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笈の小文
─風来の旅─4

ゆきゆき亭 こやん



第三章、花の吉野へ

1、再び杜国登場

 弥生半過やよひなかばすぐる程、そゞろにうきたつ心の花の、我を道引枝折みちびくしをりとなりて、よしのゝ花におもひたたんとするに、かのいらご崎にてちぎりおきし人の、いせにていでむかひ、ともに旅寐のあはれをも見、かつ我為わがために童子となりて、道の便リにもならんと、自万菊丸みづからまんぎくまると名をいふ。まことにわらべらしき名のさま、いと興あり。いでや門出かどでのたはぶれ事せんと、笠のうちに落書らくがきス。

       乾坤無住同行二人けんこんむじゅうどうぎゃうににん
 よし野にて桜見せふぞの木笠
 よし野にて我も見せふぞ檜の木笠     万菊丸

 衆道しゅどうと呼ばれる男の同性愛の風習は、芭蕉の生きた貞享、元禄の時代はもとより、享保前まではかなり一般的に行われていたとされている。特に、武士や僧侶の間では広く習慣化していて、刃傷沙汰などの問題を起こさない限り容認されていた。だからこそ、芭蕉も寛文12(1672)年の発句合『貝おほひ』のなかで堂々と「われもむかしは衆道ずきの」と言えたのだろう。それは犯罪でもないし、道徳的に非難されることでもなかった。むしろ、この習慣は厳格な規律を要求される人々の間でのささやかな息抜きだったのか、雨森芳州や熊沢蕃山など高名な儒者も肯定するところだった。
 おそらく、こうしたことは近代以前の社会にはしばしば見られたことなのだろう。古代ギリシャの同性愛は有名で、プラトンのソクラテス対談集の中にも同性愛がおおらかに肯定されていることはよく知られている。特に有名なのは『響宴』の中でのアリストファネスの説で、人はもともと二人で一つで、男と男、男と女、女と女の三種類いて、それが二つに引き裂かれたことによって、お互いに元の半身を取り戻そうとするのだが、そのとき元が男と男だったものや女と女だったものは同性愛になり、男と女だったものが異性愛になるというものだった。
 通常、社会は男と女の結婚をもって家族を作り、それが代々広がっていって大きな血縁集団を作り出すことで成立する場合が多いのだが、これに対し軍人、僧侶、職人、芸能、など血縁に基づかない男社会が形成されたとき、しばしば同性愛がその社会の絆を作る上で重要な意味を持ってくる。これが近代化の中で、男は単なる労働力となり、生産効率ばかりが優先され、男集団の独自の美学を失ってゆき、美はもっぱら女のものとなっていったのだろう。今日のいわゆるオヤジの美意識の低さを見るにつけても、もはやかつての江戸の粋でいなせな風俗の影はない。ある意味でそれは同性愛の欠如が原因なのかもしれない。大量生産大量消費の産業社会では男が惚れるような男が少なくなってしまった。本物の男が美学を失うのと対称的に、現代の日本では少年愛の美学はむしろ女性の空想の世界のものとなり、少年愛を描いた少女漫画やいわゆるヤオイ本と呼ばれる同人誌まで幅広く存在している。もっとも、最近のニューエコノミーの時代になると、若干様相は変わりつつあるかもしれない。最近では若い男の間でもジャニーズ系の男のアイドルのファンになる人が多く、また、男も盛んに髪を染めたり、脱毛エステに通ったり、ピアスやマニキュアなどをするようになった。男性のヌードが女性誌のグラビアを飾ることもそう珍しくなくなったし、男の美も復権しつつある。
 芭蕉の風流も、そうした広い意味での男の独自の美学に根差していたのだろう。それは必ずしも芭蕉がホモだったという意味ではなく、一方で髭をたくわえたいかにも男らしい男の美の世界があり、もう一方では前髪を垂らした童子姿の美少年の美の世界があった。芭蕉は髭茫々というわけではないが、門人の描いた芭蕉像にはしばしばもみあげから口の周りに至る無精髭風のものが描かれている。天和期の句に

