
蕪村『春風馬堤曲』を読む
鈴呂屋 こやん
えのきどいちろうがラジオでよく言っていたことに、ディズニーのアニメは死が隠し味になっているが、手塚治虫の場合は性が隠し味になっている、というのがあった。これを俳諧に当てはめるなら、芭蕉の句は死が隠し味になっているといっていいだろう。
たとえば、
閑さや岩にしみ入蝉の声 芭蕉
の句を見てみよう。
「閑さ」は煩悩寂滅、つまり涅槃に通じる。「岩」も無生物で、生命を持たない。『古事記』の神話では、このはなさくや姫という生命の象徴に対し、いはなが姫が対置されている。そして、さらに「蝉の声」だが、これも一週間ばかりのはかない命を象徴する。
これに対し、蕪村の句は性が隠し味になっている。
たとえば、
春雨や小磯の小貝濡るるほど 蕪村
などがいい例だ。
これを海の景色の写生だと言ってしまえばそれまでだが、海に住む貝はいつも濡れているもので言わずもがななことなのに、それをあえて「小貝濡るる」と言ったときには、ある程度スラングで女性器のことを「貝」と言うことを計算に入れていたのではないかと思われる。
死は誰しも避けることができず、死を避けようとするのは本能でもあるし、また、死は誰も体験できないものであるだけに、死んだらどうなるかがわからず、不安を掻き立てる。
死んだらどうなるのかと問ううちはまだ生きているし、実際に死を体験してしまったら、それを生きている人に伝える手段は失われる。だから、死んだらどうなるのか、という問いに確実な答はない。ただ人はそれをあてどもなく想像するしかない。答のない問いには無限の想像が働く。「死」がもたらす想像は無限である。
これに対し、性は誰しも体験可能だし、行為そのものはきわめて単純だ。単純でありながらも、そこに「性選択」という過程が存在することによって、結構複雑になる。つまり、たとえ動物の世界であっても、ただオスとメスが出会えば機械的にというわけにはいかない。そこにはよりよい遺伝子を残そうとする両者の思惑が働き、相手を厳選しようとする。性の場合、そこに至るまでの過程で無限に遠回りさせられうことによって、豊かな想像力の表現が可能になる。
死がもたらす想像は、答のない問いに対する無限の仮説の自由であり、性がもたらす想像は単純な結末へ向けての果てしない遠回りである。
性に対する想像力というと、蕪村と同時代、西洋にはマルキ・ド・サド(サド侯爵)がいた。しかし、サドは性に至る遠回りの過程の多くの想像を、暴力に見出した。これに対し、日本ではむしろフェティシズムの方向に向う傾向にあった。
つまり、性的刺激をそれそのものから、極力遠い幽かなものへ遠ざけ、いわば、中世の幽玄の美と言われたものを、性的象徴に関しても奥深く隠された幽かな徴を求める方向へと発展していった。それは、今日の「萌え」の文化に受け継がれている。
芭蕉は「シュールネタ」から「あるあるネタ」までの今日の様々なお笑い芸の基礎をつくり上げたが、蕪村は何をもたらしたかというと、それは萌え文化の基礎を作ったことではなかったか。
江戸時代や明治の初期には絵師としては高く評価されても俳諧のほうはあまり知られてなかった蕪村の評価だったが、近代の学生文化のなかではその評価は急騰し、彼らが文芸同人誌を作ってゆく中で継承されていった。それは今でいうオタク文化に近いものだった。なんのことはない。表向き「写生説」を説きながらも、彼らはひそかに蕪村の作品の持つ性的象徴を楽しんでいたのだ。おそらく「エロチシズム」という言葉は蕪村について語るのに不可欠な言葉ではないかと思われる。それくらい蕪村はエロい。
その流れは、1970年代以降、学生文化の中心が文学部から漫画アニメ研究会に移った際にも自然に継承されていったとしても何の不思議もなかった。
