその社会の絆を作る上で重要な意味を持ってくる。これが近代化の中で、男は単なる労働力となり、生産効率ばかりが優先され、男集団の独自の美学を失ってゆき、美はもっぱら女のものとなっていったのだろう。今日のいわゆるオヤジの美意識の低さを見るにつけても、もはやかつての江戸の粋でいなせな風俗の影はない。ある意味でそれは同性愛の欠如が原因なのかもしれない。大量生産大量消費の産業社会では男が惚れるような男が少なくなってしまった。本物の男が美学を失うのと対称的に、現代の日本では少年愛の美学はむしろ女性の空想の世界のものとなり、少年愛を描いた少女漫画やいわゆるヤオイ本と呼ばれる同人誌まで幅広く存在している。もっとも、最近のニューエコノミーの時代になると、若干様相は変わりつつあるかもしれない。最近では若い男の間でもジャニーズ系の男のアイドルのファンになる人が多く、また、男も盛んに髪を染めたり、脱毛エステに通ったり、ピアスやマニキュアなどをするようになった。男性のヌードが女性誌のグラビアを飾ることもそう珍しくなくなったし、男の美も復権しつつある。
芭蕉の風流も、そうした広い意味での男の独自の美学に根差していたのだろう。それは必ずしも芭蕉がホモだったという意味ではなく、一方で髭をたくわえたいかにも男らしい男の美の世界があり、もう一方では前髪を垂らした童子姿の美少年の美の世界があった。芭蕉は髭茫々というわけではないが、門人の描いた芭蕉像にはしばしばもみあげから口の周りに至る無精髭風のものが描かれている。天和期の句に
という句もある。黒づくめの僧衣を着た髭面の風狂の徒というのが本来の芭蕉のイメージだったのだろう。そして、この芭蕉に同行する杜国は対称的に、「
いわゆる師弟関係というのは、今日の教師と生徒との関係ではない。師匠は弟子を選ぶことができたし、弟子も師匠を選ぶことができた。師匠と弟子との関係はあくまで個人と個人の関係であり、師匠は自分の惚れ込んだ者だけを弟子にすればよかったし、弟子もまた、これぞと惚れ込んだ師匠の下に弟子入りするだけだった。それは性的なものではなく、技に惚れ込むだとか人間として惚れ込むというものだが、師弟関係というのは本来お互いにその才能に惚れ込んだもの同士の関係であり、芭蕉と杜国の関係も当然そういうものだっただろう。芭蕉にとって衆道は別に本当に同性愛である必要はない。それは当時の風俗でありファッションだった。
こうして芭蕉と万菊丸は笠に「乾坤無住同行二人」と書き付け、ともに吉野へと旅立つ。句はほとんど解釈の必要はないだろう。お前に桜を見せてやろう。いや、俺こそお前に見せてやろう。そんな意気投合の句だ。なお、この「乾坤無住同行二人」という書き付けは『奥の細道』で芭蕉と曾良もやったことだった。

おしなべてむなしき空と思ひしに
藤咲きぬれば紫の雲
慈円法師
西を待つ心に藤をかけてこそ
その紫の雲を思はめ
西行法師
という和歌もある。人生を一日に例えるなら、遊び疲れた子供が夕暮れに家に帰ってゆくように、人もまた何十年一生懸命生きた後、我が家に帰るように仏様の所に帰ってゆくのだろうか。
夕暮れ、旅に疲れた芭蕉と万菊丸は藤の花の紫雲に誘われるように宿に着く。
旅の具多きハ道さはりなりと、物皆
「くたびれる」は「草」が「臥す」と書く。草が平伏して垂れ下がった姿は、そのまま藤の花のイメージにつながる。
なお、この下りは、『奥の細道』の草加の下りに似ていると思う人も多いかもしれない。
「ことし元禄
なお、ここでお気づきの方もおられるかと思うが、藤の花というのは普通四月の終わり頃から五月にかけて、ツツジや牡丹と同じ時期に咲くもので、桜の散った後に咲く花ではないか。ツツジと藤は一応春の季題とされているものの、同時期に咲く牡丹が夏の花になるのは、夏に花が少ないからだともいう。絵画では牡丹はしばしば猫と胡蝶(黄蝶)と一緒に描かれ、ここでも春と夏との境界は曖昧ではある。
じつはこの「草臥て」の句は元禄元年四月二十五日付の惣七(猿雖)宛書簡に
という初案があり、旧暦四月に詠まれた夏の句だったことがわかる。伊賀から万菊丸を引き連れて吉野の花見に行く途中の吟だと季節が合わない。この句は吉野の花見を終え、高野山を経て和歌山の
大和
