
十二日、
これまでの奥州街道は、一応幕府の政策としてもきちんと整備された街道だった。しかし、松島から平泉への道はそれこそ
岡田喜秋は『旅人・曾良と芭蕉』(1991、河出書房新社)の中で、「曾良の『随行日記』をみると、馬に乗った場合は、ちゃんと書いてある。」と言い、特に馬に乗ったと書いてない部分すべてを徒歩とみなし、芭蕉が馬に乗らない理由をを芭蕉が痔だったからだとしている。しかし、曾良の『随行日記』には歩いた場合もちゃんと書いてある。この松島から安久津までの道のりの他に、新潟でも「馬高く、無用之由、源七指図にて歩行す。」とあり、市振のあとでも「入善に至て、馬なし。人雇て荷を持せ、黒部川を越。」とある。つまり、『随行日記』は正確にいえば、馬に乗ったと明記されている箇所、歩いたと明記されている箇所、どちらとも書いてない箇所、の三種類があるということになる。問題はどちらとも書いてない『随行日記』の大半の箇所をどうとるかだ。岡田喜秋は原則としてどちらとも書いてない場合は歩いたと考えているようだ。しかし、これには確固たる根拠はない。私は逆に考えている。歩いた箇所はいずれも理由が示されている。つまり、歩いた箇所はわけあって歩いたのであり、原則として『奥の細道』の旅は馬によるものだったと考えている。
『随行日記』で芭蕉が馬に乗ったと書かれている箇所は、芭蕉が曾良と離れて単独行動をとったさいに見られる。たとえば、曾良の体調不良のため芭蕉だけが黒羽から余瀬に行ったとき、「図書・弾蔵より馬人にて被送る。馬は野間と云所より戻す」「馬壱疋、松子村迄送る」とある。これはあとで芭蕉か図書家来角左衛門から聞いた話をそのまま記入したものだろう。羽黒山の飯道寺でも「翁計馬にて」とあり、鼠が関の所でも、「翁は馬にて直に鼠が関被趣。予は湯本へ立寄。」とある。
また、須賀川で石河滝を見に行ったとき「歩にて行かば」という表記があり、そのあとで「小作田村と云馬次有。それより弐里下り、守山宿という馬次有。」とある。これも山道で馬が使えなかったという特殊なケースと思われる。出羽三山登山のさいにも「高清。是迄馬足叶道」とあり、そこから先が歩きだったと思われる。また、尾花沢から立石寺、天童へ行く時にも「馬にて」「馬借て」の表記がある。これも街道をはずれた地域で、例外的なものと思われる。街道筋では基本的に馬に乗るのが芭蕉の旅の真の姿で、『野ざらし紀行』でも東海道を下るときに馬を使ったことははっきりしている。『奥の細道』だけ例外的にその大半を歩いたとは考えにくい。
芭蕉の病歴を考慮するという意味では、芭蕉には延宝九年七月二十五日付けの木因宛の手紙に、すでに「拙者夜前は大に持病
三代の
夏草や
卯の花に
これはあまりに有名な場面で、学校の教科書で読んだ人も多いだろう。
ここでひとまず東北地方の歴史をざっと振り返ってみよう。旧石器時代にはおそらくここにはエスキモーの祖先が棲んでいたのであろう。氷河期が終ると日本列島西部から大陸にかけて広く分布していた狩猟民族が東北、北海道へと分布域を拡大してゆく。彼等が縄文・アイヌ系の民族として、紀元前3世紀くらいまで日本の主要民族だった。このうち北海道をのぞく地域では江南方面から早い時期に伝わった焼畑農耕を営み、農耕民族化し、北海道に純狩猟民族として残ったものとの間に、文化的な隔たりが生じるようになった。ここに縄文人とアイヌが分離していった。もっとも、東北地方でも長く縄文系の狩猟民族と農耕民族は共存していたようだ。斉明天皇5(659)年の遣唐使のさいに連れていった