日本の漫画アニメが、ときおり西洋の識者から小児偏愛の傾向が怪しからぬという指摘を受けたりする。これは暴力を基調とした性的想像力の伝統(マルキ・ド・サドの伝統)を持つ西洋人からすれば、ロリコン=小児虐待と映ってしまうからなのであろう。
しかし、日本の漫画アニメのロリコン的な傾向は、むしろ性的象徴をそれそのものとして描くよりも、それをほんの幽かに匂わせるものに求めようとするからに他ならない。
竜騎士07のゲーム作品『ひぐらしのなく頃に解 目明し編』の一場面で、女の子(園崎詩音)が不良グループに絡まれている場面があり、そのときの不良が「タイトミニもええぇんのおおぉおぉ!!上から下までぜ~~んぶ色っぽくしやあよぉおおー!肌色の面積を限りなくひろげぇて、萌え萌えの姿にしちゃあるんけん~~~!!!!!」」なんて発言したのに切れた主人公(前原圭一)が、「タイトミニには萌えがない!!!そして肌色面積は控えめに!!たとえお天道様が西から上ることがあろうとも!!絶対絶対これは萌え業界の鉄則だああぁあああ!!!」」といって思わぬ力を発揮しやっつけてしまう場面があったが、それが萌え文化の本質的な部分であることは間違いない。前原圭一の言葉を借りるなら、「色気は本能だが萌えはわび寂びだ、もののあはれの世界だ!!」
春風馬堤曲
謝蕪邨
余一日問耆老於故園渡澱水過馬堤偶逢女帰省郷者先後行数里相顧語容姿嬋娟癡情可憐因製歌曲十八首代女述意題曰春風馬堤曲
春風馬堤曲 十八首
○やぶ入や浪花を出て長柄川
○春風や堤長うして家遠し
○堤下摘芳草 荆与蕀塞路
荆蕀何妬情 裂裙且傷股
○渓流石點點 踏石撮香芹
多謝水上石 教儂不沾裙
○一軒の茶見世の柳老にけり
○茶見世の老婆子儂を見て慇懃に
無恙を賀し且儂が春衣を美ム
○店中有ニ客 能解江南語
酒錢擲三緡 迎我讓榻去
○古驛三兩家猫兒妻を呼妻來らず
○呼雛籬外鶏 籬外草滿地
雛飛欲越籬 籬高墮三四
○春艸路三叉中に捷徑あり我を迎ふ
○たんぽぽ花咲り三三五五五五は黄に
三三は白し記得す去年此路よりす
○憐みとる蒲公莖短して乳を浥
○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
慈母の懷袍別に春あり
○春あり成長して浪花にあり
梅は白し浪花橋邊財主の家
春情まなび得たり浪花風流
○郷を辭し弟に負く身三春
本をわすれ末を取接木の梅
○故郷春深し行行て又行行
楊柳長堤道漸くくだれり
○矯首はじめて見る故園の家黄昏
戸に倚る白髪の人弟を抱き我を
待春又春
○君不見古人太祇が句
藪入の寢るやひとりの親の側
まずこれが「曲」と名のつくことに注意しておこう。実のところ「歌」も本来はそうだったのだが、これは純粋に文字として書かれたテキストではなく、本来は歌詞を記したものだった。
近代文学の読解の手法は、しばしばそれが本来持っていた音楽と切り離し、純粋なテキストとして読もうとする。あるいは音声的な評価をする場合でも「素読」を基本とし、ゆったりと浪々と謳い上げるものとして扱われることは稀だ。
ここで何が問題になるかというと、たとえばそのさいしばしば言葉の前後関係がどうでもいいものとして扱われるということだ。つまり、和歌や俳諧のような短いテキストはしばしば共時的に、つまり全部の文字が同時に頭に飛び込んでくるかのように解される。
そう考えるならたとえば、
うらやまし思い切る時猫の恋 越人(芭蕉添削)
思い切る時うらやまし猫の恋 越人(原案)
の違いは無視される。せいぜい、素読で発音した時、どっちが語呂がいいか程度の問題になる。しかし、もしこのテキストが音楽として、ゆっくりと謳い上げられるものだとしたら、印象は大きく異なってくる。
聴く人は上五を聞いた時、そのあとの展開を予想しながら聴く。「うらやまし」と来れば、「一体何がうらやましいのだろう」と、何が起こるか期待し、「思い切るとき」が次に続いた時、その意外性に戸惑う。恋の切ない思いを断ち切るというのは辛いものなのに、一体何がうらやましいのか、と。そこで「猫の恋」が落ちになる。なるほど、人間ならいざ知らず猫ならガテン、ということになる。