いふ処にて日の暮れかかりけるを、
藤の
とあり、丹波市に宿泊したときの吟となっている。増田晴天楼の『大和路の芭蕉遺跡』(2004年、奈良新聞社)によれば、先の惣七(猿雖)宛書簡に「丹波市、やぎと云処耳なし山の東に泊、・・・十二日、竹の内いまが茅舎に入。」とあるところから、十日に丹波市、十一日に八木に泊まり、十二日に当麻寺のある竹の内に止まったとしている。それゆえ、この句は四月十日に丹波市で詠んだまぎれもない夏の句だった。夏とはいえ旧暦の四月の初めなら、まだ藤は咲いていただろう。
しかし、それでは季重なりではないか、と俳句を少々かじった人なら言うであろう。蕉門では季重なりは別に珍しいことではなく、それはあの有名な山口
梅恋ひて
田一枚植ゑて
名月の花かと見へて綿畑 同
これは中世連歌以来の伝統で、季題を形式的なものではなく実質的なものとみなし、ただ季語が入っていれば自動的のその季節の句とするのではなく、あくまでも句全体がどの季節の情かを重視するからだ。異なる季語を重ねても、内容上どの季節かが特定できるものであれば、いくつ季語を入れてもよかったのである。極端に言えば、
世にふるもさらに宗祇の宿り哉 芭蕉
のように、表向き季語がなくても季節の情が特定できるものは、時雨(冬)の句となる。近代俳句が形式季語なのに対し、中世連歌や蕉門俳諧は実質季語とでもいうべきだろう。
それでは、なぜこの句が
の形で春の句となり、『笈の小文』のこの場所に配置されているのか。この句に関しては、わざわざ夏の句を春の句に直しているのだから、記憶違いとは言いがたく、明らかに確信犯だろう。おそらく、この一文は『奥の細道』の「草加」と同様、旅がどのようなものであるかを紹介する役割のもので、伊賀からの旅立ちの直後に置きたかったのだろう。(本当は江戸からの旅立ちの後でもよかったのだろう。)ただ、「草臥れて」の句が、あまりにこうした紹介文の末尾に置くのにぴったりとはまってしまったので、何とか春の旅立ちにあわせて、この位置に置いたのだろう。それでも、藤の花が桜より先になってしまう不自然さは残ってしまった。
おそらくこの『笈の小文』は未完成原稿だったのだろう。芭蕉がもう少し長く生きていたなら、また別の『笈の小文』があったかもしれない。
3月19日に伊賀を旅立った芭蕉と万菊丸は、増田晴天楼の説によればその日国見山の兼好塚に立ち寄り、その付近に泊まり、翌3月20日に名張から宇多郡三本松の琴引峠を越え、初瀬に至ったという。
初瀬
春の夜や
初瀬は雄略天皇の朝倉宮のあった土地で、そこに建立された長谷寺も
その後、唐の僖宗皇帝の妃で顔が長く馬のような鼻をしていたところから
こういうわけで、初瀬は女性に縁のある地となった。『源氏物語』の「玉鬘」もここ初瀬が舞台になっているし、『撰集抄』巻九では若い頃妻子を捨てて出家した西行法師が、長い年月を経て尼となった妻と再会した場所にもなっている。『撰集抄』はかつて西行の咲くと信じられていて、芭蕉の愛読書の一つでもあったから、芭蕉の句はおそらくこのイメージによるものだろう。
春の夜や
西行が妻と再会したのは冬だったが、芭蕉が訪れたのは春だった。籠り人は初瀬であれば女性が連想される。西行の妻のように、昔別れた人と再会できることを祈っているのだろうか。そんな想像をさせる。
これに対し、万菊丸の句は『枕草子』によるものだ。
「正月に寺に籠りたるは、いみじう寒く、雪
長谷寺のお坊さんは
3月21日、芭蕉と万菊丸は長谷寺を発つと、実際は
初瀬の後に葛城と続くのは、理由のないことではない。地理的には隔たっているものの、この二つはともに雄略天皇ゆかりの土地という点ではつながっている。雄略天皇は
初瀬が鬼門なのに対し、葛城は南西の地門にあたり、地門は地下の黄泉の国に通じるということで半鬼門とも言われる。(ちなみに北西は天門、南東は人門と呼ばれる。)ある日雄略天皇の御一行が葛城山に登ったとき、山の上に既に同じような格好で同じような人数の御一行がいたのを見て、「この大和の国には我のほかに王はいないはずなのにお前は誰だ」というと、いかにももう一人の王であるかのように応えたので、怒って矢を放って攻撃したら、向こうも同様に攻撃して戦闘になってしまった。そこで雄略天皇はもう一人の王に向かって「名を名乗れ」というと、「我は