そして、紀元前3世紀頃には春秋戦国時代から秦漢による中国の統一の時代を経て、長江流域の江南系の民族(彼等は「倭人」と総称された)は次第に漢民族に圧迫され、一部は南へのがれ、その最後の末裔が雲南、タイ、ビルマのワ族、ラワ族となった。これに対し東へのがれたものは津島海流に乗って北九州から朝鮮半島南部に流れつき、日本に弥生時代をもたらした。生産力の高い水田稲作農業を営む彼等はまたたく間に関東甲信越地方にまで広がり、畿内を中心に国家を形成するようになった。いわゆる大和朝廷の誕生だ。このとき、縄文系の民族は東北地方に次第に追いやられていった。彼等は倭人でもアイヌでもない、
大和朝廷は蝦夷と接触するために東北各地に「柵」という役所を設け、そこに中央官人を派遣した。それとともに東北地方への移民も増え、蝦夷との衝突がしばしば生じるようになった。奈良時代後半から平安時代初期には移民と蝦夷との対立が激化し、蝦夷の反乱が相次いだ。坂上田村麻呂が征夷大将軍になり、反乱を鎮圧したのも、この頃だった。11世紀になると安倍頼良が東北六郡の郡司となり、本来蝦夷を鎮圧する立場だった郡司がかえって蝦夷を支配する力を利用し、蝦夷系の豪族とともに1051年、朝廷に対して反乱を起したのだった。ここに東北蝦夷の独立の時代が始まる。安倍氏の反乱は結局1062年には鎮圧され(前九年の役)、代わりに出羽の国の清原武則が鎮守府将軍になる。しかし、清原氏も陸奥守として赴任してきた源義家と対立し、1083年反乱を起す(後三年の役)。
このあと半独立状態の東北の支配者となったのが藤原清衡だった。藤原清衡は安倍氏、清原氏とも血縁があり、蝦夷の力を統括するとともに、京都の藤原家の血を引くということで、朝廷との強力なパイプを持ち、貿易を活発にすることで経済力をつけ、奥州藤原三代の繁栄の基礎を築いた。清衡は勢力を東北北部にまで延ばすことにより、北海道のアイヌを経て、樺太から沿海州への交易路を手にいれ、北方経由で中国の織物「
やがて安東氏は室町幕府に臣従の形式を取り半独立状態を保った。しかし、鎌倉時代以来、北海道は流刑地として本土の人々が入植し、彼等と安東氏が結びつくことでやがてアイヌとの対立が深刻化してきた。その不満は1457年のコシャマインの乱で頂点に達した。その後もしばしばアイヌの反乱は続いたが、そのつど安東氏は和睦を申し出る振りをして首謀者を酒宴の席で暗殺し、鎮圧してきた。
しかし、度重なるアイヌの反乱によって弱体化した安東氏は、やがて戦国時代に
やがて北海道は幕府の直轄地となり、それに連れてアイヌへの支配を強化してきた。これに対しアイヌは何度も反乱を起している。その中でも最大のものは寛政元(1789)年の「クナシリ・メナシの乱」で、それ以降もアイヌの抵抗は続いた。しかし、明治維新の頃にはロシアとの国境確定のさい、北方領土が日本固有の領土であることを主張するために、アイヌに対してそれまでの風俗、伝統文化から言語から何から何まで奪い去る強力な民族同化政策が取られるに至った。これと同様の同化政策はその後、韓国併合のさいに朝鮮民族に対しても行われた。これによって、縄文系の蝦夷もアイヌ系の蝦夷もほとんど息の根を止められ、今日の単一民族国家「日本」の幻想を生み出すに至った。しかし、アイヌは今日も少数ながら健在であり、彼らは独立した一つの民族としての誇りを守っている。蝦夷、アイヌ−この二つの民族と日本人との間に長い闘争の歴史があったことは記憶に留めておこう。
衣川は10世紀ごろには北の安倍氏の支配地域と朝廷の支配地域との国境をなしていて、前九年の役のときには激しい戦闘が行われた。藤原三代の時代にも、これより北は縄文系の農耕民族だった蝦夷の住む地域だった。蝦夷の支配者だった安倍・清原氏の血と朝廷の藤原氏の両方の血を引くこのハイブリッドな王家は、蝦夷を交易ルートとして利用する一方で、やはり蝦夷の反乱の危険を常に抱えていたのだろう。『奥の細道』にも「
とりわきて心もしみて冴えぞわたる
衣川みにきたるけふしも
西行法師
なみだをば衣河にぞながしける
ふるき都をおもひいでつつ
西行法師
の歌を詠んでいる。前者は衣川の闘いの故事を思い、後者は流人の心を歌ったものだ。西行の佐藤家も奥州藤原氏とは遠縁にあたり、秀衡とは面識もあったのかもしれない。