しかし、ともすると近代の俳人なら「猫の恋思い切るときうらやまし」でも別にいいじゃないか、と思いがちになる。その違いは単なる語呂の良し悪しという微妙なものではなく、落ちを最初に言ってしまうという致命的な過ちなのである。
『春風馬堤曲』も、近代文学として黙読か素読を基本として読むのと、これを音楽として、きわめてゆっくりとした速さで耳に飛び込んでくると考えた場合とでは、決して同じではないだろう。
今となっては、これがどういう音楽だったか、再現は難しい。おそらくは詩吟を基調とした吟詠であり、それに三味線の合いの手が入るような、近代になって発達する浪曲の原型のようなものと考えればいいのかもしれない。
余一日問耆老於故園渡澱水過馬堤偶逢女帰省郷者先後行数里相顧語容姿嬋娟癡情可憐因製歌曲十八首代女述意題曰春風馬堤曲
余一日耆老を故園に問う。澱水を渡り馬堤を過ぐ。偶女の郷に帰省する者に逢う。先後して行くこと数里、相顧りみて語る。容姿嬋娟、癡情憐れむ可し。因って歌曲十八首を製し、女に代りて意を述ぶ。題して春風馬堤曲と曰う。
これはいわば「まえせつ」であって、謡われたわけではないだろう。それに続く、
春風馬堤曲 十八首
もタイトルであって、これも謡われたわけではあるまい。音楽はそのあとから始まる。
なお、このタイトルの読み方には「しゅんぷうばていきょく」とする説と「しゅんぷうばていのきょく」という「の」を入れる説とがある。今回は一応後者にしておいた。
○やぶ入や浪花を出て長柄川
「やぶ入や」で、物語の舞台設定が始まる。時は藪入り、旧暦一月十五日、仕事はお休みで奉公人は一斉に帰郷する。今なら高速道路は大渋滞、鉄道も150パーセントの乗車率といったところだが、当時は徒歩で帰るし、歩ける範囲内から来ている人がほとんどだっただろう。もっとも芭蕉が伊賀から江戸に出てきたみたいに故郷が遠い人もいた。そうした人たちは帰郷はしなかったと思われる。おそらくは10年に一度帰れればよかったのではないかと思われる。
秋十年却って江戸を指故郷 芭蕉
のようなものだった。
次に「浪花を出て長柄川」と続くことで、場所設定が明らかいなる。「長柄川」は旧淀川の支流、中津川で、この川はWikipediaによるなら、「治水対策のために1898年から1910年にかけておこなわれた現在の淀川の開削の際に、新淀川の流路の一部ないしは河川敷に転用されて現存しない。」
江戸時代の旧淀川は今の大川の方へと流れ、大阪の市街地の真ん中で堂島川と木津川に別れ、その辺りからいくつもの人工的な堀川が東西南北に流れることで、浪花八百八橋と呼ばれる水の都となっていた。
これに対し、今の新淀川の方に中津川が流れていた。蛇行してしばしば氾濫したため、明治に大規模な治水工事が行なわれて大きく拡張され、現在の淀川となった。今でも梅田の北に中津という地名が残っている。
『春風馬堤曲』の舞台は当時の浪花の中心部を北に外れたこの中津の辺りから始まる。
○春風や堤長うして家遠し
「春風」ということで、この日が天候に恵まれ、晴れた暖かな日だったことがわかる。そして、舞台はさらに限定され「堤」がクローズアップされる。そして、この堤を通って実家への長い徒歩の旅が始まる。この堤がタイトルとなっている「馬堤」で、おそらく毛馬、今でいう大阪市都島区毛馬町を通過する道で、もう少し先まで行くと京街道に合流したのだろう。京街道は京橋を基点として大川の東側を通り、守口、枚方、伏見を経て京に至る。
まえせつに「先後行数里」とあるが、毛馬までは一里程度だ。これは『奥の細道』の前途三千里のような誇張であろう。
○堤下摘芳草 荆与蕀塞路
荆蕀何妬情 裂裙且傷股