 髭風ひげかぜヲ吹いて暮秋嘆ぼしゅうたんズルハガ子ゾ     芭蕉

という句もある。黒づくめの僧衣を着た髭面の風狂の徒というのが本来の芭蕉のイメージだったのだろう。そして、この芭蕉に同行する杜国は対称的に、「我為わがために童子となりて、道の便リにもならんと、自万菊丸みづからまんぎくまると名をいふ」と、前髪を垂らしとお小姓のイメージで語られている。読者にはいやがおうでも同性愛を連想させる設定だ。名前も万菊丸、何となくエッチな名前だ。
 いわゆる師弟関係というのは、今日の教師と生徒との関係ではない。師匠は弟子を選ぶことができたし、弟子も師匠を選ぶことができた。師匠と弟子との関係はあくまで個人と個人の関係であり、師匠は自分の惚れ込んだ者だけを弟子にすればよかったし、弟子もまた、これぞと惚れ込んだ師匠の下に弟子入りするだけだった。それは性的なものではなく、技に惚れ込むだとか人間として惚れ込むというものだが、師弟関係というのは本来お互いにその才能に惚れ込んだもの同士の関係であり、芭蕉と杜国の関係も当然そういうものだっただろう。芭蕉にとって衆道は別に本当に同性愛である必要はない。それは当時の風俗でありファッションだった。
 こうして芭蕉と万菊丸は笠に「乾坤無住同行二人」と書き付け、ともに吉野へと旅立つ。句はほとんど解釈の必要はないだろう。お前に桜を見せてやろう。いや、俺こそお前に見せてやろう。そんな意気投合の句だ。なお、この「乾坤無住同行二人」という書き付けは『奥の細道』で芭蕉と曾良もやったことだった。

2、藤の宿

 鴨長明かものちょうめいの『方丈記ほうじょうき』に「春は、藤波を見る。紫雲しうんの如くして、西方ににほふ。」とある。夕暮れに見る藤の花はぼんやりとした、『徒然草つれづれぐさ』に言う「おぼつかない」感じで、その姿は紫の雲のように見える。『枕草子まくらのそうし』には春の曙の「紫立ちたる雲」の哀れが記されているが、紫の雲は古来高僧が死ぬ時、西から阿弥陀如来と大勢の菩薩が極楽浄土から紫雲に乗って来迎らいごうするとされていた。

 おしなべてむなしき空と思ひしに
   藤咲きぬれば紫の雲
         慈円法師
 西を待つ心に藤をかけてこそ
   その紫の雲を思はめ               西行法師

という和歌もある。人生を一日に例えるなら、遊び疲れた子供が夕暮れに家に帰ってゆくように、人もまた何十年一生懸命生きた後、我が家に帰るように仏様の所に帰ってゆくのだろうか。
 夕暮れ、旅に疲れた芭蕉と万菊丸は藤の花の紫雲に誘われるように宿に着く。

 旅の具多きハ道さはりなりと、物皆払捨はらひすてたれども、よるれうにと、かみこひとつ・合羽かっぱやうの物・硯・筆・カミ・薬等、昼笥ひるげなんど、物につつみうしろ背負せおひたれば、いとゞすねよはく力なき身の、跡ざまにひかふるやうにて、道猶すゝまず。たゞ物うき事のミ多し。

 草臥くたびれて宿かるころや藤の花

 「くたびれる」は「草」が「臥す」と書く。草が平伏して垂れ下がった姿は、そのまま藤の花のイメージにつながる。
 なお、この下りは、『奥の細道』の草加の下りに似ていると思う人も多いかもしれない。

 「ことし元禄ふたとせにや、奥羽長途ちゃうど行脚あんぎゃ只かりそめに思ひたちて、呉天ごてん白髪はくはつうらみを重ぬといへども、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生もしいきて帰らばとさだめなきたのみの末をかけ、その漸早加やうやうさうか云宿いふしゅくにたどりつきにけり。痩骨そうこつの肩にかゝれる物まづくるしむ。只身すがらにと出立侍いでたちはべるを、帋子一衣かみこいちえは夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨筆のたぐひ、あるはさりがたきはなむけなどしたるは、さすがに打捨うちすてがたくて路次ろしわづらひとなれるこそわりなけれ。」