衣川の北の高館は源義経のかくまわれていた所で、この地は源頼朝の軍の攻撃によって再び悲劇の地となった。芭蕉の時代にはもはやかつての繁栄のあとはなく、ただ杜甫の『春望』の詩を思い起こすのみだった。
国破山河在 城春草木深
感時花濺涙 恨別鳥驚心
烽火連三月 家書抵萬金
白頭掻更短 渾欲不勝簪
都が破壊尽くされても山河はそこにあり、街には春が来て草木が生茂る。
時が時だけに目出度い花にも涙が溢れ、離れ離れになった運命を恨んでいれば鳥の声にはっとさせられる。
戦火は三か月に渡り、家族からの便りは万金の価値がある。
白髪頭を掻けば抜けてゆくばかりで、もう役人として冠を被ることもできないのだろう。
目出度いはずの春も、戦火の中ではただ悲しいばかりだ、というこの詩は、謝霊運の「池塘生春草、園柳変鳴禽(池の土手には春の草が生い、庭の柳に鳴く鳥も変る)」の名句を踏まえたもので、謝霊運の満たされぬ春の嘆きを現実の戦火の悲惨に重ねている。そこには芭蕉の過去の繁栄を夏草にしのぶ気持ちと若干の温度差がある。杜甫のリアルは芭蕉にあってはノスタルジーにすぎない。しかし、それが渾然となるところに、この夏草の句が生まれる。
夏草や
奥州三代の繁栄、それは王朝時代の夢につながる。失われた過去は心の中で果てしなく美化され、黄金郷の夢を形作る。プラトンが夢見たアトランティスのように、孔子が夢見た先王の治世のように、室町、江戸時代の日本人にとって、王朝時代は理想郷だった。江戸時代の日本人は天皇のことをほとんど意識しなかったという人がいるが、そんなことはないだろう。天皇は八代集や源氏物語や能を通じて一つの夢物語として理解されていた。それが国学の原動力となり、幕末の王政復古につながっていった。聖人君主の政治によって、民衆の声はダイレクトに国政に反映され、一君万民のユートピアを形作る。それはあまりに淡く非現実的な夢想なのだが、今日でも天皇親政の復活を望む声は後を絶えない。しかし、どんな聖人君主が政治を行おうと、官僚的な独裁体制のもとでは民衆の声は官僚の間を通って君主に伝えらるまでにゆがめられてしまい、君主は正確な情報に基づいての判断ができないばかりか、君主の意思も官僚組織を伝わる間にどうしようもなく醜く歪められてしまうであろう。一君万民は一人一人の顔が見える程度の小さな部族社会では可能かもしれない。それより社会が大きくなれば、やはり民主主義的な形態の方が民意を正確に反映できるだろう。
芭蕉もそんな一君万民の淡い夢を見る一人だったのだろう。たとえば、
日の道や葵かたむく五月雨 芭蕉
の句の寓意は明瞭だ。日の道、つまり天道、天皇の道、天照大神の道に葵、つまり徳川家は傾いてゆく。しかし、天道そのものは五月雨の厚い雲に遮られて見ることができない。徳川東照宮の光は木の下闇までも照らすことができない。見えない天道。本当の太陽の時代は遠い過去の追憶でしかない。
当時の人の歴史観からすれば、奥州三代の栄華も、蝦夷といえども天皇の保護のもとに平和が保証されればこそのものだったのだろう。今日の一民族一国家の考え方からすれば理解しがたいかもしれないが、前近代の帝国には、少なからず「保護された民」という考え方があった。文明の遅れた民族は抹殺するのではなくむしろ教化し育てるという考え方は、洋の東西を問わず存在していた。中華思想というのも、四方の夷狄を朝貢・冊封という形でその独立を認め、保護するというものだった。奥州藤原氏もまた、そうした関係で独立状態を保っていた。奥州藤原氏の栄華は同時に天皇の威光の現われでもあったのである。この関係は江戸時代の松前藩と幕府との関係にも受け継がれている。それが根本的に崩壊したのは明治の近代化のさいに西洋から一民族一国家の考え方が入ってきてからだ。一民族一国家観が悲劇を引き起こしたのは、アイヌや朝鮮民族だけではない。オスマン‐トルコのもとに「保護された民」として平和共存していたバルカン半島の諸民族は、いまだに多くの火種を抱えている。