堤を降りて芳しい草を摘もうとしたら、イバラとカラタチが道をふさぐ。
イバラにカラタチ、何やきもち焼いてるの、裾を裂いては股を引っ掻く。
意味はそう難しくない。日本で早春に摘む「芳草」といえばセリのことだろう。セリを取ろうとして堤を降りてゆくと、刺のある草が邪魔し、裾を引っ掛け、股に引っ掻き傷ができる。
「股」という文字がいかにも露骨な感じだ。裾が裂けるというのは着物が破れるのではなく、裾がはだけてという程度の意味だろう。そこから普段は着物の裾に秘められた白い股があらわになり、そこから血が流れている。蕪村はここで一気に勝負をかけた感じがする。ここで男達を「おっ」と思わせて、一気に話に引き込もうという寸法だ。
「股」は太もものことで、今でいう「絶対領域」を指す。
当時の着物の着方は明治以降と違い、動きやすいようにかなりゆるく着ていたため、イバラに裾を引っ張られたりすれば、はだけやすかったのだろう。それはパンチラのようなチラリズムで男心をそそる。
余談だが、「小股の切れ上がったいい女」というときの「小股」には諸説あるが、私はそのまんまの意味で「股」のことではなかったかと思っている。「小耳にはさむ」だとか「小腹がすく」という言い回しと同様、「小」の文字にはそんなに大きな意味はないという説もあり、その通りではないかと思う。昔から絶対領域は男性にとっての重要な萌えポイントだったのではなかったか。
股から流れ落ちる血は、さらに別の連想も誘う。「裂裙」も、字面からすれば本当に着物が引き裂かれたかのような印象も与え、さながら婦女暴行致傷。それも蕪村の計算であろう。
実際、小林太市郎はまんまとその罠に引っかかって、「土手下の藪蔭で老俳諧師と娘との間には『裂裙且傷股』の愛の交歓があったのであり、『多謝水上石(こやん註;次の詩に出てくる句)』はその愛を知った娘のよろこびの叫びであるとまでいう」(『與謝蕪村の小さな世界』芳賀徹、1988、中公文庫、p.106)と解釈している。
(なお小林太市郎は尾形光琳の「紅白梅図屏風」を、真ん中の川を女として、左右の梅の木を男としての、3Pのイメージで解釈したことでも知られている。江戸時代の絵画にこうした見立てが多く含まれていることは否定できない。しかし、それは隠し味であって、それを描くことが目的なのではない。それをわかった上で、「春風馬堤曲」をそういうふうに読んでいるものと思われる。)
○渓流石點點 踏石撮香芹
多謝水上石 教儂不沾裙
渓流には石が転々として、石を踏んでは芳ばしい芹を摘む。
水の上の石さんありがとう、おかげで裾を濡らさずにすむ。
これもマイナーイメージとして読むなら、裾を濡らさずにすむというところで、かえって裾を濡らした姿を想像させる。石から足を踏み外して「きゃっっ、冷たっ」って、女の子の可愛らしい仕草としては今でも定番だ。
マイナーイメージという言葉は正岡子規がスペンサーから学んだもので、さっそく芭蕉の古池の句に応用し、水の音をもって閑寂と言わずして閑寂を言いあらわすという解釈を思いついている。洋の東西を問わず、こうした手法は珍しくない。
榎本其角は、芭蕉の、
初しぐれ猿も小蓑をほしげなり 芭蕉
の句に対して、「猿に小蓑を着せて、俳諧の神を入たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼るべき幻術なり」と評しているが、この句も「ほしげなり」というだけで、猿が蓑を着たということはどこにも書かれていない。それでも猿が蓑を着た姿を想像してしまう。書かれてないもが見えるという意味で、それはまぎれもなく「幻術」だ。
○一軒の茶見世の柳老にけり
芹摘みは終り、やがて一軒の茶店にたどり着く。「柳老にけり」が茶店自体も古く、そこの主人も年老いていることを想像させる。
○茶見世の老婆子儂を見て慇懃に
無恙を賀し且儂が春衣を美ム