 なお、ここでお気づきの方もおられるかと思うが、藤の花というのは普通四月の終わり頃から五月にかけて、ツツジや牡丹と同じ時期に咲くもので、桜の散った後に咲く花ではないか。ツツジと藤は一応春の季題とされているものの、同時期に咲く牡丹が夏の花になるのは、夏に花が少ないからだともいう。絵画では牡丹はしばしば猫と胡蝶(黄蝶)と一緒に描かれ、ここでも春と夏との境界は曖昧ではある。
 じつはこの「草臥て」の句は元禄元年四月二十五日付の惣七(猿雖)宛書簡に

 時鳥ほととぎす宿かる頃の藤の花

という初案があり、旧暦四月に詠まれた夏の句だったことがわかる。伊賀から万菊丸を引き連れて吉野の花見に行く途中の吟だと季節が合わない。この句は吉野の花見を終え、高野山を経て和歌山の紀三井寺きみいでら、和歌の浦を見た後、ふたたび奈良に戻ってきたときに詠まれたものだった。『泊船集』には

   大和行脚あんぎゃのときに、たはむ市とかや
   いふ処にて日の暮れかかりけるを、
   藤のおぼつかなく咲きこぼれけるを

 草臥くたびれて宿かるころや藤の花

とあり、丹波市に宿泊したときの吟となっている。増田晴天楼の『大和路の芭蕉遺跡』(2004年、奈良新聞社)によれば、先の惣七(猿雖)宛書簡に「丹波市、やぎと云処耳なし山の東に泊、・・・十二日、竹の内いまが茅舎に入。」とあるところから、十日に丹波市、十一日に八木に泊まり、十二日に当麻寺のある竹の内に止まったとしている。それゆえ、この句は四月十日に丹波市で詠んだまぎれもない夏の句だった。夏とはいえ旧暦の四月の初めなら、まだ藤は咲いていただろう。
 しかし、それでは季重なりではないか、と俳句を少々かじった人なら言うであろう。蕉門では季重なりは別に珍しいことではなく、それはあの有名な山口素堂そどうの「目には青葉山ほととぎす初がつを」の句でもわかる。「藤」と「時鳥」のように異なる季節の季語を重ねる例もそれほど珍しくない。

 冬牡丹ふゆぼたん千鳥よ雪の時鳥ほととぎす    芭蕉
 梅恋ひて卯花うのはな拝むなみだかな 同
 田一枚植ゑて立去たちさる柳哉   同
 名月の花かと見へて綿畑   同

これは中世連歌以来の伝統で、季題を形式的なものではなく実質的なものとみなし、ただ季語が入っていれば自動的のその季節の句とするのではなく、あくまでも句全体がどの季節の情かを重視するからだ。異なる季語を重ねても、内容上どの季節かが特定できるものであれば、いくつ季語を入れてもよかったのである。極端に言えば、

 世にふるもさらに宗祇の宿り哉  芭蕉

のように、表向き季語がなくても季節の情が特定できるものは、時雨(冬)の句となる。近代俳句が形式季語なのに対し、中世連歌や蕉門俳諧は実質季語とでもいうべきだろう。
 それでは、なぜこの句が

 草臥くたびれて宿かる比や藤の花

の形で春の句となり、『笈の小文』のこの場所に配置されているのか。この句に関しては、わざわざ夏の句を春の句に直しているのだから、記憶違いとは言いがたく、明らかに確信犯だろう。おそらく、この一文は『奥の細道』の「草加」と同様、旅がどのようなものであるかを紹介する役割のもので、伊賀からの旅立ちの直後に置きたかったのだろう。(本当は江戸からの旅立ちの後でもよかったのだろう。)ただ、「草臥れて」の句が、あまりにこうした紹介文の末尾に置くのにぴったりとはまってしまったので、何とか春の旅立ちにあわせて、この位置に置いたのだろう。それでも、藤の花が桜より先になってしまう不自然さは残ってしまった。
 おそらくこの『笈の小文』は未完成原稿だったのだろう。芭蕉がもう少し長く生きていたなら、また別の『笈の小文』があったかもしれない。