「兵どもが夢」とは一体何だったのだろうか。国を守るため、民族を守るため、家族・同胞を守るために闘い、果てた人の夢はただ一つ、平和だったに違いない。武家政治という名の軍事政権は、しばしば国際関係を弱肉強食の血で血を洗う世界に変える。芭蕉の時代には秀吉の朝鮮侵略の暴挙もまだ記憶に遠くない。
しかし、そんな素朴な平和への祈りも、残念ながら武家政治に対抗できるだけの明確な政治理念として結実することはなかった。幕末の王政復古も理論を欠いたまま、結局軍国主義という新たな武家政治を生んだだけだった。敗戦の中で残ったものは結局、ただ天皇親政に幻滅した人々と、まだ夢から醒め切れぬ人々の二つだった。天皇は中世・近世と実際に政治の舞台に出ることがなかった。だからこそ神聖でいられた。人々はノスタルジーの中に各々理想の君主の姿を思い描いていればよかった。しかし、ひとたびそれが権謀術策渦巻く政治の表舞台に引き出されれば必ず汚れる。敗戦により日本が焦土と化したあの日、どれだけの人が杜甫の「国破れて山河在り」と芭蕉の夏草の句を思い起こしたことだろうか。まだこの句は過去のものではない。
芭蕉のこの句に、曾良もまた
卯の花に
と付け加える。桜の咲く山は白い雲に例えられるが、卯の花の咲いた山は若葉の緑と卯の花の白が入り交じり、ちょうど白髪がまじって胡麻塩頭になったようになる。それを非業の死を遂げた兼房の面影とした句で、あたかも兼房が転生して卯の花になったかのようだ。朱子学では人は死ぬと気が散じ、天地に還ってゆく。そして、気は循環し、また新しい生命を生み出してゆく。兼房の魂はあたかも今もなお付近の山の卯の花となって残っているかのように感じたのだろう。
私も光堂の実物を見るまでは、光堂があまりにも素晴しく神々しいため、五月雨もここだけ降らなかったようだ、というような一種の比喩だと思っていた。しかし実物を見て、何だそういうことかと納得し、思わず笑ってしまった。これじゃあ五月雨が降るはずもない。後で『奥の細道』の本文を見てみると、ちゃんと「四面
かつて藤原清衡が建立した中尊寺光堂は、鎌倉時代には既にさや堂(套堂、覆堂、鞘堂などと人によってばらばらな字が当てられている)が立てられていたという。だが、このさや堂の存在はなぜか最近の芭蕉研究者たちには嫌われているようだ。たとえば、山本健吉は『奥の細道』(1989、講談社)の中で、「芭蕉は詩人としての特権で、散文的な
さや堂が詩にならないなんて一体誰が決めたことか。この句はさや堂を賛美し、単なる歴史の感傷を越え、光堂を守ってきた人々へ感謝の気持ちと、その背後にある人々の信仰心への畏敬が、そのまま句になったところに価値がある。この句は倒置法でできていて、正しい順序にすれば「光堂のみぞ五月雨の降り残してや」となる。もちろんここの「や」は詠嘆であって、疑問ではない。この句は先の「夏草や兵どもが夢の跡」の句と対になる。「
五月雨といえば、芭蕉はその後『嵯峨日記』の中で
五月雨や
という句も詠んでいる。壁に張ってあった紙を剥がせば、そこだけ元の色の壁が残っている。ここでも五月雨は年月がふる(経る、降る)という意味で用いられている。壁紙を剥がしたあと、まだこの家の新しかった頃の壁の色が残っているのを発見する。それは日常の何気ない風景で、まさに、この頃の「軽み」を感じさせる句だが、その裏にも、五百回の五月雨をかいくぐった光堂の輝きが隠されている。
ところで、『奥の細道』には「兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。」とあるが、曾良の『随行日記』によると、経堂の方は実際は開帳してなく、中は見られなかったという。それならこの「三将の像」は何だったのだろうか。ここだけは虚構なのだろうか。芭蕉を信じるとするならば、これはどこかで見た別の「三将の像」か、あるいは人から話に聞いた「三将の像」のイメージが記憶が紛れ込んだために生じた「偽記憶」だろう。