茶店のばあちゃんががわたしのことを見て慇懃に、
恙無いことを喜び、わたしの春物の着物を誉める。
このおばあちゃんは、毎年春秋に帰省するたびに会う、顔見知りなのであろう。とはいえ、世代も違うし、特に仲がいいわけでもない。あくまでも商売上のお世辞として、着物を「あら可愛いね」という感じで誉めてくれているにすぎない。
○店中有ニ客 能解江南語
酒錢擲三緡 迎我讓榻去
店の中にはお客さんが二人いて、地元の言葉で話してくれる。
酒代に銭の束を三つ投げては、わたしのことを迎えてくれて席を譲ってくれる。
「江南語」はもちろん中国の江南地方の言葉ではなく、漢詩風に気取って言っているもの。青山の横断歩道をアビーロードと言ったり、中央高速をアメリカのフリーウェーに見立てたりするようなものだ。
ただ、どこの言葉を「江南語」と呼んでいるかには諸説ある。浪花の遊郭の言葉だとかいう説もあるが、ようやく故郷に近づいたというこの場面では相応しくない。故郷の毛馬地方の言葉と考えた方がいいだろう。酒を飲んでいた二人組みも同郷のよしみで、酒をおごってくれて、席まで空けてくれたのであろう。
昔は今のようなマスメディアもなく、人の行き来も今より少く、もちろん「標準語」なんてものもあるわけではなかったから、ほんの少ししか離れてなくても、微妙に言葉が違ってたりすることは十分ありえた。
ともあれ、下心丸出しで寄ってくるのではなく、銭を投げ席を立って、そのまま去ってゆくところが何とも粋だ。銭の束も二つは自分達の、そしてあと一つはあそこのお嬢さんの、ということか。こうした洗練された仕草からすると、この二人も同じように浪花から帰る途中だったのだろう。
○古驛三兩家猫兒妻を呼妻來らず
古い宿場で三軒の家が並び、猫が妻を呼んでいるが妻は来ない。
「古驛」は古い宿場のことだが、「三両家」と家も少なくそれほど大きな宿場ではない。だが、京街道から外れた毛馬堤の道もある程度人の行き来はあり、ささやかながらも宿場が作られていたか。
そこでは妻を呼ぶオス猫の声が響くがメス猫は現われない。もっとも、オスの恋鳴きと思われているものは、実際はオス同士がかち合ったときの威嚇しあう声で、別にメスを呼んでいるわけではない。
犬や猫などの小動物を出して、少女の可愛らしさを引き立てるのは、今日でもよくある手法だ。呼んでも来ない妻の切なさは、ここから先の展開の伏線になる。
○呼雛籬外鶏 籬外草滿地
雛飛欲越籬 籬高墮三四
籠の中の鶏の雛が外にいる母鳥を呼ぶ、外は草に満ちている。
雛は籠を飛び越えようとするのだが、籠の背が高くて三羽四羽落ちる。
いわゆる「籠の鳥」という古典的なテーマだ。家に縛られた女性はしばしば籠の鳥に例えられる。先の妻を呼ぶが妻の子ない猫と並べられることによって、思うようにならない切なさが強調される。
鶏のイメージは陶淵明の『帰園田居(園田の居に帰る)』のもので、
狗吠深巷中 雞鳴桑樹顚
犬は路地裏の奥で吠え、鶏は桑の木の高みで鳴く。
の詩句から来ていて、故郷を表すのによく用いられる。
故郷に帰ってくると、田舎はいつも変わらない。狭い人間関係の複雑なしがらみに縛られて、あのオス猫のように会いたい人にもなかなか会えないし、あの鶏の雛のように、飛び出そうとしてもなかなか飛び出せない。かつてはそれがどうしようもなくいやだった。
故郷を離れ、都会に出て、籠から抜け出したと思ったのに、実際人間はいたるところ鎖に繋がれている。辛い時にはふと故郷を思い出す。そして故郷は記憶の中で次第に美化され、甘美なノスタルジーを作り出す。しかし、本当は故郷のしがらみがいやで飛び出してきたはずなのに。こうして、人は次第に帰るところをなくしてゆく。