3、初瀬はつせ

 3月19日に伊賀を旅立った芭蕉と万菊丸は、増田晴天楼の説によればその日国見山の兼好塚に立ち寄り、その付近に泊まり、翌3月20日に名張から宇多郡三本松の琴引峠を越え、初瀬に至ったという。

   初瀬
 春の夜やこもリ人ゆかし堂の隅
 足駄あしだはく僧も見えたり花の雨   万菊

 初瀬は雄略天皇の朝倉宮のあった土地で、そこに建立された長谷寺も朱鳥あかみどり元(686)年に開かれた古くからの由緒ある寺だ。初瀬は「こもりくの初瀬」と歌にも詠まれ、「こもりくの」が初瀬の枕詞になっている。「こもりく」はしばしば「隠口」という字が当てられている。「隠」は呉音で「オン」と発音し、単独で用いられる場合にはンの音で終わるのを嫌い「オニ」となるため、『倭名類聚抄わみょうるいじゅしょう』ではそれが「鬼」の語源とされている。鬼は隠れて出てこないもののことで、「こもりく」というのはその鬼の口、「鬼門」のことだといってもいいのかもしれない。実際、初瀬は飛鳥の東北にあり、鬼門の方角にあたる。いずれにせよ初瀬は、山に囲まれた隠遁所の風情があり、古くからここに来る人はお籠りをして祈祷をささげた。
 その後、唐の僖宗皇帝の妃で顔が長く馬のような鼻をしていたところから馬頭夫人めずぶにんと呼ばれていた婦人がいたが、それがあるとき仙人に日本の長谷観音にお祈りすれば顔が長いのが治ると言われ、毎日祈ったところ絶世の美人になったという伝説でも知られ、平安女性の憧れの地ともなった。この時馬頭夫人からお礼に牡丹が送られたという伝説もあり、初瀬は牡丹の名所でもある。
 こういうわけで、初瀬は女性に縁のある地となった。『源氏物語』の「玉鬘」もここ初瀬が舞台になっているし、『撰集抄』巻九では若い頃妻子を捨てて出家した西行法師が、長い年月を経て尼となった妻と再会した場所にもなっている。『撰集抄』はかつて西行の咲くと信じられていて、芭蕉の愛読書の一つでもあったから、芭蕉の句はおそらくこのイメージによるものだろう。

 春の夜やこもリ人ゆかし堂の隅

西行が妻と再会したのは冬だったが、芭蕉が訪れたのは春だった。籠り人は初瀬であれば女性が連想される。西行の妻のように、昔別れた人と再会できることを祈っているのだろうか。そんな想像をさせる。
 これに対し、万菊丸の句は『枕草子』によるものだ。

 足駄あしだはく僧も見えたり花の雨   万菊

 「正月に寺に籠りたるは、いみじう寒く、雪がちに氷りたるこそをかしけれ。雨など降りぬべき気色なるは、いとわるし。初瀬などに詣でてつぼねなどするほどは、槫階くれはしのもとに車引き寄せて立てたるに、帯ばかりしたる若き法師ばらの、足駄あしだといふ物をはきて、いささかつつみもなく、下り上るとて、何ともなき経のはしうち読み、倶舎くさを、少しいひ続けありくこそ、所につけてをかしけれ。」(『枕草子』能因本一二○段)

 長谷寺のお坊さんは草履ぞうりでなく、昔から下駄を履いていたらしい。女性からすれば衣の上に帯を巻いただけの軽装の若い修行僧が下駄履きで急な石段を軽々と上り下りするのを見ると、これがいなせでかっこよかったのだろう。万菊丸の句もそんな女性の気持ちで詠んだのか。桜咲く春雨の夜は、堂に籠って何となく艶な雰囲気を漂わす。芭蕉は男の立場から、一心に祈りを捧げる女を詠み、万菊丸は足駄をはいた美形の僧侶のことを思う。この二句は組になって、あたかも男と女が恋の句を詠み交わしているかのようだ。