最近発見された芭蕉自筆本には、「五月雨の降り残してや…」の句ではなく、
五月雨や
蛍火の昼は消えつゝ柱かな
の二句が書かれている。最初は五百年という年月の重みの方に重点を置いて考えていたようだ。しかし、五月雨が五百回降ったというだけの句では、光堂のきらびやかさもそれがさや堂に守られていたことも表現できてはいない。もう一句の方も
昼は消えつつ物をこそ思え
の歌を踏まえたもので、昼間の光堂の静寂に裏に、長い歴史の恨みを隠し込んだものだ。蛍は人の魂にしばしば例えられ、その消えそうな微かな光は苦しい恋に傷ついた女の泣き声のようでもある。それを芭蕉はこの地に果てた人々の嘆きの声に聞いたのだろう。
奥州三代滅亡の兵どもの夢は、見た所何もないかのように平穏にさや堂に守られている。しかし、非業の死を遂げた魂達は昼の蛍のように見えないところでふつふつと恨みの炎を燃やしているかのようだ。後に甥の桃隣が芭蕉の足跡を慕い、この地で詠んだ句に
という句がある。これは芭蕉の「蛍火の…」を踏まえたものだろう。
この「
ではなかったか、という疑問がふつふつと湧いてくる。もちろん、最初は「バリする」としたが、後に推敲し「シトする」と改めたという解釈も成り立つ。長いことシトするで通ってきて、それで名句だということですっかり馴染んでしまった耳には、「バリ」なんてとんでもないという気持ちが起こるのも無理はない。私も始めはそうだった。しかし、時間が経つと不思議とこの「バリ」という語感にも何となく馴染んでくる。それはたとえば、「ら」抜き言葉が最初のうち違和感を感じたが、みんなが使っているとすっかり馴染んで、かえって「ら」が入っているほうが不自然な気がしてくる。最近の平板アクセントにしてもそうだ。同じように、慣れてくるとこの「バリする」という語感もなかなか捨て難くなってくる。
「シトする」というのは確かに上品で奇麗な感じがする。「シトする」のイメージだと、芭蕉や曾良は蚤や虱の痒さに悩まされながら、半分寝て半分目覚めたような朦朧とした状態で馬の小便の音を聞いているようだ。その小便の音はいかにも「シトシトシト」といった静かなもので、それは夢の中で清水のせせらぎに変ってゆくような、ほのぼのとした情景に変ってゆく。
「バリする」ということになると、イメージはかなり変ってくる。馬の小便はいかにも「バリバリバリ」と大音響を立てる。蚤や虱で体中が痒くて、寝るに寝られないところにもってきて、ようやく寝入ろうかというところで馬の小便の音に目が醒めてしまう。横にいる曾良と「すげぇ音だな」「いやまったくまいったっすね」などと言いながらクスクス笑い、ついに一睡もできなかったというような情景が目に浮かぶ。旅の句の本意、また夏の夜の心はというと、やはり旅寝の苦しさ、眠れない夜という方が本来の風雅の趣向だったのではなかったのか。最近では私は「シトする」の奇麗さより「バリする」のリアリティーのほうに傾いてきている。
馬の尿(シト、バリ)は尿前の関という地名に書けたものであり、また、それは「道は
あるじの
ここ
「
旅の苦しみは草加、飯坂を経て、この山刀伐峠で頂点に達するから、ここが一番のヤマとする荻原井泉水の説も理由のないわけではない。病弱な体に鞭打っての険しい山道越えで、山賊が出ると聞き、命の危険にさらされるとあれば、なおさらだ。曾良の『随行日記』によれば前日は一日大雨で、道も悪かっただろう。案内のものに荷を持たせたとあるが、馬が使えたのかどうか、このあたりの記述は歩いたとも馬に乗ったとも書かれていない。しかし、この山越の道はそんなに長くなく、昼過ぎには尾花沢の