この「春風場提曲」は蕪村自身の毛馬堤への望郷の思いを、藪入りの少女に託したものだともいう。絵師として成功し、浪花に住む蕪村にとって、一里程度しか離れていない毛馬は、帰ろうと思えばいつでも帰れる距離にあった。だが、蕪村は帰れなかった。故郷で何があったかわからないが、いろいろな事情があったのだろう。その一里が永遠の距離になってしまうこともある。
○春艸路三叉中に捷徑あり我を迎ふ
春の草に埋もれたような三叉路に来て、目の前の道は二つに分かれる。一つは故郷に帰る道。もう一つは多分京街道に出て京都へ通じる道だろう。「捷徑」は近道の意味だが、おそらく村の裏の方から入る道という程度の意味だろう。
○たんぽぽ花咲り三三五五五五は黄に
三三は白し記得す去年此路よりす
三々五々というのはたくさんという意味で、本来この数字に意味はないのだが、これを三と五に分けて、五は黄色い花を咲かせ、三はすでに白い綿毛になっていると言葉遊びをする。そして、去年もこの道を通ったことを思い出す。
○憐みとる蒲公莖短して乳を浥
やや重く、しんみりとした帰郷の場面になって、ここで息抜きといったところだろう。少女が腰を下ろしてタンポポの花を摘み取る仕草はまるでアイドルのグラビアのようだ。
「乳」という言葉をここで出すのも、やはり一種のサービスだ。もちろん、本当に少女がおっぱいをポロリと出すのではなく、ただ、言葉を出すことによって連想させるだけだが。
たんぽぽはもちろん少女の比喩に容易になりうる。
花見にと女子ばかりがつれ立て
余のくさなしに菫たんぽぽ 岱水
これは芭蕉七部集の一つ『炭俵』の「空豆の花」の巻の挙句だが、少女を可憐な野の花に例えるのは、別にそんなに珍しいことではない。
○むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
慈母の懷袍別に春あり
そして「乳」のイメージは母のイメージへと展開される。こうした展開の仕方は連句での取り成しの手法に似ている。
たんぽぽ短く乳をあませり
むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
とでもすれば、連句だ。
そして、この連句は次にこう展開される。
むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
慈母の懷袍別に春あり
もちろん、実際の連句で同語を反復することはまずない。もっとも式目には違反しないが。
「懷袍」は「懷抱」のことか。懐抱は読んで字の如く懐に抱かれること。
「別に」は慈母に懐抱されるという別の春がある、という意味にも取れるし、慈母の懐抱とは別の春があるとも取れる。実際にこの少女の春は慈母の懐抱とは別にあった。
○春あり成長して浪花にあり
梅は白し浪花橋邊財主の家
春情まなび得たり浪花風流
これも連句風に書くと、
慈母の懷袍別に春あり
春あり成長して浪花にあり
となる。ここでも「春あり」を重複させて、尻取りのように展開している。ただ、四六六で、やや破調の句となる。
前句と合わせると、成長して慈母の懐抱とは別に浪花に春あり、という意味になる。
次の句も六七六で、やや破調気味の発句の体となっている。
「梅は白し」は芭蕉の『野ざらし紀行』の、三井秋風の別墅、花林園で詠んだ、
梅白し昨日や鶴を盗れし 芭蕉
の句を彷彿させる。白梅は金持ちの庭には付き物なのだろうか。
ここで少女の奉公先が浪花橋の辺りの投資家(金貸し)の家だったことが明かされる。
春情まなび得たり浪花風流
これも四六五のやや字足らずの破調。
「春情」はここでは春の長閑な風情ではなく、男女の恋愛感情の方だ。まあ、お年頃だから恋ぐらいはするだろう。何があったかいろいろ想像を掻き立てられるところだ。
そこで洗練された浪花流の風流を学んだという。江戸のさらっとした乾いた粋というよりは、もう少し湿った人情に厚い粋だったのだろう。今の江戸と上方の気質の違いは、この頃にはかなり固まっていたのではなかったか。