この葛城山の一言主の神は、その後修験道の開祖として伝説に属する
役行者は葛城山と吉野山を頻繁に往復したようだ。その理由はおそらく、吉野山が神仙郷で「「この山の山石みなことごとく黄金なり。かるがゆへに、山の名をば、金峯山と申す。」と多武峯神社本『役行者絵巻』にあるように、錬金術に関連していたのだろう。葛城山もおそらく、そうした錬金術に関連した山だったのだろう。葛城山と吉野山の途中の山道が険しいというので、役行者はそこに岩橋をかけさせようとして、それを一言主の神に命ずることになる。雄略天皇も恐れた神を使役しようというのだから、役行者の霊力がいかに強いものかがわかる。
もっとも一言主の神も黙って言うことを聞くほど落ちぶれてもいない。自らの姿の醜いことを理由に橋の工事は夜の間だけ、ほんの申しわけ程度にだらだらやっていたため、ついに役行者も切れて一言主の神を呪術で谷底に封印してしまう。
それでも、一言主の神は負けてはいない。今度は天皇の夢の中に現れて、この国は天皇と神々との良好な関係で栄えてきたのに、今それを乱そうとしているものがいると訴える。それを聞いて天皇は役行者討伐の命令を出すが、役行者も空を飛んだり、稲光を放ったりしてつかまるものではない。そこで行者の母を人質に取り、結局役行者は伊豆大島に島流しになる。
絵巻物に描かれている役行者は、どこか今日の漫画のヒーローの原型のようで面白いが、芭蕉の時代の人々も一言主の神というと、こういう霊験物語のイメージだったのだろう。姿が醜いというのも「不細工」というよりはむしろ「
葛城山
「なお」というところはには、怖いもの見たさのようなものが感じられる。今は葛城山ものどかな田舎の風景にすぎず、桜咲くこの平和な時代に夜明けの、いわば逢魔が刻に異界の扉が開いて、一言主の神があの頃のことを述懐してくれたらと、この句はそんな夢幻能を連想させるものだ。
『笈の小文』では長谷寺が出てきた縁で、その次にこの句が配置されたのだろう。そして、一言主が言いつけられた仕事もまた葛城山から吉野山への道を作ることだった。このあと芭蕉と万菊丸は吉野へと山を越えてゆくことになる。その道はきっと一言主の道だったのだろう。
実際この句がどこで詠まれたかについては、吉野から和歌の浦へ行く3月27日の朝という説と、和歌山から奈良へ向かう4月3日頃の朝という説がある。
さて、芭蕉と万菊丸は長谷寺を発ち、遠くに葛城山を見ながら吉野への山道に入る。
この句はかつて本当の臍峠に雲雀がいたのかどうかが問題になったらしい。写生説の立場に立てば、この句は実際に臍峠で雲雀が鳴くのを見て詠んだのでなければならないのに、雲雀は通常平地に棲むもので山の上には雲雀はいないというのだ。増田晴天楼は、この臍峠のあたりにはかつて畑も多く、雲雀がいた可能性はあると言うが、問題は果たして芭蕉の時代にそんな写生説があったかどうかではなかったか。
この句は『
雲雀より上にやすらふ峠かな
とあり、こちらのほうが句意は明瞭だろう。先刻下界で空高く鳴いていたあの雲雀たちよりはるか上で安らいでいるようだ、というのが句の意味であり、どこにも峠で雲雀を見たなどとは書いていない。芭蕉は臍峠であたかも自分が雲雀になったかのように感じたのだ。
貝原益軒の『和州巡覧記』によると、ほそとうげ(細峠)は
「龍門の茶屋より一里、上下共に険しき坂なり。是より南山を顧み望めば、岩山重畳して幾重幾里と云事を知らず。諸山皆高し。就中、大峯、釈迦ガ岳、尤高し。・・・此嶺より吉野山は坤の方に見ゆ。花の時は山白く見ゆる。」
とある。芭蕉と万菊丸もこの峠を越えたとき、目の前に一気に吉野の山々の花に白くなった眺望を目にし、こんな高いところまで来てしまったと感じたのだろう。そして、しばしこれから行く吉野の遠望に見とれ、あれがなるほど花の雲かとでも思ったのではなかったか。その天にも昇る気持ちが、「雲雀より空にやすらふ」の心境だったにちがいない。
古俳諧にあって大事なのは描写ではなく、対象の「心」に共鳴することだった。それゆえ、目の前に雲雀がいたかどうかは問題ではない。自ら雲雀の心がわかったとき、それが雲雀という季題の