4、葛城山

 3月21日、芭蕉と万菊丸は長谷寺を発つと、実際は多武峯とうのみねからほそ峠を越えて吉野を目指す。場所的には葛城山とはかなり離れた所を通っている。そのため、この句は多武峯に登り口付近から葛城山を遠望しての句と解釈する人も多かった。それは、『笈の小文』という固有の作品の中では間違った解釈ではない。むしろそれがもっとも自然な解釈ともいえるだろう。
 初瀬の後に葛城と続くのは、理由のないことではない。地理的には隔たっているものの、この二つはともに雄略天皇ゆかりの土地という点ではつながっている。雄略天皇は大長谷若建命おほはつせわかたけのみことと呼ばれ、長谷朝倉宮に居を構えていた。雄略天皇といえば『万葉集』の冒頭の「こもよみこもち」の歌でも知られている。一部にこの歌を即位宣言の歌として読み解こうとする人もいるが、おそらくは赤猪子あかいこ伝説に結びついた伝承歌だろう。雄略天皇には若日下部王わかくさかべのおおきみ韓比賣からひめの二人の妻がいたが、美和河の川辺で洗濯していた少女に声をかけ、「はざれ、今にしてむ。」といって帰ったきり、そのまま忘れてしまい、後に八十歳を過ぎた赤猪子が、ずっと待っていたといって尋ねて来る話で、天皇への忠誠心と貞節を鼓舞する寓話といえよう。
 初瀬が鬼門なのに対し、葛城は南西の地門にあたり、地門は地下の黄泉の国に通じるということで半鬼門とも言われる。(ちなみに北西は天門、南東は人門と呼ばれる。)ある日雄略天皇の御一行が葛城山に登ったとき、山の上に既に同じような格好で同じような人数の御一行がいたのを見て、「この大和の国には我のほかに王はいないはずなのにお前は誰だ」というと、いかにももう一人の王であるかのように応えたので、怒って矢を放って攻撃したら、向こうも同様に攻撃して戦闘になってしまった。そこで雄略天皇はもう一人の王に向かって「名を名乗れ」というと、「我は悪事まがごと一言ひとこと善事よごと一言ひとこと、言い放つ神、葛城の一言主ひとことぬし大神ぞ。」と答えた。相手が神とあれば、さすがの雄略天皇もかしこまり、「かしこし、我が大神、うつしおみあらむとはさとらざりき。」と言って、持っていた太刀や弓矢や官人の衣服を捧げて拝んだという。「うつしおみ」は「僊人」つまり「仙人」のことと思われるが、枕詞の「うつせみ」と関係があるのかどうかは不明だ。
 この葛城山の一言主の神は、その後修験道の開祖として伝説に属する役小角えんのおづぬ役行者えんのぎょうじゃ)の物語の中に再び登場する。
 役行者は葛城山と吉野山を頻繁に往復したようだ。その理由はおそらく、吉野山が神仙郷で「「この山の山石みなことごとく黄金なり。かるがゆへに、山の名をば、金峯山と申す。」と多武峯神社本『役行者絵巻』にあるように、錬金術に関連していたのだろう。葛城山もおそらく、そうした錬金術に関連した山だったのだろう。葛城山と吉野山の途中の山道が険しいというので、役行者はそこに岩橋をかけさせようとして、それを一言主の神に命ずることになる。雄略天皇も恐れた神を使役しようというのだから、役行者の霊力がいかに強いものかがわかる。
 もっとも一言主の神も黙って言うことを聞くほど落ちぶれてもいない。自らの姿の醜いことを理由に橋の工事は夜の間だけ、ほんの申しわけ程度にだらだらやっていたため、ついに役行者も切れて一言主の神を呪術で谷底に封印してしまう。
 それでも、一言主の神は負けてはいない。今度は天皇の夢の中に現れて、この国は天皇と神々との良好な関係で栄えてきたのに、今それを乱そうとしているものがいると訴える。それを聞いて天皇は役行者討伐の命令を出すが、役行者も空を飛んだり、稲光を放ったりしてつかまるものではない。そこで行者の母を人質に取り、結局役行者は伊豆大島に島流しになる。
 絵巻物に描かれている役行者は、どこか今日の漫画のヒーローの原型のようで面白いが、芭蕉の時代の人々も一言主の神というと、こういう霊験物語のイメージだったのだろう。姿が醜いというのも「不細工」というよりはむしろ「異形いぎょう」といったほうがいいのだろう。今日でいえばビースト系か。役行者によって封印されてはしまったものの、行者を流罪に落とし込んだこのしたたかな神を見てみたいと思うのは、芭蕉ならずともそう思っただろう。