ここでは「ふり」と読ませているが、風流は狭義では俳諧のことを指し、風流は俳諧の遊び心から来ている。
○郷を辭し弟に負く身三春
本をわすれ末を取接木の梅
このあたりを説教くさく解釈したのでは面白くない。何よりも蕪村自身が故郷を捨てた人間なのだから、この言葉はむしろ蕪村自身の自戒と取った方がいい。
ここでこの帰郷が奉公に出て三年目の春であることがわかる。ただ、それまでも春と秋の薮入りのたびに帰っていたのか、それとも三年目に初めて帰ってきたのかは定かでない。ただ、特別帰れない事情がない限り、年二回帰ってたと考えた方がいいだろう。ここでの主人公は蕪村ではなく、あくまで普通の女の子だからだ。
当時、男子は数え十五(満14歳くらい)で成人だったし、女子も十五で嫁に行ってもおかしくない時代だったから、奉公に出たのも、おそらくそれくらいの歳だろう。というとそれから三年、今でいうと女子高生くらいの年齢だったと見ていいだろう。
大人の女の色気ではない、芹を摘もうとして太ももを切ったり、川の飛び石を渡っては石に感謝したり、タンポポ摘んでみたり、そういう子供っぽさの中に隠されて色気を求める。それは今の日本の文化に着実に受け継がれている。たとえば、日本ほどミスコンが話題にならない国もないだろう。ミス日本は日本国内よりも海外の方で有名人だという。ミスコンよりも国民的美少女の方に関心があるのが日本文化の一つの特徴といえよう。
○故郷春深し行行て又行行
楊柳長堤道漸くくだれり
藪入りは初春のもので、「春深し」はやや誇張した言い回しだ。しかし、これも初春は幽かな春の風情に、春の深さを読み取ると考えるなら、それは文字通り「萌え」だと言えよう。
いはばしる垂水の上の早蕨の
萌え出づる春になりにけるかも
志貴皇子
の心だ。
「行行て又行行」は本来は漢の時代の古詩(『文選』の古詩十九首の第一首)「行行重行行(行き行きて重ねて行き行く)」から来た言葉で、広大な中国を北と南に生き別れになった恋人の悲しみを歌ったものだった。
『奥の細道』のなかでは、曾良が病気のため芭蕉と別れて、先に伊勢長島に向ったときの
行ゆきてたふれ伏とも萩の原 曾良
句でも用いられている。ここでも別離の情が生かされている。
このまま先に旅立ってどこかに倒れても、芭蕉さんあなたが後から来てくれるから心強いです、というのが本来の意味だったのだが、なぜかいつしか倒れても萩の原なら本望だみたいな、あたかも特攻隊のような死の美化する句に祭り上げられてしまった。
蕪村はこうした情とは無関係に、単に故郷への道を淡々と行くという意味に用いている。換骨奪胎といえば聞こえがいいが、大げさな言い回しだ。
「楊柳長堤」も初春ではまだ柳は青々と芽吹いてはいないだろう。それでも「春深く」なんて言葉と組み合わされると、すでに桜の花も咲きそうな感じだ。ないものを見せる、それが幻術。
堤を下っていくと村につながる。故郷毛馬堤だ。
○矯首はじめて見る故園の家黄昏
戸に倚る白髪の人弟を抱き我を
待春又春
故郷の家にたどり着いた頃にはすでに日は黄昏、まえせつに「数里」とあるとおり、実際の浪花の北、中津から毛馬堤の距離とは無関係に、ファンタジーワールドと考えるなら辻褄が合う。
白髪の母と歳の離れた弟が迎えてくれて、めでたしめでたしとなる。
ここで弟と母が出てきて、何で父親が出てこないのか。そのあたりの設定は描かれていない。
もし故郷を去ったあとに死んだのなら、家を出て三年目の帰郷がこのように大きな意味を持つことはなかろう。死んだときの帰郷の記憶の方が鮮明なはずだ。幼くして父を失ったか、離婚したかのどちらかと考えたほうがいいだろう。
江戸時代の女性は家庭に縛り付けられていたというイメージがあるが、実際は結構離婚率が高かった。もっとも近代の離婚と違い、家の力が強い分、家同士でもめごとがあると親の方が嫁を引き上げさせたりしたということも、離婚率の高い原因だったのだろう。蕪村の娘も離婚している。
速水融の『江戸の農民生活史』(1988、NHKブックス)によると、美濃国安八郡西条村の宗門改帳の研究から、この村で天明元(1781)年から40年間、106件の結婚件数のうち40件が離婚しているという。つまり離婚率が19パーセントもあった。
これは蕪村が「春風馬堤曲」を書いたより少し後の時代で、場所も美濃国だが、江戸時代の離婚率が決して低くなかったことの一つの証拠とはなるだろう。
離婚率が高く、もちろん成人男性の死亡率も今日よりはるかに高かったとあれば、この「春風馬堤曲」を聞いた聴衆も、この少女の父親がいないことをそれほど不思議には思わなかっただろう。
○君不見古人太祇が句
藪入の寢るやひとりの親の側
最後の締めということでことで、蕪村は先輩の炭太祇の句を引用する。
「君不見(君見ずや)」は少女が母親に向って語りかけているのか。声には出さなくても、ひそかに母親をリスペクトして、炭太祇の句を捧げるという趣向なのだろう。「ひとりの」というのは実際に片親だということではなく、たったひとりの、かけがえのないという意味。
こういう俳諧の発句を知っているというのも、当時の「浪花風流」なのだろう。
明和・天命の時代には中国かぶれの文人が多く、池大雅、谷文晁、椿椿山のように中国風に漢字一字の苗字に感じ二文字の名前をつけるのが流行っていた。この春風馬堤曲も夜半亭蕪村や与謝蕪村ではなく、謝蕪邨と中国風に署名している。
なお、この作品の成立について、蕪村の一通の書簡が残されている。
さてもさむき春ニて御座候。いかが御暮被成候や、御ゆかしく奉存候。しかれば春興小冊漸出板ニ付、早速御めニかけ申候。外へも乍御面倒早々御達被下度候。延引ニ及候故片時はやく御届可被下候。
一、春風馬堤曲 馬堤は毛馬塘也 則余が故園也
余幼童之時、春色清和の日ニは、必友どちと此堤上ニのぼりて遊び候。水ニハ上下ノ船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ、其中ニハ田舎娘の浪花ニ奉公して、かしこく浪花の時勢粧に倣へ、髪かたちも妓家の風情をまなび、■伝しげ太夫の心中のうき名をうらやみ、故郷の兄弟を恥いやしむもの有。されども、流石故園ノ情ニ不堪、偶親里に帰省するあだ者成べし。浪花を出てより親里迄の道行にて、引道具ノ狂言座元夜半亭と御笑ひ可被下候。実ハ愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情ニて候。
当春の帳ハ同盟の社斗にて、他家を交ず候。それ故伏水の諸家をも洩し申候。御出会之節其御噂被成、諸子腹立なき様ニ被仰訳可被下、桃ニハ下り候て寛々御物がたり可仕候。数状したため老眼つかれ、草々かしこ。
二月二十三日 夜半
ここでは「春風馬堤曲」の本編とは違い、ずいぶん少女について批判的な書き方をしている。
「髪かたちも妓家の風情をまなび、■伝しげ太夫の心中のうき名をうらやみ、故郷の兄弟を恥いやしむもの有。」そういう風俗を風刺するのがこの曲のねらいだったのだろうか。そういうふうには読めないだろう。
これは蕪村の萌えが同時代の俳諧の門人の間ではほとんど理解されなかったため、何でこんな破廉恥なものを書いたのかという非難を恐れて、あえてこういう建前上の表向きの理由をこさえたのであろう。
つまり、この曲は少女を魅力的に描き出すことが目的ではなく、あくまで今時の若いもんのちゃらちゃらした雰囲気を風刺的に描き、親孝行をせなあかんことを説いたものだ、と。
参考文献
『郷愁の詩人 与謝蕪村』萩原朔太郎、1988、岩波文庫
『蕪村』藤田真一、2000、岩波新書
『与謝蕪村』安東次男、1970、筑摩書房
『與謝蕪村の小さな世界』芳賀徹、1988、中公文庫
『日本の美術NO.4 文人画』飯島勇編、1966、至文堂