   葛城山
 なほみたし花に明行あけゆく神の顔

「なお」というところはには、怖いもの見たさのようなものが感じられる。今は葛城山ものどかな田舎の風景にすぎず、桜咲くこの平和な時代に夜明けの、いわば逢魔が刻に異界の扉が開いて、一言主の神があの頃のことを述懐してくれたらと、この句はそんな夢幻能を連想させるものだ。
 『笈の小文』では長谷寺が出てきた縁で、その次にこの句が配置されたのだろう。そして、一言主が言いつけられた仕事もまた葛城山から吉野山への道を作ることだった。このあと芭蕉と万菊丸は吉野へと山を越えてゆくことになる。その道はきっと一言主の道だったのだろう。
 実際この句がどこで詠まれたかについては、吉野から和歌の浦へ行く3月27日の朝という説と、和歌山から奈良へ向かう4月3日頃の朝という説がある。

5、雲雀ひばりより

 さて、芭蕉と万菊丸は長谷寺を発ち、遠くに葛城山を見ながら吉野への山道に入る。

   三輪みわ 多武峯たふのみね
    臍峠ほそたうげ 多武峯ヨリ龍門ヘ越道也
 雲雀ひばりより空にやすらふ峠哉

 この句はかつて本当の臍峠に雲雀がいたのかどうかが問題になったらしい。写生説の立場に立てば、この句は実際に臍峠で雲雀が鳴くのを見て詠んだのでなければならないのに、雲雀は通常平地に棲むもので山の上には雲雀はいないというのだ。増田晴天楼は、この臍峠のあたりにはかつて畑も多く、雲雀がいた可能性はあると言うが、問題は果たして芭蕉の時代にそんな写生説があったかどうかではなかったか。
 この句は『阿羅野あらの』には

 雲雀より上にやすらふ峠かな

とあり、こちらのほうが句意は明瞭だろう。先刻下界で空高く鳴いていたあの雲雀たちよりはるか上で安らいでいるようだ、というのが句の意味であり、どこにも峠で雲雀を見たなどとは書いていない。芭蕉は臍峠であたかも自分が雲雀になったかのように感じたのだ。
 貝原益軒の『和州巡覧記』によると、ほそとうげ(細峠)は

 「龍門の茶屋より一里、上下共に険しき坂なり。是より南山を顧み望めば、岩山重畳して幾重幾里と云事を知らず。諸山皆高し。就中、大峯、釈迦ガ岳、尤高し。・・・此嶺より吉野山は坤の方に見ゆ。花の時は山白く見ゆる。」

とある。芭蕉と万菊丸もこの峠を越えたとき、目の前に一気に吉野の山々の花に白くなった眺望を目にし、こんな高いところまで来てしまったと感じたのだろう。そして、しばしこれから行く吉野の遠望に見とれ、あれがなるほど花の雲かとでも思ったのではなかったか。その天にも昇る気持ちが、「雲雀より空にやすらふ」の心境だったにちがいない。
 古俳諧にあって大事なのは描写ではなく、対象の「心」に共鳴することだった。それゆえ、目の前に雲雀がいたかどうかは問題ではない。自ら雲雀の心がわかったとき、それが雲雀という季題の本意本情ほいほんじょうとなる。近代写生説の立場からすればそれは「嘘」をついたことになるのかもしれないが、芭蕉の時代には基本的にそのような考え方はない。大事なのは形ではなく心だった。目には見えなくても心が雲雀なら、それこそが風雅の誠なのである。(つづく)